2012年10月31日水曜日

今日の想い 484

21修だったと思うが、城ヶ島の海岸に徹夜祈祷に行ったのを覚えている。高校を卒業するとそのまま献身生活に入ったが、先ず部署につく前に21日修練会に送られた。安価な若者向けの空席待ち航空券(当時そういうのがあった)で羽田まで飛び、それから厚木に向かったが、それが初めての空の旅で、四畳半の貧乏下宿生から何か急に箔がついたように感じて嬉しかったのを覚えている。当時17歳だったから何かにつけて子供だった。修練会の講義の記憶はないが名物進行係の面白い話は記憶している。万物復帰もあったしグループに分かれて対抗騎馬戦などもしたけれども、今もって印象深く残っているのは、夕刻にバスで出かけた城ヶ島の徹夜祈祷だった。なかなか祈りの境地に入れない為に、ひたすら御父様を連呼するような惨めなものだったが、そのうちに敢えて言葉にして口に出すのをやめて、波の打ち寄せる音だけを内面に満たしていると、今までに味わったことのない、何ともいえない包み込まれるような安らぎを覚えた。祈りは神様との対話だけれども、祈りの説明で祈りに入れるわけではない。内面の奥に神様に通じる入り口があって、そこに辿り着くことが先決であり、更にその入口の鍵を開けて入って奥深くまで訪ねて行くと、魂に響くものを受け取れる。生活のこと、感覚的欲望、不安や恐れ、普通そういったいろんな念が溢れ返り、神様に通じる参道に至るどころか内面の深みに入っていくことすらできない。おそらく私はあの徹夜祈祷で初めて祈ることの感覚を受け取り、参道の入り口まで連れていってもらった。私達は日頃あまりにも、邪念とは言わないまでも押し寄せる念の洪水に翻弄され続けている。勿論生活感情も必要で、それがなければ地上で生き続けることはできないが、内面の奥座敷、幕屋であり神殿に向かう姿勢が準備されなければ、自分が霊を戴いた存在であることすら気付かない。私が霊として、さらに御父様を起源とする霊として生きるのでなければ生きている意味はない。その為に祈りは欠かせないが祈りの境地に入れないなら先ず祈りの姿勢を準備する必要がある。祈りの姿勢を準備する為にはこの世的念で固体化している心魂を解きほぐし、流れをよくしなければならない。その為には、、私見も言えるがそこは各自の5%だろう。今も修練会で徹夜祈祷をやっているのだろうか。なかなか祈りの境地に入れないとしても、神殿への道は見出す必要があり、徹夜祈祷はその為のいい機会だ。み言葉を聞いても、御父様に出会っても、み旨だと思って歩んでいても、そして祝福を受けても、私の内面の奥に入ることができ、神殿を見出し、至聖所で御父様の心情を受け取れなければ全ては虚しいものに変わるだろう。

今日の想い 483

ハリケーンも擬人化されて名前まで付けられて、今回の大型ハリケーンはサンディーだという。知人の奥さんの名前がサンディーで確かに大型といえばいえるけれど、ウェスタンにしては大人しく、あたりの優しい姉妹で、同じ名前を付けられた本人は今回のハリケーンをどう思っているのだろうか。随分前から警戒するように警告も出されて、フォーキャストもしきりに住民の不安を煽り、スーパーではボトルウォーターもジュース類も皆買い漁られて、ハリケーンが来る随分前から冷蔵スペースには何も残ってはいなかった。雨量は嵩んであちこちで浸水するほどだったようだが、私にすれば数ヶ月前に起こった突然の嵐の突風と比べるためか、ちょっと前宣伝が大きすぎるんじゃないかと思わされた。先回は二日近く停電してしっかり生活に支障を来たしたので、そのインパクトのせいかも知れない。ハリケーンがこの辺りまで北上してくることは稀で、だいたいテキサス、フロリダ辺りに被害を与えて消えていく。これも異常気象と言えば言えなくもないが、果たしてどうだろうか。普段枝葉は風に揺れて動くが、大きな木々の幹はこんなハリケーンにでも合わない限り大きく揺さぶられることはないだろう。勿論枝葉は千切れて飛ばされて、道路にも散乱して、犠牲と言えば犠牲だが、大小全ての草木が揺さぶられることで生命の流れが良くなるらしい。嵐が過ぎ去ると新生したように輝いているのがわかる。今の教会の状況も内的霊的に嵐、いやハリケーンに見舞われたと言えば言えるのかも知れない。教会も食口それぞれも、大きく揺さぶられることで眠っていた内的霊的生命が目覚めるのかも知れない。蕩減復帰のみ言葉にこんなくだりがある。「気が詰まり、息が詰まり、四方が堅く絞められて、地に入ることも天に跳ね上がる事も出来ないその場を、死を覚悟して乗り越えれば、生きておられる神様は間違いなく顕現される。」そう、み言葉によるなら、間違いなく神様は現れて下さる。

2012年10月30日火曜日

時々当時を思い出す

九時を回っていたと思う。聖業を終えて降ろされた道路脇で待っていると、ヘッドライトが近付いてきた。その日の任地は町外れで、夜中滅多に車は通らない。回収の車かと思って目を凝らして見ていたが、どうも違うようだ。そのまま車が通過するのを道端に立ったまま遣り過ごそうとした。しかし接近したとき助手席に乗っている人が乗り出すようにして視線を私に投げかけた。しかし幾分速度は落としたようだがそのまま通り過ぎていった。テールランプを見送りながらも車の残像は脳裏にはっきりと残っていた。下半分が黒く塗りつぶされていた。パトカーだ。咄嗟に道路を離れ、民家が数件並んでいたそのひとつの裏手に回り込んだ。案の定、車はUターンして返ってきて、車をゆっくり移動させながら備え付けのサーチライトで暗闇を照らし出した。私は裏手に回りこむと、家の後ろに薪が積み上げられていて、私はちょうど家の壁と薪の間に隙間を見つけ、そこにはさまれるようにして身を隠した。車はしばらくの間、進めたりバックしたりしながら方々を照らし出していたが、息を殺してじっとしていると、そのうち諦めたようで行ってしまった。確実に去ったことを確認して、やっと胸を撫で下ろした。もし車から降りて本格的に探されたらすぐに見つかっただろう。別に悪事を働いているわけではないが、こんなことは過去既に経験済みで、あることないこと問い詰められ時間を奪われ、更には親にまで連絡が行って迷惑をかけることは分かりきっていた。回収時間を少し越えてしまったが、用心に用心して、暫くその物陰にじっとしていた。壁の上のほうには窓があり、カーテンの隙間から微かに光が漏れていた。緊張が引いて落ち着くと、家の中から漏れてくる音にも気付いた。テレビで歌番組でもやっているのだろう。軽快なリズムと共に若い娘の歌声が流れている。時々その合間に家族の語らいも聞こえてくる。楽しそうな家族の情景が見えるようだった。何も悪いことはしていないと分かっていても、悪事を働いているかのような自分の行動に気持ちは落ち込んだ。親への連絡を免れて安堵はしたけれども、警察から連絡があろうが無かろうが、今の今も普通の親の何倍も心配させ続けている事実は変わらない。親を救いたいと思ってこの道に飛び込んだけれども、こんな自分のやっていることが救いとどう関係するのだろうか。そう言うと随分まともに思えるが、本当はただただ逃げ出したかっただけだろう。もし鈍行を乗り継ぐとしても、今帰ると決めれば帰れる。そう発想したことをはっきりと覚えている。手持ちがいくらあるか計算もしたし、運賃も概算した。けれども、そうは思ったものの実行せず、結局遅れても回収してもらった。その時どう自分は思い直したのか、それは今は思い出せない。その頃は、復帰された初期の燃え上がっていた情熱も失せてしまって、燃え尽きてくすぶりかけていた頃だった。

2012年10月28日日曜日

今日の想い 482

田舎の故郷は年寄りばかりが残り、その年寄りたちも自然の道理によって年々減ってきた。しかし中にはこの田舎の自然を愛して居残る者、Uターンした者もいて、そんな人達が状況や風景を配信してくれるので、遠くに居ながら田舎の様子を知ることができる。アップした画像を見てみると、本当に自分の田舎はこんなに美しかっただろうかと、首を傾げるほど綺麗に撮れていてびっくりする。もうすぐ紅葉の盛りで、刈尾の山裾の紅葉の彩りが、裾野に流れて筋を引く霧から浮かび上がるように滲み出ている。距離を置いて平面で見る自然の風景と、その場に佇んで見るのとは勿論違うし、さらにその自然の中で生活しながら感じる自然はまた異なる。生活者は自然は厳しいものだという感覚の方が強くて、美しいと思える余裕などなかったと思う。美しいものというのは大体に於いて厳しい。普通は生活のやさしさを先ず求めて美しさは犠牲にしてしまう。逆に生活の安楽さを犠牲にし、厳しさに身を埋めてこそ発見できるものがある。雪深い田舎の冬は厳しさそのものだが、毎年白くて冷たい試練をひたすら耐えて通過することで受け取るものがある。田舎では家族や近しい人に不幸があっても敢えて感情を表に現さない。弔問客に笑顔で酒をふるまいながら感情を押さえ込み、厳しい現実を当然のように受け入れようとする。自然の厳しさを受け入れることで己の欲や感情への厳しさが人間性風土性として馴染んでいる。それはひとつの精神的美だと思う。自然を通してそうであるように、信仰生活によって咲く花や実る実は、頑なほど自分に対して厳しくあればあるほど、精神的に美しい花を咲かせるだろうし実を実らせる。イスラエル民族がカナンの地に定着し始めると、異民族の影響も受け、戒律も緩くなって次第にスポイルされていった。私達も半世紀の教会歴史を辿ったが、家庭を持てば定着し始めて、外的余裕も出てくるとどうしても信仰面に於いて緩くなってくる。もしここにきて私達が自分から厳しさを求めることが難しいのなら、霊界におられる御父様はどういう手段に出られるだろうか。真の親ならではの厳しさを、地上で痛いほどに経験することも十分あり得るのかも知れない。

2012年10月27日土曜日

今日の想い 481

誰でも試練に会う。必ず試練に会う。そして試練のその場で、今まで培ってきた内外の供えが生きるのか棄ててしまうのかを自分で決める。内的霊的に踏み絵を前にする局面が必ず出現する。そして踏み絵のその前で、中間位置の私は神側なのかサタン側なのかを自分で決定する。もちろん絶対信仰、絶対愛、絶対服従の三本柱が私に立っているなら何の問題もないだろう。しかし今まで味わったことのない恐怖を前にして、自分が絶対信仰、絶対愛、絶対服従として聳え立つものを私の中に見ることができるだろうか。怒りが込み上げて我を忘れて衝動に出るのはサタン的だけれども、感情として、私に火をつけ抑え切れない善への衝動を発する言葉を持っているかどうかが問われると思う。神様、御父母様と口にしただけで、涙を禁じ得ないというほどに心情因縁を持っているならともかく、そこは堕落人間であって、幾度となく神様と口にしながら、幾度となく御父様と口にしながらも流されてきたことも事実だ。十字架にかかられるイエス様を否定してしまった弟子達と同じだ。人は誰も自分という存在を把握しているようで、存在の中で最も理解できず不可解なのが自分という存在だ。生きるか死ぬかの局面で思いもよらぬ自分の顔を見てしまうものだ。そんな局面は滅多にないが、食口であるなら、常識を無視した立場に何度も立たされながら、自分のいろんな醜い顔を見ただろう。私がサタンの血統の実体だと落胆する体験をすればするほど、私の中に流れるサタン的血を流してしまいたいと思えるほどに罪を実感するだろう。そうしながら罪や堕落という言葉は感情を伴った生きた自分の言葉になる。そして救いや復帰という言葉も憧れの感情を含む自分の言葉となっていく。み言葉を知っているかどうかではなくて、み言葉が私の中で生きているかどうかを問われる。私の中でサタン的な言葉、概念が主体の位置を占めるなら不安や恐怖に打ち勝つことはできないだろう。しかし私の中でみ言葉が生きた概念として主体に立つなら打ち勝つことができる。

今日の想い 480

探しものは何ですか。見つけにくいものですか、、、。軽快なリズムと共に口ずさんでしまう、日本人なら誰もが知っているフレーズだ。歌はそのあと、それより一緒に踊ろう、踊って夢の中へいこうと誘いをもちかける。人は一度は自分に問うてみるらしい。どうして生まれたのだろうか、何のために生きているのだろうか、死んだらどうなるのだろうかと、、。その問いの重さはそれぞれで違うけれども、問うてみることは確かだ。しかし所詮わからないことだろうと、わかったところでまた別の新たな問いがでてくるだろうと、早々に諦めてしまう。それより自分が生まれ出た感覚世界に没頭し、感覚欲望を満たしてくれる周囲に煌めくものを楽しまない手はないと、誘惑にかられていく。人間の精神の停滞は諦めから始まる。み言葉に触れて御父様に出会った食口であっても、やはりある段階で諦めようとしている。神様から与えようとされるものを中途で手放そうとしている。探しものは見つけたけれども手にしてはいない。手にしようと思えば終わりのない内外の投入が必要だ。それより今の段階に留まってそれなりの感覚世界を享受してみたい。あるいは、感覚世界から完全に隔離されて生きることはどうせできないのだから、それなりの感覚世界への浸透は仕方がない。食口は食口でそんな誘惑にかられていく。伝道は、無知から知へ、死から生への導き手の役割を担うことだとも言えるが、私自身が知の領域に漕ぎ着けたのでもなく無知から知への中途であり、死の領域から完全に抜け出した訳ではない生命の木を得る中途であるなら、伝道は私自身に対しても言えて、その伝道は生涯継続していくものだろう。そして私と全体がリンクしているなら私の伝道と人々への伝道とはリンクもし、切っても切れない関係性にあるはずだ。個への指向が蔓延している現代社会に、為に生きるという個を犠牲にして全体に生きる逆向きの指向は、現代社会では甚だ育ちにくく、せっかく接ぎ木され存在根源の根を真のオリーブの木の根とされながら、生命の木として花を咲かせ実を実らせるまでを今生で見ることはないだろうという諦め気分が、教会も半世紀になりながら培ったものが見えないという現実気分と共に被さってくる。御父様の聖和に合わせて成約ペンテコステを期待する気持ちは、御父様の願いを受けながらも茨が多く被さり、突きぬけるべき困難を実感する兄弟達にとっては切実だろう。ペンテコステが私達が期待するような、或いは聖書の記述に見るような仕方でもたらされるとは思わないが、御父様が主体である霊界におられるなら、対象である地上世界に思いもよらぬ働きを準備しておられるのはその通りだろう。それは恐らく期待するようなものではなく、後にも引けず先にも進めない、四方を完全に包囲された状態で、堕落圏を越える光明が御母様を中心として差込み、そして世界を天地開闢の光が御母様を中心として燦然と輝き出るだろう。夜明け前が最も暗い。これでもかと言うほどに更なる困難が覆いかぶさり、兄弟達を更に内外共に追い込んでいく。それ以上追い込みようがない位置で、絶対信仰、絶対服従を棄てなければ、私達は次元を上げて新たな位置に立つ。

2012年10月25日木曜日

霊的無知

私はと言うと、生き続けることの不安と恐怖もあり、死ぬことへの不安と恐怖もあった。さらに不安と恐怖に苛まされる私という存在自体が何かも理解できず、存在しているのに存在がわからないというこの無知はまさしく霊的無知だった。霊的無知は外的無知とは全く異なる。生まれることの意味、死ぬことの意味、人生の意味を問うのは霊的無知であるけれども、もしその態度が物思いに耽ってみたり、コーヒーでも飲みながら思索してみると言うのであれば、それは実のない言葉を見い出すための遊びであって、不安と恐れに苛まされるのでなければ霊的無知とは関係がない。霊的無知には時間や空間を考慮する余裕などない。生と死の狭間で気が狂わんばかりの状況になる。食口の誰もが真剣に悩んで原理に辿り着いたと言うかも知れない。表面的には混乱した今の教会の状態で、それぞれが内的態度がどうなのかを無理にでも迫られる今、迫られて発する態度や言葉として表れるものに、原理に辿り着いたそれぞれの出会いは、人によって随分異なるものだと思わされる。真剣に悩んでこの道に来たであろうその悩みの質が随分異なっている。自分と同じ不安と恐怖や悩みを味わってきたのなら、そういう内的態度は取れないはずだと思わされる機会が度々ある。本当の意味での霊的無知がどういったものか、それを経験せずにこの道に来ている。霊的無知が分からなければ、救いへの必要性というより、救いへの渇望はわからない。御父様に対するメシヤとしての真偽も、教会や真の家庭に対する追求も、願われ要求されてきたことへの疑問や不満も、問う本人自体に救いの渇望を見ないのであれば問う意味すらない。自分が夢見る理想像、自分が夢見る理想世界。霊的無知を知らず救いの渇望がないのなら、救いとは関係のない自分の理想像や理想世界を御父様のそれに見ていただけの事だ。救いの渇望がないのなら、自分の願いと御父様の願いが少しでもずれるなら、御父様からは離れざるを得ない。私が堕落の位置で描く理想像や理想世界に何の意味もない。御父様の胸のうちにある理想像や理想世界が堕落の位置で正しくわかるはずもない。しかし私の否定できない事実は専ら救いへの渇望だ。それは御父様以外に誰も救ってくれる者はいないし、御父様にしがみ付くしかない。堕落の位置で救いの必要性を感じないのであれば、御父様がメシヤかどうかを問う意味がどこにあるのだろうか。彼らは霊的無知の無知だ。

2012年10月24日水曜日

今日の想い 479

頻繁に愛という言葉を使う。信仰という言葉も使う。血統という言葉も使い心情という言葉も使う。御父様がみ言葉で語られたそういった言葉は御父様の言葉だ。堕落人間の概念にはない御父様の言葉だ。そういった言葉をあたかも自分の言葉として理解したように頻繁に使いながら論理を立てる。現代版神学論争を繰り広げ、概念のない骨のない言葉を組み立て、何の霊的支えもない、言ってしまえば蜃気楼に住めるかのような幻想を恥じらいもなく己の理解として差し出している。もし御父様に差し出すとして、ハナから一蹴されて見向きもされないだろう。どんなに原理の言葉を引用しようと、原理にはならない。原理用語、み言葉の用語をどれほど使ったとしても食口のひとりすら見向きもしない。自己満足のナルシストがせっせとブログをしたためる。ナルシストがナルシストをナルシスト的に責め、慰め、褒める。ナルシストはどこまでも自己中心的だ。しかしその自覚を十分備えて、そういう己との戦いに転じるなら、それはそれで意味を為すだろう。要するに御父様が日記を付けなさいと言われた、そこに留まるべきだ。日記として自分の事に留める限りは赦される。ここまで批難中傷罵倒の言葉を並べたてるのかと、ブログの中には返す言葉のひとつでも書きなぐって寄こしたいものがあるが、私はそれをすべきではないことを知っている。そこを越えたら私のブログも日記ではなくなる。百万回愛という言葉を連ねても、愛を動機とした僅かの行いには比べられない。信仰に於いても、心情についても勿論そうだろう。言葉を連ねるよりは、行動に出る方が遥かに尊いことは誰も疑いようがない。そうであるなら、申し訳なく、謙虚に、控えめに、目立たずに更新することだ。

今日の想い 478

霞んでいるのはどっちだろう。私の目だろうか。それとも自然そのものが霞んでしまったのだろうか。秋の紅葉が深まってきて、確かに色合いの変化は伺える。しかし去年のそれとは何かが違う。どんなに瞬いてみても、色合いは霞んだようにみえる。自然が霞んで涙に潤んでいるようだ。訪韓したときも雨が多かったけれども、あれ以来雨模様がずっと続いている印象が拭えない。秋の日差しを色鮮やかな輝きに変えて、突き抜ける青空のその先に届けるかのような、そんな真っ直ぐな想いが滲んでいたが、今年の秋は少し違う。確かに色合いは変わっているけれど、そこまでの想いは伝わらない。私の目が霞んでしまったのか、それとも微かな私の感性ですら失せてしまったのだろうか。朝は晴間が広がっていて、久しぶりの秋晴れがやっと広がるのかと幾分心も軽かったが、それもほんの明け方のうちだけで、どんよりした雲が直ぐにも覆い始め、僅かな期待も裏切られる。私は、どうしたらいいのだろう。どうすべきだったのだろう。何か大きな機会を取り逃がしたような、もっと何か深い因縁を繋ぐべきだったような、何かしらの悔悟の想いはあるけれど、悔い改めるまでには至らない。徐々に無気力のクレパスに引き摺り込まれるような、なんともいえない気持ちになる。御父様のおられない地上の秋。御父様に見られることもない秋の彩り。御母様に手渡された桃を美味しそうに頬張っておられた御父様。もうそんな御姿を見ることもない。入院されて処置に最善を尽くされたことは疑いようもないが、説明された何とも痛々しい最後のイメージがどうしても消えない。事実は事実として受け止めるべきだけれども、出来れば耳を塞ぎたかった。その印象は私の目も霞ませ、自然も霞ませる。

2012年10月21日日曜日

今日の想い 477

店はスクラップアンドビルドで、時代に合わない店、固形化して修復が難しい店は一旦たたんで閉め、そして全く新しい店を作り直す。修復は新しい店をつくる何倍もエネルギーが必要だということを、或る程度店の経営を手がけた者は知っている。御父様も復帰に対して同じように話されている。再創造は投入した力よりももっと投入しなければならないと。創造するより修理するほうが大変なように、それ以上に投入することを蕩減という条件で払っていく。神様が流された血と汗と涙は、創造よりも復帰に対して流されたことの方が遥かに大きいだろう。勿論創造への莫大な時間的エネルギー的投入も計り知れないが、復帰への投入は更に大きいものだ。そうであれば第二アダムであるイエス様への神様の想いは第一アダムへの想いに比較できないだろうし、さらに第三アダム御父様への神様の想いはそれにも増して深いものがあるはずだ。それに応えられた御父様であり、神様の復帰への執念を御父母様を中心とした摂理をもって応えられた。私達はみ言葉を通し、自叙伝を通して復帰に投入されたその一端を知ることができるが、その心魂の砕かれて磨り潰されるほどの血と汗と涙の路程は私達の認識をはるかに超えるものだ。或る意味、知らないほうが返っていいと言うくらいの常軌を逸した内的霊的路程を歩まれた。勝利された栄光の主であられるけれども、栄光に対する概念を変えるほどに血と汗と涙にまみれている。犠牲の上に犠牲を強いる栄光であり、砕かれて磨り潰される栄光であり、切り刻まれて塩を擦り込まれる栄光だ。私達は御父様を慕い侍る歩みで確信することがある。それは汗を流すとき御父様が傍らにおられ、涙を流すとき御父様が語り掛けられ、そして血を流すときは御父様が入り込まれて御父様御自身の血を流されるということを。だから私達は汗を流すことに喜びを覚え、涙を流すことにも感謝し、血を流すことも厭わない。

ルター その二

仲良くできないこと、兄弟喧嘩が問題だと、食口の多くは思っている。しかしそれは原理を知る者として、統一信仰を持つ者として、余りにも表面的な捉え方だとは思わないのだろうか。できるならそうあってほしいと思わないでもないが、そんな簡単な問題ではなく、私は皆が思っている以上に根は深いと思っている。ルターの宗教改革と同じ位置関係にあるとは思うが、しかし立場は当時と今ではまったく逆転している。ルターを担ぎ上げた当時の改革者と違って、今の彼らはアベルの位置にはない。再臨のメシヤを迎える基台づくりの上での判断と行動と、既にメシヤである御父様を迎えて絶対信仰、絶対服従の行動を取るべき我々が、その判断を御父様に仰ぎ行動するのとは、立場が異なる。不幸中の幸いは御父様が御生存中に事が起こったことだ。御父様が明確な指示を出されたことで、御父様への絶対信仰、絶対服従にある者は迷いがなかった。これがもし聖和された後に起こったと思うと空恐ろしい気持ちになる。サタンが関与しているとして、サタンの狙いの間違いは御父様が御生存中に決起してしまったことだ。御父様がいつ聖和されるかは、おそらく御父様ですら知らずに過ごされた。知ることもでき、決めることもできただろうけれど、敢えて知らずに過ごされたはずだ。御父様が知ればサタンも知るだろう。サタンが知っていれば聖和される後を突いてきただろう。117歳まで生きられるという言葉を口にされて、サタンもそう信じたはずだ。そのミス以外、全ては完璧だった。清平摂理を免罪符まがいに貶め、御家庭の問題を浮上させ、教会の問題を腐敗した幹部によるものだと吹き込み、そしてルターが教皇の誤りもあったと口にしたように、彼ら曰く、御父様も周りの偽りの報告を信じられて誤った指示を出されたと口にした。先にも言ったように、未だにサタンの戦術を知らない食口の多くは兄弟喧嘩だと思っているが、彼らの非の打ち所のない論理攻勢は実に狡猾だ。サタンがここまで利口なのかと思わされたし、御父様は更にその上をいく知恵を使われたとも思わされた。

ルター その一

マーティンルターに関しての本を読んで見た。ルターと言えば勿論のこと宗教改革だが、当時の教会は献金という形でいくらか収める代わりに免罪符を渡していて、簡単に言えば罪の許しを売っていたということであり、そこに異を唱えたのがルターだった。実は当時のキリスト教会に対するルターと、我々の教会に対して声を上げるグループ派とを見比べてみるとき、その対立様相に似通ったものを見るようで、少し詳しく踏み込んでみたいと思ったからだ。私達が訓読する以上に当時の宗教者は聖書通読を欠かさず、修道院では1回詩篇50編通読、それを1日7回で全編150編だから、全編二回以上毎日欠かさず読み続けることになる。ルターが所属したのはアウグスチヌス修道会でアッシジのフランチェスコの流れをくみ、清貧、貞潔、服従を旨とし、祈り(聖書通読)かつ働け(托鉢)との教えに寡黙に従っていた。元来、免罪符は罪の懺悔でそのとき神父から課せられた行いを果たし得ずに、そういった者達に特赦的な意味で時と場所を限定されて改めて発せられたのが免罪符だったが、そのうちに制度化されるようになり、更にそれが金銭と引き換えに与えられるようになってしまった。ルターは教皇が権威を持つ教会に繋がるのではなく聖書に繋がるべきだと、彼の改革は根本的に聖書に帰る運動、聖書を読む運動であり、ルターの精読から始まって皆と一緒に読み、読んだことを皆と分かち合っていく運動だった。当時、教皇は不謬でありその権威は揺るがないものとされていたが、ルターは公開された論戦で、教会歴史の中で教皇も誤りを犯すことがあったとの意見を口にし大破門を突き付けられた。教皇側からその意見を60日以内に撤回する旨の勅諭が送られたが、教皇は反キリストだと確信したとルターは返送して、結局大破門は揺ぎ無いものとされた。おそらく今の教会に声を上げるグループ派は、ルターの宗教改革と同じような位置で行動しているという認識が少なからずあるはずだ。清平摂理、そして宣布文、更に期限をつけられての警告文、その経緯を思い起こすとあまりにも成り行きが似通っている。

生の概念、死の概念

人はどんどん死んで行き、誰も死を免れることはできない。時が流れるに従わざるを得ない人間であるけれども、死を間近に見るのでなければ、死に向かう時の流れが自分の存在の根底にあることを悟らない。時の流れ、時の消化の原則の上で存在しているけれども、死を目前にしてやっとその拭えない事実を非情な感情と共に認識する。死の正しい概念を受け取った者は、毎日のこの一瞬一瞬を刻み消化しながら、葬り続けている事実を悟っている。肉体を見れば常に新旧の細胞が入れ替わって、古い細胞は死に新しい細胞が生まれている。新しい細胞は半永久的に造られ続けると思っているけれど、新しい細胞として造られる数は生まれる時点で既に決められている。半永久的に造られているのではなく決められた再生細胞数を消費しつつ、まとまった年数を生き続けている。細胞を葬り続けることは肉体的死の概念であるけれども、内的霊的な意味での死の概念は別にある。人間は肉的細胞を葬り続ける犠牲を払って、霊的存在の為の霊的細胞を生産しようとしている。霊的存在の為の霊的器官を生産しようとしている。あまりにも霊的無知であるために、霊的器官と言われても地上的肉体的イメージでしか捉えようとしないけれども、霊的に活きるためには霊的器官が必要だ。それは授受する愛を感知できる器官であるとも言い換えられ、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を、人生を通してそれぞれの位置でそれぞれの愛を完成し、その愛の完成体で霊界での永世を享受する。時間と空間という限られた圏内で、しかし限られているけれども霊的に見るならその密度は相当に濃いものだ。僅かの地上の愛の行いが霊界では何百何千倍にも増幅される。また逆も言えて、僅かの恨みも霊界では相当に増幅される。本当は増幅されるのではなく内的霊的無知と感性の乏しさが地上で無感覚にさせているだけだがそれさえもわからずにいる。御父様に正しく会えたかどうかは真の愛に繋がり、真の愛が霊的存在に関与されているかどうかであり、そこを断ち切ってしまえばどこまでも存在否定の極まで堕ちていく。御父様は霊的太陽である。もしそうであったとしても太陽に背を向けても生きて行けると思うかも知れないが、霊的太陽に背を向けることを地上に例えるなら、光も何もない宇宙の果てに向かっているようなものだ。地上圏内はどんな場所でも、何を信じようとも、暫定的愛の圏内に入っているために存在に支障はないが、霊界には地球の胎の保護圏はない。私は、食べるために存在を葬り続け、呼吸するために存在を葬り続け、肉体の細胞も葬り続け、そしてそれらの全ての存在は霊から成り立ち、よって霊を犠牲とし葬り続けている。葬った霊を私は抱えながら、私の使命はそれらと共に霊的高みに昇華させることだ。出会った御父様の霊的高みの位置に連れて行ってこそ、彼らの私への犠牲が報われる。

2012年10月19日金曜日

不安と恐れを超えるなら

心地いいのか居心地が悪いのか、前進するのに常に私のその気分に左右されながら道を選択し、次の一歩を踏み出している。それが普通の堕落人間の在り様だ。毎日の歩みが惰性的で発展性を見ないなら、私の閉鎖的な気分に忠実なだけで無闇に気分の揺れ幅を大きくしたくはないということだ。それはまだ見ぬものへの恐れに主管され、その恐れで踏み出せないとも言える。それは霊的には一歩を踏み出せないどころか踏み出そうともしていない。時間的にも空間的にも身動き取れないでいる。目覚めている間、意識は外に向いており、外界の印象を内面に満たした状態では内面の本質、心魂の深みを観察することは難しい。さらに心魂にしか話しかけることのない霊を認識することはさらに難しい。ただ内面の表層である心地いいか居心地が悪いかという狭い気分の圏内、恐れと望みの圏内に生きていて、その感情とそれに沿う僅かな意志が全てだ。み旨を前進させる為には神霊を働かせなければならない。神霊が私に働きかける為には、この圏内から飛び出て、刻々と拘束し続ける情念(恐怖と希望)を超越した位置に立たなければ霊的に前進することはない。生きて私の責任分担を追求しながら、家庭復帰にしろ氏族復帰にしろ、或いは経済復帰にしても、事情を並べながら身動き取れないでいるのは、事情が問題なのではなく事情を理由に発っして醸し出す不安と恐れから何らの意志も差し出せないでいるからだ。それが問題だ。私が関与するみ旨、復帰がどういう形で為されるかは、所詮私の思うようにはならないし、私の思う形にすべきでもないだろう。あくまで私は心魂を備えた復帰の為の道具であって、私に働きかける神霊が復帰の形を造っていく。私は道具となって関与しながらその経過や形になっていくものを、働きかける神霊の叡智に感動もし感謝も捧げながらお手伝いしていく。私個人のことですら四苦八苦しているのに、氏族メシヤだ国家メシヤだと大上段に掲げられる御父様の願いをどうやって達成していけばいいのか、という課題は、私はもはやこの皮膚によって閉じ込められた私に留まる限り諦めるしかない。しかし真理と神霊が働きかける私、この皮膚を蹴破り不安と恐れに戦いを挑み超えることができれば、私は不可能を可能に変えることができる。その意味で、強く雄々しくあれと言うことだろうし、死生決断でもある。

2012年10月18日木曜日

今日の想い 476

この世の愛と本然の愛とは愛の概念が異なるというみ言葉がある。我々が思うところの愛はこの世でも通じ得る概念の愛だろうか。この世の人達が愛だと思っている愛と、私のそれとが同じで変わらないのなら、私はまだ本然の愛を知らずにいるということになる。いかがわしいものを偽りの愛、さらに踏み込んで自己を中心とした愛を偽りの愛、と言うに留まるなら、この世でも十分通じ得るし、この世的愛の概念にみあってもいる。しかし堕落と本然とは愛の概念が異なるとの言い方は、本然の愛はこの世の愛プラスアルファではなく、概念自体が異なっている全く別物という感じを受ける。真の愛という言葉をみ言葉のどこにでも見つけられるし、真の愛という言葉を使ってもいるし、食口にしてみれば随分慣れ親しんだ言葉でわかったようなつもりでいるけれど、本当は勘ぐりの範囲に留まったままで、真の愛の概念自体を正しく受け取ってはいない。私達は既に探し当てているつもりでいるだけで、本当は真の愛の香りを少し嗅いだだけで御父母様に従いながら真の愛への道を辿っている、と言った方が正しいはずだ。真の愛に対してもそうであるように、真の生命、真の血統に対しても同じことが言える。真の生命の概念、真の血統の概念も、愛によって生命が誕生し、生命によって血統という縦的なものを相続していくなら、本然の愛、真の愛の概念を受け取れなければそれらの理解も得ることはできない。私達は真の愛にしても生命にしても血統にしても、その概念を得るには至っていないけれども、しかし血統転換儀式を受け祝福は戴いている。戴いた祝福は真の御父母様から受けたのだから真の愛が基にあり、真の生命も真の血統もその苗は植えられたはずだ。概念を受け取る以前に実質を受け取った。実質の苗が成長して私の中で真の愛、真の生命、真の血統が実を結ぶ為には、私の概念を否定して壊し続けなければ成長はおぼつかないだろう。それは移植した臓器を外来の不純物として攻撃されないように免疫低下の薬を飲み続けるようなものだ。それ故に絶対信仰、絶対服従、絶対愛だ。真の愛、真の生命、真の血統として花を咲かせ実を結ぶその時を恋焦がれ、個人に於いてそうであるように家庭でも氏族でも国でも世界でも、真の愛、真の生命、真の血統として花を咲かせ実を結ぶその時を恋焦がれながら歩んでいく。堕落的な概念を壊す為には失望を希望と認識すべきであり、愛されない歓びのない幸せのない現実を、愛され歓びを受け取り幸せに満ちていると認識すべきであり、不運な現実は真の位置から見れば幸運であり、幸運として認識できない私の概念に問題があると見るべきだ。徹底した自虐嗜好のように思えるけれども、霊的に見るなら自殺する者が自己中心、自己愛に凝り固まった霊に主管されているように、真逆の意味で真理と神霊に主管され、真理と神霊によって祝福によって植えられた真の苗は成長する。

2012年10月17日水曜日

今日の想い 475

リッカーボードのおとり捜査に捕まった。21歳未満の客にアルコール含有飲料の提供は固く禁じられていることは十分承知で、サーバーにも毎日の朝礼で口を酸っぱくして指示しているのだが、それでもつい気を許したのか引っ掛かってしまった。スピード違反のネズミ捕りは待っているだけだから理解できるが、おとり捜査は引掛けに来て、雇った学生にビールをオーダーさせて、こちらの気の緩みを突くように仕掛けてくる汚なさがある。提供するのも違法なら未成年が酒をオーダーするのも違法のはずだ。おとり捜査は未成年にオーダーさせているのだから、お上が違法に加担させていることになる。そこを指摘すると、オーダーはしたが口にしていないので成立しないと言われた。それ以上突っ込んでもポリスにこちらの心象を悪くさせるだけだから、書類にサインして御触れを待つことにしたが、サインして手渡された書類コピーのピンク色が自分には如何わしさプンプンに感じられた。実はこれで三回目だ。30年近くこの場所でビジネスしていて、最初の頃続けて二回、それも同じウェイトレスが引っ掛かった。その時にオフィサーから、三回目はアウトでライセンスを取り上げられると伝えられていたので、随分心配もしたが、マネージャーにリッカーボードのオフィスに状況を聞きに行かせたところ、なんとか罰金ですませられそうなので取り敢えず安堵した。それでも講習の参加義務やらコートに出向いて罪状認否させられるやら気の休まることはない。ライセンスを取り上げられるならそれもみ意だと、禁酒を推奨しているのに販売すること自体矛盾していると、そう割り切ろうとしたけれども、かといってなければないで今の業態を辞め、新たな業態を始めなければならないが、この基盤を一端白紙に戻してまた一から始めるのは至難の業だ。そんなこんなでこの事件を契機として店についてもいろいろと考えさせられるようになった。御父様が聖和されて店を続ける意味は変わらないのだろうか、とか、生産、流通、そして消費者の手にという水産摂理のビジネスのひとつを担っていたが、最も基盤のある流通が一連の問題で外されてしまって残された消費者の手に届ける店はどうしたらいいのか、とか、これから水産ビジネスに対する重要性や位置付けも微妙に変わってくるのだろうか、とか、そんなことも考え始めるようになってしまった。御父様の鶴の一声でここまでやってきたが、これから外的具体的なことに対しても、絶対信仰、絶対服従を自分にも全体にも突き詰められながら、ひとつひとつクリアしていくことになるのだろう。今までは中心の位置でのことだったが、これからはいよいよ現場が踏み絵を踏む試験に直面することになる。

2012年10月16日火曜日

今日の想い 474

復帰歴史は前もって説明してもらって歩む道ではない。勝利して後に収拾するようになっている。歴史の流れ、時の流れのどの一点を取っても、誰も直面していることの確かな意味を説明されて歩んでいる訳ではない。自分の過去の歩みのどの一点を取って見ても、やはり同じことが言える。要するに訳もわからずひたすら歩んできたのであり、振り返ってみれば復帰に加担した跡が見えるということだ。訳もわからず歩んできたのなら、何を持って選択意志を働かせてここまできたのかというと、御父様に対する帰依だ。絶対信仰、絶対服従だ。絶対信仰、絶対服従でここまできたにもかかわらず、今直面している問題に対しては自分の判断を働かせようとしている者がいる。いつのまにそんなに利口になったのだろうか。絶対信仰、絶対服従と、自分の判断とは全く異なる。その違いを曖昧にして等閑(なおざり)にするのであれば信仰は形骸化する。献身路程で何ひとつ外的な自己主管物も持たなかった頃に比べ、社会に浸透し社会的な環境も持ち合わせている今は、確かに社会生活では自分の判断も必要になってくる。だからといって自分の判断が絶対信仰、絶対服従に取って代わるものではない。このことだけは念を押しておくべきだ。であるにもかかわらず、自分はこう考えるとかこう判断するとかと言いながら、自分を立てようとしている。み言葉を、御父様の指示を、自分の判断をもってこれがみ言葉の真意だ、これが御父様の口にだせなかった真意だと言うなら、それは既にみ言葉でもなければ御父様の指示でもなくなっている。さらに問題なのは良心を持ち出して、良心に照らして、とか、良心はないのか、と言ったあたかも天に90度で直通する良心が既に備わっているかのような物言いをしているけれど、誰も良心基準が天に直接通じるほどには至っていない。私達はこの世に対しては蛇の如く利口であるべきだけれど、天に対し御父母様に対しては愚鈍なまでに素直であるべきだ。アダムとエバは不信から堕落したのであり、次に自己主張から堕落したのであり、そして自己中心の愛の環境を夢見てしまった。この堕落の三大要素は自分勝手に判断するという行為の中に全て含まれている。

2012年10月15日月曜日

今日の想い 473

私が復帰された当時の教会には愛国愛人の精神が宿っていた。私が、そしてこの群れが、憂えるこの国を変えるという愛国魂に燃え、気概に溢れていた。先輩食口の多くは大学出か中退したかで知性にも長けていたし、原理の講義や勝共の講義も聞き惚れるほど冴えていて聴く者の魂を燃え上がらせた。高校生でみ言葉に触れた私は、教会や勝共の事務所で活躍する二十代の兄や姉達が実に大人びて落ち着いて見えたし、こんな先輩食口になりたいという憧れもあった。当時の社会で浮いた存在かというと確かにそうだったのかも知れないが、この日本社会の組織に埋もれたまま流されていかざるを得ないという当時の認識は若者の誰にもあって、私達は浮いた存在と言うより何かを掴んだ羨ましい存在に見えているはずだという誇らしさはあった。同じようなもうひとつの存在が敵対する一方にあって、彼らは共産主義者だった。方向性は逆だったが保持している魂の熱は同じくらい強く、にらみ合うことでお互いがお互いを切磋琢磨していた。原理と勝共理論で武装して歩む私達は、理想天国の遠くない実現を信じて疑わなかったし、生活環境が悪く耳パンをかじろうが寝袋生活であろうが、或いはどんなに反対され迫害されようが、それもみ旨が為されたときのひとつのエピソードくらいにしか思っていなかった。しかし熱は冷めていく。兄弟ひとりひとりに取っても、全体に取っても、当時の熱情は初愛に似ていて燃え上がり、或る期間を熱い想いで過ごすけれども、それを超えれば受け取る熱から与える熱に次元を上げなければならない。熱は冷めてしまっても初愛を貫き通す試練を私達はくぐって来た。その間は惰性的にも感じ、服属的にも感じ、実りを得ることはない諦めも蔓延し、共に歩んだ兄弟は一人去り、二人去っていった。今、理想天国が明日にでも実現されるという実感をもって嬉々として歩む兄弟がいれば、それは私達からみてもお目出度い存在だろう。御母様が話される、初期教会時代の真理と神霊に溢れた教会を取り戻したいという想いは、食口の誰もが魂の深いところに初愛の記憶としてあって、しかし時も経ち、いろんな経緯も経ながら、多くのシガラミで雁字搦めにされてしまった今、どうなるものだろうという思いの方が勝っている。御父様がいつも二世達を前に座らせてみ言葉を語られたように、一世が積み上げた土台を足場にして次なるみ旨の段階を二世に手渡すことが願われていた。一世が積み上げたものを形通りに受け継ぐことを御父様は願われたのかというと、そういうことでもないだろう。御母様の真理と神霊に溢れた教会も、今までの摂理が失敗したからもう一度初期に帰ってやり直せという意味ではなく、御父様の勝利された土台の上に上がって改めて仕切り直しをして進もうと言うことだと思う。一の位から十の位に上がるように、次元を上げて新たな出発を為そうということだろう。しかし次元を上げることの意味が未だに私はわかってはいない。そしてもちろん、初愛の当時に帰ることはもうない。

2012年10月13日土曜日

今日の想い 472

良くも悪くも言葉によって主管を受ける。そして同じ言葉でも立場の違いによってこうも受け取り方が違うものかと思わされる。私も言葉を並べ、ブログで公開している以上、目を通して下さる方がどう受け取るかに対しては多少なりとも責任はある。考えるのは自由だし書き上げるのも自由だけれども、それをネットで公開し不特定多数の人々の目に晒すのであれば、それ相応の責任が伴うことは明白だ。たとえ匿名であってもその責任から逃れられるものではない。ブログで人格の見えない相手に配信する同じ言葉を、実体の当人の前で言えるかどうかをまず少なくとも考えてみるべきだろう。そうすれば責任感情もいくらか芽生えるだろうが、相手が見えないことをよしとして無責任な言動をそのまま並べるなら、自由性に基づいた意見ではなくて分別のない悪神の業、悪神の言葉を垂れ流しているだけだ。論理はどうにでも解釈できる。論理は力ずくで曲げられる。下手に頭がまわると、いくらでも口をついて流れ出る反論や批判そのものに酔いしれる弁護士のように、言葉の遊び、論理のおふざけを楽しんでいるに過ぎない。政治論議に花を咲かせるぐらいなら許せるのかも知れないが、ことみ言葉をいいように解釈し、御父母様のこと、真の家庭のこと、み旨のことをダシにして悪魔の祭壇に祭り上げるなら、それ相応の覚悟が必要だろう。言葉で裁く者はもちろん言葉で裁かれるけれど、み言葉を鋭利な刃物として使って脅迫まがいな言動を投げかけて、当の本人は恐ろしくはないのだろうか。言葉に霊が宿る。言葉に魂が込められる。何食わぬ言葉のようでも口にし書き記す以上、私はその想いを言葉に投入して差し出している。私の周囲にいる霊人達は、良くも悪くも言葉に込められた想いを糧にしていて、良い糧には善き霊人が集まって食し、悪い糧には悪なる霊人が集まって食(は)む。口を通そうがネットだろうが、その言葉を受け取る側もまた然りだ。兄弟がみ言葉を訓読するのも、教会を認めない反対派が批判できる箇所を捜し出すのも、表面的には同じ姿かも知れないが、関与させる霊は全く異なっている。解釈という論理のステージを超えて、神霊、心情が関与する領域に入れない者は、そこに留められたまま人類進化から外されて置いて行かれる。

2012年10月10日水曜日

今日の想い 471

小宇宙としての私は大宇宙に繋がっている。私の目は大宇宙の目に繋がり、私の耳は大宇宙の耳に繋がる。私の目は大宇宙の目を代表して見るのであり、私の耳は大宇宙の耳を代表して聞いている。御父様の存在をこの目にし、この耳にしたのなら、この目に繋がる大宇宙も御父様を目にし、この耳に繋がる大宇宙も御父様を耳にしている。御父様を拝見したこの目がどれほど喜んでいるかと思えるのは、大宇宙が御父様を目にして喜んでいるからであり、御父様のお話を聞いたこの耳がどれほど喜んでいるかと思えるのは、大宇宙が御父様のお話を耳にして喜んでいるからだ。十分に御父様を見てこの目は本当に喜んでいるだろうか。十分み言葉を聞いてこの耳は本当に満足しているだろうか。この肉体に住む私の心魂は堕落的であり不完全であるけれど、この肉体そのものは統一されたひとつの完成形だ。感知できない私であっても、この目は大宇宙の端々まで見通せ、この耳は大宇宙の宇宙音を聞き取れる。人間は堕落したことである意味間違った仕方でこの肉体に入り込んでいる。本来は大宇宙に繋がり、大宇宙の共鳴体となる小宇宙としての肉体だけれども、堕落的自我をして、大宇宙へ向かって霊的触手を伸ばせずに、個への閉鎖的肉体として大宇宙を切り離すべくこの肉体に入り込んでいる。堕落人間は堕落と関係のない自我、キリストに接木され、キリストによって生まれた新しい自我を備えなければならない。私の中にカインとアベルがいる。堕落の血統を受け継いだカインの自我と御父様によって生まれた新しいアベルの自我だ。私の中のアベルが長子権を復帰し、カインを愛で収めなければならない。私は自分自身に、アベルの自我を立ててカインの自我が屈服している新しい存在になれるかどうかを問うている。アベルの自我は他体自覚の自我だ。大宇宙を感じ取って共鳴体となる体を、正しく操縦できる自我だ。霊界の情報を受け取り、霊的高みの神霊存在に相対基準を合わせられる私になれる自我だ。そうなることができれば、私はいつでも御父様にまみえることができ、御父様と共に生活することもできるだろう。御父様と共に生活できれば、私が見て聞いて触れるものを御父様も見て聞いて触れるのであり、私が喜び楽しめば御父様も喜び楽しまれる。

今日の想い 470

聖和された今、御父様の心情をより近く感じるし、そうあるべきだと中心は言うけれど、聖和されてまだひと月にも満たない。そんなに手の平を返すように、人間の感情は新たな環境に慣れ親しめるものだろうか。私の家族の一人を失うとして、御父様が言われたように涙を流さずに笑って送ってあげるべきなのかも知れないが、感情ある人間としてそれがどれほど難しいかは少しでも想像してみればわかる。ひとつである家族が、主体対象関係の一方を失う時、別れられないほどにひとつになっていれば尚更、天地が崩れるほどの悲しみを味わって当然だろう。私達は愛する御父様を失った。御父様は聖和されて霊界に行かれたのであって、失ったわけではないのかも知れないが、確かにそう理解できるけれども、しかし感情としては失ったのは紛れもない事実だ。これから聖和された意味を理解しながら、私の感情の部分を納得させて合わせていかなければならない。もしある食口が、御父様が聖和されて、以前と同じで何の感情の変化も起こらないと言うなら、それはまだ御父様が逝去された事実を感情は認めていないからだ。ひょっとしたら、その感情は自分の死を見るまで封印されたままなのかも知れない。しかし御父様は人類全ての御父様であって、たとえ幾世代の時を経るとしても、必ずや御父様への慕わしい感情を抱く時があり、そして逝去された悲しみを深く味わう時がある。誰の御父様でもない自分の御父様だからだ。そしてそのとき、私の今の感情を理解してくれるはずだ。食口それぞれにいろんな心情段階があるだろう。御父様を理解しようがすまいが、御父様への感情を抱こうが抱くまいが、それぞれの御父様であることに変わりない。自分が認めるから御父様なのではなく、御父様が認め、御父様が無知無感情な者でも子として受け入れられ、全ての子の為に差し出す愛を惜しまない真の愛の御方であるから御父様なのだ。そう、御父様は愛において極めて一方的だ。誰が何と言おうが愛の主体であることを譲らない御方だ。私の本当の親だと言い張り、事実真の親として、どんな犠牲を払うとしても人類ひとり残らず、家族として御国に連れてくることを天地に誓った御方だ。御父様のその執念で、私が救われることも、家族が救われることも、氏族が、国が、人類が救われることも確約されている。しかし一方で対象の自覚がない分だけ、御父様の犠牲も増えて行く。聖和されて、もはや肉体を持たれない御父様は、肉体を持つ人類を救う為にどれほどじれったく、どれほど切ないことだろう。見て聞いて触れて、話もしてやれ、褒めも怒りもされていたのに、、、。今、私達が御父様の代わりに御父様の体となるべきだろう。子女である人類復帰への、その御父様の熱い想いと愛の衝動を、もし私達の体を使えないなら、たとえ岩であっても乗り移って働きかけられるだろう。御父様は私達の前で何度もこう告げられた。「御父様は能力のない御父様ではないよ。実力も何もかも兼ね備えた御父様だよ。」 そんな御父様は、私達の思いもよらない仕方で、天宙復帰の全歯車を一気に回し始められるかも知れない。私の思考の中に、いろんな希望的在り得る事柄が浮かんではくるけれど、しかしこの今の感情だけはまだ説得できないでいる。私の感情はこう叫ぶ。御父様の心情世界に飛び込みたい。

2012年10月9日火曜日

心情の香りは、、

天使長ルーシェルはその居るべき位置を離れて、エバと犯罪に及んだ。居るべき位置、即ち天使には天使の定められた居るべき位階があるにもかかわらず、その原理原則を無視して位階を飛び越え堕落してしまった。堕落性本性のひとつである自己の位置を離れる、は、混乱した状況の今でこそ最も意識して気をつけなければならない堕落性だ。共産主義者は労働者に階級意識という比較する意識を呼び起こし、資本階級の徹底批判に明け暮れ、そしてもし労働者の中に歩み寄る者でもいれば資本階級に媚を売る反逆者とレッテルを貼って皆の前に晒し、分裂を煽るベクトルに一層の拍車をかけた。自己の位置を離れさせて主管性を転倒させるように仕向け、ルーシェルから受け継いだ人間の堕落性を執拗に刺激させた共産主義だが、我々の中にも同じ堕落性としてその危険性を孕んでいて、その芽が伸びやすい環境にあれば常に霊的視線を向けていなければならない。教会に対して不満もあるだろう。責任者に対して言いたいこともあるだろう。しかし指摘することと批判することは異なるし、指摘するにしてもその動機が一体化への歩み寄りを願ってなのか分裂なのかを精査しなければ批判することと同じになってしまう。要するにその衝動に堕落性がどれほど関与しているかだ。サタンは良心の仮面をつけて堕落性に働きかける。特に中心批判にはサタンが関与しやすく、今の状況はサタンに取っては願ってもない状況だし、仕掛けられた罠に喰いつく兄弟も多いだろう。批判すれば時を違えて逆に批判の対象になるのは蕩減原則であり、結局は教会の分裂も私の内面の分裂へとリンクして、指弾したその同じ指が私の内面にも矛先を向ける。責任者であろうと一教会員であろうと、先輩食口であろうと後輩食口であろうと、私と同じ兄弟に何ら変わりないと十把一絡げの平等意識を持っているけれど、霊界に位階があるように、私達の関係性にも明らかに位階があることを認識する必要がある。それは心情基準による位階だ。誰をも肉身を纏う人間のひとりとして接するのではなく、精神の高み、心情の深みを感じ取り、畏敬の思いで対することに勤めるべきだ。そうであれば中心者に対しても言葉を選び、言動に細心の注意を払うのは当たり前だろう。御父様に侍るのはその御心情に侍るのであり、聖和されればその認識は更に強くすべきであり、中心者の中に御父様の心情をみて侍って当然だろう。心情だとか、精誠だとかの言葉を理解している私達なら、生活の中に、兄弟や中心との関係性の中に、教会の中に、私の言動に、その言葉が活きて働いて、香っているかどうかは感じ取れるはずだ。批判の嵐の中に心情は香ってはこない。

2012年10月8日月曜日

今日の想い 469

今日の聖日礼拝は証し会だった。ある二世の証しに続いて、ひとりの姉妹が壇上に立った。最近復帰された姉妹だ。長いクリスチャンとしての信仰年数を経て、真の御父母様に辿り着いた感謝を口にした。真の御父母様を知らされたその日が、御父様が聖和されたその日だったことに彼女が触れたとき、会場のあちこちでため息に近い声が漏れた。伝道で原理のみ言葉講義を一通り聴いてもらって、おそらく一人を導く最後の言葉は、今生きて働かれる再臨のメシヤ、御父様が御存命の今、知って行動することの恩恵についてだろう。しかしこれからの伝道は、生きた御父様ではなく聖和された御父様を証ししなければならない。その姉妹の語り口から、目にしてもいない、そして会うこともできない御父様を慕う純粋な彼女の心情を、その場にいる食口の多くが感じ取ったはずだ。こういったとき、私は以前にも投げかけた、ある自分への問いに至る。キリスト教の背景のない私は、この世にいないイエス様を慕うクリスチャンの信仰が、生死を越えた深い信条にまで至る内的なものを理解していない、と言うより体験し味わっていない。私が統一教の信仰に至ったのは明らかに生きた御父様がおられたからで、もし原理を聞いたときに既に御父様が聖和しておられて、内的霊的な存在としてだけ向き合うなら果たして信仰に入っただろうかという疑問だ。そして御父様は確かに聖和され、聖和式を終えた今、外的なものに囚われない、内的霊的御父様を慕う信仰にまで高めてきたはずだと自負していた私が試されている。聖書の言葉を諳んじ、その言葉の中にイエス様の愛を見い出し、常にイエス様と共にあるというクリスチャン達の確信的信仰が、御父様直接に訓練されながら築いてきた私達の信仰を推し量っている。私が何の準備も備えられないうちに聖和されてしまったと、不平不満ばかりが喉の辺りを塞いでいて、恨み言として口をついて出てくるが、弟子が記した聖書でさえイエス様の残した言葉として生命視しているのに、私達には御父様直接に八大教本教材を残してくださったことに対して、彼らを遥かに超えた内的霊的実りを差し出す我々であって当然だろう。み言葉を諳んじるほどに訓読するのは勿論のこと、み言葉が私の生活原理とならなければならないだろうし、み言葉の中に御父様を、御父様の御心情を、現実以上の現実感をもって見て聞いて、私に訪ねて下さるのを体験しなければならない。

今日の想い 468

2000年前、イエス様が十字架上で亡くなられたときも、地上世界はそれまでと変わることなく、人々の生活も何ら変わることなく、時は同じように刻まれていったのだろうか。アダムとエバの堕落の瞬間も、イエス様が十字架上で亡くなられる時も、御父様が聖和されるその時と同じように、未来へ前進するために原理原則に則って刻まれたのだろうか。時の歯車が悲鳴を上げようとも、それでも前進し続けなければならない時の宿命は、神様御自身の宿命でもあるだろう。堕落の一歩手前で時をフリーズできたなら、ここまで悲惨な神様になられることはなかったろう。しかし原理原則を破壊することは時間と空間を破壊すること、時間と空間を破壊することは存在自体を破壊することだ。神様の宿命としてその選択は固く封印されてしまった。だから神様が泣き叫び、全天宙が泣き叫んでも、時は前進し続ける。イエス様が亡くなられるとき、時の歯車の悲鳴を聞いた者がきっといるはずだ。御父様が聖和されるとき、時はいつになく重く、いつになく塞ぎ込んでいた。聖和式からまだひと月も経っていないのに、優に一年の日々を送ったかのように思えるのは私だけではないはずだ。正直な話、聖和式以来私は混乱し通しだ。結局私は、この時が来るとは言いながら、実際信じてはいなかったし、何の準備もなされないまま信じていなかったこの時を押し付けられた格好だ。たとえ夢の中で御姿を現されたとしても、たとえ誰かの口を通して御父様の慰めの言葉を受け取るとしても、それはもはや地上という私と同じ次元には存在されない御父様であることを念を押されるようなもので、どうなるものでもないし余計につらい。あまりにもあっけない仕方で逝かれてしまったのは何故だろう。117歳まで生きられる御父様だと口にされながら、誰もがそれを信じて安堵していたのに、聖和された今になって違いましたと一言告げられて、それを誰が納得できるだろうか。取り残された私達は、見捨てられたとしか思えない。それは思い違いだとは思うけれども、今の今を言うならそれ以外の感情を私の中には見出せない。時はそれでも刻まれ続け、私はそれに追い付けず、置き去りにされてしまっている。

2012年10月7日日曜日

今日の想い 467

いつのまにか日が短くなっていて、朝明けるのも遅いし陽が落ちるのもすっかり早くなった。それでも今日の日中は随分気温が上がって、夏の余韻はまだ残っているなあと思ったが、見る見るうちに雲が広がってきて半時間もしないうちに肌寒くなり、陽が雲に隠れたまま日暮れになってしまった。短い一日が今日も過ぎ去り、ただ時が過ぎ去ることだけを望んでいるかのような毎日だ。実は聖和式から帰ってきてずっと情緒が安定しない。表面上は何ら変わりなく、それまでこなしていた仕事も同じように手をつけてはいるし生活も変わりないのだが、はっきり言って仕事も生活も、手ごたえがないし実感がない。何か空回りしていて、あの日から私の時間は傷のついたレコード盤のように、同じ短い時間を繰り返し繰り返し心無く演じているようだ。毎日のように更新されていた訓読会での御父様の様子を見ることもなく、かといって過去ログを見る気にもなれず、早く地に足をしっかりつけて取り掛からねば現実の問題ばかりは容赦なく襲ってくるのに、一体どうしたものだろう。魂ここにあらずとは言わないけれど、魂が繋がる本性を見失っているように思う。こういうときこそ祈るべきなのだろう。いや、今を祈らずにどう超えようと言うのか。しかしそう言いながらも溜息をつきがちになってしまう。取り敢えず空を眺める。さらに首を反らして真上の上空の先に視線を延ばす。そうしながら足で地を何度も叩いて踏みしめる。それでも肝が座って意志を固められないのなら、自分でビンタを喰らわせればいい。今まで何度もそうやって自分をプッシュしてきた。無理にでも涙を流し、無理にでも感情を吐き出させて、それで次の一歩が踏み出せるならそれで自分は良しとした。体を打てば感情が滲み出る。更に打てば感情がほとばしってくる。堕落性が邪魔をして、思考はどんどん内に篭ってみ旨への意志を押さえ込み、逆に遠ざけたい感情を刺激されれば刺激されるほど意志を固める力となった。今までは押し出してくださる御父様がおられて、しがみついていれば何とかなったけれど、これからは自分で自分を押し出さなければみ旨への一歩は踏み出せない。

二人のイエス様と御父様

マタイによる福音書のイエス様の系図と、ルカによる福音書のイエス様の系図とは異なる。アブラハム以降ダビデまでの系図は両福音書とも同じだが、マタイ伝はダビデからソロモン、ルカ伝はダビデからナタンとなっていて枝分かれし、マタイ伝はアダムから42代目がイエス様、ルカ伝はアダムから77代目を数えてイエス様となっている。イエス様の父親であるヨセフだけが唐突にマタイ、ルカ共に一致しており、これは二人のイエス様と言って神学上の大きな問いとなっている。マタイはヨセフの家系を辿り、ルカはマリヤの家系を辿って記されたと解釈されるのが一般的だが、わざわざ誤解を産むような記述がどうしてなされたのか。聖書をどうみるかによるが、聖書がみ言葉であり霊的事実であると譲らないなら、地上的解釈では不可解なようであっても霊的見地に立てば何の食い違いもない説明ができるはずだ。キリストを受容する内外の器としてのイエス様が準備される為に、一人は42代を辿って外的な器、もう一人は77代を辿って内的な器を用意され、キリストイエスとなるために霊的統一が為されたと捉えても私の中に矛盾は生じない。今年に入って御父様が訓読会の場でお話される中で、おそらく私だけではない誰もが不思議に思ったことは、文龍明という幼少の頃のお名前を頻繁に出されるようになり、更に不思議なことは、文龍明をあたかも御本人とは異なる人格であるかのように使われて話されたことだ。明らかに文龍明と文鮮明の違いを言葉の中に含められており、先生によっては勝利された御父様は戒めのみ言葉以前に立たれたことで文龍明を使われるのだという解釈をされる先生もおられるが、どうも釈然としないものがあった。と同時に私の中で引っ掛かるのは、この二人のイエス様がどうしても頭に浮かび、二人のイエス様と、そして文龍明と文鮮明の関係性があるのではないかという疑問だ。42数と77数を血統に数えることでキリストをイエス様の中に迎えられたように、御父様が16歳の時イエスキリストに会われて、何らかの42数血統存在と77数血統存在がひとつになられて、キリストという本性を迎えられたのではないか、と言うのが公に大言できることではない私のひとつの理解として暖めている。

2012年10月4日木曜日

今日の想い 466

何人たりとも蕩減を背負わずに生まれ出た人はいない。同時に、何人たりとも責任分担を願われずに生まれ出た人もいない。70億に到達した人類は、ひとりひとり全てが異なる蕩減内容を背負い、と同時に創造理想への異なる役目も担って、地球村一家族全体の勝利を目指している。たとえ地の果てで孤独に生きる名もなき人間であったとしても、何らかの形で同じ理想への役目のひとつを担っている一人の同士だ。更に人類の蕩減に関して言えば、人類誰もが縦的蕩減を横的関係性の中で払っていくのであり、密度の濃い薄いはあるとしても、人類全ての関係性でお互いがお互いの蕩減への関与をある程度持っている。そういった見地に立つなら他人事を他人事とは捉えられないし、ましてや統一家としての私達は真の父母を戴く血統圏であり、蕩減に関しても責任分担に関しても切っても切れない関係性にあり、あなたの犯した罪はあなたの罪、あなたの蕩減はあなたの蕩減だと突き放せないし、祝福の価値を地に落としたとひとりを責めるだけで終わるものでもない。愛を兄弟姉妹の関係性の中に我を忘れるほどに投入させながら、霊的血を更に濃いものにしたいという衝動を燃やすべきだ。一世の問題であれ二世の問題であれ、更に子女様の問題であれば尚更、統一家全体が家族として蕩減を背負うのであり、自分もその圏内のひとりとして背負って当然で、それどころか私が代わりに背負いたいと思えなければいつまでも中心の御父母様から距離を置いてしまう煮え切らない中途半端な存在に終わってしまう。私が負うべき蕩減ですと言ってこそ祝福の血統、御父様の血統圏に自ら進んで組み入れられるのであり、他人事で括るなら私とは関係のない他人の血統圏だとして決定を下したことになる。結果は結果で決して喜ばしいものではないが、血の通った統一家の一人として、姉であり兄であり、妹であり弟ならではの心情と態度を示すなら、サタンがそこに割り込んで介入することはない。今の私達にとって、個人個人の罪の許しと蕩減をあくまで個人が責任を持つという縦割りが問題にされるのではなく、罪を、蕩減を引き受けようとする連帯としての統一家にならなければならない。個人個人のそれぞれに縦的歴史的に繋がれた蕩減の糸を、兄弟姉妹の横的な広がりの中に織り込まれることで、統一家というひとつの網が生じる。真の父母を戴く統一家という網に編み込まれる蕩減の糸を見て、御父様が蕩減の必要のない時代と言われたのだと思う。一人の蕩減は全体の中に、全体の蕩減は御父様の勝利圏に吸収され、全体としての統一家が拡大すれば拡大するほど大海に落とされる悪血は瞬時に吸収浄化される。肉の血縁より濃い霊的血が、統一家という私達の関係性の中に循環している。

2012年10月3日水曜日

今日の想い 465

子女様の問題をどう捉えるか。み言葉に照らし合わせれば現実行動は堕落的に思えるし、真の家庭であるなら堕落の血統とは異なる真の血統の基準を見て見せて当然であると思え、その理解と堕落的に見える実態とのギャップが個人と家庭、信仰組織に混乱をもたらしている。何度も触れたように、私は今の自分の悟性では測れない御父様でありみ旨であり現実の状況だという点で一貫している。将来的には原理的な説明がなされるものだとは思うが、今私達が問題に向き合った時点では意図して天に隠されていて、理解せずにそれでも従うか或いはどういう選択、どういう行動を取るかを試されていると見る。肉体を持たれた外的存在の御父様がおられ、教会組織に外的に関与され、御父様の指示が組織の中心を通して私に流れ、その指示に従うことだけに私の意志の殆どを投入してきた。御父様が聖和された今、今度はひとつになられた御母様の指示を戴き、御父様に対するのと同じ内的態度をもって御母様に対する。それは納得するとして、それでは御母様の指示は何らかの手段を通して御父様から来るものであるのか、それとも御父様が全権を御母様に委ねられて御母様の指示を御父様の指示に代わるものとするのか。そういった疑問を始め、ありとあらゆる側面で私の中に問いが氾濫するだろう。その混沌は神様の創造の混沌と同じ状況に投げ込まれていると言える。もちろん私達は再創造の歩みではあるけれども、御父様の聖和に合わせて摂理の舞台は外界から内的世界に移された。御父様が歩まれた勝利の道を今私達は内なる世界に於いて再出発している。絶対信仰、絶対愛、絶対服従は、地上におられた御父様に顔を向けて立てようとしていたが、今は私の内面世界に面して絶対信仰、絶対愛、絶対服従の柱を立てなければならない。自分が立てる柱で自分が住まう内的霊的世界を創造し構築する。その大転換期の意味をわからず、御父様が地上におられた時と同じ態度で外に向かう意志にのみ留まり、内的霊的世界の創造、構築に汗を流し、光あれと意識の光を差込み、意志関与できないのであれば、御父様と永遠に共にあって、御父様に付いて行く自分にはなれないだろう。御父様との関係性が本物で、繋がれた糸が外的なものだけに留まっていたのか、或いは内的霊的にもしっかりと繋がった糸なのか、聖和された霊界の御父様が手繰り寄せられる糸に繋がった者だけが、最初の栄光に与るだろう。

今日の想い 464

人間が生命ある肉体であり、生命ある肉体に心魂が宿った存在に留まるだけであれば、蘇生段階内に留まったままだ。長成段階に入ると人間の心魂の成長が願われる。感覚感情を備えた心魂、次に悟性思考を備えた心魂、最後に意識的意志を備えた心魂、これが長成段階でありアダムとエバは意識的意志を備えるべき長成期完成級の段階で堕落した。本来なら長成期を超えて肉体が霊化し、生命は生命霊化し、神霊的私となる、真を備えた神様の実体、神様の実体対象となるはずだった。原理を学べば蘇生、長成、完成の成長の三段階を学ぶけれども、私自身が成長段階のどの位置にいるのかは把握できていない。祝福を受けるのは長成期完成級の段階であるけれども、あくまで条件的祝福であって本人が長成期完成級の実体である訳ではない。人類歴史の過程、特にヘブライ民族という選民の歴史は、サタンに奪われた長成期完成級までの段階をひとつずつ復帰して、サタンとは関係のないひとりの御方を迎える歴史だ。このひとりの御方、メシヤを迎えることで始めて人類は希望の光を認識させられる。しかし個人それぞれが救い主が必要だという本当の認識は、長成期完成級の段階に自分が至らなければ認識できない。人類は知性をこれほどに発達させてその悟性思考をして自分を把握し世界と世界との関係を把握し、さらにメシヤの存在さえも悟性の光に照らして判断を下しているけれど、そこに留まったままではメシヤ必要性の認識自体が不完全だ。その段階を超えて意識的意志を心魂に準備して初めてそれは本物になる。更に真の父母と共に歩む最後の成長過程、完成期の歩みは、悟性に留まった心魂では想像することもできない領域だ。御父様が完成、完結、完了を宣言され神様と一体となられたその本当の意味を誰が理解するだろうか。基元節を肉体を持たれた実体の真の父母と共に超えるものであることを、誰も疑わなかっただろう。人間成長の本当の意味、成長段階の意味を知らない者は、御父様が通過され、勝利され、宣言された内容を形式的儀式的なもの以上として捉えることはできない。そして基元節もそのひとつでしかない。そうであれば御父様が地上におられようが霊界におられようがさして違いはないだろう。基元節の私達にとっての明瞭な意味は、神様とひとつになられ神様の結婚式が為され、その直接主管圏から再祝福を受けるということだ。地上の人間は神様の間接的働きしか経験したことはなく、基元節を超えて直接的働きは想像することもできない。ましてや神様から直接に再祝福を受けることの意味を誰が説明できるだろうか。どんな説明もどんな理解も勘ぐりの域を超えることはない。悟性心魂の段階を人間至上の位置だと誤信するから、疑いを抱き問題に対する説明責任を求めようとする。御父様は悟性で理解できる領域を遥かに超えた御方で、私は御父様に対する認識の入り口に立ったばかりだという謙虚さがなければ、必死で御父様の袂を掴んでいた手を、自ら放すことになる。