2015年12月26日土曜日

今日の想い 900

昔人生60年、今100年だ。少子化日本は高齢者人口比率が急激に増しており、老人問題で国自体が傾きかねない状態だ。顕著な寿命の延びは現年齢の7割掛けが実年齢だと言われ、確かに退職年齢を超えても十分に働き続けられる人がほとんどだろう。が、65を超えたらどうか、70を超えたらどうか、80に近くなったらどうなるか、と問うには若い頃の5年10年とは体調悪化も著しいし行動衰退も比べ物にならない。さらにそれは急に訪れる。或る時点で急に体力は衰え、急に要介護状態になる。人生100年に異論はないが、養う期間の延びは10年そこそこだと思うが養われる期間は30年も増えることになる。そこに少子化がおぶさると養われる者のほうが養う者よりもはるかに多く、姥捨て山と化すのは目に見えている。介護問題は国の根幹を揺さぶるほど大きな問題となっていくのであり、介護の質云々より先ず量をどうさばいていくかを考えなければならない。それには平成の開国、移民の受け入れ門戸を大きく開くべきであり、日本人は国に居ながらにして交差交体結婚への道を歩むことになるだろう。姉妹国家として台湾やフィリピンからの移民帰化から手をつける必要がある。台湾人は日本の国益に即した中国との交渉に大きな役割を果たすだろうし、フィリピン人は英語圏であるので対米を柱とする世界との提携を益々密にするはずだ。その為にはその流れを作って加速させる中心的役割である教会食口自体が変わる必要がある。教会自体が同じ二世との間の祝福結婚だけでは立ち行かなくなっている現状を皆はどう見ているのだろうか。二世同士に固執するのが本当に御父様の願いなのかどうか、交差交体結婚は同じ二世同士の上で言われた言葉なのかどうか、祝福の世界化は異なる宗教、異なる民族間で為していくものであって、二世同士であるべきだという感覚は同じ信仰を願う親の思いではあっても宗教を超えてはいない。イスラエル民族はカナン七族と交わったから信仰を失ったのか、それとも彼等の文化に影響されたから信仰を失ったのかどちらなのかを考えてみるべきだ。彼等と交わりながら(結婚しながら)彼らの文化を変え信仰生命を彼らに投入すべきではなかったのか。もはやこの世界は滅ぼされるべきだと天が判断し世界復帰摂理がストップされるなら、その時こそ二世同士に限られるべきだとも思うが、世界復帰は交差交体結婚がもっとも近道に違いない。み旨に立っていると信じる自分の方向性と摂理の方向性が一致しないなら、勝利圏には入らないだろうし天運が働くことも無い。独りよがりの信仰は、型から外れることへの影響を恐れ審判を恐れる隠れた堕落性であり、それを捨てることができなければ本当の意味での犠牲的歩みとはならない。教会体制維持への意志は主に一世の年寄り達によるものだ。教会活動に専念している二世達もいるが体制維持に倣っている一世の付録的役割に過ぎない。家庭連合は二世主導であって教会体制に捕らわれる必要は全く無い。敢えて体制に捕らわれないことが天の意志を受け継ぐことに繋がる。教会に囲われ保護され無ければ信仰を維持できないのであれば、所詮世界復帰摂理など声高にすべきではないし摂理を担当することもできない。日本が年寄りだらけになるのも見るに耐えられないけれども、祝福家庭達が年寄りだらけになるのはもっと耐えられない。

2015年12月22日火曜日

今日の想い 899

人間の脳は思考を司るのではなく思考回路を司る。この物理的脳から思考が発するという感覚があるから唯物論がまかり通ってしまう。それは唯物論を否定する私達も同様で、どこかで宿便のように残っている堕落的囚われがあって脳が発する思考という堕落結果思考を超えられない。脳が発する思考は本来的な思考ではなく過去の経験の産物の限定的思考に過ぎない。本来的な思考は過去の経験に縛られない完全なる自由発想であり、それは膨大な霊界図書館アカシックレコードから自在に引き出せる明晰さを兼ね備えている。人類は過去の二つの大戦を経験し何千万という生命が虫けらのように処遇される現実を見てきた。その現実を前にすれば誰もが言葉を失ってしまう。人間は死を前にして、殺される現実を前にして思考は止まってしまう。言葉を失うとはそういうことだ。原理を知りみ言葉を学ぶ者の一つの強みとして死を超える思考を手にすることができる。死を前にしても、生命を賭す必要を前にしても思考を紡ぎだせる。言葉を失うことはない。言葉には川の言葉と海の言葉がある。川の言葉は意識上の言葉、海の言葉は意識下の言葉だ。御父様のみ言葉はもちろん海の言葉だ。私達が原理を理解しみ言葉を重要視できるのは地上の領域から汽水域を超えて霊界の領域へと足を踏み入れる素養がもともとあるからだ。100回訓読が訓読のあり方としてはどうだろうかという異議も出したし、日本語翻訳もされていないみ言葉選集の全てを読み通せばみ言葉を理解したと言える訳でもない。勿論御父様は私達に対して八大教材教本の全てを持ち、全てを読み通し、一度ならず何度も読むべきだと話される。そうあるべきだとは承知した上で、しかしそうなる為には熱心なラビのように一日中教本を携帯し読み進めなければならないが、その姿勢は十分教条的であってこの世から浮いた存在になってしまう。果たしてそれをも願いだと言えるだろうか。私はもっぱらエイ!と開いたところを中心に前後して読み進めているが、それは開いたところが最も必要なみ言葉が記されていると語られたことに沿っていて、皆にも勧めたい。死の恐怖、犠牲になることへの恐怖は脳が発する思考に組み込まれていて、その川の言葉で死を超えることはない。死を凌駕できるのは海の言葉で、それは物理的脳から発せられる言葉ではなく神様からきた言葉だ。私達はみ言葉に接しながらも、頭の理解を通して、論議を通してわざわざ地の言葉、川の言葉に貶めてはいないかを気付かなければならない。海の言葉を理解できるようになると、死の意味は異なり思考の副産物としての恐怖はもはや影を潜める。御父様が死は堕落圏であり堕落圏を超えれば死ではなく昇華だと言われた意味を捉えられず、死は死で別の言葉に変えただけでやはり死だと思うのは海の言葉としてのみ言葉を受け取ってはいない。

2015年12月20日日曜日

今日の想い 898

人は人それぞれの観念の中で生きている。人どうし、その観念が他も当然同じだと信じていて同じ世界に生きていると思っている。外的地上世界が同じであるように、内的思考世界も相通じていると思っている。話せば分かりあえると思えるのは内的思考世界が通じているという前提でそう理解しているからだ。特に日本人は他民族や他の宗教の侵入から自然と護られてきたので、身に着ける武具も無いまま裸のままでいようとも話せば通じるはずだという御めでたい意見がまかり通ってしまう。同じ世界に生きているという感覚は教会の食口の間でもそうであり、自分の原理やみ言葉への理解と同じ理解に皆も立っていると信じていて、食口であれば同じ世界観に生きていると思っている。しかしここ数年の様相から、同じ食口でも理解が異なり異なる観念の中で生きていることに気付いてきた。ある意味これは現代版のバベルの塔だ。同じ原理、同じみ言葉を御父様から受け取りながらも、しかし理解が異なり話が通じなくなっている。それは理解が異なり始めた或る時点が生じ、それ以前の理解は同じものだったと、そう言えるのかどうかは甚だ疑問だ。実は始めからそれぞれ異なる捉え方をしていて、異なる観念が形となり表面化してバベルの塔化してしまったのではないかと思える。個人の観点に立って先ず言えることは、救いという理解から異なっている。救いは重生、すなわち生まれ変わることで為されるけれども、御父様が御聖和された今、誰に従えば救いに与ることができるかという選択を取る者がいる。それは御母様に従うということもまた選択だ。しかし救いの意味を理解した者は選択を取らない。取る必要が無い。理解しているということは既に個人的には救われているからだ。重生によって堕落とは関係の無い真の父母の血統圏から生じた新しい私の発生を認識している。新しい私、新生自分の成長は真の愛に因らなければ成長しない。どこに真の愛の光が射すかは思考的選択で見出されるものではなく、新生自分の中に内的霊的遺伝子として既に組み込まれている。それに従うこと、すなわち良心(神)に従うと言う事だ。御父様の言われる良心とは、重生した新生自分の願いを言うのであって、一般的に使われる良心のことを指して言っておられるのではない。新生自分という個人の理解が異なると家庭の理解、国の理解、世界の理解も当然異なり歪は度を増していく。よって同じ原理、同じみ言葉を受け入れたにもかかわらずお互いの理解の違いは大きくなってしまうという今の状態を呈している。しかしこの混乱を嘆く必要は無い。たとえ世界が滅びようとも嘆く必要は無い。新生自分が真の愛で成長していくなら瞬時に教会を立て直し、同じ真の父母の血統圏から生じた者達で国を形成し、世界を創っていく。旧世界の器を使うか使わないかは新生自分にとってさして問題ではない。新生という言葉を使ったが、御父様が新生を重生だと敢えて触れられたのは意味がある。重とは重なるということだが、堕落自分と新生自分とが重なっている。二重人格ならず二重自分を生きることで堕落自分を否定しながら新生自分を成長させている。心と体の一体化は体を否定するというのではなく、この堕落自分を否定しなければならない。新生自分を認識する者は真の愛の光に向いている。

2015年12月2日水曜日

今日の想い 897

アメリカは人種の坩堝だといわれるけれども、いささか古い言い方ではあるがその通り多くの人種が集まっている。当然店の従業員もいろんな人種がいるが、現在は中米とアジア圏の従業員で回している。キッチン、カウンターのプロダクトサイトはホンジュラス、エルサルバドル、ベトナム、ネパール、そして日本の兄弟で回している。ホンデュラス、エルサルバドルはスパニッシュ圏で言葉も同じ人種も同じだが何故かエルサルバドルはホンデュラスに対しては上から目線で対しがちだ。ベトナム人は魚の卸でも雇っていたから良く分かるが、勤勉であり労働意欲も強い。他のどの従業員よりも良く働くのがベトナム人だ。暇なときでも自らやるべきことを探して、時には人の仕事を奪ってもやるという風に、対時間人件費効率は他の従業員に比べてずば抜けている。手先も器用なので日本企業がベトナムに工場を作るのはもっともだと思える。今年に入って雇ったのが若いネパール人だが、日本料理も知らず使う食材も知らないという知識の量はマイナスだったが、彼を雇おうと思ったのは純粋さが言葉や表情から滲み出ていたからだ。特に澄んできれいな目に私は自分の子供に対するような感情さえ覚えた。フロアは中国、台湾、タイ、ベトナム、インドネシア、マレーシア、韓国で、日本人はいない。中国は広いので中国人と一括りにはできないが、先ず日本人が認識しておくこととして我良しが根底にあると思っておかないと裏切られ感は半端ない。自分の利益になるとわかると頭も回り行動力も優れている。アメリカの中枢部はアングロサクソンで占められていると皆思っているが、表向きはそうかも知れないが片腕や支えとなって遂行しているのは中国系アメリカ人が意外と多い。台湾人は日本人にも日本的マネージメントにも好意的で能力のない私を支えてくれる。タイ人は謙虚であり人当たりがいいのでサービス業には適していて、雇っていてストレスを覚えることは無い。インドネシア、マレーシアは他民族だがアメリカで働く多くは華僑系で自国の言葉も中国語の幾つかも話す。良い意味で能天気で日本人なら悩みこむようなことでも気にもしないという大らかさがある。小事で常に悩んでいる私に、だから禿げるんだと笑い飛ばす彼女らをどれほど羨ましいと思ったことか。韓国人は兄弟であれば誰もが知っている韓国人そのものだ。強情な人であれ物腰柔らかい人であれ、人に使われる身ではないという信念が奥にある。よって長続きはしない。ただ済州島の出身だという女性は忠実であり驚くほどよく働いてくれた。多人種とかかわりあって働きながら和の力こそが日本人の特性だというのがよくわかる。今現在フロアに日本人がいないので実にギクシャクしている。まとめる者がいないと俄然中国系が言葉を強くし、楽をして旨い汁にたかろうとしてくる。時に痛いところを突き、時に下手に出て、またある時は涙まで流してマネージメントを撹乱させる。だから遠ざけるのではなく、だからそこから学ぶのだと思えなければやっていけない。世界情勢の縮図がここにあり、世界平和への道はここで編み出される。道のりは長く途切れることは無い。30年営業を続けてこれたのは甘受の一言に尽きる。結局は忍耐した者勝ちだ。人に対してもそうだし霊界に対してもそうだ。期間が満ちれば次の扉が開く。

今日の想い 896

私が相対以外の女性に対するときはすべからく天使長の立場にあると思ったほうがいい。誘惑は天使長が仕掛けたのかも知れないが、エバは誘惑にのる様子を覗わせて天使長を誘惑している。私が天使長の立場に立つときエバは五万といる。路上ですれ違う女性は別としても、私という存在を男性として認識している女性は皆エバの立場だ。この世の男性は堕落も堕落の経路も知らず、よって妻以外の女性に対しては善の天使長よりも堕落する悪の天使長としての霊を迎え入れやすい。自ずと誘惑モードへの意志で女性に対し、女性は男性に対してしまう。抜き差しならぬ関係に発展すれば地獄を味わうであろう身の破滅に陥ることは承知しながら、それでも自分を主管できずに破滅への道を辿り始める。霊的無知による愚かさがそこにある。プラスとマイナスが正しく作用すれば善果を得るが、自己中心的動機で作用させれば悪果を得る。男性と女性との関係で全てが男女関係(横的関係)に至るわけではないが、神様を無視した天使長とエバの霊的事実が自分と相手を舞台に再現される可能性をどうしても関係上含んでいる。堕落してしまったエバに生じたのはそれまで想像だにしなかった悔いと負債による心の占拠だ。それはアダムに対するものもあるが、エバが自分という存在を存在たらしめている良神(心)への負債だ。エバは自分の良心を痛めることの堪え難い自分であることをその時思い知る。良心があってこその自分だと思い知る。エバも関係を結んで初めて自らの良心への目が開いてしまった。エバの本来関係を結ぶべきはアダムであったという良心の叫びを魂の痛みとして覚えた。エバにしてみれば自分という存在を否定されないためにアダムを誘惑せざるを得なかったのかもしれない。私が相対以外の女性に対するとき、自分の中に縦的関係を立てようとしているのか横的関係を結ぼうとしているのかを瞬時瞬時に察知しなければならない。前者は善の天使長として振る舞い、後者は悪の堕落の天使長を迎え入れようとしている。刻々と変わる状況の中で私の中に入り込む霊と出て行ってしまう霊の動きを見定めなければ、知らないうちに悪霊に主管されていって後戻りできない状態になってしまう。妹(娘)から妻、妻から母への位相転換(次元上昇)は、親なる神様認知のもとに女性の愛の門を開いて迎え入れると妻になり、女性の愛の門を開いて己の分身を放つことで母になる。兄(息子)から夫、夫から父への位相転換は愛の門を入ることで夫になり、夫婦一体としての妻から己の分身を放つことで父になる。妻の愛の門は縦的認知を受けることで霊的位相を高めていく門であるけれども、妻以外の門を通過しようものなら一度の使用間違いで落ちるところまで落ちていく。だからこそその器官は霊的問題に直結する恐ろしい愛の器官だと悟るべきだ。正しく垂直的に上っていく位相から横道に逸れてしまえば霊的に彷徨い始め、神の愛、真の愛という光を失ってしまう。光の無い地上生活が成り立たないように(目視を失うに留まらない)、神の愛の無い霊的生活は成り立たない。横的愛は感覚の喜びと直結しているのでなびきやすいが、縦的愛あっての横的愛だという事実を間違いを犯すことで悟るという愚かさは、霊的無知故のものだ。

2015年12月1日火曜日

今日の想い 895

第四次アダムを御父様の再臨として立たれる人物だという解釈をしている分派があるけれども、アダムが失敗したから第二アダムであるイエス様が救世主として立てられ、イエス様が霊的救いのみで実体的救いをもたらさなかったから第三アダムである御父様が再臨主として来られたのであって、第四アダムという救世主が必要であるなら御父様の完成完結完了を否定することになる。御父母様が勝利された人類の真の父母ではないということになり、第四アダムによらなければ実体的救いはないということになる。アダムと救世主を混同したままみ言葉を解釈していくと再臨主である御父様の再臨というような突拍子もない結論を導きだしてしまう。み言葉を隅々まで精査している訳ではないので説得力に欠けるかも知れないが、御父様が第四次アダムと言われる場合、第四次アダム圏とか第四次アダム心情圏とかという風に、圏という文字を付け加えておられる。そこには第三アダムが勝利されたから第三アダムに従い勝利した者達全体を捉えての圏だと思うのだがどうだろうか。メシヤも世界的メシヤは御父様お一人であるけれども、国家的メシヤはそれぞれの国に立てられているのであり、氏族的メシヤは私達の殆どが該当する。しかしメシヤという冠を与えられているからと言って御父様がメシヤとして失敗したから立てられた新たな救世主ではない。真の父母は過去にも未来にも御父母様だけだという言葉と、私達は皆真の父母にならなければならないという言葉の整合性をどう捉えるか。論理の躓きはみ言葉の部分部分を箇条書き的に捉えてしまうことによって起こるのであり、私達がみ言葉実体にならない限り何一つ断定できる理解は有り得ないという観点を失ってはならない。み言葉の人と言われるような存在になればなるほど論理の躓きで足をはらわれてしまう。今の時代、富んでいる者よりも知者の方がはるかに天国からは遠くなり得るいう自覚を、学べば学ぶほどに持つべきではないだろうか。何事にもバランスが大切であって本に向かう意識だけではなく周りを見る意識が必要であり、教会の兄弟達だけに接するのではなくこの世の人達にも接する必要があり、ビジネスをしているならそれが節理的であったとしても根こそぎ献金ではなく社会にも利益還元すべきであり、勿論担当している本人もそれ相応に受け取るべきだ。限定的に捉えてしまったみ言葉に特化して、そこに意識を集中させてしまうとカルト的になってしまう。私達は確かに戦いに負けてしまった分野もあって、それ故に日本は特に厳しい状態にある訳だけれども、反省点は反省点として学ぶのでなければ負けが只の負けになってしまう。氏族メシヤとして勝利しようと思うなら、勿論復帰への執念は強く持たなければならないが、社会に入り込んで頭目を現していく狡猾さを磨かなければ氏族メシヤも御題目で終わってしまうだろう。私達の直接的な言葉や行動に対しては当然の事としてひいてしまうのがこの社会だ。どれが正しいどれが間違っている等の神学論争はこの世の人の関心はなく摂理進展の何の役にも立たない。そこに一つの結論が出たとしてそれが本当に摂理を推し進めていく私達の力になり得るだろうか。それよりこの世の人相手に酒を交わして、本当は口にすべきではないが貴方が相手だから特別にと情を交流したほうがよっぽど摂理は進んでいく。あっ、、失言。

2015年11月27日金曜日

今日の想い 894

「富んでいる者が神の国にはいるよりは、駱駝が針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(ルカ伝18.25)とある。しかし敢えて食口には言いたい。今の時代は富んでいる者の方が霊界も開放できるし、富んでいる者の方が氏族伝道もやり易いし、もちん富んでいる者の方が献金もできる。先祖解怨は210代から420代と言われて、それをしようと思えばお金は益々必要になる。お金はいくらあっても足りないのが現代摂理の歩みだ。そうなると天国に入るのに金持ちは難しいどころか、逆に金持ちでなければ天国には入れない、と言っても過言ではないだろう。聖職者は清貧を貴ぶイメージ、という認識が私達にはあるが、摂理を進めていくために先ずそのイメージを壊さなければならない。献金のノルマは大きなものであったけれども、逆説的にいえば天文学的献金ができるほどの経済力を特に日本食口は持てるはずと言う事を前提として要求されたものであったとも言える。ユダヤ系が世界金融を握っているように、私達はそれを超えるほどの世界経済に影響を及ぼす何らかの可視的、不可視的財産を握らなければならない。摂理を担う私達が本物ならユダヤ系を超える何かを授かっても決して不思議ではない、と思うのだがどうだろうか。3年で天国はできると言われ、それを信じて献身したが、それよりは余程可能性としてはあり得ると思っている。いや、カインの本道としてそうあるべきだ。いつの頃からか復帰された当時の夢や理想の翼が萎れてしまい、地の塵に埋もれたままでいるが、今こそ掘り起こして、縛りを解いて放つときが来ているのではないだろうか。御父母様の心情圏にある者なら、相続した心情の財宝が具体的現実的外的な装いを得ることは原理的であるはずだ。日本食口は多くを捧げてきた。しかし多くを捧げながらどれほど捧げたもの自体の価値を認識していたかというと疑問が残る。それは価値を知ったものこそが主管主となるのは当然だからだ。日本食口は多くを捧げながら、しかしお金は流すばかりで捧げたのではなく、本当に捧げようとしたものは精誠であったはずだ。だからお金がお金としての価値を産まず、そうなると流れて消えていく運命であるのも頷けるが、精誠を捧げて母の国日本として認められた以上はこれから復帰した主管性を発揮する、即ちあらゆる万物への価値を知っていくことになる。ユダヤ民族は犠牲になってきたその歴史的歩みから主管性を復帰している。ある物事への価値を見出す道は、一方でそれを簡単には手に入れられない環境を通してその本質的価値を知ることになる。彼等は犠牲を通して、お金の価値を誰よりもよく知ったが故に、世界を制覇するほどのお金の入ってくる仕組みを見出すことができた。日本の兄弟達はどれほど切実にお金の意味や尊さを肌身に感じることができただろう。多くの食口が病に蝕まれながらどれほど健康の意味や尊さを知ったことだろう。多くの食口が、結局は富を得ることはなく、結局は病から解放されることはないと諦めの心境にいるのではないだろうか。しかし本当にそうだろうか。得るのは棚からぼた餅式で得ることはないのであり、その価値をよくよく知っているが故にそれを手にする方法や道筋がわかるから得られるのではないだろうか。私達は日々の祈祷をもっと具体的にすべきだろう。公的祈祷は別としても、日々の祈祷には私からの真摯な問いをもって祈祷することで、些細なことだと思っていた日常の中に答のヒントが与えられていて、そこにピントを合わせられるはずだ。ピントさえ合えばその本質的流れを見ることができ、その流れに立って手のひらを差し出すだけでいくらでも富を得ることができる。

2015年11月26日木曜日

今日の想い 893

御父様は生殖器についてどれほど語られたことだろう。生殖器について語られる時間、私達は苦笑しながらさっと流してしまおうと、他の兄弟に反応を悟られまいと、無意識のうちの恥の本性が現れざるを得なかったが、おそらく御父様は相対しない私達をご覧になられながら寂しい思いをされたのではないだろうか。私達は堕落した恥ずかしい生殖器しか知らず、どれほどその重要性を教えられても、その器官を想起するだけで誘惑されて異性に向かおうとする感覚がムクムクと起こり始めるのを知っていてうろたえる。それを皆に悟られまいとする反射的苦笑いだ。ひとりでいる分には如何なる想像もし、興奮を覚えるものには関心が向いてしまうにもかかわらずだ。しかし誰かの面前では何の関心も抱かないか、或いは一瞬たりとも恥ずかしくない自己主管が為されている風を装ってしまう。生殖器や性に関する私達(私だけ?)の感覚はおそらく99%堕落的感覚が占めている。家庭を出発する儀式に於いても、そこに堕落的感覚が入り込んでいないかと問われると私は口篭るしかないが、その性に関する手順や取り決めには御父母様の勝利されたサタンの介在できない秘儀的内容がそこにはあって、その堕落的感覚を凌駕するものに支えられている。第四次アダム心情圏還元のみ言葉は多くは生殖器に関する内容であって、第四次アダムと復帰された生殖器が大きく関連していることがそのみ言葉から取れる。性で堕落したように性で復帰される。さらに天一国時代は性でこそ人格完成が為されると言われているようにも思われる。霊的指導される先生によれば夫婦が完全一体になることで人格完成は為されると言われたようだが、そこに生殖器が、性が関わってくることは当然のことと言えるのではないだろうか。一方で触れてはならない戒めとしての性が、夫婦と言う関係性に於いてはとことん性に向き合うように仕向けられる。ある時から夫婦は裸で寝るように言われたことがあるが、アダムとエバも堕落していないときは裸だったという理由からそうなのか、そう言えば裸になってお互いの体を研究する(?よく知る)ようにと言われたこともあったと思うが、と同じ頃(同じ話の流れだったかも知れない)に夫婦生活を禁止するという話もあって私は混乱した覚えがある。しかし今考えてみると裸になってよく知ることと行為に至ることは同じではない。感覚的刺激に挑発されて当然そうなってしまうという堕落人間としての前提では同じだが、おそらく御父様は純粋に、裸でありながら一線を越えない堕落以前のアダムとエバの関係性を求められての指示だったのかも知れない。夫婦として完全一体となっていない状態で夫婦の性にどう向き合うのか、ということだが、それが欲望の捌け口であれば「クライマックスを迎えて零点に飛び出す」という御父様のみ言葉は成就されないだろう。お互いを想う愛が高まる中で愛の儀式として天に捧げる祭物、いや祭愛として天が取るときこそそのみ言葉は成就されるのではないか、、というのが当面の私の仮説なのだが、勿論零点に飛び出す体験どころか零点の意味すらわかってはいない。

2015年11月17日火曜日

今日の想い 892

今の時代圏は全く新しい時代圏であることを認識しなければ、先天時代の蕩減時代と同じような感覚で起こることを見ている(観察している)と、摂理の本流からは距離を置いてしまいかねない。サタンがサタンになってしまったのは人類始祖アダムとエバが真の父母として立たなかったからであり、本来絶対悪、絶対善なるものは先天時代で培ってきた通常の私達の善悪観では測れないものだ。神様は絶対信仰、絶対愛、絶対服従で創造してこられたが、アダムとエバが堕落し、真の父母が立たなかった時点で人類は絶対という概念を失っている。絶対という概念を失えば、唯一、不変、永遠という概念も失っている。地上に真の父母が立たなければその概念を取り戻すことはできず、堕落人間の捉えている絶対は中身の無い輪郭だけの絶対に過ぎない。御父母様が勝利されることで絶対概念は取り戻されたが、私達がその勝利された概念を相続しているかどうかは別問題で、先天時代と御父母様が開いて下さった後天時代の明らかな違いを認識できないうちは、中身の無い先天時代の概念、それは概念と言うべきではなく観念に留まるものだが、先天時代と同じようにそれによって物事の判断をし選択をしている。今の混乱を混乱と見るのではなく、新しい時代圏に相応するように打ち直されていると見るべきだ。本流と袂を分かった分派も、本流がより強固な本流となる為に、敢えて天使界の役事をして相反する立場に立たせることで本流を打ち直している。本流が本流として天一国の為の環境創造を推進するほどに打ち直されれば、反対派もその鉄槌の役目を終えて帰ってくるはずだ。がしかし、直ぐにでも帰ってこれるほどに甘くは無いだろう。本流が、打ち直されているという身の痛みを覚えるほどになって、本流の中に隠れていた真の父母の血統圏の本質が滲み出るようになって初めて反対派はその任務を終える。口先でどっちが善いの悪いのと言っているうちは未だその任務の入り口に立っているに過ぎない。これから益々翻弄され、最終的には相当量の食口達が反本流に立つやも知れない。本流に最後まで残ろうとすれば、氏族メシヤとしての使命を完遂することだと悟り専念してこそ残り得る。しかしよく考えれば、私は本流にいるけれども本流の本流かと問われれば目を逸らさざるを得ないだろう。ほとんどが何だかんだと言い訳しながらできないこと、やらないことに留まっている。本流にはいるけれども反対派予備軍に入っている。反面教師としての役目に落とされようとしているのが私を含めた殆どの食口であるという現状を見なければならない。もしアダムが堕落しなかったら、誘惑するエバはアダムを真のアダムとして鍛え直した立場であり、もしエバが堕落しなかったら、誘惑する天使長はエバを真のエバとして鍛え直した立場に立っていたはずだ。

2015年11月10日火曜日

今日の想い 891 ( 原罪について )

確かに講論には、「原罪は人類始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪」とあるが、原罪という血統的な罪を霊的堕落と肉的堕落の「両方」の罪を指して呼ぶ概念、と捉えると、恰も霊的堕落の罪も血統的であり肉的堕落の罪も血統的なものと受け取る者も出てくるかも知れない。私は霊的堕落と称する原罪の原因的堕落事件があり、肉的堕落と称する原罪の結果的堕落事件があって初めて原罪という血統的なものになったと受け取っているがどうだろうか。エバ個人だけに関して言うと、霊的堕落を肉体とは関係のない堕落だと捉えれば、もしアダムを誘惑しなかったら霊的堕落はしたけれども肉的堕落はしなかったというふうに言えるだろうか。肉体から霊人体を分離させて霊界で天使長と関係を持っただけだと言えるだろうか。エバ個人に関して言えば、エバは地上の性的交渉をアダム以外と持ち、それが人類の霊的堕落となり、そしてアダムとも持って、それが人類の肉的堕落となったと私は理解している。それは両方とも肉的堕落だと捉えるかも知れないが、人類にとってはエバの行動結果が霊的堕落となり、アダムを巻き込んでの行動結果が肉的堕落となったという認識だ。だから原罪という血統的なものとなった。霊的堕落と肉的堕落の共通点を見るなら、両方とも性によるものであるということは堕落論の堕落の経路からわかる。しかし地上で繋がれることが天でも繋がれるのであれば地上で堕落すれば天でも堕落するのであり、天で堕落してそれから地上で堕落したという言い方自体天と地を異なる世界だけれども同じ次元と捉えていることになる。天という概念、霊界という概念を正しく捉えないと堕落論は深入りすればするほど迷宮に入っていく。霊的に不倫を犯しているが地上で不倫は犯していない、或いは地上で不倫は犯しているが霊的には不倫していない、、等という言い方ができるとは思ってもいないし、そんな人物は一人もいないだろう。だから堕落論を紐解くには余程の注意が必要になる。霊的堕落は霊界に限って起きたエバが肉体から霊人体を分離しての事件ではなく、天使長がまとう実体存在、それが御父様が言われたようにアダムの従兄弟、或いはアダムの叔父なのかも知れないが、そういう地上存在が必ずいたはずであり、エバはそれと性的に交渉を持った。この事実の検証は今のところそれぞれが思うところに任せるしかなく、それは摂理観と信仰観に差ほど影響を及ぼすことは無いのかも知れないが、ここで本当に触れておきたいことは御母様の独生女発言に関する認識だ。真の父母様宣布文サイトに上げられている説明では御母様は肉的堕落以前に立っておられるとし、その前提として原罪を霊的堕落の罪と肉的堕落の罪という二つの罪と捉えてその上での説明となっている。それは御母様の発言を原理によって論理的に説明しようとしているのはわかるが、論理で理解できないということであるなら御母様の発言を待たずとも八定式頃からの訓読会の御父様のみ言葉は我々の論理を既に超えている。私達の頭では理解できないその辺りからのみ言葉の一つ一つを納得できる論理的説明で積み上げてきて、御母様の発言もその流れで原理的な論理を差し出すならいいのだろうが、どうも唐突なこの説明には無理があるように思える。御父母様一体圏にあられる御母様の言葉です、と断定して済ませることだと私は思うのだがそれではまずいのだろうか。天と地の概念、堕落論の理解、原罪が血統的なものになった経緯、それらを正しく積み上げていってこそ神様のひとり娘、独生女も原理的論理性に立たせることができるが、それは先に任せて今は御父母様一体圏を受け入れれば当然受け入れられることと理解すればそれで事足りる。私達が地上存在である以上霊と肉は分離できない。原因のない結果はないのであり、地上は全て結果世界であり結果の一つ一つに必ず原因があり、霊と肉は存在の裏表になっている。よって結果的肉的堕落は原因的霊的堕落なしには有り得ないし逆も言える。そして善悪の実がエバの生殖器であれば次元の違う霊的存在である天使長は地上存在を通して原因的に関わることでしか善悪の実を食べることはできない。事実そうやって善悪の実を食べることで、人類を偽りの愛で主管し、天宙を主管してしまった。しかし御父母様が勝利されることで神様は御父様の体をまとい、そして御結婚された。御母様という地上に於ける神様のひとり娘は天上に於いては神様の相対だ。この事実の説明が現時点に於いては只の説明で、実感を得て理解している者がいるかどうかはわからない。しかし近い未来に当然の事として実感として受け取れるその時の私が本当の私だと認識し、その私に向かって正しく認識の道筋を取っていく私になる。

2015年10月30日金曜日

今日の想い 890

私達の組織は、それが教会であれビジネスであれ、天が願う在り様からずれてはいないだろうか。それは一般の組織が正しく私達の組織が間違っていると言うようなものではなく、どれだけ一般の発展している組織の教訓を学び真似事をしても決してうまくはいかないだろう。組織に於ける体質が変わっていないということもそうだが、そもそも私達の組織は天の願う摂理を担うという観点から出発している為に一般社会から学ぼうとしても限度がある。組織の体質というより体質をつくる観が摂理観に合わせられないといった方が当たっていると思うが、天の願い天の願いと口にしながら、そう認識しようとすることで自分の願いではないと暗に認識してしまっているところに問題がある。天の願いであるけれども自分の願いでもあるという、天の願いと自分の願いが一つにならなければ所詮分裂して消えるか、あるいは私有化されて天と関係のない組織になってしまう。体質を造る一つの観として信仰観があるが、信仰は与えられた中心、上に対して立てるものという、疑うことも無い前提が私達の信仰観としてある。もちろん中心性を立てることは大切なことだが、それは横の関係、兄弟関係はどうでもいいと言う事でもなく、従う者達への配慮は必要ないと言う事でもない。しかし現実に体質としてそうなってはいないだろうか。ここでも上に対する無暗やたらな頷きや同意が、下の者が自分に対しても同じように全ての点に於いて頷き同意して当然だと暗に押し付けている。兄弟として支えあうのは当然のことでありながら関係性に兄弟愛がみられるだろうか。上に立つ者は親の位置で親身に従う者達に接しているだろうか。彼等の意見に耳を傾けようとしているだろうか。さらには一人一人が組織全体に対して能動的に関わろうとはせず受動的であって、すなわち言いなりであってそれでは組織は発展的なものとはならない。100軒近くもあったレストランが減って行ったことに対して、統括する部署はその責任を肌身に感じてはいなかった。採算が取れなければ始末されるのは当然だという思いがあってそこに身を切られるほどの想いがあったとは思えない。それぞれの店の現状の悲惨さを訴えても、それぞれが対処する以外ないと何の足しにもならない等閑(なおざり)の言葉や、傷に塩を塗りつけるような言葉だけの指導で、上の部署は痛みを避ける安住の位置に居続け腰を上げようとはしない。それぞれの店やそれぞれの従業員が自分の一部である手足だという感覚が欠けている。さらに言うと、私達の組織は指導する頭と手足だけが存在し、手足への栄養分を作ったり送ったりする内臓器官が欠けている。必要ないと思っている。そうなるとそれぞれの部署でそれぞれの内臓器官を用意する以外ない。活動して結果を得るためには力が必要だからだ。それはさらに有機的であるべき頭と手足を遠ざけていく。よって私達の組織は頭でっかちのまま手足が壊疽しながら死んでいく。組織に於いてノルマや目標だけが高々と掲げられるだけで、それを達成するための愛を中心とした一体化の為の授受作用は見当たらない。上は下に命令伝達するだけだし、下は上に身を搾り取るように捧げていくだけだ。それを真の愛が関与する関係だと誇らしくも言えるだろうか。私達は今見直さなければ、このまま突き進もうとしても進めないし、勝利の結果をもたらすことはできない。

2015年10月25日日曜日

今日の想い 889

エデンの園にある生命の木はアダムの肉体を意味し、善悪を知る木はエバの肉体を意味している。エバを誘惑する蛇が何かというと、男性の生殖器を意味している。蛇、すなわち男性のその器官がエバを誘惑して善悪の実、すなわちエバの生殖器を取って食べたのであり、男性をまとう本質こそが天使長ルーシェルであって、そうなると蛇=天使長ルーシェルとはならない。しかし彼は堕落の張本人であると明言されているように、或る男性をまとっているけれどもエバを堕落させるとき、男性のその器官に天使長自身の存在を集中させている。この世の男性、堕落人間は自分の妻より美人がいれば普通にその器官が始動するのであり、その場合自分の中の天使長的存在をそこに集中させていると言える。天使長ルーシェルはその器官をして堕落させたのであって、蛇=天使長ルーシェルと理解しても問題はない。全ての男性は自分が毒のある蛇を持っていることを認識しなければならない。その毒は相手を霊的に殺し、自分にもその毒がまわる霊的自殺行為になる。妻以外の女性に対しては天使長の位置に立つのであり、その器官が女性のそれを願うようになれば立派に堕落天使長だ。蛇が善悪の実を取って食べると五感は興奮して悦楽の境地に向かう。人間は五感の感性が備わっているがさらに霊的五感があるのであり、それを開く第六感の中心がそこ、生殖器にある。男性は五感の悦楽を欲張って、蛇の赴くままに複数の女性との関係を求めていくけれども、五感の悦楽と引き換えに第六感の感性を犠牲にしている。私達は妻以外との関係を厳しく禁じられているが、それはときに男性にとっては決して容易いことではない。しかし五感を犠牲にしてでも霊的五感を開く第六感を立てなければ、人間はどこまでも霊的無知のまま居続けることになる。宗教が性を遠ざけ感覚の喜びを否定してきたのは、そうすることで神霊聖霊を感受できる感性を開く為であった。しかし御父様のみ言葉はその次元に留まらない。生殖器に対して、あるいは生殖器を中心として絶対信仰絶対愛絶対服従せよと話される。それは己が欲望のままにその器官を使えという言葉ではもうとうなく、神様の生殖器を絶対信仰絶対愛絶対服従するのであり、神様と私人間の生殖器をひとつにしろという言葉だ。

2015年10月21日水曜日

今日の想い 888

統一教会から家庭連合に、、名前が変更になっただけのことなのだろうか。入れ物が変わっても、あるいは表示を変えても、中身が同じなら、変わっていないと判断されて名前を変えることで誤魔化したと思われてしまう。旧統一教会ですと公言して名前を挿げ替えても、相変わらずあの統一教会と呼ばれてマイナスイメージを受け継いでしまうことは明らかだ。どうしたらいいのか。先ず認識すべきことは、統一教会の構成は教会員であり家庭連合の構成は祝福家庭ということ。教会員イコール祝福家庭だという私達の感覚を先ず壊す必要がある。教会員以前に祝福家庭であるという認識を強く持たなければ私たちの中身を変えることはできないし、家庭連合だと名称を変えただけだということになる。統一教会の柵(しがらみ)を越えて、私達祝福家庭の自由と責任に於いて変わる必要がある。ある意味統一教会という組織に利用された祝福家庭だったが、今度は祝福家庭が家庭連合という組織を利用する。祝福家庭の繋がりを利用して環境を創造していき氏族を復帰していく。今のところ名称が変わっても組織体制は引き継がれたままだが、遠からず教会そのものである今の組織体制は変革されていくはずだ。教会イメージが強い者は組織が崩れて分散していくと見るかもしれないが、縦社会組織から家庭連合という連なり組織に変革していくことになる。立てられた上に立つ者が中心であり父母を代身する者でありアベルだという固定された認識から、連なりの中に中心的存在をそれぞれが見出し下から中心として支えていく。よっていろんなグループが生じるだろうし、それぞれ輪が広がったり狭まったり、引っ付いたり離れたりを繰り返しながら変動的であり、しかし全体として真の父母を中心軸として向かう一大祝福血統圏が地球を席捲していく。祝福は受けたけれども教会に距離を置いてしまい、摂理から離れて生活に没頭していた者達も、それ相応に祝福の恩恵に与れるために閉ざしていた芽を吹き返すようになるだろう。同じ食口とてみ言葉理解の差異がある。心情基準の差異がある。得手不得手があり実力の差異がある。それを無理矢理信仰有り無しの秤にかけられてしまえば最終的には誰も残る者はいない。受動的であるということは、別の表現にすれば囲われ支配されているということだ。能動的であるということは、別の表現にすれば所有権を得て主管性を復帰したということだ。受動的であり続ければ染み込んだ教会体質から離れられない。家庭連合はお上から流れる指示に従う組織ではなく、それぞれの祝福家庭が能動的に活動するためのツールだ。そういう認識に立って始めて中身が変わったと言える組織になれる。

2015年10月15日木曜日

今日の想い 887(裸の女憲法)

非核三原則は国民を守るという観点から出されたものではなく、核や原爆という言葉を口にするのも聞くのも嫌だという日本国民のトラウマ感情を逆なでしないための建前の原則に過ぎない。非核といいながら実のところアメリカの核の傘に守られてきたという部分には触れようとしない狡さがある。日本人の思考がいつから停止したのかわからないが、平和憲法で日本の平和は護られているという感覚が、どう教え込まれれて感覚として染込んだのかわからないが、いみじくも平和憲法を掲げてきた時期と、戦争に巻き込まれなかった時期とが同じであるので、平和憲法故に日本の平和は護られてきたと信じて疑わない。水が只だという感覚と同じように、平和は只だという感覚もある。しかし平和は只どころか金を積み上げても解決できない、それこそ生命を積み上げる覚悟と引き換えに受け取れるのが平和だと言えよう。だいたい今の憲法を平和憲法と当然のように言ってしまうこと自体おかしい。これは平和憲法ではなく、実体のない平和の衣をまとった裸の王様ならぬ裸のエバ憲法だ。平和憲法平和憲法と一つ覚えのように喋り続ける口を塞いで、裸の女憲法と命名して流布すべきだ。「どこからでも誰でも私の貞操を奪ってください」とわざわざ対外に発信する憲法だ。母の国日本ではなかったのか。妻の立場も母の立場も捨てて、貞操観念の無い女であり続けるならいつかは侵されて当然だろう。そんな事態にならないと己の無知に気付くことはないのだろうか。韓国は日本をサタン呼ばわりしてきた。韓国に言わせると植民地化や略奪や慰安婦などといった事柄を挙げているが、それに対して謝り続け保障し続けることが解決策ではなく、当の韓国も気付いてはいないが、夫として立てる妻の役目を日本が果たし、父として立てる母の役目を日本が果たすことが重要であることが摂理的観点から見通せば見えてくる。妻の役目を果たせば妻の権威を立てることができる。母の役目を果たせば母の権威を立てることができる。役目を果たそうという認識どころか、夫に対する妻として立つべきを認めず夫を邪魔扱いする無貞操な八方美人の姿勢が日韓の問題の根元にある。ある意味、日本食口はひたすら韓国の教会本部への献金を通してその穴埋めをし続けてきたと言えるだろう。食口がどれほど無愛想で冷たく、愛の人格を備えてはいないとしても、妻としての本性、母としての本性は日本食口に宿っている。日本食口がいなければ直ぐにでも日本は五分割されてしまう。日本が日本国として維持していられるのは平和(?)憲法のお陰ではない。非核を貫いている為でもない。ましてや経済力や技術力、その民度が高いせいでもない。願いがかけられ期待がかけられているからこそ維持されている。天があきらめれば明日にでも日本は陵辱され捨て去られる。

2015年10月11日日曜日

今日の想い 886(冷たい無表情の神様)

自分を中心とする社会の人間関係を考えたときに、天の父母様を親とする兄弟姉妹であることは先ず基本だというのが私達の認識だ。家族だという思いが強ければ強いほど関係性は強くなり、伝道する確立も高くなると思っている。友達に連れられて最初に教会に入ったとき、「お帰りなさい」と声をかけられどれ程私の心が捕らえられたことか。誰々兄、誰々姉と呼び合い、教会は家庭以上の家庭だった。み言葉に感動して入教したんだと自分でも思い込んでいるけれども、よく思い出してみればそれまで考えたことも無かった原理の壮大な世界観に圧倒されたのであって内容を理解して感動した訳ではない。釣り針で魚を釣るように、見たこともない満面の笑顔で「お帰りなさい」と声をかけられた時点で、私の心に釣り針は引っ掛けられていた。そして引き寄せられ入り込んでいく自分の言い訳として未だに理解しているとは言えない原理云々を持ち出しただけであって、「お帰りなさい」こそが私の心を引っ掛ける愛のツールだった。もちろん兄弟よりは若い姉妹のそれに引っかかったことは言うまでもない。だから原理で伝道するのではなく愛で伝道するというのは確かに頷ける。入教してから43年の歩みは、摂理摂理の厳しい路程に喰らい付いてきたけれども、釣った魚に餌はやらないの諺の如く、雑巾のようにボロボロになっても放置されながら、餌を待つ魚から自力で復活する存在へと化けることを要求された。子供を崖から突き落として這い上がるのを待つ、子の泣き叫ぶのにも動じない獅子と同じ感覚を神様に見てきた。どれだけ神様、神様と泣いて寄り縋っただろうか。しかし一度たりとも泣きの一手で動じる神様ではなかった。愛の神様というけれども、私の思っていた慈しみの愛とは異なる、冷たい、無表情の神様だった。私達は神様がどうもわからないと、神様を認識していないのではない。実は私達の思いたい愛の神様とは異なる厳しい神様を否定して見ないようにしてきただけだ。私達は不安で歩むのではなく、厳しい神様を直視して畏怖の念で歩むべきだ。御父様がどれほど厳しかったか。御傍で仕えれば下心のある不安など吹き飛んで、純粋にその厳しさに畏怖の念を覚え、身も心も捧げようとする感情を抱く。不安感情は自分を守ろうとする個人的感情だけれども、畏怖の念は自分を亡き者にしてでも願いに応えたいと思えるような個人を超えた全体的感情をいう。個人的感情はどこまでも窮し、全体的感情はどこまでも広がっていく。私達は今まで結果を見ずとも許されてきて、厳しい神様であることを直視せず、安らぎを与え慈しまれる優しい神様のイメージだけに執着するから、反対派にお花畑呼ばわりされてしまう。事実どれだけ厳しい御父様だったか。どれだけ日本食口に対して容赦なかったか。私の推測かも知れないが、厳しさの中にも生き延びて、回り道をしてでも、あるいは別の観点からでも御父様を振り向かせようとする狡猾さやしぶとい意志の芽生えを願われたのではないか。日本食口に対して、理不尽なことが多いのを見て取るとそれ以外にはないと思っている。御父様は日本を厳しく、ある意味奴隷の様にプッシュしながら、どこかでそのノルマをものともしない大人物が現れることを願っておられたはずだ。お帰りなさいと声をかけられて引っ掛かるのは確かにおめでたいお花畑人間だ。当時復帰された私達お花畑人間はそんな簡単な愛のツールで引っ掛かるが、今はそうはいかない。訓練された私達はもっと手の込んだ氏族復帰ツール、伝道ツールを手にしなければ、どうして国を料理し、世界を料理することができるだろうか。

2015年10月10日土曜日

今日の想い 885(原理の為の愛ではなく愛の為の原理)

み言葉は訓読に留まるばかりではだめで、み言葉が生きて働いてこその訓読とならなければならないのであり、訓読目標の為の訓読など、生命を入れるための言葉という器をひたすら集めようとしているにすぎない。器には生命が入っていながら、わざわざ中身の生命を無視して空の器ばかりを集めるのは、自分は信仰者だと納得したいという願望を叶えるだけの自己満足だ。量をこなせば愛の人格者になれると思わないほうがいい。質を重要視せずに量を集めることだけに偏るのはカタブツ者で、食口にはカタブツ者、融通の利かない石頭の方が多い。キリスト教原理主義者、イスラム教原理主義者、そして統一教原理主義者だ。学んだ原理は確かに分別する原理、すなわち刀だが、刀を振り回すことは統一ではなく分断だ。統一は原理でするものではなく愛でもって統一する。伝道も原理でするのではなく愛で伝道する。確かに愛で堕落したから愛を退けて原理原則の神様として復帰してきたのは事実だ。しかし真の愛が立つための原理原則であり、真の愛が立てば原理原則で支配されるものではない。原理原則は真の愛で主管されるためのものであって、原理で支配されて真の愛が立つのではない。み言葉には愛という言葉が山ほどあるし、すべてのみ言葉は愛を汲み入れている。私達は訓読を通して、愛という言葉を何千回何万回も口にしながら、しかしそれでも愛の実感を得ずに生活している。朝何時から訓読会、夜何時に祈祷会、訓読のページノルマ、献金ノルマ、今月何人に原理を伝え何人伝道するか、祝福さえも何カップル祝福したかという数字ノルマ、そういった活動は愛の動機があるのだろうか。為に生きる想い、愛したいという想いが流れ込んでいるのだろうか。原理的に活動することが愛だと思っていたけれども、それは愛ではなく言われた通りに歩まなければはじかれてしまうという不安感、恐怖感が動機ではなかったのか。不安と恐怖である程度自分を奮い立たせることはできる。義務感、使命感の背後にあるものは愛ではなく不安と恐怖だ。しかしその歩みは形だけの歩み、原理という型に嵌められた愛不在の歩みで、復帰基台摂理準備に留まる犠牲ばかりを後天に入った今でも供えている。愛の動機、愛の想いなくしてどうして愛の犠牲を供えることができるだろうか。犠牲だ苦労だと自分を追いつめたとしても、それは愛の犠牲とはならない。人間の尊厳を否定する犠牲、精神を捨てる犠牲は自己否定することではなく、為に生きるという愛の犠牲精神によってのみ霊的高みに飛翔することができる。

2015年10月4日日曜日

今日の想い 884

今年2月の改装は全般的には高評だったが、営業を続けていくうちに具合の悪い箇所もあちこち見えてきた。店の壁に取り付けられたガラスの掲示板もその一つで、見えにくくなったと客からの指摘も多かった。ごちゃごちゃしたものを排して高級感を出そうとしたのだが、メニュー表示の掲示板がお飾りになってしまって本来の役目を果たしていない。黒板に比べればガラスの掲示板はスマートだが、目立たず興味を抱かせるものとして客の目に入ってこない。結局取り外して以前に似た黒板を取り寄せ取り付けることにした。前日に兄弟に取り外してもらい、そのあくる日テーブルの上に伏せられたガラスを移動させようとして事は起こった。キッチンの裏に人が斜に構えてやっと入れるスペースがあるので、取り敢えずそこに保管しようと思い私一人で移動させていたが、もう少しで入り切るとガラスをずらしたその瞬間、パーンと大きな音を立て、2×6フィートある一枚ガラスがものの見事に砕け散った。米粒ぐらいの大きさに粒々に砕けてあたり一面散乱した。手で服についたガラス粒をはたくと痛みを覚え、見ると手の平に血が滲んでいた。ガラス粒の他に砂鉄のような細々とした線状のガラス片が付いていて、手の腹のあちこちに突き刺さっていた。どうもこの厄介な線状ガラス片もそのあたりを覆っているようだ。最初は何が起こったのかわからなかった。それほどガラス板は音と共に一瞬で消え去った。あまりの突然の出来事にしばらく唖然としていた。もちろんこの不可思議な出来事の意味を探り始める。外的な原因ではなく背後の原因を探そうとする。あたかも悪魔がそこにいて、ガラス板の入るのを瞬時に拒んだように思えた、その正体だ。とぐろを巻いて店に居座る何かであり、中心である私の中にも居座る何かだ。昨年の初頭から始まった人手不足、従業員が居付かない問題、売り上げの下降、そして最近頻繁に起こる害虫の出現、そんな問題に振り回されて結局この摂理全体に対する意識を殺がれてしまっている。店の営業に汲々としているからだ。摂理の進展を阻害する何かが居座っている。本来なら摂理的なビジネスなので二世達を巻き込んで内外共に投入すべきなのに、現実顔を背かれている。他の店のあるマネージャーは私達の宣伝不足、広報不足だと言う。中心者は私達の意識の狭量さを指摘する。しかし何を言われても、どう責められても、明日の営業のことで手一杯なのが現状だ。ガラス板がものの見事に粉砕されたように、何かの引き金で一瞬で当てにしていたものが崩れ去る。その気分に留まる限りはそれまでだが、それを超えた発展感情をどういったイメージに持っていくのか。八方塞の今こそ霊界が注視し、天の運勢も味方せざるを得ない本領発揮の時と見るべきだ。

今日の想い 883(意志のない鶏)

子供の頃、田舎の家で鶏を5羽ほど飼っていた。でも卵を産み始めてから立て続けに蛇に喰われてしまった。どんなに防御しようにも隙間だらけのあばら家では仕方なかった。家の中の垂木にすら横たわっている蛇がいたくらいだからどうしようもない。鶏は卵を産み続けるうちは人に大切にされる。しかしそのうちに鶏が卵を産み続けることを人は当然とみてしまう。鶏はある時から卵が産めなくなることを知らないが、人は知っている。知ってはいるが無視したまま当然のこととして卵を収穫する。そうしてそのある時X-DAYを迎える。その時鶏はどうなるのか、人はどうなるのか。意志のない鶏はその運命を人に預ける。意志のある人は鶏の価値をどう見てきたかによって鶏の運命を決定する。殺すも生かすも人の価値判断に因っている。与える鶏と受け取る人の関係は、意志を持たない存在と意志を持つ存在との関係だが、意志を持つ人間は意志をもたない鶏の意志をも受け持つ責任を負っている。そうでなければ収穫し食べるはしから負債を溜め込む。あらゆる万物と人間との関係は、意志を持たない万物の全ての意志を引き受ける責任を負っている。卵をひたすら収穫してきた人は鶏の意志や想いも自分の意志や想いに加えるべきだ。私達は万物のみならず多大な心魂の供与も受け続けている。そこには万物や環境や先祖達の犠牲の、あらゆる意志や想いを代弁する私にならなければ彼等は讒訴するだろう。意志を持たない彼等の讒訴は、ときに意志を持つ人間の讒訴とは異なり容赦ない。自然災害の多大な影響や感染によるパンデミックは意志を持たない存在の讒訴の表現だ。万物に対する感謝は万物を擬人化させて感謝するのではなく、正しく万物を主管することが万物への感謝だ。万物は正しく犠牲になれるように創造されている。卵は食べられることだけがその創造目的なのかどうか。あらゆる可能性が秘められていて、それを引き出すことで浮かばれる。すなわち正しく犠牲になれるよう導くことができる。私達は仮にも万物の主管主として、秘められた万物の可能性を一つでも二つでも聞き出せないだろうか。原理を通して万物に対する人間の位置を知った者として、この世の人々よりもその可能性を聞き出せないだろうか。私達はどれだけ罪を犯さないように生きるとしても、生きて地上に歩む以上何某かの犠牲の上に生きている。日本は献金という卵を産み続けてきた。教会活動にとって日本からの月々の献金は当然になった。しかし或る時X-DAYを迎える。それは日本食口の意志かも知れないし、あるいは意志に反して起こる自然の讒訴としてかも知れない。私達が万物の可能性を引き出せないように、教会組織は献金以外の日本の可能性を引き出せずにきた。日本が母の国としての意志が本当にあるのなら、日本食口は声を上げるべきだ。意志をもたない鶏の様に、目をつむったまま教会組織の意志に悉く委ね続けるのは母としての自らの位相を蔑ろにしている。日本の供与してきた全ての犠牲とは言わないが、こと献金という犠牲の供与に対しては、意志のない鶏として産み続ける卵を収穫する感覚と変わらない。教会もまた、母の国という位相を蔑ろにしている。

2015年9月29日火曜日

今日の想い 882(創造性、主管性は愛の実から)

人類は何人も幸福を求めている。しかしそれはあくまで幸福であって、肉体的、すなわち感覚的な楽しみ一辺倒を言うのでもなく、或いは逆に肉体的感覚的楽しみを悉く否定して、精神的なもの一辺倒を言うのでもない。今は相容れない心と体がひとつになって、心が求めるものを体も納得して追求し得られるのが幸福だ。性を考えたときに、性の衝動とは肉体的衝動だ。その衝動のままに行動したからといって幸せになれる訳ではない。あるいはその衝動を罪として完全否定してしまえば人類の存続も発展もない。性の自由、フリーセックスを謳う者は人類を動物以下に貶めようとしているのであり、性の完全否定を謳う者がいればそれは人類を偽善人類にしようとしている。人間には心と体があるけれども、この心と体の暫定的統一体として人間は存在している。暫定的であっても一つの統一体とならなければ存在の体を為せない。その表象は知情意の活動という心魂だが、霊的無知であり神の心情に通ずることができず善に生きられないという矛盾性の心魂だ。それでも知を求め心情を求め善を求めるのは神様の私への想いの力が引力として働いているからだ。性の衝動自体は善でもなければ悪でもない。不倫は善か悪かと問われれば悪だが、それは衝動自体が悪なのではなく衝動の使い方を間違えてしまったからだ。幸福を得る三大要素は霊的無知の克服、自我の根拠を神様の心情に繋げる、そして創造性、主管性、神に出会う神秘性としての性の習得だ。人類は性で堕落したから性に対する罪悪感があり、精神性を求めれば性を遠ざける期間も必要だが、創造性、主管性へのエネルギーは性という陽陰の一体化、交わりから発する。私達は御父母様の性に関することを知らないが、私達の重生は明らかに御父母様の天宙的性のエネルギーで霊的に受精し霊的に生まれている。御父母様の性に対する認識は地上の堕落人間達のそれとは完全に異なっていて、地上人間の道徳的理解を超えた事実を堕落的秤にかければ気を失うほどだろう。前にも触れたように、性で堕落したものはそれを凌駕する性で復帰しなければならない。私達は性に関しても御父母様を平面的に判断することを止めなければ常識人間ほど躓いてしまう。御父様は聖和されて霊界に、御母様は残されて地上に、そこには霊界地上界を越えた陽陰の交わりがあり、神様が天の父母様にという神界の位相として立たれた、その天の母を御母様に見るのでなければ、私達は地上の道理、すなわち堕落の道理に霊的翼を屈した存在だということだ。真の父母一体圏、それは新しい天宙として生まれ変わらせる陰陽の性であり、御母様は新しい天宙を成長させる胎でもある。その霊的把握に私達自身を引き上げ届かせようとしなければ、真の父母一体圏はただの言葉でしかなく、一体圏から受け取る勝利的運勢を相続できないままだ。

2015年9月26日土曜日

今日の想い 881(神様は親だから去った者には優しく共に歩む者には厳しい)

私は御母様に従いますと、そう言って留まり同じようにしていていいのかというと、それで問題が解決するわけではない。すなわち摂理が進むわけではない。分派に対して批判はするけれども、ではどれだけみ旨に対して真剣であり結果を残す者となっているかは別問題だ。ある意味一大決心をして新たな中心軸に従おうとする者達の覚悟は認めなければならない。それ以上の覚悟を私達は引き受ける決意を供えてこそ、去った者達も浮かばれるというものだ。教会から去っていった多くの者達がいる。それは躓いて去った者も中にはいるけれども、日本食口に関する限りは大半が厳しさについていけずに去った者達だ。彼等がその無念を抱えずに楽しく人生を送っているとは思えない。負債という重荷を背負いながら目立たず息を潜めて暮らしているのが実情だろう。御父母様は去っていった者達への想いはないだろうか。彼等を思い出すこともなく忘れ去ったまま摂理に向かっておられるだろうか。彼等の無念を晴らし、彼等が負債を覚えるのではなく一時ではあっても一大み旨に参画できた喜びを受け取れなければ、御父母様は真の愛の御父母様ではなく彼等にとって裁きの御父母様になってしまう。御父母様は人類の真の父母だ。誰一人として許しを受けられず愛を受けられない者があってはならない。ましてや厳しい時期にみ旨に参画した者達が耐えられず去ったからと言って、どうして負債を覚えなければならないのだろうか。しかし今の現状はそうなっていない。それは未だ戦いの最中にあるからだ。実体的天一国が立ち、世界復帰の見通しが立つまでは中途離脱した者達へ向ける意識など割けないからだ。御父母様が勝利されたのだから実体的天一国は必ず立つ。それは私達の関知しないうちに別の環境創造から建つのではなく、どんな犠牲が供えられるとしても私達の手で建つ。国を建てるなど言葉だけで他人事のような私達に対して、未だ意識に於いて眠っているような幼い私達が世界を凌駕するほどの意識を覚醒させる為には、思いもよらない事件が起こるだろう。そうして遅かれ早かれ残った私達は、かつて誰も経験したことのない覚悟をそのとき迫られるだろう。

2015年9月24日木曜日

今日の想い 880(判断して裁くのはみ言葉ではない)

社会にはそれなりの道徳的規範がある。私達の教会社会にもそれなりの道徳的規範がある。私達のそれは御父様が語られたみ言葉からきているが、しかし規範は規範であってその規範に雁字搦めになってしまえば、その原因的背後にある心情を無視しかねず教条的姿勢になってしまわないだろうか。愛のみ言葉でありながらみ言葉が戒めと化し裁きの基準になってしまわないだろうか。許せ愛せと言われた御母様の言葉は教条的な私達の姿勢を指摘され、道徳的規範で裁くことをやめるように指示されたと私は思っている。人事の背景を詮索するのに躍起になっているが、その姿勢自体が本人を愛に生きる存在ではなく裁きに生きる存在だと証していることになる。道徳的規範は私達が用いる道具ではあるけれども私達を主管するものであってはならない。道徳的規範は、それを用いてより精神的高次の喜びを受け取れる存在になる為であって、ある事実を知り不平等感を覚え妬み嫉妬から裁きの剣としてそれを用いるなら、その事実は知らされないほうが本人のためには良かったということになる。道徳的規範ですら諸刃の剣であることを忘れてはならない。私達は御子女様に対してそれを宛がい、ある者は御母様に対してそれを宛がい、またある者はいまだ明白にされていない御父様の事実に対してそれを宛がおうとする。私達が社会の道徳的規範で裁かれているように、私達は私達の道徳的規範で兄弟を裁き、さらに御父母様や御子女様に対しても裁いている。そうして巡り巡って自分自身を裁く裁きのみ言葉、戒めのみ言葉として剣先を突きつけられる。教条主義的人間になれば人を許せない。愛せない。自己中心的判断による善悪観で統一するのではなく分立させる。それは本人自身が許しを受け取ろうとしない。愛されようとしない。心と体の分立をさらに際立たせる。御父母様を通して許され愛されるのを否定し、復活して心身一体への道を否定している。許しの本質的な(霊的な)意味がわかっておらず、堕落社会の愛と真の愛の違いを理解しようとしていない。

2015年9月22日火曜日

今日の想い 879

サンクチュアリの説教は度を越していないだろうか。こんな陰謀論的解釈に終始していつ実体的天一国を為そうと腰を上げるのだろうか。食口にしてみれば刺激的内容で興味を引かれるのかもしれないが、そんな聖書解釈で真の父母一体圏を否定し御母様を否定できるのか甚だ疑問だ。説教を見ながらそんな思いや疑問が次々と湧いてきた。御母様が大淫婦など、どう頭をひねくり回せば編み出されるのか私にはわからないが、2千年近く前の霊的黙示を現代の地上、それも教会の内情に当て嵌めるのは土台無理がある。だいたい黙示録は御父母様が勝利されて以降、先天時代を超えて後天時代の黙示までしているのかという疑問があるし、さらに黙示は擬人的、或いは象徴的に見せられたものだという認識からすれば個人を指して具体的に当て嵌めるのはこじ付けとしか思えない。一部のその箇所だけを抜き取って解釈しているが、黙示録全体の解釈からその箇所はそう読み取れるというのであればまだ理屈が通るのかも知れないが、箇条書き的に解釈してもその箇所以前から流れ、以降も続いている黙示物語をどう読み解くのかもなく断言するのは実に危険だ。グループ派が良心は師に勝り神様に勝るというみ言葉だけを抜き取って正義の剣として振り回すのと変わりない。あえて関心も示さなければ燃え上がることもないという考えもあるのだろうが、名の通った先輩食口がなびくようであれば無視することが良策とは言えなくなってしまった。まわりの兄弟にこの問題を投げかけると多くは当たらず触らずという態度で、さあどうでしょうと言葉を濁して逃げられるのが落ちだが、かといってみ旨に燃える姿勢も見れず、冷めていてそんなのはどうでもいいとしか思っていないようだ。打てば響くようなものは返ってこない。心情の神様なら、そして想いの強い方に現実が流れていくなら、解釈がどうであれ霊的勢力として油断すべきではないだろう。グループ派の問題にしろこのサンクチュアリにしろ私達の内面の表れでもあるという認識に立てば、ゴシップ的な関心ではなく私達の内的課題として捉えて、彼等に通じる私の内的部分を抉り出して悔い改める必要がある。これらの課題を通して真の父母は私の中に立っておられるという認識をますます強くしていく者が、摂理の中心的位置に立って御母様の願いに応えていく。グループ派の人と話せばこう言えばああ言うという論理の応酬になってしまう。サンクチュアリの場合論理ではなく御父様という権威、それは人間御父様という権威なのだが生きておられた御父様と近しい者ほどその感情的部分で虜にしようとしている。私達は知的論理を超えて絶対信仰絶対服従を供えるべきであり、さらに情的な人間的想いを超えて絶対信仰絶対服従を供えるべきだ。なびく者達は御父様の面影をその御子女様にみている。真の父母ではなく人間御父様を慕った者が陥る試練だと捉えるべきだ。

2015年9月6日日曜日

今日の想い 878(心と体の境界線)

先にも記したように祈祷自体を変える必要性を覚えて、導いてください、護ってください、何々してくださいという受身の祈祷を完全にやめることにした。これからは、何々します、何々をしましたという能動的祈祷に変える。私自身が変わることが第一であるが、変わるにしても変えてくださいとはお願いできず、変わりますと宣言する私になることが必要だ。受身で変えてもらうのではなく、私が私自身を変えていく。思えば全てにおいて他人任せであり、出来ないことを環境のせいにし神様のせいにしてきたことに今更ながら気付いた。もちろん頭では認識していたが、密度の濃い体を通過させて私の中に落とし込むには至らなかった。この心と体の強固な境界線を越えることが出来なかった。人は普通、この境界線を認識できない。御父様が心と体の戦いを一生続けるのかと常に私達に問いかけられたけれども、信仰を持つにしても、霊界を信じるにしても、それでも見えないこの境界線を認識して打ち破ろうとするには現実の自分自身と決別しなければならない。私自身がこの矛盾を超えて存在しているのではなく、矛盾の中に存在しているのだから境界線が認識できるはずもない。新しく生まれ変わった私、重生した私という存在に比重を移して現実の自分自身と決別する必要がある。心と体の間にある境界線、実は肉体の目覚めと眠りの境にある深淵も、意識と無意識の境という存在意識の有無の深層も、さらには地上界と霊界の境にある三途の川も、心と体の境界線突破と共に開かれる。食口の中には霊的に見えたり聞こえたりする者もいるけれども、本当の霊的感性は心と体の一体化と共に開かれるのであって、そうなっていない自分が霊的に見えたり聞こえたりするのは十分注意する必要がある。何らかの霊的存在が見させたのであり聞こえさせたのであって、その正体をわからずに、見たままを聞いたままを真実とするのは実に危ない。憑依体質と霊的感性の開花は全く異なるものだ。

2015年8月31日月曜日

今日の想い 877

今記念式典を見終えたところだ。店を任せて帰ったのが7時半頃、デスクトップを立ち上げるとちょうど始まろうとしていた。一番の関心事は御母様が何を話されるのかということだったが、二部でのミュージカルも御母様中心の摂理への意欲を駆り立てる意志が感じられて非常に良かった。斜に構えれば随分幼稚で漫画チックなサタンの描写で、対外的にどう思われるだろうと感じなくはなかったが、子供を含めた皆に意識を持ってもらうにはこれぐらいでちょうどいいのかも知れない。意地の悪い私はともかく、御母様が満足そうにしておられたということの方が大切で、奮闘した二世達には心から賛辞を送りたい。御母様は原稿も用意されず、とうとうと語りかけるように話を進めて行かれた。よどみなく話される御母様を拝見しながら、御父様の意志を受け継がれた御方であることを天地が既に認めており、この御方を中心にして世界も天宙も回り始めていることが明瞭に伺えた。御母様はまさに新しい時代圏の中心核であり中心ギヤだ。中心ギヤに合わせられないギヤは空回りするだけで、御母様に合わせなければ新しい時代圏の運勢を得る事は出来ないだろう。第一は先ず2020(イーゴンイーゴン)だ。それが今までの失敗摂理で繰り返してきたように、御題目を唱えたままで終わるのではなく、それぞれが実現可能な段階目標を掲げ天に宣誓して、確実にその段階結果を報告できるものでなければならない。祈祷が結果を報告する報告祈祷でなければ祈祷が意味の無いものになりかねない、とさえ思えてくる。後天時代の祈祷も先天時代のそれとは大きく変わるべきだ。3年の期間を終えて、摂理も本格的にエンジンをフル稼働させながら進んでいくのだから、私達の意識がそれに応えるものかどうかを問われることになる。霊的に目覚めた者は御母様の大切さを十分に知るのであり、分派の穿った見方からすれば、食口達は情報が閉ざされていて騙されているように見えるのだろうが、彼等のいう事実を公開されようがどうだろうが、そんな事実に左右されない霊的位置に食口達はいる。しかしこれからは能動的にみ旨貢献への道筋を立てるべきであり、自らの責任において実績を残し報告できるようにならなければならない。この世の者達が人生設計に余念が無いように、私達はみ旨貢献への道筋に余念なく、それぞれがそれを熱く語れるほどになるならどれほど霊界は後押しするだろうか。

2015年8月29日土曜日

今日の想い 876 (聖和三周年を迎えて)

昔は、人事を受けたら三日以内に移動するように言われていた。新たな摂理路程出発のためのサタン分立三日間だ。講論にあるようにアブラハムが三日の猶予をしてイサク献祭の信仰を立てたことから来ている。よって新しい摂理の出発は常にこの三日期間を必要とした。御聖和3周年を迎えた。3年の喪の期間を超えたのであり、それは先回も言ったようにこの3年が出発の為のサタン分立三日路程だ。3日がどうして3年になるのかと問われれば今の時点では説明のしようがないが、説明できないまでも私は確信を抱いている。この3年という期間は実に混迷を極めた。それこそ暗黒の三日間だった。アブラハムがモリヤ山に行き着くまでの葛藤をそれぞれの位置で味わい超えてきた。それは別の表現をするなら先天から後天への産道であり、敢えて言うなら御父様信仰の蛹(サナギ)を脱いで御母様を通して天の父母様に向かうという新しい意識を持った自覚に目覚めることでもあると思っている。黒表紙から赤表紙の天聖経に、一人息子から一人娘に、教会の説明には無理に論理付けようとして苦しい説明になっていると思われるのを否定できないが、はっきり言うなら御父様中心の信仰から御母様中心の信仰へ、天の御父様から天の父母様へ、聖霊として母が協助して父の願いを果たすものから神霊として霊界から父が協助して母の願いを果たす父子協助へと、信仰観、世界観からして全く変わっている。それほどの意識改革が為されてこそ実体的天一国は着陸するのであり、世界を席巻する運勢圏を手にし実力を行使できるようになる。昨日食口の従業員を通して個団に責任を持つ兄弟からレターサイズの封筒を戴いた。開けてみると御母様の御写真が一葉入っていた。それをつくづく見ながら、いよいよ新しい時代圏に入っていくという感慨を覚えた。新しい時代の運勢圏は御母様と共にある。もし御父様への慕わしい想いが御母様へ向かう想いを妨げているとするなら、それは切って捨てるべきだろう。それは先天時代への執着であり、踵を返して回帰へと向かってしまう。新しい後天時代は御母様への想いなくして切り開かれることはない。先天時代の私に未練はないときっぱりと決別すべきだ。臍(へそ)の緒は切ってしまわなければならない。

2015年8月25日火曜日

今日の想い 875

救援摂理歴史は6000年ではなく何千万年だという御父様のお話はどう捉えればいいのだろうか。「6000年は嘘で実は何千万年が本当だった」と修正された話ではなく、科学が分析するところの地上時間に拠れば何千万年であって、より内的霊的見地に立って数理期間の意味で歴史を紐解けば6000年の復帰摂理歴史ということになる。6000年は復帰摂理に立った象徴的歴史であり、象徴的を代表的と捉えればわかり易いかも知れない。歴史観は様々な歴史観があるのであり、人生観も幼年期か青年期か壮年期か老年期かによって見方は異なるし、死が見えていない者と明日には死ぬとわかっている者とも異なるし、人生の流れはそれぞれで異なるのと同じで歴史の流れも歴史観によって異なる。正しい歴史観、というものがあるのかということだが、復帰摂理歴史観は神様の見地に立った歴史観であるので正しいというより代表的歴史観であることはわかる。何千万年という歴史はハルハル(一日一日)の積み上げ、すなわち足し算の歴史であり、この地上に足が立った人類始祖から続くそれぞれの跡継ぎが生まれるまでの年齢を積み上げれば何千万年という歴史になる。この何千万年分の数十年という限りなく0(無)に近い自分の存在という観点に立てば、殆ど歴史に対する自分の存在意味は流れを止めなかったということ意外なくなる。私という存在意義は足し算の歴史からではなく、象徴的、或いは代表的な私という見地を見る復帰摂理歴史から私の存在意義は生じている。復帰摂理歴史観に立たなければ死を超えて、死を主管して立てる私ではなく、死の訪れを忌み嫌い、死を恐れながら明日には踏み潰される逃げ回る虫けらでしかない。種付けしたら、あるいは子供を産んだら、ただの粗大ゴミだ。しかし復帰摂理歴史に立つ私とは神様の願いに身を賭した者達の果実であり歴史的結実体だ。復帰摂理歴史観に正しく立てば、私という存在の歴史的使命が見えてくる。生き永らえることが問題ではなく、生きてどう貢献するかが私の人生の主題になる。しかし悉く願いに応えられなかった足跡を見る限り、どう死ねば貢献できるかということに意識を割く必要が出てくる。6000年という代表歴史に何千万年という歴史が集約されているという、とてつもない歴史の重さを表現されたのが最初に記したお父様の表現だ。

2015年8月22日土曜日

暗黒の三日間の終焉?

こうなればこうなると見るのは信仰ではなく見通しだ。信仰は、こうならざるを得ないものを結果的に天の願いであり私の願いに沿うのだからああなると見るのであり、信仰が絶対である必要は、どう見てもこうなってしまうものをああなると言い切ることだ。見通しを180度変えてしまう力が絶対信仰だ。社会の流れを変える力は人間の力ではなく天の力だと思うのは正しいかも知れないが、天の力の行使は人間の信仰に依るものだ。、、と私は思っている。そう思えなければ信仰は、信仰条件は、堕落圏から逃れられないまま希望的観測を夢見て終わる夢想家の道具でしかない。私達は白日に夢を見続けて一生を終える夢想家だろうか。地上天国実現と言いながら心の奥では実現できないことを既に受け入れているのだろうか。心と体の一体化もそうだろうか。氏族復帰もそうだろうか。諦めて余生を静かに過ごすことしか意識にないのだろうか。分派といわれて歩む者達も、分派だとレッテルを貼る者達も、もはや地上天国実現の理想に霊肉一つとなって身も心も注ぎ込むほどの熱い波動を見ることはない。どこかの段階で妥協し、翼を挫いてしまった自分を誤魔化すため無意味な神学論争に意識を遊ばせている。言い負かしたところで天国建設の垂木一本ですら持ち上げたことにはならない。ただの自己満足だ。独善的だ。私達の中に50人ほどの正しい者でもいるだろうか。50人どころか10人だけでもいればその10人のためにソドムを滅ぼさないと神様は約束されたように、私達の中に10人の絶対信仰を立てる者がいるなら、その10人のために天の父母様は地上天国を実現させるはずだ。今こそ私達は絶対信仰に立つべきだ。絶対信仰の意味を悟って、砂地に水を撒くように見える事でも精誠の限りを尽くして前進することだ。小さな一つの一歩でもその一歩に命をかけるべきだ。見通しが立って靡くように立ち上がるのは絶対信仰とは言えない。どう見ても実現しようのない現実の今だからこそ絶対信仰が必要だ。御父様の聖和三周年を数日先に迎えようとしている。霊的視界を漆黒に染められてしまったように天国への行程を見失なっている。天国への見通しが立たない今こそが暗黒の三日と見るべきだ。三日を文字通りの三日と見るのではなく、原理の期間数として見るならこの3周年という期間を三日と見ることができる。御母様は混乱している教会で右往左往している食口に向かって、三年を待ちなさいと語られたようだが、その暗黒の三日を超えて、空を覆うほどの数多の宇宙船に乗った天使天軍が地上に降下する。(このブログを見続けている方にはわかるはずです。2007年2月予知夢参照)子供の頃に霊視したあの光景がまさに今このときに起ころうとしている。時々こんなことを口にするものだから穿った目で見られてしまう。しかしあざ笑う者は笑わせておけばいい。特に食口の多くが一笑に付して流し去るだろうがそれでもかまわない。かまわないけれども、実体的天一国、天国実現への絶対信仰は供えるべきだ。

2015年8月20日木曜日

今日の想い 874

天の父母様が私にとっての親であり、私は子供の親だ。私が親として子を想う気持ちがあるように天の父母様も私を想う気持ちがある。親の子に対する想いが子に伝わらない切なさややるせなさ。私は朝目覚めると同時にその想いで身を焦がし始める。その日一日身を焦がしながら魂はぼろぼろになって床に就く。次の日の朝目覚めると、昨日の魂が癒えないままにまた身を焦がし始める。来る日も来る日もそうやって身を焦がしながら、親はどこまでも親であること、子を想う熱に身を焦がし続ける存在であることから逃れられない。親は親の愛ゆえに子に振り回される。子は振り回そうという意志のないままに親を主管する。親の愛ゆえに子を主管する立場に立つためには、子を、親を想う気持ちに目覚めさせる必要があり、そこに至るまで親の安住はない。今日もとろとろと燃え続けるろうそくの火のように、身を焦がしながら子供の面影を追っている。親の愛に反応して喜びをそのまま返してくれていた頃、何の曇りも無い愛の写し鏡のように思えていた頃、そこに釘付けされた面影を追いながら逃れることができない。おそらく私に問題があるのだろう。私が間違っていたんだろう。私の想いは親としての真の愛だと思っていたけれども、それは子に愛されたい親の執着だったのかも知れない。当時はある程度の年齢を超えなければ家庭を持てなかった。同じ年代夫婦が子供の結婚話をする頃に私達は初めて子供が産まれた。親が子を育てるというより祖父母感覚でかわいいかわいいと接してきた。高齢出産がいいとか悪いとかではなく、子供の愛が育つ為には教え諭す厳しさが必要だったのだろう。今の状況に立って始めて、愛した愛は何だったのだろうかと愛が得体の知れないもののように思えてきた。親の愛は男女の愛の真偽入り混じる不可解さと比べて単純なものだと思っていた。親が子を愛するに良い愛も悪い愛もないと思っていた。しかし愛してきたと思い込んでいた愛が、現実として裏目に出るのは偽りの愛だったということなのだろうか。アダムエバの問題を超えた時点で愛の問題の峠は超えたという感覚があった。家庭をもって子供が出来たなら、親として当然の親の愛を子に注ぎ込めば道を外さない子として育つという何の不安もなかった。そこに間違いなど起こるはずもないと思っていた。しかし愛の関門は家庭にもあった。私は子に注ぎ込み、愛の実として育てるほどの親の愛を与えてはいなかった。今になって悔い改めようにも過去の時間を取り戻すことは出来ない。霊界に逝かないまでも、既に地を叩いて悔いている。これから親としての私はどう修正すればいいのだろうか。天の父母様もそんな悔悟を覚えることがあるのだろうか。真の愛の御方であればそれはあり得ないことなのだろうか。

2015年8月19日水曜日

今日の想い 873

私達は世間から見れば独善的な存在だ。独善的であればあるほど伝道は困難さを増す。しかし信仰に立つということは独善的になりやすい部分を含んでいるとも思われる。オウム真理教というカルト教団があった。カルト呼ばわりするのは社会が受け入れられない特別な信仰に対する悪と見なす判断で、私が同じように彼等をカルトと呼べば社会と同じ位置に立つわけだが、殺人まで犯してしまうとカルトと呼ばれても仕方ないだろう。日本では統一教会も同じ括りでカルト呼ばわりされているが、それは殺人はしないまでも私達の独善的反社会的な一面を見てそう思われている。高額な物品販売も、その手法も、日本社会では受け入れられないものだった。善悪を言っているのではなく客観的判断だ。それは対社会のみならず内部に於いてもそうで、有り金全部献金させるということも、借金までして献金するということも、さらには教主に結婚相手を決めてもらうということまでも、この世にしてみれば受け入れられない特別な信仰だった。未来永劫代々にまでその同じ信仰姿勢を維持し続けるのかと問われれば、ある段階に於ける摂理の願いがあり、信仰条件としてそういう期間が必要だったはずで、期間を過ぎていつまでも同じ行動姿勢を取れば受け入れられることはないだろう。期間を超えれば箍に嵌められた信仰姿勢から箍を外されるとみるべきだ。信仰条件が取られて自由を勝ち取ったとみるべきだ。受動的信仰から自由な能動的信仰を許された。先天の受動的信仰では実績への責任は御父様が肩代わりして、実際問われることもなく、惨敗の結果であっても御父様は実りをもたらさない悪い種だったと判断されて見捨てることはなかった。しかし後天時代は違う。自由な信仰行動を許されることで、確実に実績への責任を問われることになる。先天時代の様に落ちずに付いていればそれでいいという訳にはいかない。世間が受け入れ安い教会の在り方や食口の信仰姿勢を備えることで実績は付いてくるはずだと思えるのは、内的なものが主体であるにもかかわらず、外的なものを変えれば何とかなるという迎合主義に嵌っていく。もちろん外的事柄も大切だけれども、そこから入るのではなく、私達の能動的信仰の確立があってそれからの戦略的話だ。でなければカナンに入ったイスラエル民族のように迎合しながらこの世に染まってしまう。如何に私の能動的信仰を確立するか。後天時代に真の父母と一つとなり願いに応える私になれるかどうかはそこが分水嶺だ。オウム真理教はグルである教主の間違った認識によって宗教団体を殺人集団へと駆り立てた。しかし弟子達の責任は全く無かったかというとそうとも言えない。私達は特殊な宗教に絡んだ過去の事件だと見過ごすのではなく、彼等から学ぶ点がある。彼等はグルの言いなりになった。グルが問題であったのはその通りだけれども、受動一辺倒でものの言えない弟子達にも少なからず責任がある。彼等に内的成長があるなら殺人という手法手段に疑問を抱く良心の啓発もあったはずだが、それが欠けているのであれば人間としてではなくグルを頭とする手足の存在でしかない。もちろん御父母様は彼等のグルとは比べようも無いけれども、御父様が言った言わない、やれやるなの戒めへの教条主義に我々が陥ればオウムの連中と変わりないことになる。教条主義は受動一辺倒の信仰だ。能動的信仰はそれを超えて御父母様の心情を相続するところが起点となる。手法手段は心情を相続した私が決めればそれでいい。私達は彼等のように悪魔が支配する群れにはなり得ないが、先天の受動的信仰に留まれば実体的地上天国の建設は絵に描いた餅でしかないだろう。御母様の前に言葉や態度だけは素直だけれども、それで善しとしてしまったら天国建設の石一つさえ積み上げることは無い。

2015年8月15日土曜日

今日の想い 872

これが正論だとぶちまけても、独善的であれば人は受け入れない。私達が社会に少しずつ受け入れられてきたのは、み言葉を押し付けたからではなく、勝共活動や純潔運動など社会が望むものを差し出すことで少しずつ浸透することができた。浸透して初めてみ言葉を語れば注ぎ込まれていく訳で、相手の懐を開かずに、独りよがりに押し付ければ反発を買って終わりだ。私達はこの世的にも十分に苦労してきたはずだ。苦労して、人が生きるためにどれだけ辛酸を舐めているかはそれなりにわかっている。相手の閉ざしている心を開くためには同じ目線に立ち、苦労を共感することで開かれるのであって、上から目線でみ言葉を語っても、押し付けられているとしか思わず心を開くことは無い。上司として部下を指導するのも、その肩書きだけで命令しても受け入れられることはなく、やはり部下との間で共感感情を引き出す必要がある。これが正論だと言い負かしても共感は起こらず、よって一つになる道は閉ざされる。正論で言い負かすのではなく説得して共感を得ることが要求される。ブログはどうしても一方的であって、相手を言い負かすことはできるとしても双方向的にやり取りして共感を得るには至りにくい。反対派にしろ分派にしろ原理をかじった者達の教会ブログが盛んなのは一方的であるというブログ体質に合っているからだ。私達食口は原理という正論が先ずてっぺんにあるので、どうしてもその理屈で相手を押さえ込もうとする。その自覚が無くてもそうなっている。私達にしてみればそれを相手の為だとし愛とまで理解していて当然至極のことなのだが、相手にしてみれば一体何様のつもりかという感情が起こり押し付けようとされているとか裁かれているとしか思えない。原理は万民が理解し共感する原理だと思い込んでいるけれども、私達と同じように受け入れる人の層は実に限られている、ということを先ず認識しなければならない。私達の伝道が行き詰まっているのは、私達が受け入れたと同じように受け入れる人だけを相手にしているからだ。ましてや同じように受け入れた薄い層の食口達でありながらも、一つになっているとは言えないありとあらゆる分派が発生している。ひょっとしたら原理が先ず入り口だと思っていたのは我々だけで、原理を受け入れずとも御父母様を受け入れる層があるやも知れない。そうなると狭い統一村の中だけで言い合っているのは馬鹿馬鹿しく、大海に出て受け入れる層を見出して釣り上げる方が天の願いに適っている。

2015年8月11日火曜日

今日の想い 871(砕かれた期待感情を超えて)

私達は反社会的だった。親元を飛び出し、会社を辞め、献身という名の自身の供え物を捧げて万物復帰に明け暮れた。何と単純な、何と能天気な行動だったかと思えるけれども、そうせざるを得なかった明白な何かを感じ取っていた。今にしてみれば思い出せない強い期待感情を抱いていて、それに突き動かされていた。行動はもちろん主体的であったけれども、突き動かされた感情は受動的で一方的に受け取ったものだ。そしてその感情は個々人それぞれ別の感情を受け取ったのではなく、一つの感情を全体として受け取り、その同じ感情故にお互いが兄弟姉妹だ、食口だと何の蟠りもなく感じ合え言い合えた。私は6000双だけれども74年には復帰されていて、献金路線に入る直前の、最後の古き良き(?)教会時代を知っている。当時は理想を語り夢を語り、皆が同じ理想、同じ夢に酔いしれていた。移動しながらの万物復帰は既に始まっていたがまだ旅行感覚で、自然を賛美し、また訪ねる人々のうら若き青年への暖かい眼差しに支えられていた。それから奴隷船といわれるF部隊へと厳しい時代に入っていくわけだが、それでも献身に駆り立てた期待感情は地下鉱脈の静かな流れのように息衝いていた。その期待感情は何をもっての期待かというと、最大の期待は子供に対するものだった。罪のない、神性を備えた、心情豊かな祝福二世を期待していた。能力や実力に於いても秀でているはずだと期待していた。私達の信仰と祝福の価値は祝福二世をして、親を始めとする親戚縁者にも、さらに教会に反対する人も含めたこの世の人々にも、見上げるばかりに証されるものだと信じ込んでいた。が現実はというと落胆するものだった。私の描いていた祝福二世へのイメージからはかけ離れていた。それから私の何が間違っていたのかの軌道修正が始まった。それはみ言葉の本質の中の本質、核に接近するものでなければ、自分の本質である内的なもの自体が狂っていると認識しなければならないのであってできるものではなかっただろう。今ですら私の内面は正しいものとなったとは言えない。ある先輩食口の離反が物議を醸している。退会届に記された内容には私も頷けるし、退路を立っての献身の覚悟には死生決断が漲っていて、教会責任者達が彼女以上の覚悟を供えて舵取りをしているのかは甚だ疑問だ。しかし、それでも踏みとどまるべきだ。踏み止まって内部に於いてその覚悟の声を発するべきだった。内部であれば暴露しようが何しようが暴れるだけ暴れても問題はないはずだ。何がどう転んでも御母様のもとを離れるべきではない。退会届にも遠慮勝ちに記されてはいるが、御母様への不信が大きな要因となっている。御母様に対する不信が無ければ直訴すればいいだけの事で離れる必要など全くない。御父母様は一体圏にないから御母様はみ言葉と伝統を覆されたと取るのか、一体圏にあられるからみ言葉と伝統を覆されたように受け取れる事も敢えて為されたのか、私は後者の立場だ。変えるなと言われたみ言葉を覆されたように見える赤表紙や、御父様に対抗するかのような独生女宣言も、それ自体が御母様が願われた最後の目的ではないはずで、天の悲願であり御父様の悲願でもある地上天国実現を為すための布石として、御父様と一体圏にあられる御母様の責任に於いて為されたものだという認識を持っている。御父様を超える反感を買うほどの強い意志がなければ、御父様の地上に居られない状況で、霊界からの御父様の指示待ち指示受けで動くような霊能者感覚で天国が為されるとはとても思えない。敢えてここでも言いたい。天法に一つでも引っ掛かれば天国には行けないが、そこには秘法があって天国を築いた者は天国の住人になる。自分が信じたいものを信じたとして、どれだけ清廉潔白に生きたとして、地上天国が為されなければそれは何の意味を持つのだろうか。自己中心的信仰、良心に思える自己中心的善悪判断に終わったと切って捨てられる。少なくとも御父様の地上に居られる間は実体的地上天国は完成されなかった。実体的な意味でどれだけ進んでいたのかと問うても誰も答えられないだろう。ならば私は御母様にかける以外ない。環境創造という御母様の言葉は天国実現への道を肌で感じる。天国への期待感情に酔いしれていた当時を振り返りながら、懐かしくもそこに留まるのではなく、私達は天国を実現して、少なくとも地上天国実現の道筋を立てて、天国の実体感情を味わわなければこの道にかけた人生が流れ去る。

2015年8月9日日曜日

今日の想い 870(ホームランド広島、そして真の平和)

被爆国の国民として、広島県民として、原爆の真実を全世界に知らしめる責任がある。それは尊い犠牲を目の前に並べて生き地獄の恐ろしさを伝えて果たせるものでは決してなく、平和の本質的な意味を伝え、真の平和の実現を見てこそ果たせるものだと言えよう。私は敢えて真の平和と言葉にすることによって、蔓延している言い古された平和が不安と恐怖の上に成り立ち、それは多分に人間の弱さ、無力さを根底で是認する唯物主義、人間も他の動物と変わらない動く物だという唯物観から来ているのであり、その偽りの上に成り立っている偽りの平和と敢えて線を引きたい。人間は肉の存在ではなく霊と肉からなる精神存在だという観点に立たない限り、犠牲とただの被害を混同させてしまって尊い犠牲を捧げた者達を総じて被害者で括ってしまう。彼らは被害者ではなく人類の真の平和の為に選ばれた聖なる者達だ。彼らの精神の高み、霊的位相の高さは見上げるばかりだ。私は投下された後の広島の映像を見て、これはゴルゴダの丘だと思わされた。原爆の象徴として残された産業奨励館、原爆ドームはイエス様の茨の冠そのものだった。瞬時の強風にほとんどの鉄筋は薙ぎ倒され瓦解の荒野と化したけれども、産業奨励館から東へと映像を追えばどうしても目に止まるもう一つの建造物がある。鳥居だ。茨の冠を被るイエス様の象徴が先ず目に写り、ユダヤ民族、ユダヤ教と大きく関係する神社の鳥居がその象徴として居残り立っている。瓦礫と累々たる死体の荒野に立つこの二つの建造物は、犠牲を供えた者達の魂の集結だ。長い、気の遠くなるような復帰摂理の歴史に供えられた選民達の犠牲、さらにはキリストであるイエス様の犠牲を始めとするクリスチャン達の犠牲、そうして彼等が果たさなかったことに対する戦争や原爆の犠牲、その夥しい犠牲の全てを一瞬で表現しているのが原爆投下による広島の光景だ。犠牲の地上的表現は血と汗と涙を流すことであり、それは人間の肉心としては避けたいことだけれども、血と汗と涙を流し去ることで勝ち取るものがある。それこそが真の愛だろう。真の愛という言葉を差し出されたのは再臨のメシヤである御父様だが、御父様ですら真の愛の前には跪かれる。真の愛を求めるならば必然的に犠牲を供えることを良しとしなければならないが、流された血の悲惨さを見るのではなく、流されることで真の愛を勝ち取り霊的高みに昇華する経過を見るべきだ。その認識がない限り、真の平和は掴めない。犠牲を供えることで真の愛は立ち、真の愛の地上化が真の平和であって、戦争の悲惨さをどれだけ訴えようとも屍が屍だと認識している限りは平和の本質には近付けない。恐怖政治ではなく恐怖平和だ。

2015年8月3日月曜日

今日の想い 869

真の父だけではなく、真の母だけでもなく、真の父母一体圏を立てるためにどれほどの犠牲が供えられてきたか。そこに思いを馳せなければ、御母様の為されることは御父様の言われたことと異なるとか、御母様の公的言動に疑問を抱かざるを得ないとか、沸き起こる否定的思いに主管され、祝福血統という心情的血筋から自分を切離してしまいかねない。犠牲は御父母様は勿論のこと、背後に累々と積み重ねられてきた人類歴史の全ての犠牲もこの真の父母一体圏を立てるために供えられてきた。真の父母は一体であるという言葉と、あれもおかしい、これもおかしいと思えてしまう内面の問答の言葉のどちらが重みがあるだろうか。一日に何千回何万回と来ては逝く儚い思いの一つ二つを取り上げて、真の父母一体圏に波風を立てようなど恐れ多いと思わないのだろうか。先ずその頭を切り落とすべきだ。現代人の最大の問題は頭が過剰に大きくなってしまい、利己的感情を頭を働かせることで正当化している。論理があって感情があると信じているけれども、本当は逆の様相だ。感情という己の気分を害したくないという執着が堕落人間にはあって、その為にでっかい頭を働かせ論理として組み立てる。そして見事な言い訳を立てて本質的自分を霊的に殺している。本質的な自分、重生した自分は真の父母一体圏なくして存在し得ない。真の父母一体圏に疑問を抱く限りは堕落圏を越える霊的に生きた存在とはなりえない。祝福を既に受けたから私の原罪は問われず重生された新しい私が存在している、という感覚は、自分が地上の歩みを通してなされる様々なる復活体験に支えられているはずで、復活実感がないにもかかわらず、私はあの時祝福を受けたという時間感覚と、理解した原理的解釈にのみ支えられている限りは仮祝福でしかない。説明に言葉を並べようとすればどうしても論理に頼らざるを得ないが、祝福を戴いているという恩恵は肉を超え霊を超え天宙一体圏の恩恵であることは論理で説明できるものではない。み言葉はその言葉が入り口であって、その本質の世界を訪ねなければみ言葉の生命には届かない。真の父母は一体であるという言葉がなければ、私は祝福を受け重生した自分であるという言葉はない。さらに戴いた祝福も数段階にわたり、その段階の復活体験と復活実感がなければ?マークの連続で、真の父母一体圏を否定する者はその域に入っていこうとすらしない。

2015年8月1日土曜日

今日の想い 868

8月に入った。新しい出発だ。先月、エアコンのパイプが壊れたか何かでカーペットの下を水が這い、表面にも浸透してきて濡れるやらかび臭いやらで大変だった。アパートのオフィスからカーペットの張替えをするから全部移動させるようにと言われたが、これだけの荷物をどこにどう移動させるのかと問うても肩をすくめるだけで返答はない。こちらでは無理難題を要求されることは良くあることで、憤慨を抑えて交渉しないと埒は明かない。で、結局交渉の末、同じ建物の他の部屋に移ることになった。今度は南向きだし、ベースメントから二階に移ったので湿気も無く生活環境は向上したが、一緒に住んでいた下の娘が飛び出してしまった。すねかじり状態だったから独り立ちするためには良かったといえば良かったのだが、送り出すのではなく飛び出したのにはそれなりの理由がある訳で、晴れ晴れとした気持ちにはなれない。これから一悶着、二悶着とあって亀裂は修正されず続くだろう。本当はこの年代なら祝福も受け、家庭も築いて孫を抱いていてもいいのだが、思い描いたような家庭理想はそう簡単には実現しない。正直をいうと家庭地獄の状態だ。家庭ですら地獄なのに氏族を復帰するなんぞ失笑ものだが、それでも希望を捨てずに前進するしかない。絶対信仰で乗り切るしかない。家族は当然一体だと思っていたし、私が親に対して抱いていた尊敬の思いや感謝の思い、さらに親を畏れる思いも、私という親に対して子供が同じように持つものだと思っていたが全くの当て外れであった。父権の強い一昔前の家族のあり方は今は無い。食っていける感謝、生活できる感謝から、今では逆にうるさい親などいない方がいいとまで思っている訳で、父権の力を見せ付ける前に親の愛を見せ、愛ゆえに繋がる家族だという認識を共有できなければ家族はバラバラになる。今の時代愛して一つになるという強い覚悟が必要だ。ある意味家族一体でなければ世間を泳ぎきれない生活環境があって、形として自ずと一つになっていたのに比べ、今は愛の強さがなければ一つにはなれない。愛と真の愛の違いは何だろうかと悠長に問えないほど、実践としての真の愛の投入を要求されている。

2015年7月28日火曜日

今日の想い 867(原爆記念日)

この7月もあっという間に過ぎ去っていく。そしてまた8月6日の原爆記念日がやってくる。今日までの人類歴史の中で、これほどの瞬間的な人為的殺戮は類を見ないだろう。犠牲になった20万の魂は、棲家の肉体を奪われ、暫くその行き場所を見つけられずに地上をさまよっていた。身に降りかかったこの運命の意味を納得できなければさまよい続けるしかない。起こったことが人為的であれ自然的であれ結果に対する原因があるわけだが、人間が外的科学的原因を問うのではなくその運命の原因を問うのは内的霊的存在として当然のことだ。蕩減法によるなら身に降りかかった結果の原因は自分の中に見出せるだろう。しかし、愛する者を苦しめられ奪われた近親や被害者本人にしてみれば、蕩減原則によってこうなると、自分で見出すのでなく運命の支配者に告げられるなら、それは断罪されることであり、そこに愛の神も慈愛の仏も見いだせなくなってしまう。しかし犠牲になった者達がその恨みを膨らませて悪霊になるわけではなく、事実は自分の犠牲をしてどのように人類の救いや幸福に貢献できるかを模索するようになる。これこそが人間が運命の裁き主の支配を超えて、自分という存在は神様からきた存在であることを証している。運命の結果にどれほど抗おうとも、否定しようとも、後ろ向きの意志のベクトルではますます自分を悪魔の手に委ねることになるが、私の霊と魂の昇華はより全体の為に、より未来の為に、如何に貢献できるかという前向きの意志のベクトルによってなされる。犠牲者への追悼にはその配慮が必要であり、苦しかろう悲しかろうではますます彼らを地獄へと貶めることになってしまう。私はあの平和記念館が大嫌いだ。冷たいコンクリート打ちっ放しの建物もそうだし、足を踏み入れればホラー紛いのマネキンやおぞましい写真が陳列されていて、恰も彼らを地獄に閉じ込めて囲っているようで犠牲者に対する何の敬意も感じられない。愛によって平和を築こうとするのではなく、恐怖と不安によって平和を築こうとしている。それは平和とは名ばかりの偽りの平和だ。死んでしまってその存在を無にした唯物的見地のみで展示されている。犠牲者を慰労しているようで実のところ彼らをとことん貶めている。地上ではピカドンで肉体を溶かしたけれども、天上ではその犠牲的精神となって光を放つ存在になっている。彼らの放つ光が核の抑止へ、平和への意志へとなって働いている。私が復帰された当初の広島教会は原爆ドームの近くの正に爆心地に建っていた。確かに当時は様々な悪霊現象も起こったし、ただならぬ圧迫感から犠牲者達の恨みを感じ取ることもできた。しかしたまに帰省して訪れる今の広島の町は実に明るい。光り輝いている。蕩減的穴埋め感情から責任分担的創造感情を肌に受け取る。

2015年7月22日水曜日

今日の想い 866(一体とは)

一体であられる御父母様からすると、御子女様達をどう見ておられるのだろうか。反旗を立てたり、御母様を批判されたり、普通の認識からすれば異常に思える。御家庭に於いてひとつになることを示されねばならないのに、ひとつになるのではなく逆に離れている。御父様の一体という概念と、私達の描く一体という概念が180度異なるのだろうかと、今の御家庭の現状に蓋をして当たらず触らず無視してそれでも一体を言い続けるのかと、御は誤であったと早々に決着をつけて信仰を捨てるのかなど、私達の内面に於ける葛藤はかつて無いほど激しさを増している。御父母様に対して御子女様達がそうであるように祝福二世達も一筋縄ではいかず、親としてどう捉えて対処したらいいのか、教育の失敗なのか親の条件の無さや不信仰からくるものなのか、一体圏という言葉に溜息が出て虚しさを覚えるほどに内面は焦燥しきっている。私達は一体という言葉を意志の言葉として捉え直さなければ、落とし穴を益々深くして身動きが取れなくなる。私自身も相当に悩んだ。今現在も悩み続けている。み言葉によって救われた喜びと感謝が大きければ大きいほどに、子供のみ言葉離れは親の地獄だ。天国に行くつもりが生きて地獄に落ちている。御父母様が御子女様達をどう見ておられるかと私達が祝福子女達をどう見ているかは異なるにしても、親の思うようにはいかない現状はどちらも同じ状態としてリンクしている。一体という言葉を意志の言葉として捉え直すとしたが、御父様が一体という言葉を使われるときその言葉に裏付けられている心情を見なければ、御父様と同じ概念とはならない。一体という言葉に隠されている神様の心情、恨を見るということだ。父子一体とはかけ離れ、堕落して手の届かないところに行ってしまった耐え難い心痛を見るということだ。一体という言葉をイメージとして知で捉える限りは一体になっていないことへの裁きが襲い掛かるが、意志として捉えると神様の耐え難い心痛を同じ親という位置で味わい、一体への道を神様と模索していく、神と共に歩む自分を見出せる。長男の御子女様はあれほどにハチャメチャな生活をされながら、しかしその晩年はというと内面に於いて誰よりも御父母様を思われ、愛され、御父母様の心情を汲まれている。霊界では天国の門を主管する位置におられるほどで、それは犯した外的罪で裁かれるのが霊界ではなく、霊界は培った心情世界であることの証だ。おそらく子女は親の信仰観や世界観を超えたところにいて親からは理解できない。親の器では測れない観を担って生まれ出でたのかもしれない。またそうでなければ天地の発展と更なる創造はないのだろう。自分自身を裁きの目で見るのでもなく、子供を裁きの目で見るのでもなく、そこに味わうべき心情があり、気付くべき心情があり、天からの心情相続、そして子女達への心情相続それこそが一体圏だ。そしておそらく御子女様達も御父母様の理解を超えている。しかし御母様は子供達の帰ってくるのを信じておられる。理解を超えているけれどもそれでもただただ信じておられる。とても一体とはいえない現状をして御父母様への信仰を揺らすのではなく、真の愛でもって、犠牲的愛でもって家庭一体圏への道を歩まれる並々ならぬ御母様の意志を見て、私達は御父母様への信仰をさらに強固にすべきだろう。御父様の一体という言葉は、ひとつになろうとする強固な意志に貫かれた言葉であって、仲のよい家族爛漫のイメージを描かせて一体という言葉を口にしてはおられない。

2015年7月21日火曜日

今日の想い 865

一日一日が飛ぶように去っていく。遅れをとるまいと遮二無二に付いていこうとするけれども、去っていく日々を数えるので精一杯の状態だ。あらゆるものが変革されていく。関心のある事柄にのみ意識が釘付けられていると、天地一体圏に合わせるように変革される世界を見届けることはできない。そして消えゆく世界から新しく現れる世界へと、それに合わせて自分も変革されるべきなのに、消えゆく世界に足場を置き続けている。先天のその世界の消失と共に、そこに足場を置いていた自分も消え失せていく。御父母様が開いてくださった新しい後天開闢時代は、天が主管する全く新しい世界だ。そこは天が主管する時間が流れ、天が主管する空間が広がり、天の意識としての新しい光が満ちている。新しい天地の到来は新しい神様としての「天の父母様」の到来とも言える。先天の堕落圏に柵(しがらみ)を持つ旧来の世界認識は通用しなくなる。その認識からすれば全てが破壊されていくかのように見えるけれども、実は変革している。天地一体圏の後天時代にふさわしい存在に昇華(アセンション)していく。食口であっても同じことだ。信じていたものが悉く壊されていく。培ってきた基盤、それが信仰基台のようであれ実体基台のようであれ、内外の土台が全て崩れ去っていく事態に直面する。しかし後天開闢の新しい意識からすればそれは壊されていくのではなく新しい世界の孵化が始まっている。いろんな問題が生じ、そこに責任を責任者に追求してみたり、旧来の世界認識、既に寸法の合わない秤で善悪判断をしたりと焦っているけれども、天暦の暦(こよみ)でもって後天時代の時代精神に合わせなければならないように、新しい意識の光による新しい認識で物事をみなければならない。私達は地上という胎の大きな変動を経験している。そして堕落圏であった地上から天の父母が主管する本然の地上天国が創出される。堕落圏に住んでいた者達は、意識の産道を潜り抜けなければ新しい世界を見ることはない。その先導役は御父母様であり、御父母様の分霊を頂く神宗族メシヤ達だ。私達は個人の救いを標榜する為に導かれたのではなく、氏族の救い、民族の救いを買って出たものたちだ。その使命を真摯に受け取り、成就させると決意覚悟するならば必然的に御父母様に従わざるを得ない。御母様がおかしいだの、協会幹部達の汚職だの、もしそんな問題が解決されれば氏族復帰が大きく進み、氏族を引き連れて地上天国への産道を抜けることができるというならその追求を勝手にすればいい。しかしそういう者達は霊界がわかっていない。救いの何たるかがわかっていない。今の時がわかっていない。好き放題言葉を駆使して批判して、そんなのは道楽に過ぎない。絶対信仰ではなく道楽信仰だ。

2015年7月20日月曜日

今日の想い 864

全ての存在は相対的関係で存在している。霊界は主体であるけれども地上世界との主体対象関係で存在しているのであって、霊界を創造されてそれから地上世界を創造されたのではなく、霊界と地上界を対で創造された。表を作れば裏ができるように、霊界を創造するということは対象としての地上界を創造するということだ。真の父母という言葉も真の父が立つためには一方で真の母を立てることは必然であり、真の父として立ち、それからおもむろに真の母を立てるということは存在定義として原理上矛盾している。真の父は勝利されて完成完結完了されたけれども真の母は失敗する可能性、否、失敗されたことを訴えておられるが、真の父母は対であって片方が勝利されて片方は未だ勝利の途上にあるなどと言う言い方も矛盾している。御父様を愛しておられるように御母様を愛しておられることは重々承知しているけれども、御父母様一体を否定されるのはどうかと思う。三男の御子女様がそうであるように、七男の御子女様の問題もカインの子女としての祝福家庭がその責任を全うしていないことが現実の背景にある。カインの立場でアベルの立場である御子女様達を一方的に非難するのはカインアベルの原則を否定して悪魔の片棒を担いでいることと同じだ。では言い分の異なるそれぞれの御方に付いてしまえばカインアベル一体かというとそれも違う。あくまで御父母様の願いを中心として一体になるべきは当然だろう。真の愛が関係性に関与する為には、地上人間が先天的な愛の秤では首を傾げるような現実が起こり得る。事実起こっていて、食口ですらそこに真の愛の関与、すなわち天の関与が関係しているなどとは到底思えないだろう。御父様が聖和されて、全てが混乱し全てが破壊されていると思っている。もちろんこの状況で何の心配もないと、能天気に過ごすことが食口のあるべき姿勢だとも思わないが、御父母様の勝利圏に対して疑いを抱くような姿勢では立つものも立たず働くものも働かない。御父様の勝利は御母様によるのであり、御母様の勝利は御父様の勝利によるもので、その一体圏を否定すれば重生祝福などあり得ない。祝福家庭などあり得ない。御子女様ですらあり得ない。

2015年7月19日日曜日

今日の想い 863

日本は安保法案を巡って長く塞いでいた腫れ物にでも触るかのような態度を示し、国民皆が感情的になっていて議論の余地すらないようだ。左傾化してしまったメディアが焚き付けるからだとばかり思っていたが、意外とそれだけでもないらしいことがわかってきた。軍隊だとか兵器だとかのみならず、戦争を連想させる言葉は悉く忌み嫌っている。阿部首相が国民の理解を得ているとは言いがたいと吐露しているが、今日本国民が安全保障の議論ができる状態には全くなく、悲観的イメージばかりを膨らませるだけ膨らませて、安保トラウマ、戦争トラウマという病に、正確にいうと安保関連の言葉へのトラウマであり戦争関連の言葉へのトラウマに日本国民全体が侵されている。国民当事者からすればその異常さを正常だと思い込んでいるようだが、他の国からすれば全く理解できない日本人の姿がそこにある。自国を守る為に必要な外的武装、その為の安保教育という内的な武装も必要だが、敢えて構えるかの如くに服を着こなす必要はなく、最初から裸であれば挑発することもないと信じきっている。裸だから今まで平和に暮らしてこれたのだと信じきっている。これを洗脳と言わずに何と言うのだろう。洗脳されて魂を抜き取られている。日本人に備わっていた大和魂を再び取り戻すにはショック療法しかないということなのだろうか。日本は他国を侵略した侵略したと、気が滅入って魂が抜き取られるほどに自国民を苛め抜いてきたが、逆に侵略されて恨を覚えてやっと大和魂として奮い立つのだろうか。今の日本に魂と呼べる精神的支柱は立っていない。飼い殺しに慣れてしまって自分の主体的意志もなく、まわりに合わせて主張する色合いをなくした受動的家畜国民では国の形は定まらない。国の輪郭への認識もない。竹島が占拠されても感知せず、尖閣の周囲を中国船が堂々と旋回しても感知せず、もはや北方領土への関心すらない。これでは御父様が予知されたように、日本が5つに分けられて占領されても不思議ではないのかも知れない。主体的能動的でなければ精神的支柱は立たない。それは私達日本食口に対しても同じことが言える。対象的受動的な信仰観から主体的能動的信仰観に脱皮しなければ裸のままで、いつ何時食われてもおかしくない。

2015年7月15日水曜日

今日の想い 862

東の果てにある一人の男性と、西の果てにある一人の女性が、一体となるということは並大抵のことではないだろう。体の凹凸は簡単に埋められて肉体的には一体になれるとしても、内的な凹凸を一つにしようと思えば大変な精神的作業がお互い必要になってくる。それでも忍耐しながら、許して愛しながら、夫婦として添い遂げるとすれば、目には見えない内的凹凸の一体圏、神様から見れば陰陽授受作用の存在様相として、次元を上げた存在として、神様の新たな一つの対象存在になる。神様と私という主体対象関係から、神様と一体夫婦という主体対象関係になる。そうなると神様も私個人の主体と同じ主体ではなく、位相を上げられた神様という主体になられる。一体夫婦の主体として立たれる神様は、天の父母様としての主体だ。一体夫婦にならない限りは天の父母様という概念は個人の中にはない。神様が天の父母様になられれば一なる御方が二なる御方になられるのかというと、一体夫婦で一つであるように天の父母様で一なる存在様相だ。神様が結婚される、という誰も思いもしない驚嘆する概念をどう理解したらいいのかということだが、御父母様一体圏を勝利されて、それゆえに夜の神様から、今日までの人類歴史を通して秘密にしておられた神様の結婚という内容を示されたはずで、或いは既に知っておられたけれども勝利されるまで私達に伝えられなかったはずで、私達が一体夫婦を標榜して氏族圏へと展開するとき、氏族として一体である家庭達の中心は御父様よりは御父母様となる。御父母様の中に天の父母様が認識できる。、、はずだ。よって神様の結婚、天の父母様という概念は、個人から家庭ではなく家庭から氏族という氏族復帰を念頭に置いて成り立つ概念だ。個人の救いの神様は家庭を立てる、家庭の為に犠牲になるという過程で個人を救われるのであり、家庭の救いの天の父母様は氏族を立てる、氏族の為に家庭が犠牲になるという過程で家庭を救われる。

2015年7月13日月曜日

一なる唯一神と二なる二性性相の神様

「唯一神が存在する」という言葉と、「存在は授受作用による」という言葉は平面的に見れば矛盾している。なぜなら存在が授受によるなら、存在には主体対象という二つの概念が既に含まれているからだ。唯一神の存在は本性相と本形状の授受作用によっている。一なる存在と存在するための二つの概念が矛盾しないのは次元を超えた見地に立っているからだ。次元を違えて、すなわち平面的ではなく立体的に捉えることで2が1になり1が2になるという理解は当然のことだ。原理と御父様のみ言葉が矛盾すると感じるのは、異なる次元について語られているからであり、霊的無知状態にある私達の限界がそこにある。無知である自分を棚に上げて、平面的尺度で原理と御父様のみ言葉の矛盾、さらには御父様の言質とそれに対する御母様の反逆的言動、などは平面的にしか捉えられない私達の理解の限界を晒している。唯一神と天の父母様をどう捉えるか、黒表紙と赤表紙をどう捉えるか、真の家庭の理想と御家庭の現実をどう捉えるか、全ては私達が平面的次元に留まる限りは理解できず、御父母様の願いに対して背を向けてしまう食口が多くなる。反対派もいて分派もたくさんいて、御子女様それぞれに旗を掲げる。そう捉えてしまう次元を糾合できる新たな次元に立たない限り、正分合が正反になり、合が正しく合になり得ないだろう。今の現状を見て反ではなく分だったと近い未来に言えるとすれば、そこに心情の働きが必ずあるはずだ。アベルとカインが一体化するのも、夫婦が一体化するのも、そこに一つになって欲しいと願う心情を見出さなければ分離した分ではなく相反した反になる。そうなると堕落したという事実を認めるなら、唯一の創造神が地上世界を創造してそれで創造理想が完遂された訳ではないということは理解できるし、創造神たらしめた心情が創造神の次元を超えてあり、その心情を中心として創造理想が完遂されると理解できるのではないだろうか。その心情の起点が夜の神様であり、そして創造神は昼の神様という概念が成り立つ。



2015年7月8日水曜日

今日の想い 861(基元節を超えて)

基元節は真の父母様の天一国即位聖婚と私達の天一国入籍祝福が為され、実体的天一国始動として天宙史に刻まれた天歴1月13日を言う。この日に地上天上天一国が開門された。あの基元節は一体何だったのかと未だに不信し疑惑を持つようであれば、その不信と疑惑で今までの歩みを穿った見方で、あるいは現実を穿った見方で判断してしまう。そうなると天一国に仮にも入籍を許されながら、しかしその門から出て離れてしまうという愚行を働いてしまう。もちろん氏族メシヤとして勝利した訳ではないから、門の辺りを出たり入ったりしているような状態で定着地を持つに至ってはいないが、それでも不信と疑惑で踵を返して遠ざかっていくよりはましだろう。この地上のどこに天一国があるのかと、国もないのに開門が聞いて呆れると、しかしみ言葉を正しく受け入れた者は天一国への正しいイメージを持ち、それは御父様の描かれるイメージから来ていて、御父母様との一体圏の核に近づけば近づくほどその実体的天一国イメージは輪郭を明瞭にしていく。現実化はしていなくても地上天国天一国の実体化はされていて、それを否定するならイエス様の霊的勝利圏による霊的御国と変わりないということになる。私達は基元節以降天一国生活、地上天国生活に既に入っている。いまだ堕落性も抜け切れず堕落観念に浸っているから、意識改革の途上であって先天時代と変わらない認識でいるが、認識の程度に拘わらずそれでも御父母様を中心として天国生活をしている。地上では御母様との心情的距離がその認識を深め、地上から見る霊界では御父様との心情的距離が霊的認識を深めていく。認識は後から付いてくるものであって、認識を問うて天国なのかどうかを見るのではなく、私の意識が御父母様の住まわれる天国生活から発せられたものなのかどうかを問わなければならない。先天の地上生活から発せられていた私の意識のままであっては新しい革袋を用意しているとは言えない。御父母様の意識と私の意識がリンクしなければ天国生活を認識できない。私の意識が変わればあらゆる出来事の中に既に堕落世界の側面とは異なる地上天国と関連する側面が見えてくる。自分の目が御父様の目だと思って見る。自分の耳が御父様の耳だと思って聞く。自分の手が御父様の手だと思って触れてみる。自分の思考が御父様の思考だと思って考えてみる。自分の感情が御父様の感情だと思って味わってみる。そうすると見えなかったものが見えてくる。聞こえなかった声が聞こえてくる。御父様が私の体や心を使って生きて働かれる。御父母様と常に共にあればこの地上世界は天国に違いない。






2015年7月4日土曜日

今日の想い 860

連邦最高裁は同性婚を認めてしまった。これによってまだ認めていなかった13州も認めざるを得なくなった。共に歩む兄弟は当然の如く判決への批判に泡を飛ばす。み言葉では同性愛を認めていないので批判を口にするのは当たり前のことだが、批判を口にするだけで彼らが救われる訳ではない。彼らが救いの圏外にあるなら批判という一方通行でいいのかも知れないが、彼らとて私達と同じように救われて祝福を受ける人類に含まれているなら、批判を口にするだけでは天の願いに応えていることにはならない。一つには彼らが好きで同性愛者となっているのかというとそうではなく、生まれながらにしてそうなっていたという場合が多い。生まれながらにということは宿命である可能性が大きいということだ。私が男であることが宿命であるように、男であるのに男に惹かれてしまい、女であるのに女に惹かれてしまうように生まれついたことも宿命とは言えないだろうか。だからと言って同性婚を認めている訳ではないが、ただの批判に終始する限りはみ旨の願いに応えているとは言えない。御父様が少し触れられたのは、血筋の過去の近親相姦が原因となって同性愛者が出てくると言われたことがある。その蕩減原則がどのように働いてのことなのか定かではないが、父と娘、母と息子という関係性には既に縦的一体圏にありながらも、敢えてそれを分離させて陽と陰という横的相対圏に無理して立たせるという暴挙は創造原理への挑戦であり、それが同性愛という血統の崩壊という創造破壊を誘発させるものとなって子孫に表れるのではないかと仮定できるが、よくはわからない。本来反発しあう陽と陽、陰と陰の性であるのに求めるのは不自然であり異様であるが、特筆すべきは彼らが知的である場合実に知性に溢れ、情的である場合実に情に溢れているということだ。知的な意味でも情的な意味でも補佐役とすれば完璧だ。その気のある従業員がいたが客からの好感度は抜群だった。私を支えてくれて彼女に天使を見る思いがした。御父様は以前、天使には相対がおらずやがては相対として与えなければならないと話されたことがある。天使は霊的存在であり、御父様が神様の相対を地上から用意されたように天使の相対も地上から用意されるのではないかと思ったことがあり、私にはひょっとしたら、、という彼等に対する感覚があって、その感覚は今でも否定できない。それでも同性婚の国の認可は決して認められるものではなく、その感覚をしても天使を認める以前に人間の位相を否定することになりかねない。

今日の想い 859

御父様の口からみ言葉が溢れ出るのは、み言葉が生きて活動している次元におられるが故だ。三次元世界の世界観では見通せない、まさに高次元、更に多次元にまたがり自由に往来しておられる。霊界に上られた御父様だが、私が死なずとも生きてお会いしようと思うならば、三次元を超えた世界観を持てばお会いできる可能性は十分にある。み言葉は確かに霊的なみ言葉だけれども、地上の時空間概念という位置から離れない限り、霊的という意味すらもわからない。地上の位置から霊界の事実は象徴的にしか捉えられないのであり、まして霊界を見通すことなど地上意識のままでは無理だ。意識があって認識できるのであり、地上意識のままだと地上的認識でしかない。霊的感性の未熟な私達の霊界認識も多分に地上的認識であって、それは天宙を包括する多次元を見通せる位置で認識する霊界の地上意識面への影でしかない。御父様は全生涯を通して公的に生きてこられた方であり、人類と神様に供えられた血と汗と涙の精誠が次元の壁を壊されたのであり、私達の意識を三次元の枷から解放して下さる。誰の為でもない私の為に流された血と汗と涙であることを実感できれば、御父様の世界観、天宙観を受け取れる心情圏の核に到達できる。御父様の世界観、天宙観こそが真実であり、その真実からすれば、私を取り巻く地上の現実は実体をもたない影に等しい。現実が私を取り巻いていると思っているけれども、私が相対する霊的世界の表象として、写し鏡のように現実を見ている。私の偽りの本質が現実を見せていると言ってもいい。現実は影で私の内的世界こそが実体だ。後天時代は先天時代の世界観が反転する。内面世界が生きる現実になり今までの様に外界に重心を置いて生きることはなくなってくる。私達は三次元の世界観を超えていく。外界が変わりながら内界が変わっていくのではなく、私達の意識が変わることで先ず内界が変わり、それによって外界も意識の光が新たな認識、新たな文明という光の表象となって変わってくる。御父様と同じ世界観、天宙観に立てないのは、私の意識が御父様と同じ心情圏の核から発せられたものではないからだ。

2015年7月2日木曜日

今日の想い 858(批判のみに集中する受動的信仰)

教会幹部や責任者、教会長に対する批判が目白押しだ。口角泡を飛ばす批判ブログに目を通せば、先天のカインアベル観べったりの受動的信仰から抜け出せない彼らの甘えが見えてくる。批判の意識にはみ旨に対する自分の責任がありながらも、そこに蓋をしてしまって、位置につく者への責任転嫁で自分の責任を軽くしようとしている。一言あるなら直接中心者に話してこそ解決ができるのだけれども、日本人としての体質が中心者に対してものが言えない状況にさせている。その中心者も更に上に対して同じようにものが言えない状況にある。しかしものを言わないことが絶対信仰でないことは明らかなのだが、それでも口を開かないのであれば信仰に名を借りた自己抹殺だ。自己否定は堕落的私を否定するのであって、私自身を亡き者にするのは自己抹殺だ。霊的自殺だ。先天時代は良しとして、ものが言えない状況で言われるがままに歩んでいた後天時代のここ数年、その状況で自分がどれだけ内的に外的に成長しただろうか。全部捧げてもそれでも願いからは程遠い状況では、外的に実力を備えることは困難だということは理解できる。しかし内的にどれだけ心情を復帰し、より御父母様との心情因縁を築いたかという点についてはどうだろうか。内的な成長もない、外的な実力もつかない、それで奇跡を信じ天運の到来を期待しているなら雲に乗ってくる再臨主を待ち望むのと何ら変わりはない。私達が期待しているような奇跡は天地が逆になってもおこらないし、天運を期待している時点で自己責任を逃れようとしている。この生殖器が罪を犯すのだけれども、生殖器を取ってしまったら元も子もない。それと同じように、ものを言いたいけれども言わなかったというならまだしも、去勢されてしまって言いたいことがあるという精神を失っているのであれば唯識ことだ。御父様は私達に氏族メシヤの位置を与えてくださった。氏族メシヤの権限と言い換えてもいい。更に私達は真の父母の名ではなく自分何某の名で報告祈祷をしている。天に通ずる直接のパイプを持っているということだ。それは中心者に対して物申す権限など当然含まれている。物申して聞く耳持たずならそこの教会に留まる意味を再考した方がいい。教会に留まらずとも氏族伝道もできるし、家庭単位の祝福権限は与えられていて問題ない。絶対信仰は先天時代の受動的な姿勢では絶対成り立たない。兄弟一人残らず能動的信仰を備えるべきだ。

2015年6月19日金曜日

使命感

復帰された当時は燃やすべきだった使命感だが、今となってはそれは実に曲者だ。食口それぞれに復帰された内的過程は様々で、ある者は知的に、またある者は情的に引っ張られて摂理の願いに応える存在になっていく訳だけれども、全体の一細胞として前線で戦う為には知的情的よりは意の部分を突出させなければならない。それが使命感だ。み言葉を深く理解していようがいまいが、愛があろうがなかろうが、そんなことよりは使命感だ。切羽詰まった摂理の要求に応えるために、行動することの方が何よりも最優先させられた。やれと言われたことに即座に反応する姿勢は、一世達の多くが培われた在り様だったけれども、行動そのものに理想への展望が備わっていた訳でもないし愛が備わっていた訳でもない。使命への熱い想いだけを燃やして力となり摂理を進めていった。しかし今要求されているのは環境創造であり氏族復帰だ。それは使命感だけで達成できるものではなく、み言葉理想への深い理解や真の愛に繋がる愛の人格が備わることも要求される。だが具体的行動に移そうとしても私の中に理想も無ければ愛もない。何ら影響を及ぼせない国や世界を前にして、氏族を前にして、自分の内容の無さに愕然とするところからの出発だ。氏族メシヤというのは氏族を左右できる権威だ。氏族的メシヤ権だ。氏族メシヤの私が氏族を霊的に生かすか殺すかの権限を持っているのであり、氏族の位置を決める権限も持っている。権威を及ぼす上での自由があるが、それは氏族救援に対する責任があっての自由だ。親戚を復帰するに於いて、路傍伝道と同じようにみ言葉を伝えて伝道するものだと思っているけれども、遠ざかって音信も不通の者の薦めに誰も応じる者など当然いない。先ず自分を証してくれるカイン圏を救って、洗礼ヨハネとしての証人を用意しなければ、適当にあしらわれて終わりだろう。それでも氏族の生命の種は氏族メシヤである私が持っているのだから、使命感でそのまま押し切るというのも手かも知れないが、それだと一人一人に当たるということなので同じように働きかける者が何代も必要になるだろう。復帰への道筋に対する自由は与えられているのだから、親戚縁者一同を集めておいて氏族メシヤ宣言をすれば取り敢えず霊界が一人一人責任を持つ基台ができる。環故郷をするのに証してくれる洗礼ヨハネもいなければ氏族を盛り上げる土産もなく、身一つで帰ってこられても厄介者になるのがオチだ。身一つどころか借金まで背負っているという笑えない現実があるのに、それでも帰る食口に対しては寒心してしまう。それは余程信仰があるか、はたまたよっぽどの馬鹿かどちらかだ。ひとつには使命感も持っていることが御父様と一つになることだと思い込んでいることと、指示された言葉通りに外的に行動することが絶対信仰だと思い込んでいる。先天時代はそれを善しとした時代だったかも知れないが、後天時代はそうはいかない。使命感だけでは決して残せない結果が要求される。

2015年6月16日火曜日

今日の想い 857

霊と魂を混同していることについてはここでも何度も触れているが、訓読会で御父様がその注意を促したのは混同し易いからという御話ではなく、現に混同しているから注意された。人間は霊と肉の存在であるけれども、それは横的な関係ではなく縦的な関係として一体であり、霊と肉を分けて見ることはしない。普通人間に対しての存在認識は霊だけを見ているのでもなく肉だけを見ているのでもなく、霊肉一体圏で培われている心魂を見ている。現代の人間は霊的無知で霊的感性が備わっていないので、御父様が霊的な御話をされても魂の話として捉えてしまう。人間の堕落には霊の堕落と肉の堕落があるが、ルーシェルとエバの間の霊的堕落の話も心魂の堕落と捉えてしまう。私達が肉の堕落を犯さないまでも既に堕落人間であるのは、心魂様相に堕落性が見られることから認識できるのであり、しかしそれは結果であって原因は認識できない霊にある。霊的無知であるということを忘れて、さも霊的にわかっているように、重生して産んで戴いた父母をこの口が否定するなら、私の全体がこの口を否定するだろう。自分は祝福を受けて重生しているという恐ろしいほどの事実をわかっていない。私の全体が口を否定すれば唖になる。確かに食口の現実は御母様に従っていくのか、或いは袂が分かれた御子女様につくのか、はたまた信仰を捨てるのかという判断を迫られているところまで来ているように見受けられるが、霊的無知なのに霊的な重要要件に対して判断も何もあったものではない。自分の自由判断で従っているように思っているのだろうが、実はそう判断させる背後の霊界があり、判断したのは結果であり判断に至らせる原因は自分の相対圏にある霊界にある。そうなると彼等を説得すること自体何の意味があるのかということにもなるが、その通りで説得する必要はない。ただ、彼等は間違っているということを私の中ではっきりさせておき、彼等にもそれを告げれば、説得する必要も原理的に説明する必要もない。彼等は相対圏にある霊界の指示に従っているから彼等のスタンスを取っている。それはある意味仕方のないことだ。アダムが失敗してアベルとカインに分立せざるを得なかったように、今までの摂理路程で願いに応えられなかったが故に教会も失敗した体制そのままを継承すれば善悪混同になってしまう。一度アベルカインに分けられて新たな一体圏を模索するしかないからこうなっている。はっきり言えることは、彼等は未だわからない霊的見地に立つことを捨てて、すなわち真の父母の勝利圏への信仰を捨てて、現段階で見通せる心魂のステージを最上階としてその位置から眺めて判断を下してしまった。御母様は失敗したと言うなら、仮にも食口の端くれで御父母様と一つになるべく共に歩んできたその責任を感じて、勝利的御母様に立てて差し上げる為にも御母様に背を向けるべきではないだろう。彼等は霊と魂を混同している。

2015年6月7日日曜日

今日の想い 856

おそらく私だけではない、全ての食口が常に意識させられるであろう活動や営みの言葉として、絶対信仰絶対愛絶対服従がある。訓読をミスっても、教会から少し遠のいても、どういう状況であっても想起させられ意識せざるを得ないのが絶対信仰絶対愛絶対服従だ。想起させられると共に、人間が知情意の活動を為す魂の存在であるのと比べ、真の父母から発生した天の血統人間は絶対信仰絶対愛絶対服従の活動を為す天の根を持つ魂の存在であると認識できる。私は本当に生まれ変わって真の父母に繋がっているという実感は、絶対信仰絶対愛絶対服従と共にある。祝福を受けた者達が付いて行けずに離れようとも、それでも御父母様の存在が内面から消え失せないのは、御父母様の情的面に相対している絶対愛という魂の活動として、真の父母の根に繋がれて生きて働いているからだ。ということは、食口は離れようとしても本当は離れられない。通常の知情意に代わる新しい知情意の魂の在り様が、繋がれた真の愛の根によって少なからず備えられてしまっている。それが新しい知としての絶対信仰であり、新しい情としての絶対愛であり、新しい意としての絶対服従だ。この新しい知情意によって、生まれ変わった他体自覚の自分を認識する。その認識は明らかに堕落の血統とは異なっている。人間の知の活動は時代と共に変遷してきた。しかし今の科学一辺倒や論理思考の知の在り様は、人類歴史の僅かの一時期でしかない。現代の知の在り様こそが最も優れていると信じて疑わないから霊的には更に不通になり、霊的無知なる存在として一層個体化個別化して自体自覚の枷から抜け出られないようになる。悪魔アフリマンは科学的論理的知の在り様に拍車をかけることで人類を神から遠ざけようとしている。食口ですらアフリマンの計略である知の誘惑に乗せられている。絶対信仰で見通すべきものをこの世の知でもって否定的に捉えようとしている。御子女様に対しても、御母様に対してもそうであり、そうなるとそのうち御父様に対してまでも、復帰の過程の事実が明るみにされてしまうと道義的知の剣の鋭さで切っていくようになる。人間の知の在り様が絶対信仰によって変えられていく。人間の情の在り様が絶対愛によって変えられ、意の在り様が絶対服従によって変えられていく。御父様と一体圏にあられた御母様を否定する者は絶対信仰を蔑ろにする者であり、祝福の血統も所詮堕落の血統から逃れられないことを肯定せざるを得ず、霊的血統を否定して肉体的血統を至上としてしまう。御母様が地上におられるにも拘わらず御子女様にのみ繋がろうとするのは、本人が気付く気付かないに拘わらずそう言うことだ。疑問があるなら尋ね続けるべきだ。

2015年6月5日金曜日

今日の想い 855

天変地異にしろ何にしろ、外的な特別な力を示す神様を見たい訳ではないだろう。或いはこの耳に届く何らかの神様の言葉や調べを受け取りたい訳でもないだろう。たとえ見たとしても、たとえ聞いたとしても、それで私が神様を再認識して変わり、私と神様との関係性が深くなるとは思えない。ただ、証を見せてくれないのなら信じない、信じてやらないというあざとさが私の中にあって、その堕落性を満足させるだけのことだ。では見えない神様を、聞こえない神様を、どのように求めていけば親なる神様との出会いが訪れるのだろうか。わからないけれども信じて歩むという信仰の次元を越えて、神様の想い(心情)を直に受け取れる中心、核に触れる次元にどうしたら入れるのだろうか。御父様は霊界に行ってみれば全てがわかると言われたけれども、もし死んで肉体を脱がなければその次元には入れないというなら、私は一生肉の枷をはめられたまま地上生活を送らなければならない。罪に縛られた肉体のままで絶対信仰を模索しながら内的に患い続けなければならない。私にとって御父様が語られたみ言葉に論理性があるか、御母様が御父様の指示に従って歩んでおられるかという側面など大した関心は抱かせない。論理性がなければ信じることができない、指示から外れていれば信じることができないというような問題は私の中には無い。しかし多くの食口が直視していない大問題は、私達の中に燃えるもの、熱いものが失われているということだ。そこを直視せずに、誰が正しいのか、誰が間違っているのかという判断に躍起になって、燃える神霊が遠ざかっているという大問題から目を逸らしたままだ。確かに復帰された頃の教会には神霊の燃えるもの熱いものが備わっていた。「御父様!」と口にすればそれだけで神霊の燃える感覚を受け取れた。その当初の満たされた感覚を取り戻そうと、覚めた論理にどれだけ傾注してもみ旨は進まないと知っておられる御母様は、燃えていたあの初代教会の神霊の火を先ず再び燃え上がらそうと呼びかけられたのだろう。しかし私達は御母様が期待されるほど純粋ではなかった。願いに素直になれない自分を正当化するありとあらゆる言い訳を既に用意してしまっている。本当の路程はその自分との闘いなのだが、結果を残せない形骸化した路程が常習化し、それでも主体に対する対象であるべき自分の存在を取り繕おうとすれば言い訳を用意するしかない。アダムがエバに責任転嫁して言い訳したように、エバがルーシェルに責任転嫁して言い訳したように、私もできないやれないあらゆる言い訳を付着させたまま生活に没頭している。そうなると言い訳に支えられていた不信仰、不従順も、常習化し当然の事のように生活化してしまう。この世の人々の不倫な行動も、最初は罪意識に負債を抱えるけれども、そのうちに慣れてしまって当然の事となってしまうのと同じだ。私には御父様が指示された守るべきものがある。それは訓読であり、安侍日であり、また名節を守って流されないこともそうだろう。いつの間にか守るべきものが蔑ろにされてはいないか、適当にされてはいないか、もう一度意識的に立て直さなければ、とても90度の垂直へと向かう私を用意することはできない。向かう度数が90度でなければ、天の父母様ではなく何か別の存在を求めようとしている。

2015年5月30日土曜日

今日の想い 854

伝道しなければならないと言われれば、わかってもいない原理やみ言葉でありながらも、人に伝えることに焦りを覚える。ビジネス展開しなければならないと言われれば、根付かせて成長させ収穫を得るほどの見通しも立っていないのに、形だけ何かやることに焦りを覚える。伝道にしろビジネスにしろ、それは本当の伝道でもビジネスでもなく、私達の中にプッシュされて焦りを覚えることへの対処でしかなく、焦りへの対処行動をしてみ旨を歩んでいるつもりになっている。天は私達にいつもプッシュしていると思い込んでいる。プッシュされながら、思考することも否定する僕的信仰観を脱するのでもなく、いつまでも喘ぎながらでしか先に進めないと思っている。しかし本当に天は私達がイメージしているようにプッシュしているのだろうか。私達は正直なところ辟易しながらも、それでも付いていかなければならないのだろうか。それはただただ重すぎるだけで、歩みの動機や力となることはないのではないだろうか。私達にやらされ感がある以上、逃げたいという潜在意識による意志の頭打ちが起こり、抑え込んでいたはずの堕落的はけ口へと意志が向いてしまう。結果罪悪感が残り、そのマイナス動機だけで更なるしなければならない念となるから形だけは願われている方向へ向かうものの、しかし所詮形だけであって結果を残すものとはならない。この堂々巡りが常に失敗の墓石を積み上げて背後に残してきたのであり、できないことが常習化してしまった。やらされ感からの脱却が急務だ。自分の意志でやろうとしていると言いながらも、堕落の自分であれ何であれ結局はやらされ感の溜りに沈滞している。御母様はマンハッタンセンターの礼拝で何回祝福家庭たち!と声を大きくされただろうか。恰も私達が眠ったままで目覚めないのを呆れてしまうかのように、声を荒げ溜息でもされるような表情をされた。調子よく返事はしながらもその場凌ぎであるし、やりますやりますと言いながらも自分の中でできないことを確認している。やらされ感のみならずどんよりしたあきらめ感にさえ沈んでいる。御母様はうなだれるような私達の状況を既に見通しておられるはずだ。どうしたらこの暗雲立ち込める層を突き抜けて、青空広がり遥かなる高次の霊界を見通せる成層圏に突入できるだろうか。

2015年5月27日水曜日

今日の想い 853

一般的な視点に立てば統一教会は分裂教会の様相を呈している。しかし絶対信仰絶対愛絶対服従の私の位置にに立つなら、口が裂けても冗談にでも分裂教会とは言えない。グループ派はグループ派で自分達が正しいと言い、七男派は七男派で自分達が正しいと言っている。現教会はどうかと言うと、自分が正しいと言うのであれば(御母様を中心とする)教会派なのだろうけれども、教会の中には自分達が正しいという旗を掲げずに、正しいか正しくないかという問題以前に御母様を支えたいという絶対信仰絶対愛絶対服従の位置に立った者達もいる。教会に関するブログ、多くはグループ派や七男派だが、それらが乱立しているのはそれぞれの視点、すなわち正しいか正しくないかという分立是認の位置に立って見る視点からそれぞれの言い分を上げている。道義的感覚から、それを良心に従ってという言い方をしている場合が多いが、道義的感覚からの善悪判断、それからみ言葉解釈からの善悪判断、あとは成り行きに任せてしまった言い訳めいた善悪判断という者達もいる。それはどこの派に身を置くとしてもそれぞれにそういった者達はいる。どこにも身を置かず御父様自体を否定してしまったいわゆる反対派の者達も、知情意に於ける何某かの判断がそうさせている。教会では反対派が出るたびに彼等がどう間違っているかを説明しているけれども、説明を受けなければ離れる者達は所詮いつかは離れていく。絶対信仰絶対愛絶対服従に立つなら正しいか正しくないかは二の次であって、御父母様の願いに応えたいという心情動機があるかないかが問われている。ひょっとしたら袂を分けていると思われるそれぞれの派の中にも、心情動機あっての行動としてそうなっている者もいるかも知れない。教会の中にも自分に都合がいいから留まっていると言う者達がいるように、御父母様の願いに応えたいという想いからそういう立場を取っている者達もいるはずだ。そうなると愛の競争であり愛と愛の戦いだ。正しいか正しくないかの戦いを繰り広げているが、誰がより御父母様を愛するかという戦いこそが正念場だ。論理的に説明できるかどうかなどどうだっていいとまでは言わないが、論理に主管されることは悪魔アフリマンに主管されていることだ。霊的に見るなら悪魔アフリマンとその手下達の食口への働きかけは尋常ではない。しかしどれほど悪魔連合が中枢に攻めてくるとしても、御父母様は勝利されて一体圏を確立されているため破壊することはできない。遅かれ早かれ分かれたものは、より心情を中心として、より強固に、一つになっていく。御母様は子女様方が必ず帰ってくることを見通しておられる。

今日の想い 852

私の中に蛇がいる。その蛇が内側から私を誘惑する。蛇は先ず目を誘惑してくる。蛇は目を、見るに良さそうだと判断させて、ついに目は見てしまう。誘惑に堕ちた目は蛇とくるんで手を誘惑してくる。手をそそのかし、触れるに良さそうだと判断させる。ついに手も誘惑に堕ちてしまい触れてしまう。耳は目のいいなりであって、目の向く方向に耳も向かわざるを得ない。口と舌と喉は手の触れたものへのより深みの感触、堕ちた愛の味を知りたい貪欲さに駆られ一体となって味わいつくそうとする。目が酔い、手が酔い、口舌喉が酔い、蛇は酔って見る深い夢と感触の中でその目的を遂げる。蛇が目的を遂げると酔いは一気に冷め、夢は霧散してしまう。放った衝動だけが結果としての痕跡を残す。誰の中にも蛇がいる。その蛇は生殖器に居座ると次第に誘惑を始める。蛇は蛇を求めて誘惑を始める。雄としての蛇は雌の蛇である女性の生殖器を求めて誘惑を始める。人は感触への欲望を満たさんとやむなく行動していると思っているけれども、それを操り目的を達成させようとする蛇がそうさせている。生殖器自体の意志ではなく、そこに居座る蛇がそうさせている。そうやって蛇が蛇を求めながら蛇の王国、蛇の世界を作り上げてきた。創造本然であれば神様の理想に酔い、真の愛に酔うべき人間が、堕ちた性に酔い、アルコールに酔いドラッグに酔う堕落人間の姿が地上にある。蛇に誘惑されるがままにそれらに酔いしれたいと自覚すれば、理想に酔い真の愛に酔いしれる高次への自分を放棄してしまう。自体自覚の私が他体自覚の私へと生まれ変われる、すなわち血統転換の重生への実感は自体自覚の自分の完全否定から絶対信仰絶対愛絶対服従の私を絞り出し、引き出してその私を生きることで得られる。多くの食口は重生実感などあり得ないと当然のように思い込み、さして落ち込まないように、しかし理想へと飛翔する訳でもなく暮らしている。そう、生きるのではなく暮らしている。与えられた、なけなしの夢に満足しながら、飼い殺しにされている。確かにギリシャ文明に於いて肉体輪郭の美しさに目覚めた人類だが、本来の目はそんな地上的輪郭や色合いに満足してしまう目ではないはずだ。輪郭や色合いの奥を見通し、その核に至れる程に見通せる目だ。誘惑に陥れば見える範囲の楽しみを最高の理想だと結論付けてしまい、更に高みにある神様の理想、人間本来の理想を足蹴にしている。今日まで蛇は先ず目を誘惑してきた。まだ見ぬ事実を確認するのではなく見える現実に溺れていった。目の焦点を現実に合わせて生きれば、現実が霊的には幻覚を見せられていることだという事実を否定している。現実を事実以外の何物でもないと信じ切っている。目が神様の理想を見上げようとすれば、目は現実から逃げるのではなく、現実の正体を知り現実を主管し始める。

2015年5月16日土曜日

今日の想い 851

侍るとは自分の主義主張、自分の考えを越えて、時にはそれに反して侍るのであって、侍り方の考えの違いによって袂を分かつ等という言い方は本来あり得ない。侍るのも考えあってのことだと思っているなら、心情を越えたところに考えがあって考えが心情を見下していることになる。それは偽りの主から来るものでありながら自分の良心の声だと信じて疑わず、偽りの自分の主義主張を通すことを許している。御父様は共産主義者からタイムズを取り返したと言明されたけれども、共産主義者の良心らしき信条も、グループ派の言うところの良心も、そこに違いは無いからそう言われた。御父様が、「良心は両親にまさる、良心は先生にまさる、良心は神様にまさる」と言われたその言葉だけを強調して権威を振りかざしているが、先ず私達が認識しなければならないことは御父様が言われるところの良心を私達は取り戻してはいないということだ。自分の良心を口にするのであれば、先ず心と体の戦いを終結した心身一体宣言が為されなければ、良心云々とは言えない立場だ。神様に直結している良心を取り戻していないにもかかわらず、自分の信条を良心だと言って憚らないのは共産主義者だ。自分の蕩減を払って清算して、息子娘と認められる位置で侍って、心情を相続して神様と一体となった立場で、初めて自分の良心を認識し、良心の声に従うと口にできるのであって、神様と一体圏にあられる御父母様の声に従わない者達は戒めを守らなかったエバと同じだ。神様の戒めに反して、食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた木の実を時を待てずに取って食べて霊的堕落したエバのように、神様の位置にある真の御父母様から見るなら現代のサタンは生殖器である善悪知るの木の実から今度は良心もどきの善悪判断の木の実に代えられて、エバと同じように時を待てない者達によって判断の木の実は取って食べられ、現代の堕落は知的部分で繰り返している。天使長ルーシェルから、今度はルーシェルの配下にあった悪神アフリマンの誘いに応じた者達がグループ派だ。共産主義者が悪神アフリマンのずば抜けた論理的知能を現わしたように、グループ派もアフリマンの論理的知能を現わし論理第一で誘いをかけてくる。悪神アフリマンの誘いに応じた知識層の上の者達は、心情という論理を越える霊的概念を受け取ってはいない。

2015年5月14日木曜日

今日の想い 850

私達の信仰は人間に対するものではない。真の父母に対して人間的な判断をしてはならないように人間的信仰に陥ってはならない。ある意味先天時代の統一信仰は、御父様の言われることに絶対服従するという人間真の父母信仰だったと言えなくは無い。御聖和された今、口を開かれる人間実体としての御父様はおられない。私達はみ言葉を訓読しながら、それでも御存命時の御父様の面影を彷彿させながら読み進めているが、明らかに御父様という人間実体を知らずに信仰を持たなければならない人間が地上を覆う。地上で生活しておられた人間実体イエス様を知らず、聖書だけを頼りにしてキリスト像を植え付けることでキリスト教を発展させてきたように、統一信仰もまたそのような路程を辿っていく。教会は混乱して、信仰のベクトルをどのように方向付けたらいいのか誰もが迷っているけれども、人間実体としての御父様を知らない二世三世が増えてくれば、所詮どの派に従うにしても一世達の人間真の父母に留まる信仰では頭打ちだ。私達の混乱は全て人間真の父母信仰の弊害として現れている。御父様御自身が真の父母の名を通して祈祷され、御父母様が真の父母の前に敬拝しておられた。御自身が真の父母であられるのに他の別の存在としての真の父母が恰もおられるように侍られているようで不思議に思ったけれども、祈祷され、敬拝される時の御父様は縦的に分離され、人間御父様から真の父母の位相に対しておられたのであり、私達の前で話され対する時は人間御父様と真の父母位相一体の御父様として立たれた。後天時代の信仰は人間御父様ではなく、位相を上げていかれた霊的実体としての御父様に侍るのでなければならず、人間実体御父様への信仰に留まったままではありとあらゆる派閥が生じざるを得ず、霊的実体であられ実体み言葉であられる御父様からは離れざるを得ないだろう。しかし両信仰の在り方が相反するものではなく、道徳教育の中に精神教育霊的教育がエキスとして抽出されるように、人間実体御父様信仰から実体み言葉御父様信仰が芽を出す。私達は未だ霊的無知であり、霊的事実について知らな過ぎることを度重ねて申し置きたい。長子権復帰、父母権復帰、さらに王権復帰というのも霊的言葉であり、真の父母という言葉も霊的言葉であり、人間真の父母信仰では真の父母の本当の価値はわからない。真の父母の血統圏にある私達祝福家庭だが、それは生理学的血統をいうのではなく、地上血縁を越えた霊的血統をいうのであって、霊的血統に繋がっている、霊的に真の父母から生まれ出た、という内的霊的理解をどのように深めていくかということだが、その理解は頭に拠る論理的理解を言うのではなく心情理解、心情相続をいう。

2015年5月9日土曜日

理想を考えてみる

金の切れ目が縁の切れ目となれば、人間愛にもとる人だと判断するだろう。それでは理想の切れ目が縁の切れ目となると、それは一体何にもとるのだろうか。この設問を誰に対してするのかと言うと、自分も含めた食口に対して問いかけている。復帰された当時の、理想に輝いていた自分をどの辺りまで継続できただろうか。今もなお同じ理想を掲げ、その理想に燃えながら歩んでいるだろうか。おそらく多くの食口が理想を失っている。正しくは理想としていたものを失っている。復帰された当時はある理想的気分に酔っていた。今日明日とは言わないまでも、近い将来にその理想は地上に実現されると、実現される理想を先取りした優越感も相まって熱い想いで歩んでいた。しかし描いていたものは本質的理想ではなく、イメージできる程度の形をもった、理想らしい理想もどきに過ぎなかったということだ。よって、理想もどきの切れ目が御父母様との切れ目、教会との切れ目ということになる。私達が理想としていたものは尽く覆されてきた。個人的に掲げていた理想、家庭的に掲げていた理想、教会としての理想、全ては壊れ、さらに理想の実体であるはずの真の御家庭ですら理想とは程遠いという判断を下さざるを得ない状況だ。しかし私達が捉えていた理想はみ言葉の理想、御父様の理想と同じだろうか。私達が捉えていた理想は自分のイメージに過ぎず、理想という本質ではない、形としてだけの理想もどきを敢えて否定もされずに理想としてきた訳だが、理想もどき主義から御父様が捉えておられる理想、本質的理想主義を掲げなければ教会との関係も、さらに御父母様との関係も切らざるを得ないだろう。理想を形のイメージのみで捉える理想サナギを脱いで、本質的理想を捉える理想成虫へと脱皮する今の混沌期を過ごす者だけが、新しい天一国の住人として新しい世界に羽ばたいていけるようになる。それは自体自覚から他体自覚への移行であり、個人的家庭的私から氏族的民族的私を用意することであり、昼の私から夜の私へと意識上昇、アセンションすることであり、地上的愛から霊的な真の愛に生きることだ。愛も、理想も、霊的な全ての事柄も、枷に嵌められたイメージという堕落的観念ではなく、御父様が保持しておられる創造理想としての概念へと解き放たれなければならない。理想の本質を尋ねていけば、それは霊的であり、霊的であるということは心情的だということだ。理想の対義語は現実であり、ひとたび理想から現実に移ってしまえばそれは既に理想を抱いているとは言えない。私達は現実の中に足場を移そうとし、それぞれが理想もどきであっても掲げて歩んできた歩みを一区切りしようとし、残された余生を静かに過ごそうと波風立たない場所を探そうとし、そのように理想を求める翼は既に閉じて休めている。それなりに人生に掛けてきた内容の結実を収穫するに留まっている。「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか。」(創世記16章)とサラが言ったように、老い先短い一世達は、理想の本質という種を身ごもることは既にないだろうと内心思っている。み旨に燃えて御父母様の願いが私の中で生きているという実感は既に遠のいている。しかし神様が生きて働く一つのシナリオがここにある。金融というお化けクジラによって実体経済は今確実に壊れようとしている。金融バブルという消えてしまう幻想シャボン玉に気を取られ、翻弄されているうちに、実体経済の足腰は弱まり国として立てないほどだ。今の社会構築がへしゃげてその状況でも生き延びれるのは、献金に追いまくられ生活が困窮しても生き延びる力を得てきた日本食口をして他にないだろう。いつの世の変遷期もスクラップ&ビルドであって、ビルドされてからスクラップされた訳ではない。スクラップされても生きて芽を出す理想の種を保持した者達が用いられてビルドされる。もしそうであるなら、私達は理想の種を今温め続けていればいい。摂理に合わせた社会状況が、理想の種を保持する食口を必然的に表舞台に立てさせる。

2015年5月1日金曜日

今日の想い 849(祈祷)

訓読を一区切り終えて、私は独り言のようにポツリと口に出してしまった。み言葉を訓読すればするほど裁かれてしまうと、、。妻も私の言葉に静かに頷いた。お互いの無言の時間が暫く流れて、それでも祈りで締めくくらないと天との関係を断ち切るようで、妻のベッドから降りて足を畳むと祈祷姿勢を整えた。しかしどうも無理だと思って、妻にお祈りするよう声をかけ目くばせした。妻は頭をゆっくり起こしながら不満そうな視線を私に返したが、それでも頭を垂れるとお祈りを始めた。病気以来妻は私以上に力のないお祈りをする。病気のこと、子供のこと、どうにも希望の一筋の光さへも見出すことができずに、落胆の気持ちがどうしても力のないお祈りになる。祈りは言葉では感謝に次ぐ感謝の連呼で繋いでいる。しかしそれが偽りであることを本人も私もよく知っている。現実に対する偽りが非礼だと言われれば、祈りは天に対する呪いの言葉にしかならないだろう。確かに現実的には偽りの連呼であるようでも、未来には感謝の気持ちを抱く私の言葉として、祈りは感謝の言葉を口にする。だから偽りではない。私の未来からすれば偽りではない。問題は現実逃避のように思える祈りではなくて、その言葉を口にするのに力が込められていないことだ。現実の今の堕落的私を強く強く否定して、必ずや成就する祈りの言葉として力強い感謝の言葉を連呼すべきだろう。脳裏を生じては逝き、生じては逝く、百万憶万の堕落の思いの言葉より、それらを否定しながらそれらを超える御父母様への感謝の言葉で上書きしていく。希望が神様と共にあるなら、悲観はサタンと共にある。悲観の気分としてサタンはひたひたと、さらしに水が浸みて広がるように私の心魂を侵食していく。現実の中に生きる限りはサタンの主管圏から免れることはないだろう。しかしサタンに主管された現実は、生きて歩む下水平の一次面に過ぎないはずだ。下水平に留まる限りは地上地獄だ。この下水平の一次面に隙間を生じさせることができれば、その隙間をして一気に流れ込み上水平へと次面を上げていく。その隙間こそが祈りだ。使い古された言葉の鞘を口籠るだけの言葉の連なりではなく、生きたみ言葉として力強く喉を通過する祈祷だ。破裂音に満ちた力強い韓国語が運勢をもたらすように、力強い生きたみ言葉こそが神様の堕落的私を施術するメスだ。祈祷は力強くあるべきだ。この喉が裂けるほどに力強くあるべきだ。朝の一日の出発は特にそうだ。

2015年4月30日木曜日

今日の想い 848(僕の意識、主人意識)

自分の足りないものは見えなくても、相手の足りないものはよく見える。妻に私が妻に対して見えている不足なものを伝えようとしても、なま返事が返ってくるばかりで響かない。欠損した自分を生きていてもその欠損した自分が全ての自分なので、敢えて見えない部分を認識しようとはしない。もちろん逆もある訳で、妻に指摘されてもそれは私の問題ではなく妻が見えていないだけだと一蹴してしまう。従業員に対してもそうで、主人意識に立っていれば彼等の足りないものはよく見える。彼らが仕事をどう捉えているかは、店や会社のオーナーの意識、主人意識に立っているか、そうではなくて僕の意識のままかに拠っている。実際には主人意識と僕の意識の間の様々な中間位置にある訳だが、会社に対して僕の意識の強い従業員は、仕事の意味はなるべくなら避けたい労働でしかない。しかし主人意識の強い従業員は同じ仕事をしていてもその中で新たな創造を模索していく。価値創造とよく言うけれども、僕の意識で労働的仕事をしている者にはそういう概念はない。消耗する労働なのか、増やして発展していく創造なのかは、働く本人の成長と停滞と共に会社の成長と停滞をも決定してしまう。もちろんある段階までの仕事内容を把握する上で、それ相応の期間、僕の意識は大切であるけれども、そこに留まっている限りは発展性は見込めない。僕の意識に留まり続けることで見えてくるものは、他の従業員の欠点と経営者に対する穿った観察ばかりだが、主人意識に立つことで会社の発展的要素がどこにあるのか見えてくるし、同じ仕事をするにしても、そこに形だけに留まらない精神的なものを遣り取りするようになる。食口であれば精誠という言葉を知っているはずだが、それは信仰条件やみ旨に対するときにのみ使われて現れる言葉ではなく、仕事内容や仕事対象についてもそうで、精誠を込めれば見えない精誠が必ず見える形となって現れてくる。食口も何人か働いているが、そこまで見通して仕事に関わっている者は少なく、労働して対価を得るという社会主義的、唯物的な仕事に留まっている。そうであれば僕の意識のままであって、主人意識に立つことで内外の恩恵や福を会社から得ていく者達と随分差が出てくる。

2015年4月22日水曜日

今日の想い 847

自分や自分の家庭の事で汲々としていると周りは見えなくなる。国政に与る者も自国の事、国民の事だけで汲々としていると世界は見えなくなり、世界との繋がりも切ってしまうような行動を取ってしまい、結局自国の運営も危うい状態になる。汲々とする状況は為に生きて自分を差出す歩みにはなっていない。汲々とするとは、個の中に、より個の中にその存在輪郭を狭めていって、どこまでもX存在に収縮していく。統一食口は逆になるべきだ。存在輪郭を広めていってどこまでもO存在に近付いていく逆のベクトルを用意しなければ、摂理とも関係を持てないようになり、御父母様との関係性も内的に距離を置くようになる。歩む中で問題が生じた場合、どのような態度を取るかがその問題を糧にするのか、或いは罠にするのかという私の主管が決定される。公的な位置の私を立ててその問題に対するのと、自分中心の位置でその問題に対するのとでは、内的霊的に受け取るものに天地の開きがある。自体意識、他体意識という言葉を知っているが、その意識が意識として働くのは問題が認識され問題を前にする時だ。おろおろする焦りが感情に於いて表出するのは私の中にカイン的存在が存在するからであり、カイン的存在が先ず顔を出すのはそれが私の内面で主導権を握っているからだ。一通りのカイン的感情が表出した後で、覚悟を決める必要を認識しようとするアベル的存在が顔を出す。私という内的存在がカイン一辺倒の存在なのか、アベル的存在がどれほど影響を及ぼしているのか、アベル的存在が内的長子権を復帰してカイン的存在を凌駕しているのか、自分が背負う内的霊的世界で神様が主導権を取れる世界なのか或いはサタンなのかを人それぞれで霊的に格付けされている。食口であればあの人はアベル的だとか、あの人はカイン的だとか口にしがちだけれども、そんな判断は人に宛がうものではなく、私の内面を観察すればこそ見えてくるカイン的存在、アベル的存在こそ内的霊的実体だ。ポジティブに捉えることがアベル的私だ、などという曖昧な見通しなど何の役にも立たない。ましてや楽天的な私などアベル的でも何でもなく、私の内面のアベル的存在もカイン的存在も無視して逃げて異空間に自分を置く、霊的なものも肉的なものも否定する幽霊存在だ。

2015年4月19日日曜日

今日の想い 846(神様がアルファでありオメガであるに込められた想い、意志)

「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。」 黙示録の終盤に記された言葉の如く、神様は原因の神様であり、そして結果の神様だ。それは原因、すなわち性相の神様であり、結果、すなわち形状の神様だ。さらに御父様は私達の混乱を承知で、夜の神様、昼の神様の話もされた。性相の神様、形状の神様までであるなら性形を合わせもった神様という意味で一なる神様であることを否定していない。しかし夜の神様、昼の神様と言われ、夜の神様は失敗しなかったが昼の神様が失敗してしまった、とまで言われるのであれば、一なる神様の概念は越えていて私達の通常の論理思考では測れない。しかし私達人間の矛盾性、すなわち心と体が闘っていると認識できる者は、私という一なる人間の一段階原因を遡れば、心という私の存在と体という私の存在という二つが時間軸を越えて存在しているのがわかる。性相の神様の表示体としてアベルが立ち、形状の神様の表示体としてカインが立った。カインがアベルを殺すことで堕落が決定的なものとなったと言われたのであれば、カインアベルが一体となっていれば(何を指して一体かはここでは問わない)堕落はなかったと言える状況を展開できたかも知れないということだろう。原理に記してあるように、アベルが善の表示体、カインが悪の表示体と敢えて書かずに、性相の神様、形状の神様の表示体としたのは、アベルを殺害した堕落の結果からカインは悪の表示体となったのであり、殺さずに一体となっていれば形状の神様の表示体になったはずだという推論からだが、殺されたアベルの使命を受け継いだセツの側から祭祀集団が現れたのであり、カインの側から石工集団である技術集団が現れている。カイン自身の中でアベルに対する相反する思いに抗う思いはあったはずで、その戦いもあったはずで、アベル殺害動機のみにカインが占拠されていた訳ではないだろう。悪の表示体ではあっても、悪そのものではない。しかし結果としてアベルを殺害してしまった。神様が原因の神様であり結果の神様であるなら、堕落の結果の神様、殺害であり破壊という結果の神様ということになる。しかし神様はその事実を結果としてはおられなかった。それは復帰の神様、救いの神様という犠牲を復帰歴史を通して払いながら、結果が堕落ではない真の愛の結果を結ぶことで結果の神様となるという、神様の決意と覚悟、復帰への執念を宣言されたのが始めに記した「私はアルファでありオメガである」という黙示録の言葉だ。どんな罪深い罪人も、地獄に呻吟する何億という夥しい霊達も、必ず救われるのであり必ず天国に住まう光輝く霊人体に昇華する。それはアルファでありオメガであると宣言された、すなわち完全なる救いをもたらす真の愛の神様であることを宣言されたことから明白だ。心と体がどれほど戦うとしても、カインである体がアベルである心の息の根を止めて、この世の欲を満たすべく誘惑を語る口の乾かないこの世の君に仕えるとしても、思いもよらない機会を善神が捉えて、思いもよらない方法でアベルが立てられカインが復帰される。神様は実に奥妙な働きをされると、ある御子女が語られたが、誰もがそれを実感する機会に出会うだろう。心と体が一体になるよう約束されているように、神人一体理想も未来に約束されている。

2015年4月18日土曜日

今日の想い 845(内的な嘔吐)

何度も何度も自分の中で繰り返している。ひとり事を口籠り呪文のように繰り返している。声に至らないひとり事は表現に至らない感情のマグマだ。時を追う毎に煮えくりかえり、あらぬ機会に爆発する。私は綺麗事を着飾った言葉でお祈りする。しかし祈りをまとめるや否や、自分の中で声にならない言葉を繰り返している。そうして声にならない堕落的感情のマグマが喉元まで溢れてくる。祈りの言葉として発声した綺麗事が偽りなのは、堕落的感情を沈める何の効果もないことからして明らかだ。私はふと思いついた。これを逆にして見たらどうなるだろうかと、、。祈りとは言えない感情の爆発の時間を敢えてつくるとどうなるだろうかと、、。感情を爆発させてのち、堕落的感情に主管されない言葉のみを自分の中に満たせないだろうかと、、。どこかの宗教のように経の一節をひたすら声明するなら、無の心の中にその言葉の生命が浸透してくる、らしい。その一節にどれほどの生命が備わっているのか定かではないが、比べて見て御父様のみ言葉生命はそれに劣るだろうか。問題は私達がみ言葉を消化し切れず、その生命を吸収するには至っていないということだろう。そうであるなら、敢えてみ言葉全体を咀嚼もしないで無理して呑み込まずに、条件的内容を備えて信仰基台を立てることができるみ言葉のみに集中しながら、実体基台という生活行動に以降することで、部分的ではあっても勝利を相続できて証しを立てることができるのではないだろうか。私達は欲張り過ぎてきたのかも知れない。御父様は私達に対して豚に真珠の如く、血と汗と涙の結晶であるみ言葉を毎日のように惜しみなく差し出して下さった。相対しない私達、眠りから覚めない私達に対して、それでも何時間にもわたってみ言葉を差出して下さった。しかし消化し得ないみ言葉が内的霊的生命の糧とはならずに、私の心魂は食当たりを起こしている。食当たりによる内的霊的嘔吐が堕落的感情の爆発だろう。糧になっていないみ言葉は取り敢えず吐き出すしかないかも知れない。私はどのみ言葉をもって生命の糧としたらいいのだろう。生命の糧を得て、生き生きと摂理に貢献できる私を立てることができれば、どれ程有難いだろう。どんな宗教よりも復活できたという証しが立つ。

2015年4月16日木曜日

今日の想い 844

食口であれば、イエス様が地の御方ではなく天から召された御方であることは疑わないだろう。しかしその肉体は地上の要素であって、肉体に関する限りは他の人間と変わりない。クリスチャンは聖霊によって身籠られたと、すなわちマリヤは処女のままで懐妊されたと信じているので、その理解は生理学的血統に於いて地上人間とは異なっている。しかし私達統一食口は、イエス様はマリヤとザカリヤとの間に生まれた御方だという御父様の言葉からして、肉体的には地上人間と同じ、すなわち堕落人間と同じ血統圏からと言うことになる。この事実を踏まえれば、御父様がいわれる天の血統とは生理学的な血統を言うのではなく、霊的な観点からの血統であることがわかる。地上の生理学的見地から見れば同じ血統であっても、霊的見地から見れば堕落の血統とは異なる天の血統だ。それは愛の感性、霊的感性が開かれなければ認識できない内容であって、食口であっても誤解している者は多く、霊と心魂を混同しているように生理学的血統と御父様が言われる堕落の血統、天の血統とを混同している。御父様であっても、御母様であっても、イエス様がそうであるように処女である母から生まれた訳でもないし、生理学的種の保存を否定して肉親を持たずに奇跡的に地上の人間存在になられた訳でもない。霊的血統は地上の生理学的血統を通して表現されるとしても、生理学的血統そのものによって霊的血統圏を価値付ける立場に地上は無い。もしそうなるなら主客転倒であって、地の主管主が天を主管する、堕落によってサタンがこの世の神となって神様をいいように振り回したと同じことになる。祝福の血統圏にある者が不倫をもって堕落したと表現できるとしても、それで天の血統圏から外されるかどうかは祝福を与えて下さった御父母様と自分との関係、もちろんそこに深い悔い改めもあり多大な蕩減も背負う訳だけれども、その縦的関係性を正すことで不倫という間違った横的関係を清算することはできるはずだ。しかしそれは何代にも亘る清算期間が必要かもしれない。縦的血統と横的血統が90度の角度で交わりスパークし、神様の血統が真の父母の血統として地上に出現したことは天宙的一大事件であり、祝福家庭がその血統圏に抱合されているという恩恵は恐ろしい程の、と表現してもいい恩恵だ。だから不倫等の堕落的行動には恐ろしいほどの清算内容が必要になる。罪の根を断ち切ることができなかった人類と人類歴史に、罪の根を断ち切った存在が創出された。真の父母様であり真の父母から生まれた祝福家庭の存在だ。私の中に天の血統が息衝いているのをどれ程実感しているだろうか。それを感じないというなら、天の血統圏にありながらも壊疽した細胞と同じだ。み言葉の流れを止めてしまえば信仰生命も弱くなり、生理学的血統という地上の現実に固執しかねない。それは真の父母の名を口にし、み言葉の本質を捨ててしまって鞘だけを振り回す新種の唯物論者だ。血流が促されてこそ生命が躍動するように、生きたみ言葉を訓読し、生きたみ言葉を堰き止めずに川の流れのように人々の心魂に流していく。そうして真の愛を実感していれば私が天の血統圏にあることは疑う余地もない。

2015年4月15日水曜日

今日の想い 843

確かに40を越えても50半ばくらいまでは自分と家庭に対する内外の希望は持ち続けていた。そうなる為の明確な道筋が照らされていた訳ではないが、なんとなくそうなるはずだという淡い期待の気分はあって、その正しいと思われる気分に酔いながら日々を送っていた。しかしその淡い期待は尽く裏切られ、60に近い今は苦い気分や味気ない気分に浸っている時間が殆どだ。そうなった転機は妻の病でもあるし、悪化するにつれて私は心の余裕が持てなくなり子供に想いを伝え注ぐ余裕もなくなっていて、言い諭すつもりが裁きに近い直情的な言葉となって親子の距離を次第に離していった。妻の病が悪化するのと子供が親から離れていくのとは同時期だった。自分の人間理想と家庭理想のイメージに近付いているという気分で生きていて、そしてそれを信仰だとも思っていたのが、それが或る意味夢から地上的現実に醒めてしまって、信仰的気分の全てが実は夢に過ぎなかったのかどうか、今反芻している状態だ。人間は魂の存在であり、魂は知情意の存在だ。人間が霊的に堕落したのであれば勿論魂に於ける知情意も堕落的様相を呈する。私の人間理想と家庭理想のイメージは、たとえそれがみ言葉に準ずるものだと自分で判断したとしても、やはり所詮堕落的様相が大部分影響しているだろう。そうなるとそのイメージに対する理想主義的だと信じていた感情も、唯の気分に過ぎない堕落的なものだということになる。地上の大地が揺れて崩れる以上に、私の存在基盤だったものが揺れて崩れるのは堪え難い。堕落的私が基盤にしていた心魂の大地が崩れ去る。新しい天と地が御父母様の霊的勝利圏によって築かれたはずなのに、私はその新しい天地が未だに見えない。未だ勝利圏を相続するに至らず、かつて古代歴史に見るレムリア大陸が沈んでアトランティス大陸が隆起したように、崩れ去って霊の海に沈んでしまった古い心魂の大地に代わって、登壇すべき新大地が未だに現れない。人類は大陸が沈んで新しい大陸を見出すまでどうやって持ち堪えたのだろうか。聖教徒達はメイフラワー号でアメリカという新大陸に到着するまでどうやって持ち堪えたのだろうか。私達統一食口は霊的混乱と古い心魂の没落にどう立ち向かったらいいのだろうか。御父様が言われる絶対信仰絶対愛絶対服従の本質とは何だろうか。わかったつもりでいてわかっていないこの本質を見出さなければ、この天宙的転機を乗り越えられない。絶対信仰絶対愛絶対服従は確実に御父様の霊的勝利圏から浮き上がってきた心魂的大地だ。新しい知情意の形のはずだ。堕落故にその様相となった今までの理想としてきた様々な主義的思考を越え、人間愛や正義感等の理想主義的な感情を越え、今までの宗教的敬虔さを越える絶対服従という意を備えていく。老いて去りゆく日の近ければ近いほどに、この新しい心魂の大地を見出して踏みしめたいという想いは切実だ。昨夜来から風雨に晒され、いつ散るとも知れない満開の桜のように、次々と地上生を終えていく食口の報せを耳にしながら、自分のその時に向かう実感が迫ってくる。私は新しい心魂の大地を踏みしめることなくその時を迎えるのだろうか。

2015年4月3日金曜日

今日の想い 842

生きて地獄、死んで地獄の環境でも、そこに天国の為の種を蒔き、天国の為の苗を植えていく。生きて蒔いて植えるように、霊界に赴いても地獄に蒔いて植えていくだろう。天国は愛の種から、愛の種は心情から、心情には犠牲の涙がつまっており、愛の種には犠牲の涙ゆえの為に生きようとする想いがつまっている。天国では地上の犠牲の涙による心情の太陽が輝き、心情の光が霊界を照らしている。天国では為に生きる想いによる愛の風が吹き、愛の川が流れ、愛の花が咲き乱れる。地上で環境創造して地上天国を築いて行くように、霊界でも環境創造しながら天上天国を築いて行く。生きて生活すればどれほど体を自然環境に晒されるだろうか。保育器の中で生活する訳ではなく、触れて晒され食べて晒される。あらゆる病の元が蔓延する中で生活せざるを得ないように、人また人の中で社会生活を営めば、どれほど小さな心魂を波打ちうねる社会環境に晒されるだろうか。山小屋の中で一人生活する訳ではなく、鋭く尖った感情や言葉、鉄槌のような重い感情や言葉が向けられたり振り下ろされたりしながら、そのなかで恨みを買ったり買わせたりしながら、そうやって社会生活せざるを得ない。しかし一方で病に罹ることで抗体ができるように、社会の不条理に晒されて、ある時は血気怒気を誘発され、またある時は汚いものに手を染めるとしても、たとえそうなったとしても心魂を強く大きくしていく為には不条理の波風に晒される必要がある。人は上に立てば立つほど、人の醜さにも、勿論それ以上に己の醜さにも直面する。醜さに直面することは堕落性を誘発されることではあっても、そこに新たに罪が発生することではないだろう。罪は既に無意識の領域に存在していて、それが表面化したに過ぎない。無意識の領域に蓋をしたままでいれば安寧に生活できるかも知れない。しかし無意識の自分こそ本質であり霊界に於ける実体だ。確かに堕落性だと思える不道徳な現実は、私にあるように責任者にもあるだろう。しかしそれを責めるほどの蕩減を私は払っていない。地上の私は社会の波風の中で、堕落的感情を誘発され翻弄されることに対処するので精一杯だ。私は所詮、一つの天法も犯さずに人生を歩み切ることは不可能だ。そうであれば、御父様が言い残された秘法を使うしかない。御父母様の地上での摂理や願いに合わせて実績をつくることだ。基盤をつくることだ。私には上の者をとやかく言える内的な余裕などない。ネットでは御父母様を本当に真の父母か否かを検証してからと思っている者達やら後継者問題に論議を交わしているけれども、自分の霊的生命の消え失せようとしている焦りを覚えないのだろうか。環境創造を手掛けて、それなりの基盤を備えたからそんな遊びに興ずることができるのだろうか。私もブログ日記としてアップしているけれども、これもあぶない趣味であって、興ずればあらぬ迷路に迷い込んでしまう。朝目覚めて、鳥のさえずりを耳に覚える余裕を失ってからどれほどの月日が経っただろうか。ここ数カ月、朝目覚めれば砂が口の中に残っているような感触を覚えて砂漠の中にいるようだ。基盤を築く以前の穴埋め蕩減の毎日が続いている。今日もまた地獄の現実からの出発だ。

2015年4月2日木曜日

今日の想い 841

三大祝福の一つとして個性完成とあるけれども、何をもって個性完成なのか。人格の完成?それは愛の完成?祝福を戴いて自動的に個性完成する訳ではないことは解かっているが、御父母様の血統圏として、仮にではなく実体的に入る過程どはどのようなものだろうか。ようするに私達(私だけ)は何もわかっていない。はっきりとした概念を受け取れずに、おそらく、、だろうな、、くらいの言葉の理解から出発しているものだから、私の中でみ言葉が実体化する過程の試練の困難さや、いつ終わるとも知れない路程期間に堪えられない。そのうちにおぼろげに理解していた内容が裏切られ、見えなかった御父母様や御家庭の情報までが問題として入ってくると、信仰を崩そうとする分子を内面に受け入れてしまって居座わらせてしまう。理解する自分の感性に問題があり、御父母様や御家庭に目を向けるその感性というフィルターに問題があることを既に忘れている。私が蕩減を払い切れずに宙吊りになっていて、御父母様に接木されて同じ血統圏に立つべき新生自分を、サタンに繋がっている過去の自分が盛り返してしまう。御母様が言われること、為されることはどうも違うようで、私は八大教本教材の御父様のみ言葉に立つことを是とする、と言うけれども、み言葉の本質を受け取れない状態で言葉の鞘だけを駆使しながら、わざわざ御母様を否定する理屈を構築しているにすぎない。御父様が地上実体としておられる間はみ言葉の理解が間違っていれば正して下さるだろう。しかし正して下さる御父様は地上におられない。ではどうするか。私達は未だ霊的無知であり、み言葉の本質を言葉を辿るだけで簡単に受け取れる訳ではない。だから正して下さる実体はどうしても必要であって、御父様と一体であられる御母様を地上に戴いている間は御母様に従うのが当然であり、御母様に異を唱える者は我こそ御父様にベクトルを向けていると信じて疑わないが、そのうちにそのベクトルが彷徨うようになり御父様とは異なる偽りの主人に向かっていたと後悔するのは明白だ。霊的無知だから所詮彷徨わざるを得ない。御母様を否定するのであれば、私達が戴いた祝福などあり得ないことになる。御父母様が真の父母様として一体圏に立っておられるから祝福を戴いた私が立っている。地上で親が離婚してどちらにつくかと言うような問題ではなく、私達の祝福は、そして重生した新しい私という自我は、御父母様一体圏を否定すれば成り立たない。絶対信仰、絶対服従は御母様に対して語られたみ言葉?どう頭の回線が繋がればそんな突拍子もない言葉が出てくるのか。唯物論が宇宙を科学という物差しのみで捉えているように、み言葉を言葉の論理のみで捉えて論理的機械脳に従っている。そこに愛が関与されず、よって心情を受け取れず、霊的無知のまま彷徨い続ける。

2015年3月31日火曜日

今日の想い 840

キリスト教神学には二人のイエスという課題がある。アダムから42代を数えるマタイ伝のイエス様と、アダムから77代を数えるルカ伝のイエス様だ。以前触れた時(二人のイエス様と御父様、2012年10月7日)は御父様の子供の時の呼び名である文龍明本人を文鮮明とは異なるような言い回しをされたことに触れたが、統一教会で「二人の、、」と言えば古い食口であれば必ず想起されるのが、「二人の御母様」という言い方だ。それは以前の婦人と今の御母様を言うものではなく、御父様が来日されて聖地を決めて行かれた折、御母様ともう一人、崔元福先生を帯同されていて、この御二人をして指した言葉だが、決してそのまま受け止められる言葉ではない。この関係性を普通の視点、普通の視点すなわち堕落的感性からの視点ということになるが、そのフィルター越しに見てしまうとどうしても受け止められないものとなってしまう。触れるべきではないと言うのではなく、堕落的感性を遠ざけて摂理的観点から尋ねていくと、意識の光を当てられることなく隠されていた復帰の方程式を知る者となれる。マタイ伝のイエス様とルカ伝のイエス様はアダムからの代数が異なるのみならず、その生まれと成長の路程までも異なっている。要するにイエス様が二人いるように思える。注意すべきはルカ伝の記述であるイエス様が12歳の時の状況で、イスラエルの宮での教師達を驚嘆させた答え、探し当てた両親に対する不可解な返答、それ以降両親に仕えられたという不思議な記述、母がイエス様に対して気にとめていた、すなわち心配していたのは何についてか、など、明らかにこの12歳のイエス様は以前と比べて急に変貌している。この12歳の時点で42代のイエス様と77代のイエス様が一つになっておられる、と思える。77代をして内的霊的に準備されたイエス様に、42代をして外的に、すなわち知恵や力を準備されたイエス様が入って内外を備えたイエス様になられたと言うことだ。私は御父様にもそのような路程があったのではないかと思っているし、個人の救いを越えて家庭的救い、家庭的復帰の為に、内的霊的に準備された相対と、外的に知恵も力もある相対の二人を相対として、一体化する為に立てられたのではないかと思っている。勝利された今の御母様は内外を備えられた御母様だ。私達祝福家庭は御父母様と同じ血統圏内に立っていて御父母様の勝利の恩恵に与っている。殆どのカップルは自分の意とは異なる相対を与えられているが、一体にはなれないものを一体化された勝利圏があるから、私達祝福家庭はお互いが随分異なっていても一体化できる。夫婦が一体化すれば子供ができるだけでなく、新しい自分を創造できる。

2015年3月26日木曜日

今日の想い 839

過酷な地上生活で様々な感情を味わいながら、しかし感情の洪水に溺れるのではなく感情を通して天の心情を尋ね求めて行くその姿勢こそ、霊的堕落圏に寄与する堕落的存在ではなく霊的勝利圏に犠牲を供える天の娘であり息子であることを確立させている。肉体と心魂をもつ地上の人間であれば肉体的平安と心魂的平安を求めて当然だ。どこまでも健康でありたいと思うし、感情を揺さぶられ翻弄されたくはない。しかし食口の多くは健康を阻害され、普通に生きて生活することすら困難で、四方から感情を翻弄される数々の事柄に脅かされている。こんなはずではなかった。復帰された当時の想い描いていた私の理想像、私の家庭の理想像とは程遠い現実に、こんなはずではなかったと言うその言葉が溜息と共に私の口から吐露される。しかし過酷な現実に覆われている今こそが正念場だろう。本当の試練の場だろう。いつ終わるとも知れない試練の数々、それが試練だとも思われず天の執拗な苛めに過ぎないように思われて、その試練の大波が襲って抜け出せないうちに次なる試練が襲ってくる。試練の二重苦、三重苦状態も当然のこととして背負わされる。あの、誰よりも信頼を御父母様から得ておられた御子女様でさえ、本当に当人かと思えるほどの変わりようで御母様や責任者を批判しておられる。霊的に異常を来しておられると言うような表現で状況の理解を片付けてしまっているけれども、別に御子女様に限ったことではない。誰しもが、当然の事として支えられていた状況が崩れてきて、自分からすれば用意されて当然の状況が当然でなくなる。愛していたもの、執着していたもの、頼っていたものが尽(ことごと)くと思われるほど奪われていく。私は愛していた妻を打たれる。妻は自慢するほど元気で健康な状況を奪われる。御子女様達はあれほど結束が固かった兄弟愛にひびが入り、教会は、百歳を越えて無病息災であられるのが当然だと思っていた御父様を奪われてしまった。霊界と地上の接近が、全ての霊界の垣根や壁が壊されて不通であったものが通ずることが、こんな状況となって襲ってこようとは思いもしなかった。しかしその現実を受け止め、さらに主管するために、霊界の混乱を実感しながらもみ言葉で分別して整理しなければ、混乱がさらなる混乱を呼んでしまう。今こそみ言葉の言葉という鞘ではなくみ言葉の核、本質を受け取る者でなければ、この霊界の混乱を主管して整理する者にはなれない。私達は霊界に逝かれた御父様からそれぞれの使命を与えられ、直接に霊界の整理を受け持っている。矢継ぎ早に起こる不穏な事柄は、すべて整理すべき霊界の事情をそこに見ている。一つ二つは甘受できても幾重にも襲ってこられると霊的に押し潰されてしまいかねない。そこに犠牲的精神が芽生えなければ賦与された氏族メシヤとしての中心は立たなくなる。押し潰されて終わるのか、それとも御父様に繋がることで犠牲的精神を相続し、中心として立つのか、勝利の鍵は神様とサタンが見守るその一点の采配で決められていく。私達はこの過程でこそ打たれる鋼の如くに本物になる。意気揚々として勝利を掴むのではなく、犠牲に接ぐ犠牲でボロボロになりながらも、さらなる犠牲を掴んで消化しながら、天の心情に相通じてこそ勝利者の印を押される。

今日の想い 838

何度も何度も立ち止まり、自分は本当に幸せなのかと問うてしまう。と言うのは肉心を中心とする堕落の私は既に悲鳴をあげているからだ。御父様によって運命的に相対者と出会った頃は、この世の幸せと同じ幸せが将来的に普通に訪れるものだと思っていたはずだ。しかし地上に於ける全ての希望的観測はことごとく砕かれてきた。それでも時間の流れのまだ穏やかだった復帰された当時は、その希望的観測を持ち続けることができた。そしてそれを持ち続けることが信仰だとも思っていた。今の激流を下るかの如くの時間流では今日に立てる希望さえ明日には砕かれてしまう。そうなるともはや地上に希望を持つことは許されず、彼岸を超えた向こう側に希望を持つのみという来世主義にならなければ一歩だに踏み出せない。あるいは完全自己否定することで全体の希望だけを自分の希望としなければ進めない。しかしその自己否定はかつて経験したことのない自己否定であり、自分で命を絶つことの方がはるかに楽だと実感するほどの自己否定を強いられることになる。私達は頭で想像していた数々のみ言葉内容や原理的用語の本当の概念を今学んでいる。過酷な現実から逃れたい、しかし逃れられない状況で感情の荒波に翻弄されながら、生きて働いておられる神様の生きた心情が息衝く概念を学んでいる。み言葉の一字一句に目を背けたい程の数多の息苦しい感情が蘇えりながら、しかし目を逸らさずに正視して、その核に息衝いている神様の心情を紐解く。神様の心情は人間の悲しみや苦しみの感情など比べ物にならないほどの悲痛で凄惨な叫びとなって尋ねる者に吐露される。御父様の路程が、また御母様の路程が過酷で凄惨とも言えるように、子供として御跡を付いていく私達の路程も過酷で凄惨なものになる。御父母様が歩まれた同じ路程を歩めることが幸せであると、息も絶え絶えに悲しみの涙を流しながらも幸せですと言えなければ、御父母様の子女とは言えないだろう。統一教会は苦労の百科事典であり、ありとあらゆる苦労を味わいながら食口が霊的文字で記していく。


2015年3月25日水曜日

今日の想い 837

私達が御母様の言葉を伺う時、どのような位相に立たれてその言葉を述べておられるかを考えなければ誤解が生じかねない。神様の一人娘であり、原罪のない立場で生まれたという御母様の言葉は、御父様はこの堕落圏からエバを復帰して真の母として立てられたという言葉とは矛盾するように思える。では御母様のこの言葉は明らかに間違っているのだろうか。先ずはっきりとさせて置くことは、原罪のあるなしの問題は血統の問題であるという、そこまでは納得しても血統の問題を地上の血縁関係の問題だと思っている。しかし本当にそうだろうか。堕落が起こったのはエバとルーシェルの関係からだけれども、ルーシェルは地上の存在ではないのでルーシェルを相手にするだけで地上の血縁関係が出発するはずはない。地上の血縁関係は、アダムが完成して神の位相に立つことでアダムと一体の神御自身がエバと結婚して血縁関係を出発させるように、ルーシェルもアダムに代わる地上人の体を借りて、或いは一体となって、ルーシェルがエバと肉体関係を持たなければ、地上に於ける堕落の血縁関係は出発しない。ルーシェルは神様がそうであるように、地上の体を持たない存在であるので実体の子をもうけることができないことは明らかだ。御父様はある訓読会でアダムの伯父がエバと関係を持ったと言われたことがある。それは伯父を通してルーシェルがエバと交わったということだ。当時の霊界と地上界の状況と、現代の霊界と地上界の状況を同じだと思わない方がいい。現代の地上界は鉱物植物動物人間の位階が明瞭に分かれているし、そのように存在輪郭も明瞭だが、よって人間の自我意識も明瞭だが、人類始祖が地上に存在し始めた頃は、位階も輪郭も意識も曖昧なのではなかったかと思える。類人猿を表象する限り、人間が外的には動物の一種だと思われるのも未だ棲み分けが明瞭ではなかったからだ。結果の世界である地上界の出来事は全て原因の世界である霊界の出来事の表象であるけれども、人間が肉心と肉体だけを持つ存在のみならず霊の存在でもあるから霊界の出来事に加担している。すなわち地上の原因を作っている。私が如何に霊的意志を持つかが霊的原因要素であり、霊的原因要素は地上界の因果関係のような時間と空間に縛られない。よって私の霊的意志の方向性で始祖の堕落の要因にもなり得るし、真の御父母様の勝利の要因にもなり得る。話は随分回り回ったが、御母様の発言を地上の血縁関係という時間と空間に縛られる結果世界の言葉と捉えてしまうと、御父様の言葉とは相容れないように思えるけれども、真の御父母様は真の父母として立つまでのあらゆる霊的段階(位相)を勝利されたのであり、勝利されたからこそ御母様は神様の一人娘であると言え、原罪の無い立場、すなわち堕落のない完成の立場は位相の最上階に立たれればこそ霊的に言える立場だ。この御母様の言葉を受け入れる者は霊的勝利圏に共に立ち、疑問を投げかける者は霊的堕落圏に立っている。位相の段階を上げて行くということと、復帰は堕落の経路を遡っていくということは同じであり、歴史を遡って原因の原因である神様の段階にまで到達する。御父様は御母様を真の娘として、真の妻として、真の母として、さらには神様の相対として立てる為に御母様に対されたけれども、私達は意外とその意味する事柄を知らない。普通に見て聞いて対すればおぞましいほどの事柄であることを知らない。堕落圏のありとあらゆる堕落的扱いを受けながらも霊的に堕落されずに勝利されて位相を上げて行かれたからこそ真の父母として立たれている。その路程の内的霊的過酷さからすれば、いうなれば御父様を真の父として産み出したのさえも御母様だということができる。御母様は確実に神様の一人娘であり、原罪の無い立場でお生まれになった。御母様の勝利への路程と勝利がそれを証明している。私達はそう公言される御母様を真の母として戴いていることが希望の源であり幸福の源だ。

2015年3月19日木曜日

今日の想い 836

華々しい経歴と実績を持つ二世の証しは、この世が屈服するに足る実力を十分備えていて御母様の願われる環境創造を実体化させていることが伺える。喜ばれて当然だろう。組織の意のままに素直に従いついてきたティピカル二世、彼等のドングリの背比べから環境創造の願いに応える二世が本当に現れるのだろうかと頭を傾げたが、こんな二世も用意されてきたのかと驚かされた。信仰姿勢に於いて普通の良い子と言われて来た二世達にとっては刺激になるはずだ。組織の意のままに動いているだけでもてはやされて実績がなくてもよかった時代から、実績がなければ御母様も振り向かず天も振り向いてくれない時代に入ってきた。この愛の減少感が二世達を揺らして本物への試練を受けることになる。今までは普通のいい子達であってそれなりに丸い人格なのかも知れないが極めて小さな丸に過ぎず、普通から敢えて丸を壊すという改革的なベクトル意志は生じない。彼らが覚えるであろう愛の減少感に翻弄される過程で、み言葉の中の存在でしかなかったサタンを実感するだろうし、神とサタンの間で揺れる自己を知るだろうし、本物しか残っていかない過酷さを知るだろう。彼がどれほどいわゆる教会活動と言われるものに関わってきたのかわからないが、イスラエルの民の中で育つのではなくサタン圏の中枢である宮殿の中で育てられたモーセのように、教会活動とは直接に関わらずにこの世の中枢に身を置いて、その環境が彼を育てたことが伺える。彼に取って母親とは死別し父親は教会活動で彼の傍にはいないというこの環境が恨みにもなる諸刃の剣だったし、この世のサタンの知恵や知識の洗礼を受けて地上の名誉や栄華だけを指向しかねないというのも諸刃の剣だったはずだ。彼が提言した、教会がカルトと見做されているという問題があるにも拘わらず、彼が教会員であること、二世であることを隠していない。隠さないことで制裁を強く受けるだろうに彼はそれを敢えて隠していない。そこが二世であることを隠して実力をこの世で発揮している二世とも異なっている。彼のような二世がどれほどいるのかわからないが、素直で思考判断を忘れている二世にも、思考判断しすぎて神への意志を忘れている二世にも、大きな刺激となって欲しい。

2015年3月4日水曜日

今日の想い 835

私達は、毎日の生活を通し、生涯を通して、神様を知り霊界を知りそして永生を知るために生きている。知情意の知的側面から言えば人生はそうなる。永遠なる生命という概念は地上で紐解ける概念ではない。地上の生命は全て限りがある。限りがあるからこそ地上の生命であって、もし限りなき地上の生命があるとすればそれはもはや生命とは言えないだろう。地上の私の生命は数億の細胞の絶え間のない誕生と死があるからこそ繋がれているのであって、誕生から死までを生命と言いながら実は誕生と死によって次元の高い生命が成り立つ、言うなれば生命の根底に死があって死なくして生命はあり得ないことになっている。地上的なものから永生と言う概念を導きだそうとするのではなく、神様を知り、霊界を知っていく過程で永生という概念も見えてくる。逆を言えば死を恐れ、地上の生命に執着する限りは、ありもしない地上の永遠の生命という妄想に憑りつかれていて、それは地上の生命の意味、概念すら受け取ってはいないことになる。あなたがたは生きていると言いながら実は死んでいるのであると話されたイエス様の言葉、それは霊的生命についての言葉ではあるけれども、地上の生命についてさえもその意味がわからず、それは生きているという妄想生命に振り回されていて地上の生命を主管的に生きてはいない。明日が継続的に来るという認識は疑問視すべきで、明日が来るのを当然としているから今日を生きようにも主管的に生きられない。地上生命の概念は霊的生命からすれば対象であり、よって主体である霊的生命が備わらない限り地上生命は掴みどころのない影でしかない。地上生命に空気は欠かせなく空気を呼吸して生命維持しているように、霊的生命に愛は欠かせないもので愛を呼吸している。地上の愛は落とされた愛、偽りの愛なので霊的生命を維持する愛の呼吸には問題があり、本質の愛である真の愛を呼吸することを覚えなければ霊的生命には至らない。ともあれ、どんなに霊的生命を想像し、また考察するとしても、それだけでは思い込みに入り込みズレてくる。それ以上に真の愛に至る愛の実体訓練がはるかに大切であり、もし、実体訓練なくして真の愛に至ることができるのであれば、思考回路だけで十分であって肉体など必要がないということになる。

2015年2月23日月曜日

内村鑑三を思う

 内村鑑三は著書の中でこう言っている。
自分が或る真理を知り得ることを信じ、あらゆる真理を知り得ることを信じないのが、真の基督教的寛大の基礎であります。(余は如何にして基督信徒になりしか)
 ドクター朴が尊敬しておられる内村鑑三だが、日本の食口のどれほどが彼の著書を手にしたことがあるだろうか。そういう自分も原理に出会ったことで真理の探究は終わったかのように思っていて、特に復帰されてからアメリカに来るまでの時期はみ言葉以外の本は殆んど目を通したことがない。本を読む時間もなかった訳だが、おそらくそれは言い訳で、原理という真理の頂点を得た以上、他の書物を紐解く意味などなくなり時間の無駄だと思われたからだ。上に記した内村の言うキリスト教的寛大はキリスト教のみが真理ではないと信じていることが基礎だと言っている。キリスト教的寛大を言うなら、その対比である偏狭はひょっとして私達統一食口の基礎になってしまっていないだろうか。原理を知り得たことであらゆる真理、すなわち全ての真理を知り得たと信じていて、他に対して耳を塞いだままでいる。謙虚であれば寛大になれるし、傲慢であれば他を排して自分という狭い中に留まり続ける。原理こそが唯一の真理だと信じて疑わない私達は意識が狭まっていることを自覚すべきだ。度重なる摂理の失敗を積み重ねながら、それでも未だに反省することなく、傲慢にも失敗の原因は他にあるはずだという無責任の上に私達は存在している。基本的に私達はその選ばれし意識に於いて傲慢で、今まで謙虚であった試しなどない。責任が私達にあるにもかかわらず過去の摂理などなかったことのように生きているけれども、どれほど小さな摂理であれサタンが讒訴しないことがあろうかと言うことだ。原理とて時代に於ける真理の表現方法であるし、実体み言葉であられる生きた御父様を戴いた意味をよくよく考えないと、原理という言葉の鞘に雁字搦めで人生を終えることになる。傲慢という基礎の上にある以上、精誠という言葉、心情という言葉は私達と共にはない。私達が思っている精誠も心情も仮の精誠であり仮の心情で本物だとは言えない。よって食口はとことん打たれるだろう。私達の自意識が完全に消滅し、灰になるまで、どこまでも試練の火で焼かれる。もはやゼロ点を超えて絶対に立ち上げれない、統一食口の選民的自意識が消滅するというその時にこそ、絶対零度を超えることで天の高みに移動させられる。と言うのは私達は本当の意味で切実な求める心を用意できていない。絶対零度に近いマイナス位置でこそ切実に絶対プラスである御父様の本質を求めるはずだ。傲慢な自意識が自分にあるうちはまだ打たれる余地がある私だと見て間違いない。心情が実体を持つことができるのは御父様に限らず、御父様が開拓された路程を絶対信仰、絶対服従でついていく私達も御父様と同じように心情の実体となるべきだが、私には誇る何もありませんという完全否定を受け入れた位置からが本当の心情一体化への道を歩むことになるのだろう。天の血統の精子として心情の種を宿した者は地上界であろうが霊界であろうが祝福された数だけ存在している。しかし心情が実体を持つまで、すなわち心情の種と卵子が出会うその路程を完遂する者がどれだけいるだろうか。最初の初穂となる存在は祝福を受けし者達の中に現れるとしても、祝福を受けた全ての者が最初の初穂とはならない。真の愛は縦的神様の愛と横的真の父母の愛の一体圏に於いて見出される、という意味は、縦的愛と横的愛の交わる接点にどのようにして私が立つかと言うことだろう。私達はキリスト教的寛大を超えて、完全否定された立場で本当の謙虚さが骨の芯まで染み渡ってこそ、完全なる対象になって主体なる御方を迎えることができる。

2015年2月21日土曜日

天暦2015年を迎える

開けて天一国3年、天暦1月1日、天の父母様の日を迎えた。タックスリポートの期限は迫っているし、店は店で改装のために忙しいし、家庭の主(あるじ)としては主で妻の介護と病院通いに奔走している。こんな心落ち着かない新年を迎えるのは初めてのことだ。毎年暮れかかると清算すべき何かはあるけれども、それでも何らかの結論を出して心機一転して新年を迎えることができた。が今年は違う。外的にも内的にも何の結論も出てはいない。新年を透析センターで迎えた妻は、この二か月で十年の苦労の歳月を費やした如くにやつれている。人間の寿命はここのところ延びて、実年齢の七割掛けだそうだ。その計算によれば妻は40を超えたばかりだが、逆に三割増しの速さで自分の時間を駆け下っているようだ。どちらの両親も年相応の症状は出てはいるけれども、それでも妻に比べればしっかりしているし、妻の二人の姉などは妻の一回り下の妹だと説明しても誰もが納得するだろう。私達夫婦二人はこの現実から逃避することはできない。どれほど模索しても、どれほど問い尋ねても、答えを与えられないままで、終わるとも知らない地獄の行脚を進んでいかなければならない。誰もが自分の人生と他の人生とを比較しながら、その比較で優位に立てる自分を見出すことで慰めながら、定められた運命の道筋を辿っていくのだろうけれども、次々と悪夢が現実となり、矢継ぎ早に落とされていくと、そんな比較優位などで人生を歩む力とはなり得ない。転がり落ちるのを先ず止めることが先決だと、誰もが踏み止まれる位置を見定め落ち着いてから、次なる環境受け入れや人生設計を試みる。しかしどこまで落ちていくのかわからない状態という進行形では、転がり落ちるのを止めるより、上りへの岐路が必ずあることを信じて、その勢いのまま駆け上れるように翻弄される環境も感情も甘受する以外ない。下りがあれば必ず上りがあるはずだと、、。もちろん上りへの岐路など見当たらない。見えない奈落の底へいくらでも転がり落ちていく。兎に角、踏み止まろうとしないことだ。僅かな、慰めの希望的観測など目も当てないことだ。地獄の底の底を見定めてやると覚悟して、落とされる運命を甘受し続ける以外ない。祝福家庭が天の花なら、地獄の底であっても祝福の花は咲くのかどうか見定めればいい。転がり落ちながらも新年を迎えることの意味は今は問わない。それでも、せめてものお約束の御寿司を供えて、誰一人いない店で御祝いの敬拝を供えた。

花の精に会いたい

私は花を知らない。花が光を受け止める生殖器であることは知っているけれども、光が花を通過して受胎する精霊達を私は知らない。それぞれの花にそれぞれの花言葉があるように、様々な花の色や形に化身している精霊達が宿っている。私が孤独なのは誰も私の事情をわかってくれないからではなくて、ましてや神様からも見放された愛の減少感でもなくて、私のこの同じ想いを共有する花に宿った精霊が存在するにも拘わらず、私はその花の存在を知らないからだ。その花を知っていれば私は孤独を覚えない。愛の減少感が罪の根源ではないように、この感情そのものが悪でもなければ堕落性でもない。けれども、この感情のやり場を見つけない限りは、恨みとなって悪魔に届けられてしまうだろう。私は花を知りたい。私のこの想いを共有してくれる、この世界のどこかにひっそりと佇む花を知りたい。その花の精に私のこの同じ想いを見届けたい。そうして慰めてあげたい。それで私の想いは解放されるはずだ。私の知っている数少ない花たちの中に、この想いを宿している花の精を知っている花はいるだろうか。心寄せる春の花たちはどうだろうか。命の短い桜の花は知る由もないだろうか。冬の死を前に咲く秋の花たちはどうだろうか。だいたい私のこの想いは、どう言葉で表現したらいいのかさえわからない。言葉が見つからなければ祈ることもできないし、想いを念ずるにも言葉として表現しなければ届けることは出来ないだろう。罪が深すぎて、この想いが神様に届かないと言われれば諦めがつくけれども、せめて色形を供えた花の精が、地上で同じ感性の次元に存在しているにも拘わらず、それでも私はその花を知らない。世界のどこかに存在しているその花を知らない。花の精が私を訪ねてくれるのを待つのではなく、私がその花を見出して、その花の精に私のこの想いを見届けたい。そうして、私から慰めてあげたい。花の精に会いたい。

2015年2月18日水曜日

今日の想い 834

全てを否定させられている。期待していたものがことごとく裏切られ、当然そうなるものだと思っていたものが一つとしてそうならない。それでも踏ん張って明日へと希望を立て直そうとするけれども、そのわずかな意志でさえも待ち構えていたかのように一撃で打ち砕く。全てを否定され、全てを打ち砕かれ、息も絶え絶えになり生きて息しているのが不思議に思えるほどだ。そう、私達夫婦は地獄の現実のど真ん中に生きている。肉体的には何とか生きているけれども、霊的生命は消えかかっている。ああそうだった。この感情の味わいこそが霊的死の味だった。霊的死を現実世界に味わいながら霊的生命としての息をつける隙間を探している。諦めながらも探している。この果てなしと思われる地獄にも霊的生命の息吹きをつける岩場が必ずどこかあるはずだと、、。その岩場を本当に探し当てたとき、私は本当の意味で救い主に出会ったことになるはずだ。御父様が救世主であることは疑いようのない事実だとしても、私は本当の意味で御父様に出会ってはいない。地上の現実として御父様に出会えたことは霊的生命にとっては象徴的な出会いでしかなくて、今まさに地獄の中で彷徨いながら、そうして霊的生命の息を吹き返す岩場を探し当てたときこそ、本当の意味で救い主としての御父様に出会うことになる。この石をパンに変えてみろと悪魔サタンはイエス様を試したけれども、この苦痛の一つ一つをひとつ残らず恨みに変えてみろと悪魔が私に囁いている。囁くどころか巧妙にも挑発してくる。足を払われる毎に、それでも信仰を立て直そうと踏ん張れば、途端にまた足を払う霊的存在がいる。妻はあまりにも次々と起こる肉体への仕打ちに対して、何が何なのかわからないと放心状態にさえなっている。決意して乗り越えようとすればその端から砕かれる。今の彼女はサタンも見ようとはしないし神様へ顔を向けようともしない。彼女にとっては試練ではなく、それがサタンの為す業であれ神の為す業であれ痛みつけるだけの仕打ちでしかない。彼女にとっての見捨てられた孤独な感情や肉体の苦痛も、私にとってのやりきれない感情や心魂の苦痛も、今ではいとも簡単に恨みに変えることができる。恨みの数々で肉体の輪郭も魂の輪郭も、破れて破裂するほどにパンパンになった時、私は完全に悪魔の血統であるとサタンへの証を立てることになる。確かに私と妻、そして私達夫婦は選ばれた存在だ。決してこの世的福を受けるために選ばれた存在ではない。サタンなのか神なのか、この夫婦を試験台にする意味で選ばれた存在だ。破裂しそうなほど膨れ上がった妻の足が車いすから垂れている。その中に詰まっているのは数多の恨みだろうか。恨みがゾウの足や風船の顔に吹き溜まりとなって渦巻いているのだろうか。私もわからなければ彼女もわからない。わからなければただ時が流れるのに任せて流れるしかない。

2015年2月14日土曜日

今日の想い 833

腎器官がうまく機能していないらしい。体内の水分を排出することができないために足はゾウの足のように膨れ上がり、顔も満月顔にパンパンに腫れて、健康だった頃の面影はどこにもない。敗血症がやっと治まる頃に転倒してしまって、弱り目に祟り目の状態で今では自分で立ちあがることもできない。よくぞそんな状態でアメリカに連れて来れたものだと我ながら感心してしまう。それも仕方がなかった。病院にいればいくらでも金はかかるし、誰か面倒を見てくれる者も見当たらないし、病人にとっての長旅はできれば控えさせたかったけれども、背に腹は代えられなかった。アメリカに帰国して取り敢えずは様子見でベッドに寝かせていたけれども、猶予のない状態だと判断して急ぎ救急に連れて行った。病院という言葉を出す度に相対者は口を閉じて顔を強張らせる。条件反射的に嫌気感を覚えるらしい。それでも連れて行く立場の私からすれば移植を受けた場所、いわゆるホームグラウンドなので、経験のない日本の病院で治療を躊躇されるのを説き伏せるという煩いはない。その分だけは気が楽だった。しかしそんな気休めの安心が吹き飛ぶほどの事態になろうとは、連れて行く折には予想だにしなかった。妻は今まで数え切れないほどの爆弾を破裂させて周囲の内外を混乱に陥し入れてきた。蕩減なのか使命なのかわからないが、あとどれ程の爆弾を抱えていて、それがいつ投下されるのか、もちろん当の本人だにわかっていない。こんな状況になることを御父様も神様も祝福を与えた折には予定として見ておられたのだろうか。そうでないなら家庭としてその運命的なものを抱えることがみ旨と言えるのだろうか。避けようにも避けきれず、逃げようにも逃げ切れない運命に捕らわれ、肉体に於いても精神に於いても翻弄され続けながらも、ずっとその問いを問い続けている。聖人にはなれず、地獄の底で喘ぐ恨みごとしきりの自分の唯一の信仰姿勢として、今では問い続けることだけを条件にしている。



2015年2月7日土曜日

今日の想い 832

通常、腹中の胎児が地上界に生まれたときの状況を想像できないし、想像する能力さえ備えていないように、地上界の人間が霊界に生まれたときの状況を人間の能力として想像できるとしても、霊界の実体様相はその想像を越えている。どんなに言葉を尽くしてもそれは象徴や比喩の枠から越えることはない。腹中の胎児に話しかけても地上の聴覚器官や判断器官は持ち合わせてはいないから、地上の人間が理解するのと同じ理解の仕方は出来ないとしても、何らかの低次の波動は受け取るに違いない。霊界の完成した霊人体を備えた霊人にとっても同じことが地上人に対して言えるはずだ。霊界の住人にしてみればどんなに働きかけても地上界は低次の波動しか受け取れない。人間は腹中時代に地上時代の準備を為し、地上時代に霊界時代の準備をするようになっている訳だが、堕落した人類は血統的なものである霊的(愛の)感性の欠如によって、愛の空気を呼吸する器官を準備できないために死が霊界の生とならず死は不完全なる霊界の生でしかない。不完全な霊人体では再生の地上再臨によらなければ霊的器官の準備、すなわち愛の完成とはならない。霊界のことを記した様々な本もあるし、み言葉も霊界について多くの事が記されているけれども、どれほど知識として学んでも知識がそのまま霊的器官の育成にはならない。正しい知識であっても霊的叡智の低次の波動に過ぎないのであり、霊的器官を備える為には正しく愛し愛されることが必要だ。食口でさえも疑問に感じる霊界に住む存在、それはとりわけ天使や天使長に関するものだけれども、存在することは導き出せるとしても存在様相はわからなくて当然だ。天使を見たという者も沢山いると思うが、通常の場合、見せられたそのものが天使ではなく、形あるものとして見せたその見えない意志こそが天使存在だ。当然その意志には複数関わっている場合もあり得、単体の天使とは言えない。堕落論に説明されているアダムとエバ、そして天使長ルーシェルの話は、それぞれの存在が存在し、そのような事件が起こったことは事実としても、その様相をイメージし始めた時点で誤解を生んでいく。はっきり言えることは、現代人と同じ人類始祖である人間がその場にいたとイメージするのは全く間違っているし、地上界の高次に霊界が存在するのに、地上界と同じような霊界、左の地上界に対する右のような霊界イメージで描くことも間違っている。さらに言えば、現代人の死の意味と霊界と地上界が混在するかのような当時の死の意味でさえも全く異なっている。霊界を知識として理解するのではなく、愛し愛され、四大心情圏を準備するにつれて受け取る霊的感性こそが、次第次第に霊界を見通せる器官になる。愛さない者は神を知らないと聖書にあるように、愛さない者はイエス様をも知らないし、もちろん御父母様をも知らない。そして愛さない者は霊界も知らない。目を皿にしてみ言葉を訓読し知識として受け止めたとしても、愛さない者はみ言葉の何一つ知らない。

2015年1月28日水曜日

今日の想い 831

目的地が見えないまま、それでもこの道で間違ってはいないはずだからと、後ろを振り返りながらも前進してきた。目的地が本当は何処なのかを知らずに、しかし人間の目的地がこの道の行き着く先にあると踏んで進んではきた。神様の三大祝福、個性完成、子女繁殖、万物主管。人間は幸福を追求する存在であり、目的地である幸福の境地がその祝福の達成にある、、はずだと歩んできた。原理を受け入れた者は殆んどがそうだろう。しかし個性完成とは何なのか、本当に分かっていて個性完成し、さらにそれを祝福だと歓喜する誰かに未だ会ったことはない。神様の心情を知り、神様と心情一体の境地を個性完成というなら、全ての人類と万物の孤独と悲しみ、それを超える孤独と悲しみを背負っておられる神様であれば、その心情を知り、その心情と一体の境地を受け入れることだ。すなわち私自身が神様の孤独と悲しみを背負うことだ。しかし自分の孤独と悲しみにさえ辟易している私なのにそんなことが可能だろうか。更にそれが祝福と言えるだろうか。それを祝福と思えるだろうか。私は馬鹿が付くほど素直だったから祝福と聞いて貰って嬉しいぐらいのものという認識でいた。もちろん孤独そのものが祝福ではないし、打ちひしがれる悲しみそのものが祝福ではない。祝福はその打たれる条件を代価(代償)として、より愛する力、生きる力、残して影響を与える力を買い取ることができるからこそ祝福のはずだ。孤独や悲しみに打ちひしがれている間はサタンの思う壺で、そのマイナス感情を更に募らせれようとする。統一食口の正念場は華々しく実績を立てている立場ではなく、ヨブの如くに次から次へと打たれる立場こそその真価を問われる正念場だ。祝福は奪い勝ち取るものだ。打たれることで勝ち取るものだ。だから統一教会は苦労の百科事典だ。その事典にはあらゆる苦労が記されており、ひとつひとつの苦労を代価として何を勝ち取るのか、苦労を代価として何の祝福を受け取れるかが記されている。はっきり言えることは苦労を代価としてこの世的、あるいは地上的幸福を受け取るのではない。物質的欲望、あるいは感覚的欲望を満たすものではなく、さらに心魂的欲望を満たしてくれるものでもない。その祝福は霊的なものだ。地上の価値あるものを代価としながら霊的に価値あるものを受け取る。愛は確かに形あるものではないけれども、それでも地上的な愛もあれば霊的な愛もある。私達が受け取るべき真の愛は、偽りの君を根源としている通常のエロスの愛でもなければ一般的にいう優しさや癒しの愛でもない。地上の誰もが優しさや癒しを求めているけれども、真の愛はそんな地上的な優しさや癒しでもない。霊界から見れば、地上的な優しさや癒しは偽りの愛から真の愛を求める或る段階の妥協的愛でしかない。未だに私達は霊的無知であり、目的地には燦然と輝く真の愛が霊的光、霊的暖かさをもって照らされているのに見届けられない。地上的な優しさや癒しなど比べ物にならない優しさや癒しがそこにはある。確かに私達の道のりは、無知故に遠回りするとしても、それでも前進する以上間違ってはいない。そこに孤独があり悲しみがあるなら、それこそが確かな道であることの証拠だ。孤独が胸の内を空虚にすればするほど、悲しみがさらにその谷間を深くすればするほど、真の愛へのワープポイントである絶対零度、-273度圏に近付いている。

2015年1月20日火曜日

お地蔵様は良心の化身かも知れない

病床の妻は、思うように動かない体を引き摺って窓際まで来ると、外気の冷たさが遮断され、ガラス戸越しに通過した陽の暖かさだけを存分に浴びながら、凝り固まった体の縛りを解いていた。彼女に取って今はこの陽の暖かさが神様の恵みだ。何も考えず、何も心配せずに、ただ身を委ねてその神様の恵みを浴びていた。太陽が生命の光を照らし続けるように、霊的太陽であられる神様は心情の光を照らし続けられる。太陽が生命の光を照らし続けるように、人間は霊的太陽の子として意識の光を照らし続ける。意識の光は私から照らされる。私の置かれた現実の環境がどうあれ、置かれた環境がどれ程過酷であり悲惨であったとしても、私は意識の光を照らし続ける。太陽がどんな谷底にも光を差し込め届けるように、神様がどんな醜い存在にも想いをかけられるように、私は逃げずに意識の光を照らし続ける。この環境の過酷さを直視し、過酷な現実が私の愛の暖かさでその恨みの縛りを解いて、私に慣れ親しんでくれるよう照らし続ける。母親が所構わず泣き叫ぶ赤子を忍耐強くあやし続けるように照らし続ける。私は現実から逃げていないだろうか。過酷な現実と悲惨な現状を暖かな眼差しで抱き続けようとしているだろうか。私は神様に似て照らし続ける存在になるべきだろうに、そうなっていない自分を見る。だからせめて、もう溜息だけはつかないことにしよう。もう泣き事だけは言わないことにしよう。それほどに恨み多い世界なら、せめて私だけでも恨み事は言わないことにしよう。神様が堕落した全ての子供たちをかき抱くように、この過酷な環境をかき抱くことにしよう。この面倒くさがり屋の私が、思うようにいかないことに直ぐ腹立たしさを覚える私が、現実を前に神様に恨み事しか言わないこの私が、この私が変わることこそが神様の第一摂理に違いない。私は何となくわかったような気がする。どうしてこれほどに私の現実は過酷なのかを。どうしてこれほどに次から次へと困難がやってくるのかを。私の神様に取っては、世界を救う以上に私が変わることの方が大切に違いない。私が変わることで私の救いがもたらされる、それが第一摂理に違いない。正直な事をいうと、この世に生まれたこと自体が恨めしいと思ってきた。だから困難を前に、意識を閉ざして無い事のように、起こらなかった事のように装おうとし、霊的な眠りに入ろうとした。それでも私の良心は私の良神として、私がその存在を忘れるほどに近くにいて、私の仕打ちを甘受しながらも真の親として導き共に居て、支えてくれてきた。妻は浮腫みのせいで随分細くなった眼を太陽の光でさらに細めている。その為にそう見えるのか、それとも本当に微笑んでいるのか見分けがつかなかったが、その姿が柔らかな表情のお地蔵様のように見えて、親としての良心がそこに佇んでいるかのようだった。

2015年1月18日日曜日

お伊勢参り

帰国しているこの際にと、昔世話になった当時の責任者に会うことにした。今も三重に住んでいて、御夫妻のどちらにも時を違えて世話になっている。今までも何度か会う機会はあったが、どうも気が進まなかった。自分のあまりの変わりように驚いて笑われる自分の姿が思い浮かんだからだ。何と器量の狭いシャイな小心者だと思われるだろうが、それが今の私の現実だ。体形は日々変化をし、娘によると今の私はドラエモンだそうだ。「ドラエモン空を飛んで来た」と言うことだ。このツカミで何とか再会の第一印象を乗り越えようと思ったが、お久しぶり、とお互い笑顔で挨拶しただけだった。自意識が強すぎてどうでもいいことに神経を費やしてしまう。いつものことだ。近くで昼食のそばでも食べながら一通りの近況を説明し、一頃お世話になった家にも出向き、明日の朝は御伊勢さんにでも参拝して帰ると告げると、これから連れて行ってあげるとやおら立ちあがった。ずうずうしくも素直に受け入れて、忙しい貴重な時間を取り上げて付き合ってもらった。伊勢まで1時間以上のドライブだ。昼過ぎに出立し、内宮の参道入り口にある市営駐車場に着いた時には既に3時半を回っていた。降り立った彼に促されるままに向かうと、遷宮の折りに造られたという期待感掻き立てる地下トンネルを抜け、土産物屋が連なる長い参道に出た。タイムスリップしたような世界が両側に延々と続き、人々がその間を流れている。参拝を終えた人々があちこちの店に立ち寄ったり写真を撮ったりしている。見覚えのあるピンク色の包装紙が、ビニール袋に包まれてあちこちで揺れている。物珍しさに意識を四方に奪われながらも彼の後を付いて歩き、内宮入り口、宇治橋への鳥居に着いた。遷宮で新しくなった鳥居の檜は清々しいが、宮島の大鳥居や出雲大社の入り口で参拝者を見下ろしている鉄製の大鳥居を見慣れているせいで、正直、随分小さく見えた。しかし一礼して宇治橋を渡っていくと、明らかに普通のお社とは異なる気を感じた。姿勢を正さざるを得ない空気に次第に包まれていった。確かにその日は寒くはあったけれども、凛とした敷地内の空気は寒い気候のせいと言うのとは違った。私は参拝客という一対象として、心を正さざるを得ない大きな主体の存在、それも一柱というのではなく、一群の精神的主体存在を霊的に認識し感じているのがわかった。伊勢神宮が天照大神を祭っているのは誰でも知っている。しかし神話から受け取る印象のみでこの場に足を踏み入れると面喰ってしまう。ここには確かに日本民族を日本民族たらしめ、私達の根源に影響を与えた高次霊の一群への次元扉がここにある。私達は確かにエバの堕落によってその堕落の血を延々と引き継いで来た後孫に違いないけれども、この場にある次元扉を開いて出会うであろう精神存在達を、神様と関係のない堕落に関与した虫けら以下の存在だと全否定するのは、私の立場、私の位相では大罪に等しいだろう。しかし真の父母として来られた出所である根源は今はここに通じてはない。根源は天の岩戸のはるか向こうにある。天の岩戸は依然と閉ざされたままだ。エバが立たなかったからエバに備わるべき女性の本質は岩戸の向こうに隠され閉ざされている。堕落したエバではなく女性神として迎える宝座を神道は用意してきたように思えるし、事実迎えることができれば民族的女性神としての一柱がここに立ったはずだ。本当の意味で天の岩戸が開かれるはずだ。日本民族として過ちを犯し、或いは犠牲を強いられ、そこには迎える女性神を探し出す高次霊の一群の苦悩が伺える。ちょうどユダヤ民族が、迎える男性神を探し出す苦悩を抱え、多くの犠牲を払わざるを得なかったようにだ。歴史を持つ多くの宗教が宗教統一を掲げる御父母様をどのように迎えるのか。それぞれの宗教に関与する高次霊達は既に迎えたと言えるのだろうか。霊界のメッセージには宗教の基となった聖人達の、御父様を証しする内容が記されている。教祖と言われる聖人は受け入れるとしても、その指示の基、その宗教を信じる全てが右に倣えとはならないのだろう。人間はどこまでも複雑な存在だ。しかし内的霊的にどれほど複雑であっても、当然私達食口も同じように複雑であり、間違いを犯し罪を犯し続けるとしても、結局は勝利的基盤、すなわち人々が見上げる地上の環境基盤を築けばそこになびいて来るようになる。参拝した参道の帰り道、責任者だった彼は私にこう言った。「清平は20年そこそこなのに、内宮は2000年の歴史がある。」と、、。その意味するところを敢えて聞くことはしなかった。誰よりも教会に献身的に歩んできたし、今も歩んでいる彼のその言葉は、清平は取るに足らないというような思いでは毛頭ないだろうから、内宮以上の基盤を早く築かないとと言う私達自身への戒めの意味があったと思う。お伊勢参りと言えば赤福だ。参拝客の多くが土産にするであろう赤福を買って帰ろうとすると既に売り切れていた。仕方なく向かいの赤福のぜんざいを小上がりで食べて帰った。ぜんざいの甘さなのか、小上がりに腰を下ろしているのが皆若い女の子だったからか、内宮での緊張感から解き放たれたように思った。

2015年1月13日火曜日

今日の想い 830

公開質問に受けて応えることは、み言葉を解釈問答という議論に落とさざるを得ない。いつも言っているように、み言葉は一つでも、百人いれば百通りの解釈が起こり得るわけで、自分の理解が正しいと思っても、自分の理解とみ言葉の概念が同じなのかどうなのかは私達の基準で判断できるものではない。み言葉はこうだからこうだと断定できる者は、どんなにみ言葉に精通している者であっても存在しない。解釈に道筋を見出そうとする食口は、所詮み言葉を堕落圏の言葉の領域に落とし込めようとしている。本当はわからないみ言葉なのに、言葉の領域に落とし込んでわかったつもりで安堵しようとしている。「私はみ言葉以外誰の言葉であっても正しいとはしない、それが御母様の言葉であってもみ言葉と喰い違うなら御母様をも認めない。」この言い分は一見的を得ているようだが、その根本的な問題はみ言葉を正しく受け止めていないにも拘わらず傲慢にも自分なりに理解したみ言葉を正しいとするところにある。自分なりに理解したみ言葉と本質であるみ言葉は異なる。ユダヤ教の聖職者達は、あれほどに聖書に精通しながらイエス様を認めることができなかった。クリスチャン達が常に聖書を手にしながらも結局は空を仰ぎ見て再臨のイエス様を待ち望むしかなかった。既に地上に到来され、さらには御聖和されたにも拘わらずまだ待ち望んでいる現実がある。それは御父様に出会い成約のみ言葉を受け入れた私達からすれば滑稽と思えるほどだが、歴史の事実としてそうなってしまった。しかし彼等を決して笑えない私達だということを認識する必要がある。私達もユダヤ民族やクリスチャン達が犯してしまった罪を同じように犯そうとしているからだ。それがみ言葉の解釈問題だ。公開質問などと言う提案が出てくること自体に、歴史的失敗を犯した彼等と同じ轍を歩もうとしている。正しいとか間違っているという判断は絶対であるみ言葉を前に頭を垂れる態度ではない。ただただ、み言葉とみ言葉の実体であられる御方を前に、私は何もわかっていないと頭を垂れるべきだ。神様と本当に出会って声を発する者がいるのか。真の愛を体じゅつしたと断言できる者がいるのか。み言葉の実体だと言い切れる者がいるのか。み言葉を知ってはいるがその本質を受け取り実体となってはいない。実体となってはいない自分のみ言葉解釈を正しいと断言する根拠は何一つない。であれば尋ねる姿勢を取ることだけが私達の選択肢であり、答えが得られるまで尋ね続けるしかない。すなわち謙虚であり続けるしかない。ユダヤ教徒もクリスチャン達も間違いを犯したのは決め付けから始まっている。彼等は謙虚に主はどこに来られるのですかと尋ね続けていると言うだろう。しかし問題は尋ねるに真っ白な姿勢で尋ねているのではなく、それぞれなりの期待感を持って尋ねている。それは期待へのイメージに対する執着でもあってそれが決め付けだ。私達は神様に対しても、御父母様や御家庭に対しても、はたまた霊界に対しても、正しいと思っているイメージが自分の中で先行しながら、それに合わせてみ言葉を解釈しようとする。意外とみ言葉を知らない者達の中でみ言葉の本質により近い者達がいるかも知れない。私達食口よりも遥かにみ言葉の本質を受け取った者達がいるかも知れないと思えないだろうか。そう思えないことが既に選民である私達という間違ったイメージを備えている。解釈問答に何の意味もない。強いて言えば言葉の遊びに過ぎない。それで摂理が進む訳ではない。心情を捉えられない者はみ言葉の言葉という鞘に執着し続ける。

2015年1月4日日曜日

今日の想い 829 (新年への想い)

迎えた新年に対する想いは、昨年の基盤の上で新たな戦いが始まったという感慨だ。撃たれる矢の数々に辟易しながらも、それでも信仰生命を失わずに新年に登壇することができたという感慨だ。元旦の冷え込んだ早朝に空を仰ぎ、青く反射する東の空からオレンジ色の陽が差し始めるのを見る。全ての痛みの影も、全ての憂いの影も、この朝陽の輝きで染め抜いて、新年の新しい戦いに向けて昨年の禍根を残すことは無い。この陽暦新年の元旦は今までとは違う。息子も帰っては来ず娘もこの正月休みに友達と出かけた。妻は日本に残したままだ。家庭を持って初めて一人で新年を迎える。その意味が何なのか今はわからない。しかし新たな戦いが始まったという御触れだけは天から届いている。陣太鼓の音が何処か遠くの方から聞こえてくる。外的なことを言うなら見通しも立っていない。内的霊的に見通せないのに確かな外的な見通しが立つだろうか。それでも一日、一日と進む以上、手探りででも進まなければならない。立てられたビジネスの中心者からすれば私が常に否定的で悲観的である風に見えるだろう。現実そうなのかも知れない。時間は更に早く早く刻み続けられるのに、前に進まなければ置いてけぼりを喰らってしまう。そんな危機感は覚えて当然だとしても、その焦りから見切り発車になってしまう。一旦決めて行動に移す以上はどこまでもポジティブで楽観に徹するべきかも知れないけれども、見切り発車にならないためには決断は慎重にすべきで、どれだけの内外の覚悟が担保されるかを把握して始めて決断が決断となる。リース(契約期間)が無くなればそのまま店も自然消滅するというのが差し詰めの見通しであれば、生き永らえる為には出店の為の戦略が必要だ。しかし焦りを見せてしまって、戦略もそこそこに見切り出店になっていないだろうか。日本でもここアメリカでも、益々所得格差は大きくなっていくようだけれども、しかし一方でバブル崩壊の足音が近付いている。株価は上下するのは常だが、上下しながらも上向きに登るはずだと何の根拠もなく安心し切っているが、バブル崩壊は必ず起こる。それがいつ起こるかはわからないが必ず起こる。あぶく銭目当ての店がニューヨークやラスベガスで目立っていて、私達も低所得者相手の商売をやめそれなりの高価格帯の店を出店する必要があると言われれば誰もが頷くだろう。しかしそれでそのままゴーサインを出していいのだろうか。ビジネス摂理として歩んできた実の部分である精誠を思えば、そんな表面的に決められるとは思わない。国家の血液であるお金が限界を越えて水増しされていて、もはや国家破綻は避けられない。そこまで見通して私達が何をすべきかの戦略を立てなければ、同じようにバブルに踊らされたバブル景気の店を出して、ビジネス摂理を天から委ねられていると言えるのだろうか。利益を出して当然だとしても、利益を出すことが最終目的ではない。御父様の願われた水産摂理、海洋摂理は儲かるビジネスを越えたところにある。水の問題があり、食糧問題があり、環境汚染問題があり、バブルが弾け国家が破綻すれば今は差し迫って意識する必要のないそういった問題が人類の死活問題として台頭してくる。必ずそうなる。御父様がわざわざ書き記すみ言葉として残して下さったそういった海洋摂理への課題を忘れて、どうしてビジネス摂理を担っていると畏れ多くも口にできるだろうか。新年に向けて再度み言葉に立ち返り、儲け主義一辺倒のビジネスでしかないことを悔い改めて出発したい。

2015年1月3日土曜日

裸の王様

王の側近達が、もともと存在しない王衣でありながら、彼らの見栄でもって誰もが自分には見えると言ってのけ、その存在しない王衣をあたかも着ているかのように皆が振る舞うことで、裸の王様が成立している。御父様に対して責任者たちが盛って盛って報告してきたものだから、彼等の見栄に対するツケが大きな借金となって食口達にしわ寄せがいってしまった。食口達にしわ寄せがいくのみならず、正直に報告される御子女様をも蚊帳の外に押し出してしまった。それが現実であるのに、その現実を御父様が認識しておられないと、言っても難しいと、御父様に直談判しようとすればするほど墓穴を掘る格好になってしまった。グループ派の訴えたいことは概ねそういうことになる。御父様が信頼される責任者たちの見栄が、御父様を裸の王様に仕立て上げてしまったということらしい。表面的にはそういう説明も成立し得る。しかしそれは表面的な現実であって、その背後に何が流れているのかを見通さなければ本質からずれてしまう。御父様を地上の法則や規律に引っ張って落とし込む霊的な反逆行為であることを見通していない。復帰原理を学んだ私達であれば、道徳や常識では考えられない戦略、いや策略といってもいい事柄がその都度神側から仕掛けられていて、天の意志として復帰摂理を導いている。ダビデがウリヤの妻、バドシェバと密通して生まれた子がイエス様の系図に登場するし、タマルやルツ、ラハブにしても道徳や常識では考えられない彼女らの行動が天の戦略だったことを私達は理解している。御父様は裸の王様になっていると食口達を煽り、真実を述べる責任者を立てるために様々な謀反を起こし、そこに落ち着くことなく更には御母様のみ言葉編纂や御自身に対する言動を取って、御母様すらも御父様に反しているとまで言ってのける。ちょうどハムがノアの裸であるのを見て兄弟達を煽ったのと変わりない。御父様が裸だと思うのなら御父母様にその疑問をぶつければいいものを、食口達を煽ればハムと同じ過ちを犯してしまう。すでに犯している。食口達に訴えることで御父母様一体圏にひびを入れようとする行為にはなっても、一体圏をさらに強固にする行動とはとてもいえない。ビデオに取ってまで訴えられるお気持ちは個人的には察するとしても、方向性を間違えていて、裸の王様だと訴えれば訴えるほど一体圏を阻止する力となる。表面的にはどう捉えられるとしても、御父様は裸の王様ではないし、御母様が裸の王様に仕立て上げた責任者たちと同じではない。大体どこに御父様を言いくるめて手玉に乗せるほどのサタンの上を行く人物が責任者の中にいるというのだろうか。随分前に食卓に着かれた御父様の背後から、盛り付けた食器を差し出したことがある。通常は御付きの姉妹がするのだが、その時は誰もおらず私が作り私が提供した。その時感じたのは背中が丸くなって屈みこんでおられ、御父様が小さく見えた。一人の小さな老人に見えてしまった。御年を取られたのだなあという切なさで背後を離れた。御父様も人間の肉体を持っておられるのであり、年を重ねられれば肉体的力も失われ、記憶や判断もかつての容量や鋭さも失っていく。現実的問題としてそれによって起こるであろう誤解も生まれるわけで、支える御母様の御苦労も、通常の自分達だけで支え合うだけでいい老いゆく夫婦と異なり、計り知れないものがあったと察する。少々のお互いの理解の喰い違いは生じるとしても、その一つ一つを言い募って、御母様を批判の矢面にするのはどう考えてもおかしい。その衝動を自分の足りなさ拙さだと自覚して、自分が御父母様一体圏を支えていきたい衝動にかえるべきだろう。親が喧嘩するのを見て、どちらか一方に立って父親なり母親をなじるのだろうか。お互いの間に入ってそれぞれを立てながら仲裁してこそ、成長して大人になった子供とは言えないだろうか。結果的にその仲裁する子供を見ながら親としての父母一体圏を実感するのではないだろうか。真の父母を支える教会に対して言いたいこともあるし、物足りないこともあるけれども、だからと言って反教会の旗を掲げて何の解決にもならない。改革すべきは心情を立てることができない私の内面にある。