2024年10月4日金曜日

今日の想い 1329

人類を救うと大真面目に口にする。救いの意味が本当にわかっているのか大風呂敷を広げる。人類全てを祝福することで救いの摂理は全うすると信じている。御父母様を真の父母として受け入れ祝福を授かることで人類の平和は訪れるのだろうか。私達がイメージする理想世界はアボジが理想とされた世界と同じだと断言できるだろうか。私達が大言している一方で、人類はここに来て明らかにかの大戦以降最大の世界戦争勃発危機に瀕している。食口達は、教会は反社だと世間からいわれ差別的扱いを受けていることに沈んでいるけれども、国が実体戦争に巻き込まれて流浪の民とならざるを得なくなった状態を思うと、行動自粛して静かに目立たず隠れている場合ではないだろう。本当は国家危機、世界危機の今こそトーンを数段上げて叫ぶ時だ。教会は平準化によって大衆が受け入れる大乗宗教になるのは仕方のないこととしても、だからと言ってアボジから直接指導を受けた肝いりの一世が大衆化してどうするのだろう。食口の摂理観の欠如が今の今こそ憂える状況は過去にはない。アボジの為に死ねるならアボジが切実に願われた摂理に生命を賭して当然だと思うけれども、原理運動当時にはあった摂理観も覇気も今はない。壇上に立つ一世も二世にしても、この信仰を持って幸せですとか感謝ですとか、そんなことはいいから、国を憂い国の為に生命をかける気概を魂の言葉で国民に投げかけ訴える、そんな食口の一人すら果たして日本にはいるのだろうか。

2024年9月24日火曜日

今日の想い 1328

創世記に「我々の形に我々にかたどって、」とあるように神を複数形で表されているが、創造を終えられると神は主なる神という表現に変る。原書の創世記には二通りの神表現があり、エロヒム(神々)という複数形の神とヤハウェ(主なる神)という一人称の神で分けて記されている。エロヒムが夜の神様でありヤハウェが昼の神様ではないかという記述を載せたことがあるが、その仮定は置いておくとして、神という存在が一人称を超えた(勿論、人ではないので一人称という言い方自体おかしいが、)、いや数理を超えた存在であることも確かだ。そうなると教会がイメージしている、というかさせている一なる神様だけでは捉えられない部分も多くあって、それでいてこれからの摂理を牽引できる立場にあるのかどうかという疑問が湧いてくる。先天の蕩減時代であったから教会の神様で摂理を引っ張ってきた訳であって、蕩減を超えた後天時代は神の概念を変えない限りお役御免になりかねない。時代は変わったのに私達が変われないとなると歴史の渦の中に埋もれて消えてしまう。もはや神様が耐え忍んでばかりおられる神様ではないのに、忍従の一語で通すのが当然だというのは通らない。訴えるべきであり、打って出るべきであり、摂理を進めるに戦略的でなければならないし、対社会では反社に仕立てられた立場で策略もあって当然だろう。如何わしい謀略だって必要かもしれない。反社というレッテルを貼られた故の開き直りの吐露ではないけれども、ここまで追い込まれながら神様は向こう側の神様でもあられるなどと相手に寄り添い自滅的素振りを見せ、恰もそれが打たれることを良しとする神様を戴く私達の姿勢だと言わんばかりに言葉に酔っているのは現実逃避だ。神様は慈愛や嘆きの神様であるだけでなく、怒りの神様でもあり裁きの神様でもあり創造の神様であると同時に破壊の神様でもある。それは人間の魂の千変万化の在り様からみてもそうで、神の単純なイメージ化はできない。にも拘らず食口の神と霊界のイメージは呆れるほど単純だ。今の世の暴れ狂う自然を見ていて、またアメリカ一強が崩れている現実を見、金融資本主義が行き着く先まで行ってしまった現状を見て、そして多様性と言われて根底が覆される社会状況はそれこそ頭に角が生えたり男女の器官を一個体に持てたりするような、そんな中でヤハウェの権威をエロヒム連合に委託しなければ統治できない地球になっている。もはや献金や旧態依然の伝道では摂理に対して何の影響力も持つことができない。

2024年9月11日水曜日

今日の想い 1327

 二世教育は原理を教えて完結するわけでも教義箇条を教えて良しとすることでもなく、自分の中の良心の存在を見出せるようにすることであり、良心を中心とした主体的な人生になるよう導くことだ。乱暴なことをいえば敢えて信仰に導く必要もない。子供は親の生き様を見ているのであり、教えずとも信仰故の人生観を親を通して見せている。一世の私達には大きな誤解があった。み言葉の力を恰も呪文の如くに捉えていた。少なくとも私はそうだった。み言葉さえ入ればこの道のすばらしさを理解すると思った。しかし二世の時代は一世の時の時代的背景や社会文化とも違うし、それ以前に願い願われて地上に生まれでた意味から異なっている。今の若者は今の時代だから生まれ出ているわけで、彼等は決して私達の時代に生まれることはない。先天時代という受動的時代だからみ言葉を与えられて受け入れる内的態度で良しとされたが、後天時代を生きるには能動的時代として、与えられて従うのではなく自ら掴んで主管していく内的態度が要求されている。子女様に於いてもそうだが一世から見れば教えに反する行動をたとえ取ったとしても、それを見て裁いたり諭したりして彼等が成長するのではなく、あくまで彼等の判断に委ねるしか成長の方策はない。親として接するとすれば彼等の良心を引き出すことであり、良心を主体として立てるよう導くことだ。一世の私達は御父母様から祝福の顕現を与えられている。御父母様が外的には放蕩三昧に見える子女様でさえ祝福されたことを思えば、敢えて教義の枷に当てはめて祝福を与える必要もない。他の食口が訝しく思うなら思わせておけばいいし、話を合わせておけばいい。今回の問題で多くの食口が理解したように、主体的能動的に道を切り開いていく二世が願われているのであって、私達一世の教条的枷にはまる二世では後天時代を切り開けない。

2024年9月10日火曜日

今日の想い 1326

 信仰二世もそれぞれ様々な環境があり歩みがあって今に至っている訳で、十把一絡げに括ってしまうのは違うだろう。さらに、二世の殆どは教会の信仰を持てないか或いはどっちつかずで、信仰二世の括りにも入らない者達の方が圧倒的に多いはずで、彼等にしても十人いれば十人の異なる環境があり歩みがあり、そして事情がある。信仰している側から見れば、落伍者だという認識を先ず持つのだろうし、彼等自身もまたはみ出している自覚はあるのだろうが、信仰のあるなしの基準等というものはもともとない。信仰という言葉自体が主観的言葉なので、本人があると言えばありないと言えばない、そんな言葉だ。ある意味宗教的なものは信じないと言うのも、信じないという信仰だと言えば言えてしまう。信仰二世(一世は当然だが)だと自覚する者はそれなりの神との出会いや体験を持っているはずで、だから信仰を継続している。しかし信仰を継続しているからOKなのではなく、その神との出会いや体験に甘んじている、或いはしがみついているのが問題で、そこに内的霊的成長はない。彼等が成長しなければ神体験を持たない位相の低い二世達は尚更成長できない。二世の一部が神体験を持っていて、多くの二世はそれがなくて教会との距離を取っているのであれば、自分達は選ばれた、すなわち神体験を持てずに距離をおく多くの二世達の救いの責任を引き受けているとは思わないのだろうか。信仰が自分と自分の周りの一部の幸せ事で終結している自覚があれば、神との出会いがありながらも自分は神の願いに応えていないという負債を覚えるだろうし、これ見よがしに幸せ自慢と受け取られるような証しはしない。それもこれも二世教育を間違えた一世達の責任であり、どれほど献身しようが献金しようが御国を仰げないし世間に踏みにじられて当然だろう。摂理観を正しく受け取れば天国へ行くための光を受け取る惑星的信仰ではなく、地上天国を築くために宗教を超える超宗教的な恒星存在になってこそアボジを担いアボジと共に摂理を推進している。

今日の想い 1325

 昔まだ小学校に上がるか上がらない頃、近くの停留所に派手なポスターが貼って合って、こんな寂しい田舎にとても似つかわしいとは思えない空気を板塀から醸し出していた。記号にしか見えない朝鮮語表記と、傍らに日本語表記もあって地上の楽園、朝鮮民主主義人民共和国と記されていた。そのポスターが色褪せた頃に新しいのに変わり、その都度、独特な色使いと絵柄に子供ながらに興味を抱いたものだ。良いこと尽くしの言葉とどこか不自然な笑顔で誘いをかける、実はそれを見たときの気分と、教会から伝道されて次々とかけられる親しみの言葉や笑顔、或いは証し会で感動しきりの話を受け取るときの気分が同じ、というか同じぎこちなさを覚えたのは私だけだろうか。私自身は友達から教会の話を聞いて自分から出向いて講義を受けたものだから、誘われて、というのとは少し入り口が違っていた。もし普通に伝道されて誘われていたら引いていたかもしれない。しかし食口達の教会に対する感謝感謝でしかない話や、神様に出会ったであろう食口の感動の証しは世間にどっぷり漬かっている人間からすれば実に胡散臭いし、おめでたい人達だなと突き放されてしまいかねない。それはどこか変わった人達、すなわち洗脳された人達と認識されてしまう。要するに食口が教会を証すればするほど距離を置かれるということだ。おそらく赤子のような食口達からすれば更なる説明、教会用語でいうところのアベル的発信が足りないと思っているが、実は発信の仕方、説明の仕方が間違っているとは少しも思っていない。教会の改革を示すのに、新しく人事された若い二世達を壇上一杯に並べる様を見せられて記者達がどう思ったか知らないが、一般人に教会改革を示すのさえ教会思考によるやり方なんだなと、少なくとも私はがっかりした。

2024年9月7日土曜日

今日の想い 1324

 米が店頭から消えている。運よく見つけたとしても三から四割は高値で供給されている。新米が出揃う頃は落ち着くと言われながらも、価格はというと五割から十割増しだという。長く続いていた日本のデフレ経済から、地政学的理由や通貨安要因で一気にインフレ経済に振れてしまった。去年今年と物価は一割二割と上げてきたが、米は差ほど高くはなっておらず庶民には有難かったが、ここにきて他の物価高がかわいく思えるほど圧倒して値上がりした。米は主食であると同時に資源米でもあって、飼料や他の食品の原料にもなっているのであり、そうなると食品全般に更なる物価高が押し寄せるのは目に見えている。インフレは日本に限らず世界的に起こっている経済現象だが、ドルを始めとする主要通貨すべてが爆刷りしてきた結果を今のインフレに見ている。爆刷りした通貨は先ず金融マーケットに流れ株の爆上げとなってきたが、金融と経済に壁があるわけでもなく、そうなると当然生活に関わる実体経済に波及するわけで、株が何倍にもなったと同じように物価も何倍にもなる、というのが論理的予想だ。インフレの流れの原因をどう捉えるかが大事だが、景気が上向きで需要が高いからインフレ方向になるのか、通貨安によって相対的に物価が高くなるインフレなのか、当然今回は通貨安によるインフレだ。米大統領選候補者カマラハリスはインフレ対策として価格統制を掲げている。アメリカはかつてニクソンが価格統制の大統領令を出して大失敗している。価格統制されれば製造販売業者はやり繰りできず物は不足する。不足すればどんなに高くとも闇市に行かざるを得ないのであり、実質的に統制どころか物価は高騰する。誰の入れ知恵か知らないが、カマラハリスはこの浅知恵で大統領が務まると思っているところがアメリカの国力低下を如実に表している。おそらく誰になろうともアメリカは既に詰んでおり、アメリカが牽引してきた世界も当然詰んでいる。2025年のアメリカが、日本が、世界がどんな地獄状況を呈するか、その確定執行を首を洗って待たないと次に進めない。

2024年8月31日土曜日

今日の想い 1323

久しぶりに朝生を見た。平和ボケ日本では相変わらず軍拡への批判と、話し合いと外交で戦争を回避するという認識一辺倒なのだろうという先入観ありきで見始めた。若い女性も二人いて、特にこの二人の意見は聞き逃さないようにしようと眠い目をこすりながら頑張った。90を超える司会者はいい加減席を若い世代に譲ったらと誰もが思うだろう。頭の固さや頑固さもそうだが、とにかく活舌が悪くて聞き苦しい。彼に引導を渡せないのも日本社会故だ。言論村の重鎮には何も言えない。それはさておいて若い二人の意見だが、戦争の恐ろしさを知っている世代がいなくなったらとか、戦争の恐怖を伝えていくことで戦争回避できるとか、どうも闘うことイコール恐怖という風に刷り込まれているのか、先ずこの恐怖の感情あっての意見であったり議論であったりというのは果たして平和に対する前向きな態度と言えるのだろうか。人生の中で闘う場面は度々あるだろうに、そして闘うことの恐怖心を超えなければ希望はないように、人生での闘いと国家間の戦争との関連性は全くないと認識しているかのように戦争の恐怖を超えるのではなくひたすら避けようとしている。願わない喧嘩を吹っ掛けられても逃げるわけにはいかず、拳によらないにしても何某かによる闘いは避けられないわけで、そこの想像力が働かないのが平和ボケ国民の平和ボケたる所以で、やはりこの国には一発ミサイルでもぶち込まれなければ目は覚めないらしい。そうなると流石に外交だの話し合いだのという意見は吹っ飛ぶだろう。核保持による回避を議題に上げても、戦争の恐怖ありきの人間に核議論を持ちかけてもどうにもならない。

今日の想い 1322

 日本食口が今すべきことは修練会に参加することでも、信仰生活のルーティーンに忙しくすることでも、そして兄弟達の集まりで認め合ったり慰め合ったりすることでもない。今すべきことは、自分としっかり向き合い良心と対話すること。それは声を張り上げ誰に届くでもない言葉を羅列したり、気分の高揚や涙を流すことを目的化する祈祷条件でもなく、ひたすら納得するまで自分の内面に向き合い、或る時はさまよったとしてもそれでも内面に対峙することだ。自分の信仰が表面的なものなのか、内面のあらゆる霊を納得させた上での柱としての信仰なのか、先ずそこが神から自我を与えられた私の生きる信仰としての出発点だ。霊は私の外に見るものではなく、善霊であれ悪霊であれどんな霊であってもその霊の集合が私であり、そんな霊達の声々が止めどもなく我先に叫ばれ、声の大きい霊の群れが私の魂の衝動となっている。そんな自分の内面の実態を無視して、与えられた表面的信仰で紛らすことは良心の願いに生きることとは異なっている。先天には先天を主管する神霊の縛りがあって、良くも悪くも内面の霊は地の底に封印されていた。しかし現代社会の状況がありとあらゆる声を発する多様化された時代となって、霊達の露(あらわ)にされた姿勢や衝動を混乱社会に見るように、全ての人々の内面も地の底が撤廃され霊の洪水を起こしている。それはまさしくアボジが霊界と地上界の堺を撤廃されたことによる現象だと理解できる。聖杯が行方不明になり皆が囲っていた円卓が壊れたという聖杯伝説に見るように、アボジという聖杯は基元節を前に忽然と地上を去られ、教会という円卓は三分割から何分割にも壊されてしまった。神様と一体であられるアボジを探して出会おうとするなら外に探すのでなはく、内面を尋ねながら出会う道しか残されていない。しかしそれこそが神霊となられたアボジに出会う本道だろう。もちろん御母様に神様の権威を尋ねるのは間違いだとは毛頭思っていない。しかし御母様に侍るとしても御自身が私達を良心を尋ねる本道に導かれるはずだ。

2024年8月29日木曜日

今日の想い 1321

霊的に成長するという意味を本当に知っているだろうか。おそらく多くの食口は、成長するという、時には残酷でもある犠牲を含むその意味を知らずに生きている。人間の体の成長も生きている多くの細胞の犠牲の上に成り立っている。そのように霊的成長も同じように犠牲が伴うことを知らなければ本当の成長は為しえない。一世で献身を決意してこの道にきた者であれば、そこにどれほどの犠牲を払ったかを覚えているはずだ。先ず本人は親への想いを断ち切る必要があるし、当然親はその何倍もの想いがあり、それらを犠牲にして献身している。蓄えや職場などの外的なこともそうだが、断ち切らなければならなかったそれ以上の関係性は親子の事の他にもあった。もし献身して歩んできたことが本当に私の願う人生だっただろうかと問う者がいるとすれば、その決意は本物ではなかったという証拠であり犠牲を無駄にしてこの道に逃げてきたに過ぎない。だから後ろ髪をひかれるようにあの時に戻ってやり直したいなどと甘えごとを言う。戦時を超えて生きながらえた者は、後の日本の発展は戦死した戦友や親戚知人などの多くの犠牲の上にあることを魂に沁みて知っている。だからどれほど苦労の人生だとしても彼等の犠牲を無になど到底できないという想いがあって生きてきた。その想いは戦争を知らない世代であっても相続すべきもので、反戦教育で植え付けられる国家による被害と国家の否定という認識と感情とは全く異なる。人類が霊的段階を上げるべく発展してきた歴史を辿れば、新たな段階に踏み出す前には必ず大きな犠牲が供えられている。教会も摂理を進める為に多大な犠牲を供えてきたけれども、もしそれを被害と捉えてしまうと祝福家庭達の霊的段階を上げての発展は見込めない。アブラハムはイサクを犠牲にしようとしたけれども、もし冷酷にも神様が止めずにそのままイサクが供え物となった場合、そしてアブラハムが嘆き悲しみ恨んだ場合、それは犠牲ではなく被害でしかなかったしイスラエル民族の発展はなかった。全ての犠牲は人間的感情で捉えれば被害でかたずけられる。あらゆる辛苦のひとつひとつを被害として落とし込むのではなく、犠牲として昇華させてこそ霊的成長、精神の高みに段階を上げる。そして供えた犠牲が私と共に活きる。

2024年8月27日火曜日

今日の想い 1320

 左の頬を打たれたら右の頬も差し出す、というイエス様の言葉がある。クリスチャンの中にはこれを言葉のままを受け取る者がいて、それはできないとかそこまで犠牲的自分を差し出すとか思うのだろうか。ひょっとしたら食口の中にもそんな単純な思考を持っている者がいるのかもしれない。ようするに打たれる自分は打たれて当然どころか、それ以上に打たれるべきだと信じているということだ。左の頬を打たれたら右の頬を差し出す前に先ず打たれた意味を問うべきだろう。自分に問うてみてそして次の行動にでればいい。今回教会は見事に打たれた。左の頬どころの騒ぎではない。日本の教会は組織的には瀕死の状態だ。にもかかわらず、神様はいてそれは教会を潰そうとしている相手方の神様でもあり、私達を愛すると等しく教会を打ちのめす反対派も神様は愛しておられると言う。だからどうだと言うのか。打つままにされていればいいと言いたいのだろうか。そんな単純信仰で私達は遣り過ごそうとしているのだろうか。少なくとも何の反撃にもでない、あるいは何の戦略もない教会指導部であることは明白になった。あれほどに日本を救い世界を救うと大言し、その為の献金摂理だとして教会食口を翻弄しながら、しかし反対する者達への何の戦略もなかったという御粗末さは笑うに笑えない。一世は二世に対してそんな私達がやってきたことへの総括も反省もない。もし二世が立つとするなら先ず一世への憤りから立ち上がるべきだ。一世のお花畑思考と幼子のままの成長しない信仰を痛烈に批判してこそ次につながる道がある。寝ぼけたままで覚醒しない一世食口は、未だに無責任な楽観的気分を肯定的姿勢だと信じて捉えてルームランナーの上を走っている。

2024年8月24日土曜日

今日の想い 1319

 拉致監禁されて離れていった食口達。抜け出すまでの過酷な闘いは彼等の証しを通してその状況を把握できるのだが、証しとして届くのは当然試練を乗り越えて本人の信仰を全うした証しであって、それは拉致監禁されたほんの一部の食口だと私は思っている。そこで説得され霊感弁連のような反対派にそそのかされてメディアに利用される者もいることはわかったが、しかし彼等とも異なる、どっちつかずで流されたまま遠のいた食口達も多かったのではないだろうか。誘われるままに入教し、そして誘われるままに離れていった。私はその部類の人間だからよくわかる。確かに人生の問題に悩んではいたけれども、誘われたから飛び込んだわけで、もしもまだ若いし早いですよと言われれば別の道を辿っただろう。正直なことを言うと、拉致監禁の話を小耳にはさみながら私にもその機会がこないだろうかと願っていた自分を否定できない。それほどにノルマで追われる闘いの日々は厳しかったし逃れたかった。信仰を捨てるとかどうとかの前に、一端実績追及から自由になって自分の内面を整理する機会が欲しかった。ひょっとしたらその機会が持てるかも知れないと思っていた。幸か不幸かその機会はこなかったが、そんな食口も結構多かったのではないだろうか。私の道が開けたのは明らかに米国人事からであって、あのまま日本に居続ければ精神ストレスで廃人になっていたかもしれない。霊感弁連のいう奴隷的人生観ではないけれども奴隷的信仰の中で呻吟させたのも教会だが、主体的人生観を学び能動的信仰の中で光を求めることができたのも教会だ。正直なところ、日本に居ながらにして主体的能動的な自分をどう立てるかは見えてこない。教会以前の問題として未だに日本社会全般がそういう人間性を受け入れずに否定したままでいるからだ。教会に所属する食口であれば今回の件で献金にしろ伝道にしろ一端枷が外された訳で、そうなると教会改革というより人間性の改革へのベクトルは取りやすいし、今が絶好の機会だと私は思う。ノルマで疲労困憊していた食口にしてみれば教会は打たれているけれども個人的には胸を撫でおろしている。しかしそれで安堵するのではなく、今度は主体的自我を取り戻し、その上で主体的能動的に教会改革に関わり臨んで欲しい。反対派弁護士がいう奴隷的犠牲的人生観を打破して欲しい。

2024年8月22日木曜日

今日の想い 1318

私達は洗脳されているらしい。洗脳を解くためには信者一人一人拉致監禁もやむを得ず、というのが彼等の本音だろう。さて私達は本当に洗脳されているのだろうか。彼等によれば洗脳されている者が自問自答すること自体不可能らしく、よって信者を洗脳しているトップを潰す以外ないということで解散になるという訳だ。洗脳されている証拠として生活までも犠牲にする高額献金であり、それは奉仕的奴隷的人間観を植え付けられているからであり、本来の人間観から逸脱するその人間観は洗脳によるということ。どうだろう。ここまで連ねてきて納得するだろうか。食口は納得しない。しかし普通の一般的日本人は十分納得する。食口が納得しないのは献身生活や献金活動はそれによって得る内的何某かの達成感があるからであって(それを説明しても理解不可能ではあるが)、洗脳によって騙されているのではないからだ。しかし日本以外の信者をみるとき、日本食口のような熱心さというか極端なというか、そんな活動はついていけないのであって、清平摂理もそうだが自分に似合う距離をとることは当然であり、それを他の食口から不信仰だ何だと非難されることもないしつまはじきにする空気もない。日本食口というより日本社会そのものが異なった思考や新しい信念を受け入れないし、一般的人間観とはこういうものだという民族洗脳に日本人全般こそが罹っていて、そこからはみ出すと村八分にされる。そう、教会は日本社会から村八分を喰らったということ。私自身洗脳されたというのは受け入れがたいが、上から来た願いを受け入れるのが信仰だという決め付けは確かにあったし、海外に出てみて初めて日本の在り様が政治にしろ社会にしろ理解しがたいものだと目が覚めた。洗脳という言葉を使うから感情が受け付けないけれども、実際問題私達は独善的であったし極端な信仰の在り様だった。先天に於いてはまたそれを要求されてもいた。しかしどんなに私達を村八分にしていじめても、日本社会そのものが目覚めて主体的意識を勝ち取れるわけでもない。ますます内向きになり、周辺に大きな敵を四方に見ながらそれでも外に向いては一向に目を向けないし、ひょっとしたらミサイルをぶちこまれてもそれも教会が悪いからだと言い放つだろう。暗殺事件でその解明に目を向けるでもなく、加害者の三次的四次的な関わりしかない、そんな教会を反社だと血祭りにあげながら日本中が騒いでいる、、日本は本当に狂っている。

2024年8月20日火曜日

今日の想い 1317

食口に会って私の歩んできた概要を説明すれば、アメリカで頑張ってこられたんですねとしか言われない。その言葉に幾分の羨望と敬意はありながらも、叱責どころか一言の苦言を呈されることもない。日本の主要摂理は献金路程であったし日本からの献金なくして韓国もアメリカも世界摂理も回ることはなかった。本来なら日本の食口はそれこそ骨身を削ってでも支えてきて結果生活苦に埋もれる者も多いのに、海外に出てどういう結果を出したのかただ生活を援助しただけなのかと御叱りを受けて当然だし、疲労しきった日本を今度は逆に援助してもおかしくないでしょうと迫って当然だろう。しかし今の今まで誰に会ってもそんな言葉をかけられたことはない。アボジの地上におられる間はアボジの言葉が摂理であり絶対だった。それは日本もアメリカも韓国もそうだった。願われて捧げたものに対して一言もなかったし、摂理的事業に投入する側も何の意見も物申さず言われるままに注ぎ込んだ。願われたからやっただけでその結果に対して責任はない。それは出す側も使う側も同じ認識でどちらももう一方に対して言葉も感情もない。アボジに責められて初めて立場を認識するのだが、そのアボジは今は地上におられない。よって過去は封印されたかの如く何も触れずそのまま摂理を進めようとするけれどもそんな単純は話ではないだろう。個の発展も教会の発展もそして摂理の進展も総括するという段階を踏まない限り次には進めない。レストラン摂理で何件つくるようにと言われたその言葉だけを切り取って突き進もうとするけれども、結果が全く伴わずそれでもその言葉だけは後生大事にして死んでいく、という同じ状況が摂理的部署それぞれに見受けられる。総括するということはアボジの地上不在を受け入れることであり、アボジ先導型摂理の先天から良心を通して天の摂理を受け取るという後天へのシフトチェンジだ。言葉もなく責任感情もなしでどう反対する社会的権威に立ち向かうことができるだろうか。

2024年8月19日月曜日

今日の想い 1316

 お盆を過ぎれば幾分涼しくなるだろうと思っていたが、しばらく猛暑は続くようで、昔の夏のことを思えば流石にここ数年は異常気象だという認識は間違いではないだろう。暑いから腰が重かったが、妹婿がわざわざ声をかけてくれて、田舎の家や墓まわりの草刈りを手伝ってくれるというので、言葉に甘えて妹夫婦と出かけて一仕事してきた。今年初めに老親を近くに移してからは何もしてないので、墓に向かう山肌の小道は等身大の草で埋め尽くされていた。いくら草刈り機があるといっても、この大草をひとりで遣りこなすとなると半日では終わらない。手伝ってもらって良かったと思った。枯れた杉の葉で覆われた墓回りも熊手できれいに掻いて、藪蚊が飛び回る中をフマキラーを吹きつけながら線香を手向け、花を挿して、皆で手を合わせた。この場所に来れば昔の様々な思い出の数々が、我先と押しのけるようにして次々と眼前に描写される。遠い昔の時間の狭間に捨て去り消え失せたはずの、あの取るに足らない体験が、この場に立つことで克明に描写される。となると記憶は私の脳裏にあるのではなく、この地この場所に釘付けされていて、それが私の体という媒体を通して呼び起こされるということだろう。もし私が霊的感性を更に鋭くしていたなら、私の思い出に留まらず遥か昔のこの地の出来事さえも呼び起こされるだろう。おそらく多くの人々は歌の如く、死者はそこにはいないと信じて疑わないだろうが、皆の祈りが死者をそこに呼び寄せるだろうし、祈る人々の念もそこに釘付けされる。実はと言うとこの田舎があまりにも不便なので、墓も今住んでいる近くに移動させようと場所と入れ物だけは数年前に用意していた。それは両親ふたりなくなってからとは思ったのだが、果たしてそれでいいものかどうか、再考する必要があることを学習した。

2024年8月14日水曜日

今日の想い 1315

 宮崎県日向灘を震源とする地震が起こった。気象庁は南海トラフ地震への注意を喚起して、宮崎近辺だけのことだという他人事を日本の広範囲に及ぶ国民の事であり自分の事として意識させた。日本列島は北東から南西にうねる竜の背中に乗っかっている。日本はこの竜が激しく動けば列島もろとも太平洋にずりおちてしまうという、大陸上の国とは全く異なる状況にある。異なる状況どころか日本人もろとも海の藻屑と消えかねない運命にあるのが日本だ。それを思えば日韓トンネルは地獄からの避難トンネルになり得ただろうに、政府は教会を潰すと共に日本人の生き残りの道筋も潰した格好になった。勿論資金の理由からなのか何なのか、早々に頓挫したままであって特に今回の件で潰されたという訳ではないのかもしれないが、希望は断たれた。南海トラフ地震は巨大地震と言われるけれども、震度やその範囲、また津波の高さや範囲による被害のみならず、インフラという生命線が寸断されることによる被害も含めて予想できない。おそらく全国民がその時になってみないとわからないというのが実情だろう。東北の比ではないことぐらいはわかるが、だからといって避難する場所や道筋、取り敢えずの備蓄、それくらいの準備の他はどうしようもなく、何があっても受け止めるしかないという心の準備しかないだろう。「心の準備」をどうしようもないという意味で使うことが多いけれども、自分の心に聞いて行動するのが最善だろう。心に聞いて心の赴くままに行動するという、これもみ言葉に触れない人々に対する天が願う良心啓発のひとつだと思う。日本人は災害の苦難を経ることで霊的位相の高みへと魂の階段を上ってきたし、南海トラフ巨大地震が起こるとすればそれもまた日本人に対する内外の摂理だろう。

2024年8月8日木曜日

今日の想い 1314

 先ず教会用語を内輪でも使わず、この社会で使われている言葉に直して使う必要がある。私が嫌う言葉の一つとして原理非原理がある。原理的だとか非原理的というような使い方をするこの言葉は、食口の間違った選民意識を誘発させる。教会は原理的でありこの世は非原理的だと当然のように判断するけれども、自分の中に堕落的なものが息衝いているように、教会の中にも非原理的なものがありこの世の中に原理的なものもある。さらに言えば原理非原理の基準は私達の中にはないだろうしどこで線を引くのか分かっていない。こういった教会用語を使って食口村をつくるものだから、”非原理的”この世から隔離し独善性は強くなる。この社会を堕落世界だ何だと言いながら、社会の中に生きて社会から様々な社会保障を当然のように受け享受している。年金も積み立てておらず受け取れなかったり額が少なかったりするが、中には生活できないために生活保護を受ける者もいて、そんな立場でそれでもこの世を堕落社会だと糾弾することができるだろうか。献金を優先して税を負担してこなかったことを誇ることはできない。祝福家庭に霊的位相の違いはあるとしても、それは社会に対して誇るものではなく、口に出して誇る時点で位相は転げ落ちる。高みに対して誇りには思ってもこの世にたいして誇るべきものではない。この世で謙虚であることが逆説的に霊的に誇ることになるという、この意味がわからなければ霊的理解に欠けている。み言葉を訓読しながらみ言葉の流れがわかってくると霊界も正しく認識できるし、霊的感性もみ言葉の深さ、すなわち心情の深さを相続することで育てることができる。原理用語を使いながらみ言葉を理解したつもりになっても、それはみ言葉の理解を逆に妨げる。

今日の想い 1313

 株が暴落した、あくる日には暴騰したと一喜一憂の空気が日本に蔓延している。景気が良くなって株が上がっていくのはわかるとしても、株が上がったから景気がいい、逆に下がったから景気が悪いと言うのは本末転倒だ。株を取得すること、すなわちその会社の部分的オーナー権を得てどうしたいのかの動機を問わなければならないのに、上がるとみて買い下がるとみて売るのは只の利幅稼ぎの為にオーナー権を腰掛けで使っているに過ぎない。株を短期で売買できる時点で利幅稼ぎの取得者を寄せ集めていて、その会社の発展には逆効果をもたらしている。自社株買いがいつから許されるようになったか知らないが、それをすれば当然株価は上がる訳で、発展成長して株価を上げるのではなくより買いを増やす目的で裏技で上げ、上がった数値をみて腰掛け買いがさらに増やすと言う株ゲームでしかない。ようするに今の市場は金融ギャンブルであって、それもレバレッジで掛け金を何倍にも増やしてゲームできるという点では通常のギャンブルを超えている。さらに悪質なのは金融だけに経済全般に深く影響していることだ。日銀会合で決定したコンマ25%金利上げで円キャリートレード(低い金利通貨を借りて金利の高い国債や上げ率の大きい債券を買うこと)の巻き戻しが一気に起こっている。暴落したもののあくる日には暴騰したが、株価は差し引き大割れとなり、しかしまだ半分も巻き戻してはいないのを換算すると秋口からの更なる下げが予想さる。新聞の見出しはブラックマンデーを超えるという文字が躍っているが、リーマンショック以降の通貨増刷(日米欧で15兆ドル)の背景からは当然どころか、こんな下げ幅で取り敢えずは済んだというところだろう。金融システムを始めとする資本主義経済のシステム自体が疲労しており、あちこちの歪を抑えきれずにマグニチュードを最大にさせて大揺れする。確かなことはこれはほんの始まりに過ぎないということだ。

2024年8月6日火曜日

今日の想い 1312

 未だに眠りから覚めず、何の根拠もないのに今の状況を楽観視している食口がいる。しかも大勢いる。笑みさへ浮かべながら「打たれたからこれからは神が打つ場面に移る」と壇上から言われると、大きく頷きながら大きく拍手している。打たれた?、、打たれた自覚が本当に食口達にあるのだろうか。既に何度かこのやるせない感情を吐露すべく記したが、溜息は大きくなる一方だ。繰り返しになるけれども食口に責任感情という痛みはない。失敗したこれまでの摂理に対して何の負債も感じてはいない。勿論口にはするけれども胸の内にそれは見えない。祈祷条件を立て地を叩いて涙の祈りをするけれども、時間が来て顔を上げた途端に本人の祈りではなかったかのように普通に生活に入る、、あの感覚だ。自分の嘘を嘘と見抜けない、虚実同居する矛盾を、原理を通して堕落人間の矛盾性を嫌というほど学んだ立場で自己の矛盾性を見抜けない、そういう自分であることを食口はどう思っているのだろうか。シンポジウムで教会側に立って語る言葉は私達に甘いけれども、そんな言葉をかけられて満足して帰路につくのは大間違いだ。できるならヨイショされるのではなく怒気を含めて叱咤してもらいたい。そうでもして叩き起こさなければ、眠りから覚めない私達だ。人は痛みがなければ他人事だ。他人事であればそこに責任感は伴わない。未だに私達の中には危機感の代わりに無責任な楽観的気分と言葉が充満している。子供は天真爛漫でいたいけな様はかわいらしい。しかし大人が無邪気な者ばかりでどうして摂理が進むだろうか。騙され食い物にされて終わりだ。せめてもの想いは、これを通して痛みを覚え、摂理を自分のこととして向き合える機会にしてほしい。

2024年8月1日木曜日

今日の想い 1311

教会は民主主義ではないから会議するという習慣はなく、集合すれば上意下達で終わって食口は全て受け止めて終わる。しかし摂理の要求としてビジネス活動に入るとなると皆のいろんな意見を集約しながら目標なり願いを達成することになる。当然会議も必要になるのだが、食口達にその習慣がないためか度胸すらないのか、立てられた中心者からの方策に頷き聞くだけで意見も出ず、ましてや丁々発止の議論の遣り取りもなく流れてしまう。私のいた部署はほぼ30年間、会議と呼ばれる集まり自体は多かったものの、会議の体を為しておらず、売り上げも減り店も減るばかりで大した発展もなく時間だけが流れていった。宗教は阿片だと言う者もいたが、こんな発展も成長もなく時間だけを費やしているのなら、その言葉は意外と的を射ているのかもしれない。信仰生活を歩んでいる途中のどこかで闘いを諦めてしまい、そして公私の願いも欲も諦めてしまい、戴いた祝福だけを護りながらこの世を去っていく。でも本当の意味で祝福を花咲かせ実を実らす為には、願いも欲も抱えて生きながら、自分の弱さと闘いながら、精神位相の断崖を登っていかなければならない。あれほどにみ言葉を受け訓読の日々であるなら、み言葉の心情を相続して語る言葉に魂を感じるはずだがそれがない。それどころか逆に言葉が貧しく弱弱しさしか感じ取れない。み言葉を教条的にしか受け取れない腐った輩は無視して、み言葉の心情、み言葉の魂に相対し、自分の中に根付かせ成長させなければ信仰生活している意味はないだろう。真の父母の願いを成就する為に生きてこの道を歩んでいるのであって、教条的に形だけ父母に従っている風を装ったり、嘘臭い御母様賛同の言葉を連ねるだけでは真の父母の子女とはなれない。教会のお花畑の在り様にさえ剣を投げ込めずに、どうしてこの世に対峙して摂理的方向に導くことができるだろうか。

2024年7月30日火曜日

今日の想い 1310

 ドルが兌換通貨だったときはドルを価値判断基準として使えていた。勿論金地金自体が絶対価値を持ち合わせているかどうかは議論の余地はあるが、腐らないし錆びないし何年たってもほぼ経年劣化はしないから、価値判断基準としての役割は備えている。しかし今のドルは兌換ではなく相場制通貨であって価値判断基準としての権威は備えていない。しかし兌換をやめたニクソンショック以降からもずっと変わらずドルを価値判断基準としている。ドルを基準にして価値判断することに慣れ、そこから離れられないでいるからだ。そしてその現実が今の相場を見誤らせる。さしてドル通貨増刷をしていなかったリーマンショック以前は、相場制であってもドルは安定していたのでドルによる相場判断に大した狂いはなかった。しかしリーマンショック以降の緩和政策(QE)によってドル通貨量は爆発的に増えている。血液をどこまでも水で薄められたと同じドル通貨で価値判断をすることは意味がないどころか極めて危険だ。そのことに気付いていない経済評論家や投資家が多く、そんな彼等が垂れ流す情報を鵜呑みにしていれば資産は必ず弾けて露と消えてしまう。相場が上がった下がったというのは当然市場の通貨によって表される。日本では円で表されるしアメリカではドルで表される。しかしその表記通貨が相対的であって上がったり下がったりしているのに、それも上げ幅も下げ幅も大きいにもかかわらずそれを基準にして判断することを良しとしている市場自体が眉唾ものだということだ。通貨不信が蔓延するに従い、人々は必ずより安定的でより絶対的な資産へと流れていく。そんな話を或る兄弟にすると、ではそれが金や銀の現物だとしてもそれを集めてどうするのか、宮殿でも建てるのかという頓珍漢な質問が返ってきた。では100ドル札を積み上げてどうするのか、焚火が御焚き上げでもするのかと逆に質問した。未来永劫通貨で食糧や生活物資を求めることができるという、ドル通貨信仰であり円通貨信仰に縛られている。

2024年7月26日金曜日

今日の想い 1309

暑い夏が日本を襲っている。夏の猛暑で骨の髄まで熱に晒される。この環境下では普通頭は働かない。それなりに論理を働かせる知能人、知識人であっても生き延びるのに精一杯で、暑い暑いの繰り返しで頭は回らない。ここ数年の夏は猛暑続きで冷夏という言葉を長らく耳にしたことがないが、このまま地球は強い熱を浴び続けるのだろうか。人類が科学技術の発展を遂げたように、魂の知の部分だけを特化させて使ってきたから、感情や意志の部分を等閑にしてきた近代がある。これからも夏の暑さが和らがないとなると、知的活動以上に霊的感覚を研ぎ澄まし、感情と意志を差し出すよう仕向けられることになる。地球の温度が上がり、人間の平温が上がると環境はどうなるのだろうか、人間の体質と社会はどうなるのだろうか。アボジは人間の体温が上がることを示唆されていたが、そうなると確かに体内の病原菌は死滅して健康にはなるかも知れない。しかし本当の願いはというと、熱の中で霊的感性の触指をこの皮膚を突き破って伸ばしていくことだ。連霊性時代に生きる人類はこの触指が必要不可欠だ。地上霊界の両感性を開花させ、足場をどちらにも置いて生きてこそ人間の本来の目的が見えてくる。地上界という表に生きると同時に霊界という裏を生きる。霊人達にしてみれば霊界という表を生きながら地上界という裏を生きる。堕落によって、霊的感性を封じられて以来の歴史を長く生きてきた人類にとって、これからの時代は何もかも新鮮であるけれども、しかし新しいものに踏み込む恐れが災いとなって足枷になっていく。

2024年7月25日木曜日

今日の想い 1308

 生きる為に食べるのであって食べる為に生きるのではない。これは納得すると思うが、ではこの設問はどうだろうか。愛する為に生きるのであって生きる為に愛するのではない。食口であれば当然のように頷くとは思うが、世間一般に問えば返答に言葉を詰まらせる。先ず愛という言葉は広範すぎて食べるというような万民が認識する具体的行為とは異なっている。さらに日本人にしてみれば愛という言葉は意志行動の言葉というよりは普通は感情の言葉として認識している。だから動詞として使う愛するとなるとどうも表立っては言えない行為と捉えてしまいがちだ。だから愛するという言葉より為に生きるという言葉が腑に落ちるし誤解を生まない。しかしそうだとしても為に生きる為に生きるというのも多くの日本人は納得しない。為に生きることすなわち自分を犠牲にすることで、ボランティアという良心的気分に留まるものは良しとしても、犠牲は否定するだろう。現代の日本人が宗教を胡散臭く感じるのは、唯物主義に毒されてそうなのではなく、それ以上に愛に帰する犠牲に対する認識が貧しいか間違っていて、精神を病むか憑りつかれた異常者と見るからだ。サクリファイスの語源は聖なる儀式をすることであり、ヴィクティムの犠牲とは異なっている。そして食口もさして変わらず犠牲的精神を為に生きる愛の行動とは受け取れず、捨て石としての自己の痛みと見做し、頭では受け止めても内心は嫌っている。犠牲の本質は次元の異なる別の意味があるのだが、それは今のところ棚上げしておいて、犠牲という言葉を敢えて使わずに良心に尋ね良心の願いに生きると認識するところから出発すべきだ。たとえアベルからきた願いであっても、自分の良心が納得しないものに促されて流されるべきではない。天の願いはアベルから来るのではなく良心が私を突き動かす内的衝動だ。

2024年7月15日月曜日

今日の想い 1307

 SPに囲まれながらも彼は拳を突き上げ、聴衆に向かってファイト(闘おう!)と数回叫んだ。私はその姿を見ながら胸が熱くなった。米国と米国市民を護りたいという、強い意志を備えた証をその行動に見た。為に生きる意志を確かに見た。彼の中にはアメリカを護る神霊が生きて働いていた。アボジが、ブッシュ政権がアメリカ摂理に手を翻したことで国の衰退を予言せざるを得なかったが、そして私自身もアメリカの希望は今の今まで見ることはなかったが、しかし彼はアメリカの希望を捨てはしなかったし、そんな齢になってもその希望実現に心身を捧げている。私は他の食口と同じように共和党派ではあるけれども、彼の政権下だったとき彼に期待もしなかったし彼がそれほどに愛国者だとも思わなかった。減税策はありがたかったが、政策担当者を次々辞任させてころころ変えるのは彼の人望の無さだろうと誰にと構わず口にしていた。しかし彼は彼なりに孤軍奮闘していたのだろう。人はそう簡単に変わらないし数十年続いて構築してきたシステムも簡単には崩せない。そして人もシステムも年月を経るほどにたかってむさぼる悪心や輩が当然のように増殖してくる。アメリカだって日本と同じように保身と利権の為に村社会が湧いている。左派右派の両派でそれはあるし、それは政治以外の社会でもそうだし、そんな幾多の村社会のグローバルな意志系統がDSだろう。今回のようなセンセーショナルには扱われなかったにしても、トランプが身の危険を覚えたのは何度かあった。彼を取り巻く環境と彼の行動は常に死と隣り合わせであり、その恐怖を超えて尚意志を貫くとなると、確かに彼の中に太い一柱の神霊が立っているはずで、その背後無くして彼の強固な意志は成り立たない。この暗殺計画がもし成功していたら、アメリカは瓦解する道をマッシグラに突進したはずだ。かつてのローマ帝国が内部から腐っていったように、アメリカも見過ごせない程に腐敗は広がっている。腐敗に乗じて生きるバイデンも彼に繋がる者達もトランプを相当に恐れている。トランプ大統領となれば、必ず彼等の罪状を白日の下に晒し、そして結果として全てを失うことになるからだ。トランプのプラカードを掲げる者達も含めて市民とて、同じように何らかの腐敗の汁を啜っている。国に負んぶに抱っこの市民ではなく、国を支える意志を持つ者が市民だとの共通観念を取り戻さない限り、トランプ大統領になっても改革は難しいが、愛国救国の神霊をいつまで宿し続けられるかどうかがこのトランプ摂理に掛かっている。

2024年7月10日水曜日

今日の想い 1306

為に生きるというみ言葉は為に生きる意志を備える自分を生きるのであって、他の為に自分を失うこととは異なる。アベルや誰かに合わせて自分を失うのではなく、あくまで自分という主体が中心であること、そこを無視して表面的に繕っても自らに犠牲を強いることでしかなく為に生きる精神とはならない。先にも述べたように日本人は主体なる霊が立たない、或いは立てども霊の影が薄いものだから、本人は為に生きているつもりが実は振りをしているだけの可能性が高い。日本人の精神性を紐解くのに三島由紀夫はもってこいの人物だ。三島は論理にも長け美意識も人一倍強い作家だった。しかし彼自身が日本的とされる在り様に心酔する姿勢からわかるように、内面に主体なる霊を立ててはいなかったはずだ。西洋的キリスト教の死に対する認識と、東洋的日本の死に対する認識は、主体なる霊のあるなしが関係していて異なってくる。彼の自刃という決起は、本人の主体的行動によるものだと思われがちだが、実は自分の中には見出せない崇める霊的存在、彼の場合は特有の民族霊が彼の魂を操っていてそういう行動に出たということだ。日本武士の切腹行為もまたそうであり、日本軍の特攻隊精神も同じで自らの魂の主体を他に預けているからそういう行動を取ってしまう。見えない日本の民族霊に従っていれば、その願いに応えられず覚える孤独感情を忌むものとし、それを辱(はじ)として日本人は死以上に嫌っている。それはみ言葉の意味する他の為に生きると同じものかというと全く異なっているのだが、アボジに向かうべき自分の在り様も主君や天皇に向かう日本民族の在り様も、方向性が異なるだけで同じ犠牲精神だと捉えてしまっている。良心宣言で明確にされたように、自分の外の存在に主体を置いてその隷属存在となるのではなく、自らの内なる良心こそが主体なる霊として立つべきであって、他の或る霊的存在に魂を預けるべきではない。日本人は異邦人だと言われれば気に障るのはわかるが、日本人である私達の中に歴史を通して関与してきた民族霊による内的教育が厳然として日本人に影響を与えていて、アベルから言われたことを鵜呑みにしたり周りに合わせて行動する村意識の性品もその一つだと思う。日本を出てみればわかるのだが、海外の食口からみると日本食口の在り様は異様に見えて理解を超えている。しかしお世話になっているのは事実だから御上手を言って誤魔化しているものの、内心受け付けない。しかしそういう日本食口の染み込んだ性品を理解したうえで訓練された私達であって、私達の中に良神が立てば摂理に対して多大な貢献ができる。ほっておかれれば日本人は八百万神に従う異邦人であって、主なる神から見れば見放される民族かも知れない。しかしアボジはサタンの手中にある日本人を中心摂理に用いられた。そこに込められたアボジの心情をしっかりと汲むべきだろう。蓮の花の白は沼の中から茎を伸ばして開く。泥水で濁っているのにどうしてあれほどの純白を差し出せるのか。濁りに濁っている私と日本人の魂。それは得体の知れない数多の霊が入り乱れる泥沼そのものだ。もしドロドロした私の魂からあの純白を咲かせることができるなら、私の魂は光り輝き、拾って教育して下さった御父母様はどれほど日本食口を誇らしく思われるだろう。

2024年7月7日日曜日

今日の想い 1305

お前は既に死んでいる、ではないが日本は既に詰んでいる。モノが高い、インフレだと騒いでいるが、覚悟すべきインフレの津波はこれからやってくる。モノが高くて困りますと愚痴で言えるうちはまだ余裕であって、津波が襲ってくるとどう生き延びるかに必死で愚痴っている暇もなくなる。今、日本全体に責任を持ち日本の未来を心配して施策を打てる人は数えるほどでもいるだろうか。少なくとも政治村や官僚村には一人もいない。誰も自分が村に居座ることしか考えておらず日本のことなどどうだっていい、それが言い過ぎなら居座る為に精一杯で日本をどうすべきかにまで思いが至らないと言ったほうがいいのか。日本で生活しているなら、インフレの高波を受けながらこの潮位はこれからどうなるかしっかりアンテナを立てて感知してほしい。日本政府は日銀を含めて何の対策も立ててはいないし立てられない。アメリカの言いなりが身に沁みついていて、国民にどれほど負担を負わせようとも何もできない。国民に向いていないなら政府のやることはことごとく反国民的政策でしかない。これだけの通貨安であれば他の通貨に逃避するのは自明の理で、そうなると円は更に暴落して危険域に入っていく。今までのデフレマインドに慣らされたままでは来る大津波に流されるしかないかもしれない。しかしこの混乱期、激動期に立ち向かい、人生のダイナミックさを楽しむ者も当然でてくるのであり、性根の入った食口はそこでこそ頭角を現してほしい。解散がどうのと政府もメディアも騒いでいたが、そんな政府もメディアも立ち行かなくなって倒壊するのがこの大津波で、日本はスクラップアンドビルド、全て壊して立て直されるのが日本の摂理的運命だ。

2024年7月2日火曜日

今日の想い 1304

イエスは彼に言われた、「私に従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。マタイ伝 8章21~22節

確かに自分は原理を通して死生観を立てることができた。しかし最初に友達に誘われて原理講義を受けた時から、観を立てるというようなそんな大層な意志を持って原理に対峙してきた訳ではない。私自身は生きることも死ぬことも相当に悩んではいたものの、ここから幾らかのヒントは得られるだろうくらいしか思わなかった。それは献身生活を始めてもそう変わりはなかった。初期に経験した聖霊体験以外、私の内面の変化を与える特別な機会はなかった。それでも敢えて信仰を捨てるでもなく50年経って見ると、自分は自分としての死生観をこの道を歩むことで立てることができたと思える。生死の意味と指針なくしてそれでも生きて、そして死を受け入れている周りの人々は私には理解できなかった。私にすれば生きて地獄、死ぬにしても地獄だった。三島がどれほどその天才的筆力でもって生について、そして死について、その観を立てる為に綴り続けても、彼は所詮問いを立てることで終わっている、と私は思う。私が中一の時に彼が引き起こした度肝を抜く事件でさえも、それは生死への問いを日本人全てにぶつけたかったように思える。日本人は未だ主体なる自我を持ち合わせていない。大方の日本人は主なる神以前の神々の状態と同じで主体なる自我がない、すなわち生きた霊として立っていない。知人が死に家族が死に誰もが死ぬように私も死ぬ、としか一般の日本人は言えない。周囲の死も自分自身の死も同じ死だと捉えている。しかし死生観の真に立っている者はそうは言わない。ある意味、毎日のように新しく生まれ毎日のように死んでいくものを内なる私に見ながら、肉身の死を超えて生き続ける主体なる自我が存在する。日本人の死生観は、キリストによって生かされた多数の人類とは異なり、人類がキリストに出会う以前、すなわち古代人と同じ霊性に立っている。八百万の神信仰とはそういう意味だ。古代人は主体なる自我を備えていない。真の父母に見え、祝福によって生きた霊の種を戴き、信仰生活を通して主体なる霊である自我を芽吹かせ、更に発育させてきた祝福家庭の価値はそこにある。

2024年6月30日日曜日

今日の想い 1303

呼名祈祷、、? 本来祈祷は神との対話のはずで、個人の名を上げて或いは連呼してその個人の内外環境や意識に影響を与えたいという姿勢は果たして神との対話となり得るのだろうか。神様はそうやって個人の名前を上げて喚起されなければ動かない神様だろうか。祈祷は私と神との対話であってそこに誰かへの影響を入れようとすれば、それは神様を私の次元に引き下ろして並列に会話ないし説得するのであって、そうなるとそれは祈祷とはならずに何某かの霊を呼び寄せようとする行為でしかないと思う。それが良いとか悪いとか言いたいのではなくて、特定の人物を上げるというコックリさんや恐山、黒魔術手法を取ることが祈祷に馴染むのかどうかということを考えるべきだと思う。勿論私自身も誰それの名を上げて祈祷もどきも数知れずやってきたし、子供や妻の事となると名を上げて切実にお願いせざるを得なかった。しかしそれは神との対話そのものではなく、念に過ぎない。願いを祈願して叶わなければ怨念となりかねないし、逆に恩念になるにしてもそれは願いが叶えてもらってその代償としての恩義であってどちらにしても自己中心が基になっているように思う。清平摂理が一時的なもの(アボジは解怨をいつまでも摂理として願われたわけではない)であって、祈願ばかりにベクトルを取れば確実に御利益目的に傾き宗教としての高い霊性や精神性を失うようになる。それはアボジならずとも多くの食口が思っている内容であり、清平摂理がいつまでも中心的摂理であれば教会は堕落したと取られても仕方がないだろう。

2024年6月25日火曜日

今日の想い 1302

 ビジネスは資本主義の上でのビジネスであり、個の収益や財産を認めなければビジネスの発展などあり得ない。それは基本だ。私達の体質として公的なものがより優先であり私的なものは後でという観念に固まっていて、そうなると個の財産を認める空気は当然薄いし、どちらかというと共産主義的だ。私達のビジネス(?)と言われる活動はビジネスの形を装ったF活動、すなわちどこまでも物売りの延長線上だ。どれだけ目標を掲げようが、どれだけこの世のビジネスに追い付け追い越せと奮起させようが、リスクに見合う収益もないのに新しい事をやって大変な思いはしたくないのが個々の本音だ。信仰に立てばそう言った否定的思いはカイン的だと言い聞かせ士気を燃やそうとするが、そんなことでは自分を納得させることができずうまくいった試しはない。アベルカインの認識自体は良しとしてもカイン的思いを悪と決めつけるのは問題だ。公的摂理を進めることを真摯にやろうと思えば、私的思いを無視せずそれに沿った戦略は必要だ。カインアベルの一体化はアベルに絶対服従ではなく、お互いの要求を飲んでどちらも納得させてこそ前進できる。ビジネス摂理なら当然個人へのモチベーションとして報酬はコミットされるべきだ。もしカインを否定し個を否定するのが人間に求める御心だとするなら、個性豊かで異なる人間存在とはならなかっただろう。既に後天時代に入っているにも関わらず、蕩減時代に合わせるようなイエスマンのままでは、個性を備えそれぞれが意志してそれぞれの人生を歩む能動的主体的、更に霊的創造的な位相に人間が上がることはない。

2024年6月17日月曜日

今日の想い 1301

御父母様の祝福を戴いた子女としての教会食口は、み言葉に立っていようといまいと直接アボジと内的霊的に繋がっている。これから時を経るにつれアボジの想い、アボジの恨を私の中に見るようになる。そしてそれは日を追う毎に内面を占拠していく。イエス様がゲッセマネで一晩中涙の談判を天にされているときでさえ、彼等弟子達は眠り呆けていた鈍ら弟子だった。しかし散り散りバラバラに離れていったそんな弟子達でさえ、復活されたイエス様が訪ねると途端に霊的眠りから目覚めた。同じように心情認識の甘い教会食口であっても、アボジに繋がっていたというそれだけの親子の因縁で、アボジの想い、アボジの恨が良心改革と共に内面を満たしていく。復活された後にこそキリスト教摂理は大きく動いたように、アボジが聖和されて後のこれからが地上天国摂理の本番だ。既にそのステージは準備されつつあり、先ずドル通貨崩壊からの覇権国家群の崩壊、それがここ5年以内。そしてホームチャーチ精神の開花として世界で様々なコミュニティビレッジが心情を供えた意志ある者のもと立ち上げられ、世界の人々は理想を同じとするコミュニティ探しで大移動、それが更に20年をかけて2050年頃。それまでには天災なのか地球再生なのか噴火や地震も多く起こりアボジが『平和の主人、血統の主人』で触れられたようにハワイ諸島から北への海底隆起が起こる。それだけに留まるのか或いは何某かの大陸の沈没と新たな大陸の出現もありうる。そこまで明言すると途端に胡散臭くなるが、しかし摂理的見通しとしてここ5年間の世界経済の破綻は確定している。日本食口の今がどれほど悲惨であっても、天は祝福家庭を見捨てることはない。生きていようが霊界の住人だろうが見捨てることはない。見捨てるどころか天は祝福家庭に頼らざるを得ない。私達だけが心情を相続した位置に立ち、真の愛を成就する可能性がある存在だからだ。御父母様との因縁を持った祝福家庭の霊的権限がどれほどのものか、これからの歩みで知る者となる。

今日の想い 1300

 善は悪に対して言う言葉であり、逆もまたそうだ。相反する思想感情意志があるから一方を善の立場とすれば相反する一方は悪の立場だ。善なる御国というけれども、善の方向性を維持している神の国という言い方ならできるが、悪のない絶対善の社会などあり得るはずがない。アベルはより善の立場でありカインはより悪の立場であって、善の立場であっても当然悪を内包しているし、その逆も勿論言える。摂理がどれほど進もうともより善の立場のアベルは存在しより悪の立場のカインも存在する。善の立場は悪の立場に対しての善であって、悪の立場のない善の立場などあり得ない。悪のない善という言葉自体がそもそも矛盾している。人類は確かに堕落した。もし人類始祖アダムエバが堕落せずにいたら、未来永劫堕落とは無関係だっただろうか。悪という言葉は存在しなかっただろうか。善が悪にたいして言う言葉であるなら、悪のない善という言葉は全く意味をなさない。その意味では最初に躓き堕落しなかったとしても何某かの別の堕落事件は起こっただろう。人類歴史が螺旋状に発展するなら、最初に善と悪の間を振り子のように行ったり来たりしながら、そしてそれが回転運動になり、そして螺旋状の発展様相になる、その段階を踏むはずだ。善と悪との交互作用を授受作用といえるかどうかは別にしても、アベルカイン関係の授受作用で精神的に発展してきたことは確かだ。教会食口の原理的理解からみた現実社会は確かに堕落している。しかし社会も人々もその堕落様相に位置を取りながら復帰への憧れを見出している過程であって、そのまま堕落の位置に留まり続ける訳ではない。食口も救いを戴いた立場で、そのまま善の位置に留まり続ける訳ではない。いや善と認識していた自分の位置が、時を経るごとに気付いてみると第二の堕落の位置になりうる可能性もある。私に言わせるなら、教条主義に陥っている時点で第二の堕落の位置にある。戒めを護ることに汲々としながら、内的覚悟を要する新たな世界に飛び込もうともしない。人類が堕落したというなら実は昼の神様も堕落と関係している。しかし堕落圏を超えた夜の神様はあってあるものとして存在している。すなわち善の位置にも立たず悪の位置にも立たない善と悪の振り子自体を動脈と静脈の流れのように内包する、昼の神様を超えた存在を、アボジは蕩減を超えた位相に立たれて私達に指し示された。

2024年6月16日日曜日

今日の想い 1299

 アメリカドルを支え、その結果として赤字国家アメリカを支えているのは日本円だ。日本は2000年代400兆を超えるドル買いでアメリカドルを支えてきた。日本の年金基金、ゆうちょ、簡保、財務省と日銀による米国債買いと米株買いが日本円を売り米ドルを買ってきた行動だ。安倍政権の時に500兆円もの金融緩和を行ったが、400兆円が外債に化けただけで本当の意味での国内投資とはならなかった。円通貨を水増しし更に通貨という経済血液を外国に垂れ流すという国の体力を損なっただけのことだ。その結果が這う這うの体の日本経済だ。外債、特に米国債や1兆3千億ドルもたまっている米ドル準備金を日本が売って円に戻せばいいのだが、実際には売れない。売れないというよりアメリカが売らせない。この間の僅かの円買い介入さえも、一言の相談もなくと非難されイエレンに釘を刺されたばかりだ。おもしろいことにアメリカに対する日本の姿勢と、教会本部に対する日本教会の姿勢は実に似ていて、どちらも徹底して従属的だ。言われればどんな方法を取ろうが差し出すし、もし貸しているという認識があっても決して戻してくれることはない。それでどれだけの日本食口が泣き寝入りしたことか。もしその差し出し続けた金額を累計すれば日本国をさえ動かせる財力を持ったはずだ。そんな皮算用を持ち出せば不信仰の窮まりだと非難されようからこの場でボソッと吐き出すだけなのだが、差し出し続けた献金摂理に対して誰も総括しようとしていないし、その納得するところを説明されずにいる。今は信仰もどきで蓋されているが、多くの日本食口の積み上げられた恨が燻り続け、そしてそれが発火し爆発するときに日本はどうなるだろうか。良くも悪くも、霊的な原子爆弾は実は私達の手に抱えているのかもしれない。解散請求がどんなものか、どんな影響を私達に及ぼすのか、本当のところはわかっていない。しかしこの解散請求という発火ボタンが、積み上げられ濃縮された恨の霊的原子爆弾に着火させるという、人類歴史上の大汚点を岸田首相は行使してしまった。

今日の想い 1298

アボジがメシヤとして人類に霊肉の救いを完成したのかどうか。先ずその問いを立てることができる食口がどれほどいるだろうか。おそらくは食口のほぼ全てが、世界人類が悉く御父母様を真の父母と認める時、というような実に曖昧な認識を持っていた。それは私自身もそうで、アボジ生存中にそれなりの地上天国の形が現れるものと信じていたからでもある。摂理最終局面でD-DAYなる驚天動地の出来事が起こり、人類の誰もが御父母様に救いを求めざるをえない状況になるとわくわくしていた。しかし現実はというと、アボジはD-DAYの前に地上を去ってしまわれたし、D-DAYの日付が来ても特別な目に見える霊的役事も起こらなかった。私も含めて殆どの食口、特に一世達は理解し認識していた全てのみ言葉に対して、再度問い直さざるを得ないという再スタートを要求されたことになる。しかし地上の論理はどこまでも思考だけのことであり、知的論理に頼るだけではみ言葉の本質は受け取ることができない。それでも人が認識するとは思考に依らない感覚的認識もあれば、それこそ知情意を超えた何らかの霊的認識もある。人は霊的という言葉の意味を知らないだけで人それぞれに霊的認識を持っていて当然だ。唯物論者でも共産主義者であっても霊的認識は持っている。それは私達は霊から生まれた存在であり、よって霊的存在だからだ。人間と一括りにするけれども誰一人同じ顔はなく唯一の存在であるように、人生もそれぞれだし霊的認識も一人一人異なって当然だろう。同じ原理であってもみ言葉であっても、その理解や認識すら異なっている。同じように霊肉の救いの認識すら異なっている。他を見て同じ測りを宛がい合わせることに意味はない。私には私のみ言葉認識があり、救いの認識があり、それは私の良心(神)が立てるものに他ならない。画一化体質を持った日本人が蕩減を超えた位置で新たに目覚めるべき個の意志があり、それは封印されていた良心の扉を開くことに他ならない。

2024年6月3日月曜日

今日の想い 1297

 インフレの嵐が押し寄せている。日本は対米追従だからアメリカの言われるままに政策を立てている。それは経済政策も同じで、政府は国民に顔を向けているように見せかけ実はアメリカに顔を向けた政策しか立てない。円安がいいのは日本が輸出に強い東北震災以前の話で、輸入に依らなければエネルギーも食糧も自給できない今の日本に取って、円安ほど国内インフレに直結し国民を貧しくする状態はない。かつて戦後の英国がGDPの二倍の戦争国債を抱える借金大国だったが政策として金利を極限まで抑えるインフレ政策によって借金を減らして行った経緯がある。知らない者も多いが、インフレには国債という国の借金を減らす働きがある。要するに国民にインフレという物価高(通貨安)を強いて実質的に国民の所得を国の所得に移転させている。日本はGDPの2.3倍、1200兆円の借金を抱えているが、インフレで円の価値を減らして行くことで借金の数値は同じであっても数値の意味を変えている。明治時代の百円が莫大な価値だった、その同じ百円が今では饅頭一個の値段になっている、という意味合いを理解すれば簡単に頷けるはずだ。日本は英国と同じ金融抑圧の道を歩んで世帯没落の道を追っている。だいたい安倍政権の折に500兆円を超える国債発行、すなわち借金でデフレ対策を解決しようと試みたのは誰の責任だろうか。一体インフレ目標が景気を誘発するという洗脳は誰から受けたのだろう。本来高くなるのを抑えるのがインフレ目標のはずが、物価高に向かわすインフレ目標の意味が全く分からない。景気が加速する状態でマネーサプライを減らしたり金利を上げて通貨安を防ごうというのならわかるが、インフレを加速させて景気を上げるというのは経済学者の机上の空論に過ぎない。ケインズが言うように、インフレは世帯に対する見えない課税だというのはその通りだ。それでなくても財政がひっ迫して、もはや収入の半分は税という重税国家日本なのに、インフレで更なる課税を背負わされている。円安は加速する一方だと認識して、日本国民はせめて資産防衛をする必要がある。日本人は未だに円の通貨信仰が強すぎる。万札は刷れば刷るだけ価値が膨らむという円信仰がMMT論者だ。

2024年5月28日火曜日

今日の想い 1296

教会が裁かれているのは一般的この世の倫理によってであって、真理によって裁かれているのでも神の願いから裁かれているのでもない。2000年前のイエス様が裁かれたのも当時の倫理によってであって、真理でも神の願いでもない。しかし霊的領域で真理で裁かれようとしている認識が私達にない。もちろんこの地上に未だ君臨しているのは原理でいうところの堕落天使長ルーシェル及びその配下で、神の願いの一部を受け持った反ルーシェル派が力をつけているとしても以前その地上体制は変わってはいない。だから教会はどのみち何らかの言い掛かり、すなわち一般的倫理で裁かれるのは天の使命を帯びた群れとしての宿命だし、当然その覚悟は持つべきだろう。しかし地上に於ける精神向上作用は倫理を超えるところにある。倫理の範疇に収まる行動であればそこに神霊の働きは起こらない。私達の心情主義からみると、良心がその行動の主体的動機であるかどうかが問われることになる。連霊性の後天の意味が解っている食口であれば、今の打たれる立場は摂理的状況から見て設えられて当然であり、ここでどう覚悟を差し出すかが勝敗の決め手だと理解しているはずだ。神様は必ず我々の味方だと言いながら、何らの覚悟ある行動も取らないのであれば、神の願いに立ってはいないし摂理を担う立場でもない。ある意味サタン的態度だとも言える。私達は表面上はこの世の善悪判断で裁かれているようだけれども、それを突き付けられてどう覚悟や意志を差し出すのかというところで真理で裁かれている。窮鼠猫を噛む、あるいは背水の陣という言葉は勝利した経験があれば必ず通過する過程であり、覚悟の意味はそこにある。善悪の判断はいつの世に於いても、どんな状況下でも変わらないと絶対視している食口が多いことが教会の独善性に強く影響を及ぼしている。その教条主義が真の闘いから目を背けさせ、それが私達の良心がより強く大きくなる作用を阻害している。

2024年5月23日木曜日

今日の想い 1295

 ニクソンショック以来、ドルは金とのリンクを止めて相場制となった。だからそれ以降は金の保有残高に関わらずいくらでも政治判断で輪転機を回せる、すなわち自由に金融緩和策を取ることができるようになった。アメリカはクリントン政権以来財政赤字と貿易赤字という双子の赤字を続けているが、それでも財政破綻せずにこれたのは必要に応じてドルを水増ししてきたからだ。それがリーマンショックとコロナショックでそれ以前の遠慮しいの金融緩和とは次元を異にして、激しい急勾配グラフの通貨増発となっている。ドルは既に事実上の基軸としての信認を得ていないにも関わらず、人々は長らく続いたドルによる価値判断から足場を変えることができずにいる。金の急騰はドルに価値基準を置いているからいえることであって、逆に金を基準にすれば金の急騰ではなくドル通貨の暴落だと判断する。ここのところのインフレは生活に大きく影響を及ぼしているが、物が高いのではなく日本で言えば円が安すぎるのであって、その認識があれば銀行に預けている円預金を別の資産に変えて当然だろう。そうなると途端に銀行はバンクラン(取り付け騒ぎ)で引き出し制限をかけるわけだが、しかし未だに銀行安泰であるかのようにみえるのは特に日本人が円の価値信仰が強いからだ。もしトラがほぼトラで米政権を握るとなると、先ず外国が保有している莫大な米債という借金を恐らくに目減りさせる、すなわちドル切り下げを発動させる。そして池にクジラを泳がせているような特定の金融エリート層が独り勝ちする金融経済から、米市民に経済を取り戻す実体経済に舵を取る為にドル安政策を取るはずだ。それがトランプのいうアメリカファーストだ。そんな大ナタを振り下ろせるほどトランプは度胸があるのかどうかだが、神が後押ししているかどうかは別として、歴史上に名を残す人物と同じかそれ以上の摂理的人物であることは断言できるだろう。

2024年5月20日月曜日

今日の想い 1294

断食すれば万物がどれほど恋しくなることか。断食した者でなければ万物に対する恋い慕う想いや、それこそ喉から手が出るほどの万物欲求の強さは理解できないだろう。断食をやめるとまたその想いは薄れるのだが、それでも万物を恋しく想う体験は魂にしっかり刻まれ、思考にも意志にも感情にも影響を与えるようになる。そのように断たれることで断つ対象への想いはつのり、対象を得たいがための渇きに苛まされはするが、その体験によって対象の本質を学ぶことができ正しく対象に相対することができる。すなわち対象と授受でき一体になれる。食口であれば性に対して厳しく戒めを課せられてきた。家庭を持ってからもそうで決められた相対以外の関係は当然認められない。繁殖以外で異性を求めるのは人間が霊的存在であるが故の欲求であるにも関わらず、そこに縛りをかけて遠ざければ遠ざけるほど渇きは増すばかりだ。どれほどみ言葉に忠実に生きるとしても、その渇きから逃れるのは至難の行で不可能に近い。もちろん大方の食口は決められた夫婦も家族も壊すことなく生涯を終えるのだが、結果としてその渇きが癒えるかどうかは関係なく、そんな食口は稀だろう。でも私は人間としてそれで当然だと思う。その意味では一生、性のみならず何らかの渇きを味わいながら生涯を送っていくものだ。人間は欲望の存在であり欲望とは渇きを癒したいという願いに他ならないからだ。私達はアボジが語られた絶対に対して、その言葉を知っているのみで何らの意味も本質にも近づいていない。性には甘い快楽の後に深い罪悪感という罠が待っている。それは夫婦間ですら同じで、倫理的に良しとされ罪悪感は最小に留まるものの虚しさは覚えるし、交われば交わるほど渇きは癒されるどころか更に渇きは激しくなる。それは例えていうと渇きを海水で癒すような感覚だ。真水の性ではなく海水の性であるのは絶対性に至っていない相対的性の反復に留まり、そこに何らの創造も為されていないからだ。

2024年5月5日日曜日

今日の想い 1293

 人間の心の中に相反するものがあることは否めない。それは良心的意志と邪心的意志であったり、聖なる想いと邪な想いであったり、善なる思考と悪なる思考であったり、またそれぞれの混合状態だったりと様々なのだが、相反するものが混在している私を見ざるをえない。原理はこの矛盾性を解決するために罪を認め蕩減を払い御父母様に繋がって、、ということになるのだが、人間は矛盾性どころか方向性が様々でそれぞれが相反する立場を内包していて、それこそが人間だと思える。聖賢聖者と呼ばれる人間が、たとえばイエス様が完璧な聖なる御方であって闘いのない機械のような内面であれば、どうして罪人に対することができ理解することができ更に彼等を救うことができるだろうか。相反するものが混在していても、だから矛盾していると果たして言えるかどうか。それぞれの立場を納得させ調和させるという或る中心性が内面に立つなら、個全体として矛盾しているとは言えないだろう。実は人間の矛盾とは相反する方向の内包ではなく、個の主体的精神にそれらが統一されているかどうかの問題ではないだろうか。矛盾の内包の他に今一つは罪と堕落性の問題がある。私という人間が他の人間を罪人として裁くことも判断することもできないのは、地上にいるどんな人間存在も神霊によるプロセスを経てこの地上に生まれ出たのであり、そしてどんな風に見えるとしても何某かの摂理的要件を踏まえて、すなわち神霊の一つの願いを受け取って生きて闘っているからだ。食口であれば同性愛や不倫、買売春は完全否定だろうし堕落者の烙印を押してサタン視するはずだ。しかし彼等も同じ人間として、すなわち知ってか知らずか摂理的要件を担った立場で生を送っている。食口は傲慢にもそれを否定する姿勢は持つべきではないだろう。タマルの不倫を条件とした血統圏で、さらにイエス様はマリアの不倫で生まれたのであり、娼婦であったマグダラのマリアはイエス様を内的に支える重要人物だった。私達が敬意を払うのは戒めを守っているかどうかではなく、その人の情が天に取られるものかどうかだ。私達は行いそのものに対して罪だ堕落性だと決めつけているが、その行動の背後を見ようとする心情主義でなければならない。

2024年4月23日火曜日

今日の想い 1292

暗い、とにかく暗い田舎に住むことが耐えられなかった。自分の内面にも押し寄せてきて凌駕しようとする、あの得体の知れない暗さの正体が怖かった。田舎を飛び出したかった。事実どこまでも逃げて逃げて地球の裏側にまで逃げ延びた。40年近く地球の裏側で生活してみてやっとわかる。恐れていた暗さの正体は私が作り出した妄想だった。それは死への妄想であり、また生きていくことの妄想であり、ありとあらゆる私の不安が作り上げる妄想雲に私は覆われていることがわかった。おそらく田舎にそのまま住んでいれば発狂しただろう。どこか日本に住み続けていたとしても何らかの心の闇を抱えただろう。しかしその体験が私をこの道に導いた。教会生活、献身路程の、あの魂を圧し潰しかねない歩みさえも乗り切ってこれた。そして祝福を戴いた。後に受けることができる、条件とも言えない簡単な条件で受けられる祝福、キャンディをばら撒くように受けられる祝福とは異なり、私が戴いた祝福は苦労した歩みを条件に戴いた生命にも勝る御父母様からの宝物だ。同じ祝福という言葉だとしてもその本質的内容は天地の差がある。今の日本の風当たりの強い環境で、さらに信仰を保っては来たものの生活の困窮には耐えられず、感情の矛先を教会に向けたり摂理を歩んできた自分を否定したり、果てはアボジやみ言葉すら否定するほどに自らを貶めるとなると、自分と自分の良心をどれほど悲しませるだろうか。羊なのか山羊なのかは今の今霊界が見据えているし、采配が行われている。

2024年4月14日日曜日

今日の想い 1291

神の摂理は人知を超えている。ちょうど心情世界である霊界が、地上人の認識や把握を超えた次元にあるのと同じようにだ。食口もそれぞれにそれなりの神の認識を持っているはずだが、自分の神認識がある段階に留まっていると、神が働くのではなく逆にサタンが働きかけるようになっている。認識の固定化は信仰の固定化からくるが、教条主義が信仰を固定化する最大の要素であって、宗教の歴史を見れば強められた教条主義によって宗教の悪の側面を際立たせている。宗教の戒めは戒め自体が目的なのではなく、戒めという枷を嵌めることで、すなわち戒め基準を良心基準の或る段階として立てることによって、より高い、より神に近い良心基準を見通すためにある。よってそれぞれの宗教には使命があり、その使命を達成したならその宗教は卒業したということであり必要はなくなる。新たなより神に近い良心基準を掲げた宗教に委ねるべきだ。み言葉が言葉の切り取りではなく訓読し流れてこそのみ言葉であるように、神認識も流れながら新たな異なる神の様相の側面を発見し受け取り続け、認識の階段を上ってこその神認識だ。人間が時間の流れの中で生きているように、私の神様は認識の流れの中で生き続ける。生きた神とはその意味で生きているのであり、地上の死生観を超えたところに生きた神は存在している。

2024年3月30日土曜日

今日の想い 1290

 会長はメディアの前で、教会や食口に対して起こっている差別的状況を伝えられた。声を荒げたり感情を表に出されることもなく、それこそおとなしい語り調で粛々と教会や教会員への地域社会からの差別的案件を羅列しておられた。御本人が人格者だから自らを制してそうなのか、それとももはや感情を表に出せる状況を超えているからなのか、その両方なのかもわからないが、会見会場にいたメディアの面々がその報告を受けてどう思ったのだろう。誰もが大変だろうなとは感じたはずだが、メディア村で生きる限りは彼等の良心は無視されて今まで以上にあげつらう仕事に邁進するのだろう。教会は解散ならずとも既に反社の焼き印は押されてしまった。食口にとっては大患難時代の到来であり、そうなると艱難を避ける為に取るであろう大移動時代の始まりが見通せる。内的にはH1に行く者、H2に行く者、そして教会を離れる者、信仰は捨てずとも隠れ食口に生きる者、それぞれの道を選択するのだろうが重要な点は上から言われるのではなく自分で、自分の良心と相談して選択するということだ。かつてこれほどの状況変革が食口達にあっただろうか。艱難時代によって良心時代が起こり、と同時に外的には大移動時代が始まる。そしてここからが摂理観の視点に立つと見えて起こり得ることなのだが、日本の国民自体が大移動時代に突入していく。受動的であった日本食口が自らの良心に立つ新たな主体的後天時代を生きるように、日本国民は日本の国を潰しかねない政権に従う受動的立場から、早々に認識した者は国外避難するのであり、見遅れた者或いは土地を愛するか執着する者は闘わざるを得ない、すなわちどのみち主体的立場に立たされるだろう。日本国民は、自らの雛形である日本食口を艱難に追い遣ることで、将来の日本の艱難の種を蒔き、追い出して移動させることで将来の流浪の民となる種を蒔いている。しかし表面的には流浪の民となるにしても、或る意味日本の精神文化の宣教師となる神の摂理が伺える。ちょうどユダヤ民族が追われる身となってあらゆる土地に移り住み、移り住むことで彼等の精神文化を植え付けたように、、。

2024年3月8日金曜日

今日の想い 1289

 いわゆるキックバックや不記載についてだが、裏金問題だと言い放つのには政治的意図があってのことで、要するに貶めたいがためにその言葉を使っている。派閥の面々もわきが甘すぎたが、引きずり落とすための質問に受け身で答えている限りは裏金議員の汚名を拭い去ることはない。同じように教会も、言われっ放しのメディアの対処にてこずっている限りは汚名返上は到底無理だ。私達が素直に従っていたその責任者達が全く闘う行動にでないこと、教会組織が全く非力であることに今更ながらに愕然とした食口は多いだろう。カインが従順に従うことに胡坐をかいてきたアベル、カインはカインでそれを当然として慣らされて家畜化されている。私達の文化に議論する闘わせるという意志行動は否定されてきたし無視されてきた。今回のようにいざ闘うべき立場に立たされて初めて、しかし闘う意志が自分の中に培われていないことに気付き闘う姿勢や行動の在り様がわからない。罪や堕落性との闘いをどれほど意識してきたかはそれぞれ違いはあろうが、神の位置に立てない、すなわち摂理に対して能動的姿勢が取れないというこの基本的な堕落性が日本の教会風土全体に蔓延していた。私達が家畜でしかないならこのまま供え物として祭壇上で朽ちるしかないが、しかし神の子女であり摂理を担う勇士烈女であるなら私達こそが祭壇を立ち上げる主になる必要がある。その意志が私達にないなら社会は主管性転倒されたままだ。後天は罪の本質が下半身から上半身、生殖器から言葉を発する口に移動している。その意味は外的生物的創造から位相を上げてより精神的な霊的創造だ。それは口から発する言葉でもって創造する。黙して語らずが金の時代ではなく、如何に社会を呼び覚まし指導できる口を持つかが社会創造の担い手であり、原理もみ言葉も知らないメディアの口車に乗せられたり言い放つままに主管されているようではみ言葉を理解して正しく信仰しているとは到底言えないだろう。

2024年3月5日火曜日

今日の想い 1288

祈りはみ言葉の羅列ではない。神様との会話という説明は成り立つとしても、神様をどう捉えているかは様々で、そうなると祈りとは即会話ではなく先ず神様をどう捉えるかの身悶えから始まって当然だろう。しかし私達の祈りに対する理解は、条件祈祷にみるように或る時間を決めての言葉の羅列に過ぎなかったりする。祈りが先ず神観をしっかり捉える為のツールであることを認めずに、祈りの形だけを繰り返すのなら、私達の信仰は洗脳だと言われても仕方がない。食口の死への態度と普通のこの世の人達の態度は確かに異なってはおり、私達の死への門は平安に満ちているのはそうかもしれないが、その平安が旅発つ先に対する希望的観測に過ぎないということはないだろうか。私達は霊界を正しく理解しているだろうか。み言葉が間違っているとかではなく、み言葉を知っただけで即霊界が捉えられるはずがないということを言いたい。私達はみ言葉の本質を本当に捉えているのかどうか、そうではなく本質からずれたままここまでの道のりを辿ってきたのかもしれない。謙虚にそういう視点を無視せず直視していく必要があると思う。初めに祈りが言葉の羅列になっていると記したが、祈りを会話と勘違いしているからここまでずれたまま来たのかも知れない。会話は横的であり水平だが、祈りは神との会話ではなく縦的であり垂直である対話だろう。そしてこの対話は横的に使う言葉を超えた、敢えて言えば言葉を言葉たらしめる本質(ロゴス)でしか対話できない。私達がしてきた、そしておそらく今もしている祈りは形骸化された中身のない空箱に過ぎない。その祈りで神に届くのならとっくに地上天国はできただろう。おそらく多くの食口は私達の祈りは神に届くはずがないと意識無意識の両領域で叫んでいるはずだ。

2024年2月25日日曜日

今日の想い 1287

 原理のみ言葉を知らないからといって愛の人生を歩めないわけではない。霊や霊界の存在を理解しないからといって霊界に旅立たないわけではない。私が真の父母に出会い、み言を学ぶことができたのは、私が愛に溢れた人生を送るためでも天国に行くためでもない。為に生きるという教えそのままに、他の為に真の父母に出会い、そしてみ言葉を学んだ。では私は学んだそのままを横流しのように伝えれば為に生きるという私の使命は全うされるのだろうか。伝道とは横流しであり只の受け売りだろうか。アボジは御自身の背中を見せることで霊の生命を与えたように、伝道とは霊の生命を与えることだと思う。はたして原理のみ言葉を何人に伝えたかがそのまま霊の生命を与えたことになるのかどうかはよくよく考えるべきだ。アボジが語る、過ぎてみればすべては愛であったというこの言葉が本質をついている。過ぎてみなければ愛は苦痛以外の何物でもないということだ。父は齢九十を超えて癌の宣告を受けた。これまで病気らしい病気とは無縁だったから、父とすれば穏やかに逝くだろうという期待があったのだろう。口を開けばいつ逝くかわからないと言っていたから、それなりの覚悟はあるのだろうと思っていたが、いざ宣告を受けると痛みのせいもあるのか間近に迫った死に対して明らかに尻込みしている。「いつ逝くかは伝えられることはないしわからない、どうしたものか。」私がベッドの横で入院状況の説明を看護師から受けている間も、父はそれとは関係のないそんな言葉を吐いている。どんな人生であれ終わりはきて死を迎える。死のみならず生と死の狭間もまた誰しもが迎えざるを得ない。そしてこの狭間が死以上に曲者だ。

2024年2月17日土曜日

今日の想い 1286

 アボジは子女を正しく教育することもできなかったし、またその責任を周りに押し付けるという責任転嫁であったし、本人は完成実体と言っているが家庭は悉く壊れ人類の真の父母とはなり得なかったと、少なからずそう思っている食口も存在し、そう記している先輩家庭のブログサイトも見かける。私は御父母様の、とりわけアボジの功績を現実社会の規範による判断材料でしか見ておらず、そういう兄弟達は精神的な霊的視点で捉えようとする意志がもともとないか、或いは意志を備えようとしていないかだと思っている。イエス様が聖人であることは今となっては誰もが認めているが、地上におられた当時の社会規範からすれば悉く反社であったし、目には目を歯には歯をの戒めの時代の社会に於いては、現代に比べて相当数いる処刑者の内の一人に過ぎない。磔刑にかけられたのはイエス様と両側の罪人のみならず日常茶飯事の事柄だった。イエス様の功績はその当時に於いては反社会的であり多くは認められないように、同じようにアボジの功績は今の時点では反社会的で認められないだろう。その実態を暴かれてこの世の人達と同じように認められないという兄弟達も多くいる。それは霊的に暗いままだからだ。心情という言葉、概念を理解していないと言ってもいい。この世の人達は通常その真の愛の光の波長を受け止める霊的感性、心情的感性を持ち合わせてはいない。教会に従う全ての食口がその感性を備えているとは言えないのも事実だし、少なからず信仰を盲目的に捉えて居続けている場合が多い。アボジの功績が世に知られるのは今ではなく未来だ。その頃は真の愛であるとか心情という概念が広く行き渡っているはずだ。アボジや御家庭の実態を結果として見るのではなく果実は精神的霊的なものであって、それを地上に落とし込むのは選ばれた私達の手に委ねられている。その願いを無視して実態を言いつらうのであれば、一体人生を賭してここまで来て何を学び何を相続したのだろうかと問いたくなる。

2024年2月7日水曜日

今日の想い 1285

 人間の魂の活動は知情意であることは食口なら誰でも知っている。しかし知情意は並列的に捉えるものではなく、知と情の授受によって意を起こすのであり、意を起こすことが創造領域に組み込まれる。私達の何気ない行動も意ではあるが、それは私自身にしろ人類歴史上にしろ過去の創造の反復であってそれは創造の本意とは異なっている。創造と認められる領域に入ろうとすれば習慣性を超えなければならないし、そのためには今の自らの情を超えて発動する新しい情を培う必要がある。新しい情を備えようとすればそこに確実に恐れが邪魔をするだろうし、その恐れを甘受し超えなければならない。私達は心情という概念を持っている。知識に対して叡智があるように情(感情)に対して心情がある。偉人は何らかの叡智を受け止めて人類に寄与してきたが、私達は天の心情を受け止めることで人類に寄与するのであり、それでこそ神人類としての証が立つというものだ。私達の創造は地上的技術ではなく、精神的なものでありそれは霊的感性を地上に降ろすことにある。霊が見えたり聞こえたりというような物質的に捉えて貶められた霊感ではなく、心情を備えることが心情世界である霊界に相通じる。食口は先天時代の蕩減的大気から脱すべきだ。後天時代は自らに条件や枷をはめて嫌々ながらの歩みをすべきではない。先天に教え込まれ訓練された資質(み言葉体質)を生かして創造に寄与できてこそ神の子女と言える。一世にしてみればほぼ人生の終盤で短い解放時代だとしても、二世は創造人生にガラス天井はない。思いっきり創造の歩みを闊歩すればいい。先回のシンポジウムの二世の証を聞きながら、多くの二世達も彼女のように創造に繋がる前進的主体的魂を備えて歩んで欲しい。教会の内輪だけで蠢いていても霊的に腐るだけだ。一世を踏み台にし、また反面教師にもして創造的歩みに寄与して欲しい。

2024年1月23日火曜日

今日の想い 1284

 拉致監禁に対してダンマリを決め込むのはメディアであり霊感弁連達だが、それでは教会側がどれほど拉致監禁の事実を世に問うてきたかというと、それがまた心もとない。敢えてダンマリを決め込んできた訳ではないけれども、教会側も強く世に訴えることはしてこなかった。アボジの要請が摂理であったし、摂理第一であればそこに全意識を集中させていたから、敢えて二次的な対策しか取らなかった、と言うことなのだろう。私は中心的位置にいなかったので大した情報も来なかったしそうだろうと言うしかない。しかしこれほど多発した事件であり人権問題であるなら教会側も打って出るべきなのに、それが随分と消極的だったのは藪蛇でこちら側の痛いところを探られたくないという計算が働いたからだろう。霊感何某も突かれたくなかったろうし、当時の献身生活にしても拉致監禁には及ばないが人権尊重とは程遠かった。しかし最も大きな案件は何と言っても金の流れだろう。摂理はサタンとの闘いであるから、人権だの善悪だの振り上げるつもりはないが、鳩のように素直なのはいいとしても合わせて蛇のように狡猾であるべきで、せめて痛いところを突かれないだけの狡猾さは備えるべきだった。教会組織の底辺にいる者でさえ、このまま続けられるはずのないことは誰もがわかっていたはずだ。精神的なゆだねる信仰と地上現実的な無責任とを混同すべきではない。これほどの危機的状況にも関わらず、教会食口の根拠のない明るさや裏付けのない安心感を見るにつけ、信仰と現実、霊的な事と地上的な事を混同していると言わざるを得ない。お花畑と揶揄される私達のそういった信仰は、地上に於いて天国を築こうと自らで意志し、責任を取る者達とは乖離しているし、そんな私達が摂理を担い地上天国を完成できるとはさすがに思っていない。どうして食口達がこれほどに摂理観を持つに至らなかったのかを私はアボジに問いたい。

2024年1月3日水曜日

今日の想い 1283

 日本は「忠孝の源」と語られたのは、おそらくだが、武士道精神を日本人に見ておられたからだと思う。正月に入るや否や日本は打たれた。他国から打たれるのではなく鉱物世界、すなわち自然から打たれた。蕩減が人間の意志でもって晴らされるものであるなら、人間の意志を超えた意志で晴らされるものが蕩尽だろう。日本は地震国だ。その意味は人間個人ではどうにもしようがない、日本が何らかの神霊の意志に主管される国だということだ。はからずも昨年は日本食口は世間からも国からも迫害を受けた。裁判の結果に委ねられるわけだが、しかし例え解散に値しないとなったとしても既に社会的制裁は教会組織はおろか個人も家庭も受けている。私達は所詮苦労するように摂理されているから良しとしても、問題は日本の国と国民から教会を打たせる条件を我々故につくってしまったことだ。結局メディアを野放図にさせて打たせてしまい日本は天が日本を打つ条件を負ってしまった。もちろんそれが天災に遇う直接的条件だとは思わないが、天が日本を打つ引鉄の役目はそこにあったと私は見る。でも表面に現れない日本の根底に武士道精神が流れているからこそ、いざ打たれる時には言葉もなく打たれるのであり、死ぬときには騒ぎ立てることなく綺麗に死んでいく。自然災害国家日本の民は、災害が起きるそのときほど民族の精神性を現すことはない。日本の被災者は何の文句も言わない。生きているだけでありがたいと思っているし、愛する者達の死も恨みなく受け入れる。ここ数十年は平和ボケ故に日本の村意識がマイナスに働いたが、日本の危機的状況の中では逆に、この村意識が一気に日本国民の危機対処体質を醸成させる。危機的状況の中でこそ日本文化である武士道はその刃を研ぎ澄ます。かつては並みいる列強国家に包囲されながら生き延びてきた。今回は自然災害、周辺国家の攻め、更には経済恐慌が同時的に起こるやも知れない危機だ。危機的空気の圧縮された底に落とし込められることで日本人は霊的息吹を蘇生する。初めて信仰と希望と愛の意味を逆説的状況の中で知るようになる。