2012年10月21日日曜日
生の概念、死の概念
人はどんどん死んで行き、誰も死を免れることはできない。時が流れるに従わざるを得ない人間であるけれども、死を間近に見るのでなければ、死に向かう時の流れが自分の存在の根底にあることを悟らない。時の流れ、時の消化の原則の上で存在しているけれども、死を目前にしてやっとその拭えない事実を非情な感情と共に認識する。死の正しい概念を受け取った者は、毎日のこの一瞬一瞬を刻み消化しながら、葬り続けている事実を悟っている。肉体を見れば常に新旧の細胞が入れ替わって、古い細胞は死に新しい細胞が生まれている。新しい細胞は半永久的に造られ続けると思っているけれど、新しい細胞として造られる数は生まれる時点で既に決められている。半永久的に造られているのではなく決められた再生細胞数を消費しつつ、まとまった年数を生き続けている。細胞を葬り続けることは肉体的死の概念であるけれども、内的霊的な意味での死の概念は別にある。人間は肉的細胞を葬り続ける犠牲を払って、霊的存在の為の霊的細胞を生産しようとしている。霊的存在の為の霊的器官を生産しようとしている。あまりにも霊的無知であるために、霊的器官と言われても地上的肉体的イメージでしか捉えようとしないけれども、霊的に活きるためには霊的器官が必要だ。それは授受する愛を感知できる器官であるとも言い換えられ、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を、人生を通してそれぞれの位置でそれぞれの愛を完成し、その愛の完成体で霊界での永世を享受する。時間と空間という限られた圏内で、しかし限られているけれども霊的に見るならその密度は相当に濃いものだ。僅かの地上の愛の行いが霊界では何百何千倍にも増幅される。また逆も言えて、僅かの恨みも霊界では相当に増幅される。本当は増幅されるのではなく内的霊的無知と感性の乏しさが地上で無感覚にさせているだけだがそれさえもわからずにいる。御父様に正しく会えたかどうかは真の愛に繋がり、真の愛が霊的存在に関与されているかどうかであり、そこを断ち切ってしまえばどこまでも存在否定の極まで堕ちていく。御父様は霊的太陽である。もしそうであったとしても太陽に背を向けても生きて行けると思うかも知れないが、霊的太陽に背を向けることを地上に例えるなら、光も何もない宇宙の果てに向かっているようなものだ。地上圏内はどんな場所でも、何を信じようとも、暫定的愛の圏内に入っているために存在に支障はないが、霊界には地球の胎の保護圏はない。私は、食べるために存在を葬り続け、呼吸するために存在を葬り続け、肉体の細胞も葬り続け、そしてそれらの全ての存在は霊から成り立ち、よって霊を犠牲とし葬り続けている。葬った霊を私は抱えながら、私の使命はそれらと共に霊的高みに昇華させることだ。出会った御父様の霊的高みの位置に連れて行ってこそ、彼らの私への犠牲が報われる。