2012年10月8日月曜日
今日の想い 468
2000年前、イエス様が十字架上で亡くなられたときも、地上世界はそれまでと変わることなく、人々の生活も何ら変わることなく、時は同じように刻まれていったのだろうか。アダムとエバの堕落の瞬間も、イエス様が十字架上で亡くなられる時も、御父様が聖和されるその時と同じように、未来へ前進するために原理原則に則って刻まれたのだろうか。時の歯車が悲鳴を上げようとも、それでも前進し続けなければならない時の宿命は、神様御自身の宿命でもあるだろう。堕落の一歩手前で時をフリーズできたなら、ここまで悲惨な神様になられることはなかったろう。しかし原理原則を破壊することは時間と空間を破壊すること、時間と空間を破壊することは存在自体を破壊することだ。神様の宿命としてその選択は固く封印されてしまった。だから神様が泣き叫び、全天宙が泣き叫んでも、時は前進し続ける。イエス様が亡くなられるとき、時の歯車の悲鳴を聞いた者がきっといるはずだ。御父様が聖和されるとき、時はいつになく重く、いつになく塞ぎ込んでいた。聖和式からまだひと月も経っていないのに、優に一年の日々を送ったかのように思えるのは私だけではないはずだ。正直な話、聖和式以来私は混乱し通しだ。結局私は、この時が来るとは言いながら、実際信じてはいなかったし、何の準備もなされないまま信じていなかったこの時を押し付けられた格好だ。たとえ夢の中で御姿を現されたとしても、たとえ誰かの口を通して御父様の慰めの言葉を受け取るとしても、それはもはや地上という私と同じ次元には存在されない御父様であることを念を押されるようなもので、どうなるものでもないし余計につらい。あまりにもあっけない仕方で逝かれてしまったのは何故だろう。117歳まで生きられる御父様だと口にされながら、誰もがそれを信じて安堵していたのに、聖和された今になって違いましたと一言告げられて、それを誰が納得できるだろうか。取り残された私達は、見捨てられたとしか思えない。それは思い違いだとは思うけれども、今の今を言うならそれ以外の感情を私の中には見出せない。時はそれでも刻まれ続け、私はそれに追い付けず、置き去りにされてしまっている。