2025年10月3日金曜日
今日の想い 1418
2025年9月24日水曜日
今日の想い 1417
御母様が独生女だと天の威信をもって宣言されても、だいたい私自身が独生女の霊的価値がわかっていない。宣言される以前も以降も私自身御母様に対して何も変わらず御母様は御母様だとしか言いようがない。教会の学者が講義され説明されても、私には悟りどころか知的理解もできなければ感情も受け入れない。勿論私の知情意の感覚のみで判断してそれが正しいとは言えないので完全否定することも全く受け付けないと背けるわけでもないが、今までの信仰観とどう整合性を取ればいいのだろうか、、に留まっている。アボジがメシヤだ真の父母だというのも、アボジを通して救いに与ったという内的確信があるから私を救って戴いた御方という認識はあるものの、アボジが語られる真の父母の概念が正しく私の中にあるとは思わない。しかし未だ曖昧に理解していても、信じることしかできなかった様々なことが、それなりに長い信仰生活を通して内的霊的認識に至ったことでより確信できるものとはなった。しかし独生女信仰を取り入れることは、これまでの私の信仰生活による基台や実りを一端否定するところから始めなければならない。だから何の疑問も蟠りも持たず今までの延長線であるかのように独生女信仰を持つ食口に対しては否定的というより不思議でならない。だから私の場合、御母様が独生女宣言ではなく「私はひとりの人間に過ぎません。アボジ故に輝いています」と宣言されていたとしても、御母様は御母様であって何らその天的価値に変わりはありませんと応える。問題は食口の大半が独生女信仰を心底旨として御母様に接しているのかどうかだろう。その信仰がありながら御母様が収監されるのを見るのは耐え難いはずなのに、大した怒りの爆発も悲しみの爆発もなく空気はどこか冷めている、とそう思えるのは私の偏見だろうか。一体化を大真面目に問うなら表面的なことではなく本質を注視し、本質的課題を取り出さなければならない。ただただ御母様を担ぎ上げて持ち上げることしかしなかった者達が一体化を口にすることなど言語道断だ。一体化だ悔い改めだと渇いた言葉で騒いている、祝福家庭という名ばかりの群衆を哀れに見られながら、御母様は裸のまま収監される。
2025年9月23日火曜日
今日の想い 1416
私は己が位置を持ち上げる為だけのこの世に対する非原理圏だ堕落圏だというのが嫌いだ。同じように責任を果たしたつもりになる条件なるものも嫌いだ。特に条件祈祷は大嫌いだ。私達は事ある毎に悔い改めの条件祈祷、一体化の為の条件祈祷、献金や伝道数の為の条件祈祷、常にそんな条件祈祷に明け暮れてきた。果たしてそれらが信仰基台になり得ただろうか。昨晩ついに御母様が収監されてしまった。、、で、私達は何をするのだろうか。相も変わらず悔い改めと一体化の為の条件祈祷に明け暮れるのだろうか。頭を垂れて上目遣いに時計を見ながら、心無い言葉を連呼し如何にも的な涙まで流しながら、時間がきたらその祈祷時間が嘘のようにケロッとした表情で会話を交わし飯を食う、あの条件祈祷だ。意味を為さないどころか返ってサタンの思うつぼに嵌まり込んでいる。それで悔い改めたつもりになり一体化したつもりになってしまっている。先天時代の訓練場としての教会ならそれで良しとされるのかも知れないが、今は雛から成鳥になり飛び立つ実践の場だ。訓練の場で培った内的霊的備えでもって、責任を自らに問われる実社会で結果を差し出し頭角を現す必要がある。アボジが肩代わりされたダンベリーの経験で私達は痛いほど容赦ない現実を思い知らされたはずが、愚かにも相も変わらず揚げ足を取られる材料満載のまま同じ失敗の道を進んでいる。教会食口の稚拙さここに極まれりだ。今回その付けを私達が担うのではなく事もあろうに同じ失敗で御母様を差し出してしまった。本当に悔い改めるというなら切腹ものであり、本当に一体化というなら裸の御母様に先ず進言すべきだ。いや、進言すべきだった。
2025年9月22日月曜日
今日の想い 1415
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、、。方丈記の頭にある言葉のように時の河の流れの人々も元の人々にあらず絶えず変わっている。自分自身もその中に組み込まれながらも悠久の時代からすれば一瞬間を生きて、その流れの中から時代の方向性を知ろうとする。アボジが生きた時間を共に生き、そして今御母様が生きている時間を共に生きている。同じ時間を生きているものだからダンベリーのアボジを見て、そして収監されるかも知れない御母様を見ている。見ることで魂に刻まれる体験を得ている。しかしダンベリーの時の体験と同じことを御母様を見る体験に見てそれで果たして納得できるものだろうか。「御母様も同じ運命を辿られるのか、、」そんな単純な物言いで済まされることだろうか。側近の方の証しとして御母様は群がるマスコミ人に自叙伝を配るように言われたとか、検察の設問に対して返答ではなく独生女であることを説明されたとか、加えて食口への報告でその御母様の言動に感動したとも言われた。御父母様がどんな立場に立たれようが、どうにかしてアボジや御母様を持ち上げようとばかりに余念がない。それは責任者のみならず食口達皆が同じ感覚であって、その場でそういう物言いは誤解されますとは誰も言わない。随分以前の話だが、米水産摂理に責任を持たれる為に南米から人事でこられたP社長がおられた。私はこの社長をそれまでの中心者の誰よりも尊敬していた。尊敬する点はいくつかあるが一番は御父母様に対して本人の思われるところをはっきり申し述べられるところだった。兎に角先ず持ち上げようとする他の責任者とは異なっていた。気分を害されてもそれでも進言されていた。どれだけの責任者がそういう態度を取られたか知らないが殆どはそうではなく、常に持ち上げ続けられて来られた御母様が、内的霊的にはさておきこの世的な正しい判断ができるとは私は思わない。私達が一体化しなかったからこうなったのであって、先ず悔い改めなければならない。それはそうだろう。しかし一体化の意味を本当にわかっているのだろうか。ただただ御題目のように一体化一体化と祈り続けて、当然のようにわかっているつもりでいるのではないだろうか。本当は私達は何もわかってはいない。わかっていないのにわかっているつもりでここまできた。先ずそのことを悔い改めるべきだろう。御母様の機嫌を取って持ち上げて、問題を曖昧にしたまま引き延ばして、それが一体化? そんな裸の王様でどう摂理は進むというのだろうか。
2025年9月18日木曜日
今日の想い 1414
地上で起こる表面的な事の背景と霊的本質とは異なる。地上で起こることは、ああだったから、或いはこうだったからこうなったと時間経過の原因結果で理解するが、霊的本質は地上で起こったことが起点、すなわち霊的結果の原因的要素として提議される場合がある。だから地上で霊界の実態を知ろうとするのは至難の業となる。アボジは様々な勝利圏を立てられた。勝利圏を立てられる以前と以降とどう違うかと言われてもさして目に見えるような形で違いが現れるわけでもなく、受け取る食口にしてみても、そう言われるからそうでしょうと言うに留まっている。実は勝利圏を立てられたという結果を提示され、その勝利の要素を未来に地上で起こさせる。大きな歴史の流れで言うとイエス様が神様が愛の御方だというのも、その言葉が真実であるために歴史を通し人類を通して背景的原因を築いていく。御父母様は真の父母の勝利圏を立てられたことは周知の事実であるのに、御家庭に様々な問題があるのをみて果たして勝利されたと言えるのかどうかと疑念を抱くのかも知れないが、勝利圏は立てられ、そして立てられたが故に地上に於ける背景的原因が必ず築かれる。今回、御母様がどういう道を辿られるかはわからない。表面的な違法と思えることに関与されたのかもわからないし、されていないのかもわからない。しかし重要なことは御母様が勝利された御母様であって、その背景的原因として国から罪を問われる場面がどうしても必要だったと捉えることができるということだ。だから以前に述べたように、国がどういう判断をするかは二次的なもので、御母様がどういう行動と態度を取られ、どういう言葉を食口に世界に述べられるかだ。イエス様が当然のように十字架につけられたように、そしてアボジが逃げるでもなく言い訳するでもなく当然のようにダンベリー収監に向かわれたようにだ。
2025年9月14日日曜日
今日の想い 1413
アメリカで保守系の若き指導者が銃弾に倒れた。日本のメディアでもそれなりに報道はしていたが、ナショナリズムで若者を扇動し差別社会を容認する人物だと評してみたり、銃社会の問題を問うてみたりという、相変わらず左派のスタンスで的外れな物言いが多かった。暗殺した犯人像がまだ浮彫にはされていないが、自分は社会で憂き目を見ることはないと、人生の落伍者だと認識していなければこんな卑怯な犯行には及ばない。それが単独犯であれ誰かの指示を受けての犯行であれ同じことだ。人間は元来が弱い存在だ。社会から疎外されないだろうか抱えきれない問題が起こらないだろうか、常に戦々恐々とし怯えながら生きている。私の田舎では家庭であれ村社会であれ関係性の問題から自らを追い込み、あの家の誰が首を吊ったこの家の誰が農薬を飲んだ等と常に耳に入ってきて、当時の子供心にはただただ怖かったがそれなりに大人になると人間の弱さ故の結末だということが理解できた。それは自分自身の弱さを誰よりもわかっていたからわかったことであり、そんな自分は何よりも精神的な強さを求めていた。そして教会に出会い原理を学び、この信仰で自分は強くなれることを確信できた。しかし信仰路程を通してわかったことは、本当の強さを手にする者は本当の弱さを知った者だということだった。そして本当の弱さを知るには自己の責任分担を遣りきる必要がある。責任分担を全うすれば神が働くのはそうだろうが、そのイメージと異なるのは責任分担を通して先ず自分の弱さを痛みとして知る、言い方を変えると頭ではなく魂で知るのであり、その魂の枯渇に天の恩賜が湧き水の如く満たされて内的強さとなる。誰かにすがり神にすがるという弱さは、それは弱さではなく甘えであって甘えを弱さと間違えている者が食口を問わず多いが、甘えから強さを引き出すことはできない。常に甘えをゆるしたままでどれほど信仰年数を重ねても何一つ悟りを得ることはないだろう。神様は甘えている個人も群れもことごとく無視され関与されない。本物か偽りかは信仰態度に表れる。己の弱さを知る本当の強さを得た者こそが激流の時代に生き残れるだろう。
2025年9月6日土曜日
今日の想い 1412
H1が第四アダムだと、当然のように摂理観として述べているが、アボジの語られたみ言葉のどこにもそれはない。自分はそう信じていると言い張るのは構わないが恰もアボジが断言されたかのように述べるのはいいことだとは思わない。あるブログでH1に従う二世の講義というか説明動画を目にした。一通り視聴したがH1が第四アダムありきで語っているのでどうも入ってこない。真の家庭の価値とその真の家庭を祝福家庭が守らなければならないのは理解できても、ではどうして御母様についても、そして他の御子女様についても語ろうとしないのか、H1オンリーなのかがわからない。誰につくにしろ自分は私の内側ではなく外側の誰かに自分の求める方向性を見出そうとしている。誰かに自分の生きる羅針盤を求める限り、いつまでも独り立ちはできない。アボジに我が行く道を示して戴いていたがもはやおられないので、アボジに代わる誰かが当然必要だ、という先天的凝り固まった認識から御母様に従い、またH1H2に従っている。アボジが良心宣言された意味を捉えられないうちは良心に代わる教会が必要で、その意味で導き手の御母様も、H1H2も必要なのは理解できるが、この道こそが正道だと壇上から権威あるが如く語る、かつての教会の修練会ばりの同じ顔つきで語られるのを見ると溜息が出てしまう。旧来のあの修練会的威圧感で食口が付いてくると思っているのだろうか。それぞれ良心のある存在であることを認めて並列に双方向で語りながら高みを目指すべきではないのだろうか。それが縦社会の教会をやめて横社会で繋がる家庭連合になった意味だと私は思う。
2025年9月5日金曜日
今日の想い 1411
島国日本の独特な村社会で生きていくということは、全体の空気、周囲の空気を読みながら、あるべき姿勢、あるべき振舞いを学んで出る杭にならないように合わせていくことが要求される。しかし教会は日本社会から見れば出る杭どころか突拍子もない団体で、空気を歪める異質な空間として弾き出されるのは時間の問題だった。ゴリゴリの左翼ばかりではない右翼や保守からも疎まれているのを見ると機会あれば抑え込みたいと思われていたはずだ。たまたまなのか画策されてなのか、元首相暗殺事件の当人が教会問題に絡めての犯行だと自白するものだからこの機会を逃すまじということになる。教会がどれ程嫌われているかを認識していた一世にすれば、教会の名前がメディアに踊っただけで鉄槌が振り下ろされることは自明だった。信仰信条の自由を掲げたとてこの日本社会ではほぼ無力で意味を為さないこともわかっていたはずだ。犯行を犯した当人が教会に恨みを抱き、しかしその矛先を関係のない元首相に向かわせたのは、日本社会全体を巻き込みより破壊の影響を大きくしたい、そして己が恨みを注目されたいという悪鬼に憑かれた身勝手がある。彼は日本の、空気を読むことを要求される村社会に辟易していたはずだ。あるときから恨みは言い訳に過ぎず何らかの形でただ教会を壊し日本社会をぶっ壊したかった。そして表面上はひどい犯行だと言いながら本音ではほくそ笑んでる重い空気感に抑え付けられた大勢の民がいるはずだ。そして教会からの締め付け空気感に息絶え絶えだった多くの食口の安堵感も伝わってくる。しかし束の間の安堵感の後には虚無感に襲われることになる。人生をかけて信仰の道を歩み天に宝を積んできたつもりが心の奥底を探しても何ら見当たらない。しかしこの虚無感こそが初めて神霊が私に訪ねて下さる機会になる。息を吐き切れば新たな空気としての神霊が吹き込まれる。神霊が訪ねて下されば良心の声を聞くことができる。それが成約のペンテコステだ。
2025年9月4日木曜日
今日の想い 1410
あなたが金の王、KING of GOLDですか。鉱物世界に於ける王の王であって、その位置では当然他の鉱物間の橋渡しの役割もあり、事実地上ではあなたの許可故に物々交換から金銭交換へと物流への飛躍的発展を見ることができました。しかしその位置を原油に譲り、更には裏付けもない紙幣という国債に流してしまったのは一体どういう理由からそうなったのでしょうか。人類は堕落しましたが万物は堕落していないことはよくわかっています。そして万物以下に為り下がった人類は当然鉱物界の存在にも劣る訳ですから、万物をただのモノとしてしか扱わない人類には距離を置く以外の方策がなかったのはわかります。しかしあなたの不在をいいことに、地上の王気取りの一握りの人間達は、あなたの権威の衣だけを装い地上の独裁を我が物にしてきました。そして地上を荒らし放題の末、その偽りの権威が暴かれ始めると、もはや紙幣はバベルの塔ほどに積み上げて天に届く訳もなく、火力発電か何かで燃やす以外の代物ではなくなってしまいました。人類が救世主、王の王として君臨される時を待ち望んでいるように、人類が万物との正しい関わりを取り戻す為には、万物の王の王であられるあなた以外の万物の救世主は他に見当たりません。通貨が暴落すれば当然比較故の台頭は見受けられます。しかしそれだけで地上世界の経済活動という万物との関わりが正しい関係に収まるとは思えません。不肖わたくしも通貨価値の見劣りから幾らかの蓄えはしてきたつもりです。それが利益を生むに留まらず、形骸化した鉱物世界に再び王の王を迎え、神の身元で仕えたあなただからこそ可能な、金地金に生命を吹き込んでください。物言わぬ鉱物が口を開いて意見する、そんな時代の到来を生きているこの目で見届けたいものです。
今日の想い 1409
この地上生に生きるとは人との関係を持つこと、そして時間空間を含めた万物との関係を持つこと、そして自分の肉体と魂と自我に関係を持つことの三つだろう。おそらく信仰を持つ者の観点では神様との関係性が大切なのにどうして触れないのかと思うかも知れないが、神様との関係性は地上生の次元を超えた関係性なので同等に並べるのは無理があるからだ。人との関係性からの子女繁殖、万物との関係性からの万物主管、そして自分との関係性からの個性完成という三大祝福がある。祝福とあるけれどもどれも自動的に降ってくるものではなく意志して掴み取るものだ。日本の食口は或る時から経済摂理が中心で、いかに集めて献金するかを問われてきた。万物が何か、お金が何かを問うこともなくひたすら集めて流すことに追われてきた。子女繁殖である伝道がみ言葉を伝えるという表面的なことではなく、どれほど対象者を愛するかであるように、万物復帰もものとして扱う表面的なことではなく、どれほど万物を愛するかが万物主管に関わってくる。それはものを大切にするに留まらず、如何に集めるかに留まらず、万物の本質をどれほど尋ね理解したかが愛することの第一歩であって、万物が存在する霊的意味を尋ね万物を万物たらしめる原因世界、すなわち霊界を訪ね心情世界である霊界でどう心情的役割を果たしているのかまで尋ねなければ愛による主管とはならない。周囲にあるものは自分のものだと主張しても、その万物の心情的な言葉を発するのを聞くのでなければ主管しているとは言えない。あらゆる万物はそれぞれの種としての中心的存在として霊界で活動しそこに繋がっている。それは種族の王であると共に種族の親でもある。親を訪ねて事情を尋ねるのが万物を愛する近道だ。表があって裏があるのを知るが、裏こそが表の本質であり、形状に対する性相は形状の本質だと教えられたように、原因世界である霊界、心情世界である霊界を常に関心を持ち意識することで地上のからくりも見えてくる。
2025年8月30日土曜日
今日の想い 1408
使命を認識している者はそれを全うするために必ず試練を受ける。イエス様の三大試練を受けて三大祝福への道を人類に残されたのであり、トランプにしても数回の暗殺の危機に晒されそれを乗り越えて今の大統領の座がある。アボジが超えられてきた試練は食口であればよくわかっているはずだ。試練は試練を与えることを神霊が許した立場で受けるのであって、超えられない試練は与えられない。そう言われている。私は元来がひねくれているから、超えられないと思えるから試練であって、はなから超えられると思える試練であれば試練とは言わないだろうと思う。要するに後から思えばこそ超えられたのであって、試練はその言葉通り伸るか反るか、生きるか死ぬかの試練だ。節目節目に襲い来る試練に辟易しながら魂を削ぎ落し、その魂で新たな救済や成長の為の摂理的歩みを踏み出していく。今という時代の通過点は今まで築いてきたシステムの全てを崩壊させ、新しい時代の夜明けに相応しい環境圏を築いていく。その為の地ならしが為されている。炙り出された巨悪や既存システムの抜け穴で己が欲を満たしてきた者達の悪行をSNSで暴露されながら、そして経済の土台であるドル基軸体制ですら崩壊しながら、コロナ以降の世界は根本から変わっていく。局所的戦争ではあるものの、世界は大戦を戦ったかのように世界的大混乱期に入っている。ハイパーインフレで通貨が紙屑になろうとしているし、経済も社会も安定した国などどこにもない。更にこの混乱状況は始まったばかりでこれから更に混乱度は増していくだろう。明日をも知れないそういう状況下で、恒星的存在として光を放つのは血統転換し夜の神様に帰属する私達でしかないだろう。表面的には何もかも奪われ何もない私達が天の権威故に立たされている。何の希望もないかのような私達が人々に与えられる希望の全てを持ち合わせている。試練の只中にあれば青色吐息だが、この試練を超え、いらないものを削ぎ落した魂で新しい後天開闢時代の希望の一歩を踏み出していく。その希望の一歩は人類の希望の一歩だ。私達の何が人類をリードしていくか、試練の最中にあっては何も見出せないだろう。しかし生きた神様であるから必ず私達の中に用意しておられる。でも今はただただ思いっきり打たれることだけに専念することだ。
2025年8月14日木曜日
今日の想い 1407
一体、元首相は何を銀貨30枚と見て受け取り、教会を左翼連中たちに売り渡したのだろうか。教会は日本の霊的中心であったために教会を売り渡すことは日本を売り渡すことに等しい。勿論以前記したように、教会自体も実に脇が甘く狡猾さの欠片もない稚拙な者達の集まりだから、教会の尻尾を捕らえるのは実に容易かったろう。摂理を担う者としての使命の大きさをもっと自覚しておれば、用心に用心を重ねたはずでこうはならなかった。教会を売ってしまえばそれで全ては事足りると思ったのかも知れないが、日本国を奪われかねない状況になっている。日本政権のしくじりによって天から打たれる以外の日本の生き延びる道は遮断されてしまった。しかし蕩尽を受けることで、周辺国からの侵略は辛うじて回避されるのかも知れない。元首相がそれほどの恐ろしい巨大爆弾に点火した自覚は未だにないのだろう。おそらくその自覚があれば、ユダが人知れず命を絶ったように気が狂うほどの良心の責め苦を受けるはずだ。日本はいつ何時侵略されるかも知れないという、国防意識という衣服を脱ぎ捨てた裸のエバであり、裸故に何の抵抗もないとなるとそれ故に天は蕩尽を用意するしかない。摂理的にはサタンの侵略を防ぐための蕩尽と見ることもできる。天災で弱りきって破綻しかけた国に侵略をかけることは世界中から非難されるからだ。アボジが、要求する摂理的要件を満たさなければ日本は太平洋の藻屑となると言われたのは、それがノルマの完遂だと日本の食口は思って搾り取ってでも捧げてきた訳だが、果たしてどうなのだろうか。アボジの言葉はそれが食口の前であっても、日本国に対して日本を統治する者に対して語られていたのかも知れない。そうなると国としての摂理的要件を数少ない食口が肩代わりする時点で無理があるだろう。アボジは日本食口に対して生き延びる道を海外、とりわけアメリカと南米に用意されていた。しかし一端アメリカ人事となった日本食口を環故郷摂理で皆帰るように指示され多くが帰っていった。アボジは後にその指示を悔やまれた事実がある。それは環故郷摂理で士族復帰されるほどの信仰も力量もないと見て悔やまれたのか、滅びかねない日本に居留まらせたことに対して悔やまれたのか、そのどちらだろうか。それとももっと別の摂理的な意味から悔やまれたのだろうか。
今日の想い 1406
2025年8月12日火曜日
今日の想い 1405
観測史上を塗り替えるほどの降水記録を毎回見ている。線状降水帯なる言葉は且つてはなかった。天空が一定のラインで避けたかのように線状に猛烈な降水が襲ってくる。ノアの洪水のように天空のひび割れからいつしか天の底が崩壊して洪水となり、限られた高い山の頂きしか残らないような、そんな天災が迫っているかのようだ。猛暑と豪雨で煮え湯で焚かれるような日本列島は、日本人もろとも料理されて、知らぬ間に異なる環境圏と異なる魂と体を用意されていく。ここ数年の気候を見ても、もはや且つての日本の夏は遠い昔であるかのようにむせ返る夏を生きている。それはこれからも変わることはないのだろう。その環境圏の中で、願われて掴み取るべきものが必ずあるはずだ。「平和の主人、血統の主人」の中にも、人間の体温上昇を予知される個所があって、人間は36度から37度だけれども神様は53度を超える、すなわち神様が訪ねられる凹凸は53度を超えるとある。現代人に於いてどれほど熱く体を合わせるとしても平熱を超えるほどではないだろう。そうなると人間の基礎体温自体を上げる必要があって、その為の環境圏として気温上昇が考えられるのではないだろうか、というのが私の今の時点の仮説なのだが、これに関しては余り自信が持てない。しかし以前記したように暑ければ知情意の知という魂の活動はどうしても鈍くなるのであって、相対的に心情啓発に傾きやすい環境圏であるのはそうだと思う。科学的見地に立てば猛暑と豪雨で地の動きが活発になるのであって、この八月、特に地震は十分に注意する必要がある。
2025年8月11日月曜日
今日の想い 1404
8月6日、一瞬で十数万の生命が犠牲となり、それから一年を待たずに20万近くの犠牲に膨れ上がった。生命の犠牲は、生命は愛によって創造され育まれるので愛の犠牲と言い換えることもできる。とてつもない愛の犠牲が供えられた祭壇がここ広島と、そして長崎の地だ。しかしその惨状はこの世の愛の概念からは想像もつかない愛であり、その地獄絵図から何一つ愛と想起されるものなどない。悲惨な死の積み上げであり、それにも増して凄惨な生きる死の隊列だ。水を求めて彷徨った彼等の渇きは、日本の平和への渇きとして日本国民皆が覚えている。しかし押し付けられた憲法を平和憲法と呼び、平和教育と銘打って戦争と核へのアレルギーを植え付け、そして今日の記念日には平和平和の大合唱となる。平和を唱えることで平和になるという平和教を誰もが信じている。彼等の犠牲あっての今が、果たしてそれでいいのだろうか。それを平和の妄想に過ぎないと口にすれば平和を犯す輩として村八分にあう。人が肉体を失い、或いは奪われるのは彼等に限ったことではないし、誰であろうと一人残らず何らかの形で肉体を失う。彼等を特別視するのは原爆投下という人間の意志を介して、唐突に、更に大量に、強制的に受けた犠牲であり、その惨状からだ。しかしだからといって彼等を一括りに被害者として語るのは失礼だろう。彼等はその犠牲ありきで生を受けたのでもなければ、そこまでの道のりもそしてそこからの霊界に於ける道のりもひとつとして同じではない。神と神の一群の意志によって天宙が生成され人類が生成されたのなら、神々の子としての意思を与えられた人間一人もまた意志によって生き意志によって昇華する。自らの意志によって旅立つのでなければそれは天の意志による以外ないわけで、犠牲となった彼等も、そして残された者もその意志を謙虚に受け、その意味を謙虚に問い続ける。供えられた犠牲は消え去るのではなく昇華し、より位相の高い世界で天の意志を受けて生き続ける。人類が続く限り、これからも何らかの犠牲を供え続けるだろう。それは戦争かも知れないし天災かも知れないし、急に起こりうる些細な事故かも知れない。しかし過去の犠牲と同じ位置で、同じように悲しみ同じように怒り、そして同じように忘れ去ってはならない。犠牲が犠牲としての供えて与える愛を実らせるためには、地の事情を超えた真の意志が必要になる。
2025年8月3日日曜日
今日の想い 1403
2025年8月2日土曜日
今日の想い 1402
拉致監禁の被害にあった食口に対しては大変申し訳ないし心痛い想いもあるが、実はそういう事実があるという情報を伝えられてはいたものの、それが何名に及ぶのかとか、彼等がどういう状態にあるのかとか、その手口まで詳細に情報提供を受けた覚えはない。注意するようにと一言いわれただけで、教会上げての監禁されている食口を助けようとか拉致監禁問題に対して国に働きかけようとかという動きはなかった。それぞれの持ち場に関わっていれば見えないだけで当然あったと言われればそうかなあとしか言いようがないが、少なくとも彼等を救い出そうという熱い想いは伝わらなかったし教会全般にわたってそれはなかった。教会の空気として摂理優先であり、個々の問題には関せずだったのはそうだが、今思うとこの世の人権意識からして相当ずれ侵害されていたのは事実だろう。でも献身とはそういうものであり人権を超えた摂理的意識で歩んでいたわけだから当然のこととして受け入れてはいた。しかしその副作用のひとつとして他への思い遣りを失い、それが拉致監禁された食口達への無関心も助長させたはずだ。解散問題が浮上しそれと機を同じくするが如く、恰もその対応策として拉致監禁カードを差し出したように見受けられるから問題を複雑にし政治的なからくりを見てしまうけれども、この問題は随分以前からあったのであり、教会が愛の教会なら今ではなく最初から取り組むべきであった。献身生活自体が人権に光を充ててはいないものだから当然のこと拉致問題に対して人権という観点から解決しようなどとは思えなかった、というのが当時の状況だろう。人権で噛みつけば逆に噛みつき返されるのは分かっていて結果的に無視し続けてきた。拉致監禁問題は解散問題とは完全に切り離して、言うなら反教会の立場の拉致監禁された人も含めての反対運動に持っていくべきだ。
2025年7月29日火曜日
今日の想い 1401
入宮式が終われば霊界が一気に開け、天運到来で解散問題も解決し教会は大きく発展する。そんな、教会儀式ある毎の御決り楽観的観測。もういい加減にしてほしいと思うけれども、そんな言葉通りのお花畑的な希望を、どれほどの食口が抱いて入宮式に臨んだのだろうか。未だに幼い子供に飴を与えるかのような感覚で教会員に対するものだから私達は一向に成長しない。一向に足が地に着かない。何の基盤もない。ここまで貶められ仕打ちを受けながらそれでも夢から覚めない。確かに多くの食口は天然記念物的存在なのかもしれない。入宮式が終わっても解散の流れは変わらないし、それどころか本元では国権から嫌疑をかけられたり捜査されたりして、韓国のメディアはこの違法性のあるなしに連日触れて成り行きをみている。元本部長どころか御母様さえ収監の可能性があるとなると、或る食口はアボジのダンベリーの時と同じ状況をそこに見るようで、神側は先ず打たれて後に勝利するというような、これまたより摂理としてありそうな見方をしているけれども、それ以前に果たしてこれは摂理と言えるのか、即ち神が認める真の母故の摂理なのだろうかということだ。アボジは御母様が勝利されることを願われながら聖和されたけれども、入宮式を終えられたから自動的に勝利されたというのは神のみぞ知るであって、その判断は御母様でもなければ、ましてや周囲の者でも一般食口でもないだろう。だから私としては何とも言えない。何とも言えないが、私の摂理的感覚からするなら、もし御母様が国家権力によって法的罪だと下され、収監されるなり何らかの受難を受けられるとして、その場でどういう態度と言葉を食口に、国に、世界に発信されるかによって、御母様が御自身で語られるところの位置の認否が神によって決められるだろう。受難を逃げずに堂々と甘受されるかどうかだ。アボジはダンベリーを勝利して出られたから、キリスト教を始めとする宗教界に認められ、そこからのアボジの摂理的行動には大変な勢いがあった。受難の場で本物か偽物かを決められてきたのはアボジもそうであり、イエス様であってもそうであり、あらゆる聖人君子も、そしてトランプでさえもその試練を通過してきた。もちろん私自身も、そして全ての食口も本物の信仰か否かの試練を必ず通過するはずだ。
2025年7月27日日曜日
今日の想い 1400
父が20日間の入院治療を終えて取り敢えずは帰ってきたが、決して良くなって帰ってきたわけではない。母は父が何かある毎に、人間そう簡単に生を終えられる訳ではないとしみじみ口にする。今回も何を口にしたかと言うと、「まだ逝けずに戻ってきた」が開口一番だった。父は動きも遅いし足も悪く度々粗相をしでかす。紙パンツは履いているもののその始末は大抵の場合母がすることになる。要介護で介護ベットも入れたしポータブルトイレも用意したが、しかしそれで母の老々介護が楽になる訳ではない。でもその辛さからつい出た言葉というのではなく、近々の自分のことも含めての、死そのものに対する思いだというのはよくわかっている。食口は生死だ霊界だと常に口にしながら、死を間近にしている者とは随分距離があり寄り添おうともしなかった。決して皮肉で言っているのではなく、願われたみ旨とノルマで精一杯で、死人は死人に任せて置けが当然だった。私が決意して事業を閉め帰国するに当たっても、サタンだ何だと批判はするも自分の思うところを頑張れとエールを送ってくれる食口はいなかった。私は不信仰者の烙印を押された。それでも自分としては親を無視できなかった。親から見れば長男としてそれなりの期待もしていたろうに、その想いを一蹴して縁を断ち切るようにこの道に入った。私のみ旨は親の、子に捨てられた思いによって支えられてきた。そこを無視してでも留まれという中心であるなら、その中心に神は働いてはいない。しかし当時の中心は頸を傾げながらもOKは出してくれた。御蔭で今、私は私自身の昇華に対してしっかり向き合い歩んでいる。その一里塚が父の門、そして母の門、おそらくその次にくぐる門として妻の門、その後に私の昇華門が見えてくる。母が言うようにそう簡単に門をくぐることはできないし、門を見出すまでの内的霊的道筋も探り探りだ。それは本人もそうであり周りもそうだ。しかし逃げてしまうのは愛の道ではないと思う。それでも皆は死人は死人に任せて置けということらしい。
2025年7月25日金曜日
今日の想い 1399
石破政権はとんでもないポカをしでかした。もちろん関税交渉の件なのだが、どうしてここまで愚かな提案を飲むに至ったのか、よっぽどの経済金融音痴か国を貶める使命に燃えているのかそれとも只の馬鹿なのか私にはサッパリわからない。こんなものを飲み込むより25%だろうが35%だろうがアメリカが提示する関税を受け入れる方が余程良かった。車に関税をかけられて払うのは輸入元でありディーラーでありそしてアメリカの消費者だ。アメリカで売らなければ関税100%だろうが関係ないし、輸出が全てだと思うなら関税かけられても買いたいとおもう車を作る以外ないだろう。トランプは関税の影響と同じような働きをする日本の消費税に対して文句の矛先を向けていたのだから、消費税を無くしますと言ってしまえば交渉の余地はあったはずなのに、交渉といってもお願い一辺倒だから結局ババを掴むことになる。これで日本には交渉のカードとして持ち合わせているものが全くないと世界に曝け出してしまった。これから日本は関税で輸出は減るは80兆円もの大金を出すはで国民の首を荒縄でしめあげるわけだ。消費税減税どころか20%越えになるかも知れないし、虎の子だった年金基金は空っぽになるかも知れない。実際25%の関税が掛けられたとして、アメリカ市民がどこまで我慢できるか、ましてや米国産車であっても組み立て工場を国外にもっているとか部品は国外から調達しているとか何だかんだで国内企業も関税のあおりを喰らうことはわかっている。これは現代の黒船(鎖国あらため黒船)政策であってこれが数年を超えて続けられるはずがない訳で、そこまで見通して交渉に臨んでほしかった。日本が対米追従路線を取っているとしてもここまで従属する必要など毛頭なかろうに、日本の交渉能力はここまで堕ちてしまったかと悔しくてならない。
2025年7月22日火曜日
今日の想い 1398
今年もあの、8月6日が近付いて来る。一週間前一斉に蝉が泣き始め、子供達が学校から解放され、暑さによる琉汗で身を清め、次第に鎮魂の環境が整えられていく。しかし犠牲を供えた者達の恨みは何年も前から既に払われていて、本来なら式典の在り様から変えていくべきだと思う。彼等は被害者ではなく犠牲を供えた聖なる位置にある。この前、アメリカ軍によるイランの核施設攻撃の折、トランプが放った言葉が物議をもたらした。「広島と長崎の例は使いたくないが、あの一撃で戦争は終わった」。原爆投下を正当化しているとの批難の声がマスコミに踊ったけれども、言い回しではなく、その言葉自体に噛みつくのは間違っている。敢えて、使いたくないがと前置きしているのは被害を被った関係者への配慮からで、それでも広島長崎の言葉を使ったのは原爆使用で取り返しようのない事態に至ることを使用国故に両国に思い知らすことにあった。逆に私はトランプの言葉を受けてよくぞイスラエルイラン両国、そして世界に向けて広島長崎を発信してくれたと思っている。トランプ関税による各国とのディールまたディールで、自国アメリカの延命に汗をかいているトランプだが、しかし意外と人情に篤い面も見るし、他の大統領はというとただただ避けるばかりで広島のヒの字も口にしたことはない。私にとっても、世界にとっても広島長崎は聖地だ。触れたくも近付きたくもなかった、県民の趣味を疑うほどのお化け屋敷、その平和記念館も数年前から見るに堪え得るものとなったし、駅も改築改装されて賑わっている。完璧なる荒廃から数年で復活復興した広島は奇跡でもあり希望の都市そのものだ。熱射被爆の人々で埋め尽くされた幾本もの川面も、今では光の帯となって緩やかに流れている。
2025年7月20日日曜日
今日の想い 1397
本来の家庭連合へのシフト? ということは少なくとも会長は今までの家庭連合は本来の姿ではなかったと認識しているということだ。でありながら一般食口に対しては教会が名を変えただけの家庭連合を当然のように受け入れていることに対して認識を変えようとはしていなかったことになる。教会?には先天時代の意識そのままにアベルである中心の言葉そのままを受け入れる空気が未だ覆っていて、言葉の背後を見ようとするどころか疑問を抱くことすらカイン的だと思っている。中心者をどうこう言うつもりは毛頭ない。別に宗教組織であろうがなかろうがピラミッド組織とはそういうもので、お上の通りに動いたことで下位組織員は言われた通りやったという理由で責任を回避できる。その意味で一般食口は組織に甘えている。お上が善だといえば善であり、悪だといえば悪になる。深い瞑想や熟慮によって良心に問う面倒臭さはない。返す返すもアボジが家庭連合を立ち上げられた時点で教会組織をスクラップしておけばよかったと思う。現世界に対する責任は回避できたとしても霊界では自分の歩みに対して責任は回避しようがない。今は社会においても国に於いても、またグローバル組織に於いても旧態依然のピラミッド組織ではやっていけない時代に入っていて、その混乱を見ている。ということは既存の組織に属さなくとも認められる時代である訳で、教会の中心者を通さなくともそれぞれの良心から直接願いや使命を受け取ることができる。その代わり当然のこととして責任は良心に応えるかどうかの私にかかる。アボジが話されていた選挙のない社会とは首長を立てなくても生活できる社会であり、家庭連合は良心連合として先端意識で世界を牽引していた、はずだ。
2025年7月16日水曜日
今日の想い 1396
2025年7月15日火曜日
今日の想い 1395
昨日父に対して強く言い過ぎた、幾分の申し訳なさを覚えながら部屋を訪ね居間の引き戸を開けると、心地よい冷風が顔を包んだ。暖房をつけていなかったという安堵で私の表情は緩み、父に目をやると教えたタブレットによる囲碁に対峙していた。そして私が怒り紛れに言い放った、寒いのであれば冬用上着でも着て置けの言葉通りに、厚手のジャケットを羽織っていた。息子の言う通りにしおらしく着用している父の様を見て、このクソ暑いのにジャケットを羽織る可笑しみに笑みがこぼれもし、また申し訳なさで目頭が熱くもなった。父はパチンコが大好きで、腫瘍で痛みが増しても連れて行ってくれと言うほどだ。足もおぼつかないし、いつよろけてこけるかも知れないのでパチンコ通いはこれまでだと申し渡したのだが、背中を丸めて大人しくしている父があまりにも切なくて、自分で歩けるなら試しに行ってみるかと声をかけてしまった。途端父は顔を上げて、小動物のマナコのように私を見た。そして微笑んだ。歩行補助器に手をかけ、肺炎で呼吸も苦しいだろうに何とか立ち上がると財布を広げて確認した。いい加減にしろと母は吐き捨てたものの、生気を失っていた父に気合が入ったのは嬉しかったようで、靴下を準備したりマスクを持たせたりしていた。父は玄関の階段でも玄関からの上がり框でも何度か転んでいる。果たして店まで連れて行って台にまで辿りつけるかどうか心配だったが、意志あるところに道ありで補助は必要だったが小一時間楽しんで満足して帰ってきた。 私としてはつい口に出してしまった後悔半分、いや父の生気の入った顔を見た喜びの方が後悔よりは勝っていた。でもこの飴がどうこれから作用するかはわからない。明日をも知れぬ命なら好きなようにさせてやりたいところだが、周りの心配を思うと複雑な心境になってしまう。
今日の想い 1394
イスラエルとイランの関係性が今後どのようになるのか。しかし今までのように常に仲違いしながら時折攻撃したり少し引いたりの繰り返しを永遠に続けることはできない。イスラエルの中にも強硬派ネタニヤフに反する勢力もあるし、イランだって現体制に対して批判的な勢力だってあるのでこれまでのようにイスラエルもイランも一枚岩ではない。ネタニヤフは毒草が政権に生えるほどに長すぎたし、イランもイラン革命以降のイスラムシーア派である最高指導者ホメイニからのハメネイという政権に対して批判は年々高まっている。だから今では反勢力も含めて様々な動きがある。しかしイスラエルの世界的影響力は様々な国に浸透し、勿論アメリカ内部にも深くかかわっていて、その点に関してイランはイスラエルに対してどうしても孤軍奮闘の域を出なかった。小国イスラエルがあれほどに影響力があるのはまさにそこにある。ユダヤ民族から日本はこれからどう対外政策を取っていくかを学ばなければならない。日本が世界の情報を手にし、また世界各国への影響力を持とうとするなら、ユダヤ民族が世界に散って行ったように、中国が華僑や華人として世界に在留や移住して生活基盤を立てているように、日本人もまた世界に出ていくことが結局日本を護ることになる。その意味では教会はアボジの国際マッチングによって日本のどの団体よりも海外移住を成し遂げている。にも拘わらずその情報網や影響力を日本に対して持てないのは、日本の教会が、日本食口が、日本を何とかしようと思えるほどに日本に対する愛情を持てていないからだ。原理の何処を読んでも日本の国を愛しなさいとは書いていない。二世の訴えを聞いても、信仰の自由や彼等の幸福になる権利は叫んではいるが、このままでは愛する日本が滅びるという憂国の言葉とか日本を愛するが故の言葉は聞かれない。この日本を愛さないのであれば、日本から追い出されるのは別に解散させられようがどうだろうが日本の霊的背景から守られることはないだろう。私はこの日本がどれだけ私を包み愛してくれたかを知り、また日本を愛する意志を育むためにも一度日本から飛び出すことを強く勧める。故郷は遠きにありて思うもの、ではないけれども、日本を外から見て故郷日本への想いに至ることは、み言葉を信じれば尚更強くなると思っている。
2025年7月12日土曜日
今日の想い 1393
父は完全な認知症とまではいかないが、認知症ではある。昨日何をして何を食べたかは殆ど覚えていない。家族も親戚もちゃんと認識はしているし会話もちゃんとできる。しかし近々の事は忘れるし時々父の言動が周囲に大丈夫だろうかと思わせるような不安を抱かせる。既に90を超えているので当然といえば当然なのだろうが、そんな様子を覗かせた時、子としてどう対処したらいいのかわからない。父の子だからどうしても情けなさの感情が先に出てしまって冷静になれない。間質性肺炎を患っているし大腸がんで既にあちこちに転移している。腫瘍が大きくなって手術が必要なのだが、耐えるだけの体力はないので腸の一部にステントを入れて応急措置としたのだが、それが役に立たなくなったり腫瘍が破れればそれで終わりだ。それが明日かもわからないし数か月持つかもしれないし、と言うのが現状だ。6月半ばには既に肺炎なのに感染症を患いひと月足らず入院していた。担当医は介護も処置も必要なので緩和ケアの施設を紹介すると申し渡されたのだが、手がかかるとしてもできるだけ自宅で余生を送らせたいと思い辞退した。いざ退院して連れ帰ったのはいいが、この暑い最中寒いと言い出し冷房を消すならまだしも暖房を入れたようで、蒸せるような熱い部屋に父と母で座っていた。最初はリモコンのボタンを押し間違えたのかと思ったが、母によくよく聞いてみると寒いと言い出して暖房を入れるらしい。父は母の言うことなど勿論聞かないから、母は父の為すがままにして我慢するだけだ。私は情けなさで感情を抑えられず、父に対してどうしても言いつけるような説明や物言いになってしまう。そこまで言って聞くか聞かないかなので仕方がない部分もあるのだが、何とも後味が悪いし申し訳なさが残ってしまう。対するときは親と思わず幼少期の子供だと思って接する必要があるらしい。老々介護の悲惨さや介護の問題で傷害に至るような話はよく聞くけれども、自分が同じ立場に立ってみて、やもすれば何か仕出かさない訳でもないことがよくわかった。しかしこれもまた愛の訓練だろう。人間とは最後の一息まで愛の試練と訓練を受ける存在だ。それが終了と認められた時が息を引き取る時だ。それにしても高齢社会ニッポン何処へ行く、だ。高齢者の割合が人口の半分以上を占め、少子化で少ない若者に高齢者を養うための高い税負担を強いている。帰国して日本がこれほど高い税だとは思わなかった。今の日本は本当に希望が見えない。参議院選挙が間近だが、与党は国民に顔を向けていないと相当数思っているはずだ。
2025年7月10日木曜日
今日の想い 1392
人事で岩手に移動しそこで歩んだ頃はまだ二十歳にもなっていなかった。何か悟ってこの道に来たのではない。ただただ言い知れぬ何かに突き動かされて、悪く言えば悪い熱に罹ってうなされるようにして歩み始めた。おそらく多くの食口はそうだろう。あの膨大でどこまでも深いみ言葉など数度の修練会や一年足らずで理解できようはずもない。神も霊界も、罪も救いもみ旨の歩みの中で探っていく路程だ。とは言え実践と実績は常に追求されるのであって、み言葉がわからなければわからないなりに、歩む為の動機付けを外界の何かから得なければならない。多くの食口の場合セールス本だったり実用書だったりする訳だが、飛び込みが嫌でたまらない私はとにかく自分を慰める飴を選んで嫌いな歩みを続けることを選んだ。私にとっての身近な手に入る飴は音楽だった。なけなしの小遣いを貯めて中島みゆきのテープを買ったことがある。中島みゆきの歌は詩といい旋律といい日本人の孤独な寂しい感情に共感しひと時の慰めを得ることができた。中島の歌は日本人特有の歌で、なかなか海外に受け入れられるとは思わない。おそらく、おそらくだが中島には日本神霊とこの世の日本人を繋ぐ巫女の役割がある。日本人の琴線に触れることができる霊的能力がある。結婚しているのかいないのか、結婚せずに何某かの神の霊に帯同しているからこそあの詩があり旋律があり、そして歌声があるのだろう。それは神の霊に身を委ねた巫女の在り様そのものだ。そういう使命を得て生きている者が日本にはたくさんいる。かつて古代ギリシャには神殿娼婦と言われる巫女たちがいた。古代には霊的血統の流れを巫女の実体的宗教儀式によって絶やすことはなかった。しかし現代でそれを行うことは当然なこととして完全な罪であり悪魔儀式だ。同じ行動でもそれぞれの時代霊による動機と使い方で善神に寄与するものか悪神なのかははっきり分かれるところだ。私達が祝福を通して神の血統圏に繋がれるのも、アボジが縁を結んだ女性を戴くという聖酒式の流れの中に霊的相続が生きているわけだが、そんな説明をあからさまに公にすればそれこそカルト呼ばわりされるだろう。
2025年6月29日日曜日
今日の想い 1391
トランプは一方でイランにバンカーバスターを打ち込みながら、その一方でNATO諸国に軍事費5%、日本に3.5%を約束させた。防衛をアメリカ頼みではなくそれ相応により負担すべきだと詰めているが、それによるアメリカの防衛経費削減と、アメリカからより武器を買わせる諸外国の軍事費アップの意味は、アメリカの経常収支の赤字改善と武器輸出による貿易収支の黒字増しであって、これは結局は経済の話だ。トランプは関税交渉にあたって各国が保持しているドルの外貨準備の買い増しと保留の扱いを暗に仄めかしている。今売られれば困るからだ。同じように周辺の火種を材料に各国のアメリカからの武器購入を強化すべきだと露骨に責めている。MAGAはアメリカの国内製造を推し進めているが、既に多くの製造業はもぬけの殻であって売るものと言えば武器以外大してない。すなわちMAGAの手段は武器製造と武器輸出を強化するという方向に集約することになる。トランプは戦争危機に乗じてまで手を加えたり引いたりしながら負債大国アメリカの生き延びる道を模索した。ディールとして何でもありなのがこの政権だ。トランプに理解のあるタッカーカールソンですら爆撃に対して苦言を呈していたが、イランにミサイルを撃ち込むというカードを使ってまでディール材料とした。しかしこれで負債を減らす見通しがたったわけではなく、相変わらず8兆ドルもの国債償還が迫る7月8月を迎えることになる。さてその時に向かってトランプはどんな秘策を提示するのだろうか。
2025年6月27日金曜日
今日の想い 1390
教会摂理の中で数回の祝福式があり神様王権即位式もありその他様々な宣布式も行われ、今回は入宮式も行われた。その都度言われるのは、これを超えると霊界が変わるという鼻先にぶら下げられた人参なのだけれども、言われてイメージされるような状況になったことはただの一度たりともなかったのであり今回も同じことだ。だから受けても参加しても意味はない、、と言いたいのではなくて、儀式とは霊的なことであるので直接地上でどうこうなるというものでもないし、当然急に霊的に目が開ける?などということもありえない。祝福式であろうが何であろうが、参加しろと言われるものは意味がわかろうがどうだろうがとにかく出て置け、と言われたこともあるが、参加することは良しとしてもそれで終わりではなく、意味を捉えてこそであるので意味を問い続ける意志を失うべきではないだろう。ただ参加はしました、しかしその意味は聞いても良くわかりませんでした、それでいいのです、というのではそんな軽い信仰観なのかといわれてしまうだろう。参加したことで満足している場合ではないはずだ。「尋ねよさらば教えられん」だ。絶対信仰でアボジの願いを受けて立ち絶対服従で歩むという御題目は立派だけれども、しかしそのフリをして自分をも騙す信仰もどきの体裁を繕い続けてもそこには至らない。至らないどころか逆に御父母様も自分自身も貶めている。霊的無知とは言い得たもので、神の存在だとか霊界の存在だとか論理的に受け取ると無知が晴れたように思うらしいが言葉を知るだけでは余計に霊的無知に陥っていく。霊的無知の克服はどこまでも内面をかき分け入っていって本質に出会わなければ表面的み言葉をかじったところで無知は増すばかりだ。
2025年6月26日木曜日
今日の想い 1389 (2025年の七の月)
ノストラダムス、2000年問題、2012年マヤ暦の終結、そして今巷で話題になっているのが2025年7月の大災難予知夢。私はこの手の話には常に触手を動かしてきたのでどうなるのだろうかと興味深々だ。今まで当たらなかったのだからこれだって眉唾ものだと大概の人は思うのだろうが、さてどうなるだろう。5日という日にちまでは本人も触れていないから拡散するうちに尾ひれがついたのだとは思うが、日本の動き、アメリカの動き、世界の動きを見ていてこの7月8月あたりに政治や経済に関わる大変化が起こる可能性大だと思っている。それと前後して蕩尽(自然による蕩減というべきか)としての犠牲的災難も起こるはずだ。時を支配する大天使は常に悪神の業と思われる出来事に表裏するかたちで善神の業を用意している。それは個人の路程に於いてもそうで、悪い出来事が起こってそれだけで終わるのではなく、その犠牲を供犠として受け取り恩恵として差し出されるものは必ずある。しかし飽くまで内的霊的な恩恵が中心、すなわち学びであって、その気付きで新しい理想と希望に橋を架けるという地上の具体的発展は人間である私達にかかっている。だから災害や災難が起こった時、先ずどういう態度を取るかが大事だ。海は資源の宝庫だ。海が何らかの影響でかき回されれば眠っていたそれなりの資源も表出する。新たな資源を手にできればエネルギー革命が可能であり、それが社会生活に於ける革命となっていく。こう記せば外的表面的な面ばかりに意識の光は当てられるけれども、実は内的霊的な見地に立てばこの大災難は奇跡的大恩恵となるはずだ。精神世界が以前から言っていた、フォトンと呼ばれる特別粒子が地球に押し寄せ、人間の意識革命がなされ大地の大清掃によって地球再生される次元上昇、すなわちアセンションであり、アボジが語られ食口なら当然知っているところの基元節を超えてなされるD-DAYだ。よって心配と恐れを感情魂に満たして迎えるか、それとも遂に神様が直接主管される時を迎えたと歓びと感謝と誇りを満たして迎えるかで受け取るものは全く違ってくる。
2025年6月25日水曜日
今日の想い 1388
トランプは遂にイランの核があると言われている施設にミサイルを撃ち込んだ。即世界戦争勃発、、とはならないが、戦争嫌いのトランプがまさかの行動を取ったせいで、これが引き金になり数多の国を巻き込むやも知れない。しかしこれが正しいチョイスなのかどうかは現時点では何とも言えない。先ずイランは限定的であれ確実に報復はするだろう。ドル基軸の西側経済を破綻させようと思えば、エネルギー源の補給路を抑えて閉めてしまえば西側経済の首根っこを締め上げることになる。イランはその拠点ホルムズ海峡を封鎖する。しかし本当に封鎖するかどうか。当然日本は多大な影響を受ける。いや最も影響を受けるのが日本だろう。しかし中国だって同じ補給路を使っておりイランにすれば同盟国中国の嫌がることには躊躇するはずだ。ということで現時点では何とも言えない。米軍の核施設攻撃によって、ネタニヤフの核を持つイランに対する攻撃、というのは言い訳としてはなくなるので、アメリカがイスラエルの更なる攻撃に対して一言持つことにはなる。こうやってあれやこれや思索しているうちにトランプはイスラエルとイランに停戦を認めさせたようだ。それがどの程度のものかは未だにわからないけれども、トランプ流の駆け引きで先ずはウンと言わせたのだろう。とにかく即世界大戦への道か、、と思われたのが一先ず立ち止まることができたのは良かった。ドル基軸信任への懐疑、アメリカの弱体化、政府の莫大な負債を抱えて二進も三進も行かないアメリカを抱えて、それなのに或る時はエースを、そして或る時はジョーカーという、我々が思いもしないカードを使いながら秘策を出し行動しているのは流石としかいいようがない。今回はトランプであってもネオコンの言いなりにならざるを得なかったのかと、随分心配もしたが天の試練を掻い潜り選ばれた人物だけのことはあるようだ。
2025年6月16日月曜日
今日の想い 1387
神様は我が子を愛したいという一心でこの天地万物を創造された。同じように堕落世界であっても親は我が子の幸せを願う一心で子供の環境圏を用意する。私達のみ言葉訓読は訳のわからない経の漢字の羅列を意味もわからず追うのと同じで、ただ追うことに意味があるのだろうか。どれだけ訓読しようともそれだけでは愛の本質は掴めない。愛に関するみ言葉は山ほどあり、祈りでも会話の中でも始終使う愛という言葉だけれども、言葉だけが氾濫して恰も愛し愛されていると誤解したまま年月を経てきたのではないだろうか。食口は優しいけれども愛の本質は優しさではなく、先ず厳しさが立たなければ言葉だけの愛、等閑な形だけの愛という真の愛とは異なるものとなってしまう。私達は本当に御父母様を愛し、兄弟姉妹を含む教会を愛していただろうか。「どうぞこの者達をお許しください。彼等は愛の本質を知らず受け取れなかったのです。」もしアボジが神様にそうとりなしの祈りをされていたとしたら何とも幼い、どこまでも愚かな我々であったと思う。アベルを通してアボジからくる願いにひたすら応えようとしてきただけだ、その言い分を聞かれてアボジは頷くだろうか。私達は親に、愛すればこその一言ができて当然の子女であるはずが、ただただ言われるままに蠢いていたとしたら子女ではなく奴隷だろう。愛でこそ全てを獲得できる。そうでなければ神様は愛の神様ではない。私達は教会を失いかねない状況だが、失って初めて教会への想いが、即ち教会を愛するという意味が理解できるのだろう。私は今の教会が神が愛する、摂理を牽引する教会だとは思わない。皆の切なる想いは今の教会には感じ取れない。教会を親なる神の宮として失うまいとする必死さは伝わらない。子供は愛で繋ぎとめているように、教会を子供のように想う愛が私達から欠如していたら失ざるを得ない。それは愛の原則だ。
2025年6月15日日曜日
今日の想い 1386
2025年6月12日木曜日
今日の想い 1385
青春よ早く過ぎ去れと叫ばれたアボジは青春がもたらす何をして過ぎ去れと思われたのだろうか。堕落人間、とりわけ男性の堕落人間は衝動、それも恋愛衝動や性衝動に違いないと思うのだが、その言葉に対してその前後もどういう機会に述べられたのかも定かではないので何とも言い難い。アボジとして摂理的使命の観点から言われたとしても、敢えて人生ではなく青春なのだから意味合いとしては遠からずだろう。そう仮定して話を進めるけれども、今となっては青春期はとっくに過ぎ去ったはずなのに未だにその衝動を持て余している自分を見ると、ひたすら我慢に我慢を重ねてここまできたけれども流石に衝動=罪、堕落性とはならないことは理解している。教会は敢えて言葉は使わないにしても禁欲主義であるのは間違いない。水産部の男だらけの環境に巡回師の御姉様が来て何を話すのかと思ったら、性欲を抑えられず自分で慰めているという告白を受けたがこれは明らかに罪だからそういう行動は絶対しないようにと、壇上から居座る男性全体を見まわし声高らかに申し渡された。その場が気まずく誰もが視線を落として遣り過ごしたが、私自身はではどうすればそういう衝動を抑えることができるのか聞きたかったのだか当然手を上げられる雰囲気でもなく、うやむやなまま気恥ずかしいままで終わった。巡回師も幼く食口全般も幼かったが、もし当時禁欲主義として我慢一辺倒に抑え込むのではなく、罪としての衝動を人間本来の創造的衝動の一面と捉える教育や、その衝動エネルギーをどう実体的創造へと、他の為に生きる人格の向上へと変換できていたら教会の発展と成長は目覚ましいものとなったはずだと私は思っている。衝動は遠ざけるものではなく、それをどう捉え主管し変換していくかにかかっている天から与えられた生きる力だ。しかし先天時代の教会のただただ否定する在り様は蕩減時代故だったと受け取るしかない。
2025年6月8日日曜日
今日の想い 1384
社会的人間として公的な位置でみ言葉にそぐわないものは悪だと断定するのはいいだろう。不倫も悪だし同性愛も悪だ。しかし当事者に対して不倫をしたから距離を置くとか、同性愛者だから罪を犯していると当然のように対するのは違うはずだ。救いに至る道筋を示そうとするのならまだしも、自分はそういう間違った道に向いてもいないしそういう要素も全くないと言わんばかりに上から目線で対している。我知らないうちにだ。そして相手を前にしたら線を引いて関係ないかのように立っている。はっきりいって私はそういう食口が良心に向き合っているかどうかを疑う。私は不倫に至る内外の環境圏から遠ざかっていただけで、もし同じ境遇にあったらそうなることはわかりきっている。今までそういう試練と環境に会わなかっただけの話だ。また自分自身は同性への指向は全くないけれどもそういう人は食口も含めて多く知っている。特に原理を聞いた(幸か不幸か聞いてしまった)彼等の、一般人からすれば想像もできない精神的苦痛と人生の辛さは計り知れない。彼等の多くは自らその道を選んだのではなく生まれながらの、というか気付いてみたらという宿命的な人生だろう。それを思うと原理を伝えることが彼等の救いではなく、裁きを下すことになるのではないかと躊躇してしまう。多様性を性の問題解決に持ち込み、何でもありとするのは危惧するけれども、現実に自分の性の指向に悩んでいる者に対してどう救いに至らす道を示せるかどうか。今世だけではどうにもならず世代を超えて地上生を重ねなければ解決できない問題なのだろうか。み言葉は素晴らしいけれども万民に幸福をもたらすものかどうかはどうしても疑問が残る。
2025年6月5日木曜日
今日の想い 1383
親なら誰であっても子供は可愛いし、真っ当な人間になって欲しいと思って育てている。しかし日本人にとって真っ当な人間とは他人様から指さされない人間だと思い込んでいて、置かれている社会環境に受け入れられるかどうかが心配だし、引き籠ったり成績が付いていけなかったりすると途端に親として苦悩し始める。自分はアメリカ生活が長かったが、そうであってもやはり日本人特有の村社会意識は骨の髄まで染み込んでおり、教会が掲げる子女の在り様そのままを教え込むことに相当のエネルギーを注ぎ込んだ。私にとっての村社会とは個団であり教会だった。聖日礼拝日曜学校の参加から始まり子女の修練会やキャンプ、他の祝福子女に合わせて行動できるように付いていけるようにという心配で常に接していた。しかし親の心配を知りながらも子供はことごとく教会を嫌った。常に嫌々ながらの行動だった。海外に出て日本をみると、どうでもいい集団社会故にやらざるを得ないことだったり、子供の成長と独立には必要がないどころか返って害になりかねないという村社会的指導や教育で、子供達が雁字搦めになっているのが見えてくる。なんとか社会の枷にはまるように成長させようとするけれども、そうなると子供の自主性や主体性に対する教育は等閑になる。日本のあらゆる分野において自主性主体性の欠落が見え、そんな国は全体主義でなければ立ち行かない。私は子供に対してハイスクール卒業を機にパッタリと押し付けることを辞め彼等の選択に任せることにした。たとえ間違った道に歩みかけてもそれでも親として選択肢は提示するけれども選択は彼等に任せた。勿論それで万事うまくいくはずはない。しかしそれでも親がしゃしゃり出ることは彼等の甘えを助長し主体性の芽生えを塞ぐことになる。全ての祝福子女に対して勧めたいのは、先ず親元を離れ日本を離れること、そして自分の中に神を見出す、即ちみ言葉の上で良心を見出し従うこと、この二つだ。どれだけみ言葉を学ぼうにも日本の空気の中では教会内でさえみ言葉を受け取るだけでその本質を掴もうとはならない。その受け身のみの意識は他の日本人子女にも言えることで、日本に居ながらにして自主性主体性を身に着けることは相当の覚悟を要する。解散問題がどうなろうとも教会も日本も今のままでは立ち行かない。危機は逆説的にはチャンスだ。雁字搦めの日本、信教信条の自由さえ蔑ろにする日本であって今こそ出エジプトを神は願われている。日本は遠からず打たれる。それは神の摂理だと私は確信している。
2025年5月31日土曜日
今日の想い 1382
私の中にカイン的性品の未だあることは認めざるを得ないだろう。ということは私の中でアベルカインのバランスを保てずカイン的性品が度を超すとサタンが主管する自分になりかねない。同じように教会組織であっても内部にカイン的なものが常にあって、それが度を超すと教会ですらサタン的な存在になり神から後退してしまう。教会内だから誰もがアベル的で誰もが神様に顔を向けていて近づいている、とはならない。教会内に様々な立場の人物が混在している。大きく二分すればアベルとカインだが、更に分類していけばアベル型に6種類、カイン型に6種類となり、アボジを証してきた洗礼ヨハネ的人物がいたようにユダ的人物も当然いる。それは食口それぞれの主観的にみてそう思える場合と、摂理的にみて選択されその立場にいる場合がある。主観的にみてそう思える場合とは私自身の写し鏡としての役割であって、彼等とどう対し接するかは私の中のそういう性品にどう対処するかが試されているし訓練されている。教会や教権の腐敗を指弾する目で見ているとしたらそれは自分の写し鏡として自分の腐敗もそこにみて、教会がどうすべきかの意見があるなら同時に自分に当て嵌め、そして悔い改め、自分自身を改革する意志を同時に持つ必要がある。それなしにどうこう意見するのは公私が分裂しており只の野次馬でしかないだろう。愛菜ちゃんのでる番組で世界遺産サグラダファミリアの特番を見た。完成はなくてどこまでも未完だが、完成に向かう意志を持ち続けることが大切だと利口な愛菜ちゃんは解説していた。私達は神人一体圏という人格完成を標榜しているけれども神にいくらかでも近付けることはできても神様になることはできない。しかし人格完成の道を断念せずに歩み続け位相を上げ続けることが願われている。にも拘わらず恰も完成圏にいるかのように高みから堕落世界を見て品評するように、私達にアベル的ではないカイン的選民意識や私達こそが正しいという独善性に犯されていて、畏敬の想いや謙虚な姿勢を忘れてはいなかっただろうか。私達はみ言葉に出会い信仰を持つことでやっと普通の人に追い付けたと認識するくらいが丁度いい。
今日の想い 1381
表面的には何の変化もなく、毎日のルーティンワークをこなすことで時間を費やしている。若かりし頃の大波荒波に疲れ果て、感情の海の平安をもっとも願う老年期を生きている。心身を捧げ人生を捧げて摂理と呼ばれる公的生活に邁進してきたつもりだが、結果という果実をどこに見出したらいいのだろうか。清平にあるあの白亜の建築群だろうか。教会信仰を第一義として闘う僅かの二世達こそがその果実だろうか。妻は教会が取り上げられる毎に口にしている。み言葉は素晴らしいけど、、。当然のことみ言葉は私達が心魂注いで築き上げた果実ではない。一方的に与えられたに過ぎない。み言葉が沁みて私達の魂を駆り立てた。しかし理想は砂上の楼閣の如く崩れ、この手で掴もうとしたそのはしからボロボロと落ちて跡形もない。残ったのは私達に対する非難と行き場のない空虚な魂だけ。名ばかりの祝福家庭で天の威信は見て取れない。吐いて吐いて、搾り取ってでもさらに吐いて、残りの人生を歩む一歩だに踏み出せない、そこまで追い遣られてこその統一食口だ。壇上で神は私達と共にあると声高に叫び、さも天に選ばれた私達であるかのように耳に優しい希望的言葉を述べる者は、余裕が残っていて未だ吐ききってはいないだろう。死線を跨ぐか跨がないかの鬩ぎ合いの場でなければ復活の概念など到底理解できようもない。霊的な死を経験した者から復活の約事は為されていく。天国に行くことを夢見て終わるのではなく、率先して地獄に赴き、地獄を知る者が逆説的に天国を築くことができるだろう。笑うのではなく、かといって泣き一辺倒でもなく、笑いながら泣き泣きながら笑う、統一食口はそうあるべきだ。
2025年5月15日木曜日
今日の想い 1380
宗教が先ずあってそこから道徳や文化は取り出されるのであって、宗教嫌いの日本人の多くは道徳や文化が先きだと思っているから宗教嫌いになってしまう。日本人が神仏への畏敬という宗教心があったから社会生活の道徳が養われたはずなのに、科学至上の世の中で宗教を否定してしまえば当然道徳は崩れ廃れていく。自分は神仏を敬っておりお寺に行けば手を合わすし神社に行けば柏手を叩くと言うけれども、己が願いという欲をあわよくば叶えてもらいたい、或いは敬う形だけの文化慣習という畏敬の念から極めて遠く、それを信仰心というのは実に宗教を馬鹿にしている。それは日本の進化論教育等の唯物的側面ばかりに意識を向けさせてきた結果でもあり、外的な実力を評価し内的な人格を蔑ろにしてきた結果でもある。そしてここに来て、教会を解散させるという国家権力の横暴を許してしまう。国がこれほどに腐敗し、これから事実上の宗教不在になるということは日本から中心的柱を取り除いてしまうことであり、太平洋に泡のように消え去るかまた残るのであれば分断されてしまうということだ。そういう外部への批判もさることながら、国民の大方を反教会にしてしまった教権に対する憤りも大きく、日本に対する救国の想いがどれほどあったのか、罪まみれの日本など消え失せて当然だともし思っていたとしたら、それこそ日本を形作る中心的大天使から排除されて当然だろう。保守派と自認する多くの論説者や有識者からも解散は当然だと断言されるのは、彼等が拉致監禁等の反教会がやってきた被害を知らないからではなく、DSのグローバリズムのように世界の救いの為には日本は捨て石になっても仕方ないという認識が私達の想いの中枢にあることが原因なのではないだろうか。教権からアベルに伝えられる方向性と判断にどこまでもイエスマンだった食口は、ここにきて明らかに自らが自らの良心に尋ねて方向性と判断を為すべき時に追い遣られている。かつてのように原理非原理圏の棲み分けが教会内部と外部だというような壁は既になくなっている。教権に従えば全て善、とは言えなくなっている。
2025年5月9日金曜日
今日の想い 1379
私達はこの世の人達と同じようにこの星に生まれ落ちた。神の意志なのか何らかの意志が働いて生まれ落ち、地球船に先導されて時の航海に繰り出している。時の大海原で霊が体現する様々な試練や祝福に出くわしながら、最終地点である霊界の入り口を目指して時を駆け抜けていく。船体であるこの身体もこの魂も、最終地点を予想できるまで航海すると長年の時の流れに相当傷んでいる。摂理的使命に奔走してきた私達は、この世の人達から比べれば更なる心身の痛みを重ねながらも、この期に及んで畳みかけるように鞭うたれる。統一の群れはボロボロになり、何の成果も得られない虚しさに包まれたまま地上を去らざるを得ないのだろうか。憤りと空虚感に苛まされ、本来なら伝道した多くの祝福家庭を両手に歓喜の声に迎えられて霊界の門を潜るはずが、カルトで反逆者の汚名を首からぶら下げられて死の門を潜る。この、どう表現していいのかわからない幸夢からの悪夢。善神からの悪神。天国からの地獄。こんな、言葉にもならないほど魂を締め付けられ息苦しさを覚えるのはいつの日以来だろうか。砂漠で死んでいく者に水に浸した布切れを口に含ますように、今慰めの一言でもかけられれば嗚咽するだろう。しかしこの世の人達は当然のこと、支え続けてきた本部教会からも、親として慕い続けてきた御父母様からも、慰めの言葉の一つですら下賜されることはない。日本の食口は棄てられたのだろうか。ボロボロの舟のまま霊界の門にも辿り着けず、悪霊の津波や荒波に翻弄されたまま死を待つしかないのだろうか。
2025年5月8日木曜日
今日の想い 1378
食口はSかMかと分けるならば、M, マゾヒスティックであって常に自分を痛めて喜びを得ようとする。おそらく性癖と食口の在り様を同等に並べるのは気分を害するだろう。受け身の信仰であり指示を受けての行動であり、今回の解散要求に対して自発的行動に出る食口は殆どいないことからみても、苦難も困難も天が与えた試練であって私が意志して行動した結果だとは全く思っていない。天が与えた試練として耐え忍び、アベルの指示がなければただただ黙する以外何らの思索も行動も自分の中に起こらない。そして受ける苦難をどう信仰で昇華して内的喜びに変えるか、、。それだけであればマゾヒスティックな在り様と変わらないと言われても、私は当然だと思う。確かにアボジは教会は苦労の百科事典だと言われたが、このマゾヒスティックな在り様を果たして苦労と思われるかどうか甚だ疑問だ。私はというと憤りを抑えられず、その感情は益々激しくなる。それは決定的な発言をしてしまった岸田元首相、あれほどに寄り添い応援してきた自民党議員や他党議員、反教会一辺倒のマスコミ、信仰の本質を全く理解せず新興宗教を毛嫌いする国民、そしてもっとも憤りを覚えるのはこの期に及んで何の反省も救国の訴えもない教会自体、更に人生を賭して摂理に奔走してきた自分自身にも憤りを持っている。私の人生は何だったのか。私の憤りですらこれほどであるのに、私と同じように憤りのやり場のない食口が増えていくなら、この日本国を壊滅させて余りあるものとなるだろう。それでも愛して許して、、と或る兄弟は言うけれども、そう言えるのは適当に歩んできたから言える言葉だとさえ思えてくる。そして、この憤りが私の体を蝕んでいく。
2025年5月4日日曜日
今日の想い 1377
私がみ言葉と歩みから感じ取った神様は寂しい御方であったということ。以前にも寂しさを味わった時がもっとも神様を近く感じたという話をしたことがあるが、私の中に寂しい感情が事ある毎に起こるのはその感情を通してより神様に近付けと言われていると思っている。それは親として寂しく思うこともあり、夫として寂しく思うこともあり、男性として寂しく思うことも当然あるのだが、様々な立場の寂しさを味わいながら神様の子女として親なる神様の心情を相続していく路程でもあった。おそらく、、おそらくだが、男性食口の多くが経験していると思うのだが、生涯相対者だけを愛し他の女性とは関わりを持たない、それを絶対愛として生涯守り通す決意と同時に、こういう別の言い方をしていいものかどうかわからないが決意の逆説である諦めを強いられている。相対以外の女性に感性が向かうのを私の罪がそうさせていると無理くり納得させてはいるが、しかし論理では解決できない男性としての否定できない感情が現にあって否めないのは当然だろう。しかし愛とは捉えられないその諦めによる寂しい感情でもって神様の心情を尋ねる。愛情と情愛は異なる言葉で別物なのはその通りだろう。エロスを動機とする愛と行動である情愛をアボジは否定しておられるし、情愛を抱いたことはないと断定もされている。しかし一方で傍目には情愛としか捉えられない行動もされていて御落胤の子女もおられる。またそれぞれの御子女様も同じように傍目から見れば愛の問題を抱えておられる。神様も愛の御方であり教会も愛の教会であるのはその通りかもしれないが、今の地上は愛の完成圏にはなく、そうなる途上にあると見做せば全ては頷けるのではないだろうか。教条に引っかかればそのまま地獄だと言うのではなく、また堕ちた食口、離れた食口と裁くのでも裁かれるのでもなく、愛の完成圏に至る為の紆余曲折路程だ。そしてそれは霊的に幼い私達がイメージし思っているものとは異なる愛の完成圏だろう。世間からみれば訝しく思われ理解されないにしても、苦労と寂しい孤独感を何度も何度も甘受しながら神を尋ねていく。だからこそ神様は私達を手放すことはできない。
2025年4月21日月曜日
今日の想い 1376
西側社会が世界経済の基幹社会だったから基軸通貨ドルが社会の血液だった。人間の体をみてもわかるようにメタボ体質だと様々な病が潜伏しており血圧も高めになる。肥大した内臓に血液を送ろうとすれば圧力を上げなければ必要量に届かないからだ。今の西側社会は必要以上に大きな政府であってここまで肥大化してきた。DOGEの大ナタでスリム化はしているがそう簡単に数十年の肥大を元に戻すことはできない。金融は成長が必要な場所にドルを届けることができてその役割はそれなりに果たしてはきたが、金融が実体経済を大幅に超えてきた頃から功よりは経済の負として働くようになってしまった。通貨も実体経済の大きさに合わせて増やすのは良しとしても、通貨価値を薄めるような増やし方では通貨の信用は失われるばかりだ。金利という経済の血圧を抑えるどころか上げざるを得ない実情では既に通貨価値は失われている可能性が高い。アメリカは負債が37兆ドルを超え、今年度償還する国債が8兆ドルプラス国債利息分1兆ドル含めた不足予算の2兆ドルで10兆ドルの新規国債を発行する必要がある。トランプ関税は国内製造を願っての事というのは建前で、関税を取引材料にしながら取り敢えずの国債引き受け、或いは償還延期を目論んでいるはずだ。勿論そうなったとしても緊急措置であって、弱くなり続ける国力とドル通貨の為には根本的改革が必要だろう。さて、いよいよ新しいトランプドルへと着手する時期が近付いているような、そんな臭いがしてくる。
2025年4月5日土曜日
今日の想い 1375
トランプ関税が問題になっている。日本からの輸入品に対しても24%で、もしこれが続いたなら日本経済は苦境に陥るだろう。インフレもそうだが品不足で翻弄されることになる。アメリカは関税を仕掛けたことで世界戦争を勃発させた。人は死なないが世界貿易の停滞を目論み自国に製造力からの経済力を呼び込む為の事実上の戦争を吹っ掛けたことになる。各国はそれぞれに応戦することになるが、日本の対応は未だ見えてこない。即対応することが必要で、様子見している余裕はないにもかかわらず、石破政権は事の深刻さがわかっていない。関税は別に輸入相手国や業者にかける税金ではなく商品を買う自国民に課す税金だ。その意味では消費税と同じ性質を持っている。故にトランプは日本の消費税に対して文句を言った訳で、関税24%も消費税を踏まえて出した数字だろう。今まで債務国家であったアメリカは基軸通貨故の利点を使って何とかここまできたが、ロシアへの対応からのドル不信が災いして、基軸としてのドルに疑問が持たれている。そこを見抜いているトランプはドル暴落の手前で世界に戦争をしかけた。ドル基軸経済からブロック経済への流れが見えている以上、トランプは債務国の意味を債権国に儲けさせているという観点に立つことで関税引き上げという戦略を立てたということだ。本来責められどころを逆に責めに出たという、何ともトランプらしいこの賭けは海千山千戦い抜いたうえに磨いた感覚だろう。教会と食口達がもっとも学ぶべきところの狡猾さだ。
2025年4月3日木曜日
今日の想い 1374
顧問弁護士の言動を垣間見ただけでも良くわかるが、教会は法を盾に反政府の立場でずっと一貫し、寸分の理解を示す意志もないし、膝を突き合わせ胸襟を開いて謙虚さを示しながら妥協点を見出そうと折れることもない。教会にとって解散命令は死を意味することだと十分わかりながらも、何とか生き延びる道をと探ろうとしないのはトップ達の独善性と傲慢以外の何ものでもないだろう。死んだら終わりだということがまったくわかっていない。解散が確実になった場合はトップ層は辞任に留まらず死をもって報いることが当然だろう。それ程の重い案件でありながら、おそらくそれ程の個人的な決意も覚悟もなく、教会は解散しても自分は信仰を保って生き延びると我意識せずに思っているはずだ。責任者は何万もの食口たちの信仰の生命も生身の生命も引き受け背負っている立場で、それは万死に値するほどの責任だという認識に欠けている。霊感何某を牽引し、高額献金を牽引してきたかつての責任者達も表に出て謝罪すべきだ。日本に対しても日本国民に対しても、もちろん食口達に対しても謝罪すべきだ。おそらくアボジの命令、アベルの命令に従っただけだと自分に言い訳して表に出ないのはわかっているが、それで許されるはずのないことは良心に尋ねれば即座に答えはでる。解散命令が出れば献金要請に応じる必要もなく、おとなしく信仰を保ち静かな余生を送ると思っているのだろうが、あり得ない。解散してから恐ろしいほどの試練と闘いが待っている。神の名によって生きた者は神を裏切れば生きて地獄が待っている。今は時代的に良心作用が鍛えられる修練の期間であって、そのうちに良心を裏切ればその呵責は死ねるものなら死にたいと思うほどに大きくのしかかるようになる。良心に応えれば大きな安らぎを与える女神となり、裏切れば空恐ろしい鬼となって襲い掛かる。それが良心という内在神だ。平食口も位置のある責任者も人である以上この良心を抱えているのであり、誰一人良心という神から逃れることはできない。解散という結果を受け取って、準備すべくは外部からの仕打ちや攻撃ではなく自分の内面からの仕打ちであり攻撃だ。
2025年4月2日水曜日
今日の想い 1373
歴史を変えてきたのはいつの時代もはみ出し者だ。変わり者ではなくはみ出し者で「出る杭は打たれる」立場の人間だ。かつての教会はそういう類の者達の集まりだった。しかしいつのまにか魂を抜かれてしまって今は只の変わり者の集まりになっている。変わり者では歴史を動かせない。変わり者もはみ出し者も村八分に合うが、変わり者は打たれて終わりだがはみ出し者は打たれれば打たれるほど魂をより燃やす。この伸るか反るか、生きるか死ぬかの闘いなのに教会トップはどうしておとなしい者しか表に出さないのか。教会の男たち自体が去勢されて(与えられた女にのみ生涯おとなしく連れ添わなければならない)、自分を抑えて抑えて生きることを強いられているからどうしてもおとなしくなるのだが、しかし教会の女は違うだろう。アボジーと絶叫して祈祷しながら摂理を牽引してきたのは実際女たちだった。教会は論理と理性で時代を走ってきたのではなく、感情を爆発させることで現代摂理を牽引してきた。だから男たちではなく女たちの教会だ。それをこの背水の陣の状況なのに今更に男を前面に出して突破できるはずもない。熱情もあり口数も立つ女はどこに行ったのか。どこに隠れているのだろう。トップはどうして女を前面に立てないのだろう。何から何まで嚙み合わないことばかりに手をまわして逆に裏目に出る。状況をみるに教会はことごとく神霊が失われたとしか思えない。もはや教会にジャンヌダルクは出てこないのだろうか。
2025年3月30日日曜日
今日の想い 1372
借金大国アメリカをトランプはどう立て直すのか。アメリカの負債、既出国債は37兆ドルという天文学的数字だ。マスクのDOGEがどれ程頑張ってもせいぜい5000億ドルくらいの削減にしかならないだろう。そしてバイデンの置き土産として、2025年に償還すべき国債が8兆ドルもあり、それを借換債として新たに発行し、プラス財政赤字が2兆ドルとなると今年10兆ドルの新規国債を発行して買ってもらわなければならない。しかし誰が買ってくれるのか。バイデンがロシアに対して外貨準備を凍結しスイフトという決済システムから排除したものだからドルの信用を一遍に失うことになった。BRICS国家を始めとする国々はいつ我が国も凍結されるか知れないとなって、ウクライナ戦争以降ドル以外の通貨やマテリアルにドル準備からどんどん移している。ここにきて金相場が爆上げしているのは各国の中銀がドルから金に移行しているからだ。そんな状況の中、トランプ関税が発動される。これによって対米貿易はもちろん縮小していく。ドルは更に必要性が失われていく。そしてドル基軸が傾いてドルはとことん安くなる。自国の生産力を上げて輸出を増やしたいのはわかるが、早急に生産能力が上がるはずもなく、それまでにドルが安くなっていくと金融どころかアメリカ経済も成り立たなくなる。金融界に名を馳せるほどの頭脳の持ち主も数人いるからそこは当然理解しているはずで、そうなると敢えてドルを落とし込むドル切り下げという第二のプラザ合意を目論んでの事か、はたまた以前から発言しているようにFRBを切り捨てて財務省直接に通貨発行せさるというトランプドルに切り替えようとしているのか、トランプがどう出るのか様々な憶測が流れている。ドルがその基軸的権威を見限られて新ドルにしろ国が発行する暗号通貨にしろに譲るとなると、世界経済は大混乱に陥るだろう。特にドルに追随している(すなわち米国債をしっかり保持している)日本と日本円はどの国よりも影響を受けるはずだ。日本の国民はどの国よりも日本円という紙幣を信用していて、少々のインフレで金や銀に揺らぐことはなさそうだが、しかしドルの信用がなくなっていくとなると日本円という通貨に対しても絶対信用認識を疑い始めるだろう。2025年、何が起こるかわからない。
今日の想い 1371
説明の話しぶりや質疑応答からして、どうも教会は解散命令請求が地裁で認められるとは思っていなかったというのが伺える。日本が法治国家であることを信じて疑わなかったということだろう。今までの経緯からしても法に訴えてきた様々な結果からしても、法治国家の体を装ってはいるが実態は異なっているのは明白だ。トップですらそうなのに私達がどれほど社会に疎いか、という現実をしっかりと凝視する必要がある。私達に賛同して声を上げて下さる方達の私達に対する要望意見として、黙っていずに声をあげて欲しいというのが複数あった。それは組織としておとなしすぎるという意味だとは思うが、実は教会は断固としてそんな横暴は許さないという意志もなければ義憤の感情も見出せないと言いたいのがおそらく本音だと思う。教会が行儀も良く言葉も選んでの説明は信仰観と人格からくるものなのかも知れないが、もっと人間味溢れる感情を吐露して映像を受け取る全国民に訴えかけるべきで、それは幾らか芝居じみていたとしてもそうすべきだったと思う。拉致監禁の実態を言葉だけならべても、普通は誰もその痛みも受け取らなければ悲惨さも受け取らない。言葉を並べるのではなく言葉を通して心に届く感情や想いを訴えるべきだろう。トップの立場でそれができないのなら誰かサブを立ててでもすべきだろう。私達が日本を想い、生命をかけて日本救済摂理に邁進してきたのであれば、国民の琴線に触れる一言だに出ても良さそうなものなのに、あれほど全国民が注視する場面で行儀よくておとなしいのは、結局それだけの歩みでしかなかった、日本国を想う愛に欠けていたと言われてもどうしようもない。独善的な信仰に走ってしまったことや道義的責任を問われる活動をしてしまったことも確かに悔やまれるけれども、それ以上に献金や伝道の数合わせに疲れ果てたのか、私達の中にいつのまにか摂理とみ旨に熱く燃える魂を失ってしまったことは何よりも悔やまれる。
2025年3月25日火曜日
今日の想い 1370
東京地裁において解散命令が下された。日本は信教の自由もなければ三権分立も建前に過ぎない、ということがこれで再確認された。これから高裁への不服申し立て、最高裁への抗告と案件は移っていくのだろうが、最高裁が別の案件で民法上の不法行為も解散命令要件にあたると明言しているので抗告してもほぼ無駄だろう。解散は現実となった。これから随時教会施設も処分されていき、事実上活動拠点も奪われ宗教行事すらできなくなる。聖フランシスコのブラザーサンシスタームーンに倣って、野山で祈り海辺で祈り、信仰を維持することになる。施設がなくなっても信仰を維持するとなると、本当の意味で親離れし、主体的で能動的な信仰姿勢を自らで育まなければならない。日本食口の成長はここからであって、解散という破壊だが、死が新たな生であるように解散という破壊も新たな位相を上げての新生信仰となる。あれほど汗を流して議員先生に尽くして来たにもかかわらず、物の見事に裏切られてしまったその現実が意味することは、私達はただの使い捨てでしかなかったということだ。先天の信仰で世間の人々が屈服するはずがないのは明白であり、そうなると人々の光であり羅針盤でありうる本物の信仰を立てろというのが、神の願いであり私達の摂理的方向性だ。私自身は献身生活を通して教会に身も心も捧げてきた以上、切なくも寂しい想いは勿論あるが、解散の声を受け止めて、もはや死にかけている体に未練を残すことなく新たな出発として旅発つことができる。地に這いつくばってきた成約の勇士は死を超えて大空に羽ばたいていく。今日の日は日本食口の魂の聖和式だ。
2025年3月21日金曜日
今日の想い 1369
どれほど論理を組み立てても、どれほど議論を尽くしても、それだけで実体の果実として実ることはないだろう。必ずそれに沿った行動や実体験が必要であって、いざ行動してみると論理思考だけでは想像だにしなかった多くの課題に突き当たり、その都度感情の試練や意志の投入、一旦引いての論理の組み換えやらと実体化には知情意の魂の投入が必要になる。そんなことは周知の事実でありながらも足が地に着いていない食口はそれを理解していない。だから原理坊やと揶揄されお花畑信仰と嘲笑される。私達の歩みで反省すべき問題の一つは、目標達成という果実を得る為の行動だと言いながら、実態は条件としての行動であって本来の目標達成にはならない。すなわち目標を得る為の行動から信仰基台という条件の為の行動にすり替えているということだ。今までの願われた目標の殆どが実らなかったのは、一般の目からすれば頓珍漢な条件的行動で終始するものだから実らないのは当然だ。今回の解散命令請求が出され、長い沈黙の末にやっと重い腰を上げたかと思うと、その行動はデモ行進だという。この期に及んでデモ行進が請求差し止めにどう役目を果たすのか、私は理解できない。私はというと、首を洗って解散要求を先ず受け入れる派だからどうだっていいのだが、教会支持派がこんな頓珍漢な行動に出るのはやはり条件の為の行動という、すなわち条件を捧げて神の援助や断罪を待つという天にすがる意識からの行動に過ぎない。だからこんな、請求差し止めとは直接関係のない指示が出たりする。今は旧約時代に歩む選民ではないから、神が剣で制裁するような直接的奇跡は起こらない。でも相も変わらず選民思考が強いのか、神は我々の味方だから何か起こると信じ切っている。食口は先天時代の幼い信仰からどうしたら抜け出せるのだろうか。言えば私達の復帰路程も同じであって、どれほど原理で論理立てみ言葉で武装するにしても、現実世界では献金だ会員数だと条件物のみに終始していて、内的試練を超えて内的霊的成長をみることはない。ノルマの条件さえ供えればエレベーター式に復帰されるなどありえないし、勝利された心情圏を相続できることもない。
2025年3月19日水曜日
今日の想い 1368
日本はたとえ最高裁であっても、法順守ではなく世間の向かうところに顔を向ける風見鶏であり、司法だって村社会の空気には従わざるを得ない。私は早々に解散請求を通すと見ている。アメリカから信仰信条の自由の圧力で責められても、のらりくらり訳の分からない言い訳と責任のなすりつけでかわしながら結局翻すことはないだろう。日本は法支配国家ではなく、それはただの建前であって、国の柱は立てず強者におもねって右に左になびくだけの浮き草国家だ。それはいくつものプレート上で、それぞれのせめぎ合いに任せて列島の命運が決まるという浮き草国土の状態そのままだ。アメリカが超大国であったときはアメリカの州以上に忠誠を立てる風を装い、しかし中国が台頭してくると浮気妻のように中国になびいていく。あちこちに顔を向けて定まらない状態が続けば、日本そのものが四つにも五つにも分断されてしまうだろう。浮き草国家故の八方美人国家のなれの果てだ。悲しくもアボジの日本分割の予言は日本の実態を突いている。教会はその使命をやっと終えることになる。解散だ。本来教会ではなく祝福家庭の組合である家庭連合を出発すべきだった。しかし名前だけは新しくしながらも教会と全く同じ宗教組織となった。アボジの言う家庭連合は宗教組織ではない。家庭連合という建前ながら本音は献金目当ての教会続投でしかなかった。私達ですら結局日本の悪癖を脱げず、位相を上げることができず、情けないが外圧でしか変われない本性が現れてしまったということだ。
2025年3月18日火曜日
今日の想い 1367
ここまで規制規制で雁字搦めになると、議会は言葉の遣り取りのみに終始し、政府は思い切った政策を立てられないどころか、規制に振り回され利権を失う恐れで仕事をする官僚達を主管できない。トランプ政権がおかしいものはおかしいとコモンセンスで大統領令をだし施政しているのに対し、日本は誰が首相になろうとも、普通におかしいだろうと国民が声を上げていることさえ何も変えられない。すでに議会民主主義の限界にきている。今の米騒動は氷山の一角であって、値が上がるのみならず米不足になるし、他の食糧も同じ道を辿るだろう。2013年の震災以降、日本は輸入額が輸出額を超えてその差は年を追う毎に開いている。かつては輸出大国で外貨をどの国よりも稼いでいた日本は今、貯めてきた国家財産を崩しながら生活している。円安なのは日銀の金利対策が問題なのではなく金利調整できないほどに国のキャッシュフローが切羽詰まってきたからだ。歳入と歳出の差が大きすぎる。MMC信奉者達は円をいくらでも印刷して宛がえば問題ないと未だに言い張るが、刷れば刷るほどに価値は薄くなる。ここまで薄くなった結果がエネ資源や食資源を高インフレにする過剰な円安だ。日本自体に日本を癒し健全な国家にする治癒力があるかどうか。トランプがカナダの生きる道はアメリカの州になることだと言ったようだが、日本こそ当て嵌まるだろう。すでに金融経済は破綻している。爆上げしてきたマーケットは年度内にフリーフォールを経験するはずだ。ロシアの外貨を凍結しスイフトから締め出した時点でドルの信用はなくなり、ドルの基軸も既に名ばかりとなっている。ドル通貨と逆相関であるgoldの国の積み上げや金価格の爆上げもそれを表している。トランプは意気揚々と政策を打ち上げているが、マーケットのダダ下がりと経済の不景気が襲う時どう国民を納得させることができるだろうか。フォートノックスのgoldも地方連銀のgoldもほぼ無しとみていいだろう。あれば早々に監査を受けている。
今日の想い 1366
父と母は闘っている。一致点、一体圏を模索するために闘っている。食口の誰もがどうしてこんな状態になったのだろうと頭を抱えているが、神が存在する以上成長し一体化するための闘いは繰り広げられる。ある位相に於いての一体圏は確かに勝利されている。それを最終一体と理解することもできる。しかし次なる位相に於いての一体化の為の両者分かれての闘いは必要不可欠だろうし、神と同等でありそれ以上の位相はないというなら既に人間の域を超えていて人間であることの必要性はなくなる。この父母の新たな正分合の働きが無ければ今の世界の問題、人類の問題は解決しないはずだ。今の原理と与えられたみ言葉では解決されない様々な問題があって、宿題は夜の神様の時代に委ねられた。故に新しい時代の幕開けとなった今、父母は新たなステージで闘っておられる。私があれほどに苦悶した家庭の問題は私のみ言葉理解で解決はしなかった。ひたすら祈願するしか方策はない問題に対して、清平摂理は進められ多くの食口達に外的救いはもたらしたが、しかしそれでも解決されない問題もある。私達は地上天国を実に単純にイメージしていた。夢想された、、といえば憤慨されるかも知れないが、その単純な天国イメージがお花畑信仰に繋がっている。父母の一体圏が絵本に見るような仲良しこよしではないことは頷けるとしても、母が父を否定する状況は一体圏とは真反対の状況にしか思えないだろう。しかし私達の単純で粗末な地上天国イメージを認識しているように、一体となられたというイメージもまた単純で粗末なものだ。これまで複雑極まりない歴史が流れてきたということは、これからの復帰路程も複雑なものになるということになる。復帰はけっして教条主義の剣で振り分けられ、人間を羊と山羊に割り振りできるような単純なものではない。言葉が異なる父と母の一致点をどう捉えるか。食口それぞれが良心に尋ねながら、その父母一体圏を認識できない限り、祝福を戴いた私は父母一体故の新しい霊をそなえているとはいえないだろう。
2025年3月12日水曜日
今日の想い 1365
責任者達の体たらくで反社のレッテルを外せないなら、個々の食口は立場を変えた方がいい。個々の立場でどれほど説明しようが教会に籍を置く以上寄り付きもされない。教会の人かと問われれば、あの悪名高き教会にいたが辞めましたと言えば生き延びる道はある。そこからが再出発だ。教会があろうがなかろうが信仰は保持できる。そうであっても教会から受け取るものが必要だから自分にとって存続して欲しいのか、それとも世界の救い、国の救いの為には教会が必要だから存続して欲しいのか、それぞれが良心に尋ね考えた方がいい。神の願いは教会という枠に縛られて生きることではないはずなのに、食口達がその枠が必要だと信じて執着するのはなぜだろう。口では信教の自由を叫びながら、内なる声は教条の枠で縛られることを良しとしている。確かに人間は霊的存在で、それぞれ何某かの霊的縛りが本人の意識圏外から働いていて主管されている。私の意識の方向性を決められ、我知らずその道へと誘導される。何らかの枠が人間には必要だという見地に立てば、教会の枠がなくなればサタン的な枠に収まらざるを得ないことへの恐れからだろうか。ここ10年あまりの世界の流れ、それぞれの国の流れを観察しても、意識圏外から働いている霊的圧力はそれほど掘り下げなくとも容易に見えてくる。アベルとカインの闘い、父と母の闘い、父母と子女との闘い、その闘いだけに目を向ければ正反合としか映らないが、一致点を模索する闘いである以上正分合の方が正しい。正しい一致点を国と国民に知らせる為にも解散命令請求に対する闘いはレベルを上げて闘い続けなければならなかった。私達の中に御柱としての神霊が立っているのか不在なのか、明確なのは闘わない者達に神霊は共にない。
今日の想い 1364
もちろん政治との関係に重点を置かれたインタビューであったことはわかっている。元首相との関係、自民党候補者や他党候補者との関係を問われている訳で、そうなるとそういう話にしかならない。しかし敢えてそういう話に留めようとしているふしが伺えて私としては納得できない。記者がどこまで突っ込もうとしたかはわからないが、悪名高い文春の記者であればもっと掘り下げて関係性の裏にある事情を敢えて白日の下にする勢いが欲しかった。お行儀のよい記事に終始しているのはいただけない。ナントカ商法であるとか献金ノルマや高額献金、本部の反日姿勢など突っ込まれ、道義的責任からして説明に困る内容には触れられたくないだろう。しかしすでにマスメディアによって反社組織として拡散されている以上、さらに世間からも異質者を見る目でしか見られない以上、どんなに綺麗ごとに収めようとしても無理な話であって、敢えて開き直って国を想う故の行き過ぎた行動だったと釈明して許しを請い、その上で為政者よりも誰よりも国を憂い救国の想いを感情の猛るほどに伝えるべきだ。責任ある立場では無理があるなら、死にかけた一世信者でも言葉足りない二世信者でもいいから口を出せばいいと思うのだが、未だピラミッド組織で活動している以上出る杭として飛び出すことを上も皆も許さないだろう。そうなるとやはり外からの力が必要なわけで、組織が硬化してしまっていて身動きがとれないなら、どれほど理不尽であっても結局解散命令請求は飲まざるをえない方向に向かうだろうし、天の願いの流れからしてもそうなってしまうということだろう。ひょっとしたら教会トップも防御一辺倒だった立場から戦闘モードに入ったのかと教会の目覚めと復活の期待もしたが、全く的外れだった。
今日の想い 1363
文春にUPF会長のインタビュー記事が載った。一読して、彼も二世食口にありがちの優しさや人の好さが全面に出ていて戦いには不向きだなと、失礼にもほどがあるが読後の第一印象としてそんな感想を覚えた。記者も最後に記しているように、怒りよりなにより残念だと本人は述べている。残念、、? 残念っていったい何だ。おそらく政治家が良く使う表現として遺憾というのがあるがそれと同じなのだろうか。そうなると当たり障りのない言葉を述べただけであって、何もせずに受け入れるということだろう。教会長ではないにしても、全日本食口の代表位置にある者が二年の間を置いてインタビューに応える決意が「残念」を表明することだったのだろうか。全日本食口の誇りと人格を蔑ろにされた事件と経緯によって魂の死を宣告されたにも拘わらず、聞かれたままを受け応えるばかりで訴えることの何一つないインタビューは、少なくとも私は愕然とした。義憤の怒りをチラつかせる言葉のひとつでも聞きたかった。結局何もなく期待を込めて差し出した価格1200円が恨めしかった。弁当の一つでも買って腹を満たしたほうが良かった。統一の信仰はいつから闘わないことを是としたのだろうか。アベルカインも夫婦関係も、もちろん心と体も、ひとつになることが願いであって、しかし一つになること=闘わないこととはならない。きれいな信仰的言葉を並べて、言われたことや取り決められたことを守り通して、私は何の罪も犯しませんでしたと報告する、それが食口のあるべき姿勢だろうか。そんな人生を神は願って人間を創造したのだろうか。感情を制御できなくてあらぬ方向に飛び火するようだからやめておくけれども、日本食口の中に神の代弁者はいないようだ。統一食口が口を開かずに誰が神の悲しみや怒りを国や世界に叫ぶのだろうか。
2025年3月5日水曜日
今日の想い 1362
愛といえば人間関係ばかりに向かいがちだが、万物を愛するという意識を敢えて意識的に持たなければ万物主管はできない。生きていれば食べるだろうし、住むだろうし、そして着用する。どれ一つとっても当然のこと万物は関わってくる。動植物には情がいくとしても無機質の万物にどのように情を持って愛するのかと問われるが、愛さなければ何ものであってもその本質と関わることはできないし、それは愛の主管とは程遠い唯物的な関係性でしかない。アボジははっきりと地上の万物ですら天国に連れて行くと語られている。地上のヒエラルキーとしては人間界の下に動物界があり植物界があり、そして鉱物界がある。人間界が堕落して以来もっとも神が接近でき愛せる対象として鉱物界がある。だから鉱物界に関心を持ち愛して主管することはより神に近くなる。俗にいうなら自然の美しさや優しさ、更には尊さやら厳しさから神の一面を垣間見ることはできる。しかしそれらも表面的なものに過ぎなかったと思えるほどに本質は深いものがある。私達は稲妻の現象を自然の陰陽の情交だと教えられたけれども、原理的にそうだと知識として理解するに留まらず、内的霊的に本質を受け取れるほどに相対する情を私の中に育てなければならない。今アメリカを始めとして世界では通貨による信用崩壊と資産の大再配分が行われている。その背後には万物達の主管者達に対する怒りと恨みが結集され、大津波の如くのうねりとなって国に社会に個々人に襲い掛かっている。本質を知らない者達は安全な資産を求め躍起になり、或いは疑心暗鬼となってそれが逆手に取られてバブル資産を失う。万物が本来どれほど叡智に溢れているか、その鋭利な切れ味は静寂と狂気を併せ持っている。地上では万物故の地獄を見るはずだ。堕落した人間ですら愛のある所に集まるように、万物も同じで必ず関心を持ち情をそなえ愛する者に集まってくる。石ころの中にさえ、固く閉ざして語らないが叡智や心情としての本質が備わっている。愛によってすべては創造されたのであれば石ころの一つだってそうであり、愛に相対できる本質を備えている。父母様の子女である食口であるなら万物に対してもこの世と同じような唯物的扱いをして欲しくない。人間堕落の結果として講論に記されているように、被造物は実に切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。固く閉ざして語らない万物のままで放置しておいて、共に天国に連れていけるとは思えないし、万物を愛で主管できない自分自身も天国に行けるとは思えない。
2025年2月22日土曜日
今日の想い 1361
2025年2月11日火曜日
今日の想い 1360
トランプ政権、特にDOGEの采配は凄まじく、勧善懲悪の映画でも見ているような潔さは、その情報を受け取る者達の喝采と相まって目を見張るほどだ。提訴を恐れぬどころか死をも恐れないトランプの使命完遂への意志と、切れまくりのイーロンマスクの天才的知恵が一つとなって、アメリカ市民はおろか世界人類が現代の奇跡を目の当たりにしている。前政権頼みの、既得権益に与る者達の反撃が追い付かない程に、疾風の勢いで数々の采配という剣が振り下ろされる。外野に居てみれば、これほどの面白い世の中はまたとないと思っている多くの者達だが、果たしてここ数か月を超えて安寧のリビングで笑っていられるかどうかは極めて疑問だ。特に大波をまともに受ける位置で従っていた日本は、時間差を置いて影響をもろ受ける。先ずはUSAIDの指示のままに手足を動かしていた議員やマスメディアを皮切りに、それらに紐づいていた各省や官僚に及び、良くも悪くも日本は米国の51番目の事実上の州だというのがよくわかる。でもその立ち位置で日本国が発展し国民が幸せになるならいいのかも知れないがそう簡単な話ではないはずだ。果たしてトランプ政権の政策が摂理に適っているかどうか、DSの目論見を今でこそ否定する世論が多勢で広まっているけれども、或る意味世界を一つにするという世界政府への道筋を辿り、アボジだってDSベッタリのブッシュ政権を世界王にすると応援していた。トランプのMAGAはその言葉通りナショナリズムであり、神の願いである人類一家族と地球村へのベクトルを取る摂理とは異なっている。思うにアボジは徳川日本が先ず統一されたことで日本国の発展があったように、金融マフィアのDSであったとしても先ず世界政府に統一されることを重要視されたと思っていて、そうなるとトランプ政権のやっていることは、摂理から外れるというより遠回りしていて、その意味では摂理的には段階を落としていると言えなくもない。アメリカがこれほどに衰退したからにはトランプが現れて采配を振るわれて当然だというところだろうか。
今日の想い 1359
科学技術の発達と宗教の衰退はどうも関係があるようで、特に電気電灯の発明と発達が進めば進むほど宗教は廃れ、儀式の形だけが残って慣習化している。現代人は慣習化された宗教的儀式という形骸を宗教だと勘違いしているようだ。日本だと仏教やキリスト教の形は長く馴染んでいて受け入れるが、うちのような宗教儀式を見ると違和感が先に立ち、それ故に受け入れ難くカルトに括られてしまう。光による輪郭、要するに外面だけを意識するようになってその内面を見ようとはしなくなった。現代は光のない夜の生活など想像もできないほど人工光は生活に溢れていて、それ故に内面への意識は削がれている。性格的なものは内面と言えばそうだけれども、それは内面の表面といえばいいのか、霊的なまでに掘り下げる内面の深みへの意識を持ち合わせることとは異なっている。私は電灯が辛うじて施設されたようなド田舎に生まれたものだから、人工光のない夜を経験したし覚えている。月光に照らし出された山々の輪郭が手の届くように迫ってくる様や、植物たちの今にも踊り、語り掛けるほどに活き活きとした様を不思議に思ったものだ。また大きな焚火の中から昇り上がる何かが見えないけど見え、行灯の光で照らし出される蠢く影を見ているうちにふっと消えたりもした。そんな幼少の頃の体験は齢を重ねるうち無かったかのように消え失せたけれども、人工光のない夜にしか受け取れない感受できるものが必ずあって、もし三日三晩の暗闇が世界に訪れるなら、人類は忘れ去られた感性を再び思い出すはずだ。ノアの時代、飲酒が巷を席巻し、それまでに受け取っていた霊的感性が酒に酔って閉ざされていった時代から久しい。久しく続いていた昼の神様の統治から、想像だにしなかった夜の神様の概念をアボジは降ろされて、今、夜の神様の統治に変わりつつある。
2025年2月3日月曜日
今日の想い 1358
先ず論理によると父があっての母であり母があっての父、となると当然真の父が立つことで真の母が立ち真の母が立つことで真の父が立つ。と言うことは真の母が崩れれば真の父も崩れる、と言うことになる。敢えてここでは原罪のあるなしは問わないことにしておく。誰が堕落の本当の意味が何かを極め、堕落による原罪の本当の意味が何かに至ったかは甚だ疑問だからだ。朧げなイメージでしか捉えていない言葉を恰も本質を得ているかのように使って、あるとかないとかと言うのは馬鹿げている。また堕落人間という堕落の原因による結果存在が堕落の意味を問うて近づくことはできても本質に至ることはない、とも思っている。だから御母様が話される原罪ありなしも私自身どう捉えることもできない。ここまでが論理を通して紐解ける私の限界で、いろんな先輩方の話を聞いても感情の思い入れが含まれた言い分であったり、或いは摂理を進める為にはと言うような意的な食口の言い分であったりだがどれも私を納得させるには至らなかった。御母様を批判する食口は御母様に対して信仰を捧げる食口達を当然のように批判しているけれども、彼らがいることで御母様は真の母としての面子が保たれているし未だ崩れてはおられない。もし食口の誰もが御母様に対して手の平を返したら真の母は崩れ、真の母が崩れれば真の父の位相は御父様からはなくなる。だから私としては信仰を賭して御母様についていくと決意を見せる食口達には感謝以外の何ものもない。実際、まだ語られない多くの内実が御父様にあり御母様にもあるはずで、私が御父母様御聖婚の御写真を見た時の、似ている以上に親子のような顔立ちに暫く釘付けされたけれども、そんな寝言は棚に上げて置くとしても、どんな驚くような内実があるかは御父母様しかわからない。しかし明らかなことは、祝福によって戴いた私の分霊は明瞭に御父様と御母様から生まれた分霊だ。それは否定の仕様がなく御父母様が崩れれば当然真の私は霧散してしまう。
2025年2月2日日曜日
今日の想い 1357
日本はいたるところに公営ギャンブルも私営ギャンブルもあふれているカジノ国家なのに、わざわざIR整備でカジノ規制法なるものを作るというような不思議な国で、同じようにいたるところに風俗店もデリヘルもあふれている風俗国家でもある。先の記事で静かなる侵略としたが、労働不足にかこつけた事実上の移民も大いに問題ありだが、それ以上にインバウンドによる風俗遊びによって過去にないほどの性病感染、特に20代30代の若者の女性感染者が爆増しているという問題がある。医学の進歩により梅毒もかつてのような死に至る病ではないが、問題の本質は内的霊的に他国、特に中国によって事実上犯され続けているという現状がある。もちろん同族であれ異民族であれ性売買自体が問題だが、国家的視点で見れば他国に侵略され続けているのは紛れもない事実だ。以前は外国人はお断りというのが関係者間では当然だったものが、円が安くなり金持ちの外国人をあてにしないとなり立たない。爆買いがこと風俗にも押し寄せて日本ほどゆるゆるの先進国は他にないのでインベージョンしまくり状態だ。最貧国故に仕方なく売られていたものが、文化国家日本でありながらサービス商品として提供される。この違いの原因が八百万の神々という雑多信仰からきているのかは再考の余地はあるが、村社会ゆえに統制が効いていて恥ずかしいものとされていたものが、今では逆に村社会ゆえに皆がやっているという空気で罪意識はない。日本は内的霊的に侵略されている。裸のエバ日本は個人的レベルに降りてまでも裸のエバ状態となった。
今日の想い 1356
トランプは無事就任式を終え、4年間のトランプ政権が始まった。ひょっとしたらとは思ったけども、私の杞憂に終わって先ずは一安心だ。しかし前にも記したように、誰がなっても混乱必至の2025年になるだろう。バイデンハリス政権下では大荒れの舵取りが無理なのは明白だったが、しかしトランプ政権がどれほどの力量を発揮できて沈みゆくアメリカを浮上させることができるかは未知数だ。当然国民はかつてない不景気に晒されるが、どう納得させて耐えてもらうか、その信任を勝ち取れるかどうかにかかっている。今はまだ好き放題言える。ダボス会議では鼻息荒く立て続けに言いたいことを言っていた。100を数えるほどの大統領令にサインするようだがメディアを始めとしてアメリカ社会全体が変わらざるを得ないだろう。アメリカに追随してきた日本も当然変わらざるを得ないはずだ。フジテレビが問題になっているが、これはトランプ政権の影響というよりはメディアが余りにも好き放題してきたつけが今になって回ってきたということだろう。トランプ影響が出るのはこれからだ。MAGAのトランプ政権は今までのような日米関係が支配と従属関係にはならない。日本は日本でジャパンファーストの道を否応でも取ることになる。とにもかくにも第一案件は安全保障問題だ。これからアメリカ頼りにならないとなると、勿論今までも本当の意味で頼れるかどうかは疑問の或るところだったが、甘やかされ平和ボケした日本は先ずその国民の意識から変えていく必要がある。2025年問題として先ず経済問題、それから安全保障問題(食糧も含めた)、そして天災問題、更には移民とインバウンドも含めた静かなる侵略問題、この最後の問題だが内なる侵略は相当に進んでいるにも関わらず、メディアはおろか政府見解もダンマリを貫いている。
2025年2月1日土曜日
今日の想い 1355
2025年1月15日水曜日
今日の想い 1354
久しぶりのアメリカだしNYだし、ということで時間が取れる今だと思って周囲を散策してみた。外気は0度で数日前のマイナス6度とか7度よりは遥かにましだ。それでも開き扉を開けると一気に寒風が身を包んで身構えさせる。この辺りは結構店も並んでいて、マンハッタンと同じような、しかし縮小されている碁盤の目になっていて、その大通りには人通りも多い。いろんな人種がいて体形も恰好も様々で、私のような小太りで服装だって随分貧弱だが全く目立たない。日本ではすれ違う人がどう思っているのか心配して顔を落とし気味に歩いているが、こっちは一向に気にならない。視線が合っても軽く笑顔でやり過ごせる。しかし歩いてみると私がこの辺りを行き来した80年代は倉庫街でもあって、マンハッタンの高い家賃が払えない人々が住んでいるような街で、気の利いたレストランどころか何もなかったが、今は建物自体は変わってないにしても軒並み様々な店が入っている。コーヒーショップに立ち寄って一杯注文してみた。10ドルも取られたから随分高いなとは思ったがインフレのせいだと気にしなかった。しかしピックアップ場所に行ってみたら同じものが二つある。聞いてみると確かに二つ注文したと言い張るので、これ以上英語では応戦できないと思い折れて二つ手にした。アメリカで30年過ごそうが40年過ごそうがこの程度かと、自分への憤りと共に二杯を立て続けに腹に収めて早々に店を後にした。先日息子と孫とでマンハッタンにあるスクールまで行って、孫の午前中のスケジュールが終わるまでその辺で時間を潰したが、最後にラーメン店で早い昼食を取った。一杯が21ドルだったからタックス入れると円換算だと?と言うと、そんな計算してたら何も食べられないし生活できないと一蹴された。アメリカは物価が高い。マンハッタンは更に高い。でもアメリカはそれなりに賃金は高いしインフレに合わせて増えてるはずだから日本の物価高の感覚とは明らかに違う。日本の物価高はこたえる。デフレ期間が長すぎたために更にこたえる。少ない年金はドルでもらってるから何とか今暮らしていけるが、信用が落ちたドルが急落して円高になるとどこを切り詰めようかと、アメリカにいるのに日本での生活を気にしている時点で、この年になっても小さい自分だなとため息をついた。散策したとは言い難い、速足で2,3ブロックを回った感想を述べると、寒いせいもあるのかも知れないが明るい顔は見られなかった。新年だし快晴にもかかわらず人々の顔色は暗い。
2025年1月14日火曜日
今日の想い 1353
私は神の存在を否定しない。創造主としての神を否定するなら全ての存在を否定せざるを得ないし、神がいるのかいないのか思考する私自身すら否定せざるを得ない。しかし存在より私とどういう関係性があるのかが大切なのであって、それによっては神はいると信じていても事実上存在しない態度と言える場合がある。原理を受け止め信仰をもったとしても、即それで神が実感できるわけではない。それはちょうど新生児の子供が成長しながら親との関係性を築いていくように、内的な愛の神との関係性を築いていって親なる神様といえるようになる。もし産んだだけの親であるなら子はこういうはずだ。私は親の存在を否定しない。しかし関係性はないし親と認めない。3歳になる孫娘は何でも聞いてくれていた親が産まれたばかりの次女に突然持っていかれ、今までの親を失ったかのような減少感で機嫌をそこねる。赤ちゃん返りのように甘え言葉でまとい付き、それでも相手してくれないと駄々をごね大泣きする。親としては娘の為と言い聞かせるけれども,それに応えて直ぐにでも成長してくれるわけではない。この新しい環境圏を受け入れる受容にはそれなりの期間がかかるだろう。信仰歴の年月を経ながらステージ毎に与えられた事情圏で成長しながら次第に親なる神として認識するのであって、それは一生かかるのか、はたまた地上生を何度も繰り返すのか、それぞれだろう。神の存在を認めるから神との関係性が築かれるのではなく、愛をどれほど育んだかで神との関係性は築かれる。神様は私が愛を育む七転八倒の中で神様ももがきながら共に生きておられる。そうは思うけれども、それが神様なのかそれとも私を導く霊なのかと問われればまだ答えられない。すくなくとも私の良心が立つ意味はそれなりのステージを隔てて、良心を中心とし良心とのやり取りで神様の願いが何なのかは理解できる。しかし神様と一問一答できるほどに私は結実しているとは到底言えない。直接的関係性を未だ築いていない私と神様の共通感情は、楽しいでも苦しいでもなく寂しいであって、もっとも神様を感じるとすれば寂しさを味わう時だ。
2025年1月13日月曜日
今日の想い 1352
諸事情があってNYにいる。今季最大の寒気なのだろうか外は冷凍庫状態だ。その上に強風が吹きまくっていて顔面を冷気で直撃されれば感覚は麻痺して外になど出られたものではない。NYの仮の宿は大人から子供から皆が咳込んでいて、必要もない潜伏期間調査を生身で受けているようなものだ。インフルエンザワクチンを打ってはいるが、果たして功をなすかどうか。息子夫婦はブルックリンブリッジを渡ったクイーンズ地区に住んでいて、第二子が生まれるというのでその予定日に合わせて渡米スケジュールを取った。が、案の定二回目のお産は予定日より早くて出産には間に合わなかった。最初の子を見る必要があるということで行ったのだが、間に合わず、後は男手で何ができるでもないから早々に孫の顔でも見て帰ろうと思った。でも着いてみると息子は咳が昂じて肺炎で苦しみ、嫁はお産前の気管支炎に加え腰骨が軋むとか言って子を抱けるどころか歩くのもやっとで、上の子はこれまた咳がひどくママがベイビーにばかり手をかけるものだから振り向かせようと駄々をこね大泣きしている。そんな状況で、もう帰るからとは言えなかった。ここに居たら間違いなく風邪なのか何なのかうつされる。感染したまま帰国もできないがそんな心配は後回しにせざるを得なかった。ひたすら回復を祈り、時が過ぎれば何とかなると言い聞かせながら男手でもできることをやっている。オムツの変えやミルクやり、上の子の遊び相手にゴミ出しや飯の準備といった家事全般。一週間が過ぎて確かに平静を取り戻しつつあるかといえば微妙だが、それでも新しい孫を抱いて歓ぶ余裕もでてきた。孫は理屈なしにかわいい。かわいいからなのか何なのか抱いていると訳のわからない涙が溢れてきて、心を洗い流せるようなこの感覚を覚えただけでも来て良かったと思えた。息子は小さいころ大病を患って、普通の食事もままならなかったのでそれ以来偏食せざるを得なかった。そんな理由もあって決して丈夫な方ではない。でも子供が力の源であって子供の為を思えばがんばれる。敢えて本人から聞かずともそのことだけは感じられて、親としてはそれで大満足だし何があっても問題ないだろうと思えた。
2025年1月1日水曜日
今日の想い 1351
騙される者はどこまでも騙され続ける。騙されていると本人が認識するまで騙される。騙す当人からすれば、騙さなければ他の誰かが現れて騙すのであって、どうせ騙されるならちゃんと金の使い道を知っている私が集めて当然だ。アボジがそう思っていたかどうかは別として、もし教会に騙されたと思っているのなら、教会を恨むのはお門違いで騙されやすい自分自身を先ず恨むべきだろう。アボジは日本食口が生活が破綻するまで献金し続けるとは思ってもいなかったかもしれないし、家庭問題が出て家計が破綻するほどに出金を主管できないとはどういうことか、という具合に頸を傾げたかもしれない。同じ成約の信仰を持っていても貧しい者もいれば一財産築く者だっている。財産を築く者は当然騙されることなどない。元ある財産収入を端から献金すれば当然貧しくなるのであって、それだけならまだしも国や地方のお世話になる者もいる。貧しくなって恨みを抱き、国や地方のお世話になって誇りを失う。日本食口の多くはそこまでは落ち込まないにしても、現実として生活苦に喘いでいる者は多い。でもそうやってお金の苦労をして初めてお金の意味や有難さを知るのであり、万物主管の本質さえ理解すればお金は集まり一財産築くのに数年もかからない。多くの食口は教会に来なかったとしても騙されたか財産とは縁遠い者が多いはずだ。日本に目を向けると、国民は何もない食べるものすらない位置に堕とされて万物の有難さを知った。それ故に働きに働いてGDP世界一に追い付くまでのし上がった。しかし生まれながらにして飽食でありモノが溢れていると万物の有難さは学ばない。お金の価値、万物の価値がわからなければ当然のこと稼ぐために心魂を注ごうとは思わない。この論理からするなら二世は生まれながらにして貧しく、少なくとも普通の日本の若者よりはお金の価値を理解している。一世は貧乏を受け入れても二世は求める故にしっかり稼ぐし、思い込みで全て献金することもしないはずだ。そんな二世は世界に羽ばたくべきだ。これから日本は確実に右肩下がりの貧しい国になるのであり、貧しい国ではビジネスも難しいし財産構築も難しい。世界的通貨バブルが弾ける2025年、日本はどう舵を取るのだろうか。そして二世達はどう生き延びるのだろうか。混沌と波乱の中でこそ真の霊を戴いた者は水を得た魚になる。
年跨ぎの想い 2024~2025(2)
過ぎてみれば全ては愛であった。アボジは有難くも私達にこの言葉を残してくださった。苦労の歩みが苦労した恨みとして残るのではなく、苦労は愛に昇華される。祝福として新しい霊を戴いた私達は先天を超えて後天時代を迎えている今、死を超えてやっと苦労が昇華されるのでもなく、長い時間を経て苦労の意味がやっとわかるというのでもなく、新しい霊の自分が立つようになれば瞬時にその意味が解り昇華される、そんな時代が後天開闢時代だ。私達はどんな苦労も昇華させることができる。勿論苦しいのは苦しいし、悲しいのは当然悲しい。地上で生きるとはそういうことだが、その意味を教えられ愛に昇華させることができるのが祝福家庭だ。甘受するという言葉を私達は持っている。私に起こる嫌う事柄を受け取って内面に起こりうる様々な感情を甘受する。兎に角先ず甘受する。この甘受するという感性を学ばなければとても愛に昇華させることなどできない。魂の苦い食材を味わいながらでしか新しい私は堕落の私の陰に隠れたままで形を現すこともないし成長させることもできない。それでは今までの苦労は流されて終わりなのかというと、霊に時間は関係ない。昔の苦労の昇華は今でもできるしできないとするならどうせ霊界に行くのだし全ての苦労はその時清算され、愛すなわち霊界では霊の環境圏や財産として天に宝を積みあげる。だから今の苦労は今しっかりしなければならない。私達は天の加護の中にあるから時が来れば明らかにされ報われると楽天的に構えている場合ではない。迫害の中にあるなら迫害されて受ける苦労や恨みや怒り悲しみの感情をしっかり受けるべきだし、他人事のように能天気に微笑んでいてそれが天の願いだと思っているなら大間違いだ。成約の信仰は激しい喜怒哀楽であり、地上の安らぎからは最も遠いのが本物の信仰だ。