2014年12月31日水曜日

今日の想い 828 (心情に生きる者となる)

今年も暮れて行く。味わってきた今年の正体が何だったのかを見通そうと、一年を振り返ることで新年への梯子を用意する。時間が余りにも早いので、その流れに逆らえないまま、内的霊的位置を自覚できずに次から次へと外的環境だけが目まぐるしく様変わりしていく。神様の創造理想への意志と、それに呼応する私達人間の責任分担の達成如何によって、摂理が繰り広げられている事実は事実だが、では具体的に私がどう関わってきたのかをどう理解し判断したらいいのだろうか。私達統一食口は復帰原理を知っている。復帰原理を通して人間が神様に立ち返っていく公式があることを知っている。その公式は何を通して行くのかと言うと、言葉でもなく知識でもなく心情を通して行く公式だということを知っている。復帰原理として言葉で受け入れ知識として理解しているけれども、私が摂理を生きている以上、言葉で行くのでもなく知識で行くのでもなく心情を通して摂理を生きる。この心情こそがキイワードであって、心情に立ち心情に生き心情を呈する者こそ摂理の中心的位置で本流を歩む者だ。振り返れば様々な事柄が起こり、様々な感情を味わいながら、その事柄の積み重ねや感情の積み重ねのエキスが歩んできた一年の正体だ。様々な事情環境を私の内的霊的態度によって煮込んでみたりすり潰してみたりと料理しながら、様々に味付けされながら、甘みを加えたり苦味を添えたりされるものをその都度感情で味わいながら、今年一年がどういう人生料理となったかを見ればいい。調味される一つ一つが感情となって表れ、その組み合わせで作り上げた人生料理こそ心情だ。一日には一日の供えるべき心情があり、一年には一年の供えるべき心情があってこそ摂理に生きる統一食口だ。私は私として精誠を込めた心情を差出し、差し出せばそれに応じて天の心情を受け取れる。一年を振り返ってみて、平安であったことを報告し喜ぶのだろうか。神様が平安であられ、御父母様が平安であられるならそれでいいのかも知れない。しかしそうでないなら、平安だったからといって喜ぶ姿勢は、心情を通して生きた一年だったとは言えないだろう。御父母様の御心情を想うならば、平安な私を恨めしく思ってこそ父母と共に生きたい父母の子女になれる。振り返れば痛みを覚える数々の出来事があって、それを味わえたことが本当に感謝であり、より御苦労されてこられた御父母様に、私の痛みなど何でもありませんと言える立場でこそ私は御父母様に顔向けができる。顔を上げて対面すると、お前は何の実績もないのかと責められるに違いないとしても、それでも私の抱えてきた痛み故に御父母様に顔向けができる。

2014年12月30日火曜日

今日の想い 827

TWを早々に首になり、この世のホールセールでマネージャーとして歩んでいる兄弟が近くにいる。仕事の件もあってその会社に彼を訪ねた。妻の通院のために通い慣れたボルチモアへの道を同じように北上しながら、もう五分も走ればボルチモアだという、その手前のイグジットを下りた。以前に一度か二度は訪ねたことはあったが、ナビ頼りなのでほぼ忘れている。今回ももちろんナビ頼りだ。見覚えのある決して上等なウェアハウスだとは言えない建物の中に入っていくと、彼は背を向けて事務机に座っていた。振り向いた顔に老いなのか疲れが垣間見えたけれども、そんな感想は口にはしない。同じことが、いやそれ以上のやつれが私に見えることは確かで藪蛇だ。大雑把なビジネスの状況をお互いに交換すると、彼は上目使いにこんな質問を投げかけた。**さんの歩む力の源泉は何ですか。唐突だったからその質問の意味がよくわからず、逆に尋ねる表情をこちらが見せると、彼は言いたくて仕方がなかったように話し始めた。彼はTWを解雇された日が2月27日であることから始まって、TWで歩んだ期間が120数、TWのボートで歩んだ期間が40数、それらの数字に彼はノア路程とリンクする自分を見ていると言う。解雇された2月27日はノアが方舟から地上に降りた日だ。そのように彼はいつも数字や日にちに関心があって、その観点から歩みへの意義を知り、自分を中心とするみ旨へ向かう力としているようだ。雰囲気から少し変わった兄弟だとは以前から感じていたが、変わっているどころか実に数霊的な兄弟であることがわかった。ビジネスと摂理、生活と信仰をどう関連付けるべきかは信仰路程が実質的である為に必要であるけれども、その辺りを解からずに有耶無耶にしたまま歩んでいるか、はなからビジネスはビジネスと割り切って歩んでいるか、殆どの食口がどちらかだとは思っていた。そうなると仕事に向かう内的霊的な力とはならない。やらされ感に浸ったまま、一日、また一日の繰り返される労働でしかない。それは共産主義の世界だ。み言葉を掲げる共産主義だ。がしかし、こんな近くにそういう意識を持って歩んでいる兄弟がいることに気付かされ、自分の余りにも食口に対する閉ざした内的態度を霊界から指摘されているようで、悔い改めるべきだと思わされた。店でも以前、数人の食口の従業員とそんな観点から意見交換する花咲会を造ったことがある。しかし今は集会を持つこともなくなってしまった。店のマネージャー達も集まってスカイプ会議を月に何度か持っているが、会計の数値のことは話題に上がっても、ビジネスと摂理の深い関係性等については話題に上がらない。ビジネスはビジネスであり、そこからはじき出された利益だけが摂理的に意味があり、内外に払わなければならない日々の労苦の意味など関心事ではないらしい。だからミーティングに出ても誰も本音で話そうとはしないし力が出ない。そして新しいアイデアも出てこない。アイデアは外に外に目を向けてこそあると思っていて、やたらに新情報には喰らいつくけれども、実は私達の歩みの中に新たなアイデアは潜んでいる。新たな価値創造の芽は外にあるのではなく内にある。正直を言うと私は基準が下がっている。今の体制だと苦労してどんなに利益をはじき出すとしても、目新しいがしかし実のない虚の企画に接ぎ込まれて一瞬で消えそうで、その意味でもやる気を削いでしまう。

2014年12月29日月曜日

今日の想い 826

同じ真の父母を慕い侍りながら、同じみ言葉を学びながら、そうであるなら理解が喰い違い方向性が異なることなどあり得ないはずだけれども、現実問題として食い違い異なってきている。そして両者がお互い認め合えずに相克している。統一教会は範囲を広げながら一つになって行くことができるからこそ統一教会であるのに、一つにさせようとする本体の自体内で分裂しようとしている。そしてこの分裂反応を収拾することに手を焼き、時の流れに任せてなるようにしかならないとする諦めさえ見え隠れする、かのように見える。どうして異分子が生じたのか。どのように生じたのか。私達が責任を果たせていないから、そうならざるを得ない摂理としてそうなったのか。普通の私達の既存の意識はそう考えるしそう捉えるだろう。そう捉えて当然だろう。しかしその現実を事実と見るのか、あるいは現実とは異なる現実を越えた事実があるのか、私はどちらに存在基盤を置くのかによっている。私達が御父母様一体圏を理解していないように、統一教会がその都度打ち直されて来た心身一体圏を理解していない。相克している現実は現実だとしても、現実を越える核としての霊的心身一体圏が立っている。それは現実によって揺らぎ左右されるものではなく、現実を越える霊的事実として立っている。そうであるなら現実は現実として対処しながらも、事実からすれば現実は影に過ぎず、事実を地上世界に確立する為の通過すべき路程であったと未来の私は理解するはずだ。あの分裂が統一の事実を地上に落とし込む為に必要であったと未来の私は見通せるはずだ。天地創造過程にあってもその段階段階で相克があり、しかしその相克がなかったならば光をより光たらしめることはできなかった。私達が認識する光は、段階段階で鍛え直されて今ある光を光としている。人間のこの肉体様相も、段階段階で鍛え直されて今ある肉体様相を戴いている。愛が真の愛として鍛え直されなければ、愛は愛でなくなってしまう。一体圏が真の一体圏として鍛え直されなければ、結局は心と体は別物だとして心身一体圏を完成できず、男と女は別物だと夫婦一体圏を完成できない。現実がどれほど悲観的に見えたとしても、それは影でしかなく、現実を越える事実があり、事実は完成完結完了した中心的核が、御父母様一体圏の中に、御父母様一体圏に抱合される天宙一体圏の中に存在している。その霊的事実を霊的感性が備わっていなければ見通せない。私達はこのような時にこそ祈って祈って祈り抜くべきだ。もっとも威力を得るものとして祈りがあると御父様が語られたように、新しい歴史の環境創造の先端に立つ者は祈り抜いた者達だ。光に立つのか、あるいは影となって光を際立たせる立場に留まり、果敢に光に立つ者から位格を落とすのか。反対し、批判し、分派を起こし、彼等が躍起になって叫べば叫ぶほど位格を落とし、それと相対的に本流に走り続ける者は位格をさらに上げて行く。新しい歴史をついに私の歴史が始まったと小躍りする者達は、この混沌の現実の中で新しい歴史の覇者となって登壇してくる。

2014年12月28日日曜日

今日の想い 825

何とか峠を越して落ち着いてきたので、ベッドに横たわる妻をおいてアメリカに帰ってきた。妻は免疫抑制剤のせいで感染症に罹りやすい。罹ると劇症化しやすいのもよくわかっていて、今までもそうだったが、今回は本当に危なかった。しかしそれでもアメリカの大雑把な治療と異なり、丁寧に的確に、さらに日本人の体質に合うように治療してくれて日本の医療サービスは流石だと思った。それもあって血流感染の敗血症も何とか治まったのだが、大病に変わりはなく、動けるには暫くかかりそうだ。しかしながら早く帰国しなければ、任せきりになっている店にしわ寄せがかからないはずがない。誰か面倒見てくれる者はいないかとあれこれ思案してみたが、誰も思い当たる人は見当たらない。それでも兎に角一旦は帰るしかなかった。一人残すのに後ろ髪引かれる思いはあったが、どうにも仕方がなかった。溢れる心配を捨て置いて、貯めてしまった山ほどの仕事をこなすために帰ってきた。店の支払い、従業員への給料、本来ならブックを見ている妻がやっていて、だから私が見ても勝手がわからず、さらに一人残したことへの心配もあって途方に暮れてしまう。わからないままに少しずつ仕事をこなし、散らかり放題のオフィス代わりのリビングを片付け、洗い物も済ませ、ゴミ出しもして、そして強い眠気を覚えた。時差ぼけのせいなのか、それとも看病疲れの為か、心配でまともに眠れなかったのに急に気が遠のいて行って、深い眠りに誘い込まれた。昏々と寝続けた後、おぼろげに周りに目をやると闇に包まれていて、物の輪郭が微かに浮かび上がっていた。外が白ける夜明け頃に眠りについたはずが、とっくに一日を終えたようで、時計は夜中10時を回っていた。一日が完全に飛んで失せてしまい、浦島太郎の気分だった。店がどうなっているのか心配だったけれども、マネージャーに電話するのが憚られた。全てを投げ出したまま寝入ってしまったことへの気の緩みに負債を覚えたからだ。放心状態でソファーに暫く寄りかかり、見慣れた周りの景色を再度確認すると、その体制のままで内面の整理を始めた。今の私の心の状態、失ったものと失おうとしているもの、取り戻すものとしっかり掴んでおくもの、見えないものと敢えて見ようとしないもの、この数週間で起こった大波乱によって、決められた方向に流れていたもの全てが掻き乱されてしまって、その整理にそれ相応の期間が必要で、一日二日で取り戻せるとはとても思えない。まともに動けない妻を迎えに行かないといけないと、その思いがしこりの様に内面に居座っていて、それが片付かないと次のどんな整理も采配も意志できるとは思えなかった。店のことも含めてより公的な意識を持つべきなのに、度量の狭さに愕然としながらも、しかしそれが今の私の現実だった。祝福を受けて、祝福家庭であることへの誇りというより、私の意識は実は選ばれし者としてのこの世的な階級意識とさして変わりはなかった。祝福家庭であることへの階級意識など百害あって一利なしだ。誇りと階級意識とは異なる。誇りは謂わば仰ぎ見る主体に対する対象であることの喜びだが、階級意識は私自身を主体として胸を張る自己満足だ。慕い侍ることのできる主体を与えられているからこそ、誇りが持てるということがこの年になってやっとわかった気がした。誇りではなく自己満足のエリート意識に過ぎなかった。

2014年12月27日土曜日

角の生えた食口がいる

私達は御父母様に対して私達なりのイメージが備わっている。イメージとは本質そのものではなく、そうあって欲しい、そうあって当然だというフィルターを通しているのであって、そのイメージそのものを本質として基準にしてしまうと誤解が生じかねない。イメージを壊される場面において私達なりの間違った判断をくだしてしまう。御父母様一体圏の本質を私達は理解しているだろうか。仲が良ければ一体であり、仲が悪ければ一体圏にはないといえるのだろうか。確かに御父様は御母様に対して公的な場で苦言を呈されたのかも知れない。いや、断罪されたのかも知れない。その場の張りつめた空気、その場にいた誰もが覚えた心苦しい空気は映像からでも察して余りあるが、だから御父母様は御母様故に一体圏にないと決めつけていいのだろうか。決めつけてしまって私の救い、果てには人類の救いはどうなってしまうのだろうか。それで私達は納得し、御父様の言い分に立って御母様に声を荒げることを良しとして、畏れ多くも御母様の悔い改めを迫るのだろうか。御父母様によって生み変えられた私達でありながら、更に言えば御母様を通過して生み変えられた私達でありながら、その御母様を否定するなら、重生した私達の存在などあり得ない。要するに祝福を否定して、私達はただの一介の宗教の信者に成り下がってしまう。であればわざわざ人類の蕩減を背負うほどの苦労を超えてきた意味は一体何だと言うのだろうか。御母様批判に傾く多くの食口は、それ故に重生を否定し、祝福を否定する自己破壊への道を辿っている事実を知らない。霊的無知とは何と恐ろしいことだろう。御父母様一体圏のイメージを壊されるという、それは自らの思い込みでしかなかった御父母様に対するイメージを壊されたという恨みで、はからずも培ってきた私の霊の柱を自らで壊してしまうという愚かにも程がある行為に走っている。母親と子供は一体だ。子供は母親の体からできているので生まれながらに一体だ。だから子供は父親が母親をなじれば心穏やかではいられない。母親が父親をなじるのも心痛いけれども、父親が母親をなじるその時の子の感情はその比ではない。私達は御母様を通過して生まれた存在だ。御母様と私達は一体圏にあるという感覚は、御父様が御母様を責める時に、痛みとして覚えるものから感じ取れる。その感情がないと言う者は、では一体誰が、何が、私を産み落としてくれたと思っているのだろう。御父様から直接に分身した私だとでも思うのだろうか。私は内的に霊的に深く入れば入るほど、御母様の胎の暖かさを覚える。天の御父様だけでなく、天の父母様であることにかつてない安らぎを覚える。御母様は批判の矛先を向ける食口に言及されると、み言葉がわかっていないからだと言われて寂しそうな目をされる。しかし彼等に対して、哀れな想いは抱かれるとしても恨みの感情は抱かれない。御父様が聖和されて、御母様の時代だと言うならそうかも知れない。御父様は女性時代が来ると言われたけれども、女性時代は母の艱難の時代だと言われたように記憶しているが私の勘違いだろうか。御母様を私達が支えずに誰が支えるのだろうか。御母様が悔い改めるなら支えてやるとでも言うのだろうか。あるいは御母様の代わりに誰か御父様の相対圏を用意しようとでも言うのだろうか。無知にも程がある。御父様は、御母様を責められるのを敢えて公的な場で見せながら、御母様一体圏にある私達を奮起させようと思われたのは明らかだ。そうでなければ、わざわざ公的な場で言及される必要は全くない。しかし一方で、御父様は御母様の勝利宣言を公的な場でされている。御父母様一体圏を宣布しておられる。御母様に苦言を呈する者達は、天正宮のあの出来事を御母様への勝利宣言の否定、御父母様一体圏の否定として受け取るのだろうか。妻のいないクリスマスの日、妻を既に霊界に送った兄弟のところに行って食事を共にした。彼はこんな話をしてくれた。山羊はエサを与えれば与えるだけ口にする。子供の頃、飼っている山羊がいくらでもエサを食べるので与え続けてしまい、翌朝死んでしまって親に責められたと言う。そう、山羊は食べなくてもいいのに、いや食べるべきではないのに目の前に差し出されると口にしてしまう。消化できないのに腹に収めて消化不良で命を絶つ。私達も消化できない情報を何でもかんでも受け入れれば内的に消化不良を起こす。み言葉をしっかり訓読して消化器官なり、消化酵素を備えなければならないのに、それを蔑ろにしてあることないこと、いろんな情報を無闇やたらに吸収してしまい、それは甚だ山羊の様相だ。羊が群れを離れて山羊になる。他人事ではない。自分だっていらない情報を山ほど取り込みながら、み旨へ向かえない言い訳を探そうと躍起になっている。

2014年12月24日水曜日

今日の想い 824

霊的見地に立つ者は必ず霊的に導かれるし、外的なものを重要視する者、すなわち外的要因に左右され踊らされる者は霊的なものを見落してしまう。外的に問題が生じればそれを解決しようと内面に於いて戦いが始まる。それは誰もそうで、そうである以上人間として抜きん出ることができる訳でもないし、誰もが想像だにしない創造への混沌に突入できる訳でもない。仕方のない事情から問題が生じた場合、マイナスの位置に落とされている訳で、その時の戦いは元の位置への復帰の蕩減的側面が責任分担的側面よりかなり比重を占めている。人は皆安定を求める。それは本然の人間としての姿勢というより、既存の位置に執着する堕落的な姿勢なのだろうか。私達み言葉に生きる者の姿勢として、敢えて安定をかなぐり捨て、混沌に突入する勇気と覚悟を持たなければ、霊的開拓精神に生きる者とはならないだろう。この世的問題、外的問題に翻弄されるのみであれば、とても霊的に護られているとは言えない。そんな問題を物ともせず、霊的開拓精神に生きてこそ霊界は護らざるを得ないだろう。しかし、しかしだ。そんなことが現実的に可能だろうか。今ある平安を投げ打って、敢えて混沌と不安の中に突入する破壊的人間になれるだろうか。そしてそれが本当に天の願いだろうか。人間は平安を求めて当然だろう。人間が破壊的であればとっくに人類は消滅していただろう。私の事情圏、環境圏に問題が生じた場合、確かに平安な位置からマイナスの位置に落とされている。しかし元の位置への復帰を通り越して、更なる高みへと向かう霊的開拓精神をして平安であった元の位置を超えることができれば、蕩減的側面から責任分担的側面が比重を占めながら天の使命、願いを全うする存在になれる。よって打たれた時こそがより大きな責任を申し受ける時であり、より大きな天の祝福を受ける時だ。打たれる時その期待感をしっかり持って、打たれれば打たれるほど大きな恵みがくると信じて事に対するべきだ。いい時があって悪い時がある。高い時があって低い時がある。全てがうまくいく時があって全くうまくいかない時がある。そんな波を幾度も幾度も超えて行くわけだけれども、あるサイクルで大きな波が来るし、さらに特別な長期的サイクルでとてつもない波が来る。そんな時は私の次元が上がる時、霊的位相が上がる時だ。

2014年12月18日木曜日

今日の想い 823

私は雪男だそうだ。私が帰ると雪が降る。それも半端なく降る。もちろん夏場に帰ればありえない話だが冬に帰れば必ずそうなる。待っていましたとばかりに雪が降る。今回は自分の田舎のみならず日本の至るところで雪が降った。雪は祝福の象徴だと言うが、しかし誰も積雪は好まない。生活をむしばむからだ。生活を投げ置いて、雪積もる状況を甘受してしまえば、祝福の雪としての内的本質を受け取れるかも知れないのに、一寸先の生活に執着し食べられるかどうかの方がより重要だろうし外的にのみ生きようとする意志の方が遥かに強い。雪に包まれて冷たく死んでいくとしても、それでもいいと思えるほどの死を超える内的祝福は、唯物的現代人にとっては無用の賜物だ。私を麓の停留所まで迎えに来た老父は、荒れ狂う吹雪に進路を遮られながら、しかし決して逆らうことなく見通しがつくまで忍耐強く待っている。ホワイトアウトはその名の通り、真っ白な世界に投げ出された状態だ。色気のない真っ白な世界を拒まず忍耐強く受け入れる。私の中の色気である執着をホワイトアウトさせて、一旦全ての欲を消し去ってから新たな願望で色付ければいい。人が自分にない神霊要素、聖霊要素を受け取れる早道は、いかに内面の色や欲を真っ白にホワイトアウトできるかだ。私の内面をホワイトアウトすべく雪が降る。帰るたびに身を清めろと雪が降る。だから傍目から見れば私は雪男だ。暖冬のはずが史上稀に見る寒気を呼び寄せ、日本中を白く覆ってしまった。


2014年12月13日土曜日

今日の想い 822

側から見れば一進一退の状況でも、内的霊的に見れば確実に勝ち取った条件は積み上がっている。その期待感を保持し続け見失ってはならない。その期待感が高まるにつれて、希望が誘われ出て姿を現してくる。そう、期待感があって希望が現れるのであり、先ず希望ありきで期待が高揚してくるのではない。希望がないと言って塞ぎ込むのではなく、私の中に信仰に裏付けられた期待感を膨らませることこそが、能動的創造的、そして主体的な環境主管主としての人間の有り様だ。既に取り決められ枷を嵌められた運命的存在から、希望を見出し理想を求める天地自由人へのトランスフォームが為される。如何に悲観的に受け取りかねない要因であるにしても、信仰者にとってはプラス要因にはなってもマイナス要因にはならない。いや、させないという決意と覚悟が必要だ。それは決して能天気な人間になれと言うのとは違い、現実の厳しさは厳しさで甘受しながら、それでもそれに主管されない肉と心魂を超えた精神的霊的有り様の自分を建てることを意味する。それは霊的に見れば確実に一柱の柱としての霊人体の背骨が太く強くなっている。

2014年12月12日金曜日

今日の想い 821

奇跡。大きな可能性の跡と書いて奇跡。天地創造はまさしく大きな可能性の跡、奇跡の積み重ねだ。奇跡など信じない私達は奇跡の星、地球星に生きている。奇跡の星に生きながら可能性を否定して生きている。現実は対処するそれぞれによって、可能性の現れとなったり可能性の否定の現れとなったりするのだろう。しかし絶対信仰に立つなら、あらゆる現実は可能性の現れに違いない。やもすれば否定と悲観に傾きやすい私達は、神様が大いなる可能性を持たれた創造主であられることを不信している。絶対信仰は否定と悲観に傾く堕落的自己との戦い無くして勝ち取ることはできない。私達は戦いから逃れることは絶対に許されない。それが成約信仰だ。成約聖徒だ。御父様の息子娘であるならば、勝利して勝ち取るまで、戦いから逃れる道などあり得ない。戦いの道こそ創造の道であり私達の宿命的道だ。戦いの道を逃げずに前進して奇跡を現実にする。

2014年12月9日火曜日

今日の想い 820

高熱による意識の混濁と激しい頭痛による意識の締め付け、本人の意志は無視されてこの二つの地獄を交互に味わう。それがどうしてわかるかというと、表情の急激な変化と目から光が失われることでわかる。本人の体は目の前にあっても、霊も心魂も既に地獄の果てに運び去られ目の前にはいない。それでもこの体に声をかけるしかないのでしきりに問い続けるが、連れ戻すほどの力はない。問い続けて心魂と霊が繋がっている僅かの細い糸を切らないようにしないと、諦めたと同時にあの世への強力な引力が彼女を連れ去っていく。身体中見たこともない震えでまるで踊っているかのようだ。地獄の舞があるならこれがそうに違いない。救急で運ばれては来たものの専門の医師が今はいないと言うことで朝の9時まで待てと言われた。ブドウ糖の点滴だけで6時間待たされた。その間彼女は地獄の舞を踊り続けた。祈るしかなかった。祈るというより神頼みするしかなかった。私も震えながら祈り続けた。

今日の想い 819

こんな時頼れるのは結局は自分自身だけだ。どんなに祈り求めようと神様は外から働くのではなく、私の内から先ず働く。内面の中心を見出してそこに尋ねるしかない。その為には先ず落ち着くことであり、最善の道を示して下さるという揺らぐことのない信仰を備えることだ。それも外から降りるものではなく私の決意と判断に最善の道がある。そうなると不安との戦いだ。その信仰条件が土台となって見通しが立つ訳だけれども、それも一足飛びに奇跡的に働くのではなく、上がるのかどうか見えないほどだが、それでも段階的に見通しは立っていく。とにかく不安と孤独の絶頂を超えることが初期段階に於いては試される。そんな試練を何度超えてきたことだろう。終わることのない試練の波を、疲れずにくぐり抜け続けて行くことが人生の現実的側面だ。しかし辿ってきた過去の歩みを振り返れば確実に導かれていることがわかる。が、それは後ろを振り向けばのことであり、前に進もうとすれば荒涼たる闇が広がり信仰の光なしでは一歩だに進めない。

2014年12月3日水曜日

今日の想い 818

妻の健康状態を見定めて、なんとか一時帰国の時期を探って決めたにもかかわらず、14時間飛行はさすがにこたえたようで、着いた時はほうほうのていだった。後悔した。溜息が漏れるのを必死で堪えた。その度にその何倍も妻は気落ちするはずだ。一晩ゆっくり休ませて幾分か持ち直した様子だったが、その明くる日、彼女の実家まで辿り着くと途端に病との戦いが始まった。偏頭痛が激しくなり、飛行機から降りると同時に始まっていた頻尿も酷くなった。杞憂が現実となり恐れていた事態に突入していった。熱が一気に上がったようで強い悪寒を訴え、意識まで混濁してきた。明日の朝には病院に行ってみようかと、休む前に実家の嫁さんに勧められたが、とても朝まで待てる状況ではなかった。2時を回ったところだったけれども遠慮して躊躇する気持ちを跳ね除け、救急車を呼んでもらうよう頼んだ。向こうだと言葉はよくわからないけれども勝手はわかる。日本だとこんな時にどうしたらいいのかはわからないけれども言葉はわかる。敢えて言葉がわかることの方が今は大切だと言い聞かせて出来ることをやるしかないと、そんなことを思いながら同行してくれる嫁さんに促されて救急車に乗り込んだ。

2014年11月28日金曜日

今日の想い 817

霊界に行くにはこの体を脱がなければ霊界の住人にはなれない。地上で体を持った存在だということは、私という輪郭を持った存在だと言うことができる。しかし私のこの肉的体の輪郭がそのまま心魂の住まう輪郭かというとそうではなく、人によってその輪郭は異なっている。もちろん心魂の輪郭は肉的体ほど固定化していないので肉体の輪郭に束縛されることなく、より自由圏、解放圏となっている。家庭が体となり国が体となっている者もいるし、なかには肉体の輪郭ほどの範囲もない心魂に凝縮されたままで地上生を営んでいる者もいる。一方で肉体があり、別の一方で霊人体がある。自己中心的に生きるということは肉体輪郭に心魂の輪郭を合わせ、国のことも世界のことも、はたまた家庭でさえも自分の事として一向にその喜びも痛みも覚えはしない。快不快は肉体と同じ輪郭内に留め置いて、社会のこと、世界のことに関してはどうだっていいと思っている。霊界に行けば事情は全く反転する。輪郭の内側にいた自分と思っていたものが輪郭の外側になり、外側にあった世界が霊人体内の自分として存在するようになる。自分のものだと羽交い締めしていたものは遠くに奪い去られ、為に生き犠牲を払い外界に投入したものは自分の中に取り込むようになる。霊界の入り口に於けるこの逆転現象は、ちょうど袋を裏返すように、私が外の世界に注ぎ出てしまう感覚を味わう。自尊心の人一倍強い者、執着心の強い者は霊界への誕生という霊的お産が難産になり霊界生活への影響が懸念される。自尊心も神を宿す自分としての本然的な自尊心か、あるいは堕落的なものかによって異なるが、よりアベル的中心的存在から否定され怒られることを清々しく思うのであれば本然に近いと言えるが、否定されることを良しとしない私の自尊心は堕落的なものだ。霊的お産のこの逆転現象はどの基準の公的な心魂を備えたかによって流れだす自分の量は異なる。既に国家的輪郭、世界的輪郭の心魂を備えた者は既に地上で為に生き、犠牲的に生きているので、すなわち公的位置に十分自分を流し出しているので安産となる。世界を包み天宙を包み、神様をも包み込む心魂の大きさを持たれる御父様の御聖和は、全く新しい天宙を創りだされるという意味を持つ。大人物を巨星という言い方をするように、事実死んで霊界へ誕生することで一つの恒星が宇宙表象として現出するけれども、御父様の御聖和は一つの恒星というような小さな存在ではなく、新しい天宙として現出する。

2014年11月25日火曜日

今日の想い 816

御父様が聖和された外的経緯であれば食口の誰もが知っているだろう。しかしそれはあくまで外的経緯であって、御父様がどのような内的な心的経緯、さらに霊的経緯を辿られたかはそれぞれが祈り尋ねなければ見えてくるものではない。外的経緯を自分に当て嵌めることで、苦しかっただろう、寂しかっただろう、口惜しかっただろうとその感情を思い起こしはするが、それがそのまま御父様の内的経緯であるはずがない。その想像に悪意はないとしても悪意なきこじ付けの可能性は十分あり得る。御聖和に対する自分勝手な思い込みを大上段に構えて、御聖和の経緯に関わった人々を指弾し切ろうとするのは最も避けるべきことだろう。イエス様を槍で突き刺したローマ兵士でさえその責めを受けなかったのは、聖徒達が己の罪故に犠牲になられたことを知っているからだ。距離を置いた位置からは誰にでもどうにでも罪を押し付け、囃し立てることはできるが、果たしてそれが救って戴いた御父様を想う態度と言えるだろうか。もちろん人それぞれにそれぞれの感情があり、愛する御父様に対するそれぞれの感情を否定するものではないとしても、しかしそれは自分の中に留めるべきであって、誰もが全く同じ感情を持っているはずだ、あるいは持つべきだと思うのは違っている。イエス様が磔刑を受け入れることを決意された時どのような内的経緯を辿られたかは、イエス様のみ旨を受け継がれた御父様によって2000年を経て初めて示されたのであり、イエス様の犠牲は自分の罪故であることを知り、犠牲を決意した弟子でさえ、イエス様の心の内の本質的な経緯を知ることは無かった。ましてや決意と覚悟の足りない私達のどれだけが御父様の御聖和への決意と覚悟を知り得ているだろうか。悲しい申し訳ないという感情は感情で否定されるものではないにしても、その感情が恰も全てであるように取り扱うべきではないだろう。御父様は逝かれるその時をこの世の事情に任せざるを得なかったのだろうか。結局は御父様ですら肉体の事情はどうすることもできなかったのだろうか。天宙の勝利権を立てられ、天宙を主管される御父様も、死を主管されることはなかったのだろうか。しかし私にはその経緯を御父様は敢えて選ばれたとしか思えない。イエス様は人の手によって地上生を終えられた。御父様は病によって地上生を終えられた。イエス様は逃げれば逃げることもできたはずだが、敢えて盃を飲む決意をされた。では御父様も同じように、病から逃れようと思えば逃れることもできたとは言えないだろうか。しかし敢えて進み出て病に身を差し出されることで、肉体の犠牲を供えられた。地上的外的なことを中心として把握する者にとっては、病は誰であっても病であり、それは御父様とて変わりなくやはり病だと思っているが、蕩減的に病を受けて病に侵された者と、病を訪ねて能動的に病に足を踏み入れた者では、病の意味が全く異なってくる。御父様はイエス様が奇跡に頼ったことに対して言及しておられる。御自身は奇跡に頼らないことも言及しておられる。そうなると御父様は敢えて病に身を差し出されたとしか言えなくなる。祝福家庭が世界的祭物であるということと、食口達の癌の羅患率は非常に高いということとは関係性があるはずだ。そして発症を起こさせる見えない肉体の世界、ミクロの世界と肉体創造の根源となる原初世界とは繋がりがある。御父様が南米の奥地に行かれて精誠を供えられたのは根源世界、原初世界を復帰し主管される為であったが、人間界の平和は既に道筋は立っているけれども、万物界を根源から愛で主管する道筋を見出せない限り、病は神様の創造理想を阻むものとなってしまうだろう。よってイエス様は肉体を人間に差し出されたけれども、御父様は肉体を万物の根源存在に差し出された、という言い方はできるだろうか。残る細胞の一つまでも為に生きる生を差し出された壮絶な最期であられたという感慨は、後に病が解決されるときの未来の私達の感情となるはずだ。

2014年11月22日土曜日

今日の想い 815 (火風水土)

風が好き勝手に地上を通り抜けているようだけれども、風は大地を撫でている。空気である風が土である大地を撫でている。大地を撫でて大地の生命を呼び起こしている。私が風になる時がある。夫として妻を慰労する時、私は風になる。風となって妻という大地を撫でる。この手で表面的に撫でることもそうだけれども、心の手で内面的にも撫でる。優しく撫でることばかりが夫婦としての陰陽の関係ではなく、時として台風の如く荒々しくも刺激する。夫婦の一体圏は刺激することで離れるのではなく、さらにその一体圏を強めていく。そして関係性の中に霊的生命を呼び起こす。堕落的な夫婦は外的な関係のみを育もうとし、内的な関係による霊的一体圏には至らない。霊的一体圏に向かおうとしない夫婦は離れざるを得ない。真の夫婦が霊的一体圏にあれば、夫には神霊が共にあり、妻には聖霊が共にある。神霊の柱が神風を巻き起こし聖霊の聖地を撫でて泉が溢れ霊的生命を創造する。地上にも通じ、霊界にも通じ、天宙に通じる元素がある。それが火であり、空気であり、水であり、そして土だ。原理的にいうと火は心情で言い表され、空気は愛であり、水は生命、そして土は基台だ。四位基台と言ってもいい。霊界の霊的太陽は神様の心情であり、霊的空気は真の愛であり、霊的水は霊的生命であり、そして霊的土は四大心情圏としての東西南北だ。地上に実体み言の御父様が立たれ、聖霊実体の御母様が立たれて、霊肉に於ける天宙的四位基台という勝利圏を立てられた。食口は真の父母という言葉を随分簡単に口にするけれども、口にすることさえも畏れ多いという認識に欠けている。本当は真の父母を口にすれば、口にするだけの条件内容が本人にあるかどうかをサタンは凝視している。気安く条件もないのに口にするだけで讒訴条件になり得る。だから口にするなと言うのではなく、主の名をみだりに唱えるなと言われた如くに、そこには覚悟と決意が込められなければならない。天地創造のそれぞれの次元、それぞれの段階で、火として、空気として、水として、そして土として言い表せる元素が働いていた。そして創造理想の目的の頂点に真の父母の完成がある。火としての神様の心情の勝利実体であられ、空気としての真の愛の勝利実体であられ、水としての真の生命の勝利実体であられ、土としての四大心情圏、三大王権の勝利実体であられる真の父母一体圏こそが完成完結完了だ。御父様が風となって御母様と一体である大地を撫でておられる。今や昔の大地ではなく御母様の体としての大地だ。ガイアと呼ばれた地球生命体が霊的生命を得て生まれ変わっている。この地上からサタンを完全に締め出し、堕落の血統圏にある全ての存在はその居場所を失うようになる。

2014年11月20日木曜日

今日の想い 814 (御母様編纂による天聖経)

み言葉がどれほど難しいかは、読み進めれば読み進めるほど迷宮に迷い込むが如くだ。御父様は八大教本教材として残して下さったけれども、全てを読破するのさえも難しく、さらにみ言葉の本質を受け取るとなると至難の業だと言える。私達の認識として、み言葉の全体全ては未だ知らないとしても、骨格である原理を中心として或る程度の肉付けは出来ているのではないかと思っているけれども、果たしてそうだろうか。何年も何年もみ言葉を読み進め、積み上げて構築したみ言葉の全体だと思えるものが、押し付けられた現実に晒されることで私の内面に構築したそれが崩れ去る、という事態を私は経験している。肉付けされながら理想イメージとして捉えていたものが容赦なく崩れ去っていく。二世に対するイメージもそうだろう。教会の未来的なイメージもそうだろう。さらに御家庭に対するイメージすらも崩れて行く。もちろん自分自身の、歩めども歩めども発展的なものを見出せない実情もそうだろう。私がみ言葉の本質を受け取れずに、しかしみ言葉を捨てることもできず、一体となれないみ言葉と私の現実というこの狭間で、妥協的暫定的な中間域で踏み止まっているのが私達の霊的実状ではないだろうか。み言葉はいつのまにか既存の内的生活を支える補助的なものとなり、み言葉で産み変えられた新しい私が先ずあって、そこから繰り広げられる新たな内的生活とはなっていない。生活があってみ言葉で支えるのではなく、み言葉があってそれによって新しい生活を構築していくはずだ。ある食口が、聖霊のみ言葉が現れるという啓示を受けて、受けた本人がそれが自分だと思い込まされたか思い込んだか、そんな分派があるが、聖霊のみ言葉が現れるという啓示自体は意外と本質を突いていると私には思われた。そしてそれはその分派が言い張るところのものではなく、御母様によって編纂された天聖経に違いないと瞬時に思わされた。心霊が未だ暗く、み言葉を論理的頭でのみ理解しようとする私達は、み言葉をどれほど箇条書き的に積み重ねても限界があって本質を受け取れず、よって観念的にならざるを得ない。しかし御母様が編纂して下さった天聖経は、私達がみ言葉の本質を受け取り易いように実に整理されていて、み言葉全体を私の中に構築できる。箇条書き的であったみ言葉が有機的連携を為して生きて働く。未だ私が主管する訓読は未熟である為に、その確信を持って呈示するには至らないけれども、しかしその予感は外れてはいないはずだ。黒表紙が夜の神様のみ言葉、赤表紙が昼の神様のみ言葉、こう表現するとまた遣り込められるだろうか。

2014年11月17日月曜日

今日の想い 813

魚は水がなければ死んでしまう。しかし水にも淡水もあれば海水もあり、清い水もあれば濁った水もある。魚も種族によって水を選び、種族が生き延びることができる水の場所を棲家にしている。人間の肉体も空気がなくなれば途端に死んでしまう。一方で霊的存在としての人間は、様々な霊的環境の中を棲家としている。淡水的な霊的環境もあればより海水的な霊的環境もあり、清い霊的環境もあれば濁った霊的環境もある。天から落とされた一滴の水は、支流から段々と集約されながら本流に合流して行き、やがて汽水域を通過して海水に合流する。私という一滴の霊は、家庭環境からその範囲を次第に広げながら経験して成長していくけれども、最終的には死の前後という天宙的汽水域を通過して霊界という大海原に帰っていく。霊的環境としては無神論という神はいないという信仰も含めて、どういう信仰を持つかが自分の霊的環境を大きく決めている。様々な国があり宗教宗派があり、さらに個人それぞれで信念も異なっていて、地上生という淡水的霊的環境ではあるけれどもしかし異なる環境にある。結局は霊界という大海原に突入しなければ自分の信念信仰が受け入れられるものなのかどうかはわからないと思っているし、だから不安でもあるけれども、内面に霊的羅針盤である良心を誰も持っており、磨いて機能させることで霊的に生きる存在になり信仰の中心に信念を持つ。統一食口は統一食口で同じ霊的環境圏に住んではいたが、地獄の壁が撤廃されあらゆる霊的壁も撤廃されたが為に、その環境圏に固執することはできなくなった。それは摂理的でもあって、より開放的でありいろんな他の霊的環境を刺激できる新たな霊的環境圏を用意しなければならないということだ。要するに後天時代に相応しい新しい革袋を用意する必要がある。教会に対して批判態度を取る者達は、追われた環境圏への執着と追われたことへの恨みから、しかしそれでも何らかの形で教会因縁を結ばなければ存在を否定される為に批判に向かってしまう。ひたすら批判できる餌を目を皿のようにして探し回っている。しかしこちらが対応しなければ餌が餌にならないし、教会側がもし他の食口への影響を心配してのことなら、批判に晒され批難を受けることで内的霊的な成長が促されるのであって、変に手をかける必要は無い。泥沼の中から純白の蓮の花は咲くのであり、この混沌の中から真の祝福家庭、真の統一食口となるべくサナギを脱いでいく。魚の話に戻るなら汽水域を越えて自由に淡水海水を行き来する鮭になる。

2014年11月16日日曜日

今日の想い 812

天聖経の赤表紙がどうの黒表紙の書き換えだのとうるさいが、吠えて噛みつくほどみ言葉に精通している訳ではないだろう。み言葉の一部分の言及を取り上げて、おかしいだとか改竄だとか審判を下しているが、様々な摂理を経てきて、その摂理摂理で中心的み言葉を語られたのであり、どんなみ言葉もその背景を考慮に入れなければ、言葉尻だけ取ることでいくらでもこじつける材料になってしまう。御父母様の心情圏に入らずともその心情に少しでも触れた者であれば改竄などという物言いなど出来るはずがないし、大体そんな指弾追求をすることで御父母様一体圏を蔑ろにはできても、一体であられる御父母様を仰ぎ見ることには到底ならない。おそらく御父様と御母様は一体圏にはないと思っているのでなければ、あからさまな批難の言葉を口にし、記すことなど到底できないはずだがどうだろう。彼らの批難は、多くの批難がそうであるように、御母様への不信から、もしその言葉に引っかかるのであれば御母様がいいように利用されている(それも含めて不信だと私は思うのだが、、)という思い込みから来ている。信仰を超えて御父母様を慕い侍る食口であれば、そんな早急な思い込みも決め付けもせず、先ず自分が理解していない部分があるはずだという謙虚な位置で、問い尋ねてみる祈りから出発するはずだ。み言葉改竄をどうのこうの言うのであれば、新しく編纂された天聖経を訓読することで重大な内的霊的混乱が生じたという者が本当にいるのであれば御母様の前に進み出て申し出ればいい。八大教材教本どころか、天聖経もまともに読破もしていない者が、改竄呼ばわりする神経が私にはわからない。み言葉の本質を受け取らずに鞘だけを受け取って霊的なことが何一つわかっていないという山羊族は、日本に住もうが韓国やアメリカに住もうが変わらず山羊族だ。羊が自己中心的に山に登って山羊になったが、偉そうに高みから見下ろす物言いは山羊そのものだ。膨大な御父様のみ言葉を訓読するには時間もないし理解度も欠ける私達を思われて、編纂して下さったのは御母様の食口を思う愛以外のなにものでもない。霊的無知である私達を不憫に思われて、訓読し理解しやすいように編纂して下さった。感謝こそすれ、自らの霊的位相も顧みない者達の物言いに対しては無視するのが一番いい。食物を噛み砕いて口に運んでやる親のように、敢えてそんな甘えを助長させるように、編纂された天聖経を説明してやる必要など全くない。かまえばかまうほど噛みついてくるのはわかりきっている。

2014年11月15日土曜日

今日の想い 811

信仰生活はそれ自体が目的ではなく、あくまで実績を出す為の動機を備える為に必要なものだ、とある。だから実績を残さなければ信仰生活をしている意味はなくなる。もちろん実績は外的なものだけでなく、内的実績もあることは認識しておかなければならないが、内的実績は時間を経て外的に現れる。信じることが事実上目的になってしまっているから、信仰生活が観念的なままでも不自由しないし、実質的信仰には至らない。本当に実績を持とうとすれば実質的信仰にならざるを得ない。信じれば天国に行けるのかというと信じるだけでは天国には行けない。イエス様も天国は信じるところにあるのではなく私にあると言っている。それは主体的内容を自分で決めなければならないということだ。天国は誰かに連れて行ってもらうのではなく自分が決めるということだ。信じると言う場合は私に無い他の何かを信じるのであるし、そうではなく私の中にあって私と一体であれば信じるという意志も必要なく、信じる前に既に私と共にある。私自身でもある。観念的信仰は内的なものの写し鏡である現実に対して表象する力とはならずこの世的現実に飲まれたままだが、実質的信仰に至れば現実にも実績として現れて当然だ。御父様は「信仰の中心に対してはっきりとした信念を持つように」と言われている。この言われた意味がよくわからないままで次なるみ言葉に簡単に進んで素通りしてしまうから、依然として信仰は観念的なままだ。しかしこの言葉に実質的信仰とは何かが言い含められている。信仰とは言葉の通り信じて仰ぎ見ることだが、仰ぎ見る対象を常に大上段に最高位の神様であり御父様だと捉えても、底辺である堕落圏の現実生活に私が存在する以上、最高位の神様は実感できず神様とおぼしき観念に留まってしまう。観念的な実質のない信仰から実質的信仰になるためには、信仰の中心に信念を持つ必要がある。人間も中心である核に霊の柱が立たないと、霊のない人間、霊人体の完成のない人間であり、肉体を脱いだ時霊界の存在にはなれない。そういうふうに人間に霊の柱が立たなければならないように、信仰にも中心に信念を核として持たなければならない。御父様は獄中伝道でみ言葉を語って伝道されたのではなく、伝道への信念を持たれたから人々が御父様の元へ集ってきた。私達は伝道もしなければならない、氏族も復帰しなければならない、献金もしなければならない、その前に先ず生きて生活しなければならない等と、あれもこれもと思っているが、欲を持ってもあれもこれもできる訳がない。この世の者達が生きるので精一杯であると同じように、私達も生きるので精一杯だ。為さなければならないどれ一つをとっても、信仰が必要であり信仰の中心、信念が必要だ。伝道するなら伝道の信念、ある道で成功者になるにはその道の信念、信念の持てない目標を持っても為せるか為せないかは誰も知らないし神様ですら知らないが、自分自身がもっともよくわかっている。「山の頂上に上がることを願うならば、夜も昼も行かなければならない。そして心の世界で千回万回行って見て正しい道だと感じたとき始めて行動できる」と例を示して教えておられるが、正しい道だと感じる、という信念はそうやって持つものだ。そうなると信念とは登っては降り、登っては降りしながら持つものなので中途でどうだろうと感じたら麓まで、すなわちゼロ地点まで戻る必要がある。今までの歩みでどれほど腰折れしてきたことだろう。腰折れしたのは信念がないにもかかわらず、言われたからやるという観念的信仰にとどまったままで形だけやっている風で取り繕った結果だ。さらに腰折れした結果を放ったままで別の山を目論むが、信念がなければどれほど山々を渡り歩こうが結果は同じことだ。信念を得るまでの霊的内的筋力が不足している。

2014年11月13日木曜日

今日の想い 810

あの噂の統一教会と言われても今の今は否定のしようがない。この世の倫理道徳的観念からすれば煙たがられて当然だ。だからと言って信仰を捨てたところで私を中心とするみ旨が進む訳ではないし、社会感情を納得させて摂理が進む訳でもない。抜け出た者に対してはこの世はウエルカムなのだろうけれども、それは教会と社会の溝をより深めることになる。この世の私達に対する認識は、結果的にそうならざるを得なかったと言わざるを得ず、しかしそれはそれで私達の責任を問われても仕方がない。確かに表面的現実的には風当たりが強いのは変わり様がなさそうだが、近寄りたくもない私達の存在の中にこそ実はあらゆる問題を解く鍵があるのであって、近い将来人類は内外共に行き詰まり、切羽詰まったその時には評判など気にしておられず、私達を訪ねて鍵を受け取らざるを得なくなるだろう。そんな状況になるとは食口ですら思ってもいないが、必ずそうなるのは既に確定済みだ。地上の振動数が上がっていき人間の内面が触発されることで誰もが霊的感性がある程度開くようになる。そうなると自分の霊界の実状を受け取らざるを得ないし、その悲惨な実状に救いを求めざるを得ない。自分の霊的位置が見えたぐらいでは動かないかも知れないが、霊的乾きと霊的病は肉体の病の比ではなく、放っておくわけにはいかなくなる。その時の状況は朧げに見ながらもひしひしと感じていて、時を経る毎にしびれが来るようなピリピリ感が強くなっていく。霊的船団が地球に到来して地上を覆うのも時間の問題だ。時間の流れは更に急流域に入ってそのまま暗黒時間に突入するはずだし、それと共に霊的船団が空を覆うのを多くの者達が見るだろう。本来基元節がこのD-DAYだったわけだが、条件満たずで延長されてしまった。もし基元節のあの時点で強硬的に発動されれば、それなりに摂理に貢献してきた食口ですら少なからず引っ掛かってしまっただろう。よって延長路程に入らざるを得ず、御父様の基元節前の御聖和は言うなればD-DAYは2013年1月13日と数年前から決定され公言されてしまったことと関係があると思っている。御聖和と引き換えに、或いは霊界に行かれて霊界に足場を置かれることで、D-DAY延長の神霊的役事をされた。延長はされたけれども、やがてその時が来ることは確定済みで、その時に備える内外の条件を揃える為に寝るのも惜しいというくらい切実であるべきだ。未だに内部の混迷に翻弄されている者もいるし、天の願いと方向を違えて教会分裂に拍車をかける者もいるけれども、D-DAYのその日その時をどう迎えるつもりだろうか。人類の霊的感性が開き霊的に彷徨っていることを自覚した者達に対して、導いて行ける内容が私達に備わっているだろうか。

今日の想い 809

稚拙な霊的認識が曖昧で観念的な信仰生活に留まらせ、実質的信仰生活とはならない。神様神様と唱えるが、見えない神様、五官で感じ取れない神様を、ただ唱えていれば実感できる訳ではない。こんな物言いをすれば分かり切った事をと反感を覚えるだろうけれども、反感を覚えながらも実のところ唱えるばかりで、信仰生活は観念的なままだ。原理を受け入れた者が先ず陥る落とし穴は、それまで存在するか否かわからなかった神様、さらには存在するはずもないと思っていたサタンを、原理を受け入れたことで急に現れて話しかけるが如くに認識したつもりになってしまうことだ。頭で理解することと実感的に認識することとは別物であるにも係わらず、頭で理解したこと即実感的認識だという思い込みに陥ってしまう。もちろん人間は神とサタンの中間的位置にある訳だけれども、しかし人間のすぐ上に神様がおり、人間のすぐ下にサタンがいる訳ではないし、ましてや知ると同時に認識出来る訳でもない。神様の認識に至るにも段階があり、サタンの認識に至るにも段階がある。それも一段二段どころの段階ではない。原理を受け入れて先ず出発すべき認識への道は神様とサタンの認識ではなく、神様への道半ばの善神の業、サタンへの道半ばの悪神の業、としての善神であり悪神だ。生活を通しながら善神を見出していくべきであり悪神を見出していくべきだ。どこに神様が働いているかではなくどこに善神の業が働いているか、どういう形で働いているかを問う必要がある。伝道で一人の人をみ言葉に導いて、神様の導きがあったと言えるのは、原因的には神様の導きあってのことだとは言えるとしても、神様の導きと結果の間には何段階もの霊的役事を経ている。にも拘らずみ旨の願いと同じ方向であったとしても、良いことが起これば神様、悪いことが起こればサタンと単純に決め付けてしまうことで中途の霊的役事を無視してしまうことになる。そういう極論的な認識指向は信仰生活を観念的に留まらせるし、信仰生活の為の霊的筋肉が弱いままで、悪いことが続け様に起こってしまうと途端に信仰を失ってしまう。起こる事柄の中には善の要素もあり悪の要素もある。だから実質的信仰を備える為には、自分を中心として起こる周囲の全ての要件のその背後の意味を問うという、内的霊的作業が必要になる。そこには同じ要件であっても私の態度によって善神の働きを見たり悪神の働きを見たりする。しかし善神の働きを見ながらも驕りや甘えを付着させてしまい、その背後に隠れている悪神が顔を見せて引き摺り下ろそうとする。そのように背後は実に複雑で、そういった霊的存在達に翻弄されない為には信仰のイロハとして先ず謙虚さという霊的筋肉を培う必要がある。今まで神のみ旨だと言いながら歩んできたけれども、いつ如何なる時も善神が働いていたと断言できるだろうか。私達の思い込みで突っ走った為に導かれるはずの人々の御父母様への因縁を断ちきってしまったことがなかっただろうか。み旨だと信じて歩んだ中にサタンが背後から操られていた部分が全くなかっただろうか。霊界に通じれば思いもよらぬ霊達の讒訴に驚かされることだろう。謙虚さは歩みと共に付着していく悪の要素をゼロ点に戻して再出発する霊的筋肉だ。再出発だけれども一からのやり直しではなく、ゼロ点であるけれども次なる次元へのエレベーターが用意されていて、結局は神様に近づくべく聖霊や神霊に出会える次元上昇への近道だ。

2014年11月9日日曜日

今日の想い 808

御父様が完成、完結、完了の言葉を地上生の最後に口にされたことと、十字架への道を前にしてイエス様がゲッセマネの祈りで神様に訴えられ、しかし最後は御意のままにという言葉をして手放されたこととを比べてみれば、御父様は本当に勝利されたのだという感慨が内から沸々と溢れてくる。実体の天一国をまだ見てもいないのに、どうしてその言葉を口にできるのだろうかと思うのであれば、私は現実に囚われ現在を足場にして未来を見ようとしているだけだ。現在の私がおぼろげに見通す未来は不確定要素に満ち満ちていて、よって現実だけを私は把握し現実だけに生きている。しかし御父様の見通す未来は不確定要素はなく確定している。完成完結完了の実体的表象を確実に見ておられる。それは希望的観測で見ておられるのではなく、既に決定付けられたものとしてある。もし私が御父様との一体圏に入れるなら、私も完成完結完了の確定的未来を共有し、そうなると一体圏に入った私が、過去である現在の私を勝利の確定的未来へと導くようになる。完成完結完了の言葉は、御父様の使命は果たしたから後は私達の責任だという言葉でもなく、ましてやできてもいないものをできたという御父様の独りよがりの言葉でもなく、完成完結完了の確定的未来を勝ち取られた言葉だ。よってそれぞれの確定的未来への道のりは異なるとしても、確定的未来は既に完成完結完了している。しかし人間としての自由と責任がある以上、その道のりが直近的なものかどうかはそれぞれに任されている。御父様御聖和前後の混沌ぶりは誰の目にも明らかだった。御父様の御側で、御父様一体圏で歩まれたはずの諸先輩が、その道のりを大きく外していった。聖書に記された如くまさに上の者が下に、下の者が上にという状況であり、天国は激しく襲う者によって奪われている。そんな状況であっても、否そんな状況であるからこそ私の位相をワープできる。御父様との幾星霜の距離から御父様が抱いて下さる圏内に瞬間移動できる。御父様一体圏の中心的核に近付けば近付くほど、み旨を遮るかのように見える否定的現実に晒されるとしても、それに翻弄されるのではなく否定的だと思われた現実から確定的未来の頂上に向かう次なる門を開く鍵を見出していく。もちろん表面的には苦しくもあり塞ぎ込むようでもあるけれども、私の内面の中心では隠された鍵を探す面白みを子供のような無邪気さで味わっている。

2014年11月8日土曜日

今日の想い 807

公金なのか私的なお金なのかの判断はその所有権がどこに属するかという問題ではある。しかし利益などの有形無形の結果ばかりを見ているが、その所有権がどこに属するかは結果を創造する過程に於ける投入を誰が為して来たのか、すなわち経営権の問題なくしては所有権だけの論議や判断で見えて来るものではない。意外と私達は結果ばかりを注視して公的なもの私的なものと割り振りしているが、公私の区別はそんな単純なものではない。ある会社のオーナー(経営権の保持者)が会社のお金を流用して豪奢な家を買ったとしても、それは横領とは言わない。配当(公から私へ)の手続きを無視して使ったという税の問題であり帳簿の問題だ。経営権を持った者の経営のルールの問題だ。このオーナーは社会的に見て誰も公金横領だとは言わない。そのように所有権を主張する以前に所有をもたらした経営権を無視し、単純に所有だけを見て公私を決めることはできない。結果的全てに公私の区別の色付けが既にされていると思っているから、結果を排出する為の投入、経営の苦労や痛みなどはなから経験しようとはしなくなる。戴いて手にするものだけを如何に使うかだけが意識にあって、もらうのではなく自分で創りだそうとはしなくなる。信仰はあるけれども生活観念は共産主義的だ。形だけ経営に携わっても能動的にはなれないために失敗するはめになる。今までの教会が携わってきたビジネスの累々たる失敗の軌跡を見れば推して知るべしだ。食口が社会的実力を持てないのは公的私的の間違った観念があって、それが常に受動的生活姿勢を取るようになり、貰う者から差し出せる者という能動的な位置に立てなくなっている。所有権しか意識にないから経営権に思いは至らない。公金に対する観念を清平にも当て嵌めている。集まったお金について私的流用だどうだと口にする時点で清平をビジネスの土俵に引き摺り下ろしている。清平はビジネスではないにも拘わらずビジネスの土俵で訴えている。また清平の解怨料は教会への献金とも異なっていて、料金を払ったのに解怨されていないという訴えは出来るとしても、運営以外に使っていると訴えることはできない。私のことを言うなら、解怨して戴いたと信じているしそれによって体も癒して戴いたから感謝こそすれ流用に対して疑問を抱く余地などないし、どう使って戴いても何の懸念も挟まない。ワールドセンターの建設も天正宮の建設も私達の献金で造られたのではなく、大母様訓母様の献金で造られた。だから御父母様は訓母様を称えられた。

2014年11月7日金曜日

今日の想い 806

世の中は金か?そう、世の中は確かに金で動いている。金で動いているから社会は経済という血流で運営され統制されている。それぞれは金を動かすことで社会生活の基盤となしている。そして金の量と質を決めているのは国家主権者であり、覇権団体だ。国家主権者も覇権団体も人で構成されているけれども、動かしているのは人を介してはいるが目に見えない霊的団体だ。無意識にも霊的団体の指示を背後から受けて踊らされている。人や組織は持っている金の量によってそれ相応の権限を行使しているが、金の量を決めるのは覇権団体の要請に応じる国家主権者だ。主権者は覇権団体の要請を断れない以上、実質的には覇権団体がその主権を握っていることになる。アメリカで社会生活をしていればドルに依るわけだが、FRBや主要銀行が政府へ要請し、政府は国債発行してFRBがそれを買い取る形でドルを流す。そこから流れ出るドルを運用する銀行を介してドルの供給が行われ、経済に影響することによって結果的にドルの価値が決められる。結果的に価値は決められるのであって新たに流すドルと既に流して回っているドルとは同じ価値とはならない。すなわちドルの量を倍に増やしても価値が倍増して国力も倍増する訳ではない。真の愛は流されれば流されるほどさらに供給されるが、金の価値は流せば流すほど価値は薄まっていく。やがてはハイパーインフレとなりお金は紙屑同然にまで価値は落とされる。真の愛の本質と、価値が定まらないお金の本質を私達はどう繋げて行ったらいいのか。心身一体圏を標榜する統一食口であるなら天で通ずる愛と地で流通する金、この分断された天と地の血液と血流の橋渡しの役目を担って当然だ。日本は千兆円を越える国債が発行済みで、アメリカは四兆ドルを越える国債が発行済みだ。個人や団体なら莫大な借金を抱えて自己破産し倒産して当然の状態だ。しかし国家経済の場合返済を要求されないしいくらでも国債発行できる。昔はこんなことはできなかったが、それを可能にしているのは、或いはそうせざるを得ないのは国際金融の土俵に国家経済が引き出されて立っているからだ。金融は経済に影響を与え、経済は国家に影響を与える。よって国家の首長と言えども先ず自国経済に振り回され、自国経済は国際金融に振り回されて、国家理想を立てようとする首長権限にも陰りがある。この金融の首根っこをどうやって掴むか。この金融の怪物を手懐けた者が世界を制するはずだ。霊的団体によって国家経済が手玉に取られていることを最初に述べたが、その霊的団体は金融の怪物の元にあって訝(いぶか)りながらも歩調を合わせている。その訝りながらの行動が莫大な国債発行となっている。

2014年11月6日木曜日

今日の想い 805

南から8時間もかけて兄弟が訪ねてきた。休憩を入れずにドライブしても往復で半日以上かかってしまう。本当は来なければならない理由があったのだが、来て見たら手の平を返された格好になってしまった。それならそれで分かった時点で相手方が連絡してくれればいいのに、その辺が甘いというか常識に欠け、ふざけていると思われても仕方ない。食口と言われる私達の、今まで責任感情を覚えなくてもやってこれたという甘えがそこに見える。はるばる北上してきた彼は明日の営業に間に合うよう、とんぼ返りしなければならないので小一時間しか話せなかったが、向かい会って顔を見ながら話すのは電話ともスカイプとも違って内面に落とし込むものがあって実に良かった。御足労かけた彼には申し訳なかったけれども貴重な時間を持てた。お互い同じように店を任されてやっていて「いずこも同じ秋の夕暮れ」で、人手不足の為に苦労している。その為、今まで従業員に任せていてやっていなかった作業を最近また始めたようで、彼が言うには、心配だったけれども昔手にしたものは手がしっかりと覚えていて不自由なく作業がこなせたと話していた。思考は頭でするものと思っているけれども、彼が言うように実は手も思考し記憶する。ピアノコンクールで優勝した辻井青年の演奏に身を傾けると、盲目でありながら見事なラフマニノフを演奏して感動させてくれるのは、目に頼ることを越え、頭脳的思考経路を越えて、手が独立しているように手の記憶、手の感情、手の思考を通して高次の霊界が直接的に表現していることによるものだ。手がそうであるように足も記憶し思考する。目も耳も頭にとっては受け取る感覚器官に過ぎないのだが、目自体が、耳自体が、記憶するし思考する。頭で思考する限りは霊的感性を啓発するには程遠い道のりも、頭の縛りを解いてそれぞれの器官の記憶や思考を認識できるようになると、途端に霊的感性は冴えわたっていく。同じ景色を見るにしても人によって受け取り方は千差万別だ。それはそれぞれが無意識的に頭が見たいように見ているし、見たくないものは見ないからだ。しかし頭の縛りを越えて目自体の記憶と思考に頼り始めると、思ってもいなかった霊的存在が迫ってくる。もちろんだからと言って見せられたもの全てが真実だとは言えないし時として危険ではあるけれども、少なくとも堕落圏に束縛された頭からはいくらか解放されることになる。動植物の集合魂の記憶や感情を、神霊が自然の表情に表現する記憶や感情を、人々の個なる魂のみならず彼等に再臨協助している霊達の記憶や感情を、外界が死んだ機械的科学認識としてではなく、生きた生命ある霊として、即ち思考し感情し意志する霊として私に働きかける。カフェに腰を下ろすや否や、彼は成功し発展する次なるビジネスとして、あちこちに意識の光線を宛がいながら、あれはどうかこれはどうかと矢継ぎ早に提案してくる。直ぐに飛び付けるようなものではないにしても、なるほどそういう見方もあるかと気付かされた。

2014年10月28日火曜日

今日の想い 804

原理を知って霊界について知るのはいいが、霊界に行けば自動的に永生するものと思っている。はっきり言って誤解だ。真の愛に繋がってこそ永生論理は立つのであり、死んであの世に行けば誰でも(どんな霊でも)そのまま永生する訳ではない。では真の愛に繋がらず死ねばどうなるのか。霊界に於いても死を経験する。地獄で永生を希望しないからだ。良心的に生きれば確かに中間霊界には留まるが、しかしそこで永生するのでもなく永生したい訳でもない。それは愛をまともに呼吸できない苦しさから、愛の呼吸器官を準備する為に再度の地上生を生きて霊的器官を得たいからだ。その苦しい感覚を地上で例えるなら、負債の大きさに心が苦しいといった感覚を数倍化したものを想像するといい。霊界に行けばみ言葉の審判、愛の審判、心情の審判があるが、み言葉を正しく受肉しなければ霊界で存在する足場がない。自己中心の愛、偽りの愛に生きれば霊界の呼吸が難しくなる。神様の心情を体恤しなければ霊界の光を受け取れない。光を受け取ろうとしても焼け焦げるからだ。結局足場もなく息も絶え絶えの陽の光の届かないところ、地獄に留まらざるを得ない。しかしそこで永生するとなると救いは永久に存在しない。よって地上の死があるように霊界の死がある。霊界の死をもって再び地上に生まれなければならない。この論理が原理と相反するか。それは生という概念を正しく捉えているかどうかに依っている。この地上で生と思っている生の観念で霊的な生を捉えている。永生が霊的な生に関して言われているのは明白で、それは誰であっても地上の生には限りがあるからだ。しかし限りのある地上の生と同じ感覚を霊的な生について考えるときも当て嵌めている。上に記した、「真の愛に繋がってこそ永生論理は立つ」とのみ言葉があるように、そのようにはっきりと語られているから、であれば逆の言い方、真の愛に繋がらなければ永生論理は立たないと言う言い方も正しくなる。御父様は霊界について多くのみ言葉を語られているが、私達の感覚だと誰であっても地上の生を終えて行くところが霊界で、地獄も含めて霊界だと理解しているが、おそらく御父様が永生する霊界という言葉を使われる場合、地獄は霊界とは捉えてはおられない節がある。さらに中間霊界も含まれてはいない。地獄は真の愛が届かず、中間霊界は真の愛に繋がりきれず、そうなると地獄も中間霊界も永生論理は立たない。地獄も中間霊界も、さらに言えば楽園さえも永生論理は立たない(のかも知れない)。真の愛に繋がる永生論理が立たないからこそイエス様は再臨が必要だった。再度の地上生が必要だった。御父様がイエス様の使命を受け継いだということは、楽園を不在(霊界の死を経験)されて再臨されたイエス様の地上生を勝利する為に生きた期間があるということであり、霊人達の再臨協助という内容は、霊界に足場を置いて地上の協助相手に何かを届けるというより、霊界の死を経験して再度の、或いは再々度の地上生を私と共に生きていると言える。それは生まれては死に、死んでは生まれるという流れ溜りで枯葉が回転し続ける輪廻転生的な地上生だったものから、再臨協助して高次への縦的段階を上って天国人になる為の再臨地上生になったと言うことだ。

2014年10月25日土曜日

今日の想い 803 (氏族復帰)

御母様が私達に伝えるキーワードのひとつは環境創造という言葉で、2020年までの摂理を勝利する為の最重要課題であり、地に足がついていない食口達の意識が目覚めて活動する喫緊の課題と言えよう。氏族復帰は私達の宿命的課題であり、その氏族復帰を為す為には復帰できる環境を整えなければならない。氏族復帰と言われて、あの兄弟をみ言葉に繋げよう、あの叔父さんは意識があるみたいだからみ言葉を伝えて見よう、みたいな感覚でいるけれども、それが本当に氏族復帰なのかどうなのか。先ず氏族メシヤ宣言をすべきであり、それ以前に氏族メシヤ宣言をする環境を整えなければ宣言できる訳がない。集まろうと声をかければ、ある程度の親戚縁者を集めることができる力があるのかどうかという話だ。経済的基盤もない、それなりの地位や名誉もなければ氏族復帰など夢のまた夢だ。摂理は摂理で、私の内的課題を乗り越えながら天国に近付いて行く家庭中心の信仰生活とは別の事と内心思っている節がないだろうか。正直を言えば私の中にはそれがある。それがあるから氏族復帰が進まないとしても安堵しておられる。ここに一つのみ言葉があって、
「ここには一つの秘法があります。統一教会の教会員である皆さんが勝利的基盤を築かなければなりません。そのようにしてこそ父母の立場に立つことができます。」天聖経、地上生活と霊界、第2章21節より、、とある。
全文を載せると長いので最後だけにしたが、このみ言葉の最初の内容を要約すると、統一教会の信仰をしていても天法に引っ掛かれば天国に行けず無駄になってしまう。だからどうすればいいのかと言うことで上に記した一つの秘法を提示して下さっている。確かに私達は恩赦を何度か戴いたけれども、赦されたはしから引っ掛かる生を送ってしまうのが完全復帰されていない私達の性(さが)だ。そうなるとこの秘法を用いざるを得ない。それが勝利的基盤であり、それこそが環境創造と言えるのではないだろうか。食口はこの世的欲がなく、清貧に準ずることを良しとしている訳ではないが、結果的にそうなっている。しかし清貧のままではどうにも勝利的基盤、環境創造にはならない。私達はどうしても経済的成功、それなりの地位も名誉も得てこそ勝利的基盤、環境創造と言える。ある程度の成功者にならなければ誰も、氏族の誰であっても見向きもしないからだ。だから私達は欲で成功者になるのではなく、摂理的観点、氏族復帰観点から成功者にならなければならない。ヤコブが一財産築いてエサウが屈服したように、ヨセフが一国の大臣になって他の兄弟達が屈服したように、本来ホームチャーチ摂理でカイン圏復帰を為して氏族復帰という流れになる訳だが、み言葉を伝えて行くカイン圏復帰が難しければカイン圏に於いて成功者になってこそ氏族が一目置くという、その具体的摂理進展を進めなければ氏族復帰を御題目のように唱えても何にもならない。よく言えばあまりにも純粋、悪く言えば単純馬鹿な食口の在り様から、この世を料理する程の知恵者にならなければ摂理の進展など覚束ない。蛇のように賢く、というかそれがずる賢さであっても無いよりはましだと思うのだがどうだろうか。この秘法をどう捉えるかにもよるが、責任者の公金に対する問題、あるいは地位を使って親戚縁者を優遇する問題など無いとは言えない。無いとは言えないけれど、そのずる賢さで氏族が一目置く位置に立ち、氏族復帰の基盤の一助とするなら御父様はどう対処されるだろうか。お前は天法に引っ掛かったからと無碍に地獄に突き落とされるだろうか。あるいはこの秘法を使ったのかと配慮されるだろうか。仮に公金問題をいうなら、一ドルであっても一億ドルであっても横領すれば公金問題として引っ掛かる。霊的には(天法では)その量によって采配されるものだと思わない方がいい。

2014年10月23日木曜日

今日の想い 802

「神様のすべての相続圏を受けられる特権を得る道は、愛の道だけです。真の愛をもった人が「私」の体をかすめて通り過ぎれば、喜ぶのであって、反抗しないのです。すべて歓迎します。天の国がそのようになっているので、地上でそのような訓練を受けなければなりません。」天聖経、地上生活と霊界、3章2節より、、
このみ言葉で素通りすべきでない箇所は、「体をかすめて通り過ぎる」という表現にある。それは一体どういうことだろうか。読む人が読めばピンとくる内容なのだが、食口は意外と堕落圏の倫理道徳=善とする観念が強いので、まさか御父様の口からそんな意味合いの言葉がでるはずはないという前提に立ってみ言葉を読み進める。「通り過ぎる」という箇所を素通りしてはならず、何度か意味合いを尋ねれば自ずと理解できるだろう。堕落圏から見れば浮気だと言って責め立てられることになる。御父様が複数の愛の関係を持たれたかどうかは別にして、パンと葡萄酒による新生ではなく、重生の為の三日儀式と聖酒式を見れば明らかだが、先ず御父様とその新婦となる立場の女性との関係、それから新婦となった女性と男性との関係、というプロセスを踏んでいる。真のアダムと関係を持って復帰されたエバとなり、復帰されたエバと関係を持つことで天使長が復帰される。それは只の形式ではなく本来は実際にそうすべきであって、しかし事実以上に慕い侍ることで事実として受け取る。本来は御父様の体がひとつであることに、そして限りがあることに嘆き悲しむほどでなければならない。そして御父様に見(まみ)えればひょっとしたら私の体をかすめて下さるかも知れないと、募る想いを抱かなければならない。女性食口はそうあるべきだ。聖和二周年の式典が終わったけれども、その式典の場で、どうして関係も持たずに逝かれたのですかと切々と恨みを訴えるほど慕う心情を吐露するのが本当の女性食口だ。前にも触れたように、堕落圏から見れば、女性食口は御父様の愛人であり、男性食口はお零れを下賜される杯を交わした義兄弟だ。よって女性食口は「私」の体を通り過ぎれば喜ぶのであって反抗せず、男性食口は御父様の愛人をあずかりながら交わした約束に命をかける。ここまで表現すると随分危険で突っ込まれどころ満載だと思うが、心情の体感的相続を考えると関係性が観念的なままだと相続するにも限界がある。

2014年10月21日火曜日

今日の想い 801 (理想と希望)

どんな状況であれ、希望的なものを見出しながら、希望的未来から見れば過去である現在に、希望的未来に生きる感情を引き戻して喜びを感じる。そのように喜びは今を喜ぶ以上に未来を見据えて喜びを覚えるようになりたい。具体的なことを言えば、願う状況をありありと想起できてこそ先ず感情に於いて現実化し、そして生活の中の現実となる。それは言うのは簡単だけれども決して容易いことではないし、現状から逃げ出すことでもない。精神的存在である人間の精神的霊的創造だ。現段階の人間は万物を置き変えたり繋げたりして新たに創ることはできても、万物そのものを創造することはできない。しかし精神的霊的創造をすることで、その引力で万物や元素を引き寄せることはできる。人間は感情を持った動物の位置からは縦的段階を上っていって理想のある神様に向かっていく。つまり喜びを得たいという位置から希望を見出そうとし、希望を見出そうとする位置から理想とは何かを尋ねる。現実から理想を尋ねていくのではなく、それとは異なり、先ず理想を提示して理想の具現を現実に見ようとするのが本来の宗教の使命だ。しかしいきなり理想を提示されても現実が堕落圏にある以上理想の概念は到底受け取れない。しかし高次から低次へ、より理想に近い位置から現実へという、逆の流れを用意できると神様の理想を捉えやすくなる。み言葉の本質を受け取ることは簡単ではない。しかしみ言葉の理解がどれほど稚拙なものであっても、高次から低次へというベクトルを用意することで希望的未来に生きるようになる。堕落圏の希望ではなく理想からくる希望に生きるようになる。神様の理想があり、そして希望があり、そして喜びがある。多くの人間は理想も希望も喜びも平面的であり同じ意味合いでしか捉えていない。しかしみ言葉に立てば理想と希望の立体的違いを明確に理解し、当然のように見ることができ、よって当然のように現実化する。理想は神にあり、希望は未来人間にあり、喜びは現在人間にあり、創造結果は過去人間にある。創造結果、或いは堕落結果に埋もれて生きれば過去人間であり、喜びに生きれば現在人間であり、希望に生きれば未来人間であり、理想に生きれば神の領域(位相)に立つ。

2014年10月19日日曜日

今日の想い 800

霊とは無縁のところで活動し生活しているように思えるけれども、すべての現実は霊界で起こっていることの表象であって、その現実を通しながら背後の霊の活動を見通すことが必要だ。それはいかにも特別の技術を要するように思えるが、実は技術というより想いを供えることで相通じるものがあって、そこでやり取りされるものこそ愛の霊素だ。生霊要素と表現していいと思う。私達が通常愛としている愛は表面的なもので、愛と真の愛との違い、表面的通常の愛とその愛を愛と為さしめる根源の愛、本質的霊的愛との違いを分からなければ、真の愛の概念に近付けないしは受け取れない。真の愛の概念を受け取った者は背後の霊の活動を手に取るように見通す。能動的に自分の意志をして愛する、愛を与える、為に生きる者でなければ真の愛の概念を受け取ることはできない。私達の問題はみ言葉を言葉としてのみ受け取っているので、実に受け取り方が観念的であるということだ。しかし生きて生活するのは観念的ではなく現実なので、み言葉をどれほど勉強しようとも言葉から実生活に落とし込まなければ観念的なままであり抽象的な愛と信仰生活に留まるしかない。殆どの人は職場という環境の中で多くの時間を費やすが、この時間とそして職場というスペースをどれだけ自分の想いで満たそうとしているか。精誠を供えるという素晴らしい言葉を私達は持っているけれども、精誠を供えるには時間的な側面と空間的な側面が必要であり、分けて行動できる訳ではないが、時間に刻みこむ精誠と愛、空間に落とし込む精誠と愛を意識的に為してこそ、時間の神霊と場の神霊が共にいて背後の霊の活動に働きかける。御父様は1秒の違いで様変わりする霊的環境を見通しておられ、宣布や儀式、あるいは通常の訓読会に於いても何分何秒に至るまでこだわられた。また場所場所によって異なる霊的環境も見通され、よって世界聖地の決定もされたのであり、また、いつも急に思い立ったように移動され行動された。御父様は時間の神霊と場の神霊を把握しておられた。真の愛こそが全てに通じ、真の愛の光で数千数万年前の過去にも、或いは未来にも照射して見通せる。真の愛の光で地球のどこにも、宇宙の果てにでも照射して見通せる。背後の霊的背景を見通しながら、それらの霊と真の父母との関わりは私を通して為されるのであって、彼等の霊的復活は私を通して真の父母から来る真の愛で為される。願われる御父母様がおられ願いを受ける私がいるという観念だけでは私を中心とする摂理は一向に進まない。地上に実りを見ようとすれば霊界の協助は必然であって、救いを受けたいあらゆる霊達の叫びを感じつつも、彼等の功績は必ず天に繋げるという霊達の信頼を得てこそ彼等の協助は生活圏に入り実を実らすまでになる。ようするに結果を残す為には天と私の関係だけに留まっていてはならず、一方で天の願いがあり、一方で霊達の復活と救いへの渇望があり、その仲保である私を確立することで結果を残せる。

2014年10月11日土曜日

今日の想い 799

私は死に対して、期待感はあっても恐怖感は全くない。しかし霊に対する恐怖感はある。勿論生きて為す使命があるから、道半ばで逝くということになると悔いはあるとしても、しかしそれは恐怖感ではない。霊界が存在するという認識を持つということは、恐怖感は軽減されるけれども恐怖感が全くなくなる訳ではない。恐怖感が失せたのではなく、霊界があると信じることで恐怖感を見ないようにしているだけだ。私は霊界を信じるのを越えて、地上で生活感をもって生きているように霊的生活感もある。もちろん私の霊的五官は肉的五官のように冴えわたってはいないので、曖昧で未だ鈍感ではあるけれども、それでも霊的見地に立てば大きく対処を間違えるほど暗くは無い。ここアメリカに住んで生活していると霊は随分とあっさりしたものだが、日本に帰ると途端に霊の存在を強く感じる。その存在が心地よい部分もあるし、また煩わしく重い部分もあるとは言えるのだが、、。そしてさらに故郷である田舎に帰ると、霊が忽ち押し寄せてきて恐怖感として現れる。それは地域的なものというより、ある程度の霊的感性を備えて生まれた私、使命を担った私に霊達がすがりつくことで、背負っている重荷を引き受けて欲しいと依ってくるからだ。その恐怖感は小さな子供の時分からあって、それ故に追い詰められて精神を病んでしまいそうにもなり、ひたすら故郷から逃げ出したかった。高校は広島まで出て、月3500円のあばら家アパート住まいをしたが、田舎に比べれば、あの蕩減の重い広島が随分軽く思えるほどだった。そして、距離的には逃げに逃げて、ついに地球の裏側までやってきた。しかし、距離は遠くにあっても、あの郷里に行けば重くのしかかってくる霊達の解放に対して責任がない訳ではない。田舎では臥竜の山が里を見下ろしている。事件が起きるまで、まさかこのなだらかな山が舞台になるとは思ってもいなかったが、現実のものとなった。表面上はこの山のようになだらかな故郷の毎日がずっと続くと思っていたが、感じていた恐怖感が現実化した。地球の裏側にいてもそのニュースは即座に飛び込んできた。モレブ山のイサクの献祭は父子の一体化で避けられたけれども、臥竜の山は犠牲が現実のものとなり無残な形で供えられた。山は頭や胴体の切断された犠牲の血で染められてしまった。この地が故郷である私の使命は霊視して犯人捜しに一役を担うことではない。現実となった霊的背景を受け止めて鎮魂することだ。そして霊の解放だ。2009年11月6日に発見されたが犠牲者は10月26日から行方不明だった。となると2週間近くは発見されぬまま転がっていたことになる。5年経った今でも、その日が近付いてくるとその事件が想起される。この事件を知ることになった時、故郷で感じていたあの恐怖感が即座に蘇えった。実は勘違いしたことがあって、恐怖感は恐怖を与える霊の存在に囲まれているからだと思っていたが、事実は恐怖を感じている霊だから共鳴して同じように恐怖感を覚えたということだ。この霊達を救わない限り、故郷に足を踏み入れて氏族メシヤだ復帰だなどと口にすることすらおこがましい。もちろん犠牲となった女性も浮かばれない。

2014年10月9日木曜日

今日の想い 798

教会にとってある子女様の行動が問題視されたとき、先回記した、「愛が愛らしく」という言葉が先ず私の中に想起された。子女様の行動は教会の規律どころか原理原則さえも越えて、自分の愛を全うすべく行動に出られた。その行動は食口の誰もが批難し、たとえ子女様とてこの行動は御父母様の願いに反すると誰もが思った。もちろん私もその一人だ。しかし私にはその行動が、「愛が愛らしい」と思える愛の行動だと、それは批難が増せば増すほどにその愛は光を増すと思われた。一方で首を傾げ批難の言葉も思い浮かんだが、しかし一方では愛だ愛だと口にしながら、教条的で死んだ愛としか思えない愛の抜け殻が幅を利かせている中で、唯一、というか目を覚まさせるような愛らしい愛を子女様の行動に見た思いがした。愛が、原理原則の権威への恐れから、或る意味行儀良い愛、安全な愛となり、それもまた愛の姿ではあるのかも知れないが、「愛が愛らしく」という表現には愛の観念を覆し、リスクを負うような愛の行動、愛の姿も否定されずあってこそその表現が成立すると私には思われて、清々しい気持ちもあったことは確かだ。残っておられた二人の御子女様の祝福に対しても随分批難している者達がいるが、多くは御父母様を否定し教会に反発する者達の批難であって耳を傾ける必要もないのだが、それでも今までの祝福状況とは異なるので食口の中にも少なからず波風が立ったことはそうだ。恋愛結婚で祝福の伝統は守られるのだろうかと心配する者や、私のように随分祝福の門が大きく広がって喜ぶ者やいろいろだろう。しか祝福は祝福だ。たとえ今までの基準を問うことはなくなっても、それでも祝福だ。御父母様が許可し、責任を取るから祝福であって、受ける側がどうこう疑問を呈する問題ではない。これで間違いなく二世達の祝福は増すのであり、祝福の世界化も一気に広がっていく。それがどれだけ喜ばしく有難いことだろうか。御父母様は確かに人類の御父母様だと再確認できて、讃美の声を張り上げたいほどに嬉しかった。祝福に依らなければ霊肉の救いはない。祝福の門が広がったことは救いの門も広がった訳で、御父母様の勝利圏による人類の救いを地上で、そしてこの目で見届けることができる。先の御子女様の懸案について御母様から言及されたことは未だない。いや、何も聞いていないのでないと思っている。それでも真の御家庭のことであるし、後々には何らかの御言葉があると思っているが、それもない間に責任の無い立場で好き勝手なことを口にすべきではないだろう。それでも私個人にとっては、愛の統一教会でありながら愛の臭いも香りもしないと長い間感じていたが、批難も甘受し霊的生命の危険さえも犯して愛に生きる御子女様の大胆さは、愛が実に愛らしくなってきたと思える大きな出来事だった。断わっておくと、私は好意的には感じているけれども、それを善だとも悪だとも誰かのように判断はしていない。暑く激しい愛の呼吸をその子女様に見ているだけだ。

2014年10月8日水曜日

今日の想い 797

愛が愛らしく存在するために、という説明が原理の力より愛の力が強いものである理由として記されている。本来原理で創造された人間は愛で主管される。原理で主管されるものであれば人間の自由性など存在しない。愛で主管されるから自由性が存在するようになる。愛が愛らしくという言い方には愛によって原理をも曲げてしまう、という、愛の原理に対する主管性、自由性を謳っている。堕落は当然、原理の力によるベクトルに愛の力が横から無理押しされて生じたものだ。論理的で機械に見るような無表情な表現で一貫されている風な原理だが、堕落論に記されているこの表現に触れた時、私の原理に対するイメージは大きく変わった。原理原則の機械的なものが根源にあるのではなく、言い方は不埒だが愛の秘密性が根源にあったという安堵だろうか。それは堕落した男女の愛の秘密性のみならず父子の間の愛の秘密性でもある。私に取っての堕落論は読めば読むほどに、歴史的秘密にされていたエデンの園での神様とルーシェルの愛の駆け引き、エバという愛の果実の奪い合いの一大叙事詩が繰り広げられ、それぞれの息遣いが論理的言葉から溢れ出し圧倒される。堕落論の中に入ると、愛の貴さも、愛の穢れも、そして愛の秘密性と愛の独占、さらに愛による主管や愛の自由性、甘い愛であったり苦い愛であったり、ありとあらゆる愛のイメージが広がっていく。そういったイメージが本然的なものだけではないことはわかっているが、だからこそ「愛が愛らしく」という言葉が成立すると思っている。人類の内的霊的進化に芸術の果たした役割は大きかったけれども、それは善を表現したものだけではなく、触れさせたくないようなものを表現したものもまた逆説的に進化に寄与している。芸術は愛の申し子だから「愛が愛らしく」あるように芸術もまた芸術らしくある。私達が愛という言葉を使う時、愛らしいと言えるような愛の観念を抱いているだろうか。何々しなければならない、為に生きなければならないと言うような、戒律的な観念が私達の中にある以上、蕩減時代を越えて愛の自由性の中で、愛の呼吸をするような愛の存在とはなっていないだろう。愛とは名ばかりの、愛という名の心魂の牢獄から解放されて、東西南北の愛の呼吸、春夏秋冬の愛の呼吸、暖かい包み込む愛も呼吸し、涼しい癒しの愛も呼吸し、暑く燃える愛も呼吸し、冷たく厳しい愛も呼吸する、そんな愛の自由人になってこそ私は真の愛の国の住人になることができる。

今日の想い 796

一度は御父様を慕い侍った過去があったろうに、それも全てを捧げて搾り取るほどに投入しただろうに、その反動からか御父様と教会を責めるその言葉には呪いの毒気さえ見て取れる。彼等の発信は青春を返せと叫んだような恨み事なのだろうか、それにしては目覚めた(?)ことが誇らしそうでもあるし、或いは騙され続けている食口達を目覚めさせようとしているのか、そうであるなら馬鹿にしたような随分な上から目線では余計に頑なになるだろうことは想像にかたくないと思えるのだがどうだろうか。結局は糞尿をあたりかまわず撒き散らし、知らないうちに自分も被ってしまうというその程度の存在にまで自分を貶めている。発信すること自体に意志を傾けていて、教会の飯を口にした時があったからたまたま記す材料に事欠かない教会のことを書き連ねているに過ぎない。発信することで私は存在しているという自己アピールをしたいのは良くわかる。私も同じだからだ。しかし言葉というものは恐ろしいもので、口にしたそれを条件として霊がそこに居座るようになる。そして霊が霊を呼んで拍車をかけた言葉を口にするようになる。記すという言葉を残す作業には更なる霊の実質化が加速される。それは善霊であっても悪霊であっても同じことだ。善霊はさらなる善霊を呼び、悪霊はさらなる悪霊を呼ぶようになる。ネットがツールとなって簡単に発信することができるようになったからその影響は大きい。自分が発信し始めた当時の記事内容と今のそれとを読み比べて見ると良くわかるはずだ。利口になったか?おそらく利己にはなってきたのかも知れない。先天時代は利口がサタンの武器だったから知恵がつけばつくほどにサタン的活動に懐柔されてきた。俗に言う頭がいい者ほど共産主義にのめり込んでいった。言葉はそれほどに恐ろしく、或る意味魔術的で、霊的に見れば言葉を使うことは黒魔術にもなり白魔術にもなる。こんな言い方もおそらく妄想食口でかたずけられてしまうのはわかっていて、反対派から妄想呼ばわりされるほどに認識して戴いたことはブロガ―冥利に尽きるけれども、彼等の半端ないこれからの蕩減内容を思うと心が重い。彼等の中には知ってか知らずか神様の愛が絶対的であるなら赦しも絶対的であると暗に踏んでいて、敢えて御父様を刺激し現役食口を焚きつける者もいる。ちょうど天使長ルーシェルが同じ道理で神様に挑戦状を叩きつけた如くにだ。しかし愛と赦しを期待する以上、愛と赦しを身を持って、或いは血統を持って体験する過程を通過しなければ期待する愛と赦しの実感的概念も備わらない。騙したことに対する赦しは、等価からそれ以上に騙されて騙した相手の心情に通じてこそのものであって、それを蕩減というのであり、その過酷さを知るから良心作用が働く。人間に最初から自由性が与えられたのはそれ故にアダムとエバが堕落したことからして明らかだ。自由性は責任が伴うのであり、責任が伴うからこそ過酷な蕩減内容を人間は負う。頭のいい彼等にその理屈がわからないとは思わないのだがどうしてだろうか。恐ろしい神様であるという認識がないらしく、何でも許してくれる神様だという妄想に取りつかれている。彼等は私を妄想食口と呼ぶが、私に言わせれば彼等こそ妄想の中の妄想に住んでいる。

2014年10月6日月曜日

今日の想い 795

食口の多くはクリスチャンではなかった。だから再臨のメシヤという概念と彼を待ち望む感覚は原理を受け入れることでの受け売りでしかない。あたかも再臨主を待ち望んでいたかのような錯覚を覚え、たとえ御父様こそ再臨主だと信じるとしても、原理を聞いて初めて再臨主の言葉の意味を知ったのであり、よって概念までは受け取れずに錯覚の域を脱しない。再臨主への思いが錯覚であればメシヤ信仰も錯覚だ。み旨を歩む過程でどれほどの者が錯覚から信仰の本質に目覚めただろうか。再臨主という概念は聖書を生命視し、クリスチャンとしての信仰路程を歩んでこそ再臨主の概念が備わる。それでは真の父母という概念は私達の中にあるだろうか。父母という概念は世界人類共通のものであり、父母という概念が備わっていればそこから真の父母という概念への道もある。しかし真の父母の概念は偽りの父母があるからで、真の父母の概念を取り出す為には偽りの父母、即ち偽りの父母からでた堕落した存在であることを理解しなければ真の父母の概念は探し出せない。罪を自覚すればするほどに救いへの渇望があるわけで、偽りの父母に対する認識があればあるほど真の父母への認識が明確になる。クリスチャンとして再臨のメシヤを待ち望んだ立場でもなければ、偽りの父母から生まれ罪を引き継いでいるという堕落意識も薄ければ、私達はどのような御父母様として受け入れるのか。歴史的何の用意もされずにピックアップされた私達にとっての福音中の福音は「心情」という言葉だと私は思っている。心情の因縁によってこそ再臨主であり、真の父母であり、さらには万王の王であられる御父様と、何もわからない私達の関係性が確かなものになる。ユダヤ民族にとってイエス様がもたらした霊的で本質的な光は彼らの概念の辞書の中にはなかった。いわば律法に従わないイエス様の心魂しか見えず、より霊的本質的新しい光がもたらされ発するのに関しては盲目だった。クリスチャン達にとっての御父様も同じだった。彼らの再臨のイメージからは大きくずれていて、それ故に霊肉の救いをもたらし新しい世界をもたらすほどの高度の光、真の愛の光に対して盲目だった。私達の多くは心魂の光も、霊的光に対しても勿論盲目であったけれども、御父様の袖を掴んで離さず付き従ってきた。付き従ってきて価値もわからずに祝福を戴きみ旨に歩んできた訳だが、聖和されて掴む袖を失ってしまった。しかし掴む袖はなくしたとしても歩みの過程で受け取ったものがある。苦労に次ぐ苦労の連続であったけれども、苦労を通して心情を受け取った。神の心情を受け取った。真の愛の光を受け取れる目はこの心情にあるのであり、神様の心情を受け取ることで用意される。人類解放の祭物である統一食口を苦労に次ぐ苦労の塩で漬物にして、人間の霊的素材の本質が浮き彫りになってくる。私達の中には確実に真の愛の光を受け取る目が用意されている。真の愛の光の光源がどこにあるかを真の統一食口は見ることができ知っている。山羊族の食口は背を向けても、羊族の食口は真の光の光源を見て、知って、対して、受け取っている。

2014年10月2日木曜日

今日の想い 794

反対派はおろか本流に沿う者達の中にも、上に立つ者と下で支える者、指示を出す者と指示に従う者、さらには搾取する者と搾取される者、という構図の観念から抜け出せない者達がいる。連絡、指示だけなら上下意識は役に立つのかも知れないが、摂理が目まぐるしく変わっていくこともなくなり、それぞれの自主性、主体性が要求される状況になってくると上下意識だけで果たせるものではない。もちろん教会としても組織で動いてきたわけだし、今でも組織体制を崩せば依り代はなくなってしまう。しかし今の教会は上に示した構図の組織体制からは変わってきている。立てられた中心者を中心とするピラミッド体制によらなければ我々の存在を維持できないと信じているが、この世では既に会社存続するためには強固なピラミッド体制では無理があることを察して、柔軟ないつでも変容できる組織になってきている。特にネット空間を存在基盤とする新しい会社はその性質上からもそうならざるを得ない。外的世界の方が先んじて進化しており、その器の中に新しい内的世界、より理想的な内的在り様が住むようになるという、それは別に今に始まったことではない。体が先で心魂は後からだ。原理型の非原理社会が内的なものより先に政治経済に起こってきた。しかし旧態依然の世界観念から脱却できず、今の中心者を批難しながら新しい中心者に挿げ替えることでピラミッドの存続を図ろうとしている。どこまでもピラミッドから離れられない。教会が霊的柱を立ててそれに属するのではなく、それぞれの家庭で霊的柱を立てる必要がある。だから家庭教会であり家庭連合だ。そこには今までにはなかった自主性、主体性が求められるのであり、祝福中心家庭として宿命的な氏族復帰の命題を与えられている以上、中心者批判、教会批判をしているような暇はないはずだ。御父様は完成、完結、完了と言い残されて聖和された。それは御父様は使命は果たされたから後はあなた達の責任だ、と捉えるべきなのかも知れないが、私には私達子女に対しての真の父としての重大なメッセージだと思える。父であるなら残す子供に対して、ラクダが針の穴を通るほどに難しい宿命的課題が残っているにもかかわらず、そんな言葉を残されて旅立たれるだろうか。そうな呑気な独りよがりの御父様ではないはずで、御父様が「あなた達は既に御父母様の勝利内容を相続した」という確信がなければ、そんな言葉を残されるはずはない。或いは、霊界からどんな応援部隊を送ることもできるので必ず勝利するという御父様なりの確信があるはずだ。私達は未だに多くの為すべき事柄が残っていて途方に暮れるような心境だとしても、御父様には私達それぞれの将来的勝利を既に見ておられて、よって完成、完結、完了の言葉を残されたと思える。氏族復帰にしても、私は宣布するべきだけれども霊的な具体的活動は霊界の協助によるものであるし、霊界の協助は天の命令によるものであって、よって御父母様の勝利圏は私達の勝利を約束している。もし私達が古い革袋、すなわち旧来と同じように組織体制に寄りかかっている限りは、為すべきことも組織を通して受け取ることになるという、天との間接的関係しか持ち得ないが、後天開闢時代の新しい革袋、私と私の家庭が依り代となって天との直接的関係を持つことができるようになり、為すべきことが直に伝わるのであり、何をすべきかを刻々と判断できるようになるし、堕落することもなければ判断を誤ることもない。勝利への直近経路は照らし出されている。

2014年9月29日月曜日

今日の想い 793 (氏族復帰)

今まで様々な摂理が打ち出されてきて、その度にその中心的摂理に心身を投入してきたわけだが、ある摂理から次の摂理が出されると新しい摂理に皆が皆、全ての意識が移ってしまって、過去の摂理はその完成を見ることなくうやむやになってしまう。先天時代はそれでもサタンと交わる一線上で駆け引きがあり、御父様の号令のままに動じ静じて、それが条件物なり条件期間なりの蕩減的なものがあったからそれでも善しとされた。しかしあまりにも摂理の動きが激しく、その摂理的意義もわからずに取り敢えず着いて行ったものだから、勝利的実績を残さずに転々とすることに堕してしまった感がある。何も勝利していないのに兎に角ここまで着いてこれた、というところだろうか。しかし、これからは任されて私達の自由意志に委ねられれば、結果を残す責任も当然問われるわけで、結果は残していませんがそれでも何とか着いてきましたという報告は報告とは言えないだろう。氏族メシヤとしての責任を背負っている。やれ献金摂理だ、やれホームチャーチだ、訓読教会だスモールグループ活動だとそれぞれ鼻は突っ込んだがどれひとつ形にはなっていない。その延長線上に氏族復帰があって過去の摂理と同じように活動するものだと思っているけれども、延長線上に氏族復帰はないし、鼻を突っ込んだだけでやはりうまくいきませんでしたという事にはならない。是が非でも為し遂げなければならない私と私の家庭の宿命的責任が氏族復帰だ。氏族は私そのものであり、氏族の存在や存続と、私と私の家庭の存在や存続は同じだという感覚だ。それを思って寝るに寝れないほどの切実さを感じているだろうか。私がやらないなら血統圏の誰かがやらなければならない宿命的なものだ。だから氏族復帰に対しては、今までのように鼻を突っ込むような姿勢では埒が明かない。下手に氏族復帰活動だと称して見え透いた署名や献金要請ではかえって距離を置かれてしまうだろうし、人格も社会的地位もない者が詰め寄っても、氏族にとってみれば得体の知れない布教活動に過ぎないのであって当然引かれてしまうだろう。統一教会に繋げる直球が難しいとなるとどうすればよいのだろうか。分派が一生懸命食口に接触して感化させようとするけれども、もし食口に向かうのではなく自分の氏族に向かい氏族を感化できるなら、それは分派ではなく氏族復帰活動になるかも知れない。直球が難しいと言うことになると、一端引いて、方便を使うことによる氏族復帰二次摂理の完成を目論まなければならないだろう。しかし頂上に向かう経路をどう取るにしても、私のいる事情圏、環境圏をすべて捨ててその道に、というのは果たして得策だろうか。すべての道は実は事情圏、環境圏の中から導き出せるのではないだろうか。抱えている事情圏、環境圏は氏族復帰基台摂理であるかも知れない。

2014年9月28日日曜日

今日の想い 792

私達が一生懸命み言葉を伝えようとしても、相手にしてみるなら私達はその理想を簡単に成し遂げられるかのような錯覚に陥っているように見えたはずで、人間の正体を理解している彼等にとっては確かに浮いた世間知らずの存在であり、地に足がついていないかのような存在だったはずだ。復帰された食口にも二通りあって、余程信仰的背景があるか、あるいは純粋で単純かの二通りだった。ほとんどは純粋単純で、世間知らずなこの群れにこの世界を復帰するなど当然覚束ないはずだとサタンは踏んでいたから、私達に対する霊的な所有をサタンは口にしなかった。だからこの道に足を踏み入れることができた訳で、しかし歩む道のりの途中で流石に実態を思い知るようになる。それは私自身の実態でもあるしこの世の実態でもある。すなわち現実に引き摺り下ろされて夢から覚める。それからが本当の信仰路程の出発だ。私達がこの地上で生活している以上、そして堕落社会から完全に隔離されては生活できない以上、生活を通して堕落的要素は入り込んでいるのであり、それは身体的なものというより心魂的に堕落的影響を受けている、というかそれなしには生活は成り立たないとも言える。しかし心魂のどの辺りまで影響を許すかによって霊への影響を断ち切ることはできる。私達の霊肉の戦いはこの心魂のステージで繰り広げられている。霊の認識の乏しい者はみ言葉を霊的なものとして捉えることができず、認識できる心魂にのみ影響を及ぼすみ言葉としか捉えられない。そうなると言葉の枷に嵌められて御父様が言った言わないの論理に終始したり、あるいは人倫道徳の基準でしか物事を見ないようになるが、そうなると山羊族である人間的な存在に留まり、羊族である霊的な、更には神霊的な存在にはなれない。食口に於いても、山羊族は肉的な、或いは心魂的な罪を犯したかどうかしか見ないが、羊族は霊的な罪を犯すのかどうかを重要視して霊的に受け取ったものを守ろうとする。大方の反対派の言い分は指示の政治的関与であるとか、金の流れの政治的関与で食口を搾取しているかのように口にするが、それは誰が責任者になるとしてもあり得る訳で、その背後にどのような霊的背景があり、御父母様がどう霊的支柱を立てられようとしているのかを見ない限り人間的判断では誤ってしまう。純粋単純な食口の在り様からは随分利口になったことは確かだが、霊的な事柄を見抜ける者になれたかそれとも心魂の次元に留まっているのかが羊と山羊の分かれ目だ。人間的には灰汁(あく)の強い者達が責任者として立ち、人間性までも無視するような、それを自己否定と認識させて統一の群れの前進的役割を果たしてきたのは事実だろう。御父様が蕩減の時代は終わったという意味は個々人に於いてはどう当て嵌まるのだろうと考えてみたが、知的観点で言えば盲信的だった全体から個々がそれぞれ認識して確信するものに変わったと思う。中心者がカラスは白だと言えば総じて白とした観点から、それぞれがカラスは本当に白なのか、さらにはどうして白だと言われたのかという観点に立つことができるようになった。人間としての地上の力量がそれぞれでどれほどの違いがあるのだろうかと考えてみると、さして大きな違いは見出せない。それでも世界を動かす位置に立つ人間が確実にいる訳で、そこには持っている霊的背景と世界を把握する存在(かつてはサタンを頭に置く霊的連合だった)がどう地上に支柱を立てようとしているかという霊的なものに依っている。世界の潮流は確実に見えない存在が選ばれし人間をして先導している。これからの選ばれし人間は確実に天の認可を受けるようになる。御父母様の勝利圏が確立した今は、見えない霊的潮流は世界統一に向かってその流れを時間を追うごとに速めている。御父様がサタンの霊的連合に代わって霊界の指令本部から直接に指示を出し、天の密使として活動している存在がいる。一方ではその天の密使が活動し、一方では御父母様の願いを引き受けた氏族メシヤ達が底上げ活動を為している。もし底上げ活動が天の願いに応えられずに頓挫するならば、実体的天一国、そして世界復帰は天の密使の活動だけに依るハードランディングとなるだろう。しかしそこには測り知れない犠牲を供えることになる。この2020年までの7年の猶予期間で氏族復帰による底上げ活動によって為そうと決意されるのが御母様だが、御母様の願いをどれ程に深刻に受け止めている私達だろうか。

今日の想い 791

男性にとって原理原則をまもることがどれほど大変か、女性には先ずわかるまい。創世当時は女性はひとりでも堕落が起こったけれども、現代は数多の女性がまわりにいて男性にとってどれほど大変かという御話を御父様はされている。本然の男性であれば相対者以外は何も感じないし惹かれることはないと、女性食口だけではなく男性食口の多くも思っているようだけれども、堕落した存在だからいろんな女性に惹かれるのではなく男性だから惹かれる、というのが実は正しいと思っている。男性から言って、まちがいも犯さず妻と添い遂げたと言える夫婦は二通りある。それはこの世でも同じだと思うが、男性が原理原則をまもるために弛まぬ努力に努力を重ねてきたか、あるいは男性が全くの甲斐性なしかの二通りだ。食口の場合甲斐性なし、すなわち男としての魅力に欠けるかあるいは生きる密度が薄く欲望が欠如している者が結構多かった。しかし地上の力とは望みを手にしたいという欲望だ。私達は異性に向かう欲望を色情因縁の一言で納得してしまい、異性に向かうベクトルの全てを罪として片付けてしまうけれども、その欲望そのものが悪ではない。どう主管するかであって、主管することと抑え込むこととは異なる。抑え込めば抑え込むほどに欲望があらぬ方向に爆発してしまう。主管するとは力の原理をして主管するのではなく、愛をして主管する。それは私自身の問題においても同じであって、欲望を抑え込むのではなく昇華させることが愛をして主管することだ。肉欲、感覚欲は肉と感覚の次元に留まる限りは主管などおぼつかない。偽りの愛の関係で堕落が起こったその場所には神様の言い知れぬ悲しみの心情が今なお息衝いている。海に沈んで亡くなった子供の無念を親として昇華できず、美しい海を見ることにさえ強烈な心痛を覚えて普通には見れないように、神様にとっては今なお愛の器官である生殖器に対して苦しいほどの心痛を覚えられる。もっとも精魂を傾けて創造された生殖器が、もっとも忌まわしい部位となってしまった。私達はその神様の痛みの心情を開放する責任がある。神様の心情を尋ねる私を用意して初めて肉と感覚の次元の縛りから解かれていく。フリーセックスをよしとするような性の氾濫はもう抑えが全く効かない。ネットという媒体を通してもあらゆる欲望を刺激している。泥沼の中から真っ白な蓮の花が咲くように、氾濫した中から真の性が見出されると私は思っている。この言い方を誤解してほしくないのだが、真の性は真の愛からの全く新しい性の在り方であり、形は同じであっても既存の性に見る印象を寄せ付けない。私達は聖酒を戴く聖酒式に参加したけれども、教会で禁じている酒をもっとも神聖な儀式に使用される意味を考えなければならない。性に対しても同じであって、教会生活ではあれほどに見るな触れるな食べるなと禁じている性をして三日儀式が為される。そのものが悪ではなく、どう用いるかによって善にもなり悪にもなるということだ。形は同じでも形の中身、霊の部分が異なる。酒呑みが酒を断てないのは酔う味を肉体が覚えたからであり、堕落人間が性を断てないのも生命体が酔う味を知っているからだ。そのように本然の人間であれば神様との関係を断つことはできない。それは自分の霊が真の愛に酔う味を知っているからだ。本然の人間は真の愛に酔って生きる。そうすると私の霊が真の愛に目覚めている度合いに応じて性を主管できるだろう。最初の確認をすると、プラスである男性にとってマイナスである女性へのベクトルが働くのは当然であり、であるならその衝動のままに行動すればいいのかと言うとそうではなく、それは霊の破壊であってその横的なる衝動をどうすることで神様へ向かう縦的な私を用意することができるかを問わなければならない。真の愛に酔うことを覚えた人間は堕落しない。酒も性も我慢して抑え込むのではなく「主管」する。

2014年9月24日水曜日

今日の想い 790

人間が本然の人間として心身一体圏に立てば一柱の良神として立つ。私が本来一柱の良神(心)であるように、相対もまた一柱の良神(心)だ。アダムが男性神として立ち、さらに父神として立つべきであったように、エバは女性神として立ち、さらに母神として立つべきだった。そうであればカインもまた一柱の良神であり、アベルもそうだ。カインは石工(科学技術)の神として立つべき存在であったし、アベルは祭祀の神として立つべき存在だった。セツはセツでまたアベルカインの繋ぎとなる触媒を果たすべき一柱の神として立つべき存在だった。おそらくこんな話、幻覚と妄想に取り付かれた話にはついていけないと、食口であってもそうなるはずだ。推測の域を出ていない話なのでそう思われても仕方がない。人間が位相を高めていき、その人間の中に神を宿し神をみる存在になるということ、それは父は子に対しては父以上の存在になってくれることが願いであるなら、神の位相に立つ、即ち神的存在になってこそ神様と人間が父子関係であるとは言えないだろうか。それが良心のある人間ひとりひとりは一柱の良神になり得ると言える私の根拠だ。御父様は、堕落はアダムエバの堕落のみならず、カインアベルセツそれぞれの相対を含めた8人家族の堕落だと話された。その意味を何度も何度も尋ねてみて輪郭を持ってきたのが、8人家族のうちの一組でも他の犯した罪を収拾できたなら堕落の血統圏は形成されなかったのではないかという推測だ。カインがアベルを殺害したという事実が堕落を決定的なものにしたと言われたように、神からの三代圏を通して堕落が決定的になったから、三代圏を通して復帰されなければならない。三代圏の復帰が私を起点とする三代が信仰を持ち、堕落せず、祝福を受けることと認識しているけれども、果たしてそうだろうか。さらには信仰があるないの基準、堕落したしていないの基準、祝福を受けた受けていないの明確な基準が果たして私達の中にあるのだろうか。それは条件的なものに過ぎないとは言えないだろうか。おそらく多くの食口の三代圏の完成に対する認識は条件的なものに留まっており、御父様の三代圏の完成の概念とは異なると私は思っている。責任分担という概念の中にそうあるべきだという教条的観念が必要条件としてあるなら、それは責任分担ではなく条件的枷以外の何物でもないと思うのだがどうだろうか。条件の枷と自由性とは相容れない。神様が善悪を定める神様、天国と地獄に振り分ける神様ではなく、父なる神様でありさらには心情の神様であられることを知ったのは私達に取って福音中の福音だ。条件至上主義の神様であるなら私なぞとっくに淘汰されて消え失せている。科学はカインの申し子だ。神に為りそびれたカインの繁栄を現代の科学文明に見ている。宗教はアベルの申し子だ。カインに殺された無念の叫びを科学文明に追い遣られる宗教として現代に見ている。思想はセツの申し子だ。科学と宗教の共存を現代の中に夢見ている。人類はアダム家庭という8人家族の展開だ。祝福家庭達は統一家として真の家庭の展開だ。人類始祖アダムとエバが堕落しなかったならばアダムとエバは人類の真の父母として子々孫々にまで君臨したはずだ。カインアベルセツも天使長ならぬ種族長としてやはり子々孫々にまで君臨しただろう。御父様は入籍に伴って支派編成が為されることを語られている。12支派が編成されて種族長(?)を中心に子々孫々まで12の統一文化を花咲かせる。将来的に心身一体圏を為して良心の意のままに生きる良神的存在になれば、人間の意識は神様を求める在り様から神様共にあって意志疎通する在り様へと変わる。

2014年9月22日月曜日

今日の想い 789

妻の治療が早目に終わった。いつもの帰り道であるボルチモアからDCへ向かうルート95を南下していたが、アナポリスのサインが目に入ったので車線を左に寄せて妻に尋ねてみた。少しは気分転換にドライブがてら足を延ばすのはどうかと聞くと、彼女も同意してくれたのでそのまま分岐点を左にとり、一路アナポリスに向かった。何度か昔訪れたことはあるけれどもここ数年は海さえ見ていない。半時間も走らせると目的地付近にもう着いたらしく、こんなに近かっただろうかと首を傾げたが、ボルチモアから向かったからだと気がついた。メリーランド州はDCにお椀を被せるようにまたがっているので私の住んでいる場所から向かうとDCを避けるようにして環状線を大きく半周しなければならない。その感覚があったからそう感じた。かつてはイギリスの植民地であったこの町は、小洒落たヨットハーバーがあって、そこから州議事堂への通り沿いに店が立ち並び、その界隈は当時の植民地時代の面影がそのまま残っている。妻は歩くことも大変なので散策とまではいかないが、ハーバーのベンチに暫く腰かけ、ヨットの浮かんでいる内海を言葉もなく眺めた。白い綿雲が空高く所々に散っている。9月も終盤に入ると流石に陽の強さも弱まり、8月の暑さも遠ざかって心地よい秋の潮風が顔を撫でる。暫くして最初に妻が口を開いた。ここに来たことがあるかという問いだった。この街には何度か来たことはあるけれども、実はこのハーバーに来たことはない。そんな説明も面倒くさく、一言あるよと頷いて見せた。信仰的な会話以外の生活会話はいつも妻が喋る担当で、私は頷くか首を振るだけだ。数年前に来たときはまだ小さかった二人の子供達と一緒だった。ずっと不愛想なのも悪いので、せめてそんなことでも付け加えようと思ったところに、そういえば子供と一緒にアナポリスの海軍兵学校を見学に来たことがあったと妻が口にした。それで結局また私は頷くだけで不愛想に無口なままだった。日本人夫婦なのでこれでもいいのだろうが、国際祝福で国民性が異なるとそうはいかない。チェサピーク湾の内海で海面はおとなしい。柔らかい日差しが水面に反射して、宝石でもばらまいたようにきらきら輝いている。店からの連絡もなく、先ほど医者に告げられた治療状況も今の今は考えず、静かな海を妻と二人で見続けている今のこの事実だけで内面を満たせば、この瞬間は天国だ。二人だけの天国だ。若い二人なら向かい合って見つめ合ったりするのだろうが、二人三脚で歩んできてそんな必要はない。すでに二人はひとつなのに敢えて向かい合う必要もないしお互いを理解する言葉もいらない。二人で海を静かに見つめていればそれが二人の会話だ。しかし天国から現実に唐突に引き戻される。陽が上ってきて顔が日焼けするからと、妻は駐車している車へ向かうために立ち上がった。

2014年9月21日日曜日

今日の想い 788

御父様に直接にお会いした最後もラスベガスであったし、御聖和の後、御母様に直接にお会いした最初もラスベガスだった。私は御聖和、基元節を中心に前後して御父母様に挟まれている。過去と未来の橋渡しが現在であるように、御父様と御母様の橋渡しとして私がいる。もし私がこけるなら私を中心とした摂理は失敗する。私が御父母様一体圏の私として立つなら、私を中心とした摂理は必ず成し遂げられる。既に一体圏に立っておられる御父様という実体み言と御母様という聖霊実体の一体圏内に私が入ることができれば、天宙的勝利圏が私という現在に現れる。私は御父様の何を相続した位置に立っているのだろうか。私は御母様から何を受けている位置に立っているのだろうか。私を中心とした摂理を考えた時、過去の私は願いを相続する為にひたすらついて行き、引き挙げられようとして御父様を見上げていた。では御聖和以降の私は御父様に代わる御母様として、同じようにひたすらついて行き、引き上げられる為の御母様を見上げるのだろうか。聖和式のとき御母様が最も強調されたことは、歩みを止めずに前進し続けなさいということだった。それは私を中心とする摂理が、私をして為されるべき御父様の願いを相続した位置で、相続したその願いを捨てずにそれを成就すべく前進しなさいということではないだろうか。御父様が御聖和されたのだからこれからは御母様について行きなさいとは話されなかった。もちろん、だからといって好き勝手に歩めばいいというような稚拙な誤解には至らない。聖霊実体である御母様は、私が御父様の願いに立っているなら確実に共におられて聖霊の役事を引き受けられるはずだ。御父様の願いに立てば立つほどにその役事を事情圏環境圏に見るはずだ。それは御父様の願いを相続していることが先ず重要であり、私が摂理に対してどれだけ切実であるかということが問われている。だから摂理に対する切実感を強めていく私にならなければならない。この私に一体何ができるでしょうかと嘆いているかぎり、未だ御父様の願いを相続しているとは言えないだろう。ひたすら責任を回避しようと逃げ回っているにすぎない。私は願いを受けた位置で本当に切実だろうか。痛いほどに切実であられる御父母様であるのに、余生を大事なく、大罪を犯すことなく、み前に出た時言い訳できる程度に生活していればそれでいいのだろうか。負債さえ覚えなければそれで善しとするのだろうか。私が最も自覚しなければならないことは摂理に対する切実感だ。願われて託された私のみ旨、そして氏族復帰に対する切実感だ。その切実感があることが私の中に御父母様を迎えているとも言える。

2014年9月20日土曜日

祝福、そして入籍

地上人間にとって祝福が霊肉の救いであることはその通りだけれども、祝福を戴ければそれでよしとそこに留まるのではなく、私を中心として展開する外的地上的な救済圏を広げ、霊肉共の完全なる救いを得なければ地上天上天国の住人にはなれない。創造の道理は外的環境が用意されてより内的なものが環境の中に立てられた。人間の創造も体を先に造っておいてから霊を吹き入れた。その道理でいくと、内的霊的救いが救いとして立つ為には外的地上的救いが基盤となることがわかる。ここで考えなければならないのは、私達の最重要キイワードだった「祝福」から更なる重要なキイワードが呈示されたことだ。それが何かというと「入籍」という言葉だ。どこに入籍するかというと「天の国の生命録(生命の書)に入籍」とある。「祝福を受けることは入籍することではなく、象徴的入籍」とあるから、象徴があるなら形象があり、さらには実体的入籍があることがわかる。形象的入籍とは何で実体的入籍とは何か。多くの食口達にとって、祝福というキイワードには敏感であり反応するけれども、入籍というキイワードは現実味に欠け、私とどう関係があるのだろうかと思っているのが実情だ。氏族メシヤ、氏族復帰という概念に対しては祝福止まりではさして重要性を覚えず、入籍が念頭にあってこそその重要性を肌で感じるようになる。「祝福を受けた家庭は条件的完成圏内にしか立たず、霊界に行ったら異なる手続きが必要になり、その手続きを済ませて完成的完成をしたと言えば通行券をもらって天国に入る」、と御父様が言われたように実に具体的だ。氏族復帰に関しては「入籍時代が来ても氏族復帰ができていない人はここに入籍することはできません。」とあり、入籍の為には氏族復帰、氏族復帰は氏族メシヤとして立つこと(宣言すること)を氏族が先ず受け入れることで成り立つ。氏族復帰は氏族メシヤ宣言がされていなかったらその入り口にも立っていないということだ。祝福は戴いて受けるという受動的であるけれども、入籍は自分が氏族メシヤとして立ち自分が氏族復帰を推し進めるという能動的位置に立たなければ為し得ない。祝福が全てだと祝福の価値もわからずに祝福に留まり観念的なままでいるけれども、入籍となると実に具体的、実体的にならざるを得ないのではないだろうか。今回残っておられた御子女様御二方が祝福を受けられたけれども、それに対してどうのこうの言う者にかぎって氏族復帰への意識はなく、氏族メシヤの自覚もなく、よって「入籍」というキイワードを自己流の祝福観念に囚われたまま見出せないでいる。そういう自分はわかっているかと言うとわかっていない訳だが、少なくとも「入籍」という意味が「祝福」にも増して重要な意味を持っている、或いは「入籍」なくしては祝福も完成とはならないという感覚は持っているつもりだ。

2014年9月19日金曜日

今日の想い 787 (御子女様の祝福)

反対を呈する者、批判を口にする者は、自分の中に正しい判断基準が立っていてそうしていると信じて疑わないが、実は判断基準を宛がおうとするその動機には反感の感情が渦巻いていることを自覚していない。自分の中の感情が反対させ批判を口にさせている。その感情は堕落的私の感情だ。私を救って下さる御父母様だという信仰のない者が、祝福は御父母様によって定義されるものであるのにも拘わらず、その祝福に対しておかしいとか自分の論理を展開して批判するのは全くのお門違いだ。さらに信仰のない者の言葉に触発されて批判してしまう食口は、祝福の価値のわからない者の言葉を受け入れて御父母様から戴いた祝福を貶めている。御父母様の祝福による救いは先ず霊の救いであって、自分が霊の存在だという霊の認識のない者、間違った霊の認識を抱いている者、罪の認識がなく救いを求めていない者は、霊の救いではなく心魂の平安を求めていてそれが救いだと信じている。よって心魂の平安に波風立てる状況になると、祝福は御父母様によって戴くものでありながらも自分なりの祝福に対する価値観、霊の救いを無視した価値観を抱けば、それは御父母様の祝福を否定してしまっている。御父母様への不信と同時に御父母様から戴いた祝福は形骸化してしまい中身は既に無い。祝福は一方では厳しい御父様の条件の枷を嵌められてそれに適った者が祝福を戴いた。しかし一方で祝福の世界化、天宙化が願われてきて受ける条件は無いに等しい状態の者にも祝福を分け与えた。極みはキャンディー祝福で、意味もわからず本人の自覚もなくただ手にして舐めるという条件で祝福を戴いている。さらに聖賢達と殺人鬼という極と極を祝福されており、よって個人から天宙までの横的全ての段階、殺人鬼という畜生以下から霊的高みまでの縦的全ての段階を祝福圏内に抱合しておられる。全ての存在を祝福圏内に抱合されたということと、全ての存在が祝福を受けたということとは異なるのであり、圏内として可能ではあるけれども受けるか受けないかは一人一人の意志が関わってくる。本当の意味で霊的な救いがわからなければ祝福の価値はわからない。条件が変わったこととか、二世の祝福は二世同志であるべきだとか、間違いを犯しているかいないかとか、そういった条件的なことは御父母様が口を挟まれることはあっても受ける私達がとやかく意見すべきものではない。ずいぶん条件的には緩くなって門戸が広くなったことを喜びこそすれ、自分は条件もないのに祝福を戴いておきながら祝福条件の基準をどうこう言える立場には全くない。逆に祝福を取り上げると言われて返上されても何も言えない私達だ。何も言えない立場の私達から意見するような者達が出てきて、御父母様の心情を逆撫でするような事にはならないか、その方が余程問題であって祝福の条件がどうだこうだと言って祝福を弄んでいる者達は暫くの間静かにしていて欲しいとさえ思えてくる。御子女様の御相手が恋人だろうが俄か一世だろうが、そんなことは私の戴いた祝福を貶める何の影響も及ぼさないし、何の偏見も抱かせない。そんなことよりは紆余曲折あったであろう残っておられた御子女様お二人が祝福を受けられたというこの事実が何にも増して喜ばしい。御父母様にも、御本人にも、本当におめでとうございますとお祝いを述べたい。

2014年9月15日月曜日

今日の想い 786

人間がどれだけ怠惰な存在であるかは、自分を観察すれば納得できる。何かもっともらしい言葉をいつも並べてはいるけれども、そんな言葉で人間としての輪郭でも確保しなければ、なよっとして足腰が立たず途端に堕落圏に溶け込んでしまう。私を見る限り、怠惰な人間であるにも拘わらず精神的存在として霊的高みを目指すのは容易なことではない。一日の内の心の声を漏らさず書き留めていくならば、苦しいとか辛いとか、辞めたいとか何もしたくないとか、そんな嘆かわしい心の声のオンパレードだ。み旨だ摂理だと願いを受け取るとしても、先ずその願いに耳を傾けること自体に嫌気を覚えるだろう。自分自身を何度も何度もなだめすかしてやっと、上体を起こすことにこぎ着ける。そんな状態の私がどうして自己否定、自己犠牲の摂理に立ち上がることができるだろうかと思える。実力があり、てきぱきと行動に移す多くの者達がいるだろうに、敢えて私を選んだ理由を尋ねると、他に誰もいなかったということらしいのだが、、。2000年の歴史をして内外の備えをなしてきたクリスチャンが立たないのに底辺で這いまわる自分等がどうしてと疑問を抱いて当然のはずだが、功労があるとか、用意された選ばれし者だとか、そんなおだてに乗せられたままここまできた。しかしそんな怠惰な存在である一方で、確実に御父様によって植え付けられた霊が私の中に存在している。怠惰な肉の私と重生した霊の私とは熾烈な闘争を繰り広げてここまで至る。攻めては引く、引いては攻めるの繰り返しだが、この持久戦がいつまで続くのかは定かではない。基元節を越えれば重生した霊の私が一気呵成に攻めていくD-DAY(戦闘開始の日)だと信じて疑わなかったが、はたして事実はどうなのか。しかしそう訝る私は肉の私であって、肉の私(堕落の私)がD-DAYに期待していたものは所詮肉的なことだろう。目に見える大変化を期待していたに過ぎない。多くの者達が、いかにも基元節が腰折れになったと認識してしまっているようにだ。しかしそれが意外とサタン的存在達へのカモフラージュなのかも知れないと思えてきて、表面では見て取れない何か大きなうねりが既に始動しているはずだと、賢い者なら霊の自分をして尋ねているに違いない。私のように今まで何もしてこなかった、何の実りも残していないと自覚する食口に比べて、意外と今まで頑張ってきたと自負する食口の方が躓き易いのかも知れない。頑張ってきたと認識する以上、それなりに願いに応え実績も出し勝利したと信じているだろうし、そう信じていれば自分の中に霊肉の相反を覚えにくいからだ。私のように怠惰な人間は未だにその戦いを認識している。肉的な私に喘いでいる自分なので、私の認識が間違っていないかどうかについては常に神経質だ。それが私にとって何事にも謙虚な態度を取る理由になっている。私のような怠惰な人間は摂理を前進させる力にはなかなかなれないけれども躓くことは無い。躓くことは無いけれども御父母様の大きな負担になっていることは間違いがない。天が怠惰な放蕩息子を捨て置けない為に熱心な孝行息子への配慮が欠けた状態にあって、それを今の教会の現状なのかも知れない。実力のある孝行息子が飛び出し箸にも棒にもかからない放蕩息子が残っている。残っている私達は汚名返上すべく一大覚悟をしなければ御母様を支えることはできないだろう。私達に残された戦術は死生決断以外ない。怠惰な私はそれ以外ない。

2014年9月14日日曜日

今日の想い 785

第4アダムは私達なのかという問いは、第4アダムの概念が自分の中に無ければ問うことはできない。同じように、自分は氏族メシヤだと言い聞かせようとも、氏族メシヤの概念が自分の中に無ければ氏族メシヤの自覚に至ることは無い。ここでもアダムエバが犯した罪を再度犯すかも知れない状況に皆が置かれてしまう。それは神の如く賢くありたいという欲望を神様抜きにかなえようとしたエバの罪の如くであり、或いは時ならぬ時に時の行為をしてしまったアダムの罪の如くでもある。要するに本来の意味するところの概念を今理解したいと思って自己流に解釈してしまおうとする罪であり、概念がわかったつもりでそれを判断材料として行動してしまう罪だ。御父様のみ言葉は平易な言葉で述べられているにも拘わらず難解を極める。それは悟性ある者として論理で理解することに慣れてきた立場からすれば首を傾げるばかりだ。またみ言葉を論理でのみ理解するものと思っていればみ言葉の本質からずれていく。クリスチャン達が再臨されるメシヤとしてのイメージを固めていて、そのイメージにそぐわない御父様だったから受け入れることができなかったように、第4アダムとしてのイメージ、氏族メシヤとしてのイメージが既に輪郭をもって私の中にあるとするなら、それは御父様の意図される概念に合致するものなのかどうか、もし合致しないのであれば思い込みの迷宮に嵌り込み、願いとは異なる方向に向かいかねない。それは、わからないのならいつまでも動けないのでは、、と言うものではなく、氏族伝道もすべきであり祝福も勿論すべきだし、そうしながら氏族メシヤとしての私の自覚を御父母様に尋ねて問いながら前進する以外ない。その過程でイメージは次第に固まっていくものであって、先ずイメージありきではないはずだ。同じように第4アダムについても、私たちこそが第4アダムだとみ言葉に示されているとしても、今の時点で私が第4アダムのイメージをとらえること自体に無理がある。御父様御存命の間に口にして残しておかなければならないみ言葉であったから残されたものが多くあり、それは今の私達の心霊基準からして把握できるみ言葉ではないにしても、それでも口にして残されたという事実は将来的に必要になるからそうされたのであろうし、であれば私達の今の基準で早急にイメージを固めるべきではない。その意味で川のように流れる問いかけが必要なのであり、み言葉を訓読するとは問い続ける私、すなわち私はわかっていない立場だという謙虚さを失わないように尋ね続ける私を供えることだと思っている。第4アダムであるとか、第4イスラエルであるとか、蘇生、長成、完成の三段階を経て4数の位置で理解できる概念であるなら、間接主管圏の域から脱していない位置でその概念を受け取れると思わない方がいい。私が成長すれば概念は向こうの方から訪ねてくるものであって、無理矢理悟性的論理を駆使して理解に漕ぎ着けるとしても、本質を忘れて概念の鞘だけ受け取って自己満足するに留まる。み言葉を研究するなと言っているのではなく、研究の上に研究を重ねる必要があるけれどもしかしその動機が自己満足的であってはならず、あくまで心情を尋ねる姿勢をどこまでも失わないことが大切だ。

2014年9月8日月曜日

万民の戦い

私の中でいろんな存在が活動している。私が私と言う場合、普通はそれらのいろんな存在を含めての私となる。私が私と言う場合、その霊的存在達と私の核とを区別していない。そう、私には私の核がある。私の核は私の良心(神)と言い換えてもいい。夜の私が意識を持つなら、眠りに着いた時、私が分散されて私という存在が崩壊するのを見る。肉体を脱いで霊界に行けば、私のはずだった私が実は多くの霊的存在の憑依や協助で成り立っていたのを見る。そういった私の全てが削ぎ取られて最後に残るのは私の核であり私という良神に他ならない。人間は過去を振り返る時、あの時こうすればよかった、ああすればよかったと後悔する。後悔する自分はより良心に近い存在が顔を出して悔いている。しかし今を生きる自分は過去を振り返る時の自分とは異なる存在が表に出てはいないだろうか。よって後悔しきりの人生を歩み続けることになる。ようするに過去に向いた自分は良心的存在を、今を生きる自分はそれとは異なる自己中心的存在を表に出している。それでは未来に視線を送る自分はどうだろうか。私の核である良心をして明日を見つめているだろうか。私の中の良心的存在をフル稼働させて明日を創造するのか、それとも私の中の自己中心的存在が表に出てくるのを抑えきれずに惰性的時間の流れに没するのか、そこが私が神側にあるのかサタン側にあるのかの分かれ目だ。惰性的時間の流れに流されればこの世は堕落圏だから堕落圏から脱することはできない。今日を創造的に生きるとは、より善を追求して良心の痛まない時間の流れを押し出すことだ。堕落的である自己中心的存在の憑依を押しやり、創造的である良心的存在の協助で心魂を満たし、そうなると仕方なく惰性の流れの中に没していた私は、創造的時間の流れを創りだす善の開拓者であり、良心が願う、即ち良心が通じている神様が願う本然の価値を地上に現わす具現者ともなる。周囲のざわめきに対している意識を私の内面に向けて見る。向けると同時に私から発する様々な声が聞こえる。瞬間瞬間にありとあらゆる感情を吐露する様々な声が聞こえる。その声の届かぬほどに内面の奥に入っていくと私の意識は良心に対面する。しかしその良心に対面するのは容易ではない。自己中心的霊的存在達が私の内面の深くまで占拠しているからだ。私達は祈祷することで良心に対面しようとするけれども、祈祷が本来の祈祷とならずに中途で出くわす霊的存在に主管されやすい。当の本人は神の声を聞いたと確信犯的に間違いを犯す訳だけれども、良心まがいの惑わす霊的存在に主管され、思い込みの落とし穴に嵌ることになる。悪霊も善霊も降り立つこの時代だからこそ、そんなことが多く起こるのであって、教会の内外の状況を見れば代表的中心的位置にある教会だからこそ起こっていると言える。或る意味、私の内面の状況と教会を中心とする状況はリンクしている。本来の祈祷に入って良心と対面することができれば、私の良心とリンクする天の側の旗を立てている存在を見出せる。その意味では内面に於いて良心が主権を取るか、自己中心的存在が主権を取るかという食口ひとりひとりの戦い、万民の戦いだと言えるだろう。

2014年9月6日土曜日

今日の想い 784

もし読まれている食口がいるなら、多くは反感を持たれる内容になるかも知れない。私が祝福によって祝福の血統に重生されたのは、私の血統圏の血統的祝福であり血統的重生だ。私の祝福のポイントが天の血統と私の血統圏が繋がるポイントとなる。堕落しなかったなら天の血統が私の血統圏でもあり、血統は天に繋がる縦的な存在様相であって本来分かれるようなものではなかったはずだ。しかし堕落によって天の血統が遮断され、堕落の血統が今日まで人類歴史を通して繋がれてきた。血統圏は何によって繋がれているかというと、愛(の関係)によらなければ繋げることはできない。あからさまにいうと生殖器の結合を通して血統圏は繋がれる。さらに、血統圏はどこで繋がれるかというと、地上でしか繋げられないし繁殖は為されない。それでは天の血統と私の血統圏をどう繋げるかと言うと、これが祝福であり祝福の儀式を通して血統転換がなされる。では血統が祝福によって繋がれるということと、私達の祝福観念とは相反するかのような愛の自由性とをどのように理解すればいいのだろうか。一世である私の祝福は血統転換であることは間違いない。しかし二世の祝福はというと、一世によって血統転換が為されたのであれば血統転換の為の祝福という理屈は矛盾することになる。確かに教会祝福は条件祝福だと言われたのはその通りのはずで、よって私達は三回祝福を受けると言われた如く祝福を戴いた。更に基元節の再祝福により戒めを受ける以前の状態にまで戻されたのであり、イエス様の勝利圏は霊的救いに留められたけれども、御父様の勝利圏は霊肉の救いであり完全なる救いであるなら、三次による私の祝福が条件的祝福ではなく完全なる救いの祝福であって、よって二世以降の祝福が血統転換の祝福だと言うことにはならない。既に血統転換された立場で、二世からは愛の自由性を立てて結婚祝福が為されると言うことになる。もし二世が愛の自由性から堕落圏の相対を選び、祝福の血統と堕落の血統が交わる時、祝福の血統は堕落の血にまた染まるのだろうか。祝福の世界化、天宙化の折にキャンディーを配って祝福を与えたけれども、その祝福と私達の祝福とは異なるのかという問いもある。異なるのでなければ既に祝福を受けた者は山ほどいるが、受けた者が祝福を戴いたと言う認識がないという祝福がキャンデー祝福だ。けれども私達は与え配る聖酒まで戴き、私達の手から聖酒を与えて家庭祝福ができる権限も既に付与されている。そうなると一世の祝福の基準である父母マッチングを二世に求めること自体に一体どのような意味があるのかと想うのだがどうだろうか。厳しい条件を整えない限り祝福を受けた気分になれないという、そんな程度のものを重要視することで、それは祝福の世界化、天宙化とは逆行するという、返って分厚い塀を囲んで祝福を閉鎖的なものにしてはいないだろうか。もちろん祝福は安売りするようなものではないことは重々わかっているつもりだが、私達が本当に祝福の価値をわかって受けたのならまだしも、当の私達でさえも祝福の本当の価値をわかっていない立場で受けて置きながらどうこう言えるものではないだろう。親が直接相手を決めないにしても、連れて来た子を親が認めて祝福を与えてやるなら、子供は親から祝福を受けたと認識できるのではないだろうか。御父様が一世に与えた祝福に対しては真の父母として絶対的責任を負っておられる。天上天国に行って恥ずかしい思いをするかどうかは別問題としても、それでも祝福を与えた子として天国に連れて行くのが御父様だ。そのように自分の子に対しても、条件があろうがなかろうが絶対的責任を持って一緒に天国に連れて行くと覚悟し断言して、祝福を与えたいと思う。

2014年9月4日木曜日

今日の想い 783 ( 重生について )

御父様に対しては慕い侍る心情はあるけれども御母様に対しては、、と言うのであれば、霊肉重生するに於いて種はあるけれども種のままで流されてしまい重生としての実りを得ない。或いは御母様に対する中途半端な想いで、胎に植え付けようとするけれども結局流れてしまい重生として結果を見ないということになる。御母様を慕い侍る心情が本人にないなら、御父母様!と声としては上げようにも真の父母の概念は持っていない。重生は種のままであって、一人息子であられる御父様から一人娘であられる御母様を見出して生命誕生の過程を通過できず重生したとは言えない。御母様を蔑ろにするとはそういうことだ。祝福を受けたから既に重生している?とんでもない勘違いだ。私の中に重生した結果を見るのでなければ産み変えられて重生してはいない。そんな祝福に対するイロハもわからず、御母様に背を向けて摂理だみ旨だ御父様の願いではなかった、などの言行は言語道断だ。都合のいいみ言葉の箇所だけ事更に強調して、我こそはみ言葉に沿っている、御父様の願いに生きていると思っているけれども、み言葉を悪用した罪を後に問われることになる。イエス様による救いは完全なものではなく、霊的重生に留まり肉的な重生とはならなかった。しかし再臨に於いては勝利された真の父母によって霊肉の重生、完全なる救いがもたらされる。しかし私達は完全なる救いをどうすれば実感でき、自分がどうなることで霊肉の重生を果たしたと断言できるのだろうか。しかしながら私達が完全なる救いを実感したいという場合、それは堕落の位置で自体自覚の意識から願うことであり完全なる救いを為して他体自覚の意識とは異なるのであって、実感したいという願い自体は空虚なものだ。それよりは私の中に御父母様を慕い焦がれる心情の強ければ強いほど、御父母様の心情のひとつでもふたつでも復帰すればするほど、そこに重生を見るべきだ。他体自覚の意識を私の中にどれほど見るかだ。私が救われたい、私が天国へ行きたいというように、私がという時点で完全なる救い、霊肉の重生とは程遠い。家庭を救いたいという位置に立つことで個人の救いがあり、氏族を救いたいという位置に立つことで家庭の救いがあり、国が立ってこそ祝福家庭の氏族圏が立つことができる。世界人類を救うために国が立つべきであり、天の父母様が慰められることで世界がサタン圏から解放される。ようするに救いという概念は個と全体を離して成り立つ概念ではない。全体の救いを願い歩む中で個は救われる。私達が教会祝福を受ける際はいつも御母様が身篭っておられた。御母様の胎中にあるアベルである真の子女様と、カインである祝福家庭が双子一体圏に立つことで私達は重生すべく産み落とされる。イエス様が胎中闘争の歴史的勝利を通してお生まれになられたように、私達も胎中勝利の恩恵の上でアベルである御子女様との一体圏で御母様から産まれ出た立場だ。この子は私達から生まれたと、御父様と御母様が断言される限り、そして私もそれを確信する限り、サタンはその所有を諦めざるを得ない。霊肉の重生は御母様の胎中を中心として、サタンがその出生を認めてこそ晴れて重生に至る。救いの概念が個と全体を分けることができないのであれば、大きくはこの地球村が御母様の胎内であり、人生全般が重生路程であり、地上人生の中で起る全てが御父母様を中心として真の子女様と祝福家庭のアベルカイン一体圏へと繋がれていく。

2014年9月1日月曜日

今日の想い 782

一時代の摂理の中心的存在であっても、摂理の新たな段階に入ると、進めていたものが引き摺り下ろす役割をするようになってしまう。中心者として見上げていた私達は、見上げる感情を捨てて、私の存在動機が御父母様にあるのを確認して新たな摂理の担い手になることが要求されている。その御方本人にすれば、受け取ったみ言葉を土台として行動していると思っておられるのだろうが、結論を御父母様に委ねるのではなく自分が既に結論を出している。ようするに自分なりの信仰観、真の父母観、摂理観が立っていて、今までの摂理では天の願いと自分なりのそれらの観が同調していたに過ぎず、だから中心者足り得た訳だけれども、新たな摂理ではそれらが不調して邪魔している。あちこち回られながら信じるところを訴えておられるけれども、天運は既に離れている。慕って従う者達も同様で、自分なりの観に固執したまま新しい次元に立つことができないでいる。同じように摂理から取り残される。或る意味反教会の立場を取ることで、新しい摂理の担い手になる者達の試練の役割を一時果たすことにはなるが、その後は霊的生命を次第に失い天運は彼等と共にはない。静かに教会を去るよりは摂理に関わったそれなりの証しを立てたいと、例えば愛の減少感から反抗的態度を示す子供のように、霊的傷跡のひとつでも残そうと消えかかる最後の火が燃え上がるように旗を掲げる。ルーシェルが愛の減少感から行動に出たように、彼等によくよく接してみると、ここまでやったのに報われないという恨みが根底にあって、そういう意志表示を出しているのが感じられる。しかしその自覚が彼等にはない。敢えて自覚しようともしない。基元節を越えて摂理は新しい歴史の出発を為したから、復帰摂理として状況が流れている訳ではない。先天時代の今までの摂理は復帰摂理であり、アベルの位置、カインの位置、天使長の位置、、、と、それぞれに歴史的立場を代表した人物であり団体であった訳だけれども、新しい歴史が出発したのは再創造としてではなく、歴史の同時性として過去に見ることがなかった新たな創造路程を歩んでいる。ルーシェルもアダムもエバも、時代を遡って過去に同じ役割を担った存在はおらず初めての存在であったように、後天時代に於いては、御父母様も祝福家庭も歴史に見なかった初めての存在であることを認識して、摂理的創造の歩みを為さなければならない。グループ派は知性派でもある。彼らの話を聞いてもブログを見ても尤もな言い分であるし、元中心的存在であった御方もみ言葉を誰よりも勉強されていてそれについては頭が下がる。しかし敢えて繰り返し言うことになるが彼等は彼等なりの観に縛られたままだ。おそらく夜昼の神様を理解しようともしていないし、訓読会で語られた謎解きのような御話も理解しようとする様子はない。八定式以降のみ言葉を精査すればするほど、それまでに語られた内容を理解する神観をしては理解を越える内容が増えていく。特に夜の神様を理解しようとしなければ、後天開闢時代である新しい歴史の担い手にはなれない。

2014年8月28日木曜日

今日の想い 781

グループ派でもなく、分派でもなく、御母様を中心とする教会に所属しているから自分は正しく信仰しており、正しい道を歩んでいると信じているようだけれども、果たしてそうだろうか。それは信じているからではなく、正しく信仰しているつもり、み旨を歩んでいるつもりになれる位置が、変わらず教会に所属し続けることだったからではないだろうか。ドラえもん流に言うとツモリナールが教会にあっただけのことで、教会に所属することと御父様が願われた統一教会の本質、本流を歩むこととは違うはずだ。どこに所属しているかという問題以上に、御母様を中心とする教会に所属して当然で、しかしそれで安堵していてはどうしようもないということだ。緊張感からすると、教会を飛び出した立場の者達の方が大きいかも知れない。緊張感が大きければそれだけ真剣にならざるを得ないし、自らに問い続けて密度の濃い時間を送るだろう。その意味では隙がないはずだ。私達の教会が御母様を中心とする教会になるには、もはやグループ派だ分派だと言って対抗意識を持つとか、正義感を持つとか、そんなものは今となってはどうでもいい。それよりは私達が御母様を中心として求心力がどんどんと高まる教会になろうとしているかどうかの方が遥かに重要だ。御母様の関心が何処にあるかを肌で感じることだ。日曜日に教会に行くことで満足していないだろうか。何ページ訓読したということで満足していないだろうか。献金することで満足していないだろうか。祝福を受けて終わったのではなく祝福を受けてからが始まりであるように、ある内的段階で満足するようではその時点で既に成約信仰の形骸化が始まっている。御父母様を慕い侍るとは、至高の頂点をどこまでも昇っていかれ、神様の位相に立たれた御父母様の後を疲れず追い続けることに他ならない。それは堕落性の足枷をもろともせず、それでこの世的幸せという手足を引き千切り犠牲にしようとも、それでも御父様のおられる霊的高みに果敢に昇り詰めていく覚悟だ。その覚悟が本当にあれば、(本当にあればの話だが)少々の方便など問題にならない。小市民的に誰も傷つけない、人のいい食口、丸い角の取れた食口にはなったが、しかし摂理としての願いを果たせなかったらどうだろうか。それでも意味があるだろうか。御父母様はそれでも喜ばれるだろうか。そんなはずはない。この世的人格の話に留めて良しとされるなら、御父様が日本食口に対して常軌を逸した負担を背負わせ続けた時点で崩壊している。この世の人達を騙したとか、私達は騙されたとか、そんな言い方をしているけれども、この世の道理では騙したり騙されたりという言い方ができるとしても、霊的な道理は地上のこの世の道理とは異なる。蕩減すべき自分の位置がわかれば全てを甘受すべき私であり、もし天から騙されるという仕打ちを受けるなら天に大きな貸しをしたと喜ぶ位置が霊的な道理となる。本流である教会に所属しているのみで本質を掴めるのではない。神とサタン、善と悪、霊的価値観と地上の価値観、縦的に立つことと横的に衝突を回避すること、心と体、これらの二極のせめぎ合い(一体化のプロセス?)により本質なるものを掴んできたように、教会とこの世という二極から、より本質的な真の父母を受け入れ、み言葉を受け入れる教会を更に分別してより本質を際立たせるために、敢えて分派が現れ、グループ派が跋扈する対立が立てられているように思える。教会に所属してそれで良しとするのではなく、所属して何を立てるか、本流として分派以上に神様が認めるものを立てられるかが問題だ。私達は本物として残れるかどうかが今本当に試されている。

2014年8月26日火曜日

今日の想い 780

昨日は昨日で問い、今日は今日でまた問う。変わらない現実を変わり続ける一日圏一日圏から問い続けている。今日こそは現実を変え得る霊の閃光が私を貫いて欲しいと、その切実感が今日一日をして私を問いに向かわせる。遠の昔に諦めて当然の私でありながら、今の今まで諦めずに何とか希望を見出そうと問い続けているのは、それはもはや私自身の欲求だとは思わない。み旨に向かう私の基準が霊界での先祖の在り様を決めると言われるように、私のみ旨に対する思いだけはあるから、断念することなく問い続けるのであり、問い続ける衝動の中に血統的な働きを見る。先祖の協助と言えば随分オカルト的な働きを想像するけれども、私の想いの中に、思い入れの中に、私自身の衝動だと認識していたものが、実は血統的に流れるものに組する霊達の総合的な衝動を私自身の衝動と感じているに過ぎない。私の想いが先祖の想いであるし、先祖の血統的に流れてきた想いが私の想いでもある。私は私の衝動を通じて霊と共に生きている。先祖と共に生きている。この認識感覚をいつも、いつの時も忘れることなく抱き続けて、私は血統の代表的な位置でみ旨に対している自覚を強く強く持つべきだ。私が真の父母に出会い、実体み言であられる御父様、聖霊実体であられる御母様から戴いた祝福の血統に繋がれたことは、血統の中に堕落の血が流れてそれ故に地獄圏から抜け出せなかったこと、み旨を標榜し蕩減生活を為すことで地獄圏から天国圏への橋が架けられたこと、霊界での修練会を通してそれを熟知する先祖の霊達にとっては、私という存在は血統の歴史的転換点だということができる。私という存在がどれほど重要で、私と共に歩むことがどれほど重要であるかは先祖達は身に染みてわかっている。船上会議で御父様は、反教会の方向に突進していた責任者に対して、彼の先祖が哀しんでいると言われたのを聞いたことがある。霊的無知故に血統圏にある先祖達の想いが地上で感知できないのは実に残念で、悟性の人間から霊性の人間にならなければ先祖を救うメシヤ的使命を受け取っているとは言えない。どんなにみ言葉を知識として知っているとしても、堕落の自分の都合のいいようにみ言葉を利用してしまうこともあり得る訳で、そうなるとみ言葉で裁かれないとしても心情で裁かれてしまう。私は今日も問い続ける。いや私ではなく私の中で生きている霊達が乾きを訴えるように問い続けている。私は御父母様に繋がっていて真の血統と先祖の血統の仲介の役事を果たしている。み言葉を通して、蕩減生活を通して、み旨を歩むことを通して、愛して為に生きる実践を通して、現実という畑の中に彼らを癒し復活させ地獄圏から開放させる生命の木の養分を与えるべく、使命的責任を背負って地上に存在している。問いは解決しなければならない。解決して霊の解放をしなければならない。今日も霊達が問い続ける。渇きを訴えるように問い続ける霊達への回答は、地上の私が御父母様一体圏の中で差し出さなければならない。岩だらけの現実という畑が耕されることで、現実のいたるところで霊の生命を蘇生させ得る肥えた畑にしなければ、霊達は問い続けるばかりで復活した賛美の歌を天に届けることはない。

2014年8月25日月曜日

今日の想い 779

ある子女様の個人的な教会活動のサイトを見ながら、少なくとも私は正しいとか間違っているとかの感情を抱くべきではないと思った。もちろんグループ派に関与しておられる御方の話ではない。教会側の説明は公的位置を辞任されたとしか報じておらず、その経緯であるとか、その良し悪しについてどうこう述べたものはない。現状が知れ渡った時のアメリカ教会食口の動揺は確かに大きかったし、その鎮静化を願われて回られた世界会長の心労も大きく、教会は不信の雰囲気が蔓延していた。原理原則の杓子で測ろうとする食口にすれば受け入れられないのが当然であるし、子女様にすればそれなりの判断があったにしても、原理原則というコップの中に生きている食口にすれば祝福の価値を失うほどの大問題であった。原理世界を上限とするのか、原理を越えた心情世界にまで入っていけば許されて良しとされるのか、原理観という観として見る為には、原理を越えた位置に昇れなければ観は立たないのだろう。教会として原理に従う原則を守るのは当然のことだけれども、原則を外れる御子女様と祝福子女に対して、堕落したという感覚を持つのは教条的であり、教条的であれば原理に立つのではなく戒律に縛られ、そこに愛で対することを否定してしまっている。堕落という概念が正しく捉えられていない、堕落の意味を戒律を破るという観念に捕らえられたままでいる。原理原則を外れた(とされる)御子女様に対する私の感情、問題のある(とされる)祝福子女に対する私の感情、それは神様が抱いている心情、御父母様が御子女様や祝福子女に対する心情と同じだと言えるだろうか。それが異なるのは明らかだというのはわかるけれども、では原理原則に立つ私は、願われない間違った感情に左右されない為には原理やみ言葉のどこからどう学んで対すればいいのだろうか。イエス様の時代、イエス様の行動はユダヤの戒律から外れていた。だからユダヤ民族は受け入れることができなかった。代表的クリスチャン達は御父様を受け入れることができなかった。2千年も待ち続けながらも、それでも不信してしまうほどの事実が御父様にあったと見て当然だとは言えないか。雲に乗って現れなかったからと言うような、そんな幼稚な理由ではないはずだ。それでは成約聖徒はどうだろうか。今の教会の混乱が証明しているように、信じていた原理原則に当て嵌まらない事態を御家庭の中に見て不信している。見るだけでなく教会も食口もそれに翻弄されていて、当然のように不信に陥ってしまう。おそらく、私達が信仰すべきものとして捉えていた全ての事柄が、ガラガラと音を立てて崩されるのは或る意味御意に違いない。私達の中の一切が完全に崩されて、原理とみ言葉に対する中途半端な理解が崩されて、そこで始めて本当の祝福の種として受けたものが残り、祝福の芽が吹き出すのだろう。原理だみ言葉だと言いながら、私達は所詮堕落した位置で正しいとか間違っているとか判断しているに過ぎない。原理は間違っていない。しかし正しく捉えていない私の原理観が間違っている。原理を理解しているという私の立っている段階を一つでも二つでも下げて、一歩でも二歩でも後退して、そのように謙虚な位置に突き落とされてでも低い位置に立たなければ御父母様に付いて行くことはできない。偽りの愛であっても、原理の力を越える愛の力が働いたから堕落してしまったように、原理原則を越える愛の力が働く必要があるし、真の愛が真の愛の力として関与する為には原理原則を越えても働くという証しが必要だとは言えないだろうか。愛が原理原則に縛られるのであれば真の愛とは言えない。その子女様は原理原則には縛られてはいない。原理原則の枷を外してしまえば真の家庭から外れて堕落圏に落ちるというなら、御父母様の勝利圏など何の意味があるのかということになる。

2014年8月19日火曜日

今日の想い 778

私は神様に取って絶対的に必要な存在だから存在している。何を中心として?愛を中心として絶対的に必要とされている。要するに愛される為に存在している。しかし愛される為に存在しながら愛されている実感がないとするなら、それは神様の問題だろうか。それとも私の問題だろうか。しかしここでこの逆の問いかけがあって、神様は私に取って絶対的に必要な存在であり、愛を中心として神様が絶対に必要であり、神様を愛する為に私は存在しているなら、実際に神様を愛しているだろうかという問題、そして愛していないなら私の問題なのか他の何か別の問題なのか、と言う逆の問いかけが一方にある。愛は為に生きる愛、真の愛があり、自己中心的愛、偽りの愛がある。この世は偽りの愛に満ち溢れていてそれ故に霊的には息苦しさを感じている。それではそう感じる私自身はどのような愛に満ち溢れているか。為に生きようとする真の愛なのか自己中心的偽りの愛なのか。愛される存在である前に愛する存在として私がいるという観点に立たなければ、どれほど存在の在り様を問うてみても迷宮に迷い込んでしまう。存在の在り様を問う哲学は、ありとあらゆる迷宮をわざわざ創り出して、人類を袋小路に追い込んでしまった。本来の哲学は原因存在に愛と霊の本質を見るところから出発すべきなのに、既存の哲学は逆で結果(存在の在り様)を原因だと決め付けて出発するからそうならざるを得ない。愛されてないと認識する前に愛するべきだ。受動的である前に能動的であるべきだ。愛する過程で愛を受け取る。与えればそれ相応に受け取るべきというバランスシート、要するに損得勘定で生きているけれども、愛に生きれば1与えたものが10にも100にもなって返ってくる。愛の哲学でもあるみ言葉ではそうなっているけれども、しかし私が愛と捉えているものが曲者で、実は巧妙にも愛とは名ばかりの自己中心的な偽りの愛が相当量紛れ込んでいる。真の愛なのか偽りの愛なのか、与えること(投入すること)に専念し与えたものは忘れてしまう、さらに今一つ付け加えると、与えることに於いて簡単に与えられるものであれば本当の意味で与えたことにはならない。痛みとして犠牲を覚えるものでなければ与えたことにはならない。神様の愛は犠牲を供える愛だ。だから真の愛だ。私が神様を愛すると言うなら、犠牲を供えるのでなければ愛したとは言えない。

今日の想い 777

共に歩む兄弟は店を地域貢献という観点で捉えている。私達食口が地域に根差し、地域に貢献することで伝道が進むように、利潤追求の店であっても地域の為に生きる姿勢が大切だと捉えている。それは確かに正しい。私達の今までの歩み、特に一世の歩みは、期間内に果たさなければならない摂理として、サタンに奪われず天が取る条件物を供えることを優先してきた。いや専念してきたから地域貢献など眼中になかった。テッペンを取ることに専念し、底辺から信頼を積み上げていくことは事実上疎かになってしまった。そう見れば、ひとり、またひとりと伝道していくように、地域貢献に立ち返ることは正しい。しかし実に地道な展開になってしまう。摂理貢献の兵隊的役割をここまで担ってきたから、地域に受け入れられる人格的内容も実力も基盤もない訳で、この世的には何もない位置からの出発となる。だから地道な基盤作りにエネルギーを注がなければならなくなる。そうこう思案しながらその体制を整える内に、内に燃えていた熱いものが冷えていく。そして引き上げるべき私であるはずが逆に地の事情に引き下げられ、カナン七族に同化されたイスラエル民族のように同化てしまう。ではどうするか。いろんな意見はあるだろうけれども、私はカインの本道を歩む。地域にすり寄るのではなく地域から羨望の目で見られる地位を立てる。地域の人々に貢献する教会的存在ではなく、地域が崇める神殿を立てる。言ってる意味がわからないかも知れないが、人々が既に持っている価値観に則して与えようとするのではなく、人々が持っていない新たな価値の創造をなして彼等を引き上げる。私達には天の父母様が共におられるはずなのに、どうして人々が見上げる価値の一つも創造できないのだろうか。それは御父母様が問題なのだろうか、それとも私達が正しく勝利圏を相続していないからだろうか。私達の中に確実に文化的価値として芽生えるものが秘められているはずだ。霊的感性が低い為に素通りしているけれども、気付いてみればこれがそうなのかと言えるようなものが確実にあるはずだ。外に外に目を向けて追い付け追い越せでは新しい価値創造ではなく、既存の価値観に則している。既存の価値観にひれ伏している。この世は全て、偽りの愛から出発している偽りの愛の実と捉えるべきだ。私達は真の愛から出発するのなら、真の愛を根とする新しい生活、新しい文化を創造しなければならない。この店には新しい文化がある、真の愛に根差した価値創造をこの店に見る、と言わせなければならない。

2014年8月17日日曜日

今日の想い 776

その公的な位置に対しては受け入れるけれども、私的には公的な位置を食いものにしていて受け入れられない。そんな意見は上司だけではなくあちこちから聞こえてくるけれども、私はその感覚に対して違和感がある。噂はどこまでも噂だが、火のないところに煙は立たないという観点に立てば、確かにそれなりの事実があるのかも知れない。そしてそこには自己中心からそうなっている部分もあるのだろう。でもそれを問い詰める権利は御父母様にはあっても個人的には誰にもないだろうし、それをえぐる言葉も持つべきではない。一人の人間を受け入れるとはその人の清濁合わせて受け入れるのだろうし、その一人の人間に対して受け入れる感情と受け入れない感情を同時的に抱えることはできない。受け入れる時は清濁合わせて受け入れるのだし、受け入れない時は清の部分も受け入れない。そして事自分の事に目を向けると、清よりは濁の部分の圧倒的に多い私は追求できる資格は毛頭持ち合わせていない。追求できる人は自分が追及する相手以上に清いという位置にいるはずだ。摂理に貢献する使命の大きい人物は、それ相応の堕落圏の沼に足を突っ込まなければならない、と言うのが私の見解だ。歴史に残る聖賢達も、その裏の顔が必ずあることが彼等を研究すればあぶり出されるはずだ。私達の教会に於いても決して例外では無い。その方に対する使命的責任は大きく期待し要求しておきながら、濁った部分は自分の思う基準を宛がえて批判対象に落とし込むなら、それは霊的生命に於ける泥棒だ。祝福という霊的生命を戴いておきながら、地の私の基準で御父母様と御家庭を裁くのと何ら変わりない。正直を言えば、店を運営していて従業員から批判される事柄もある。問い詰められれば言葉を失う。だからといって従業員が私の位置に立ち、店の責任を背負ってくれる訳ではない。責任のない位置で批判している。ビジネスに関わっているから金銭的なことを言うなら、結果として願われる目標に到達することが重要であって、これは公的これは私的といちいち裁可を仰いでいたら一歩として前進できない。結果を残せるならば、他から見れば私的だと思われることも公的意味合いになる。一店舗任せて一億利益を上げてくれるなら、店の発展の為にと一千万自由裁量として使ってくれても何ら文句は無い。私的な圏の中に公的なものを見出すのか、公的な圏の中で私的なものが許されるのか、この問いが解けなければ清貧に甘んじるしかない。

2014年8月16日土曜日

堕落に関する新しいみ言葉

御父様は晩年、毎朝の訓読会で、堕落に対して新たな説明を何度かされた。それは原理講論の堕落論に納得した者に取っては実に不可解なものだった。そのうちに解かりやすい形で説明されるだろうと思っていたが、しかし御父様は忽然と逝かれてしまい、多くの者はそれらの説明をどう理解していいのかわからず棚上げされたままだ。解釈、というより理解と言ったほうがいと思うが、それは私達に任されたことになる。この堕落に関する謎解きのような御父様の説明は、夜の神様、昼の神様という概念へ向かう私達の理解の方向性が先ず正しくないと、随分的外れな解釈になったり、陳腐なものになったり、あるいは原理を否定してしまうようなものになってしまいかねない。聖書も、旧約が象徴的み言葉であり、新約が形象的み言葉であり、成約が実体的み言葉だと理解しているように、その3数(3×3=9数)を越えて位が上がると次元を超えた位置に相応しい、次元を上げたみ言葉が現れていいはずで、それが本体論と関係があるのではないか、と私は思っている。間接主管圏を原理結果主管圏というのは、神様は原理の主管者であり原理で結果を主管されるからそういうのであって、それと比べて直接主管圏は神様は心情の神様であり、神様と一体となった人間も心情の神様の位置に立ち心情で原理をも主管することになる。原理の道理から次元を上げた心情の道理が通じるから直接主管圏となる。原理からみた原理で説明する堕落はより横的平面的であるのに対し、心情からみた心情で説明する堕落はより縦的であり立体的になる。原理世界ではルーシェルの存在が天使長という霊的存在としか説明できないが、心情圏に立つ心情世界でルーシェルを説明するなら、夜の神様の弟でありアダムの叔父ということになる。原理では神様(昼の神様)、天使長、アダムという関係性の中でエバが存在しているが、心情世界では夜の神様、その弟(ルーシェル)、夜の神様の息子(あだむ)という関係性の中で昼の神様(エバ)が存在している。エバの創造は昼の神様の体の創造でありエバの完成は昼の神様の完成となる。私という存在も夜の私と昼の私がいるが、もし堕落がなければ昼の私は昼の神様と繋がっているが、堕落という事実があるので昼の私は堕落のエバと繋がっている。しかし無意識圏である夜の私は夜の神様と繋がっており、それ故に夜の神様が送られた御父様に出会える通路を、夜の神様が夜の私という無意識圏に用意された。夜の神様、昼の神様と言われるなら神様が複数存在しているように思われるが、原理世界ではハナニム(統一体)でも神界(心情世界という言葉を使うと混乱し易いので)では複数の神様、と言うより複数的な様相になる。昼の私が自分を一人として認識しているが、無意識圏の夜の私は統一体である昼の私の枷を外されて分裂するように、、。ルーシェルを弟と表現するには夜の神様と同じ位相にあるもう一柱の神となるし、原理世界では他の天使長であるミカエル、ガブリエルも神界では同じ位相の別の神となる。しかしそれらが原理結果主管圏に於ける原理の説明は統一神としてのハナニムとなる。長子権、父母権、王権は三大祝福である個性完成、子女繁殖、万物主管と関係性があるのが伺えるが、長子権は父なる神様の子に譲る人間としての権威であり、父母権は神人一体圏の昼の神様の権威であり、王権は昼の神様に対する夜の神様の権威とするなら理解できるように思う。よって王権という言葉は直接主管圏に入って神界という心情中心世界の頂点を意識しなければ出てこない言葉だ。天地人真の父母の天、地、人も、その三権と関わりのある言葉とは言えないだろうか。

2014年8月15日金曜日

今日の想い 775

難しい。事は単純ではない。責任者と話してそう再確認した。おそらく、私の思う複雑さがますます私の行動を狭めている、そう思ったはずだ。しかしそれでも私は、私が確信するに従ってものを言い、事を進めていく以外ないだろう。自分はそのように訓練されてきた。それは日本で訓練されてきたからと言うのではなく、ここアメリカでも訓練されたというその両面から物事を見ることができる。それが良いとか悪いとかではなく、私はその位置でものを言うことができる。だからビジネスの意味合いも異なるし、お金の意味合いも異なる。一生懸命やって失敗すればそれは仕方がないと言われ、それはそれで割り切らないとと言われるが、失敗するのは絶対許されないという思いが私の中にある。その思いが何処から来るかというと、日本がどうやって精誠を捧げ、摂理を支えてきたかを知っているという、その思いの上での感情だ。だから私には軽々と、一生懸命やって失敗するなら仕方ない、などとは口が裂けても言えない。私の責任者は口にできるとしても、私は口にできない。私のように石橋を叩いてでも渡るか渡らないか思案するような人間はビジネス人間とは言えないのかも知れない。しかし、私はビジネス人間である前に、御父母様を慕い侍る一食口だ。御父様の心情を大切にしたい。御父様の心情を大切にするには、御父様を実体的に支えてきた日本の精誠を無視することはできない。周りからそのやり方を非難しようとも、支えてきたのは日本の精誠に拠っている。周りがとやかく言える立場にない。私に運営を任されているこの店も、日本の精誠の汗と涙が資金となって存在を可能にしているし、その想いを汲まない私であれば位置に立つ資格などない。いつも口にしているように、私は御父母様に裁かれる前に日本の食口に裁かれる。だから私のお金に対する重みは、日本食口の精誠の重みと等しくあるべきだと思っている。だから他の誰かが失敗しようとも、私が失敗するのは絶対に許されない。

2014年8月13日水曜日

御聖和二周年を迎えて

聖和二周年の意味とは何だろうか。追悼、節目、確認、悔い改め、決意、一体化、、、三万人が集うワールドセンターの様子をスクリーンで見ながら、三万人の一人一人がそんな様々な思いをそこに持ち込んでいるのを見る。さらに私のようにネットを通じて繋がっている何万という食口達からも、様々な思いが持ち込まれている。一同がセンター中央に集中して、そこから放たれるメッセージを受け取り、それぞれの思いにどう刺激を与えられ、どういう内的衝動を起こさせるのか。私達は目の前に壊すべき壁が阻んでいるのを感じているはずだ。この壁を壊さない限り摂理的前進はできない。この二年を越えて前進する為の重要な節目はこの壁に阻まれている。この壁は余りにも大きくて、ある者にはここが終着点のように見えて引き返そうとしている。ある者には壁の向こうが見通せず壊すことに臆病になって足踏みしている。ではこの壁を壊して前進する者が果たしているのだろうか。サタンに執拗に目くらましされて、あるいは別の関心事に誘惑されて、壁を壊すのはおろか壁に向き合おうともしない者達も多い。御母様はこの群れをどう一つにされ、どう鼓舞されようとしておられるのだろうか。御母様はこの巨大な壁の礎石の基をどう外すか知っておられるのだろうか。エリコ城の陥落をヨシュア、カレブに率いられた群れが為したように、私達が陥落すべきエリコ城こそ、この巨大に見える壁をその一部としている。エリコ城の周囲を七回回って一斉に大声を上げ、一気に陥落させたように、私達の鬨の声とは何で、何が私達のその行動を促すのだろうか。明らかに世界崩壊に向かっている。しかし、あらゆる危機感を誰もが感じている一方で、不思議と経済体制の崩壊も社会体制の崩壊もこれといった引き金となるものを見ない。いや、見ているのだろうがどういう訳か何とか持ち応えている。兎に角、二周年を越えた。基元節も直ぐ二周年を越える。サタンは七数を越えられなかったが私達は七数を越えなければならない。2020年までの七年路程勝利に向けて、象徴的に越えるのがこの聖和二周年だろう。霊的に何も見えないような、何もわからないような、自然消滅するかのような、そんな混沌状態であっても、それでも霧は所々で薄くなりかけ僅かでも見通せる。霧が晴れればエリコ城は明確にその姿を現す。私達が陥落させるべきサタンの城郭の全貌が見渡せる。そして私達は一体となって鬨の声を上げ、エリコ城の陥落を目の当たりにする。モーセがカナンの地を目前にして、ヨルダン川を渡ることを許されなかったように、御父様も実体の地上天国を目前にして聖和された。それは神様と一体となっておられる御父様御自身の意志だと私は思っている。基元節を迎える数年前、御父様が泣かれて逝かなければならないことを言及されたのを覚えているだろうか。それも一度の事ではなかったと思う。御父様のそんな御姿を面前で表されるのは過去になかったことだった。御父様が旅立たれた後の事を、御母様とアベルカインの子女達に託さなければならないことを解かっておられて吐露された御姿だったはずだ。今振り返るとそのように思える。私達はこれから、世界的エリコ城の全貌を視野に置き、サタン主権世界を陥落させる。その出発摂理の二年目、長成期完成級を象徴的に越える聖和二周年だ。

2014年8月11日月曜日

今日の想い 774

言葉には言霊が宿っている。言霊は原因的であるのに対して言葉は結果的だ。み言葉には文明に神霊が宿っている。本質である神霊を見ようとせず、結果であるみ言葉の輪郭、表面的言葉だけをなぞっても神霊は受け取れない。神霊を受け取れないばかりか、み言葉の言葉に神霊ではない別の霊を吹き込んでしまい、み言葉を別様に理解して、悪霊の黒魔術としてみ言葉を悪用してしまう場合すら考えられる。受け取り方、使い方を間違えるとみ言葉の言葉は恐ろしい。分派は方向性としてそのように操られている。何気なく口にしている言葉を観察してみると、私特有の言葉の使い回しがあり、常に口をついて出る言葉があり、言葉を使うことに怠惰な自分がある。それら全てが堕落的だとは言えないまでも、多くが堕落性からそのようになっていると思える。一日の生活の中で使う言葉の殆どを、私の堕落性から発する言葉で溢れさせている。そんな使い回された言葉の洪水の中に生活しながら、気分的に信仰的言葉を撒いたとしても、都合の悪いときに神様を呼び求めても、それは堕落性から発する言葉の洪水にかき消されて当然だろう。連綿と繋がれてきた堕落の血統の流れから見ると、御父母様との接点を持った私という位置はかけがえのないものなのだろうけれども、しかし私自身の中で生活実感としてみ言葉で生み返られたという認識はない。霊的なことではなく、生きる現実の生活実感として、生み返られ、堕落圏を脱して神様の心情圏、心情世界に生活しているという感覚は薄い。それは明らかに私が本然の世界を求めているふりをしているだけで、実のところ堕落圏にしがみ付き、堕落世界に執着しているということだ。神様に出会いたいなら神様を求めるしかなく、愛の家庭を作りたいなら愛するしかなく、心情世界に住みたいなら心情溢れる私になる以外ない。ようするに心情を注ぐに応じて注いだ何倍も受け取る、それは私の輪郭を越えて溢れて受け取るから心情圏、心情世界へと拡大するのであって、与えて忘れるその真空状態に、何倍にも増して与えられるという愛の法則がそこにある。どことなく冷たい隙間風が入る、そんな家庭にどうしてなってしまったのだろうと思うけれども、私ではない何か他のせいにし、私の先祖の罪が重いからだと言い訳し、そう自分を納得させて、与えること、愛すること、心情を注ぐことをしなかった。言葉に言霊が宿るように、家庭の中には多くの霊が宿って家庭の空気、雰囲気をつくっている。会社も社会もその延長線上にあってそれ相応の霊が宿っている。私は自分がどれほど器の小さい者であるかはよくわかっているけれども、器が問題なのではなく、私が拠り代(よりしろ)となって、神霊が、聖霊が、私が愛するのを通して愛するのであり、私が心情を注ぐのを通して心情を注ぐ。そうしながら私の器も大きくなっていく。

2014年8月10日日曜日

蛇は先ず知的に誘惑してくる

へびは女に言った、「あなたがたは、決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。女がその木を見ると、食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、二人の目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。  創世記第三章から
アダムとエバは、未完成なのに善悪知るの木の実から取って食べて堕落した。原理では未完成である間接主管圏、完成すると直接主管圏と簡潔に言い表していて、解かったつもりでいるけれども、その言葉の概念をどこまで理解しているかは極めて限定的だということ、或いは本来の概念とは全く異なる理解の方向性に向いているかも知れないということ、この二点を常に踏まえて咀嚼していかなければ、必ず狡猾な蛇が私に言い寄ってくる。様々な分派がある。様々な解釈がある。分派があり解釈が異なるということは、み言葉の概念は一つであるにも関わらず、その概念を捉えることができないので、概念に代わる解釈へと、熟れない実を早まって食べるべく飛びついてしまう。いろんな解釈は全て蛇の知の誘惑だ。中には一笑に付してしまうものもあって、どうしてこんな稚拙なものに飛びつくのだろうと不思議に思うが、中には随分狡猾なものもあって、蛇としては随分大物だと思えるものもある。食口であればみ言葉がわからないと思えるのが普通であって、敢えてわかろうと焦る必要は無い。み言葉の理解不理解、概念に近付けるか否かは思考によるものではなく、本人がどのステージに立っているかに拠っている。原理は自分の中で論理性を備えて理解していると思えても、特に八定式以降の御父様のみ言葉は非常に難解で、論理性で捉えようとする私の思考を越えている。越えているものを無理やり理解しようと焦って、誰かの解釈に飛びついてしまうと、知的な意味でアダムエバと同じ過ちを犯すことになる。理解できるステージにステップアップすれば理解できるようになる。勿論焦って解釈に飛びつくから問題になるのであって、み言葉への飽くなき追及心は失ってはならない。私はみ言葉もわかってはいないけれども、置かれている事情圏、環境圏の意味も、どう勝利すべきかもわかっていない。今わからないならわからないのが私のみ旨だと腹に落として、敢えて焦りを見せて問い詰めることは御意(みこころ)ではないと思っている。喩や比喩で語られておられるみ言葉だと認識して、その裏の意味を探るべく理解のベクトルをあらぬ方向に向けているけれども、御父様は私達に謎解きを願われてみ言葉を差し出されている訳ではない。イルミナティと同列に語ること自体、御父様を貶めている。ここまで記せば何のことを言っているのかわかると思うが、ルーシェルは知情意の心魂存在である人間を知的に誘惑し(賢くなるには好ましく)、情的(感覚的)に誘惑し(目には美しく)、衝動で誘惑している(食べるに良く)。情的なものや行動は知の扉を開かなければ開けようとしないのが現代人の特徴だが、唯物論で誘惑し唯物思想が席巻しているように、知に対する貞操観念が薄く、論理的なものに弱いのも現代人の特徴だ。

素直に、情けないままを祈ってみる。

アボニム、、。私は背負っている蕩減内容に潰されそうです。妻は生命の絶えるまでずっと、生かさず殺さずの狭間から抜け出せないのでしょうか。本人が願っているはずもないものを、実は奥底で願っているということなのでしょうか。だからこの生死の狭間で息をひそめて、病人としての日課をこなし続けることから抜け出せないのでしょうか。私と一体圏にある妻の苦痛は私の苦痛です。妻は私の健康を羨ましがるけれども、痛みを分かち合えないなら一方の私の健康など返って恨めしいとさえ思えます。夫婦として背負うべきものだと覚悟を決めて生きているつもりですが、天の父母様から無視され続けているようで、ますます遠ざかっているようで、いつまで孤独な愛の減少感を抱き続けられるかわかりません。天の父母様は確実におられるはずなのに、真の父母様は確実に勝利されたのに、私の家庭を訪ねて下さる神様ではなく、御父母様の勝利とはかけ離れた場所に蹲ったままです。私の条件がない、妻の条件がない、おそらくそうなのでしょう。そう認めて忍耐していく以外ないのでしょう。そうなると妻と私の解放はこの地上を去る時にしか訪れないのでしょうか。病院通いと、私達のみ旨と、どのような関わりがあるのでしょうか。私は時として自分が爆発しそうで恐ろしくなります。その頻度は益々増しています。僅かの癒しでも見えるなら、敢えて求めて自暴自虐になって飛び込みそうです。原理の歯止めを飛び越えそうです。そうでもして振り向いて欲しいと泣き叫びそうです。今日も時間は流れます。今の私にとっての時間の流れは、地上を去る解放のその日への道筋以外の意味はありません。妻はそれでも僅かの希望を支えにして生きているようです。幼少の頃、生きるのも苦しい、死ぬのも苦しい、それなのにどうして生まれてきたのだろうかと悩み続けました。そしてみ言葉を聞きました。全てが解決するかのようでした。そして今、再び問い続けています。夫婦で問い続けています。今もって解決していないのです。み言葉を理解しているつもりだったのですが、何も解決していないのです。結局は私の事情を越え、家庭の事情を越えて、より全体の私を用意することはできないようです。私はますます自体自覚の中に没頭しています。良心的に生きることはできても、良心革命を為して、天に直接通じる良心に侍って生きることができないのです。妻は砂漠にいるかのようにペットボトルを何度も口にします。砂地に水を蒔くようにです。彼女の内面も砂漠です。表情にも言葉にも、かつての潤いは感じられません。取りつかれたように健康本を見入っています。せめて私だけはと思ったけれども、砂漠化は思ったよりも強く押し寄せて家庭を侵食しています。エバは誘惑を受けた時、本当に神様に問い尋ねれば堕落は免れたのでしょうか。問えば神様は答えて下さったのでしょうか。私が問うても黙して語られないのはどうしてでしょうか。問うても私には条件がないから尋ねる意味すらないのでしょうか。それならそう答えて下さるべきではないのでしょうか。私と妻は徹底的に、天使長と同じ位置で、孤独と愛の減少感に堪えなければならないのでしょうか。孤独はさらに孤立化を呈し、減少感というより見事に枯渇しています。真の愛の泉は、偽りの愛の泉が完全に枯渇して初めて湧き始めるものなのでしょうか。そうであるならもう少しの辛抱なのかもわかりません。偽りの愛が完全に枯れ、偽りの生命が完全に枯れれば、、。そういう完全否定を通過するのでなければ、救いだとか、癒しだとか、希望だとか、そんな言葉など思ってみるのさえも罪なのかも知れません。正直疲れています。妻に希望的言葉をかけてやりたいけれど、そんな言葉がかえって空しく響くようで溜息にしかなりません。明日はまた往復二時間かけて治療に向かいます。何度も何度も病院への道を往復しました。お互いの間に一言の言葉もなく往復してきました。確かにそうだったと気付いて、明日は御父母様を想って歌でも口ずさんでみようかと思います。そんな取るに足りない些細なことでも、今の私達にとっては大きな精誠だと思います。息をしているのさえも不思議なくらい落ち込んでいるのですから、、。始めて御父母様の御前でひとりご挨拶させて頂いたとき、御父様は横を向いたままでした。部屋を辞退するまでそのままの姿勢を崩されませんでした。今の今でもそうです。私の中の御父様はその姿勢を崩されて私に顔を向けてはくださいません。それでも私は渾身の力で叫びます。チャンプモニム、サランヘヨ。

2014年8月7日木曜日

今日の想い 773

統一教会は既に次元を上げようとしている。世界平和家庭連合へと位相を上げようとし、天宙平和連合のもとにある。統一教会という名前を改名しただけで何も変わっていないと内心思っている者達が多くいるが、(それは外部だけではなく内部にも大勢いて、殆どの兄弟がそこに留まったままだ。)改名したが内容は変わっていないと言うのではなく、次元を上げて位相を変えようとしているということだ。しかしその意味が未だにわかっていない。グループ派は、御父様が統一教会という宗教を卒業したと話されたのに、未だに食口は統一教会の名前は変わっても同じ意識のままで宗教圏から解放されていないと、そして責任者も旧来と同じように食口に宗教的枷を嵌めていて変わらないと、彼らの言動からしておそらくそう思っているに違いない。彼等にすれば自分達こそ宗教圏を卒業して本流として流れている世界平和家庭連合だと信じている。しかし本当にそうだろうか。地上に残られた御母様を中心とする私達が宗教圏に取り残された者達であって、宗教圏を卒業できない者達なのだろうか。ここで思い込みを緩めて問わなければならないことは、天一国とは何だろうかということだ。そして、一方で統一教会が行くべき全体目的である世界平和家庭連合があるのであり、その全体目的と天一国との関係性とは何かということだ。統一教会が行くべき全体目的とあって、そこに世界と冠している以上、宗教圏であった統一教会は宗教と科学が一つになって世界的位相に立つ必要がある。要するに正式名称が世界基督教統一神霊協会とあるように、代表的宗教である基督教を中心にして宗教圏をひとつに、特に旧約新約成約を一つにしてきたのが統一教会だった。一つになった宗教圏を代表して立ち、全てを二分してきた宗教と科学を一つにして世界的位相に立つことが全体目的ということになる。それで家庭(祝福家庭)、氏族(氏族メシヤ)、国家(天一)、世界(世界平和家庭連合)、天宙(天宙平和連合)という展開ラインができる。そしてそれぞれの位相が立つ為に南北統一、宗教科学の統一、アベルUNとカインUNの統一という相似形が展開される。統一教会が世界平和家庭連合に名前を変更した途端にその位相になれるわけではない。それは行くべき全体目的であり宗教を捨てろと言うのとは訳が違うはずだが、グループ派の言動と行動を見る限りでは、御父様が心魂を注いで育ててこられた統一教会を無視し破壊しようとしているようにしか思えない。御父様のみ言葉に、宗教圏を越えろという話はあっても、宗教を捨てろという話は聞いたことがない。

2014年8月5日火曜日

今日の想い 772

「アダムとエバは神様の万代の一人息子と一人娘でした。万代の一人息子と一人娘であった神様の息子、娘を滅ぼしたのは、愛の器官である生殖器でした。永遠不変の愛の器官であり、永遠不変の神様の心情の主流を受け継いで、永生不滅の福地基盤を形成することを破壊したのが堕落です。」 天聖経 第二節人間の堕落より
アダムとエバが神様の息子娘であるからアダムとエバは兄妹だ。アダムとエバが兄妹であったということと、イエス様が妻として迎えるべきは腹違いの兄妹である洗礼ヨハネの妹だったと御父様が言われたこととは関連があるはずだ。そうなると再臨主としてイエス様の使命を受け継がれた御父様と御母様の関係にも関連があって当然だろう。御母様が胎中から聖別されて生まれてきたと明言されたのはその通りの意味だろうと思う。近親相姦という関係性は堕落している親だから言えることであって、アダムエバも、イエス様と妹が為されたであろう子羊の婚宴も、堕落していない神様を中心としているから近親相姦ではなく近親結婚だ。今日では同性愛が大きな問題となっているが、そうならざるを得ないのは近親相姦によってそうなってしまったと言われている。ようするに本人自身の問題というより血統的な問題として、近親相姦という種を蒔いた結果としての表れだ。アダムエバ自身がフリーセックスであり近親相姦だ。エバはルーシェルと関係を持ち兄であるアダムとも関係を持ったからだ。もし堕落しなければ神様の心情は創造の心情だけであったが、堕落した為に復帰の心情が創造の心情を凌駕している。喜びではなく悲しみと涙から始まる神様の復帰の心情こそが先ず私達が尋ねなければならない心情であり、御父様の私達の訓練は敢えて自分の首を絞めるかのような、この世から否定され疎外されて当然のような歩みだったのは、復帰の心情を私達に植え付ける為であったと言えるかも知れない。アダムとエバは神様の心情を推し量ることができずに堕落した。私達がアダムとエバを越える為には、神様の復帰の心情を推し量らざるを得ない状況に追い込まれてこそ、越えることができなかった長成期完成級を越えることができるのであり、さらに創造の心情を受け取れる高みにまで入っていくことができる。御父様が私達に相続されようとしたことはどこまでも心情であり、み言葉の本質も心情であり、心情に根差したものしか残らないし流れ去っていく。結局は私自身も心情に根差していなければ去らざるを得ないという心情審判を受けることになる。同性愛という、近親相姦の種をまいた結果が、これからますます生活圏に入ってくる。彼等を異質と捉えて関心を持つことも近付くこともなかったが、それは心情に裏打ちされた態度でも行動でもないだろう。意外と、頭脳明晰で相手の心の機微に鋭い彼らは、摂理を推し進める大きな力になるやも知れない。彼らには彼らしか理解できない神様の復帰の心情があるはずだ。

2014年8月3日日曜日

今日の想い 771 ( 神様と人間の生殖器 )

「絶対信仰、絶対愛、絶対服従は生殖器についていう言葉です。堕落とは、神様と人間の生殖器が一つになれなかったことです。合徳(和合)できなかったのです。それを絶対信仰しなければなりません。私の家庭の歴史の柱であり、私の一族の歴史の柱であり、私の血統の歴史の柱だというのです。」天聖経、第二節人間の堕落から
堕落は天使長とエバの生殖器がひとつになったからであり、神様と人間の生殖器がひとつになれなかったことによっている。神様がアダムの体を着てエバの生殖器とひとつになるべきだった。このみ言葉の絶対信仰しなければならないという言葉の前後が脈絡のない言葉のように思われるが、神様と人間の生殖器が一つになる、合徳するとは、歴史の柱とすることが縦的な生殖器の合徳(神様と人間の合徳とまでは断言できない)を意味していることがわかる。それを絶対信仰しろと言われている。生殖器は横的に使用するに於いて家庭の歴史であるとか一族の歴史であるとかさらには血統を踏まえた縦的なものを立てろと言われている。神様と人間の生殖器がひとつになることを理解するには、そこに感覚的なものを持ち込もうとすると既に横的地上的にしか理解しようとはしていない。絶対信仰、絶対愛、絶対服従は神様に対して、或いは神様と一体となられておられる御父母様に対しての私達の在り様として語られたみ言葉だという理解がある。それが生々しい生殖器についていう言葉となると、どうしてもそこに性という感覚的なものが先ず観念としてあるから、絶対信仰、絶対愛、絶対服従が迷宮に迷い込むようだが、生殖器の縦的な在り様は血統の歴史の柱だという生殖器の本質を知り、生殖器の概念が変わらなければ上のみ言葉を理解することはできない。御父様が生殖器の御話をされる度に、これは笑うような話ではないと何度も注意された。それは照れ笑いしている私達を見て注意されたのだが、私達の生殖器の観念が照れ笑いさせている。感覚的生殖器からイメージするものだけを内面に持っていて気恥ずかしさをを覚えている。御父様の生殖器の概念と私達の観念は根本的に異なっている。個性完成、人間の創造目的の完成とは神人一体化であり合徳であり、み言葉を尋ねていくとそれは人間が神様の生殖器そのものになることではないかとさえ思えてくる。

2014年8月2日土曜日

今日の想い 770

御父様の道は復帰の道を尋ね求められた道であり、私達の道は御父様が既に明らかにされた原理に従って歩んでいく道だ。しかし原理の道(復帰原理の道)に従うという意志がなければ従えないのが人間であり、アダムとエバが堕落したのは結局は神様の心情を無視して堕落したのであって、そうなると原理の道に従うと意志させるものは神様の心情を尋ねるところにあるはずだ。私達は原理の道を明確に差し出されながら、必死でその道を歩ませまいとする強力な力が私の血の中に流れている。何千年、何万年に亘って滔々と流れてきた堕落の血統をそう簡単に絶やせるものではない。根腐れするのにも期間がかかり、その間痛みや苦痛に耐えしのぶ覚悟が必要になってくる。それは私の代で終えられるものかも知れないし、何代にも及ぶものかも知れない。今の私の、この年になりながらも祝福家庭として願われている状況にないことを見れば、何代にも続く覚悟を迫られているのだろう。妻の病の問題も、子供達がみ言葉に繋がらない問題も、そのことによって受ける痛みや心痛を抱え続けなければならないという覚悟と、しかしその一方で、その痛みや心痛ゆえに神様の心情を尋ねざるを得ないという内なる力が働いているのも事実だ。祝福家庭として様々な問題を抱えながら、一方で堕落の血統の実としての苦い味を味わい、一方で祝福の血統を根付かせる為に御父母様の心情を尋ねていく。現状の悲惨さを嘆いても、やり切れぬ思いを誰に讒訴できるわけでもなく、自分で抱えきれなくなってしまえば爆発せざるを得ない。地上地獄というけれども、爆発してしまえば地獄の様相を私に体現し家庭に体現してしまう。心と体の相克を、夫婦の相克、天地の相克、神様とサタンの相克を、私の中に抱えていつ爆発するとも知れない状況にある。この戦いを終わらせなければ私の安息圏は訪れない。安息圏は一方におもねることではなく、アベルカインの原則に従ってより神側の存在を主体にしながら対象をひとつにしなければ訪れるものではない。原理の道がこうも難しいものだと、今更ながら思い知らされるけれども、その難しい原理の道を探し出された御父様の復帰の道は想像を絶するものだったはずだ。私の拙い頭は必死で原理を理解しようとフル回転しているけれども、御父様が復帰の道をたずねられた結果として探し出された原理の道を、無知な私が敢えて検証する必要は毛頭ないのであって、私は御父様の御心情を尋ねながら原理の道を歩めばいい。

2014年7月28日月曜日

責任分担への意志から私の血統内容が見て取れる

よって人間の責任分担とは恩讐である愛せない者を愛するのであり、愛するという能動的な姿勢でこそ前進できるのであり、それは前進する私を後押ししてくれている過去に前進してきた全ての存在の悲願を受け継いでいるから生まれ出でたのであり、生きて前進できる訳でもある。だから私は遠い過去から現在の私までのその歴史的路程で、支えてくれて後押ししてくれている全ての関わっている存在に対しては受動的愛である感謝の念を供えてこそ蕩減原則に合うようになる。今日は24回目の七.一節を迎えた。縦横の八段階を勝利され、長子権、父母権、王権を立てられた御父様は、今度は子女である私達にその勝利圏を相続されるべく、眞の父母の責任を全うされた位置で子女の責任へと移された。よってこの日が氏族メシヤの出発の日でもある。基元節の前に御聖和されてしまった御父様であり、新しい歴史、後天時代の出発は地上に残られた御母様を中心に前進している。残られた御母様は聖霊実体であられる御母様だ。2000年前は復活されたイエス様が弟子達を集められて、ペンテコステが彼等に下りて内的霊的に再出発したわけだけれども、再臨主の時代である現代は、御聖和されて後、生きた聖霊実体を私達は戴いて私達は聖霊実体と一つになることによって私達祝福中心家庭が聖霊の役事を為していくことになる。私達は御母様がどのように現状を捉えられ、どう向き合われ、何を意志されようとしておられるのか、その一挙手一投足を研究し心魂の一つ一つの動きまでも把握し、心情の深みに於いてひとつになって初めて一体圏の位置で私達の意志に聖霊が宿ることになる。この世の者達が私達を見て聖霊が生きて働いていることを実感するほどにならなければならない。御母様との一体圏に入ることが出来れば必ず聖霊が役事する。私自身に聖霊が役事する以上に私が聖霊の役事をするようになる。清平の摂理が出発した、その御父様の願いが何処にあるかと問うと、受動的には癒しの役事を受けることだけれども能動的には私が聖霊の役割を果たすべく、聖霊が私を通して地上に働きかけることにあるはずだ。先祖の解怨や祝福も、絶対善霊となった先祖の霊達が私に働きかけて、私が聖霊実体の御母様の代身となって、聖霊の役割を果たすことを願われている。だからどのよにして御母様との一体圏に入れるかが大きな鍵となる。過去の流れから私に受け継いだもの、責任分担として私から前へ前へと放たれるもの、私を通過する過去から未来へのその流れの中に一貫して働いている衝動の在り様こそが、私の血統圏は何処に所属しているのか、神なのかサタンなのかの正体だ。

2014年7月27日日曜日

責任分担という天宙的概念

アダムとエバが完成する為には責任分担を果たさなければならなかった。堕落は、人類の真の父母となるべきアダムとエバが、取って食べてはならないという戒めを破り、責任分担を完遂できなかったことによる。ルーシェルの誘惑がなければ戒めを破ることはなかったかも知れないが、責任分担という観点から見る時、誘惑を越えなければ責任分担の完遂は為せない訳で、堕落してしまったからルーシェルはサタンになったが、もし誘惑を跳ね除けて戒めを護っていたなら、ルーシェルの誘惑は責任分担完遂の為に大きな一役を買って出たことになる。その意味では堕落したからルーシェルは神様と人類の怨讐サタンになってしまったが、アダムとエバが誘惑の試練を勝利していたなら彼等はルーシェルに感謝し、ルーシェルは完全に彼等を慕い侍り、ルーシェルは直接主管圏に共に入り人間のあらゆる喜びを創造していく助け手になったはずだ。韓国が主の国として立つ為には第三イスラエルとして立ち、天宙的なカナン復帰路程を出発する為に、40日サタン分立基台が必要だった。この40数に該当する苦役期間を受ける為に日本の40年統治がある。韓国は日本の統治を恨みとして抱いているけれども、日本が現れずとも何処かの国がサタン的役割を果たす必要があったのも事実だ。しかしその事実を日本が口にしてはならず韓国自身がそれを認めて日本を許さない限り日本はうかばれない。御父様が父の国韓国に対して母の国として怨讐日本を立てられたのは、韓国にとっては日本を許し愛さざるを得ない状態に敢えて追い込まれたという、真の父でしか発想できない深い摂理的内容がある。神様が、エバに近付いて誘惑するであろうルーシェルに対して、アダムとエバに対する位置を任されたのも責任分担完遂への深い神様の思惑があってのことだ。許せない者を愛するとか怨讐を愛するとかという事柄と、責任分担の完遂とは切っても切れない関係性にあるはずだ。逆を言えば責任分担の完遂には必ず許して愛する怨讐的存在がなければならないということでもある。そうなると責任分担という概念には、私達が思っている地上的な意味で責任を果たすという意味以上に、愛せない者を愛する、すなわち恩讐を愛するという意味合いの方が強いと思われる。御父様は責任分担という言葉を発見されたのではなく発明されたとある。人類の堕落の問題や復帰の問題、どうして完全な神様が不完全な堕落しうる人間を創造したか、あるいは堕落の位置から復帰して救われる為にはどうすべきかと言うような解決しようのない問題に対して、この責任分担という概念の光で照らすことによって初めて解決できると言う、歴史を生きたどんな聖賢聖者も解くことができなかった天宙の次元方程式を発明されたことになる。

2014年7月24日木曜日

今日の想い 769

御母様を人間的に見ている。人間的にという意味は人情的という意味でもあり、堕落人間の立場から見ているということでもある。御父様を見るにもそうであるけれども、この目で見てイメージしている御母様が御母様の本当の御姿ではない。人間、特に堕落人間と言った方がいいかも知れないが、人間には霊的位相を見る目がない。肉体的な御母様を見、あるいは心魂的に優しさだとか気高さとかというイメージをして御母様を見ているけれども、しかし霊的神霊的位相としての御母様の姿を見ることができないでいる。要するに本人は御父母様を認識していると思っているけれども霊的な感性が開かれていないのでその観点からの認識ではない。霊的認識の段階はイメージからイマジネーション的に、そしてインスピレーション的に、さらにインテュイション的にと霊的感覚を高めていく。実は肉的五感と霊的五感は表裏一体なのだが、人間の意識は圧倒的に肉的五感へ光を当てるのみなので、背後にある霊的五感は照らしだせない。よって信じている御父様のみ言葉によって立てる推論として、御母様を御母様として認めている訳だけれども、霊的位相を見ることができれば自分なりに受け取ったみ言葉から推量する必要など無く、御母様は明らかに御母様だと認識する。しかし霊的位相を見ることができない人間にとって御母様だと推量するにしても、御父様の妻であるとか、私達の母であるとかという地上的平面的な観念以上の認識をとらえることができず、勝利された御母様、神様の妻の位置に立たれておられる御母様、さらに御父様を産み出した御母様という認識については平面的言葉の持つ意味以上にはならない。私達は認識に限界があることを再確認して、御母様に対する理解も認識も不十分なものであることを自覚しなければ、ここまで信仰を繋ぎ精誠を供えてきたのに、御母様に対する決め付けた限定的認識によって足を払われてしまいかねない。先回語られた御母様のみ言葉は、私達の御母様の認識を揺り動かすものであり、霊的神霊的位相に一歩も二歩も踏み込まれた言葉だった。私達が先ず悔い改めるべきは御母様に対する限定的に決め付けた認識だろう。そしてさらに、摂理の遅延、基元節以前に御父様の御聖和を迎えねばならなかったことは私達祝福家庭の責任であるにも関わらず、誰か他の責任でもあるかのように負債を覚えていない。御母様は御自身がスイスで精誠の条件を立てられて、そんな私達を許して白紙の状態で接して下さる。私達は御母様に対して、「どうか私達を許さないで下さい。犯した罪に対して鉄槌を下して下さい。」と言い寄るほどであるべきなのに、何の負債も感じないのか平安な気持ちで笑っていられる。御母様は私達に対してもっと厳しくあるべきだと思う。許す必要もないと思う。私達が失敗してきたのは、信じる基台もない私達に御父母様があまりにも許して信じてこられたからだ。この群れに今必要なのは過酷さであり厳格さだ。

2014年7月22日火曜日

今日の想い 768

新しい一日だ。朝に目が覚めるその意識の一瞬は確かに真っ白だ。真っ白な自分をその瞬間に自覚できる。その瞬間を置いて、昨日や過去との延長にあるもの、置かれている現実、様々な感情が一挙に雪崩れ込んでくる。そうして溜息混じりに体を起こす。現実が意識の大半を凌駕してしまって、そこからやおら理想の旗を掲げて戦いに挑むとしてもなかなか難しい。逆に目覚める瞬時に未来的な希望を、理想的内容を、理想的感情を、現実を意識する瞬前に一挙に投入する。そうすることで、もちろん現実は現実で雪崩れ込む訳だけれども、それでも理想の版図を少しでも広げられる。たとえ時間と共に現実に凌駕されていくにしても、それでも理想の我が内面にあるうちは理想を意識できる。理想を意識することで僅かであっても理想の実体化が進められる。自我意識が自体自覚という堕落意識によって占められている以上、その隙間をしてでも他体自覚の理想的意識を投入する必要がある。隙間が生じるのは目覚めの一瞬にしかない。夜の私から昼の私への瞬間を占領して自我改革をするしかない。霊の呼吸として夜に為される霊の吸引と、昼に為される霊の排出の、その狭間で改革するしかない。訓読会も早朝であるべきだが、仕事の関係上なかなか時間を取れない。仕方なく今は夜休む前とかに訓読しているけれども、早朝にやることの意味は確かに大きいのだろう。現実の意識が雪崩れ込む前にみ言葉を投入して夜と昼の私の狭間でみ言葉による改革を施す。そう言えば以前777双の中心者に朝を奪われる者はその日一日を奪われると教えられたけれども、確かに当たっている。泣き事のような内容もアップしたけれども、私の現実を表現するなら悲しいかなその通りだ。その通りでもがいているけれども、だからこそ人一倍み言葉を求め、御父母様の御心情を求めなければならないと意志すべきで、その意志の中に必死の想いで神様が私に働きかけておられるのを見なければならない。新しい一日が始まると私の意識は瞬時の思い思いをその日一日辿っていく。ただ内面にあるものだけを辿っていくのか、はたまた内面と通ずる異次元から流れ込ませて意識的に思いを創造し続けるのか。内面にあるものだけを辿っていくなら時間の流れに主管されていることになり、内面にない新しい思いを意識的に創造し続けるなら逆に時間を利用しているし、創造する時間を押し出している。今日の一日を意志するものとして生きるとはそういうことだろう。

2014年7月21日月曜日

今日の想い 767

私はというと、同じように不安と戦い、絶望と戦い、躊躇する自分と戦い、一歩踏み込む毎に見え隠れする恐怖と戦っている。心身一体圏、父子一体圏こそがこれらの戦いを突破できる武装されたトランスフォーム体なのだと思うが、その完全なる一体圏を未だ習得できていない。み言葉に向き合いながら無知にも程があるだろうと、自分に対して吐息が出るほど情けないが、本質を受け取れないまま時間だけは過ぎていく。こんな状態で天の父母様は訪ねて降りては来られないし、御父母様も最初に御食事を差出した時と同じように、そっぽを向いたまま視線を合わせては下さらない。この悶々とした日々を永遠に積み重ねていかなければならないのだろうか。積み上げた先に一体圏が現れるのだろうか。これでは死ぬにも死に切れないだろう。どこまでも能動的でありたいけれども、正直なことろ高みを目指すに疲れている。自分の心に聞け、良心に聞けと言われるけれども、私の良心も未だ黙したまま口を開かない。今日もまた目が覚めると同時に待ち構えていて襲い来る不安の化け物、絶望の妖怪、地を這うことをやめない躊躇する自分、それらとの消耗戦に翻弄される。私はこの自分そのものですら怨讐だ。怨讐である自分をどう愛すればいいのだろうか。心身一体など夢のまた夢だ。堕落の血が恨めしく、抜き取っても抜き取っても未だに皮膚の下で蠢いている。パウロの告白は私の告白でもあり、御父母様の祝福を戴いた私であるにもかかわらず、同じ嘆きとして私の中で叫んでいる。別にこの世的な人格者を標榜している訳ではない。霊的な視聴が開かれるのを望んでいる訳でもない。責苦であろうが虐げであろうがいくらでも甘受する。しかし私の底の方で、心身一体圏、父子一体圏には辿りつけないという不信が居座っていて、その不信を払拭することができないでいる。子として認められたいけれども、子としての扱いを受けているとはどうしても思えなくなる。その愛の減少感でもって高みを望もうとする力に変えるのではなく、自分からも愛さないことで相殺させようとする。だから戦いはするものの、どうせ負け戦だと開き直っている部分がある。この私の中にある限界線をどうにも突破できない。心身一体、父子一体で限界線を越えて、届くべき境地に届きたい。今日もまた、捨てられて忘れ去られた愛の減少感で胸を締め付けながら、それでも今日を生きようともがく。未だその本質を掴めないみ言葉のひとつでもしがみ付いて、今日の一日を生き抜いていく。私が知らないだけで、天地開闢の天の運勢圏に突入した者達が既にいるのかも知れない。そうであるなら何としても教えを請いたい。私が訪ねていくには御父様は遥か彼方の高みにおられ、私の心情の足では遠すぎて千年万年かかってしまうだろう。今、私の中に訪ねて下さる御父様だという確信が揺らごうとしている。主体の私がこんな状態で、妻に希望を持たせ、子供達の吸引力になれるだろうか。一度でいいから、神様が地の底から立ち上がることができない私を尋ねてくださって、ただ抱きしめられたい。

2014年7月19日土曜日

今日の想い 766

みんなそれなりに長い信仰生活を歩みながら、いつのまにか惰性的になり、そして疲れている。もし私の思い違いで、本当は多くの兄弟食口が信仰に燃えていると言うのであれば、嬉しい勘違いなのだろうが、おそらく疲れているというのが現実だろう。自分自身を鼓舞するようにみ言葉に向かっても、祈祷を重ねても、条件を供えても、遥か昔の復帰された当時の心霊は取り戻せない。人間に思春期があるように、教会にも私の信仰にも思春期があるようだ。思春期は取り戻せないけれども、しかし思春期を通り過ぎたからといって信仰が消え失せる訳ではない。本当はある期間を経ることで信仰のステージは上がっている。上がっているのに過去を振り返ってばかりでその当時を懐かしく思うばかりでは先に進むことはできない。今のステージには今のステージでしか活動出来ない信仰の在り様がある。疲れないように歩みなさいと御父様が言われたのは、疲れるようになるだろうという前提で語られたことだろう。疲れてしまえば、何とか信仰の思春期の心霊を取り戻そうと、分派の活動に関心が向いたり、教会に対して批判したりしてしまう。思春期の心霊状態は取り戻せないにしても、長い信仰生活の中で様々な垢が付着しており、垢落としをして白い心霊を用意することはできる。様々な問題の認識は、何らかの理由をつけて自らを正当化し、感謝の想いが影を潜めているか、為に生き、与える行動に躊躇することによっている。御父様は収容所の中で、僅かなムスビの半分を与えてまで敢えて他の為に生きたのであり、週に一度だけ与えられた食事を全て食して敢えて感謝の想いを供えた。御父様がそこまでされて基準を示されたことを私達は忘れてはならない。疲れているなら疲れているなりにも発電して、僅かであってもみ旨への献身を差出すべきだろう。あるから与えるのなら誰にでもできる。ない中でもそれでも与えてこそ御父様の息子であり娘だと言える。そして感謝できないなら敢えて今の位置から更にマイナスの位置を甘受して、週に一度元の位置へ戻してでも感謝の想いを持つべきだろう。神様は飴と鞭で私達を教育するのだろうか。それとも真理と神霊で私達を成長させるのだろうか。鞭ばかりで飴をくれないと嘆くのではなく、真理と神霊でこそ、すなわち御父様の知恵と御父様の心情でこそ乗り越えることができる。

今日の想い 765

人間が肉体を持っている以上、肉的欲望は常にある。肉的欲望があることが肉体が生きて健全であることの証しでもある。肉的欲望とは肉的な刺激を求めることだ。肉体は肉的五感の刺激を常に求めている。目は美しい形と色合いを求め耳は美しい調べを求める。触れるによいものを求め味わいも求める。しかし人間が複雑なのは、五感を通して性的な刺激を求める存在でもあるということだ。性の刺激は純粋な肉的五感の刺激のみならず、心魂の刺激でもあり、さらには霊的刺激だ。そしてその刺激には愛が関わっている。それが真の愛か貶められた愛かはここでは論じないが、性は確かに愛が、もっと言えば横的な肉的愛も精神的な愛も関わっている刺激だ。性の刺激を求めるに何が動機でありどう主管するかがそこにどんな愛が関わるかを決定している。刺激を求めるままに行動して、そこに真の愛が関わることはない。真の愛が神様から来る縦的愛である以上、縦的なものを無視した横的行動に真の愛が関わることは無い。肉的愛の一方で精神的愛がある。肉的愛はより横的愛であり、精神的愛はより縦的愛だ。性的刺激への衝動をどう主管するかだが、創造本然の人間であればその衝動は起こらないという訳ではもちろんない。しかしその衝動は精神的愛が先ず重んじられてその許可を得る形で肉的衝動へのアクセルもブレーキも踏まれるはずだ。もし肉的衝動そのものだけを肯定するなら、フリーセックスの神であるか、或いは性的衝動も肉的愛もサタンから受け継いだものかのどちらかに断定するしかなく、そうなると創造本然の人間の絶対性は否定されるか、創造理想的には性の喜びなどあり得ないことになる。しかし創造本然では絶対性であるし本然的な性の喜びもある。人間は堕落して偽りの愛と真の愛の区別がつかなくなったから性の衝動に主管され惑わされる。堕落人間としては外的な性的愛への魅惑ばかりが愛の強い実感を受け取るのであって、それが多くの場合偽りの愛によるものであることを知らない。性的衝動の強い者は業が深いとよく言われる。しかし性的衝動が強い者は実は精神的衝動も強い。縦的な愛であれ横的な愛であれ、どちらも同じように能動的な力が必要であって、その力の方向性を正せば神霊を強く求めるのであり、性的愛を越える愛の刺激を精神的愛を通して覚えるようになる。天との深い心情的一体感を覚えて相対に向かう時は、肉的五感を遥かに越える愛の刺激を受け取るだろう。神様の結婚式を挙げると言えるほどの御父母様の境地には届かないにしても、その場には確実に私を越えたより天に近い高次の男性性が介在し、相対の中にも同じように高次の女性性が介在している。

2014年7月16日水曜日

今日の想い 764

私は新しい歴史の開拓者だ。新しい歴史は基元節を越えて始まったばかりだが、私が存在している先天時代からの事情圏、環境圏は遠からず消滅してしまう。そうして私自身も、新しい歴史の住人となるために、全く新しい存在様相を呈する者とならなければ立ち行かないだろう。事情圏環境圏はどんどん融解していく。事情圏環境圏が融解していくとは、固定化されていた先天時代の概念が崩壊して、全く新しい概念として光を放つようになる。概念が変われば観が変わる。人生観や価値観、そして世界観や死生観などのあらゆる観が変われば認識も意識も変わる。認識や意識が変われば生活も変わる。人類の殆どはこの起こっている事実を知らない。人類殆どが知らないばかりか、み言葉を知る統一食口でさえもこの事実に気付かない者達が多い。気付かずに相も変わらず先天時代の事情圏環境圏にしがみついて生きている。程度の差こそあれ自分もその内の一人ではあるのだが、、。霊界が愛の呼吸で生活する世界であるように、地上の生活は空気を呼吸して生活している。しかしこの世的な愛ではなく真の愛の概念として受け取られることで愛の呼吸という言葉が成立つ訳だが、地上の生活も物理的な空気を呼吸するのではなく、物理的なものを越えた真の空気とは何だろうか、真の空気を呼吸すればどう変わるのだろうかと言ったような、内的霊的知への関心が高まらない限り、先天時代と同じ事情圏環境圏に住み続けることになる。先にも言ったように先天時代の事情圏環境圏は消滅する。とにかく献金しなければならない、伝道しなければならないと躍起になるとしても、伝道するに自分が復活して活かされている実感を持ち得ずにどうして相手を揺さぶる霊的喜びを与えることができるだろうか。伝道の勝利は確実に、新しい歴史が出発することによって創造される新しい事情圏環境圏を把握するに応じて為されるものだろう。何処の誰が、先天時代と同じ事情圏環境圏が変わらないものとして存在し続けるのに、誰からも揶揄され白い目で見られ、カルトの一つに括られてしまう統一教会員になりたいと思うだろうか。世界も社会も確実に変革している。そしてその変革は紆余曲折を辿るとしても真の父母を中心とする人類一家族思想へと向かっているのもまた確実だ。統一食口は世界と社会の変革にどう着いて行ったらいいのか、対処したらいいのか翻弄されているけれども、本来は地上天国の環境創造の為の変革であるはずで、グローバル社会もインターネット社会も創造理想を知る私達がリードしていくべきだ。確かに今の時代を担う若者は新しいツールに対して順応性もあり更に新しいプログラムを創るのにも創造的だ。若い者には適わないと時代遅れの器を嘆くのではなく、彼等以上に、彼等を越えた位置で、概念を提示し価値創造を為す私達であるべきだ。私達は新しい歴史の開拓者だ。真の愛の血統圏に属する者がどれほどの価値創造を為していくか、人類が驚嘆の目で私達を見る時が必ず来る。いや、来させなければ戴いた祝福を腐らせた者になってしまう。

2014年7月9日水曜日

今日の想い 763

アメリカでは今、聖地巡礼ツアーが行われている。御聖和2周年に向けて、御父様が決定された聖地を巡礼することで悔い改めて原点に立って仕切り直すことだと思っている。外的には全員参加は無理だとしても、内的には必ず全員参加して悔い改めと再出発する必要があるだろう。内的な聖地巡礼は記憶として残っている御父様との因縁巡礼だ。御父様との内的出会いをひとつひとつ思い起こしながら、その出会いの時の心情に立ち返るということだ。御母様は、「清平役事は天が聖別して育ててこられた大母様の特別権限であるので、あれこれと言ってはなりません。」と言われた。私達はあまりにも外的に、より外的に物事を見て判断してしまう堕落的習性が、雑草のように生えてしまったらしい。外的な観を立ててしまい、その観の上に立って更なる外的な観を立てていく。そうしながらアダムとエバが自己を中心とした自己判断に陥ったように、知らないうちに堕落的習性を堕落的とも思わない自分になってしまっている。外的な私を主体に置いて外的な状況を見るのか、あるいは内的な私を主体に置いて内的な状況を先ず見るのか、それで私の立ち位置は180度異なる。内的な私を主体に置くとは、内的な私が中心となる。内的な私が中心となれば、外的な私が外的な状況を見るのと異なり、外的な私からいうと外的な状況を裏側から見るということになる。そうやって内的霊的目を用意する者だけが霊的事実に近付ける。目は外に外に向けるのではなく、内に内に向けなければならない。ああだこうだと言うなと言われる御母様は生きた聖霊実体の御母様であられ、神様の一人娘であられ、御父様を天宙の勝利者として産まれた御母様であられ、私達の真の御母様だ。御母様の言われた言葉に対して真だ偽りだと判断すること自体、御母様を真の御母様とは認めていない。御父様が聖和されて既に全てが終わったかのように、それは悪い意味で終わったと捉える者も良い意味で終わったと捉える者も同じように御父母様の願いに立ってはいない。私達は為すべき何事も終えてはいない。何事も終えてはいないのに何が終わったと思っていい加減な生活を営んでいるのだろう。蕩減条件を幾重にも幾重にも積み重ねてきた自負があるなら、基元節を越えた今こそ打って出るべきだろう。生命を投げ打って新しい歴史の環境創造に馳せ参ずるべきだろう。今の時を味方につけるなら、本当に味方につけるなら、外的な位置に立てばあり得ないと思える氏族メシヤ使命完結も、南北統一も、世界復帰も為し得て余りあるだろう。この世からして見れば所詮気の狂った群れだ。気の狂った群れで上等だ。更に気が狂ってこそ真人となり得る。気が狂いでもして前進する者でなければ統一食口ではない。

2014年7月7日月曜日

妄想だと思われても、、。

時間だけは異常な速さで過ぎていく。あれはどうしよう、これはどうしようと思いあぐねているうちに、時間は容赦なく過ぎ去っていく。まさしく取り返しのつかない一刻一刻の時間を垂れ流しにしている。もはやこの時間の急流を堰き止めることも、緩やかにすることも誰もできない。人が死に向かって突き進んでいるという自覚を煽るが如くに、今の時代は先天時代を葬るために、過去に通用していた策略の全ては時間の急流にかき消されて意味を為さない。良かれと思った手段が一歩先に進むと、次々と現れては消える新しい状況に対処しきれない。だからといってままよと何もせずにおれば確実に淘汰されてしまうだろう。洪水に押し流されるこの状況で、様々な障害物に叩きつけられてしまう自分を生かす為には、死生決断しかありえない。いつ犠牲の藻屑となって波間に消えようとも、消えるも何も時間の流れと自分は一体だという見地に立てれば、時間の流れが私を目的地に連れて行ってくれるはずだ。私自身が時間の流れになればいい。それこそが死生決断だ。時間の流れに同参して、時間の流れの最先端に位置付ける私になれば、一瞬先を制する私になれるだろう。天の父母様が時空を越えた御方であられる意味は、時空を制する存在を従える位置に立っておられるということだ。私が時間の流れの中に生きているという認識から、私は時間の流れと共に生きているという認識、さらに、時間を制する存在は同じ兄弟であり同胞だと認識できるほどに意識を高められれば、私は三大王権の過去、現在、未来の王の、現在の王権への道が開ける。御父様が使われた王や王権という言葉を、何処か異次元の世界の言葉と思っていたけれども、時間の流れに翻弄される状況下で始めてその言葉が私の中に浮上してくる。時間の流れが心魂への気付きを与え、心魂が知情意のある段階に留まり続ければ時間の流れが制裁を与え、時間の流れが心魂を癒してもくれる。私が時間の兄弟になれるとすれば、気付きを与える時間の叡智を知ろうとし、怠惰な私を叱咤する時間の意志を知ろうとし、癒しを与える時間の情を知ろうとするところに、時間の本質からくるところの時間の人格性を感じることができれば、時間を我が友だと言うこともできるだろう。これがおかしな言い方に聞こえるとしても、私達の時間や空間に対する概念は99%機械的であり、それは霊的なものを無視した唯物観的な概念形成から来ている。それは太陽系や銀河系を機械的に理解しているのと同じことだ。霊的見地に立つならば、妄想的だと言われようともそこに人格性を見出すのでなければ、唯物観を壊して霊的事実に立つ私を取り戻すことはできない。霊的見地に立てる人は、より詩人でありより芸術的な捉え方ができる人だ。

2014年7月5日土曜日

今日の想い 762

ハリケーンが東海岸に沿って北上しているせいだろう。空を流れる千切れ雲が異様に早い。かと言って雲の量が増すでもなく、真綿のような白い雲が汚れて濁っていく様子もない。建国記念日は通年のように店を閉めてゆっくりしている。長く働いている従業員から近くのカジノに行こうと誘いも受けたけれども、人ごみの中に妻を連れていく訳にもいかず、それには断りを入れて、呼び寄せて手伝ってくれている兄弟のアパートに残り物の食材を抱えて行った。妻も連れていったが妻にしては始めてで、興味深そうにあちこち眺めていた。その兄弟は30年前、今の店の立ち上げに関わった功労者だ。人事であちこちに移動して最終的にバーモントに落ち着いて店をやっていたが、リースを終えた為に店を売り、それで浮いていた彼を元の古巣に呼び寄せた。4人の子供のうち下のふたりとはまだ一緒に住んでいたが、それでも子供達を置いて私の呼びかけに応えて来てくれた。相対者を8年前に事故でなくしている。私がせがんだせいもあったけれども、本当のところ彼がそうまでして来てくれた胸の内を私はわかってはいない。生活の為ではないし老後の為の蓄えをするほどの給料も切ってはいない。レストラン摂理として同じ頃アメリカに来たが、最後の御奉公だという想いがあるのも、相対者が眠っているワシントンのセメタリーに近いからというのも頷ける理由だとは思ったが、本当のところはわからない。私は病の妻を抱えてここまできたけれども、彼は唐突に妻を亡くしてここまできた。私の家庭は祝福家庭としての体を為していないけれども、彼の子供達はしっかりと信仰に根ざし、離れ離れになってはいても祝福家庭として一体家庭だ。確かに長男はマサチューセッツに、長女は西海岸にと、アメリカ全域に分散しているだけでなく、妻を亡くして霊界にまで分散している。私の事情圏環境圏と彼のそれとは或る意味真逆だ。実際十分年取った彼を呼び寄せて戦力になるとは思わなかったが、そんな表面的に考えること以上に大切な意味があることを知っている。そこまで知っていて呼び寄せたというより、私が霊界から押されてそうなっていると言った方が正しい。私と彼がひとつになって、この店が、このレストラン摂理が、どう変貌し、新しい次元で環境創造されていくのかは未だにわからない。しかし何かが胎動している。そしてその息衝きを大きくさせて育てるのも、逆に殺すのも、私と彼の一体化にかかっている。早い食事をして、歓談して、パイプ椅子をいくらか倒してよっかかり、青い空の白い雲の流れを見るともなしに見ている。来週になるとまた従業員がひとり抜ける。雲の流れを見ながらそんなことだけを考えている。その穴埋めのことばかりに意識を使っている私のままでは、新しい次元の新しい環境創造にはそぐわないのかも知れない。困難な状況に隠れるように、それと同時に新しい生命が躍動し始める。店の発展を見るなら、大きな発展の転機は確実に困難な状況下に起こっている。しかし今までのそれとは次元の違う大きな転機が、今の今であることは間違いない。その確信はあるものの未だに見通せない。どうしても見通せない。

2014年6月30日月曜日

今日の想い 761

距離を置いてしまう食口の中に、一つの言い訳として真の愛がわからないというのがある。絞られるだけ絞られてきたし、さらに骨身を削ってまで活動もしたし半端ない献金もしてきたのに、さらに苦労を要求され続けて、それが真の愛だとは思えないと思っている。真の愛とは何なのかという観点ではなく、単に要求され続けて結局自分の感情を満たしてくれるものではなかったという嫌気感、失望感から真の愛がわからないという言葉を吐いたに過ぎない。要するに他の為に生きるとか、犠牲的精神に立つとか、結局それらは方便で、根底に於いては神様を信じれば、或いは祝福を受け入れれば、真の愛を受けることができ天国という幸福の境地に連れて行ってもらえるはずだという受動的な信仰態度が居座っている。既に、絶対的愛としての真の愛など私の中にはないし、私から真の愛を与えることなどあり得ないという見地に立っている。統一食口は神様と真の父母の証し体だ。私達をして人々は神様を体験するのであり真の父母がどんな御方かを知る。要するに私達は愛される為に存在している前に愛する為に存在している。真の愛を受け取れない、真の愛がわからないと言う以前に愛を与えようとし、為に生きて犠牲を差し出し、相手が復活して生きることを通してこそ真の愛を実感すべきだ。愛は相対関係からしか感じ取れない。親の愛は親になって愛して真の親の愛を知るように、夫婦の愛は夫婦になって夫を愛し妻を愛して真の夫婦の愛を知るように、愛するという能動的愛を意志してこそ真の愛を知るようになる。真の愛はわかろうとするものではなく、与えて理屈抜きに愛してこそ感ずるものであり、感じてさらに与えようとする衝動に、この愛に神様からきた真の愛が宿っているのを実感する。統一食口として切実なのは、真の愛がわからないということではなく、愛するべきなのに愛せないということの方が切実だ。真の愛がわからなくて自分が距離を置いてしまうのは自分を説得することで解決できるかも知れないが、愛さなければ神様が離れていく。私達が御父様の息子であり娘であると断言するなら、御父様が愛して忘れ、愛して忘れ、さらに愛して忘れられたように、私達も同じように愛して忘れ、愛して忘れ、さらに愛して忘れてこそそれを証しできる。私達統一食口は愛の開拓者だ。見せて誇れるものはないし必要もないけれども、私が愛の開拓者であることは天宙に自負できる。常に愛の開拓者であってこそ天の父母様に報告祈祷ができ、過ぎ去るこの一瞬にも神様は尋ねてこられる。

今日の想い 760

霊界の死が地上界への誕生であり、地上界の死が霊界への誕生だ。原理は輪廻説を否定する立場を取っているから、霊界で死を迎えて地上存在になるという言い方はおかしいかも知れない。しかしはっきりと霊界から地上に生まれたという言い方を御父様はされたことがある。しかしその記述がみ言葉の何処にあるのか定かではないのだが、、。一般的に理解されている輪廻説を肯定してしまうと、餓鬼になったり畜生になったりと、行いによって人間以下にされるという私を裁く存在を肯定することになり、真の愛の神様であることを否定するか、あるいは善悪二神論を肯定することになる。魂が完成するまで六道を巡り巡っていく宿命的な心魂であるなら、そこに人間の自由性はなく原理で説明される地上での蕩減も責任分担も宿命に圧されてほぼ意味を持たなくなる。私が思うに、輪廻説は霊(精神性と言った方が誤解を産まないかも知れない)の認識のない、霊人体が霊的形すら見ない地上人間を、霊形体以上への成長を願われて心魂の限定的事実をして教育する段階的真理だと思っている。しかしより内外の知を得た者に対する新しい輪廻説が説かれるべきで、それを原理で言うなら協助で説明できると思っている。私達は宿命的なものを抱えて地上に生まれていることは事実だ。男性として生まれたか女性として生まれたかもそうであり、堕落の血統圏から生まれた事実もそうだ。ようするに既に蕩減すべきものや責任分担としての使命的内容を抱えて生まれている。それは血統を通して受け取るものであるけれども、外的血統を通して受け取る蕩減すべきものの他に内的霊的血統を通して受け取る使命的な責任分担がある。協助は先祖の協助で得る蕩減的な協助と、過去の精神開拓者の協助で得る責任分担的な協助がある。イエス様の大きな使命は背後に内的霊的血統としての仏陀の協助と、ゾロアスター教の創始者の協助が二大協助としてある期間活動している。御父様の使命にはイエス様の協助がある期間活動していたことは容易に理解できるし、イエス様の協助を得ていることは二大協助も得ていることになる。御父様が血統という言葉を使われる場合、外的血統ではなく内的霊的血統として使われる場合が多く、それを理解しないと、協助は先祖からと思ったり、協助は蕩減的なものの解決だと思ったり、さらには苦労するのも、思うようにいかないのも、協助を得られないからだという発想になる。事実は御父様の願いに生き摂理を担当する以上、神の願いに生きた精神開拓者の協助を得ているから苦労するのであり思うようにはいかない。外的にはうまくいかないとしても、内的霊的協助を得ることで外的な苦労を消化して余り得る力を得ている。それは霊形体にもならない霊人体が形を持ちたいと、六道を巡り巡って呻吟する心魂とは比べ物にならないステージに立っている。私達は心情に於いて御父様と一つになり、そこから芽生える霊的感性からあらゆる霊的事実を認識できるようになる。教会の外的な現実、御家庭の外的な現実のみをどうこう言う前に私が御父様とどれだけ一つになっているか、御心情を相続しているかが重要であり、一つにもなれず心情も相続されず、よって霊的事実も知らないままの自分をして批判したり判断したりするのは間違っている。

2014年6月28日土曜日

今日の想い 759

日本民族に流れてきた血の中に、確かに人類に誇れるものもあるだろうけれども、忌み嫌われるものもあるはずだ。今の日本は自由の風が吹き、平等の意識が誰にでも備わっているけれども、少し世代を遡れば陰湿なものが流れていたことを知っている。人格軽視の重く暗い空気が覆っていたのは他民族にあまり見ない特徴的なものだった。村八分もそうであり、上下関係は特に陰湿度を増していた。鬼畜米英とは言ったが日本こそが鬼畜で、命令する方は鬼であり命令される方は畜生だ。それは戦争時の軍隊の体験を聞くまでも無く、日本の教会の中ですら摂理の名の下に活動するには軍隊組織に近いものがあり、陰湿だった部分が全くなかったとは言えない。それでもそれはそれで日本が神側に立ち、さらに母の国として立つためには避けては通れない犠牲だったのかも知れない。サタン側の立場で繰り広げられた経緯を神側の立場でも繰り広げたと言うことだろうか。年寄りは戦争当時の体験をできるだけ避けて、敢えて語ろうとはしない。人格軽視がまかり通り、上官の命令には非人道的であっても従わざるを得なかった。前線で戦った世代は否応無くやらされた非人道的行為が、心魂の奥に癒せない傷となって残っている。慰安婦が強制的に連れてこられたとは言えないとしても、軍の施設に併設された慰安所だけはその畜生的な扱いはなかったはずだと言うのは無理がある。確かに事情があって連れてこられたのであり、軍の直接的関与があったとは言えないまでも、日本人間に於いても畜生的扱いがあったのと同様に、それなりの人格無視の扱いがあり、特に戦時下という日本の陰湿度が増した空気の中で、慰安婦と言われる人々にあり得たであろうことは容易に想像できる。強制的に嫌がる者を連れてきたと言われることについては、それは違うだろうと日本人として異を唱えたいところだが、強制的なものではなかったと言い張るだけでは彼らの霊も心魂も癒されることはない。日本の経済成長は、最初は俄か景気だと思われたものがあれよあれよと時の過ぎるままに高度経済成長と言われるまでになり、国力は一気に増した。み言葉を知っている者であれば、それが摂理的使命を帯びたからこその成長であって、自国の富として囲うことがあってはならなかったことを知っている。しかし抱え込んでしまって隣国への配慮が無かったため、そのバランスを取る為に日本食口に皺寄せがかかったと言ってもいいだろう。日本の中枢の中に、摂理的な時代要求に敏感な者が少しでもいたら、日本食口にここまでの皺寄せは無かったはずだ。日本民族は日本食口に対して莫大な負債を抱えている。その清算は霊界で為されるだろうし、未来の日本において私達の後孫に対してもその清算をすることになる。日本民族が残ることを許されるのであれば、日本国存在の土台となって精誠を尽くした日本食口こそ精神的柱だとして日本人が仰ぐので無ければ、御父様が何度も言われたように日本は太平洋の藻屑となって消えてしまう。

2014年6月23日月曜日

今日の想い 758

仕事を一段落させて帰ってみると、玄関ドアの隅にムクドリの雛がうずくまっている。鉄筋8階建てのアパートにも拘わらずどう迷い込んだのか、逃げ場のない閉め切ったアパートの通路に雛の音が響いている。おそらく誰かがベースメントのドアを開けっ放しにしていたせいだろう。そのドアを入って右突き当りに私の部屋はある。だからそこが雛の落ち着きどころだったのだろう。何とか追い遣ってドアの方へ誘き出そうとしたが、逃げ回りながら私の股を掻い潜って部屋の並びのある逆の通路側へと走り飛んでいく。そのままにして置くしかないと思い、一端は部屋の中へ入った。でもやはり気になる。暫くして、どうしてるかドアを開けてみると、開けたドアの隅にうずくまっていた。その場所がどうも落ち着くらしく、追い遣ったにもかかわらず戻っている。私は意を決してかごに代わる入れ物を手にして捕獲作戦を決行した。雛と言えども結構飛び回る。決して高く早く飛び回るわけではないが、それでもベースメントの通路を数往復した。他の住人が出てきた時どう対応しようか、あるいは黙ってそのまま捕獲に集中するか、そんなことを考えながら、、。そしてやっと捕獲した。捕獲した入れ物の中でばたついている。隙間から逃げないようにしっかりと抱えるように体で覆って、ベランダのドアを開けて逃がしてやった。ベースメントだから飛び立たずともそのまま茂みに隠れられる。一安心してソファーに落ち着いた。妻が、恩返しに来るよと冗談めかして口にした。しかし話はここで終らない。本当に恩返しに来た。いや、また舞い戻って来た。夕方近くなってドアの方でギャ-ギャ-音がする。ひょっとしたらと思ってドアを開けてみると、案の定ドアの隅に雛がいる。確かに先ほど逃がしてやった同じ雛だ。ベランダから外に出したのに、どうして締め切ったアパートの中に、それも建物内の全く同じ場所に戻ったのかわからない。雛に帰巣本能があってドアの隅を巣だと思っているのだろうか。早速先ほどの入れ物を手にして再度の捕獲にかかろうとした。その時、雛は飛び立って開けたドアから部屋の中に入り込んでしまった。一瞬遮ろうとしたけれど遅かった。良いことをしたとばかりに持ち上げてくれた妻が、今度は私を非難した。菌を持っているから早く見つけて出してくれと責めた。その態度には関わらず、物で溢れている部屋の何処に隠れているのか、四つん這いになり視線を床と平行にしながら隅から隅まで探した。テレビの台と壁に挟まるようにうずくまって動かないでいるのを、やっとのことで見つけた。流石に今度はしくじれないと、小さな隙間にも入る入れ物を見つけて狙いを定めると素早く確保した。しかし狙いどころが悪かったか雛の首が入りきれず首を押さえ付けて絞めるような格好になってしまった。何とか押し込んで幸い傷は負わさなかったが、不手際に心が痛んだ。今度は帰ってくるなとばかりに、わざわざ茂みの近くまで持っていって放してやった。その後、夜床につくまで、ドアの隅に蹲っていた姿や、首を押さえてしまって苦しそうな様子を忘れることができなくて、私の胸を締め付けた。またドアの隅に帰ってこないか、元気に飛び立てるのか、小さい頃、熱を出し大病を患ってベッドに蹲っていた息子の姿と重なって、この感情を一体どうしたものか扱いあぐねていた。

2014年6月22日日曜日

今日の想い 757

天国は家庭がその基台にある。確かにその通りだ。その思いがあるから今の自分の家庭状況が優先的な現実問題としてある。人情に立てば当然で、夫婦円満でありたいし、子供には信仰を持って欲しいし祝福も受けて欲しい。理想的な祝福家庭でありたい。しかし現実は過酷だ。自分の思う理想の通りに事は運ばない。天国とは程遠いところに自分の現実、家庭の現実がある。夫婦円満になれる道を模索したい。子供が信仰が立ち祝福を受けてくれるように躍起になってしまう。それは最優先事項で、祝福理想家庭としてそれなりの基準にならない限り、摂理だと言われても、あるいは摂理だと思っても、そこに完全投入できなくなる。それはそれなりに理解できる。人情として理解できるが果たして御父母様は理解されるだろうか。家庭の問題があるなら、食口が摂理に対して完全投入できないのは仕方ないと思っておられるだろうか。御父母様の御家庭には更に大きな現実の問題があることは食口の誰もが知っている。引っ掛かっているその問題が解決されなければ摂理には向き合えない、御母様はそのように思って摂理に対して一歩引かれているだろうか。御父様もそうだったけれども御母様も全く逆で、御家庭の問題の認識すらないと思えるほど摂理に対して完全投入しておられる。おそらく祝福家庭である私達の試練はここにある。家庭の事を最優先して摂理に対して献身的に向き合えないという問題だ。家庭の問題は放って置けと言われたことは勿論ない。だからそれはそれで抱えながら、御父母様の願われる摂理への責任も抱える。だから私達は、問題を解決して欲しいと祈るのではなく、問題は私が解決しますからそんなことは心配しないで下さいと祈るのが筋だろう。ある分派の教えによって夫婦の問題が解決したとか、子供達が見違えるように変わったとか、中には健康さえも取り戻したと言うのもある。それでみ旨に前向きになれるのであれば受け入れて当然だと、これこそ神様の計らいだと思うのかも知れない。統一食口の正道は御父母様がそうであられるように犠牲の道をどこまでもいくのが正道だ。個人でも家庭でも、歴史時代を越えて、御父母様と共に新しい歴史の創造に加わるならサタンの誘惑を切って捨てなければならない。その試練は統一食口としての或る覚悟が要求される。死生決断だ。私がボロボロになろうとも、私の家庭が犠牲になるとしても、それでも笑って摂理の願いに邁進する。その決意と覚悟だ。

2014年6月20日金曜日

天使長が外的だという意味

「神は元来、人間の外的な肉身を先に創造され、その次に内的な霊人体を創造された。」「天使と人間が創造された順序を見ても、外的な天使長が先で、内的な人間が後であった。」(第五章メシヤ再降臨準備時代、第一節より)原理にはっきりとそのように書いてある。天使長は外的であり人間は内的だと、、。天使長は霊的存在であり肉眼では見えない存在だ。その霊的存在を外的だと言う場合、人間の肉身に対して外的だというのではないはずで人間の何に対して外的だと言っているのだろうか。私達は霊界と霊の存在に対して余りにも穿った見方をしている。はっきり言って私達は霊的無知であるから、無形実体世界である霊界や霊人体を説明されても、あるいは霊的堕落に始まる霊的な事柄を説明されても、取り敢えずは想像として理解する以外ない。しかし霊的知を復帰しながら想像から霊的感性による理解にかえていくようになる。私という存在を概観すれば、生きた肉体が存在しており、肉体の他に知情意の活動を為す生きた心魂が存在しているのはわかっている。しかし心魂はそのまま霊とはならない。御父様が「魂と霊を混同している。魂と霊は違う。」と話されたとおりだ。肉体があって心があるというのが唯物論者の認識であり、心魂があって肉体があるというのが唯心論者の認識であり、霊があって心魂があって肉体があるというのが宗教者の認識であり、み言葉の観点に立つと肉体には肉心があり霊人体(霊体)には生心があって、本来は神が臨在される生心に肉心が呼応して肉体を動かすのであり、生心と肉心をまとめて心魂とするなら心魂があって霊体があり肉体があるという認識になる。宗教者の認識によるなら天使長は人間に対して外的にはならない。しかしみ言葉の観点に立つなら、神臨在される人間の生心に霊体は主管されるので、霊的存在の天使長は生心を中心として活動する人間に対しては外的ということになる。しかし堕落人間は本然の人間としての霊性が開発されず生心の認識が不足であるために、霊的存在の天使長に、より内的主体的な立場を譲ってしまっている。主管性転倒が起こっていてその主管性の復帰の歴史が今日まで続いてきたのであり、私の心魂をして天使長に対する主管性の復帰を見なければならない。生心という概念が把握されて初めて、完成段階に至った人間は外的対象的存在である天使長に対して内的主体的だという論理が立つ。人間は本来、地上界に対しても霊界に対しても主体的位置に立つように創造された。