2019年12月28日土曜日

今日の想い 1049

少なからず尊敬していた諸先生、諸先輩が反旗を立てると、食口達は途端に彼等は霊的におかしくなったとかサタンに奪われたとか当然のように断罪して不信仰の烙印を押してしまう。上の意見に同調することを当然としている。そうはいっても彼らは疑問のいくらかはよぎるのだろうか。御母様の元に留まるのは正しいとしても、だからといって出ていった先生方をサタン視するのは間違っている。信仰歴も信仰も、み言葉に精通しているのも、当然自分よりも素晴らしいのは確かであり、ましてや御父母様の間近で侍ってこられた方々だ。どうして全てに勝っている方々が反旗を立てるに至ったかを尋ねることはないのだろうか。私が天に尋ねた限りでは、既に先天時代の慣れ親しんだ観では相対できない時代圏になってしまったという結論が降りてくる。願われる信仰の在り方も先天と後天とは大きく異なる。天地創造の史実を聖書にみるように、全く新しい時代であり、ということは新しい天宙ということであり、混沌の中に光を放たれて創造が為されたように、環境創造は真の家庭を含めた統一食口達の混沌と、それを投射するような地球と世界のあらゆる混沌の中に真の愛が放たれて新しい天宙、後天開闢時代が出発する。しかし創造は自由意志あってこその創造だ。教条的で受動的で指示待ち族に留まる限りは創造とは無縁の存在だ。かの国で飼い慣らされた民からは革命は起こらないように、先天信仰にどっぷり浸かり、裁きを恐れて罪の許しを請うばかりで、どうしてそこに新しい時代の息吹が感じられるだろうか。ある意味、私達誰もが反旗を立てた諸先生、諸先輩に続くべきであり、先ず本心の声を発する意志を発動させて口を開くことだ。言いたいことも憚れるような組織で一体何の自由がもたらされるのだろうか。良心が解放されなければ自由の精神は立たない。

2019年12月26日木曜日

日本でのクリスマス

今年のクリスマスは日本で迎えることになった。最近はアメリカのクリスマスも随分商業的になってクリスマス当日も開いている店も多く、どちらで過ごしても同じようなものだが、日本でメリークリスマスと挨拶するような習慣はないのでその点は向こうのほうが雰囲気はあるだろうか。このクリスマスの雰囲気はキリスト教波及の最も大きな役割を果たした立役者だろう。イメージ(知)と雰囲気(感情)が相働いて(授受作用によって)キリスト教文化圏を今日まで広げてきた。私達には原理という論理はあるけれども、それは科学的ではあるが知としてイメージできるほどに駆り立て、万人が受け入れるという雰囲気が欠如している。原理の生活化とよく言われたものだが、それは教条的なものを言っていることは確かで、そうなると普通の人が心を開く雰囲気とは異なって益々受け入れがたいものとなる。御父様が言われた平準化の意味を知って、生活化に真の愛の雰囲気が漂うという行動に移すようになるまで、私達の群れは偏見から逃れられないだろう。今日はクリスマスだけれども親戚の葬儀があって参席してきた。多くは大人だから私のことを知ってはいても敢えてそのことに触れはしない。しかし親戚の中には昔からの幼馴染もいて根掘り葉掘り聞いてくる者もある。私は一通り棘のある相手の質問を聞いた後、先ず既に卒業したことを敢えて述べる。そうしないと話はいつまでも噛み合わないし当然心も開かない。相手の懐に入らない限り伝道も氏族復帰も絵空事だと私は信じている。だから今日も誰よりも頭を低くし、浄土真宗本願寺派の慣習にしっかり従い、念仏もしっかり唱え、そうすると安心して誰も私に対して構えることはなくなる。本当の氏族復帰戦略はそこからだ。念仏を唱えながら、それでも私はただ雰囲気に酔っていたこれまでのクリスマスとは異なり、一人の霊魂を霊界に送る祈りを捧げ、クリスマス以上のクリスマスを今日は過ごしたと思った。

2019年12月21日土曜日

仏作って魂入れず

食口は信仰と愛ゆえに他の兄弟と繋がり中心者と繋がり、そして御父母様に神様に繋がっていると思い込んでいるが、一歩外から眺めると抜け出せないヤクザと同等に思われている。祝福儀式である聖酒式そのものが親分の息のかかった女性を宛がわれて契りを交わすというヤクザそのものだ。しかし我々がヤクザと変わりないと言えばヤクザはいい顔をしないだろう。本来のヤクザは義兄弟の血を意識し流す血を目にもして、血の繋がりを全体生命としてその血縁の中でこそ自分は存在していると認識しているが、私達がどれほど心情に根差した血統血縁関係を食口間に見るかは疑わしい。私達の真の父母を頂点とする血統圏は霊的なものであるから、感情を超えて心情にまで至らないとその結びつきは教条的なものだけで済ましてしまう。本当の統一食口なら心情で繋がっていることを自覚すべきであり、背後に心情が溢れ流れていなければ活動も目標も結果も、そして御父母様も神様さえも意味がない。本当はヤクザ以上に濃い魂の関係性を持つ群れであるのに、御父母様に魂を預けてきたはずが、実は負われてすがることに終始し魂を捨ててしまったので返して戴く魂はなく、後天時代は良心革命でそれぞれの良心(神)に従うべきなのにそれが為せずに教条的な外的信仰様相に留まるしかない。そうなると信仰と愛で繫がっているのではなく教条的な決まり事で繋がり教会という枷をはめられて抜け出せないだけだ。仏作って魂入れずの言葉の如く、信仰だ愛だといいながら自分も人生も、魂も霊もないもぬけの殻だったことに気付くとなると悲劇であり、あの世に行ってすら、いとも簡単に受けた祝福を恨みにすら思うだろう。

感情について

喜怒哀楽の感情を通して霊達は存在を現す、と以前にも記したことがある。先回のミーティングで自分の思うところを正直に述べると、ある食口は怒りを露わにした。彼の怒りの正体は一体何だろうかと語気の強い言葉を黙って聞きながら内面に尋ねてみた。実は反発を買うのは今回が初めてではない。今年初めのミーティングでも他の食口から、皆の面前で私はサタンだと言われた。口に出した本人はその決め付けを当然だと思っているらしい。私はそれを黙って聞いていた。悲しくは思ったが怒りを覚えはしなかった。全くなかったといえば嘘になるが、悲しいという別の感情の方が強く湧いていた。今回も悲しく孤独な自分を味わった。ただ、たとえ食口であっても本音をそのままぶつけるべきではなく、建前で対する必要もあることは学んだ。人は普通怒りをもって対されると怒りでもって返そうとする。怒りの霊が怒りの霊を呼び起こしている。私自身も反発感情が込み上げないことはないが、別の感情で対処すべきだということは長い信仰生活で学んでいる。それが後天時代に於いても正しいかどうかは疑問がある。怒りという感情それ自体が罪とは思わないが、怒りに対してどこまでも怒りで対処するのは罪だ。感情の爆発を誘発させる、所謂罪の繁殖だ。私には私の良心(神)がいくらかは働いていて、感情に翻弄され感情そのものに主管されないようリードを取ってくれている。しかし価値の創造を為さんとする者は感情豊かな存在であるべきというのもあって、素晴らしい作品を残した多くの芸術家達はその破天荒な性格や感情の起伏の激しさを指摘されていて感情という魂の活動が価値創造と関係していることがわかる。核分裂も電子力発電のようにコントロールされているとその価値を正しく主管され用いられるように、感情も起こさないというコントロールではなく感情作用をどう主管して用いるかで価値創造を発揮する。食口は抑え抑えていた感情の枷を先ず外すことが必要だ。その意味では私が悪者になるとしても皆の感情を引き出せたことは意味があると自負している。

2019年12月10日火曜日

今日の想い 1048

食口は最も孤独な時代(期間)を今戦っている。真の愛に生きることの定義が与えて忘れることであるなら、御父母様であれ神様であれ隣の心優しい兄弟姉妹であっても、誰からも愛を期待する立場にはない。そのように御父母様からも神様からも無視された立場で、それでも私自身が愛の発信者となって真の愛に生きる生活を為すことを願われている。食口達もあてにはならない。ここぞという時に冷たい存在だと思っていた方が躓かずにすむ。40日清平修練会で動悸が急に激しくなり、それが一晩中続いて息もからがら死ぬ思いをしたことは前に記したが、ある兄弟ひとりを除いて、私の激しい呼吸にうるさいと声を荒げる者はいても心配してくれる兄弟は他誰もいなかった。つくづく兄弟姉妹とは名ばかりで冷たいロボットのように思えたものだ。しかしそれも当然といえばいえる。愛の人格者になることが清平へ来る目的ではなく、それぞれが思い込んでいる救い(御利益)を得る為に清平に来ているからだ。自分だってそうだ。単純に修行が苦しいというのももちろんあるが、先祖解怨に愛の人格は要求されずひたすら修行して内面の罪らしきものを暴くことが救いの為の条件だ。しかし清平に限らず食口が目指すものはノルマの達成であったり指示された事柄に専念することであって、それが真の愛の人格とどういう関係にあるのかよく考える必要がある。個人の事情、教会の事情がどうあれ、それでも新しい時代は開いてしまった。新しい時代は愛溢れる世界だと先天意識で期待していたが、じつは新しい時代は真の愛が要求される時代だ。愛を受ける受け身の時代ではなく、愛溢れる世界にするために惜しみない愛を差し出さざるを得ないという能動的主体的時代だ。

2019年12月7日土曜日

今日の想い 1047

言葉の中に神様がおられる。言葉の鞘を取るとその本質が神様だ。人間は言葉を使いながら言葉の本質を探し求めている。御父様が語られたみ言葉は神様の新しい鞘であり形状だ。私達は新しいみ言葉を受け取り、何度も何度も内面で噛み砕きながら神様を求めてきた。私達がみ言葉を通して求めてきた神様も、この世の人達が言葉を通して求めている本質も、実は同じだ。み言葉は受け取ったけれどもより本質を求め神様の願いに適った歩みをしているのは決してみ言葉を受け取った私達ではない。言葉は全ての人間が使っている。言葉を使いながら内外の活動をしている。み言葉を知っているという選民意識は後天時代では通用しない。言葉の本質を探し求めてもいなかった者が、み言葉を知っているというだけでどうして神様に近い存在だと言えるのか。この世の荒波に揉まれながらありとあらゆる問いの言葉の本質を求めてきた、その積み重ねが人類の内外の宝となっている。いきなり独善的にもみ言葉という鞘を直接語り伝えようとしたところで、どこの誰が内面に落とし込めるのか。私達はみ言葉の理解どころか、言葉の理解すら曖昧であり人間社会に対して素っ頓狂だ。先ずは普通の人々に普通の言葉で授受しながら彼等が掘り進めてきた本質の価値を共有するところから始めることだ。人間関係を深めるのは言葉を通じてしかない。私達は神様を伝えるのではなく、言葉によって深められた人間関係から神様を見出すのであり、相手の只中に神様を発見して気付いていない相手に伝えることだ。み言葉は言葉を底上げし言葉に寄り添ってこそその価値を発揮するはずだ。いともたやすく愛という言葉を使ってきたけれども、愛の重みをより味わっているのは果たして私達だろうか。犠牲がひとつの愛の形だが本当の尊い犠牲はそれすら知らずに受け取る彼等の身悶えであり、それを通過した者は等しく神様を内在させた顔を見せている。私達は摂理を担ってはきたけれども、本当に苦労してきたのか犠牲を払ってきたのか良心に問うてみるべきだ。私達が神様が認めるアベルであるなら、守られもせずあらゆる苦労を担ってきたカインであるこの世の人達に感謝すべきであり、また謙虚に教えを乞うべきだ。食口の多くは未だに独善的すぎる。

2019年11月12日火曜日

今日の想い 1046

店がまだ食口の従業員で占められていた時は、本部を頂点とするピラミッド体制はそれなりに稼働していた。マネージャーは本部の指示だからという一言を従業員に伝えれば、食口である以上はその通りに動こうとする。しかし従業員が一般の人々に占められるとなるともはや葵の御紋は功を為さない。マネージャーは相反する上と下のサンドイッチとなり神経を擦り減らす。上に従えば店は崩壊するし店を維持するために下の要望に応えようとすれば本部から距離を置く羽目になる。事実それなりに距離を置いて経営しているのだが、自分は本部の願い、すなわち御父母様の願いに応えていると我知らず自分も他人も誤魔化している。時代は既に一マネージャーとしてだけ居続けることを願っていない。もはや指示待ちのマネージャーではなく、店のみならず摂理として責任を負い自らの意志を差し出すオーナーとならなければ進むものも進まない。オーナー意識でこそ御父様がいわれる主人精神であり、どうするのかは誰かが指示を与えてくれるのではなく自分の問題であり自分が答えをだすべきだ。皆で決めて皆で頑張ろう、なんていうのは欺瞞であり本当のところは自分以外の誰かがやってくれるという責任逃れであり、決めるにしても責任の重さを受け取りはしないし、失敗しても痛みを覚える訳でもない。相変わらずお花畑でみ旨ごっこをしている御目出度い群でしかない。その自分の姿を俯瞰でみれないことが悲劇であり、幼稚な私達に対する御父母様の落胆であり、次世代が一世についてこない最大の理由だ。

2019年11月2日土曜日

本祭り

沸かし直したお茶を啜り、見るでもない番組に母と目を遣りながら、時間の経つのを暫く待っていたが、11時を回ったのを確認しながら腰を上げた。結構なテレビの音量にもかかわらず座椅子から炬燵の中程まで腰を滑らし、だらしなく口を開けて寝ている父を揺すって促すと、隣の部屋で仮眠している妻にも声をかけた。本祭りに田舎に帰ったのは何年ぶりだろう。放っておけばそのまま朝まで寝てしまうだろう二人に声をかけて、予定していたように村にひとつの神社まで神楽を見に行った。目と鼻の先にある神社だが滅多に足を運ぶことはない。子供の頃は、境内への真っ直ぐな道なりに何本も高い幟がはためいていて、歩きながら一つ二つと見上げる毎に祭りの高揚感は増していったものだ。花代の寄進にだけ足を運ぼうとしていた父は、初めて神楽を目にする嫁に付き添う格好となり、結局演舞見学を二つ三つ付き合ってくれた。奉納殿に入ったときはまだ四神を舞っていて客はちらほらだったが、次の八幡の題目が始まるころには周囲は一通り埋まっていた。人気のない寒村の社に一体どこから集まったのだろうか。舞子が器用に回転する毎にナフタリン臭い煽り風が頬をなでる。子供の頃舞を見ながら味わったその時の感情が一気に蘇る。古い破れ幕が降ろされ煙幕筒が焚かれた。煙と火薬の刺激臭が奉納殿に広がると囃子の調子は一気に加速し、それを合図に幕の背後から銀糸金糸の衣装袖を広げた鬼が現れる。幕を挟んだ鬼と成敗者との駆け引きがこの題目の見せ場だ。大太鼓と小太鼓の八拍子バチを腹に響かせながら、妻は食い入るように初めて目にする舞いに見入っていた。この田舎の精霊は遠い昔と変わらずこの地に宿り、今年も奉納舞に誘われて、舞う者と見る者達の高揚感にその影を現している。

2019年10月26日土曜日

価値創造

人類は新しい価値を求めてきた。人類は表面的には人間願望への不足に応じる物や技術の発明に精を出してきたけれども、本質的には価値そのものの創造をしてきた。新しい価値を見出す創造性を働かせることが神の創造性に通じるのであり、それを止めてしまえば創造神の子女であることを捨てることでもあり創造神の存在証明を諦めることでもある。歴史は価値創造探求の歴史として、その恩恵の上に現代社会は成り立っている。これまでの近代歴史は科学的価値観の上でのみ探求してきたように思えるが、原因的世界という霊的知を探求してきたから科学的価値観も登場したのであり、価値が価値として認められているのであり、霊界に通じる宗教観の定着なしに科学原理は見いだせなかった。その意味では現代科学はキリスト教の申し子だといえる。よって真の愛の探求でもある霊的知の探究による原因的価値創造は、宗教の入り口である信仰を通過し霊的世界の認識を得た者達によって肉体感覚における認識に新しい世界を切り開く。地上の出来事だけに対していた者と、原因世界である霊界の認識を得て把握主管し内的霊的創造に関与している者とは全く異なる世界観を持っているし、全く異なる世界を見ている。御父母様が切り開いた世界は霊的高みである神霊界の創造的革命であって、地上の堕落社会に応用された妥協の産物としての人格や道徳心を善悪基準にして判断すること自体間違っている。語られたみ言葉は数次元に亘る広漠たる霊界の羅針盤ともいえ、み言葉をして初めて意識的に霊界に参入することを可能にした。霊界参入の恐ろしさや難しさを少しでも知っている宗教者でこそ御父母様の偉大さを理解する。霊連性教会と言われるように、地上界に居ながらにして霊界参入による霊的事実を把握認識できなければ、これからの世界を把握し摂理的に牽引できる価値創造を果たしていくことはできない。

2019年10月17日木曜日

御父様は何を願われましたか?

「御父様は何を願われましたか?」。レストラン会議でマネージャー達はラスベガスに集まっていて、それを耳にされた御母様が皆に来るように声をかけてくださった。お話しされた後アメリカの大陸会長を含めて4人、代表者を集められて御母様はミーティングをもたれた。その時に尋ねられたのが「御父様は何を皆さんに願われましたか?」という質問だった。おそらく責任者は、御父様から願われた内容をしっかりとやるようにという含みを持たせた質問だったと捉えたはずだ。しかし私が思うに、御母様はただ御父様が支持されたことを確認したかっただけであり、本当は御母様の願いを汲んた返事を期待していたのではないか、ということだ。しかし責任者は御父様の指示を羅列しその目標通り頑張りますと口にしたので、それ以上の言葉はなかった。その当時、いくらにも手を広げられた御父様の事業の多くを御母様は処分されていた。そして、例えば国家復帰などの主要摂理に集中された。御父様が私達に願われた海洋摂理も実に膨大で、オーシャンチャーチから漁労から流通、小売り、レストラン、ボート制作、更に養殖など、海洋資源に関わる全てに手を広げ願われていた。それをそのまま引き継ぐのではなく、御母様の中心摂理に合わせて、例えば資金が出せる事業に集中させる等のように御母様の願い中心の発言を願われたに違いない。その辺りの意識のズレが後々まで尾を引くのであり、責任者もマネージャー達も御母様、御母様とはいうけれど、御父様の指示と願いをそのまま御母様の願いとしてしまっている。信じているのではなく御父母様一体を言い訳にしてそうしている。はっきり言ってそれは御母様の願いに応えるのとは違う。おそらく御母様は御父様の亡霊を私達に見たはずだ。亡霊は生きた生身の御父様ではない。御父様というイメージを持った我々の凝り固まった観念だ。一世達の多くに接して、御母様は御父様のイメージを装った亡霊に支配されている一世達はもはや使えないと思われたはずだ。よって二世中心の摂理へと舵を切られるわけだが、調子よく合わせはしても踏ん張りの足りない二世達にも限界を感じておられる。献身して身一つで決意して集まった最強集団の統一の群れは、今や二世教育をも失敗した只の爺婆の群れ、社会適用の苦手な甘えん坊の群れになってはいないか。北朝鮮のような団体演技だけ練習して、御母様は本当に喜ばれているのだろうか。人間はそう簡単には変わらない。先天時代の信仰の在り様から思考、意識、歩み、そして人格や実績まで、しっかりと総括して後天時代を出発しなければ、観念という亡霊にさいなまされ、いつまでも地に足を付けられない夢遊病者と同じだ。

2019年10月15日火曜日

今日の想い 1045

昼の私は意識圏の私、夜の私は無意識圏の私ということができるが、覚めている意識圏内に於いても演じる昼の部分の私と隠れている夜の部分の私が存在している。夫婦ともなれば隠している夜の部分も曝け出さざるを得ないのであり、その意味で相対者は私を最も知る存在で霊界生活にも深く関わり合うことになる。人間は昼の顔が全てではない。昼の顔はごく私の一部分でしかなく、隠れている闇の部分の私を知って主管して昼の私にどう関わりを持たせるかが大切だ。隠れている欲望を悪と捉えてしまう食口は多いのだが動的にしろ静的にしろあらゆる欲望の坩堝が夜の部分の私でもある。欲と意志とは裏と表であり欲望の強い人間は意志を働かせ結果もついてくる。どれほど氏族復帰だ伝道だと自分を向かわせようとしても夜の部分の私、すなわち自分の欲の部分と相談して意志を働かせるよう納得させなければ向かうことはない。食口の中でも伝道に入り込める人はもともと飛んでる人、この世的欲にあまり関心のない人が多いが、そういう食口だけが光を充てられ神様から愛され用いられていると思われがちだが、ごく普通人が如何に夜の部分の私を主管して願いに応えていく自分になるか、それでこそ祝福の地上化を為して神様の願いに応えることができる。御母様があの御父様に、要するに夜の神様の地上摂理を担われた御父様に妻として人生の大半を投入された辛苦は本人しかわからない。普通人なら気が狂って当然だろう。それだけでも何をされようが何を語られようが尊敬に値するのだが、御父様に情を向けていた多くの一世にとっては御母様の産道を通過するには時間が必要だろう。その点二世や三世は一瞬で御母様に情が向かう。私を含めて一世の多くは独善的だった。また御父様に付き従うにはそうならざるを得なかった。それが当然だった。しかし実体化すべき地上摂理は夜の神様から昼の神様にバトンタッチする必要が生じた。御父様の聖和、そして御母様の妻の位置から神様の一人娘への位相昇格は、夜の神様のブループリントから昼の神様の天地創造へと移されたのと同じ変革であって、この背後の神霊の動きこそが御母様が独生女であることを認証し御母様に印を押された。御子女様に限らず分派は御父様の数ある意志のうちの幾つかを背負ってはいるが、天が御母様を認可された以上それらは今亡霊に過ぎない。セントレアの大会会場の通り道で叫んでいた者達によって食口達の御母様信仰はより強固になるように、何らかの形で御母様を盛り上げることになるはずだ。先天信仰から後天信仰へ。闇雲にみ言葉を伝え祝福を与えようとするのは夜の部分の私、先天の私だが、氏族復帰への具体的な道筋を昼の部分の私、後天の私は必ず見いだせるはずだ。

2019年10月10日木曜日

今日の想い 1044

教会は建前上は御父母様の一体圏を基盤に御母様を捉えている。しかし御母様は独生女、一人娘と宣言されるように明らかに御父様の影は否定しておられる。今回のスピーチの中にも一人息子イエス様という言葉はたくさんあっても御父様という言葉は一言も(?)なかった。御父様が聖和されてから今まで、御父様のみ言葉から指示事項から宣言宣布や大会も、残された全てを御母様によって上書きされようとしている。今回の大会も4万人という数字が最も重要で、おそらく4万人大会で御父様の功績を上書きされたことが御母様にとって、そして御母様を中心とする摂理にとって重要だったはずだ。日本の食口は頭が誰かが重要ではなく、従う頭があるかないかが重要で、その意味では御母様がその権威を立てられれば立てられるほど日本食口としては従いやすい。もし存在されない御父様の権威をどれほど御母様が強調されるとしても、おそらくはそれだけでは日本食口は摂理からずれて流されてしまっただろうし、御父様と共に歩んできた一世達はどんどん霊界に送られて御父様を知らない世代が日増しに増えているという現状もある。そう思うと御母様の言動や行動は的を得ていたし、それがもし摂理を進める為の戦略だとしたら歴史的策士としての御母様は見上げるばかりだ。分派がどれほど声を上げようが、一握りの一世達が先天信仰との矛盾を口にしようが、次世代に焦点を当てている御母様の方が一枚も二枚も上手だということだ。御母様は明らかに昼の神様の位相に立たれ、そうなると夜の神様も嫌でも援護せざるを得ない。これからは益々討って出られるはずで、光輝く2020年が今回の大会で垣間見えた。議員のよいしょの言葉やギングリッチが壇上に上がったのも、また帰った後に報告が届いたが参席した不動明王のある教主の証は、食口達の御母様信仰をバックアップするに十分役立つはずだ。さて来年はいよいよ頂上決戦の2020年だ。ヤンキースタジアム大会が予定され、もし成功すれば世界的に上書きされて御母様による後天開闢時代が開かれる。私としては海洋摂理の一端を担いながら、しかし御母様がどれほど海洋摂理に対して意識を持っておられるのか疑問だったけれども、あらゆる事に広く手を付けられた御父様とは異なり、真の父母として最も為すべきことに集中的に意志を働かせておられることがわかった。そうなると私や海洋摂理を担って歩んできた者達は、御題目を取り敢えず横に置いておいて、御母様を支える為に今もっとも為すべきことは何かを問うて、そこに集中的に意志を働かせる必要がある。

今日の想い 1043

朝早くに家を出て先ずローカル線で西に向かった。一旦西に向かいそれから東に走るのぞみに飛び乗った。名古屋に着くと混雑する名鉄に乗り換え、会場に着いたのは10時半頃だったか、、。会場の入り口近くでは異様なプラカードや幟が立っており、怒声に近い叫び声が耳に入ってきたが、これが事ある毎に邪魔をしてくる分派だということはすぐにわかった。殆どの兄弟達は彼等の狙いとは逆の感情を刺激され、御母様に向かう信仰をより強固にするはずだ。それを解っているのかどうなのか、きれいな女性の声ならまだしも男性の地獄からの叫び声は悪霊雑霊を思わせて全く逆効果だろうに、、。彼らが本気で訴えたいのなら先ず戦術を変えるべきだろう。御父様を想起させたいのだろうが乞食のようなあの身なりも考えものだ。この食口達にあってあの反対派ありで私は会場を入る前に溜息をつかざるを得なかった。会場はAからFまでの部屋割りがあり私のチケットはFだった。入り口から最も遠いFだ。展示会場だから大会に使用するにはどだい無理があって、その場に居ながらも壇上の様子もステージも全く見えない。端っこのFではなおさらだ。スクリーンだけを見てステージ付近の空気感を想像するしかない。遠方から地区の旗を掲げて次々と群れが入ってきたが実体の見えない会場だと前もって理解してわざわざ足を運んだのだろうか。4万人という数字を供え物にすることが目的であって、一人一人が背負っている霊界もそれぞれの人格もその場では無視されている格好だ。案の定大会中盤に入ると歯が抜けるようにして空席が目立っていった。中には主賓の登場だけを待って話も聞かずに抜けていく食口も結構いたりして、大会参加の個人的意義を一体どう捉えたらいいものか、、。そういう私も御母様のスピーチが終わるや否や会場を出たのだが、会場を出るとロビーも満杯だし帰りの電車も満杯で二つほど乗り過ごすはめになってしまった。枯れ木も山の賑わいの枯れ木の一本として、日本の霊界の洗礼をげっそりするほど浴びた一日だった。もちろん私が全体として受けた意義は別にあって、そしてここに述べたのは個人として感じたどうでもいいことであり、それでこの大会の良し悪しを決めるほど愚かではないつもりだが、本論に入る前に先ずは軽いジョブから、、ということで。

2019年9月30日月曜日

今日の想い 1042

第四次アダム心情圏時代は皆が人類始祖アダムとエバだ。私を頂点として一方では先祖を遡りながら一代一代霊界祝福していき、一方でも私を頂点として子供、そして孫へと三代圏を初めとする地上界の祝福氏族を増やしていく。霊界から先祖達の協助を受けてはいるけれども、先祖に対しては私は親の位置で接し教育する必要性があることを忘れてはならないし、それは地上界の後孫に対するのと同じだ。先祖祝福は出発であって祝福を与えたからと言って教育もせずに放っておいていいはずはない。祝福を与えたから病気が治るだとか子供が正しい道に歩むようになったり夫婦仲がよくなる、などという御利益信仰は与えた祝福を蔑ろにしている。結果そうなることもあるのだろうがそれを期待して祝福に精を出すのはどうだろうか。信仰の基本は自分がいかに変われるかであり、特に後天時代では自分の良心に従う自分にいかに変われるかということだ。相手に地獄の怖さや不安解消のニンジンを目の前にぶら下げて誘うのではなく、私に接することで自分が変わりたいと思えるように対することだ。地上に存在しない先祖をどう教育するかだが、実は私の中に血の在り様を通して先祖は存在している。と同時に血の在り様が私の在り様となり周囲の人達も周りの環境圏も私の在り様の写し鏡のように現れる。現実に起こる事の何一つ偶然ではなく必然として起こっている。先祖にすれば生きて残してきた課題を私を通して、或いは後孫を通して解決しようとしている。先祖の教育はみ言葉を読み聞かすのではなく、私の生き方に対する意識と意志を通して教えている。一生懸命私の人生観を生きることで、一生懸命教育している。

2019年9月29日日曜日

今日の想い 1041

献身して間もないころは毎日万物復帰に明け暮れていたが、これほど苦痛で地獄を見る日々は後にはなかった。最初のうちは訓練だと言い聞かせて真面目にやっていたが、それが3年も4年も続くと耐えられなくなってくる。もし自害が罪でなければひょっとしたら、と言えるほどだ。イメージできる地獄があるとするなら当時の日々の再現こそが地獄だ。事実何度も再現体験を夢で見せられていて、目覚めたときの脱力感は嘔吐しつくした時のそれと同じだ。あの体験は自分にとっては自己否定というより自我の抹殺だ。あの日々を通して神様の事情を知るとなると、自己を喪失された神様だとしか思えない。地獄をかいくぐって初めて天を求めることができると思えばこそ何とか越えられた。天国はわからないが地獄は経験できる。地獄から抜け出したいという意志が逆説的に天を求める力になる。行きたい天国があると思っている食口は多いけれど、天国は築くものであって行くところだと思わない方がいい。本当は皆ある程度わかっているけれども、それでも帰依していた信仰観は良くも悪くも父母様次第で、その口から最後通告を受けなければ自分の意志は捨てたままだ。私が訓練されたことは、今まで徹底して救いの手出しはされず、天からの慰労の欠片も内面に感じたことはない。この道に入る時聖霊体験を覚えたが、それ以外は一貫して無視し続けられた。涙ながらに祈る姉妹を見て異次元の存在のように思えた。地獄の底では涙も出なかった。その無視され続けた訓練こそが後天に生きる新しい私の土台になっている。今でこそ教条主義を否定しているが、実のところ自分こそが恐れで信仰を繋いできたという教条主義者そのものだった。しかし恐れから行動しても内的にも外的にも得るものはなかった。恐れは何かに主管されてそうしなければと思うのであって、それは自分の意志ではなく何か他の意志でしかない。自らの意志で行動しなければ何も得られない。

2019年9月27日金曜日

信仰から認識へ

本当に正しいと自分が思えるものに付き従っているのか、同じ選択をしている同志を周りに見ることで正しいはずだと納得し安心しているのか、はたしてどちらだろう。どちらにしても今の状況では正しい正しくないという判断の基準さえ揺れているのだが、、。もはや穴だらけの先天の信仰という器をどれほど後生大事にしても、これからはそれでは立ち行かなくなる。時代に合わない信仰は認識には至らない。妄想に終わってしまう。私の御母様への内的態度を御父様へと同じ態度だと認識していると食い違ってくる。清平信仰は先祖の血統という縦的な認識に、母方父方、またその母方父方というように横的な関係性を組み入れて自分を頂点とする三角形血統を認識させている。先祖を遡って行くというように時間の方向性も逆認識だが、それと共に線から面へ向かう認識でもある。本来、アダムとエバを始点とする一本の時間の流れの先端の存在が私だという認識のはずが、清平信仰は逆を意識させている。どちらが正しいとかどうとかという問題ではなく、起点をどこに置くか、方向性をどうとるかによって異なるということだ。私の血を遡って行くとどこまでも末広がりになるが、始点がアダムとエバのみならある地点で収縮に向かわなければ辻褄が合わない、などという論理は実のところ意味がない。先ず真の父母だけが肉的父母ではなく肉的父母は山ほどいるように、アダムとエバが唯一無二の肉的父母かどうかを信仰の為の課題とするのは霊的には無意味だからだ。ノア家庭だけが洪水審判後の地上に残った肉的存在だというのも同じように無意味だ。清平信仰は私の血の中に縦的因縁のみならず横的因縁を見るという意識を組み入れた。縦的な御父様に対して横的な御母様というのは、霊的認識の広がりにおいても革命的だ。信仰に限られていたものが認識という地上化現実化に向かうと見えなかったものが見えてくる。清平信仰が清平認識に至るかどうかは食口にとって霊的に覚醒できるかどうかの境目だ。御母様の言われる論理、御母様に対する感情は私のような一世には難しい側面はあるが、清平が新しい霊界認識の入り口であり門だと気付いた者は御母様を別の目で見て異なる認識を得ているはずだ。

2019年9月19日木曜日

一秒間で世の中が変わる

金の価格は一時上がり調子だったが、ここにきてまたいくらか下げている。FRBが金利を上げ控えたことが大きな要因だろう。それでもこの一年はオンスで300ドルも上げている。上がった下がったというのは基準にするものがあってこそで、誰もが認識している基準が基軸通貨であるドルだ。株にしろ不動産にしろ各国通貨にしろ、また金が代表するコモディティにしろドルで表される時点でドルを基準にしていることがわかる。リーマンショック当時の株価に比べれば今の株価は3倍に値上がりしているが、どうみても会社の規模や売り上げが3倍になったという話ではない。株価の上昇はQEと呼ばれる3回の量的緩和、すなわち金融政策としての4兆ドルにも及ぶバラマキと直結していて、GDPが20兆ドルそこそこの経済に2割の水増しをした格好だ。そしてその4兆ドルが株に流れ10倍20倍のレバレッジを掛けられて取引される。今の株価は会社の実態経営とは別の思惑で動いている。ようするにバブルだ。実はドルはその価値を失い続けており、既に価値の基準にはなり得ない。ようするに金が上がったのではなく、金が既にドルに代わる価値の基準であって、ドルは実のところ金を基準にすると下がり続けている。どこまでも紙切れに近づいている。そして不安要素がドルへの信用を一滴でも超えれば、なし崩し的に通貨不安は爆発し通貨の紙切れ化が現実となる。先天から後天への地上的な変化は先ず経済に表れる。それを見越して金を初めとするコモディティに変えておくのも一つの手だが、かといって金を買い漁っても世界経済が収縮し社会基盤が崩れる混乱から逃れることはできないだろう。ドルに代わって信用のある何らかの世界通貨が現れない限り社会インフラも生活インフラも極めて不安定で限定的になるからだ。新しいいくつかの世界通貨候補は先ず金兌換通貨としてやり取りされ、その中から基軸通貨は出てくるだろうが、もちろん国の覇権が大きく関わってくるのでそう簡単には出てこないはずだ。御父様が「平和の主人血統の主人」で冒頭に話された内容、一秒間で世の中が変わることがわかっていない。それは食口達に特に言及されていることで、先天時代と同じ意識、同じ信仰観、同じ内的事情から抜け出せないでいる。既に時代は変わり霊界の様相も変わっている。食口は先天を引きずっているけれども、若者達の中には霊的感性を鋭くし時代を先取りしている者達がいて、天の運勢は彼等と共にある。イエス様に背を向けるユダヤ人がいて、御父様に背を向けるクリスチャン達がいて、そして先天時代に埋もれたまま後天時代の光に背を向ける食口達がいる。

今日の想い 1040

関係性を維持しておくという必要性は感じているが、かといって今の組織に自分を委ねてしまうことは善しとしない。教会は教会で、ビジネスはビジネスで、それぞれに中心者はいるが、それはまとめ役であって意思決定存在であったり帰依すべき存在という中心ではない。そんなスタンスだから立てられた中心者もやりにくいとは思うが、しかしビジネスの中心者を決める時、私ははっきりと、これからは組合のまとめ役としての中心であって意思決定はそれぞれの長が取るべきだと話した。殆どは私が何を言っているのかわからないという反応でその場で何の意見もでなかった。ある者は私を冗談交じりにサタン呼ばわりし、私は愛想笑いで応えるしかなかった。皆は今やっていることそれ自体が摂理で、それに殉じることがみ旨だと信じ切っている。信じ切っているけれども、かといって目標を御題目として唱えるばかりで実績は伴っていない。この世的に言えば与えられた位置でマネージメントは辛うじて為しているが、もっとも必要なそれぞれのビジネスをどうしたいのかというオーナー意識に欠けている。原理的にいえば本当の摂理が何で、今ある位置からどう牽引して摂理の願いに応えていくかという主人精神がないからブループリントもない。ビジネスも教会と同じで、先天時代の意識をひきずったまま抜け出せなくて後天時代の入り口すら見いだせないままだ。人間の意識がこれほどまでに凝り固まり柔軟性に欠けるのかを思い知らされた。では自分だけで新しい信仰観、摂理観による歩みを踏み出していけるのかというと、個人で自分の信じるところをやっていけばいいというような生易しいものではない。自分の感情をいうと、蚊帳の外のような空気から逃げ出したいが、しかしここで関係性を切ってしまうことを私の良心は許さない。

2019年8月13日火曜日

正午定着の私になる

聖和されて七周年を迎える。たとえ御父様が聖和されても、何某かの目に見える導きがあると信じて暗闇を模索してきたのは私だけではなかったはずだ。しかし聖和式に参加しても、基元節を迎えても、喪の期間を超えても、それでも期待していたような奇跡的導きは見いだせずに7年目を迎えた。先天時代と後天時代は明らかに異なる。いや、ひょっとしたら後天時代に未だ入りきれずに、手前でその入り口を探し出せずに模索し続けているのかも知れない。終末時代の歩みは、特に基元節の年月日を宣布されてそれに向かう歩みは、御父様の一言一句も漏らさずに受け取ろうと必死だったし、そうでなければ取り残され置いて行かれてしまう焦りもあった。御父様は食口にとっては肉体を持って生きる神様だった。まさしく実体み言葉であられた。しかしその太陽存在が一瞬で消え失せた。そして数年を経て、もはや御父様に代わる太陽存在を外界に求めるのは筋違いである、ということを認めざるを得なかった。それでも未だ外に求めようとすれば、御子女様であろうが御母様であろうが或いは何であっても、自分の外側に求める時点で偽りの道であるか、或いは良くて遠すぎる回り道でしかないだろう。イエス様が御国(天国)はあなた方の只中にある、と語られ、ひたすら外界に天国の出現を見出そうとしてきた信仰をものの見事に崩されて、いや天国はそれぞれの心の中に出現すると言われてイスラエルの民は呆気にとられたように、外界におられた御父様に代わる存在を御子女様等の、やはり外界に求めてしまうのは先天から後天への歴史の移行に反していて、本当は内界に、それぞれの良心に御父様に代わる太陽存在を見出すことこそが願いのはずだ。それは信仰の裏表の逆転であり、光を外から内に届けていたのを逆に内側に光を放つ恒星を見出して内から外に届けるという、まったく180度異なる逆転のベクトルを私という小宇宙に起こさなければならない。それに耐えられるほどに私の良心は私の中に明瞭に現れているかという、良心革命が為されなければならない。御父様が言われた良心に対する絶対信仰絶対服従絶対愛が良心革命だ。そこを第一義とする私になれば自ずと答えは見えてくる。それは周りがどれほど混乱しようが、霊的権威で抑え込まれようが、私の羅針盤である良心が納得して方向性を取るのであればそれで全て良しだ。正午定着だ。

2019年8月5日月曜日

ウリエソウォヌントンギル

目的のためには手段を選ばない、というのが私達の姿勢だった。世間の道義上いくらか柔軟な態度も見せ始めてはいるが基本そうだ。手段を選ばず行動したからこそ日本の教会への世間からの風当たりも厳しかった。私達の願い、そして韓民族にとっても悲願は南北統一だ。南北統一が目的であるから、そのためには手段を選んではいられない。よって韓国の日本に対する態度もそうなってしまう。彼等は目的のために認識も感情も、そして意志も変えていくのであり、それらは目的成就のための手段にしかすぎず、目的さえ成就すればそんなものは後で調整できるとさえ思っている。日本にして見れば言いがかり以外の何物でもないのだが、彼等はその言いがかりを真実だと思い込む力があり、それはある種の信仰の力でもあり、ユダヤ民族がそうであったように選民としての最も稀有な性格のひとつだ。この性格故に選ばれたのかそれともそうなるよう訓練されたのかはわからないが、ユダヤ民族と韓民族の似通った大きなポイントであることは間違いない。日本や日本食口が今更に文政権の異常さを口にしても、特に日本食口にすれば今までそのように訓練され日本の罪に対しては徹頭徹尾教育されながら今更韓国はおかしいと、もっと民主主義に立ち南が主体に立って統一は為されるべきだと異を唱えるとしても御母様からすればそんな日本食口は蝙蝠(こうもり)だと言われるかもしれない。実体の天一国は韓国であると断言され、韓国への帰化や移動も仄めかされたにも関わらず、氏族はおろか本人さえもそれを望まないのであれば口先だけだと言われても当然だろう。御母様への絶対信仰絶対愛絶対服従を口にしてはいるが、日本と韓国が抜き差しならない状況になったときの覚悟と選択だけはできるように準備しておかないとそんな時が来るかもしれない。もちろん韓国に渡ろうが日本に留まろうがどちらにしろ安寧な未来が待っている訳ではない。自分の信仰の在り方だけはしっかりさせておかないと、流れで何となく御母様と家庭連合に従っているのであれば自分という船がどれほど泥船で船の用を足していなかったかを思い知るだろう。

2019年8月3日土曜日

ヒエラルキー教会

現在から過去を振り返れば、そこに復帰原理が働いている。それは原理を知る食口であれば当然のように理解している。理解はしているが一方ではある事実を無視してもいる。それは恰も神が善のみの立場で復帰の原則に光を当て、中心人物によって歴史は流れているという幻想だ。歴史の流れは復帰原理に拠っているが、その中心摂理の背後には切り捨てられた夥しい犠牲の数々が存在しているという事実だ。罪のない供え物の万物の犠牲から始まり、ノアの洪水審判では当然良心的な人達も審判されている。アメリカの建国も目を覆いたくなる先住民の犠牲の上に成り立っている。先住民の立場からいえば我々を殺して国まで建ててこの地にのさばっているのがアメリカ市民だ。歴史は復帰歴史であると同時に犠牲の血の歴史だ。復帰歴史を導くのも神であり、犠牲の血を流すのも同一の神だという一見すれば矛盾する論理を、当然のように受け入れているのが原理に立つ食口達だという意味が理解できているだろうか。大戦では日本はサタン側だというが日本は何の国家的罪でサタン側に組み入れられたのか。サタン国家であるから広島長崎の犠牲があって当然だとされ、しかし母の国であっても震災による犠牲があり、それを日本の罪による蕩減だとまた言い捨てられる。犠牲達に同じ目線で心を寄せたのは中心摂理を担う群れでもなければ中心人物でもない。中心摂理を担う中心者や中心的群れは背後の犠牲に対して何の想いもないのか、あるいは同情の想いを持つべきではないのか。御父様も御母様も日本食口に対する過酷なノルマを否定されはしなかったし、プッシュはされても同情された様子はない。その両班意識なのか選民意識なのかユダヤ民族の異常にも思える誇りと韓国のそれとも相通じ、人間的な意識、いわゆる一般的で良心的な意識は切り捨てられる。そしてそれは今でも私たちの組織に於いて、高みにある位相が底辺の民を権威で主管している構図に変わりはない。良くも悪くも、あるいは受け入れるも受け入れないも、私たちはヒエラルキーが厳然として宛がわれている世界に生きているし、復帰歴史の理解がそもそもそうであるし、それを拡大して真の父母をトップとする世界的ヒエラルキーを構築するのが世界復帰でもある。郭先生の本を読んでみた。御父様に対する絶対服従を片時も忘れず重要視され行動されてきた事実には、読んだ誰もが頭を下げざるを得ないだろう。しかし郭先生もヒエラルキーの故に犠牲となられたのであり、ユダにも劣らない汚名を着せられながら、しかしそうなることで御父母様の権威を益々高められた。仕組まれたユダが存在しなかったらイエス様の権威が立たなかったと同じように、、。

2019年8月2日金曜日

日本人よ自信を持て

現日本の最大にして深刻な問題、その問題が根底にあることはわかっていながら、しかしその解決に日本人は意志を投じない。それは日本人としての本質を見ようとしない魂の喪失だ。通り一遍の類の教育問題ではなく、日本人として精神性を備えるための教育の欠如だ。日本の問題の全てはその本質を無視して触れもしないからモグラたたきのように問題が湧き溢れる。神でなくとも根源的なもの、霊でなくとも原因的なもの、その本質に意識も意志を投じなければ自分という存在の意味を持つことはない。当然、全体の日本民族としての集団魂も立つことはない。進化論を代表とする唯物主義の蔓延する教育に洗脳され慣れすぎてしまった。そのせいで魂を見失うどころか科学や技術分野における教育すら時代錯誤的で役には立たなくなっている。唯物主義による弊害は、やがては無になるという間違った認識と意識で自分の存在の意味を問えない。そうなると自ずと自分を見失う。自分の思考もなければ自信もなくなってくる。マハティールは日本人よ自信を持てと警鐘を鳴らしエールを送っている。そんな応援に応えることができるほど日本人は意志を備えているだろうか。統一食口は祝福され霊的柱を立てているはずが、多くは未だに乳離れできずに母にべったりだ。本来なら救国精神が立ち、日本を牽引する先鋒に立つべきなのに、相も変わらず数字ノルマに躍起になっている。おそらく条件を供えられないという恐れの行動を信仰的姿勢と勘違いしている。権威者が追いやる地獄があると信じるなら、望むところだと断言して天国に行きたい守りの自分を捨ててこそ犠牲精神は立つはずだが、食口の位相は地に堕ちたままだ。日本の問題は、精神を立てる使命を蔑ろにしている霊的開拓者としての統一食口の精神的無責任と怠慢だ。

2019年7月14日日曜日

女性修練会に関して

善悪を知る日本の女性食口へ、というブログ記事を読んでみた。よく研究し、熟考しておられると思った。確かに御父様が済州島の女性修練会で語られた内容は日本が母の国として、そして日本食口、特に日本の女性食口への深い想いを抱いて語られた内容であるため、そんなことも話されたと過去の事として終わらせていいものではないだろう。女性の位置というのは複雑であって、それは御母様の御父様に対する位置もそうだが、御父様に対して妹の位置、娘の位置、妻(妾)の位置さらには母の位置でもある。御父様が日本の女性食口を双子の兄妹として語られたと記されているが、それは事実だとしてもだからといって御母様をどうだこうだと判断する位置にあるわけではない。娘という位置が否定される訳ではなくて、その場合御母様が母親であることは当然だ。子供が両親を否定できないのは運命であるように、霊的生命であっても母なる聖霊実体であられる御母様を否定するなど子としてありえない。私は紆余曲折に思い尋ねながら御父様と御母様が仲が悪い、さらには反発しあっていてもそれもまた当然あり得ることだと納得している。地上の家族であっても両親の仲が良かったり悪かったりといろいろあるのであり、それでもお互い離れまい一つになろうと意志しているのであって、そして子供がいればこそそういう意志を無くすまいと踏ん張るのであって、御父様が双子の兄妹だからより深い秘密の内容を教えようとされたのは、日本の女性食口は娘の位置をもはや離れることはないというお墨付きの上で語られた内容だと思う。成長した娘息子として親の事情もそれなりにわかり、それでも夫婦のカスガイになるべく働くのが真の娘だろう。私にすれば御母様に対して反旗を掲げ、もはや御母様ではないと断言するのもおかしいし、一方で御母様の言う通り御父様を否定するかのような言動を祭り上げるのも、それが真の子女としての振るまいかと思えるほどおかしいし納得いかないが、だからと言って本部責任者達に反発すればいいというものでもない。もしこんな私が御母様の面前に出ることでもあれば、注進するほどおこがましくはないが、御母様にとって私は愛する息子の一人ですかと一言尋ねてみたい。そんな言葉は一蹴されるかもしれない、きっとそうされてその場が地獄となるだろう。それでも私はその一言を伝えることが、御母様への息子としての私の愛だと信じている。

2019年7月11日木曜日

み旨と海

御父様は原理の御父様であるけれども、海洋摂理を牽引してこられた海の御父様でもあられる。アメリカでの御父様はその多くの時間を海で過ごされた。マグロ釣り、ストライトバス釣り、オヒョウ釣り、そしてサーモン釣り、大西洋でもハドソン川でもアラスカコディアックでも、そしてラスベガスのミード湖でも、船を出して釣り糸を垂らしておられた。御父様が煮込んで作られた鯉こく、いや鯉の煮ツメだがそれをペットボトルに入れて渡されたことがある。ミード湖では大きな鯉が釣れるようで、その鯉を何の調味料もいれないまま(おそらく)、煮込んで煮込んで更に煮込むと身も内臓も全てが溶け込んだエキスができる。頂くのは有難く頂くわけだが、しかしそれを口にするとなると死を覚悟するほどだ。味を一言で言うならドブそのもので口にした途端吐き気が襲い、健康にいいはずが一気に病気モードになってしまう。しばらく食べ物が喉を通らないから確かにダイエットには効くかも知れない。食口におすそ分けしたが、何の感想も言ってこなかったのをみると同じ体験をしたはずだ。本当に御父様はそのドブ汁を飲用されておられたのか。そんなこともあったが頂いた魚の中で、私がもっとも美味しいと思ったのはオヒョウの刺身だった。釣ってしばらくするとアンモニア臭くなるが新鮮なものは本当に美味しかった。とにかく御父様は海に出かけられた。海で精誠を供えられた。だから海には以前の海とは異なる霊的生命が込められている。海は資源の宝の山だけれども、今まで活かされなかったのは資源が霊的に死んでいたからだ。しかし御父様の精誠によって霊的生命が吹き込まれたから、資源が生きた資源としてその価値を発揮する。海洋摂理は海の資源の価値を理解した者が牽引すべきだ。それは海に捧げられた御父様の精誠を理解できる者こそが資源の価値も理解する。御父様の願いに生きてきた私達が、もし海の資源を掘り起こせないなら、御父様と共に歩んだと言いながら一体何を学び相続してきたのだろう。アボジアボジと連呼するだけの烏合の衆なら御父様はその生涯をドブに捨てたようなものだ。これから益々世界は混迷し混沌状態になる。しかし危機的状況が激しくなればなるほど、どでかいチャンスも到来する。悪神が現れればその直ぐ背後に善神が現れる。御父様の子だと自負するなら天性の勝負師としての御父様の感性さえも相続しているはずだ。食口の中に生え抜きの勝負師が育っているはずだ。勝負師は頭で考えて選択はしない。生殖器周り、すなわち丹田の判断に任せる。善神と悪神を捉えて左右の霊的腕と手で両方を仲介し、見事な商談を成立させて莫大な価値体系をものにする。

2019年6月27日木曜日

今日の想い 1039

アメリカ帰りの食口が日本の食口間で評判が悪いのは今に始まったことではない。アメリカは自由の国だ。教会の信仰を持ったとしても信仰の自由が建国の礎になっているように、信仰を持つことで枷をはめられるのであればそれは信仰とは言わない、とさえ思っている。原理運動華やな頃はその霊的高揚の中で自らも高められると献身活動に投入しても、今のアメリカでは組織の手足や一部として自己を供えることはあり得ない。それを自己中心と呼ぶか自我の芽生えや自己の精神啓発とするかは神様に委ねるとしても、アメリカ帰りの食口はもはや日本流の組織の手足とはなれないし、それを自己中心とも思わない。日本の食口がどれほど摂理に貢献してきたかは韓国だろうがアメリカだろうが皆が納得するところで、海外の日本食口もそれは分かっている。しかし貢献しているにも拘らず摂理は進まないこともわかっている。本来なら憤って当然のはずが、それでも日本は声を発しない。それを日本以外の食口はどう捉えるかというと、声を発せず感情もないATMマシーンぐらいしか思っていない。日本食口に対する時、全体を見ることはしても喜怒哀楽を持つ一人一人として見えないから見ようとしない。個性が見えない。だから日本以外の食口は日本に対して負債も覚えていない。韓国が日本に対してあることないこと言いたい放題でありながら目に見えた抗議もしない異常な状態を許しているのも同じ図式だ。日本全体しか見えないのと、それぞれの個人が見えていてその総意として日本全体を見るのとは異なるが、どうもそれがわかっていないように思える。この日本を変えることができるのは、実は海外経験のある者達であったりするのだが、日本に留まらない世界摂理への意識であったり、国際祝福の食口も多く普通の日本人以上にグローバルであるはずの教会ですら、日本流の組織的あり方を変えられない。それでアメリカ帰りの食口は相変わらずのつまはじきだ。

心に引っかかる或る従業員

ボーイッシュに決めた短髪を揺らし、テーブルや行き交う他のサーバーを上手くかわして狭いダイニングを舞いながら接客していた。颯爽という言葉が彼女にはよく似合っていた。他の従業員が嫌がる仕事も率先して手を付け、マネージャーも従業員の誰も、彼女を悪く言う者はいなかった。もちろん客の受けもよく、彼女のテーブルを指定する客も多かった。彼女も客によく声をかけるしよく笑っていた。でも彼女を最初雇うときは一つも二つも心配があった。サーバーとして既に雇っている別の女性と一緒に住んでいて、ふたりはそういう関係だった。従業員の家族や、恋人の間柄にある者を雇うと、後々何かと問題が起こるのは経験済みで、その類の雇用はなるべく避けていた。だから彼女の時も躊躇せざるを得なかったが、通常の間柄以上の問題を抱えている。しかし当時の人手不足はどうしようもなく、結局先ず雇って様子を見ることにした。全くの杞憂だった。問題が起こるどころか店の空気を一変させて客数は日増しに増えていった。思い返してもあの時の繁盛ぶりは奇跡的だった。魔術でもかけたのかと訝るほど彼女は客を引き寄せていた。どうして彼女のような中性的なものに客は惹かれるのだろうとその理由を探していた。性差が曖昧になるのを原理的観点からは望まれない。しかし本人が持って生まれた性稟は自身でもどうにも抗えない。ひと昔前なら隠して表には出さないようにしていた彼等が、最近では公共の場でもマスコミにでも公にして現れる。これを嘆かわしいと原理原則で断罪し一蹴するのは簡単かも知れない。ではそういう彼等は救われないのだろうか。サタン的存在であって陽陽、陰陰の在り様を変えない限り食口から振り向きもされないのだろうか。祝福二世の中にも必ずいるはずで、彼等のことを思うと本人達も、そして彼等の親たちにしても、原理がわかっているが故の苦しみは地獄のはずだ。食口にも中心者にも誰にも相談できず、それぞれで悶々としながら胸を掻き毟る日々が続く。原理の神様には彼等に対して赦しはない。尋ねるまでもなく生きて地獄を味わえと払いのけられる。唯一残された道は原理を超えた神様を探して求めるしかない。原理を超えた神様を捉え、真の愛の意味を尋ね求めない限り、息をすることも許されない。

2019年6月26日水曜日

今日の想い 1038

サンデークリスチャンと 皮肉られるように、私達もサンデー食口と呼ばれる食口が多数を占めるようになれば摂理は進まない。事実、日曜礼拝に参加していれば良しとする冷めた食口は増えている。祝福活動に意識を向けるよう喝を入れられ(?)精を出している食口も多いが、かつて、祝福への願望や希望を抱き祝福を得る為に頑張り、その後に受けていた私達と、先ず祝福ありきで簡単に祝福を与えられた彼等とのこの祝福意識の乖離をどう受け止めるのか。後にテークケアするのであればまだしも、殆どはサインしてもらってそれまでで、本当に彼等に霊的生命が入るのかは甚だ疑問だ。祝福の平準化だと言われれば頷く食口も多いのかも知れないが、私自身はサインすれば祝福家庭だというのは信じ難い。訪問祝福でサインをもらう活動もしたし祝福キャンディも配ったが、それが祝福を与えたいという動機ではなく数字を報告して安堵したいという動機だったのは否めない。今の食口達は二通りある。一つは信仰に顔を変えてはいるが恐れがその本質にある教条的意識と、もう一つはその縛りからひたすら逃げるために自由の翼を得ようともがき口を開く批判意識と、しかし両方のどちらからも創造の意志は見て取れない。内的霊的にだろうが外的地上的にだろうが、右手であるアベルと左手のカインとで創り出す新たな創造を見て取れない。基元節を超えて新しい時代圏にある今でも、、。多くが老年期にある食口の一世はその役目を終えている、というか先天時代的信仰観に固定化されたまま摂理の新しいステージには立てないでいる。二世や三世の多くは教会から距離を置き、どれほど親が先天の凝り固まった信仰観で子供達に諭そうとも見向きもしない。彼等は一世達から見れば摂理と関わりなく生きているようにしか見えないが、その一世達の信仰観がいつの時代でもまかり通ると信じているからそう見えるのであって、私達の想像を超える神の意志からすればその願いに生きているのかも知れない。もちろんその認識も間違っているのかも知れないが、私の知り得ない天の意志があって当然なのは理解できる。その意味で私は祝福も受けない子供であっても神様の意志に委ねる。私の立場は彼等が助けを求める時に、どんな助けであっても犠牲も厭わず喜んで手を差し伸べることだけだ。

2019年6月8日土曜日

東洋と西洋

日本はキリスト教基盤のない国であって、食口に於いても原理の理解に東洋的仏教的要素が西洋的キリスト教的要素よりも強く働いている。それはしいて言えば感覚的なもので、よって日本を飛び出してその西洋的雰囲気の中に、ある程度染まらなければ理解できることではない。御父様を再臨主と理解する場合においても、アメリカに於ける食口の捉え方と日本の食口の捉え方は異なる。もちろん真の父母という新しい概念に関してはそれほど違いを見出せないが、再臨主の理解に限っていうと異なっている。日本食口の再臨主は再臨主という言葉は使っているけれども、どちらかというと弥勒菩薩の再来として捉えている。仏陀からの東洋的流れと、ソクラテスからの西洋的流れとの大きな違いは、仏陀の弟子達は、涅槃の境地という悟りを開いた魂が光り輝くのを仏陀の中に見て、その在り様そのままをひたすら受け入れ第二の仏陀たらんとした。しかしソクラテスの弟子達は、ソクラテスに付き従ってはいたけれども、師であるソクラテスではなく自分の魂に光り輝くものを生み出して見ようとして、その方法をソクラテスから学ぼうとした。仏陀の弟子達は仏陀の分霊として仏陀から受け取ろうとしたのであり、ソクラテスの弟子達は自分のなかに自我の霊を生まれさせ立たせようとした。ソクラテスは助産師として弟子達を手伝ったということだ。しかるに東洋の宗教は受動的であるけれども、西洋の宗教は能動的だ。仏教に見るお経や御題目のように我を忘れてひたすら唱えようとするのは、自分を無くして仏陀の魂を受け入れるためだが、キリスト教にもそれはあるにはあるが、洗礼のような儀式では我を忘れるのではなく我を体験させて魂に生み出されるものを実感しようとする。もちろん弥勒菩薩として御父様を捉えて悪いわけでも何でもないが、その意識がより働く以上、おそらく御父様に進言するような意志はその魂からは出てこない。たとえ頭を傾げるような指示であっても、何も言い返さずにそのまま受け入れるし、事実そのように御父母様に対してきた。東洋的なものと西洋的なものは一つとなるべきであり、どちらに傾くのでもなく中庸としてバランスを取る必要がある。

2019年6月1日土曜日

コンマリ

アメリカでコンマリは爆発的と言っていいほど人気がある。日本に比べれば2、3倍はある住居スペースでありながら、収納しきれないほどの物を買い貯めてクローゼットに押し込み、さらに収納専用のストレッジまで借りて、将来二度と手を付けないであろう衣服や小物やおもちゃやもともろを押し込んでいる。物を処分できないのは妻のみならず、アメリカの御婦人方の殆どが同じ症状を持っているらしい。コンマリ曰く、キュンとするものときめくものを残し、それ以外は感謝を届けた後処分する。それから収納に関しても大切なものへの感謝を表した収納を考えている。彼女がここまで意識を持つ切っ掛けが、娘が丁寧に服を畳んでいる様子をみて物への想い、愛が伝わったからだと言っている。彼女が注目される所以はこの物への愛だ。物をモノとして扱わないという、このアメリカ人にとっての目新しい意識に精神性を感じて注目されている。私もひとつの小さい頃の記憶がある。街に出ているいとこ叔父が訪ねてきて母が遅い昼食を出した。簡素な貧しい料理だったが彼は実に美味しそうに食べた。どうしてだろうかと子供ながらに考えたとき、行儀よかったこと、丁寧にゆっくり食べていたこと、そして一口一口上品に口に運んでいたこと。自分も同じようにやってみて、扱い方によって同じ食べるものでもこんなに味が違うんだと思わされた。コンマリは物への愛情が強いし、そうあることで物から受け取る美も人一倍大きいはずだ。物をモノとして見ていないし扱っていない。霊界を信じ霊的感性を取り戻そうとしている食口なら、その意識をさらに超えて、発する声を聞き新たな価値を差し出してくれるまでにならなければ本物とはいえないだろう。

2019年5月30日木曜日

左手薬指に刻まれた記憶

私の左手の薬指は、今でも先の方は触感がない。その指先の腹に斜めの筋がくっきり入っていて、そこを常に親指の腹で撫でている。40年前刺身包丁で傷つけた指だ。あちこち切り傷の痕は手に残っているが、この指先だけは触感がないだけに気付くといつも撫でている。新宿の百人町あたりだったか、移動販売車の後ろで客の求めた魚を処理していた。最後に刺身包丁で皮を削いでいると、羽音と共に一匹の大きな蠅が面前に飛び込んできた。咄嗟に包丁を持たない左手で払おうとした。払おうとしたけれども、浮かしていた包丁の刃を下から撫でるように薬指を這わせてしまった。一瞬だった。痛みを感じたときは遅かった。鮮血が俎板に散り、急いで抑えたが傷を覆いきれず血は噴き出した。客は驚いていたがどうしようもなく断りを入れて帰ってもらい、ペーパータオルまるまる一本使って急場を凌いだ。もうその後の営業ができる状況になかった。実はその日、家に帰る前日だった。その年は何とかお盆に家に帰ろうと中心者に了解を取っていて、その前日の出来事だった。その後どうしたのか、どう処置してどうやって広島の田舎の実家まで帰ったのか覚えていない。帰った夜の激しい痛みは覚えているが、どうもそれまでの記憶が飛んでいる。傷は骨まで届いて口が開くほどの大怪我だったが、どうも病院に行けば家に帰れるかどうかわからないと思ったらしい。傷口を包帯で強くぐるぐる巻きにして、その怪我を報告せずに帰ったのだと思う。内緒にしたかっただけに記憶も飛んでいる。報告したら条件の欠如を理由に帰郷を止められる可能性が頭にあったということだ。だから何食わぬ顔で挨拶して営業所兼住居を出て行った。田舎に帰ったけれども傷が疼いて久方振りの実家なのに寛げはしなかった。それから暫くして、この道を離れる為に皆が眠っている朝方飛び出すという、私としては劇的行動を取ることになるのだが、おそらくこの怪我による心境の変化も影響したはずだ。もし帰郷を取りやめて病院に行っていれば、しっかり縫い合わせてもらって治りも早かったはずだが、痛みで眠れない日々や感覚を奪われた左手薬指が残っただけに留まらず、献身以来の受動的自分が初めて能動的意志を持つ行動を取ることになった。今思い出してもあの時の蠅が実に恨めしいが、私にとっては一般に言われるバタフライ効果の起こりが蠅で始まった。

2019年5月26日日曜日

独善的では見向きもされない

日本人は表面的には信心ぶっているが、ライフスタイルとして都合よく受け入れているだけだ。しかし皮をむけば無神論者で、進化論を国民上げて教育し信じているし、敢えて宗教といわれると非科学的なものとして括ってしまう。宗教イコール新興宗教であり新興宗教イコールいかがわしいものというイメージなのだろう。確かにいかがわしい自分だったしいかがわしい団体だったのはその通りだから日本人の感覚はそれほどおかしくはない。また自分自身も独善的なところは認識できている。先天に於いて私達は独善的自我に留まっていた。親戚からは疎んじられこの世は悪の社会だとして壁を作って独自の価値観で生きてきた。心を開いた交流もないのにどうして原理という異なる言語で氏族と交わり、氏族復帰などと大風呂敷を広げることができるだろうか。原理として理解している表層的なものに囚われず、原理の本質を求めていってこそ氏族復帰、世界復帰の意識に届くのであり、霊界を動かしてこそ氏族を動かせるはずだが、独善的なことと本質は相容れないことがわかっていない。独善的だと認識される宗教のイメージを私達が壊して越えなければ世界復帰どころか氏族復帰も夢のまた夢だ。世界復帰が奇跡的に為されると信じて疑わないが、その認識は愛に立つものではなく謂わば宗教的権威に立つものであってそれは本当のところは誰も望んではいない。親兄弟、親戚に対して俄作りの人格で原理を入れようと思っているけれども、現実は何らかの実績を見せない限り見向きもされないだろう。実績に先ず屈服するのがこの世の倣いであり、そこにそれなりの人格が備わっているのは当然と思われている。私達は愛という言葉を重要視する割にはそのイメージは貧弱で、せいぜい愛の人格であって愛の実績が何であり愛の権威が何なのかを問うことを忘れている。語らずに伝道できてこそ本当の伝道だろう。愛の実績に語らせ愛の権威に語らせてこそ伝道だ。この世の宗教に対するマイナスイメージを壊さなければならないのに、既存の宗教観に留まりさらに独善色を滲ませたままでは、一生懸命活動してもサインしてもらった頁を集めるのが関の山だ。もちろん今願われている事に専念する信仰観を否定するものではないが、私の摂理への貢献は私なりにあって私の良心はそれをも願う。全体摂理と共にそれぞれが担う摂理が必ずあるはずで、そうでなければ私という個は存在してもしなくてもどうでもよく、その認識もなくて個や家庭や氏族の責任を全うできるとは思えない。

2019年5月21日火曜日

私に内在される神様

自分が一つのX存在である以上、自分のため、自分の欲望のため、自分の喜びのために生きて当然だろう。それは確かに人間らしいし、その在り様それ自体は悪ではないはずだ。でも私達は、一方で為に生きることが神様の願いだと教えられ、それは時として犠牲を伴うものだったりする。人間らしい生き方と神様が願う生き方が私の中で相反するから矛盾を覚えるし悩んでしまう。でもそれは頭上の彼方の、或いは皮膚輪郭の外側に神様を見出そうとするからそうなってしまう。為に生きて喜ぶ愛の神様を私の中に見て、犠牲をして相手を生かしたい衝動に駆られる犠牲の神様を私の中に見るのであれば、事情は全く違ってくる。私が良心に真摯に向き合えば、私の中におられる神様が私の神様として、ワタシ流の為に生きる指針を差し出し、それに従いながら私の神様が私の中で喜んでおられるのを実感するだろう。神様は私の中で、私と共に、私を通して生きることを望まれる。それこそが良心は親にまさり師にまさり神様にまさると言われた良心革命だ。その気付きを得れば、私はどんな時も一人ではないことを実感するだろう。今まで裁かれたように思い恨みにさえ感じていた数々の事柄に対しても、実は神様ご自身が御自分を裁かれ恨み、それと同時にそれを甘受する意志を差し出し、痛みを未来の子孫達を生かしたい衝動とする犠牲の意志を差し出そうとされておられた。内なる神様が悲嘆に暮れる私から新たな私を意志させて踏み出させていた。それを妨げようとする力は堕落性というサタンの力として確かにあるが、真摯に向き合う良心の力は遠からずサタンの力を凌駕するようになる。「神様、これからも私と共にいて、共に喜怒哀楽を感じ共に意志を差し出しましょう」と心の底から真摯に祈ることができれば、私の中に神様は住まわれて全てを体験され、私は神様の想い(心情)を実感する。そのように、神様を自分の中に見出した人間となるようにひとりふたりと伝えていけば、人類全ての中に神様が内在される地球になる。

2019年5月19日日曜日

嗅覚を通して

私がアメリカの生活と日本の生活の違いとして最初にあげるのは、何といっても臭いだろうか。アメリカでは鼻を通して感じる環境にはほとんどない。しかし日本での生活は嗅覚で感じるものに占められている。それは土地が狭く人と人の接近度が近いという理由もあるのだろうが、様々な生活臭を抜きにして日本の生活はあり得なかった。たまに帰国すると、日本の空港に着いた途端に鼻に覚えるものに溢れていて、嗅覚で判断する感覚が起こされたことに気付かされる。田舎に住んでいた子供の頃は更に臭いに溢れていて、土間の土の臭い、牛舎の糞だまりや枯草の臭い、茅葺屋根から降りてくる煤(すす)の臭い、祖父の強い加齢臭や母の乳臭い臭い、もちろん厠から流れてくる肥溜りの臭いも立ち込めていた。外は外で堆肥の臭いや野草から立ち上る臭い、一雨降ったあとの生臭い臭い等々、息苦しいほどにいろんな臭いを肌に感じて生きていた。視覚や聴覚に届くものより、嗅覚で捉えられるものはより私の中に入り込んで浸透していくようで、影響も大きい。それは肉的な影響というより、何とも表現しかねる内的な霊的器官に影響を受けているらしい。というのは影響が後あと残るからだ。魂への何らかの仕打ちを受けるときに以前体験した臭いがふと蘇ったりすることは何度も経験している。しかし臭気体験の極めて少ないアメリカだからこそ学んだことがあって、それがお金の臭いだ。もちろんお金自体を数えるときに感じたのはもっともだが、その臭いも様々にあることもわかり、それぞれに遍歴の過去の念の様々がその違いに表れている。そこから発して、売り上げが多い時の前触れの臭いや、逆に流れてしまう前触れにも何らかの臭いを嗅いでしまう。嗅覚というのは五感の中で最も霊的感覚に近いものだということがわかった。その意味では日本の生活は、決して良いことばかりではないが霊的影響を受けやすい生活でもある。日本の空港について外に出た時のあの優しい甘い匂いは魂が酔いそうなほどだ。それは受け入れ抱擁してくれる匂いでもあるけれど、気を許せば誘惑されてしまいかねない臭いでもある。

本質への意識を持つ

万物の木の下で一生懸命祈るのであれば、求めることだけに言葉を尽くすのではなく、万物それ自体を祈ってあげて愛してあげることにも言葉を添えてほしい。動物や植物だけではなく、先ずは身近なところから使っている箸や茶碗、仕事で用いるカバンや筆記用具、愛用の時計や眼鏡、枕やはてはスリッパに至るまで、祈ってあげて感謝をささげて愛してあげる意志を供えてほしい。物をモノとして扱う以上、口も閉ざすし感情も抱かない。だからといってその形状自体が生きて語るのではなく、形状を象徴するその物の本質が語り掛けるし抱く感情が伝わってくる。想いを投入されたある人の作品であれば、作品を通してその人の本質が語り掛けるように、すべての万物には必ず背後に(霊の)本質が存在していて、深く尋ねるほどに語り掛けてくる。そんな体験の一つもなければ霊界を語る資格はないだろう。調子に乗って夢解きをしてみたり、見えることを霊的に開かれていると自慢したり、しかしそれは見えているのではなく、訳の分からない霊に支配されて見させられていることを自覚していない。不可思議な体験の殆どは雑霊の仕業だと思った方がいい。見させられるのではなく、自らの意志で見通さなければ霊的事実は寄ってはこない。人間の背後がどれだけ複雑で、雑多な霊が沈滞する闇が深いか。そんな魂をも救って祝福を与える義務が私達にはあるが、人間に比べて万物は基本素直で真っ直ぐであって正しく主管すればその本質と友達になれる。ヘリコプター事故に遭われた御父様が語られたのは、太陽が友達だということ。太陽を同じ位相にある万物とするのは考察する必要があるが、見て認識できる存在であることには変わりなく、その太陽を友達だと言われた背景にはその感情が届いたからであって太陽の霊的本質を同じ位相として認識し感じておられたということだ。私たちが環境創造だとか環境保護だとか大それたことを口にしているけれども、この世の万物への意識や愛や主管に劣るからこそ、彼らを凌駕して正しく万物主管できる位置にはいつまでたっても立てない。

2019年5月18日土曜日

今日の想い 1037(韓国に向きながら)

何を言われようが、あからさまな嫌気で目をそらされようが、それでもとにかく全てを受け入れることだけに意志を傾けてきた。日本の食口はそうだ。言われようは変わらないどころか、ますますあからさまになっていく。それでも正しいか間違っているかは自分には問わない。自分に問うてみて尋ねてみるという意志は持たなかった。いや持てなかった。その言葉のまま受け止めた。供え物に口なしという奴隷らしき認識は信仰をもってこのかた不文律だった。罪を問われ、蕩減を問われ、清算を問われ続けて今に至っている。たとえ日本の道義にもとるとしてもそれでも願いであらばとそれにこたえてきた。足りない足りないと言われながら善人としての性格を捻じ曲げてでも従ってきた。それでも韓国に行けばあなたたち日本人はどうだと言われ、日本にいれば反日態度をとる国賊のように思われ、であっても日本人としての恩恵を国から受けながら暮らさざるをえない。そんな生活がどうして誇らしく胸を張って笑顔でいれるだろうか。そんな生活がどうして卑屈にならないだろうか。先天時代を超えて蕩減のない時代を生きているのではないのか。日本だけは違うのか。母の国でありながら母としての権威は持てないのだろうか。それは日本の食口の問題なのか。誰でもいい誰か食口のひとりでもそんな疑問を注進し続ける者はいないのだろうか。いつから魂は否定され小さくなる極限にまで収縮してしまったのか。復帰された頃は皆が燃えていた。救国に燃えて日本人としての魂の高揚に精を出した。理想は世界の理想でもあったが国の理想でもあった。日本を愛していた。そんな自分や兄弟が愛おしく誇らしかった。兄弟は本当の肉親より兄であり姉だった。

2019年5月11日土曜日

世界経済の動向は

経済システムを無理くり維持させようと、日本もアメリカも、そしてEUも、中国に至るまで、ジャブジャブに薄めてきた貨幣価値は一体これからどうなるのか。体の一定濃度の血液であってこそ健康を維持できるのであって、少しでも薄めれば異変をきたすのに、経済の血液である通貨濃度の希薄は既に危険域だ。信用の大きさと通貨体積の大きさがバランスを大きく欠いている。今は米中の関税問題が世界経済の問題として大きく注目されているけれども、本当の問題はそんなところにはない。そんなところにはないが引き金にはなり得る。とりあえず経済は信頼性に価値を置く人情時代まできたが、今回の世界バブルが弾けてしまえば一旦は物情経済まで収縮することは既に目に見えている。物情といっても基軸通貨であるドル自体が通貨濃度を薄められているので、ドルペックを取る中国元も、ドイツ銀行をはじめとして元資本がしっかり入り込んでいるEUのユーロも、ドルとほぼほぼリンクしている日本円も軒並み信頼性を失い、ドルを基軸通貨として立て直すことは先ず不可能だ。そうなると金やコモディティの信用で兌換通貨として新たな通貨を先に出回らせた者達の主管下に置かれるだろう。ここしばらく仮想通貨が取りざたされ、確かに仮想通貨の利点は国籍を持たず、ドル基軸システムのようにスイフト(仲介銀行)を介さなくても直接やり取りできるが、問題は通貨という認識が持たれず投資運用にされたために使用範囲が限られて広まりようがない。しかしこの仮想通貨システムが現物通貨とリンクして用いられるようになれば、お金の裏も表もないので裏社会は壊滅せざるを得ない。正午定着の経済システムが構築される。もしアメリカが御父母様の勝利圏を相続して天の運勢に立っていたなら、金兌換の新ドル体制を敷き、電子ドル通貨にリンクさせて世界覇権は打ち立てられただろう。しかし返す返すはブッシュの裏切りが悔やまれるところだが、ここまで来たらもはや中国の新通貨による経済覇権は現状から見た摂理動向としては妥当なのかも知れない。少なくとも流れはそうなっている。すでに中国は世界でもっとも金を保有する万物大国となっている。
第一次にできなかったので、第二次でソ連と中国が、レバレンドムーンを自分の国の王として迎え、アメリカを凌駕する国家をつくることもできるのです。-(平和の主人、血統の主人より)

2019年5月9日木曜日

先ず手を合わせて祈る

意識訓練として一日にひとつは新しい気付きを発見することにしている。そうでもしなければ一日一日が同じ繰り返しで何も残らなくなる。クリニックに送って行って、迎えに行って、朝食を取りニュースを見て、、とルーティンをこなすことだけに意識を向け、そんな感じで気付いてみるとあっけなく一日が終わってしまう。本当は新しい一日は昨日とは全く異なる一日であり、一日の中で多くの気付くべき宝物が用意されているはずなのに、それが見えなければやり過ごしてしまう。今は店を引き渡して営業の業務から解放されたが、矢継ぎ早にありとあらゆる問題が生じてそれに追われて一日を終えていた当時の方が多くの気付きを与えられていた。ある問題が生じて、いくら考えても、いくら悩んでもほとんど何も解決しない。しかしやるべき業務は業務でこなしていかなければならないわけだが、いつものように業務について足を動かし手を動かすことで問題が整理されてきて、内外の解決の糸口を与えられることは何度も経験してきた。感覚としては足を動かすことで意識しなかった内外の情報に気付き、手を動かすことで意識しなかったこうしてみようという意志が芽生えてくる。よって人間の四肢は考える頭よりも本質的な霊的感性と深い関係性にあることがわかる。最近になって祈りも変わり、以前のように両手を床につけて行うのではなく、両掌を胸の前で合わせて祈っている。一つは双合十勝日のみ言葉だったと思うが(おそらく)、左手に先天時代を掴み右手で後天時代を掴んで合わせたと言われたその感覚を相続したい思いと、明らかに両掌を合わせた方が集中できるからだ。右手と左手が意思命令に合わせて共同しなければ物は作れないように、神様の意志を中心として神様の右手であるアベルと左手であるカインが共同して作業しなければ新しい歴史の環境創造は為されない。そのように私の両掌を合わせたその場から私の環境創造が始まると信じている。右足がアベルで左足がカイン、右手がアベルで左手がカイン、歩くときは左足と右手、右足と左手と交互になる意味、手を組んだ時右親指が上になる人と左親指が上になる人との違い、手のひらの指を親指から付け根、先端、付け根、先端と数えられる意味、等々人間の四肢に関するみ言葉はそれが霊界と直接関係があるからされた話で、その意味をひも解くと霊的感性がより明るくなるはずだ。人間の表情を見れば魂の在り様が伺えるが、四肢の在り様、特に手の在り様や動きをよく見れば霊的出生が見えてくる。

2019年5月8日水曜日

天情時代とは?

物から人へ、さらに人から天へ、というのが摂理のベクトルだ。御父様は、物情時代から人情時代、人情時代から天情時代と言われた。お金に関していうなら、お金そのものへの信頼性から人間への信頼性にお金は依拠している。お金という現物が先立たない限り人物への信頼性は二の次だった時代から、現物が先立たなくとも人物への信頼性で信用が取れてお金が用意されるという、要するにクレジットカードの出現はその人物への信頼性に依拠されてお金を出す出さないの判断が主管される。それが物情から人情ということだという仮定に自分は立っているが、更に天情への信頼性とは、という疑問がある。今の時代、経済も金融も人間への信頼性がなければここまで発展することも、やり取りの自由解放もなかったはずだ。しかしその信頼性がシステム化されてしまい、システムで経済も金融も動いていてシステムが複雑化されればされるほど基にある信頼性の本質が薄れている。日本はバブル崩壊から財政出動、金融緩和という仮の信頼性を大量に差し出し続けて今に至っている。システムはそれで動き続けるが既に信頼性の基盤は失っている。アメリカは複雑になったシステムの暴挙がリーマンショックを引き起こした。本当はリーマンショックどころか全ての銀行が破綻するほどの巨大爆弾を抱えていたのだが、FRBが紙切れになった銀行保有の債権を一時的に額面のまま買い取ったことでシステム破壊は免れた。そこに投入した仮の信頼性もまた莫大だ。要するに日本もアメリカも信頼性という本質は見失っている。システムはリーマンショック以来株価を3倍に戻しているが、信頼性を失ったバブルであることは明らかだ。これが遠からず爆発して恐ろしいほどに収縮する。これを解決するのは次元を超えた全く新しい経済と金融の秩序だ。おそらくそこに天に対する信頼性が組み込まれるか、あるいは天情という信頼性による組み直しなのかが予想される。摂理に貢献する自分であれば、その神様の地上への手の入れように何とか加担したいと思うだけで、どういう段階を経てどういう方法でというのは今現在全くわからない。

食口にみるお金に対する価値観の貧弱さ

どうしてお金を得たいと思うか。それはお金の中に何らかの価値を見出しているからで、だから得たいと思う。しかしその価値はお金という衣服を着ているだけで、未来永劫同じ衣服を着用している訳ではない。今ベネズエラのハイパーインフレは手に負えない状況だ。すでに年率1000万%を超えるインフレ率だというマスコミもいて国がどうこうできる段階をとっくに超えている。2008年に1000分の1にデノミを敢行し通貨単位の呼称も変えて整理したばかりなのにこの有様だ。年率1000万%と言うと、1だったものが一年経ったら10万払わなければ買えないという状況だ。1なる通貨単位を纏っていた価値が10万なる通貨単位を纏っている訳で、通貨価値がどんどん冷え込んでしまって10万枚も厚着している状態と言えば分かりやすいだろうか。営業しながら日々お金に携わっているとその価値の内的霊的なものが見え始めてくる。売り上げとしてお金をいただいても背後の本質的価値を見なければ遅かれ早かれ流れていく。流れないように手元にしっかり握りしめていても紙幣という抜け殻を残して価値だけは消え失せてしまう。だから常に本質的なものを見ようと努力しなければならないし、そのように関心を持つことそれ自体が愛する意志を差し出したことになる。そうであれば逆も言える訳で、1ドルしか手元になくてもその1ドルに十倍も百倍も関心を持ち本質的な背後の存在に語り掛け愛そうとするとき、その1ドルは1000ドルにも2000ドルにもその価値を呼び寄せ働くようになる。(断っておくが、1ドル紙幣を神棚に上げて百倍になるように祈祷しろと言っているのではない)そう言う対し方、すなわち愛し方を学べばどんどん寄ってくるようになる。お金がお金を呼ぶというのはその内的霊的価値を認識した者が実感する言葉であって、下心のある者のギャンブルや投資に当て嵌まる言葉ではない。お金に対して先天時代の私達の至らなかったことは、その本質的価値を求める姿勢も体質もなかったために、信仰的苦労はしても万物に対する苦労をしていない点が一つとしてあげられる。ただなけなしの小遣いだけもらって歩んだから苦労してきたと言うけれども、それは生活への忍耐という苦労ではあってもお金や万物の本質を問う苦労とは異なっている。借金やローンに追われる訳でもなかったし、私の理想に向かい達成するためのお金を稼ぎたいとも思っていなかったはずだ。資産もなければ負債もなかった、あればそのまま献金して我関知せず、ということはお金への喜びも悲しみも、そして恨みもなかったはずだ。

疑うことすらなかった観念をまず壊すこと

私たちは復帰という言葉を知っているし、またよく使う。氏族復帰、人材復帰、蕩減復帰に心情復帰、そして万物復帰。長子権復帰、父母権復帰、王権復帰というものもある。万物復帰をいうと、売り歩いてお金を稼ぐかのような使われ方をしてきたものだから、その本質を求めずにきた。しかし万物という意味も、復帰という意味も、合わせた万物復帰という意味も、霊的に尋ねながらその本質に近づかないと、勘違いしたまま万物復帰せずに地上生を終えてしまう。復帰とはサタン主権下にあるものを再び神側に帰することをいう。しかし私自身が神側に復帰された存在でなければ、私が私を中心として復帰という言葉を使うことは許されない。要するに復帰されない私が私自身を含めて所有観念を抱くことは反復帰だった。私を介したとしてもそれはただ素通りしたに過ぎない。しかしそれは先天時代の認識であって、後天時代は180度異なっている。後天時代は所有観念を抱くことと復帰することとは相通じさせることができる。今は蕩減のない時代であり、罪を犯す以前の状態に霊的に復帰されているからだ。復帰されて位置を取り戻したからこそ、祝福の権限を与えられて誰をも祝福できる。万物復帰もそこに私の意志を介して万物復帰がなせる。為せる立場にあるのに、私達の意識が先天時代の信仰観念から抜け出せないままでは、相も変わらず万物復帰は金を稼ぐことという単純な認識から抜け出せない。新しい時代は神様主権の時代であり、それは真の愛による主管を意味している。では万物主管として真の愛によるその意味は何だろうか。万物にはそれ自体の絶対的価値が存在しているはずで、見て触れる万物は絶対的価値の表現に過ぎないのであって、その形状を手元にしても主管しているとはいえない。しかし万物の内的霊的側面に意識の光を当て続けて絶対的価値に触れたとき、初めて万物の意味も、復帰の概念も理解できるようになる。先天時代、殆どの時間を営業に携わりながら訓練され、学ばされ、それを踏まえて行動してきた内容がある。私にとってはそれこそが宝であり、その本質的把握こそが摂理の牽引に貢献できるものだ。

2019年4月30日火曜日

霊界と地上界

ブログに対する質問として、地上の現実は原因的霊界の結果的な表れだと記述した部分に異をとなえられた。地上で歩むことを通して霊界生活の準備をしている訳だから、地上生活は原因ではないかということだ。確かに地上生活は見通せない明日の連続であり、真っ白なノートに生きた今日を記録して繋いでいくわけだが、かといって90%以上の環境圏は生まれ出でた既存の環境と昨日まで生きた自分の積み重ねも含めて決められている。地上生活は結果度9割で残りの1割が原因的なものとなる結果的過去と原因的未来の狭間にある今日と捉えた方が正解に近い。しかし注意しないといけないことは、すべてのことに対して結果的側面と原因的側面の両方があるので、意志を働かせるところ、或いは既に決められていて働かせても意味のないところ、等と区分けもできないしするべきでもない。その意味では10%といっても100%であって、自分の立ち位置を基準にして生きる意識の上では原因的地上生活を送っているというのは正しい。地球は母なる地球と言うように宇宙の胎であり、地上界は霊界の胎内だ。地上界の上に霊界があるのではなく地上界を霊界があんこ餅のように包み込んでいる。地上から夜空を見上げれば星々がちりばめられているが、何億光年も前から届いた光を見ながら創造に携わった神霊達の意志のかけらを見ている。それはちょうど胎内にいる赤子が、伝わりくる母の心音やあらゆる臓器の影響を胎壁の向こうに感じ取るのと同じだ。

2019年4月29日月曜日

カナンの地にたどり着く意味

私達は息のかかった組織や団体を離れて、まわりに食口のいない環境圏に敢えて飛び出さなければならない。そうでなければ意識的に教会の胎からいつまでも抜け出せないままだ。ひと昔であれば教会から外に出れば堕ちた離れたと信仰的敗北者の烙印を押されたわけだが、後天時代の今であれば逆に外に出ないことで教会の甘え体質にどっぷりつかり続け、新しい意識世界に産まれ出ることができない。この世であっても同じ会社に何十年もいて、さらに同じ業務にずっとついていれば時代の動きには当然疎くなる。ましてや世界観が全く異なる食口にあっては尚更だ。私達はこの世の人たちと同じ空気を吸い、同じ時間を過ごし、同じように世界や社会の動きを見てはいる。だからこの世の人たちと変わらない同じ環境圏に生きていると信じ込んでいる。同じ環境圏であることはそうかもしれない。しかし異なる環境圏を見ていることは確かだ。実際はこの世とは異なる環境圏を見ていてそこに合わせて生きている。要するに意識の在り様によって環境の捉え方も、また環境に光を当てる部分も使用する部分も異なっている。この事実に気付かないまま、意識的には教会という胎内に居座り続けるから、この世的に結果を導き出そうとしてもいつもフェイルしてしまう。この世に出てこの世に染まればいいと言っているのではない。この世と同じ世界観に生きろと言っているのでもない。今の環境圏を飛び出し、この世を俯瞰できる位置に立つべきだと言っている。もしみ言葉が正しく理解され消化されているのであれば、胎から飛び出したとしても、この世を俯瞰できる位置まで意識を高めることは当然できる。カナンの地に入ったとしても、その地の住民に感化されて染まるのであれば、それは本当の意味で神が約束されたカナンの地に入ったことにはならない。逆に彼らを感化し得る精神的息吹を起こしてこそ、霊肉共に神が約束されたカナンの地に入ったと言える。

2019年4月23日火曜日

mustか、それともwantか

どこのブログだったか地獄について考えたというのがあった。地獄に行きたくないらしいが地獄に対してどういうイメージを持っているのかどうもよくわからなかった。恐ろしいから行きたくないということなのだが、恐れを抱いていればその恐れ故にすでに地獄ではないですかとコメントしたのだが、誰であっても地獄には行きたくないはずだと返ってきた。要するに恐れを抱いて当然だろうということらしい。食口の理解の大方は霊界は自分の霊的基準の合うところに自分の意志で行くと思っていて、それで間違いはないはずだ。であればわざわざ恐ろしい地獄にいく意味がわからないのだが、霊界についての理解が暗く、悪いことをしたら地獄に行くという認識から抜けきれないでいる。原理を学んだことで論理的思考で判断しているはずだが、意外と原理以前の信じていたイメージにとらわれたままその信じ切っている内容から抜け切れず、原理で学んだにしてもその理解が歪(いびつ)になっている。御父様は地上を地上地獄と表現されている。それは地上がサタンの主権下にあるからそういう表現をされているのだが、しかし地上の人間が地獄だと実感したまま生きているとは思わない。人間の感覚はサタン主権であれば地獄で神主権であれば天国だとは言い切れない。サタン主権であろうが神主権であろうが居心地が悪ければ地獄だろう。ということは御父様はこの世であれあの世であれ地獄を感覚的なことについて触れた内容ではないということだ。韓国人は南北統一を悲願としているけれども、韓国が住みにくいからではなく感覚的な居心地以上に韓民族はお互いいがみ合うべきではなく一つになって支えあうべきという精神的な在り様に立っての悲願だ。それを思えば我々の統一運動、人類一家族運動に於いて地獄に行きたくないからとか条件を奪われたくないとかというのは感情に立っていて、より霊的な精神性の高みに立った動機ではないからそこに食口の低次元さを見てしまい落胆してしまう。430家庭の祝福活動に皆が精を出しているが、街角でサインをしてもらうのはまだ良しとしても、どこかの会員になれば我知らない祝福名簿を送ってもらえて加算されるとか、霊の子の名簿もいくらか加えられるとか、その数字合わせに対して疑問を抱く食口はいないのだろうかと思う。ただの数合わせなのか、それとも本当に祝福をしたという認識が自分の中にあるかどうかは良心が知っている。それを踏まえて、それでもやる意義があると良心の判断を仰ぎ意志するのであれば、それはそれで正しい道なのだろう。

2019年4月18日木曜日

神様をつかむ

摂理とは神様の理想に向かう霊的流れ、すなわち霊的な河だ。そしてその流れには方向性が存在しているが淀みもあれば曲折もあってその様相を時代時代に変えていくさしずめ龍としての生き物だ。私が摂理の只中にいる存在であるのはその通りでも、摂理に意志なく流されている存在なのかあるいは摂理の方向性を決める一牽引者としての存在かでは存在の在り様が異なってくる。意志する存在であれば光輝いている。人間は死ねば星になるという言い伝えがあるが恒星になるのか惑星なのか、はたまた星ともいえない宇宙の塵になるのかは人間として如何なる次元の意志を備えているかによっている。恒星存在としてその輝きを自ら発するためには、自分の歴史的使命を知り得る霊界の河から自らの光源を取り出さなければならない。意志としての光源は決して他から押し付けられて、あるいは指示されてどうこうするものではなく、他がどう思おうがあるいは生活の糧になろうがなるまいが、そのライフワークに没頭する自分を見出すことだ。み旨の歌にあるように確かにこの世の人間は時を知らずに生きている。しかし時を知っていると信じている私達が指示待ちだけの人生で意志という霊的光を放てないなら、時を知っていることが逆に恨みになるだろう。自分の使命は本当のところ何なのか、一体私はどう在りたくて何がしたいのか、結局は己の良心に問いながら見出すしかない。一生懸命神様を外に宇宙に訪ねてきたけれども、私の内なる中に神様を見出す、良心の働きとしての神様を見出した時私は神様の一意志としての私になれる。

2019年3月28日木曜日

私的理想と公的理想

誰でもそれ相応の願いがある。それは真の父母を受け入れている食口だろうが原理も知らないこの世の人たちだろうが同じだ。しかし私達の願いの問題は、より公的なものを優先すべきだという原理観が働いている願いだということだ。それは自らそうしたいというのとは異なり、そうしなければならないという教条的な枷だ。教条的なものは願いとは言わず枷だ。本来公的私的とすみ分けできるものではなく、一つの願い、一つの理想の中に公的意味合いもあれば私的意味合いもあるはずで、しかし私的な側面だけに意識を集中させれば必ず行き詰まってしまうし、公的側面だけに意識を集中させても同じように行き詰まってしまう。食口は個人的に金持ちになってひと財産築いた者も少ないし、摂理を力強く牽引して目に見えるほどに公的に貢献した者も少ない。公私の両側面がバランスよく大きくなっていくということに気付けないからだ。大きな勘違いは自分の体であれまた内的な自分である魂であっても、それもまた公的側面があるということに気付かない。食欲であれ性欲であれ公的側面があるにもかかわらず、私的欲望は悪だと決めつけてしまっている。性欲イコール罪ではないし、様々な個人的欲望、願望イコール罪ではない。より公的に生きる存在は私的な面でもそれに応じてしっかりと生きる。個人的欲望願望の大きい者は公的にも大きな理想を持っている。公私は相反するものではなく、より公的に生きればより私的にも充足するというウィンウィンの関係にあるべきだ。そういう意味でより高い位置にある者がより受け取り裕福な生活を送るのは当然であって、それを否定するのは反ブルジョアを掲げる共産主義者だ。私たちの中にも多くの共産主義者がいて中心者に対して貰いすぎだと批判する。Oの中にはその大きさに応じてXが入るというOXの哲学は後天時代に於いては特に理解し学ばなければならない実践的み言葉だろう。

2019年3月26日火曜日

個人的願望をふまえてこそ公的な責任意識は育まれる

後天時代に入ったということは蕩減のない時代になったということだ。その意味するところが何かというと、意志する自由を取り戻したということだ。先天時代は自己否定し御父母様から指示を受けた中心者の指示に従うのは当然であり、万物以下に陥った堕落した立場で、供え物に口なしという姿勢と行動は蕩減時代の在り様そのものだった。しかし後天時代に入って自由を得たにも関わらず、先天時代の意識をそのまま続けていれば自由を得た意味はなくなる。姿勢や行動は、環境がすぐに変わるわけでもないのですぐ変えようと思えば無理が生ずることは理解できるが、しかし意識改革をせずに先天時代の意識をそのまま続けるのは天の願いではない。ビジネスをやっていて強く感じることは、外部の普通の従業員に比べて食口は意欲が欠けているという現実がある。責任ある位置に立たせようとするとたとえ給料が高くなるとしても責任を取るというような煩わしいことは受けたくないと口にする。しかし他の従業員にそういう話をすると、いくら貰えますかという話になる。より責任を取るということはより公的に立つということだけれども、しかし食口の多くはお金への欲もなければ出世したいという欲もない。手広くビジネスを広げているある先輩の話だと、五つの部門の店のうち食口は一人だけで残りの四つは外の従業員だと言っている。食口にはそれだけの力がないということらしい。より高い位置で公的な願いに対する情熱を持てるかどうかは、個人的な位置でしっかりと願いがもてるかどうか、すなわち欲が持てるかどうかと関係性がある。公的意識の高いどんな事業家も最初はお金を儲けたい、目立ちたい、社会的地位を得たい等々の強い願望があって、事業を大きくしながら個人的願望から国への貢献だとか世界人類への貢献へと公的願望を備える自分へと自分を育てている。個人的欲はことごとく悪だと教えられてきた私達は、ビジネスをやる上に於いてその基が既に狂っている。だから形だけビジネスを広げようとしても個人が徳を持てるよう成長していく基がないのでことごとく崩れ去る。私達の希望は後天時代に入って蕩減のない時代圏を生きているという事実だ。それは最初に言ったように意志する自由を取り戻したということだ。責任の意味を理解するにはその表裏一体にある自由の意味、意志する自由を理解しなければ、責任は数字で表されるノルマ以外の何物でもない。たとえノルマを達成するとしても、次につながる希望も発展的要素も含まない形骸化した数値結果しか残らない。

2019年3月6日水曜日

魂の情的活動からみた2019年

新しい夜明けは冬の真っ只中とは思えないほどの緩んだ大気に包まれた。概して寝起きで朦朧状態であっても、気持ちを引き締めざるを得ないピンと張りつめた空気であれば、否が応でもそれなりの精神性を受け止めている。しかしこの陽気では自堕落になりやすく、年始の気合や決意は疎かになる。得てして大きな災害や社会的衝突は大気も気持ちも緩んだこんな状況の年で起こっている。戦争のない時期にはどの国であっても国民感情は好き放題拡散し続け、ある者は政府に対し、ある者は他国に対し、感情はエスカレートし続ける。それは表面的には平和であって危険度の薄さが国民の感情発散を許している。しかしいざ戦争となると身に迫る危険度は一気に高まるのであり、そうなると国民は感情を引き締めざるを得ない。日本はしばらくの間、表面的平和が続いたせいで国民誰もが言いたい放題だ。好き放題感情発散させて感情を引き締めることなど全く意に介さない。そしてその矢面になるのが現政府であったりするわけで、感情が政府に向かっているうちは良しとしても、国外に感情を向けさせる以外方策はなくなると一線を越えかねない。文在寅政権の反日も国民の意識を政府に向けさせないために必死だ。反日で愚痴っているうちはまだしも、財産の差し押さえや先回のレーダー照射のような事態になってしまうと飛び火では収まらなくなってしまうだろう。韓国と北朝鮮の感情発散は危険域を超えている。ブレグジットも国民感情を野放しにしてしまって、そんな冷静さを失った国民に対して国民投票に打って出てもまともな方向性が出てくるわけがない。あの理知的な英国ですらこんな状況なのだから何をか言わんやだ。いま世界は人類の全体感情がどんどん拡散してとりとめがない。おそらくそういったことが地球にも影響して天変地異も各所で起こるだろう。そして世界的金融バブルはこの年の暮れまでには爆発するだろう。

2019年3月3日日曜日

意志として照らし出す

罪という問題は論理では言い表せない霊的な概念だ。よって罪からの救いという問題も論理を超えた霊的概念と言える。神の存在も霊界の存在も原理という論理で理解はしたけれども、神とと共に生きる、あるいは霊的無知から解放され霊的意味を捉えて生きるというのは、論理をどうこうするのではなく信仰という意志を持たなければ意味をなさない。神の存在や様相に関する説明をいくら紐解いたところで理解がそのまま意志とはならない。意志あるところに神は働くのであり、我救う者を神もまた救う。私たちはこの意志という光を照射する存在であり、意志の光を照らして初めて神様の実子としての創造の業が為せるようになる。受動的惑星存在から主体的能動的な恒星存在となってこそ地球紀に生きる人類としての目標であり神の願いが成就される。しかし意志の光を照らし出す存在と自動的になるのではなく、神様が光あれと意志されたそれまでの路程をそれぞれで周到する必要がある。それが御父様が語られる絶対信仰、絶対愛、そして絶対服従だ。もちろんそれにも意志が必要であるが旧約と新約、そして成約を通して霊的な道筋としての意志は地上に降ろされている。アブラハムの信仰、イエス様の愛、そして真の父母の服従だ。絶対服従という言い方は奴隷を想起してしまうが、神様の人類に対する設計、ブループリントに従う意味での絶対服従であり、それは神様を親とする人類一家族理想を失わないという意味での絶対服従だ。それゆえに御父様はどれほど理想を打ち砕かれる場面にあっても神様の親としての悲痛な想い、人類復帰への執念をして理想を掲げ続けたのであり、まさに神の理想に対する絶対服従だ。その基台の上にあって、もし私達が恒星存在としての意志を持てないとするなら旧約新約成約の基台は崩れてしまう。第四次アダムとしての私達の使命がどれほど大きいかを認識しなければならない。

2019年3月2日土曜日

平面的信仰から立体的信仰へ

どんなに体に良いものだとしても、過剰に摂取すれば毒となる。逆に普通に摂取すれば毒となるものも、量や摂取の方法如何では薬となる。よって善と思えるものも慣れてしまって何の感情も抱かなくなれば悪の発露となるし、悪と思えるものもその逆風で力を得て善に昇華させることができる。清平の先祖解怨と先祖祝福も本当に解怨され祝福を受けているのかと言い寄ることもでき不信を抱くこともできるが、その自分を超えて解怨してもらうのではなく自分の責任に於いて解怨するのであり祝福もそうであって、そうなると清平は先祖解怨祝福の条件的、象徴的なものとして意味を成し光り輝く儀式の場となる。そこに清平摂理を疑う余地はなくなってしまう。かといって清平に行くことで全ては解決して頂けるという他力本願と盲目信仰に留まっていれば、清平はゆくゆくは恨みとなるかも知れない。教会の分裂も、独生女信仰もそういったことと同じように、御家庭を見れば既に勝利圏は嘘偽りであったと結論付けることもできるし御父様を否定する似非原理だと本部の前で言い寄ることもできる。しかし現実を霊的にどう捉えるかはそれぞれであり、御子女様が別の道を行かれることも御父母様の勝利圏を否定するものではないと理解もできるし、御母様の在り様も御父様を否定したものではないという理解に立つこともできる。問題は否定的結果を認めてしまう自分であってサタンに屈していることを自覚する必要がある。ただ盲目的に信じろと言っているのではなく、これらのことを通して自分が一段階も二段階もより霊的知に至る課題としているかどうかだ。勝利圏への理解を平面的なものから立体的なものへと次元を上げられるかどうかだ。ただ盲目的に信じるのであれば最悪だとしても、現実を通して後天開闢時代を生き抜き牽引していく新しい意識を勝ち取ることができれば、サタンに屈したのではなく御父母様の勝利圏をより本質的に相続したと言えるようになるはずだ。

マンハッタンとアランウォーカー

マンハッタンはアランウォーカーの曲がよく似合う。メロウな旋律を奏でる電子音は摩天楼の無機質なこの町をよく表している。そしてこの町の夥しい住人達の表情はその旋律そのものだ。笑うにも微笑むにしても陰りと悲しさが根底にある。久しぶりにマンハッタンを訪ねた。迷い込んだと言ったほうがいいかも知れない。これほど碁盤の目になっている町は他になく道も方角も間違いようがないと思われるが、しかし何度この町を訪ねても迷い込む。碁盤の目の秩序立った上にありとあらゆるカオスが息衝いているからだ。ニュージャージーからリンカーントンネルへと螺旋道路を降りていくと、地底の異次元空間へと錐もみしながら落ちていく。そうして異次元への産道でありトンネルを超えるとマンハッタンの谷間の底に出る。昼のさ中なのに暗い、というか異なる似非太陽が異なる波長の光を落としているようだ。何度来ても落ち着かないし好きにはなれないこの町だが、それでも町の情景を流しながらハンドルを握っていると、この曲のメロディが情景に重なって漏れてきた。それでこの町の在り様が垣間見えた。混沌を秩序立てることで天地創造がなされたように、この町のカオスから新しい文化を創造してきた。カオスから想像、そして創造に至らせる原動力が何かを尋ねたときに、それがカオスの相容れない状況で覚える孤独であり悲哀だと、メロウな旋律を追う電子音が教えてくれた。この町は孤独の原理で成り立っている。地下から這い上がるドブ臭さと汚泥で塗り固められた地表というカオスの在り様の一方で、孤独を突き詰めて排出される叡智と芸術性がその一方にある。だからアランウォーカーのメロディはこの町によく似合っていて住人達は旋律をその輪郭として纏っている。

2019年2月26日火曜日

夜昼の神様 

無意識の私と私という自覚のある意識を持つ私、すなわち夜の私と昼の私と分けられるように、神様も混沌の神々と神々を束ねて一つとする主なる神と分けられる。それが御父様が言われる夜の神様と昼の神様だ。この見解は導き出されたものではなく私という存在を突き詰めれば自ずと見えてくる見解で、よくぞ御父様は講論に記されていない神様の在り様を教えて下さったと感心した。よって宇宙も夜の宇宙と昼の宇宙があり、夜の時期と昼の時期を交互に繰り返してきた。それが夕となり朝となったと繰り返される創世記の記述だ。人間はこの世に生きているうちは昼であるけれども肉体を脱いで霊界に行けば夜を生きる。宇宙が夜昼を繰り返しながら、しかし8の字軌道でスパイラル的に次元を上げているので同じ繰り返しではないように、霊界で夜を生きて後新たな次元で地上の昼へと進路を進めて生まれる。しかしそれを単純に輪廻と言えるかどうかはわからない。ということは私はこの地上を初めて生きているように思えても既に地上生を経験している。とはいえ地上である宇宙も夜昼を繰り返し次元をあげているので周囲に見えるような同じ地上とは言えない。存在の根拠を昼の神様に見るのか夜の神様に見るのかは意見の分かれるところだが、御父様は夜の神様の主管を受けておられるから夜の神様であろうし、堕落の血統から抜け出せない人類は昼の神様に根拠を置いているということだろう。意識が地上に縛り付けられた存在で霊的無知から抜け出せないのに、どうして夜の神様を正しく理解できるだろうか。ある先輩が夜昼の神様を理解できないことを御父様に告げると、ここに書いてあるといわれて理解できないことが不思議だと言わんばかりのご様子だったらしい。どのみ言葉のことなのか定かではないが先輩にしてみれば説明している箇所さえもとんと見当がつかなかった。時系列でしか原因結果を導き出せない私であるのに、どうして時空の創造以前の存在を理解できるのかということだ。私の説明は地上的、すなわち時系列的原因結果で導き出せる説明でしかなく、御父様の理解から比べれば平面的か直線的説明でしかないが、今の私の理解度はそこ止まりであるし、それで十分だ。

2019年2月9日土曜日

創造過程は混沌から秩序への路程

み言葉の理解は霊界様相の理解の上で本質に近付ける。「平和の主人血統の主人」は預言書でもあるが未来の地上の予言というより霊視に近い。黙示録を地上的言葉として理解すれば訳がわからなくなってくるのと同様に、「平和の主人血統の主人」も地上的言葉として理解しようと思わないで御父様の霊視だと捉えて、霊界を理解しようとする意志を同時に持ち合わせながら読み解くことが必要だ。地上の現実は原因的霊界の結果的表れであるけれども、或る事の説明を比喩や例えで表そうとすると何通りにもなるように、結果に対する原因的背景は何通りもあって、よって結果の全ては既に決められているというのは正しくない。このみ言葉に表されていることが言葉通りにそのまま未来に現れるのではなく、霊視はあくまで結果に対する比喩や象徴の類のものであって、結果の在り様は決定される事実とは異なる。「平和の主人血統の主人」は既に100回以上訓読している。走り読みを含めればその何倍にもなる。最近は理解できなくて当然だと思って読み進めているので焦りはないのだが、このみ言葉の背景に段階的土台となるみ言葉があって当然で、更にそのみ言葉は「平和の主人血統の主人」の過去にさかのぼるみ言葉と後に語られるみ言葉も含まれ殆どみ言葉の全てにわたる。そうなると自分一人はおろか、数代にわたってみ言葉研究しても追いつかないだろう。結果的存在の地上人間から原因的存在としての霊界人間になれば、せめて疑問に思えた部分においては答えを得ることができるという期待もあるが、地上で解いてこそ意味があるのであってその理解に至る身悶えは混沌から秩序への創造過程だともいえる。教会の混乱の事実とそれに付随する摂理の混乱、個人の混乱も含めて、それは創造以前の混沌状態と同じであって、良心に映し出されるみ言葉の本質と照らせ合わせながら秩序立てていくことが要求されている。混沌から秩序へと後天開闢時代の基礎造りに励んでいる。

2019年2月2日土曜日

歴史的結実体

歴史的結実体という言い方をどう捉えたらいいのだろうか。歴史の中に生きている意味はわかるし、歴史を作る立場であることもわかる。しかし結実体となると関わり知れない生まれる以前の歴史と自分が生まれたことの関連性を見ることであり、さらに歴史と自分が原因と結果の関係性にあることを言っている。単純に考えれば歴史を通して血筋を繋いできた最後尾に私がいるということなのだが、血筋の結実体ではなく歴史的結実体という言い方にしたのには何かあると捉えるべきだろう。血筋を遡っていけば必ずアダムとエバに辿りつく訳で、途中で途切れることはあり得ない。歴史も遡っていけばアダムとエバの時代に辿りつくが、この場合人類全体としての一つの歴史を想起することになるが、血筋を遡る歴史となると親からその親へと倍々に増えていくわけで、振り返る過去の歴史は人類歴史という歴史一つではなくありとあらゆる歴史的流れと歴史的要素を含んでおり、そうなると歴史的結実体という場合実に複雑だと言わざるを得ない。数え切れない先祖の願いを結集した摂理的使命を受けて生まれた立場であり、また同時にこうも言え、結果存在としてのあらゆる負の原因を蕩減する立場で生まれてもいる。歴史的結実体が真の父母との因縁を持ち祝福を戴いて心情を相続し、よって新たな血統圏に組み入れられるという意味は、複雑極まりない先祖の願いを受けていた立場から天が認めて願う中心的願いに結集されるということであり、逆に私が先祖達の先祖として原因的立場となり、先祖達こそが原因である私の結果存在となるから原罪や様々な罪から解放されることになる。地上的論理では理解を超えるが、霊界は時空を超えた世界であるからその論理が当て嵌まってしまう。第四次アダム圏として立つ私達は蕩減復帰歴史の歴史的結実体から後天開闢歴史の歴史的創造者としての位置を戴いて天宙歴史の出発点にいる。神様という創造主、真の父母という創造主、そして私という創造主の創造主三代圏をして新しい天の歴史が築かれる。

2019年1月26日土曜日

今日の想い 1036

今年は考えられないような大きなことが起こる。まさしくそうだ。それは南北統一だ。それも文在寅政権の左派民族主義による南北統一だ。レーダー照射がどうのこうのと言っている段階はとっくに過ぎている。照射してミサイルをぶち込む気満々であり、北のミサイルは全て日本に標準を合わせている。願うは早々に一発お見舞いしていただきたいくらいだ。そうでもされなければ日本は一向に目を覚まさない。あまりにも平和な時期が長すぎた。目を覚まして憲法改正、スパイ防止法制定、有事立法制定と決めねばならない法案を即座に通過させ、日本国の護りに全国民あげて意識を集中させるべきだ。在韓米軍が撤退する頃に腰を上げていては間に合わない。或る年の年頭に語られたように、このままでは本当に日本は五つに分断されかねない。日本食口も早々に身の振り方を考えなければならない。主の国を想い続けて来ただろうし貢ぎ続けてきた。ならば韓国に移住するのも一つの答えだろうし、分断されるかもしれない日本に留まり日本の霊的柱になるのもそれも答えだろう。どう決めるにしろ今までの様にアベルに言われたからというような他人事では決められない。日本が目を覚まさなければならないように、日本食口も目を覚まさなければならない。どう選ぶにしろ地獄を通過する覚悟のある者しか摂理には関われない。左派であろうとそれでもこの南北統一が摂理の主流なのか、それとも本来の南北統一ではないので分かれる支流として摂理の流れを分かれた両者に分担的に継承させていくのか、御父様がポロっと言われた、延長したとしても2034年には最終的に、、という言葉がこの東アジア情勢の危機を考えた時に脳裏に浮かんでくる。御母様が御父様をメシヤとして産みかえたというのが正しければ、母の国が父の国を主の国として産みかえたと言える状況もあり得る。

2019年1月23日水曜日

今日の想い 1035

信じていた大地が突然崩れ去り、私達は突然、大海の中に放り出された。大地とはすなわち御父様だ。地上におられた御父様を突然失って、何の準備もないまま混乱と混沌の荒ぶる大海に放り出された。ノアの洪水審判と同じように、大海審判として航海を進めて新たな大地を目指さなければならない。この航海にも確かな羅針盤が必要で、だから御父様は良心という羅針盤をそれぞれに用意させるよう良心宣言を通達されておられる。良心は親に勝り先生に勝り神様に勝るというみ言葉だ。摂理という潮流があり、摂理の流れに多かれ少なかれ関与してきた。或いは摂理の流れを航海していく何らかの船に乗ってきた。それは家庭連合という船であったり、家庭連合船団の一つであったりするわけだが、そこに乗船していれば確実に摂理の目的地に到達すると信じてそうしているはずだ。しかし羅針盤は私達の只中、良心にある。良心に従えばこそ家庭連合に乗船しているのか、或いは家庭連合を良心に従って方向を正そうとしているのか、しかし認識すべきは家庭連合は統一教会というピラミッド組織ではなく、家庭が集まった組合組織だ。要するにそれぞれの家庭が個々の船だということだ。はっきりしていることはそれぞれの良心に従って航海することで、それぞれの取る進路が異なるとしても、最終的には新たな大地を見出す航海となる。皆が皆画一的な道筋を取らざるともそれぞれの良心が神に繋がっているのだから必ずや摂理を結果的に勝利に導く航海となるはずだ。韓国の反日に異を唱えるように反御母様として旗を掲げる者達には異を唱えて当然かも知れないが、しかし摂理への天の働きかけの妙は複雑で何が薬となるか功となるかはその場その場ではわからない。

2019年1月16日水曜日

今日の想い 1033

文在寅政権は南北統一に向けて明確に駒を進めている。彼の中には打つ手打つ手の順序まで既に用意していて、日本に仕掛けるすべての罠は突発的に起こったものではなく、南北統一に向けて用意周到に切られたカードであることをみ抜かなければならない。日本にとって不幸なのは、反日がもっとも統一には有効であることと、どんなに日本にちょっかいを出しても口うるさいだけで日本は手を出せないし出してこないことを確信していて、好き放題日本に仕掛ける決意と、とことん日本を悪者にすることの覚悟はできていて何の躊躇もない。それはある意味腹の座った人物ともいえる。しかし日本は腰が引けていて政府も自衛隊も何もできない。政府は何をされようが遺憾ですとしか言いようがなく、自衛隊はやられてもやり返せず結局は逃げるしかない。魂の抜けた群れに成り下がった日本民族であって解体されるのは時間の問題だともいえる。天は自らを助ける者しか助けない。我が民族は我々で護るという覚悟のない群れに神は共にいない。言い分は日本が正しいのはわかりきっているが、正しい者が勝つのではなく腹の座った者の方が勝つ国際社会であることをわかっていない。御母様がどう思っておられるかはわからない。そして御父様の願われた南北統一の筋書きと同じかどうかもわからない。しかし左翼政権であれ何であれ南北統一への機運は最も高まっている。筋書きはどうであれ兎に角形だけでも統一させて、器に入れるものは後からという論理も当然成り立つ。問題は日本食口としてどういう立場を取るのか。アベル魂は、慰安婦でも日本の非を掲げたように、いわゆる徴用工であれそして今回の照射問題であれ日本の非を掲げるのは信仰なのだろう。平和ボケで何でも許される日本だからそんな立場を取っても居座ることは出来る。主の国を愛するというアベル魂に任せてしまえば、日本は解体してもいいということになる。私は摂理観からくる正しい正しくないという立場よりは愛する日本を立ててこそ愛は私の中で花を咲かせると思っている。それはアベル魂ではなくカイン魂だ。私はどこまでも摂理を知るカインの側だ。主の国を立てて当然という論理が立つなら、母の国を立てて当然という論理も私の中では立つ。御父様と言い分の異なる御母様に従うという論理が立つなら、韓国ではなく日本を立てるという論理も許される。南北統一が天の願いである以上、そして今の韓国が容北的かつ反日である以上、日本は遠からず解体される。しかしそれでも日本の側に私は立つ。

今日の想い 1032

イメージとして捉えている理想世界を壊す必要がある。人類一家族の言葉は神の理想として正しいが、捉えているイメージは壊して幾度も修正し直さなければみ言葉としての人類一家族理想には近付けない。言葉は与えられたけれども捉えているイメージは言葉との距離がある。言葉を理解するとは、イメージを壊し続け修正し続けて言葉にどこまでも近付けることだ。昔の私は受け取るみ言葉で短絡的なイメージ形成をなしてしまって、その権威に屈伏し従ってきた経緯がある。要するにみ言葉を受けて勝手に捉えるイメージに圧倒されたから、献身もし摂理の願いに応えるべく絶対服従してきた。復帰される世界は愛の世界だとしてもイメージとしては共産国家のような一党独裁か真の父母が立つ王政復古のイメージが強かったし、そのようなイメージを理想と捉えて摂理に歩む意志とした。しかしその理想社会のイメージは教条主義的ではあっても自由主義的ではないことに次第に気付いていく。愛の本質を捉えるとすれば人間に与えられている責任分担という自由配慮の域があればこそ問われるものだから、全てが取り決められている世界が愛の理想世界とはならないはずだ。人類一家族は家庭理想の世界化ではあるけれども、家庭には様々な家庭像があって祖父母がいて父母がいて子供がいるという決められた家庭像を誰もが受け入れる訳でもない。一夫多妻の家庭もあればシングルマザーという家庭もあるし、さらにLGBTの複雑さをどうするのかとなるとそれは神の願いではありませんと一蹴するしかなく、納得させられる論理も感情も私達の中には持ち合わせていない。教会はあまり触れたがらないが生まれ持った性への方向性として既にあるものだから、たとえ原理を受け入れるとしても複雑な問題であるのに、未だに教条的な縛りの域を出ない。今はそういった者達は切り捨てるしかなく私達の原理の理解ではこの問題に対して無力に近い。私達が天の心情を霊的血統として相続した群れであるなら、誰一人真の愛に触れずに救いから漏れる者を出すべきではないだろう。その為には私達の教会が教条主義から脱しない限り真の愛の群れとはならない。真の愛を享受する群れではなく、真の愛の開拓者であってこそ御父様に顔向けできる。教会内のごたごたに翻弄される暇があるなら、社会の様々な問題をどう解決していくべきか、そこに本腰を入れるべきだ。天国に入ろうが地獄に落とされようが、霊界がそういった教条主義なら霊界さえも真の愛で立て直すべきだ。

2019年1月11日金曜日

今日の想い 1031

朝日がさしてくる。朝日の柔らかい光が私の頬を赤く照らし、そして地上への活動を促す。愛の活動とは愛する戦いであり、犠牲が伴うのは当然で犠牲のない戦いはないし、生きる上での恩恵として受け取るすべては過去の霊肉の存在の犠牲の賜物だ。食物となる犠牲の上にこの生命を維持しているように、ひとつの生は数え切れない死の上に成り立っている。私達は地上では頂点に存在しているものの、そこにただ君臨していれば善しとされるのではなく、魂と霊の犠牲を供えることで霊的高次元の生命のために活かされる。神の願いに生きたのなら神に繋がって神に所属し、地を支配している霊的存在に委ねて生きたのならサタンの所属から離れられない。地上のどこに所属しているかが問題ではなく、その位置でどう愛する戦いを繰り広げているかが問題だ。祝福を受けた者にとっては祝福を受けたかどうかが問題ではなく、祝福中心家庭の位置で祝福圏を広げる為にどう戦っているかが問題だ。この朝日を胸いっぱい吸い込みながら地上の恩恵を享受し、感謝を愛に変えて一日の霊の呼吸を吐いていく。すなわち今日一日を通して愛する意志を差し出す。愛さない者に生命の尊さはわからない。犠牲を知る者しか莫大な犠牲の上に紡がれる生命の輝きは見えない。私は愛の実を味わうだけの破壊者か、それとも愛の種を撒いて育てる創造者か、どちらの立場に立っているかはあらゆる犠牲への感謝から犠牲への意志、愛する意志、為に生きる私を紡ぎだし差し出しているかどうかだ。

2019年1月8日火曜日

今日の想い 1030

2019年の船出だ。過ぎ去った2018年の航海をどう捉えるか。2018年は何処から出発し何処にたどり着いたか。2019年の航海に出ても同じように位置が把握できず羅針盤が働かなければ、摂理の本流から見て支流の更に支流の流れに留まったまま、神不在の時空を曖昧に彷徨うことになりかねない。それは全体摂理の視点には立てない、すなわち摂理に歩むその霊的恩恵を理解できず受け取れない。地上的には時間と空間を移動しているものの霊的には迷って方向性を失っている。世界的流れという潮流がありながらそれを捉えられず取り残されるように、霊界も含めた天宙的流れの潮流があるはずなのに、原理にしろみ言葉にしろ自分流に捉えた神や摂理のイメージで柔軟さを失い、その動向を受け取れないか無視したままだ。基本私達の理解は個人や家庭の問題課題があって、それに縛られて摂理に貢献できていないと思っている。しかし今の私はどう思っているかというと、支流から本流に合流するように、個人的家庭的問題課題と全体摂理とはリンクしていて、一概に今抱えている問題のせいで本流である摂理と無関係だとは言えない。意志あるところに道ありと言うように、愛する意志あるところに神の摂理ありと信じている。御父様が言われたように、天国に入籍できる自分になるより天国を建設する自分になるほうが神の願いだという思いを強くして、それでこそ前向きになれるし新しい年に希望を持って船出できる。一世から二世、さらに三世にどう引き継いでいくか、祝福をどう与えるか皆が悩んでいるが、実はそんなことを思い悩んでも神は働かない。愛するとは信じていることを押し付けることではないにも関わらず、愛の何たるかを学ばずに受け取るものをそのまま押し付けてここまできた。430数も先祖祝福もそれが押し付けられたものではなく、能動的な自らの愛する意志としての行動でない限り神は働かない。少なくとも親として子に対する想いや行動には神が共にあり働いているように、神が共にある、即ち摂理の本流を航海する2019年にしたいなら、愛する意志としての自分になることを先ず決意することだ。