2021年12月26日日曜日

今日の想い 1126

 教会は三分裂したと否定的な意味で捉えているのが大方だろう。実態を見るなら三分裂どころか家庭の数だけ分かれた状態に今あると言っても過言ではない。否定的に捉えるのは元の状態こそが正しいと判断する先天の教会観が備わっているからだが、様々な位置や位相があってどの観が正しいとは一概に言えない。私としては分裂という言い方は首をひねるとしても、分かれて存在しているのは食口達にとってたいそう有り難いことだと思っている。一極集中が摂理を推し進める場合もあるだろうが、そこには敢えて口を閉じ、抑え込められた摂理発展の芽も幾多あることもまた事実だ。御父様という一大理想が実体として存在していたから一極集中も有り得たわけだが、御存命であっても90を超えられていて、中心的摂理にのみ全体が呑み込まれる一極集中の期間は既に限界が来ていた。分裂を反逆と見るか正分合の分と見るかは何処に立っての観方かによって変わってくる。アボジの願いはそれぞれの良心に宿っていて、個々の良心に従うことで自ずと全体の救援摂理も進展していく。後天時代の私の信仰はそれを信じる信仰だ。私自身の良心も立てると同時に、他の食口もそれぞれの良心を立てて歩んでいると信じて彼等に接する。この世でも人々は多様性の時代だと口にしているように、食口の摂理観もそれぞれで異なる多様性の時代だ。その認識上で最も注意すべきことが何かというと、先天の教条的な自分が囁く「お前は罪人だ」という説得であり洗脳だ。その囁きには「先天はそう言われ続け、そのように信じ行動したけれども私自身の霊の成長はなかった。もやはその囁きに対して相対はしない」と断言して新しい魂の自分を飛び立たせるべきだ。

2021年12月18日土曜日

今日の想い 1125

 人は「楽しみ」と「喜び」を混同したままでいると霊的無知から脱却できず、よって霊的成長もない。「楽しみ」は地上世界に既に存在していて欲するものを受け取る、即ち受動的であり、「喜び」は地上世界に未だ存在しない霊界の朧を地上世界に輪郭を持たせて創造する、即ち能動的だ。性を含めた快楽そのものは受動的であり、それ自身を求めることには地上世界に没頭はしても魂を発展させる精神の向上とはならない。しかし宗教戒律によって快楽を否定したところで、それが即魂発展の精神向上ともならない。楽しみの否定が喜びではなく、創造こそが喜びだ。創造という概念も俗に何か目新しいものやシステムを作るという地上的捉え方ではなく、新たな愛の表象をいう。愛の表象は光の表象でもある。自由という概念も実に利己主義的な昔の軽いものから、責任を伴う重い自由という神が関与できる愛による自由という認識に至った背景には、新たな道徳意識という愛の表象が創造されたからだ。愛という言葉を聞いて普通にイメージできるものは実は愛ではない。ある切羽詰まった局面に追い詰められて、自分の内面の力の足り無さを克服する過程で、内面の更に奥からその力を絞り出そうとすればそれは愛だ。親を愛するというのであれば、下の世話もし認知欠落で言っても効かない親の介護でヘトヘトになりながら、それでも面倒みようとするとき親を愛するという本当の愛を創出することになる。人は困難な中でこそ霊的である光、それは地上的には愛を創造でき、創造主である神の子として立つことができる。いつも言うように地上生は難度海そのものだ。困難な中に更に追い打ちをかけるように困難の大波が押し寄せる。しかし霊界から見ればそれは人間が創造できる環境圏であり、その環境圏に立たされたことは神に任され信頼された立場だ。

2021年12月14日火曜日

今日の想い 1124

地上に於いて霊界の門が開いた、という意味は霊界の影響を直接間接に受けやすくなったということだ。このコロナの問題も霊界の門が開いて影響を受けやすくなったが故に蔓延している。コロナは現人間社会に取って災いがどうかといえば、災いには違いない。それは恐れの蔓延であり今までの社会秩序の無効だ。しかしこの事実は、人類は変わらなければならない、或いは社会は悪に満ちていると認識している立場であれば絶好の転換期に違いない。恐れ故に病と死を見つめざるを得ない。健康と病、生と死を問わざるを得ない。今までの社会秩序が壊されて新たな秩序が構築されなければならない。それは今までのような実利一辺倒の唯物的社会とは異なる新たな人類理想の様相を踏まえている。新社会への過渡期にGAFAだけが独り勝ちのようにも見受けられるが、実は様々な分野に於いて様々な企業の試みが為されている。今までは死や霊界にさわらず触れずで、地上生活あるのみ、よって幸福も物と外的環境のみに頼っているという主義思想に合わせてその試みは為されてきたが、このコロナ禍で人々の思考の方向性は確実に変わりつつあり、それに合わせて社会の様相も変わりつつある。すでに冠婚葬祭の在り方から異なってきている。かつてのような大仰な葬式はなくなった。これはコロナが収束してももう元通りになることはない。ある意味今までの立派な葬式のやり方は世間体でしかなかった。故人を悼む気持ち以上に生きて生活している者達の体裁に拘ったからだ。人々の関心は本質的な事柄に向かい、それに合わせて社会生活も異なってくる。

2021年12月8日水曜日

今日の想い 1123

 女性性は受動的であり男性性は能動的だ。神霊を受け取ろうとし自らの中にその種を宿そうとすれば横的に構えて縦的神霊を垂直に受け取る必要がある。しかしその種を霊として立たせるためには、縦的に構えて横的世界の地上界でしっかり垂直に立つ必要がある。天に対しては受動的であり地に対しては逆に能動的であるべきだ。受け取るべき神霊がわからず、立てて育てるべき霊の種子がわからない、すなわち霊的無知故に信仰の混乱を来してしまう。内外の条件を供えて祝福を受けた立場は堕落のない霊の種を戴いた立場だ。しかし問題はその種を霊として立てて育てるということであり、能動的な位置で地上世界という畑を耕さなければならない。地上生に於ける様々な内外の環境圏を養分に、喜怒哀楽という愛の汗と涙で魂を満たしてこそ神霊の子として精神が育ち立つことができる。そういった幾らかでも霊的感性と霊的知があるなら信仰の迷路に迷い込むことはないだろう。何某かの宗教に帰依するならそれは当人にとって必要なことだろう。もちろん統一食口も何処に籍を置き誰に帰依するにしても当人にとっては必要なことだろう。しかしその環境要因に身を置くことで全てが解決する訳ではなく、ただ鍬を入れ始めただけのことだという認識は持つべきだ。どんな川や支流を選ぼうとも、人は必ず人生の流れを終えて大海である同じ霊界に籍を置く。誰が正しいかどうかの問題ではなく、批判したりレッテルを貼った対象人物も含めて一切が私の内的環境になり私の内的世界が外界になる。私という輪郭の外と内とが入れ替わる。

2021年11月23日火曜日

今日の想い 1122

 人は何のために生まれきたのかを思い出せずに、忘れている者達の何と多いことか。或る霊的に生きる力を得たいという切実な想いが、地上への生を実現しているにもかかわらず、いざ産まれて生きてみるとぽっかりとその重要な中身を思い出せないまま表面的な地上の現実に没頭してしまう。霊的である切実な想い、それは地上的には餓えであり渇きだ。私は病に翻弄され続けてきた妻を見ていてその事実を納得できた。痛みに抗い臓器を失う絶望と闘い、切望している外的な健康体に霊的力が備わっているのではなく、健康を求める飢えと渇きにこそ霊的健康への力が増していく。私自身にも何ともし難い飢えと渇きがある。40年を超えて信仰を持ちながら、未だにその飢えと渇きは癒せない。しかしそれを癒せば済む話ではなくて、それを一生抱えながら思考と感情で問答し、呻吟する日々こそが本当に求めているものの正体を暗闇の中から浮かび上がらせ、愛の本質を悟って求める力となる。偽りの愛と真の愛、それは体を屈めて堕落の底を覗きこむ私と体を反らして高い位相を目指す私、左手で開けさせる扉と右手で開ける扉、感情の下り坂に引きずられるままに一歩出してしまった左足と丹田の意志で急峻な坂道の一歩を踏み出す右足、そして四肢を失った地獄世界と、四肢と更に飛翔する翼までも用意した天国世界。泥沼から養分を得て見事な美しい花を咲かせる蓮のように、この地上地獄、難度海の泥沼の中に叡智は潜んでいる。私という花はその叡智を掴んで花咲かせる。

2021年11月18日木曜日

今日の想い 1121

私達一世は信仰の在り方を補正すべき時に来ている。太陽は等しく万人に光を注いでいる。そして注ぐ光に対して一切見返りを求めない。人間が愛の恒星存在になる為には、この太陽に学ぶ必要があり、善悪、好き嫌いの枠を超えて、誰もが受け取れる愛であるべきだ。そして与えた愛に対して一切見返りを求めてはならない。しかしこの美しすぎる生きるイメージは、現実の世界では危なっかしいものだという判断と共に備えるべきだった。私達一世は全てを投げ打ってこの道に献身した。見える見えざるとに関わらず、背負った罪と蕩減にのみ意識の光を充て続け、だから或る中心者達の中抜きであろうが献金が何に使われようがそれは天が介在して裁かれることであって、私の意識をそこに向けるべきではないというのが信仰の当然としてあった。二世からすればなんと愚かな人生だと思われても、信仰ありきでの人生だったからそうならざるを得なかった。そして信仰の拠り所は把握できず見えない霊界生活、さしむき信仰を全うすれば天国に行けるという希望だから、霊界があからさまにならない限り砂上の楼閣は崩れない。地上天国に住まわってこそ天上天国に暮らすことができる、というこの御言葉が正しいなら、本来は外的に供えて与えることよりも内的に供えて与える、すなわち霊的生命を与え真の愛を示し天の血統を繁殖させることだ。自分の人生設計もままならず生活さえもままならないのに献金という外的に供えるのは、供えているのではなくばら撒いて捨てているのと同じだ。一方で多額献金しながら、一方では与えるどころか国や地方自治に養われているようでは、二世から見れば与えられるような存在とはとても言えないだろう。しかし数十年繋いできた意識はそうそう変わるものでもない。少なくとも二世は一世を反面教師として、地上に天国を築き、天国生活を地上で歩めるよう努めて欲しい。願わくは愛の裏返しで恨みを抱かないで欲しい。

2021年11月8日月曜日

今日の想い 1120

人生は辛くて当然、苦しくて当然であり、本流に届いていない人生であれば未だ夢から覚めないまま楽しく思うのかも知れないが、人生は難度海そのものだ。仏の教えに大願成就という言葉があるが、大願とはこの世のどんな人も救われなければ仏である私も救われないということであり、その願いは成就された、よってどんな人も救われているという教えだ。南無阿弥陀仏とは弥陀に帰依しますという意味であり、その言葉をつぶやくことで弥陀の大願と通じ合えるとする。これが仏教の根本であり、帰依することで自分の中に住まわれる仏と一体となる。御言葉も同じで良心という神様が私の中に住まわれ、良心に従うことで天の心情圏の中に生きる。良心は親に勝り師に勝り神様にも勝る、という最後の結論を出されて霊界に旅立たれたけれども、真の父母の勝利圏は私達の良心の中で生きておられる真の父母だ、と私は捉えている。人生は魂をして闘いの連続だけれども、御父母様が勝利しておられるのだから良心に従えば問題ないと語られる。どんな苦労も私の心を強くするためのもの、或いは見えない愛を見えるようにするための手段であって、結局は真の父母の勝利圏内のことだから思い切り苦闘しなさいと語られる。戒律の厳しい出家に対して、普通の生活をしている者達への教えとして在家信仰が広まったように、真の愛の平準化、大衆化が摂理の流れとはならないだろうか。祝福家庭はその使命があると私は思う。在家信仰として、生きて生活する中に信心さえあれば浄土は約束されているという浄土真宗を親鸞が開いたように、真の愛の実感を生活の中で受け取れれば地上世界は大きく変わるはずだ。真の愛の革命が起こる。この苦悩の向こうに何があるのか、苦悩故に見えてくる光があれば、苦悩は希望的に超えられる。

2021年11月5日金曜日

今日の想い 1119

 感触への衝動があり色や形への憧れは確かにある。この目でなどりこの手で追いたい。しかしこの純粋らしい欲求に絡みつくありとあらゆる邪気が蠢いていて、もし願いを適えたならこれらの邪気が私を蝕む。感触を通して押し寄せ、私の霊の感性を取り込んでいく。適えた時点で消え去る幻がある。高揚の幻、そしてエロスの幻。ひとつは飛翔し、ひとつは地を這う。感性が奪われてしまえばそれらは幻となって消え去る。薬や交わりに直接かかわらなくとも、その幻は常に私に付いて回る。幻が消え去ると憧れは色あせ、味気ない現実に佇む。砂を噛むような現実空間の中に人々は嘘笑いの日々を送る。自己の境界を超えることができない者はそのような地上地獄に生活している。しかし同じ現実空間の中に棲みながらも、五感を超えた感性を獲得した者がいる。幻を追わずに真実を感じる感性で天国を築き、同じ現実空間でありながら地上天国に生活する。五感を超えた感性は霊の感性、真の愛の感性。それは結果の世界ではなく原因世界に身を置くことで得られる感性。私自身が原因になること。私自身が原因存在として愛の基、愛の恒星となること。天から試練を受けるのは自身が愛から発し愛を相続したものかどうか、その疑いをかけられた立場だけれども、その蕩減的位置を超えて創造的位置で自由に自らの愛の光を発する位置で、天に期待を持たれて待ってもらえる時代に立っている。束縛なく自由に愛を与えられる時代でありながら、与えることに躊躇する者は、先天時代に足踏みしたまま地上地獄に継続して棲み、嘘笑いしながら生活している。

2021年10月26日火曜日

今日の想い 1118

私達が装う衣服や装飾は、過去の人類の形状と関係している場合が多い。神様は天地創造の時と同じくして人間の創造を開始されたのであり、鉱物的光の存在から植物存在としての人間の時期があり、そして動物存在の在り様を経て現代の人間存在の形状を取っている。動物創造の時代、人間は爬虫類のような形状を備えた時期もあったし、更に遡って植物創造の時代、人間は植物形状を備えた時期もあった。根である頭部を地中に埋めて、枝である四肢を空中に伸ばして活動していた。もちろん地球の様相も現代に至るまで変化してきたのであり、埋めていた当時の地中は光が濃縮されたような状態だったし、空中は未だ霊界地上界の境界すら明確でない混沌状態にあった。今の植物は形状に於いては人類の先祖にあたるというのは正しい。女性が装うスカートは実はこの植物時代の様相を表していて、降り注ぐ光に向かって花弁を開く花とスカートをリンクさせている。花が咲けば雄しべ雌しべがその役目を果たせるように、スカートは成熟した処女の在り様を表現している。雌しべは体中深く子宮の入り口である子宮頚部へと、人間的在り様にまで進化させているが、基本は植物の上下をひっくり返したのが人間だ。植物は自然の愛である光に向かって花開き、女性は真の愛を受けるべく花開く。

2021年10月23日土曜日

今日の想い 1117

 ユクムソクという障害のある夫婦の話が「平和の主人、血統の主人」の中に出てくる。御父様が住んでおられた村で暮らしていて、女性は足も使えず腰も伸ばせないが、目と耳と口は正常、男性は目が見えず、話もできず、手足も不自由で座ることもできない。そのような二人が結婚して、ある11月雪が降り始める前に、二人が御父様の故郷に訪ねてきて、松の木陰の夕焼けのとても暖かい所で、二人で食事を取りながら、二人で寄り添って座り、喜びながら眠りについて、そのまま逝った。障害があったとしても結婚して一緒に暮らせば天の国が待遇してくれるという一つの例として、絶対「性」の重要性として話されたのだが、この二人を見る御父様の視点の素晴らしさが伺われて大好きな個所のひとつだ。おそらく普通の人であれば、何とも切なく可哀想で同情心を誘われるのだろうが、御父様はこの二人を可哀想だとは思っておられない。それは「喜びながら」と表現されているように、そこに夫婦の愛の喜びを他の感情の何にも増して見ておられる。神様が抱かれながら天の国に迎え入れる、その夕焼けに照らされる寄り添う二人を想像すれば、どれほど夫婦愛の美しさを御父様は二人に見ておられたのだろうかと思う。イエス様が道端で腐ったロバの死骸を目にされたとき、剥き出しの歯の白の美しさに感動されたという話とリンクして、対象の何に相対するかは主体がどういう存在なのかによるのであり、御父様が愛の理想に貫かれた御方であることをこの話は証明している。

2021年10月21日木曜日

今日の想い 1116 (真の愛とは)

 御言葉を読めば真の愛と生殖器とが大きな関わりを持っていることがよくわかる。関わるどころか、夫婦で一つになった生殖器こそ真の愛の本宮と語られている。真の愛の本宮、生命の本宮、血統の本宮、更には良心の本宮とまで語られている。これほどの生殖器をアダムエバは誤用したのであり、生殖器を荒らしたルーシェルは神様にとっては許しがたい姦夫ということになる。愛という言葉は誰もが知って使ってはいるが、しかしその概念はどこまでも抽象的であり捉えどころがなく、実体的存在感として捉えられるほどではなかった。イエス様の愛が霊的に留まっていると御言葉で説明されるのはそういう意味からだ。凹凸が一つになった生殖器こそ真の愛の本宮との御言葉こそ、愛の概念を実体的存在として表されたのであり、霊に留まっていた真の愛を地上に取り戻した人類歴史上最も画期的な愛の革命だろう。博愛はおそらく兄弟愛の進化形で、兄妹の関係からより深い関係性に入ると目をつぶって関知せずとなるが、一線を越えると神様が関与する愛というよりサタンが関与する愛と見たのだろうか。性欲という我欲が関与するのでそうなるのだろう。新約的には夫婦間に夫婦の愛というより兄妹の愛、博愛を暫定的に関わらせているように思う。コリント第一に「もし自制することができないなら、結婚するがよい。情の燃えるよりは結婚する方がよいからである。」とあるように、新約は結婚を奨励した位置にはなく譲歩した黙認に近い。夫婦の愛、さらには真の愛を人類全体として獲得するには、まだまだ神とサタンの配下達との攻防が祝福家庭の中ですら、いや祝福家庭だから尚更展開されるのだろう。

2021年10月20日水曜日

今日の想い 1115

 一通りその日の復興会講義を受けると、外は既に暮れていた。兄弟姉妹の明るい声が響く教会を後にして、途中で降り始めた冷たい雨に濡れながら、小汚い四畳半のねぐらに向かってトボトボ歩いた。孤独感が押し寄せて涙を流しながら、天の御父様と呼び続けてみた。そうすると御父様は私の身体に入られた。入られて思いっきり嗚咽された。天の御父様は私を通して涙され、私を包んで雨の涙も流された。これが私の聖霊体験だった。それ以来そんな体験は一度も無かったけれども、あの時この道こそが私の道だと確信した。その意味では私の入信動機に原理の真理は二の次だった。罪の認識もなかった私に罪を自覚する過程は献身してからであって、ただ生きることの意味も解らず怖く、死ぬことの意味も解らず怖い、やもすれば魂を分裂させる脅しの霊に憑依されて苛まされるだけの私だった。女性になどフォークダンス以外手に触れたこともなかった。罪からの救いを求めたわけではない。貧しい家で親は喰わせるだけで精いっぱいだった。食わせてもらったことが感謝だしそれが愛だといえば言えるのだろうか。その年代の親は多くがそんなものだった。しかし親の愛に包まれて育ったという感覚は薄いように思う。そんな親が私の苦しみを解決して安らぎを与えてくれるとは思わなかったからだ。親が初めて真摯に私に向き合ったのは教会に献身すると告げた時だった。親にしてみれば息子に捨てられ、教会に奪われた想いだったに違いない。その意味では私ならずとも食口は親に対して罪を犯している。私は信仰をもつことでもはや霊に苛まされることはなくなった。生きることの意味、死ぬことの意味もある程度理解して安らぎは勝ち取った。教会との出会い、祝福を戴いた御父母様との出会いは私を生まれ変わらせた。この事実は否定のしようがない。年老いた親は昔のことは何も言わないけれども、常におどおどしていた子供だったから私の変わりようには目を見張ったはずだ。今は親の面倒を見ながら、帰ってきた息子が傍らにいることで親は平安を取り戻している。私を受け入れることで親も兄弟も復帰されている。原理も真の父母も、教えたところで理解できるはずはないが、そんなことより真の父母によって生まれ変わったこの私を受け入れることで、御父母様を既に受け入れている。

今日の想い 1114

 1980年代の半ば、アメリカ摂理に投入されるべく多くの食口が渡米していった。私もそのひとりなのだが、その殆どは経済摂理であり水産摂理でもある水産卸業やレストラン業務として全米に割り当てられて送られた。まだ活動華々しい頃でいろんな食口がいたが、相当に頭のきれる者から浮浪者上がりの者まで多種多様に及んだ。あの頃の食口の面々を思い出すと、今の食口と名のつく者達のいかに似たり寄ったりの集まりかがよくわかる。よく言えば平準化教育が為されたということだろうが、悪く言えば飼い慣らされて毒気もなければ気概もない者達の集まりと言える。ビジネス畑に今まで携わってきて、成功してやろうと思えばある種の欲と狡猾さや私こそが正しいと断言する程の傲慢さも必要だとわかるのだが、今の食口にはこれらは最も縁遠い。良くも悪くも強い個性と熱い想いを持っていた当時の食口達はどこに行ったのだろうか。離れたのでなければ去勢され飼い慣らされて今の大人しい食口になったのだろうか。アメリカ入国書類のsex欄にMale,Femaleとある。そこに週一と書いた阿保な兄弟がいたという話、またそれを隣の席の兄弟が見て笑いながら、せめて週二だろうと真面目に提案したという兄弟の話を又聞きし大笑いしたことがあったが、常識もなく頭はそれほどに悪くとも熱情と気概だけは大きかった。昔は多種多様な兄弟がいて、また目を見張るほど清く美しい姉妹もいて、それぞれに希望や夢を語ってそれがまた楽しかった。みんな相応に歳を取って丸く大人しくなってしまったのだろうか。人生の終末期に入り自分の人生を含めて摂理を担い走ってきた総括を、と思ってそうなのだろうか。私だけなのだろうか、今どんな責任者や牧会者の話を聞いても心躍らないし胸の内に届かないのは、、。アボジがアメリカを去られる前にアメリカ摂理の失敗と国の斜陽を語られたのは確かだ。しかし新たなアメリカ中心の世界摂理の明確な話をその後聞いたことがない。Eastgardenで語られた「平和の主人、血統の主人」は、アメリカ摂理の失敗をワシントンDCの大会後の祝勝会で話され、その数日後に語られた御言葉だ。予言とも言われる不可解な言葉が並んでいて、何度目を通しても理解できない箇所が多いのだが、ついて来たい者はきなさい、好きなようにしなさいという、なんとも投げやりともとれる言葉を吐露されていて、この言葉をどう受け取ればいいのか未だに天に尋ねている。

2021年10月14日木曜日

今日の想い 1113

為に生きろと言われて、その意味を問う者は誰もいないのだろうか。為に生きる人生こそが真の愛の人生だとすれば、為に生きるとはどういうことかを追求する必要があると思うのだが、、。人前に立って説教する牧会者のように、愛だの為に生きるだのの言葉を使っていれば愛に生き為に生きている錯覚を覚えて自己満足している浮いた存在になるのではなく、私自身が愛であり為に生きる存在だといえる実体としての真の愛の果実とならなければならない。為に生きるとは与えて忘れることとあるけれども、何を与えるかとなると相手の必要なものを与えてこそ与えたことになるのであって、相手の身にならないもの、毒となるものを与えても与えたことにはならないだろう。親としては子に与えていると言いながら、実は甘やかせていて子に取っては毒になることも往々にしてある。教会活動としてひたすら献金に精を出すことが本当に為に生きることだろうか。祝福を数だけこなすことが為に生きることだろうか。与えることの意味をよくよく学ぶ必要があるのだろうが、正直なところ自分なんかはなかなか学びに至らなくて与えるところまで届かない、との言い訳は通用するだろうか。わからなくともわからないなりに祝福伝道と献金に邁進すべきだろうか。私達は先天時代を通してずっと学んできた。そしてわからないままに活動してきた。為に生きて来たのではなくずっと学んできたしただ活動してきた。数多の修練会に参加し御父様の御言葉漬けで学び続けてきた。後天時代に入りいよいよ本領発揮、与えること為に生きることを実践する時代圏に入ったのだが、さあどうしよう。

2021年10月11日月曜日

今日の想い 1112

 この世にはこの世の倫理的イメージという善人の枠組みがある。それは国によっても違うイメージであり宗教によっても違い、また世代間でも異なるイメージだ。この倫理的イメージという善人の枠組みを外れるときに人は批判的になる。しかし人が批判的に見ることが神様が同じように批判的に見るかというとそうはならない。統一教会にも特有の倫理的イメージがあり、それを神様が捉える善人の枠組みだと信じている。それは統一教会特有の神観であり、しかしここが重要なのだが、御父様の神観は私達教会食口のそれとは異なっている。そんなことはないと言う者は、例えば「夜の神様、昼の神様」という御言葉を理解しようとしないまま無視したままでいるのはどういうことか。複数であるかのような神様を受け入れられないし、ましてや両者の間に闘いがあったことなど全く受け入れられない。み言葉が素晴らしいのは、変えがたき経典としての御言葉ではなく、川の流れに例えられたように、御言葉そのものが形を変えて変化していくことを内包しているからだ。変わっていく御言葉の器を通して絶対不変の真の愛を学べる御言葉だからだ。倫理的イメージを固定化させ絶対視すべきではない。善人の枠組みを固定化させ絶対視すべきではない。私が自分の良心に問うて最も取り払うべきは教条的な信仰観だ。先天時代の、あの厳しい取り決めの枠に抑え込んで自分の信仰を繋いできた私が、後天時代に入って解放されるべきは先ず教条的信仰観からの精神的自由であり解放だ。先天時代の信仰を堕ちず離れず死守してきた食口は、その土台の上に、宗教を超えた位置で後天時代を迎えるべきだ。もはや凝り固まった倫理的イメージに左右されず善人の枠組みを超えて真の愛を求めるべきだ。あれほどに放蕩三昧されてきた御子女様を御父様はどう受け入れられたのか、更に天国の門番の位置まで与えられた意味を問うべきだ。御父様は倫理的イメージに左右されてはいない。であれば私達は二世に対してどうあるべきか。少なくとも受け売りされた信仰観を押し付けて神の愛だ親の愛だと強要すべきではない。

2021年10月8日金曜日

今日の想い 1111

 お互い知らない者同士がマッチングされて結婚に至れば、感情からではなく先ず夫婦一体の形から入り、夫婦愛の本質は一体の形の中に見出していくことになる。相手が自分の好みではないとしてもそれを抑え性を立てて夫婦一体の形から入るのだが、感情に囚われての性の使い方ではなく、み旨への思考から性を使っている。それは血統を重要視する父母様と、そして子女である私の関係という子女の愛を立ててのことで、そこにはみ旨要求の意味はあるとしても、夫婦の関係である夫婦の愛を立てての行動ではないことを認識すべきだろう。遠回しではなくストレートに言うと、食口の女性は美しくないし愛の行為に重きを置いていない。敢えて言えば夫婦の愛を蔑ろにしている。祝福カップルは別れないことを当然のこととしているから、夫が妻に対して異性としてどう思っているかは妻は差ほど関心もない。かえって夫の性への欲求を罪とみて否定する妻が多かったりする。罪は行動そのものを言うのではなく方向性を間違えているから罪なのであって、妻の美への追及心のなさや淡泊な行為を何とも思わない方が、夫の男性としての存在を無視し夫婦の愛を蔑ろにしているという意味で罪ではないだろうか。離婚率の低さを誇るとしても、その理由として夫婦の愛が強く働いていてそうなのか、それとも離婚は罪だから仕方なくなのかよく見る必要がある。私とすれば食口である夫は信仰の理屈と妻の態度から男の性を去勢され、夫婦の愛を培い夫婦一体からの主体対象授受作用による創造的夫婦とはなりにくいと思っている。しかしだからといって離婚したほうがいいと提案するつもりは全くない。いつも考察する時に根底に置くべきは霊的な観点に立っているかだ。この世とはうらはらに性の解放を抑えられることでこの世の男性以上に性を考えるのでありその意味を問うのであり、夫婦愛の究極の形としての性への理想追及力を自ずと募らせる。その力は霊的な力であり愛の本質、真の愛を理解し求める力だ。今は視覚的であろうが五感的であろうが性は安売りされ簡単に手に入ってしまう。しかし簡単であればあるほど、その本質は逆に遠ざかる。

2021年9月30日木曜日

今日の想い 1110

このような観点から見るとき、みなさん自身は信仰の道に入ってきて、自分の新しい生命が発生するのを感じ、喜悦を感じ、新しい希望を感じるでしょう。「私はこのような木になり、このような人格者になり、世界の前にこのような存在になる」という決心をして立ち上がったその日からは、秋の収穫期のために準備するすべての内的な要因が、絶えることがあってはいけません。(第6章 我々と霊界の立場 地上生活と霊界より)

自分の中に新しい生命が生まれたことを認識できないのなら、何のための信仰の道だったのかということになるだろう。新しい生命は霊の種から生まれるのであって、信仰の道を通して(あるいは祝福をとおして)新しい生命の種を戴いたということだ。この新しい生命が存在目標の決心をして、結実するための内的要因を準備していく。一世であればだいたい60を超えているだろう。信仰の道を歩んできた人生の終末期に於いて、結実した人格をどのように見ているだろうか。ほぼ無駄骨だったと溜息をつきかすかすの実を露呈しているのか、騙されたと恨み辛みの悪果なのか、多くの人生教訓が身になった善果なのか、はたしてどう自分が判断し神様が判断するだろうか。献金もしっかり納め先祖解怨も祝福もした、摂理といわれて全てを捨てて投入してきたし道を外すこともなくだめだと言われることは遠ざけて守り抜いた、しかし私は自分も認め神様も認める善果なのだろうか。先ずもってどのような人格を備え世界の前にどういう存在になるという願いが本来あって願いへの決心があったのだろうか。ひょっとして惰性で流されてきた自分ではないのだろうか。惰性こそが堕落だといわれるのではないだろうか。このみ言葉は「人生の結実と生霊体」の最後にあり、「審判と公認」がその後に続いている。様々な問いや思いが出てくるのは当然で、私の中の御言葉が私自身を審判している。み言葉審判、実体審判、そして心情審判とあるが、三大審判を通過し得てこそ神様が取れる善果ということになる。

2021年9月20日月曜日

今日の想い 1109

 自我の在り様から近代史を見たときに、かの敗戦という事件以上に日本人に影響を及ぼした事件は他に見ないだろう。明治政府が立って西洋化近代化し、文明開化と言われるほどに様変わりしたのは事実だが、しかし自我の在り様がそれに伴って様変わりしたとは思わない。戦争に突入した時、一億総決起、国民一丸となって鬼畜米英に立ち向かった。それは国民それぞれに様々な思いがありながらも、国家権力に押しやられてのことであって、国民は被害者だったと言いのけることができるだろうか。事実は日本人の自我の在り様は上に倣え右に倣えで、特別に意見や思いを持つまでもないというのが日本国民大方の意識だった。それは先天時代の日本食口の在り様とよく似ている。しかし敗戦で日本人はそれまで思いだにしなかった、天皇は人間天皇だという認識を持つようになる。日本国憲法第一章第一条に謳われている、天皇は日本国民統合の象徴とあるように、神聖であって不可侵である天皇に主権があったのが突如として人間天皇になり国民に主権が在するという、日本人にとって私という意味が全く変わってしまった。それこそが敗戦の意味であり、日本国民は鬼畜米英によって自我を開放されたことになる。もちろん米英がそう仕向けたのではなく結果的にそうなったのだが、背後に日本人自我解放の天使軍が働いていたからこそだと捉えるのは、霊界を信じる私達にとって当然だろう。歴史を表面的になぞるだけでは背後の位階の高い霊的存在達の駆け引きは見届けられない。しかし後天時代に入り、良心の声が強くなり、自我存在だという認識が益々無意識圏から意識圏に引き出されれば、背後の霊界の動きが手に取るように理解できるようになるだろう。

2021年9月19日日曜日

今日の想い 1108

人間の本能として食欲、睡眠欲、性欲がある、というのは唯物論からくる説明でしかないから、思考する意味があるのかどうか疑っていたが、実は意志との関わりで欲望は否定しようにも否定できず無視できない。食欲は生命体維持のためであり、睡眠欲は魂体維持のためであり、そうなると残る性欲は自我の維持に関係している、というのは仮定として十分成り立つ。欲は主管すべきものであっても否定されるべきものではないはずだ。如何に食べるか睡眠を取るかであるように、如何に性欲と関わるかが問われることになる。殆どの先進国と言われている国々は一夫一婦制を取っている。しかし世界には一夫多妻制もあるし少数派であってもその逆もある。更にヒッピーがいうようにフリーセックスで夫婦制を否定する者もいる。更に混乱を来すのはホモセクシュアルやレズビアン、ジェンダーフリーという問題も相まって性の在り方は混沌状態だ。性でこそ新たな自我の創造はなされるけれども、人間堕落の原因でもあるという複雑な背後が性欲に関係している。食口でさえも一人の相対であるとか相対以外との関係は持たないとかという、禁欲であったり教条的なことでしか性欲を取り扱わないけれども、性に関係することはある時から最も重要な御言葉だという認識はあった。ある時から御父様の御言葉はほぼ性に関することだった。それは自我の維持と成長に大きく関係しているという仮定が正しいことを証明していないだろうか。良心の働きを自らの中に活き活きと実感する時代は、良心を通して人間は自我存在であること、更に自我と性欲と愛の三つの関係性を見通すことができる時代だといえるのではないだろうか。自我と性欲だけではなく、自我と愛、愛と性欲の三位一体の関係性で立てる新たな堕落のなかった人類を後天時代に立てようとされている。ただ表面的に言われたことに終始することで御父母様に侍ることとする盲目的私ではなく、良心の声に侍れば摂理観は自ずと立つのではないだろうか。

今日の想い 1107

 私達の祈りは祈りの体を為しているだろうか。祈りは神様との対話だ、と御言葉にはあるけれども、聞いてもらえている感覚がなくては一方通行でしかなく対話とはならない。祈っている形だけとり信仰の基本としての祈りを供えているはず、と思っているけれども、形だけの祈りは祈りではない。祈りを忘れず神様との対話をしてきた私を自分に見るのか、或いは祈ってこなかった、すなわち神様との対話を積み重ねてこなかった事実が私の現実としてあるのか、果たしてどちらだろう。祈りと実際の行動との差異が激しいと祈りは実現できないものという意識が根底で働き、意識が益々教条的方向に向かい霊的な出会いはなくなっていく。人間としての本当の喜び、人間本来の願いは霊的なものであるのに、地上的なものの獲得や堕落に根差している感情を満足させることにしか意識が向かわない。祈りの本質を取り戻すためには、敢えて祈らないという選択も必要なのかも知れない。御父様もまったく祈らない期間があったことを述べておられたが、それは祈りの本質を取り戻すためだったのだろうか。後天時代が良心の時代であるなら、祈れば良心の声が益々響いて私を導いていくはずだ。知的論理が神の如く個と全体を導いてきた近代だが、祈っても会話にならない悶々とした時代から、良心の声と対話できる時代となればどれほど摂理は進むだろう。

2021年9月17日金曜日

今日の想い 1106 (我思う、ゆえに我あり)

 我思う、ゆえに我あり。誰もが知っているデカルトの言葉だ。自分は本当に存在しているのか、私はなぜここに存在しているのか、等という問いを持つ自分が前提で問うているのであり、問う私という存在は否定できず存在しているという説明であっているかどうか。人智学によれば人間は肉身、生命体、アストラル体、そして自我という四世界にまたがり存在している存在だということだ。肉身世界のみに存在しているのが鉱物であり、生命世界までまたがる存在が植物であり、アストラル体(魂体)までもまたがるのが動物であり、そしてさらに自我、私という意識をもつ存在が人間となる。アストラル世界でも動物の魂体と人間の魂体は在り様が異なり、人間は自我存在を担う魂体を備えている。歴史を遠く遡ってみたとき、私と言う概念、私という言葉が出現した時点があるはずだが、人間の肉体の進化状況と社会性(魂)の発展段階からして私と言う概念は長い創造歴史全体の最終部分に現れたと思われる。キリストが現れる以前に私という概念は希薄だった。人間始祖の堕落によって自我を備えるに長い復帰摂理歴史を必要とした。キリスト以降、すなわちAC時代こそ私という概念は急速に明確化されるようになる。人間進化といってもいいと思うが、人間本性の復帰にキリストは切り離せないことがわかるし、自我の確立はキリストによってもたらされたと言える。そして後天時代に入ればこの自我が更に明確になり更に成長するようになる。御父様が原罪をもって生まれたかどうか、メシヤという存在なのか、人類に救いをもたらしたのか、様々な問いが投げかけられるが、しかし問題はそう問う私という存在は何なのかということ。我ありは当たり前で、更にどう或るのかということが問いを投げかける前に問われることになる。

2021年8月29日日曜日

今日の想い 1105

 人類歴史は楽園追放から始まって、原因が自身によるもの他者によるものに関わらず、降りかかる問題の解決に汲々としながら歴史を紡いできた。今現在も刻々と降りかかる問題に対処するために時を刻んでいる。問題があるという現実は堕落の原因によるものかもしれないが、その現実自体を善悪の道理で判断してもそれは解決の道筋とはならない。現実という結果は現実であって時間を遡らないかぎり実世界からは否定のしようがないからだ。原理脳の食口は理由付けはしても実世界から逃避していて現実を受け止めていない。私達の中には欲望がある。それが堕落的に思えるようであっても事実存在するのは否めない。どれほど否定しようとしても否定できないのなら、抗うことだけに終始するのでなく現実を受け止め、欲望をして如何に摂理に貢献できる自分になるかに意識を向けるべきだ。触れずさわらずの性欲、情欲に対しても同じで自分の中に事実あると認め、はなから否定するとしてもあるという事実は否定のしようがないので、であれば良心と相談しながら少しでも良心の願いに応えられるよう、如何にしてこの欲望を使うかだろう。後天時代は二元論では先に進めない時代だ。善が悪になり悪が善になりうる時代で、それを表面的に見るなら善なる神が働いていないような混乱と混沌にしか見えないが、良心に働く神は益々その形を現すだろう。このコロナウィルスの蔓延が人類の良心を触発するかもしれない。遠からず来るであろう、自由主義資本主義世界を一瞬で崩壊しかねない金融経済ショックも人間の本質に立ち返らせる良心を触発させるかもしれない。これらのことは私の中では既に見えない事実として実感している事柄だ。これから御言葉が神様の福音としてその価値を発揮する。み言葉を教条的に捉えることはやめてその本質を尋ね関わる食口こそが神の摂理に選ばれた者達だろう。

2021年8月15日日曜日

今日の想い 1104

 この困難な時代を生き抜くには、生きる指針となる霊的支柱が必ず必要になる。今までは体が主体であったから、生活の安定やより肉体的喜びを求めていれば信仰を持たずとも地上生活はそれなりに成り立った。しかし多くの者達が知らない、食口さえも認識の薄い事実がある。それは先天時代から後天時代へと天宙史的大変革が為されたということだ。その人類としての意味は体主体から霊主体に変革したということだ。霊主体になるということは体の側からの認識をいうと地上と霊界が隔てられることなく直接つながったことを意味している。胎児は母体という壁を隔てているので外界の影響を直接受けることはないが、その壁が透明になり薄くなることによって影響を受けてしまうように、天宙の母体であるガイアという地球はその在り様を一変させて霊的影響を受け入れやすくなる。胎児は肺呼吸を初めて肉的五感を開かないと外界に対応できずに影響を不都合に帯びかねないが、この地球の変革期に於いても霊主体を受け入れなければ、この変革のなかに不都合なまま放り込まれて不自由に暮らしてしまうだろう。時代が様変わりした、体主体から霊主体に生まれ変われ、という声にならない天の忠告は、自然現象や起こっている事柄を通して天使が喇叭を吹くように叫ばれているのであり、祝福を通して新しい霊を戴いた食口であれば当然誰よりも早く認識できるはずだと思うのだがどうだろうか。地球の状況、社会の状況を俯瞰して見ながら、霊的に見通すアンテナと触覚を用意して、自分の生きることの意味と使命を受け取って、この時代を切り開いていく必要がある。

2021年7月23日金曜日

今日の想い 1103

食口は責任感情の無さが肌に染み付いている。一方でアベルとされる中心者に対して絶対服従、悪く言えばイエスマンであることを当然とすることで、一方でそれは自分の意志に蓋をしてきたということであり、自らの意志による思考と行動の結果でないものには責任感情を持てないのは当然だろう。教会関連の事業がことごとく失敗してきたのは、そんな私達の信仰の在り様からしてさもありなんということになる。私が長く携わってきた店も統括するレストラン部も、目標だけは立てるもののそのビジョンや数値に対して責任感情を抱いて熱く目指すということにはならない。本心を尋ねれば、言われるから出しましたが何か?と冷めている兄弟しかいない。それはお前だけだろうと言われても仕方ないし、実際それに近いことも言われそんな視線の中で歩んできた。私達の中には何の根拠もなく、必ず成功するはず必ず摂理は為せるはず必ず賛同者が爆発的に増えて統一信仰が世界的になるはず、としてすべてに於いて盲目的な未来像で魂を満杯にしている。この食口の体質、というか魂質はそう簡単には変わらないだろう。しかし私はこれまでの歩みを悲観的に捉えるつもりはない。我々一世世代での変革は無理だとしても世代を二世三世と繋いで変わる必要がある。私達のイメージしてきた祝福家庭像、二世像、地上天国像等々がどれほど単純で稚拙なものかをここまで歩んできてやっと思い知るが、しかしどんなおとぎ話のようなイメージであってもそれで霊的腹を肥らせてきたのであり(教育されてきたのであり)、この世から浮いた次元世界に集められた者達がその中で霊的栄養として培ったものが確かにあるはずだ。頭脳の明晰さや実現への行動力はこの世の者達からは遥か劣るとしても、堕落を超えた新しい人類と創造的人間性を培う霊的中心核を戴いていることを忘れてはならないだろう。祝福を通して戴いたその種こそが神様の精子だと私は確信している。世代は何代か経なければならないとしても、必ずや実体的影響を地球村と世界人類に及ぼす存在は私達の内から創出される。訓読を通して流れる御言葉は、支流を経ながら統合されていき、御言葉が新たな地上的言葉を産み出す訓読大河となる。私達の言葉はより強くより深くなって、世界に大きな影響力を及ぼす創造的言葉に必ずなる。敢えて言えば私達の世代を経ながら、喉と口に神様の創造力が備わる。

今日の想い 1102

摂理として数え切れないほどの事業を立ち上げられた。しかしそのうちのどの事業が生き残っているだろうか。立ち消えになり忘れ去られた墓標ばかりが積み重ねられたまま今に至っている。手を付けて立ち上げることだけが御父様の責任であり、育てて大きくするのは私達食口の責任だと言われれば、それもまたどうなのかと首を傾げる。霊肉の逆説関係からすると、この世の失敗はあの世の成功につながることを意味しているとすれば、手を付けるもの手を付けるもの悉く失敗しながら、内的霊的に立てるものを用意してきたともいえるが、しかしそれは完全投入すればこその逆説関係であり、はなから責任も取らず内外の犠牲として投入するのでなければ手を付けられた意味はない。献身者は御父母様の手足となるべく指令する思考の部分を委ねて歩んできたが、創設に対する願いや想いを亡き御父様から相続してやり遂げる意志を持たない限り御題目のままで終わってしまう。従業員からマネージャーの目線、さらにオーナーの目線へと携わる者達が段階を上げていかなければ、どんなに資金を投入した事業も消えてしまう。それなりの社会的目線をもつ普通の従業員ならまだしも、思考なしの言われることだけに専念する機械的働きに終始してきた食口では、不思議なまでに掲げられた題目のみを唱え続けるだけで、この世に合わせ変化にあわせた変革の力をもった事業にはなり得ない。それどころか投入した資金をどぶに捨てて平然としているし、何の負債も責任感情も覚えない。事業に関わっていれば本当に奇妙な群れであることがよくわかる。責任という言葉の概念を持ち合わせない私達が、これからどうすれば獲得できるかを尋ねていかなければ、私達は失うばかりで次世代に相続できるものはない。

2021年6月8日火曜日

今日の想い 1101

 人間は興奮を求めて喜ぶ存在だ。反社社会で血を求めるのも、たとえ不倫だとしても情愛に溺れるのも、より興奮を求める人間存在の故だ。それは私がそう思う以前に、訓読会で御父様が話された言葉でもある。遊園地の乗り物が危険本能を起こさせることで興奮を覚え喜ぶように、反社も不倫も肉的危険と霊的危険により近付けることで、生きることの興奮を覚えている。彼等は後にはもといた安全圏に帰ってこられると自分を信じているが、しかし普通の人間は気付かぬうちにのめり込み後戻りできなくなってしまう。この興奮体験を求める人間の性質は、偽りの愛という愛の裏の面の獲得を目指している。求める愛の方向性が異なっている。ヤンキーが改心したら途端に表舞台で秀でた実績を上げるように、下半身がだらしない者が芸術や政治の分野で頭角を現すように、求める意志の強い者達が一方では地獄を、その一方では人間理想に突進している。出来たばかりの水産部に人事になったとき(回されたとき)部長も筋ものだったが、集められる兄弟も一癖も二癖もある者達が店舗から弾かれるかたちで集められた。しかし従順で素直な店舗の兄弟達を見るより、人間観察にはもってこいだった。自分も含めて様々な人間模様を見ることができた。怒りを抑えきれず包丁を振り回してチンピラ映画を地で見せた兄弟はどうしているだろうか。お互いの相対者を振り向きもせず駆け落ちして離れた兄妹ふたりは未だに一緒にいるだろうか。一方ではどうしたもんだろうとも思ったが、正直なところ彼等が羨ましかった。それだけのことをやってのける意志というエネルギーを内面に燃やしているのが羨ましかった。メラメラと燃える魂にこそ悪神であれ善神であれ働く。去勢された牛のように魂が冷えている者達に、摂理を担うほどのエネルギーは本当に残っているだろうか。

2021年5月22日土曜日

今日の想い 1100

 昨晩から、ある姉妹に投げかけた言葉とその反応がぐるぐる胸の中を巡って消化できずにいる。川の水の流れが淀みに差し掛かったところでゴミが堂々巡りしている、そんな感覚だ。随分昔のことなのだがそれでも時々頭をもたげでは私の気分を重くする。それは相手方から久方ぶりの電話がかかってきてやり取りしたときのことで、以前の最初の出会いはかれこれ30年も前のことだ。彼女が家庭を持つために日本からエリアにやってきて、私がマネージャーで勤務している店で暫く働くということで面倒見て欲しいということだった。男性とは結構障害なしにやり取りできるが、私の言動や態度に問題があるのか女性とはどうもうまくいかない。彼女もそのうちの一人だったが、何とか附かず離れずで夫の勤務している姉妹店に送った。以来夫婦もあっちこっち人事で移動しながら、電話がかかったときは自分の店を持って夫婦で営業している頃だった。久方ぶりの電話での相談は従業員とうまくいかずどうしたらいいか、というようなものだったと思う。私は咄嗟に軽い冗談で貴方も大変だったと、つかみのつもりで口にしたのだが、笑ってくれると思っていた反応とは裏腹に相手は黙りこくった。私のその一言で一瞬で凍り付いたのは受話器を通してわかった。そしてその状況を修正する言葉も見つからないまま、相手はどうもすみませんと言葉を残して電話を切ってしまった。あれから電話もよこさないし、夫である兄弟にニューヨークの集会で会うような機会もあったが、何か避けられているようで挨拶もできずじまいだった。そんな自分の自覚なしに相手を傷つけた経験は数度ある。もちろん皆女性とのやり取りだ。家庭をもった最初の頃、妻との間にも何度もあってその度に一週間にわたる無言の冷戦が繰り広げられた。それくらいの嫌われ愚痴は十分許されるほどにお互い胸を開いていると、等閑な言葉で薄っぺらい会話なぞしたくないと、こちらはそう思い込んで口を開くのだが、相手の胸はフィルターがかかっているらしく一気に固く閉ざされてしまう。しかしこれが相手が韓国人だと状況は異なり、そんな陰険さは感じたことはなく、逆に私以上にずけずけとものを言い入り込んでくる。人によると思うが、日本人の心を開くのは一般的に難しい。海外で営業している店舗で敢えて日本人を雇おうと思っている店主は少ないはずだ。ずけずけとものを言えないからだ。日本人なりの外交があるのか韓国に対して日本は変に遠慮して距離を置いている。ずけずけとものを言ったらいい。陰険にも取られて黙りこくっているものだから余計にあらぬ事実まで叫ばせることになってしまう。気まずい関係のままにしている数々の負債を、これからどう清算したらいいのだろうか。

2021年5月20日木曜日

今日の想い 1099

 天地と言う場合、天が男性的であり地は女性的だ。歴史上の預言者達は天の神霊を受け取るために内的には受動的な立場である女性、すなわち聖霊が彼等に作用している。だから神霊を受け取ることができた。キリスト教でもイエス様が召されてのちマリア信仰に重きを置かれた。それはイエス様の霊を愛し受け取ろうとすれば、聖霊的要素を自分の中に組み入れないとイエス様が訪ねられることはないからだ。御父様が実体御言葉であられ御母様は聖霊実体だという理解はあるものの、神霊となられた御父様と相対基準を為して受け取ろうとすれば、御母様信仰を通して聖霊的要素を組み入れることで、私の中に御父様の霊を受け取れる聖霊の基台をつくらなければならない。しかし御母様信仰が、ただ御父様を排して御母様を奉るとなると、方向性としては異なってくると思われるのが私が憂慮していることだ。御父様が勝利されたのは御母様が相対として立たれたが故だ。今の現実的表象がどうあれそこに疑いを持つべきではない。私達の御父母様に対する中心的想いは、霊的に勝利された御父母様であり、現実に見える仲違いや否定、たとえそれが言葉や表情に出されたとしても、それらは積み上げられてきた霊的勝利圏を瓦解させるものではない。食口は今の状況をどう捉えるかだが、敢えて一言提言するとすれば、現実的(地上的)御母様を通して霊的な御母様、すなわち聖霊実体を認識することが天の願いだということだ。霊的無知な存在が霊的な聖霊実体をそのまま認識はできない。現実をとおして霊的な事柄を見聞きしようと思えば、現実を霊的な逆説と捉えることで認識の入り口に入ることができる。何度も例にとっているが、癒えぬ病気を通して健康な時とは次元の異なる健康の有難さを知るようになる。健全者にはけっして到達できない健康に対する感謝の意志を発する。その意志で霊的な健康体を作っている。地上と霊界の逆説的意味はこの例だけに留まらずあらゆる状況に当てはまる。霊的には目に映る御母様御自身が問題ではなく、逆説的に御母様への思慕を自らの意志として育てるかだ。御母様どうされましたかと、嫌われても訴えるほどの愛する意志を育てることだ。

2021年5月11日火曜日

今日の想い 1098

 私達は様々な信仰的枷を自分に嵌めることで、内面の霊的働きを際立たせてきた。信仰的縛りをかけることで、それまで芽生えることのなかった霊的感性を呼び起こしてきた。人類はコロナ感染の蔓延で、図らずも行動規制という枷と縛りで、人類の心魂の在り様を否が応でも問わざるを得ない。人類歴史のこれまでの、特に近代歴史の総括を行動を止めることで強いられている。感染率、死亡率からしてもインフルエンザにも劣るのに何故これほどに規制されなければならないのか、そういって非難し規制を取っ払うように働きかける者も多くいる。経済活動が思うようにいかなければ困窮者も増加するだろうし、それゆえの自殺者も増えるだろう。しかしだからといって規制を取り払ってもコロナ以前の世界にはもう戻れない。人類はこの枷と縛りを甘受しながら、コロナ以前とは異なる新しい価値観、死生観、信仰観、哲学を備えて、コロナ以後を生きていかなければならない。いよいよ我々の時代だと言われればその通りなのかも知れないが、少なくとも御言葉を新しく読み直しながら、私達に於いてもコロナ以後の御言葉理解が要求されることになる。今までは字面をなどっただけの偽りの御言葉理解を、これから本当の意味で御言葉を理解していく食口こそが本物だろう。これからどれだけの年月がかかるか知れないが、これからの歩みこそが祝福家庭の本質的歩みと言っていいと思う。少なくとも私達は原理で語られる神様の存在(概念、ロゴス)を捕らえている。その理解の深みがどうであっても1と0では根本が異なる。霊的見地に立てばそれは有精卵と無精卵の違いだ。祝福家庭は霊的有精卵だ。その意味で私達は血統が異なっている。新天宙での新しい世界観は私達からしか創造されない。独善的にこの世を遺棄して歩んできて、何らの実績も何らの力もないかに見える私達であっても、それでも私達の霊人体に印を押された存在であることは霊界が否定しようがない。私達から何らの世界観が創造されないなら、この地球村と人類は壊滅せざるを得ない。人類にとっての絶望と希望を一手に引き受けているのが私達祝福家庭だ。その恐ろしいほどの自覚を私達の誰が認識しているだろうか。

2021年4月19日月曜日

今日の想い 1097(生殖器の主管から口の主管時代)

 現実という今の結果をみれば、人類は罪のない正しい存在だとは決して言えない。同じように食口達の実態という今の結果をみて、祝福を受ければ罪のない存在になったとは決して言えない。三分立しているだとか、御母様に従うとか従わないとかそんな外的なことではなく、心の様相を見るべきだ。他体自覚を備え他の為に生きることを善しとする良心が活き活きと活動しているかどうかだ。神様の血統圏に組み入れられたなら人類の救いを願われる想いも相続しているはずが、組織存続と教条的な事柄に汲々とするばかりで、摂理への意志が感じられないのはどういうことだろうか。食口のうちの誰が人類の救いを真剣に考えているだろうか。アダムとエバは罪を犯した下腹部を無花果の葉で覆った。このコロナ時代、人類全てがマスクをつけている。マスクで口を覆うのは、人類が口で罪を犯しているからだろう。神様は言葉で天宙を創造されたように、神様の子女としての人類の使命は言葉による創造理想の完結だろう。下腹部で罪を犯した人類は、如何に生殖器を主管するかが文明の創造と発展につながってきた。科学文明の発展には霊的在り様としてのキリスト教の教えが不可分だった。そのように口で罪を犯している人類は、如何に口を主管し神霊溢れる言葉を創出するかに後天開闢時代の文明創造と発展はかかっている。食口が御言葉を重要視して信仰生活を続けてきたのはその通りかもしれないが、み言葉の本質に関わろうとせずにその鞘をなぞるだけなら、御言葉を受け取った意味は教条的なものに限られてしまう。み言葉に創造の力が備わっているのを実感しながら生きている食口がどれだけいるだろうか。先天時代は良くも悪しくもアダムエバの生殖器の乱用から出発した。後天時代ははからずも私達新時代先祖の口の乱用から始まった。政治やマスコミに代表されるように噛みつき貶めることだけに口を使っている。

2021年3月13日土曜日

今日の想い 1096(原理の主人から愛の主人へ)

愛、愛、本当の意味はわからない、、、
桜井がそう唄うように、愛の正体は見えないし聞こえないし触れることもできないし、自分の中の愛の概念は何歳になっても定まらず、どこの誰よりも愛という言葉を使いながら、しかしその意味がわかっていない。恥ずかしいことだ。社会の進化と発展、大きくは天宙の進化と発展は愛の投入によって為されるというのは原理だろうし人類の直感でもあるだろう。神様が見えないように愛も見えないけれども、結果としての愛の実は対象概念として捉えることができるから、原因的愛は確かに存在している。決して感情を揺さぶるものだけが愛ではないし、愛と認識していないことの多くもそこには愛が内在しているはずだ。困難という結果であっても、それがどれほど厳しくも打ちのめされる事柄であっても、その背後に愛を見出すことを諦めてはいけない。自然の美しさは愛を投入した創造結果の愛の実だろうし、癒しの芸術は人間の愛による表現創造としての愛の実だろう。社会の秩序も理想実現に人間が投入してきた愛の実だとは思うが、そこは未だ修正を必要とする進化段階にある。女の性という存在は男の性にとっては美の対象としての愛の実だ。愛の実の中核が凹凸にあるという言葉は十分に頷けるが、しかし愛の実を無分別に取って食べて味わえばいいというのは、投入された愛を蔑ろにしている。社会秩序という人類の愛の現実に於ける結果からしても、秩序を無視した奔放は投入された愛を無視している。愛の実に対する時、愛の本当の意味を未だ知らないという謙虚さの上に尋ねなければ、その意味をはき違えてしまう。先ほど女の性、男の性としたのは、女の身体だから女性、男の身体だから男性とはならない現段階の摂理的状況があるからだが、思考が柔軟で包容力の高い夫婦を敢えて選んで生まれることを決めたかのように、この時代にLGBT達は多く産まれている。ホモやレズは罪だと問答無用で切り捨てる原理信仰が、彼等の救いに対しては全く無力であることは一目瞭然だ。無力どころか引きずり出して断罪しようとしている。愛の実に関わる性の問題、同性愛の問題を含めた人類の問題に向かい合うとき、真の愛を只の言葉としてではなくその意味を知る大きな試金石として対さなければならない。私達も原理信仰から愛の信仰に蛹を脱がない限り、何度名を変えたとしても独善的カルト宗教として益々孤立化するだろう。確かに宗教と科学は手を組んでこそ人類の希望となり得るが、愛の欠けた論理的原理解釈によって、歩み寄る姿勢が逆に両者を引き離す独善にベクトルを取るとすれば、愛による主管あってこその統一原理のはずが、統一ありきの原理で愛を主管するようになってしまわないか。私達は原理集団を目指したのではなく、愛の群れ、他の為に生きる真の愛の群れを目指していたのではなかったか。いつから原理の剣を上段に構えて同性愛を異質な罪悪存在とする群れ、お互いを断罪する群れになってしまったのだろう。いつから他を蹴落としてまで天国に執着する群れになったのだろう。そんな個人も団体も、真の愛とは程遠く、愛の本当の意味を知らないし尋ねることもない。

2021年2月15日月曜日

今日の想い 1095

 信じているかどうかは自分の行動が信仰が原因になっているかどうかだろう。祈りでは信仰的言葉を連ねているとしても、行動が伴っていなければ実体と乖離し自分の言葉で自分を裁くことになる。食口の中にはそのことに気付かず、落とし穴から抜け出せない者が少なからずいる。御母様に賛美の美辞麗句を並べる以上に、神的存在と信じるならそういう行動、聖霊実体と信じるならそういう行動、人類の母だと信じるならそういう行動を取ることの方がはるかに大切だ。周囲がどう捉えるかが重要ではないし、更に言うなら御母様がどう思われるかさえ重要ではない。あくまで私がどう信じ、その信仰に沿う行動をしっかり取ることこそが意志の発動だといえる。真の信仰は主体的位置でこそ成り立つのであり、自分を救う者は勝手にイメージする神様でもなければ御父母様でもなく、自分以外有り得ない。家庭が大切だと信じるならそういう行動を取るべきだが、家庭をどう捉えるかという概念がはっきりしないと受け売りによるどっちつかずの行動になりかねない。二世教育の問題も実は上からの受け売りで、家庭概念が自分の中ではっきりしていないからだと私は思っている。献金が多いから食口は貧乏で当然だと思っているけれども、お金の概念もわからずにただ入ったものを意味も理解していない献金にあるだけ出しているに過ぎない。神様が天地創造で光あれと言われたように、私の中に意志という光を発行する魂が生きて働くことが後天時代を生きる私となれる。

2021年2月14日日曜日

今日の想い 1094(二世問題)

 神様を直接五感で感じ取ることはできない。しかし信仰対象とする以上神様のイメージを暫定的にでも捉えないと、曖昧なままでは進もうにも進めない。勿論食口は神様を信じているだろうが、そのイメージはまちまちで(イメージは映像だけに拘らない)、その辺から解釈の違いや方向性の違いも生じてくる。先天時代は無知ゆえに中心から与えられたイメージで一括りにできたわけだが、ある程度の成長を心霊に見るようになると、食口達も画一的個性として一括りにすることには無理が生じてくる。信仰二世問題がEテレ番組に取り上げられていたが、二世三世達にとって一世による宗教教育は押し付け以外の何物でもないだろう。親としては信じて疑わないものだから、子供にとって良かれと思うどころか、放っておけば親子共々地獄を見ると思い込んでいて結果、押し付けてでも従わせてしまう。それに対する子供の対処は大きく二つの方向性を辿る。親に沿うために個人的願望や理想を抱くことをあきらめ内にこもり意志欠如の人間になるか、自分の意志を立てとことん親に反発して距離を置く人間になるかその両極に分かれてしまう。前者は最初は親として従うふうの子供に安堵するが後に独り立ちできない魂に苦労する。人生の刈入れ時になってやっと、信仰の在り方自体に問題があるのか、子供に対する接し方に問題があるのか、とにかく何かが間違っていると認識できるようになるが、それでは遅すぎる。アメリカがこの手の問題に差ほどならないのは、個人の意志確立の素地が元々あるからだが、日本はその点、周りに合わせることが個人の意志より重要視され、不幸にして二世の問題を深刻化している。日本食口は母の国の民として摂理に貢献してきたわけだが、そこには個人意志を否定して全体意志を優先する流れが功を為しているが、後天時代、父子協助時代に果たしてその内的スタンスはどうなのだろうか。

2021年2月2日火曜日

今日の想い 1093(資本主義社会の終焉)

 共産主義社会の終焉を20世紀末に見届けた私達は、資本主義社会の崩壊を21世紀初頭に見届けることになる。DSは資本主義社会が産み出した寵児であり、資本が膨れれば膨れるほど市場の暴れ馬を統制すべき何らかの組織が生まれる必要性にかられ、次第にその権力を肥大化させてきた。資本主義社会の温存を望むなら金融という怪物を市場に放つべきではなかった。しかし欲に駆られ暴れ狂う猛者たちの腹を満たすために仕方のなかったことだ。流通する通貨が限りある資源のみを担保にする限りは膨らみ続ける市場の腹を満たせないどころか、物の流通まで滞り、分断され、経済恐慌に陥ってしまうからだ。しかし嘘偽りのMMT(いくらでも国債発行できるという論理)を掲げざるを得ないほどに、金融は天文学的数字へと巨大化してしまった。今あるお金の世界総額を分配すれば、人類一人当たり6億円とも7億円とも言われている。ゲサラ法でDSが解体され、皆に一様に平均相当のお金が配られるなどと夢物語に酔っている者もいるが、そうなった途端にハイパーインフレになって物の値段も数百倍に上がることになる。FRBを初めとする中央銀行が、金利を無理くりにでも抑えて、通貨価値維持に躍起になっているからこそ経済秩序が保たれているのであり、DSがそれをやらなければ現人神でも現れてやってくれる訳ではない。DS批難をするのは正論かも知れない。しかし粛清はしたが秩序が崩壊し、秩序立てる者もいなくて崩壊したままでは、大恐慌を遥かに超える失業、物不足は目に見えている。人類は希望の前に先ずこの危機と恐怖に打ち勝つ必要がある。確かに悪神の陰に隠れるように善神がやってくる、善悪が裏表なのは原理でも経験でもそうだが、果たして人類が自己否定ならぬ人類否定も辞さない決意を備えることができるだろうか。共産主義が謳うユートピアとは真反対の共産主義社会であったように、スピリチュアルを信じ夢見る理想郷が現実味を帯びてくるとは到底思えない。私達は良く良く知っているはずだ。諸悪の根源は外にあるのではなく、個々の心と体の闘いを解決し統一しない限り地上天国は現れないということを、、。

2021年1月23日土曜日

今日の想い 1092

 アメリカの新しい挑戦は始まったばかりだ。アメリカと言う国の形をとってはいるが、確かにDS資本による株式会社に過ぎなかった。資本が全てでありその資本元の言いなりだった。これまで資本元に歯向かう杭はことごとく打たれてきた。その意味ではCITYの申し子であって建国精神に謳う本来の自由とは裏腹に、CITYのWIREFENCE(鉄条網)に囲われた条件付き自由にすぎなかった。そのWIREFENCEを自らの手でかなぐり捨てていく。それはすなわちCITYが育て続けてきたドル通貨をかなぐり捨てていくことであり、この挑戦の最大の山場で最大の産みの苦しみは新通貨の発行にある。トランプの一声でCAPITOL前に集まった大群衆に見るように、自由を手にすべく新次元世界へと飛び立たんとするエネルギーは、恋い慕えども手の届かなかった自由の女神への突進だ。DSの根城がWALLSTREETのNYであり、自由の象徴である自由の女神はNYの只中に囲われている。今までにも株式会社を抜け出し国として自立する機会は何度かあった。しかしその都度或る者は芽を摘まれ、また多くの者は懐柔された。堕落人間の堕落性本性を巧みに操られながら、堕落天使の一群による闇の支配は今日まで続いて来た。後天開闢時代の幕開けと共に、起こるべくして起こった背後の熾烈な闘いに於いて、光の一群が闇の一群に勝つかどうかは、新通貨による大混乱を私欲を超える群れがマジョリティーとなり、その世界的連携を通して、抑えられるかどうかに依っている。ネサラゲサラ法はその発音の印象の如く胡散臭さが滲み出ている。最初に耳にしたときは、昔読んだマンガの呪文エコエコアザラクのようなものかと勘繰ったほどだ。最終的にどこに落ち着いていくかだが、DS側の人間の回心と協力が無ければ、ヒトラーの共和国幻想のようにどこまでも強権的にならざるを得ないだろう。自由を支える土台がどれほど脆く、またどれほどの犠牲の対価を要するか、トランプ党(仮)はどこまで見通しているだろうか。

2021年1月22日金曜日

今日の想い 1091

 取り敢えず、一里塚は超えた。見方を誤ったかどうかの判断は数か月を要する。提供された一見華やかな映像とは裏腹に、背後の霊的動きは益々高まり、2021年の大動乱を確信した。

信頼する或る方に送ったメール

いつも貴殿の配信わくわくしながら開けております。今回は新しい船出の一里塚を超えたというところでしょうか。まさか、と思うより、まあこうなるだろうなと思いました。しかしトランプが、始まったばかりだと言ったように、これから新しい波はますます高まっていくでしょう。冷静な貴殿の文面をこれほどに熱くする背後のうねりがあります。そしてその予見は決して間違ってはいない。そうするという意志をかかげなければ、人はうねりに乗ることはできず、どこまでも他人事です。今回も結果はすべてではなく、無常の仮の落としどころでしかありません。貴殿が思考存在を超えて意志存在の御方であることを見ることができました。意志人間は他人がどう思うか感じるかによって立ち止まることはありません。今の現状を踏まえてこれからの論考を立てて戴きたい。金融資本がどう動くのか、経済がどう影響を受けるのか、仮想通貨への期待は、ドルはどうなり金はどうなるか、以前には帰れない不安定で、新しい動きを止められないアメリカがどう影響するか、ぜひ貴殿の見方を知りたいと思っております。実のところトランプが強硬手段を取らなくてほっとしております。トランプが独裁者ヒトラーにならなくて安堵しております。彼にはまだ大きな仕事が残っております。

以上

2021年1月19日火曜日

今日の想い 1090

 今はとにかく見守る以外ないだろう。何が起こるかわからないという思いは誰にもあるはずだ。もちろん、未だに普通に新しい政権に移行されると信じている(大半はそうかも知れない)者達は開けてビックリで、信頼していた自分の判断が蜘蛛の子を散らすように砕けていき落ち着かない精神状態になるかも知れない。改革者は混乱を望んでいないことは確かだとしても、結果的に避けられないし混乱せざるを得ない。だからこその戒厳令下の軍支配ということになる。トランプ側に立つ者は悪が排除されて善が統治するユートピア社会が訪れるかのように大喜びしているが、そんな簡単なものではない。銀河連合だとかの言動を見るにスピリチュアルにかぶれているのかも知れない。相当数の逮捕者がでるが、彼等が罪を認めたくないのは容易に想像できるし、裁きに完全も平等もあり得ない。国際金融資本に対しても、共産主義と結びついているグローバリズム派に対しても、憤りを感じるのは理解できるが、多大なる恨みを足下に踏まえての新国家建設にソフトランディングが可能なはずはない。暫くは(それが数年になるか数十年になるか)築いて壊しての連続となるはずだ。真の指導者が暫定的であるF司令官でもないし、恨みを買っているT大統領も難しい。深読みすればするほど迷路に嵌りイメージは湧いてこない。御父様が予見されたように、国家という形態自体がなくなるのかも知れない。謂わば地球村であり世界国家だ。今のグローバリズムは地球村を無視し共産主義の片棒を担ぐ偽りのグローバリズムだが、摂理歴史を見れば先ずカイン圏に於いて、サタンが主管する偽りの先行形態が為され、その後を追うようにアベル的後行摂理が為されたように、真のグローバリズム、世界主義はこれから台頭するはずだ。私達には摂理観がある。御父様が予見されたように、み言葉に精通し心情相続している食口なら、摂理観に照らしたある程度の予見は可能なはずだ。

2021年1月11日月曜日

今日の想い 1089 (アメリカのD-DAYが、世界のD-DAYになるか)

 2021年に入り、いよいよアメリカを中心とするD-DAYの発令が為されるようだ。米大統領には、まるで御父様が再臨されたかのような、如何なる勢力にも屈しない意志が見受けられる。主要メディアを初め日本を含む各国とも民主勝利を事実として受け入れていたが、いや未だに受け入れているが、闇深くて見えない、奥底からの勢力をここまで見通し、光の下にあぶり出す戦略は鮮やかを超えて圧倒される。そこに神の意志を見ずして何を見ているといえるだろう。コロナ禍の中で、世界人類が光を見失う中で、現代のダビデは果敢にもゴリアテの大怪人であるディープステートに闘いを挑み、そしてその首根っこを掴んでしまった。これでアメリカの国はおろか、世界の様相が一瞬で一変してしまう。その一大変化の大津波に乗れるかどうかは摂理に対するそれぞれの意志にかかっている。この状況の中では頑なな組織で雁字搦めの自分では対処できないだろう。2021年の終わりには全く異なる世界に誰もが立っている。そして2021年のジェットコースター的時間を呆気に取られる思いで振り返る。振り回されて終わるのではなく、この一大転換期に新世界の頂点に立てるかどうかが決定される。そうであれば、最大限に摂理への意志を強く、そして大きく差し出すべきだ。今までの身を差し出して訓練を受けていた成果を、今こそ投入すべきだ。実体的世界復帰から次第にかけ離れ、いつのまにか自分の救い、家庭の救いに汲々とする魂に堕していた自分を打破して、自らに新たな神霊を再臨させる必要がある。世界が一瞬で変革すれば、それは今までピースフルに委ねていた既存の環境が壊れることを意味している。新たな平和環境が築かれるまで、あるいは築き上げるまで忍耐を惜しまない強い意志が要求されるだろう。これからが私達の出番でもある。天の心情を相続した霊的、精神的立役者を誰もが、そして社会が必要とするからだ。天の血統圏に組み入れられながらも、社会の片隅に追いやられていた私達の底力の発揮時であり、正念場だ。全く新しい戦時への突入だ。

2021年1月4日月曜日

今日の想い 1088

 外的なことを言えば、ますます生き辛い自然環境になるし生活環境になるし社会環境になる。地上の肉的生命だけを意識して生きている人々、とりわけ進化論や無神論が当然の日本は大半そうだが、成り行きで私の環境は決められているという受動的意識を超えることができない。能動的意識、すなわち創造できる意識は、成り行きで進化してきた私や自分の根源に存在する神を認識しない私からは発動しない。とにかく、2021年は大波乱の出帆だ。こんな大荒れの中での舵取りは組織的船団での航海にはそぐわない。支えるのはいい。捧げるのもいい。しかし見返りを求めるべきではないし頼るべきではない。私の船は私が責任をもって航海し、目的地を羅針盤である良心でしっかり定めて進めるべきだ。ノアの箱舟以来人間は、個の魂という船を戴いている。霊肉、そして両者による魂である人間存在は天宙的船であることは断言できる。み言葉を受け入れ、更に成約の信仰を通して培った船は心情を相続している。私の中にその確信がなければ、正しく天の導きに沿えなかったか未だその途上にあるかだ。心情を相続した船でこそ摂理を認識しているし、自らが目指すところの目的地をはっきりと前方に見据えている。多くの食口達は海上で、船底一枚隔てた死と隣り合わせの中で訓練を受けてきたが、それと天宙的船を如何に主管するかは確かにリンクしていて、その意味ではこれからの実体的摂理として海洋摂理に深く関わることが、摂理に対して指揮されておられた御父様不在の地上で正しく天の摂理を理解していく中心的群れになるはずだ。