2012年10月7日日曜日
二人のイエス様と御父様
マタイによる福音書のイエス様の系図と、ルカによる福音書のイエス様の系図とは異なる。アブラハム以降ダビデまでの系図は両福音書とも同じだが、マタイ伝はダビデからソロモン、ルカ伝はダビデからナタンとなっていて枝分かれし、マタイ伝はアダムから42代目がイエス様、ルカ伝はアダムから77代目を数えてイエス様となっている。イエス様の父親であるヨセフだけが唐突にマタイ、ルカ共に一致しており、これは二人のイエス様と言って神学上の大きな問いとなっている。マタイはヨセフの家系を辿り、ルカはマリヤの家系を辿って記されたと解釈されるのが一般的だが、わざわざ誤解を産むような記述がどうしてなされたのか。聖書をどうみるかによるが、聖書がみ言葉であり霊的事実であると譲らないなら、地上的解釈では不可解なようであっても霊的見地に立てば何の食い違いもない説明ができるはずだ。キリストを受容する内外の器としてのイエス様が準備される為に、一人は42代を辿って外的な器、もう一人は77代を辿って内的な器を用意され、キリストイエスとなるために霊的統一が為されたと捉えても私の中に矛盾は生じない。今年に入って御父様が訓読会の場でお話される中で、おそらく私だけではない誰もが不思議に思ったことは、文龍明という幼少の頃のお名前を頻繁に出されるようになり、更に不思議なことは、文龍明をあたかも御本人とは異なる人格であるかのように使われて話されたことだ。明らかに文龍明と文鮮明の違いを言葉の中に含められており、先生によっては勝利された御父様は戒めのみ言葉以前に立たれたことで文龍明を使われるのだという解釈をされる先生もおられるが、どうも釈然としないものがあった。と同時に私の中で引っ掛かるのは、この二人のイエス様がどうしても頭に浮かび、二人のイエス様と、そして文龍明と文鮮明の関係性があるのではないかという疑問だ。42数と77数を血統に数えることでキリストをイエス様の中に迎えられたように、御父様が16歳の時イエスキリストに会われて、何らかの42数血統存在と77数血統存在がひとつになられて、キリストという本性を迎えられたのではないか、と言うのが公に大言できることではない私のひとつの理解として暖めている。