2016年12月17日土曜日

今日の想い 939

心情主義に立つなら、他に対しては愛の目で見るのであり己に対しては良心の目で見るということだろう。自分の思考感情行動はその動機を良心に問われるのだが、他の思考感情行動に対して動機を見ようとするならそこに自分の善悪基準を当てはめ心情主義ではなくなってしまう。その背後関係がわからず無視していて本当の動機は見えないからだ。自分に対して動機を問う場合は良心判断が作用するが他に対しては良心ではなく自己流ともいえる善悪基準が作用する。み言葉み言葉と言うけれどもみ言葉に啓発されることで自分の良心が立つことが重要で、それを無視してみ言葉の未熟な理解で善悪基準を立てるとするなら、み言葉はみ言葉の本質を外れて裁きの法になってしまう。要するにみ言葉は自分に向かうみ言葉であって相手に当てはめるみ言葉ではないということだ。相手の事情や背後も知らずに相手本人を悪だと決めつけるのであればみ言葉を正しく汲み取ってはいない。原理を知らないこの世の人達であっても神様の心情を見ることがあるのは当然で、逆を言えば原理に精通している食口であってもその歩みに心情という動機が働いていないこともある。摂理だみ旨だと言い訳しながら良心に反している場合だってあるということだ。そんな歩みを続けながら神霊に育まれるべき自分から遠ざかってしまう。誰につくのが正しいかというその判断基準自体が間違っていることに気付けない。自己流の、或いは堕落性の、神の位置に立てない私の善悪基準を当てはめている。ではそんな今の私はというと、実は冷めている。歩むことに、生きることに冷めている。突き動かされる声が、良心から届いていない。或いは私の良心が立っていない。かつて、突き動かされるままに全てを捨てて献身した私は今はいない。摂理だと言われるままに受け売りで歩んでいる私はいるけれども、摂理を本当の摂理たらしめようとする私はいない。40年以上も歩んできながら報告できる何があるのかと、今まで為せなかったものをどうしてこれから為そうといえるのかと、問われるというより裁かれる毎日で意気消沈し、それでも何らかの希望を持たなければ人間として生きられず、それが個人的なもの家庭的なものに留まってしまう。だから今は人にとやかく言える立場ではない。燃え上がる神様への想いを、焦がれるほどに慕い求めた父母様への想いを、情の流れが枯渇したように失せたまま、霊のない抜け殻のままで魂はさまよう。御父様は聖和されても私を訪ねてくださると思っていた。御母様は御父様以上に情をかけてくださり、それに応えようとする私の想いはより強くなると思っていた。ようするに私は未だに親から独り立ちできずに、優しい言葉や慰めの言葉を求めている。真の愛とは強さの一面があるはずだ。どんな仕打ちを受けようとも与え続けようとする愛の強靭さこそを今必要としている。優しい愛や慰めの愛は、愛とは思えないほどの厳しい試練を超えてこそ現れるものだろう。ヨシュアに「強く雄々しくあれ」と度々背中を押した厳しい旧約の神様の側面が今私の意識に蘇ってくる。心情主義に立つには人は強くなければならない。仁王像のような良神が立って自らを制し、義に燃える自分を用意してこそ心情主義に立てる。

2016年11月15日火曜日

今日の想い 938(新しい信仰)

御母様の独生女宣言を信仰で受け入れるとしても感情ではついていけない、というのが私のまわりの食口の本音だろう。だから私も含めて、御母様がお話される毎に、その事柄に触れられ、いや強調されることに対して耳を背けがちになる。原理やみ言葉に精通される先生方が原理的な説明をされても納得もいかないし、それどころか取って付けたような説明に益々嫌気を募らせる。そこに天の心情、御父母様の心情を私には全く感じられない。御父様にいろいろあるとしても、それを原理で判断してどうだこうだと言うことはなかった。それは原理が入口ではあったが受け入れて歩むことで心情に根差してきたからだ。しかし独生女の説明からは心情に根差した言葉としてはどうも受け取れない。だからといって御母様を否定しようという話ではなく、御母様を受け入れ理解しようとするのに原理的説明によるのではなく心情に根差した理解を探すべきだと思っている。「御母様はあなたの産みの母だ。だから取り敢えず受け取りましょう」と一言言われたほうが原理的説明を並べ立てられるよりよっぽど納得に向かう。私達が御母様に従おうが御子女様にとって代わろうが同じ祝福家庭の群れであることには変わりないと思えるかもしれない。しかし神様から見ればそれは別の異なる血統圏とは捉えられないだろうか。祝福家庭たちが祝福の本質を失うまいとすれば御母様を否定してはありえない。やがて生まれようとする75億人類のそれぞれの霊的生命も御母様を否定してはあり得ない。御子女様は御父母様の直接血統だから御子女様についていく、というのは一見正しく見える。しかしその判断は言ってみれば地上的見地に立った生理学的血統であってそれイコール心情を相続した霊的血統だとは言えない。血が流れていることで生命の営みが続くように愛が流れていることが霊的生命の営みであり、動物と人間の生命の位相が異なるように堕落人間と祝福を受け復帰された人間の位相が異なるのは霊的生命の発生源によるのであって、本然の血統からは心情が湧き溢れているし、本然の血統に繋がった存在は心情を相続できる。確かにグループ派もサンクチュアリも熱い。御母様の言われることに悶々としながら辛うじて信仰を維持している者達よりよっぽど熱い。確かに彼らの魂は今は熱いかもしれないが、しかし霊的に真の父母の血統に繋がっていなければ遠からず心情の枯渇に至るはずだ。御母様の発言の私の理解はこうだ。御父様は紆余曲折あった。第一の御母様が失敗され第二の御母様も失敗した。その他にも公認されていない事実として、誤解されて当然の回り道を取らざるを得なかったいくつかの行動があることも薄々感じている。しかし御母様には紆余曲折はない。一貫して御父様に向いておられた。エバが堕落したという人間からの理解は天使長との関係からだが、神様が判断するのは心情相続の道を断ってしまったことがエバの堕落だ。御母様が一貫して御父様に向いてこられたことが真の父母の完成であり御母様は心情相続の道をそれ故に私達に繋げられた。御母様が聖霊実体であられるのはその一貫性によっている。私達は御母様に向かい続けることで御母様の勝利された一貫性を相続する。御母様が度重なる試練を乗り越えて勝利された一貫性の内容を、私達が相続できるようにというその試金石としての独生女である、、というのが現時点での私の理解だ。そしてそれは正しいか正しくないかと問う原理基準を持つ自分を超えなければ受け入れられない。御父様が言われた、御母様は復帰されたエバという言葉に執着する私を超える必要がある。さらに言えばそれは私の新たな信仰といってもいい。原理という入口から入って実体み言葉(御父様)信仰に繋がったように、清平を入口にした聖霊実体(御母様)信仰だ。それは夜を導いた火の柱と昼を導いた雲の柱の関係だ。もちろんそれは夜の神様、昼の神様とも関連している。今まで為し得なかった環境創造は御母様という聖霊実体の力を受け取ることで地上に実らすことができる。

2016年10月28日金曜日

今日の想い 937

がんじがらめの不自由さの中に自由がある、というのは長渕の歌だけれども、その歌詞の通り、献身という枷をはめることで自由の本当の意味を掴もうとしてきた、と言える。私が霊的な解放圏自由圏を得るためには、体である生活に枷をはめるのみならず、魂の領域、すなわち自分の心にさえ枷をはめることで得ることができるのだが、献身の動機を問われてもそんなことは考えだにしなかったわけで、実は3年で天国ができると言われてその言葉を真に受けて献身したという何ともお粗末な私だった。しかし3年も経てば流石の私もわかってきて、その都度信仰している動機を御利益的なものから修正し続けて今に至っている。不自由さの中に自由があるように、貧しさの中に本当の意味での富があり無欲で思慮不足にみえる行動の中にこそ叡智が働く。そのように霊的に得るものとは概して逆説的なものだ。霊的なものを認めない者にとっては私達は無能な集団にしか見えないだろうが、彼らに見えず私達に見えるものが確実にある。見えるものというより実感できるものと言ったほうがいいかも知れないが、霊的なものや霊界を信じない彼等にもっとも説明しやすい事実として死がある。死後の世界がなければ別に死を恐れる必要はないのだが、それでも彼らは死を恐れるという不可解を自覚している。私達は死後の世界、霊界があることを信じてもいるし地獄の存在も信じている。しかしそれでも死を恐れることはない。死というイメージもないほどに私達にとって死は霊界への新しい誕生を意味している。しかし死が遠い先の無きに等しい若者であっても死の他にも多くの恐怖が存在している。彼らが認め彼らが頼みとする地上の価値はますます崩れて行き、地上に生きる価値をもはや見出せなくなるほどだ。信頼していた者に裏切られ、社会は益々冷たくなり、おそらく最も価値あるものとされ幸福の度合としてきたお金も、そのうちにそれがただの紙切れになり口座の数字も何の意味もなさなくなってしまう。現状はというと、国は国家破綻して当然に思える莫大な負債を抱えていながらも、社会は未だにそれなりの価値をお金という中央銀行券においている。砂上の楼閣どころか蜃気楼に住んでいるようなものだ。白昼夢から目覚めざるを得ないときがやがてくる。価値あるものと認識してたものがことごとく崩れ去り、人間として霊的柱を持たない者達は狂うか痴呆になるしかないだろう。素面ではとても環境の現実を直視できないからだ。外的には辛い冬の時代が到来するのであり、さしずめ今は冬を間近に控えた晩秋だろうか。霊的に生まれ(霊的基盤を持った魂として生まれ)ているかどうかという真の生命が問われる時代にいよいよ入っていく。霊界で価値あるものが地上でも価値を発揮する。人類は人類史上なかった霊肉の統一世界の入り口に立っている。

2016年10月14日金曜日

今日の想い 936(良神を立てて戦う)

心と体の戦い、という私の認識は、原理を学び自分の正体がわかり始めてから始まっている。勿論神霊とサタンとの戦いは始祖以降人間社会を舞台に繰り広げられてはきたが、人間個々に於ける心と体の戦い、魂の戦いは事実上食口になってからだろう。食口になったとは戦いの認識を持ったということだ。この世の人と私達食口の大きな違いはこの戦いの認識を持っているかいないかだ。祝福を戴いて御父母様の子女であることの意味はこの戦いの認識にある。食口にとって生きることは幸福の追求というより戦いに明け暮れる日々であって、もはや戦いから逃れることはできない。「善き戦いを為し終えて」とあるように善なる戦いであり戦いを為し終えるのは地上を去る時だ。たとえ信仰を捨てるとしてもそれでも戦いは続いていく。信仰を捨てて楽になるつもりが戦いは激しさを増していく。一度は御父母様を受け入れた自分をどうにも否定できないからだ。御父様が聖和されて、全食口はある意味それまでの信仰を卒業している。先天の信仰と後天の信仰はそのまま同じものとして続いているようだが既に卒業している。先天的信仰を保持しようとすればするほど戦いは複雑になる。食口にとって御父様がメシヤであるのは既に信仰による認識ではなく実体としての認識だ。しかし御母様が生まれながらに罪のない神の一人娘だという事に関しては新たな信仰を要求される。文字通りを信仰ではなく実体として認識するとなれば御母様の出自は御父様からということになってしまう。混乱を起こすその宣言を敢えてされた理由は二つしかない。私達に対して全く新たな信仰を願われているか、或いは、やがては公になる驚天事実を神側の先手として宣言されたかの二つだ。御父様が話されたマリヤのイエス様懐胎の新事実が、もしサタン側からなされていたら、復帰摂理はさらに延長され人類は多大な犠牲を強いられていただろう。しかし知ってか知らずかサタンは懐胎の秘密に触れることはなく御父様が先手を取られた。そのように御母様も先手を取られての発言ということもありうる。御母様は神様を天の御父様ではなく天の父母様とされ、家庭盟誓を書き換えられ、天一国の国歌も変えられ、み言葉集も新たに編纂された。それらが為されたのは新たな信仰の要求でありその流れで独生女宣言もされた。しかし私は御母様が権威を望んでそのようにしておられるとはどうしても思えない。そんな風を装われながら天と御父様、さらには人類の救いに対する責任心情を動機とされ、その行動には御母様の深い知恵が隠れているように思える。私達は霊的平衡感覚を失う渦の真只中だ。戦いはいつも厳しいものだが、それでも今までの戦う相手は明白で単純だった。しかし今の戦いは顔が見えない。見えないどころか新しく確立すべき信仰がどういうものかもわからない。だから戦う基準すら定かでない。それ故に御母様の発言や指示に対して違和感を覚えてしまう。善き戦いをすべきで悪しき戦いは消耗戦だということはわかる。しかし戦い続けて基元節を超えるには超えたが、今は善悪が入り乱れる状況で霊的な流れは渦状態にある。今まで以上に良神をしっかり立てなければ、渦に巻き込まれたまま私の信仰生命を失いかねない。創造は混沌から始まった。この混沌が昼の神様による新生宇宙、新生地球、そして新生私の創造の初めだろうか。夜の神様としての御父様を中心とした摂理から昼の神様としての御母様の摂理の出発だろうか。

2016年10月8日土曜日

今日の想い 935

誰一人同じ世界に住んでいる人はいない。同じ外的環境圏にあっても異なる世界に住んでいる。御父様の言葉を借りるなら、それぞれが霊界を背負って歩んでいる。五感を通して外的に接触しながら、お互いの世界に影響を及ぼし合っている。ある者は自分の世界から与え、ある者は他の世界から奪い、奪いながら大切なものを失っている。奪うことで執着による霊的空気を益々重く濃くし、霊的には息苦しくなる。地上世界は愛が地上化された光によって作られている。あらゆる万物も物質も実は光の圧縮で成り立っている。逆に霊界の全ては愛の圧縮で成り立ったている。愛の圧縮度合で空気的なもの、水的なもの、そしてあらゆる個体的なものが存在している。外なる世界は光の世界であり内なる世界は愛の世界だ。そしてそれぞれの人間の霊界は、地上に於いて内なる世界、外なる世界であったものが裏返して私の霊界として現れる。与えることの大切さを教えられた私達は本当に与えてきただろうか。与えることが本当に与えたことになっているだろうか。与えることで愛の空気が私の霊界に満ち満ちているだろうか。与えることが建前で、本当は奪ってきた過去はなかっただろうか。富める者はますます富むように、与える者はさらに与えることができる者とされるはずなのに、そうなっているだろうか。私自身、天の道理を肌に感じて歩んできたかと問われれば口ごもってしまう。私は今、本当の意味で感謝もしていなければ愛してもいない。御母様の「感謝します」「愛します」の言葉には、御母様に対して「では御母様、私が理解できるように行動してください、私を愛してください」と言葉を返してしまっている。御母様から受けること、さらには奪うことを喚起する言葉ではないはずなのに、返す言葉に恨みがましくそう呟く私がいる。感謝もされず愛されもしていないのに感謝できるだろうか愛せるだろうかという次元で足踏みし、感謝したい愛したいという次元までも届いてはいない。愛の衝動を今の私の中に見いだせない。私が背負っている霊界のなんと息苦しいことだろう。なんと狭量的な世界だろう。それを思うと摂理のためだと行動し徳を積み上げてきた認識はがらがらと崩れ去る。教会に頼って長く生きたことが、信仰だと繋いできた年数が、今は逆に仇になる。だからといって外界に目を向ければ、堅固に見える現実が居座っている。この変わる様子もない社会の現実はいつまで続くのだろう。今の社会が変わりなく続く限り、地上での私達は遥か宇宙の彼方から地球に来た仮のあばら家に住まう宇宙人に過ぎない。何もできない宇宙人だ。この地球が私達の故郷だと真に思えたことはただの一度もないだろう。イスラエルの民がカナン七族に染まってしまったように、もし私達がこのまま世間に染まってしまうなら、中心的存在としての第四アダムの再臨を本当に待たなければならないのかもしれない。

2016年10月4日火曜日

今日の想い 934

いつのいかなる場面でも私は最終判断を下すことをやめなければならない。その結論は誰によるのでもなく私がその結論を引き出した、ということがそもそもの問題だからだ。原理をかじった者達のブログを見渡せばかじった原理を自己流に操り、それによって出された自己流判断のオンパレードだ。その結論ありきで評論し批判非難がなされている。アダムとエバは神様に尋ねることをしなかったから堕落した、と言われるのはアダムはアダムなりに、エバはエバなりに自己流判断を下してしまったということだ。エバが堕落するとき不安や恐怖を覚えたこと自体が、取って食べてはならないという戒めは神様(良神)から来たものだということを霊的に認識させたのであって、別に聴覚を通して頭に認識された戒めではないはずだ。あくまで植え付けられた良心作用が戒めそのものだった。その良心作用を追い遣るものが非原理的愛だった。アダムとエバの愛か偽りの愛かの問題は、今の人間関係に於ける貞操か不倫かで判断するような道徳的なものでも感情的なものでもなく、備わっていた良神(心)という神様が許すのか許さないのか、不安を覚えるのか平安にあるのかという、もっとも侵してはならない基本中の基本の愛だった。そんな基本の愛を蔑ろにして人間を万物以下にさせたものだから後孫からのバッシングを半永久的に受けることになる。その恨みがどれほど大きいか。罪の歴史、サタンの血統の歴史が6000年にわたって流れてきた。しかし真の父母が立つことでこれからは神の子女の歴史、神の血統の歴史が流れていく。神の千年王国は出発したばかりだ。アダムとエバもカインとアベルも自己流判断で失敗した。その轍を私達は踏むのではなく、判断は神様、すなわち良心(神)に委ねるしかないということだ。誰が正しいのかという論理の判断に任せるのではなく私の良心(神)に委ねる。ということは良心(神)が自分の中に立っていない者は摂理を牽引し千年王国の中心的存在にはなれない。誰の言い分が正しいのかということに躍起になっているが、そこに意識を釘付けにすれば摂理からは既に外れている。誰に付こうが付くまいが、或いは誰にも付かないという選択も含めてそんなことはどうでもいい。所詮そこには何らかの政治的なものや感情的な好き嫌いが選択に隠れている。そんなことより自分の出自はどこかと問うときに御母様の胎から、というのはわかりきっている。御母様を否定したら御父様を否定すると同じように私は存在しない。だから御母様に付くべき、というのではなく、親の心情を蔑ろにしたくないという想いが自分の良心の声にもっとも近い。責任者の問題は金銭問題やアダムエバ問題以上の問題として、御母様の権威ではなく御母様の私達への想い、人類の母としての心情を伝えていないことにある。

2016年9月24日土曜日

今日の想い 933

愛は暖かい側面があると思っていたけれどもどこまでも冷たい愛もあるのだろうか。イエス様はユダヤ人にとっては冷たい愛だったのだろうか。イエス様の愛が彼らにとって暖かい愛、優しい愛であったらイエス様を十字架につけはしなかっただろうか。それとも当時のユダヤ人はそんな愛は信じなくて、愛よりは原理を重んじたのだろうか。愛が暖かろうが冷たかろうがどうでもよくて、原理原則にのみ身を捧げたから十字架につけてしまったのだろうか。では統一食口はどう?私達が受け取った愛はけっして暖かく優しいだけではなかったはずだ。冷たい厳しい愛だった。それを当然と思えばこそ離れなかった。とにかく愛と信じてついてきた。愛の厳しく冷たい表情としての蕩減原則であり、蕩減原則からくる実績追及に身も心も捧げて応えようとし、周りの食口にも当然冷たく厳しい存在にならざるを得ない。思い描く愛の世界とは程遠い統一社会、そこに居続けた結果が私であり貴方であり責任者達であり、そして離れ行く二世達だ。一世達は未だに蕩減が終わっていないと厳しい追及に心身を委ねるのだろうか。あるいは為に生きることの実感がそこにあるからそうなのだろうか。では蕩減は何をして払われたと認識し、為に生きることは誰の何の為であり相手の喜びや感謝をどこに見ようとするのだろうか。私達は環境や境遇の全てをわかったつもりで歩んでいるし、一方で何もわからないまま歩んでいる。教会は統一を標榜しながらも一方で分裂の様相を示している。かつて日本人は、語られる言葉に陛下という文字が加えられれば瞬時に背筋を伸ばしその精神に貫かれたように、統一食口は御父様、御父母様という言葉に接すると畏敬の精神に貫かれていたはずだ。御母様という言葉に対して同じ精神が宿り、従うそれぞれの御子女様という言葉に対して同じ精神が果たして宿っているだろうか。誰に付こうとも、誰もが御父様の亡霊を引きずりながら立ち止まったままでいる。そうして受け取れなかった暖かくも優しい愛を求めている。だから「為に行きる」という言葉が言葉のまま空回りする。摂理の為に身をすり減らして歩んできたにも拘らず、受け取るはずの恩恵が確認できない。為に生きていたつもりが上からも下からも周りからの理解も感謝も得られず辟易している。慕ってきた御父様がおられない今は尚更だ。誰もが真の愛の着地を自分の中に見いだせずにいる。御父様は実体み言葉であられたけれども、御母様は聖霊実体であられる。私達は御母様の権威が証明されそれを見たいのではなく聖霊実体としての御母様を見たい。御母様が独生女であられようが復帰されたエバであられようが、そんなことは私の信仰に何の影響も及ぼさない。そんなことより聖霊実体としての御母様を見たいのであり、それなくして私は一歩も前進できない。私の中での御母様という言葉には聖霊に対する精神がまだ生きている。しかしそれがいつまで生き続けるだろうという思いが広がりつつある。私は聖霊実体としての真の母を失いたくない。暖かくも優しい御母様の愛を失いたくないし、私の中のそういう御母様を否定されたくもない。

2016年9月16日金曜日

今日の想い 932 (化合と成和)

御父様は統一するにあたって化合と成和という言葉の違いを説明しておられる。と言うのは私達が、やもすれば統一、一つになるということが化合して一つになることとして捉えがちだからだ。化合とはそれまでの存在を否定されて真理体としての個性がなくなってしまうことを意味する。一方で成和は個性真理体として各々が異なる存在でありながら、異なるものが天の願いを中心として一つになることを意味する。さて、私達が目指す統一は成和だろうか、それとも化合を統一だとして認識を間違えているのだろうか。一人一人は個性真理体として異なって当たり前であるのに、その個性を否定して化合するのは全体主義であって、それを一つになることと勘違いしている場合が多いのではないだろうか。その勘違いによって偽りの統一村社会、そして村八分が跋扈し始めた、と私は思っている。しかし付け加える重要な事として、個性は否定してはならないが堕落性は否定しなければならないという問題だ。そして個性なのか堕落性なのかは誰の、何の判断によるのかという問題だ。原理は原理結果主管圏という言葉にあるように結果世界の基になっているが、結果である現実に沿うばかりが個性ではなく、現実を超えて将来的創造を為そうとする働きが個性に宿っているとすれば、原理とする今の認識する原理を超えた原理がその個性に働いているということになる。そういった個性の働きを原理主義者に限って堕落性だと批判し個性の芽を摘む場合が往々にしてあることを指摘したい。耳に良い全体理想を口にしながら実のところ自己の欲望が動機になっていたり、あるいは逆に好き放題口にしながらも本当は全体を憂いていたりといった政治家の本性を見据えるように、個性という本生なのか堕落性なのかを他に向けて判断することは難しいとしても、こと自分に関してはわかるし嘘をつけない。私達は化合ではなく成和を通してしか統一は為せないからこそ、様々な宗教を受け入れ、受け入れた上で一つになろうとしてきた。御母様派もグループ派もサンクチュアリ派も、み言葉解釈を論点として分裂したかのように捉えているが、実は愛されていない、向かう愛を否定された、という統一家の愛の問題、真の家庭の愛の問題であり、それが解かれることで天宙次元の意識へと人類はアセンション(昇華)する。真の家庭が血族という形で一つではあったが、真の愛を中心として一つになるかどうかの正分合の動向を今見ている。しかしどういう経路を辿ろうとも真の愛を中心として一つにならざるを得ない。食口達も解釈を超えて一つにならざるを得ない。正義であっても真の愛がその拳を溶かしてしまうからだ。正義をかざすのは化合されるには功を果たすが成和となると正義一辺倒では難しい。実は御母様も御子女様も根底に於いてはわかっておられたけれども、分裂したかのような経路を辿らざるを得なかったと思えるし、またそれによって更に強固な、真の愛を中心とする一体化が為されるはずだ。そうでなければ真の愛は絵空事だ。化合による機械的統一であり教祖を立てる全体主義だ。

2016年9月12日月曜日

今日の想い 931

私達は世界が私達を必要としていると信じている。私達は人々が真の父母に繋がる私達を必要としているはずだと思い込んでいる。世界が私達を必要としているかどうかは別として、明らかに人々からすれば、目の前の人からすれば私は必要とされてはいない。それどころか人々からすれば私達の歩みは独善的で自己満足としか映っていない。人々は神様が存在するしないよりも私達が信じる神様を必要としていない場合が多い。人々は死後の世界が存在するしないよりも今生で生きるに於いて死後の世界を必要としていない。人々が覚醒して霊的に目を覚まさない限り私達は彼らにとっては無用な存在だ。この現実を踏まえるなら現世での私達は孤独な存在だともいえる。ひたすら教条的(とって食べるなとか公私の分別だとかの信仰的規約)に生き、この自らに枷だけを嵌めて生きることに汲々とし、この世に何らの影響も与えられず年だけは重ねていく。私達を必要としている人というのは謂わば魂に於いて問題を抱えている人達だ。魂の弱者と言っていいだろう。人は肉体の存在でもあり魂の存在でもありそして霊の存在でもある。体の癒しや救いを求める者や魂の癒しや救いを求める者はいても霊の救いを求める者は少ない。殆どの者は霊の存在だという自覚すらない。私達は霊の救いを預かっている者達だ。しかしその私達ですら霊の認識が曖昧で、肉体とは別の体、霊人体が存在するくらいの認識でしかない。あるいは霊界があって霊界を生きる体という認識でしかない。肉体の救い、魂の救いを求めている人に救いを与えられないという実情がある。原因である霊の救いを得て初めて結果としての魂の救いがあり、その魂に応じて肉体の救いが開かれる、というのが論理的に思い起こされることだが、霊は現状の魂の否定、魂は現状の肉体の否定によって復帰される。それが自己否定であったし献身生活でもあった。救いを得るために先ずは否定せざるを得ないという、魂を否定しなければ新たな霊を得てそれによる魂を得られないというこの逆説的とも取れる役事を受け入れられるかどうかだ。そんな痛みを受け入れるはずもなく当然聞く耳は持たないのであって、食口ですら信仰と勘違いしている自分の宗教的感情を否定しようとはしない。私達は新たな自己否定の段階に来ている。それは今まで信仰としてきた自分の宗教的感情の否定だ。御母様についていく者達の中に二通りある。一つは今までの宗教的感情を引きずる者、今一つは今までの宗教的感情を否定して心情に立つ新たな自分を立てる者だ。グループ派もサンクチュアリ派もそれぞれに今までの宗教的感情を引きずっていてその意味ではどちらに付こうと大差ない。御母様の独生女発言をどう捉えるか、堕落世界から復帰された御母様だったという認識だったが実は御母様は生まれながらに罪なき存在であられたという言葉を何とか受け入れようと、それを受け入れなければ御母様に従えないと思えるのは実は今までの宗教的感情を引きずっている。発言の論理性を問うのは後々に譲るとして、兎に角新しい私、今までの宗教的感情を否定したより心情に立つ私を立てようと意志すれば御母様の願いに合わせてと思うのは当然のように思う。グループ派、サンクチュアリ派では実は宗教的自由はない。しかし私達には枷とも思えなかった枷を外し、天の願いを全うする為の翼を得て羽ばたける自由がある。自由があるとは本当の意味での責任感情がそこにあるということでもある。氏族を復帰しようと思えば、世界復帰を私を中心にと思えば、グループ派でもなくサンクチュアリ派でもなく、ましてや御母様派でもなく(敢えてそのように言明します)、御父母様派であるべきでそれは氏族メシヤ派であり第四アダム心情圏派でもあると信じる。そこに立たなければ世界が必要とする私達にはなれないのであり、人々が必要とする私達にはなれない。今まではある意味訓練期間であったし御父様の保護圏にあった。しかしこれからの時代父母として立つ私の時代であり、氏族を救う父母として責任を取らなければならない時代に来ている。

2016年8月28日日曜日

今日の想い 930

想い。想いをどれだけ強くするか、、。心情を受け取るにはこの想い、天に向かう想い、父母様へ向かう想いをどれだけ強く持ち続けるかだ。想いは能動的だ。私達にはいろんな想いがある。自己への想いもあれば子供への想いもある。妻への想いもあれば周りの人への想いもある。良い想いもあれば悪い想いもある。想念という言葉が良い意味で使われることが少ないように、想いも横的な言葉のように捉われがちだが、想いを強くしなければ決して心情因縁は結ばれない。私達は信仰として摂理に関わってきたと思っているが、実は原理運動に参画したのであってその歩みは信仰路程とは異なる場合が多い。願われた外的目標を達成してもそれがそのまま信仰の結果としての心情を受け取ることにはならない。私達に願われた目標が見上げても見えないほどの高みにあるにもかかわらず、それでもそれに応えようと本当にしてきただろうか。普通の人間であればその現実感のない目標など目標だとはいわない。できると言いながらやっぱりできなかったのは「できる」という言葉に嘘があったと言われても仕方がない。しかし天の前にできませんと、諦めの言葉も言えないのは信仰生命にとってはその通りだ。私達は嘘と真実の狭間で戦ってきた。言葉に嘘があるのか真実なのか。この矛盾を内包したまま自分という人間を続ければ続けるほど人間としては破壊的になっていく。統一教会が分裂教会になるのか家庭連合になるのかはそれぞれの個人路程の表れでもあり、その成り行きを自分の信仰とは別物のように論議しても対岸の火事と変わりない。本当はどうだっていいと思ってないか。それぞれ個人に於いて矛盾を内包したまま破壊的であるにもかかわらず、形だけ一つにまとめようとしてもうまくいかないのは既にわかりきっている。今の今まで応えられなかったにもかかわらず、その同じ私をして氏族メシヤが為せると本当に思っているのだろうか、ということだ。しかし想いこそが私達の武器だ。嘘と偽りのサタンと戦う武器だ。本当は祈りとしたいところを想いとしたのは、祈りが形式化してしまい最後の結びだけ外さなければ祈りとなるという認識の偽りがあるからだ。天への想い、御父母様への想い、恋い焦がれて病むほどの想いが無ければ心情など受け取れない。

2016年8月17日水曜日

今日の想い 929

韓国食口、日本食口と括るのはどうかと思うが、それぞれの信仰観の違いは確かにある。全体摂理を進めていくと同時に個人摂理も進めていかなければならないが、全体意識の強い日本人と個人意識の強い韓国人との違いがその進め方に現れてくる。日本食口としては個人意識を否定的に捉えがちだけれども、個人意識あっての全体意識でありリーダーシップには強い個人意識が要求される。全体を引っ張る中心存在だからだ。もちろん氏族メシヤとして立つにも高い個人意識が要求される。個を犠牲にするとは個を存在亡きものにすることではなく、より全体意識を高める為に個人意識を高めることにある。個あっての全体であり全体あっての個だ。信仰は観が立たなければ信仰を持っているとはいえず、その信仰観は信仰の自由に担保され、観を立てるのは個人であってそれを否定するのは全体主義だ。日本食口の信仰は全体勝利と言いながら個の勝利を曖昧にしており信仰観として立ちにくい。全体主義的なものから観は立たないのであり、氏族メシヤとして氏族復帰を進めていこうとすれば氏族を引っ張るリーダーシップが要求され、そこに全体主義的な個人否定では立つものも立たない。氏族が見上げる何物も立たない。どんなにみ言葉が素晴らしいと思えても今の現状を見て自由の空気が溢れているとは思えないし献金の縛りのある教会に飛び込む者など誰もいない。今の日本食口の献金が信仰の自由による信仰観に立ったものでなければ、それが精誠だといえるかどうかは甚だ疑問だ。責任者が献金の相当の部分を懐に入れたと追及しようにも、信仰観に立たない献金が、つまり霊的実質の薄い献金という名の浮いたお金が正しく使われるとは思えない。宝くじで当たったお金が直ぐにも消えてなくなるのと同じように、摂理だといって注ぎ込んだ献金の大半が藻屑となり消えていった。私達は霊界を信じており霊的実質をあらゆる物事や事物に見なければならないにもかかわらず、お金を得るのも使うのも唯物主義者と何ら変わらない意識で対している。そんな基準で、お金にすらそうであるのにどうして真の愛の価値を理解できるだろうか。

2016年8月2日火曜日

今日の想い 928

この感覚の世界は、堕落以降に中間位置に立つ人類を主体とする表象的対象として現れている。中間位置に立っているから感覚を通して世界は神に相対する部分も持っているしサタンに相対する部分も持っている。感覚を通して、と言うのが人間がこの現実世界に対して主体的位置に立つことを意味している。私が変わり、感覚からくる刺激への態度が変われば世界は変わってくる。祝福を受けて重生した私(生まれ変わった私)であっても感覚から受け取るこの世界は何ら変わりのない世界だと思えるのは、五感から受け取る情報の取り方が相変わらず中間位置に立った堕落的方法に拠っているからだ。認識している情報全てに堕落的フィルターがかけられて届いていると思って先ず間違いない。私達は原理を確かに理解している。しかしその理解は私達の間では大して違いはなくても御父様の理解には及ばないし、その意味では真の理解から程遠いと思ったほうがいい。真の理解に及ばない理解を正しい測定器としてこの世に宛がえ御父母様に宛がうのは正しくない。入教したての原理を学んだ頃の理解からすれば今の理解が随分変わってきたように、未だ真の理解への道途上にある私だという認識を持たなければ、現状理解に同調し知の誘惑を仕掛けてくる霊に主管されてしまうだろう。霊界は感覚を超えた世界であり、心情世界こそが霊界だ。現実世界という五感で認識する感覚世界に身を置き、感覚を通して心情を培うのでなければ死は死のままであり心情世界である霊界に旅立つ昇華にはならない。御父様は統一教会は苦労の百科事典だと言われたが苦労を取り違えてはならない。犠牲を供えたならそれと引き換えに心情を手にしてこそ御父様が言う意味での苦労のはずだ。感情が心情に昇華しての苦労だ。あらゆる感情を味わいながら心情を培っていく。喜怒哀楽の感情を味わいながら霊人体に刻めるエキスとしての心情を受け取る、と言うことにどれほど専念しているだろうか。それよりか感情世界に専念しているだろうし生活が中心だ。どれほど高潔なみ言葉を知っていると自負しても、この世界の殆どの者達がそうであるように、感情に専念し生活が中心であるならみ言葉の外殻のみを知っているのであってみ言葉の本質は受け取れない。

2016年7月12日火曜日

今日の想い 927

「愛しています」「感謝します」、この二つのみ言葉に集約されるというのが御母様の見解だ。御父様はこの私の人生を訓読に費やしても足りないほどのみ言葉を残されている。それも理解できない内容も多くあって、数度訓読したり研究したりすれば一度の人生では当然足りなくなる。私達は先ず原理という知の論理が受け入れられて、その土台の上での関係性であらゆるみ言葉を理解しようとしてきた。それは愛を土台とした情からではなく、知が土台であって我々の愛は真の愛ではなく原理的判断という限られた愛、条件的愛でしかなかったとも言える。私達は本当の愛である真の愛を知らない。真の愛を知らないし真の愛で愛せないから天の父母様と乖離していて摂理は進まない。愛すること、感謝すること、とは言わず「愛しています」「感謝しています」とするのはそこに意志が込められるべきという私達の能動的姿勢を願われて言われた言葉だ。私の存在が肉体という外的殻のみならず、精神的意志存在という霊的存在として立つためには意志する意識を現在に刻み続ける必要がある。それでこそ、神様が捉えられない殻だけの私ではなく神様が相対できる本当の私になれるのだろう。過去意識からくる蕩減的な意味での「感謝します」と、未来意識の摂理的な意味での「愛しています」という両意志が立つことで、私という現在存在が精神的意志存在として立つ。こんな理屈をこねまわすのは私が知に固執するひねくれ者だからであって、御父母様と内的にも霊的にも一つになっている食口であれば、簡単な言葉の真意を当然のこととして受け取るはずだ。ある食口が証してくれたことだが、子供のいない姉夫婦に自分の子供を養子に差し出すと申し出たという。ある者は、たとえ身内であってもみ言葉も聞いていない姉夫婦に養子として祝福二世を差し出すのはどんなものかと思うだろう。でも私はこれこそが氏族復帰だと思った。百のみ言葉を語るより、この犠牲的行動一つで真の愛が姉夫婦に伝わるはずだ。少し変わった食口だけれどもこの食口には頭が上がらないと素直に思った。真の愛が彼の中で生きている。そしてそれを受け入れた相対者も真の愛が生きている。

2016年7月9日土曜日

今日の想い 926

エバは、賢くなるには好ましいと思われたからその実を取って食べた。賢いという言葉は何も知恵に関してだけいう言葉だとは限らない。賢い行動もある。賢い知もあれば意もあり情もある。賢い情は情を分別する。誰彼となく情愛を抱こうとはしない。御父様の言葉を借りれば、愛は与えるけれども情愛は抱かない。人類は終末に向けて論理的思考が発達してきた知の時代を生きてきたからどうしても知の賢さを重要視する。論理の判断に任せようとする。それは私達とて同じで知って納得したいという衝動を抑えられない。しかし知ってどうなるのか、納得してどうなるのかというと、それで自分が変われる訳ではない。エバはルーシェル的実体に情愛を抱いた。そして交わった。その情が、その行動が、賢くなるには好ましいと思えた。しかしその情もその行動も賢いものとは言えなかった。私達は原理のみ言葉を学んで人類が解けなかった多くの謎が解けたと思えた。事実多くの謎は解けたがしかしその真実に対する謎が生じてくる。御父様が再臨主であり御父母様は真の父母だと納得しても今度は御母様の出自の問題が浮上してくる。それだけではなく御父様に浮上する6マリアの問題、御落胤の問題、私達自身に関することで言えば第四アダムの問題や御子女様問題など問題は尽きない。私達は賢くなるには好ましいと思われる知への探求の迷路に嵌っている。それは共産主義者が論理を携えてきたが、その論理を超えた問題に対処できず理想が崩れ去ったと同じ道を歩んでいる。私達は原理主義ではなく心情主義だということを忘れている。賢くなりたいという動機がどこにあるのか、心情を立てようとしているのかそれとも自己中心的喜びが動機なのかを自分の良心に聞いてみるべきだ。知、すなわち原理が権威を掲げる時代は好む好まざるとに関わらず原理判断による裁きの時代となる。落ちた離れた堕落したと蔑む時代に逆戻りする。私達が心情主義であるなら先ず心情を最優先し、それに伴う行動、それから知となる。心情を伴わない行動、心情が背後にない知は共産主義であり原理主義だ。

2016年6月30日木曜日

朝焼けの虹

朝焼けの虹を見た。安侍日の敬拝を供えると、5時半を過ぎて店に向かった。ショッピングセンターに着いて車から降り、明けてきた空を見渡したまま動きが止まった。西の空を中心に一面焼けていた。明けるにしたがい焼けた黒いピンクは生気を帯びて広がっていった。晴れやかな夕焼けとは異なり朝焼けはどうも重たい気分を誘う。暮れていく夕焼けより明け始める朝焼けがそうさせるのは雨になるからだろうか。どんよりした一日を予測させるからだろうか。店内をしっかり明るくさせてオープンしているコーヒーショップに立ち寄り、買い求めたコーヒーを手に外に出てみると、顔を上げた目に鮮やかな虹の端が飛び込んできた。上方に辿っていくと太い虹が大きく弧を描いて空に架けられている。これほどの大きな虹はかつて見たことがなかった。雨上がりの虹は明るく希望を思い起こさせるけれども、朝焼けに架かるこの大きな虹は虹へのイメージを崩して不安を誘う。確かに私は戸惑っている。虹を目にすることで希望の感情を胸の内に充満させたいけれども、明らかに希望とは異なる感情が暗雲のように広がっている。こんな気分に主管されるべきではないと我に返りその場を離れたけれども、その時の気分をどう理解していいのかいまだに探っている。いつも透析のある時は朝の暗いうちから透析センターに妻を送っている。その途中に高台へ差し掛かる道がある。そこから東の空が大きく望め、夏場は明ける様子が伺える。曇りの日の重暗い朝焼けも夕焼けのように妻は綺麗だと言うが私は恐ろしい気分に誘われる。それを告げると妻は人によって違うんだと窓よりに身を傾けてしまう。お互いの間に一瞬疎外感の空気が漂う。あの朝焼けの虹を一緒に見なくてよかったと思った。妻と私は一体だ。お互いの感性が異なっていても一体だ。それでもあの虹は一体を崩す何かが組み込まれていたと思えてしょうがない。私の人生の中で目にすべきではなかったと思える事柄がいくつかある。原爆の日に見た重くて濃い青空、田舎で朝粥が続いた時のからの米櫃、そしてこの朝焼けの虹、、。

2016年6月25日土曜日

今日の想い 925

世界復帰、天宙復帰は私達が想像していたほど簡単ではないし単純でもない。複雑に入り組んだこの世界であるなら復帰も複雑を極めて当然だろう。絡みに絡んだ世界という糸を解きほぐすようなもので、それは今すぐにでも諦めて投げ出したい衝動に駆られるほどだ。世界がますます混乱を極めていく中で、統一食口社会だけが理想を絵に描いたように一つになって地上天国を築いていくというのはもはや妄想に近い。食口誰もが認めるように私達も御父母様を中心として決して一枚岩ではない。私達が世界の代表ならこの世界の問題とは無縁であるどころか、世界の問題が集約されて現れて当然だ。私達の問題が世界に反映されるのか、世界の問題が私達に反映されるのか、そこは何とも言えないが、問題解決は内的霊的に主導権を握る私達にあることはその通りだ。私達の中に共産主義の問題があり(イスラム)原理主義の問題がある。冷戦時代は共産主義社会と自由主義社会がはっきりと線を引かれていたが、今の中国に見るように共産主義社会でありながら資本を投入していて、しかし自由社会ではない。逆も言えて自由主義社会でありながら政府は益々大きくなって働かざる者まで利益分配や社会保障を充実させ共産主義体制に近いほどだ。共産主義はなくなったのではない。その思想、思考は個の段階にまで浸透されている。食口だって同じように浸透されている。はっきりと線を引かれ壁があったものが、その壁を取っ払ってしまって混乱状態にある。御父様があらゆる壁を取っ払ったと言われる現実投射が今の混乱世界であり統一食口社会なのだろう。そこで全てが分裂して世界は崩壊するのか、はたまた統一糾合できる中心が現れて一つになれるのか。前にも述べたように一つになるということは一つにまとめて頂点に君臨する者が采配権を持つこととは異なる。御父母様はグループ派やサンクチュアリに対して私達が認識している分派という感覚で見ておられるのだろうか。親なる真の父母であられるなら、何らかの喰い違いで離れて距離を置いてしまった子供に対する親のように、その同じ胸をかきむしるような感情を持っておられるはずだ。その親の気持ち故に、たとえ距離を置いていたとしても、家族は一つである家族なのだろう。組織を維持する場合、組織の中心が組織という家庭の家族一人一人に親の想いがあるならその組織は一つだろう。しかし中心者が采配権を持つ君臨する頂点であるなら親ではなく独裁者だ。私達は家族を取り戻さなければならない。それは家族だけが家族ではなく、会社も家族であり国も家族だ。会社には会社の父母がいて従業員は兄弟姉妹だという認識を持つべきだ。国には国の父母がいて国民は、家庭は、会社はお互い兄弟姉妹だという認識を持つべきだ。この世界の関係性の中に父母の愛、子女の愛、兄弟の愛が中心的に関与するようになると世界は確実に一つになっていく。私達は要求するのではなく真の愛を相続した者として示して行動して証さなければならない。摂理的歩みをしているけれど、それは愛なのか、或いは共産主義に見るように独善的な押し付けや無理矢理の型はめなのか、よく考えてみるべきだ。投げ出したい衝動に駆られるときは、おそらく独善的に押し付けようとしている。そこには真の愛は関与しない。

2016年6月15日水曜日

今日の想い 924

私は店の営業があるのでベルベディアの大会には参加できなかったが、店で働いている兄弟の二人は参加してきた。帰ってから様子を聞こうとしたのだが、興奮が伝わるどころか随分なおざりな感じさえ受けた。どうも御母様にお会いして内的霊的恩恵を受けたという様子ではなかった。誰の口からも一様に雨が降ってきて大変だったというコメントが聞かれ、そんなコメントが第一声に上がることからして内的基準は一様に下がっている。とても内的霊的に生きる食口のコメントとは言えないなと情けなさを覚えた。御母様の御話が終わるまでは雨は降らず、終わると途端に土砂降り状態になったようだ。天気をも左右させる御母様を証ししてコメントしているつもりだろうが、御母様は霊能者ではない。霊能者ならそんなコメントも許されるだろうが御母様は真の父母だ。その認識のある者ならもっと本質的に受け取ったものを伝えてほしいと思ったのだが、参加もしていない者が上から目線で言い放っていると一蹴されるだろう。ヤンキースタジアムの大会は御父様が登壇される前に嵐になった。しかしどこからともなくユーアーマイサンシャインの歌声が広がって大きなスタジアム全体で大合唱になった。皆が心を一つにしたことで嵐さえも過ぎ去らせ登壇された御父様の声が嵐に代わって響き渡った。今回は御母様の御話の後に土砂降りになったが蜘蛛の子を散らすように皆去っていった。御話を聞いたのだからそれでいいだろうと皆が皆思っているのだろうか。大会全体を成功させるために大半は居残るべきではなかったのか。ヤンキースタジアム大会40周年記念であるなら、当時を彷彿とさせる雨の中でも、ユーアーマイサンシャインを皆で歌い一体化を御母様に示すべきではなかったのか。それを見られて御母様は勇気付けられないだろうか。アメリカの運勢が御母様の認識ひとつで変わらないだろうか。今回の報告を聞いてひじょうに残念に思った。統一の信仰とは所詮こんなものだというせせら笑う声が聞こえてきた。

今日の想い 923

地上の感覚的なものはこの世の神であったルーシェルによってもたらされたものだ。人間が感覚的喜びを求めることを第一とする限り、人間はルーシェルの末裔であることから逃れられない。病に侵された者は体を癒されることを望んでいる。しかし体を癒されることのみに望みを終結するのは体を第一とした執着がある。痛みを取り除いてほしいと身体的安楽を求める感覚の上での欲求だ。しかしほとんどの場合その欲求は短期間には聞き届けられない。あるいは第二の人生、第三の人生でやっと手にできるものなのかも知れない。痛みに耐えながら、生活が極めて狭められることに耐えながら、癒されたいというその体の欲求が聞き届けられない恨はどこに訴えたらいいのだろうか。恨が積まれていく胸の内を掻き毟り、解放されたいともがき続けながら人生を送る今生は天に訴えてもどうしようもないのだろうか。金持ちもいれば貧乏人もいるように健康体の人もいれば病人もいる。貧乏人が不幸で病人は不幸だと誰もが決めつけるのだろうか。この世を犠牲にすることであの世を立てている。感覚に犠牲を強いることで心情をもたらそうとしている。内的苦悶であろうが外的痛みであろうが、この世で犠牲を払うことで本質的愛、真の愛に生きる自分を培っている。どうせ犠牲として供えるなら未練がましく供えるのではなく、腎臓を犠牲にするなら肝臓までも差し出せばいい。地上で一日でも長く生き延びることより天上の永生生活の環境を整えたほうがいい。老い先短い残された人生なら尚更だ。感情に積もり積もった恨を訴えることのみに意識を向けているけれども、感情を超えて心情に突入する自分に変身することだ。心情主義という言葉は聞いているけれどもその言葉の意味を悟って心情主義に生きようとはしていない。犠牲を心晴れやかに供えることで心情主義に生きる自分を用意する。感覚世界は地上のことで終わるけれども、心情世界は地上でも通じ天上でも通じる。感覚世界の次元は極めて限定的であるのに対し、心情世界の次元のまたがりは際限がない。限られた感覚世界を際限のない心情世界が何層もの次元にわたって包み込んでいるイメージだ。地上の文化、とりわけ感覚世界の喜びを享受できる科学文明はルーシェルによるものだ。しかしそれを否が応でも否定しようというのではない。現実世界に生きるためにはルーシェルの光の部分の肯定も必要だ。しかし肯定したとしても、それによって感覚世界に執着するのであればルーシェルの末裔であることを証している。感覚の光を浴びること以上に心情の光を浴びようとするのが天の祝福を賜った天の真の子女だ。

2016年5月30日月曜日

今日の想い 922

一つになるとは一体どういうことだろう。神様はどうせ結果として一つになるべきアダムとエバでありながら、わざわざその個体を分けて創造された。神様は両極として創造されたアダムとエバが衝突することを予想されなかっただろうか。おそらく衝突もありきでそういう経過を経ながらも一つになることを願われたはずだ。正分合作用は一なる存在から二なる存在に分けられ、新たな新しい一なる存在を創造する為の発展プロセスだ。次元上昇作用といってもいい。一なる御方であった神様はアダムエバ一体圏に住まわれる神様としてその次元を上昇させる。一なる神様の存在が天の父母様の存在に次元を上げている。次元を上げて二なる御方になったのではなく、天の父母様の存在も一体圏という一なる御方だ。私達は一つになる一つになると御題目のように唱えているが、形の上で一つになったとしてもそれは決して一つになって次元を上げたことにはならない。一つになる事とまとめる事とは異なる。一体となって次元を上げた経験のない者は、形の上で一つになる、すなわちまとめることにのみ拘る。まとめる事で一つになれたと錯覚している。TWは一つになったのではなくまとめられただけだ。それでも形の上では一つになったからものの見事にかっさらわれた。もし本当の意味で一つになっていれば、あんな簡単に持っていかれるような不甲斐ないことにはならない。何とか居残った店を一つにしたいと思っているようだけれども、一つにしようとしているのかまとめようとしているのか。まとめて思い通りにできる状態にしたいという思惑があるなら一つにはなれない。手痛い仕打ちを学習することなくTWの二の舞を演じるべきではないと思う。アダムとエバは一つになるべきだった。神様を中心として一つになるべきだった。しかしその過程はアダムとエバに任された。その過程に神様は口を挟むことはされなかった。それぞれの良心に委ねられた。真の父母はそれぞれの責任に於いて一つになる過程を通過し、最終的に真の父母一体圏を為された。一つになられた。私達は真の父母一体圏の勝利を相続し、すなわち一つになる過程を学んでその通りに一つになる道を歩んでいく。もちろんそこにも神様は口を挟むことはされない。一つになれるかどうかは良心がしっかりと立っているかどうかだ。

2016年5月28日土曜日

オバマ広島訪問

オバマ大統領が我が故郷広島を訪問した。滞在は一時間半の短いものだったけれども、日米間、そして世界にとってもこの一時間半の一連の行動は大きな意味が込められ、人類は破壊と破滅に向かうとする近代歴史観を覆し、また新しい歴史の善き出発を導くものでもあった。犠牲者達の犠牲が、捨てられた生命ではなく活きた犠牲として生かされ、その彼等の霊的復活、心情復活を感じ取ったのは私のみならず多くの広島市民、更に長崎市民も含めてそうであったはずだ。それは大統領が進み出て被爆者の代表に接して言葉を交わし、抱擁までした彼等の表情に見られる想いが全てを語っている。私は広島の故郷にこれまでにない誇りを感じた。罪なく犠牲となった犠牲者達の尊い精神の高みを見上げた。犠牲精神が真の愛ならオバマの訪問を受け入れた犠牲の霊達こそ真の愛を身をもって証しした者達だ。そしてここまでくるのに71年を要した道のりは、犠牲を恨みと結論付けるか愛への昇華とするのかの彼ら自身の内なる戦いだった。彼等は肉体を失っても内的霊的に戦い続けてきた。20数万に及ぶ魂達の戦いだった。数年前であれば殺され損だと恨みに燃えて当然の魂達が、真の愛としての犠牲というそれまでに無かった内的価値観に至ることができたのは、真の父母が犠牲的精神の勝利を勝ち取り、その価値観を高く掲げられたことに因っている。真の父母の勝利圏を地上のどこに見ることができるかと、食口ですらその指摘に口籠ってしまうけれども、内的霊的見地に立った者であれば真の父母の勝利圏をそこに見て、それはもはや否定しようのないものだ。地上の食口よりは霊界にいる者達の方がよっぽど認識している。私は犠牲者達を誇りに思うとともに、自分のあまりにも自己中心な姿勢と霊的無知に恥ずかしさを覚えた。何と私は些細なことにすら恨み多き者だったろう。自分が、自分の家庭が誰よりも犠牲を払っているという感情からずっと抜け出せなかった。事実として認めようとも感情として認められなかった。だから不満を覚えたし、信仰の基本である感謝も口から出るのとは裏腹で抜け殻に過ぎなかった。偽善者だった。世論をおして広島訪問を英断したオバマの想いにも、恨みを晴らそうとするのではなく希望の出発として訪問を受け入れた被爆者達の想いにも、真の愛に通じるものがある。彼等こそ真の父母を叫ばなくても真の愛の本質に生きようとしている。誰よりも真の愛主義、心情主義であるべき私でありながら、いつのまにか打算的で政治的な見地に捕らわれていた。後の者が先になり先の者が後になる。いつのまにか逆転して、真の父母を知る私が彼等を見上げる内的状況になってしまった。でも、それはそれで私の願いだったはずであり霊としての喜びが込み上げてくる。兄弟であり子女である彼等が親の位置の私を越えてくれたのだから、、。スピーチするオバマや聴衆を見守るように、茨の冠を被った産業奨励館が背後でやさしく立っていた。

2016年5月23日月曜日

タックスヘイブン

パナマ文書の問題が広がりを見せている。世界的企業に名を連ねる役員や著名な俳優、元国家元首のみならず現国家元首やその側近達まで名前が挙がっている。民間人に関しては黙認するとしても税を徴収する側や税の配分に加担する公人の名が連なるのは国民感情が許さないだろう。あくまでも同義的責任であって法で裁くには難しい部分があるのだが、だからこそ国民感情が許さない。政治への不信は益々大きくなり国の国民統率力は失墜していく。そうなると、国民目線に立つなら国には愛想を尽かし、如何に彼らを追求するかよりも如何に税を逃れるかに意識はいくだろう。追求する意識があるのは国に所属する私だという観点に立っているからそうするのだが、政治への不信が国民としての意識を捨てさせて、彼らを追求するよりも先ず税を無駄金と捉えてしまうようになってしまう。そうなると資産を租税回避地に移すことは何の躊躇も無いのであり当たり前のことになる。それは既に国としての機能が麻痺していることを意味している。これで益々タックスヘイブンへの資産移動は特殊人物だけに留まらず一般人も当然のこととして顕著になっていくかも知れない。これが御父様がいう逃避城時代なのだろうか。貨幣価値、とりわけ基軸通貨ドルの価値はアメリカという国があるから成り立っているが、アメリカが国を維持することができなくなるにつれてドルは紙切れとなる。よってタックスヘイブンにドル資産は移動させるもドルが紙切れになる前に別の資産に形を変えておく。しかしこのパナマ文書流出の仕業は、アメリカ政府の要人が名前を上げられていないことからしてアメリカが関わっていることは確かだろう。しかし文書上に名前を上げられている人物がいる。トランプ候補だ。様々な暴言がありながらもその勢いで指名獲得に拍車をかけてきたようだが、流石にこれに関しては国民も黙ってはいないはずだ。切ってしまったこのカードはトランプ排除の為だったのかも知れないが、一方でドルの信用も失わせかねないという危険を併せ持っている。タックスヘイブンを利用していた者達がこの発覚で取りやめることはない。取りやめて自国に納税するのであれば文書流出の効果は大きいが、裁く法もなく状況は変わらないのみならず、より多くの者達がタックスヘイブンを利用するようになる。経済を実体から金融へと舵取りしたのは政府だが、逆に国から流出させるタックスヘイブンの台頭をもたらした。タックスヘイブンは金融経済の申し子といっていい。金融を摂理貢献の龍とするか或いは巨大な毒蛇とするかは国の経済からタックスヘイブンに逃避させた者達への働きかけが重要になる。それは国の働きかけをいうのではなく摂理を担う者達の働きかけだ。国に頭を下げるのか摂理を担う者に頭を下げさせるのかだ。これに関しては天の父母様の直近存在達の直接の働きかけを見ることができる。彼等が逃避城時代をどのように方向付けて行くかだ。国の支配を逃れた資本は国を超えた事業、すなわち国際ハイウェイ事業に注ぎ込まれて当然だ。どっちみち国の税金や追徴金罰金として取られるのなら、それを国際貢献として名を残すものに使おうとするだろう。脱税者なのか貢献者なのかを今なら選べる。

今日の想い 921

今日は久方ぶりに、ある先輩祝福家庭御夫妻と息子さんが店に来て下さった。サモニムはお体を悪くされて体重も減り歩くのも大変そうだったが、先生は25年前に初めてお目にかかった時と同じように若々しかった。最近基準の下がる出来事があったために、これからどうしたものかと思い悩んでいたけれども、昨日の個団の会長の来店、そして今日の先輩家庭の来店と続き、天が落ち込んだ私を慰めて下さっているかのようだった。今日来店された御夫妻は食口なら誰もが知っている御方だが、私のような者にも随分丁寧に、そして親密に接して下さる。骨相も体格も御父様そっくりで、私の手を強く握ってオレンマニムニダと挨拶して下さる表情は御父様そのものだ。その瞬間御父様が接して下さったと強く思われて、不覚にも涙が溢れた。すぐにも顔を逸らせたので気付かれなかったとは思うが、後の会話を自然にもっていくのに随分苦労した。この店が本当に好きで会う人毎に紹介していると、、食事もおいしいけれどここは心情が込められていると、、御父様の御心情が感じられると、、そこまでお褒めに与ってどう言葉を返していいのかわからなかった。もちろんお世辞が八割がただが、ビジネスライクでは図れないものがこの店にはあると再確認させて戴き、店を展開することもさることながらこの店をずっと守り続けることも私の大きな使命だと思わされた。DCエリヤに御父母様が来られた時はいつもサモニムが身の回りのお世話をしておられた。御食事の要請もいつもサモニムから連絡があった。あの頃のテキパキと指示を出され動いておられたサモニムを知っているので、立ち上がるのも一苦労、歩くのも時間のかかる様子に、どのようにお声を添えていいものか戸惑ってしまった。先回来られたときは先生の母上も御一緒だったが、先月か先々月か聖和された。御一緒の時はまだサモニムは母上を気遣い支えようとしておられたのに、今回は息子さんに支えられていた。同じメトロエリヤにお住まいだといってもDCを挟んで反対側で、そこから一時間はかかるだろう。体調を押して来て戴いたことに感謝を伝えたが、しかしそれを覆うように手を握って謝辞を返される。本部とのビジネスライクな乾いた冷たい遣り取りに辟易していたが、別の側から愛の心情が流れ込み、未だ御父母様の心情圏に包まれていることが感じられて、これで私の霊はまだしばらく生き続けることができる。

2016年5月21日土曜日

今日の想い 920

御父様が最後に為された大会は「天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会」だ。ニューヨークワシントン大会、ラスベガス大会、そしてソウル大会の三拠点で為されている。この大会の勝利によって三つの勝利権を謳っておられる。摂理の総体的覇権的勝利権、神様の解放釈放世界の勝利権、そして最終的結末を締めくくる生涯の勝利権の三つだ。その上で韓国が神様の祖国であり故郷になる。最初の勝利権は人類救済の勝利権、二番目は神様救済の勝利権、そして御父様御自身の生涯の勝利権となっている。その勝利権をもって基元節は確かに超えた。基元節を超えて御母様が地上に残っておられる。そして私達も地上に残っている。残っている者達は残って為すべき使命がある。御母様を中心として内的霊的にひとつになって為すべき使命がある。一つになる、という事の意味を取り違えてはならない。理解も納得もできないことを闇雲にお題目に掲げ猛進することが一つになることではない。日本の、願いを受けてきた信仰は先天時代に於いては誇れるものだけれども、後天時代にも同じように僕ぜんとして物言わぬ呑み込み存在に徹することが一つになることだとは思わない。実子の位置に立ったのなら物言って当然だろう。私はこう思いますと御母様の前で何故言えないのか。御父母様に畏れは抱くとしても恐れは堕落性と関係している。100軒の店舗にどうして固執するのか。100軒のラーメン屋をつくるのと、たとえ10軒であろうと、アメリカが、そして世界が注目する10軒の店舗をつくるのと、御母様はどちらをとられるだろうか。どちらを喜ばれるだろうか。100軒を言うのなら御父様は1000軒とも言われ5000軒とも言われた。その数字を御母様に示せば「ではそうしなさい」と言われないだろうか。中心者は相も変わらず食口の尻を叩き続け、首を傾げる目標を印籠を差し出すが如く叫び、訳の分からない事業に復帰した大切な資金を差し出し、意見のある者には中心批判という観念で苛め抜く。これが真の愛を掲げる家庭連合だろうか。その代表的位置に立つ中心だろうか。ピラミッド組織の統一教会がその使命を終え家庭連合という家庭の連合体となったにもかかわらず、組織は相も変わらずピラミッドで、その中心、トップという観念に捕らわれている。その意味での中心に誰がなっても混乱を来すだけであって、連合体としての代表という観念に変えるべきだ。例えばでいうとレストランはシステムで動く流通の卸しとは異なる。より創造的主人意識的な業態だ。それを無理にでも外的に一つにしようとすれば創造的主人意識的意志を殺いでしまい、レストランとしては成り立たない。一方で摂理があり、一方で現実がある。現場が常に現実に立っていて摂理からずれようとしているのではなく、現場の中に摂理推進の種があり芽が出ている。それを認めようとせず、組織の中心は常に摂理に立ち現場はそれに従うべき、という先天の旧態依然の認識がどれほど摂理を妨げているだろうか。その証拠に明らかに外に出てレストランを開いている食口の方が花開いているし軒数も多い。その摂理の理解も金儲けぐらいの低次元認識で、そんなものに人生を捧げて来たのかと思うといたたまれない。三大勝利権で基元節を超えた。超えたけれども、先天時代の亡霊が未だに闊歩している。

2016年5月19日木曜日

今日の想い 919

アダムとエバ本人は堕落して救世主を待ち望んだろうか。堕落の血統が人類歴史に刻まれていきながら何時の誰の時点で救世主を求めただろうか。ユダヤ民族が選民思想のもとで糾合されながら、キリストを待ち望んだ群れであることは旧約から覗える。しかしながら彼等はイエス様を救世主として迎え入れることはなかった。彼等が求めていた救世主像とは異なっていたからだ。それどころか彼らにとってイエス様は律法に反する教えを伝える反動者だった。クリスチャン達がイエス様の愛の教えを宣教しながら、キリストイエスの再臨を待ち望んだことは新約から覗える。統一食口は文先生を真の御父様といい再臨主だと信じているけれども、殆どのクリスチャン達は歯牙にも止めないし中には反キリストと叫んでいる者もいる。ユダヤ民族からみたイエス様が律法に反する者であったように、クリスチャン達からみた御父様はイエス様の愛の教えによって形作られた再臨主のイメージには全くそぐわなかった。ユダヤ民族もクリスチャンも、彼等の思い描き求めた救世主像、再臨主像は、本来のそれとは異なっていた。像、イメージとは何だろうか。堕落人間にとってイメージは主観的であり御都合的であることは間違いなく、イメージ自体に既に堕落の色合いが込められていると言っていい。しかし一方で人間はイメージを持つことなく求めることはできない存在でもある。求めない存在に対して相対することなどできない。たとえ救ってくれる存在が傍にいたとしても素通りしてしまう。人類は歴史を通して救世主のイメージに対する堕落的色合いを消してきた。御利益的なものを削ぎ落としていった。民族を導く王、全ての王の頂点に立つ王の王というイメージを捨てる必要があったし、再臨主は天から下る超越存在だというイメージを捨てる必要があった。私達食口はユダヤ民族やクリスチャン達のようにイメージを持って御父様を待ち望んでいたのではない。原理を受け入れることで植え付けられた原理的イメージは御父様の存在そのものだった。しかしそれは多分に人間御父様としてであったし、聖和された今人間御父様に代わる存在を求めている。それがある食口は御子女様であるけれども多くは御母様のはずだと思っている。アダムの失敗により人類は第二アダムを求め、第二アダムの全うできなかった使命を担う第三アダムを求め、今は第三アダムの勝利圏を相続した第四次アダムを探している。私達は本当に第四次アダム心情圏に立っているだろうか。今日の曇天の日のように天を遮られ、暗中模索しながら肝心の羅針盤である良心さえはっきりと掴み切れておらず、拠り所のない放浪者と化した食口達が霊的に流浪している。神人一体理想を完結しない限り、どのようなイメージであれ、どのような存在であれ、救い主を求めざるを得ない。御父様は私達に遺言書を残された。八大教材教本だ。このみ言葉こそが救い主だという観点に立ち、人間御父様に代わる霊的支柱をそれぞれの中に、家庭の中に、国の中に、世界の中に立てなければならない。今は待ち望んでいる時ではない。自らが主体的に能動的にこの霊的支柱を立てる時だ。中心がどこかにあるのではない。中心は自分の中に、家庭の中に、国の中に立てるものだ。第四アダムを待ち望みながら更に二千年を送ろうとするのだろうか。イエス様が天国はあなた方の中にあると言われたように、救い主は私達の中にある。み言葉による生命、み言葉による愛、み言葉による血統を私の中に見出し、それが救い主であり中心だ。

2016年4月29日金曜日

今日の想い 918

御父様の「栄光の冠」のフレーズに、信じたら騙されるのに騙されても信じなけばならないかと自らに問われる下りがある。次元は低いけれども私なりに今同じような心境だ。投資してもほぼうまくいかないと思いながらもそれでも投資しなければならないのか。出せと言われれば出してきたのは、日本食口がそうであったように自分とて同じだ。日本の信仰として中心に対して絶対であるのは芯の芯まで浸みこんでいる。差し出した後の責任はアベルが取り神様が取るのであり、差し出すまでが自分の責任というものだ。しかし後天時代に入ってその捉え方はどんなものだろうかと考えてしまう。原理的にどうだと言う前に自分の良心がそれを許さない。差し出した後の責任も取るべきというのが、御父様が聖和された後、御父様に繋がる私の良心(神)に問う答として返ってくるからだ。投資という概念はビジネス上のことであり、納得した上で出すというのは当然の事なのだが、しかし私達がビジネスと捉えている歩みは摂理という願いに沿ったものであり、摂理から外れるのであればビジネスの道理を曲げてしまうこともあって、現にそうしてきた。レストランは生き残る体力を削ってでも中心に捧げてきた。この店だけでも投資や貸付の名目で数ミリオンという万物を捧げてきた。捧げてきた結果がレストランの減少でありそれに付随して担当する兄弟さえも失ってきた。そんな状況でありながら、展開して欲しいと願われたレストラン摂理の願いに沿ったことにはならない。今に至る原因や経過を見ようとしないで、今の惨憺たる状態だけを見て担当する者達の情けなさを指摘し、既存の店の業態の在り方を否定するのは間違っている。思うに日本の食口達の状況とレストラン部の状況は実にリンクしている。泣きっ面に蜂状態のままで日本もレストランもそのまま潰れるのを許して果たしていいのだろうか。多額の借金までして、子供の教育費や養育費まで削って捧げてきた、そのなれの果てが今までの歩みはいったい何だったのかという問いしか残らないのならば、歩んできたのは犠牲精神ではなく棄て去り放棄してきたに過ぎないということになる。「栄光の冠」には裏切られても信じるべきだと結論され、裏切った者をも愛することで勝利を手にしたと断言されている。さて、私達の歩みは犠牲精神だったのか、それとも捨て去ったに過ぎなかったのか。前者であるなら誰に対する犠牲だったのか。信じて差し出したのなら差し出したものはどうなりましたかと先ず問うべきであり、それは見返りを期待してのことではなく摂理に貢献したのかどうかの確認であり、もし実を結ばなかったとしても相手を批判するのではなく、許して愛するところまでいかなければ犠牲精神ではなく棄て去っただけだという結論になる。

2016年4月19日火曜日

今日の想い 917

もし霊界のことを考えなくて良ければ、人間は地上的幸福を謳歌できるだろうか。科学技術、医療技術が最高度に進化し、人間的愛でお互いを思い遣り、一通りの許される欲望を満たして人生を送り、そうして苦痛や不安を伴わない死、永遠の無に帰っていく。科学によって説明できるものを真実とし、宗教的なもの、五感で感じ取れないものは非科学的だと一蹴する者達の幸せはおそらくそんなところだろう。でもみ言葉を受け入れた食口であっても同じ次元に立つ者も少なくない。人間のそういった既存の幸福観が地震による建物崩壊とともに崩れている。今人間の魂は人類全般に及んで試練を受けている。人類の中でも日本の使命は大きく、日本人として特にその試練は大きなものだ。天災という人間の能力進化の追い付けない、相手にするにはあまりにも無力に等しいその自然威力を前にして、この世の人間は試練を受けている。天災は誰であろうとも避けられないものであり、それを前にして無力感、絶望感に苛まれ、人間がどれほどちっぽけな存在かを思い知らされる。良き行いを心がけていれば避けられるものでもないし、神様を信じて信仰を強く持てば避けられるというものでもない。人間はこういう時にこそ精神存在であることに気付かされる。生き延びる事に執着する凝り固まった魂が、生命が危険にさらされて嫌でも解放される。科学万能を信じた者は無力さから謙虚さを学び、信仰を持つ者は自然への畏れから犠牲の意味を学ぶ。悪人は悔い改めることを体験するだろうし善人は善の本当の意味を改めて問いかける。それらは次元は違えども自分という人間が精神存在として、精神進化に向き合っている。その意味では天災は人類を善へと志向させる。しかし天災それ自体に神様の意志が働いているとは思えない。そこに神様の意志があって為されるなら神様は裁きの神様となる。人間は堕落しているけれども自然は堕落していない。人間は自由意志で堕落したけれども自然は堕落する自由意志を有していない。しかし自然はある意味、霊界と地上界の精神存在達によるせめぎ合いの過程に応じた相対環境として実体化している。人間の活動は地球の表面で行われているので地球の表面部分と限られた大気圏の事しか知らない。地球の内面がどうなっているのか本当のところ誰も知らない。関わる必要性を覚えないからだ。実は地球の核から地表までのあらゆる層に、人間という精神存在が立つまでのあらゆる精神存在達の歴史が刻まれている。いや今も生きて彼等の活動領域になっている。彼等を地底存在と表現できるのかもしれない。天災の発生した場所は過去の精神存在の活動環境の表出と、地表に於ける人間の活動環境との接点であり歪部分だ。両者の相克の地上的表現が天災であり、両者の相克から受け入れと統一を見るとき新たな精神が立つ。御父様は海底生活や宇宙生活が近い未来に於いて為されることを話されたことがある。その時は随分突拍子もない話だと気にも留めなかったが、宇宙生活は別にしても海底生活はもし可能であるなら過去の精神存在や今の人間の認識の及ばない環境であることは確かだ。レムリア大陸が沈んでアトランティス大陸が浮上し、アトランティス大陸が沈んで現在の新しい大陸が浮上した。海面の上昇を言うけれどもそれは陸地に立って言えることで、海面に立てば陸地が沈んでいることになる。御父様の予言書にはヒマラヤの話やハワイの山が最後に残る話をされている。それがどの程度の将来的出来事なのかわからないが、そうなって海底生活が余儀ないものとされるには、地上生活が限定的だという事情があり、人間の技術や文化がそれに応えるものであるべきで、今の地上文化である自己中心的有り様のままでは難しいだろう。ある文化の成り立ちは過去の文化の土台の上に建てられたものではなく、過去の文化の破壊によって新しく築かれてきた。だから文化の中心は起こる毎に移動してきた。今環太平洋時代に入っている。中心摂理は海洋摂理であり海を支配する者達の覇権が闊歩し文化が起こる。彼等は執着心を超え自己中心主義を超えた者達だ。王権を即位された天の父母様の息がかかった者達だ。現在から未来を見届けようとすれば無理があるが、未来のイメージが確かなものであればあるほど逆算することで現在の置かれている意味と次なる段階が見えてくる。阪神大震災から東北大震災と津波、そうして今回の熊本地震、人類の代表である日本に新しい精神が立つまで崩壊と洗濯は続く。犠牲を供えた魂が加算され続け、彼等の想いである精神革命への拍車も加算され続ける。

2016年4月17日日曜日

今日の想い 916

新しい時代が始まり、新しい中心軸が立ち、新しい意識が人類に目覚める。勝利されたことによる霊的事実が現実という地上的事実へと向かう一連の産道通過を、人類は今の今経験している。その代表的立場で産道の先頭に立っているのが祝福中心家庭達だ。未だ出口の見えない先頭を行くのも大変なのに、後ろを振り返りながら後に続こうとしている人類を抱え込む余裕が果たしてあるのだろうか。氏族メシヤとは氏族を出口まで導く使命を与(あずか)る者達のことであり、人類のカナンの福地である全く新しい意識世界へと彼等を導いていかなければならない。当の本人にすら新しい意識世界がどのようなものか把握できてもいないのに、氏族の彼等を産道に向かわせ出口まで導くことができるだろうか。人間は精子と卵子の出会いで形作られ母の産道を通過して母の胎から大気世界へと生れ出た。さらに大気世界という胎から昇華という産道を通過して愛の大気の世界である霊界へと生れ出る。人類堕落によって、大気世界へと産出は為せるものの、正しく生きて昇華という産道を通れずに死という地獄への道を下らなければならない。これを阻んで昇華への道へと導くには地上における交差が決め手となる。簡単にいってしまえば祝福だが、祝福を祝福として受け取れない人類は、地上における意識転換という平面的交差を通して縦的である祝福を受ける器になれる。これがアセンションだ。人間の意識の変わり様は世代ごと、時代ごとに見れば変わっていることを認識できるが、今の大変革、大転換は自分の中に全く新しい意識を見出せるほどの時間の圧縮状態にある。それは決して穏やかに心地よく意識改革できるものではなく、既存の認識に固執すれば実に困難で厄介な環境に放り投げられる。これほどに生きるのは大変かという状態になる。しかし甘受することを学んだ者は、この禊を通して(産道を通過して)、新しい意識を備えた新しい自分へと生まれ変われることを予見している。そこが安産か難産かの分かれ目だ。しかしどちらにしても人類全て新しい意識世界へと次元を上げる。それを拒む者はまさしく死産であり、一度死んであの世からの回り道をしなければならないだろう。誰もが困難な状態にある。それは祝福家庭もこの世の人たちも同じだ。しかし今に留まらないかぎり確実に出口に向かっている。アセンションを越えれば誰もが祝福家庭を仰ぎ見るだろう。

2016年4月8日金曜日

今日の想い 915

人皆それぞれに、思うところの願いを叶えたいという欲望を持っている。願いを叶えられれば自分は幸せになれる、或いはより幸せになれるという漠然とした期待がある。実際のところは欲望を叶えたことで得られる幸福感は得た瞬間から色褪せていくものであり、絶対的な幸福感、永遠なる幸福感を求めて欲望は尽きない。次なる願い、更なる願いを叶えたいという欲望に心を捧げ続けてその途上で生を終える。講論の総序には「自己の欲望が満たされるとき幸福を感じる」と記されているが、それは幸福感をいっているのであって幸福そのものではないのではないかという自論が私の中にあり、幸せは勝ち取るものではなく委(ゆだ)ねることで与えられる、すなわち絶対主体を見出した完全対象として主体の愛に包まれることが幸福を得ることだと理解して生きている。善なる欲望、悪なる欲望とあるが、復帰歴史を見る限り善悪観は時代時代で異なり人それぞれでも異なっている。私達が語る善悪観は実は社会的に線を引かれた善悪観であったり、一方的に受け取った原理観によって線引きされた善悪観であったりで、良心からのものとは微妙に異なるのではないだろうか。原理を知っているといいながら探り探り生きている状況はこの世の者達と変わらないのかも知れないが、誰であれ自分の中の良心(神)を見出した者こそが良心という主体を得て愛に包まれ幸福を得るはずだ。世間一般に言われる良心は良神の暫定的影であり、良神を立てようとするなら真の父母に繋がり祝福されて重生しなければ良心という影は影のままであって、天の父母が私を天の血統圏にある存在として認識され相対されることはないだろう。品行方正で人格者だと言われる人物であっても、影に包まれても幸福感は手中に留まらず手からすり抜けて落ちていくのであり、自我の永遠性の認識もなく寂しくこの世を去る死を迎えざるを得ない。人類の代表である食口が今悟らなければならないことは良心が良神として立っているかどうかであり、その主体を得た絶対対象になれれば真の愛に包まれ幸福を得る。そうして神人一体存在は新たな主体となり中心となって氏族や国の、或いは社会の存在を新たな対象として抱え込んでいく。神人一体の「私という良神」という概念が備わる為には真の父母に繋がり、真の父母の血統圏に入らない限り、真の父母は真の父母様という尊敬する他人でしかない。私という氏族メシヤ摂理の達成は、「私という良神」が立たない限り御題を他から与えられた立場のままで他人事だ。氏族復帰をどれだけ御題目として唱えてもその摂理の入り口にも立ってはいない。

2016年3月26日土曜日

今日の想い 914

後天時代ははっきり言って実績主義だ。実績のない者は淘汰される。御父様と御母様と比べて、御父様は激しく怒りもされたけれども、それでも許して全ての負の責任は御父様が取られた。必ず御父様は許されると、当然のようにそれに甘えてしまい、頑張りますと言葉だけで終わらせ結果を残せなかったのは確かだ。しかし御母様は違う。結果として残せないことを指摘はされても大きく感情に表されることはないだろう。しかしその者に対しての摂理は成長を待たず諦められるだろう。責任を果たし結果を残す者に焦点をあてられる。時が急がれているからだ。御自身の年齢も踏まえられ一刻の猶予もないことを知っておられるからだ。だからこぼれていく者に情をかけている余裕などない。それは人間的に判断するなら冷たい厳しい御母様かも知れない。しかしそれもまた甘え体質にどっぷり漬かった私達を変えようとされる御母様の愛だ。また御母様は多くを語られない。御父様が生涯をかけて語られたのであり、それでみ言葉は十分すぎることを御存じだ。重複して語られる必要もないし、語って一方的に受け取らせても眠りこけるのが落ちで(内的な意味で、、)食口はその有難味さえ覚えないだろう。御父様が残されたみ言葉があるのだから能動的に求めれば受け取れる。その方が身にもなる。み言葉を勉強すれば何をすべきかは明らかであり、敢えてこうしなさいああしなさいと口元にまで匙(さじ)を差し出す必要はない。今に至って何をすべきかわからないという者は放って置くしかない。そんな者に構っている余裕はない。そのように御母様は私達の能動的な姿勢を願われている。だから後天時代は実績主義だ。しかし実績をもたらそうとすれば内的霊的条件が満たされなければ実績を見ないことは当然で、確かな正しい動機を備えてこその実績主義だ。その意味でも天国は激しく奪われている。天の父母様が受け取られる実績を残す者によって奪い取られている。実績を残す者が私達が線引きしている食口らしき食口だとは限らない。祝福中心家庭が手をこまねいているうちに、意外なところから実績を差し出す者が出てくるかも知れない。

2016年3月25日金曜日

今日の想い 913

統一食口社会が今の状態になるこれまでの経緯や、それぞれの間の遣り取りやらを見てきながら、殆どの食口はもはやこんないがみ合いは、お互いの足を引っ張りこそすれ、摂理を進めていく上で何の役にも立たないことがわかってきたはずだ。分かれたなら分かれたなりに如何にそれぞれ摂理を進めるかに邁進した方がいい。分かれていても摂理への推進熱がある以上それぞれの基準なりに霊界の協助も天の計らいもあるはずだ。2016年という年霊がどのように私達の意識に働き、どの部分に熱がもたらされ、そして気の風がどう吹いているのか、、。世界情勢はメディアによって選択され色付けされた情報なのでそのフィルターを外さなければ見えるものも見えてこない。祝福家庭として御父様の霊の一端を私の中に見るのであれば、世間の誰よりも2016年の年霊の本質を理解していなければならない。み言葉を語って感化させるのも大切だが、彼等が大きく頷くほどに世の動きの見通しを明確にし正しく未来予言する私を証することで彼等は私達に一目置くようになる。それができなければ彼等は天の父母が存在することも認めず、私達祝福家庭に天の父母が共にあることも認めない。人類が真の父母に繋がるのは私達祝福家庭次第だというのは霊連世からして当然だという見地に立てば、先ず私達が2016年にどうあるべきかを認識しなければならない。2016年は私達の従属的な受動的信仰を完全に否定し、良心の自由を得る能動的信仰を確立する年だ。それは堕落以後の私から堕落以前の私、開放釈放された私を確立することでもある。その大きな試金石のひとつが御母様の独生女発言であり、この爆弾発言を統一食口社会が混乱している今わざわざ発言されなくてもと思うかも知れないが、混乱混沌の今だからこそ発言されるべくして発言された、それは私達が変わることができる化学反応でいう触媒の働きがその発言にある。それを受け入れれば霊的化学反応を起こし、開放釈放された自我の意識を確立できる。「受け入れる」という言葉を誤解して欲しくないが、闇雲に信じるのは受け入れることではない、、とだけ説明しておく。それは触媒が同様には働かないからそれ以上は説明できないのであり、二次的なもの三次的なものを踏まえながら変化させていく者も出てくるからだ。基元節を超えた御母様は先天時代の御母様とは異なる存在であり、神様の一人娘(独生女)であり、さらには神様の相対であることから天地父母が立ったのであり、それ故に開放釈放された自我は私の中で意識を確立できる。混沌の中で多くの者は流されていき、新しい自我意識を確立した者だけが摂理の願いに応えるべく生き残っていく。先天時代の御母様ではなく、基元節を超えた異なる位相に立たれる御母様が私とどういう関係にあるのか、、。内的にも心情的にも切っても切れない自分だという実感がない者は後天時代に入りながらも後天時代には生きていないし、開放釈放された自我の意識が芽生えてもいない。それは言葉を変えると第四次アダム心情圏に入っていない自分だということだ。

2016年3月22日火曜日

今日の想い 912

二人のイエス様がいたように、二人の御父様(龍明と鮮明)がおられたのであり、そして二人の御母様もおられた。一つになられることでイエス様も御父様も、そして御母様も立たれたように、私が立つ為には私の中の二つの存在が一つになる必要がある。心と体という二つの存在が一つになる必要がある。心と体の戦いの場は天でもなく地でもない。心魂という私の内面が戦いの場だった。心に表象されるアベル存在が一方で声を発し、体に表象されるカイン存在が一方で声を発する。全てが主体対象関係によって存在しているように、私の中の主体対象関係を正しいものにすることが私の存在を決定する。一体化とは神様を中心とした一体化であり関係性を正しくしてこその一体化だ。二人のイエス様については何度か述べたが、多くの者はそれを物理的地上的に捉えようとするからあり得ないことだと受付もしない。しかしそこに神様の独り子が霊肉の実体として地上に現れるには聖別されてきた血統(血統とは霊肉によるもの)だけではなく、縦的な天の血統がスパークしなければ現れることはできない。天地父母からのものと天宙父母からのものが垂直の位置で交わる時があって田舎者のナザレのイエスから神の独り子イエスとなられた。同じ肉体を着てても違う存在であることに母マリヤは戸惑い次第に摂理の願いからずれていく。同じように忠母様も龍明とばかり思っている存在が鮮明という異なる存在になられ戸惑われた。その最も代表的なエピソードとして興南収容所の御父様を訪ねていかれた時のご様子を私達は知っている。御母様の独生女発言に対しても多くの食口が戸惑いを隠せない。しかし私達は過去のイメージの御母様に捕らわれることなく、天がスパークした異なる御母様であることを受け入れなければ御母様を中心とした新しい摂理に本流として参画することはできない。それは御母様に従うことを善しとした者達であっても同様で、それだけで摂理の本流になれるのではなく、位相を上げられた御母様に全く新しい御母様を見、御母様に新たな希望の光を見、その光に貫かれて自分も180度変わっていくのを見なければ勝利圏を相続した祝福家庭とは言えない。

今日の想い 911

全てに時がある。アダムとエバは時ならぬ時に時の行為によって堕落した。よって時の時に時の行動をすべきなのが復帰され内外の次元を高める私であり、その為には今の今がどういう時なのかを悟らなければならない。主管すべきは私自身だと思っているが、それはその通りだけれども、時に主管された私を解放すべきであり時を主管しなければ私は変わらない。変わり目として次元移動できる時の揺らぎを捕らえる、すなわち潮目を見ることができる私になるにはどうするか。アダムとエバにとって堕落の時期は大きな潮目だった。愛の試練を乗り越える潮目だった。乗り越えて愛の勝利を勝ち取ればアダムとエバは完成期へと次元移動できた。アダムとエバの愛の試練は当事者にとっては愛の危機だ。時空の隙間は試練の時であり試練の時は現実的には危機状態だ。今統一食口社会は危機状態にある。個人の信仰に於いても家庭に於いても、そうなれば氏族復帰をしていく上に於いても、もちろん教会も家庭連合になりはしたが教会の柵(しがらみ)を引き摺り続けて危機状態にある。この状態をどう乗り越えるか。それは絶対信仰、絶対愛、絶対服従しかない。理解できる説明を求めている限りは乗り越えることなどできない。家庭連合に留まるかグループ派かサンクチュアリ派か、どこかに着こうとするから理解できる説明を求めてしまう。納得する説明を求める以前に求めるものがあるはずだ。それは自分の良心(神)の願いだ。その良心(神)に天の父母様は現れるのであり良心に絶対信仰を立てること=天の父母様への絶対信仰だ。全てに時がある。今は天宙の一大変革期にある。よって人類一人残らず変革せざるを得ない。誰に従うか、グループ派に従った者、サンクチュアリに移籍する者、彼らを詮索する意味などない。彼等の良心がどう働いているのか、本当に良心の声に従っているのかなど当人にしかわからないからだ。サタン的な霊的活動故に分かれているのか、それとも神様の作戦によって分かれているのかわからないからだ。先天時代はサタンとの戦いだった。後天時代は誰がより天を愛し御父母様を愛するかという愛の戦いだ。彼等がサタン的だと思えるとしたら、それは相変わらず先天時代の認識によってそうなっていると思う。天の父母としての心情を思えば彼等のために祈りこそすれ敵愾心を覚えるのは違うとは思うが、しかしそんなことよりも、先行き短い今、自分の良心の願いに応え有終の美を飾る統一信仰の結果を残すのに忙しくてそれどころではない。私は論議のままで地上を終えるなら、これほどもったいない話はないと思っている。全てに時がある。今は実りを刈り入れる時だ。収穫時に御託を並べていれば誰か別の人が実りを刈り入れる。外的にもそうであり内的霊的にもそうだ。先の者が後になり後の者が先になる。天国は激しく奪われている。誰から、、?そう、私達統一食口から、、。

2016年3月20日日曜日

今日の想い 910

2001年1月13日神様王権即位式、そして2013年1月13日基元節、このふたつに共通するのが13数で、日の段階に於ける13数から年の段階に於ける13数へとステップアップしている。しかし前者は陽暦であり後者は陰暦だ。2010年に天暦を提示されて陰暦陽暦を用いるようになったが主体の陰暦には陽暦にはない閏月が同じ月を重ねる形で出現する。これによって日の13数と年の13数の間に月の13数が組み込まれたことになる。天暦を提示された頃に霊連世というお話をされ、神様霊連世協会が私達が中心にして進むべき団体名称だと話された。霊は霊界、連は連合、世は世の中で、霊界と肉界がひとつになって神様の家庭と国と世界、そして宇宙にならなければならない。すなわち霊界と世の中を連合が結ばなければならない。連合が意味するところは家庭連合であることは当然で、統一教会から家庭連合へとその名前が変わっただけではなくその意味するところを良くわからなければ霊界と肉界が一つになる道は遠ざかる。私達の意識改革が早急に願われており、その改革の度合いに応じて実体の天一国は実現されていくはずだ。神様霊連世協会は天地父母協会であるとも言われた。今や神様が主人となり、神様が父母となる真の父母を中心として天地父母協会になる。神様が王権に推戴されても主人とならなければならないと御父様は話されており、それが地上の主人となる天地父母であり天地父母の布告出発D-DAYが基元節ということだろうか。しかし霊世ではなく霊連世となっているのは明らかに連合を介してということであり、連合を無視して霊世が軸として立つわけではない。そう理解すれば天地父母にとって家庭連合が重要であり、家庭連合なくして天地父母は立たないとも言えるのではないだろうか。日があって年があるのではなく、日があり月があり年がある。陰暦を主体とする天暦、閏月である13数を踏まえて新たな年経緯が立つ。陽暦は創造する神、唯一神という被造された位置から見る神概念に立っており、陰暦は創造する位置からの神様御自身の概念に立っている。原理講論は前者であり本体論は後者、唯一神創造神天の御父様は前者であり、夜昼の神様ならびに天宙父母天地父母は後者となる。陽暦は陰暦を否定するものではなく陰暦も陽暦を否定するものではない。主体対象関係はあくまで相対関係であり主体が上に留まらず対象が上になり主体が下にもなる。上意下達意識に固まったピラミッド組織的意識から先ず脱する必要がある。特に日本食口はそうだ。しかし意識改革はあくまでも組織を抜け出して為されるのではなく、組織の中にいてこそ改革ができる。ここまで言ったからには私の思うところを述べると、日本食口は是非とも日本国外の拠点も持つべきだ。日本の中に居続けながらの意識改革はなかなか難しいだろう。日本食口が世界に出て行ってこそ御父母様の内的霊的勝利圏は世界に根付くはずだ。日本に留まり続ければ居場所を見つけられず根付く前に腐ってしまうかも知れない。組織を捨てるのではない。故郷を捨てるのではない。新たな拠点を持つことで願われる家庭連合となれるだろうし氏族復帰に道を見出せる故郷に錦を飾ることもできるはずだ。そうなって形に見えてくると霊連世が軸となるという実感が伴うだろうが、しかしそれが人任せ成り行き任せでは自分が軸にはなれない。私が13数に立つためには先ず3数が必要で4数に立ち、3数が対象を立てて7数、自分の対象も含めて8数に立ち、3数それぞれが4数を立てれば12数で13数に立つことができる。その数理の実体圏を生きて地上で立てようとすれば移動も視野に入れるべきだ。

2016年3月12日土曜日

今日の想い 909

五感では感じ得ない存在を認識する場合であっても、五感から受け取る個々の情報を総合的に捉えて全体像を認識するのと同じで、霊的五感による情報を総合的に捉えながら霊的存在の全体像を認識していく。私達食口は神様という存在を全く否定しないだろう。存在されて当然だと認識している。それは五感から受け取った情報からではなく霊的情報、それは聖書も含めてみ言葉情報からくる霊的情報なのだが、それを総合的に捉えて神様の全体像を認識している。ここで厄介なのは人間が霊的無知であり霊的五感が啓発されていないにもかかわらず、み言葉という霊的情報で把握しているために霊的感性による実感的内容は将来的に受け取れるという信仰を否定してしまえばその認識は一変に霧散してしまうということだ。霊的認識のほとんどは信仰生活が長いとしても未だに信仰を土台にしたままだ。天の父母様という新たな概念を御父母様は私達に提示された。その概念を今の自分は理解できないというのは当然なのかも知れないが、それは有り得ないと否定してしまうのは実に愚かな判断だ。御母様はどうも霊的に見えていないと、御母様を霊能者の力あるないの基準で測ってしまうという愚かさ、霊的無知にもほどがある。霊能者の位相とははるかに異なる御母様の位相を地上という平面基準で捉えることの大きな間違いが全く分かっていない。地上は一つの次元ではあるけれども霊界は多次元にわたっている。霊能者が霊的に見える次元と同じ霊的次元におられる御父母様ではない。霊界が一つの次元のみであるなら霊能者によって救われるはずであり真の父母など必要ない。結局は霊的事柄の何一つ分かってはいないらしい。そんな程度で霊界に移籍すれば大混乱の自分を見ることになる。唯物主義者のように霊界などないと結論付けて肉体を脱げばその認識故に霊界にすら入れず、地上にしがみつく為に最大恐怖の体験である死を限りなく実体験し続ける幽界をお化けとして彷徨うことになるが、霊界の実情を知らないにもかかわらず自分が勝手に思い込んだ霊界認識のまま肉体を脱げば、真の愛の救いの光の届かない薄暗闇で御父様をひたすら探しまわることになる。限定的霊界認識は極めて限定的な救いにしか与れない。肉体を脱いでしまって信仰を立て直すことなどできないからだ。み言葉を理解しているという驕りを捨てて御母様の言葉を信仰として捉え理解できるよう内的努力を試みるべきだ。天の父母様がおかしいと御母様を否定する前に、御父様の夜の神様、昼の神様は当然理解しておられるのかどうか、、。それも理解できないのであれば御父様をも当然否定すべきだがそうは思えない。ならば理解できない論理故に御母様を否定しているのではなく感情で既に否定している。

2016年3月9日水曜日

今日の想い 908

人は誰も現実と理想の狭間で生きている。理想実現への信仰が弱ければ地に足を埋めて身動きできなくなる。逆に信仰が強ければより理想へと足場を進める。足を埋めて身動きできなくなるのは良くないが、しかし足はしっかりと大地を踏みしめるべきでそれでこそ理想への階段をステップアップできる。抱いている理想が現実逃避によるものだとそれは理想ではなく仮想翼を持たせた妄想に近い。精神は翼を持っているけれども心魂は持っていない。理想に向かう段階的目標をクリアしていく以外ない。理想と妄想が全く異なるものであるように、信仰と現実逃避を見分けなければならない。堕落性の厄介なところは信仰だと自分に言い聞かせながら実のところ現実逃避している場合が往々にしてあることだ。信仰は実を結ぶけれども現実逃避は実を結ばない。信仰生活しているといいながら実を結ばないのであればそれは現実逃避ではないかと一度立ち止まるべきだ。現実に主管されるのではなく現実を踏まえて主管するには現実と理想をしっかりと両の手で捕まえておく。それは私という存在が現実と理想の架け橋、現実と理想の仲保となることであり、具体的には現実に対して喜びを得られる理想への衝動を捕らえ、一方で現実的実りを理想への供犠として差し出せるものを見出していく作業が必要になる。それが「現実に流される」から「現実を踏まえる」への転換点になる。御父母様が勝利宣布宣言を為されながら真の父母としての使命を全うされたことは、天と地の架け橋になられて、現実である堕落圏の地上に人間本来の喜びである天の創造理想を差し出してこられたと表現することもできる。であれば私は現実的実りを理想に対する供犠として差し出すのがカインの正道だ。それを御父様が分かりやすく説明して下さったのが報告祈祷だ。供える現実的実りがなければ報告祈祷はできない。しかしその為には理想が私の理想として衝動を覚え続けることが必要で、み言葉訓読しながら衝動を覚える熱を私の中に見なければならない。私が燃えているかどうかだ。御父母様が差し出してくださった理想に対してほぼ理解していないのは霊的無知だから当然といえば当然なのだが、勝手な認識で妄想的に捉えたままだと熱するのも早かったが冷めるのも早く、理想はますます遠のいていく。私という現実と理想の架け橋を分断することになる。

2016年3月6日日曜日

今日の想い 907

御聖和されてから摂理がどう動いているのかわからず中途半端なまま浮いている。もちろん御存命の間も摂理の動きをはっきり捉えていたわけではないが、それでも御父様主管のもとで摂理に立っているという認識があり自負もあった。新たな摂理的内容が御父様の口から出てそれに応えようとすれば、それに合わせるために人材もお金も投入せざるを得ない。自ずとそれまで立てようとしていた外的基盤の到着地点は遠のいていく。日本は確かに先天時代、内的霊的な基盤を立てるためであって外的な基盤が優先されたわけではない。日本に比べればアメリカは緩いところがあって日本のように鶏の首を絞めてまでノルマを追求し霊的基盤を立てるということはなかった。しかも外的基盤の多くはここアメリカに投入されてきた。だからそれなりの外的基盤はあった。しかしながら築いてきた財産の殆どはUCIに持っていかれた格好になってしまい思惑とは違った状況になっている。TWもその一つでありアメリカの外的基盤だったが今はUCI下にある。レストランは日本のミッションのアメリカ支部のような立場で、外的基盤を立てることより献金に重点が置かれた為に日本に近い内的霊的基盤を担当したと言えるかもしれない。UCIは外的基盤のないレストランに目もくれなかった。最初はレストラン摂理として出発したのだが、還故郷の摂理からは一転して外的な主要摂理から外されていったからだ。しかしUCIの問題で外的基盤であるTWは失ってしまい、外的基盤とは言えないレストランだけが数件残っている。TWは見せて誇れる教会の事業体ではあったが海洋摂理全体の観点からはどうだったのだろうか。流通やレストランも含めた小売だけが海洋摂理ではなく、いやそれらは海洋摂理の為の基盤に過ぎず、その基盤から魚の養殖や海を制する本格的な海洋摂理へと向かうべきではなかったのか。要するに水産卸し業やシーフードレストランは復帰摂理でいえば復帰基台摂理に当たる。海洋摂理に対する全体像を把握しておられた御父様がおられるのであれば、御父様主管のもと私達は売り上げ倍増だ他店舗展開だと基台摂理部分に拳を上げていれば良かったのだろうが、しかし全てを私達に任せられて御聖和された今、このままの状態で突き進んでもどうも闇雲感は否めない。摂理観が明確でなくてどうして天運が共にあると言えるだろうか。

2016年2月20日土曜日

今日の想い 906

歴史は夜作られる。その言葉は男女の行為が夜行われることからきた言葉では勿論ない。でも陰陽の一体化によって創造がなされてきたことから見れば全く的外れな言葉でもない。しかし創造理想としての行為は、感覚の至悦のみならず、感覚を超えるものでなければ、すなわち0点を飛び出すものでなければ本然的であり創造的とは言えない。感覚を超えてこそ神様が訪ねてこられ、神様の創造が始まる。堕落人間が堕落人間たる所以は、行為は己が感覚の欲望が動機であって感覚を超えた存在への帰依から衝動を発する、或いは許すものとは異なっている。どんな理屈を用意してもそこに自己中心の片鱗でも動機にあれば神様はそこには臨在されない。があってその中にが存在できるのであり、他体自覚があってこそその中に感覚的悦びが恩恵として許される。感覚の欲望が動機としてありきではない。サタンがどれほど巧妙に人類を支配してきたかは感覚の悦びへの欲望がどれほど強いかに表れている。一方で神様の摂理は肉的感性の否定による霊的感性の芽生えと発育を通してサタンの牙城と化してきた欲望世界に亀裂を入れ、世界の只中に世界にワープする隙間を生じさせてきた。御父様にとって、御父母様にとって、男女の行為は感覚的欲望の充足ではない。存在のひとつひとつを新たな愛すべき愛の対象として再創造する、為に生きる行為に他ならない。堕落と性が切り離せなかったように、再創造である復帰と性も切り離せるものではない。性や生殖器に関する様々なみ言葉を受け取ってきたが、自体自覚である感覚的衝動を許したままだとただのエロい堕落的言葉に過ぎない。しかし他体自覚に立つ私を用意して受け取れば深遠なる創造のエッセンスと鍵をそのみ言葉から受け取れる。御父母様が立てられた勝利圏は大会や宣布として私達に刻まれているが、それは真の父母による天地の再創造を地上的に現している。そして天地の再創造はみ言葉を通して私自身を再創造している。また私達の様々な出来事は世界の出来事に反映される。はからずも「天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会」に於いて共産主義者達からワシントンタイムズが奇跡的に戻ってきたと話されたが、グループ派が共産主義者だという意味をどう捉えたらいいのだろうか。共産世界の世界的牙城は崩れ落ちたがそれでも共産国家はあり、民主国家と対立している。さらにはISというテロによって国を立てようとしている集団もあり、世界はこの民主と共産の二者プラステロという情勢にある。教会が三つに分断されている状況が世界の三つ巴とリンクしている。サンクチュアリをテロとリンクしているといえばあらゆる批難を買うだろうけれども、テロ集団以前に彼等は徹底した原理主義者の集まりだということは述べておきたい。どちらにしろ大きく三分割されている現実をみると象徴的代表的な私達の役割とは関係なく世界が動いているとは言えず、それどころか私達の行動がそのまま世界平和に反映されている。それは偏った見方だろうか。狭い範囲の問題ばかりが積みあがっていき、世界摂理はおろか家庭の摂理も氏族の摂理も一向に進まない。その現実に私自身も頭を抱えているが、その現実をいかに主管していくかが全ての段階の摂理とタイアップしている。祝福中心家庭、氏族メシヤとして生きるとはそういうことではないだろうか。その認識に立てば現状がどうあれ能動的人生にならざるを得ないし創造の為の主体と対照、カインとアベル、陽と陰の一体化へと意志を発動できる。歴史は確かに夜作られる。世界人類の様相が昼なら夜は御父母様を中心として内外の活動をする私達祝福中心家庭であり氏族メシヤ国家メシヤ達だ。歴史は私達によって作られる。さらに言えば世界人類の夜の立場にある私達は天地父母を中心とした昼の側面であり、それに対する夜の側面は天宙父母を中心とした私達の霊と祝福を受けた先祖達だ。祈って尋ねもしながら霊的感性のアンテナをしっかりと立てて、天の父母様、天宙父母のサインを傍受できる私になることは父子一体圏の入り口であり、父子一体を中心としてカインアベル一体圏も陰陽一体圏も現れる。一体圏から現実世界への存在の創造がなされる。環境創造だ。創造の覇権、主管性の覇権は私達にある。

今日の想い 905

コーチングの先生から目標を設定し、その為の戦略やその戦略の為のステップなどを設定していった。その都度考える私達に、「答えはあなたの中にあります。」と繰り返し言われたことが印象に残った。そう、全ての答えは私の中にある。その意味は、答えは既に私の中に届けられていて、その答えのパッケージを開いて見ようとすればいいだけだということだ。しかしそこにそれを見ようとしない自分がいる。見ようとすればするほど、できないやれないという自分を肯定することになる。それは好きでこの仕事を始めたのではなく摂理の要求に首根っこを抑え込んで自分を従わせてきたという認識があるからだ。自分の中を見れば、もともとこの業種が好きで自ら望んで入ったわけではなく、摂理に応えなければならないという縛りが動機にある、、という入り口まで一気にさかのぼる。堕落の私はそこが出発点であり限界だ。堕落の私を超えた新生自分が大きくなるなら父子の因縁を出発点とする起点まで行きつくはずだが、しかし復帰途上で堕落の私が自分の大方を占める私はそこまでだ。天の父母様の愛が動機の中に組み込まれているはずという仮定の私から、父母の愛を実感する生き生きとした私の動機を用意しなければ、堕落の私にどうしても負けてしまう。私達は結局その父子の因縁という原点を捉えなければ、通常のこの世的夢としてあれがしたい、こうなりたいというような動機付けでは摂理を担当しきれない。この世に於いてはコーチングも大きなツールになるだろうけれども、犠牲を喜びとすべきという私達の信仰観はその次元を超えている。目標を皆の前で宣言して誓いを立てるというのは、経済が摂理の主流だった当時の私達の目標達成の儀式だったけれども、儀式に代えてそこにコーチングを組み込めば、おそらく摂理は進まなかっただろう。そのツールに当て嵌めていけば自分のやりたいことはこんなことではないはずだと気付いてしまうように、信仰のために中心者に捨て預けた頭をわざわざ取り戻すことになるからだ。宣誓の儀式は万物復帰のような単純な活動であればあるほど功を為した。そしてそれに慣れ親しみ体質にまで浸みこんだ私達、特に一世は、複雑なこの世の社会活動や経済的活動で頭角を現そうとすればその体質を否定して自己主張できる論理性を組み込まなければならない。しかし体質と信仰観は表裏一体のようにひっついており、コーチングで目標達成できるような体質を備えるためには今の信仰観を捨てて新たな信仰観を用意できなければ難しいだろう。私達の意志はそれほどにこの世のものとはかけ離れ、うまく言えば中心者が扱いやすく、しかしこの世的知恵や実力は縁遠いものとなっていく。今は祈りを深め熟慮を重ねて新しい私を準備するときだろう。私達は過去の先天時代の信仰観を捨てて新しい信仰観を備えなければならない。やれと言われたからやる、、と言うのは今の時代通じなくなってしまった。それは私の外に神様がいた先天時代の時のことであって、私の中に神様がおられるなら、自分の中から沸き起こる天的な衝動に突き動かされてやる、すなわち良心(神)の声が動機となって意志する私達であるべきだ。それは絶え間なく湧き出ずる泉の如くだ。それでこそこの世を凌駕する私達になれる。

2016年1月26日火曜日

今日の想い 904

最近見られるような、皆の前で威厳を持って話される御母様の御姿は、昔とは真逆な感じで違和感を覚えてしまうという人は何を基準に置いてそうなるのだろうか。昔の当時の御母様のイメージは御父様の後に従われる謙虚な御母様であり、御父様にお話を勧められると言葉より嗚咽が先に出てしまわれる御母様だった。そのイメージが焼き付いており、私達がそのままの謙虚にみえる御母様であって欲しいと思うのは御母様に向かう本当に正しい感情だろうか。焼き付いたイメージは、女性に対する、妻に対する、母に対する、この世的人間的イメージに過ぎないということはないだろうか。御父様が公認される勝利された御母様を一方で賛美しながら、勝利とは縁遠く思われる物静かで謙虚な御母様であって欲しいというのは実際矛盾している。その人の中に御母様に対する押し付けたイメージがあって、それからズレてしまうと反感を覚えるというのは、当人の問題であって御母様の問題ではない。御母様が強く出られることに対して違和感を覚えるのは、摂理に対して無責任であり献身的な態度を取ってはいない。なぜなら御聖和された御父様の後、摂理を責任をもって牽引していくのは御母様がおられる以上御母様以外あり得ない。独生女で揺れているけれども御母様の物言いとしてはまだ甘すぎるはずで、これから目が飛び出る程の諸々の発言が飛び出して当然だろう。御父様以上に強くもあり掻き回す側面がなくてどうして勝利された御母様と言えるだろうか。これから御父様を想像でしか見出せない者達が確実に増えていく。御指示をその口を通して受けるのではなく、自分の良心(神)を通して御父様の指示を仰ぐ。その指示は現実的指示ではなく内的霊的指示だ。母子協助時代は母と子、すなわち聖霊と子が一体となることによって父、すなわち神霊を立ててきた。父子協助時代の話を様々なみ言葉で語っておられるけれども、そのみ言葉の本当の理解を得た者は少ないだろう。母とは体だという言葉が重要であって、すなわち神霊と子が一体となることによって聖霊ではなく体を立てる、というみ言葉が父子協助時代のみ言葉だ。体とは自分の体も含めた実体世界であり、すなわち御母様が言われる環境創造だ。御母様のあるべきイメージが崩れたと嘆いているのは先天時代を未だに引き摺った人のことであり、既に時代は変わっており、教会がどうの教会責任者がどうの御母様や御家庭がどうのと言うのは後天時代、後天開闢時代に全くそぐわない。先天時代に頼っていたサナギにしがみ付きながら新しい時代に飛翔できない私達なら、御父様御父様と口にしながら御父様という私なりのイメージ、御母様に植え付けてしまったイメージに固執したままであって、御父様が開いてくださった第四次アダム心情圏へと飛翔できる私達にはなっていない。否定的感情に引き摺られ主管されるより、足の一歩でも前進させるほうがまだ後天時代に適っている。

2016年1月20日水曜日

今日の想い 903 (サンクチュアリの食口へ)

サンクチュアリ教会には、御父様が決められた後継者としての御子女様、という認識に従った食口達が集っている。教主としての御子女様の言葉は家庭連合に対して批判的であるどころか、御母様に対してすら痛烈な批難を浴びせられる。集う食口達の中には拍手喝采して扇動的意志を持つ者もいるだろうし、ご批判は避けてほしいと思う者もいるだろうし、人柄を受け入れて様子見で取り合えず参加している者もいるだろう。彼等がどう一枚岩になっていくかは主導する中心的立場の者がどれだけ献身的に支えていくことができるかによっている。御子女様に対する親しみの感情とか気分に包まれて今のところは何となく形を保ってはいるが、そんな気分は献身を要求され犠牲を要求される時点で吹っ飛んでしまう。そのとき彼に従った判断がどんなものか問われるのだが、そこまで掘り下げながら皆は集っているのかどうか、、。確かに、お話を聞けば頷けることも多々あるだろう。しかし教会の批判されて当然のあれもこれも、それなりの原因があるわけで、その原因も摂理を担当するが故の、あるいは摂理の願いに応えられなかったが故の我々に原因があることは誰も否定しないだろう。そうであれば対岸の火事のように責任者をどうこう言い、御母様をどうこう言うのは自分は摂理に対してきて負債はないという立場に立ってる。自分達だけは御父様公認の後継者に従うことで真の父母の勝利圏に立っていると思っているのだろうが、摂理の願いに応えられなかった責任感情がそこにあるのだろうか。自分は願いに応えられなかった当の本人だという自覚が少しでもあれば、こちらにつきます、あちらにつきますとカメレオンのように簡単に色を変えることはできないはずだ。問題は自分ではなく彼等であり、失敗したのは彼等が悪だからだと罵ることができるのだろうか。真の父母の勝利圏は御母様なしには立たなかったはずであり、見た目の良いきれいな事柄だけが積み上げられて摂理が進むわけでもないし、オンマアッパの仲よしこよしで御父母様の勝利圏が立ったわけでもない。ユダにどれほど大きな期待がかけられていたか、人類の代表的彼の位置を他の弟子達がよくわかっていれば彼が勝利できるよう彼を支えたはずだ。彼を裏切り者の代名詞のように思っているが、周りの取り巻きを含めて裏切った立場であり裏切ったユダの霊的負債を現代人も皆背負っている。裏切り者の血が堕落の血統の中に流れていて自分の中にもある。ユダを指差していると思っているけれども実はユダの血の流れる自分を指差している。その御子女様は御父様が後継者と決められたほどに代表的な位置に立たれていたが、はたして御父様は彼が御母様から袂を分かってでも後継者の冠を与え続けられただろうか。そのような行動に出られたことの背景に祝福家庭として御家庭を、その御子女様を支えられなかった責任は当然我々にあるが、その責任感情を覚える者であれば分かれた子女様を持ち上げて分から反に(正分ではなく正反に)わざわざ拍車をかけるようなことはしない。御父様も御母様も地上の常識的なものを超えておられる。グループ派に流れた者達は肉の親子だからそのうち許されるはずだと高を括って甘い見通しを立てていたが、そんなものが通じる御父母様ならとっくに真の父母の位置を下りておられただろう。イエス様に最も近かったユダが最も遠くなったように、御父母様に最も近い御子女様が普通の食口以上に遠く離れていくことを突き付けられる真の父母の位置は、途方も無い愛の犠牲、心情の犠牲を自らに強いられ甘受されておられる。

2016年1月18日月曜日

今日の想い 902

世界経済の様相を見ると、金融の肥大化が実体経済をますます翻弄している。ITバブルから不動産バブル、不動産バブルから株バブル、その都度肥大化させてきた金融経済はその膨らみを大きくすることはできても減らすことは出来ない。実体経済と金融経済の接するところがごく限られた範囲であったものが、今は銀行の殆んどが投資バンクとして金融に重心を置いている。よって利益幅も少なく将来的大きな飛躍も見込めない企業(、特に中小企業)への融資より、俄然金融投資に力を入れる。本来なら資本を超えた投資にはブレーキが働いて当然なのだが、リーマンショックの折、銀行という銀行の殆どが莫大な負債を抱えたにもかかわらず生き延びていて、銀行に関する限り中小企業への投資など事実上意味を為さない。潰すには大きすぎると判断した政府がその負債を埋め合わせるという禁じ手を使ったことで、バブル経済である金融経済を認証してしまい緊縮経済となった実体経済を事実上無視している。よって政府は実体経済をどうこうできる力は無い。では実体経済は何が動かしているのか。基軸通貨のドルはアメリカが段階的に行ったQE(緊急緩和)でFRB(連邦準備銀行)の各銀行口座に莫大な数値を打ち込んだ。アメリカは実体経済を無視したのであり基軸通貨であることも事実上無視したことになる。それでもドルが通じるのは、ドル以外の通貨を見出せないから惰性的にドルが横行しているだけで、絶対価値としての通貨が現れれば一変にそれに乗り換えられる。ドルを不換紙幣にした時点でドルは限りなく絶対価値から遠ざかっていくことを認めてしまった。希少金属、特にそれらを代表する金はいつの世も価値の基準であり、物質的にもっとも絶対価値に近いのは金だ。実体経済はドルから金兌換通貨へと大きく舵を切っていくはずだ。実は既にドルは金通貨に機軸を譲っており、いくらドルを持っているかではなくいくらの金に相当するドルを持っているかが価値の基準になっている。金融の肥大化もドルの金兌換を否定した結果であり、金融に翻弄される実体経済は基盤を失った、すなわち実体経済を固定させる大地を失ったということであり、ノアの箱舟ならぬ実体経済という現代の巨大箱舟はドルの大地を失い放浪を続けていたのが、金融バブルが弾けることによって金の大地の山頂に到達する。教会のビジネスは今まで様々な業種業態に手をつけ、しかし現実的には悉く痛手を被(こうむ)ってきた。御父様は一方で伝道、一方でビジネスという摂理の両輪に拍車をかけてこられたが、蕩減を埋め合わせ内的霊的勝利圏を立てられたこれからはいよいよその実を結ぶときに来ている。何某かの通貨が台頭してくるはずで、それはひょっとしたらアメリカが今のドルを見限って発行する兌換通貨としての新ドルかも知れない。何が機軸通貨としての世界通貨になるか今のところなんとも言えないが、金に価値の基準を置く兌換通貨であることは間違いないだろう。

2016年1月7日木曜日

今日の想い 901(教条主義を超えて)

我々が常識と言う場合でもやはりこの世の常識ということになるだろう。だからみ言葉を受け入れ理解しようとする統一食口が常識的な人間であろうとするのは霊的な意味では気を付けるべきだ。常識を宛がう彼等は、過去の私達の歩みには反省すべき非常識な事が少なからずあるという見地に立たざるを得なくなる。そして彼等は原理もみ言葉も既存の良心判断による常識で測ろうとするようになる。御父様の語られる良心(神)ではなく良心的に見える心をして良心とし、その良心判断による常識で測ろうとする。清平のこともそうだし教会の金の流れのこともそうだ。そして御子女様のこともそうであり御母様のこともそうだ。天に祈って尋ね、天の答えと確信を得た判断ではなく、良識とも常識ともいえるこの世的なものに耳を傾けているに過ぎない。この世的な判断、常識を無視しろというのではない。それは現実を生きている以上無視しては立ち行かなくなるのだが、だからといって重心をそこに置いてしまうと、み言葉の霊的生命を受け取る境地に入れないばかりではなく、み言葉を堕落的私の理解できる言葉に置き換えてしまうことになる。統一食口の常識的判断はみ言葉を理解できる文字に変えて汲んでしまうことで教条的なものとなり、例えば祝福を戴いた夫妻は添い遂げることは当然だと、そこには一つの例外もなく御子女様も御孫様もそうあるべきで、、という現実の話になってしまう。しかしそこに現実的な問題は少なからずある訳で、祝福を戴きながらも壊れてしまうカップルも少なからずあって、それで彼等は終わりであるならみ言葉は現実を超えられないことを是認することになる。。彼等はどんな事情がそこにあろうとも非難されるべき者達、強く言ってしまえば裁かれるべき者達だと言えるだろうか。御子女様の中にも御父様が最初に決められた夫婦が壊れたり否定した御方もいるが、一体誰が彼等を非難し終わったと判断することができるだろうか。夫婦としての形を継続している者はそれは夫婦愛を勝利したからそうなのか、最初から馬が合うからそうなのか、ある距離感を持って付かず離れずという惰性的に続いているからそうなのか、一度考えてみた方がいい。形だけの夫婦、それはこの世的夫婦と言ってもいいと思うが、御父様のいう夫婦の在り方はそんな惰性的習慣的なものではないはずだ。ある御子女様に対して、食口の多くはその行動に違和感を持ち、表に出るべきではないしまして教会でのそれなりの位置に立つなどもっての外だとも思っているが、それは教条的な意味(食口や二世に示しがつかない)でそうなのか、別離された相対者や子供達のことを思ってそうなのか、御父母様の御心情を思ってそうなのか、あるいは御本人を思ってそう思うのか、判断するなら判断する自分を先ず判断すべきだろう。この事を耳にしたとき私が先ず感じたのは、御子女様もそうあるべきだという私達の常識は覆されたという、悲観よりは感嘆だった。祝福家庭の戒めという教条的なものを覆される覚悟であり冒険であり、それは現実と戦い荒野に一人立たれる姿として映った。不倫と言われようが奪略愛と言われようが、さらに霊界で地獄に落とされようが、それでも自分が納得する愛への渇望を捨て去ることなく形にされた。もちろんそれが正しいとは決して言えない。言えないし思わないが言いなりの原理結果愛から飛び出して、原理結果に主管されない愛への突破口を開かれたのは事実だ。その行動は私も含めて今の今受け付ける食口はほぼいないだろう。しかし十年後、五十年後、百年後、千年後、その時どう判断されるかは誰もわからない。四大淫女がメシヤ降誕に必要であったように、その受け付けない行動が遠い未来にどう役事されていくのかは現在を生きる私達の誰もわからない。御家庭の事実を並べれば公にできないような常識からはみ出ている内容のオンパレードだ。しかしだからこそ、常識を超えた御家庭に流れる本質が何かを汲み取ろうとする姿勢を私達祝福家庭は捨ててはならない。教室や社会から中傷罵倒を浴びるという外的な犠牲もさることながら、愛の犠牲がどのようなものなのか、その意味を本当に理解して御家庭をどうこう言っている食口が一人でもいるだろうか。