2018年12月28日金曜日

今日の想い 1029

神様はかわいそうで孤独な神様だと教えられた。しかしそんな神様を救おうと生きるには現実の自分はあまりにも脆弱だった。自分が生きるためだけに精一杯だった。先ず強くなりたいという思いに駆られると、教えられた神様像は私が信仰を維持するには不釣り合いだった。私の神様像は人情を超えて強くて愛するイメージに変わっていった。そして愛されたいという意識では神様には出会えず、自分がイメージする神様のように愛するという意志でこそ神様に出会えると信じた。私が神様に出会えないのは私の愛する意志、その意志からの行動に不足があるからと認識して、愛する訓練の月日を重ねてきた。献身生活も愛する訓練、献金目標を達成するのも愛する訓練、アベルに従いその度々に願われる摂理要求に応え、個人的な願望は捨ててきたのも愛する訓練だと何の疑問も挟まず信じてきた。しかしいつの間にかその行動自体に意味があると認識してしまい、愛する意志を得ることをいつの間にか忘れてしまった。従って私自身、愛の人格を備えているかと問われれば否と答えるしかない。確かに自由はそれなりに犠牲にしてきたかも知れない。しかし自由を犠牲にしてもそれと引き換えに愛する意志を備えられるわけではない。しかも中心者は愛する意志を持つという個性完成に関しては食口を気付かせないままにしており、個性完成への自由という翼は縛られたままだ。先祖祝福を達成させようと焦り、誰彼なく祝福させようと焦り、子供に形だけの祝福を受けさせることに焦り、しかしそんな祝福は神様が願われる本当の祝福だろうか。そこに愛する意志、為に生きる愛は投入されているだろうか。焦り故に清平に救いを求めて、そこに愛する意志が投入されていると本当に断言できるだろうか。真実はというと、結果だけを求めるのみで愛する意志などどうでもよかった。新約には、愛とは、、と始まる聖句に聞くに良い綺麗な言葉が並んでいる。しかし本当の愛は尋常では許せない者を赦し、打ち殺したい者を愛するという、それは聖句によってイメージされる美しい愛ではなく愛という名の熾烈な戦いだ。愛が戦いであるが故に私達は成約勇士であった。神様はかわいそうで孤独であると理解する以上に、戦われる神様であることを理解した方が、現実という食口への無慈悲な仕打ちを悲嘆しなくていいし、神様に対して泣き言を訴える必要もなくなる。事実、本人では蕩減的課題としては消化出来ないほどの現実を抱えている。私達は霊的戦いの最前線にいる。普通に人生を生きれば起こらないようなことを引き受けながら、それは祝福の理想を今現在生きているのではなく、祝福という人類の理想を獲得するための愛の戦いを生きている。

2018年12月22日土曜日

今日の想い 1028 (高次の事情と人間の事情 その2)

アダムとエバに陽と陰を分けなければ堕落はあり得なかった。愛の問題、というより愛の実である性の問題は神が創造された人の問題ではなく、主なる神が地上の土のちりで造られたアダムとエバの問題だ。原型は神の創造された人こそが原型で堕落とは関係がなく、イエス様はその原型を宿した肉体として地上生を歩まれた。御父様の勝利、御父母様の勝利圏は天の心情を相続され、その原型を宿すに至ったが故の勝利圏だ。御母様にしてみれば、超えてみればすべて愛であったとまでは現段階では言えないだろう。真の母として勝利されたと御父様に言わしめるまで、どれ程の困難があったか。その抵抗勢力の殆どは御父様の存在そのものに違いない。そしてそれが逆説的に御母様を真の母として勝利させた。最大の抵抗勢力が霊的には最高の位相に直行させる。絵に描いたような理想主義しか受け付けない現代社会であり、私達ですら真の父母や真の家庭への理想的イメージを掲げてきて、それとのあまりの違いに言葉も出ないが、そういう私達も理想家庭の幸福のイメージとは程遠い辟易する事情に翻弄され息もつけないほどだ。御父母様の祝福圏にある私達は、理想家庭のイメージからは想像もできないほどのありとあらゆる十字架を背負い、霊界に旅立って初めて、過ぎてみれば全て愛であったと口にする。霊界と地上界は裏と表であって、地上で病に侵されその不幸に立ち向かった分、霊界では健康体になる。健康への有難さが霊的健康体の力となる。地上で困難が多ければ多いほどそれに立ち向かう意志を強くせざるを得ないのであり、その意志こそが霊界に於ける霊的安寧の力となる。生きるとは愛する戦い以外の何物でもない。その愛が本物かどうかをありとあらゆる角度から試される。神に対して恨みの一言も言ったことがないという人間を私は信じない。神を恨むほどの困難に見舞われていないだけのことだ。私達は生涯、そして二世三世までも、苦労の百科事典であり続け、恨から始まるありとあらゆる涙を流し続ける。そうしながら私達の愛が鍛えられる。御母様は壇上に立たれて話されるときには涙が絶えなかった。涙で始まり涙で終えられた。その御母様は今、涙を封印された。敢えて神の権威を立てられながら私達が御母様に代わって地の涙の存在となることを選ばれた。私達はあらゆる涙を流し、恨みやもろもろの全てを愛に昇華させ、それでこそ全ては愛であったと言える成約勇士として正しく昇華できる。

今日の想い 1027 (高次の事情と人間の事情)

6段階の創造の最後に神は人を造られたとあるが、ここで認識しなければならない点がふたつある。男と女とに造られたと記してあるけれども、聖書の原本には男であって女に造られたとある。即ちここでいう人はアダムとエバではなく両性存在であって、二性性相の中和的主体である神と同じに造られたということだ。二つ目はこの人という存在は地上の人ではなく霊的な存在だ。それは創造の御業を終えられてから休息を取られたが、天と地を造られたとき野の木も草も生えていない、地上の人はまだその段階ではいなかったということになる。そうして主なる神が土のちりで人を造られたのであって、これこそが人間の肉体を持った初めての人間となる。ここでもう一つ触れておかなければならないことは、創造の6段階までは神の業だが、地上の人を造られたのは主なる神だ。私達は神と主なる神を同じ神として扱っているが、ここを素通りするべきではなく、主なる神(中心の神)とある以上創造した神は複数存在であることがわかる。御父様が晩年に語られた夜の神、昼の神は、夜の神は6段階創造までの複数的神であり、昼の神は地上の人を造られた主なる神、すなわち複数の神を一つにした中心的神だということが理解できる。昼の神は失敗したが夜の神は失敗しなかった。アダムとエバに陽と陰を分けなければ堕落はあり得なかった。しかし堕落はあり得なかったけれども、愛を愛らしくすることはできなかったはずだ。堕落した人類は蕩減の道を歩んできたと同時に、愛とは思えない身に降りかかる事情でありながらも、それを試練の愛として愛に昇華する戦いを繰り広げてきた。もしそうでないなら、蕩減復帰の事情に宛がわせる為いくつの魂を抹殺させるかという、低次の人間は高次の神のカードとしての役割に過ぎない。人間は愛ゆえに愛に帰依しているがゆえに永遠だ。犠牲は忘れ去られ消えてなくなる只の被害ではなく、至高の愛として永遠に輝く愛の実体化だ。

2018年12月11日火曜日

今日の想い 1026

私のように悩んで悩んで悩みぬいて生きる者もいれば、見ようによってはそんな単純な思考で割り切って生きていけるのかと思えるような者もいる。教会の食口は誰もが悩みぬいて来た同じ者達なのかと思いきや、食口の中にも単純で軽快な者達が意外と多いことが伺える。特にここ数年の混沌期にあっても、御父様御父様と口にしていたのにいとも簡単に御母様御母様と言えるほど割り切っている。そういう者達は概してポジティブであり、結果や現状に悲観もしなければどんな目標を与えられても喜々として前向きに捉える。そうしてそういう者達が先頭に立ってきたが、さして今まで結果が実った訳でもない。さらに結果が出ないことに対して責任を感じている様子もない。私のような人種からすれば遊び感覚のまま生きてきて子供がそのまま大人になったように思える。この違いがどこから来るのかと長年思っていたが、要するに霊的背景が異なっているのであり、私のような人種と敢えて言ったが人種が異なっていると言っても過言ではない。私のような人種は過去生が何度にも及ぶ古老の魂存在だが、単純な彼等は過去生が数度にしかならない若輩の魂存在だということがわかった。前者がカインの魂であり後者がアベルの魂だ。カイン魂はアベル魂を冷ややかな目で見ているものだが、そして案の定辛酸を舐めていないアベル魂は地上の実を収穫するには至らないが、しかしそれでもアベル魂を突き放すのではなく丁寧に教えてあげてしっかりと地上の実を収穫できるほどにしてあげてこそカイン魂は天が主管することができる。ブログ村で批判論評を繰り広げているのはカイン魂であり、御母様を持ち上げポジティブな言動に終始し、そのうち奇跡でも起こると信じて喜々としているのがアベル魂だ。しかしこれは魂の領域の話であって、神霊が共にあるかどうかは魂を超えた霊の領域であって、神霊という父を中心としなければカイン魂とアベル魂は一つにはなれない。地上の摂理は御母様が担われて当然だが、単純なアベル魂が御母様を支えていればそれでいいという話ではなく、御母様が本来の御母様として立てるようにカイン魂の立場でどのように行動するかにかかっている。ここにおいて父子共助という言葉が意味を為す。神霊(父)に沿わなければ只の御母様批判、家庭連合批判で終わってしまうからだ。

2018年12月2日日曜日

今日の想い 1025

キリスト教は善悪が明瞭に分かれている。神とサタンは相容れない領域をそれぞれが主管し、その領域を超えて働くことは普通あり得ない。善の行動に悪が関与することはあり得ないだろうし、その逆もその通りで混同する曖昧さを許さない。それ故にキリスト教は教条主義的でもある。初期のキリスト教が敵視していたのがマニ教だった。キリスト教がユダヤ教の系統からくる一元論であるのに対して、マニ教は二元論だ。しかしマニ教で言うところの二元論を詳しくみると、善に抵抗することを悪というなら悪は滅びることはないという意味であって、悪を肯定し悪であることを当然とする訳ではない。神が光あれと意志された天地創造の一段階から、神の意志に抵抗する存在は存在し、それ故に絶対信仰、絶対愛、絶対服従をして神御自身通過しなければ創造の業は為し得なかった。マニ教流に述べるなら、善の中に抵抗する力が悪の芽として存在しており、悪の中に悪を超えて善の花を開こうとさせる善の芽が存在している。御父様流に述べるなら、過ぎてみれば全て神の愛であったと語られるその一言に凝縮されている。ようするに抵抗も神の愛だということだ。人類歴史がここまで流れてきた背景には、人間精神の前進に対して抵抗する力に屈しなかったとも言えるし、抵抗する力を受けることで前進はより免疫力を備え、抵抗する力に逆説的に力を得てきたとも言える。マニ教の信者達は彼等自身のことを寡婦の息子達と呼んでいた。古代から流れ伝えられてきた秘教では、神霊として魂に働きかける存在を父と呼び、受け取る魂を母と呼んだ。人類は堕落によって地に下ったので人間の魂から見ると天の神霊は亡き者となってしまった。よって人間の魂は夫を失った妻の位置にある。ギリシャ神話のオシリスとイシスも同じ関連性の話として伝えられている。御母様もその関連性でみると御父様を亡くされた寡婦の立場であり、私達は寡婦の息子達娘達だ。実体み言葉として御父様が立たれておられれば、抵抗を悪として前線を明確に引き、抵抗に対して戦う意志を全面に打ち出して歩んだが、御父様が聖和されて寡婦の息子娘達となった今、抵抗の力を敢えて近付けながら、そして抱擁しながら逆説的な前進の力を得て行くという私達の在り様にならざるを得ないと思われる。文在寅大統領が親北であり政権は左翼思想に浸かっているが、御母様が中心の後天時代、思いもよらない御業が働いて摂理に前進的になるやも知れない。何があっても不思議ではない時代圏を生きている。

2018年12月1日土曜日

今日の想い 1024

夏が去り、秋が去り、冷たい冬が木枯らしに先陣をきらせてやってくる。私はというと、木枯らしはおろか、冷水を浴びせられて夏と秋の夢から冬という現実に引き戻された。こんなショックで魂の冬に連れ戻されるとは思ってもみなかった。今思うとこの夏は夢心地だったのかもしれない。日々の仕事から解放されて、寂しくもあったが安堵の方が大きかった。これからすべてうまくいく。そんな心地よい夢を見ながら、生きて果たす使命を忘れていた。冬の現実に引き戻されて使命を思い出したのではなく、為すべきことを忘れることの結果を先ず見せられた。苦痛と孤独の現実という結果だ。この冬はどこかに置き去りにした自分の使命を探さなければならない。それは自分の生きることの目的であり意味だ。いつから迷い道に入ったのだろう。いつどこで捨ててしまったのだろう。神はこの目に見えることはないし耳に声することもない。その感情を直接表すこともされない。しかし神の使いは現実という変えられない事実に手をかける。現実を通して神の使いの意志を知り、手足である神の使いを通して神の想い、心情を尋ねる以外ない。厄介なのは神の使いが無表情なことだ。私の内臓が無表情に働いているように、神の使いである天使達も無表情に意志を下す。この天使達のやり方にどれほど憤ったことだろう。何度こぶしを振り上げたことだろう。言葉もなければ前触れもなく、表情すら捕らえられない天使達。しかしそんな私にお構いなく、淡々と行動に移す。妻が病に翻弄されたときもそうだったし、心を開かない子供に感情を弄ばされたときもそうだった。しかしだからと言って神も無表情であるはずがない。喜怒哀楽を共にする神であればこそ喜怒哀楽の生身の人間がここにいる。論理はそうだけれどもその神に合おうとすればそこに私の信仰が要求される。だから信仰を繋いでここまで来た。未だ神の心情に直に触れる体験はなかったとしても、信仰で希望をつなぐ以外道はない。束の間の儚い自由は冬の現実にたたき起こされることで露と消えた。儚い自由の代わりに繋がれたまま切れない罪の鎖が足首に喰いついている。

2018年11月29日木曜日

裁かれる

私は霊的捕虜として捕らえられている。それは例えれば心臓収縮による痙攣によって息詰まるというような、そんな重すぎる告白を浴びせられることから始まった。私の魂の中には解決策どころか、どうしてそんな事態が起こりうるのか僅かの発想すらもなかった。血流が止まって思考が全く働かなかったし、今思い出そうとしても吐き気を帯びる緊張感で息苦しくなるだけだ。この小さな私の魂に、これほどの重い十字架を何処のどんな存在が運び込んだのだろう。しかし前に座って何の悪びれる様子もなく、笑顔で溢れるその表情は幼子そのもので、それが更に背負わせた十字架を重くした。日頃は見ないその笑顔が悲しくて悲しくて苦しかった。幼子をまんまと餌食にしておきながら、背後にいる悪魔は私と目を合わせるでもなくその場を見守ったままだった。その場にいる間、そして今でも、私はというと激しく金縛りにかかったままだ。魂は縛り付けられて息をしているのが不思議なくらいだ。あくる日になって、喘ぎながらもやっと涙がほんの少し流れてくれた。本当は滝のような涙を流したい。親としての涙。み言葉を渡せなかった涙。そして恨みの想いも涙となって溢れて欲しい。どうして先祖は守ってくれなかったのか。神様はどうして悪魔の行動を許したのか。ここまでの事態になっていたことにどうして自分は気付けなかったのか。一瞬にして地獄の底へ突き落された。這い上がる気力は全くなかった。そして私は心を閉ざし、時間の経つ秒針の音だけを追いかけている。今は何も考えたくない。できればこのまま消え入りたい。

2018年11月24日土曜日

今日の想い 1023

イエス様が十字架に処せられず、3年を超えて生きて摂理を進めて行かれたならどうなっただろうか。原理はイエス様が結婚されるべきだった、そして真の家庭を築かれるべきだったという立場だが、もしそうなったとしても私達が思い描くような地上天国がすぐにでも築かれるというようなことは先ずないだろう。家庭を持たれても紆余曲折あったと考える方が普通だ。御父母様が家庭問題で紆余曲折あるのと同じように様々な問題が起こったはずだ。私達、特に日本人の習性として結果を急ぐあまりに遅々として進まない現状を悲観しがちだけれども、少しでも一歩でもより神側に近づくならそれを善しとすることを学ぶべきだ。目標を掲げることのマイナス点は、目標に近づいたとしても目標を達成しなければ目標の値は裁きの値、善悪の分岐点として使われてしまうということだ。目標を掲げることで目標に近付けたという善を否定している。先祖解怨の代数や氏族復帰目標も達成数を前後して一方は天国で一方は地獄だ。御母様についても完全否定するサンクチュアリもおかしいが、何から何まで完全肯定する家庭連合も考えものだ。キリスト教が全世界に広まったのはパウロの影響が大きいというのは誰も否定しないだろう。御父様はパウロ神学の悪なる影響について話されたこともあるが、しかしパウロを全面否定された訳ではない。にも拘わらず内輪でパウロは評判が悪い。本来パウロの功績は功績で褒め称えるべきなのにそうなっていない。自分自身も含めて、御父様が苦情を口にされれば枝葉も含めて全面否定してしまうという、実に単細胞な我々だからこそ進めることができた摂理分野もあるが、逆に汚点を残した分野もそれ以上にあって大いに先天時代の歩みを総評して反省すべきだ。キリスト教を世界に展開する上での多くの知恵がパウロを中心として与えられたように、天宙復帰の知恵は霊的血統を相続する第4次アダムとしての私達に授けられる以外なく、様々な霊的知恵が器を用意する者達に与えられる。D-DAYとして一大神霊復興のハリケーンを起こすべく立ち上がる聖徒は何処に用意されているだろうか。

2018年11月19日月曜日

今日の想い 1022

ナッソーコロシアムで御母様の大会が行われた。先回のマジソンの大会もそうだったが、兄弟をかき集めて席を埋めるのではなく、繋がっている牧師達が率先して動員をかけ大会を成功させるという、理想的な形に近づいてきた。三分の二は外からの動員だという話も聞くが、おそらく半々くらいだろうか。しかしそれにしても随分様変わりしてきた。独生女と神の一人娘とは同じ意味だが、英語ではひとつの言葉のみであって、それを逆翻訳すると神の一人娘ということになる。御父様をイエス様の再臨と信じれば当然神の一人子であって、そうなると御母様が神の一人娘というのも当然の事として受け止められる。おそらく牧師やクリスチャン達への説明に、御父様は原罪ありで御母様は原罪なしというような疑念を抱かせかねない説明などないだろうし、御父母様を元々受け入れたのだから御父様が聖和された今御母様に侍って当然だということだろう。御子女様が分派として立っておられることなども我々と違ってさして意に介さないらしい。原理の論理性から発して御父様のみ言葉へと論理を組み立ててきたその土台の上で御母様の言葉をあれこれ判断する信仰観と異なり、ハレルヤ感情、特に黒人教会はその感情を高めて受け取るものを第一とする信仰観だから御母様に向かうのにハードルはないのだろう。その違いが大会の半分近くの席を埋める6000人を超える聖歌隊に象徴されている。実体み言であられる御父様は長いみ言葉を語られたけれども、御母様は壇上に立たれて、易しい言葉だがしかし簡潔明瞭に、柔らかいがしかし力強く、御父様とは全く異なる聖霊実体の権威をもって聴衆に諭(さと)される。アメリカは御母様のこの頭を使わず感覚的な胸で受け取る短い登壇を歓迎するはずだ。勿論参加しているのは黒人教会やクリスチャンのみならず多くの宗教宗派に及ぶとしても、彼等も同じ場に居て同じ霊的興奮を味わったはずだ。ACLCの活動がこのように実っていることは御母様も喜ばれたし、御父様も勿論喜んでおられるはずだ。私としてはとにかく、御母様の顔がほころび、笑みを伺えたことが何よりも嬉しい。

2018年11月12日月曜日

今日の想い 1021(心情を見るのであり、心情を相続する)

聖書を読めば美化されたイエス像だけが浮かび上がるが、彼が生きたその生き様は実に破天荒なものだったはずだ。普通の善人で十字架刑という極刑を強いられるとはどうも思えない。またマグダラのマリアとの女性関係もあったと思っている。そうでなければ当時夫かそれに準ずる関係にあったユダが、マグダラのマリアとイエス様との関係でもなければ銀貨で裏切るほどにまで悪化した事実の説明がつかない。ユダは財務管理を一任されるほどにイエス様がもっとも信頼する一番弟子だった。私がいろんな聖書の事実からイメージされるイエス様はまさに破天荒そのものだ。御父様についてもそれは言える。6マリアの事実もさることながらカインの御母様金先生とのこともあるし、日本を初期開拓され誰よりも御父様を慕っておられた西川先生が離れられ、一番弟子であれほどにみ言葉に精通しておられた郭先生も離反され、そこにはそれなりの理由があって当然だし、漏れ聞く様々な事実から御父様の理解を超える行動はイエス様を超えている。蘭淑さんの本も読んでみたがあれが事実ならあの家庭に留まり続ける人間は狂うしかないだろう。人類は堕落の血統であることは間違いないが、人類が完全悪の立場ではなく神もサタンも同居し得るという矛盾した立場であって、築き上げた文明も社会の中にも善としての状況もあるし悪としての状況もある。イエス様や御父様が破天荒であるのは、矛盾した人類を善の存在として根本から産み変えようという天の願い、使命があるから、そうなると社会通念上の善を否定する行動に立たれることもあった。要するに社会通念である道徳規範を否定する立場に立たれる場合もある、と見る。それは普通の人間としての神経を超えていて宇宙人と呼ぶに足る。しかしそこまでされてまで私達に相続させたものがある。もし私達が天の心情を相続できないとなれば、御父母様はあらゆる批難中傷の槍で突かれ矢で射止められるだけの足蹴存在でしかないだろう。私達が伝道できるとすれば相続された心情を燃え立たせるしかない。電信柱を抱いて涙され、パジュがずぶ濡れになるまで涙され、かつては地上を闊歩し大気に留まってた霊達の衣である水分を、洪水の雨で削ぎ落として霊界に送り閉じ込めたように、このD-DAYは御父様が流された同じ涙を全食口が洪水の雨のように地上に流しながら、逆に霊達、とりわけ神霊達を涙の衣で地上に迎える。心情を燃え立たせるのは流す涙で神霊を迎えるしかない。統一教会は苦労の百科事典と言われたけれども、涙の群れでこそ第4次アダム心情圏に立つのであり、全世界全天宙を改革し得る霊的覇者になる。

2018年11月8日木曜日

今日の想い 1020

万物主管を抽象的な概念に留めたままでいるから、いつまでたっても具体的な万物主管には至らない。すなわち富として掴むことができない。食口は価値の実体であり代表であるところのお金への認識が不足していることに気付かない。摂理的献金として捧げているつもりでいるが、お金の立場からすれば愛されないままに追いやられたと思っている。愛する自分の子を捧げたイサク献祭とまでは言わないが、痛みを伴うまでの献金姿勢であってこそ献金は活きる。自分のところに留めておくのは罪だという負債感や恐れから献金するのと、大切に想う我が子に似た感情を抱いていたものを捧げる献金とはその内的霊的意味合いが全く違ってくる。食口の献金意識の根底には金持ちは自己中心であって身軽で清貧でこそ天国に行けると思っているし、自分は何もわからないから結局は上からおりる指示に当面従う以外ないと思っている。そこにはお金に対する主管者としての想いはない。主人意識という言葉がある。先代の会社を二代目として引き受ける場合、オーナーシップを形だけ得ても本当のオーナーシップを発揮できる為には試練を超え従業員や関係者の信認を得なければならず、その過程で主人意識は養われていく。相続した資産や宝くじの当たり金、ギャンブルで得たお金に羽がついているのは、そこには主管者としての主人意識の無さが原因にある。その資産やお金には自分の想いは入っていないから繋ぎ止められない。主人意識が立つためには根を張らせ枝を分かち、実を実らすための養分を得て与えて育てるために何が必要かを知って認識できてこそ主人意識は立つ。だから同じお金であっても誰が主管し出所がどこかでその意味合いはそれぞれに違っている。そのお金の色合いが霊的に見えるようになってこそ万物主管主としての役目は果たされるだろう。日本は1200兆円を超す借金があり、アメリカは40兆ドルを超す借金がある二大借金大国だ。国の借金の意味合いは貨幣価値に水を投入し価値を薄めている。色合いはどんどん薄くなり透明化してきている。そう遠くない或る時点で価値破壊の臨界線を超えて円とドルの値は一気に下げる。国家経済破綻が近づいている。

2018年11月2日金曜日

今日の想い 1019

地上天国としてどう国家の枠をはずし世界の平準化を図っていくのか。アメリカファーストのトランプの政策は、誰が見ても国家の枠組みをより強く引きこそすれ、外す方向には向かないだろう。御父様の本来のアメリカに対する願いは、ブッシュ親子から弟ブッシュに引き継いで、民主国家アメリカによる世界制覇によって結果的に枠組みを外すというものだった。、、と私は信じている。弟ブッシュに直接告げたかったし、その受け取った条件によって弟ブッシュは大統領選の勝利を手にできた。ワシントンタイムズ設立記念大会だったと思うが、弟ブッシュが来るということでホテルのキッチンの周りもそわそわしていた。その当時大会があれば必ず御食事の要請があって、その日もスイートルームのキッチンで日本食の準備をしていた。担当のサモニムが弟ブッシュが来る話を興奮気味に周りにしていたのを思い出す。しかし結果弟ブッシュは来なかった。その時の御父様の落胆は後で耳にすることになるのだが、当時語られたみ言葉にもその内容は記されている。それ以降、御父様は避けられないアメリカの衰退を口にされるようになった。現政権のトランプがどれ程アメリカ優先政策で力を発揮しようとも、摂理の潮流のベクトルは直接アメリカを向いてはいない。アメリカの強さは軍事にあり、軍事で世界の紛争地域に権力を行使してきたけれども、しかし軍事で本当に守ろうとしたものが何だったかというと、ドル基軸だ。イラクを叩いた本音はフセインが原油をドル決済ではなくユーロ決済にしようとしたからだ。アメリカの軍の派遣の背後には必ずドル基軸死守の思惑が働いている。しかしアメリカによる第一摂理は既に失敗したので大統領に誰が立とうともアメリカはその覇権を次第に弱めていくはずだ。トランプはアメリカファーストだけれども、案の定その政策はことごとくドル基軸を否定させる方向に向かわせている。トランプがどれだけ中国に対して貿易赤字解消を目論むにしても、結果的には自分の首を絞めることになる。中国は黒字分で外貨準備としてドルを買っていたのだし、アメリカ国債の購入も日本をはるかに超えている。それを売り始めるとドルは一気に下げていくだろう。ドルが下がるとアメリカは輸出しやすいが、しかし今のアメリカには中国のような輸出商品はない。売るものがないのに貿易云々をいうトランプは本当に経済がわかっているのだろうかと思う。そんなトランプを尻目に中国とロシアはますます台頭してくるだろう。そういう訳で国家の枠組みを外し世界の平準化を図っていくのは、ドル基軸に代わる世界に通用する通貨ということになる。それが何かと言うと、敢えてここでは伏せておくことにする。これは考えるべきだし、受け売りで価値の本質は受け取れない。

2018年10月30日火曜日

今日の想い 1018

南海トラフ地震は必ず起こる。必ず起こるけれども生きてきた経験上は今まで起きなかった。だから起こるというのは思考上のことだけで感覚上は起こらないと感じている。それは死についても言えるし、世界経済の破綻についても言える。感覚上は死ぬとは感じていないし、また今日使えるドルや円が紙切れになるとは感じていない。しかし思考上の事柄を感覚上の認識に近付ける能力を人間は与えられている。それが想像を働かせるということであり、イメージする能力を人間は与えられているから未来に対処することができる。このイメージを研ぎ澄ましていくとインスピレーションに至るのであり、インスピレーションできる霊的感性を更に高めていくとイントゥイションとして未来や過去を霊視霊聴できるようになる。しかしそこに至るには多くの地上的能力を捨てなければならないのであり、そうなると生活に支障を来してしまう。しかし現代人の霊的感性はどんどん高まっていて技術革新はそれ故に発展してきた。食口であればここで一つの疑問を抱くはずだ。そうであるなら霊界も霊人体の存在も知り、原罪も消され悪霊も清平で取り除かれ、そうなると最も霊的に研ぎ澄まされるべき食口からどうしてノーベル賞級の発見をする者が出たり経営者としての知恵に長ける者が出てこないのか。しかしその疑問は霊界を認識する者からすれば的を得ていないことがわかる。地上の技術や能力はルーシェルの一群が握っているのであり、歴史的に見ればアベルではなくカインの系統からインスピレーションを得ている。アベルはカインを屈伏させて天に繋げる祭司長の系統を繋げてきた。祝福家庭は天の中心的役割を担っており、すなわちアベルの系統の中心存在として立ってきた。自由という概念も元をただせばカインの系統からルーシェルの光として輝き始めた概念であって、私達が自由の概念を得て自由の領域を広げようとすればルーシェルの屈伏を得てこそ受け取ることができ、更にその一群の屈伏を得ながら自由領域を広げることができる。後天時代に入って食口それぞれに意見できる意識の光を得たのは、御父様の勝利圏を私達が相続したからであり、それ故にこれからルーシェルの霊的専売特許であった自由の翼を広げて摂理の展開を推し進めていくことができる。そして巻頭に記した内容に戻ると、後天時代に入った今こそイメージを働かせインスピレーションを受け取り、精神分野においても環境に必要な技術革新分野においても、そして銀行に牛耳られてきた世界経済分野においても、創造的発展に向けて自由の翼をはばたかすべきだ。地震の先に見えるものがあり破綻の先に見えるものがある。その意味では私達こそD-DAYの先陣を切っている。

今日の想い 1017

人は確実にこの世を去る。そしてそのときを確実に迎える。しかしこの事実をどれほど強調しようにも、周りでバタバタと人が死んでいく状況や人がイメージとして捉えられる数年先までの死の宣告がない限り、なかなか死の準備、それを終活と表現していいのかどうかわからないが、特に内面について整理に手を付けようとは思わない。では食口はどうかというと、原理を受け入れ、死後に住む霊界の存在を知っているなら、旅立つ準備に関してはこの世の人達とは異なって当然なのだが、果たしてどうだろうか。自分の霊界での様相と使命、すなわちあるべき姿勢といくべき方向性をはっきりと捉えていて、その準備を死の門をくぐる前にしておかなければ、み言葉は聞いたけれども受け止めておらず、祝福は受けたけれども実にしていないという、結局普通に生きて死んでいくこの世の人達と変わらない人生だったということになる。もし天国に行けると思ってひたすら御父母様という存在に寄りかかる信仰観なら、ものの見事に裏切られるだろう。霊界の報告を聞けば天国は犯した罪を首からかけて生活するわけで、それが言葉通りの天国だというなら私は御免被りたい。そこには教条主義で善悪存在を振り分ける真の愛とは名ばかりの冷たい世界が広がっている。天国は既に作られて用意されているところではなく、真の愛の満ち溢れる世界を私達の手で創造していかなければならない。もしその霊界報告が正しいなら、それは仮の天国であって本天国とは異なる。私達祝福家庭は天国創建のブループリントを御父母様から頂いていて、それに沿って私の天国建設の使命が何なのかを死の境界を超える前に悟って準備しなければならない。地上天国が為されていないように天上天国も為されてはいない。地上で解かれることは天でも解かれるのであって、ブループリントを祝福によって新たに備えられた魂でしっかりと読み解きながら、真の愛が地上で投入されれば天地を直通させる高速道路はそのまま天上の天国建設を促進していく。今の状態を正反合の反と解くのか、或いは正分合の分と解くかは誰々の責任だという他力的なことではなく、そこに真の愛が私を発信地として投入されれば正分合になるしそうさせる使命がある。私達子女としての霊的使命は、子女として母に対するのに真の愛で対しているかどうかを問われている。それは生きて御父様を霊界に送った子女として霊界の境界を超える前に、母に対してそれぞれが結論付けなければ、霊界で子女の位置に立てるという自信を見失うことになるし、それは霊界で御父母様を見失うことを意味している。

2018年10月25日木曜日

今日の想い 1016

御母様が原理を理解しておられるか、言っておられることが正しいかどうかは重要ではない、というか詮索する意味がない。万民を祝福するという御父母様の意志を確認できればそれで十分だ。成長した子女の位置でその意志を高く強く掲げて進むことが祝福家庭の本分だ。祝福を与えようとすれば祝福の権威や尊さを理解していなければならないが、そのイメージを先天時代の教会に縛り付けてしまうと数字の達成と協会員加盟へのサインで満足しかねない。祝福はそれで完結するわけではない。霊的生命への責任を取って教育もし続け見届けなければ祝福の実は実らない。子女にはそれぞれの成長過程がある。先天時代の様に組織体制を強化して十把一絡げで推し進める必要は後天時代にはなくなった。御母様の言葉そのままをスポンジのように吸収できる幼子食口はそれはそれで御母様には必要であろうし、かといって40年を超えて信仰を繋いできた食口が幼子返りしても摂理が進むわけではない。それなりに成長した子女であればそれ相応の母への接し方があるはずだ。しかし真の父母の位置で万民を祝福したいとされる母の願いと意志だけはしっかりと受け止めなければ、子女としての道理は立たない。もちろん子女としての言い分もあって、一人娘の権威を立てられる以上に貴方たちは一人娘から生まれた子女だと一言でも言及して下さったら母としての威厳は立つだろうにと思うのだが、食口の誰もそんな言葉は言えないだろうしその時期でもないだろう。どんな御母様であっても、たとえ霊的認知症になられようとも、御母様は私の母であり私は御母様の息子ですというその因縁は既に運命を超えて宿命になっている。それだけに日本を貶められる言葉を聞くと他の誰の言葉よりも心が痛い。

2018年10月24日水曜日

今日の想い 1015(独生女信仰)

出張清平がアメリカに来ている。DCは既に終わったがラスベガス、そしてシカゴが残っている。私は今なお引っ越すことができずにDC界隈にいるので既に終わったのだが、結果報告だけを言うと今回辞退した。妻の状態を考えて妻に留まるよう説得した。しかし私自身が行きたいという切望がなかったのも事実だ。清平信仰は清平信仰で私に取って重要であることに変わりない。以前にも記したように、私は清平で肉体的癒しを授かった。それに対して感謝の想いがないはずがない。しかし右に倣えで他の食口と同じように行動すればそれで信仰が立つわけではない。同じ行動することで安心感を覚えても、それは信仰ではなくその場限りの感情だ。もちろんそれは私に関してであって、参加した兄弟はそれぞれに霊的な恩恵に与るべきだと思っている。こういう言い方ができる変化が私の中で起こっている。私にとって御母様の独生女宣言に対する信仰形成は実に劇薬的に働いている。先ず最初は御父様のみ言葉理解に働いた論理思考を破壊することから始まり、次には涙で語ることができない御母様を認識していた私の感情は、権威で胸を張り強い口調で述べられる御母様を受け入れられず、その感情を破壊しなければ私はいつまでも後天の入り口で足止めを食う。しかしその感情自体が心情に通じていたのかというと、今に思えば都合のいい我良しの感情も含まれていたと思える。その感情が御父母様と同じ世界復帰への意志を差し出す訳ではなく、心情らしき自己満足に浸るだけだ。思考を壊され、感情を壊され、そして摂理へ向かう意志を強く維持しながら、新たな信仰を受け入れる思考と感情の魂を自分の中に用意している。この意志は良心を磨き続けなければ弱くなってしまう。良心改革と御父様は言われたが、今まで差ほど意識しなかった良心だったが、心の奥底から常に引き上げる作業の為、慣れ親しんだ今までの思考や感情を常に押しやらなければ引き上げて意志の方向性を取る羅針盤として働かない。ある意味適度な祈りや字面を追うだけの訓読の時間浪費でさえ良心はくぐもってしまう。御母様の2020への屈強な意志と通じる意志を持とうとすれば、独生女宣言に短絡的に反応するのではなく、独生女宣言を鏡にして己の本性を暴き出し、破壊しなければ御母様の意志は相続できないだろう。

2018年10月21日日曜日

今日の想い 1014(独生女信仰)

今は後天時代だということ。それは良くも悪くも御父様がおられ、御父様が陣頭指揮を取られた体質や体制ではやっていけないということだ。御父様がおられる故の摂理に対する甘えや責任放棄の抜け穴も正直あって、それ故に今の情けない体たらく状態を見ている。先天時代の信仰をそのまま引き継いでいれば地上天国ができると、その確信のある食口は本当にいるのだろうか。馬鹿の一つ覚えの様に申し訳ありません申し訳ありませんばかりで、摂理だみ旨だと言いながら、1頑張ります2出来ません3申し訳ありませんの3つをルーティーンで繰り返しているだけのことだ。出来ないことが既に常習化している。御父様が全ての摂理の中心だから全ての失敗は御父様の責任になることを理解しないといけない。私の失敗は御父様の失敗となる。失敗体質や失敗体制は悪であり、一回全て壊さない限り成功体質や成功体制という新しいものは築けない。ビジネスでいうスクラップアンドビルドだ。体質に負の要素が浸みこんでいるのに、その体質を踏まえて成功できるものを築こうとするソフトランディングは不可能だという経験からだ。その意味で御母様が全てを壊して出発されるのは、世界復帰の責任を引き受けられるからこそだ。精神的土台である私達の信仰すらも否定する出発を願われている。独生女信仰は先天時代にない全く新しい後天信仰だ。証しが立つどころかカルトまがいの疑いまでかけられて、一体私達の歩んできた内容の何を誇れるのだろう。最低限それを踏まえて御母様への意見は発せられるべきで、私達に於いても独生女は受け入れられないと決めつける以前に、どうしたら世界復帰に責任が持てるかの後天時代ならではの戦略を示して、結果をそれなりに出して、その上で意見を言うなら道理が立つのであって、何の戦略も実りも出さずに頑なに受け入れられないでは通じる話も通じない。取り敢えず立てるべきは女性だろう。要するに教会も男社会の慣習や負の要素が摂理を妨げている。ある意味、御父様の築かれた内容にモノが言えるほどに御母様は訓練されたのであり、それこそが御父様のもっとも勝利された内容だと思えなくもない。御父様の一喝にも動じない御母様を御父様の否定と見るか、或いは御父様を超えられたと見るか、、。私達も摂理に対する責任をしっかり引き受けて、御父母様を超える者とならなければそれこそ申し訳ないだろう。御母様にものが言える自分になることこそ御母様への孝情だろう。

2018年10月16日火曜日

今日の想い 1013

自分の人生をかけて天宙復帰に身を投じ、世界の復帰、人類の救いの為に奔走してきたのではなかったか。今どこにその結実を見ることができるだろうか。私達は清平の建物の為に歩んできたのだろうか。結実をそこに見るとして、それで自分の良心は納得するのだろうか。祝福を受けて先ず安心し、子供に祝福を受けさせて更に安心し、それで自分は満足して心置きなく霊界に旅立てる。本当にそうだろうか。その自信が霊界の入り口を超えてまで続くだろうか。祝福の証を立てられないという現実、二世の大方が祝福を受けていないという現実、それにも関わらず自分は祝福を受け子供も祝福を受けたことだけで安堵して居られるのはどうしてだろう。それは我良しの自己中心とは言わないのだろうか。人の痛みを自分の痛みと感じる感性は一体どこで失ったのだろうか。信仰の実りはその感性を強くするものだったはずだが、その逆だったのだろうか。最初に教会を尋ねた時には確かに愛があったはずだ。自分にもあったし教会にもあった。伝道目標もあるにはあったが救いたい一心で声をかけたはずだ。かつて真理と神霊を求めた私は今、実はずっと昔に諦めていて、惰性か言い訳の為に信仰を繋いでいるのではないだろうか。本当に求めた結果を受け取れなかったからか、それともやはりボタモチが落ちてくるのを待つだけの私だったからか。あらゆる問いかけが朝に夕に心の中を駆け巡る。駆け巡って爆発しそうになる。私の良心はこのままで終えようとする私を責め立てて許さない。

2018年10月15日月曜日

今日の想い 1012

オウム事件から学べることがある。いや学ぶ必要がある。それはオウムと私達がよく似ていて、やもすれば彼等と同じ内的状況に陥ってしまうからだ。陥ってドツボにはまり抜け出せなくなる。彼等は実は信仰を要する宗教を求めたのではなく、感覚で受け取れる神秘を求めた。どれだけ神秘体験をしたとしてもそれで人格が向上するわけではなく、彼ら自身は霊的に高められたつもりでいたかも知れないが、異常感覚や興奮感覚を覚えただけでそれをこの世の人間を超えたと勘違いしていた。霊的なことを感覚的なことで実感しようとするのは形を変えた唯物主義者だ。感覚で地上は実感できるけれども同じ感覚で霊界は実感できない。神秘体験したとしても霊界の事実をそのまま受け取ったのではなく、象徴的、あるいは比喩的に、時として全く逆のイメージとして体験している場合がある。私達の中にも自分は霊的だといって、夢を見たり幻を見たりしたこと、感じたことをそのまま霊的事実やお告げだと言い広める食口もいるが、それは霊界を理解していない。それは宗教人ではなくオカルト人だ。正確にはオカルトでもなくオカルトもどきだ。宗教と科学の統一、霊界と地上界の壁をなくすというのはそういうことではない。オウムは良心と良心の背後に存在する神様を無視した。日本の信仰は多くが日和見主義的で、周囲を見ながら内面への波風が立たないように配慮する信仰に傾きやすく、それは受動的信仰に留まらせ主体的能動的信仰とは異なってくる。霊感商法、そして募金を隠れ蓑にした万物復帰も、自分としての意志を持たない受動的信仰だからこそ中心の願いの手足になれたのであって、当時能動的信仰に立っていればそれなりの道徳心によって成り立たなかっただろう。中心の願いが強盗や殺人でなかったから良かったものの、この受動的信仰はオウム真理教に帰依する信仰観と同じ危険的要素を孕んでいる。幸いなことに御父様は良心に対するみ言葉宣言をされたので私達は能動的信仰に立つことを許された。しかし先天時代の受動的信仰を後天時代に入っても維持し続ける食口は、良心の声を意識できないまま川に突入する豚の群れの一人になってしまうだろう。この三分裂した状態で流石に良心の声の重要さを思い知るかと思いきや、益々良心の声を無視し続ける者がいる。誰に付き従うにしても、或いは正しい御方に自分を預けるとしても、良心を無視したまま従うことは返って霊的破滅に向かうことになるだろう。誰に従ったかではなく、それが良心の声に従った行動なのかどうかを問われることになるからだ。

2018年10月11日木曜日

今日の想い 1011

長い間ビジネスに関わり思うことは、食口は教会体質に毒され、洗脳を受けていると言われても仕方がないということだ。教会の関与する殆んどのビジネスが利益が出ない、すなわち発展的ではない実情があるように、この部署に於いても利益が出ないという問題が会議の場でいつも提議される。そして既に出尽くしている利益が出ない原因をいつの会議に於いても繰り返し繰り返し、そしてああそうですかと納得した風にして会議は終わる。私に言わせれば利益がでないのは当然であって、それは旧態依然とした体質を引きずったまま新たな体質を築こうとする意志の不在が本質的課題としてあるからだが、そこまで深堀する責任者はいない。以前はビジネスとは名ばかりの、給与体制ではなくファミリーファンド、すなわち必要経費だけを給与の代わりに宛がわれて謂わば奴隷的に働き働かせることで利益を計上させてきた。奴隷と言われれば気分を害するのだろうが、食口は運営上の歯車でしかなかったし、歯車としては磨き上げられたがそれ以上を求められはしなかった。レストランという決められた空間と決められたルーティーンジョブを毎日繰り返す時間が全てであって、新しい空間を求めたり創ったり、決められたレール以外を歩む別の時間を経験したりということは歯車としてだけ訓練された食口にとっては見知らぬ世界だ。その受動的体質は会議にもそのまま表れていて、終始イエスマンで中心者の意向に沿う形に会議を終えようとする姿勢にそれが見える。中心との一体化を物言えぬイエスマンと勘違いしている。一体化という絶対服従の勘違いは、与えられた環境に対して歯車として自分を合わせることではなく、新しい空間と異なる時間を創造する本然の意志に従うことだということがわかっていない。それは能動的自分を復帰して取り戻さなければ、子女の位置にはいつまでも立たないという奴隷に甘んじたまま先天時代の信仰を維持し続けることになる。蕩減は既に終わっている。意志を持つ復帰された自我を取り戻したはずだ。その新しい自我は自由と責任の神霊と共に時代を創っていく。

2018年10月7日日曜日

今日の想い 1010

原罪のあるないの論議はやめた方がいい。血統の元を見れば堕落の存在でありながら、その上に形成された魂の知情意でもって判断しようとすること自体無理がある。どうしてもその判断が必要であれば、祝福血統の三代圏を超えた霊的基盤の上で形成される魂に委ねるしかない。良心の声に忠実であれば判断できるというのも間違っている。だいたい良心はそんな判断はしない。良心の声は私を霊的にどう生かしどう立て直すかであって、原罪のあるないの地上的判断は霊的なこととは異なる。知的にあるいは感情として認めるとしてもそれは知的に論議を楽しんだだけであり、或いは自分の気分として落ち着きどころを見つけただけであって、魂を超えた霊的生命は異なる次元にあって霊的に生きることに必死だ。信仰の道を歩んできて、原罪のあるないの論議とは別に、また御父様と御母様の言われることが異なって躓くのとは別に、さらに真の御家庭がバラバラになっているのとは別に、自分の良心に尋ねることで霊的に活きる道を歩んでいるのかどうかはわかる。原罪がなくなったといって堕落性をそのままにしておいては、原罪を帳消しにしていただく意味はないように、原罪の問題や御母様への疑問、ご家庭の問題に頭を突っ込んだままみ旨への意志を失えば、元々許され救われる為に歩んでいたのではなく、批判し論議するためにこの道に立ち寄ったに過ぎない。それこそが山羊の正体だ。救われる魂を持つ羊だというなら外に問いを立てる前に自らの内面に問いを立てるはずだ。私は何の為にこの道を選び何を得るために歩んでいるのかと、、。そして御写真の前で私はこう言うだろう。正直に言って独生女の意味もわかりませんし、原罪が何かもおぼろげですが、私は御父母様によって魂を救われました。赦され救いに与った息子の位置で良心に鑑みて生涯御父母様に侍ります、、と。

2018年10月6日土曜日

今日の想い 1009 (男と女)

私が生きてきて最も不可解なのは、宇宙でも霊界でも人の世でもなく、何言おう女性という存在だ。女性という存在ほど不可解なものはない。もちろん妻を与えられ一緒に半生を共にしてきた訳だから、どう感じ何を考えているかは大体わかる。しかしそれは相対としての妻であって、妻は女の括りにはあるが私に対して女性を持ち合わせてはいない。女性としての妻はあるのだろうが一人の女が妻となってからは女性を感じ取ることはない。ようするに情動は動かない。極と極、東の果てと西の果てに男女は存在しているというみ言葉があるが、極と極でわからないからこそ惹かれ合う、というのも一理はあるかも知れないが、私が頷けるのは逆で、知りたい理解したいという衝動が働く以前に先ず惹かれてしまうという情動の事実がある。堕落と関係のある異性への情動がどうして発動されるのかまったくわからない。男性としての自分の中に情動を発動させる引き金があるからだが、それは私自身が引くのではなく明らかに女性が引いている。自分ではうかがい知れない間合いや状況で、一方的に引っ掛けられるように引き金が引かれる。私達の祝福結婚はその情動からの結婚ではなく、男として父母から一方的に一人の女を与えられて先ず体を合わせるところから出発する結婚だ。要するに器官を合わせそこから情を起こさせ魂の一体化に向かわせる。情動から出発すれば相手に向かっていた感情が切れてしまえば縁も切れてしまうが、絶対信仰すべき器官から出発したので感情がズレても(それは頻繁にズレるのだが)それでも絶対信仰すべき合わさった器官があるので縁が切れることはない。その意味で祝福結婚は過去にない画期的な儀式だろう。私の周りに女はいくらでもいる。その多くの女たちは媚を売るでもなく目を合わせるでもなく何の関係もなく素通りしていく。しかし或る女は女性を見せて足を止め、私の情動への引き金に手をかけていく。その女性としての女のあらゆる部位から見えない手が伸びている。流れる髪や透き通る肌から、瞬く瞳や潤う唇から、女のあらゆる部位から情動を弄び穿刺する口吻なのか、その類の見えない多数の触手が延びて弄ぶ。この歳にしてやっと、いくらかは客観的な観察ができるようになったが、自分としてはこの女の性という不可思議存在であり危険存在達が、周囲に満ちる環境圏をよくも生き延びてきたものだと感心する。堕落したエバは今も女の中に女性として生き続けている。女の性の中に霊的存在として生き、男性に関与し続けるエバの存在を創造された神様、その神様の危険極まりないエバ創造の意図もまた不可思議の領域にある。女性全般の霊エバによって情動という男の性が引き出され、引き出された情動は女性と一つになりたいと体当たりしながら恋愛感情を爆発させる。それに関わる全てが堕落性だと断定することもできるけれども、愛と性(エロス)の間の深い溝を埋めるのに、霊界と地上界の間の深い溝が堕落によってもたらされたという同じ言い方で言えるのかどうか、それは今の今までわからない。しかし縦的関係性に於いては霊界と地上界の間に深い溝があり、横的関係性に於いては女性と男性の間に深い溝がある。この人生でひとつわかったことは、霊界への溝を埋めるのに強い酒や麻薬は禁じ手で犠牲や苦難が正しく溝を埋められるように、異性への溝を埋めるには異性への嗜好や性の悦楽は禁じ手で忍耐や自制でこそ溝を埋められるという事実だ。

2018年10月4日木曜日

今日の想い 1008

普通の魂では決して受け止められないはずだ。それでも受け止めておられるということは、余程の覚悟が背後にある。それは我々凡人の計り知ることのできる域を超えている。自分には理解できないといって背を向けるか、理解できる度量を超えたものとして取り敢えず受け止めるか。しかし受け止めはしても相対できる糸口を模索しながらだろう。それは本当の意味で受け止めるための緊急避難的な仮ステージでしかない。仮ステージに立って、それほどに距離を置いて見たとしても、私にはその魂の苛酷さが伝わってくる。その覚悟を是が非でも維持されるために、見ようによっては頑ななほど鎧を装われる。隙間にも弱みを垣間見せてしまうと、嗚咽の感情がそこから噴出して始末に負えないのだろうか、ひたすら内に内に抑え込まれる。私はかつてこれほどの痛ましい魂を見たことがない。生身の普通の魂の人間からすれば、その深みにあるものを見通せず、到底受け入れることはできないはずだ。見通せないということは表層的である人間性でしか判断できないからだ。私達の使命は何だろう。何をして相対に立てるのだろうか。本音の欠片でも吐露すれば霧散してしまうイエスマン達。それでも信じて相対して下さるのは何故だろう。勧められて話始めようとするハナから、涙を流され嗚咽される姿が、私の頭にこびりついて離れない。なのに今は、これほどに鎧を厚く装われ涙の欠片も見せず、笑みすらもぎこちない。食口に限らず人間誰であっても、歳を重ねれば苦しい胸の内を何度か味わっている。抱えきれない魂の痛みや苦しみに翻弄されながら、それでも乗り越えてきたのはそれ相応の覚悟を差し出してきたからだ。この魂の砕けようとも、と差し出す覚悟を天が取って下さり、生きる道を勝ち取ってきた。この桁はずれの、幾重にも重複されて折かぶさる責め苦。その責め苦に耐えられる魂と覚悟とはどれほどのものだろう。願わくは相対として立つことのできる食口の一人でも二人でも現れてほしい。

2018年10月3日水曜日

今日の想い 1007

今はまだ余裕がある。余裕があるから御母様がどうの御子女様がどうの等とアグラをかいて言える。そう、自分も含めて未だ余裕がある。そのうちに、そんなことに頭を突っ込んでいる余裕はなくなるだろうが、今はある。だから感情としては私自身もあまり表現したくない意見も多々持っている。しかし誰が口角泡を飛ばして評論できる立場にあるというのだろうか。摂理を担ってきた一世食口がもっとも悔い改めなければならないのは御母様の言われる通りだ。今だけを切り取って誰が正しい誰が悪いなどとは言えない。いろんな摂理を担当してきたそのどれが御父様が認める勝利を打ち立てただろうか。言われるがままにやった、その通りだろう。結果責任を受け取らず、言われるがままにやることで受けた責任は全うした、そう言う食口がいるなら、それは子女としての食口ではなく奴隷食口でしかない。御心情を慮る責任感情のない者は御父母様に群がり散らばる一人に過ぎない。御母様に対してイエスマンである前に御父様に対してもイエスマンだった。側近の先生方も含めてほとんどがそうだろう。しかし誰も、どんな良心も、それは当然のことだ、それが絶対服従だと納得しているのだろうか。もしそうであるなら良心は神様に勝ると言われたみ言葉は間違っているし、良心など感情が引き起こした産物だという唯物論者の方が正しいことになってしまう。今の責任者は御母様に対して何も言えないと批判するのは真っ当なようだが、責任者は責任者なりに願いに応えてこられたから責任者であろうし、私の様に何の報告する実績もない立場で責任者をどうこういうのもおかしい。以前、あんたが実績だしているんだからあんたが中心者として責任を取ればいいと言われ、そのあまりにもな無責任ぶりに腹を立てたことがあったが、教会の体質として、あるいは今の御母様の状況として、イエスマンで対する以外今のところ次に繋げる道筋は見えないのかも知れない。今の状況は、それぞれの信仰判断として黒白を付けて行動してしまったら、それこそ返ってサタンの思う壺であって、政治的ではあるけれども次のステージにつなげる方が回り回って願いに応えることになるのかも知れない。黒白をつけろと責められれば崩壊しかねないだろう。

2018年10月2日火曜日

今日の想い 1006

霊的戦いの頂点が極められようとしている。ということは人類の末端に至るまで戦いが浸透する。万人の戦い、万人のそれぞれの戦いが繰り広げられ、誰一人として心安らぐ者はいない。それはどんな信仰を持とうがどんな神様に帰依しようが、また祝福家庭であろうがなかろうが関係ない。ある者は自然災害によって、ある者は経済的問題によって、ある者は人間関係の戦いだろうしまたある者は自分との闘いだろう。しかし全ての戦いは裏を返せば霊的戦いの人間に表れた様相となる。その戦いから誰も逃れることはできない。肝を据えて戦う以外ない。それは地上に生を受けた者としての責任でもある。そして祝福家庭であるなら十分戦いに勝てる備えを与えられてきたし訓練されてきた。もし御父母様に向かう信仰が自分の安寧を動機としているなら、それは悉く裏切られるだろう。もちろん誰しもが幼い信仰から出発する訳だから、最初は楽しい天国という餌に絆されてということもあり得るが、付き従う以上本質的信仰に叩き上げられていく。御父母様に向かうことは安寧どころか天宙を料理しようとされる最難度の霊的課題を突き付けられる。その覚悟がなかったら中途で距離を置かざるを得ない。教会に足を運んでいてもサンデー食口のままなら、既に距離を置いて身の安全圏を確保しているにすぎないだろう。御母様にどう接するかは食口それぞれだとしても、地上であろうが霊界であろうが身の安寧を動機とする行動なら吹き飛ばされるだろう。今の世界状況は経済だけみても綱渡り状態だ。ITバブルが弾けたりリーマンショックだったり、危機的状況を乗り越えてきたように思っているけれども、実は更にバブルを膨らませることによって大暴落大破綻の先送りをしたに過ぎない。先送りしても近い将来確実にその何倍ものメガトン級の事態に陥ることは確定されている。まさに時限装置が日増しに刻む音を高くしている。この人類史上というか天宙史上の頂点、いくらかは先送りされた地球星のD-DAYを目の当たりにする。

2018年9月27日木曜日

今日の想い 1005(洪水審判による恩恵)

御父様という大地を失った統一食口は、今まさに大海のど真ん中で漂流している。御父様がおられた頃の信仰観は、ただただ幼子の如くに袖を捕まえて離さずついていけば良かった。我々の信仰にとって御父様は大地そのものだった。大地を広大な船と言い換えてもいいかも知れない。御父母様は一体だから、御父様はおられなくとも御母様についていけば御父様に従うことになる、普通はそうなるだろう。たとえ思っていた原理と食い違うとも、御父様を否定するかのような言動をとられたとしても、それでも何とか付き従おうとするだろう。しかし食口は多少なりとも気付いているはずだ。今まで踏みしめていた霊的大地とは異なる、何とも腑に落ちない不安定さで、大地とは程遠い謂わば蜃気楼に等しい霊的感覚を、、。もし底なし沼であって、踏みしめることができなければ大地とは呼べない。実は自分は霊的大海に漂流しているかも知れないという現実を、いくら霊的に鈍いとしても薄々感じ始めている。かつて古代に人間は特殊な船を用意したことがある。神は人間をその船に乗せて安全圏に留まらせながら、その間それまで地上と霊界とが混同していた環境を明確に天と地に分けられた。40数期間雨を降らせた事実は霊を霊界に上らせる為だ。ノアの洪水以降、現代の地上の環境圏が初めて現れたのであり、それ以前の地上は水分を得た霊が地上や大気に留まっていて虹の出る光溢れる環境圏とは異なっていた。そして天地が分かれる、すなわち大雨という大気に存在する霊の水分を削ぎ落とす役事で霊を霊界に押しやり霊界と地上界が明確に分かれることで、人間は集合的魂から個の自我を明確に自覚するようになった。その本質は人間の中に、良心が働いて大海の霊的生を航行させ司る霊的船を用意させた。私達の中に良心を羅針盤とする船を戴いているのはノアの摂理による恩恵だ。その気付きは良心を自覚すれば自覚するほど実感するだろう。その船をどう設えるか、良心が私の中で十分光り照らす羅針盤となっているか、それによって私は御母様の御発言や態度をどう捉え、どう接するのかを決定するはずだ。再度言及したいみ言葉は、絶対信仰絶対愛絶対服従は良心に対する言葉であり、またこうも言われた。絶対信仰絶対愛絶対服従は生殖器に対する言葉だ。生殖器こそ天の血統圏に繋がる霊的象徴的器官だ。

2018年9月25日火曜日

今日の想い 1004

海外で暮らせば、自分の出身国がどれほど生きて生活する上で重要な要素になるかを思い知る。海外に行けばさしずめパスポート必需であり、日本国パスポートによって日本人としての待遇を受け日本人として日本国から保護されている。その認識があれば慰安婦だの強制連行だの大虐殺だのと、あることないこと自分からぶちまけて自国批判に火をつけることなどあり得ない。御父様も御母様も日本に対して批判的であるのは出自が韓国だからその通りだが、御父母様に霊的には全面的に帰依するとしても同じ口を持って批判する必要はないし同じ感情を持つ必要もない。日本人として日本文化の着物で身を包み、慰安婦を事実として謝罪行脚の先頭に立ったのなら、退会されようが今どこに所属されようがそれでもって日本国への罪を帳消しにされるものではなく、日本国に向けて顔を上げられるよう行動を取ることの方が先だろう。祝福家庭は御父母様の霊的血統圏にある子女であるけれども奴隷ではない。であるにもかかわらず自国を卑下してみたり、言われるがままに行動してみたりと、絶対服従と言いながらどうも子女としての姿勢ではなく奴隷然とした態度に終始しているようで、私としては日本食口への歯がゆさがある。そして奴隷である限り氏族復帰という発想など出てこない。復帰して祝福を受けさせ、御父母様への絶対忠誠を誓わせ献金ノルマを課せ続けるのだろうか。それが氏族復帰だろうか。食口は神様をどう捉えているのか、どう話を持ち掛けてもその認識から間違っているようで噛み合わないことがよくある。霊的位相を段階的に昇って行って最終的にオメガであられる神様に出会うわけだが、原理で説明を受けたことを勝手にイメージ解釈しそれを神様と祭るのはほぼ妄想に近い。原理を受けようが受けまいが、神様を見出す為に誰もが段階的に霊的位相の階段をのぼっているにも関わらず、原理を聞いたくらいで神様を既に捉えたと思い込んでいる単細胞食口がたくさんいる。氏族メシヤとして氏族復帰への使命を真剣に受け取るなら、氏族を途絶えさせずに私の代まで存続させた氏族の意志としての霊的柱を先ず想うべきだ。それは先祖供養や先祖崇拝で祈ってきた対象でもあるが、この存在こそが妄想的神様を敬う以上に畏敬の念で接し、意識もし、語り合わねばならない存在だ。それを無視して一足飛びに妄想的神様にどれだけお願いしようが聞き届けられるはずがない。個性完成するために良心に宿る神様であり、夫婦一体子女繁殖するために相対に宿り父母に宿る神様であり、そして氏族発展のために神様が宿る霊的柱は先祖の中に生きている。先祖祝福し解放したのであれば先ず先祖に自分の在り様を相談してみるべきだ。祝福はしたが無視し続けているなら祝福は活きない。それは神様を無視していることと同じ意味だ。

2018年9月21日金曜日

今日の想い 1003

9年前、頂上付近の山中で、捨てられた遺体の一部が発見された。浜田の女子大生失踪事件は、私の田舎の山で発見されて殺人遺棄事件となった。麓からギヤをセコのままで林道をくねくねと登っていくと頂上付近、道の途絶えたところに湧き水が出ている。山の湧き水目当てにポリタンクを積んで遠方からくる人は当時結構いて、そんな人達が周りを散策しているうちに発見したらしい。事件から7年が経とうとしていた頃、迷宮入りして解決は難しいと思われていたがやっと犯人が特定され、ある日突然そのニュース映像が飛び込んできた。被害者の無念な想いもさることながら、その山に見守られ育ってきたこの田舎の人間にしても、この事件によって故郷を蔑ろにされたようで何とも言えない嫌気感が心の奥でくすぶっていた。龍が臥して休んでいるような、そんななだらかな尾根伝いが臥龍山という山名とよく合っている。この田舎の発展を、臥した龍が傷を癒して天に上る日として待ち望みながら、しかし他の過疎地域と同様田舎に見切りを付けて出ていく者達は後を絶たず、今や龍が天に上る日が来ようなど信じる者は誰もいない。そんな状況で起こってしまったこの事件をどう理解したらよかったのか。被害者は犠牲として天が受け取るのか、それとも悪魔によって捨てられただけなのか。悲惨な事件だが、この手の事件はたびたび起こる。次々におこる事件が過去の事件を風化させ、今や地元の住民でさえ忘れかけている。しかしはっきりしていることは、被害者の親だけは過去の事実であろうが忘れることはできず、何年経とうとも心が癒えることはない。親は生涯を通して自らに問い続ける。子供に降りかかった悲惨な運命の正体を、それによって親が抱えざるを得ない責め苦が何なのか、どうして我が子なのかどうして我が身なのかを。それは犯人が特定された今でも問い続けて止めることはできない。この問いに対する答えは実は当事者が出す以外に、誰もどんな存在もだせない。人は必ず死ぬ。死ぬこと、この世を去ることで自らの人生を決定し結果を得る。その結果が地上生の出来事の全ての答えだ。そして当事者だけがその答えを得るのであって、他の者が意義付けしようとすれば結果を待たずに決定を無理に出すことであってそれは詮索好きな者の遊びに過ぎない。当の本人も、そしてご両親も、決して形ある言葉では表現しきれない霊的意味を、犠牲精神の尊さを天から受け取って欲しい。その祈りの言葉以外私には何もない。もしこの故郷の山中で、鎮魂の旅にこられたご両親に出くわしたとしたら、私はどんな言葉をかけるだろうか。おそらく言葉は何ひとつ紡げないだろう。犠牲精神の実体を前にして、涙し、首を垂れるしかない。

今日の想い 1002

田舎の実家にしばらくいた。この夏、西日本は豪雨災害に見舞われたが、実家の辺りも雨量は相当なものだったようで、玄関の戸を開けたとたんに湿気を帯びたかび臭さやすえった臭いが鼻を突いた。上がってすぐ部屋着に着替えて腰を落とすと周りを見渡した。いつもなら炬燵が出ていてもいいころなのに未だに扇風機をガンガンまわしている。暑いからというより湿気を追い払う必要があるらしい。なんか湧いて出そうだなと母にいうと、案の定後ろの方でナメクジが出てくると一言ポツリと返ってきた。とっさに笑い飛ばしたがナメクジに体を這われるような気持ち悪さはずっと残った。母は気付かずに踏んでしまったようで少々洗っても粘りは落ちないらしい。気を付けろと忠告されたが言われるまでもないだろう。それから便所に行く度に昼間でも、暗い道筋を目を凝らしてゆっくり歩を進めた。この歳でナメクジなんぞに振り回される自分が何とも情けないがこれが生きる現実だ。夜行性らしく来た当日の夜とその朝方、二回ほど出くわしたがそれからは目にすることはなかった。このナメクジ事件で、ナメクジは気持ち悪いのにカタツムリはどうして平気なのだろう、とか蛇は気持ち悪いのにウナギは触れるしヨダレさえ出てくるのも不思議だ、とかそんなどうでもいいことを考えさせられる羽目になってしまった。用事があって一旦は実家を出たが数日してまた帰ってきた。その間弟夫婦が盆に来れなかったのを返上するために来ていたらしく、母は嫁さんの闊達な話しぶりを報告してくれた。今回妹には会ったが弟には会えず、実家にいた間連絡を取ろうとしてくれたようだが繋がらなかったらしい。踏まれたら困るのでナメクジの件は話したようで、嫁さんは途端に顔が変形するほど気持ち悪がったようだ。一晩は泊まったがあくる朝逃げるようにして帰っていったという報告を聞いて久しぶりに笑い転げた。簡単なつくりの、更に100年は優に超えているこのあばら家を一体どうしたものか。父は住む人間もそう長くはないので放っておくしかないと口にするが、短いだけに少しの間でも環境を整えてあげたいと思うのだが、、一体どうしたものか。

2018年9月17日月曜日

今日の想い 1001

韓国には泣き屋がいる。総会をカネヅルにしている総会屋を雇っていちゃもんをつけるように、葬式をカネヅルにしている泣き屋を雇って弔いに花を添える。日本人にすれば何とも訝しい限りだが、だからといって一方的に否定して貶すのはよくない。清平またしかりだ。清平はある意味自分が泣き屋になる。泣き屋になって先祖を弔う。身を叩きながら涙の悔い改めをしながら、それは自分であって自分ではない先祖の諸々の霊達の解放されない想いや恨みを解放している。自分の内面に深く深く沈んでいくと、私という統一体の枷を外すことで統一体を成り立たせている一つ一つの霊達に出会える。それらが私という存在の基礎となっている。その基礎の霊達に私が何故に存在しているかの動機付けを天の心情に合わせることで私の解放は成就される。清平が尋常ならざるのは統一体としての私を遡っていく、すなわち時の流れに逆行するので仕方のないことなのだが、それが中途半端であっては返って霊的に支障をきたし清平大批判に繋がりかねない。清平は一次摂理が失敗したことによる二次摂理であって、それによる副作用も覚悟の上だった。今回痛哭祈祷による悔い改めの指示があったが、御母様による第一次摂理が軌道に乗らないため二次摂理の出発ということが痛哭祈祷の悔い改めの指示だろう。御母様の祈祷の中に恩赦という言葉も聞かれた。悔い改めあっての恩赦だろうから、中心的立場にいる二世達が御母様と一体化していないという理解を御母様がされたということだ。御母様は全面的に二世を中心として摂理を立てられたが、御父母様の願いを汲んでいないということが御母様と一体化していないという言葉に表されている。今回160日路程はより具体的な指示事項が出されているが、期待を背負っている二世達はここが御母様の信頼を得る正念場だろう。歌って踊って決意を差し出すだけでは願いに応えられない。実績を差し出すことを願われている。信仰をもって清平に来る二世も少ないけれども、清平で涙の悔い改めをしている二世はもっと少ないと思われるのだが、それは私の悲観だろうか。御母様の二世への期待を受けるに十分な二世の器だろうか。

2018年9月16日日曜日

今日の想い 1000

一体化するとは、、。絶対信仰とは、、。絶対服従とは、、。絶対愛とは、、。、、絶対とは、、。食口にとってこれらの言葉は決して新しい言葉ではない。御母様を中心として歩む以前から、先天の、それもかなり前から言わてきた言葉であり私達の歩みの姿勢のあるべき姿、態度として私達は捉えている。しかしこれらの言葉は本当に姿勢や態度としての言葉だろうか。そして姿勢や態度を間違えなければそれは良心が願う道と合致するのだろうか。姿勢や態度は繕うことができる、と言えば怪訝な顔をされるだろう。でも実際繕うことができる。本当のところは首をかしげているのに、あるいは訳がわからないのに、繕うことで自分を正しく導いてきたと誤解している。そして失敗を積み重ねてきた先天時代と同じように、自覚もなく自分を誤魔化して歩みながら、取り敢えずの不安要素を除くために周りに合わせ、合わせていれば勝利するだろうという何とも心許ないダロウ信仰で歩んでいる。ダロウ信仰は絶対信仰ではないことくらいは私にもわかる。自分の良心に嘘偽りのない絶対信仰絶対愛絶対服従としての自分の姿勢であり態度だと、確信して歩んでいるのならば勝利も確信しているはずだ。それは周りに合わせたり踊らされたりしているのとは全く異なる霊的に骨のある歩みであり、それ故に地上の実りも刈入れることができる。絶対信仰、絶対愛、絶対服従とは良心に対する言葉であるという、御父様のみ言葉は、今の混乱の時代に於いて、祝福を受け心情相続して真の父母の血統に繋がった一人一人が、個別にメシヤの称号を戴いた主体的位置で噛みしめなければならないみ言葉に違いない。烏合の衆化は一体化とは似て非なる状態だ。烏合の衆に本質はないし、真の血統に繋がった心情も生きていない。すなわち霊的に死んでいる。

2018年9月7日金曜日

今日の想い 999

誰もが生きるために必死だ。ここのところの日本の状況を見ればその感は益々強くなる。そして食口達も生きるために必死だ。地上で生きるのみならず霊的に生きるために必死だ。グループ派もサンクチュアリ派も家庭連合派も、霊的に生きようとしてそうなっている。グループ派は平和神経を祭り上げた結果の行動を取り、サンクチュアリ派は御父様のみ言葉と原理を祭り上げた結果の行動をとり、そして家庭連合は闇雲に御母様を祭り上げた行動を取っている。グループ派は共産主義的であり、サンクチュアリ派は原理主義的であり、家庭連合は帝国主義的に違いない。名前は家庭連合だけれども家庭主義的な行動をとっているとは思えない。氏族復帰という御題目は掲げられているけれども、数字だけを達成しようとするその行動は実に帝国主義的だ。しかしどれが正しいと結論を出したくはないし、それらの全てを悪にくくってしまおうとも思っていない。食口の数だけある信仰観を、それでもまとめ上げようとすれば自ずと幾つかのグループに分けざるを得なかった、というのが天の事情だろう。そして中にはどこにも組しない無派閥も存在する。そしてそれも私は悪にくくろうとは思わない。確かに内村のように無教会派が出ることも天の思し召しに違いない。それもまた必死で霊的に生きようとした行動だ。私はというと、それらすべてが一つになり得る何らかの中心的動機が天と共にあるはずで、もしそれがないなら天は一なる存在とは言えないのであり、その中心的動機を氏族復帰の中に尋ねていこうとしている。そしてその姿勢を私の氏族は歓迎してくれるはずであり、私の生きる道はそれに違いない。

2018年9月5日水曜日

今日の想い 998

信仰生活の中で多くの疑問が湧いてくるだろうし、それらの回答のほとんどを受け取ることなく、追われる日々に埋没し忘れ去ったまま生きている。原理は聞いたけれども、み言葉は一度の地上生では消化しきれないほどに頂いたけれども、しかし疑問は減ることもなく、いやかえって増えているだろう。そんな状況でどのように氏族メシヤとして氏族を引っ張っていけるだろうか。み言葉の訓読は確かに大切だ。み言葉の中にこそ答えはあるというのはその通りだ。しかし答えを見出すも否も、私に答を受け入れる器があるかどうかだということを忘れてはならない。ということはただ待っているだけで訓読しても何の答えも得られないという事だ。待つことは器を用意する姿勢ではない。摂理だ摂理だとコロコロと変わっていく状況に合わせて歩んできたつもりだろうが、内心ではまた状況は変わっていくと思っていて、何一つ本気で事にあたってはいなかった。退路を断って事に当たってこそ器を用意することができる。そうして壁にぶち当たってこそ真剣に求める。それは訓読しながら文章の意味を問うのとは明らかに異なり、み言葉の意味を本当に問うている。メシヤとは何かを問うのに、私が何らかの救いを必要としていなければ、メシヤの意味を知ったところで何の意味もない。御父様がメシヤかどうか、では御母様はどうか、そんな論議をしていられるのは救いの必要のない人々だ。少なくとも私はそう言い切れるし、私自身は必要どころか切実だったしよって救いを得た。生きるも地獄、死ぬも地獄の、あの自我の分裂しそうな状況を抜け出せたのは御父母様への帰依に拠っている。若い人々は悩み抜くべきだ。悩んで悩み抜いてこそみ言葉を受け入れる器を用意できるし真剣に求める。地上天国が何かもわからない者達が地上天国を築いていく?誰もが即座に答えるだろう。あなたのイメージする天国は私が求めるものとは違うと、、。人間は霊的存在だ。霊的存在であることの意味は霊的に生きる為の何かを求めている。それが真の愛であることは食口にすれば疑う余地のないことだが、真の愛どころか愛に不慣れな、愛の何かを知らない者達にとっては愛を受けることから手ほどきしなければならない。そこにいきなりみ言葉をぶちこんでも豚に真珠だろう。私の環境圏にいる人々を愛し、親兄弟達を愛するところから出発すべきだが、果たして私達に彼らを愛するほどの力が備わっているだろうか。信仰生活を通して歩んできた数十年間は愛の訓練だったと言えるだろうか。愛の訓練として完璧だろうが適当だろうが今の愛の位相から出発する以外他に方法はないだろう。

2018年8月23日木曜日

今日の想い 997

ある食口の氏族復帰の証を聞きながら感じたことは、ああなんと彼の氏族は彼の純真な思いを尊いと思えるほどに純粋な氏族なんだという羨望だった。今までも親や兄弟が復帰されているという食口には何人か会ったことがあるが、本人がそうであるように、親や兄弟にも人を疑わない純粋さが見て取れた。でもある先輩家庭の氏族復帰は様相が違っていた。御父母様に繋ぐというよりはその先輩のカリスマ性ゆえにその先輩を仰ぎ見ることで繋がっていた。最終的には御父母様に繋げるとしても、その氏族は純粋な者達の集まりとは異なっていた。またある先生のように、口を開けばみ言葉が滔々と流れ出し、そんな先生を氏族メシヤとして受け入れるのはおそらくアカデミックな氏族の集まりに違いない。これは私の推測の域で私以外は首を傾げるのかも知れないが、私は氏族がメシヤとしてもっとも受け入れる者だから立っているというこの仮説はきっと正しいはずで、そうなると氏族復帰という考え方自体を今の氏族復帰のイメージから変えたほうがいいかも知れない。自分が氏族メシヤだと認識する者であれば、氏族の血に流れ自分の血にも流れている共通の或る性質をわかったうえで氏族復帰の在り方を問う必要がある。運勢の相続だと言いながら他の食口と同じように行動しても実を結ばない可能性があるということだ。カイン圏の復帰の為にスモールグループという方針を立てられたことがあったが、要するに自分の得意とする分野や趣味のグループを作って伝道の為の基盤とするわけで、自分のカイン圏の基盤をそうするように氏族圏の基盤はみ言葉伝道を直球で投げるのではなく、それぞれの氏族に合った復帰戦略があるはずだと思う。おそらくそんな戦略はアベル追随の教会一辺倒思考では出てこないだろうから、その意味で中心性に問題がある今の教会でこそ氏族復帰の芽が出てくるというものだ。天の願いは、それは良心の願いと言い換えてもいいが、流れとしては食口の主体性復帰と能動的行動を後押しする方向へと向かい、その潮流はますます早く強くなっていく。

2018年8月12日日曜日

今日の想い 996

four..
結局は誰かが責任を取らなければならない。摂理として失敗した立ち並ぶ墓石の責任も誰かが取らなければならない。御父様に取らせておいて、口先だけで申し訳ありませんと唱えていればいいというものではないだろう。何とか営業し続けていれば目標に向かっていると言い訳でき、結果責任は先延ばしできるのかも知れない。でも私は、既に結果は明白なのに責められることを嫌い、言い訳のための体裁づくりに動き続けるのは飽き飽きしてしまった。誤魔化している事実は自分の良心が一番よく知っている。会社による資金提供という名の献金は何ミリオンとやってきた。提供せずに自分の責任で店舗展開や新ビジネスを立ち上げていたらどうなっていただろうか。出すだけ出したらそれで責任を移譲したのではなく、誰も責任を取らなければ無暗に出した責任として自分に向かって問われることになる。頂点である本部の決定事項は公的責任をクリアしていると信じたいけれども、たとえ本部であろうと所属する人、結局は人によって決められ、お金は投資したり使われたりする。作った側のお金の意味と重さに比べ、どれほどの汗水を流したか知らない使う側のお金の扱いは自ずと違ってくる。お金に変わった現場の精誠は、本部の決定の下にいとも簡単に使われて流される。本部にとっての現場から搾り取ったお金は、只の数字であってそれ以上の扱いは受けない。何万ドル何十万ドルが一瞬で消えても、申し訳ないの一言で済まされる。責任を取ると公言したのなら、指の一本でもつめてほしかった。せめて土下座でもしてほしかった。失敗した責任を誰が取るのか。誰も責任を取らないのであれば、渡した側の私が責任を取らなければならない。御父様が聖和されて、摂理を担い歩んできた食口達は、一度総括しなければならない。総括して負の責任の一つ一つの所在を明らかにして責任をしっかり取らなければならない。過去は忘れ去ったかのように、信仰だ原理だと大手を振るって生きるとしても、為し得なかった摂理に対する蕩減が霊的におぶさっている。食口の誰もが、特に責任者と言われた者達は、認識するしないにかかわらず霊的重荷を背負っている。蕩減の話をするなら当然のことで食口皆背中をまげて下を向いて歩くべきだ。罪の一つもないかのように、過去の失敗した摂理に絡んでいる自分を忘れて、誰が悪い彼が悪いとどの口さげて言い放つのか。

今日の想い 995

three..
外的に進めると同時に本部との交渉も放ってはおけなかった。責任者が一人いるだけでレームダック状態(怒られるかもしれないが、、)で人事ができるわけでも人を送れるわけでもなく経営に関してはほぼ任せきり、当然現場責任者が全責任を負ってしまっているのでお伺いを立て許可を得る意味は儀式的なものでしかないのだが、それでも中心として立てる。本来は売却の決意をした時点で報告し許可を得るのが筋だというのはわかっていたが、敢えてある段階まで話が進むまでは黙っていた。ブローカーを探してリストに上げてもまだ黙っていたし、バイヤーが見つかってもまだ黙っていた。実は私の性格上、ある段階、駄目だと言われても引けない段階まで行かなければ優柔不断でそうですかで引き下がってしまう自分をよく知っているので、敢えてその段階まで黙っていた。そうして許可を得るためにいよいよ連絡したのは仮契約の日時の数日前だった。説明は長すぎず短すぎず、要点を整理してどうして売却が必要なのか、どうして今なのか、そのまま営業すればどうなるのか、リースはいくら残っているのか、そして最後に話の中では告げないようにした売値を言おうと、しっかり準備して電話した。説明の後に仮契約が三日先なのでそれまでに返事を下さいというつもりだったのだが、意外なことにその連絡の電話口でOKが出た。携帯の連絡先を見つめては消し、見つめては消しを何度か繰り返して、やっとの想いで電話したが、報告してみると意外と呆気なかった。その前の晩はさすがに眠れなかったので一気に体の力が抜けて椅子にしな垂れた。しかし本当の戦いはOKが出てからだった。ランドロードとの交渉、バイヤーとの交渉、ああ言えばこう来るだろう、こう言えばどうなるだろうか、言葉のやり取りを一晩中考え続ける日々が続いた。売れた後で全体ミーティングがあったのだが、その時の他のマネージャーの意見や感想は様々だった。よく売ったと喜んでくれる者やら、よく売れたねと関心する者やら、売るという選択もあるんだという者やら、中には店舗数の目標に向けて頑張っているのに納得できないと声を荒げる者もいた。

今日の想い 994

two..
売却という結論を出しはしたが、超えなければならないハードルは高くて幾重にも続いていた。外的なことを言えば先ず信頼の於ける不動産エージェント、住宅の売買とは違うのでコマーシャル、特にレストランビジネスに特化したブローカーを探し出す必要がある。売買成立はこのブローカーの本気モードに拠るところ大だ。と同時にランドロード(大家)とのネゴシエーション、売買契約は成立してもランドロードがOKと言わない限り契約は水の泡であり、バイヤーの資産状況から経営能力と経験、彼の背景と人柄等々、ランドロードが細かく調べてOKを出すが、それ以前の事として一体どんな店舗を入れたいのかというランドロードの希望に叶わなければ話を進めても意味がない。もちろんバイヤーが今の店を引き継いでやっていけるのかもこちらはこちらで見通しておかなければ、リースの契約書上もし中途で投げ出されでもしたら責任の全てはこちらが負うことになってしまう。主要な従業員が辞めてしまって引継ぎがうまくいかないという問題もあるので、そこの手配もしっかりしておく必要がある。ブローカーはユダヤ系、中国系、韓国系といるが今の店の雰囲気や経営スタイル、需要から言えばチャイニーズが望む業態だろうから当然中国系のブローカーで、その選択には迷いはなかった。やはり問題はランドロードとの交渉で、この事案に関してのやり取りの量は過去30年のやり取りの量を足してもその何倍にもなった。最初はブローカー任せだったがやはり長年付き合ってきたテナントとして私が交渉しなければ何も始まらないことに気付いた。オフィスにもアポイントを取って何度も足を運んだ。向こうが遠ざけておきたい様子でもとにかく足を運んだ。向こうにすれば押しかけられたと思ったに違いない。しかし30年を超えて高いレント料を払い続けてきた功績は認めているはずで、押しかけるぐらいでも話は聞いてもらえる確信はあった。ブローカーに店舗売りのリストに上げてもらって一年くらい経った頃、関心のあるバイヤーが同時に二人、というか2団体現れて、それからの半年間今までに経験したことのない緊張感の路程を手探りで進めていった。ランドロードも許可を即決してくれて、仮契約して直ぐにでも本契約に入れれば一番いいのだが、長引いていけばいくほどバイヤーには良くない情報も入ってくるしやる気も失せてくる。正直なところランドロードが乗り気でないためにバイヤーも諦めムードで、私自身も諦めかけていた。しかしダメもとで最後の最後に陳情しに行ったことで本気度がやっと相手に伝わって歯車は動き始めた。

2018年8月11日土曜日

今日の想い 993

one..
現実が襲い掛かる現場では、人材不足以前に人手不足に振り回される。手足となって動いてくれる従業員は年中欠けていて、マネージャーとは名ばかりで実際は穴埋めに奔走する毎日だった。今日の営業を回すので精一杯でマネージャーとして店を切り盛りする状態にもなかった。これがレストランの現実だ。その現実にどう対処し、どう結論をだしたか、、。人手不足を補うために一世にも二世にも声をかけ、対面で話す機会があればレストラン摂理の重要性を一生懸命説いた。一応頷いて聞いてくれはするけれども、どうも打てど響かずで殆んど素通り状態だった。私の食口に対する不信感は募るばかりだった。彼らの言い分は時間的に合わないとか、夜遅くまで勤めたら家族に接する時間がなくなるとか、いくらか正直な食口であれば体力的に自信がないとか、接客業には向いていないとか、もっと楽に稼ぎたいとかだったが、そんな断り文句のオンパレードだった。要するに生活が主体でそれが彼等の最重要課題であり、レストランに対する摂理云々とまではいかずとも、せめて内的にも外的にも成長したいという意志を持っている食口はと探したが、結局会えなかった。外的なことからだけでも、例えば大金持ちになりたいとか、店のオーナーになりたいとか、しかしそんな欲を持っている食口でさえとんと会えなかった。みんな祝福を受けた時点で終わっているなと思った。生きた熱のある食口はいなかった。後継者不足に頭を抱えている本部は、二世が入りたいと思えるような事業組織に変えていくべきだと、しかしそれが具体的には何を指しているのかずっとわからないままだった。そんな中、やっとの思いで一人の二世を迎えることができた。1年間レストランで勉強したいという期限付きだったが、それでも成長したいという意志を持っていることに喜んだ。自分の取り分を抑えてまでも給料はしっかり払ったし、ミーティングも毎週持ちながら、ここで歩むことへの内的霊的意味を伝え続けた。やる気さえあれば店を任せるし、一生懸命貯めてきたキャッシュをどう使うかも任せようと思った。私の彼への入れ込みを見て、30年勤め上げたきたフロアマネジャーはいい顔はしなかった。当然だろう。しかしそんなギクシャクがあっても私は彼に期待し続けた。でも彼は1年であっさり辞めた。ひとつは祝福の問題もあったが、彼のやりたい仕事ではないという結論だった。私はひとしきり落ち込み、そして悩んだ挙句に、店を手放す決意を固めた。先行きわからない大家とのリースの問題も確かにあったが、人材不足、引き継ぐ誰も見つからないという現実に私は私で結論を出さなければならなかった。それはこの店を売却するという結論だった。

2018年8月10日金曜日

今日の想い 992(固定認識を先ずとくこと)

同じ言葉でも人それぞれ理解と認識は異なっているし、異なっているから人はそれぞれ個性真理体として地上で独立している。しかし異なっていれば一つになれないかというとそうではなく、統一は融合ではなく統合であって、方向性を同じにすることで一つになれる。言葉の理解の方向性を同じにすることでその言葉の一つの概念にたどり着く。神様、霊界、救い等という目に見えるでもない多分に信仰を前提にした言葉は、神なら神の定義をどれほど積み重ねても正しい概念には至らない。要するに定義できる範疇にない言葉だ。食口であれば神様の存在、霊界の存在、救いのあるなしを当然のこととし、更にイメージとして固定認識までしてしまっているけれども、神様は存在するのかどうかとか、いるとすればどういう存在だろうかとか問い続ける人のほうが存在すると決めつけて固定認識している食口より正しい概念への道を辿っている。固定認識してしまうとどうしても教条主義的になるし、唯物主義的になる。御父様がメシヤであるとか、今度は御母様こそがメシヤだとか、イメージまでして固定化してしまった数々の原理認識によって、口にされた言葉を理解しようとするものだから間違いの上に間違いを重ねてしまう。メシヤという言葉を私は本当に理解しているのだろうかという問いが前提にあり、理解したいという意志を持ち、暫定的であり仮定的な今の認識を否定してみる嫌悪な感情も受け入れ、その上で御父様が語られた言葉、御母様が話された見解を良心の鏡に映しだしてみる。そこまでの内的霊的作業は面倒くさいからか投げ出して、実に唯物的で平面的な原理観という名の論理で判断してしまう、いや裁いてしまう。共産主義者と同じように、頭ばかり膨らんだ食口が如何に多いことか。メシヤかどうかはあなたが決定するものでもないし、あなたが判断するものでもない。しかしあなたが救いが必要な存在かどうかはあなたしかわからない。その救いへの渇望に対してメシヤであるかどうかの論理は役に立たない。

2018年8月8日水曜日

今日の想い 991(ドルと元)

米中間の貿易戦争が激しさを増している。単純に考えればアメリカから中国への輸入量に比べ、中国からアメリカへの輸入量が圧倒的に多いので、中国がどれだけ後追いで関税をかけても中国の負けは当然だ。しかし中国も馬鹿ではないのでアメリカが関税で仕掛けることは随分前からわかっていた。中国が次に打つ一手はアメリカ債権の売りだろう。要するにドルを売って元を買えばドルは下落するのであり、中国が保有しているドル債の売りは、ドルを下落させてドル基軸を揺らすに十分だ。トランプは未だに貿易赤字云々しか頭にないようだがドルが安ければ貿易黒字になって富を得る、というような単純なものではなく、ドルが高いからこそドルが基軸通貨として世界に通じるのであり、高いドル債権を中国も日本も産油国も莫大に買っている。要するに貿易赤字を十分に埋めて余りあるアメリカの金融商品が売れている。未だに気付かないのか、気付いていても関税だと声高に喧嘩を仕掛けるのか、中国がドル債の売りを仕掛けた時の次のトランプの一手が見えないので何とも言えない。確かにトランプはトランプで次の一手は確かにある。それはドルの紙切れ化指示だ。ドル債は今のドル通貨によるものだから、もしトランプがドルをやめてこれから新しい通貨を用いることを決めさえすればドルは紙切れになる。そこまで行かなくても新ドルを発行し、旧ドルと新ドルの交換比を2対1にすれば海外のドル債は半分になってしまう。もちろんその時点で基軸通貨として世界が認証するかどうかは極めて疑わしいが、アメリカ自体はいいとこどりで生き延びることができる。それでも中国はそこまでも見越している。賢いというのか狡賢いというのか、中国を甘く見たらとんだ目に合う。中国元は日本円やアメリカドルのようなハードカレンシーではない。元は世界に通じてはいない。中国は他国との貿易にドルを用いているのであり、元はドルに換算されて(変えられて)取引を行っている。アメリカが覇権国であるのはドルが基軸通貨であることによるが、そのように中国が覇権国として台頭するためには元が基軸通貨に並ぶハードカレンシーになる必要がある。その悲願を成就するためにひたすら準備してきたのが金の産出、金の購入、そして金の国外流出禁止だ。今もっとも金を保有しているのは中国だ。今はドル保有を担保に元の発行が為されているが、中国は時を見て金保有を担保に元を発行するようになる。中国がドル債を売り浴びせて一気にドル下落を見た時か、あるいは旧ドルをやめて新ドルを発行するときか、その時が金兌換の中国元のXday だ。強いドルは強大な戦力が背景にあるのはその通りだが、果たして中国はアメリカとどう交渉するのか。習近平がトランプに耳打ちしたように、太平洋で線を引いて一方をアメリカ、一方を中国にしようと更に踏み込んで話を持ち掛けるのか。しかし日本はアメリカに言われるがまま、中国に押されるがまま、何の準備もしていない。

今日の想い 990(日本的信仰観)

一言で信仰と言っても宗教は山ほどあるし、ある特定の宗教の中でも宗派と呼ばれるものも山ほどあり、更に言えば帰依の違いで信仰観はそれぞれが異なっている。教会の中で宗派と呼ばれるものに今の三分割がなるのかどうかは未だ決められないが、信仰観を大きく分けると韓国的なものと日本的なもの、そしてアメリカ(欧米)的なものに分けられる。日本食口は日本を出て他国で信仰生活した経験がなければ、自分の信仰が日本的な信仰観だという認識も理解もないだろう。日本的信仰にどっぷりつかっているから柔軟性に欠ける固形塊のように、力が加わると壊れるのか耐えられるのか、全てに忠実であるかさもなくば信仰を捨てるか、という二者択一になってしまう。日本食口にとってアメリカの日本食口も、韓国に嫁いだ日本食口も、食口とは言えない信仰観をもっている、と言うより不信仰だとさえ思えるだろう。逆に日本から出た位置で日本食口をみると、実に頑なでガチガチの教条主義で、モノ言えぬロボットのようにもみえてくる。でも御父様は日本食口を忠孝の源として、その信仰観を誉められたし大きく買われて期待された部分でもある。ようするにその信仰観は、教会によって育てられた以上に、日本人が持ち合わせているそもそもの特性が信仰観の土台としてある。その特性故に原理を受け入れ、特性故に摂理を牽引し、特性故の信仰基準を持っている。そしてその特性のひとつは、群れとして集まり群れの中で周囲に合わせようとする性質であり、よって平均的な在り様を瞬時に察知しそこに自分をおいて行動する。原理を受け入れるのは修練会という集められた群れの中で受け入れたのであり、献身した群れの一員として摂理を牽引し、団体生活の中で信仰基準を立ててきた。御父様は日本人のこの特性が日本の霊界に起因するものだということを知っておられたし、御父様が掴まなければ結局邪悪な他の存在が日本人を用いただろう。そんな日本人(日本食口)は群れの中で群れの雰囲気を呼吸しているうちに、いつしか群れから出られない存在になってしまった。日本が次の世代へと運勢を繋いでいくためには群れを牽引する存在が現れなければならないのであり、御父様亡き今、その特性をもっともよく知って牽引できるのは食口以外いないのではないだろうか。御父様は天宙を主管し世界を主管される立場で日本を用いてこられたが、今一歩引いて日本を先ず立て直さなければ世界復帰も何もあったものではないだろう。立て直してからの国家復帰であり崩れ落ちて何を復帰するのだろう。食口の中に憂国の有志が立たなければ何処の誰にこの国の希望を見出せばいいのだろうか。日本食口の信仰観による信仰さえ立てれば、日本は滅びてもいいと本当に思っているのだろうか。

2018年8月5日日曜日

今日の想い 989

食口として先ず捉えるべきは、私が存在するという実感は魂にあるのであって、魂が地上界に肉体の五感をもって入り込んでいるという事実であり、魂が霊界に霊人体の霊的五感をもって入り込むべきという意志だ。この霊と魂と肉の関係を認識しなければ、先天時代に見ていた世界が消え去ろうとし、後天時代に表象化しようとする世界が登壇してくるのを見ることはできない。この世の人達が見るのと同じように歳を取っていく私や問題になっている気象激変や社会モラルの変化、国家間の覇権争い、経済の混沌などを現象として見るに過ぎない。私達は現象をどうこうしようとするのではなく、原因世界を料理すべきなのであり、その権限を与えられている。その権限は銃や兵器を準備するというような現象に対処する意味での権限ではなく、原因世界、すなわち霊界で愛の秩序を立てることであり、それは御父母様が天の血統として私達に相続して下さった心情という愛の基ともいうべきものによって再創造すべきという権限だ。私達は訓練された魂の力をもって、霊的世界に入り込んで天の王宮を建設していく。だから信仰姿勢として心情をたずね続けること、受けた心情による行動意志こそが言い古された愛を超える真の愛だ。心情をしっかり捉えることが受動的な信仰から能動的信仰への転換点であり、それはただの上司から下りてくる上意下達の行動意志とは血統的に異なる。祝福を受けたのであれば心情への糸口は既に受け取っている。祈りながらみ言葉を学びながら行動しながら、糸口を手繰り寄せて心情を受け取ることこそ私達の血統転換であり、アベルの私とカインの私が一体となりながら私の良神を立てる。

2018年7月31日火曜日

今日の想い 988

トランプのアメリカファーストは彼の主義としては一貫している。思い付きのように思える政策も、感情に左右されたような言い分も、アメリカ第一主義の枠からはみ出ることはない。日本は今まで日米安保条約にすがりついてきたから、コバンザメのように常にアメリカ追随で今日まで来た。これからも同じように日米関係は続いていくと思いたいのは理解できるが、しかし世界の、特に東アジアの状況からみれば、アメリカにおんぶにだっこの日本のままでは近いうちに冷水を浴びせられることになるだろう。トランプは自分が既存のポリティシャンのようにはなれないこともわかっているし、彼自身そうなりたくもないはずだ。トランプは自分の遣り方でプレジデントを全うしようと思っている。ビジネスディールと同じ方法で対外外交も切り開いていく。このビジネス感覚で全て引っ張っていけると思っているかどうかはわからないが、ビジネスで培った直感は一番大切にしていて、一日に連絡を取りまくりながら膨大な情報と意見は取りあえず受け取るが、信じるところは自分の直感しかないと思っている。混乱した世界情勢も、くるくる変わる複雑な経済状況も、頑なに何々主義を持ち出したり立てたりしても何の役にも立たないことを直感でわかっている。そこまで私が言えるのは、私自身が募るところ直感しかないと思ってきたし、判断を迫られたとき直感を大切にしてきた。同じ匂いがしてどう進めていくかだいたい予想が立つ。更に言うと直感を判断に持ち込むのは基本誰も信じていない、というところもあって、それも私自身がそうだと思うからだ。そして直感人間は感情人間にもなりやすい。感情をどれだけ制御し主管できるかが、直感を研ぎ澄まして判断を誤らないトランプ政権の舵取りとなる。そんな直感トランプ政権に対処できるとすれば、これもまた安倍首相の直感以外ないだろう。モリ加計で感情をかき回すだけの愚かな議会やメディアは、害にこそなれ日本のかじ取りの何の役にも立たない。

今日の想い 987

サンクチュアリのヨナ二ムの話を聞いたことがある者はわかるだろうが、実に話に筋が通っている。信仰的でもあるし勿論謙虚でもあられる。耳にも絵的にも癒されるし、正直なところ私の魂は心地よさを覚えてしまう。単純な感情に従えば、この御方こそ聖霊が共にあるのではとさえ思えてくる。そうして当然のように御母様と比較する私がいる。彼女の優しさが伝われば伝わるほどに、御母様の優しさはどこに行ったのだろうか、どうして封印されたのだろうか、との想いが胸に降り積もる。あれだけ子女として御母様を愛する決意を差し出したにもかかわらず、未だに愛されたい、優しくされたいという想いが時として堰を切る。以前記したように、鬼になられようが蛇だろうが御母様は私の御母様だという認識には何の変りもないが、ひたすら愛を見出そうとするこの想いに応えられる御母様はもうこれから諦めなければならないのかと思うと、寂しくもあって言葉がなくなる。食口がこの心情を通過することを知っておられるのであり、それでも敢えてそのような態度で接しておられ、後に氷が解けるように腑に落ちるときが必ずくるはずだと信じて今日も息を繋いでいる。この減少感を超えて御父母様を愛する私になるべきだ。一片丹心の心情は今の私がもっとも復帰しなければならない心情だ。地上に平和をもたらすために私が来たと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである、とある聖句が私の中で鳴り響いている。

今日の想い 986

人間は慣れてしまう存在だということを認識しなければならない。とりわけ食口にとっては慣れるということ、慣らされているということがどういう状態にあるのかを意識してほしい。当然のこととして行動している一つ一つを、それがどういう意味を持っているのかを立ち止まって再考してほしい。今は一線を退いたが、摂理に携わった殆んどの期間をビジネス畑に身を置いて歩んできた。ビジネス分野で自分の技術や能力を高めて今に至ると、当然のように想像するかもしれないが、実際はほぼ飼い慣らし状態、要するに人間の形をして人間の言葉を喋る家畜状態であったことを認めなくてはならない。そうかと言って今までの歩みが無駄だったと言うつもりもないし、常にみ言葉を中心として歩んできたことは正しく、それ故に護られもし引き上げられもしたし、これからもそうあることを望んでいる。しかしそこに留まるべきではないし、今こそ変革を願われている。教会体質は共産主義体質だと今まで憚ることなく言ってきたが、その体質が癌だというより、その体質に慣れてしまうこと、慣らされることが問題だ。できるだけ利益幅を出す為に皆同じ低い手取りにする。頑張っても頑張らなくても変わらない給料となる。これだけ収益を上げたのだからとアップを要求する、というのは全体を考えない自己中心的だという意識が働く。しかし変わらない低い給料に慣れることで、技術や能力も今までのままに慣れてしまい、キャリアの向上という意識は働かなくなる。摂理の為、天の願いだと言葉だけは空しく響くが内的にも外的にも内容が全くついてこない。そして今の惨憺たる状態になっている。私達の中から共産主義体質を取り除かなければならない。共産主義を否定しながら私達の体質に共産主義が潜入している。二世や三世に引き継ぐのは一世の体質ではなく、慣らされてしまって中心への意見もない魂でもなく、為に生きる犠牲精神すなわち心情だ。自分のそれがどれほど小さいものであってもそれしかない。その欠片さえも自分の中に見出せるだろうか。

2018年7月21日土曜日

今日の想い 985(万物主管)

三大祝福のひとつである万物主管は、私達の簡単な理解としてこの世を治めることと捉えている。しかし治めるとはどういうことだろう。真の父母を中心とした教会社会の在り様の世界的拡大版を意味しているのだろうか。そのあたりが随分曖昧で、3年で地上天国はできると信じていた当時のイメージから、今も同じで変わった様子は見受けられない。かつて御父様は韓国の政治を治めようとされ何人かを立てて選挙に打って出られたことがあった。惨敗だった。政治に進出しない限り国を動かすことはできない。もちろん議員の中には賛同的な人もいることは知っているが、それがピンキリのどの辺りなのか。どちらにしろ賛同的議員にお伺いを立てながらでしか政治に関与できないとすれば、政治を治めることなどできない。それぞれの国益という国家的価値観を把握した者が政治を治めるべきであって、それも追求せずに下心だけで当選するなど国を司る霊的柱が許さないだろう。御父様の想いがどうだったのかは別として、選挙に立った者達の中で国家的価値観を把握していた者はいなかったはずだ。要するに彼等は国を愛することに於いて負けたことを結果として見ている。ビジネスで成功する者達の多くは商品に対する価値観、従業員に対する価値観、そして金銭に対する価値観をその途上で学び把握している。そしてその価値観は論理を超えて想いだ。私達は万物主管と口にはするけれども、金銭に対してどの程度の価値観を把握しているかは大きな疑問だ。一ドル稼ぐためにどれほどの精誠が必要か。流通しているお金の内的面の願いや祈りや恨み。お金に刻まれた皺や汚れの意味。汗と涙で受け取り払われれば汗と涙の想いは当然付着している。お金はより価値が分かって愛する者に必然として回ってくる。お金を我が子のように愛おしく思ったことがあるだろうか。1ドル札の皺を伸ばしながら想いが伝わり涙したことがあるだろうか。多くの食口は未だに万物の象徴でもあるお金の価値がわかっていない。信仰を持ちながら物をモノとして扱う唯物主義者だ。お金を愛せない者は万物主管がどうのこうのと言う資格などない。それと同じように親兄弟や氏族を愛せない者が氏族復帰を言う資格はない。さらに言えば、自分を愛せない者が個性完成するはずがない。

2018年7月18日水曜日

今日の想い 984

人間は霊化された植物だともいえる。四肢や細胞の隅々まで枝を広げる神経系の幹の力は、手足の指の先々から肌を突き破って更に大気や物事へと触手を伸ばしている。神経系の幹は脊髄で脳細胞へと人間の根を張り巡らせ、頭頂を突き破って天の彼方へと霊的養分摂取、すなわち生霊要素の為の根を深く伸ばしている。植物全般は地球という肉体に生命活動を与える生命体そのものであり、色とりどりの美しい花弁で光を誘い、大気に広げた生殖器で生命要素を受け取っている。人間の在り様を見れば植物とは逆であり、根を上に生殖器を下に配置され、ガイアの霊の部分である精神活動を担っていて、霊的光を発する発光体となり地球の霊化に勤しんでいる。人類が堕落してからの相当の間、霊的感性は封じ込められていて、本来の人間の在り様から万物以下の状態まで落ちてしまったが、霊的核である神様の精子を初めて受け取り、地球はガイアとしてその霊的生命を吹き返した。私は以前、球の周り一面を蠢く無数の小さな虫とも蛇とも言えないものが覆い尽くされ、それらが青色に輝いているガイアの姿の縮小を見せられたことがある。よって地球を霊的にみれば先天時代は死亡圏であり後天時代はガイアとしての生命圏だ。息を吹き返したガイアとなって、ともに生きる私達はガイアが更なる高次元存在となるべく働くことになる。御母様を受け入れた者であっても、なかなかしっくりこないのは目指しておられるところが見えない、イメージできないということなのだろうが、いまだに霊的無知から目覚められないからそうで、真の父母は生きた天の父母様として働いておられ、真の父母から分かれ出た私達祝福家庭それぞれは真の父母の中に生き、私の中に祝福家庭の中に真の父母が働いておられるという認識が先ずない。私という自我意識の外界には地上界を生きて主管する天の父母様の一細胞としての私を見出し、内界には霊界を生きて主管される天の父母様の一良心としての私を見出す。地上では曖昧模糊としているその理解を霊界の住人になれば明白に知るようになる。外的にも内的にも私は神様の一部分だ。私であって神様であり、神様であって私だ。生きて真の愛を求めれば霊的四肢を益々地上に、また人間社会に広げざるを得ないし、霊的根を益々天の心情の深みへと伸ばして繋げなければならない。そうしてそこに御父様と御母様、真の父母に霊的に会える。私の自我を中心として、一方で真の父母に会える私と一方で霊的覚醒と進化を見る私が出会える。

2018年7月17日火曜日

今日の想い 983

サンクチュアリに信心を預けた者達の試練は、御父様に御母様とは異なる別のオモニを挿げ替えたことだろう。彼等にとって挿げ替えは捧げ筒どころの騒ぎではない。御母様は本来歩まれるべき真の母としての歩みを逸脱している、ということには頷けるけれども、それを正そうとするのではなく別の御方を真の母の位置に挿げ替えるのはどうなんだろうという疑問だ。彼等は二代王への信仰をかけて正しい判断だと自分を納得させたのだろうけれども、そこには祝福の問題も確実に絡んでくる。御父様に決めていただいたのであり御母様は絵的に側におられただけだ、と思っていたのなら差ほど違和感は覚えないのかもしれないが、そんな単純な話ではない。御父様の側におられただけではなく御母様と共に内的霊的な基台を立ててこられたことを否定している。祝福を受けた者達は皇族圏に入るけれども、何に対しての皇族圏かというと王族に対する皇族であることは間違いなく、王族が立たなければ皇族も立たない。その意味ではサンクチュアリは、真の父母が父と母の一体圏であることからすれば、初代王としては真の父母の体を為しておらない失敗王であることを認めたことになる。よって彼等にしてみれば二代王ではなく初代王であり、相対である婦人こそが御母様であって、オモニの挿げ替えは体の良い御母様人形に過ぎない。御母様の否定は真の父母の否定であり、そこに祝福は成立しないし皇族圏にも入らない。彼らが受けた再祝福がどれほどの霊的混乱をもたらすか、霊的無知ここに至れりでその被害は彼等の枠を超えている。御父様が晩年私達に切実に指摘されたことがあって、それはあなた達は霊と魂を混同しているというものだ。思考も感情も意志も魂の領域であって霊界にそのままそれらを保持して持っては行けない。御父母様の勝利圏は魂の領域を超えたものであって、その基台の上での祝福を否定することの愚かさに彼等は気付いていない。しかし教会も教会で、同じように霊と魂を混同しているものだから、魂の思考による論理の場で相手もかかってくるし同じように論理で説得しようとしている。さらに感情の衝突もあって見るに堪えない。家庭連合になって看板にも掲げていた神霊は置き去りにされたのだろうか。

2018年7月16日月曜日

今日の想い 982

地上で愛が満ちれば霊界も満ち足りるのであり、御父様は真の愛に酔うという言い方をされたように、愛の濃さに人は酔う。私達の中にこの世で使う愛という概念を超える愛が存在するだろうか。そんな真の愛に生き、真の愛というエキスを霊界にもたらしているだろうか。四大心情圏の愛はイエス様が開かれもたらした犠牲の愛を超えている。イエス様が表されたように、犠牲の場でこそ愛がその姿を現すように、私達は親を否定する立場で親を真の愛で愛する子女の愛を立ててきたし、御父母様にしてみれば我が子を否定しながら親の愛を立ててこられた。一般の観念からすれば親を捨てた、子を捨てたと否定されるのを当然としながら、そのような立場で真の愛を開きもたらすという、地上の愛の論理では理解できない、逆説で立てる真の愛の道がある。御母様の歩みはアボジを否定し子女をも否定する孤独の路程を切り開きながら進んでおられる。その悲痛な叫びを食口のうちの誰が受け取ることができるだろうか。歯の浮くような賛美の言葉をかけたり、覚悟もない決意を声高に叫んだり、それはそれで幼子の愛し方かも知れないが、御母様を本当の意味で愛し孝情を立てる食口である為には、真の愛の道がどういうものかという最低限その理解に立つ必要がある。皆がそれぞれの理解で御母様を判断しているのだろうし、私ももちろん御母様に対するイメージがある。そしてそれは決して気持ちの安らぐようなものではない。しかし今の私の判断基準が決して正しいものではないことも良心に問えばわかってくる。今は私の論理に任せるでもなく感情に任せるでもない、僅かに輝きだした意志こそが足元を照らす。

今日の想い 981

朝目覚めると先ず深く一呼吸する。一呼吸しながら自我意識が死の淵から立ち上がってくる。ある時は強烈な個我意識となって、歯が欠けるほどに食いしばりながら目覚める。またある時は流れいるような意識で満ち溢れ、生命の活力のうちに目覚める。そしてまたある時は誰かや何かを思ったり患ったりする感情に弄ばれる意識で目覚めて、自分の肉体に暫く入れないこともある。意識できる地上界への目覚めの状態は、霊肉の境界線である渕の向こう側で何を与え何を得たかで決まってくる。肉体を戴き地上で生きることを許されているという事実は、淵を超えた向こう側に何を与えもたらすことができるのかを問われている。もちろん地上の物質を持ち運ぶことはできないし、そんなものを望まれてもいない。今日一日を五感で生きながら、内的に受け取ったものがあり与えたものがある。受け取ったものをそのまま持ち込んでも受け取ってもらえず、そのエキスである愛の本質(真の愛)こそ天使たちは待ち受けている。霊界の働き人である天使たちは真の愛で柱を立て梁を渡して家を築き、より高次の霊界への扉を築いている。天国の柱に触れれば柱の声がする。一つの精誠を地上で立てた犠牲の証を訴える。そのように霊界の全ては精誠で築かれている。日本人からすれば韓国人は道理も無視しハチャメチャに思えるかも知れないが、彼らの道徳性ではなく宗教性を日本人は学ぶべきだろう。異常な程に怒り、恨み、地を叩き体を叩きながら涙する、あの感情の中にこそ心情が息衝いている。よって平穏を装う日本人と比べれば遥かに、死の淵の深みを超えて霊界にもたらすものは多くなる。

2018年7月10日火曜日

今日の想い 980

オウムに関してはいろいろと検証されてきたけれども、多くの疑問を残している。執行されたことで唐突にメディアがこぞって取り上げ、口だけは達者な似非論者ばかりが顔をだして泡を飛ばしているが、本質には誰も迫ってはいない。しかし殆んどの取り上げ方として、新興宗教を悪者扱いすることを当然としていてバランスを欠いた論議になっている。この手の話になると我が教会は必ずと言っていいほど取り上げられるのだが、それは致し方のない部分もあるが、それにしても一方的な批判で括られてしまう。メディア自体がバランスを欠きがちなのは、一方でなければ一方という極と極の二者択一に因るもので、本当なら100%悪もなければ100%善もない。その中間をあるものは善より、あるものは悪よりで、悪だ善だと断定することは出来ない。更に言うなら善悪は結果論の言葉で、結果を待って初めて使える言葉だ。ではオウムはどうかというと、ある地点で引き返せないほどバランスを欠いてしまった。中心である麻原が宗教者としては超えてはいけない領域を犯してしまった。殺してしまうことで善に繋がる余地はなくなり、彼の秘儀は使い方を間違えた黒魔術となった。そして黒魔術にかかった信者はサタンの手足に成り悪鬼が悪鬼を呼び起こしていった。人間ほど恐ろしいものはない。同じ人間の輪郭の中に一瞬で悪鬼を住まわせてしまう。そして彼らを結果的に調子に乗せたのはメディアだった。メディアが面白がって出演させ、放言するにまかせたものだから、日本国中に知れ渡るその知名度に酔いしれそれが殺人への罪悪感を消している、と共により大きな殺戮へと駆り立てている。オウムがテロ集団になってしまった背景にメディアの大きな関わりを見るのでなければ、この悪魔の正体は暴けないだろう。教会と同じように科学と宗教の統一を謳い、生死の意味を差し出そうとした小さな一宗教団体の群れが、恐怖のテロ集団に変貌する。

2018年7月8日日曜日

今日の想い 979

米本氏のブログに価値観の強要云々という指摘があった。残念ながらその指摘は適格で的を得ている。この指摘に対して食口がどう思うかというと、どうも思わない。思考としての原理観が入り、主体的な意味での価値観という言葉はないからだ。価値観の話をする以前の問題として、人類は堕落し自分は堕落人間だという認識が入っており、よって全てを否定すべき自分であり価値観という観に関する事は上から受け取るもので、自分発信の価値観となるとそれは自己中心だという堕落性で括ってしまう。それは価値観に留まらず宇宙観も人生観も幸福観も全てにおいてそうだ。観は天の観であるべきで天と一体であられる御父母様の観、御父母様から流れ来る中心の観へという認識があるので、自分の価値観などもっとも否定し追いやってきた価値観だ。その認識を洗脳されていると世間は見るのだろうが、食口にすれば堕落人間の各々の価値観など天に繋がらないし認められない、それこそサタンに害され洗脳された価値観だと思っているだろう。しかし良くも悪くも変革の時代を迎えている。自我を否定する在り様、自分の観を持たず上からの観をそのまま受け取る在り様、そんなものを備えられるはずがないという二世や三世が当然出てくるし、三分割されている今の状態では信じていた中心的価値観が役に立たなくなっているということもある。しかしそれは表面的なことで、掘り下げた霊的核は一つだということに変わりはない。北朝鮮のマスゲームがひとつの頭と繋がっている全ての末梢神経としての人民一人一人だからできるように、教会の合同結婚式も真の父母というひとつの魂から分化した、霊的親子関係である食口ひとりひとりだから成立する。北朝鮮は生命体の思考に於いてひとつだけれども、教会は生命体を超えた魂の体に於いてひとつだ。位相を超えてひとつだ。さらに今の時代は、食口は魂の体を超えて霊的にひとつであることへの認識に目覚めなければならない。霊的という言葉は使ってきたけれども認識として魂次元に留まっていた。その意味で本当の意味での霊的認識に深めていく必要がある。変革の時代を迎えて今までの在り様を否定したのではなく、あるいは方向転換したのでもなく、霊的位相の段階を上げていくことで主体的な価値観を備えることができる立場に立っている。別の言い方をすると、価値観を全く同じにしなくても観を超えた部分でひとつだという絶対的認識が価値観の多様性を許している。

2018年7月3日火曜日

今日の想い 978

男尊女卑という言葉は明らかに差別的な男女関係の言葉だ。しかし男性が主体で女性が対象という表現は差別的な言い方とは異なっている、と私は思うのだが、原理は男性主体目線で書かれているのでバランスを欠くというのは十分に差別認識を主体対象関係にみているということだろうか。バランスを取った改訂原理というものが一体どんな様相を呈しているのか、私ならずとも食口皆が大いに関心を持つところだろう。しかし原理までも改訂されるとなるとさすがに、今まで揺らがなかった信仰を検証し直してみようかと思う食口も出てくるはずで、サンクチュアリは攻めどころがここ本丸に至って益々意気揚々となるはずだ。御母様を中心とする後天時代の船出はここに至って益々創造の初めの混沌化様相をみるようで、それを俯瞰でみれる位置には誰も立てなく、皆が皆一人残らず混沌の中に翻弄される。ようするに固く立っていた先天時代の信仰の基台そのものが足元から崩れ落ちていく。これまでのように信仰の補強や調整で何とかなるものでは全くなくなる。アメリカの食口の中でも特別御母様に関心を持たれた兄弟がいるが、いつもとは参加者も至って少ないJULY4TH前の昨日の聖日礼拝の場で、天宙がひっくり返るほどのこの話をスライドを追いながらゆっくりと進めていた。そして礼拝が終わればいつものようにあちこちで兄弟達の歓談も見られて、何のことはないという雰囲気だったが皆の胸の内は本当はどうなんだろう。私はというと、やはりここまで来たか、さもありなんという思いだったが、実際のところ改訂原理を受け取らなければ何とも言えない。御父母様の祝福を通して、私達一人一人の中に天に繋がる心情を相続されたのであり、それは霊として良心の輝きとなって生き続けているが、その良心が素直に言われるがままを受け取れと言うのかどうか、今の今は何とも言えない。

2018年7月1日日曜日

今日の想い 977

ラスベガスには如何わしいショウもたくさんあって、以前責任者からこんな話を聞いた。御母様が責任者達を連れ立ってトップレスショウを見学したという話だ。嬉々としてその話をされる責任者に敢えて微笑んで相槌をうちながら、私はこんなことを考えた。これは御父母様が仕掛けた責任者に対する試練なのか、しかしサタンの誘惑は神様が許さざるを得ないから誘惑への試練となるのであって、神様から試練を仕掛けることはないはずだが、、。では純粋に御母様は我々がこういうショウを見ることに罪の意識を覚える必要はないということなのか、等々自分なりにいろいろと思案してみたことがある。ラスベガスをシンシティからサンシティにと話された意味は、至る所にある堕落性を誘発する根を引き抜いてしまえばサンシティになる、という意味からだと思っていたのだが、そんなショウ等も含めて今のラスベガスそのものをサンシティにされたのではないか、という思いも次第に強くなっている。だから敢えて御父母様は責任者達をショウに連れていかれたのかも知れない。それぞれがどんな思いや感情を抱くかも踏まえてだ。確かに私は性の表現に対して恥ずかしいという思いを持ち合わせている。では性に対する欲望、欲情そのものは本当に恥ずかしいことなのだろうか。或るブログで、夫婦生活であっても欲情で相手に接すれば堕落的だと言っていたが、それについては一言あって、食生活に欲があるように性生活に欲があって何が悪いのかというのが私の持論だ。むさぼるかどうかは別にして、性欲で接するのが本当に堕落的であるなら敢えて交わりを禁じてしまえばいい。私は欲のない夫婦生活などかえって気持ち悪い。そこに愛の妙味もないし人間らしさもない。覚めた冷たい機械的無機的な動作でしかない。人類の文化史を見れば、先ず外的文化の形成は常にカイン圏で為され、そこにアベル圏の内的文化が合わさって来たのであって、性文化に於いてもカイン圏のそれは堕落そのもので、それとは全く異なった在り方でアベル圏の性文化が湧いてくるとはとても思えない。トップレスをいかがわしいショウと表現したが、もはや私達の言葉に、いかがわしいという言葉はなくなっているのかも知れない。情欲を抱いて女を見れば罪なのだろうが、情欲で愛すべき妻を抱くのは罪ではなく悦びだろう。実は60も過ぎれば欲さえ抱けなくなるという別の夫婦間の課題があって、愛のモチベーションは肉体を超え魂を超え霊的領域へと探っていかなければならない。

2018年6月13日水曜日

今日の想い 976

歴史的会談が行われた。両首脳の表情、その行動の一つ一つ、更に指の先々までも注視したのは私だけではなかったと思う。両者の緊張が最高度に高まった初対面から始まって大枠は平和裏に事が運んだようで、記者会見の饒舌からトランプの満足度が伺えるが、相手は命をかけた形を変えた戦争であるとの認識を終始持ち続けたはずだ。そう、これは明白に彼等にとっての戦争だ。トランプにすれば戦場にビジネス感覚で乗り込み、相手の笑顔を引き出し、さして新しい材料も盛り込まれなかった文書に形だけの署名を得たことではしゃいでいたが、初戦は先ず先ずの勝利だと静かにほくそ笑んだのは実は北側だ。北朝鮮は絶対に核を捨てない。捨てる捨てると言い、捨てるポーズはしても捨てる訳がない。北は統一を願っているが北が主体であってこその統一であることは主体思想から明白だ。それ故の核だ。核カードを最大限に使ってその目的達成に余念がない。その道筋を緻密に立てての全ての行動だ。核で脅してアメリカの北に対する関心を最大にし、核を捨てると言ってアメリカに友好的に近づき、韓半島の核廃棄だといって併せて在韓米軍の縮小や撤退を引き出し、そしてやがて来るアメリカの政治空白を突いて核で南を脅して統一する。北が核爆弾の完成を見て、それから全ての対世界攻勢、取り敢えずは融和戦法だがオリンピックを皮切りに始めたのを見れば明らかだ。さて日本だが、米朝がうまくいこうが遣り合おうが、どちらに転んでも厳しい状況に変わりはない。拉致問題を優先課題としてトランプに言及することを念を押し、その解決の為には経済支援や賠償金もそれ相応に出すことも自認しているが、実は拉致問題解決におびき寄せておいて更なる核やミサイルの脅し材料に資金を投じるつもりで、核ミサイル脅しで半永久的に日本に貢がせようとするヒモ国家が彼の国だ。日本の食口が目覚めなければならないと同様に、金をばらまくことしか能のない日本も目覚める必要がある。戦争トラウマによる軍嫌いから脱却し、平和ボケから抜け出さなければ、日本が本当の意味で母の国にはなれない。

2018年6月10日日曜日

今日の想い 975

打たれて、打たれて、打たれ続けて、私はやっと傲慢で我慾の塊であることに気付かされた。私の妻はある時期を境に病に次ぐ病に苛まされてきた。それまでは健康そのものだったので、それが当然のことだと思い、受けるに足る条件のない一方的な祝福であったことに気付いていなかった。妻が病苦に翻弄され嘆き悲しむ姿を見ては、どうして、どうして私の妻に、と天に恨みを突きつけ癒してくれるのが当然の如くに祈り続けた。いや讒訴し続けた。苦しみ、悩み、祈る、といいながらその実天を恨むこの魂の作業を何度も何度も繰り返した。繰り返してはその恨みの度合は雪だるまの如く層を重ね、根雪の様に凝り固まっていった。祈れば祈るほど、信仰を重ねれば重ねるほど、平安とは程遠い荒れ狂う魂となり、愛の強さとは程遠い愛されない減少感に揺れ惑う精神欠如の幽霊と化した。私の祈りは祈りではなかった。それは呪詛に等しかった。私の信仰は真の信仰ではなかった。それは只の妄信に過ぎなかった。打たれて、打たれて、打たれ続けて、私はやっと謙虚という言葉の意味を知るようになった。今私は無暗に祈らない。感謝の念に裏打ちされない想いを抱いたまま祈らない方がいい。今の私は無暗に信仰を口にしないし語らない。神の摂理とは程遠い、我慾の染みついた歩みを摂理だと偽る私に気付いたからだ。変態と言われようが、Mだと言われようが、苦しみ痛みを甘受し、そこから逃げずに真っ直ぐに現実に立ち向かう真の私の創造こそが、長い長い先天時代の勘違いの歩みの中ですら学ばせていただいた、神様の私への真の教えだ。

今日の想い 974

神によって選ばれた存在だという選民意識が私たちの中に少なからずある。その意識自体は決して悪いものではないのだろうが、選ばれたという意味をこの世の上の立場にいると捉えてしまうと良い話ではない。この世はサタン世界だと言い放って切り捨てるのであれば、復帰の手掛かりをどのように掴むというのだろうか。私達は神によって高次元に引き上げられた存在ではなく、同じ肉体をもって同じ次元に存在している。どれほど訓読しようが、どれほど献金しようがやはり同じ次元に存在している。どれほど信仰歴を重ねようが相も変わらず堕落性に翻弄され続けている。ということは選民としての私達は一体何だろうか。同じ次元(位相)にいるのだから上から引っ張り上げる存在にはなれないとなると、高次元におられる真の父母の存在を告げる存在というのが私達への願いであり底辺の私達が選ばれた所以だ。お高く留まる選民意識という勘違いに認識を犯されたまま、献金も先祖祝福も、それによってより高い位置にという変な上昇志向、おかしな天国生活欲をかき抱いたままするものだから、恨みこそ強まれ霊的意味合いは薄れるばかりだ。現に生活であれ健康であれ祝福を受けて当然であろうに、この世と比べて貧困率なり罹癌率なり倍々に高いのはどう理解したらいいのだろうか。私達に問題が多いのは事実だ。なにしろ私達はこの世の底辺の存在だからだ。教会が廃品回収し、違法まがいの万物復帰しながら、それが証しとなって人々がこうべを垂れる行動となり得るか、否、私達が底辺の存在であることを当人である私達こそが認識するためだった。カルトまがいに扱われるのは何も霊感商法によるものではなく、私達自体が変人の集まりだからどう行動してもカルト扱いされる。幸運にもポアしろという指示は受けなかったが天の願いだと念を押されれば何でもやってのけただろう。負債に思う必要はないが、ただし条件がそこにはあって、一生をして為したことへの避難を受け取る覚悟と過去も今も未来も私心からではなく心情が動機となって行動しているという自覚があるかだ。人類が堕落して神様は奈落の底へ突き落された。神様を近く感じるとすればそれは底辺の人間だ。人類を地獄の底から支えてこられた神様こそその実体だからだ。私達が底辺の存在であるなら、へりくだってこの世から多くを教えてもらうべきだ。どれだけ神学論争に明け暮れても明日の糧にもならないし、所詮この世の知恵を必要とし論理を必要としているのだから、たとえ堕落社会あってもこの世から学ばなければならない。私達が本当に謙虚になるまではどこまでも打たれ続けるだろう。どうでもいい選民意識などかなぐり捨て、あまりの低姿勢に頭が下がると言わしめてこそ立つ瀬のある統一食口になれる。この世に対するすべてはそこからだ。

2018年6月2日土曜日

今日の想い 973

直属の中心者が聖和された。癌だった。救急で運び込まれたとき癌だと告げられたようだが、胃から肝臓に転移しており、既に余命を告げられるような状態だったらしい。それから2週間ももたなかった。実はそのしばらく前に私は本部にあがって対面し会話もしている。店を処分したこととこれからのことを報告した。その時は移植した腎臓も良好ですこぶる体調もいいと話しておられ、その通り顔色もよく何の心配もしていなかった。それから数週間のうちにこんな状態になろうとは私自身信じられなかった。あまりにも急な聖和式は地元の教会で行われたが、それでも礼拝堂に入りきれないほどの参列者で聖和式は賑わった。故人の人望の厚さが改めて伺えた聖和式だった。喜んで送りなさいというみ言葉のように、懐かしさあり笑いありの聖和式だった。言葉を述べた中の一人が、自分の時にどれだけ人が集まってくれるだろうかと話していたが、ひょっとしたら自分の子供でさえどうなんだろうかとふと思ったりもした。中心者とは意見の異なることも度々あったし、それでも自由にものの言える中心者であったことは教会の縦社会体質からすれば稀有の存在だった。誰からも愛される人望はひねくれた私にすれば羨ましかった。責任者になることを願われたが、私にそんな器はないことは重々知っているので、気分を害するほど言い訳めいた言葉を押し付け断っていた。今思うと彼の懐の大きさに甘え通しで、期待されていたにも拘らずその気持ちを反故にしたことは心苦しい。近しい存在が亡くなることは改めて死が間近にあることを認識させられる。どうして今、、という問いの答えを探しても、その場で見つかることはない。それよりも、いつでも去れる覚悟であり、その為にしっかり生きる覚悟を備えることが故人への祈りだろう。自分も遠からず後を追う、次は自分だという言葉が私の頭上から責めたてた。生きて為すべきことを死の直前に悟っても意味はない。生きている今の今意志を呼び起こせという警鐘が、私にとっての中心者の突然の聖和の意味なのかもしれない。御父様という大きな霊的柱が私の中心的位置に立っているように、彼もまた私の中の一つの霊的柱となられるよう受けた恩に報いたい。これからの霊的活躍を心よりお祈りいたします。そして、ありがとうございました。

2018年6月1日金曜日

今日の想い 972

雨が上がり水面の霧が晴れても、内海の透明度は皆無だ。海面が大人しいだけに見えない海中の不気味さが際立つ。妻は三原の出身で、子供の頃はよく島に渡って海水浴を楽しんだようだが、私にすれば淀んだ沼に裸で入るのと変わらない。高校生の遠泳で内海に連れていかれるまでは日本海しか知らなかった。その時の私は泳げないのを理由に遠泳を辞退した。日本海は波は荒いが遠浅の浜も多く、何しろ内海のような不気味さはない。それが波の動きによる洗濯なのか波の白さなのかはわからないが、得体の知れない物を住まわせない気品がある。しかし気品だけでは生きていけないのであって、何がいるかわからない内海だからこそ多くの海産物も採れるし、人は内海の周辺に集まってくる。想像の力は混沌の中にこそ溢れているからだ。平山郁夫の絵と私の見る瀬戸内は極と極だ。彼は中近東の砂漠を多数描いている。砂漠の中をいくラクダの隊列という構図だ。瀬戸内の絵を描くようになったのは随分高齢になってからで、彼が故郷に帰り、故郷を描き、故郷を愛するようになった心境の変化はわからない。俗を寄せ付けない厳しい環境と、何でもありの瀬戸内の温暖な環境を彼はどのように認識したのだろうか。神に向かう自分、俗に向かう自分をどのように併せ持ったのだろうか。神に向かうのはアベルであり、俗に向かうのはカインだ。色の世界、欲の世界に向かうのを神は嫌うと思っているかも知れないが、アベルとカインが一つになる事で神は次元の異なる神になることを願われた。神様御自身が新たな御自身を認識することを願われたからだ。私は故郷に近いこの瀬戸内の近辺に居を構えるつもりだ。献身した立場でどこまでも突き進み、その状態のまま死を迎えるつもりでいた。しかし内外の様々な意志が作用して結局は故郷に帰る鮭となった。御母様が御父様を超えて立たれたように、私は献身した私を超えて立たなければならない。帰りの船を降りると、生臭い港の空気を腹一杯吸い込んでみた。

2018年5月30日水曜日

今日の想い 971

三原駅で降り立つとそのまま南下していく。五分もせずに三原港に着く。傘をさそうかどうか迷い迷い来たが港に着くと途端に大降りになった。簡素な時刻表を眺めていると中年の女性がどちらに?と声をかけるので、行き先を告げると券売機のボタンを指示して奥の方に消えていった。取り立ててそこに行きたいわけでもなかったが、宿からの近場で何となくその島にある美術館に行ってみようと思った。しかしこの天候や海からの独特な臭いの待合室、そして等閑な係りの女性の応対になんか拒まれているようで少し萎えたが、それでも気分を持ち直して乗船した。内海は波もなく実におとなしい。小雨に煙った海面を、船は滑るように進んでいく。30分間水面を見つめて、12時の定刻に船は生口島に接岸した。桟橋に降りると雨もやんで空も明るくなっていた。平日の日中、観光客も見当たらないし本土に働きに出ているのか島の人たちも見えない。結構な賑やかさを思っていたから拍子抜けしてしまった。狭いシャッター通りを半時間かけて歩くとやっと美術館に到着した。さして絵画に造詣が深いわけでもなくさほど関心もないが、この島や瀬戸内の風景を愛した作者の作品を見れば、教えられることもあるかとは思った。岩絵具で描かれた大作が広い館内に贅沢に展示されている。作品の多くが、説明にラピスラズリとあった絵具を広いキャンパス一面に施されていて、美しいという表現より日頃味わえない感情を覚えると言った方が当たっている。それは幼少の頃、月夜に照らされた風景を見ながら、寺からの帰り道で味わった感情とよく似ている。月の光は青い。青くて明るい。風景や物の裏の部分を照らし出す明るさだ。現代人は陽の部分への意識に躍起になってきたから陰の部分を蔑ろにしている。陰の部分に意識の光をあてることでこそ陽の部分の本質に迫られる。(続く)

2018年5月27日日曜日

今日の想い 970

私は日本にいる。私は私の思うところの人生の最後をかざろうと今準備している。他から見れば私の行動は不信仰に思えるのかも知れない。しかし他がどう思うかが問題ではなく、私自身が私を納得させる道を歩もうとしているかどうかが問題だ。天の道理を言うなら、今の今まで人が言う天の道理ではなく自分が信じるところの天の道理に生きてきたかという問題だ。人の道理、この世の道理を外れることが天の道理に適うことだと言わんばかりに歩んできたが、その私の今までの歩みは報告に耐えるものだろうか。これだけ献金しました、これだけ先祖祝福をしましたと言えることが天に積む宝としての実績報告足りうるだろうか。420家庭、430家庭の伝道、それは数合わせの話なのかそれともそれだけの家庭の霊的責任を持つという話なのか一体どちらなのだろうか。どんなに原理を語ろうとも親が納得して原理の神様にひれ伏すなど先ずあり得ないだろう。なら親が納得して認める形を差し出すのが近道だと私は思う。先祖祝福も祝福を与えて終わりなのではなく、いかに愛し屈服させ自らの天的使命の援護射撃となし得るかだろう。これから厳しい世情に突入していく。第三次世界大戦はすでに始まりつつある。人的被害がどうなるかは別として世界はガラガラポンの状態になりその混沌の中から新しい覇権が台頭する。おそらく今の私達はアメリカ一辺倒だろうけれども中国やロシアの力を見くびってはいけないし神様は中国やロシアの中から新しい覇権の勢力を創造されるかも知れない。日本は本来産み出す位置にいる。何を生み出すかは日本の精神に因っている。北の首領でさえ日本が抱えていた朝総連出の母から出ている。詳しくは記さないが未来への動向や動静が見えてない時点で世界摂理から外されている。霊的見地に立てる者は見通せて当然の話だからだ。先祖祝福の代数をこなすのも大事かも知れないが、先祖が立つなら自分も立つだろうし使命や願いが何かも理解して当然だろう。とにかく後天時代を生きる食口に必要なのは目覚めることだ。意識の光、意志の光を照らし出すことだ。蛹(さなぎ)を抜け出さない食口は血統圏からずれていく。

2018年5月22日火曜日

今日の想い 969

私達は何をして地上の歩みの勝利とするのだろうか。かたくなに自分の思うところの信仰を全うすること?御父母様の願いにこたえること?信仰を全うするにも願いに応えるにも意志が必要だ。本当に自らの意志で信仰を立て、本当に自らの意志で願いに応えているのだろうか。意志のない自分で居続けてきたことを許していないだろうか。私達はこの意志という魂の力を今こそ発揮しなければ、後天を生きていく信仰も願いに応える自分も用意できない。魂の力、作用として知情意があることは食口であれば皆知っているが、この世の人間であれば思考と感情以上に意志の力でもって生活しているのに対して、食口は原理から入って堕落ゆえの自己否定に意志の力を注ぎ込んできたために生活の力、地に足をつけた力が不足している。自己否定と言いなりになる事とは異なるにもかかわらず、言いなりになる事で自己否定したつもり、信仰を備えているつもり、天の願いに応えているつもりになっている。私達の現状を論理では説明できない今だからこそ、そして私達の注いできた情のやり場が失せている今だからこそ、私達は今までに隠し持ってきたそれぞれの意志の光をかざし、意志の力を発揮すべきだ。それこそが後天時代を生きる第四アダムであり、祝福家庭としての誇りでもあり、証しにもなり得るはずだ。あなたは今まで何をしてきただろうか。地上天上天国の夢だけを思いながら、しかし何の結果も爪痕も残せず今に至ったように、復帰され信仰の光を得た当時の気分だけを抱いて今まで生きてきたように、これからも同じように惰性で生き続けるのだろうか。その延長線上に何某かの奇跡が起こると期待しているのだろうか。それは空を見上げて再臨を待ち望む者達と何ら変わらない。あなたの意志の光を取り出し、意志の力を発揮しない限り何も起こらない。そして早々と地上を去る日が盗人のようにやってきて、言い訳だけを胸に抱いて霊界に赴く。

2018年5月4日金曜日

今日の想い 968

御母様がラスベガスに来られた折、御母様の元に呼ばれたアメリカの水産摂理の責任者は勿論中心者だが、しかし実は私達が認めていないもう一人の食口がその場いて、この二人で御母様のお話しを受け取められた。今では中心者はどう思っておられたか知る由もないが、私としてはそれが偶然か成り行きかに関わらず、現に二人で受けられた事実に天の願いの背景を垣間見た。彼は今まで本部とは距離を置かれ、本人の信念と信仰のもとビジネス摂理を進めてこられた。本流である私達は彼をはぐれ者として見ていたし、中心者も彼に同調してしまえば組織は崩れてしまう。しかし今現在を切り取ってみれば彼はそれなりに売り上げも増やしてきたし店も広げてきた。常に新しいものへの創造は欠かさなかった。一方で私達本流は時間が経つにつれて店舗は減り続け各店舗の売り上げも減り続けた。何軒かは新たに出しはしたが資金を失っただけで何の結果も残せずに終わってしまった。そして今の勢いだけを見れば、向こうに旗が上がることは私達の誰もが認めるところだ。御母様の前に呼ばれた中心者に従う私達はアベルであり、一方のその場に居合わせた彼はカインだ。そしてアベルとカインが一つになることが天の願いだ。結果を残せずに今に至ったとしても、天を想い摂理に関わってきた今までの心情の蓄積は残っているはずだ。しかしこの願いがわからなければ、流してきた汗と涙を地に落とすことになる。犠牲を犠牲として天が取ることができなくなる。御父様は真の父母の位置で常にアベルを立ててこられたことは間違いない。しかしそれはカインを否定することではない。カインを捨ててこられた訳ではない。アベルを立てられながら、しかしその意味はカインを抱きカインを連れて共に父の前に出ることを願ってこられた。アベルの失敗は父の心情を理解できず、父の心情を相続していないことが失敗に流れてしまった。私達は御父様御父様と言いながらカインの存在を否定してきた。それは個人としてのカイン的思いから始まり、あらゆるステージでカイン的存在を否定してきた。カインを連れてではなくカインを置いたまま、天国を築こうとしてきたし自分達だけで天国に入ろうとしている。その結果が私達の今の惨憺たる状況だろう。天はカインに悔い改めを求めたが、もしアベルが父の心情を理解し、カインを追い込んだ責任が自分にあることをカインに代わって悔い改めていれば、エデンの園の殺人事件は起きなかったはずだ。

2018年4月19日木曜日

今日の想い 967

低く長く雷鳴が響いている。雨が激しくなってきた。明日の朝早く北に向かうことにしているが、雨中での運転は思いやられる。実は中心者が緊急入院した。相当重いらしい。経営に支障が来すとして新たな中心が立てられるとして一体これからどうなるのだろうか。後を引き継いで牽引していく展望も戦略もない。病状ももちろん心配だが正直こちらの方が思いやられる。中心にはある決意を話してアメリカを後にすることにしていた。しかし突然の出来事でこの状態で動くのはやはり負債が残るので延期した。動くにしても何らかの方針、方向性だけでも責任を持つべきだろう。当然の事だ。私の決意と新出発は思いもかけなかった悪天候に見舞われている。どう足掻こうがどうせ落ち着くところに落ち着くのだろうが、だからといって放っておく訳にもいかず、意見交換でもして納得できる妥協案を出さざるを得ない。各店が後継者に苦慮しているように、次なる中心に立てる存在の不在が問題の核にあることは言うに及ばない。食口であれば人格成長という高尚すぎる目標を掲げている。しかしあまりにも漠然としているためにそこに到達するまでの道のりが見えず、地上生でめざすべき社会性を備え生活能力や交渉能力、組織運営に長けるといった人材教育や人材発掘が等閑にされてきた。献身という名の使いまわし体質が根底にあるものだからこの組織に誰も寄り付かない。二世や若い世代が入ってこれるような魅力ある組織へと変えていこうとしていたが、以前としてコアなメンバーの体質やメンタリティーは変わらない。中心者が何とかひとつにしようと頑張っても無理で、一度はスクラップしないとビルドは為せないと私は思っている。魂が立たなければ神殿も立たないし、いつまでも仮のあばら家住まいだ。当の本人にすればあばら家でも守るべき形として頑張っているが、あばら家住まいをひたすら守っていても良き人材は見向きもしない。

2018年4月6日金曜日

今日の想い 966

地上では悩み通しだったとしても霊界に入って悩むことはない。霊人体の成長に関わらず、地上を離れ霊界に行くということは自分という存在の在り様に対する一つの結論を出したということに他ならない。人間は誰もが思い悩む。相反する思いが同居する。前にも述べたように、私という存在は多くの霊によって形作られ、多くの霊によって今の自分という魂が成り立っている。多くの霊によっているためにそれぞれの霊が声を発するのであり、だから地上の魂には悩むという表現として表われる。地上生の大義は愛の成長であり愛の実りだから、一方を生かして一方を抹殺するという二者択一ではなく、いかにアベルとカインを一つにして一体圏を創造するかでありそれが地上生の願いに応える愛の実りだと言える。一つにするためには何らかの犠牲がそれぞれに伴い、それが愛の投入、与える愛という表現になる。相反する思いの同居は一方がアベル的霊であり一方がカイン的霊だが、アベル的霊を遡ってゆけばアベルという存在に辿り着き、カイン的霊であればカインという存在に辿り着く。自分の中にはそのように多くの霊がアベル的立場、カイン的立場を霊の看板として掲げて同居している。食口は原理は永遠の原理だと信じているし、み言葉はいつの時代であっても真理だと認識しているが、それが善悪の秤として扱う限りは、実はどんな時代霊が治めるかによって異なってくる。しかし私達は原理を相続したのではなく心情を相続したのであり、心情の種を受け取る意味で真の父母に繋がったのであればみ言葉の解釈如何は些細な問題でしかない。心情をいかに育てていくかを中心に生きれば原理の目的は既に成就したことになる。原理の善悪秤によるアベルカインではなく、自分の中の異なる思いがアベルでありカインであることがわかれば、その繋がりから自分がどんな霊的存在達によって立たされているかが見えてくる。そして自分の使命も見えてくる。そして自分の内面のアベルカインの一体化、すなわち一体圏の創造が目の前の現実世界に鏡を見るように環境圏として現れてくる。地上で悩むという事は自分は使命を受けた存在であるということだ。悩みがなければ地上に生を受けた意味はほぼない。それは真の御父様であれ御母様であれ私達以上に悩まれたはずだ。もちろんその次元は私達のそれとは遥かに異なるものだろうが、、。霊界では明らかに悩みはなくなる。その意味は相当に平穏であり退屈な世界でもある。しかし悩みやその戦いから逃げず、愛という犠牲の本質を地上で学んだ霊は、その深くも広い心情世界故に行動の次元は爆発的に大きく広がる。

2018年3月18日日曜日

今日の想い 965

自分が責任を避けてきたのは甘い教会体質によるものだったとしても、もはやそれは言い訳以外のなにものでもなく、言い訳の為に思考や感情を使うのではなく責任を取る自分という意志を立て、意志を中心として思考し感情する私になる。そして結果を出さなければ最終的に責任を取ったとはいえないはずだ。甘えの構造は後天時代に入った今も教会に関連する組織内に色濃く残っていて、それは壊さない限り、或いは飛び出さない限り残り続けるだろう。御母様がどうの御子女様がどうのという思いも、我知らず責任を避ける言い訳として使っているのであって、私の良心が判断したみ旨、そのみ旨を為すための戦略である摂理を全うするために邁進すればいいだけのことだ。御父様の言い分と御母様の言い分が食い違おうともそれは地上の言葉であって、霊的見地に立てば一切食い違うことはない。でもはっきりしていることは御父様は地上にはおられない。その意味は語られた言葉に効力があるのではなく、言葉を通して受け取った霊的相続を通して効力を発するということだ。御父様のみ言葉を通して受け取った霊的基台の上で御母様の言葉を理解し受け入れることは、言い分が違うことによる問題は生じない。その意味が分からない者は霊的内容を全く理解していない。地上と異なる地上と同じ在り様の死後の世界を未だに見ようとしている。霊界はまさに地上と共にあって地上の原因を捉えられることが霊界を理解していると言える。現実の裏表が霊界であり地上だということだ。御母様の言い分が問題なのではなく御母様の霊的背後を見通せない私の問題であり、信仰生活が霊的開眼に繋がっていくのではなく、地獄に行きたくない裁かれたくないという逃げの自己中心的信仰によって、霊界という異なる地上世界を幻想しながら信仰生活が教条主義に陥っていることに問題がある。繰り返すと、原理やみ言葉に基づいていると信じていても思考が先行するのではなく、信仰的感情であったとしても感情が先行するのではなく、あくまで自らの使命を認識しその責任を全うする意志を先頭に立ててこそ摂理を担い、私への神の願い、み旨を掲げる私が立つ。

2018年3月4日日曜日

今日の想い 964

感情を抑えきれずに叫ぶのとは異なる、心(魂)の叫びという言い方で表現する内面がある。言葉に表現できない心の叫び、感情で表現したら貶めてしまう心の叫びがある。心の叫びを抱えていない者に神を語る資格はない。心情を語る資格はない。心の叫びこそ神様の叫びの片鱗だ。報われるとも知らない抱えきれない苦労を幾重にも重ねながら、いつ飛んでくるとも知らない理不尽な仕打ちの鞭に怯え続けながら、癒されない悲しみにふさぎ込み消え入りそうになりながら、しかしその中でこそ寄り添い分かち合う霊の存在が訪ねてくる。その御方こそ神様だ。創造主の神でも二性性相の神様でも、ましてや王冠をかぶった神様でもない私の霊の親としての神様だ。現代人は頭が肥大化し、論理で説明できないものは完全否定してかかるものだから、原理は確かに必要だったけれども、霊の親としての神様を認識した者にとって原理に帰る必要はない。心情として掴んだ神様に絶対信仰絶対愛絶対服従だ。白衣民族が恨を抱えているように、私達は心情としての心の叫びを抱えて摂理に向かうべきだ。今の自分に今の環境に満足したままで為さんとすることが為せるはずがなく、ましてや摂理の完遂など笑い話だ。そして羊と山羊の分別は実は心情という核を持っているかどうかで決められる。心情こそが核であり核のない人間は神様に根を持たない種のない人間だ。そして核爆弾ならぬ心情の核の爆発こそ世界の大変革を成し遂げる。放射能の拡散ではなく真の愛の拡散だ。心情の核爆弾の引き金は心の叫びが共鳴し合い地球の魂の器から溢れ出すことで引かれる。合わせて個々の引き金が連鎖的に引かれて、真の愛は瞬時に地球を覆い尽くす。無理矢理に慰安婦問題や徴用工問題に仕立てて騒ぎ立てるのも恨の文化からくるものだが、裕福なカナン七族に取り込まれないよう国家建設にイスラエル民族の目を向けさせることに苦心したように、実体の天一国建設にはそれに向かう動機としての心の叫びを持ちえない限り一歩も前には進めない。

2018年1月28日日曜日

今日の想い 963

父が肺炎で倒れた。急遽チケットをとり田舎に向かった。今は両親と共にいる。両親も随分年取ったが同じように家も年を重ねている。この寒波で2メーターも積もった雪に辛うじて耐えている。父はひと先ず退院はしたが大量の抗生物質に消化器系をやられ、腹の不調を訴え喰うものも喰わない。起き上がって歩ける位にはならないとそのまま置いて帰れないが、果たして90近い父に回復は望めるだろうか。どうしたもんかと思案にくれる。家の雪かきもすべきなのだが既に軒を超えていてショベル一つで遣り終える自信がない。父は機械を使っていたのだが手慣れていない私にはとても使えない。今も雪は私の心配を掻き立てるように降り続く。心配ばかりをこの場にいても膨らませる。妻の心配をし子供の心配をし、店の心配もして、今、両親への心配をどこまでも膨らませる。私はどこにいても心配している。させられていると思っていたけれども心配している。おそらく今の心配事が解決したとしても直ぐに次の心配事を見つけ出す。まるで心配するためにこの世に生まれたかのように、、。そう、おそらくそうなのだろう。私は心配するために生きている。だからわざわざ妻が病気になり、店の様々な問題が次から次へと起こり、今はずっと心配かけた両親を心配している。そしてそのことをしっかりと受け止める使命が私にはある。使命に生きてこそ原理的生活であり、み旨だ何だと言いながらそこから逃げるのは私にとっては堕落的だ。病気で生活もままならない親を無視したままで、どれほど教会活動に奔走したところで所詮堕落的だ。心配は受動的感情だけれども心配事の対象に正面から立ち向かうのは能動的犠牲精神だ。そうして私の霊はそれでこそ成長する。すなわち神様の対象足りうる。

2018年1月4日木曜日

今日の想い 962(性について)

性への欲望を不純なる自己中心的我慾とみるかそれとも霊的高みに上ろうとする純真なる願いとみるかは宗教圏に留まるか宗教圏を超えた本体論的意識に届くかであり、何の動機による性的行動かによって自己中心的なものに留まる肉的満足感を得るだけなのか、それとも愛の儀式として神様に供えることができるのかが決定する。母のいない天の御父様のみであった先天時代を超えて天の父母様としての後天時代が開かれた今、それは堕落のない時代、堕落できない時代であり、先天の性への罪悪感は後天に於いて引きずり抱くものではない。サタンによって悪用されたフリーセックスという肉的言葉が、後天に於いては内的な言葉としての自由な性、解放の性に向かうだろう。日の当たらないサタン的悪の儀式であった性は、善なる性、創造の性に取って代わる。愛が先か性が先かとなると愛が先に決まっていると当然のように言うけれども、実は性を通して愛が育まれ、また愛を通して性が実を為すというどちらが先というものでもない。取って食べてはならないという戒めの言葉は、愛があれば許されるというものではなく、祝福を受けてこそ許されるもの、いや為すべきもので、祝福を受けて初めて性を開き夫婦の愛を植え付け夫婦の愛を育てていく。現実問題として肉体を持っている以上様々な性に対する局面を味わうわけで、見たい触れたい心揺さぶられる肉の想いは押さえつけても押さえつけても噴出するのであり、またそれなりにその欲望に譲歩せざるを得ないのであり、しかしそれが罪だ堕落性だと自分を非難するのではなく良心との対話の内に、より夫婦愛を強くする方向に、より愛の実としての性への感謝に繋げるべきだ。万物への感謝が食欲と密接な関係性があるように、性への感謝も性欲と関係性を持たせる必要がある。万物への感謝によって万物の本質を知る者となり、それによって人は財を為せるように、性という愛の実への感謝によって愛の本質を知る者となり、それによって内的霊的財を為せる者、すなわち愛の人格を備える者となる。善なる性、創造の性は祝福を受けた者の特権であり、その意味は最初に記したように動機を正すことができるからであり、祝福家庭の性は為に生きるという目的性が明確に存在しているしそうあるべきだ。子を産むための性のみならず、あらゆる創造的種が植え付けられる性、真の愛、最高の愛の儀式としての性によって私達の神様は封印されておられた創造性を爆発的に解放される。