2020年12月19日土曜日

今日の想い 1087

 独生女としての御母様の考えは、一世として御父様に付き従ってきた者達には革命的であるし破壊的だ。大きく一つは独生女という概念であり、そして今一つは御父様の位相についての捉え方だ。御父母様の弟子の一人が神学的立場で提示するなら、そういう見地に立つのもありかと思えるとしても、一体圏にあられる御母様が提示されるから革命的破壊的になる。その意味では今の御母様こそ食口にとって剣を投げ込まれる御方であり、かつて剣を投げ込まれたイエス様を彷彿させる。良くも悪くも剣は荒れ狂うほどに生気を帯び、概念も位相も、食口が捉えていた御父母様へのイメージも現実もズタズタに切り裂かれる。確かに勝利された御父母様として奉るとしても、では地上の何が解決したのかとなると、個人も家庭も国も世界も、問題山積なのは以前にも増している。その地上の現実を見れば勝利された御父母様として賛美し勝利圏を相続しようにも現実を無視した自己満足の観はぬぐえない。実体御言であられる御父様が私達の全てであったのが、忽然と地上を去られ残ったものが何であったか。神様も霊界も地上世界も御父様によって理解していた。御父様がおられなければ全てが霞の中、というのが私達の現実だ。残されたのは御母様と遺言としての八大教材教本のみ言葉のみだ。失ったものは元には返らない。私達の新しい現実を受け入れない限り何も始まらない。失ったものを求め続けると、その執着で新しいものを受け入れる意志は芽を出さない。御母様は御父様ありきの御母様を否定されて、別人かというほどの新しい出発をはじめられた。コロナ感染による生活環境の亀裂、爆弾を抱えている膨張経済、ありとあらゆる叫びが起こり社会や国家の既存形態の液状化、先天の全てが否定されるこの状況の中で、地上世界を秩序立てる新しい光は私達の内側から放てないのだろうか。絶対性、そして絶対信仰絶対愛絶対服従はどうその力を発揮するのだろうか。

2020年11月30日月曜日

今日の想い 1086

 この基元節をもって神様の精子が受精される。御父様が勝利宣言をされたのであり、御母様も勝利の位置に立たれたことを御父様は明言されておられる。御父様が基元節の前に聖和されるという驚天動地の事態が起こり、私はその事実をどう受け取っていいのか混乱し通しだったけれども、肉体を持たれない御父様であっても基元節を迎えることができ、神様の精子が授精されるのはその通りだろうと思われる。

ーーー以前、私は基元節を迎えるにあたってこう記した。記しはしたけれども、今の私は、神様の結婚式は真に行われたのですかと問う立場、そして疑う立場にまで下ってしまっている。それはいつかどこかで聞いた言葉の調子と同じだ。「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、他の方を待たねばなりませんか。」 基元節に対するのと同じように御母様に対しても疑問を投げかけている。そして御母様は言われる。文句を言わずに従うように、、。文句は言っていない。しかし従っているかどうか、、。訪ねて求めて下さった、あの同じ神霊を御母様の中に訪ねて、ああ御父様の中におられた神霊は御母様の中に移られたのですか、とはならない。確かに、復帰された当時のあの燃えるような御父様に向かう衝動自体は年と共に勢いを落としてきた。良いように言えば冷静になって周りが見えるようになった。その状況と相まって、宗教である教会をやめ家庭連合を立ち上げられたのは新たなステージに立ったのだと希望を感じた。しかし御母様が、為されていない復帰への責任を取るとして行動されているのは独生女信仰という宗教への逆戻りだ。信仰の基礎からやり直しを願われる。しかしどんなに強い口調で迫られても、復帰された当時の、初恋にも似たあの衝動はもはや起こらない。神霊がそういう形で訪ねてこられることはもうない。第4次アダムとして立つまでの信仰として、数ある宗教の内のひとつという位置付けであり、その理解以外の選択は今の私にはない。

2020年11月15日日曜日

今日の想い 1085

 堕落した世界であり、常に善神と悪神が争いながら人にも社会にも関与しているのであり、当然権力把握に躍起になる政治舞台で魑魅魍魎が跋扈しないわけがない。私達が目指すとされている共生共栄共義主義社会のイメージが曖昧模糊で、たとえ段階的であるとしても目指すところの目的認識が明確に把握されていないのに、外的社会にどう働きかけるのだろうか。勝共は共産主義の間違いを明らかにさせ啓蒙し共産主義社会を解体するという明確な目的を持っていた。しかし今はどうだろうか。2020までに7ヵ国を復帰するという目標を掲げて前進してきたはずだが、何も形になっていないと思うのに御母様は7ヵ国が復帰され勝利宣言されたという。復帰の概念が何なのか、御母様が登壇する大会が開かれれば即ちそれをもって復帰されたと言うのか。そうだとするなら私達の世界復帰は現実を無視した、他の理解はどうでもいいという自己満足的目標と自己満足的達成で良しとされることになる。はたしてそれでいいのだろうか。アメリカはバイデンになりそうで、おそらく殆どの食口はトランプを望んでいたから落胆していると思うが、しかしトランプが共生共栄共義主義の人物ではないし、それどころか自国第一がモットーで国境に壁を作ることに熱心なように国家間の壁を益々強くしている。結局どちらにしても悪神も善神も働くのであって、世界摂理の明確な方向性も指示もない今では流れ任せでしかない。摂理を知る誰がトランプに働きかけたのか。H2様が摂理を把握されていてトランプとのパイプを持ち働きかけておられるのか。北朝鮮に対して、中国に対して、摂理の責任を引き受ける位置でどう働きかけているのか。私達の摂理観がぼかされていて、いたずらに時間だけが流れているとしか思えない。私達は評論家のままでトランプならどうでバイデンならどうなるという話で終わってはならず、どう働きかけるのかという意志がなければ摂理に対する責任は投げ出したことになる。

2020年11月14日土曜日

今日の想い 1084

 今御母様は裸の女王様だ、といえば憤慨されるだろうか。当然憤慨され反逆者の烙印を押されるだろう。責任者達の前で語られたお話しの内容に目を通しながら、そんなことを思った。生活やお金の苦労はしておられないとは思うが、御父様を亡くされた余生をどうして敢えて内面の孤独な道を選ばれ苦労されるのだろう。御母様がその言動に全き自信を持たれ、たとえそれが神様との直接問答による答えだとしても、それでも、強調されれば強調されるほどに食口達は距離を置く。聖霊に反すればどうなるかというような、そんな脅迫紛いにも取られる言葉まで使われながら、御自身を冷たい境地に追いやられる。教会にも事ある毎に霊的媒介に携わる食口は現れたけれども、その末路はいずれも首を傾げるものだった。傍目から見てそうだっただけで、本人は使命に預かった自負と内的達成感を得て満足しているのかも知れないが、、。御母様も物静かに平安な余生を送られるのであれば誰も批難する者などいないだろうに、御母様には御母様の摂理観があり、その使命と責任を全うしようとされればこそ、多くの者が受け入れがたい新たな霊的解釈や概念を口にされながら一人孤独に登りつめようとされる。食口にしてみれば御父様の残されたみ言葉ですら咀嚼できていないのに、どう新たな概念を受け入れられるのか、混乱必至でその反動として自ずと批判に向かわざるを得ない食口がでてくる。考えてみれば、教会基盤が立ち御父母様と仰ぎ見られる以前には、明らかにされつつある御父様の非原理的に思える数々の行動があり、御父様を亡くされてから今度は、御母様の、原理を否定されるような全食口を振り落としかねない数々の爆弾言動がある。地上的判断をすれば御父様も御母様もハチャメチャだということになる。低次元の霊媒に関わらずとも、霊的なことに関わる、特に御父母様はその霊的本質の本質に関わっておられるので地上の理解は得がたいし、困難はつきものなのかも知れない。奇跡を使い過ぎてイエス様は条件を失われたように、霊的救いを頻発されて御父母様は条件を失われたのかも知れない。こういった私の言いようが批判的物言いに見えるとしても、それでも私は御父母様によって重生した事実は誰よりも認識しているつもりだし、御父様の過去や御母様の現在がどうあれ、私の御父母様に変わりない。いまだに霊的無知を超えられない位置にいる以上、私の理解は私の理解に留まっていて間違っているのかも知れない。しかしそれでも、何らかの理解を踏まえなければ次に進めないのが人間であり、と同時に間違いが認められれば直ぐに悔い改める覚悟は備えたい。何もできない足踏み状態で時間を遣り過ごすことも、それなりの条件にはなるのだろうか。

2020年11月10日火曜日

今日の想い 1083 (キメツノヤイバ 劇場版)

世間の話題に乗り遅れまいとして「鬼滅の刃」を老夫婦ふたりで観に行ってきた。耳をつんざく音響の嵐だったが、それでも妻は上映半ばで眠りに落ちていた。後で触れるとほんの数秒だと切れ気味に返してきたが、肩の影が落ちて5分以上は経っていたと思うから、きっと登場する眠り鬼と呼ばれる魘夢(えんむ)の術中にはまったのだろう。話の筋は実に単純で、列車に乗り移った魘夢という鬼と、後に出てくるより階級の高いアカザという鬼と、対する鬼滅隊との闘いだけで完結する勧善懲悪の話だ。おそらく子供世代の魅力は迫力ある戦いの描写と音響の凄まじさでヒーロー感に浸れるところだとは思うが、これが全世代に受け入れられるというのは、人間存在や生きることの意味を問わざるを得ない人間のサガが、彼等の生き様によって深層から呼び起こされるからだと私は見る。失った家族に対する炭治郎のやりきれなさや想い、自分だけ生き残ったことの負債感とその意味、鬼と闘う以前に本人の内面世界に於いて熾烈な闘いを繰り広げる。それは主人公の炭治郎だけでなく登場人物、更には鬼までその内面世界の闘いを描写しようとしている。だから発する言葉以上に自分自身や過去への問いの言葉や闘いの言葉が全編に亘って述べられている。引き込まれながら盛り上がっていく観客の感情は、身を挺して鬼を成敗する場面で最高潮に達する。それらしい名称の剣裁きの走る閃光に場内全体が晒されるのも興奮を高めるが、それ以上に観客が矢継ぎ早に浴びるのは、鬼の誘惑の問答に惑わされず人々を守る為に生きて死ぬ決意、その高みに生きる魂の喜びを表現する力強い言葉の数々だ。その保身の微塵もない清々しさは涙腺を完全に開放させて見ている誰もがその頬を光らせる。頬を拭いながら劇場を出て、暫くは皆が優しくいい人になっている。うるさかったと言いながら後にした、魘夢の術中にはまった妻を除いては、、。

2020年11月9日月曜日

今日の想い 1082

多くの一世が人生を捧げ、歩んで残した功績は何なのか。もし次世代や後孫に残す遺産が何もないとしたら、私達の人生は只の無駄骨だったということになる。それでいいわけはないしそんなはずはない。たとえ御父様が地上におられないとしても、また御母様に対する様々な思いがあるとしても、私達は地上にありながら霊界に生きているし、時代時間を遡って勝利的内容を取り出すこともできれば未来のあるべき世界を見据えて今をそれに合わせて用意することもできる。御父様は今尚生きて私達に働いておられるし、御母様の勝利圏は御母様にとどまる以上に私達の中に存在して留まっている。その認識を得て生きてこそ私達は次元を超える存在だといえるだろう。神様に対する認識であるとか、霊界に対する認識であるとか、見えない先祖に対する認識であるとか、それは存在するとかしないとか、どんな状態かなどという地上的問いに留まらず、人生を捧げ貫いた信仰生活を通してつちかった内的意識の持ちようが、地上を超える霊的意識として備わっているはずだ。私の意識に霊的存在や環境が関与している。当然そんな意識をもって得る認識も地上的認識を超えている。今私が良心を通してもっとも意識をもち想いを深め愛する対象が誰なのか、或いは何なのか。それぞれにはそれぞれの天の使命があり、それ故に異なる個体であり人生なので十把一絡に愛する対象を固定するのはおかしい。御父母様と共に歩んだ先天を通してそれなりの心情圏を相続したのであれば、良心の声に蓋をして、意識の殆どを御母様と教会だけに向けるのもおかしい。本人は絶対服従で歩んでいるつもりでいても、実際はそれほど肩入れしてもいないしそれが私の使命だと意識的に歩んでいるわけでもない。わからなくて不安と恐れがそうさせている。相続した心情圏の土台に建てた私自身の霊界を生きる自分に自信がもてないが故に、すがる存在としてそれが御母様であったり特定の御子女様であったりしている。どう信仰しようが誰に帰依しようが、しかし結局は私の霊界は私が創造し私が背負っている。蕩減などの霊的事実を背負うというより霊界そのものを背負っているというのが御父様の見解だ。そして私達の功績はそれぞれが創造した霊界だというのが私の見解だ。霊界は心情圏と同義語だ。

2020年10月27日火曜日

今日の想い 1081

 コロナが生活環境を変えるだけではなく、新しい生活様式が国の環境をまるっきり変えてしまう。もうbeforeには戻れない。社会的集まりという集まり全てが否定される方向に向いている。高齢者にとっては、集まりで最も関わりがあるのは葬式だろうか。老親介護のために田舎に通っているけれども、誰それが亡くなったという話は聞くが、前のように葬儀の知らせがきて出かけることはない。後に家族葬を済ませましたという報告のハガキがくるだけだ。今までの様に亡くなったという感慨はない。今年は祭りという祭りもなくなり日本特有の季節感もなくなってしまった。失業問題、家計困窮等の経済問題は話題にあがるけれども、当然のように持ち合わせていた個や集団の感情や感覚を失いつつあることは誰も触れない。おそらく日本人は他のどんな国民よりもテレビを見ている。テレビというマスメディアに感情や感覚は寄り添い委ねている。震災や自然災害の情報はいち早く知らされるとしても、しかし実際はテレビというフィルターを通して情報に対する感情や感覚は全く異質のものを受け取っている。テレビが国民感情の主導権を握っている。日本の伝統や文化は形骸化したとは云えども、それでも一応立てる風は装っていた。しかしこの一年の一連の騒動で、そんな伝統や文化はコロナに勝てない、生きる上での只のお飾りだからという認識を露わにしてしまった。マスメディアは科学のみを信奉する無神論の立役者だ。そんな精神欠如の日本、古い感情が失われる日本で、新たな新しい感情が芽生えなければ日本は益々先細りになる。新しい感情の拠り所を何に持つかは、この国の繁栄の為に最も重大な課題だろう。形骸化した祭りではなく、日本の精神性を呼び起こす本質的祭り、要するに祭祀が日本には必要だ。反日で韓国の柱を建てようとするそんな他を卑下することで認識する情けない国の魂ではなく、日本人として生きること死ぬことの価値を活き活きと見いだせる日本の祭祀が必要だ。

2020年10月16日金曜日

今日の想い 1080

 あれほどに青年達を引き付け燃え上がらせた霊はもはや私達と共にはいない。当時の高揚感を忘れずに覚えている食口は、理想に酔って活動したあの日々を、夢でも見させられたかのような不思議な面持ちで振り返る。堕落始祖の末裔として地上の地獄にいることを堕落論を通してしっかり認識していたから、見届けることができない見上げんばかりの地上天上天国のイメージは、地上の現実とは逆に膨らませるだけ膨らましてしまった。しかしその誤解や妄想が崩れていくに従い、理想を見失ってきた現実がある。私達は地上に引き戻されて、かつての様にみ言葉から誤解や妄想を導き出すのではなく、み言葉の霊的本質的価値を見出せるように再び摂理の峠を登っていかなければならない。今振り返れば私達の目指した理想は外的なものに過ぎなかった、という総括を私自身はしている。堕落も救いも祝福も、真の父母についても実に表面的理解に過ぎなかった。だから祝福二世に対しても御子女様に対してもそして御父母様に対してまでも落胆せざるを得ない現実を見てしまうことになった。み言葉は本来霊的なものだ。しかし霊的無知である私達はどうしてもイメージとして捉えることで理解したものと信じてきた。実際御父様は私達の理解が幼いままであることを知っておられたはずだ。だからといってそんな先天時代の歩みが無駄だったとは思わない。外的イメージとして捉えて戦ってきた勝利内容は象徴的勝利として捉えることができるはずだ。アブラハム自身がアブラハム家庭の勝利を象徴的なものに過ぎないと理解していたわけではないように、私達は天国理想のイメージを象徴的だとは思っていなかった。そして一つの摂理的時代が終わったと認識できたとき新たな摂理が何かを認識しようとする。象徴的であったかどうかはそれぞれの主観に任せるしかないが、今までの歩みを総括しないかぎり新しい歩みに踏み入れることはできない。異なる御母様が捉える摂理に、御父様の摂理の延長線上にある食口はそのまま踏み込めないように、先天時代が終わったからといって、そのまま後天時代に入っていけるとは限らない。実は先天と後天との間に後天を歩む私を準備する中間的期間が必要で、様々な批判もこれまでの歩みを客観視しようとするのも、新たな摂理を用意する為の準備に過ぎない。名前を変えられた家庭連合に留まる者も、子女様が率いる群れに参加する者も、かつての私達が味わったような高揚感はなく、どこか冷めた感情で取り敢えずはそこに居るしかないと思っているだけだ。

2020年10月12日月曜日

今日の想い 1079

 韓国政府どころか信じて疑わなかった御父様御自身が、反日主義の立場で、偽造されたあれこれをさも歴史的事実のように話しておられた。もちろん御母様もそうで真偽を問うてみる僅かの隙間も日本食口に差し出されることはない。しかしだからといって、手のひらを返すように、原理からみ言葉から、果ては献身して全てを委ねて歩んできた自らの人生全般までも否定するというのは違う。同じように、何を言われようとも御父母様の言われることが全て正しく、そう信じることが戴いた祝福も意味を成すしサタン圏から逃れて天の主管圏に留まることができる、というのも違う。どうして原理でなければ非原理、繋がってなければ離れた堕ちたというように、極論思考に陥るのだろうか。私達は御父母様と一つになるように教えられてきたし訓練されてきた。しかし信じて疑わない立場を数十年経った今も頑なに持ち続けることが本当に愛することであり一つになる道だろうか。それが正道だとして、それでは私達は一体何を御父母様から相続したのだろうか。相続した内容は頑なな信仰姿勢だけなのか、或いは私の内面に変化や異なる衝動が認められるなら、それは御父母様との関係を害する悪神の囁きであって無視すべきものなのか。食口達には安易に御母様御母様と唱えることで、御父母様に従いみ旨に従っている自分だと言い聞かせて自己満足的な歩みに留まらないでほしい。御父母様が涙ながらの歩みをされたのなら、たとえ御父母様とは相容れない意見を持ったとしても、それでも涙ながらの歩みをすることの方が、素晴らしい素晴らしいと言葉を重ね続け、拍手し続けるより余程心情に通じると私は思っている。御父母様が反日の立場をとられることで、確かに日本食口は苦労するのであり、反日が正しいか間違っているかは別として苦労する立場に日本を立たせている。苦労することそれ自体が恨を重ねることであり、それが天の心情に通じるなら、敢えて苦労させるという千尋の谷に突き落とすことで試練を与えておられる、とも取れる。地上と霊界が逆説で繫がっていることを思えば、表面的により嫌うことで内的霊的により愛されているという論理が成り立つ。これを叡智と取るか屁理屈と取るか、、。H1様を言葉と感情で徹底して否定されながら、愛の減少感と恨をバネに飛翔してみろという悲願を御父様の涙目の奥に見届けたのは私だけだろうか。

2020年10月10日土曜日

今日の想い 1078

 広島から益田に向かう細い国道を、急峻な山間をくねくね登って登り切り、少し下った盆地に私の田舎は広がっている。年間を通して曇りの日が多く、陽の光が半減されて届き、そんな中で生活していると気持ちが塞いでくる。いつも見えない何かに怯えながら暮らしていた。小学校に上がった頃の出来事だったと思うが、ある日母が淹れたインスタントコーヒーを寝る前に飲んだ。おそらく濃い過ぎたのだと思う。神経が昂ぶって眠れず落ち着きを失ってしまった。皆が寝静まっても不快な興奮は冷めやらず、暗闇にじっとしていると魂が押し潰されそうな感覚を覚え、一晩中その嫌悪感にさいなまされ続けて明け方を迎えた事があった。その嫌悪感はそれ以来ずっと付き纏い、み言葉に出会うことで何とか救われたが、未だにその感覚は残っていて田舎に帰ると思い出される。人間は苦しいとか悲しいとか痛みの感情として覚えたとき何とか解決しようと意志を働かせる。もちろん嬉しいとか楽しいとかの感情を経験し、更なる喜びを得たいときも意志を働かせる。心の平安な者は幸いなりとあるが、内的戦いを主管することで手にした平安ならそうだが、戦いなしに漂う平安ならそれが意志を働かせる力には為りにくいだろう。私の意志は悪霊から逃れようとするものでしかなかったが、御母様の意志は積年の恨が基にあるようで反御父様として映るのは当然なのかもしれない。恨みと恨は別次元で考えるべきもので、恨みは感情に主管されたままだが恨は宿命的意志を発動させる動機(衝動)となる。御母様の意志が御父様の意志を超えるものとなるのかどうか。私の摂理への意志が御母様を超えるものとならなければ、どんなに論理で間違っていることを導き出しても、御母様に代わって摂理に対する責任を引き受けたことにはならない。小さい頃のあの忌まわしい体験が、私をして救いを求める意志に駆り立てた終末現象であったように、コロナ禍を引き金とする現実的混乱は、人類を救いへの渇望に駆り立ててくれる終末現象かもしれない。混乱から悪足掻きに、絶望から非力であることの自覚に、そしてやっと救いを求める意志の発動に至り、人間の傲慢さが悉く砕かれて神を求めるべき対象存在であることに気付くはずだ。死を前にして生の意味を問う姿勢ができるのであって、底知れぬ絶望を前にして真の希望とは何かを問う姿勢もできるはずだ。天国も霊界も自らの魂で自分が良しとする世界を築くべきで、誰かが作った天国は所詮借り物だろうし、御父母様が築かれた天国はそれこそ罪状を首にかけて視線を落とさなければ居所はない教会天国だろう。私は幼少期から青年期にかけて味わった、魂の混乱や魂の砕けてしまう不安に今でこそ感謝している。平安や平和の意味を知ったしあれが無ければ内面に平安を創造する力を得ることはなかったはずだ。その力は確かに霊界に持ち込める力だ。

2020年10月4日日曜日

今日の想い 1077(慰安婦の像、連合南部軍人の像、そして御母様の像)

 南部連合の首都だったリッチモンドには、数多の連合の軍人たちの銅像が町のそこかしこに座している。どの銅像も立派な土台の上に据えられていて、近くに行けば自ずと見上げる形となり威容を覚えるものばかりだ。それらの銅像が今窮地に立っている。ペンキでいたずらされたり中には倒され壊された像もある。昨今の黒人に対する一連の事件によって、歴史の遺産だったそれらが差別の象徴に挿げ替えられてしまった。市長(黒人)自らがそう発言してしまっているので遠からず処分されてしまうのだろうか。黒人の悲惨な歴史の道のりは決して蓋をされるべきものではないが、彼らの感情の爆発のままに行動に移すことは歴史を通して積み上げられてきた人種差別撤廃への道のりを否定し、元返すことになる。人間には論理人間、感情人間、そして意志人間という棲み分けもできて、どの部類に属するか、或いは強調するかが時代が動くこれからの摂理に関係することになるだろうと思っている。原理から入って信仰に至った多くの食口は基本論理人間が多いが、論理を先ず立てることに執着する以上なかなか御母様についていくのは難しいはずだ。しかし情の拠り所を求めて信仰に至った感情人間の食口は、取り敢えずは御母様に従うことに疑念は持たない。御父様のエスカレーターに乗っていたらそのまま御母様になった訳だし敢えてエスカレーターを降りて平安だった信仰感情を揺さぶられることは選ばない。私達が知って考慮すべきことは御母様は論理でもなく感情でもなく意志を前面に出すことを決意された意志人間だということだ。どの時点でそうなられたのかはわからないが御母様には確かに或る霊的存在(それが聖霊かどうかは私には判断できない)が関与されその使命に生命を預けておられる。今回の御母様の像についても、論理人間の食口には突っ込みどころ満載で食いつき放題だが、しかし批判はしても何もしない食口は無力で、御母様にとってそんな批判視線はどうでもよく使命に対してどう行動に移すか、何をやるかが常に御母様にとっての関心事だ。思うと韓国自体がそうで、30万もの慰安婦だとか徴用工だとか、像まで作ってありもしない事実をでっちあげ日本批判に明け暮れているのは、叩いた方が実利があると踏んでのことで、日本の解決は話し合いや説明で何とかなるのではなく、日本を敵にまわすと非が及ぶと思わせることだ。韓国より強くなり強く出れば一変に解決する話だ。行動に移し結果を残せば論理だの感情だのはどうにでもなるし、彼等にとってはある意味目的達成の為のツールでしかない。御母様を理解し同じ土俵に上がりたいのなら、氏族圏を集めてメシヤ宣言し、何々家の天正宮を建て、そして立派な自分の白亜の像を建てることだ。そんなことで復帰されるか?いや何もしないで考えあぐねるより行動に移すこと、実績を積むこだ。それに合わせようと必死で内面を鍛錬せざるを得ない背水の陣方策だ。それができないか疑念があるなら摂理に対する責任をどういう形で取るのかという良心の言葉が必然として自分自身に返ってくる。対案もなく批判に筆舌を尽くすなら御父様の語られる責任を果たすところの良心を疑う。レーニンの像が倒され、リッチモンドの軍人の像が倒されたように、清心塔が撤去され(移動され)、代わりに御母様に頭を垂れる像を建立され、御父様の気配を消すことで背水の陣を敷いておられるとしか思えない。惰性で御母様についてきた多くの食口は吹き飛ばされるかも知れない。

2020年7月30日木曜日

今日の想い 1076

日本食口が献金摂理によって供えられた犠牲は、真に天が受け取られた犠牲だったのか。献金というよりもヤコブの知恵を独善的に解釈した無理矢理のお金集めだった。だから実際は集金摂理と言ったほうがしっくりくるだろう。どれほど伝道実績が要求され家庭教会摂理が打ち出されようとも、集金摂理を達成した上での他の摂理だという意識は常に私達にはあった。エバ国家、母の国という全体が個人に優先され、いや個人は否定されて全体のみの意識を持ち動いていたので、組織のトップの意識と理解がそのまま駒である一人一人の食口の意識と理解であるのは当然だった。それは軍隊としては機能しても個々の内外の育成は犠牲にされがちだ。上の意識を無私の位置でそのまま受け取っているので自分の自我への責任すらも預けてしまって霊的成長は等閑だ。教条主義というMUST信仰のみで、自分の責任で行動し御言葉の本質を経験するというWILL信仰を認めないかその意識もない。そこに留まる限り、御父様は祝福家庭という摂理の戦いの駒を持ちたいだけだったということになってしまう。果たしてそれで善しとされるのだろうか。先天時代は確かにのるかそるかの摂理的戦いで、兵隊として駒に特化することも必要だったと思うが、後天時代に於いてもその意識のままでは天は嘆かれるはずだ。御父様は、天国に行くと信じて殉教したクリスチャン達が地獄にいるという話をされた。殉教した全てのクリスチャンがそうだとは思わないが、そのみ言葉からすると天国に行くと信じて肉体の死を選ぶことが即ち犠牲的精神ではないということになる。それは私達にも言えるのであって、供え物に口無しで言われるままに摂理に専念してきたとしても、それが即ち為に生きる人生となり自己の霊的成長に直結するということにはならない。それは誰に聞かずとも自分が一番よくわかっているはずで、本来自らの意志で与えて、愛を投入することで、み言葉の本質を経験し実を備えた私だという認識を得るはずが、実際にはそこに至っていない、というか至れない。信仰から認識に至らなければ、信仰してきたのではなく盲信の類のまま人生を終えることになりかねない。先天時代の集金摂理を歩んだ意味を全体で問うだけでなく、個々の位置で自分のみ旨としてどういう意味があったのか、或いはどう捉えるのか、内的認識を得ない限り位階の梯子は外されたままだ。後天時代を生きる段階にも至れない。

2020年7月16日木曜日

今日の想い 1075

人間という存在は打算的であり、常に損得勘定しながら次なる行動に出る。しかし食口は借金を抱えてまで献金する存在だから打算的とは言えないんじゃ、、いやいやそうではなくて、要請を否定する労力を使ってまで拒めないとか、いつも顔を合わす中心者との関係性を考えるとか、これに応えることで天国行の許可を得られるはずだとか、一般人以上に内外の損得勘定に余念がない。もちろん妄想の類もひっくるめての勘定ではあるが、、。結果生活不安を抱え国にお世話になるにしても、それでも自分の中では辻褄が合っていて損をしたとは思っていない。地上では縁のない安穏な生活は霊界でこそ約束されていると信じている。御父様は会場に詰め込まれて身動きできない私達を見回しながら、あんた達は欲の塊だよと口を開かれた。確かにその通りだろう。でもそれでいいと思っている。私という一個人にしても人類全体にしても、その所有権をめぐって神とサタンが蕩減条件という霊的通貨で取引してきたのは、復帰歴史を学べばよく分かる。次元は違えども勘定が働いている。エバはアダムと蛇とを秤にかけて蛇と交わり、間違いに気付くと手を返して更にアダムとまで交わった。始祖のいい加減な対応に負を負った人類全てが歴史を掛けて振り回される。そう思うと、自分の意志で行動しているようで、所詮先祖を含めた背後や高次の存在達の見えない損得勘定に踊らされているかのようで、人間とは改めて何だろうかと振り出しの問いに戻ったりする。

2020年7月4日土曜日

今日の想い 1074

年も上で信仰歴も随分経ているのに、年下で僅かばかりの信仰歴しかない者にとやかく言われる筋合いはないと思った。この感情を大人げないことと片づけられるだろうか。今では私にとっても多くの食口は年下であり信仰歴も短い。上記のような感情を引き起こされる場面がたまにある。意見を述べてくるのは歓迎するが、しかし態度や物の言い方は思慮があって当然だろう。自己否定なのか自我否定なのか、叩かれ蹴られ飯ももらえず、また散々怒鳴られさげすまされて献身生活を生き延びてきた。身体を壊し血の小便まで流し、ストレスの限界まで内外の自分を酷使してきた。先輩家庭も同じように犠牲的に歩んでこられたと思えばこそ、当然のように敬意を抱くし接するにも礼儀として態度に出る。しかしいつからか献身制度もなくなり、24時間内外を修練で鍛えられる場面もなくなった。日本のあの歩みの事を思えばアメリカの歩みは屁でもない。中心者も現場も、いつしかそんな苦労を知らない食口ばかりになり、言ってることもやってることもお花畑で仲良しこよしだ。実績をとことん追及され、追い詰められて追い詰められて活路を見出す、等と言うのはもはや死語に近い。あれもできません、これもできません、できないことが当然のように平然と言い訳し、恥ずかしさもなければ悔しさもないらしい。苦労の百科事典の、恐ろしくも誇れる教会組織はすっかり堕落してしまった。優しさで愛と馴れ合いを混同している。位相という天的階級のない誰もがペクソンだという平等主義に冒されている。人間は一度地獄を見てこそ天国を標榜するように、霊的開拓者としての祝福家庭がその気概において堕落すれば、当然結果世界である人類が地獄を見ざるを得ない。間違いを犯さなければというような、我良し的な教条的信仰で天国に行くと信じているようだけれども、敢えて誤解を恐れず言うなら、間違いを犯そうとも天国を築く者こそが天国に行く権利を授けられる。それは御父様のみ言葉でもあり私の良心でもある。

今日の想い 1073

良心は神様にも勝るとまで言われた御父様は、その本質を正しく受け取ってくれると私達を信じて語られたのだろうか。神様も霊界も、客観的に捉えようとしたのが科学的論拠を掲げる原理の立場だが、良心は自分の中にあり自分と共にあるのだから主観で認識して当然であり、客観的に存在するとかしないとかを問う意味もない。神様や霊界は信仰で捉えるけれども良心は信仰認識を必要としない。私達は信仰で捉えて御父母様に侍っているのか、或いは良心に従えば当然の事として侍っているのかどちらだろうか。御母様に対して反旗を立てる者は自分の信仰観からそうするのか、或いは良心に従うが故の行動なのかどちらだろうか。勿論、御父様のみ言葉とは異なるというのは信仰観から来る言い分だが、それは大義名分で本当のところは自分の内的叫びに従ったが故ではないだろうか。内的叫びが良心の声なのか自分の感情なのかはそれぞれの主観分野で何とも言えない。仮定となるが、信仰観と良心と感情が相互に作用した結果としてそういう行動に出ているとは思える。しかし今ですら大きくは三分裂し、そのどれにも組することができない多くの食口がいるのに、どうやって一つになる事ができるだろうか。前にも記したように、私達の標榜する天一国は王を中心として明瞭に位階の存在する国だ。よく使われる百姓(ペクソン)は私達庶民のことだが、王と百姓の間に位階があるのかないのか。普通あると思うのが至極当然だろう。百姓それぞれが主観的な良心を備え、それぞれが異なる意志を持つのであれば、まとめて一つにする王制はどう成り立つのか、どう成り立たせるのか。或いは現代の王制のように象徴的形式的な意味しか持たないのか。愛でもってひとつにするのはその通りだが、その為にどう組織に落とし込んでいくのだろうか。

2020年7月3日金曜日

今日の想い 1072

久しぶりに実家に帰宅。老親の安否確認並びにあばら家の状態も確認しておく。リフォームしたいのはやまやまだが、無理だといつも思う。部分的改修でどうこうできる状態はとっくに超えている。家長としてこの家とこの土地、そして故郷をどうするのか。摂理だ何だと大きな話はしてきたけれども、崩れそうなこの家ひとつどうにもならない。情けないかぎりだ。氏族メシヤが聞いて呆れるだろう。教会に籍を置いている日本食口は今どれ程いるのだろうか。そしてその中の何人が意志を備えた影響力を持とうとする食口だろうか。それは御母様や教会本部に対してものが言えるという影響力でも構わないし、また社会に対しての影響力でも構わない。もし何の影響力もない者達の集まりなら、摂理だ何だと大きな話はしてきたが崩れそうな家一つ手を付けられない私と同じで、ただ情けないだけの群れだ。正しいとか間違っているとかを、御母様に対して或いは原理の日本罪悪史観に対しても問うているが、実のところ人間はその思考如何によって行動を変えることはない。行動にはエンジンスターターであるところの何らかの衝動が必要であり衝動は爆発感情と言ってもいい。思考が先か感情が先か、思考を得て感情を起こす場合もあるし、感情がそれに合致した思考を得、論理を組み立ててしまう場合もある。さらに言えば、思考から感情を起こす場合も自覚していない自らの背後の感情がその思考を呼び寄せてもいる。み言葉を受け取っても、入教する人もいれば何の行動も起こさない人もいるように、意志に影響を及ぼす感情は潜在意識下に深く及んでいる。人間は自分のことすら理解できない不可解な存在だ。だから何をしても無駄だと言いたいのではなく、その逆でだからこそ意志がより重要であり、意識の光をよりあてる部分であり、神もサタンも意志を食べて意志に動く。私達は御父様の手足ではあったが能動的意志を捨て去った状態を続けてきた。御父様という神経系統を失った今は意志を発動し得ない四肢だけが取り残され動いている状態にある。行動しないのではなく行動できないという後遺症を病んでいる。論理では良心を取り戻し良心に従ってということはわかっていながら、切実なる神様の意志が繋がらない。衝動として点火しない。

2020年6月23日火曜日

今日の想い 1071

ブッシュ政権の頃、労働組合の勢力が増していき次なる選挙に勝てるかどうか危うくなっていた。御父様は労働団体への強気な姿勢を取るようにブッシュに対して強く提案されたはずだ。しかし結局はブッシュは御父様の大会出席もキャンセルされたし組合に対しても妥協してしまった。大会の後、御父様は暗い表情でアメリカの衰退をみんなの前で予言されている。御父様は確かに平和主義者ではあるかも知れないが、平等主義者だというのは違う。反組合である理由として、天が認可して資本家やそれに並ぶ会社役員が財産や高い報酬を得ているのに、給与を高くしろと戦いを挑む目的の組合団体は泥棒集団だという認識だ。もちろん資本主義に対する共産主義も同じ理屈だ。そして韓国に対してもおそらく同じで、御父様の口から李氏朝鮮時代の両班への批判も、奴婢や賎民の差別の是非も聞いたことがない。韓国併合によって差別なく氏姓を与えたことや教育を与えたことに対して、日本人の感覚からすれば褒められて当然なはずが、同じように称賛されたのを聞いたことがない。それはただ御父様が反日だからというのとは訳が違うと私は思っている。御父様を差別主義者と言うのは躊躇するし、差別という言葉自体に共産主義による憤怒や恨みの感情が込められていて使えないが、王という言葉を使っておられるように位相という階層の存在は当然のこととしておられる。アメリカの資本家に対するように、両班に対しても同じように天が認可して財産を得ていたという認識なのだろうか。マスコミが教会批判の記事を大きく載せていたころ、文王朝という文字を前面に躍らせてあることないこと興味を引き出していたが、その言葉自体は間違いではないだけでなく、まさしく御父様が求めていたものだったはずだ。御母様という王を中心とする王朝が天一国の在り様だとして、はたしてどれだけの食口がそれをイメージでき、そして許容できるだろうか。

2020年6月20日土曜日

コロナショック

コロナで国家と社会に投げかけられた問いは、数%の国民の病と死の受容を選ぶのか100%の経済の病と瀕死を選ぶのかという選択だ。お金よりは生命が尊いというのが大方の認識だろうから、多くの国は経済が瀕死の状態に向かおうとも接触や移動を極力抑えることで致死数を下げていった。それで国民のコロナに対する恐れは薄れるとしても生きるためには落ち込んだ経済を活かす必要があり、その匙加減をどうするか頭の痛いところだ。そこで多くの国が飛びついたのが数年前に話題となったMMTだ。モダンマネタリーセオリー、現代貨幣理論だ。きわめてシンプルに説明すると、インフレにならない限りは国債を無制限に発行できると言うものだが、今回のコロナショックで大方の国は国民の死者数を減らすために結果的に経済を犠牲にしたが、このMMTありきでの政府の行動であることは間違いない。だから躊躇もなく当然のようにストップした経済にGDPの20%を超える特別融資を行っているし、必要とあらば更なる融資を行うことに国はやぶさかではない。アメリカは無制限にという言葉まで付け加えている。リーマンショックで通貨という血液はそれでも可能な限りの水増し状態だったが、このコロナショックで通貨は水膨れ状態で、経済の血液は透き通るほどに無機質化してしまった。その行きつく先はハイパーインフレであり通貨としての価値は消え失せてしまう。MMTの大きな間違いは金融の自由化により国債は海外からも売買されていて、売買の電子化によりその頻度も安易さも数年前とは格段の差だ。よって売りが増えて金利が上がり値が下がる予兆がみられると一機に価格は下がる。インフレになったら手持ちの国債を売って通貨を回収しようにも更に高くなっていく市場金利を現状のゼロ金利に戻すには既存国債量は莫大すぎる。金融自由化は国債の価値判断を世界情勢にゆだねたことを意味している。もちろんコロナショックによる経済損失は日本だけではなく世界経済に影響を及ぼすものだが、世界的な通貨価値の損失はかつてなかったことであり未知の領域に突入している。

2020年5月23日土曜日

今日の想い 1070(高齢期で想う)

40年を超えて御父母様に侍り帰依してきた。私がいう御父母様というのは、おそらく殆どの食口がそうだと思うが、御父様のことであり、御母様は御父様あっての御母様だ。だから御父様がみ言葉でこう言っておられますと言われる御母様が御母様であって、私の言う事を信じて従うようにという御母様に新たに帰依するのは人生の大半を御父様に侍ってきた私の信仰観からはずれている、というより別物だ。今までの人生を一旦否定して何もないところから出発しろと言われるのと同じだから、できないというより有り得ないことだ。御母様の時代は御母様の時代であって、思われる通りに摂理を進められるのに異論はないが、自分の信仰観を捻じ曲げてでも従うというのは違う。先天時代を総括して後天時代を出発する必要があるように、既に老年期に入っている食口は、この世を去る前にこれまでの人生の総括をする必要がある。教会や御母様に対して、余った自分の時間をいろいろと評論するために使うのもアリかも知れないが、感情任せにそのことに意識と時間の大半を費やすのはほぼほぼ無駄だろう。そんなことよりは己の人生を振り返り自分なりの総括をして、残していることがあるなら補充する生活をする必要がある。この世を去る時に、禍根は後孫に残すか放り投げたまま、御父様神様任せで天国に連れて行ってもらえる等という下心で去るべきではない。霊界で行くべき自分の場所さえも把握し、先祖や御父様に報告すべき内容もしっかり整理して、霊界で何をもって神様に仕えるかも見届けてから、おもむろに霊界への道を辿っていく。それが聖和式が聖和式としての意味あるものとするために大切な条件だ。私にとって教会葬であれ家族葬であれ形には囚われず、或いは敢えてお決まりのそういう儀式を行わないという選択があっても問題ではない。問題は定められたXDAYに主体的能動的に望めるかどうかであって、それが霊界生活を主体的能動的に歩めるかどうかを決定するはずだ。地上生活という繭を脱いで霊界を自由自在に羽ばたこうとするなら、地上の歩みの霊的意味を意識的に捉えておく必要がある。五感を通して受け取る地上世界の表現にどれほど神様の真の愛の論理が表されているか、生活を通して発動される喜怒哀楽にどれほど神様の想いが現されているか、ほとばしる衝動を覚えながら、抑えられない堕落性を見るのではなく対象を求めてやまない神様の意志を見るか。それらの果実は地上で捕らえた私だけが報告できるのであり、私だけの霊的な広がりや深みや色合いや味わいで霊界を築き上げ、御父様はそこに尋ねて下さり、霊界に於いても偏在される神様と共に住まう。

2020年5月20日水曜日

今日の想い 1069

神様が本当に求めたのはアダムではなく、自らの実体であるアダムを通して実はエバを求めた。主体であられる神様の本当に求めた対象はエバであった。アダムという実体化した神様がエバと一つになりたかったのであり、一つになった愛の対象実体として子女を得たかった。イエス様は神の一人子として地上に現れればそれで事足りたのではなく、第二のアダムであるイエス様を通して実は相対を探し婚姻することが目的だった。しかしイエス様は相対を得ることなく地上を去られた。よって御父様は再臨のイエス様として理想相対を探されたのであり、探し出された御母様は御父様の相対であると同時に神様の相対の位置に立たれるべきだった。実は「だった」と過去形にすべきかどうか今だに悩んでいる。御父様側に立つ事実は御母様は未だ神様の相対には立たれていない。御父母様の三度目であり最後の結婚式は2013年の基元節に予定され、その結婚式こそ神様の結婚式のはずだったが、しかし2012年に聖和されてしまい御父様からすれば神様の結婚式は棚上げ状態のままだ。しかし御母様側に立つと御母様は既に神様の結婚式が為されて神様の相対に立たれている。それが御父様がおられない基元節で挙行されたのか、或いは御父様が訓読会の場で御母様と4人の責任者に対して強く叱責されたように以前に既に御父様の許可なく挙行されたのか、その辺りをどう理解するのか。私達は一問一答できるほどに神様に近くもないし、霊的無知から脱してもいない。わからなければ言われるままを受け入れるしかないとも言えるが、そうだとしても御父様の言葉を受け入れるべきなのか御母様なのか。天の御父様(神様)から天の父母様に変わったのは明らかに神様が結婚された背景でしか出てこない言葉だし、御母様の権威の立てようは御本人が神様の夫人だと認識する威厳に溢れている。ここから先のことは我々の詮索のしようがない。どこに付きどのような立場を取るにしても、どちらにしろ神界の動きを見守るしかない。

2020年5月10日日曜日

今日の想い 1068

コロナコロナと騒いでいるうちに、景色は既に初夏の様相だ。山肌のあちこちに山桜の薄桃色だけは認められたものの、仰いで見渡す満開の桜にはついに出会えなかった。この部屋からは窓越しに山の輪郭を辿ることができるが、今日の青空のせいで、映える新緑がなだらかな輪郭の下部を生命力で溢れさせている。自然は誰見ずとも季節季節の装いに一生懸命で、コロナ自粛要請に日本中から人影が消えても、だから尚更強く、その美と生命力を天空に開いて差し出している。今の人類の息を潜めた緊張からすれば何とも皮肉なものだ。科学による西洋医学は鉱物界の力に頼ってきたが、鉱物以上植物以下のウィルスにさえ太刀打ちできないでいる。やがてはなのかそれとも遠い過去のことなのか、植物界の生命の力で空を飛ぶことも地に穴を掘ることも可能な世界では、生命の様々な不可解をいとも簡単に解くことができて、ウィルスのことについても鉱物の力ではなく植物生命の力で瞬時に解けるのかも知れない。論理と鉱物原理が結びついているように、感情と植物の生命原理が結びついていると仮定できれば、こんな話も絵空事だとは思わない。み言葉は実に複雑で、一つ一つの言葉の概念さえも自分が認識していた理解を先ず疑い、何通りもの仮定概念を想定し、何度も頁を遡ってめくりながら進めていかなければ、早々に行き詰ってしまう。上っ面をなどっただけでは何も得られない。み言葉の字面(じづら)に相対しても、み言葉の本質に相対するのは至難の業だ、み言葉と格闘し身悶えしてこそ本質は少しづつ少しづつ形を現す。そのためにはみ言葉に対する姿勢を先ず問われるだろう。謙虚でなければ相手にもされない。人類はコロナ問題を前にして己の無力さに落胆している。科学の発達をあれほど誇らしく掲げて胸を張っていたものの、軽く足をはらわれて立ち上がれない。人類は今の現実を前に先ず姿勢を改める必要がある。見えない背後に対する謙虚さを学ばなければならない。天と霊界に対する畏怖の念を取り戻さなければならない。鉱物界と植物界に頭を下げなければならない。

2020年5月7日木曜日

今日の想い 1067

日本人は実に曖昧な民族だ。今回のコロナウィルス対応策を見るにつけつくづくそう思う。右か左かを明確に決断できずに成り行きに任せ、事態を眺めるだけで佇んだまま時を見過ごす。改憲議論でも決断して事が荒立ってしまうことより、何もせずに問題を先送りすることの方を選ぶから、いつまで経っても埒が明かない。黒船が来て開国したように、太平洋戦争に於いても、それまで決断できずに佇んだままどうにもこうにも道が塞がれてしまったので戦争に逃げただけのことだ。日本は決断したのではなく逃げた。決断できる意志がもともと備わっていれば戦争に突入することはなかった、と私は見ている。今回、武漢の実情がわかった時点で、何の措置もとらなければやがてどうなるかは見えていたはずだ。それにも関わらず成り行きに任せてしまう曖昧さを日本人は捨てられない。日本の教会とて同じことで、常にプッシュされて、すなわち外圧を受け続けて今の実情がある。それを絶対服従する意志だと納得させるのは先天時代までで、今は全体組織の恰好だけは残そうとするための言い訳でしかない。はたして教会サイドの外圧以上の外圧が我々に迫ってきたときに、組織の恰好を残せるかどうかだろう。このコロナ騒動で社会は大きく様変わりする。どれだけ過去に食べていたスイカを欲しがっても、先天時代には戻れないように、もはやコロナ以前には戻れない。この新しい時代に足を地につけて生き抜くには、生きる意味を明確にしてその意志を備える必要があり、意味を捉える意識を常に持つ必要があり、その私の意識は唯一絶対永遠不変の天に繋がっているという霊的柱が立っていなければ霊的に流される根無し草だ。祝福は天の本流に繋がって霊的柱を受け取る儀式であり蕩減棒や三日儀式は具体的秘儀だ。この混迷の時代、祝福の価値やみ言葉の価値はますますその光を増すはずだ。その認識を自己満足のみで捉えないように敢えて言うなら、御父様の言われる良心は胸のうちではなく丹田にある。丹田から発する意志の力が背後の良心と直結している。良心と意志と更に生殖器は三位一体でこそ天と直結して働く。どれひとつ曖昧であってはならないし、それぞれで暴走すべきではない。

2020年5月2日土曜日

今日の想い 1066

これが救いだ、これが赦しだと説明されても、確信と実感が伴わなければ言葉の鞘だけ受け取ったものの中味はない。けっして困窮した生活を助けてくれるとか病から救ってくれるとかの現実問題の救いという意味ではなく、さらに不安や恐れを解決してくれる救いという意味でもなく、敢えて言えば唯一絶対永遠不変の愛の存在感を得たい、取り返したいということだろうか。神様御自身が唯一絶対永遠不変の存在だ。その神様と私が何の関係性があり何で繫がれているかによって神様のそれらの属性を相続できるという。そういう観点に立ってその関係性(父子関係という関係)を示し、相続の可能性を差し出されたこと(神様の血統に接ぎ木されること)が再臨のメシヤである御父様の歴史的快挙だ。もちろん様々な問題を抱え何とか解決したいともがく私はその通りだが、存在の意味を知らされ神様との関係性を日毎に強くできること以外の問題は二の次の課題であり付録だと思って生きている。現実は人生の流れの中で抱え込んだり手放したりの連続だが、抱え込むことで、あるいは手放すことで神様との関係性をより深くできるならどちらにしろいい教材だということだろうか。実際は地上の問題にあたふたしながら天に文句を言いながら生きている訳だが、それでも既に切れることはない神様との親子関係にある地上を超えた私(夜の私、霊的私)が中心にあって、その私が人間として地上生活を送る私を運転している、あるいは見届けているという感覚だ。日本人である私は感情をあまり左右されたくない訳だが、地上を超えた私は韓国人のあの激しい喜怒哀楽を羨ましく見ていて、激しいだけに関係性はより強く深くなるはずで、その求める先にハナニムを見ている。周りの国にしてみればえらい迷惑な話だが、神様が関わらざるを得ないという意味でも自ずと心情をより相続できるはずだ。日本人とすれば正しいかどうかを先ず問うのだろうが、それよりは情が勝るのであり、信仰の在り様でも、教条的な日本信仰に対して情的な韓国信仰となる。長男の子女様は確かにハチャメチャな生活をしておられた。しかしどれほど堕落的生活であったと我々が見るとしても悔い改めて御父母様の前に帰ってこられたのであり、帰ってこられたことで良しとされ堕落しただとか失敗者だとかという話はされなかった。親子の関係性は教条的な問題を最終的には問わないほどに強いことを示された。自分の子供の救い、問題を起こした多くの二世達の救いもそこにあると、私は希望を未来につなぐことができた。

2020年4月30日木曜日

今日の想い 1065

良心は人間理想の目的に至らせるための羅針盤だ。羅針盤という言葉があれば羅針盤を備える船が当然ある。羅針盤の良心に対して船は何かというと、知情意の魂を持つ人間そのものだ。心と体、即ち魂と肉体を持つ人間そのものが船だ。今の時はまさに万人の戦いの中にある。誰もが安着の大地を探しながら、大気という海の底で、コロナや経済や社会の問題に翻弄され、自我の存在目的を問わざるを得ない状態にいる。誰もが暗闇の中であり、大洋のど真ん中に投げ出されて、明日をも知れないという霊的暗闇におののいている。この世的に言われる道徳的な良心ではなく、御父様の言われる良心、神様が訪ねて下さる良心こそが羅針盤の役目を果たすのであり、羅針盤あってこそ人間として生きることができる。奉仕活動も素晴らしい。マスクの品薄時にマスクを作って献品するのも素晴らしい。しか道徳的に生きる以上に、生きた言葉を伝えて、生きた言葉で生きることを教えるなら、それこそが伝道だろう。どれほど祝福を形だけ授けても、生きた言葉で生きることを学ばなければそれは伝道とは言えない。はたして食口のどれ程が霊的に生きた存在として天が認めているだろう。神様は愛の神様であり親なる神様だ。今までの愛の概念を愛とすれば真の愛の神様だ。真の愛こそが縦的に90度の位置で船を立て直す。ニューホープ号を沈まない船と言われた意味は、良心という羅針盤を備えた船はこの世の荒波に飲まれることなく目的地まで無事に航海するという意味だ。誰につくかが問題ではない。献金高や祝福数が問題ではない。コロナやバッタが問題ではない。教条主義ではない良心を立てて、良心の願う通りに航海を全うできるかが問題だ。

2020年4月24日金曜日

今日の想い 1064

コロナだろうが何だろうがお迎えが来れば当然この世を去る。他人事のようにそう言ってのける自分に気付いて恐ろしく思った。この世を去るけれども地上生命の道理では何らかの外的原因はある訳で、何をもって地上を去るかは人間の霊的使命と関わりがある。地上に誕生する時にも地上で負うべき使命があるように、死(教会では死という概念はなく別の言葉を使う)という霊界への誕生にも、地上で得た実りをどういう霊的立て付けにするかを宛がわれて、その関係性で地上死の外的原因を用意する。だからなるようになる、と言いたいのではなく、実は真逆で、だからこそ現実の問題に対して、コロナウィルスに対して、能動的に対する意志を持つべきだ。既に多くの犠牲が供えられ犠牲は今の今でも増え続けている。生きている人間がこのウィルスとの闘いに真剣に臨まなければ、犠牲として供えられた何万柱は犠牲になった意味は何だったのかと問い続け攻め続けるはずだ。先ず食口が悔い改めることは、誰よりも世界に留まっている問題に対して責任を持つべきなのに、その責任意識と責任感情に欠けていることだ。ホロコーストはイエス様を受け入れず磔刑に追いやったユダヤ民族の蕩減?蕩減はそうなのかも知れないが、彼等に対してだから当然の報いでしょうと対するのは精神性を疑う。蕩減だと言い放てばすむ話ではない。コロナウィルスの蔓延は御父母様を未だに受け入れない人類に対する鉄槌?そう理解して言い放てば自分は神の側にいるとでも思いたいのかも知れないが、私はそう突き放す本人の穿った精神を見る。み言葉の本質を一つも受け取れないまま、自分が信じたい神のイメージという幻想を奉る為の黒魔術の道具に、み言葉が使われてはならない。御母様の指示があろうがなかろうが、中心からの指示がどうであろうが、食口は良心を取り戻して、先ずその良心の声に相対してほしい。人類に対する試練なのはその通りだが、それは神様御自身の試練でもあり我々が本物かどうか、更には祝福の価値を問われる試練でもあるということだ。

2020年4月16日木曜日

今日の想い 1063

既にコロナウイルスで政治も経済も情報社会も大混乱だ。近代の人類歴史で積み上げてきたシステムはこの疫病の蔓延で一瞬にして崩れ去る可能性もある。ということは教会であってもそのシステムの恩恵に預かっているわけで、土台が崩れるのであれば同じように崩れ去る。食口がどれほど献金したくても経済が回らないのであれば総本山にも入ってこようはずがない。制度を変えるも何も、経済システムが破綻すれば献金から献品にならざるを得ないのだが、どう変えるのだろうか。世界経済はドル基軸で回っている。取引の決済にドルが必要だというのがドル基軸だが、ドル通貨国アメリカ自体は債務国であり様々な国に負債を負っている。とりわけ日本が米債券を多大に買い結果的にドル基軸を支えているが、リーマンショックで問題になったMBS(サブプライムローンを含む不動産ローンの証券)を買ったり、今回のコロナショックで問題になるはずのCLO(アメリカの会社債の証券)を買ったり、国債は勿論の事様々な債権を端から買ってアメリカを支え続けている。世界経済では息子(アメリカ)が立つために母(日本)が国家経済をかけて支えている。それは教会内で父(韓国)の本部を支える為に母(日本)の食口が先祖祝福や解怨という霊的証券や摂理商品を端から買って支えているのと構図が似ている。このコロナショックでアメリカは既に2.5兆ドルの財政支出を出しているが年内には倍になるだろうし、一息つくまでにはリーマンショック(4兆ドルの支出)をはるかに超える負債を抱えることになる。そしてその負債の多くを日本に肩代わりさせる(債権を買わせる)ことに当然なる。もし第二のプラザ合意でドル引き下げでもあれば売った債権(要するにアメリカの借金)は半分かチャラになる。今回の名称の変更が今までのお金の流れを変えるのか、コロナで出すお金もなくなると踏んで人的な流れを指示されるのか、様々な改革に食口達はどこまでついていけるのか。

2020年4月14日火曜日

今日の想い 1062

私達にとって本体論は既に見失った言葉だ。天の父母様の前に夜昼の神様も曖昧であり、神様王権即位式に向けての数々の宣言も曖昧だ。天の父母様という名称に違和感を覚えようが覚えまいが、本体論等々の理解どころか未だ神様すらはっきり捉えてはいないのだから「はい」と頷くしかないだろう。御父様がみ言葉で天の父母様という言葉をこのように使われたとか縷々述べられても、そんな説明を皆が求めているのだろうか。私は御母様が話された言葉の名詞の部分ではなく動詞の説明が欲しい。人類を抱くという抱くの意味は、同じように祝福を与え続けることなのかそれともウィルスや貧困から救うためなのか、それとも人類の新しい制度をつくることなのか。それぞれの国に根をおろすというその具体的な内容やどうなったら根をおろしたことになるのか。私の内面は疑問だらけだ。2020までの7か国復帰に対してどう見ても為されてはいないと私は思うのに、勝利されて天一国安着を宣言されている。復帰するというその意味が何であり、安着したと宣言されるその意味。私は全く批難しているのではなく単純に疑問だらけの問いの答えが欲しい。側近で仕えておられる先生方はどのように理解しておられるのかその説明が欲しい。理解もせず流しているのであれば、それはそれで御母様の指示なのだろうかとも詮索する私がいる。ここにきて何か突き放され、置いて行かれている感覚が拭えない。「天の父母様教団」と家庭連合はどう違うのか。家庭連合は横的な組織で天宙真の父母連合は縦的だと言われた御父様のみ言葉と関連があるのか。あまりにも説明不足だと思うのは私だけだろうか。

2020年4月13日月曜日

今日の想い 1061

新しい風が吹いている。新しい風は、霊界では愛を呼吸していると言われているように真の愛の風が、空気が、大気が今までの在り様に変わって地上に満たされるなら、それは実に心地よいものに違いないという誤解があった。しかし新しい風が後天時代の最初にもたらしたものはコロナウイルスの蔓延だった。このウィルスの蔓延は人類の全てのシステムを根底から覆す。御母様が語られるように、先天時代を通して積み上げてきたシステムはもはや役に立たず、全く新しいシステムを後天時代に生きる人類は必要としている。スクラップアンドビルドだ。多くの犠牲が出続けているが、犠牲をもって元通りの世界に復帰するのではなく、新しい世界を築く為の取り壊しと整地が進められている。生き辛い時代であればこそ人間は意志を差し出さざるを得ない。天一国世界へのハードランニングだからこそ生きることの意志を要求され、為に生きることの本質が問われるだろうし、そう生きる者が誰の目にも燦然と光り輝く。先天時代は献身し、摂理の為に身も心も差し出して生きても、一般人は目もくれなかった。享受の時代に楽しく可笑しく幸せに暮らせるのに、敢えて訳のわからない苦労の道を選ぶ教会食口への視線は冷たく変わり者にしか見られなかった。しかしこれからの時代は180度変わる。誤解を恐れずにいうなら、こういう時代だからこそ私達の時代だ。それは祝福を受けていればウイルスには罹らないというような飴玉をぶら下げた話ではなく、罹ろうが罹るまいが為に生きる意志を貫くということ。前にも記したように、こんな一過性の災禍で終わるはずはなく、何重にも災禍は襲ってくるはずだ。そうなってくると私達一人一人の真価が問われることになる。自分を犠牲にできるかどうかを問われる。そういう人間にしか人はついてこなくなるだろうし、そういう人間が経済にしろ政治にしろ、後天時代、すなわち天一国時代の新しいシステムを築き上げる先頭に立つ。

2020年4月9日木曜日

今日の想い 1060

はっきりしていることは、天上から地の底にたむろする人類に対して災禍を浴びせ、どう解決するかを見届けようとする神様ではないということ。あり得ないと分かっていながら、混乱の只中にいれば如何せん神様を見失い、天上から眺めておられるかの如くに、その神様のイメージに向かってお願いしてみたり談判してみたりして、御利益的な奇跡を望んでいる。自分も幼い信仰を持ち続けてきて、どれだけお願いし続けたかわからない。事実は神様御自身が私の中で悩まれ、苦悶され、それでも理解し解決する道を私を通して意志されている。この事実に目覚めたとき、私は私の中で働かれる神様を実感した。確かに全知全能の神様はその通りかもしれない。しかし解決への道を不断なく求め続ける、絶対諦めないという復帰への執念こそが全知全能たらしめていて、執念を含む心情が全知全能を支えている。霊的背景を見るなら地上の人類に働かれる神様は昼の神様であって、夜の神様に属する何柱かの神霊存在の役割を全て立てられるように収拾する過程にある。新時代に合わせて鉱物界を取り仕切る神霊存在、或いは植物界を取り仕切る神霊存在、更に動物界を取り仕切る神霊存在、また火水風土を取り仕切る神霊存在達をも説得し収拾する必要がある。御父様は基元節を迎える為に準備としてあらゆる神霊存在への御礼参りをしてこられた。大母様は霊界に尋ねて食口の先祖を探し説得されたが、御父様は高みに存在される数々の神霊存在を訪ねられた。それ故に「天宙真の父母連合」という復帰摂理最後の摂理機関を造られている。横的な家庭連合に対して、天宙真の父母連合は縦的な機関だ。要するに位階の底辺から高みにある霊的存在までを御父母様を中心軸として収拾しておられる。ウィルスは物体か生体かと問う時、即ち鉱物界のみに留まるのか植物界動物界にも組み入れるかの問答は、科学者達の間でも随分論議されてきた。結局は曖昧な存在のままだが、その曖昧な存在が、人が集合的に生活する社会状況では重要な局面で多大な影響を及ぼしている。人間の目には悪影響しか及ぼさない殺人ウイルスなのかもしれないが、この宇宙を新しい次元に移行させるための重要な役割を担っているかも知れない。私的な感覚ではワクチンや薬という鉱物界の原理を探る以上に、より位相を上げた火水風土、とりわけ風(空気、大気)に関わっていることを強く感じる。

2020年3月30日月曜日

今日の想い 1059

今の混乱をどう理解しどう解決したらいいのかを尋ねられたら私はこう答える。先天時代から後天時代に移ったことで今までの先天時代の論理が合わないこと、そして先天時代の人心の在り様が合わないこと、さらに先天時代にはない背後(天)の意志が働き、また人類として個人としても働かせる必要があること、その三つの変革の為に地上の表象として現れた最初の一つがこの新型コロナであって、このウイルスと対峙しながら実はそれを通して人類の変革を期待されている。これから起こる数々は共産主義でも資本主義でも解決できないし、どちらかというと独裁主義に近い教会の論理でもこの現実は解決できない。事態が長引けば長引くほど誰も何も宛にはならず、結局は自らで自らを理解させ解決させる以外ない。ということは自分の良心こそが自らが従う(絶対服従すべき)神様と相対できる唯一の存在であることを認めた者から解放される。この新型コロナウィルスに関していえば、もし感染するとすれば、人類全体としての払わねばならない犠牲という尊い使命を天から与えられた存在であること、また感染を逃れている間、或いは感染しても死から遠い間は、未来へ残すべき摂理を担う存在であるという両者共々天の真の愛の計らいによっていることに感謝すべきで、それが無ければ死と隣り合わせで平安は二度と訪れない。人それぞれは新しい時代を生きるため進化すべき人類の一細胞であることを忘れず、たとえ私が地上を去るとしても人類が生き続ける限り私はその中で生き続けるという確信が必要だ。死や地獄から救われたいという恐怖信仰に留まる限り、(それは食口に限らず人類の殆どが知る知らずに関わらず恐怖信仰だが、、)このウィルスにしろ地震や津波にしろ避けるべき悪霊の類にしか見えないが、実は人類が進化するための、個々の細胞である一人一人の深みに横たわる人類全体の深層意識がなせる業に他ならない。今の人類が後天開闢時代というステージを生きようとすれば、せめて天の祝福を受け入れることができる寛容の段階、すなわちウィルスさえも甘受しようとする意識まで頑なな心を砕かれなければならない。明日は我が身だとジタバタしてもどうしようもないと諦め気味に感情が和らいでこそ新(神)人類の細胞となるべく天の祝福を受け入れるだろう。このまま人類が頑ななままでは神人類選抜の為に山に登れという命が下されるかもしれない。御父様が何度も触れておられたD-DAY(天による戦闘開始命令)は始まったばかりだ。

2020年3月17日火曜日

今日の想い 1058

今が祝福中心家庭の正念場だ。後天開闢時代を開くにあたって全く新しい神人類として用意された私達だ、という自覚をどれだけの食口が持っているだろうか。この新時代は過去の延長の上に乗った時代ではなく、創造本来の時代としての本流であり、真の愛による神様の主管を受けて出発した、すなわち真の愛によって祝福を賜り、天の血統に接ぎ木された祝福家庭こそが、霊連性によって統治すべき時代だということだ。この時代を担うために私達は訓練されてきたし、待ち望んできたし、準備してきた。そうであればこの世の者達と同じように、新型コロナだ世界経済破綻だ世の終わりだと騒いでいる時ではない。御父様は基元節を待たずして聖和された。聖和されて今度は神霊として御父様に帰依し慕ってきた者達の魂に内面から直接働かれる。後天時代を取り仕切るために、敢えて肉体を去って神霊としての霊的存在になることを選ばれた。今こそ私達は祈って祈って祈りぬき、尋ねて尋ねて尋ねぬいて神霊として働かれる御父様の担い手になる必要がある。打たれておこぼれを奪ってきた過去から、先手を打って価値創造、環境創造の糸口を手にすべきだ。糸口を一気に引き抜けば形あるものないものあらゆる財宝を手にできる。御父様は歴史的ギャンブラーであり相場師だった。息子娘である私達も当然引き継いでいる。この世の者達が見えなかった、あるいは見ようとしなかった価値存在がこの地球に眠っている。そして眠っているのをたたき起こされたことによる埃やドタバタを、新型コロナや豚コレラ、或いは地震や火山噴火として現れたのを見ている。埃に囚われていて起き出した価値存在を見ようとしなければ、埃だけをかぶって天運を味方にできない自己満足の為の信仰だったと判断されても仕方がない。

2020年3月5日木曜日

今を生きる

旧約、新約、成約と流れてきた摂理歴史という大河は、本流ではなく実は支流だったということが後天開闢時代を開かれたことによって理解できる。本流の流れは夜の神様から流れてくるところのイエス様であり、イエス様の使命を受け継ぎ勝利されて本然のアダムエバとして立たれる真の御父母様だ。食口にとってそれを疑うことはないだろう。私達は祝福を受けることで御父母様という本然の木に接ぎ木されていて、それは個人の次元であるけれども、歴史時代の次元に立てば先天時代の流れを本流である後天開闢時代に接ぎ木されている。歴史が終末期に至って新しい時代が始まる訳だけれども、双合十勝日は先天時代と後天時代をつなぐ、すなわち先天時代を後天時代に接ぎ木する歴史の祝福式であるということができる。そしてこの時代に歩む私達は祝福中心家庭として、論理として理解するのみならず、本流の中心的存在として天の心情を抱き為に生きる生活と人生を通して本流を確かな大河の流れとする責任がある。しかし気持ちだけはやり空回りしてきた数々の先例を決して忘れてはならない。御母様が決意され結果を残すことを神様に約束されているように、今までのように御父様が我々が失敗する毎に許され、しかしまた信じて任せて下さったそのように御母様は私達には対されない。信じても裏切られることを知っておられるからもはや頼むこともされない。神霊の働く良心が立ち自主的能動的に結果を残して供える者だけを視野におかれるのは当然だろう。本物か偽りか、羊か山羊か、先天時代という支流が後天時代という本流にぶつかり、上下左右が反対になったりごちゃまぜになる混沌の時代であり社会である今だからこそ、食口のみならず万人が試される今を生きている。新型コロナなぞ構っておられないほどぞくぞくと人類に対する試練が訪れる。本物が残る面白い時代になったと、丹田に於ける真の意志を発動する者こそがこの荒波の中を新天地に舳先を合わせて航海し続ける。

2020年2月24日月曜日

2034年

2034年という数字。祈っていて急にこの年数が伝わってきた。私は以前、御父様の口からはっきりとこの数字を聞いたことがある。それは清平での話だったと思うが、「?年にすべては終わる。(実はこの?年が記憶から飛んでいる)それが難しくても2034年には終わる。」と話されて、2034年というと私は何歳だろうとその場に居ながら頭の中で計算したのを確かに覚えている。今年は2020年であり、これからの7年路程で2027年、2034年となるとさらに7年を加える。要するに三次にわたる7年路程で御父様が口にされた2034年になる。一世達のどれだけが生き残ってその年を迎えることができるかはわからないが、神様の摂理はその年までは見えるものとして続いている。果たしてその摂理の流れを見通して歩む者が食口の中に数えるほどでもいるだろうか。御父様がおられない今は現時点での摂理状況を説明してくれる人は誰もいない。しかし誰もいないと諦めるのではなく、切実であれば霊界に尋ねざるを得ないし、祈ってでも条件立ててでも尋ねる意志を益々強く持って、誰でもない祝福家庭が、この私が御父様に変わり世の光となり摂理を見通すべきだ。そうなってこそ第4次アダム心情圏時代だ。祝福家庭は第4次アダムだ。

2020年2月23日日曜日

今日の想い 1057

日本は島国だから本当にやる気さえあれば国内感染はある程度防ぐことができた。水際水際と言っているが所詮中国頼りの経済だから、口では来るなと言いながら体は拒めない。後手後手に回ってしまって結果ウィルスは国内になだれ込んだ。既に日本全国に新型コロナウィルスはまき散らされている、と認識した上で対処する以外ないだろう。今回の清平詣でも感染することを心配した食口も中にはいたが、大方は気にもしないか信仰ゆえに守られると信じて参加していた。ひねくれている私などは逆で信仰をもっていればこそ感染して試されるのではないかと思ったりする。しかし実際はどちらでもないだろう。信仰如何に関わらず肉体を持った同じ人間として等しくリスクにさらされる。霊界を信じ自然界の摂理も神様の業か許可だと信じる者として、戦々恐々とし好き勝手に情報を言いふらす無責任マスコミとは異なる認識と意志を差し出すべきだろう。事態が大きければ大きいほど、生半可な思考で内外の原因や目的を見出すことはできない。解決方法や救援方法となるとなおさらだ。霊界を信じ、神様を信じる者として誰よりも誰よりも問い続け尋ね続ける不断なる強い意志を持たなければならない。意志は真の愛であるところの為に生きる愛の最も大切な魂活動だ。祈り求めて諦めない姿勢が霊界を動かすと共に社会を動かし国さえも動かす。祝福を戴いた者が今すべきことは、世俗を無視し御父母様にだけ顔を向けて明日を繋ぐのみならず、この世の者達にもそれ以上に顔を向けて救いの手を差し伸べるほどになるべきだ。祝福を受けているにも拘らず自分は堕落していて御父母様にべったりくっついていなければ救われないという意識で汲々としているなら、この世の人達は捨てられて当然だということになってしまう。このウイルスだけの問題ではない。これから続々と国難がやってくる。神様に最も近いはずの祝福家庭の意識改革は何よりも急を要する。幼子の信仰というけれども、幼子は純粋だけれども最も我儘でもある。祝福家庭が我儘で独善的であっては救えるものも救えない。

2020年2月15日土曜日

今日の想い 1056

新たな7年路程が始まった、ようだ。2020年までの7年路程は基元節を正しく迎える為の延長路程だった。延長だから区切りをつける必要はなく、先天と同じ意識で歩めばそれでよかったとも言える。しかしその意識は先天意識であって後天時代を迎え後天時代に生きる意識とは言えない。人間は霊的存在だから霊界を認識しているしていないに関わらず、新しい出発をするためにはそれまでの歩みと区切りをつけ、それまでの歩みがどうであったか、そして新たな歩みの意味付けをすることによって出発できる。新たな船出は過去を総括してこその話だ。それがみ旨と摂理の次元の話であっても同じで、そこを曖昧にしたまま歩もうとするものだから食口の多くは内的霊的に変わりようがない。内的霊的に変わらないと現実の自分も変わらない。御父様は聖和された。この事実の内的意味をどれだけ問うただろうか。信仰において、摂理観において、そして組織の在り様においても深く問い続けてこそ新たな歩みへの意志を備えることができるはずなのに、総括して区切りを付けずにだらだらと負け癖を続けている気がする。2012年9月3日、御父様聖和のネットのニュースが先ず飛び込んできて、教会サイドから告げられたのは一日置いてからだった。私は御父様が聖和されたことを告げられた夜、祈りながら妻の目も憚らず嗚咽した。それは決して自分の感情からくる感傷的な涙ではなく、背後の霊界が私を通して一つの区切りを付けようとする儀式だった。感情から来るものではない自分の状態に自分が驚いていた。霊界全体が涙を流し雨に濡れる摂理的儀式だった。イエス様の時は血の犠牲を払われて霊界全体が血を流した。そして弟子達や多くのクリスチャン達は血を流す霊界の在り様を地上でも体現した。汗は地の為に涙は人類の為に血は天の為に。何度も言っているように統一教会は苦労の百科事典であり涙の絶えない群れだ。それは御父様も御母様からしてもそうだ。先天時代を総括し後天時代を出発するために私達がどう意志を差し出すのか。霊的に生きる者としての涙の総括は、論理だけで納得させてそれで良しとするのではない神霊から受け取ってこその総括であって、それを踏まえて後天時代の連霊性による統治摂理が始められる。

今日の想い 1055

原理は科学的というより論理的であり、現代人の理解認識に整合性を得るものとなっている。しかしあくまで聖書をベースにしていて、聖書の記述が正しいことが大前提だ。と言う事は聖書を信じるクリスチャンを対象にしているということになる。私達は原理を学ぶ過程で聖書が正しいことを受け入れた者が多く、いわば俄かクリスチャンだ。自分はクリスチャンではないと思っている食口もいるかもしれないが、それでも原理を通して入った者は俄かクリスチャンだ。では御父様を受け入れ、聖和された後には御母様を受け入れた牧師達は、果たして原理というみ言葉を論理的に理解したから受け入れたのだろうか。おそらく私達一世が受けいれたような理屈からではなく、神霊として内的霊的に受け取ったから御父母様を慕っていると思う。御母様が独生女だと、神様の一人娘だと断言されても、牧師達の動揺を思ってオロオロした私達の危惧とは裏腹に、彼らは当然の事のように御母様を受け入れている。逆に牧師達は御母様の言葉に動揺する者達を見て、所詮俄かクリスチャンだと思っているのかもしれない。では牧師達は先祖祝福に対してどう思っているか、また430家庭祝福に対してはどうか。実はこういった教条的な目標(ノルマ)に対しては先ず宗教者連合では食口に話すようには話もしていないだろうし、是々非々の各牧師、宗教者は話しても聞き流して終わりだろう。清平信仰は当然ないが、食口の信じるところを敢えて否定するものでもないというのが牧師達のスタンスだ。原理を聞かせて真の父母の価値を植え付け、そして祝福させるという選択以外に、様々な形で祝福へ至る道も用意されていて、そうなると食口は柔軟性を受け入れなければならない。アベル意識に偏ればカインを受け入れないように、祝福とそれに伴う責任に偏ってしまうとこの世と条件を満たさない者達を排他的に扱ってしまう。御父母様は一方で祝福を、その一方で恩赦を下さっている。日の当たらない者達への配慮が信仰を崩すものであるなら、それは自分に心地よいだけの天国を囲いこんで囲いの外の地獄をわざわざ作っていることになる。

2020年2月9日日曜日

今日の想い 1054

悪神の背後に善神あり、悪神の業に時差をつけ善神の業が為される。これは信仰生活を通して学んだ裏切らない法則の一つだ。いつどんな打たれる状況でもその背後に必ず同等かそれ以上の恩恵が待っている。それが今や霊界が近いという証明でもある。その意味では打たれる時は進んで打たれてこそ恩恵は一気にやってくる。長い蕩減路程は必要なく、甘受の心情で打たれると手のひらを返したように恩恵がやってくる。難しいのは簡単には俎板の鯉のごとく受け入れられず、イサクの基台で教えられた三日路程では供え物の私を収拾できない。今問題になっている新型肺炎だが、人類にとっては悪神の業に違いない。誰であってもエボラにしろサーズにしろ、そして今回の新型コロナウィルスにしろ感染してほしいわけがない。しかし個々の人間の無意識圏にあって繋がっている人類の集合的意識が、悪神の業を呼び起こしていることもまた事実だ。堕落して地上という地の底に下って生きることを選択した人類が、当然の事としてこのような甘受すべき事態に遭遇する。心情圏に生きる私達には死という概念があってはならない。地上生活の終わりには昇華して天上に生まれるのであり、それは忌み嫌う死ではなく受け入れて御意にゆだねる地上最後の献祭路程だ。私達は地上生活の節目節目で新たな私に生まれ変わる献祭路程を一つ一つ超えているが、昇華して地上に残す肉体は献祭路程の総まとめだ。地上ではなく霊界にある集合的意識は、偽りの愛が混入された出来そこないの人類であることを知っている。神様に繋がり本然の人類に立ち返りたいと、罪を清算すべく最終意志が働こうとしている。それは世界人類に降りかかる献祭路程として、地球全てに何某かの黒い網がかけられる。その暗闇の期間は三日(?)だ。そのD-DAYを通過すれば真の愛による新しい光がもたらされる。ようするにサタンが直接に関与する最終的悪神の業がまず現れ、神様が直接関与する新時代の初めての善神の業が現れる。今回の新型肺炎がそれであるとは思わないが、準備するための地球的業であることは間違いない。

2020年2月2日日曜日

生活を原理化するために

原理を受け入れた私達は神様の存在を知っている。そして信じている。原理を受け入れた私達は霊界の存在を知っている。そして信じている。しかし神様を生活の中に掴んで生きていないし、霊界を信じるという言葉だけで霊界の働きを実感もしていない。神様も霊界も死んだあの世に追いやっていて地上生活とは何ら関わりがない。その状態を人に言わせれば盲目的という。見えないし感じないあの世のことだから、裁きの閻魔大王まがいの神様にも思えるし冠を付けておられる御父様の姿にも思える。また、罪状を首にかけて隠れるように生活する霊界様相かも知れないし宴の毎日が催される霊界様相かも知れない。ようするに見えないわからないあの世を訝り適当にイメージしながら、であれば言われるがままに行動すればあの世に行って損はないだろうと結論付ける。いわゆる打算的教条主義だ。しかしそれは原理の生活化とは程遠い。私達は、少なくとも御父母様と共に摂理を担ってきた者達であるなら、神様を掴んで生活すべきだし霊界の働きを痛いほどに肌に実感しながら生活すべきだ。その意志を差し出すことを辞めてしまえば、たとえ外的には御父母様に付き従っていたとしても精神の怠慢であって霊も真の神様も無視した生きた屍になってしまう。私は自分の作る偽りの神様像に対して愚弄したことがある。子供の事、妻の病の事、任せられている店の事、抱えきれないほどの問題を押しやられて私の感情は爆発した。耐えて耐えてきたが、私はヨブにはなれなかった。言われたこと決められたことを粛々とこなしていれば罰を受けることはないはずだという御利益信仰だった。その御利益信仰の対象こそ偽りの神様像だった。罰と思える人生の難事は実は引き受けることを決意してこの世に生まれ出でた犠牲的使命だった。偽りの神様像に目一杯悪態をついたあと、内面の内面から自らの使命に生きることを善しとする真の神様を掴む意志を備え始めた。良心は良神であり良心が良神として立ってこそ霊的柱が立ち霊的に生きる。

2020年2月1日土曜日

今日の想い 1053

天から見ればまだ足りなく、供えた身も心もすべてを受け取ってもらえるのではなく、偽りの部類に数えられる情も行動もあったとは思うが、それでも言わせてもらえば並々ならぬ苦労もそれなりの結果も供えてきた。給料なしで奉仕してきた期間は、戴いていた期間をはるかに超えていたし、誰よりも涙を流し、誰よりも悔しい思いをし、時には血の小便まで流しながら喰らいついて来た。しかし私達や私達の組織の体質は、過去は流れ去ったものとして一切を不問にする。摂理に失敗し続けても何も問われないし、逆に栄光を供えたとしても何もしなかった者と同じ出発点に立たされる。その結果が、頑張ります決意しますという、中身空っぽの決意表明だ。どんな集会もどんな摂理も空っぽの決意表明で溢れかえっている。それは食口を共産主義と同じ社会にしてしまう。供えようが供えまいが受け取るものも生活基準も同じであって、そうなるとモチベーションは低いところに留まるという、共産主義社会の実態そのままを現している。別に不平不満を言っているわけではない。自分自身もその体質に慣れ親しんでいて、別に給料が少なくても何の文句もなかった。しかし様々な従業員がいる中で、安い給料でまじめに働く兄弟と違い、給料を上げて欲しいと言ってくる者は上げればやる気も見せてくる。兄弟は給料を上げても何ら変わりはない。自分ができることを見限っているからだ。その現実を見ながらハタと同じ食口である自分の在り様も同じだと気が付いた。その意味で先天時代の教会や教会組織の在り様では食口は成長しない。すくなくともこの世の万物主管力や人材教育力などの外的実力は備わらない。他のマネージャーは言う。二世をはじめ人材が集まらないのは魅力ある会社ではないからだと、、。さて魅力ある会社?、、 聞いてみると労働時間が決められているとか、給料や報酬がしっかりしているとか、小奇麗な店舗だとか、そんな外的環境をどれだけ整えたところで実力ある人材は集まらないし育たない。それよりなにより店長や従業員がやる気溢れて輝いている方がよっぽど良き人材は集まる。自分の意志ではなく中心か誰かに言われてやっている、いわゆる腰掛店長だから腰掛従業員しか集まらないし、自分の給料を安く抑えられて手足を動かすだけの働きであるなら、他に雇ってくれないし給料が低くても仕方ないという自堕落な従業員が怠惰な働きで居座る。先天時代の教会体質はこの世も二世達にも受け入れられないし、けっして天国社会でもない。

2020年1月30日木曜日

今日の想い 1052

御父母様の証人となるためには、私達はどうすれば、あるいはどうなればいいのだろうか。どんな分野にしろ成功して名を上げても、それが果たして御父母様を証したことに本当になるだろうか。もちろん関心は持ってもらえるかも知れないが、人間的な優秀さのみの証しであって人類の真の父母としての証しには至らないはずだ。私は原理で御父母様との糸を繋いでもらったから、同じように原理さえ聞いてもらえれば伝道に繋がるはずだと思い込んでいた時期がかなり長くあった。路傍で声をかけた人だけではなく従業員に対してもそうだったし、二世へのイメージが壊れた後の、自分の子供に対してもそうだった。しかしその思い込みには、論理が立てば理解した頭が意志をも立てるはずだと決めつける、人間を実に単純な存在として扱っていた。もしその捉え方で突っ走っていたら、入口は異なっていても特定の言葉を使う共産主義者達と同じ行動を取っていたはずだ。似て非なるものではなく異なってはいるが似た者同士だ。しかし真の父母の子たる身分を与えられた者として為すべきことは、地上の地位や名誉を得ることでもなく、ましてや大金持ちになることでもなく、為に生きる姿勢を見せ続けることであり為に生きる喜びと感謝を持ち続けることだ。しかし直接的な原理の押し売り、祝福の押し付けが為に生きることかというのは人によって異なり、皆同じ堕落人間と言わんばかりに一括りで対象を片付けるのは独善的だ。人間は霊的存在だ。霊的存在は常にその背後を見ようとする。すなわち行動の動機を見ようとする。祝福の本質を与えようとしているのか、ただ目標の数値を得たいだけなのか、相手は最後までその動機を見届けようとするし、それが曖昧なら何らかの救いを得たい者であっても遠ざけてしまう。祝福家庭が何人残っているか定かではないが、霊的生命としての祝福の価値以前に、伝える者の動機如何によってふるいにかけられてしまうという問題が私達にある。

2020年1月29日水曜日

今日の想い 1051

昨年まで雪害でこの季節を恨めしく過ごしたものだが、今年は気味が悪いほどの暖冬で、実に穏やかな(?)正月明けを送っている。しかし、穏やかであればあるほど嵐の前の静けさを意識せざるを得ず、おそらくその感覚は間違っていない。新型肺炎が当面の心配事としてあり、誰もが近い将来の影響を限定的なものであって欲しいと願っている。御父様は豚コレラについては触れられたことがあったが、それほどの致死的罹患ではないとしても、人から人への伝染力は他に類を見ないウイルスではある。ここ数年、日本のみならず世界的にも異常気象で、特に日本各地の台風などの水害頻度は増している。国家規模の災害が起こることを覚悟させる、その為の度重なる災害だと私には思えるし、その論理でいくと、ウイルス感染も何度か起こりながら、大波としての豚コレラに備えさせるという天の意志を感じている。今年2020年は、御母様が言われたように7年延ばしの基元節のはずで、前にも述べたはずだが基元節は大まかに3点の理解が必要だ。実体的天一国の出発、D-DAYの発令、そして連霊性教会による主管統治の3点だ。D-DAYという天の宣戦布告が実社会への影響としてどういったものになるかはわからないが、戦時下を生き抜こうとすれば誰かを頼るのではなく、己の感覚を研ぎ澄ましそれを信じて生き抜くしかない。食口達は先天時代の信仰観に囚われたまま指示を待ちながら生きている。しかしそれでは強い魂を持って戦時下を生き抜けられるとはどうしても思えない。御母様を立てるとしてもそれが決して受動的であってはならず、自らの意志と覚悟で立てるという能動的なものでなければ立つものも立たない。これから霊的な翻弄のみならず、社会や自然を含めての現実世界でも大波やうねりに翻弄させられるようになる。それに耐えられる魂としての船に私の魂がなっているかどうかのみならず、第四アダム心情圏に立つ者として、溺れる皆をも救い神が用意している新しい霊的大陸と実体の天一国に導く使命がある。それを為すに値し得る霊的柱が食口達に立ち、主体的な行動を取れるかどうかを問われている。生きたみ言葉が私の中で生きて働いているか、これからは事ある毎に問われることになる。

2020年1月2日木曜日

今日の想い 1050

「時代に翻弄されて、、」というような言い方が歴史人物を記述する際にはよく使われるが、それぞれの時代にはそれぞれの時代霊が主管していて、時代の中心人物は特にその影響を受けている。人間の志向する方向性はいつの時代も同じだと認識するのは間違いで、それぞれの時代霊に主管されてそのように動かされている。こぞって原理運動に馳せ参じた私達も実は或る時代霊の主管によって動かされてきた。自由と平等という名のもとにカインとしての共産主義が現れアベルとしての民主主義が現れたが、頭翼思想に立つ私達はアベルでもカインでもなく、先天時代を締めくくり第四次アダム心情圏に立つ者として後天時代の幕開けを喇叭する、言わば後天開闢時代に於ける洗礼ヨハネの役目を果たす群れとして天(時代霊)から招集された者達だ。御父様に身も心も、更に意思決定までも預けた私達は、カインの群れのように糧を得る術もこの世に頭角を現す能力もなく、アベルの群れのように生まれながらに純粋な心を持っているわけでもなかった。敢えて持っているものといえば自分は何も持っていないという自覚だけだろうか。しかし御母様は違う。全てを持っておられ天の公認を受けて聖霊実体として立っておられる。しかし全てを持っておられながら全てを否定されて御父様に侍ってこられた。その魂の在り様はことごとく否定され細胞のひとつひとつ、想いのひとつひとつ全てを犠牲にされた、聖霊実体とは犠牲実体かと問い直すほどだ。だからその反動で権威を立てられる事情も痛いほどにわかる私達であるべきだが、しかしそうであればあるほどイエスマンで通すのは心情圏に立った私達の姿勢ではないだろう。しかしみ言葉の論理をもってして頭ごなしに反対する食口は多くても心情に立って御母様に進言する先生はいなかった。その役目を牧師にお願いするようでは先生方といえども幼い子供から成長してはいないことを露呈している。本当は私達以上に、その何倍も歴史に、そして天の摂理に翻弄されたのが御母様だ。御母様の権威を見るのではなく犠牲を見るべきだ。