2012年10月10日水曜日

今日の想い 471

小宇宙としての私は大宇宙に繋がっている。私の目は大宇宙の目に繋がり、私の耳は大宇宙の耳に繋がる。私の目は大宇宙の目を代表して見るのであり、私の耳は大宇宙の耳を代表して聞いている。御父様の存在をこの目にし、この耳にしたのなら、この目に繋がる大宇宙も御父様を目にし、この耳に繋がる大宇宙も御父様を耳にしている。御父様を拝見したこの目がどれほど喜んでいるかと思えるのは、大宇宙が御父様を目にして喜んでいるからであり、御父様のお話を聞いたこの耳がどれほど喜んでいるかと思えるのは、大宇宙が御父様のお話を耳にして喜んでいるからだ。十分に御父様を見てこの目は本当に喜んでいるだろうか。十分み言葉を聞いてこの耳は本当に満足しているだろうか。この肉体に住む私の心魂は堕落的であり不完全であるけれど、この肉体そのものは統一されたひとつの完成形だ。感知できない私であっても、この目は大宇宙の端々まで見通せ、この耳は大宇宙の宇宙音を聞き取れる。人間は堕落したことである意味間違った仕方でこの肉体に入り込んでいる。本来は大宇宙に繋がり、大宇宙の共鳴体となる小宇宙としての肉体だけれども、堕落的自我をして、大宇宙へ向かって霊的触手を伸ばせずに、個への閉鎖的肉体として大宇宙を切り離すべくこの肉体に入り込んでいる。堕落人間は堕落と関係のない自我、キリストに接木され、キリストによって生まれた新しい自我を備えなければならない。私の中にカインとアベルがいる。堕落の血統を受け継いだカインの自我と御父様によって生まれた新しいアベルの自我だ。私の中のアベルが長子権を復帰し、カインを愛で収めなければならない。私は自分自身に、アベルの自我を立ててカインの自我が屈服している新しい存在になれるかどうかを問うている。アベルの自我は他体自覚の自我だ。大宇宙を感じ取って共鳴体となる体を、正しく操縦できる自我だ。霊界の情報を受け取り、霊的高みの神霊存在に相対基準を合わせられる私になれる自我だ。そうなることができれば、私はいつでも御父様にまみえることができ、御父様と共に生活することもできるだろう。御父様と共に生活できれば、私が見て聞いて触れるものを御父様も見て聞いて触れるのであり、私が喜び楽しめば御父様も喜び楽しまれる。