2022年12月30日金曜日

今日の想い 1216

 教会の中に愛はない。正しく言えば地上的で横的な愛はない。食口と言いながらも兄弟間の深い関係などない。御父母様との関係性もそうであり親と言いながらも親ではない。地上の親ほどの心配は私達に対して何もしてはいない。しかし地上で通じる愛が存在するように、霊的に通じる愛がある。霊的愛は地上で言うところの愛とは次元が異なる。地上では敢えて愛とは真反対の仕打ちを受ける。奪われ、騙され、酷使され、打たれる路程を生きる。愛とは真反対のそういう環境に沈められ溺れないよう必死でもがきながら、愛とは何かを問い尋ね、地上とは異なる霊的永遠な愛を受け取る感性を育てていく。どんなに説明しようとも誰にも理解されない。それは教会内ですら理解されていない。多くの食口はこの世では受けることが出来なかった愛をあの世で受けられると思っている。地上の愛とは次元の異なる霊的愛の意味が解っていない。地上の愛は霊的愛の象徴的なものでしかない。霊界は愛を呼吸する世界だが、地上で愛と認識されて受けるもの全てを否定され、あらゆる困難によって魂に芽吹く生きる感性こそが霊的呼吸器官であり、霊的愛を認識できる。過去のアボジに訓練されてきた歩みを思い返してみればいい。食口は知識として愛の意味を理解してはいないけれども、生涯を通してアボジと共に歩んできたのなら、霊的愛によって生きる感性のいくらかは魂に沁みついている。そしてその真の愛の感性こそが新たな世界、新たな時代を創造する力になる。霊的愛への道筋を示してくださったアボジを証するのは食口以外ない。この世の人が持っていない真の愛の感性を持っている、そのことが誇りであり力だ。私達に愛はないけれども、霊的愛、真の愛を受け取る感性が備わっている。

2022年12月20日火曜日

今日の想い 1215

 霊肉堕落の決定的要因として、カインはアベルを支えることができないどころかアベルを殺害してしまった。殺戮とあるからカインもアベルも一個人の話ではないとは思っているが、とにかくその事件以来、復帰の摂理は一貫してカインとアベルの闘争歴史、裏を返せば闘争を超えての一体化の摂理として展開されてきた。闘争は闘争自体に目的があるのではなく、分裂にあるものを一方の旗色に染めて従えるのであり、力による一体化が闘争の目的だ。人が組して大小の集まりを形成するが、その形態を維持するためにはアベル的位置へカイン的位置が従うことによって維持される。教会も同じようにアボジから降ろされるアベル的位置に対してカイン的位置の食口が従うという形態がとられている。献金に関して言えば捧げる側と使う側に分かれるが、御生存中はアボジの指示と許可で使われ、捧げれば捧げた後の使い方に口を出さないのはその通りだった。しかし果たしてそれが良かったのかは疑問符がつき、ましてや御逝去されても同じように中心からくる献金要望に応え、使う側の責任を問わないのはどういうことだろう。使う側の責任が問われないのなら、逆に捧げる側の責任を問う必要がある。出せば帰ってこない限り何某かの使われ方をする訳だが、出さない限り何に使われるかの問題はないからだ。アボジはこういう問題が起こることも予知されていて、それ故の良心宣言でもあったと思われる。後天時代は益々個々の良心による采配が大きくなって、そうなるとカイン的位置にある者達の組織への従順度は、良心のフィルターを通すが故にどうしても低くなる。世界を席巻する企業体もそうだろうし、国家自体もその影響を受けることになる。そうなると世界は先ず瓦解する方向に向かわざるを得ない。アベルカインの闘争と一体化という世界観を超えた、後天時代の世界観とは一体どのようなものだろうか。今までの組織形態は崩れても、良心作用に適する新たな組織形態が構築されていくはずだが、経済の血流である通貨制度も含めて未だに見えてはこない。

2022年12月19日月曜日

今日の想い 1214

ブログ村を見れば、子女様の様々な問題を見て彼等は堕落したという結論を出し、御家庭の分裂を見て真の家庭とはなっていないと結論を出すいくつかのブログを見る。原理観をどこまで深めるかによって堕落の意味合いは異なってくるのだが、そういうブログ主に共通するのは原理観が極めて浅く、実体の関係すなわち肉体の次元でしか結果を見出していないということ。彼等の論理によればタマルもマリアも不倫となり、タマルによって残された血統は不倫による堕落の血統でイエス様も不倫の子であって神の独り子とはならない。間違いを犯せば堕落だと言うなら犯す以前は神の血統圏であり犯したら堕落の血統圏に落ちるということだ。しかしアボジが間違いを犯したであろう子女様を、堕落の血統に落ちたと公的に話された言葉はまったく見当たらない。不倫や婚前交渉の良し悪しを言っているのではなく、堕落と復帰をどう捉えるかの話なのだが、堕落と復帰も含めてみ言葉は霊的意味合いとして捉えるべきであり、戒めとしての言葉と取ると信仰は教条主義となりみ言葉は裁きの言葉でしかなくなる。二世問題も子供を戒めとしての囲いに閉じ込めてしまうと、教会や親やみ言葉に対して極度な反発心を抱くか自主性や主体性を封じ込めてしまって自立精神を欠いてしまいがちになる。子女様方がそうであるように、環境が環境なのだから紆余曲折はあって、一世がイメージしているような清廉潔白な俗にいう正道を歩めるのは稀だと捉えるしかない。親はどうすることもできないその子としての宿命を背負って生まれている以上、起こる事柄も成るべくしてそうなったのだと覚悟し、親としての使命は責めるのではなく現実も含めてどう愛するかに尽きる。血統の重要性は生命の尊厳からであり、生命の尊厳は惜しみない愛の投入によっている。心情という言葉を自分のものにしようとすれば、表象的現実やどうしたどうなったの結果に感情を振り回されるのではなく、惜しみない愛の投入によらなければ心情圏には辿り着かない。ある意味堕落的で出来の悪い子であればあるほど、親子はより深い心情圏に入るという、すなわち神様により近くなるというここでも霊肉の逆説が成り立つ。日本中から総批判されて打たれたのだから、せめて天の心情圏に入れるより深い原理観を供えるべきだ。打たれる今を凌げば大きな天運が訪れるなどと暢気に構える気が知れない。心情を捉えなかったら天の摂理と何も関係がない。

2022年12月11日日曜日

今日の想い 1213

 被害者救済法案が可決した。反教会派の要望は教会解散であり、そこに向かうにはまだハードルがいくつもあるが、取り敢えず一里塚を超えたというところだろう。教会は今回のことで教会活動がいくらか制限されることになるのだろうが、それよりも何よりも植え付けられた世間の教会への反社団体としての悪のイメージがあまりにも大きく、活動や献金どころではなく、食口の信仰そのものに多大な傷を残しかねない。表面的には信仰を失うか、失わないまでも距離を益々おいて離れていくだろう。私個人としては、ここまで貶められるなら教会自ら潔く解散して、新たに摂理意志のある者が賛同する食口を集め小団体を作るなりして摂理を進めればいい。教会が既に摂理とは大きく乖離していたことは自明であり、献金という手段が目的化して久しい。問題は教会自体に自浄作用がなく、今回のような外的圧力によらなければ変われないという情けない状態をどうすることもできなかったことだ。組織の腐敗はカトリックも含めた宗教組織のみならず、大きくなればなるにしたがって必然的と言えるほど内包しており、アボジはそれを見通しておられたはずだ。本来、家庭連合も教会から名前を変えるだけの願いではなく、ピラミッド教会組織を解体し祝福家庭の連合組織として平準化したかったはずだ。家庭教会も環故郷も、打ち出されはしてもその願い通りにはならなかった現実から、家庭連合を打ち出されて流れを摂理に寄与する方向へと向かわせたかったのだと思う。インターネットが発達して情報発信がマスメディア独占から全人類に平準化していくように、今の主要摂理が何かの判断も、それに応える手段も方法も、教会のみに降ろしていた神意を各祝福家庭、更に個々の良心に降ろすという平準化がアボジの願いだった。内部でそれができずに外圧の力が働いたことはハードランディングで痛みは外的なことのみに収まらないが、それでも摂理の方向性としては間違ってはいなかったというのが、私の摂理観だ。

2022年12月6日火曜日

今日の想い 1212

 親の脛をしっかりかじってきて、それなりの子としての活動する風を装いながら、結局実を残す何の成長もせぬまま今にいたった。ある程度成長して独り立ちすれば逆に親の面倒を見て当然だろう。それどころかいくつになっても親の脛をかじり続ける。そんな子供を世間では何といって戒めるか。いつまでも甘えるんじゃないと早々に送金は絶つはずだ。腐りきった子供ならそれでも甘え続けるだろうし、そんな子供が自立する時がどういう時かというと、かじる親の脛がなくなった時、すなわち親が死んだ時か全く動けなくなった時、初めて自立する覚悟をせざるを得ない。母の国として日本食口がやってきたことは、夫にも子供に対してもそんなことだ。そして今日本食口は活動どころか信仰を維持するのさえ困難なほど息の根を止められつつある。今こそ本部教会や長男である米国教会を始めとする側からの援助が必要な時なのに、援助がなければ息の根を止められかねないのに、聞こえてくるのは、活動や維持のための資金が出なくなったから自前で何とかしなければならない、という己のことだけで、精魂尽き果てた母への慰労の言葉すら発しない。こんな組織がどうして親の愛だ四対象の愛だと口にすることができるだろうか。言った先から讒訴され身体も霊人体も腐っていく。甘えてかじり続ける方も方なら何の口出しもせず出し続ける方も問題ありすぎだ。教会はいつから摂理も愛もみ言葉も履き違えてしまったのだろうか。元二世信者に問題がある?当然問題もあるだろう。問題ある者を使って悪鬼は鉄槌を振り下ろすけれども、讒訴条件がなければ打たれる筋合いはない。

今日の想い 1211

 世界は経済覇権を誰が持つかで回っている。経済とは物の流れであり、万物主管権を持った国や組織が人類社会を動かせる。イギリスのトラス首相が三日天下ならず三月天下で野に下ったのは、既に通貨価値の低下でインフレ指向が止まらないのに、更なる通貨価値低下を引き起こす減税政策をぶち上げてしまったからだ。今や金融は世界金融であるのに、英国内事情だけを見て政策を立てても、国債市場や金融マーケットに売買で喰いこんでいるファンドや他国中央銀行、投資銀行が黙ってはいない。保持している英国債を大量売りし、持っていなくても先物売りで裁いてしまうと英国債価値はどこまでも落ち続ける。C国についても一党独裁を続けるためには、一にも二にも経済だ。*安*事件から経済政策として改革開放路線で人件費安での供給基地となりGDPの二桁成長で潤わせ民を納得させてきた。しかし先の先富思想によって低階層への富の降下を期待したが、貧富格差が年々極端になって政権の不安材となっている。今の政権政策は先富思想から共同富裕を目指し低成長路線をとってはいるが、特定の地域住民だけが富を占有する状態が急に無くなるわけではない。反コロナブロック運動も底に物の流れである経済が滞っているという大きな問題への反感がある。広がったデモを抑えきることができなければ政権はどうするか。人民の意識を外に向ける以外ないだろう。国内問題を国家間問題に挿げ替える常は歴史を見れば明らかだ。そこで懸案されるのが台中問題であり、火の粉を被らざるを得ない日本への影響だろう。教会問題で左派連中を釘付けしている間に紛争準備をしているのかどうなのか。何もしてなかったら日本は中枢も含めて完全に平和ボケであり安保条約が阿保条約となる。日本分割が摂理とならないようにするにはどうすべきだろうか。

2022年12月1日木曜日

今日の想い 1210

 GAFAを見ればわかるように、技術やシステムがこれだけ進歩していて、IT企業のトップの話や社員のミーティングを垣間見るだけでも、私達がやっていることと随分乖離していると思わされる。ビジネス用語も日に日に多様化しているし、私では意味の分からないミーティングの遣り取りも多い。ビジネスを手掛けてきた私からみても一世代も二世代も遅れを取っているようで、時代の先取りどころか万物復帰に毛の生えた時代錯誤的物品販売のまま止まっている。レストラン事業に30年以上関わってきたが、店を構えた万物復帰から抜け出せず、どれだけ手足を動かしたか、どれだけ頭を下げたかという浪花節世界のままだ。発展も進歩もせずに、もちろん売り上げも上がらずに、手足を動かし頭を下げ続けていれば摂理の一端を担っている気分で満足している。ことある毎にミーティングは持たれるけれども、上意下達で中心者がそれなりの話をして、それを聞いて受け取るだけなのに何か創造的な歩みができる気分になって満足している。ミーティングで意見を戦わすというような場面を未だかつて見たことがない。今回の反教会運動は悪いことばかりではない。ビジネスでスクラップアンドビルドが必要であるように、今の教会体制を修正して維持するよりは、いったんスクラップして摂理に沿う形で新体制をビルドすればいい。アベルが正しいというアベル権威を、アボジのみ言葉にあるように各祝福家庭に移譲すればいい。それでこそ後天時代に正しく向き合えるし、個人家庭の金銭感覚(万物感覚)も、ビジネス団体も含めて様々な摂理団体の経営感覚も変わっていくはずだ。アベルの言葉一辺倒のアベル権威のままで創造的思考が回転し始めるとは思えない。歴史を見ればすべての地上的進歩発展はカインの知恵からだった。そのことからも明らかだ。

2022年11月28日月曜日

今日の想い 1209

 昨日記したが、私は日本での路程に恨みすら覚える立場かもしれない。最初当時を思い出すだけで吐き気をもよおし、ことある毎に夢にも胸痛い状況が現れて鬱の状態で目が覚めていた。もし霊界で何度も同じ状況が繰り返されるのなら、生きて地獄死んでも地獄だろう。もし洗脳されていて気分も感情もコントロールされていたならどれほど楽だっただろう。しかし実際は反吐が出るほどの苦痛の数々だった。しかしそうなることも自分の意志だった。天国への道は地獄を通過するものだと知っていたからだ。昨日記した記憶も途中で途絶えているように、地獄の底に封印して記憶にも上らない多くの出来事がある。妻は歩みの全てをほぼ覚えていて事ある毎に不平を垂れるが、私はというと開放しているのは喜びの記憶であり平安の記憶だ。それ以外は私の魂からは削除されている。もし霊界に赴いて封印した忌み嫌う記憶の全てを開放するとなると、今の私の人格では処置できる位相や信仰的権威はなく、蕩減なのか霊的役事なのかを済ませる必要がある。それ故に未だ地上に生かされていると言ってもいいかもしれない。食口の中にも清平役事を集金摂理だと非難する者も多くいるが、私にすれば雑霊悪霊というか忌み嫌う記憶というか、 全てとは言わないが多くのコールタール化して漬け込んだ忌み嫌う記憶の数々を整理されて解放された。霊的な感覚を幾らかでも備えていれば清平の恩恵は理解できるはずだ。献金として供えるも役事として受け取るも、主体である本人次第であることは言うまでもない。後に訓母様や御家族がどうなったかどうかは、私の詮索範囲を超えていて探ること自体、供えた献金を俗物化することになり受けた恩恵に唾する行為だ。その態度は全ての中心者に対してもそうだし、御母様に対しても当然のことだ。

今日の想い 1208

降ろされたのは大きな町の外れだった。車が過ぎ去るのを確認し周囲を見渡しはしたが、最初からやる気はなくて、とにかくこの寒さを何とかしたかった。取り敢えず暖を取ろうと、飛び込みはそれからだと言い訳しながら、切り取られて渡された地図にある駅を目指して足を進めた。献身依頼3年を超えて万物復帰続きだった。さすがに疲れていた。もう自分にとって実績を出すことも、言われたとおりに真面目に飛び込むこともどうでも良かった。別に実績がないと祝福に与れない訳ではない。ある期間内に離れずにその場にいることが重要であって、歩むことの忍耐ではなく待つことの忍耐の方を自らに課した。もちろん伝道対象者としての霊の子は必要とされたが、万物復帰の期間に伝道できる訳ではない。だから私にとって何ら重要性は感じなかった。敢えていえば、やめてしまえとしきりに私という存在を否定するキャプテンの仕打ちを受け止める、そのことが祝福の為の条件だとさえ思った。そのキャプテンは大した結果を残さずに帰ってくる私に対して肉体的なものも含めて虐待三昧だった。結果を出さずに帰れば、今日も奴隷主の仕置きが待っている。次第に賑やかになる駅までの道のりを歩きながら、もはやこの道を今引き返さなければ、日が高くなっても決意して飛び込むほどの力のないことは薄々感じていた。それでも駅に向かう足は止まらなかった。飛び込みが死ぬほど嫌だった。本当に死ぬ方が楽だと思った。駅に着くと取り敢えずトイレに駆け込んでしゃがんだまま暖を取った。そのまま眠るともなく浅い眠りをしばらく取ると、既に午後3時をとっくにまわっていた。ありったけの小銭を搔き集めラーメンを食べた。そのままガラス戸越しの人の流れを意識もなく眺め続けた。そうしながらすでに現地まで帰って歩む決意もできないし、しかし実績のないまま回収されることもできなかった。しっかり回収時間を超えて夜の更けるのを待って、駅から少し離れた荒地の駐車場に赴いた。一台一台確認しながら鍵のかかっていない車をひとつ見つけると、その車の後部座席で一晩を過ごした。風は防げるものの冷え切った車内は想像以上に寒く、ひもじくて震えが止まらなくて涙が流れた。その涙だけは妙に暖かいのが切なくて、更に泣けてきた。どういう訳か私の記憶はそこまでだ。朝までそのまま休んだのか、どう連絡入れたのか、さっぱり覚えていない。おそらくそのままブロック本部に上げられて、暫く内務の手伝いをしたのだと思う。でも見切りをつけて帰郷したのは随分後のことであって、その時の話ではない。自己否定どころか人間としての自我さえも否定しなければこの道を歩めなかった。そこまでして勝ち取った祝福であり、たとえ教会が否定されたとしても誰が祝福の価値を地に堕とすとしても、私の祝福は天が認めるし必ずやその証を地に立てて見せる。普通なら自分など教会被害者の部類で青春を返せと叫ぶべきなのだろうか。被害的で悲惨であればあるほど、より祝福を重要視したし信仰を捨てるどころか益々強く持つようになったのは、内的霊的な価値が地上からみれば逆説的だからだ。

2022年11月26日土曜日

今日の想い 1207

 統一食口の本領発揮はまさにこれからだ。国から迫害されてこその信仰であり摂理の牽引者だ。今までの生温い教育期間を経て、この迫害の真っ只中で私達は光る存在になる。光を受けるのではなく光を放つ恒星になる。第四アダムとして一人一人が真の父母となるのであり、それこそが神様と御父母様の願いだ。昼に夜にアボジの食口を奮い立たせる怒号が胸に聞こえる。立て!立ち上がれと、、。おそらく多くの食口は病気かと思うほどの高鳴る胸の鼓動を最近覚えたに違いない。アボジはそうでもして天の心情に応えて欲しいという切なる想いを食口に届けたかったはずだ。天の願い(心情)と聞くと献金と伝道の数のノルマであるかのような教会の堕落体質は、図らずも国家権力によって打ちのめされる格好となってしまったが、食口達の精神復興と心情復帰が当面の摂理基台準備期間として与えられるべきだろう。日本食口は特に、日本人体質である依存根性を打破して、戴いた神様の霊を立てての自我の確立が要求される。自立性主体性あってこその摂理の進展だ。依存根性を悪用して搔き集めたものはものの見事に流れ去ってしまった。天文学的な通貨数値として流れ去ってしまった。その流れに恐れや依存の霊は乗っかっていたとしても、天の願いを立てる責任心情は供えられなかった。差し出したものに対して口出しはおろか血肉を分けて与える痛みも感情も覚えなかった。み言葉で武装すべき魂であるべきものを、恰も依存根性が喜びそうな御利益言葉に惑わされたまま喰いものにされ続けてきた。信仰とは名ばかりの御利益集団にいつしか堕落してしまった。認識もできない霊界や地獄の恐怖と、辿り着くこともない天国の高い位階を目の前にぶら下げられて、走り続けた結果を今の現実に見ている。総括して振り返ると失敗摂理の墓標だけが草も生えない荒れ地に立ち並んでいる。それぞれが正しく良心に向き合い、過去の歩みを総括してほしい。天国は心の中にあるとイエス様は言われたが、私達の心の中に本当に天国はあるだろうか。後天開闢時代だと言われながら、相変わらず恐れと依存と不安という地獄しか見いだせないのではないだろうか。霊的債務である蕩減が清算されたかどうかは良心が判断するのであり、御父母様でもないしましてや組織の長でもない。そしてこれからの摂理もどう歩むかも良心に尋ねながら歩む道だ。そう腑に落ちてこそ私たちは新たな出発ができる。日本人の誰よりも地獄の底で呻吟し続けた私達、だからこその統一食口の本領発揮はまさにこれからだ。

2022年11月16日水曜日

今日の想い 1206

 テレビをつければ、さも楽しくも幸せそうな人々で世界が溢れかえっているようなCMが、引っ切り無しに視界に飛び込んでくる。この滝のように流し続けるイメージで、視聴者一般は先ず無意識にもイメージ操作されているはずだ。もちろん報道は報道で事実と思しきものも流してはいるのだろうが、画面で切り取った事実は同じ画面で流れるドラマや映画と変わりなく、事実が事実として視聴者に受け取られてはいない。そこに戦争の現実味はない。食糧難で飢餓に苦しむ現実味はない。人権を奪われた少数民族の現実味はない。病に苦しむ現実味はない。社会や家庭問題の現実味もない。イメージ漬けのせいであたかも楽しく幸せな世界が当然で、自分の問題も含めて問題を問題として正しく向き合えない、すなわち人生に正しく向き合えず本来の人生の意義から逃げて、貴重な時間を無駄に費やしながら生きている。生きているとは名ばかりの生を生きている。教会に対する報道もワイドショーもただの見世物でしかなく、異質な存在に対する興味ばかりを煽って流しているに過ぎない。そういう感性の鈍化した社会への薬は、痛みを伴う現実の心的あるいは肉体的危機以外になく、今のままでは五感を超える精神的感性を受け取ることは難しい。その意味で天災や戦争や流行り病として、霊的権威の役事を天は既に許可している。金融危機からの財政破綻、ウクライナ戦争からの東西戦への世界化、エネルギーと食糧危機、コロナを超える流行り病、そして地震と大幅な陸地の海底化も含めて天の大々的役事が近い未来にプランされている。

今日の想い 1205

 主体相対の関係で、主体は相対にもなり相対は主体にもなる。三対象目的とはそれを言っているのであって、主体対象の関係は時と共に成長と共に変わっていくし、また変わるべきだ。神と私の関係性、親と子の関係性ももちろん変わっていくし、み言葉も河の流れが変わっていくように、み言葉の本質が変わらないためにも摂理の変化と共に、時と共に成長と共に光の当たり具合は変わっていかざるを得ない。教会との関係もそうだし、御父母様との関係も子として成長しているなら当然親子の関係性も変わってくるはずだ。良心が神にも勝るとなると、平面的に見れば人それぞれ良心を持っているのであって、そうなると方向性が異なり人類共通の神の願いを求めなくなると思う人も出てくるかもしれないが、神との関係を絶たないという根源を変えないためにもその関係性は変わっていくし、変わらざるを得ないと私自身は思う。私自身の関係性を見ても、過去には過去それぞれの時代に於ける関係性、それらを紡いだ今は今で過去のどんな時代とも異なる関係性を神との間にも、霊界や地上界にも、もちろん御父母様や教会との間にも持っている。それが生きているということだと私は思う。そして天地がひっくり返る明らかな違いは、良心との関係が他のすべての関係を対象にする主体的関係となったことだ。

2022年11月13日日曜日

今日の想い 1204

今、多くの食口にとってもっとも向き合うべきことは自信を取り戻すこと。教会に入り信仰を持ちやすい人というのは、元来自分に対して自信がなく依存しやすい人であって、真理を求めて入ってきたというのは自分への言い訳の部分が多いだろう。依存体質を変える為の信仰であるべきで、信仰を言い訳にして更なる依存へ向かうとしたらその信仰はどこまでも教条化、すなわちドグマ的にならざるを得ない。信仰の本来の意味を理解しない者はマインドコントロールや洗脳と断定してしまうけれども、依存のための信仰も信仰からの教条主義も、マインドコントロールではないにしても信仰の本来の在り方とは異なるので問い直し見つめなおす必要はある。昨晩妻とテレビを見ながら、マインドコントロールを連呼しあたかも精神患者扱いにされているようで憤慨だと言うと、妻はそういう面もあると言うから言い合いになってしまった。従わなければならない雰囲気があって逃げられるものではないと言う。別に鎖で繋がれている訳でもないのに、催眠術をかけられている訳でもないのに逃げられないとはどういうことだろう。そこには魂に染み込んで洗い落とせない依存体質がそうさせている。人間の精神としての主体性のなさ、及び欠如が日本人一般にあって、他国では考えられない依存体質故の問題が生じている。食口の依存体質がなければここまでの問題にはならなかったはずだ。その意味では食口こそアボジの心情相続を受けてその魂に主体性精神を植え付けてほしかったし、そうであって初めて天下国家を語り地上天国建設を牽引できる存在になってほしかった。アボジを自分の主人として迎えることを結論とし、親として迎えることができなかったことは日本食口として痛恨の極みだ。アボジに繋がるという意味を自分の中の依存という言葉で捉えるしかなかったという精神的怠慢は、特に責任者や牧会者は良心から問われて胸を搔きむしることになる。

2022年11月4日金曜日

今日の想い 1203

 Be yourself no matter what they say という箇所が STING が歌う English man in NY の歌詞の中にある。アメリカ、特にニューヨークは人種の坩堝と言われるほどにありとあらゆる人種が混在している街だが、どんな肌の色であろうが顔立ちであろうが、またどんな言葉を使おうが思想を持とうがお構いなしだ。マンハッタンに行けばかつての頃に比べれば衛生的にはなったが、しかしお世辞にも綺麗な街ではない。刑務所に入っていくかのように下った地下鉄の駅も暗いし、とにかく臭い。鼻を衝くほどにドブ臭い。こんな街の何処に若者を引き付ける魅力があるのだろうと思うが、人種もそうだがありとあらゆるものが混在していて宝探しにも似た高揚感をこの街に覚えるらしい。住みやすい街ではないが、この住みにくい街に住むという覚悟が住人としての強さであり誇りなのだろう。その誇りが彼等の背筋を伸ばし、信号も無視して早歩きで闊歩させる。そんなNYに比べると同じような黒い頭に同じような色合いの服で、思想思考も同じようでなければ受け付けないという日本は、自由意志に反する抑圧的力が社会に働いている。車が一台も通らない路地の信号で、誰見ていなくても黙々と待ち続ける日本人を、取り決めを護る文化人と見るか、それとも言いなりで自分で判断できない思考停止人間と見るかはまちまちだが、少なくとも当の本人に自分がどちらなのかを尋ねる意志は持っていてほしい。多くが思考停止で周りに流されるまま日々を蠢いているようで、ゾンビ映画でも見ているような不気味さが日本を覆っている。新興宗教にはまって洗脳されていると、そう指摘する側こそが実は洗脳されていると思うのだが、どうなのだろう。そう告げれば冷たく一笑するか騒ぎまくるかしてゾンビの側面を覗かせるだろうか。

2022年11月2日水曜日

今日の想い 1202

 性の関わりのない生はあり得ないのであって、その意味では性こそが生の創造だろう。一方では生命の誕生を喜び生命の尊厳を謳いながら、しかし一方で性愛の卑猥さや不浄を引きずっている。実体復帰に蓋をして当たらず触らずなのも、性愛に潜む穢れの感情を誘発させたくないからで、教会ですらひたすら隠すべくひきずっている。アボジに穢れの感情があったのか、それとも聖なる復帰儀式として何の後ろめたさもなかったのかは、アボジに原罪があったのか罪のない独生子なのかが問われる重要な点だろう。もちろん今となっては聞くこともできないが、語られた中にこういうのもあって、裸の女性が布団の中に入ってきても生殖器が微動だにしないと言われた言葉は検証に値する。それが真実であれば性欲を動じ静ずることのできる主管力を持っておられたことになる。またこんな言葉も口にされている。アボジは情愛をもって女性を見ることはない、要するにアボジは異性を意識されることはないということだ。短めのスカートでアボジの前に現れた女性に対してある責任者が強く注意したときに、アボジは貴方がそういう目で見るからだと逆にたしなめられたという逸話にあるように、アボジの性に対する感性自体が堕落している人間とは根本的に異なるのかも知れない。しかし青春時代よ早く過ぎ去れと思って過ごされたということは、性に対する感性は同じだけれどもやはり主管力の方が群を抜いているということになるのだろうか。どれほど信仰を深めようが訓読しようがアボジの境地には到達できないとしても、アボジの神様を想う心情が自己主管力を強め、自己主管力が心情をより深めた本然のアダムの魂の在り方をアボジは地上で見せてくださった。

2022年10月26日水曜日

今日の想い 1201

 時の流れに身をまかせ

もしもあなたに会えずにいたら、私はなにをしてたでしょうか。平凡だけど誰かを愛し、普通の暮らししてたでしょうか。時の流れに身をまかせ、あなたの色に染められ、一度の人生それさえ捨てることもかまわない。だからお願いそばにおいてね、今はあなたしか愛せない。

歌:テレサテン 詩:荒木とよひさ

アボジアボジと内面で呼びかけながら一軒一軒たずね歩いた。来る日も来る日も、雨の日も雪の日もたずね歩いた。断られて足が重いと、自分で顔をひっぱ叩きながら足を進めた。アボジの名が世界に轟き、すべての民が再臨のメシヤとして受け入れると、、そう信じて耐えてきた。しかし旅の終盤を迎えた今、詐欺集団だと国民誰もが指さしている。人にも理解されず、天にも見捨てられながら、自分自身に問い続ける。誰も聞く耳を持たなければ、自分自身に問い続けるしかない。良心の応えを待ち続けるしかない。良心を裏切ったとは思わない。だから良心にたずね続ける。ひたすらたずね続ける。昔は地上を重い足をかかえてたずねたけれど、今は内面世界を重い足をかかえてたずね続ける。一度の人生は捧げたつもりでも、今尋ねるべき良心は愛せているだろうか。

2022年10月24日月曜日

今日の想い 1200

 ここに二つの言葉がある。一つはチャーチルの言葉、今一つはプーチンの言葉だ。

20歳までに共産主義に傾倒しない人間は情熱が足りない。20歳を過ぎて共産主義に傾倒する人間は知恵が足りない。-チャーチル

ソ連崩壊を残念と思わない者には心がない。しかしソ連を元通りに復元したいと望む者には頭がない。ープーチン

初期に復帰された食口は原理とみ言葉に傾倒し、これこそが人類が求めていた新しい真理であり、私の人生の願いと目的はこの神のみ旨にそって歩むことだとアボジに帰依し献身生活に入った。しかしみ言葉を受けた当初の高揚は、時を重ねるに従い恋愛にも似てやがて冷め、それでも祝福に希望をもち、家庭出発に希望を持ち、さらに子供を持つことに希望を持ち、それぞれのマイルポストを先々に見ながら歩んできた。でもいつしか当初の高揚は過ぎ去って、気付いてみれば沸き起こる自分の意志からではなく、指示され自己抑圧的な条件としての歩みとなり、そしてドグマと言われる教条主義に陥ってしまう。名の知れた大学の多くの学生達が共産主義にのぼせ上がったように、私達はみ言葉に燃え上がった。共産主義に傾倒した当時の若者にしろ私達にしろ、その思想をもたらし高揚させた背後の霊的存在がいる。もちろん行動するのはそれぞれの意志だが、思想からくる高揚の感情は受動的で感情を誘発させた主体的存在の地上への役事だ。後天時代の今明らかに世界は変わった。一世代前の霊的存在から新しい霊的存在が時代を引っ張る主体として立っている。私達は先天の既に去った霊的存在の対象であろうとしても無理なのであって、後天時代の感情や理解や判断が必要だ。これからの時代を牽引するのは二世達であって、教会の今後も摂理をどう見てどう判断するかも彼等次第だ。教会絶対の固い頭は解散命令と共に過去のものとすべきだ。教会が未来永劫必要なのではなく、時代の摂理を主体的に牽引する知情意の魂としての霊的柱を神は願っている。

教会の堕落と解散を身の引き裂かれるほどに悔しく思わない食口は心情が立っていない。しかし教会の延命にしがみつくのは新たな摂理的叡智を受け取ってはいない。

2022年10月22日土曜日

今日の想い 1199

 教会が生き残れるかどうかはこの際二の次であって、先ず考えるべきは二世三世が生き残れる環境をどう用意してあげるかであり、それ以前に生き残れるかどうかだ。ある二世は信仰二世の問題を身を賭して訴えているが、信仰を維持していようがいまいが、訴えている彼等彼女等も含めて、世間の目は厳しく色眼鏡で見るだろうし、世間の感情として触れたくないとか気持ち悪いだとか口に出さないまでもそういう感情を持たれてしまう。解散を訴え署名集めをして結果良しとなったとしても、そういう社会環境は変わらないどころか益々生き辛くなるのは目に見えている。被害が教会や家族からに限っていたものが、これから世間からの被害も受けるだろう。日本社会に根付く陰険さやイジメ社会を全方位環境から味わうことになる。そういった二世問題を容易に想像できない教会や一世であること、来世だけを夢見るお花畑の群れなのか中心者の言葉をどこまでも信じる幼子なのか、こんな純粋無垢と言おうか単純な群れが騒いだ尻拭いを全部後孫に負わせることになる。一世は独善的ヤコブの知恵で将来的尻拭いのことも考えずに実績追及の高揚に浮かれた。そうやって行動してきた結果をこれから直視していかなければならない。教会さえ生き残れば何とかなるという話ではない。責任者や指導部はそのことを真摯に天に尋ねそして考え、疲れ果ててしまった日本食口の精神復興、とりわけイジメ環境を生きていけるだけの誇りを持てる二世達の精神復興が課題になる。取り合えず金集めに奔走せずともよくなった現実だけは、言いなりだった奴隷から解放されたということだ。

今日の想い 1198

 マスコミもマスコミの決め付けをそのまま受け止める国民も、既に教会に対して穿った見方しかできないようになっている。偏った耳目に対してどんな改革案を出そうが説明しようが、彼等はあら捜しにのみ没頭し、出れば出るほど生贄として扱われ悪魔の燔祭に祭り上げられるだけだ。どうして責任者や指導部は正義の仮面を被った偽りの蛇たちの本質がわからないのか、わかっていてもその戦法を取らざるを得ないのか、私には教会の出方の方がまるっきりわからない。先ずこの期に及んで会見などすべきではない。生贄の供え物としてわざわざ出向く必要は全くない。悪神は神が裁くのではなく、悪神は別の悪神との利害の取り合いで潰し合う。その意味では放って於けばいい。もし会見するのであれば、教会の罪の部分と同時に功の部分もしっかり訴えて、その上で宗教法人格を返上して事実上の解散会見とし、追及することに嬉々としているマスメディアの拳のやり場を失わさせればいい。このままリングに上がり続ければより深みを追及されるのであり、ついには御父母様に及ぶようになる。暗殺事件の真相を阻む悪神が背後で跋扈しているが、殺人も厭わない連中との諍いはマスコミを操る者との間で必ず起こる。それも遠くない時期に起こる。既に利害関係が食い違ってきている。そのように死人は死人にまかせ、悪神は悪神に任せておけばいい。しかしながら教会が本来の摂理と大きくベクトルが変わったことが今回の一連の問題の原因になっていることはその通りで、打たれるには打たれるだけの原因がある訳で、しっかりと悔い改め葬るものは葬り本来の摂理的方向に舵を取る必要はある。この結果をもたらしたのは当然指導部でありながら、その責任逃れは甚だしい。このまま追及され続け、御父母様の非難にまで及ぶとしても陰に隠れたまま息を潜めるつもりだろうか。そうなれば真に情けないの一語に尽きる。この群れは真の愛から一変して真の悲哀に終わるのだろうか。

2022年10月20日木曜日

今日の想い 1197

 日本は今30年前に逆戻りしている。基軸通貨ドルに対して150円近い円安とはそういうことだ。世界は今、経済史を見る限り歴史を遡っている。コロナ危機による莫大な通貨補填が、金融歴史の最後の打ち上げ花火としてばら撒かれたのち、来た道を引き返すかのように金利を上げマネーを回収し、金融と経済の引き締め縮小に向かっている。コロナによるマネー増刷とウクライナ戦争による資源飼料不足で、少々の金融引き締めでは世界的インフレは収まらない。資源高も物価高も度を越えていて、西欧ではこの冬を超せるかどうかという声さえ聞こえてくる。来月には米中間選挙があるので今のところ株も債権もコモディティも全下げの中、それでも躊躇下げでの様子見だが、ウクライナ戦争の出口への動き、金融引き締めの出口への動きが選挙後にあるのかどうなのかが焦点になっている。それを踏まえてロシアが経済覇権を握るべくどう動くのか、中国はどうか、戦時ではあってもそれぞれの手口を探りながら息を潜めている。戦略核使用の危険度は今最大に増しているし、台中戦争の勃発危機も同じように増している。すべては経済の覇権を握るために動いているのであり、ドル覇権からの金コモディティリンクによるロシアルーブル覇権、一帯一路構想による中国元覇権がしのぎを削っている。台湾の半導体技術や尖閣諸島を含めての領域に埋蔵する油田や資源も喉から手が出るほどに欲しているのが中国だ。東西の経済覇権の地図が塗り替えられるようになるとドルリンク通貨がハイパーインフレとなり一気に紙屑化される危険が生じる。石油産出国は既にアメリカの言うことを聞かないのであって、石油産出国家をアメリカが主管してのペトロドル覇権であれば、今のドル高が砂上の楼閣であることは見えている。アメリカ追随の日本は、日本経済を犠牲にしてでも円安を維持して、世界最大の債務国のドル債権をキープし更に買い足しながらドル基軸を支えている。しかし既に砂上の楼閣であるドル基軸をいつまで支え続けることができるだろうか。経済史が遡るとなると、いつか来た道を逆に拾っていくことになる。そうなるとアメリカの次なる大きな動きはドルの暴落か暴落を予知して打つ為替介入による極端なドル安か、要するに行きのプラザ合意からの戻りのプラザ合意2だ。

今日の想い 1196

 この世であっても、借金までして推しメンに賭け、それこそ何百万というお金をホストに入れ込む女性もいる。高額献金が洗脳された結果であるなら、そういった女性達も同じように洗脳されているだろう。ギャンブルに入れ込む者達は見返りを求めての行動だが、金銭的見返りを求めない投入は洗脳されているからだろうか。洗脳という言葉は自分が判断することが出来なくされて誰かに依存し、或いは主管されて言いなりになるという意味だと思うが、その意味では平和憲法信奉もどこまでもそれに依存する洗脳だろうし、メディア信奉も垂れ流される方向付けを自分の判断とする洗脳だろう。要するにホスト通いの女性達も、平和憲法固辞の左派系人も、メディアの報道と判断を鵜吞みにする国民も、みな洗脳を受けている。左派系がいう洗脳という言葉を使うから左派系に主管されるわけだが、唯物思想こそが洗脳する主体であって、洗脳されている唯物主義者から洗脳されていると言われるのは実に腹立たしい。唯物主義者の辞書には信仰という言葉はない。洗脳されているので内面世界の信仰という精神的言葉を理解する精神性が欠如している。だから信仰を似て非なる洗脳という言葉で理解したつもりになっている。もちろん信仰にもありとあらゆる位相があって一括りにすることはできないが、しかし如何にも一括りできて、洗脳という言葉で理解したつもりになっている。しかし所詮地上という平面世界でしか跋扈できない彼等に、霊的な立体世界に生きる人々を評価し、彼等の基準でどうこうしてしまおうとすること自体が無理なことで、彼等の所業は遠からず計算が狂ってくる。情けないのは国の中心である国会や行政府が彼等の言いなりになっていることで、彼等の計算狂いを国にまで広げてしまって、日本という国自体が詰まっているということだ。どれだけ日本が危険な状況なのか、全くわかっていない。

2022年10月15日土曜日

今日の想い 1195

 過ぎてみれば愛だったというアボジの言葉は、過ぎてみればそうなのだが、その只中ではとても愛とは思えないという意味だ。働けどはたらけどなお、我がくらし楽にならざり、ではないけれども、もういい加減疲れ果てているのに、私の平安はいつ訪れるんだ、地上天国は一体いつ為されるんだと愚痴の一つも口を突いて出てくるだろう。献身するときは、三年で天国はできると当然のように言われて年数を数えてきたけれども、今となれば騙されたということになるのだろうか。親にもそのように言って、三年だけ好きなようにやらせてくれと言って出てきたから、親こそ騙されたと思っている。何をもって地上天国の完成というのか、おそらく誰に聞いても明確には答えられないだろう。そんな誰も答えられない理想を掲げてここまで来たのであり、借金や破産までして摂理に応えようとしたのであり、確かに周囲から見れば狂った人種で不気味にさえ覚えるのかもしれない。その国民的恐れが解散命令の大合唱に繋がるのだろうか。思うに人間が地上に生まれるには宿命もあり使命もあるのであり、もし真の愛の地球村となり地上天国が完成して果たすべき摂理的使命がないのであれば、もはや人間が地上に生まれる意味があるのだろうかと思ったりする。人類が地上にいるということは、未だ地上天国完成を見ないその途上だということだろう。創造原理に正分合作用というのがある。正はわからずともあらゆる状況で右と左に分かれているのはわかる。私の立ち位置が変わる毎に必ず相反する存在が現れる。私の内外に関わらずこの世を去るまでその攻防が続く。同じように家庭、社会、国、世界に於いても常に何らかの攻防があり続いていく。様々な相反する攻防を続けてきてついに地上を去る時、過ぎてみれば愛だったと、正分合の合の結論として天に報告できる私でありたいが、これからもっと核爆弾級の攻防戦が待ち受けているのかもしれない。

今日の想い 1194

青いお空のそこふかく、海の小石のそのように、夜がくるまでしずんでる。昼のお星はめにみえぬ。見えぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ。 金子みすゞ

見えないものに対する存在を感じ取り、さらにその生命を感じ取り、そしてさらに叡智や心情や意志さえも感じとれれば、それは普通に感知できる地上の存在に対する以上に関わりを持つのであり、更には私の輪郭を突き抜けて交わり一体化できるほどに感じ取って私の中に組み入れる。私には、様々な苦労を経ながらその中で関わりあった多くの先人達や天使達が私の中に住んでいる。内的霊的勝利とはそんな彼等の叡智、心情、意志を私の部分とし、人格成長すなわち個性完成の段階を登っていくことだ。多くの善なる霊人達に相見える為には、平安や享楽の歩みではなく数々の不安と苦難の歩みでこそまみえることができる。自分と自分の状況を抜け出そうと必死になるからこそ善なる霊人達が訪ねてくる。苦労させればさせるほど霊的宝物としての霊的共助を得るのであり、その意味では恨みに思えるほどに苦労させてきたアボジは日本食口を誰よりも愛してこられたという逆説が成り立つ。そんなアボジに対する私達は、当然のこととして国上げての非難による苦労の中に歩んでいる。私達のこの状況の中で藻掻き苦しみながら、相対することのできる民族神霊を探し求めている。いつしか日本を護っていた民族神は日本人に愛想をつかして離れ去って久しい。今や日本が凌辱されても仕方のない裸のエバであることは確かだ。この日本が神日本として立つ為には日本食口の国家的蕩減が必要であり、蕩減期間を超えて授けられる民族神霊が必要だ。それは地上人の善悪思考や感情を超えて働く神の摂理であり、アボジと共にある神霊達はアボジと共に歩んだ日本食口を捨て去ることはありえない。新たな日本は日本食口が必ず建てる。

2022年10月10日月曜日

今日の想い 1193

かつてないほどの注目を浴びている。決して気分のいい注目ではないけれども、それでもこれほどの注目を浴びたことはないだろう。会見すれば何を語るのか、日本国民が固唾をのんで見守っている。腹の座った食口であるなら、今こそ摂理を知る者として伝えるべき言葉を叫ばせてくれと思うはずだ。ここまで印象を悪くしたのであれば、或いはメディアによって印象操作されたのであれば、少々の改革案を出したところで言い訳としか受け取らないだろうし、解散命令以外このカルト宗教団体に突きつけるものはないという感情的結論を既に出していればなおさらだ。であれば今この時こそ決死の覚悟で、要するに解散覚悟で、平和ボケした日本国民の前で、善人面しながらイジメて潰すことしか考えていないハイエナメディアの前で、み言葉に流れる犠牲精神の何たるかを、そしてそのように行動してきた事実を誇らしく叫べばいい。教会や食口が犠牲になろうとも、それでも平和ボケでイジメることでしか自己認識できなくなった国民に、かつてない国家存亡の危機へ目を向けることを訴えればいい。一億の献金どころか国家の為なら生命も賭す覚悟を訴えればいい。もし数人だけでも神霊を受け取る視聴者がいるなら、その叫びが彼等の魂に届き真の愛のシードとして受け取り目覚めるはずだ。犠牲を供えずに愛を叫んでも、それは真の愛ではない。真の愛でなければ改心させる力はない。形而的言葉を失い精神性を捨て去った日本民族は、民族の誇りも意味も知らない唯物主義者の集団でしかない。打てども響かず、叫べども応えずの群れかも知れないが、それでも死生決断で訴えれば天は聞いてくださるはずだ。しかし責任者の中に未だ気概を備えた者が数人でもいるのだろうか、、。

2022年10月8日土曜日

今日の想い 1192

 特派員協会に於ける元祝福二世の会見を見た。おそらく彼女の悲痛な叫びは記者達にもスクリーンの向こう側の視聴者達にも届いたはずだ。論理ではなく感情に訴える、そこに作為的な意図は感じられなかったので尚更届きやすい。それに比較して形だけの謝罪で始まった教会の会見がなんと白々しく見えたことか。教会側の間違いは此の期に及んで未だに原理的と言われる善悪基準、善悪振り分け意識の囲いを取らないままメディアに対し臨んでいることだ。聞かれることに論理的返答を得たいが為の質問だと捉えているが、答える相手は人間であって感情が先立っているのであって、ただの憤りなのかそれとももし義憤であるにしてもその感情に寄り添い納得させる返答が要求されている。しかし悲しいかなどんな説明や解決策であっても感情に寄り添えない限り彼等は納得しない。納得しないどころかより憤りの感情を燃え上がらせてしまう。私が見る限り会見した彼女には死を乗り越えた覚悟が備わっている。生死を超えて覚悟した者がどれだけ強いかは、み言葉を知る者であればわかりそうなものだが、会見中途で送られた教会側のコメントが全く場違いなものであるように、これで教会側には心情主義のみ言葉が中心的柱ではないことが露見したことになる。教会や現役食口は彼女の会見をサタン的な行動として善悪振り分け意識で裁くのだろうか。私はどうかというと、神様は彼女に教会以上に寄り添っていると信じている。それは彼女の方がより犠牲的でありより覚悟が強いからだ。少なくとも教会の責任者よりは天の心情が立っている。反教会であるとしても神霊の多くは彼女と共に居ざるを得ない。論理や立場は愛の権威を認めさせるカードではあっても、土台に愛の犠牲的精神がなければカードを使えば逆効果で権威だけをひけらかす悪神となる。教会は今悪神を演じている。しかし教会の責任者達はその認識がない。今は教会を否定してでも愛の権威を立てるべき時であるのに、霊的に目耳が塞がっているのかその認識がない。

2022年10月3日月曜日

今日の想い 1191

教会は苦労の百科事典だと言われたアボジの言葉を、最大に具現化してきたのが日本食口だろう。身も心も、なけなしの万物まで全てを捧げ続けた結果が、生活に困り果てるほどの現状であっても、それでも離れずに付いてきた。そこまで差し出しても栄光の喝采を得るでもなくましてや援助があるでもなく、更に追い打ちをかけるように事件からの教会批判に晒され、カルトとまで言われれば信仰に捧げた人生そのものを否定されたに等しい。追剥ぎに着ている服まで奪われ、更に心まで奪われてしまって空っぽの内面まで抱えているということか。アボジに帰依して、ただ願われた摂理路程にのみ忙しく、わき目も振らず季節も知らず時間を駆けてここまできたが、事件という躓き石に阻まれて初めて立ち止まり、立ち止まってみると初めて周囲の状況が見渡せるのであり、相対的にみて極めて独善的な、地に足がついておらない私達だと無理にではあるが認識させられている。それでも私達は地上天国という竜宮城に向かって歩み続けていると信じていた。すでに竜宮城に辿り着いて天国生活を謳歌した訳でもない。理想を遠くに捉えるでもなく、道中で強制的に玉手箱を目の前に置かれ、そして世間の圧力で蓋を開けてしまい白煙を浴びた。摂理に歩んだ過去の歩みの全てを、全国民の非難の怒号として浴びると一瞬で否定され、老い先短い力ない老体だけが世間の目に晒されている。今私達は全日本食口まとめて総括の時を迎えている。総括とは先天時代の歩みの否定肯定含めて清算であり、先天の私の死だ。しかし死は霊を知らない者達の観念であって、事実は新たな生への昇華だ。ありとあらゆる中傷罵倒を浴びながら私達は死、いや昇華を迎えて、後天に生きる新たな生の誕生を経験する。霊的に見るなら私達は二度目の生を生きようとしている。自己否定し、霊肉の父母からも否定され、更に国からも否定された全否定の死の位置から、新たに生まれて全肯定の立場で復活人生を生きる。

2022年9月29日木曜日

今日の想い 1190

青春を犠牲にしてきた。 貯蓄も年金もないなら人生そのものを犠牲にしてきた。更に子供が批判的であれ肯定的であれ、それすらも犠牲にしているのかもしれない。犠牲という言葉を何の見返りもなく奪われることだと理解するなら、悲惨な人生だろう。しかし犠牲は被害を受ける受動的立場ではなく、自らが自らの意志で引き受ける能動的立場の言葉だ。周りから見れば被害者にしか見えない私達は、私達の周りの者達こそ天情を受け取れない被害者であって彼等を救う為に犠牲を供えて来た、与えて来たという認識だ。周りがどう判断しようが私達は既に喜びの圏内にいる。どれほど貧しかろうがどれだけ批難されようが、そんな地上の事柄は学ぶ為であって、確かに地上には地上の感情があって当然左右されもするが、天には天の感情があって私達はそれを心情と呼んでいるが、その心情こそが地上の感情を凌駕している。貧しければこそ真の富や宝の意味を知り、奪われればこそ与える意味を知り、そして批難されればこそ理解し理解されることの意味を知る。生まれながらに富者であればそのありがたみはわからない。わからないと言う意味はその意味を知らずに霊界に向かうということだ。富そのものではなく富の意味を知り、与えることの意味を知り、理解することの意味を知る、すなわち自覚したそれぞれの意味は肉体を脱いでも霊界に携えていける。今回多くの批判を受けた。あることないこと様々な批判を受けた。批判を受けて多くを学ぶことができた。中には寄り添い理解を示そうとする人もいて、それがどれほど有り難いか。私達は確かに原理原理といいながら理屈で押し通そうとしたし、疲れて離れた食口を蔑ろにしてきた面もある。自分のことで一杯で食口間ですら寄り添うことなどなかったはずだ。これからも教会は非を認めることはないだろう。そうするしかないからだ。会見の場で被害者への謝罪の言葉がひとつもないと声を荒げた記者もいたが、御父母様の願いに応えて来たのに何の謝罪の必要があるのかと思うだろう。しかしそれでも、食口一人一人としては理屈を抜きにして謝罪する謙虚さを備えるべきだろう。失うものが多いとしても、謙虚さという愛の権威を末端から先ず立てるべきだろう。原理の教会以前に愛の教会だと信じるならばの話だが、、。

2022年9月27日火曜日

今日の想い 1189

 先ずマスコミを通して教会と御父母様に対する穿った見方が植え付けられれば、御言葉を受ける器は用意されないし、より深く探って知れば知るほどに、食口の畏敬の感情とは正反対の忌み嫌い受け付けない感情を覚えてしまうだろう。最も尊い性のはずが、堕落人間が性に対して覚える戸惑いや品性に悖る不愉快を覚えるように、私達の信じる本質も彼等に取ってみれば避けたい不快の感情を伴うものでしかないはずだ。この事実を取って見てもマスコミが犯した人類に対する罪は真に大きく、歴史を通して復帰してきた莫大な犠牲の条件も、この終末期にアボジの摂理観で先導されて捧げて来た食口達の犠牲も、全てを闇の中に葬り去ろうとする意志をマスコミ報道に見ている。マスコミに携わる者達の何と哀れなことか。自分一代の人生で悟れればまだしも、己一代の罪を後孫何代も費やして蕩減することになるのが原理だ。「彼等をお許しください。彼等は何も知らないのです」と天に仲裁してくださるアボジは既に天上の住人であって、誰が彼等を許す権威をもっているだろうか。食口を被害者扱いにして、救う正義を掲げ悦になっているようだが、それは御父母様を悉く貶めようとする魂胆であり、日本の影の罪の部分の開放の為に心身も万物も捧げ続けたその恩恵の上に胡坐をかいていた自分達だということも知らずに、教会イジメの黒祭りに踊り呆けている始末だ。確かに再臨論もアボジの反日思考も日本にすれば気持ちのいいものではない。全く事実に反していると詰め寄ることもできる。しかし村社会(イジメ社会)であり、声の大きい者に追随してしまう日本人の情けなさは精神をもった人格を疑うほどだ。この国民は精神の自由を詠う以前に精神性自体を感じない。今回、少なくとも食口の面々は日本人の位階の低さをまざまざと突きつけられた。

2022年9月23日金曜日

今日の想い 1188

 御母様は、これだけ情報が漏れ出て、公にはしてこなかった(古参のメンバーはほぼ知っているようだが、、)アボジの過去の見せたくない事実が明るみに出ることの食口への影響、公的機関への影響を心配されたのだろう。それで決意されたのが独生女によるアボジの尻尾切りだということ。御母様御自身が切りたいと思われたと言うことは、アボジの行動を摂理的に理解しておられない、あるいは許せないということだと思う。確かに独生女として罪のない血統に立ち、アボジは堕落の血統だとすることで、アボジが堕落圏から相対のエバを探して立てられたとの御言葉を逆にすることで食口達の信仰の維持、公的機関存続の維持を図られた。要するに独生女信仰はアボジとオモニの位置を逆にしてアボジの過去の尻尾切りをする御言葉逆宣言をされたということだ。私とすればアボジの過去が暴かれようとも、重婚や6マリアや御落胤等々を初めとする事実をもってアボジを判断することもないし、その使命や霊的位相を否定するつもりもない。多くを語られたアボジの内的霊的印象や、御言葉に流れる心情や真実性からして私の良心は完全屈服している。勿論社会的道徳的人間である以上、引く思いもあるにはあるがそんなこの世的感情を立ててアボジに向かおうとは思わない。おそらく多くの古参食口はそうだとは思うが、揺れ動く二世や若いメンバーのこと、歴史に残っていくことを思えばこその御母様の決断だろう。それはそれで敬意を表するし御母様の言動には問題があると言うつもりもない。しかし霊的に未熟で見通せない私にすれば、アボジの尻尾切り方針と、教会の何とか商法や献金強要の過去の尻尾切り方針がリンクしているようで、何とか合わせてワープできる抜け道はないものだろうかと無い知恵を絞りたくなる。摂理に限らず何をするにしても功罪併せ持って前進するしかないのであれば、唯一つ時間こそが解決するのかも知れない。

2022年9月21日水曜日

今日の想い 1187

 教会のどこが間違いで、日本食口の何が問題だったのかと問うだろう。しかし間違いと思ってなければ間違いではないし、問題だと思っていなければ何の問題もない。世間やマスコミがどう喚き立てようが我が道を行き関知せずだ。信仰とはそういうものだろう。食口の中には、私達の在り様、或いはメンタリティーとして自分の中には何の答えもないから、常にアベルであれ誰かに教えてもらわなければ正しい道はわからないし、だから教会にも所属し繋がりを持っていなければ御心に適う私にはなれないと思っている。自分の中に答えがなければ当然教会の間違いを判断もできなければ、イエスマンである自分を不思議とも思わない。そういう信仰観であればそれ以上進言することはない。献金要求の大きさに表面では辟易しながら、しかし辟易も含めて苦労する自分に信仰実感を覚え、御父母様との繋がりを感じている。よって献金ノルマ等の指示がなくなれば逆に信仰的に不安になる。世間ではそれをマゾヒスト的と呼ぶが、日本食口にしてみればそれこそがみ旨であり信仰人生の実感だ。私はそれを食口の独善だとは思っているが、そんな話をすると多くの兄弟姉妹は感情的になり聞く耳を持たない。そんな食口ばかりではないが、彼らにしてみればアボジに代わって指示を与えノルマを授ける信仰対象の実体がどうしても必要であり、御母様はその役目をアボジに代わり買って出て下さった。しかしいつまでも教会が必要な一人一人である必要はなく、教会卒業し御母様から自立し、良心の願う新たな道を標榜する食口がいて当然だ。そして自立したとしても御父母様を否定する訳では当然ない。今回のような、御母様の言葉に従う者達にとってはサタン的とも思われる外的批難と締め付けも、新たな次元に立って欲しいと願われる神霊的背後の許可があってこそだと私は思うのだが、多くの食口は否定的だろう。

今日の想い 1186

 日本食口はどうして生活もままならないほどに重い献金を押し付けられて来たのか。日本は歴史的蕩減が重いから、日本食口は日本を代表して韓国を支え、世界摂理を支える必要がある? だから日本食口は献金要求に応える責任がある? 実は日本の中心者だけがそう言い訳しそうしたいだけであり、また末端信者は末端信者でボロボロになりながら中心者が言うことを鵜呑みにするだけだ。エバが取って食べるように言ったからそうしました、と同じように中心者がそうしろと言うからそうしましたと馬鹿の一つ覚えのように言っているに過ぎない。今回はこういう摂理、次はこういう摂理と矢継ぎ早に要求のされるままに何十年も送金し続けて、中心者はその都度投入した経過や結果を尋ねたことがあるのだろうか。見返りを求めず只同然に差し出してそれなりの結果がでることは先ずない。見返りを求めないのが愛だが、万物を只同然に差し出せば消えて当然であって、万物主管とはそういうものだ。中央銀行ではないので輪転機でその都度刷れる訳もなく、耐えきれない重荷を末端信者に背負わすことになる。その痛みが実績として実るのであれば言い訳にもなるだろうが、博打打ちのように偉い先生方が殆ど擦って終わりが実情だ。「でもアボジが要求されるから」、、勿論要求される。何故なら要求するだけ出すからだ。出すのを止めれば要求されない。アボジの顔色を窺うことに汲々としてきたのが中心者だ。しかしそれは仕える姿勢でもなければ信仰でもない。否定されることへの恐れがそうさせてきただけだ。オレオレ詐欺は日本が最も多い。ほぼ日本だけの問題といってもいいくらいだ。それは日本人が要求すれば出そうとするからだ。後々に何か起こりそうな不安と恐怖から逃れたいがため、金を出したら解決するという安易な方法に飛びつくからだ。だから同じように日本食口も日本の中心者も要求されれば出そうとする。先回差し出した投資に対する経過や結果も聞かずに、、。受け取り方、そして差し出し方の万物主管をないがしろにすれば当然しっぺ返しを喰らう。愛による万物主管とは到底言えない。

2022年9月18日日曜日

今日の想い 1185

メディアという情報権力にどう対処していくのだろう。政治的圧力をかけるにも良好な関係をいくらか保っていた自民党でさえこの体たらくだし、司法への提訴を考えるとしても兎に角時間がかかり何年という年月を必要とする。メディアに対してはメディアというのが最も効果的だとは思うが、主要テレビ局はどこも横並びでイジメに終始し、180度スタンスを変えた立場の情報を流すところなどどこにもない。教会側から少々の抗議文を送ろうが、カエルの面にしょんべんで、短い回答文にもならない回答文を差し出して教会を舐め腐っている。外的世界観に立てばそんな愚痴しか出てこないが、しかし食口がアボジの霊を戴いたのであれば、この現実を霊的に捉えてこそ意味をなす。先ずこの批難の嵐こそが食口にとってのノアの洪水だと思うべきだろう。ノアの洪水は大気中の大量の水分が40日40夜雨となって地上に降り注ぎ、結果大気中の水分が大幅に減って太陽と青い空が見え虹がかかった。この事件は暗い夜と明るい昼がはっきりしたということでもあり、霊界と地上界がはっきり分かれたということでもあった。ではこの40日40夜の批難の嵐が食口にとってどういう意味があるのか。今回の件でおそらく教会が指示していた活動は止めざるを得ないか、大幅に縮小されるはずだ。本来先天時代が終わるときにそれまでの先天的信仰観は総括して後天時代を迎えるべきだったが、放せない既得権もあって惰性的に維持されて来たので、今回こそ外的要因によってではあるけれども全食口が総括する機会が持てた。批難の雨風に晒されながらそれでも残るものが何なのか。教条的枷が流されることで今まで見たくても見れなかった後天時代の太陽を拝むことになる。それは良心という霊的太陽だ。そう、アボジの御言葉の最終結論ともいえる良心宣言だ。心と体を持つ私という箱舟の、良心という羅針盤を中心とすれば、私が歩む摂理の方向性を間違えることはない。

2022年9月12日月曜日

今日の想い 1184

食口達の危うさは、御言葉全体の本質を捉えようとせずに、断片を継ぎ合わせることで信仰的といわれるイメージを植え付け、あるいは植え付けられ、それを本質だと盲信していることだ。今回の問題が浮上したことでその弊害を食口全体の中に見ている。一つは今回の問題の影響力の大きさに対して皆があまりにも楽観的だということ。ここまでの問題であるにもかかわらず、皆の中に信仰の在り様への反省や総括も当然ないし国を挙げて批判の対象にされていることへの危機感も欠如している。自殺まで考えた食口もいたと言うことだったが、そこまで思い詰めるほどの危機感を持っている食口が果たしてどれくらいいるだろうか。何故なら信仰が強いからそうなのではなく余りにも素直で、言葉を変えれば余りにも稚拙で、食口が共有している信仰的イメージというお花畑に魂は留まったまま現実の危機意識は希薄だ。まさしく恐れを知らない子供の群れだ。日本の国民が見事にメディアの教会に対するイメージ付けに簡単に嵌ってしまっているように、食口は共有している信仰的在り様というイメージ付けに嵌っている。教条を順守していれば神様が導いて下さるという風にイメージ誘導されている。本来、教会の取り決めを守るだけで人格が完成されるのでもなければ、神様が導いて下さるわけでもないのに、難解な御言葉より教条が分かり易いし恐怖と平安の感情と直接結び付いているので教条を守ることだけに意識は集中される。要するに食口は教条主義にある原理圏なので安心だという魂の御利益信仰に陥っている。そして今一つは御言葉信仰を持たない世間、非原理圏に対して差ほど関心はなく、国家的意識、社会的意識に欠けている。かつては共産主義の脅威に晒される危機意識があってその為の具体的活動もしていて救国救世の意識に貫かれていたが、そういう教育はされているかも知れないが具体的活動は献金ノルマ対策と祝福ノルマ対策であり、そこに救国救世の活動や公的意識はない。日本に住みながら日本国の恩恵を受けているという実感がない。もちろん世界摂理は大切だ。しかし自分の立ち位置である国を蔑ろにして到底世界復帰など為せるものではない。

2022年9月7日水曜日

今日の想い 1183

摂理は既に二世以降の手に渡されている。一世が歩んだ結果世界を良くも悪くも引き継ぎながら、あるいは好む好まざるに関わらず引き継ぎながら、宿命的歩みとして前進していく。あまりにも負の遺産を背負わされて大変だと誰もが思うかも知れないが、日本が歩む道も世界が歩む道も大きな分岐点に差し掛かっていることは間違いなく、これからの激動期を日本人誰一人として避けられないのであれば、そうなると内的霊的に訓練を受けてきた者が俄然強いし力も発揮する。日本に関しては分断されるかそれを好まないなら改革するかの二択しかない。しかしメディアがここまで日本人を洗脳してしまった以上改革するにも時間的余裕があるのかどうか、、。日本食口は今こそ救国救世という国家摂理に、意識も思考も行動も重心を移していくべきだ。貧国となった我が国から差し出せる献金もないし、ここまで反家庭連合の嵐が吹き荒れて伝道もないだろう。一世は国のために生きて死ぬ姿勢を二世に見せるしか彼等に残せるものは何もない。しかしその生き様こそ二世への最大のプレゼントであり重要な相続案件だ。確かにアボジが改革して教会を無くそうとされたが、長く続いた組織体制も個人の信仰にもそれなりの吹き溜まりの部分が生じて難しかった。要するに政治でいう既得権であり組織と個人の持ちつ持たれつの関係が改革を阻止してきた。今回の外部からの力はサタン的と言えばそうなのかも知れないが、神も許可を与えなければサタンというかカインのカイン圏も我々を打つことはできないのであり、しかし日本食口への縛りである献金と伝道から解放されたのは確かだ。そしてこの縛りからの解放が救国救世に向かえば摂理には大きな益となるはずだ。日本食口が日本を愛する魂を取り戻し、救国に生きれば日本は必ず変わる。

今日の想い 1182

 人間は知情意の魂の存在だが、意志としての行動は知である論理と情である感情の授受作用で行動を起こす。論理が先か感情が先か、論理と感情のどちらが主体でとちらが対象かはそれぞれの背後に流れる霊の位階によって決められるが、一般の人間は生活重視なので快不快を伴う感情が大体主体に立っている。感情が主体に立っている人間にどれほど論理で正そうとしても、先ず自分の感情ありきの(感情主体の)論理だから理詰めで説得しようとしてもほぼ無駄骨でしかない。今の日本の悲劇は、メディアによって彼等の向かわせたい方向に視聴者の感情を誘導することができることだ。日本は法治国家ではなく情治国家だと誰かが言っていたが、全くその通りだ。それは教会内でも言えることであって、中心者の向かわせたい方向に食口の感情を誘導してきたのであり、洗脳という言葉はエキセントリックないい方だが当たらずども遠からずだ。天情に徹すると言うのは個人的感情に対していう言葉だと思うが、天情の理解など到底できないので、アボジからアベルである中心を通して伝えられる指示に従う事で天情に従うものと誘導されてきたしそう信じ込んでいた。そしてそれは先天時代でアボジが陣頭指揮を取られている間はそれは正しいものとされ良しとされていた。そしてアボジを頂点にしてアボジの指示に従う信仰のピラミッド体制がアボジを真の父母たらしめた。御母様が私がいなければアボジはメシアとして立てないと仰ったのは或る意味正しくて、同じ意味で真の父母は私達祝福家庭がいなければ立てなかった。アボジが天情を理解していたか、すなわち神様と同じ想いだったのか、それを証明するには恐らく1000年を要するだろう。勿論私達は信じているがしかし全人類にとっては仮定に過ぎず、天の心情を相続したであろう祝福家庭を歴史を通して繋ぎながら、後孫後輩達の魂に働きかける協助による意志の発動で証していくことになる。一世は自分がそう決めて歩んだ道であって運命的な歩みだったが、二世以降は既に一世の歩みの影響を受けざるを得ない宿命的な歩みとなる。運命とは前から来る選択可能な矢であるが、宿命は選べない背後から突き刺さる矢のことを言う。摂理の道、路程に於いてはアボジは宿命的であり一世は運命的だが、二世は自ずと宿命的にならざるを得ないからアボジの歩みと深いところでリンクしている。

2022年9月4日日曜日

今日の想い 1181

自分の人生を生きた一世は何の文句もないだろう。自分で選んだ道であり、自分の意志で心身も万物も捧げたのであり、そして全てをこの道にかけたのだから教会をどうこう言う筋合いは毛頭ない。しかし二世となると話は違う。一世にしてみれば御言葉にあるように家庭がどれほど重要であるかはわかっている。だから子供に対して、愛するが故に価値あると確信するものを当然教えて来たし、お前は好きなように生きなさいとはどうしても言えない。しかし二世にしてみれば、食べたくもないのを食べさせる親のように信仰教育も子に良かれと信じて押し付けるのは親の独善としかとらない。親の想いが強くて切実であればあるほど、子は追いつめられる。多くの祝福家庭はどこも大体同じような状況で、我が家庭も親子関係は修羅場を何度も見てきた。親ガチャという言葉を実感を込めて受け取る子供達とは異なるのかも知れないが、貧しかったりイジメにあったりという親ガチャ部分に加えて、それ以上に親の想いが重荷になったに違いない。家庭の深刻な状況も年を経るにしたがって一応表面的には収まる。と言うか内面を開かせようと向かい合えば傷つけあうだけなので、せめて拳の届かない程度に距離を置く。そんな位置で思いを巡らせてみれば、愛と一言でいうけれども愛の本質はどうにも計り知れないし、ますます愛がわからなくなる暗闇の底にいるという実感だけだ。明らかになったことは、私が愛と認識していた愛のイメージは悉く砕け散ったこと。その私が二世の為にどうのこうのと講釈することができるだろうか。只の一つの言葉すら持ち合わせていない。今の私は二世教育に対しては全く下を向いて項垂れるしかない。あるいは敢えて御言葉と信仰的感情を遠ざけて、物分かりのいい一人の友として子との距離を縮めていくか、、。

2022年9月3日土曜日

今日の想い 1180

 日本の教会は宗教法人格を返納して解散すればいい。メディアはあることないこと好き放題言い、恰好のイジメ対象として祭り上げているが、問題はそれ以上に食口の中に反旗を掲げ反論する意志が見当たらないことだ。そして本部からも頑張れとは口にして韓国ではデモという形で応援もしているが、メディアに対して圧力をかける具体的な働きかけが起こされる訳でもない。すでに教会時代は終わったと話されたのであり、教会から家庭連合になったのは本来そういう意味であって、名前だけ挿げ替えて宗教法人を延命することではなかったはずだ。いつまでも半永久的に貢いでいて果たしてそれが母の国と言えるのかどうか、韓国は韓国で日本に対してはいちゃもんばかりで、日本を相対だとは全く見ていない。日本は母の国ではなく聞こえの良い母の位置を名ばかりに与えながら実質奴隷だし愛人の位置にもないだろう。皆に理解して欲しいことは、兎に角アボジの言いなりで良かった先天時代は終焉したのであり、さらにアボジ御自身も聖和されたということ。この摂理的現実の意味をしっかりと良心を通して尋ねて捉えて欲しい。御母様に対してアボジに向かっていた同じ帰依、同じ態度を取っても、所詮アボジのようにはいかないし無理があるということ。祝福家庭の全てがアボジの遺言中の遺言である良心宣言、良心は親に勝り師に勝り神様にも勝るというこの最終結論を蔑ろにしないで欲しい。アボジの聖和をもって、実体御言葉として外面に見ていた神様は御言葉訓読しながら私の内面に見出すという、地軸転換、両極転換の天宙史的事件が起こった事実を実感できないとすれば御言葉もアボジも霊界も霊的意味も理解してはいない。

今日の想い 1179

 食口ははっきりと自分にも周りにも断言する必要がある。自分の国は日本なのか韓国なのかそれとも他の国のどこなのか。もっとはっきり言えば、この国の為に死ねるのか或いは主の国韓国の為なら死ねるのか。アボジは韓国人だから、世界をどうこう言うまえに先ず韓国の為に生きたのであり韓国の為に日本を何とかしようとしたのであって、だからアボジの言われたままに従うのであれば日本を捨てて韓国の為に生きてきたということではないのか。私は御言葉は霊的なものとして捉えているので表現された言葉を逆説的に見る。或る面アボジは日本を悪く言い日本食口を殊更にプッシュし続けたのは、反動的な動きとして自分の国をより強く愛する方向に向かわせようとしたのだと思っている。もし韓国人であるアボジが日本食口に甘ければ韓国人が良く思わないし従うはずもない。そして日本人は罪人だ何だと言いながら多くの万物を引き出した。言動と行動そのものを見れば、日本にしてみれば悪鬼の頭そのものだし事実そうだ。日本の食口は言われるままに拠出しながら、ある時点でハタと気付かなければならなかった。アボジの鬼の追及は何の意味があるのか、日本食口をプッシュしながら日本の為だと言われるその真意は、日本からの献金が投入されながら湯水のように使われ流される現実をどう捉えるのか、など深く天に問い尋ねる意志、そしてアボジにぶつける意志をもったことがあるだろうか。実際はそれを無視してきた訳だが、それを問わずに続けてきたことは逃げであり惰性であり無責任だ。結果、アボジを悪鬼の頭として日本中が認識し公開処刑されている。日本の誰もメシアとは信じないだろうし真の父母の顔につばしている。こうなることを誰一人予測していなかったのだろうか。であれば日本食口は余程のポンコツだ。「日本の食口は苦労してきたよ。」この言葉を感動で受けとめて更なる奴隷的働きに邁進するのか、あるいは苦労を認めて下さるなら母の国として意見の一つも言わせて下さいと懐に入っていくのか、、。勿論聞く耳持たずケンモホロロなのかも知れないが、奴隷的立場を去りたいのであれば届けるかどうかは万物を拠出している側に権限があることも事実だ。ヤコブの知恵をいうならこういう場でこそ使うべきであったと、私は溜息をつきながら思っている。使う側の責任と同じように出す側の責任も問われて当然で、その責任をアボジに擦り付けようとしているのが私達今の日本食口だ。

2022年9月1日木曜日

今日の想い 1178

 安倍元首相の暗殺、からのマスコミによる度を超えた教会イジメ、更に教会と何らかの関係を持った政治家達へのこじつけ糾弾、国葬反対のデモ、この一連の流れの背後にそうさせる何らかの意志が存在することは先ず間違いない。この一連の出来事で最も喜ぶ大国があり、そのスパイが間接的陽動作戦として関わっているはずだ。しかし兎に角謝っておけばというスタンスの自民党にも歯がゆい思いはあるが、それにも増して苛立たしいのは教会の指導者責任者の態度だ。分派に対してはあれほど感情激しく立ち振る舞いながら、しかしメディアに対しては立ち上がるどころか背を丸めて息を潜めている。政治家にも教会指導者にも背後に存在している闇を感知できる者はいないのだろうか。それとも恐れ怖気づいて関わりを持ちたくないのだろうか。一抹の希望はやがての攻勢に打って出るための共同作戦であって欲しいが、そんな気配は感じられない。おそらく隣の大国は、日本の世論がかくも簡単に操られ思いのままになることを確信したに違いない。日本は武器を用いての戦闘なくして十分勝てると、、。教会がアボジの千里眼を相続しているのなら、もはや左派に対して戦意を失っている日本だと分かった以上、少なくとも食口だけでも海外移動させる手配を早々に計画する必要性を知っているはずだが果たしてどうだろう。アボジの示された摂理を継承する為には共にあって訓練もし内外の相続もしてきた食口を救っておかない手はないはずだ。確かにこれまで失敗の連続であったとしても、それでもアボジに取っては腐っても鯛の存在だ。腐っても祝福家庭であり腐っても第四次アダムの群れだ。おそらく叩かれ続けて信仰の炎も消えかかっている状態なのかも知れないが、生きて働かれる神様を遠からず見ることになるだろう。しかしその神様は摂理を進められる神様であって、地獄から天国へのエスカレーターを用意してくれる御利益神様ではない。身を挺して、地獄行きを決意して戦う意志のない者は、神様は一瞥だにされない。

2022年8月30日火曜日

今日の想い 1177

 これほどのバッシングの嵐に襲われながら、私達が危惧すべきことは何だろう。それは教会の弱体化でも、それぞれの信仰が折れそうなことでも、世間の怪訝な視線の中で生き辛くなったことでもなく、そんなことは既に織り込み済みだったはずで、本質的なこと、すなわち神霊によって与えられた私の真の霊が立たないこと、言葉を変えれば良心がへし折られることこそ危惧すべき最大の案件だ。神の摂理に従うこととイメージしていた理想世界を夢見ることとは全く異なる。叩かれるだけ叩かれ、奇異な視線に晒され、イメージしていた真の愛の世界の理想を奪われるこの現実こそ摂理の只中の現実だ。神の摂理は救いの摂理でもあるが、救いの概念を変えなければならないほど摂理は厳しくて当然なのであって、厳しい試練の連続こそ摂理の只中にあることの証しだと捉えて間違いない。できもしない中心の要求に頷き続けていれば自分の中の霊が立ち、霊が育つと思ってきたのだろうか。だから一言の意見も出さず中途半端に中心の要求を受けながら、その結果がカルト呼ばわりされ反日の烙印を押される今の現実を引き寄せたと言われれば返す言葉もないだろう。日本が日教組の左翼思想教育によって平和ボケ民族に成り下がったように、教会は責任者指導者の無責任指導によって自分の考え意見すらない、ただ要求だけに反応する機械人間を作り上げた。良心という中心を否定した絶対服従は機械人間そのものだ。マスコミは信条、信教の自由を蔑ろにしているのはその通りだとしても、数人の知識人がマスコミに対して異を唱えてはいても、私達食口の中から立ち上がり意見する思考も持ち合わせないしその意志すらない。立派に摂理を説き壇上から教えていた先輩責任者や講師はどこで何をしているのか。鶏が三度鳴く前に否定することを恐れてかマスコミに意見するどころか何処かに隠れて存在の影すら消したままだ。この不甲斐ない責任者を戴いて身も心も捧げてきた食口達の恨みは彼等に確実に襲い掛かるだろう。霊を弄び燃え上がらせた火の粉は自分に降りかかるように、食口それぞれが霊の存在であり御言葉の一部を切り取って望まない行動をけし掛け、限界まで自己否定して絞り取った彼等の霊的胆汁はマスコミが燃え上がらせる炎より何倍も恐ろしい。

2022年8月25日木曜日

今日の想い 1176

 今の日本にはマスコミの横暴に対して立ち向かえる何の力も持ち合わせないのだろうか。彼等の思うままに視聴者の印象操作ができてしまう今の状態は、日本という国体をも否定しかねない。既にどれだけの国益を損なわせ害してきたかということだが、国家形態をも崩しかねない現状は、体細胞を毒化しながら浸食し続ける癌そのもので、既に末期症状を見るに至っている。自民党も教会との関係を否定的に捉えて逃げている時点で、私達の良き友ではなかったことが明らかになった。保守派の好意的に思えた論客達も、反共であるはずの教会の金が海外に流れていることは親日の立場からすれば解せない。一体どういうこと?と気分は良くないはずだ。それでも是々非々で信教の自由に立ち入ることは否定しているが決して私達の良き友とはならない。共産主義の目的が世界共産化であるように、それに私達が対抗する神様を親とした人類一家族化だが、摂理を示しておられたアボジが聖和されて教会は事実上分裂状態で、私達を中心とした摂理はあらぬ方向に向いてしまった。そうなると神霊界の摂理要求はより次元を上げた私達の主管外から、思いもよらない摂理として地上現実に反映される。今私達は或る意味口をポカンと開けながら、神霊界の闘いが為されるがままを見ている。よくもわるくも、私達は今のところ中心的摂理からは外されて、清算しながら次なる用いられる機会を待っている。ヤコブの知恵だと言い訳しながらこの世に振り回した独善的剣を、今逆の責められる立場で何だかんだ理由付けされながら憎悪を押し付けられている。信仰基台を立て実体基台としてのヤコブの知恵と称する反社会的活動は、この国が村社会であり続ける限り受け入れがたく、私達の流れとしては海外大移動しながら次なる機会を待つしかないだろう。再度戻ってくるとしてアボジが予見された日本の五分割化が為されて後、流浪の後のイスラエル国のように神日本国としての立ち上げ時に帰ってくる。私の内面に届く神霊のイメージは取り敢えずその流れだが、それが必然だとは決して思わない。今なお最前線で母の国の中心的位置で戦われておられる方達もおられるからだ。

2022年8月20日土曜日

今日の想い 1175

 今の日本は、教会を非難し弾圧しているような余裕はない。世界の様々な視点からの状況を把握すれば、抜け穴のない洞穴に追い込まれようとされていて、このまま行けば日本壊滅の崖っぷちまで追い込まれる可能性もある。食料逼迫による飢餓、エネルギー資源の暴騰、核保有三国による侵略危機、その上に更に金融緩和の結果の膨大な借金、そして地震噴火津波の天災まで案ずるとまさに日本壊滅状態に陥りつつある。教会に籍を置いていた者が言える立場ではないと言われても、このままどの問題の二つでも対策を取らずにいるなら日本は、というか日本民族は本当に太平洋の藻屑と消え去る。左傾化したマスコミ、教員、政治家達の横行で日本は見事に平和ボケ病が蔓延し侵略者達の好きなようにできる裸のエバ状態となった。おそらく日本国の為に生命を賭す覚悟を持ち合わせる日本人は数えるしかいないだろう。しかし原理に基づいた勝共思想の教育を受け心酔した者達はこの平和ボケのウイルスには罹っていないと信じる。勝共のメンバーであれば一人残らず国の為に生命を賭すに於いて吝かではないはずだ。その意味で私達は普通の日本人とは全く異なっている。平和ボケ病に罹っている普通の日本人なら、所詮他の者を振り落としても助かりたい者、逃げ惑う者、命乞いをする者、自国より他国に寄り添う者でしかない。私達の中には傾きかけた国を再び建てる精神的柱を持っている。もし最悪日本が侵略の憂き目にあうとしても、その時こそ私達の立ち位置は日本人から見上げられるほどに光り輝く本領発揮の存在になることは既に約束されている。二世も面目を取り戻せば、改めて親の生きてきた価値観に目をむけるはずだ。

今日の想い 1174

 打たれるには打たれる理由がある。打つ理由が正しいかどうかは立場によって異なるので、口を開いたところで言い訳にしかならない。ではどうするか。打たれるときは左の頬を差し出してでも打たれることに没頭する。しかし責めるチャンスは必ず来る。そのチャンスを逃さないために下手に反撃に手を出すべきではない。それがどんな状況で舞い降りるのかはわからないが、今の日本の状況を見れば大体の推察はできる。2000年前、イエス様とその群れは今の教会と同じように反社会的団体だった。イエス様自身が神殿内で暴行を働いたという聖書の記述からしても、決して品行方正な団体ではなかったことが伺える。イエス様もそしてアボジも、当時の社会に合わせていればとは思うのは凡人だからだと言われればそうで、摂理的に切羽詰まった天の理由があると理解するのが食口のあるべき思考には違いない。だから過去をどうこう言っても仕方がない。打つことを許さざるを得なかった天であるなら、しっかりと甘受し受け止めて、必ず与えられる責める機会をしっかり捉えることだ。

2022年8月16日火曜日

今日の想い 1173

 人それぞれで、もちろん食口もそれぞれで、なのにメディアのフィルターが入ると十把一絡げで、食口全てが洗脳された人、危ない人、常軌を逸した人という括りにされてしまう。確かにメディアに対する教会の対処も的を得たものだとは言えなくて、責任者の中にもっと利口な者はいないのか歯がゆい思いはある。多くの二世が摂理が理解できず、この世の御利益的、或いは生きる上での支えという観点でしか宗教を捉えられず、教会もその内の一つと捉えるのは理解できるが、一世の摂理観の欠如ですら甚だしく、その内的問題が表面的には世間から非難を浴びる形で溢れ出したということだと思う。言われている問題は、本人が納得し本人の意志でやっているのであれば額の大小は関係ないし何の違法性もないと思うが、マインドコントロールされているという決め付けで言いなりになっている、と言うのがメディアの立ち位置なのだろう。しかしメディアはここまで横並びで教会批判一辺倒なのは、世論をそこに釘付けしておきたい理由があるのは少し考えればわかることだ。元首相暗殺の真実に目を向けさせない、中国ミサイルが着弾しても対中国への目を向けさせない、マスメディアは中国の思惑にしっかり嵌って鴨葱状態だ。本当に日本のメディアなのかと疑いを持ってしまう。教会も確かにおかしいが、目を向けるべきは日本が壊滅するかも知れない状況にこそ先ず目を向けるべきで、なのに日本はこの期に及んで茹でガエル状態で何の危機感も抱かず、教会叩きに興奮し遊び呆けている。あまりにもボケている。ボケている以上に腐っている。

2022年8月14日日曜日

今日の想い 1172

一度は経済大国となり脚光を浴びながらも、未だに村社会日本のままで社会的な成長や発展のなかったことは認めざるを得ないだろう。村八分の社会では、内面信条の自由や個々の人権はというと言葉だけはチヤホヤされるけれども、その本質を受け取り精神性の柱に加えることはしない。多分に声の大きい者、しつこくてうるさい者、多数を取り込める者たちの意見に寄り添うことでしか自分という存在を認識できず、自分の中に意見と意志があり外に発するという、謂わば自らが意識の光を放つ恒星存在とはならないしなれない。教会を悪者と決めつけて横並びでイジメ続けるメディアがそうであり、また教会内部で上からの指示や意見に一言の疑問も挟まないでまるまる請け負う食口もまた同じ穴の狢だ。要する教条的に雁字搦めの愛の欠如した祝福家庭でありながらも、愛に溢れた家庭の価値を詠う御言葉を信じているという、この矛盾を何とも思っていない。今回の件で表面的には収縮せざるを得ないだろう。宗教団体としての利権を完全に剥奪されないにしても、今までと同じように韓国を支え、アメリカを支える道はほぼほぼ閉ざされたと思っていい。日本が本当に母の国たらんとするなら、経済で支えることが相手の為になることなのかどうか、そんなのは言わずと知れていることだが、如何せん止め処もなくし続けた実情がある。母の国ではなく、要求され脅されれば出し続ける只のたかりのためのATMでしかなかったということだ。本当の祝福家庭の道はここからだ。第四次アダム心情圏時代を先駆的に歩む、第四アダムとしての祝福家庭の出発だ。誰が第四アダムかと、それを子女様の中に探そうとする時点で御言葉の本質からはずれている。御言葉を切り貼りできると思って、箇所個所を勝手に取り上げるからそうなってしまう。第四アダムは心情相続し意識覚醒した祝福家庭で間違いない。

今日の想い 1171

 会長の二度目の記者会見を見た感想。心痛お察し申し上げる、、といったところだろうか。おそらく睡眠もほぼ取ってはおられないだろう。それでも言えるギリギリのところまで話され触れられたのではないかとは思う。敢えて言えば、理解を得ようと論理をいくら述べたとしても、マスコミは好き嫌いによる決め付けが先ずあって、そして感情を盛って垂れ流しているのであって、その低次元の感情を超える、謂わば心情を全面に出して訴えれば世間を我々に振り向かせるインパクトだけは発せられたと思う。勿論じゃお前がやればという話になるだろうが、自分にできないことは分かり切っていて、その上での話だ。所詮いじめられる間は頬を差し出してでもいじめられることに没頭するしかない。日本社会は日本社会という村社会であり、どれほど反論すべき事柄に責められる側が満ちていたとしてもその道義に合わせるしかない。打たれて奪えと言うのがアボジのいう原則なら、統一食口として敢えて打たれる時は打たれることに徹すればいい。以前打たれたとき、期間を超えることで爆発的に会員が増えた。だから今回もそうなると思っているのであれば、そんな単純な話ではないと一言申し述べたい。しかし打たれることの意味を内的霊的に問うなら、今回の弾圧の背後にある神の願い、神の意志を洞察することができるはずだ。先回のように唯会員が増えるというような御駄賃ではなく、食口の意識覚醒こそ願われており、またそのように意志として働いていると私は確信している。

2022年8月5日金曜日

今日の想い 1170

 教会は既に異端審判を突き付けられた。この原因を外に見ようとしても言い訳でしかない。誰が見ても原因は内側にある。食口の不信と不安が蓄積され、度を超えて溢れ出した結果だろう。不信といっても、何を言われ何を要求されても受け入れるというのが絶対信仰だと思っている食口が多いが、無理難題をそれはおかしいと意見を述べるのは不信でも反抗でもなく、当然の一体化のやり取りだ。そこを封印されて上から一方的な押し付けが罷り通る時点で社会の道理と逆行している。実は御言葉の道理としてもおかしい状態なのに修正が働かない。修正しようとすれば機会はいくらでもあったはずだが、外側からの圧力を受けるというここに至るまで何もできなかった。御言葉に精通しているはずの牧会者や講師、そして諸先生方の悔い改めと共に、各食口の良心を取り戻す主体的意識が必要だろう。悔い改めるべきは中心者、責任者の責任逃れだ。それぞれがその良心に尋ねてみればいい。上からの指示に対して道理が合わない、無理難題だと思いながらも、その思いを無視してそのまま上意下達、更に目標に対してプッシュし続けた。絶対信仰だ、絶対服従だというけれども、実はそれは言い訳で上に対して意見する覚悟がなく良心を無視したに過ぎない。しかし悪神の背中には善神がついてくる。この際しっかり打たれて清算すべきは全てして、新しく建て直せばいい。勝共がなかったらとっくの昔に日本は赤化されていた。私達が日本の危機を救ってきた。その誇りは持って当然だし、そう理解している政治家や文化人も少なからずいる。私達は一皮むけて、そして内面も刷新されて新生祝福家庭の群れになる。日本にとっても世界にとっても、勿論神様にとっても、無くてはならない存在が我々だ。

2022年8月3日水曜日

今日の想い 1169

 日本のメディアは異端審判と魔女狩りに暴走していて止む気配はない。決意して帰国したはいいが、まさかここまで日本の精神が凋落していたとは思わなかった。先の暗殺事件が外的な端を発しているのはその通りだが、教会をいじめるだけいじめ、息の根を止めるまで批判がエスカレートしているのは、明らかに背後の力が働いている。しかしそこまで深堀して見通す日本人は極めて少ないだろう。大多数はいじめる側といじめられる側とを悪趣味で野次馬的に観覧しているに過ぎない。そうなると今の日本には和を尊しとする日本人はいないということだ。大和魂と日本精神を備えていないかぎり、それは日本人とは言えない。食口の多くも同じように顔だけは日本人風ではあるが日本人とは言えない。日本人としての内的霊的柱が立っていなければ、結果的に日本を国として形作っている輪郭線は曖昧で既に消えかかっているのであり、遠からず国は崩壊するか溶解するしかない。それが他国からの圧力であれ、自然災害であれ、また内紛であれ状況の違いはあっても同じことで、内的霊的柱が倒れてしまうことがその原因だ。日本はその長い歴史から多くの教訓を得て、多大な叡智が働く民族ではあったが、奇しくも歴史からその精神性を抜いてしまい空しい抜け殻の年代と事柄だけを教育してきたのは誰のせいなのか。可笑しな日本語とも言えない日本語が跋扈して、日本人としての誇りを覚えなければ日本人である意味はなく、内的に彷徨うだけの只の生きる流浪の民と化している。ウクライナ戦争を期に、守りのない裸の日本であることに気付いたのかも知れないが、それ以前に、守るべき日本人としての本懐を失っているのであれば一体何を守ろうというのだろう。

2022年7月27日水曜日

今日の想い 1168

D.S.と言われる金融マフィアは、元々エホバ神を頂に戴く神霊集団が主体としてあって、それを経済的に保護する対象としての石工集団がその源流だ。要するにアベルカインの関係だ。私達は真の神を頂点に戴く神霊集団であって、神の摂理を地上で実体的に展開しようとする群れではあるが、もし摂理に殉ずる意志が無くなるなら神様は私達から去って行かざるを得ない。かつてはイスラエル民族が摂理を担ってきたが、イエス様を中心とするクリスチャンに交代し、そして真の父母を中心とする成約の群れが交代したわけだが、後天時代に入って旧約新約成約を超えた第四次アダム心情圏時代の第四アダムとして摂理を担っていく立場にある。この世が何を言い烏合の衆がどう喚こうが私達の中心、すなわち天の心情を相続した良心にとっては何の揺らぎもないはずだ。天に対してしっかりと垂直に固定されている。しかしそれはあくまで内的霊的なことであって、悪霊悪鬼が跋扈する地上の難度海を航海する為には蛇のように狡猾にふるまい大波を超えていく必要がある。今日まで歴史を超えて地上を牛耳ってきたD.S.がどれほど知恵に長け狡猾であるか、私達は彼らの何倍もの知恵を働かせ狡猾であるべきだ。御題目でみ旨だ摂理だと叫び続けても異様な目で見られるだけで摂理は進まない。そうではなくしっかりと地上の覇権を握る必要がある。マフィア関連の何某かの事件が起きるとして、マスメディアが彼等の首根っこを振り回すほどに攻撃するだろうか。メディアも普通の人間であって生命の危険や害が及ぶのは怖い。だから等閑な当たらずとも触れずのスタンスを取るのは目に見えている。要するに私達は何もしてこないだろうと彼等に舐められているからこの始末だ。私達はヤクザとは違うと思っているかも知れないが、実は血の杯を交わしアボジ主管の女性を戴いて夫婦の契りを交わしているという、ヤクザ以上のヤクザだという認識くらい食口として持つべきだ。かつて暴力的共産主義団体が幅を利かしていた頃、多くの食口は生命を賭してでもと言う想いはあったはずだ。その魂で腹の一つ二つも掻っ切り、指の何本か送ればメディアの連中もその恐怖と気持ち悪さで大人しくなるはずだ。要は私達の決死の覚悟だ。あの白熊ヤクザの決意と覚悟に我々はどうして劣ってしまうのか。メディアで言われている過去の活動がどうなのかと言うより、私達の摂理を担う気概、天を想う心情の欠如が、言われ放題やられ放題の現状に表れている。

今日の想い 1167 (教会問題も同じ村社会からくる独善性が原因)

 今回の件では教会だけがターゲットではない。食口は勿論のこと、二世であろうが元食口であろうが親戚であろうが、また議員であれ誰であれ少しでも関係があれば批難の対象として見られるということだ。坊主にくけりゃ袈裟まで、というのが日本のいじめ社会だ。そうであるのに二世だとか元食口が、マスコミに声をかけられるままにコメントを出しているのはどういうことだろう。反教会であれば仲間だとでも思っているのだろうか。そんな単純な思考判断で底深い陰険ないじめ感情を理解はできないだろう。実は日本のいじめ社会と、日本の新興宗教と言われる団体の独善性は、共通する同じ原因として奥深くで繫がっている。個としての自我が立っていないという原因が根底にあって周りに合わせていじめるのであり、周りに合わせて独善的になっていく。原理用語を使うなら縦的に見ることをせずに横的に回りだけを見ている。日本の教会がこんなになったのは日本だからであり、他の国の教会ではあり得ない。要するに今の日本に神宿る霊として育ち、そして立つ土壌は未だに耕されてはいない。少しでも育とうものなら端から芽を摘まれてしまうのが現状だ。真摯に神を尋ね、霊界と地上界の在り様を研究し、そして霊の育成に向かい合うには、御言葉は最適で最高のプレゼントだったはずだ。教会は数値だけの献金よりも数字だけの伝道よりも、内的霊的教育機関としての役割を果たすべきだった。しかし日本の土壌に巣くう村意識という闇の風呂敷の化け物に覆われたまま、それを突き破って天を視野の向こうに掴む精神は挫かれてしまった。日本のこの化け物こそが敵であり、日本が未だに独り立ちできないのもそのせいだ。日本人も、日本の食口も、この化け物が全く霊視できないらしい。

2022年7月22日金曜日

今日の想い 1166

 食口達にとって教会が何を言いどう行動するかも大切なのかも知れないが、大激震が外的地震ではなく内的な地震として起こっているわけで、御母様の言葉こそが全食口には必要だろう。すぐにでも口を開かれると思って待ってはいたが、依然音沙汰はない。御母様に絶対的帰依を信条としている食口であれば、尚更待ち焦がれているに違いないし、そのことを知ってもおられるはずだが、黙しておられる。こうなるとそれぞれが自らに問い自らで考え、主体的能動的行動を取るしかないと言うことになる。救援摂理を担う神霊からすれば、摂理進展に寄与しない群れは外されて当然だろうし、ある意味アボジの「教会時代は終わった」という御言葉は外的圧力からではあっても取り敢えず成就したことになる。食口がこれからの摂理を担う位置に立つかどうかは帰依のベクトルを良心に向かわせることができるかどうかであり、その方向転換、即ち霊的な磁極転換できる自我を備えることができるかどうかにかかっている。そして霊的な磁極転換が地上の磁極転換に耐えうる人類としてサバイブする。この、今直面している試練を乗り越えてこそ真の父母の勝利圏を相続した者として天が認知するはずだ。食口の希望は外にあるのではなく、内面世界、更には霊的世界にあるのであり、その原因世界で掴んだもので外的世界を牽引していく。アボジが残した御言葉は豊穣の海だ。ただ外的に字面を追うのではなく内的な意味での訓読でこそ、豊穣の海に至る河の流れ、御言葉の流れを私の内外に用意できる。

2022年7月21日木曜日

今日の想い 1165  (村社会日本)

 日本のいじめ社会ここに至れり、という感じだろうか。教会の独善性も確かに度を越えているが、日本の教会叩きも度を越えている。日本がいじめ社会であることは、村八分であることと関係していて、要するに秩序や掟に従わない村人は他の村人全員が申し合わせてのけものにしていく。マスメディアの教会叩きは本来この事件の真実を見ようとする意志を否定してまで、以前から気に入らなかった教会と関係があることにだけ焦点を充てて感情剥き出しにいじめまくっているだけだ。真実が何かは依然無視したままだ。報道はどちらかに肩入れや貶めをすることで報道本来の役目は果たされず、感情のはけ口でしかなくなる。この事件の真実に近づこうとする意志が少しでもあるなら、もっと光を充てるべき事柄はあるはずだ。以前に記したように後ろから打ったはずなのにどうして前の首元に銃痕があったのか、司法解剖の結果はどうだったのか、銃弾は何故公開されないのか、どこからも狙われやすい位置に立たされたのは何故か、等もっと見るべき事柄はたくさんあるのに、犯人と思しき人間の動機背景、それも教会が全て背景にあると断定して報道している。日本に帰国して、やはり日本は変わっていないと溜息をつく次第だ。教会どころか宗教そのものを危険なものとしてレッテルを貼り、恰も無神論、無宗教こそが正しいと言わんばかりの風潮は他国他民族から見て奇異なのだが、奇異を通り越して信教の自由を侵される危険がそこにある。一方では社会が国を挙げて特定の団体をいじめるのは善としながら、その一方でいじめ社会は無くそうという笑えない矛盾がこの国には当たり前のように存在している。

2022年7月15日金曜日

今日の想い 1164

 摂理を先頭に立って担うべき立場であったことは言うに及ばない。しかしそうでありながら脇が甘いどころか裸同然の組織だった。敵も多く作ってきたし狙われどころが多すぎた。自分すらも守れないのにどうして摂理を担うことができるだろうか。そして今の混沌とした世界情勢の中で、安倍元首相も敵は多かったはずだ。関わった側からの言葉として声を大にできるとは思わないが、敵の多い教会と敵の多い安倍元首相を関わらせて仕留めようとする或る意図があっても不思議ではない。あんな簡素な、銃とも呼べないもので、生命の危険に及ぶ一発が放たれ、嘘のように命中し悪神の業が見事に働くとは未だに信じられない。そんな疑問を抱く者が数えるしかいないことはわかっているが、コロナ報道、ウクライナ報道と見てきて、マスメディアは真実とは程遠いことだけは確信できた。この事件にも陰謀が関わっているのでは、という疑問が私の中にあることは否めない。余りにもイメージの悪い教会を関与させれば、行動に若干の疑問はあったとしても教会叩きに目一杯舵を取れる。メディアの教会叩きに国民の目を釘付けにしている間に他の関与があるのではという疑問は消し去られ忘れられる。もしそうであったとしても、否そうであるなら尚更、摂理度外視の教会体質を悔い改めるべきだろう。皮肉にも、多くの食口を破産させ生活苦に追い遣り、祝福家庭としての誇りも失うほどに絞り出してきた金は、アベノミクス、コロナ給付金支援金、更には円売り加速の日銀金融介入で、円の色もなくなるほどにジャブジャブに薄められている。

今日の想い 1163

 赤子は大泣きしながら眠りにつく。どうにもひと騒ぎしないと眠りにつけない。目覚めと眠りの間には深い溝があり、意識と無意識の狭間に横たわる。しかし意識から見ると底知れぬ闇の深みに入っていくのであり、意識の執着が赤子をひと騒ぎさせてしまう。意識は見えない自我のこの世の在り様であって、でも自我の食物は無意識圏である霊界に訪ねなければ補給できない。意識でこの世を経験し、経験による果実を引き換えにあの世で自我の食物を得る。成長し大人になってくると、この深い溝を容易に渡り、そして容易に引き返す。しかし寝苦しくも眠れないことも多々ある。魂を揺るがすほどの経験をその日にするとそうなる。この世に慣れていない赤子のように、魂の度量を超える経験は、重すぎて深い溝の下り上りを背負って超えられない。数日を超えて眠れない日々を費やすこともある。この世の経験が心地よいものとは限らない。家を建てるのに隠れている強固な土台が大切であるように、魂を打たれ強くする切なく悲しい経験、痛くも苦しい経験もまた、自分の霊界という私の家を立派に用意するために大切だ。打たれる時には抗わず自分を苦しみに晒すしかない。この悲しみが友だ、この苦しみが友だと言い聞かせながら晒すしかない。アボジがどれほど日本の食口を苦労させてきたか、御自身がもっとも解っておられたはずだ。それが正しいかどうかが地上の判断だろうけれども、しかし神の判断、天宙的判断、霊界の判断はこの世的に正しいかどうかではなく、創造歴史以来流れて来た神の心情に応えられるのかどうかだろう。しかしだからと言って私達の今までの歩みを正当化すべきではない。私には私の意見がある。アボジに一言の提言もできないほど、日本食口は子女の位置にも立てず卑屈だったのか。別の言葉に言い換えると万物に劣るほど罪が大きかったのか。教会が異常に万物を捧げる要求を始めた時点で、社会の許容を超える問題が起こることは容易に想像できたはずだ。こんなになるとは思わなかった、とは言わせない。どんな底辺の食口であっても解っていたはずだ。結局追及される迫力に押されるまま、その時その時さえ良ければと、誰も本気で摂理への責任、霊的生命への責任を負った者はいなかったと言うことだ。少なくとも現時点に於ける結果はそうだ。子女の位置に立てず、万物に劣るなら、今回の結果は当然だし差ほど痛みも覚えないだろう。これが原理的にどういう意味があるのかと、そんな事しか考えないし心の傷も負わないのだろう。母の国なぞ聞いて呆れる。

2022年7月13日水曜日

今日の想い 1162

 会見を見てしまった。見ないでおけるものならそうしたかった。冷たい会見だった。板挟みの状態で、感情を見せないように見せないように、押し殺した苦痛を隠そうとすれば冷たい会見にならざるを得なかった。そしてその冷たさを全食口は同じようにひきずりながら、対社会に応対していかなければならない。元首相の喪中が始まったように、私達の中に息衝いていたものも喪中期間が始まった。全ての言動、行動が差し控えられ、外からの物言わぬ圧力で強制的に総括を余儀なくされる。本来なら内面から総括されて主体的に刷新を図るべきものを、強制総括されることになる。食口は生きて死を経験する。喜びの昇華ではなく、地獄の死を経験する。日本食口が、さらに日本人が、死を通過し乗り越えることで主体性自我を復帰する。そうして初めて新しい次元で生きる。三日間の暗闇がその通り三日なのか、それとも三年なのか、はたまた三段階なのかわからないが、暗闇という死を通過するのは避けられない。コロナを通過し、ウクライナ戦争を通過し、人間は通過しているうちに慣れてしまう。人間という現金な存在は良くも悪くも慣れてしまう存在で、暗闇の中にあっても慣れてしまうだろう。だから国民総批難を被弾している今の痛みこそが大切で、痛みから逃げずにそのままに甘受しながら、蕩減期間を経ることで、私に語り掛ける良心存在、地獄の悲鳴の中から芽を出す新しい希望を必ず見出すことができる。それがないのであれば、神と神霊は存在しないと言うことになる。

2022年7月12日火曜日

今日の想い 1161

 皆自分のやりたいことを先ずやればいいと思う。一人の人間として生まれて来たなら先ず一人の自分として生きること、自分のやりたいことがあるならそこに情熱を注ぎ込めばいい。個人として成長途中でありながらも、枷を嵌めることに汲々として、それが人格完成に向かうとはとても思えない。踏み外さないこと?自分も何もわからないから自分にも子供にも枷を嵌めようと一生懸命だった。独善的でありガチガチの教条主義だった。おそらく食口の大多数はそうだろう。でも枷を嵌められて生きる存在が人間ではない。人間性とは個々の自由が担保されているから出てくる言葉であって、枷を嵌めることを良しとすれば誰かの言葉による奴隷でしかない。人間性から発せられる発展性、創造性は枷に嵌められていれば奪われたままだ。御言葉は何をもって絶対か、その字面でもないしその解釈でもない。御言葉は受け取る側の器が小さいにも関わらず、そのまま受け取ってしまえば独善的であって危険だ。先ず御言葉をあらゆる面から疑うことから出発し、それでも否定できない本質が炙り出され、そしてその本質は大概のところ霊的意味合いに収まる。社会には様々な問題がある。例えば親が子を殺し子が親を殺す。この問題を知ったかぶって原理で解釈し理解したつもりでいる。親の愛、神様の愛がわからずサタン的自己中心がそうさせると、、。単純過ぎないだろうか。そしてそう教えられて本当に解決するだろうか。結局は取り決めで雁字搦めにして更に蓋をして表面的に繕う。しかしそれは実のところ何の解決にもなってはいない。御言葉の本質と共鳴している各個人の本質である良心でしか解決はないはずだ。そして良心が個を直接主管するまでに力を得るには、何代も経ながら難度海を通過しなければならないだろう。私は聖霊体験でこの道に入ったのであって、御言葉で感動した経験はない。しかしアボジの最終結論である良心宣言は身が震えるほどに感動した。そして静かな感動は今の今まで続いている。

2022年7月11日月曜日

今日の想い 1160

 いよいよ大混乱時代に突入する。教会の上っ面だけを綺麗にすることに翻弄してきたのだろうが、もはやそんな他人の目を気にする余裕もないほど、食口も国家も人類も、大波の中で生き延びることを余儀なくされる。財政は破綻し日本経済はとことん叩かれ砕けるだろうし、当然世界も国の体を崩さねばならないほど大波に浚われる。先ずこの夏を過ぎたあたりから円安インフレ、資源高インフレ、食料不足インフレが三つどもえで日本を襲う。既に世界の財政不安国では破綻問題が起きているが、先進国と認識されている国々であっても資源食料を輸入に頼っている場合が多く、更なるインフレと供給不足で立ち行かなくなる。既に世界は実体経済を超えて金融経済金融世界という欲望の化け物に支配されて久しい。この化け物退治が為されれば影響下にある全ての社会は世界一括制裁となる。市場という市場は存在意義を一瞬で失う。しかし人類はその中にあっても生き延びていかなければならない。最悪、自足時給を覚悟すれば、とはなるが、私の妻を含め医療保護を受けなければ生き延びることもままならない者も多くいて、そう簡単に括れる話ではない。生きたいと思っても与えられ生かされている生命であり、いつ召されるかもわからず宿命に任せるしかないという人間の本分をわきまえ、諦めではなくより高次元への供犠(アセンション)を喜びとする宇宙意識、天宙意識の私を用意する必要がある。その意味で御言葉の本質を捉えた食口こそ天が必要としているのだが、それだけの意識を備えた者、準備された者が一体何人いるだろうか。

2022年7月10日日曜日

今日の想い 1159

 有り得ない、起きてはならないことが起こった、との言い方は日本特有の言い方に違いない。世界は何でも起こり得るというスタンスが当然であり、事実何でも起こってきたので、国家統治にはあらゆる仮定を想定して危機管理がなされる。アメリカ社会が銃社会であるのは、各市民の自由の権利を保障するなら権利侵害に抗うという危機管理も自らが請け負うのを保証するためであり、従って銃の保持も当然としてあるという考えからだ。自由と平和が何らかの抵抗武力で守られるのは当然であって、日本に非武装を容認する言論が存在しているのは他国からすれば不思議極まりない。奇しくも危機が身近に迫る中でやっと自衛力戦闘力の見直しが図られる現状があり、国民意識に訴える口火を切られたのが安倍元首相だった。今回の犠牲を決して無にせず日本の意識(特に危機意識)の大転換をもたらすものとなるべきだ。これで目覚めなければ更なる犠牲が供されることになるかも知れない。マスコミは犯人と教会との関連を大きく報じるだろうし、更なる注目と批難が向けられるのは当然甘受しなけれならない。本来は救国に立ち日本の平和ボケ、国難に対する危機意識の欠如を憂い、教会も摂理本来の命を受けて訴える活動にこそ専念すべきを、摂理を無視した上部の要求に応える手段のみがいつのまにか目的化してしまった。本来の使命を全うできないのであれば、何某かの形で関与することになるのだろうが、それが悪鬼として反面教師的に関わってしまうという愚かさを露呈してしまった。名前をすげ変えただけの団体はこの際解散すべきだろう。教会時代は先天が後天に代わった時点で既に終わっている。

2022年7月7日木曜日

今日の想い 1158

 初対面でありながら、私の差し出す手を嫌がることもなく、しかし幾分躊躇を覗かせながら受け入れた。表情こそぎこちないものの、視線だけは私から離すことはしなかった。その最初の出会いから一週間余り、何の準備もなく彼女との生活が始まることになる。長旅の疲れからか、翌朝彼女が目覚めたのは9時を回っていた。見慣れぬ部屋を物音も立てずに抜け出し、私と妻がいるリビングの入り口で立ち止まっていた。視線を落として朝刊に目を通している二人だったが、入り口で立ち止まっているのを最初に目にしたのは妻だった。泣くでもなく声を発するでもなく、右手で頭をかきながら結構な長い間その場に佇んでいた。彼女なりに状況を把握しようと試みたのだろう。しかし覚悟を決めたのか、肩を上下させて大きく一息すると私と妻が座っているソファーにおそるおそる近づいて来た。そして妻が手を差し出すと、そのまま手の内にゆっくりと抱き寄せられた。初日は全てに於いて素直だった。抗う様子を見せるでもなく、かと言って必要以上に愛想を振りまくでもなく、淡々と言われるまま従った。オムツ替えと着替え、朝ごはんとミルク、そうやって落ち着きを見せると、片付けた布団に上ったり下りたりと一人遊びを始めた。親の不在でも泣き叫ぶこともないし、物を投げたり暴れることもなかった。一歳にしては落ち着いたものだと感心もしたが、幾分慣れた次の日からは主張もするようになったしけたけたと笑うようにもなった。嫌われる想定でいたものだから、素直に抱っこさせてくれるだけで愛おしい。祖父としての私の感情は、抱きかかえて小さな重みと伝わり来る体熱を受け取った時点でマックスになった。孫は可愛いと誰もがいうが、この手に抱いてみると、ただの可愛いでは言い表せない感情が一気に押し寄せた。見る物全てに関心を持ち、手にする物一つ一つを持ってきて私に手渡す。段差を上がったり下りたり、大きなスリッパの片方を小さな足に引っ掛けて歩いたり、そんな他愛もないことが面白いらしく、その都度振り向いて体を揺らして喜びを表す。遊び疲れて愚図ついて来たので抱っこしてミルクを与えた。哺乳瓶を吸いながら腕の中で寝息を立て始めた。私は上体を幾らか倒し、彼女をうつ伏せにさせた。その温かみを胸の上に感じながら、この平安が永遠に続けばいいと思った。この子の為だけに生活を翻弄される一週間を過ごし、そして明日は出ていくと言うその前日、この子が離れていくと思うと居たたまれなくて、感情を制御できない自分に戸惑った。決められた形での祝福に拘り、少なからずプッシュした時期もあった。お互いに好きだという感情だけで一緒になっても長続きしないものだと説教もしてみた。手を上げたこともあるし落胆したことも多々あったが、こうして孫を見せに帰りこの手に抱かせてくれたことで全ては帳消しになった。帳消しになるどころか誰よりも親孝行者だと思った。私は本当に幸せ者だと思い、親なる神様に感謝した。

今日の想い 1157

 人類にもし堕落事件が起こらなかったら、と考えてみたことがあるだろうか。先ずそんな大仰なことから始めるのではなく、自分のことで言うと、もし妻が一生を左右するような病を患うことなく家庭生活を送れていたら、と考える。そうであれば、その時与えられている聖業に没頭し続けただろうし、自分で主体的に将来的な方向性を立てることはなかったはずだ。献身とは心身共の帰依であり、そこには自分の想いも自分の考えも自分起点の行動もない。現在も続けている献身者がそうであるように、与えられた立場や環境が全てであって、そこから逸脱することは帰依を裏切る、すなわち信仰を捨てることに繋がる。よって献身者には主体性という言葉はない。全てが与えられた受動的なものであり能動的に手にすることはない。私のこれまでを振り返って思うことは、献身するまでの歩みと献身してからと、更には自我を取り戻してからとはそれぞれその景色や色合いが全く異なっていることがわかった。献身するまでは地を這うだけで人生の色合いなぞ感じたこともなかった。しかし信仰を持ち献身してからは、限られた範囲であるけれども翼を与えられて立体的な人生の輪郭が読み取れたし光と影も読み取れた。しかし妻が病に侵され、これからの人生設計を自分が立てる必要性を覚えると、それまで全てを帰依していて備えなかった自我を取り戻し、人生の枷が取り払われ、自由度が増すと同時に立体的輪郭のみならずそこに色合いをも覚えるようになった。それは与えられた翼ではなく、自らが翼を用意しなければ見えない景色があるということだ。おそらく他の食口も、献身状況から何らかの障害を経ることで全帰依から自我を取り戻す過程で、見える景色が異なったという者も多くいると思う。人類の堕落事件を個人的事件から見るのは無理があるとは思うが、おそらく神様は堕落事件を経て、神様自身の在り様はそれまでとは大きく変わったはずだ。もう少し加えると事件後の復帰路程の様々な段階を経て、その段階毎に味わい学んだことで開かれた世界は、今の人類全体の人生観死生観神観に表れている。堕落は神様にとって忌まわしい事件だったかも知れないが、それがあって今の神様がおられる。通過すれば全ては愛であったとアボジが話されるように、堕落事件があり失った愛を復帰する過程を通過すれば、それはまた新たな愛の関係創造であったと神様は言われると思う。

2022年6月12日日曜日

今日の想い 1156

 先天時代の終末は後天時代を新たな人類として歩む為の、いわば準備期間であり教育期間だった。世間には多くのスピリチュアルな団体や個人が存在するが、どれもこれも耳に優しいスピリチュアルもどきに留まっている。本当の精神世界である神霊界を見届けようとすれば並々ならぬ苦労を越えなければならない。より苦労した者がより準備した者といえる。アボジは私達の教会を苦労の百科事典だと言われたが、食口にはどれだけ苦労してきた実感があるだろうか。苦労して苦労して更に苦労することで、魂がこなれ柔軟になり神霊界に相対できる魂が用意されていく。後天時代に入って誰に支持するかが未だに重要視されているようだが、正しいか否かが問われるのではなく、この世に生を受けた以上それぞれの願いがあって存在しているのだから、良心がそれに反することはあり得ない。そうなると中心的人物に全てを帰依することが生を受けた自らの存在目的を背後に回してまで優先することなのかどうかということだ。アボジの勝利圏、真の父母の勝利圏は共に歩んできた私達一人一人の中に相続され息衝いている。それを実感できていなければこそ誰につくかというようなことが問題になる。誰につこうがつくまいがそれが問題ではなく、自分と異なる思考や行動を起こした者への批難の方が余程問題だ。皆が皆良心が霊肉を纏った存在だ。自らの良心を神様として敬うなら他人に住まう良心をも敬って当然であり、頭から批判し非難する者達は相手に対する敬意を持たない良心否定の立場に立っている。

2022年6月11日土曜日

今日の想い 1155

 円の弱体化は日本の弱体化だ。今、日本人の資産が売り崩される日本売りの真っ最中だ。日銀総裁の指値オペによる、限度を無視した緩和政策は、遠からず日本経済を崩壊させる。アベノミクスで500兆に上る金融緩和(日銀国債買い)策で、日本国家の血液である円通貨は既にじゃぶじゃぶに薄められてきた。しかし更に金融緩和という大量の水で血液を薄め続けている。通貨価値の希薄化は、札束をドンドン積み上げていかない限り物に交換できないというインフレの高止まり、更にはハイパーインフレの領域に入っていく。喫緊で言えばベネズエラがどうなったか、エルドアンのトルコ通貨リラがどうなろうとしているか、そんな弱体国家と同じ轍を日本も踏んでいくのだろうか。かつての英国はインドを初めとする植民地を抱えていたのでそれ故に資源国家でありえた。しかし戦争で莫大なポンド借款を抱え、その為に金利を上げてポンド価値を守ることができず、かの大戦以降ポンドの価値は下がり続けて、イギリス病と言われるように日々の食事にも遣り繰りせねばならないほどの貧国に成り下がった。常に英国に学んできて英国の後を追ってきた日本も同じ運命なのかも知れない。かつてのエバ国家であったイギリス、そしてイギリスの代わりとなってエバ国家から母の国になった日本、連合国として戦勝したものの、経済に於ける旧来のシステムにしがみ付き、新たな経済発展の芽は摘み取られてきた。数十年を超えてのち経済復興が為されたのは、北海油田の開発による景気の刺激と他国に頼っていた資源の半分を自国で融通できるようになったからだ。日本はイギリス以上に旧来システムに頼り続け、新たな景気策となる新規事業の立ち上げには結果的に背を向け続けている。日本が復興するためには日本が資源国となるべく資源開発、新規事業の立ち上げ以外ないだろう。日本に和製サッチャーは果たして現れるだろうか。

2022年5月28日土曜日

今日の想い 1154

日常の何気なく取っている行動やルーティンワークをして、魂の活動である知情意の意を発動していると思うのは、実に思い上がっている。そんなのは動物の魂の分野であって、精神存在としての人間の魂には程遠い。知の活動が精神的知、即ち叡智を発動するのでなければこれまた人間の魂には程遠い。同じく情の活動も自分の子を可愛がるだけでは動物も同じであって、人間魂本来の情とは心情の発動に他ならない。いかに日常を超えるか、ということだが、原理の生活化とは自分を安全圏に留めたり留め続けることではなく、自らの中の良心は安全圏を超えた位置で発動するのであり、それこそが原理の生活化だ。よってああしろこうしろ、あれはしてはいけないこれをしなければならない、という受動的な教条主義で良心の話をしても良心が発動することはない。安全圏に安住することに執着を持たないこと、土台を崩される危機に正面からぶつかること、これこそが原理の生活化というか原理の体恤化だ。アメリカで生活して感じたことは、社会的階級を上がれば上がるほど傲慢度が増すということ。例えば、のらりくらりと話をかわして取り合わない大家、言語もろくに喋れないのに依頼するのかと上目遣いのロイヤー、訳の分からない法的用語をまくし立てて黙らせる上から目線の判事、地位が傲慢にさせるのか傲慢だから地位に着けるのか、アメリカが本来の民主主義がどうかは別として権威を手にしている階層は悉く傲慢だ。しかし権威階層におもねることで事が運ぶのではなく、言葉でしっかりと言い負かす者が階層に食入ることができる。或る意味それは自分を通していく闘いでもある。その為には語学も大切な要素ではあるが、最も大切なのは曖昧な自分ではなく明確な意見や意志を持つ自我をしっかりと確立することだ。アメリカ社会は生きていくためにより戦う必要がある。個を見れば確かにアメリカ国民は日本国民より闘っているだろう。日本人特有の優しさが自分を許す優柔不断や曖昧さに変容されてしまい、日本を何とかなる主義で蔓延させるべきではない。

2022年5月20日金曜日

今日の想い 1153

 大漁

朝焼け小焼けだ、大漁だ。大羽鰮(オオバイワシ)の大漁だ。

浜はまつりのようだけど、海のなかでは何万の、鰮のとむらいするだろう。

金子みすゞ

何万という兵士や住民の生命を天に供えて、地上では涙のとむらいに明け暮れるとしても、数十年の月日で雁字搦めになった地上を、御破算で願う零点に戻す為「戦争」という蕩尽で霊界の祭事が為される。戦争の霊的意味はそういう何某かの清算だろう。人間はやがては霊界に帰っていく存在だ。しかし多数の犠牲を伴う地震や津波の災害も、地球を席巻する流行り病も、そして民族間国家間の戦争も、自然災害は鉱物位相によるのだろうし、流行り病は植物位相によるのだろうし、そして戦争は大義名分はどうあれ本能的動物位相によるというそれぞれのステージを祭壇にする霊的祭事に違いない。祭事を通してアベルとカインが振り分けられるだろうし、地上の覇権を握ってきた者達は、カインの頭としてアベルに頭を下げて繋がらなければ、祭事を超えた新しい時代圏へと生き永らえることはできない。その意味で戦争が終わったとしても、もはや既存の社会体制に戻ることはなく、一度平準化されたのちより御心に適う新たな体制が築かれるはずだ。コロナ以前とコロナ後が異なる世界であるように、戦争以前と戦争後は全く異なる世界になる。日本がどれほど重要な立場にあるかは、母の国としてアボジの教育を受けてきた者達はわかっているはずだが、以前のような力による権威主義ではなく他の為に生き他国の為に生きる謂わば母親の権威でこそ神様も大天使達も共にあって協助できる。しかし日本は日本で、それだけの決意覚悟ができているかどうかは疑問だ。為せないなら腹をかき切るくらいの決意が願われるが、それだけの気概を得る為に日本は日本の摂理としての蕩尽、巨大災害を甘受させる許可が必要なのかどうか、、。それなくしても目覚めることができればと切に願うばかりだが、混迷の中でこそ精神性はより高まり、その中でこそ強力な指導者が出現してきたのは歴史の事実としてある。

2022年5月19日木曜日

今日の想い 1152

 神、という言葉がある。神と言う言葉を聞き、或いは言葉を口にしながら認識している神を表象する観念がある。しかし観念と概念とは異なる。自分が口にしている神への認識が、それが本当に神なのだろうか。神だと言いながら実は神まがいの別の存在を神だと口にしているかも知れない。実は統一食口も含めて、神だと思っている存在は天使存在に違いないと私は思っている。私達が昨今感じる戦争への感情も、その善悪感情を神様も同じく感じておられるはずだと、同じ感情に立つ神様を信じて疑わないが、果たしてそうだろうか。私達の傍らにいて同じ感情に立つ霊的存在は、霊界に旅立った人間も含めて天使存在に違いない。確かに天使存在も人間よりは高みに立つ存在には違いないが、地上界に鉱物植物動物人間とヒエラルキーがあるように、霊界の天使存在もヒエラルキーがあり、おそらく神はその地上界霊界全てのヒエラルキーすべてに生き、すべてを活かし、その為にヒエラルキーを超えた真の愛の存在であって、その位置に立って天宙全てを真の愛で実体的に主管することができる真の愛の実体存在こそ、神の実体と言えるだろう。人間の中には人間の形を取ってはいるが、霊的に見れば高位の天使だといえる存在もいる。アボジの位相を霊的に見ることができる人間とはそういう人達だ。アボジがメシヤで、更に神様の実体である実体御言葉かどうかを、どうしてヒエラルキーの階下で右往左往している普通の人間である私達に判断できるだろうか。神様の事情をわかっているつもりでいるが、神様か天使かもわからずに理解できるはずがない。祝宴や祭壇に供される動物は、動物のヒエラルキーに立てば殺戮される悪に違いない。しかし動物はより高次の位相への供犠を喜びとしている。動物を人情に立って見るしかない人間だが、動物は非堕落圏に立った存在だからより神に近い彼等にして殺戮という犠牲を善だと捉えるのはあり得る。同じように戦争や災害を、悪一辺倒では語れない人智を超えた霊的、或いは神的理解もある。蕩減という言葉は食口達には馴染ある言葉だが、蕩尽という言葉があることを知っているだろうか。財を湯水のように使い果たすという意味合いだが、戦争も災害も、人命も含めた多大な財を使い果たす蕩尽だ。蕩尽は地球規模の宇宙的祭事だ。本当に神様を理解し神側に立つなら、人間的悪である殺戮であってもそれも犠牲として供犠の祭壇を神的喜びで準備できる者でなければならない。子女様の亡骸を前に、オモニに対して涙を流さないように忠告され、神的喜びで愛されたアボジの胸中と同じように、、。

2022年5月13日金曜日

今日の想い 1151

 世間が閉鎖的であり遠ざけてきた以上に、信仰生活は性に対して閉鎖的であり遠ざけてきた。アボジがあれほどに熱く性について語られながら、しかし食口はアボジと同じ性に対する観を受け取れなかった。本宮として真の愛がその出会いの中でこそ存在するにも関わらず、偽りの出会いと真の出会いの本質的違いを見通せないまま、恥ずかしくも覆い隠したい肉的な情愛と肉的感覚だけが性に付き纏っている。未だに堕落的観念を超えることができずにいる。しかし恋愛感情を一旦否定しなければ受け入れられなかった祝福であり、生物的本能で相対に対する夫婦出発がある。アボジは知っておられたのだろうか、そこから夫婦感情を育てることがどれほど困難であるかを。祝福家庭をみたときに、兄妹、姉弟の関係で仲良くはなっても、夫婦愛の関係がどれほど築かれたかは疑問だ。私は夫婦愛は性なくして成り立たないと思っているし、性に関してアボジが話されたことや指示されたことは何よりも大切に思って学ぶべきだったと思う。しかし相変わらず姉妹達の化粧っ気なしが当然であったり、女性的魅力とは程遠い内外は、自ずと夫に対する艶っぽさを堕落的なものとして否定し、磨こうともしないのは明らかだ。薦めるのは問題視されそうだが、官能的書物や映像を見てでも研究し学ぶ必要があると個人的には思う。そういったものを堕落的だと真っ向から否定していいものかどうか、せめて考える余地くらいはあると思う。もう一度念を押すが、真の愛の本宮は夫婦で交わる生殖器にある。乾いた関係は、どれほど仲良く暮らしたとしても、神様が訪ねて下さる愛の本宮ではない。

2022年5月9日月曜日

今日の想い 1150

 ドル円が130を超えてきた。生まれてからこの方ずっと日本にいるのであれば、FXで相場を貼っていない限り、通貨レートは只の数値としてそこに感覚を覚えないのかも知れない。しかし海外生活もそれなりに長く、日本永住帰国を決意しそれなりのまとまったお金を移した者としては、締め付けられたり、痛かったりの感覚を通貨の数値に覚えてしまう。二年前の当時と比べてドル円で20円も差額が出ると、百万円単位で目減りしてしまう。勿論借金大国日本が大幅な通貨安になることはわかってはいたが、これほど直近のことになるとは思っていなかった。日本にいるとそんな自分の感覚が奇異に映るほど周りは茹でガエル状態で、こんな心配は他人事だ。1996年、橋本内閣で金融ビッグバンと言われる金融システム改革法(金融の自由化)が実施された。日本人にとって最も身近なことは、これによってマネーの外貨交換自由化が為されたことだ。しかし円高ドル安状態だったので特に何をせずとも円建て資産は増えていったことで、為替相場自由化の意味合いを受け取れずにいた。おそらくその当時、逆に円安ドル高状況だったら国民の金融リタラシーは上がっていたと思う。世界一の借金大国になってしまった今、円安は更なる段階に踏み込んでいくのは明らかだ。資産を円のままにしておけば、資産の目減りは顕著になってくる。それはインフレ加速によってそうなる。敗戦による日本人の自我の開放自由化もそうだが、自由の意味がわからないと国家体制や政府に対する社会的な甘えがあって、自由が逆に人生や生活への足枷になってしまう。金融自由化も同じで、基本的に能動的な関わりを持たないと自由の空間へは飛べない。日本は国の借金をここまで許してしまったことは、金融自由化されながら、あいも変わらず円を崇拝し政府や日銀に任せっきりだったということだ。今回の資源インフレから始まる最高インフレは、日本人にとって相当の痛みを伴う学習になるだろう。

2022年5月2日月曜日

今日の想い 1149

 プーチンかバイデンかとなると、プーチンの方が数倍肝が据わり覚悟ができている。DSの援助を受けているからバイデンは知情意の知は相当に長けているのかも知れないが、知の覇権時代は終局の時期にあり、知と情の授受で発動される意の覇権時代を迎えている。プーチンの死をも辞さない覚悟にバイデンは到底及ばないだろう。ドル覇権を維持するために、神霊界の大天使による叡智はDSと西側に手を差し伸べてきたが、既に時代は新たな次元に突入している。人情を超えた天情時代は死生への不安や執着を超えた者にこそ与している。その意味で損得の論理では解せないプーチンの行動はヤクザ的であり、人情を超えた使命に生き天情により近いと言えるだろう。メディアは武器と人材の枯渇していくロシアの敗戦を当然のように謳っているが、事実は明白に西側が攻められている。SWIFTからロシア排除による制裁で首を絞めるつもりが、逆に西側が首を絞められている。ロシアの資源に頼らざるを得ない欧州の国々は、そう長引くこともないだろうと高を括ってバイデン側についたものの、戦況が長引くとなると身が持たない。GDPのトータルでいうと圧倒的に中国と組んだロシア側が優勢であり、たとえロシアのようにドル制裁を受けるとしても、資源エネルギーは中東諸国も含めた反ドル側にあり、ルーブルと中国元の覇権体制がドル覇権を超える状況さえ近付いている。先回も言ったように、プーチンが画策したかどうかはわからないが、ウクライナ戦争は明らかに通貨戦争の様相を示している。裏表の世界貿易の中で麻薬と武器取引がトップにある。それは物々であったり資源であったりGOLDであったり、表に出せない取引の方が圧倒的に多いが、そうなると西側の武器がロシア側に流れていることも当然あり得る。武器商人は商売できればどちらに加担する訳でもない。その意味では武器商と二人三脚で制覇してきたDSは両方を見定めながら、天秤が傾きかけた方に寄り添っていく。しかしもしプーチン側に加担し始めるとして、果たしてDSにプーチンの霊的背後が読めるかどうかだ。おそらくDSに片棒を担がせたままで、仲良く儲けようとは思っていない。DSとの最終戦争も辞さない覚悟を白熊ヤクザぷーさんは腹に収めているはずだ。心配なのは状況を読めない日本の危うさだ。今までアメリカに金魚の糞のようについていれば何とかなってきたから、全く背後が読めないし平和ボケの熱湯カエル状態だから、かつてアボジが警告の意味で年頭に語られた日本分割予言もひょっとしてあり得るかも知れない。日本食口ですらその危機感を感じているのかどうだか、、。食口はどちらが善か悪かと論じる前に、生死をかけた覚悟を持つプーチンに学ぶ必要がある。死生決断できてこそ、良心の声を聞くことも良心の願いに生きることもできる。

今日の想い 1148

 人は身に詰まされて初めてそのことと関わり合おうとする。我が子は自分の分身だから良くも悪くも自分自身のことと同じだが、ウクライナ戦争も今回の観光船も、関心は持つけれども自分の圏内のこととして関わり合おうとはしない。結局は他人事だ。家族関係には部分的に他体自覚はあるとしても、それが国家を超えて世界に対してとなると家族への影響を見ない限りはその片鱗さえも伺えない。歴史を見れば混沌や戦争の不安の中でそれまでなかった理想や希望を紡ぎ出し平和を建設してきた。それを思うと、混沌や戦争は一方では鉄槌を振り下ろされる裁きかも知れないが、背後に善神を連れてきているのも事実だ。私達人類が家庭を超え国を超えても他体自覚を持てるようになるためには、何らかの戦争と平和を繰り返すしかないのかも知れない。人類全体が本当の意味で堕落を超え地上天国を建設する為には、幾度混沌を繰り返せばいいのだろう。誰が良心の叫びを聞くことができるのか。誰が聖和されたアボジの想いを受け取れるのか。無言の暗黒の中で自ら恒星的光を発することもなく、いつ途絶えるとも知れない提灯をかざして、自分と家族をぼんやりと照らし出しているに過ぎない。まだまだ不安で両足で立って支えられないところをみると、未だ大海原の只中でもがいているらしい。大波がやがて襲うのをびくびくしながら、、。

2022年4月18日月曜日

今日の想い 1147

 メタバースという新語がある。メタは超越でありバースはユニバース、宇宙なので日本語に訳すとすれば超越宇宙となるが、これは明らかに霊界をイメージした言葉に他ならない。VR(仮想現実)は仮想空間の中に入ることで体験することだが、地上現実の延長を夢見るように仮想的に感情欲望を満たそうとするものに留まっている。メタバースと言いながら先端であるVRはゲーム世界に留まり、宇宙から超越宇宙という高次元への突破意志やエネルギーをそこに見ることはできない。人間は眼球内を焦点に、外界をイメージスクリーンに映し出して映像認識する、謂わば外界に入るのではなく外界を相対的に把握しているのであって、自分の見るイメージと他人の見るイメージが全く同じだと言えないばかりか、外界の内外を包み込んでいる地上を超越した存在の認識観を捉えてはいない。相対するものを認識するとは、それは相対する対象を眼球に見るような何らかの焦点的働きを通してイメージとして映せるということだろう。そしてメタバースである霊界を映し出すための焦点的器官、それこそが目にあるのではなく良心の領域に存在している。良心という心情世界(霊界)の目で霊界をイメージできれば、唯物主義に汚染されることでイメージできなくなった超越宇宙が後天開闢時代の新しい人類を通して認識できる。アボジは霊界を覗き見るコンピューターという話をされたこともあるが、それは視覚という感覚と同じものと捉えるのではなく、次元が異なり複数次元にもまたがる霊界を、人類の良心を集結することで認識しようとするのであり、その為のアプリケーションが差し出されれば可能になるかも知れない。

2022年4月11日月曜日

今日の想い 1146

 情報は人が集めている。よって入ってくる情報には感情が入っていて、感情も一緒に受け取るので、受け取る者の何に帰依しているのかどの程度自立しているかによるが、自ずと情報の感情に流されてしまう。浮世に流されているのが大半の日本人は特にその傾向が強い。日々途絶えなく流される、感情が込められたテレビの映像と受け取る音声にどれだけ影響を受けているか。戦争アレルギーの日本はその言葉自体に顔を背けるので、戦争という行動の背後と経緯を精査しようとはせず、結局善悪判断を初めすべてが受け売りでしかない。国の国境は何のための線引きかというと、国の保有している資産資材を自国に囲うためであり、国家としての生命を維持するために引いている。国の血液は勿論経済だ。よって戦争も、国土や国民への侵害に直接関わらないものは先ず経済的要因と考えていい。今回のウクライナ問題も西側主体の経済に国力を奪われてきたスラブ系国家の中心的役割を担うロシアの西側への宣戦布告だ。米兵は使わないが他のあらゆる武器や情報を使う米露戦争がウクライナで起こっている。しかし経緯を見る限りロシアの方に分があるように思う。先ずSWIFT排除は本当にマズかったし、中国インドがロシア資源輸入を止めないのであれば返って西側国家が自国の首を絞めている。大体ロシアが本気でウクライナを攻めて手に入れたいならキーフを集中的に攻撃すればいいだけの話だ。ロシアの戦力からすれば難しくはないはずなのに、西側の情報のみから紐解けば不思議極まりない戦争に思えてしまうが、だからプーチンのメンタル病まで飛び出したのだろうけれども、ロシアのドル支配への反撃と見れば全ての辻褄が合ってくる。アメリカはゲームプレイヤーだからバイデンがどうヘマしようが首長を選んだ米市民の責任なのでいいのだが、日本はただただ追随するくっつき虫であることを選んだ国として、国民は破壊的自我を見ることになる、かも知れない。ロシアはデフォルトどころかEU諸国は輸入を止めようとはしないし、資源に紐付けされたルーブルは一気に値を戻している。資源の値を更に上げるインフレ経済下で最も危ないのは日本だ。日本は長年続く金融緩和策で600兆に近づく国債を切っている。金利を上げようにも上げられない。金利を上げられないということは、国のインフレ対策がお手上げ状態だという事だ。ロシアのデフォルトではなく、日本こそデフォルト危機に最も近付いている。

2022年4月10日日曜日

今日の想い 1145

天国実現、世界復帰と大仰な口だけは叩いてきたものの、真の愛どころか果たして世間一般に理解できる愛すら持ち合わせているのかどうかさえ疑問だと思うだろう。御言葉を受けてきて訓読し続ければ真の愛という概念の輪郭ぐらいは理解していると思っていたけれども、しかし理解するとしても行動して真の愛の実を差し出すことができなければ、本当に理解したということにはならないだろう。結局、理屈だけはこね回して理解した気持ちになるという自己満足でしかないのだろうか。摂理もあとは繋ぐ二世に任せるしかないと口では言うけれども、そう言って誤魔化して逃げているだけのように思う。たしかに御言葉を受けた当時は、天が期待する自分だという誇りと期待に溢れていて、万物復帰等の条件を克服して余りある意欲はあった。今は確かにそれはない。しかし当時に比べて劣化したものばかりではない。物事を冷静に見る目は格段に高まった、と思う。それは或る面、教会を反面教師に学んだものではあるけれども、かと言って教会生活の全てが嘘で結局この世の見方に帰っただけだと言う輩とは異なり、極端ではあるものの教会に関わってきたことで教会にさえない真の愛がどれほど崇高なものかがわかり、霊的に見るという意味がこの世の者よりは解り、本当の価値がどういうもので何処にあり、どう装ってきたかを見る目は秀でていると思う。だからコロナに翻弄され更にロシアに翻弄されてる世界秩序がどういう方向に落ち着き、何が台頭してくるのかは食口の方がより見る目においては進んでいるはずだ。そう思うと若かりし頃のみ旨に燃える想いは消えたのではなく、形を変えて地上改変と地上創造の叡智を受け取る器に代わったという事なのかも知れない。アボジのピースカップの御言葉が特に気になる此の頃だ。

2022年4月1日金曜日

今日の想い 1144

プーチン政権にはプーチン政権の大義があるのはわかる。そしてゼレンスキー政権を推す背後も、世界秩序をリードしてきたのは我々だという自負があるのもわかる。しかし一度戦闘に入ると人命をものともせず勝敗を決める為だけに集中するだろうし、そうなると他が全く見えなくなる。この混乱を利用しようと頭をもたげる魑魅魍魎の類、悪霊悪神の類が跋扈し始める。原理主義、独善主義のテロリスト達だ。誘虫灯に集まる蛾のように、イスラム過激派、ネオナチ達は修羅場に喜々として集まってくる。特にウクライナ軍兵士の応募に率先して手を上げ、既に軍の中に紛れ込んでいるネオナチ達は少なからずいるはずだ。そうなるといくらヤクザやマフィアの棟梁と言えども背後を突かれて思わぬ形で逃げざるを得ないということもあり得る。要するに何がどうなるか全く見通せない状況にある。西側に組していれば安全だとは全く言えない。にも拘らず鍋の中で、点火されたともわからずに通常生活に没頭している蛙の群れの中の一人が自分だ。さてその状況で鍋を飛び出すとはどういうことだろうか。守られ導かれるとは、何も見通せない明日へ何の覚悟もなく飛び込むことではなく、明日の戦略を立てることができる、私に届く叡智を結集できることだ。何も届かなければどんな神霊の加護の中にもないだろう。

2022年3月29日火曜日

今日の想い 1143

 誰よりも人生の賛歌を謳い、誰よりも被造世界の母性を詠み、魂の限りに神の父性を求める意志を差し出す。逆説である裏面の言葉に直すなら、誰よりも生きることの厳しさに没頭し、誰よりも冷酷で荒々しい地上を舐め尽くし、そして肉体を未練なく捨て去って霊の本質に自らを差し出す。しかし実情は、この肉体も想いも主管しきれずに、手綱を持つだけで精一杯の日々を送っている。もはや思うように体は動かず、光あふれる高次へと飛翔したくも恍惚への梯子すら登れずにいる。老親の更に老いるのを心配するうちに、自分も老いが増しているのを思い知らされる。私が生きて来た意味は、私が生きている意味は、この年になって今更問うてどうなるものかと思いながら、それでも問い続けている。止めてしまいたいのに問い続ける障害があって癒されない。問い続けることから逃れられない。今日も途絶えることなく内面は赤子の様に泣き叫びながら問い続けている。私の中に一つの結論を出そうとしているのだろう。躍起になり焦る思いがそうさせている。親に強いてきたことも、更には親として子に見せてきたことも、私という生き様の結論こそが親や子への、更に後孫への種だと思っている。親にも子にも、私の人生が騙され裏切られた失敗作として内的霊的影響を受け取って欲しくない。実際失敗作であるはずがない。私が生きているうちに、生きて来た意味を差し出す結論がもし無ければ、信仰も、献身生活も、祝福も、相対と共にしてきたことも、子供達への教育も、意味を大きく欠くものとなる。

2022年3月19日土曜日

今日の想い 1142

 ロシアをSWIFTから排除すればロシアだけに被害が及ぶものではない。ロシアが資源国であって資源輸出国だから、EUの多くの資源輸入国はロシアを上回る被害を被ることになるのは目に見えている。エネルギー資源なしで生き永らえることなど到底できないので、今はバイデンの顔色を窺って反ロシアの態度を取っているが、長期に渡ってくるとSWIFT以外の道を模索するほかなく、中国版であるCIPSを使うのか、はたまたロシアとの物々交換か、金本位制か金兌換制も模索しているロシアなので金の現物で払うのか、どちらにしろ資源インフレは抑える方法が無くなってくる。バイデン政権はどこまでも無策で、挙句の果てがこのSWIFT排除という経済核爆弾で、SWIFTというドル基軸を支えていたものから排除するとなると益々ドル離れは加速するだろう。アメリカは債務国であって、世界で使ってもらうドルあればこその経済大国だが、使えないドルであれば只の紙切れの上に胡坐をかいているに過ぎない。アメリカの金融アナリストが言うように、ブレトンウッズも金本位制から不換ドルへのヴァージョン2、さらに今回のSWIFT排除で基軸通貨を辞めてしまうヴァージョン3に入ったと言う事だろう。ここまで混沌状態になると、資産保全の為に現金通貨を持つのも債権を持つのも、コモディティーに変えるとしても将来的な安全策は見通せなくなる。何ができるか敢えて言うと耕作地を抱えて食料だけは自作できるように準備しておくことだろうか。世界的なウィルス感染、三次大戦へと向かいかねない戦争、刻々と近付く巨大地震、ハイパーインフレ等々、この過酷な現実に生き延びていく人間として根本的意義を私達は備えているだろうか。この大波荒波の人生行路を航海できる私となるための信仰路程を歩んできただろうか。

2022年3月16日水曜日

今日の想い 1141

 権力を持つ存在が権力を発揮する時はヤクザと全く変わりない。権力を見せぬ平時は尊敬に値するかのような統治者の顔を持っているが、野蛮な畜生の顔を露わにして権力を行使する。黒い熊だろうが白い熊だろうがヤクザは己の正義を振りかざして権力を振るい、結局はイメージしているプループリントを具現できずに、得体の知れない魑魅魍魎の輩を呼び覚まして混沌、破壊の底へ引きずり込んでしまう。DSのインテリヤクザにシロクマの喧嘩ヤクザが業を煮やして挑みかかった形だが、喧嘩に取り込んだ以上喧嘩ヤクザの方が上手だろう。戦況の悪さが伺えるが、そんなことは喧嘩ヤクザの見せ所と一層褌を締めさせ気合いを入れさせてしまう。しかしどちらにしろ腕を振り上げるヤクザはどうせ最後は逃げるしかなく、アボジが言うように、彼等は太平洋の周囲に逃げて逃避城を発表し、チンピラの大将、ヤクザの大将、マフィアの大将が連合してそれなりの法を作れば、どこにも行く道の無くなった世界が逃避城の法を用いるようになるということらしい。何とも善の摂理観からすれば冗談のような、突拍子のない復帰摂理の戦法を見るようで、そうなると教条的原理の枷にしっかり嵌っている柔軟性のない食口にしてみれば、そんな摂理など思いもよらないだろう。私達こそが神様が共にいる摂理の精鋭部隊だと信じていたものの、思いもよらないところで摂理は進められていて、肩透かしを食らわされ呆気に取られる格好になってしまう。ヤクザであれマフィアであれ、結局死の覚悟を持って命をはったものが生き残るということだろうか。今のこの現状を見通して発表された「平和の主人血統の主人」の御言葉かどうか、いま少し見届ける必要がある。

2022年3月7日月曜日

今日の想い 1140

資源のない、或いは資源開発をしてこなかった日本であること、食料自給率が40%も届かない日本であること、国防も多大に他国に頼っている日本であること、そうなるとどの先進国よりも世界情勢に影響を受けやすい我が国だということだ。自活できない国であり続けることが結局は他国から裸のエバと見られて隙を伺われている。私達が信仰を持って貞操を守ると言うなら、領土は国の身体であって、凌辱され奪われた北方領土は何としても取り返すと、拳を上げ義憤に燃えるのでなければ、信仰はただ己の為の自己満足でしかないだろう。愛する範囲が小さい家庭止まりで、地域社会や国にまで愛が及ばない者なら、公的云々を口にすべきではない。本来ならロシアがウクライナで手を焼いている隙に攻め入って取り返すぐらいの働きかけを勝共の名で政府要人にすべきだ。こんな混沌とした状況の時こそ最もチャンスを掴める機会であって、もし食口の中で自らの罪意識に悩む者でもいれば率先して国の為に身を捧げれば、大善の前に個人的罪など負債を払って余りある。どんな放蕩三昧を繰り返したとしても、国の為に身を捧げた者達の霊人体は真面目に生きた者達より遥かに光り輝いている。これからの日本は一層多難な時代に生きることになるはずだ。しかし善神は悪神の背後に必ず隠れている。もし日本が侵攻されるような状況で、率先して身を捧げ為に生きる決意を備える食口が現れれば、カルトの汚名を晴らして余りある栄光を国民は私達に着せるだろう。献金で天国の隅にでも収まろう等というスケベ根性は、信仰者でも心情を相続した祝福家庭でも何でもない。

2022年3月5日土曜日

今日の想い 1139

 安倍元首相の発言した核共有議論の問題が話題に上っているが、だいたいそこに行き付くまでの多くの議論を戦争アレルギーで見ず触れずで実質封印してきた戦後の短くない期間がある。日本はGHQによって玉を抜かれた国家魂のない抜け殻状態で今に至っている。議論しなかったのではなく、議論すらできなかった。国として国体を守る為には国民が守るのは当然だが、日本人が国について話すとき、先ず国があって私があるのか、そうではなく大事な私が先ずあって私を守る国なのかどちらなのかで全く異なっている。後者であれば国について議論できるはずもなく、私を守るためにどうしてくれるのかと私を守るべきだと思っている国家幻想に攻めよっているだけの話だ。しかし悲しいかな日本人の多くは後者であり、唯物的思考教育と相まって自己中心主義であり愛国心や犠牲精神とは程遠い。そんな者達をどれほど集めても国体は立たない。実際は日本はアメリカの第51州であったしアメリカの併合特区だった。だから沖縄返還もアメリカに取っては差ほど重要ではなかったし、日本経済弱体化のプラザ合意も押し付けるのは当然だった。しかし冷戦が終わって暫くすれば、アメリカは自国のことで精一杯で警察国家であることをお荷物だと感じ距離を置き始めた。国際秩序を押し付ける存在がいなくなった今、本当の意味での外圧がかかる中で今こそ国体を立てる大チャンスだろう。この期に及んで平和憲法が平和をもたらすという平和信仰者と核アレルギー病人は、侵攻する敵軍隊の前に身を挺して進み出る覚悟を示して欲しい。

2022年3月4日金曜日

今日の想い 1138

 人間の創造性は逆説的に言えば破壊する凶器の内包であり、創造と破壊は前進する人間の裏表だ。ロシア帝国主義を精神の軸に立てるプーチンは、その帝国建設の意志としてウクライナの破壊に表れている。彼に取ってドル金融覇権を拝する民主国家、資本主義国家は悪鬼の輩とさえ思っているので、ドル基軸のSWIFTから外されようがどう制裁を喰らおうが望むところだろう。この軍事侵攻によってウクライナが手の内に入るかどうかというより、穀倉地帯であるウクライナがロシア帝国主義に帰依していて欲しいのであり、傀儡アメリカ帝国に愛想を振りまきロシアから離別するのを恐れた行動だと言える。プーチンにとって資源エネルギー国家ロシアと穀倉国家ウクライナが夫婦一体となってこそロシア帝国建設の理想は手に届くところにある。エネルギー資源と食物資源さえあればドル決済できなくても自国の通貨で十分経済を回すことができるからだ。西側諸国にしてみれば、今回の軍事侵攻が成功しようが失敗しようが100ドルを超える原油コストの跳ね上がりによって金融も経済も大打撃を被るだろう。しかもコロナで疲弊し、かつてないほどの通貨の水増し、10兆ドルを超えて直接にばら撒いた後のことだ。プーチンにしてみればこの機を逃すまいと、コロナからの回復を見ないうちにと思ったのだろうが、しかし覇権を握るDSに真っ向から刃を向ける形になってしまい沈着冷静であるはずのプーチンの焦りが躓きとなった格好だ。しかし彼ほどの愛国心、忠誠心を持ち身を挺して使命感に漲っている首長は他にみない。周りからすればサタン的行動に出た異常な精神状態を見るが、大天使である今を司る時代霊からは見方は異なっている。人類が描く平和社会へのソフトランディングは、アメリカが摂理使命を果たさなかった時点でアメリカは見放され、既にその選択肢はない。

2022年2月27日日曜日

今日の想い 1137

 日本国民はウクライナの現状を目に焼き付けて、我国家日本の現実にしっかりと目を向けなければならない。つい先日まで戦争なぞ起こりようがないと、きな臭い情報を一笑して過ごしていた。しかしかつての核大国であったウクライナは条約によって核なき平和国家に変貌したわけだが、裸になったらレイプされるんだということを国民一人一人が今身に染みていて、その悔悟と共に逃げまどっている。ブダペスト条約は無駄を通り越して侵入侵略を許してしまう甘い誘い文句に過ぎなかったわけだ。平和憲法を唱えているから日本は平和を約束されている、という盲目信仰を私達はこれからも続けていくのだろうか。いざとなれば日米安保があるしその為の血税も惜しみなく差し出してきたと、そう思いたいのは自由だが、結局は安保共同体制も自分の国は自分で守るという決意が前提の上だという至極当然の感性まで失っているのが我が国だ。台湾有事も尖閣有事も、そして沖縄有事も既に目前の危機案件としてある。にも関わらずどこまでも平和憲法信仰、平和ボケが治らない。いっそのこと北朝鮮から一発撃ち込んでもらって日本人の目を覚ましてもらいたいとまで思ってしまう。勝共運動に邁進していた当時の一世達は、平和ボケした日本に警鐘を鳴らし目覚めさせる使命があったはずなのに、しかし憂国の士から生活保護や年金を国から受け取るだけのおんぶにだっこ世代と化してしまった。もはや恥ずかしくて国を想い憂うことを許される価値もなく、となれば何を誇りとして生きているのだろうか。この混乱の世であれば尚更身を捨てて立ち上がる成約聖徒であるべきなのに、踵に噛みつく勇気もない。

2022年2月14日月曜日

今日の想い 1136

 金融バブルが萎むか弾けるのは膨らまし続ける風船がどうなるかを考えれば当然のことだが、では膨らんでいく金融に多大な影響を受け翻弄もされてきた経済がどうなるかの見通しはと言うと、これを語る者は意外と少ない。天宙創造過程に於いて空間の膨張と収縮を何度も繰り返して現在の宇宙がある。それは夜の宇宙と昼の宇宙とも言えるが宇宙全体の生命の呼吸だ。そしてこの社会の呼吸が経済だ。出金があれば入金が必要であるように好景気があれば不景気もある。社会の呼吸として好景気が大きければそれだけ不景気も底の深いものになる。社会の一般経済から見れば金融はお化けのように大きく膨らんでいるが、当然金融収縮に向かうときはその萎みようは数倍のG(重力)を受けることになる。今はドルが基軸通貨という社会認識だが、ドル換算した主要通貨の交換性があるから国家を超えた世界の物流は成り立ち、その恩恵を受けている。信用経済は通貨創造を許されている銀行によって成り立っているが、その資本一割内の枠を度外視して貸し出すことで金融は成立している。一千万の証拠金を出したとして一億も二億も貸し出すレバレッジなるものを差し出したのが、一般人には理解を超える金融工学の世界だ。問題は金融をここまで大きく膨らませて、果たして公の為に利しているかどうかだ。経済血液としての通貨が世界の隅々まで行き渡るという役目を金融が負っていて、その為の金融膨張だったが、平準化に向かうツールが富の偏りに使われ堕落したのは明らかに摂理に反する。よって摂理観からすればこのバブルは弾けて当たり前で、再度富の平準化の為の金融組み立てが為されるはずだ。しかし基軸通貨としての役目を果たすドルはあまりにも垢が付きすぎてしまった。ドルと通じる様々な国家通貨も同じように垢まみれだ。新たな経済は既存通貨に代わる何某かの原通貨を求めるだろうし、そのように経済摂理は新たな展開を見せる。

2022年2月7日月曜日

今日の想い 1135

 どれだけ信仰を強くして悪とされる欲望を抑え込み、表面は小綺麗に装ってもその内面はありとあらゆる欲の坩堝となっているのが人間だ。教条的信仰生活という美しい壺に抑え込んだとて、あらゆる欲のひとつも消えるわけではなく、抑え込むことの弊害は出てきて当然だ。一世が何とか綻びを直すとしても、次世代には溢れ出てしまうことになるはずだ。人間始祖の堕落をどう捉えるかにもよるが、アボジの勝利圏を信じるなら人類は堕落以前の状態を取り戻している。ということは内面の欲の坩堝を堕落の結果として捉える必要はないということになる。内面の欲を人間の本性として捉えることもできる。もちろん欲望の衝動のままに行動しろと言っているのではなく、それらの欲望を管理しどう使うかは、役目としての良心(良神)が宛がわれていて、だからこそ良心に従うようにという良心宣言を出された。御父母様が勝利圏を立てられて人類は堕落圏にはないので良心の御言葉を差し出されたということだ。40年を超えて信仰生活を続けてきて、今更ながら溢れ出そうになるほどの強い欲動を覚える。しかしそれが自分の汚さ醜さかと自らに聞いてみると、意外とそれはない。これらが消えて無くなると生きる動機を失うようで、かえってそれらの想いが愛おしくなる。良心がしっかり立っていれば欲望がそのままストレートに衝動的行動を取らせるわけでもなく、その溢れる想いを何らかの貢献というか供犠的行動や表現へと向かわせればいいだけの話ではある。それが簡単な話ではないことは分かっているが、ある意味純粋で幼い欲情らと、人類歴史を通して訓練され磨かれてきた良心の壮絶な一体化の上でなされる。人類の進歩的発見や発明者は奇人変人が多いというのも頷ける。しかしはたして教会は、堕落的あるいは危険とも思える存在を受容できるほどの器を持ち合わせているだろうか。祝福も交差交体祝福(国の違い宗教の違いを超えて)を提示されながら、同じ祝福家庭の子女同志に固執している限りまだまだ教会の器は小さいように思う。

2022年2月6日日曜日

今日の想い 1134

 食口の万物復帰思考はまさに共産主義の労働価値説そのままだ。労働に時間をかけるだけかけて実績を出すという、AI時代の進化から見れば古生代の思考のまま止まっている。共産主義を否定しながらも実際は労働価値説であって、愛を説き心情を説いているにもかかわらず活動や生活の現実に心情価値説は息衝いていない。共産政権が個人の異なる所有を否定し分配を基本とするように、献身時は所有している全てを捧げた上で共同生活が基本で個人の所有は否定されていた。共産社会が御菓子を等分する平等であるため、個人の欲望からの動機や発想が触発されにくいように、公的だとされる側に捧げることが善であり、その為地上の個人財産をほぼ否定するか否定されれば、共産社会と同じ停滞状況が蔓延してしまう。共産社会とさして変わらない教会社会の中にイーロンマスクも孫正義も育たない。ではどうすればいいのかという話だが、二世以降は全ての箍(たが)を外して個人欲を押さえつけるべきではない、というか彼等自身が箍を勝手に外すだろうし、ガラス天井を突き抜けるに任せるしかないだろう。一世が二世への言葉を持ち合わせないことに気付き、そこで初めて一世は、御言葉を教条的な側面からしか捉えていなかったことを理解するだろう。労働時間という概念は時間に主管される先ず空間ありき物質ありきの次元のことだが、発想は瞬時に起こり時間を超えた次元の出来事だ。デジタル社会もAI時代も、時間空間を超えた次元での発想が価値をもたらす。霊界を信じながらも唯物的思考と活動に留まるのは、結局神様とは別物を信じていることになるし、原理非原理と勝手に括り堕落圏だよそ者だとして許容しない。本当の万物復帰は、先ず御言葉の本質復帰と愛と心情復帰の上での事だろう。

2022年2月5日土曜日

今日の想い 1133

シニア世代の食口であれば、万物復帰に明け暮れていた時期があったはずだ。 朝早くから夜遅くまで走り回らされた。一度任地に降ろされたら走ってでも家々を回らないと、歩みを止めてしまうと飛び込む決意が地に落ちてしまってエンジンは二度とかからない。昔は生花を抱え、それが造花に変わり、またいろんな商材を抱えて日本全国を走り回った。中でも造花は、バケツに溢れるほど詰めて両手に抱えると、あまりにも目立つが為に休憩を入れることもできず、恥も外聞もかなぐり捨てて、無くなるまで走り続けるしかなかった。この短くない時期の万物復帰のトラウマは未だに癒えることが無く、当時の塞ぎこんだ気分や、追い詰められた不安や恐怖が、当時の状況と共に悪夢となって何度も何度も夢見を襲う。ある意味、意識無意識の狭間に居座る地縛霊と化して魂を蝕んでいる。今の私は何としてでも当時の自分を救わなければならないという思いがある。今救っておかなければ、その切迫感情だけが繰り返し繰り返し霊の私を襲い続けるだろう。食口達の中に、この万物復帰のトラウマが少なからずあることを知っている。一時は水産摂理の一環として立てられたレストラン事業も、その多くがビジネスではなく万物復帰の延長であるかのように自ずと身を追い込んでいる。兎に角走り続けろという強迫観念で営業を続けている。本来ビジネスであるなら、マネージャーとして、或いはオーナーとして、全体を俯瞰し将来的道筋も模索しながら、業種業態であっても、人材の応募把握であっても、資金の使い方や教育報酬であっても、自分の責任と理想を掲げながら管理し投資するのが当然だろう。しかしそんなことは二の次でとにかく走る続けること、営業を止めないこと、手足を動かし続けることにのみ意識の大半を費やしてしまって、結局毎日の営業の何処かの歯車に収まることで良しとしている。その万物復帰感覚から抜け出さない限り私の救いはなく、奴隷という霊であの世に移動することになる。

今日の想い 1132(公的私的)

 食口は公的私的という所有観念を歪に捉えたままここまで来ている。それ故に私的な面では成長、公的な面では発展という言葉は食口にとって縁遠いものだった。敢えて万物に対して公的なもの私的なものという線引きをしたものだから、公的なことに関して自分は関知すべきではないと思い込み、そこに責任感情を抱けなくなっている。今まで摂理として資金や人材をつぎ込んできたわけだが、その殆どは影も形もなくなっている。それに対してどこのどんな食口が悔しさを覚え責任を感じているだろうか。御父様御母様と涙ながらに祈祷を捧げながら、しかし瞼を開き顔を上げると、家庭円満の出来事やどうでもいい個人的幸せを見つけては、神様の恵みだと自己満足している、そんな報告ばかりだ。この程度の個人的あるいは家庭的満足の為に人生の全てをかけてきたのだろうか。こんなことの為に社会悪のレッテルを貼られながら数字だけを追いかけてきたのだろうか。ここまで精神が堕落したのはひとえに公的観念の欠如だ。教育されないまま、線引きされた私的所有にのみ関知が許されるという奴隷意識から抜けだせない。自由と責任は裏表であるように、どんな所有も公私の裏表がある。私的なものとして与えられたものは本当に私的側面だけだろうか。公的なものとして立てられた物事であっても、神様ではない誰かがタッチするはずだが、そこに私的感情が入り込む隙は今までなかったと言えるだろうか。また、どんなに私的に受け取ったものでも、どう使ってもいい訳はなく、使い方を誤ると負債を抱えてしまう。私の身体も、私の生殖器も、公的な所有観念がなければ瞬時に堕落するだろう。万物主管の範囲を広く大きくしようとすれば、それに合わせて自己の成長と主管能力を深くする必要がある。その為には自己への投資も必要になる。金もかけ良いものも食べて所有もしながら、万物と人材への認識を経験値を通して深めなければ、家計を遣り繰りすることに奔走するだけの貧乏人が、その意識のままで大きな事業を主管したり世界を主管することは実に乱暴な話だ。

2022年1月24日月曜日

今日の想い 1131

 人間は言葉でできている、というのはその通りだろう。時間と空間を言葉で理解し、言葉で満たし、そして言葉で自分を壊して、形成して、そしてまた壊す。昼の目覚めている意識下ではあらゆる言葉と囁きを脳裏に反射して溢れさせ、ある言葉は捨て、ある言葉はなだめ、ある言葉は前に立たせ、それらの言葉達の中心を立てながら統一体としての私を時空に航海させていく。夜には夜で無意識の彼方に、新たに組み立てられた言葉の数々を差し出し、明日を生きる生命と引き換えにする。紡いで差し出す新たな言葉が亡くなれば、それは地上生の終焉を意味する。人間は言葉の河を支流から大河へと生きるのであり、霊界の住人達は生きて差出し続けた言葉の海に生きている。しかしこの言葉が問題だ。言葉に、生きた命の言葉と死んだ言葉がある。ヨハネ福音書の冒頭に、言葉に命がありこの命が人の光だったと記されているように、生きた命の言葉で自分を満たし時空を理解し自分という存在を輝かしい恒星に創造する。人間は全てそのように願われて、この世界に産まれ出ている。この霊的光は地上では愛と表現される。光を周囲に照射できる存在は愛が深く大きい人間存在だ。あらゆる対象が存在するこの世界で、万物に対し、他者に対し、自分自身に対しても自我の在り様をどう恒星存在にしていくかだ。そして命の言葉は神から来る。命の言葉には瑞々しくも愛おしい、親なる神様の涙の想いと感性が刻まれている。

2022年1月22日土曜日

今日の想い 1130

 人生を歩む上での社会的な定型がある。小中高大と進んで就職して結婚して子供を産んで育て孫に恵まれ死んでいく。その路線をイメージされるままに進んでいくことが人の願いであり、それこそが幸せだと思っている。同じように食口は教会の取り決めを当てはめて、その教会路線に従って生きるのが幸せだと思っている。祝福を受け、選べない相対と仲睦まじく暮らし、子女をもうけて祝福まで漕ぎつけ、そして子供の家庭と孫に囲まれ聖和式をもって人生を終える。一方では祝福の価値を信じているというが、現実は相対の器量や性格を気にするし、愛されて平安な家庭生活を望んでいる。二世の祝福の証しを聞いても、優しい人で良かったとか、楽しく夫婦生活を送れてよかったとか、祝福の本質とは関係のない、一般人と同じ感想しかないようで、そんなこの世の平安を受け取るのが祝福かのように思えて、結局アボジの祝福の意義は何だったのかと思う。祝福の本質は、自分の好みを捨てて状況によっては嫌いな相対を宛がわれ家庭生活を出発するというように、平安とは真逆の荒波状況に身を置くのであり、それは正に愛されるのではなく愛を与える、すなわち犠牲になることが祝福の本質だ。真の愛とは避けたいことを甘受する犠牲そのものだ。真の愛は熾烈な内的闘いであり、それを隠そうにも隠せない感情の衝突や爆発であり、当然怒りや悲哀にも明け暮れる。そうまで打たれて初めて磨かれる霊性が立つ。祝福は時として地上の地獄かもしれないが、そこを通過した者しか望めない天上霊界を受け取れる霊的感性を備えることができる。にも関わらずギクシャクしないこと、ぶつからないことに四苦八苦するだけなら祝福を戴いた意味はないだろう。

2022年1月9日日曜日

今日の想い 1129

 日本の信仰は実は信仰ではなくて、信仰に名を借りた縛りがUC全体のイメージとしてあり、その取り決めを守らなければUC天国に入れてもらえないという、その恐れが縛りの表裏となっている。そこには信仰を持つことの喜びはない。取り決めを守ることに専念する意志とそれを守らないとどうなるだろうという不安の感情は、信仰を持つ喜びへとは向かわない。アボジは日本は忠孝の源だと言われたが、その従順な国民性が後天時代に必要とされる自主性と自我の成長を妨げている。二世は八割方がUCと距離を置いていると言われるが、距離を置かずにUCと一世である親の思惑の傘の中で生きている二割の方が本当に心配だ。UCと一世の親にしてみれば、距離を置いている八割の二世を心配しているのかも知れないが、実は縛りと恐れで自我を抑え込んでいる二割の二世こそが、その心魂を抑圧し人間性を否定しかねないほどの危険を孕んでいる。距離を置いて離れたともされる八割の二世の分までも祝福二世として期待を背負わされるからだ。アメリカは「私」を主張し主張しなければ追いやられる社会だが、その社会の中で日本的信仰を強いられる日本の二世はそのあまりのギャップに潰されてしまう。幾つかの悲劇を私の間近な周囲にすら見てきた。一方で主体性自主性を要求され、今一方で自己を否定する従順信仰を要求される。自らの精神の安定を図ろうとすれば、主体性自主性を否定して意欲のない魂の抜け殻人格を持つか、或いは従順信仰の在り方を否定してUCと親に背を向けるかだが、その狭間で揺れる精神的苦痛に喘いでいて救われるとはとても思えない。UC全体も一世もその根本的問題を無視して問題視していないのは、教条的信仰による心魂の抑圧、すなわち思考感情意志の働きに自由がなく、信仰による喜びがないから愛を紡ぎ出せずにいる。愛によらない形ばかりの献金も伝道も一体何の意味があるのだろう。一世はこの根本的問題を解決しなければ二世に対して大罪を犯すことになる。

2022年1月7日金曜日

今日の想い 1128

飛ぶように過ぎ去る月日は、私が摂理の本流を捉えてはいないことを証明している。摂理的使命を得た者が時を制する重要な役割であり、時の推進力を抑制しているからだ。神様が摂理的期間を決めて高みの見物をしているわけではない。神の一群が使命を帯びた者達と共に、摂理的進展を阻む高次の群れとの綱引きで摂理的期間は決められ、摂理的目標は設定される。アボジが聖和された後、残された摂理的内容は多岐にわたるが、南北統一と海洋摂理は大きな二本柱だったはずだ。願われていた南北統一の摂理は、今その中心的役割を持つ者は果たしているのだろうか。今の情勢を把握し南北統一へのマイルストーンを見極めている者達のことだ。かたや海洋摂理も同じで、アボジ不在の地上でその摂理的重要性を認識して責任を感じている者が果たしているのだろうか。釣り等のレジャー事業を含めたボート摂理はどうなった、食料問題を解決すべく建てられた漁獲から流通消費までの水産摂理は、二世教育の中心的役割を持つはずのオーシャンチャーチは、、。各部署の連携はおろか、摂理そのものに対しての観すら立っていない。H2グループでさえトランプの重要性を見抜き左傾国家と左傾化する社会への危機感を抱いている。しかし家庭連合の中にはそんな指摘もされず活動もなくそんな空気さえもない。世界摂理の舵取りは既に私達を抜きに進められているかのようだ。世界はコロナで一変したけれども私達の意識が目覚めるまで度重なる災禍に更に追いやられていくだろう。先進国家の無茶苦茶な金融緩和と資産バブルの崩壊で、遂に今の経済システムが働かなくなったとき、食料さえも手に入らないという状態にならないと人の意識は変わらないのだろうか。

2022年1月5日水曜日

今日の想い 1127

 留まっていることをアボジは願われるだろうか。常に前進するように顔も体も作られているように、精神の発展なくして生きているとは言えないだろう。御言葉の箇所個所だけを取り上げて、こうあるべきだと言い続けることが発展に貢献するだろうか。その御言葉が内的霊的に関するものではなく一摂理の目標だったりするものでも、そこだけを取り上げて未来永劫の私達への願いと取ることに疑問を抱かないのだろうか。御言葉は流れてこそ御言葉であり、摂理も留まらずに常に状況に合わせて変化させていくものだ。今は後天の時代だ。万人それぞれの主体性が発揮される時代だ。二世はその新しい時代を牽引していく摂理の中心的存在だ。二世は一世の姿勢や行動に疑問を覚えるなら引かれたその線路を走る必要はさらさらない。勿論教条的な信仰の在り方も敢えて踏襲する必要はない。実体という結果に関する限り一世は何の貢献もしていない。一世には二世を壇上から教育する資格はない。ないない尽くしの状況で二世は全く一から、蘇生段階から始めなければならない。それでもマイナスの位置から蕩減を背負って穴埋めをして、人間以下の歩みをしながら平坦にすることができた一世の功労だけは認めてそれだけは感謝すべきだろう。一世は卑下する必要はないかも知れないが正しい歩みをしてきたと誇ることはできない。それは覇気のない私達の空気感に表れているし、二世達に力強く語れる理想も持ちえないでいる。そうなると御言葉だけを手渡して全て二世に丸投げするしかない。何はともあれ2022年の航海は出帆した。良心をなだめ誤魔化しながら信仰を辛うじて維持してきたが、その信仰は果たして2022摂理の航海に機動力となり得るだろうか。或いは逆に航海の妨げとはならないだろうか。

2022年1月1日土曜日

2022年の時代霊を迎える

 御母様は御母様で、お二人の御子女様は御子女様で、それぞれの使命とされる道に献身されたのだろう。神輿を担ぐ食口達も、それぞれ信じる中心に一片丹心を捧げたのだろう。誰も彼等を批判することはできないし、私はただ頭が下がる思いだけで何の言葉もない。私は彼ら以上の事をしてきたとは口が裂けても言えない。しかし私にはそれだけでは良しとされない直感を、歯がゆくも覚えている。ウィルスで肺がやられ、アボジが今生の際(きわ)で呼吸困難の苦しみを甘受されたように、溺れた者達が世界規模で溢れているこの時代に、食口達がそれぞれの信仰を保ち繋ぐ意味とはいったいなんだろう。神霊は人類をどう導き、聖霊は歩み続ける者達とどう共にあって支えるのだろうか。神霊を認識し、神霊が導く中心的摂理に私達は応えようとしているのだろうか。ではその中心摂理とはいったい何だろう。いつも口にしているように、神霊を受け取って摂理観が立っていなければ本人の信仰がどれほど篤かろうが盲目的であり独善の域を出ることはないだろう。先天の意味を個に於いても全体でも問う総括を多くの食口がしていると思われるが、先天を歩んだ意味や先天で残した結果を解らずして後天の摂理を牽引していく群れにはなれない。2021年が去り2022年を迎えた。2021年の中心的時代霊が2022年の中心的時代霊に交代する。神霊にまみえることができる本宮への参拝は夫婦一体圏でなされる。祝福家庭であればその秘儀を伝授されているはずなのに、しかし祝福家庭の中ですら夫婦一体圏が等閑(なおざり)にされている。思考によって神霊を受け取る先天の時代はとっくに過ぎ去っているのに、それでも思考で捉えようとしている食口の方が多数派だ。それでは神霊を受け取れないし摂理の本流に出会えることもない。第四次アダム心情圏に位相を置く第四次アダムの群れとはなれない。その認識を得て、多くの食口が目覚めることができる2022年でありますように。