2012年10月28日日曜日

今日の想い 482

田舎の故郷は年寄りばかりが残り、その年寄りたちも自然の道理によって年々減ってきた。しかし中にはこの田舎の自然を愛して居残る者、Uターンした者もいて、そんな人達が状況や風景を配信してくれるので、遠くに居ながら田舎の様子を知ることができる。アップした画像を見てみると、本当に自分の田舎はこんなに美しかっただろうかと、首を傾げるほど綺麗に撮れていてびっくりする。もうすぐ紅葉の盛りで、刈尾の山裾の紅葉の彩りが、裾野に流れて筋を引く霧から浮かび上がるように滲み出ている。距離を置いて平面で見る自然の風景と、その場に佇んで見るのとは勿論違うし、さらにその自然の中で生活しながら感じる自然はまた異なる。生活者は自然は厳しいものだという感覚の方が強くて、美しいと思える余裕などなかったと思う。美しいものというのは大体に於いて厳しい。普通は生活のやさしさを先ず求めて美しさは犠牲にしてしまう。逆に生活の安楽さを犠牲にし、厳しさに身を埋めてこそ発見できるものがある。雪深い田舎の冬は厳しさそのものだが、毎年白くて冷たい試練をひたすら耐えて通過することで受け取るものがある。田舎では家族や近しい人に不幸があっても敢えて感情を表に現さない。弔問客に笑顔で酒をふるまいながら感情を押さえ込み、厳しい現実を当然のように受け入れようとする。自然の厳しさを受け入れることで己の欲や感情への厳しさが人間性風土性として馴染んでいる。それはひとつの精神的美だと思う。自然を通してそうであるように、信仰生活によって咲く花や実る実は、頑なほど自分に対して厳しくあればあるほど、精神的に美しい花を咲かせるだろうし実を実らせる。イスラエル民族がカナンの地に定着し始めると、異民族の影響も受け、戒律も緩くなって次第にスポイルされていった。私達も半世紀の教会歴史を辿ったが、家庭を持てば定着し始めて、外的余裕も出てくるとどうしても信仰面に於いて緩くなってくる。もしここにきて私達が自分から厳しさを求めることが難しいのなら、霊界におられる御父様はどういう手段に出られるだろうか。真の親ならではの厳しさを、地上で痛いほどに経験することも十分あり得るのかも知れない。