2023年12月28日木曜日

今日の想い 1282

 今は高台に立ち見下ろして講義や説教をする時代ではない。講義を聞くよりは遺言として残された八大教材を訓読したほうがいいし、説教を受けるよりは互いの恩恵や証を交換するほうがいい。受ける時代ではなく与える時代、常に言っているように受動的な態度ではなく能動的な姿勢でこそ心霊が成長する時代であって、受け身の態度で心霊を啓発されたり知情意を誘発されることはない。一世にすれば、修練会や講義で感動し心霊が高まった、そんな復帰された当時の体験こそ信仰生活のあるべき姿だという思い込みがあるのだろうが、モーセやアボジに代わる宗教的指導者が常に先頭に立っていつの時代も私達を引っ張り続けるというのであれば、私の中に神が働きその内的衝動で摂理を牽引するというような直接主管圏は永遠に訪れることはない。教会組織と体制が今の時代に合わないことは明らかなのに、それでもそこに固執すれば様々な留まる負の淀みにサタンが居付くことは言うに及ばない。み言葉を切り取らずに流してこそ訓読であるし、摂理も河のように流れてこそ本然の目的に向かうはずだ。イスラエル民族がカナンの地に定住しながら、この世的文化に浸透され摂理を忘れて堕落してしまったと牧会者は言うけれども、この世的文化を否定して世捨て人になることで摂理が進むとは一世も思っていない。カイン文化は否定せずに大いに学ぶべきだろう。アベル文化を知っている者がカイン文化を学んで二つを統合することで次元の異なる文化を創造してこそ神の願いに応えることができるというものだ。牧会者の話にはどうもカイン的文化に触れてしまえば堕落するからと恐れさせて創造本性を抑え込み堕落圏に押し込む意図がうかがえる。おそらく本人にはその認識はないのかも知れないが、そこが柔軟性のない信仰で雁字搦めにされていてこの世を受け入れないことの方を良しとしている。様々な他の宗教と同じ問題が私達の教会にも少なからずある。

2023年12月24日日曜日

今日の想い 1281

 私達はこれまで、事ある毎に幾度も幾度も修練会に参加し学んできた。基本は常に原理関連の講義があって、最後に新しい事柄が付け加えられるという段取りが組まれる。それは新たな摂理的取り組みであったり、大会や宣言の説明であったり、献金要請であったり、なのだが、参加すればそれなりの高揚感を覚えることができた。しかし修練会を終えて帰途に着けば、何ら変わらない日々の煩わしさや日常に次第に埋没してしまう。信仰していれば愛の人格が高まるのではないように、どれだけ修練会を重ねても意識はそうそう高まることはない。修練会という団体行動は基本組織全体の目的達成の為の全体意識の一体を目論むツールだと思う。修練会が機能するのは献身生活で皆が集まって同じ行動をするからこそ機能するのであって、家庭を持ち、それぞれの家庭にはそれぞれの事情や家庭の雰囲気がある状況では十把一絡げとはならない。そうなると小規模な家庭教会で内外の恩恵交換をしながら、生活に根差した信仰や霊的意識や感性の醸成が為されるべきだろう。ようするに修練会で大上段から語られる内容と、日々の生活や家庭や社会の段階で解決すべき事柄との乖離が大きすぎて意味を持たなくなっている。御母様の言葉は霊的摂理の根本を変えてしまうほどの重大事項にも関わらず、さして異を唱えるでも、談判祈祷して天に尋ねるでも、また喧々諤々の論議が為されるでもなく、何となく皆が受け入れている風を見るのはそういうことだと思う。教会の使命は終わっている。聖書を見れば使命を得た者達の歩みは華々しくとも、使命を終えてしまうとろうそくの火が消えるような儚さがある。教会摂理と共に生きてきた一世も同じように拳を突き上げる元気もなく、儚く、そして静かに消えていくのだろう。老いていくのは誰も避けられない時の摂理でありながら、走りながら倒れて死ぬことはあっても老いて死ぬことなど私達の意識にはなかったはずだ。しかし老いという時の摂理に従わざるを得ないこの身であることを、一世達は今しみじみと受け取りながら、ひとり、またひとりと地上を去っていく。一世であればこの方の講義を聞かなかった者は誰ひとりいないだろう。周藤先生ご苦労様でした。

2023年12月11日月曜日

今日の想い 1280

 聖書に、信仰と希望と愛、この中で最も尊いものは愛だと記されている。私達のみ言葉にも愛が最も尊いとあるのは食口皆が知っていることだ。であるにも関わらず事実として、私達は常に信仰第一であり絶対信仰であり、これまで愛を信仰以上に捉えて歩んできたことがあるだろうか。神様の本質が愛であるにもかかわらず、その神様がわからないから教えられるイメージを神様と捉え、そしてそれを信じ、信じたが故の歩みを続けてきた。しかしそれはどこまでも信仰第一であって、信仰故の二次的愛であって、それは時に愛の本質とは異なっている。それ故に愛の本質であられる神様の摂理の中心的位置に常に教会や私達があるとはいえない。聖書に信仰と希望と愛というように、敢えて別のもののように記してあるのはそれなりの理由があるはずだ。かの教団が信仰故にとんでもない間違いを犯したことを見れば、信仰があればそこに愛があるとならないのは明白だ。その意味で信仰と愛とは別物だ。聖書に、人を愛しなさいとはあるけれども、人を信じなさいとの教えはどこにもない。信仰で愛が育つのではなく、どこまでも愛することで私の中に愛が育つはずだ。私達は未だに自分達の非を認めず、どこまでも戦う姿勢を示しているけれども、信仰故の独善を立てたところで神がそれを用いられる、すなわち受け取られるとはどうしても思えない。しかし私は教会の全てが間違いであったとは思えない。そうではなくキリスト教の基盤のない日本人の私達に信仰の基礎を染み込ませることができた歩みであり、その信仰基台の上での実体基台ともいえる愛するステージに立つことができた。確かに悉く否定されてきた日本食口であったし凄まじい蕩減路程であったが、今その蕩減を超えて建設の時代圏、後天時代を歩んでいる。2023年のクリスマスを迎えるにあたり、天から与えられたこの福音を日本食口に伝えたい。

2023年12月8日金曜日

今日の想い 1279

今回のシンポジウムを見てみても、やはり二世は良くも悪くも若かりし時の一世のような覇気もないし毒気もないと感じた。おそらく二世教育がどうのこうのと言うより、多くの一世が高齢出産のために、子供といっても孫を育てているような感覚がそうさせたのではないかと思う。一世は摂理摂理で多分に疲れ果て、一般人以上に精神的疲労度は高いはずで、そんな一世に摂理観を二世に教え込むのは容易いことではない。そういう自分だって早々に匙を投げた部類の人間だ。おそらく参加していた二世は学歴も高く、それなりの高所得企業に勤めているのだろうが、摂理に命懸けというより他の宗教信者のように心の拠り所としての信仰なのだろうと思われた。一世がしきりに尻を叩かれ急かされて、睡眠時間も削ってノルマに追いまくられるというような、そんな摂理的喫緊的事情はなくなったのか、それともそういう方針では無理だと認識されたのか、どちらにしても流れはカナン的生活に食口も入り、教会も社会に合わせざるを得ない立場に立っている。しかし摂理的喫緊的課題は一教会が負うのではなく、社会や国や世界という人類全てが負うような状況になっている。先回記したように、世界の経済のファンダメンタルが崩壊寸前にあることを思えば、私達の献身的歩みが摂理に貢献したかどうかとは別に、D-DAYの発令の如く摂理を人類すべてが請け負うという時を迎えているのだろう。地獄を潜り抜けてきた食口達にすれば、年金もないし耳パンをかじる時代に遡るだけで経済破綻も何のそのだが、普通に生きて普通に生活していた者からすれば生活不安は地獄を味わう思いだろう。問題は摂理観のない一般化された二世達だが、これからの恐慌時代を乗り越えるためには、’それこそ一世達の経験が生きて指針となるはずだ。さらに二世達のみならず普通の人々にも影響を与えられるはずだ。神の御意は私達の思い及ばないところにあるし、独善的だった傲慢な選民意識を悔い改めれば御意に応えられる私達になれるし、アボジの号令の下に訓練してきた私達を手放されることはない。

今日の想い 1278

 始める表向きの理由はそれぞれあれど、すべての争いの背後には必ず経済的利権が関わってくる。しかしウクライナ戦争もハマスイスラエル戦争も、理念や文化の違いから起こったというよりは明らかに表向きの通貨利権であり、80年近く続いたドル基軸、すなわちドル一局通貨による経済支配を守る側の闘いであるし、ドルに抗う通貨による攻めの闘いでもある。ウクライナ戦争を仕掛けたのがDSであるように、その敗戦色が明らかになってきたからハマスイスラエル戦争に鞍替えした。しかし彼等にとって戦況はどうも芳しくないらしく、そうなると今度は東アジアに戦いの場を移すことになるのだろうか。しかし問題は基軸通貨として機能させるにはあまりにも通貨価値を薄めすぎた。通貨自体が弱いので戦争で力で抑え込んでも所詮無理だろう。リーマンショックの時点で、長らく続いたモノ売買主導ではなく債権売買主導の金融経済に傾いた大きな歪を正さなければならなかったにも拘わらず、やったことは4回のQEによる更なる莫大な債権を発出することで延命を施したのであり、結果金融バブルを何倍にも巨大化させてしまった。風船を大きくすればするほど破裂しやすいのであり、その破裂はより巨大なものとなる。既にバブルは最大化されているのに、此度のコロナショックによる更なる巨大化はバブル崩壊による強烈な冷え込みを覚悟する必要がある。物価のインフレはその前兆に過ぎない。この未曾有の破壊力に耐えようとすれば、ここまで成長させてきた経済の実質的死を受け入れて超える必要があり、超えて蘇らせなければならない。次なる経済は一局体制から多極体制になるはずだが、そうなると一体何が変わるだろうか。想像を超えていてそれこそ神のみぞ知る、だ。

2023年11月27日月曜日

今日の想い 1277

 2023年は食口にとって散々な年だったかも知れない。神の摂理に投入してきた人生を否定され、捧げてきた当然のこととして資産がないどころか年金すらない、せめての狭い世間との付き合いですら差別的空気で顔を背けられる、二世としては隔離されては生きられないので自ずと教会との関係性は隠さざるを得ないだろう。こんな状況で祝福家庭としての誇りをどう取り戻せばいいのだろうか。結局追いやられるようにしてこの国を去らざるを得ないのだろうか。イスラエル民族が放浪の民となって世界に散っていったように、統一食口もその名をあざ笑うようにそれぞれの、様々な、別々の信仰観、人生観に立つようになり内的な放浪の民となるのだろうか。しかし、それでも神は存在する。摂理は継続される。たとえ人類の相当数が地上から消え去るとしても、地上の御国は建設される。いつの日か、、。多くの一世はモーセのように、アボジのように、肉体でその日を迎えることはないのだろう。それでも私達の霊は永遠だ。永遠というより時間という縛りを超えている。私達の霊は過去にもあり未来にもあり、もちろん今にも存在している。だからその日を、その完成圏を全ての霊が共有する。私達が覚悟し、決意し、魂を投入して捧げてきた全ては霊に刻印されている。そして霊界の基に組み込まれている。だから能天気にあの世の幸せだけを夢見ながら暮らせと言っているのではない。その逆で、更に覚悟し、更に決意し、今保っている魂をさらにすり減らしてでも投入する。私達の信仰伝統は苦労の百科事典であり、息絶えるまでより苦労して戦って涙を流してこそ統一食口としての本分を果たせる。

2023年11月9日木曜日

今日の想い 1276

 教権の腐敗によって教会は堕落してしまった、と言いたい気持ちはわからないではない。しかしそう結論を出してしまうのはいささか早合点過ぎるし、組織として社会的に活動する以上アッシジのフランシスコのように清貧だけを重んじて活動するわけにはいかない。おそらく頭の中で、教権幹部達が悪代官のように笑みを浮かべて札束を懐に入れる映像が回っているのだろうが、実際は現実問題として、或いは摂理的意味や願いがあってそうなったのかも知れないという思慮に欠け、感情論でしかない。そういう者に限って自分は何の負債もないという傲慢な自覚を持っているらしいが、人それぞれ生まれた環境が異なる宿命的意味の差別は歴然として存在するし、社会が自由主義である以上当然貧富の差は存在している。一方で日に何万も餓死し、明日食べるものも事欠く者達もいるという底辺の食糧問題に対して、アボジは海洋摂理、水産摂理を立てられた訳だが、そんな摂理は忘れたか知らなかったかのように見たいところだけを見て殊更に幹部の富を羨み指弾するのは、共産主義者の連中と何ら変わりない。施しだけで世界が救われるなら遠の昔に平和は訪れている。そんなことより統一食口としての私の心配は、今の教会に、そして兄弟姉妹に本当に摂理観が立っているのかどうかという大きな問題であり、それぞれが裁いたり裁かれたりするのは霊界秩序に任せばいい。それなりの責任を預かる以上それなりの行動予算は必要なのであって、自分の測りだけで横から指さし横領だ搾取だというのは秩序も乱すだろうし、信仰姿勢からしてもおかしい。ビジネスに携わればわかることだが、資本の大きさや扱う額が大きければ大きいほど、それに合わせて給料も生活水準も高くしなければビジネスの維持はできない。商談の場にのみスーツで決めて行けばそれで事足りると思うかも知れないが、生活が異なれば話も合わないし、だいたい気も水も合わず商談どころではない。アボジがACLCのメンバー達にローレックスをプレゼントされたことがある。立派な家をプレゼントされた先輩家庭もある。使命と位置に対してそうされたのであり、それなりの内外の段階を超えれば、それなりの万物は必要とされて集まってくる。

2023年11月8日水曜日

今日の想い 1275

 東と西はどうやって一つになる? 男と女はどうやって一つになる? 夫と妻はどうやって一つになる? 心と体が一つにならなければ夫と妻は一つになれない。では心と体はどうやって一つになる? 夫婦が一つになる為に心と体の闘いを要求される。一方で心と体が一つになる為には夫婦間の闘いも要求される。一体化という言葉を普通に受け取れば、熾烈な闘いや苦悶をそこに見ることはないのかもしれない。しかし一つになる為には心と体の闘いがあるし、もちろん夫婦間のいざこざや闘いだって当然ある。要するに観念で捉えるだけでは意味はなく、一つになるという具体的行動、すなわち闘いの中に概念は隠れている。そうなると所詮人間は闘うために生まれて生きているということなのかもしれない。一方を平和にするために他方の闘いを強いられる。ウクライナ戦争もハマスイスラエル戦争も他方の平和を求めて、あるいは維持するための戦いかもしれない。私達は平和に対して、あるいは一つになるということに対して、地に足がついていない、現実を無視した観念だけでわかったつもりになっていた。今国から解散請求を突き付けられて、否が応でも現実に引きずり込まれた。突き付けられることで様々な闘いに臨まざるを得ない。しかし闘うことでこそ、御父母様の勝利圏は相続されるはずだ。食口も団体も一皮も二皮も向けて幼虫段階を超えるはずだ。大きく羽を広げて飛び立つ日も遠からず訪れる。私達の本領発揮はそれからだ。今の時を何もせずに堪えれば恩恵に与るのではなく、闘いを勝利してこそ新たな次元に超えられる。それでこそ希望的観測と言えるのであって、何もせずに棚からぼた餅が落ちるのを待っているだけの信仰なら、鰯の頭にお願いしているのと何ら変わらない。

2023年11月2日木曜日

今日の想い 1274 (聖杯伝説)

 アーサー王と12人の騎士の話は、伝説として一つではなく様々な話として語り継がれているけれども、その真意をあぶり出したのはシュタイナーだ。しごく簡単に説明すると、ミカエル大天使と繋がる一人のアーサー王という中心と、彼を取り巻く12の騎士は一つになっていた。しかし皆が一つになっている円卓上に聖杯(キリストの権威を象徴する聖なる器、最後の晩餐でイエス様が使われたとか磔刑のイエス様の血を受け取ったと言われる器)が現れて、そしてどことも知れず消え去ってしまった。一つになっていた12の騎士はその聖杯を探すべく散り散りになり、一つになっていた円卓は壊れてしまった。それからそれぞれの騎士が聖杯を求めて旅する話は続くけれども、要するに、中心とされて一つになっていたものが崩れ、新たな中心となる聖杯をそれぞれが探し求めるという伝説だ。シュタイナーはこの伝説を、キリスト精神を宗教的権威から受け取るのではなく、それぞれの内面の霊的主体から直接に受け取る時代がくると言っている。私は彼のこの霊的指摘をアボジが指示されたみ言葉にみたときに、彼を導きそしてアボジに使命と摂理観を与えた神霊は同じだと確信した。教会の宗教権威を中心として一つになっていた統一の群れは、アボジの良心宣言で宗教組織ではない家庭連合へと変革された。それはまさしく伝説の中の円卓の崩壊であり、良心革命によってそれぞれが直接に神霊を受け取る、謂わばそれぞれの内面に聖杯を受け取る過程にある。聖杯はその言葉の通り聖器であり、聖器は性器であって、良心と絶対は相通じており、良心の研鑽に絶対のあり方は必要不可欠だと思っている。「逍遥から本殿に向かって」で記したように、本体論の中心である絶対の概念を受肉しないかぎり、神霊一体圏にある良心を受け取ることはできない。

2023年10月23日月曜日

今日の想い 1273

 アボジが聖和されて基元節を超えて見えてきたことは、み言葉を知っていようが知っていまいが、信仰を持っていようが持っていまいが、摂理観が備わっているかいないかとは別ものなのかもしれないということだ。真の父母に繋がっていても、何をもって繋がっているかによって生き様はそれぞれであり、もちろん摂理観のあるなしとは直接的関係はなくなっている。私は摂理の大きな潮流として先天時代から後天時代への移行認識を持つかどうかを上げているが、食口は後天時代という言葉は知っているけれどもその意味をわかろうと行動して、更に認識している食口は実に少数派だ。アボジがマヤ暦の区切りとして2012年12月(そこには付随して人類滅亡説とかもあるのだが)を耳にされて、世間の人々も知っていることは知っているようだと口にされたことがあったが、それは世間のぼんやりとした摂理観だが、後天(開闢)時代について語られ、そしてその先天から後天への転換点である基元節とそれに向けての事細かな宣言のみ言葉に目を通せば、後天時代への内的霊的在り方が詳しく記されている。アボジの摂理観は非常に難解で、摂理観の未だ開けていない私なぞみ言葉との格闘そのものだが、そこに私達も含めた人類への後天時代の在り方は明快に記されている。かつて2009年1月、未確認物体で記したことはあるが、この青白き球体の正体はプレアデス星団の一つだと思っている。先天から後天はマヤ暦長期周期の終わりであり、プレアデスからシリウスであり、魚座から水瓶座であり、そして実体的天一国であり連霊性教会による主管統治だ。統一教会は家庭連合という組合を土台としながら連霊性教会へと位相を上げる。よって後天時代は先天の朧げな霊界認識ではなく、誰もが霊界を認識できる時代であり霊界と通じることで社会を主管統治できる。蒼白き星プレアデス(昴)から霊的手記を受けた谷村新司が地上を去った。時代は既にシリウスの時代だ。地上は狂ったようにDSによる世界一局統治を推し進めているが、支配階級によるピラミッド統治から多様性で多神の共存を受け入れる世界への潮流は止まらない。旧教会は一局統治だが本当の家庭連合は宗教の括りを外した祝福家庭の組合であり並列だ。水瓶座の時代を象徴するように、摂理的大会では様々な宗派の代表が壇上に上がり、それぞれのボトルの水を大きな器に流し込む儀式を行った。皆が相反するのではなく共存してこそ連霊性教会による後天開闢時代が訪れる。

2023年10月18日水曜日

今日の想い 1272

訪米されてACLCから歓待を受けられ、そしていくつかの決意の表明を受けられ喜ばれておられた。いつものごとく、摂理的催事の度に勝利的、希望前進的な発表が今回も為され、食口は浮ついた感情を高める。私はそれが現実逃避であって何も変わらない現状に満足しているとしか思えない。韓国教会を支え、米国教会を支えてきたのは、今解散請求が出されている日本の教会食口だ。もちろん米国摂理であるACLCを支えてきたのもそうだ。日本食口の生活を犠牲にし、そのやり過ぎから恨みまで買いながらもそれでも献金摂理を止めずに支えてきた。私は多くをアメリカで歩んできたから言える立場にないことはわかっているが、謂わば韓国も米国も日本の犠牲の上に胡坐をかいてきたのは事実だ。恨みまで籠っているその献金で一体何を、どういう基盤を築き上げてきたのだろう。ACLC、、? 今この時に御母様の前ではなく日本政府に皆が出向いて抗議すべきだろう。疲れて信仰の火の消えかかった日本食口に、内外のサポートを、それこそ生活を犠牲にしてでもすべきだろう。頑張れ頑張れの声だけ、熱の無い祈りの条件だけ、それが今の疲れ果てた母の国に対する態度だろうか。あまりにも幼稚すぎて、長い年月を通して一体み言葉の何を学んできたのか訝るほどだ。日本からの献金を当てにできないとどうなるか、その勘定だけはできて対処しているようであちこちの所有資産を売却している。要するに視野に入った自分の蛸の足を喰い繋ぎながら生きようという魂胆だ。確かに全国に作ろうとされている天心苑は素晴らしい恩恵かも知れない。真摯な祈りでこそ神霊を受け取れるのはそうだろう。しかし果たして食口達に、特に韓国や米国の食口達に、切実な想いとしての祈れる基台が備わっているだろうか。建物や場所だけ用意すれば神霊は、アボジの霊は降りてくるだろうか。仏つくって魂不在になる心配は私だけだろうか。もはや楽観的で幼稚なお花畑信仰では摂理は担えない。生きる道があるとするなら天からの大ショックが降りて、一端絶望の淵まで落とされてこその、そこから立ち上がる胆力の備わった希望的前進への道だ。

2023年10月16日月曜日

今日の想い 1271

報道特集を見るでもなく見ていたら、なんと尾脇先生と阿部正寿先生が今回の件に関してコメントしておられた。驚いた。まさかメディアに顔を出しコメントされるとは思わなかった。でもこの方達は霊感何某や高額献金には直接関わっておられない。解散の結果は残念だが仕方のないこと、とのコメントだと私は受け止めたがどうだろうか。言葉は簡単だが、その裏に隠れる想いまでは短いコメントからは伺い知れない。こうなった原因は傲慢さにあった、との言及や、肩を落とす現役二世に対してはこういう困難を乗り越えてこその信仰であって甘えが見えること、それは我々一世の二世教育に対する問題があったこと、等を短い言葉で指摘されていた。先輩家庭が声を上げないのは、かつての教会が変わり果て現教会の問題を自覚しているし、既に世代が異なり我々がしゃしゃり出る立場も意味もないと思っておられるからだろう。もちろん問題に直接かかわった方も全く関わってない方もいて、直接かかわった食口からは恐らくコメントはしづらいはずだ。私達の中に良心の呵責がある。良心の呵責というはっきりした自覚はないにしても、顔を上げて堂々と説明できない、偽ってきた過去の自分を振り返り、晴れ晴れとしないまずい過去があることは自覚している。良心革命による良心の時代に生きるにあたって、食口は自分の良心の声を聞きだすことから始めなければならない。良心は神様にもまさる、という言葉は、良心こそが今まで神と認識していた神以上の存在だということだろう。日本には日本特有の村社会がある。良心の声を聞かずに周囲に合わせて生きてきたのは、教会内に留まることだけのことではない、日本社会そのものが村社会に合わせてきた。声の大きい者に、怪しく周りを誘導する者にそれとなく合わせてきた。日本国民には自我という霊的柱は立っていない。地獄の蓋が開けられて魑魅魍魎が好き放題跋扈する日本の現代であればこそ、今こそ霊的柱を立てることが必要だ。そういう者しかこれからは生き残れない。周りをキョロキョロする自分から、しっかりと上を向いて天を捉え、神霊降り下る良心の声に従えばこその祝福家庭だ。

2023年10月14日土曜日

今日の想い 1270

 ついに国家的鉄槌が振り下ろされた。裁判に入ると2年3年はかかるとか、国民国家ではなく現政権が判断したのであって戦いはこれからだとか、様々な言い訳が散見されるが、どれもこれも受けいれられない苛立ちと強がりに過ぎない。もし裁判で否決されたとしても政府のお墨付きはかわらず、これから信者の個人や家庭の生活場面にまで深く影響を受けることになるだろう。道義的責任からいえば、組織的献金強要があったということであり、ヤコブの知恵的責任からいえば、常識を乖離し世間や諸官庁を説得できないにも関わらず猿知恵のまま独善的路線を走ったということだ。これから差し押さえられる恐れのある教会経由ではなく、訪韓して信者が直接本部にCASHを渡すことで乗り越えられると、日本食口は献金するのが当然でどうにも献金することに飢えていると言わんばかりに、取り敢えず数千名の二世に動員をかけたらしい。本当にATMにしか見えないのだろうか、そこまでして日本食口は献金自体にこだわっているのだろうか。お金を出すことで世界を救うと口では言いながら、死後の明るい居場所を準備するため献金で天国の分譲地を買っているということか。そんな下心あってのことなら何の同情も得られないだろう。しかし私は今までの献金が下心でも惰性でもなく、純粋な他を思い世界を救う気持ちであると信じたい。人間は神との関係で堕落し、相対関係で堕落し、そして万物主管、お金との関係で堕落する。法外な値段であったり多額な献金量が問題だったと思っているけれども、差し出す方もそれを受け取る方もお金に対する価値が見出せなくなっていた、ということをわかっていない。万物主管という愛の行動であるはずがお金をモノとして扱い愛が関与しない、そうなると万物は必ずその報いを訴えて反乱を起こす。私達は信教の自由に対する迫害というていを取ってはいるが、実のところそれは後付けで、万物復帰に対する大いなる欺瞞、多大な誤解があって、それが万物の反乱を引き起こさせた。富を否定する共産主義者や金の亡者の金融資本主義者ではなく復帰摂理の担い手である教会や食口に於いて、万物の精神性を否定し続け、大量の万物を受け取る側も与える側もお金の価値への感性が失われていた。魑魅魍魎が跋扈する政治や社会にばかり目をむけてああだこうだいっているけれども、私達自身が良心に向き合いながら、摂理に対してどうだったのか、横との繋がりはどうだったのか、お金との向き合い方はどうだったのか、歩みを止めて胸の良心に聞いてみろという天の計らいがあってのことを無視している。

2023年10月12日木曜日

今日の想い 1269

 高校を卒業したその足で献身したが、献身してまもなく、当時の勝共摂理として全国の献身者が東京に集結し、朝から晩まで都内でビラ配りをしながら都知事選応援の戦いに臨んだことを覚えている。もちろんただ配るのではなく、一軒一軒訪問して対面で自民公認候補の石原慎太郎に一票をとお願いする。慎太郎の作詞した青年の樹を朝に晩に歌い、訪問しながらも口ずさみ、日を重ねるにつれ盛り上がり内輪では快勝の手応え十分と誰もが信じて疑わなかった。がしかし、選挙日の夕方には早々に左派系の現職美濃部寅吉、三期目の勝利を伝えるニュースが渋谷の電飾広告から流れてきた。皆が驚き中心者にも事の成り行きを尋ねたが、首をひねって視線を外し黙して語らずで、それを見て兄弟たちも黙ってしまい、帰りのマイクロバスの車内は本当に最悪だった。あの摂理から始まって、切れることなく様々な摂理が打ち出されては消え、打ち出されては消えて今に至るが、どれも最初は勝利して当然のような空気が包み、しかし途中の報告があるでもなく、摂理失敗の報告があるでもなくうやむやになって、そのうちに次の新たな摂理が打ち上げられる。そうして打ち上げられた殆どの外的摂理は時間と共にことごとく消え失せ、何の成功体験もなく今に至っている。摂理失敗の責任を誰が取るでもなく、拭うでもなく、もちろん反省も検証もないのであり、霊感何某の経済摂理だって同じで誰も責任を取らないし、反省も検証もしてない。だから表立って説明責任を引き受けて顔を出す者も誰もいない。確かに1991年のアボジの故郷である北朝鮮への訪問と金日成との会談は勝共摂理として全世界が注目する一大イベントだったが、良くいえば大花火の打ち上げ、悪く言えば大風呂敷を広げただけの、名誉名声を得て勝利とする韓国人特有のパフォーマンスに事実上終わった形となった。今となってはそう見える。北韓事業への莫大な投資はアボジが亡くなられると同時に向こうにくれてやった状態で手を引いてしまった。私達は皆、アボジと金日成との勝利的会談で、南北統一も日本人妻問題も、北の軍事的脅威も全て解決されるものと信じていたはずだ。しかし他の摂理同様尻すぼりで、そんな期待があったことも忘れている。教会文化というか慣習にあるのか、過去は忘れて触れないし、ひたすら明日を見つめて歩み続ける。しかしもうそろそろ私達は過去の反省と検証が大切なことを学ぶべきだ。過去の総括なくして未来はありえない。

2023年10月7日土曜日

今日の想い 1268

「 君たちはどう生きるか」という宮崎駿監督の映画が話題になった。正直、この映画を見ていないし、また今のところは見る気もない。レビューを見れば、宮崎監督の哲学気取りの小難しい内容だとわかるし、トトロのような万人受けの映画なら映画館で見てみたいと思うが、本なら読むにしても映画は余裕があるときビデオでも見れれば十分だと思った。これは主題が先ず間違っている。君たちはどう生きるかではなく、君たちはどう死ぬか、を問わなければならない。生と死は対だ。生があって死がないということはありえないし、逆もそうで死があってこその生だ。どう生きるかを問うならどう死ぬかを同じように問わなければ、相対関係上一方を問うだけでは何の答えも導き出せない。おそらく鑑賞者(敢えて鑑賞に値するとして)の9割方は若者だろう。現代の若者特有の認識として、先ず自分が死ぬとは思っていない。勿論頭では理解できても、感情に於いて死ぬことを認めてないので、半永久的に生きると大方が思っている。死を宣告された人であれば異なるが、感情認識として死を受け入れてない人に生の意味を問うのは、ただの机上の空論であって、自分のインテリ感を満足させるだけの経験に過ぎない。同じように自由だ幸せだと、口を突いて出る二世も、死生観を深く捉えているとはどうも思えない。如何に死ぬかを問うてこそ、真の宗教だと思うし、どう生きるかのみを問うのは御利益の教えでしかないだろう。霊界だ何だと頭の知識だけはあったとしても、これは二世だけではなく一世にも言えることだが、知識としてただ知るのと、感情として知るのは死生観に大きな影響を及ぼす。更に肚に落とし込んで、創造本然の本能的でもある指向に繋げるのは死生観に決定的影響を及ぼすようになる。

2023年10月5日木曜日

今日の想い 1267

 ブログ村にてシンポジウムの感想をそれぞれ述べているが、どうもどのブログの感想もピンとくるものがない。私に感想を言わせたなら否定のオンパレードになってしまうが、先ず触れるべきは、二世が誰に指示されるでもなく自分の意志でこのシンポジウムを開いているのは、その内容がどうかということは別として喝采したい。口を閉ざして隠れ教会員として密かに生活している一世に比べれば雲泥の差がそこにある。そこが最重要であることに触れておいて、どうでもいい私の感想を述べるとすると、彼らが純粋すぎるのかこの世の人々が狡猾すぎるのか、二世は世間の風当たりの現実を全くわかっていない。人はどう思っていようが自分で信じて信仰しているのに何が悪いのか、という論理では説得に無理があることが全くわかっていないようだった。この世の離婚の多さの問題、家族間の繋がりの問題、そして少子化の問題など社会の問題にも幾らか触れてはいるが、「基本私がしたい信仰をさせて欲しい」が常に前面に出ていた。そして何よりも残念なのは摂理観が立っておらず参加した二世に摂理観はほぼ見て取れない。摂理観のない、個人や家庭の幸せのみを目的にする小乗仏教にも似た信仰観で、一世や親の二世教育は祝福を受ければ幸せになる位のことしか教えてこなかったということだろうか。この期に及んでシンポジウムなんか開いている時かと、教会に賛同的な人でさえ口に出すこんな危機的時期でありながら、私達が犠牲になってでも国の為世界の為に歩んだ事実を全く認めない宗教学者の辛辣な言葉に対して、苦笑して頷く程度の返答ではどうしようもない。正直、私は益々この教会のお花畑さに愕然としてしまった。教会の存続がどうかという以前に、この国の現実を訴え、そして憂い、私達が国の救いに全力を傾けている、その熱情を義憤と涙で訴える多くの食口が全面に現れてこない限り、所詮私達の教会、私達の信仰はこんな程度だったということなのだろう。勝共の勇士烈女、生命を捧げる成約聖徒は皆鬼籍となって地上には既にいないのだろうか。こんなところが私の感想と言えば感想なのだが、角が立たない二世だからこそやれることがあるのかも知れないが、私にはそんな路線で何とかできるとは思えない。最後に質問を宗教学者に投げかけた、女性評論家のあの迫力の押しは、多くの女性食口がかつて持っていたものだが、多くの一世が年老いた今となっては丸く小さくなったということなのだろう。

今日の想い 1266

私の言動は何かにつけて悲観的で否定的だと言われてしまった。突然の言葉にたじろぎ、言葉も返せずせいぜい苦笑いで胡麻化した。確かにそういうところはあって、痛いところを突かれたなと思い返してみたが、食口、特に責任をあずかる食口の何と楽天的なことかと、自分への意見は取り敢えず棚に於いてそんな思いがわいてきた。過去を振り返って思い起こせばなおさらにその思いは強くなった。今回の事件以降の食口達の反応もそうだが、どうも言うほどには悲惨さは受け取れず、この試練を乗り越えれば天の恵みにあずかるなどと、随分能天気に構えてどうでもいい、祈りとも言えない祈祷条件を供えていたりする。確かに未来志向は大切だが、それが楽天的とはならない。そして責任の重さをより感じれば感じるほどに、当然に悲観的感情を先ず覚えるはずだ。しかしその感情を乗り越えて自らの責任分担を全うすることに集中し、事の成否は天に任せ天が下すのを覚悟して待つということだ。悲観的切実な責任感情も覚えず、最初から楽天的に構えて振舞う責任者を多く見てきたが、決まって不本意な結果を見てきた。そういう無責任な臭いを放つ食口や責任者を私は信じない。そしてそういう能天気で無責任な輩は教会内に多い。皆を扇動すべく甘い夢を見させるという大法螺を吹きながら貴重な時を費やして、半世紀も経って伝道や経済の基盤という基盤が殆ど培われていないこのていたらくだ。

2023年10月2日月曜日

今日の想い 1265

 こうなることはわかっていたけれども、やはりそうなったかという、言葉にならない思いがある。それでもまだ請求は第一段階で、これから司法に委ねられて表向きは審議されるとして早くても一、二年はかかるだろう。しかし結果は既に決まっている。内部改革どころか内部から闊達な意見交換すら出てこない組織に堕し、変わるためには外圧しか当てにならないところまできてしまった。あれほどに身も心も捧げて投入してきた教会摂理だったはずなのに、方向性が歪められて久しく、修正しようもなくついにここにまで至ってしまった。私自身はもはや教会が存続することに何の意味も見出せないが、しかしこんな道義もない外圧で解散されるとなると、献身してほぼ一生を捧げて歩んできた身としては砂利石を嚙むような思いだ。それこそ私の青春を返せだ。初期のK会長の講演動画がアップされていたので、見るとはなしに見始めたが、まだ幼くも燃えていた当時の自分を思い出して目頭が熱くなってきた。こうなったのは他の誰の責任でもない。私を含めた全ての一世の責任であって、一世は被害者でもなければ他の誰かに責任を問える立場にはない。本当に正しい道だと信じて歩んだのか。おかしいことは分かっていながら声に出さないことを選んだのではないだろうか。灰を被って断食でもして形だけでも悔い改めるべきだ。そして重い口を開いて無理にでも責任者批判なり自らの想いをぶつけるべきだ。あまりにも一般食口はおとなしすぎる。昨日、また一人の先輩が霊界に発たれた。御本人は義憤の人であったから、誰彼構わずおかしいものはおかしいと声を荒げておられたが、それでも一点の曇りもなく発たれた訳ではないだろう。少なからず初期に復帰された一人として無念の想いを抱かれていたはずだ。その想いが病を一気に悪化させた。聖和の報せを受けて、一緒に歩んだ頃よく言われた言葉を今更に思い出す。それは「朝を奪われない者が勝者となる」という言葉だ。どんな牧会者ぶりして分かったような説教を受けるよりも、それは本人が貫いて得た生きた言葉だった。  合掌

2023年9月27日水曜日

今日の想い 1264

 人生の問題を真摯に問うて入教した食口であるなら、原理とみ言葉が大きな柱となって導かれてきたことに異論はないだろう。そして新しい真理による人生指針への新鮮さと明快さは、己が人生をかけてこの道を歩むに相応しいと当然思ったはずだ。未だに、惑わされている、なんぞと人助けでもしているつもりで私達に助言するけれども、根本問題への意識の欠如した者達の思い込みで対され、彼等にとっては全てを捧げて歩むことが全く理解不可解で、観念的なマインドコントロールという言葉で認識する以外ないらしい。一方私達の社会に対する問題は、社会を救うといいながら実際のところサタン世界と認識して社会の人達から距離を置いてきたことだ。そこには選民意識もあるし救いの理解も曖昧で、社会を愛して救うといいながら現実の行動は社会に対して独善的で排他的だった。目指すものが高すぎるが故に理想と現実の仲補となれず地に足がついてはいなかった。しかし社会から注目されるようになった事件以来の食口達の行動や言動を見るに、人生をかけてこの道を歩むことを意志した者としては随分熱量が冷めているし、み言葉に出会った当時の霊界の晴れた新鮮さや意志の明快さはとっくに影っている。SNSで、「統一さん、もっと戦ってください」と、み言葉を知らない人から言われ歯がゆさを与えてしまうほどに義憤どころか怒りの感情すら伺えない。燃える意志の魂から燻る惰性的な意志欠如へと、信仰の翼は深く傷ついていて、高みの精神を目指して羽ばたくことなどもう至難の業だ。日本の食口が切り取られたみ言葉や中心者やアベルの言葉に対してのみイエスマンとなり、自分の中に天の心情相続への実感を積み重ね、魂や精神の成長を認めることができなかった道のりであるなら、そのままみ旨だと自分に言い聞かせて歩むことに差ほど意味はない。もし心情相続が少しづつでも為された歩みであるなら、良心が益々際立ってくるはずだ。天によって強くされた良心に従うのが当然であって、どんな団体に組するかや教会存続の如何は私のみ旨とは関係がなく、私に対する摂理が止まってしまう訳ではない。

2023年9月19日火曜日

今日の想い 1263(西洋と日本2)

 統一神観がキリスト教と異なる点はいろいろとあるが、人間は被造物だが本来神が宿る神の宮だという点、そして万物は勿論被造物だが万物にも神性の一部が宿っているというキリスト教にはない異なる点が重要だ。神が人間に万物の主管を委ねたのではなく、人間に神が宿って万物を主管する。主管と言えば上から下に見る格好だが、万物に神性が宿っていて愛をもって愛おしむと言った方が表現としては合っていると思う。西洋キリスト教社会からは神への態度を学べるが、万物に対する態度としては日本に学ぶことが多いと思うし、その点統一神観は中庸であって素晴らしいと私は感じた。教会に対する今回の問題は、食口からは宗教迫害だ信仰の自由の剥奪だと騒ぐけれども、もともと日本に神観を根付かせる土壌はないし、神は当然いないとはなから論議もしないし、神無き科学物質主義が隅々まで浸透していて、宗教的精神などそう簡単に理解できるはずがない。信仰の自由の為に戦った経験はなく当然信仰の自由の体感や重さはわからない。個別の信仰を持つこと自体が異質でありカルトと見られてしまい、信仰の自由は法的にはあるかも知れないが信仰の自由の雰囲気や空気などもともとない。敗戦して、神の代替えであった天皇も一人間となられたのは良しとしても、マッカーサーは天皇に代わる神という名の絶対存在を憲法にも謳い教育にもすべきだった。敗戦以降の宗教的権威を今日まで持てなかったのは国体の未だない日本衰退の根本要因だ。周囲の目を恐れる村社会文化はあれど、神を知らず畏れないから愛の精神の何たるかもわからない。政治家や官僚の公的の意味も神民に仕える公僕ではなく、永田町村であり霞が関村のことしか視野にない。それは原理を受け入れた日本食口も同じで、御父母様を現人神と同じと思っていて、良心が研ぎ澄まされずに現人神の御機嫌を取ることにのみ力を注いできた。後天時代に入ってアボジが良心宣言をされても尚、視野の狭い信仰観で教会の中のことしか範疇にない。アボジが聖和されても基元節を超えても尚、日本人が周囲しか見ていないように食口も周囲しか見ていない。今となっては日本食口の口のない忠誠心が裏目に出て、口を開くべき時でさえ何も言えない。

今日の想い 1262(西洋と日本1)

 西洋と日本の根本的な違いは、西洋キリスト教社会は神によって万物は創造されたという被造物観、しかし日本は万物に神や霊が宿るという八百万神観が古来からある。西洋に於いて、この被造物観から造られた万物は神から人間に主管を委ねられたのであり、そこに必然的に人間中心主義(ヒューマニズム)が芽をだし、さらにヒューマニズムから科学主義(物質文明)が導かれてきた。日本に西洋文化がなだれ込んだ時、キリスト教の神観そして被造物観を差し置いて、先ずヒューマニズムと物質文明が広がりを見せた。それは日本にキリスト教が馴染まず、というか八百万神観という日本人の根底を正しく変える時間もなく、下手な接ぎ木状態で西洋文明を受け入れたものだから、ヒューマニズムは個人主義へとなだれ込んでいくだろうし、科学主義は物質万能主義へとなだれ込む。とりわけヒューマニズムが日本を士農工商の身分社会から立身出生によって身分に差は無しとなり、さらに個人主義(エゴイズム)へという流れを止めるのは、あえて西洋ではキリスト教によって浸透した規範を日本では天皇を神として奉る天皇制に差し替えられることで一応堰き止めることができた。大日本帝国憲法には第一条に「万世一系の天皇による統治」、第三条に「天皇は神聖にして侵すべからず」という文言が謳われている。まさか草案した者達にそれだけの深い思慮思索があってのことではないだろうが、結果的に西洋に於ける神の存在が日本では天皇に置き換えられる格好となり、それが奇跡的に機能したということだ。しかし問題は天皇は創造神ではなく限られた朽ちる肉体を持って現世国家と密着している。武士道精神も相まって他国と戦っているうちは機能したものの、敗戦して人間天皇になるや否や天皇の言葉は力を持たず、日本は個人主義と物質主義の流れに歯止めは効かなくなってしまった。そして神に代わる存在を戴けず日本の精神の荒廃ここに至れりとなってしまう。

2023年9月17日日曜日

今日の想い 1261

食口の誰もが知っているように教会は三分裂した状態にある。しかし教会が分裂したのであって真の家庭が壊れることはない。御母様には御母様の言い分がある。それぞれの子女様にもそれぞれの言い分がある。そして食口の大方は絶対信仰の観点から御母様に従っている。もちろんそれが普通だろうし当然なのかも知れない。それは論理的に考えての行動ではなく、御母様は御父母様一体圏を成立させる御母様であってほしいという期待からそうなのだろう。私の立場は三つのどれとも異なるが、しかし全てに賛同しているとも言える。先ずそれぞれが党派をつくり袂を分かっているけれども、どこかに所属してしまえば分裂を事実として認めたことになってしまう。私はどこまでも正反合ではなく正分合だ。真の家庭は一つであり、真の家庭に繋がる私達も一つだ。袂を分かっているのは家庭内でのことではなく党派、すなわちどう解釈するかの観点で異なっている。異なっていようがどうであろうが真の家庭は一つで分かち様がない。韓国ドラマを見るように壮絶な遣り取りがあるけれども、一つであって切っても切れない関係だからこそこうも激しくできる、と見ることもできる。お互いを敬い笑顔で褒め合っていれば一つなのかというと、決してそうでもないだろう。親子間であっても熾烈な応酬をほぼさらけ出しているのを見れば、そこに、臭いものには蓋というような隠し事もない。食口の多くは悲観的に捉えているが、これも摂理であって、起こる全てに蕩減的側面と創造的側面があるように、こうなればこそ前進できる創造的側面も見出せるはずだ。現実的に一つかというとそうでないことはわかるし、それを無視して一つだと言い続けることに意味はないが、現実は通過点であって霊的な事実を見届ける感性を失ってはならない。そしてそこに見えてそこから受け取るものが御父母様の勝利圏だ。今の状態を真の家庭は壊れたと認識するのは、御父母様一体圏から何の恩恵も受けなかったと溜息をつく者達の恨み言に過ぎない。壊れたと認識することで信仰を投げ出すのであり、心情圏の少しでも相続した者であるならそういう結論は出さない。

2023年9月16日土曜日

今日の想い 1260

神様は愛がより愛らしくなるために、堕落の淵にあってもアダムとエバに任され、手出しはされなかった。おそらく原理を聞いた誰もが、どうして親なる神は堕落する子に何某かの救いの手を出して止めなかったのかという疑問を持ったはずだ。しかし堕落論を受けたときこの言葉が実に的を得ており、自分自身深く頷いたものだ。そしてそれは自分が親になって子に接するときに生きた言葉となって私を導いた。それぞれの祝福家庭を平面的に捉えて見比べるなら、それほど苦労もせず親が薦める祝福を受け入れる二世や、自分の子供がそうであるように身が削がれるほどに神経を使い涙で訴えても親には従わない二世もいて、この違いをどう捉え受け入れればいいのか相当に悩み気を病んだ。しかし後に振り返れば私はその同じ立場を経験しなければ神様の心情を理解することはないだろうし、私の子供達への愛はより愛らしくなるために更なる愛の苦労を受け入れることもなかった。そう、神様はアダムとエバの堕落以前にも増して、そして今尚、愛がより愛らしくなるために愛の苦労をされておられる。妻の大病や、この世に染まっていく子供をどうすることもできない、そんな置かれた環境に対して神に毒気を吐いてしまう私に、それでも神様は手を差し伸べることはない。そう、愛がより愛らしくなるための私が担う環境圏だ。愛がより愛らしくなるために先ず私は横を見て比べることをやめた。それ以上に私自身がどうか、私の良心に鑑みてどうかという縦を軸にして横第一指向を正した。この地上世界は愛の訓練場だ。光溢れる地上であってもその恩恵を遮断して孤独という愛の減少圏内に住み続ける。光は認識できてもそれを内なる私に受容できなければ光を遮断して生活しているのと同じだ。もし光の中に愛を見ることができれば光を受容できる。愛を見ようとすれば、自ら愛を発する恒星となるべくより愛してみなければ愛はわからない。そう、愛がより愛らしくなるために、、。

今日の想い 1259

 円にしろドルにしろ、お金の価値をどう捉えるか、もっというと今まで円という紙切れとドルという紙切れに価値を見ていたが、果たして本当に価値があるかどうか、大体にして通貨とは何かを今人類が問われている。これから価値の本質に気付くかどうかが、万物を代表するかつての通貨の役割以上を担う万物王を見出し、更に主管できるかどうかの岐路に立ち、真の万物の主管主としての方向に舵をきれる。私の岐路は以前の投稿に記したように、或る時突然出くわした。営業が終わって従業員皆が出払って、一人ダイニングの掃除をしている真夜中の出来事だった。簡潔に言うなら、一枚の薄汚れたペニー硬貨を見つけ、それを大切に手の平にのせて涙を流した。それはペニー硬貨が見捨てられた嘆きを私に訴えたからで、ペニーと共に涙した。愛してくれる主管主のいない万物の嘆きだった。ドルは基軸通貨としていくらでもプリントできたし、ドル通貨国のアメリカは国債発行(借金証書)すれば他国がいくらでも買い上げてくれた。しかし借金は当然のように毎年増え、GDPを優に超える累積借金でもまだ借金し続けている。コロナショック以来、インフレが跳ね上がってきて初めて通貨の価値が目減りしていることに国民はやっと気付き始めている。しかし食口が後天に入っても信仰観を変えることができないように、半世紀をかけて染み付いた世界の民のドル通貨信仰はそう簡単に変わらない。茹でガエルならず、逆にドルの価値が次第に冷えていって知らない間に氷漬けになるという氷漬け経済を数年を待たずに見ることになる。映画Day after tomorrowは地球寒冷化による氷点下世界だったけれども、おそらくその経済版を見ることになるだろう。気温は益々上昇する中での氷点下経済を誰が一体イメージすることができるだろうか。BRICS+αの経済圏通貨が取って代わる?中央銀行が破産し国家発行によるデジタル通貨になる?様々な経済覇権の見通しが行き交うけれども、おそらくどれ一つ的を得てはいないだろう。しかし確実なことはドル基軸体制は役割を終えてしまった。そして氷漬け経済が世界人類を襲う。そして氷漬け経済の中から新しい通貨価値が芽を出し、新たな経済の活力をうねらす。そこには予想だにできなかった天の知恵が働いているはずだ。新たな経済を泳げる人々は、それまで地上では日の当たらなかった或る霊的感性を育んだ人々だ。万物の本質を心情的次元で見出し、愛して生命を吹き込める霊的感性だ。祝福家庭食口達にはその先陣を担って欲しい。果たしてそれまでに食口達は、良心革命を為して後天時代を生きる術を魂に備えているだろうか。日本の教会のこの危機こそが日本食口の目覚めの大きなチャンスだ。善神は悪神の背後に必ず隠れている。この迫害の時代を我慢すれば大きな恵みに与るとただ待っているのは、それは摂理観に立っていない無責任な御利益信仰に他ならない。

2023年9月15日金曜日

今日の想い 1258

 これまでの日本の施政方針の流れからして解散請求は既に決定事項だ。請求されてから司法に委ねられることになるが、これも恐らく時間は幾らかかけて審議する風を装うものの、やはり決定事項なのだろう。私は日本の法治と三権分立は曖昧で器だけの内容の無さで、根底にその思想はないと思っている。よって暗殺事件からの教会叩きへの誘導と政府の判断も不可思議極まりない。教会の解散は遠くない未来に確実となると思っていたほうがいい。こういう見解に対して否定的でカイン的だと断定されるのが教会の空気だろうが、それはかつての日本の大本営的空気に流される国民と何ら変わりなく、しかしそんな言い掛かりで私の感情を刺激されることはどうでもよくて、それ以上に教会がなければ自己肯定ができない食口のこの先の方がよほど心配される。天の心配と希望は、教会べったりで最後には思考も感情も失いゾンビのように従うことだけに忙しくしてきた先天を卒業し、良心革命を為して天の代身と称する者による主管を自分の良心に取り戻す後天を生きるのが後天的信仰観であり摂理観だと目覚めることにある。教会が瀕死の状態であるのは、外的に反社だ反日だと攻撃されるからではなく、本当の問題はこんな状態にあっても「打たれた後には恵みがある」と能天気に構えている、責任感情不在の中心者、責任者や食口の烏合の衆が教会の魂を削いでいることにある。こんな状態にありながらも教会から闘う気概は全く感じられず、SNSで外部から「統一さん、もっと戦ってくれ」「なんで立ち向かわない」と教会の熱の無さに呆れられている。教会に魂が失われているのを見れば、天は既に教会の中にはおられないことがわかる。やたらに神殿建設に発破をかけられるが、神殿に神霊をどれほど感じられるだろうか。私自身は不信仰だと言われ様とも、神殿から神霊を感じられない。神殿実体を迎える為の神殿摂理であったはずが、真の父母の実体をやっとの思いで地上に迎えたにも拘わらず、摂理歴史を数千年も遡らせる神殿建設の意味や想いを教会責任者の言葉から全く受け取れない。

今日の想い 1257

老いて気付いたことがある。老いは年を重ねるにつれて時間の先の彼方にあるものが近づいて来るという印象だったが、実は老いは生まれて此の方私の背後を追いかけながら、或る年齢に差し掛かると随分近づいて来て背後から影響を及ぼし、細胞生命の誕生を促す若さを完全に老いが収奪するほどに合わさり、そして私を超えて老いが前進すると老いの正体の全てを見ることができるようになる。老いの実体は死の勢いに他ならないということが老いてみて理解できた。若さの実体が生の勢いであり、私は生と死の狭間で、若さと老いの勢力の相互作用で地上の魂を活動させている。人間は約60兆個の細胞で成り立っているが、毎日約1兆個が入れ替わり、すなわち毎日1兆個の細胞が死んで生まれている。若い時は入れ替わりが激しく、年老いてくると入れ替わる頻度は遅くなる。若い時は多くの細胞の死をもって若さを保ち、老いればより細胞を生かしながら老いを深める。個の魂に於いて地上と霊界が逆説であるように、膨大な死で若さを、そして膨大な生を維持させて老いを、という逆説になっている。若さ故に未来に対する希望や理想という光を追いかけて生きてきたが、今は老いの実体である死の背中を見始めて、過去未来に囚われない時空超越次元で、燦然と輝く心情の太陽を求めて生きている。

2023年8月28日月曜日

今日の想い 1256

 法人を考えた場合、その法人の持ち株を半分から1%でも超えれば決定権を持つことになる。法人は当然そうなのだが、個人を考えた場合もそれは当て嵌まり、自分の中の半分を超えた認識が私という認識であり、意見もそうであり、感情もそうであり、そしてそれらを踏まえての行動を取るはずだ。私の中の戦いとは50%を超えて決定権を得ることの戦いだ。人間の矛盾性からの脱却は決定権を得て更にその影響圏を広げ、その上で主管の位置に立つ認識であり感情であり行動だ。主管の位置に立てば認識も感情も行動もブレがない。社会が安定しないのは矛盾からくるブレがそうさせる。同じように国が安定して国民が平安を得るのは如何に矛盾を超える国体認識、国の伝統や文化という国家的感情を50%を超えるものとし、更にその版図を拡大しながら否定的認識や感情を完全に主管下にすることで国は益々強固になる。意識するしないに関わらず個人が矛盾性からの解放の為に戦っている人生であるように、国は国として戦っている。別に他国との武力戦だけが戦いではなく、外交に於ける駆け引きも戦いであり、更にいうと国内に於ける様々な意見を議論しながら叩き上げて集約する戦いは分刻みで行われている。武力戦が何もないところから突如として現れるのではなく、そういった内外の戦いを勝ち抜かなければ最終的に武力戦になるのであって、好戦的人物やグループが存在するからそうなるのではなく、意見の集約という或る意味内戦をしっかり勝ち抜かないから結果的に武力戦に突入していくという理解が見えていない。平和を訴えれば平和になるのでもなく、ましてや平和憲法として条文化しているから平和になるのでもない。そんな単純思考が罷り通る日本は叡智という言葉からは程遠いし、主体的に問うて学ぼうともしない稚拙とも言える国民だ。世界の中でも自殺死亡率が高いのは、個人としての戦いを放棄しているか戦いという認識もされずに最初から生きることに白旗を上げているからだ。生きることは戦いだけれども、生きることの意味、生きることの尊さを問い学ぶ宗教や信仰を国の中心たる首相が否定したのは、まさに戦うという意識を抹殺する発言であって、こんな首相を戴いている限り国も国民も滅びざるを得ない。

2023年8月27日日曜日

今日の想い 1255

 教会は苦労の百科事典だと話されたが、苦労でもって愛を開拓する、愛の百科事典だと言えばアボジは二つ返事で納得されるはずだ。昨日4年ぶりだという同窓会に参加してきた。私自身、4年どころか一度たりとも参加してないので彼是同級生に会うのは50年ぶりとなる。帰国を知っている同級生の従弟叔父から誘いの連絡があって、数か月先の話だからと軽く了解を入れておいたのだが、いざ明日の事柄となると尻込み始めた。行ったら行ったで体形のことから始まって教会のことを含めいろいろ言われることはわかっている。責め苦の嵐に揉まれているその場のイメージしか湧いてこなかった。そうは言っても行かなけば行かないで詮索されたり触れられたくない話題で盛り上がるだろうなと思い数時間の我慢と決め込んで参加してきた。前口上が長すぎたが、結論を言えばさして目立つこともなく穏便に時は流れた。私の自意識過剰だったようだ。肩透かしを覚えながら、しかしそれなりに挨拶するに一人一人の印象がどうも薄すぎる。本当に彼等と十代の時間を共に過ごしたのだろうかと訝り通しだった。確かに表ではそれなりに付き合ってはいたが、基本引きこもりで一人で過ごしたいタイプだったことを思い出し、そういうことかと納得した。人とのコミュニケーションは傷つけたり傷ついたりの苦労は付きものだろう。それを面倒臭がり距離を置いてきたのであれば愛の何たるかも知ることもない。参加はしたもののさして誰と会話を交わすこともなく、手持無沙汰で食事に専念している私の席に、敢えて足を運んで昔の思い出話をして懐かしがったり、会えたことを素直に言葉に出して喜んでくれる同級生も一人二人はいて、ああこの人達は愛の何たるかを学んできたんだと、私の長い信仰生活の結実を逆に問われているようで心苦しかった。

2023年8月25日金曜日

今日の想い 1254

日本人それ自体の脅威は日本人である私自身が感じていて、それは得体の知れない背後であったり、一つの方向性を与えられたらどんな手段を取ろうが突き進むことだったりする。私は戦時を生きたわけではないけれども、戦時の日本軍が鞭の上に鞭を重ねて肉を削ぎ、戦場に追いやった当時を献身時代に追体験している。私の万物復帰の体験は戦時そのものだった。ノルマに追い遣られ、鬼軍曹に罵られ尻を叩かれ、尋ねる一軒一軒から白い目で見られる。耐えられない私は肉体から魂を消し去りたいほどで、その当時の嘔吐を覚えるトラウマが未だに私を苦しめている。日本の教権指導者達はそういった精神虐待的指導が罷り通っていた認識があるのだろうか。私の実感は、振り返れば神の愛だったというアボジの言葉にあるように、そんな当時は愛とは無縁の対局であり周りは愛の言葉を口にする鬼の連中であり、恨みを覚える当時を生きたからこその愛とは何かをみ言葉に見ようとする態度が私の中に培われたと思っている。私は長という肩書が全く無縁の立場で、アボジの裾にただしがみ付いてきた祝福乞食に過ぎないが、指導し前線に追い遣る立場で教会にいた全ての中心者や責任者、最も口を開いてこの世からの降り注ぐ矢面に立つべき彼等が、隠れて息を潜めているのは憤慨もするし遣り切れない思いもある。信仰の先輩達がこの様で、結局為に生き真の愛を立てる精神は爪楊枝ほども立っていなかったということなのか。日本にいる韓国の責任者が逃げるのはさもありなんとしても、日本人であれば腹を切る潔さを恰好だけでも見せてほしかった。過去の戦犯達は立場上仕方なかったとしても、それでも命をもって償ったのだから。そうやって責任者や中心者達にも霊界のアボジの前で是非報告して欲しい。アボジがいない地上で、鶏が鳴く前に三度否定するという聖書の言葉通りにならないように自らの行動を示すべきで、隠れたままで遣り過ごして自分の良心が負債を覚えないはずがない。過ぎてみれば神の愛だったと、霊界に赴いてアボジの前に出たときに発言することができれば信仰の勝者となるはずだ。それでこそ日本の蕩減は日本の彼等の言葉と態度で復帰されると思う。今のままでは当人どころか配下でアベルの言葉に従ってきた全ての食口も敗者であり、罪の印を押されてしまう。

2023年8月24日木曜日

今日の想い 1253

 中国や北朝鮮は実のところ日本を脅威に思っている。日本人は日本が弱いから中国に尖閣諸島を包囲されたり内政干渉を好きにされ、北朝鮮は日本海に何発でもミサイルを落とし続けると思っている。しかしこれらの行動は日本こそが脅威だと思っているからこその行動であり、それ故にそれ以上深入りするほどの度胸は今のところない。脅威に思っているのは彼等のみならず、同盟国アメリカこそ日本を脅威に思っていて、それ故に日本国憲法は日本精神骨抜きで作られたし未だに軍事面での抑え付けは厳しい。ましてや核の保有などもっての外で許されるはずもない。アメリカは独立戦争から始まって内戦外戦と続けてきたが、実は日本との戦争は這う這うの体でこれ以上続けられない程辟易していた。二発の原爆投下は既に日本中が焼け野原であってもそれでも日本を恐れていた証拠であって、敗戦を目前に人とも思えない日本人に原爆を落として実験場にした、等というのは半分は彼等の強がりで、トルーマンは根絶やしにしなければどうなるかわからないと日本人を脅威に思っていた。今の日本は骨抜きにされた日本の体を装っているが、自腹を切るほどに日本人は国の為なら何でもすると中国も北朝鮮も思っていて、いざ戦うとなると日本民族が殲滅するまで戦う決意が必要だというのが彼等の脳裏にあるのは間違いない。ベトナム人、ビルマ人、韓国人、そして中国人、彼等を従業員として接しながら、日頃は優しく接しながらも一端言葉の中に怒気を含ませると反論もしないし私との距離を取り始める。日本人は怒らせると怖いと皆が思っているから注意して下さいと後でベトナム人の従業員に耳打ちされたことがある。アボジは日本は忠孝の源と言われたが、忠孝心を多民族と比べて突き抜けて養われた民族だからこそあるじを間違えると恐ろしいことになる。日本人が生きる道は真の父母を通して天に繋がる道以外ないことは日本食口であればわかるはずだけれども、どこからか日本はどうなってもいいというような風潮が私達の中にあって、そうなると日本社会として教会を嫌悪してしまうことは理解せざるを得ない。日本社会が私達を良心的な人達だと言われるのを超えて、日本を愛し真剣に日本の未来を案じて行動している人達がいると思われなければ、日本の居所を失い住めなくなるだろう。ここまで有名になった今だからこそ日本社会は聞く耳を持っているはずなのに、しかしながら私達の中から誰も救国の声を発する者が出てこないのはどういう訳だろうか。勝共は救国ではなかったのか。既に日本の救いの摂理は捨ててしまったのだろうか。

2023年8月23日水曜日

今日の想い 1252

 日本は今年も8月6日と9日の原爆の日から終戦記念日を迎えた。通年は、日本の最後の熱を奪われたその日を超えると一気に涼しくなるものだが、どういう訳か今年は、超えて更に熱い日々が続いている。私は日本人に、とりわけ日本食口に対して熱くなれと天から発破をかけられているようで落ち着かない。毎年此の頃になると開戦に至った原因を問うたり、終戦なのか敗戦なのかを問うたり、戦争をなくすためにどうしたらいいのか、等の議論が放映されるが、ただの知識のヒケラカシであったり答えを出さない議論で満足していて、本質に訴えかけるものとは程遠い。私の想いははっきりしている。あの敗戦(終戦でなく敗戦)で日本人はそれまでの全てを失った。それは本土攻撃で多くの日本人も抹殺されたしインフラも失ったし政治経済や社会システムも否定されて失ったのみならず、最も奪われ失ったものが日本人としての精神性だった。日本語を使いながら培ってきた精神をあの敗戦で抹殺された。しかし私は多くの文化論者、民俗学者、歴史論者、それが右だろうが左に傾いていようが、敗戦以前の精神復古を声にする者だろうが、彼等と全く異なるのは、神の摂理はかつての日本精神を悉く否定されたという事実だ。私達祝福家庭が真の父母を通して天から与えられた新しい霊は、かつての日本精神を超える、それはキリスト教の精神をも超える新しい霊を戴いたという事実だ。日本食口は日本語を使っているけれども、それは取り敢えずの方便であって日本語に流れていた精神性を学びはしても精神として受けるべきではない。アボジは韓国語を学ぶように口を酸っぱくするほど語られていた。その後に英語を学ぶように、そして日本語も学ぶように話された。韓国語は学ぶという言い方はされているが、受け取るもの、すなわち韓国語の精神性を受けなさいということだ。私ももちろん日本で生まれ日本語で育ったわけで日本の精神性の残骸は沁みついているが、アメリカで英語を使い、韓国人も多くいたので韓国語で彼等に接っして最も感じるのは、和をもって尊しに代表される日本精神ではあるけれども、日本語に主語の曖昧さがあるように日本人の中に自我や主体性は立ちにくい。しかしそれが立たなければ彼等の中で生活し生きていくのは難しい。主体的に立つということが、日本精神の残骸の中では排除されるが、アメリカは周りに合わせるのではなく自分が自分の自我を立てなければ生きていけない。それはアメリカに留まらず普通のことだけれども、日本では普通ではない。敗戦は摂理であり、今更に日本精神を伝統や文化、歴史を紐解いて復古しようとしてもそれは神に逆らうことになる。確かに敗戦国であり、アメリカから内外の多くを持ってきて宛がってはいるけれども、キリスト教精神の根本である主の霊を受けることはなかった。アメリカは全てを与え教えたようで実のところ主の霊を与えてはいない。だから日本の堕落性ともいえる村八分の同調圧力という亡霊に未だに苛まされているし、言葉ではそれらしいことを言っても日本は自主性の欠落した、国の体を為しておらず何処かにオンブされた属国だ。日本人に霊の柱が立ち精神性を備えることができるのは実のところ祝福家庭の日本食口でしかない。しかし日本食口がその価値を理解していないことが大問題であって、その理解がそれなりにあるのなら、今回の一連の問題に対しても、そして本部や御母様に対しても、玉を抜かれたような、思考も感情も停止したような態度や行動を取るはずがない。35度越えの暑い日々が続いているが、天の霊を戴いた神性人間は通常平熱を超えた熱い血潮を滾らせる神人類になる。

2023年8月19日土曜日

今日の想い 1251

復帰摂理時代の統一王国時代、サウル、ダビデの基台の上でソロモンは神殿建設を成し遂げた。モーセの幕屋が象徴的メシヤであり神殿は形象的メシヤ、そしてイエス様という実体のメシヤを迎えたわけだが、復帰摂理からすれば再臨のメシヤを迎えたにも関わらず摂理時代を遡って神殿を建設する摂理的目的とは一体なんだろうか。今、この後天開闢時代にどうして神殿建設なのだろうか。日本食口に生活の犠牲を強いて、食口は誇りも希望も見失って、その証拠にメディアや被害者弁連の教会叩きに対してあちこちから声を上げる食口が出てきても良さそうなものなのに、ほんの片手で数える二世くらいしか声らしい声を上げる様子もない。このご時世にあっても打たれる時は打たれるべきとして頭を垂れているのだろうか。教会の摂理に対する姿勢も理解できなければ、声も出さず黙々と従っている日本食口達の行動は更に不可解だ。解散命令が出されようが出されまいが、既に教会は終わっている。社会の突き上げから二世達を守りもせず戦いもせずに逃げてしまった一世や責任者達が、どうして今更食口を先導し摂理に馳せ参じる声を上げることができるだろうか。教会や本部に背を向けるのは許せるとしても、二世達を蔑ろにし子女への心情責任から逃れるのは真の愛とは言えないだろう。

2023年8月17日木曜日

今日の想い 1250

 親戚も知り合いも、勿論よく知る食口も、一人また一人と地上を去ってゆく。そんな報せを耳にしながら、私はというと、今日もまた受け入れられぬ置かれた状況と取っ組み合い、信仰から認識に至らないみ言葉の数々を頭の中で延々と巡らし繰り返している。渇きを癒そうと求める自分に従うことは良心に従うことではない。しかし戒めに囚われ続けるのが良心の願いでもない。そんなことで紋々としている自分を憂い悩む別の自分もいて、愛となんの関係ありやと一蹴する。肉体の次元であってもいつ癒されるともいえない渇きを覚えながら、潤いの尊さや地上の潤いを超える霊性の潤いを手にできる、と無理にでも信じる。朧げなその期待と意志が今の私を生かしていると言えなくもない。おそらくそんな話を食口にすれば口を閉ざされて引かれてしまうだろうが、私にすれば信仰人生を歩む中で唯一と言ってもいい摂理的課題だ。地上を去ってゆく食口は、それぞれの摂理的課題に向き合い、答えを紡ぎ出して神様への贈り物としたのだろうか。だから多くの家族や食口に見守られながら天に召されたのだろうか。今私が事尽きても、親戚が数人、おそらくそれも世間体を考慮して参加してくれるのみだろう。恥ずかしくもネットに残していく揺れ動く心の在り様は、誰一人見ることもなく、それでも地上に生きた小さな魂の証としての一葉の枯葉でしかない。

2023年8月16日水曜日

今日の想い 1249

 いつ終わるとも知れない暑い日々を送り、滴り落ちる汗を拭いながらもこの体験の意味を問うてみる。これは異常気象だと毎日のように報道は伝え、それを真に受けてどうなるでもどうするでもないのに、そうか異常気象かと納得を強いられ、溜飲を下げる条件反射のみで他に成す術を持ち得ない。極めて動物的な単純思考のままそこに霊的成長は伺えない。人類は歴史を通して声を発する者、声を大にして先導する者に従ってきた。そんな大衆に従順な者達からは摂理を捉え歴史を導く者は出てこない。熱い最中、盆が来るというので田舎の墓の周りの草刈りに精を出した。ご先祖様を想う日々の私であれば、こんな大草で占拠されるに任せることはないのだろう。「お墓に私は眠っていません」と何度も耳にするものだから、別に大草が生えようがどうしようが問題ないと放って置いたものの、それでも周りは盆くらいは草刈りしているので、その同調圧力を覚えたわけだ。そんなことだから先祖への想いは薄いが、それでも陽に照り付けられながら滝のように流した汗で供養した。私達が常に言われ続けた言葉、「汗は地の為に涙は人類の為に血は天の為に」、この極暑の日々、皆が汗を流しながら地に対して供犠している。暑い夏になると大地震を誘発するという科学者もいるように、地の変革を滞りなく完結する為に人類の汗の供犠が必要なのかもしれない。地軸の移動(ポールシフト)であるとか、自転の反転であるとか、新大陸の隆起であるとか、様々な地球の展開の噂が耳に入ってくるけれども、おそらくそれに合わせる形で人類の国家システム、経済システムを始めとする様々は社会的システムが、摂理の要求に合わせて変容されていくのかも知れない。来週はBRICSの会合が南アのヨハネスブルクで開かれ、金本位制或いは基軸ドルに対する通貨制度の立ち上げの噂に西側諸国は戦々恐々だ。

2023年8月1日火曜日

今日の想い 1248

 アボジは真に夜の神様の出自として地上生を送られた。出自が夜の神様だからこそ祝福(血統転換)の儀式を堕落世界や罪の人類に提示されることができたし、絶対の概念も天に通じる中心位置にある祝福家庭に示された。性を地上的な立場でどうこう言うことはできるが、あくまで地上という堕落世界に限った話であり、その内的霊的な意味、さらに神霊的な意味を提示するのは地上人である以上は先ず無理だ。これまで地上人は堕落の中心的問題である性を言葉にすることも憚られたし、触れれば人間としての品性を疑われるほどで、汚物桶に押し込んだまま今日まできた。愛の表現として性を持ち出す人もいるけれども、どうも言い訳がましく聞こえるし性が愛の表現に留まらないのも性の実態だ。愛があろうがなかろうが性の衝動は発動するからだ。祝福一世の性はアボジによって相対を戴いたという一点で体を重ねる。天の血統に繋がるという動機から体を重ねて一つになるのであって、そこから愛を芽生えさせ育んでいく。性が先で愛が後だ。人間は位相が一様ではなく異なっていて、それ故に性の在り様も異なっていると見る。例外を許さない一夫一婦制が創造本然の願いかどうかも私自身は疑っている。世界的になったキリスト教が一夫一婦制だから先ずそれに合わせる為にそうなっただけで、実際いろんな形の家庭の在り方を取っている宗教も民族もあるし、他の宗教を否定しないのであれば家庭の在り方も否定されはしないと思うのだがどうだろうか。たとえ一夫一婦制が創造本然の願いだとしても、摂理を進める上で原理原則の縛りを最優先する必要はないし、それを優先して節理が進むとは思えない。渋沢栄一は日本の経済の土台を築くべく多くの会社や団体を立ち上げた。一方で妾が数十人もいたとかというマイナス面の話も耳にするが、異性を愛し好む意欲が旺盛でモノにしてきたからこそ社会的貢献も大きかったと私は思っている。アボジが褒め称えていた徳川家康とその血筋も、大奥で女性を何人も抱えていた。立志列伝に名が乗る有名どころに、生涯愛した女性は一人だったというのはおそらく片手で数えるほどだろう。どうしても社会では倫理的道徳的な測りで見、教会では教条的な測りで見て人格を問うが、アボジは(人格者と言われる人も含めて)「誰一人として天国へ行ける人はいない」、すなわち誰も罪を問われない人はいないとなると、アボジが言われるように「いかに正しい歩みをするかではなく、いかに天国建設に貢献する歩みをしたか」を問われるのではないだろうか。私が今までの宗教的感覚と異なる突拍子もない方向に向かっていると思われるかも知れない。しかし一つの摂理的時代が終わり、新しい時代圏で新しい人生観価値観となると、善と思われたものが悪となり、悪と思われたものが善となるのも当然だと思う。少なくともアボジとは異なる、それこそ突拍子もない御母様の独生女の話を信じるならば、先天の全ての観、信仰観を始め人生観価値観善悪観家庭観全てを否定しなければ受け入れられないだろう。今御母様に従っている者達であっても、御母様のお話を信じている人は誰もいない。ただ頷いているだけでそれは信仰ではない。

2023年7月27日木曜日

今日の想い 1247

 元日本会長の言葉だが、「心情的霊的に完全一体の真の父母」であるとか、「おふたりの本質的次元の心情の一体性を理解」だとか、おそらく責任者の大方はそんな同じ文言で食口に接していると思われる。さらに「御父母様の一体性を理解できなければ、御母様に絶対信仰絶対愛絶対服従の基準でついていくことはできない」という言葉は、文言をそのまま受け止めれば御母様に対して何の一言もなくただただ受け止めろということになるのだろう。食口は一体全体御母様に対して何を求め期待しているのだろうか。何も求めていないのであれば何を恐れて態度を改めないのだろうか。あるいは一体性を理解しているとして、今の姿勢や態度で本当に御父母様や御父母様の一体性を証できると信じているのだろうか。先ず一体性をどう捉えているのだろうか。御父母様の一体圏が内的霊的なものであるのに地上的な一体を持ち出すものだから、どうもその辺から凝り固まった信仰観、日本特有の協調圧力も加味されて全体主義的な信仰観が蔓延しているように思われる。私達は一体化を理解できなくてその意味を探りながら生きているのであって、わかったつもりで押し付けられた信仰観でもって闇雲に行動しているなら、それは妄信でしかない。本来アボジは絶対信仰絶対愛絶対服従は良心に対する言葉であり生殖器に対する言葉だと語られたのに、いつから御母様の言葉に対する絶対信仰絶対愛絶対服従となったのだろうか。反対派はそれなりのイデオロギーで反社だと決めつけているのかも知れないが、私達を社会一般の目を通してみたとき、不思議な集団を通り越して全体主義的な恐ろしい集団に映っていることは確かだろう。そんなメディアを信じて踊らされている堕落社会のことは無視して絶対服従で突っ走れというが、それが本当に自分の良心に尋ねて得た答えなのだろうか。神様についても霊界についても自分の判断はさておき教育されたイメージで描かれているように、御父母様の一体性も同じく教育されたイメージが先行し、それを自分の中で咀嚼しようともしていない。

2023年7月20日木曜日

今日の想い 1246

もし摂理的願い(伝道)や経済的発展(献金)を本気で遣り遂げようとするなら、今までの延長では到底無理だと先ず認識する必要がある。今までの延長とは中心者絶対(アベルカイン)であり、教条主義(アダムエバ)であり、財物供与と蓄財(公金)だ。この世の発展はイエスマンによってではなく自らの信念のもと主体的能動的に活動する者によっているし、この世の成功者は自らの欲望を否定するのではなく上手に目的のための動機付けとすることで社会貢献してきたし、給与や蓄財に至っては低いところで限定されている団体に一体誰が熱意をもって頑張ろうと馳せ参じるだろうか。今の食口は去勢され飼い慣らされた家畜の集団に過ぎない。あまりに酷い言いようだが事実そうだ。搾取するものがなくなれば捨てられる運命にある。内的霊的なことではなく、地上の現実的なことを言っているのであってそこは誤解しないで欲しいが、今回の問題が表沙汰になったからといって現実的解決を教権指導部は打ち出してくれただろうか。否、現実的問題に対しては全く力を持っていない。日本政府に物申す一言だに発してはいないし、生活苦に喘いでいても何の援助もしないしもし賠償を言い渡されても一円たりとも出さないだろう。蛇のように賢くと言うけれども、政府や世論に対してもそうだが教会に対してもそうで、狡猾なまでに知恵を働かせなければ祝福家庭はジリ貧だ。教会の指導部だって過ちを侵す同じ人間が立っている。アボジが言われた天国に行く者ではなく天国を築く者になるとは、受動的位置に立たずに能動的位置に立つことであり、全て言われるままの受け身の家畜にならずに力を持ち養畜する立場でこそ天国を築ける。そして地上天国が築けたとして、そこは誰一人不倫も離婚もなく婚前交渉もなく一夫一婦制の世界だと本当に信じているのだろうか。食口はいい加減目を覚まして現実を直視すべきだ。現実と理想の狭間で生きてこそみ言葉の力も祝福の力もより認識できるはずで、そうして初めて理想に近づいていける。現実を無視して理想らしきものに囚われ浮ついていたからこのざまだ。今回を教訓にしてどれほどの食口が目を覚まし、摂理への主体的能動的関わりを持ち始め、生殖器と丹田に重心を置けるだろうか。生きる重心が下手な考えの頭にあったり、薄っぺらい感情の胸にあったりでは事は絶対に為せない。意識的開眼をした者は、丹田に思考も感情も落とし込み、意志を起こして行動に出る。

2023年7月10日月曜日

今日の想い 1245

 今は家庭連合の時代であって、教会が名称を変えて家庭連合になった訳ではない。宗教である教会は既に解散している。しかし実態はというと家庭連合として出発するのではなく、教会が名前を変えてそのまま生き延びているし、皆の意識も先天時代の教会員のままであって新しく出発していない。だからそれぞれが一祝福家庭として出発して歩めばいいのであり、教会がどう言われようが解散しようが祝福家庭にとっては過去の教会のことだ。もちろん知らぬ存ぜぬを通すべきではないが、私達の意識として先ずそこに立ちその上で対処することだ。解散命令が出たところで家庭連合の実態は教会の延長に過ぎないので教会解散であり、祝福家庭に解散はない。メディアに、外部が知りえない、食口でさえ知り得ない内部事情が筒抜けなのは内部、それも幹部責任者の中に情報を外部に流している者がいるからであり、おそらくこうする以外摂理とは関係のなくなった反社会的な教会を正すこともどうすることもできないからだろう。しかしそういう認識を持つ責任者が正しく摂理を理解し家庭連合を理解しているとはどうも思えない。先に述べたように教会は既にお開きになっており、家庭連合は宗教認可をもらう必要のない祝福家庭の集まりに過ぎない。そうなると先ず家庭連合という名前だけの宗教団体から脱退すればいいだけで、宗教団体に留まることに執着する必要は全くない。御母様に絶対服従を立てないのかと詰め寄られそうだが、30年も40年も御父様に従い、御言葉を受け、長い信仰生活で心情を魂に刻みつけながら今があるのに、御父様に向かわせない今の御母様にどう情を向ければいいのか。御母様の言葉を受け入れ情が納得するまで更に30年、40年も新たな独生女信仰を立てていくのだろうか。私は中心者や古い兄弟が御母様御母様と口にするのを見るたびに、心にもないことをと白けてしまう。確かに原理という論理で知性を触発されて信仰を持つに至ったけれども、入教当時の内面と今の内面は全く異なっていて、原理で繋がっている部分はごく一部で、多くは心情で繋がっている。だからどれだけ言葉で説得されても新しい信仰を持てるはずがない。しかしだからと言って御母様の精誠の実績を否定している訳では全くないし、理解できないかも知れないけれどもそれはそれ、これはこれだ。私の理解は、今の御母様は教会組織がなくなれば離れていく兄弟の為に、敢えて教会を残す使命を認識しておられるということだ。おそらくそういう兄弟の為に外的な宮殿が必要なのだろう。

2023年7月8日土曜日

今日の想い 1244

 御母様の発言が教会反社を裏付ける言動としてメディアに取り上げられている。事件から1周年だから、それでなくても重箱の隅をつつくようにでもネタを探していたはずで、教会反対派の喜びようは手に取るようだ。これで一気呵成に文化庁の認可取り消しに向けて要求を強めるはずだ。それにしても教会側の対策の何と御粗末なことか。そんな発言をされることは最初からわかっていながら、御母様に対しては何も言えないし結局誰も責任を取る者はいない。側近や責任者は教会解散になるのを願っているとしか思えないほど全く何もしない。中心者が集められてお話を聞いて頷いて終わり、ただそれだけだ。情けないにもほどがある。御母様に対して、首を切られようが怒号を浴びようが一言でもすべきだと、中心者の中に決起する両班でも侍でも誰一人いないのだろうか。教会組織は御父母様を頂点に戴く独裁組織であることはわかっている。そうなると組織を最も支えている者が何も言わなければ誰も何も言えない。そして最も支えている者は明白に日本の食口だ。こうなる前に日本からの献金をそれなりに閉めるか調整できていれば、日本食口の声を聞いてもらえる素地ができたはずだ。しかしそうは言っても韓国の中心者を日本各地に迎えた時点でお手上げ状態、日本の教会は事実上韓国に侵略されたということになったのかも知れない。日本食口はこれだけ犠牲的にも献金し続けてきたしそれは必ず天に届くはずだ、と当然のように信じている。しかしそれは本当の犠牲でもないし言われたからそうしただけで、自発的能動的な思い入れのあるものではないだろう。悲しいかな食口は自覚がないけれども、決して喜び勇んで献金してきたわけではない。自覚がないだけで、積もり積もって蓋を閉じて見ることもない悲痛な感情が溢れそうになっている。その恨みが爆発した訳で、メディアの問題や反対派の問題はただの表層に過ぎない。もしメディアや反対派が今回の根本的な問題であるなら、全食口がこぞって発言もするだろうし徹底抗戦に臨むはずだ。しかし誰も知らぬ存ぜぬだし、先ず中心的柱が立ちそうもない。

2023年7月6日木曜日

逍遥から本殿に向かって 24.

 食口は性に対してどれだけ見ず触れずを貫いたところで、夫婦であろうがなかろうが公の目の届かぬ地上のいたる所で性は繰り広げられている。さらには誰彼構わず、私利私欲を盛るだけ盛って関わらせている。それを不純だとか汚いとかレッテルを張り付ける一方で、同じ人物が誰よりも裏の顔を持ち行動しているのが人間の実情だ。そんなことは思いだにしないというような風情を装う立派な韓国の先生方でさえ、表面に現れる噂ですらいろいろ耳にしているのに、水面下の実情がどれ程のものか今となっては知る由もない。しかしそんな話を聞いて私が抱く感情は皆のそれとは違っていて、誘惑に負けた信仰の弱い人だという思いではなく、天罰をものともせず縛りを超えて行為に走らせてしまう意志や衝動とは一体何だろうかという疑問だ。それは、アボジが「裸の女性が布団に入ってきても生殖器を微動だにさせない」という話と、御落胤騒動を含めどれほどの女性と関係を持ったのだろうかという疑問が事ある毎に思い出されるのとリンクしている。私の結論は、どれだけ考えても答えは地上にはないし、私の知情意を超えた混沌の夜の領域のことということになる。ひとつ言えることは、受動的である誘惑に対しては断固関わりを持たないが、意志を備えた能動的な衝動であれば信仰的縛りを超えて行動に出る、という言い方はできるかも知れない。意志を備えたとは摂理的な天の願いを受けること、と言えばいいだろうか。タマルがそうでありマリアもその意志を持って行動している、はずだ。その場合、その時代に於いては認識されないどころか存在を忘れ去られるほどの世代を経て初めてその功績を認められるようになる。私達は余りにも摂理を舐めていた。どう見積もっても一代や二代で地上天国を迎えられるはずがない。それはしっかり認識すべき点だが、アボジが示してくださった祝福を通しての血統転換が、本然の神の元に帰ることが唯一できる夜の神様の秘儀であることは間違いない。堕落がなかった位置に復帰された私達だからこそ、性に聖なる霊的息吹を吹き込むことが出来る。その認識が私の40年を超えて信仰を重ねてきた知情意の結実だ。

2023年7月4日火曜日

逍遥から本殿に向かって 23.

 地上生活で内面として捉えていたものが、霊界生活では外的環境として現れるように、地上と霊界は逆接関係で繋がっている。いつも記しているように、外的には病気になることで健康の有難さを切実に内面に刻むことで、実は霊界生活で誰よりも健康的環境を用意できる。性は愛の外的な果実のように思えるけれども、性の解放によって人間の自由を受け取れると単純に考えるとしたら、それは本質を理解していない。断食すれば食べ物が慕わしくて慕わしくてたまらないという経験をするが、アダムエバ問題の大罪認識から家庭を出発するまでの性愛の禁止という縛りを食口に課すことで、当然のように異性への慕わしさをより強く経験する。食べ物のように万物に関することであれば直接に霊に関わることではないけれども、性は相手との魂以上の遣り取りであって直接的に霊に関わってくるのであり、そうなると食べ物(万物)欲と性欲は同じに扱えないことがわかる。すなわち断食で万物への尊厳を学ぶことはできるとしても、性欲を抑えて性への尊厳を学べるとは思えない。性を通して彼岸を見る、と以前述べた。彼岸ではあるけれども正確には霊界ではなく無形実体世界を超えた神界に通じている。ただ霊界に尋ねることで創造行為に至るのではなく、創造はインスピレーションを超えたインチュイションの領域、すなわち神界の領域であって、だから昼の神様の領域ではなく夜の神様の領域となる。アボジがどのような経緯で祝福の秘儀を受け取られたのか。すべてを悟性で理解されて、というのは昼の神様の知情意の領域となるが、そうではなく夜の神様の領域でこそ祝福の秘儀は見出されたはずであり、それは地上の道徳観倫理観で測れる路程であるはずがない。私がどれほど尋ねても、40年を超えて尋ねても理解できないのは、私達が神界の状況については何一つ知らされてはいないからだ。夜の神様の認識、夜の神様に至る授受作用は知情意の悟性によるものではなく堕落のない位置で為される性であり、高みに送られる高揚を自覚しながら、更にその高みを突き抜けて、神界に到達する神聖なる高揚を体恤してこその絶対だ。尊い生命の誕生に性が関わりながらもその性の尊厳を見出せず、先天と同じように見ず触れずのままでいいのかどうか。サタンが主管してきたように、関わればほぼほぼ堕落への道を辿ることになるのは承知の上で、それでもという思いが私にはある。

2023年6月28日水曜日

逍遥から本殿に向かって 22.

 アボジが基元節を迎えることができず、それを目前にされながらも聖和されたように、一世達は本体論の中心である絶対性を、自分の概念として捉えることができずにあの世に旅立つ。一世は既に終活の時期に入ってどんどん旅立っているのだから、別にそんなことは関係がないと思うだろう。そうなのかも知れないが信仰の結論であり果実として提示された絶対だという認識がある者にとっては、先行き短い人生を想い、それならばせめて子供達二世にその結論を伝えて霊界人事を迎えたいと思うのは当然だし、絶対という創造秘儀を伝えなくて何を二世達に伝え残すのだろう。二世達には祝福を与えたことで十分親としての役目を果たしている、勿論そう思うだろう。しかし祝福の本質は性による血統転換にあり、親が既に血統転換されているのにどうして子供たちに血統転換が必要なのか。二世に与える祝福は、一世が御父母様を通して受けた祝福とは意味合いが異なっている。一世が祝福の本質を受け取れずに、すなわち祝福を受けても血統転換されずに、その形だけに執着して受け継いでいくのであれば、それは二世を血統転換させて一世がそれに繋がる必要はあるのかも知れない。しかし大方の祝福家庭は、子供達が形の上で祝福を受けるのが最重要課題であって、祝福さえ受ければ安堵しているのが実情だ。おそらくそういう祝福家庭は信仰が実って神に愛された勝ち組だと思っている。しかし全体と個は通じていて、各家庭の血筋という縦割りではなく、全体あっての個であり個あっての全体で、勝ち組も負け組もない。子女が様々な立場にある祝福全体の状況を神様がどう捉えておられ、また摂理的位置付けとしてどう働かせるかだ。その点に関しては御母様の見解を何としても知りたい。その見解次第で私に対する御母様の権威が決まってくる。祝福の本質は血統転換にあるし、血統転換は性なくしてはありえない。

2023年6月27日火曜日

逍遥から本殿に向かって 21.

 クリスチャンはクリスチャンで教条的縛りがある。キリスト教会は人類始祖の堕落によって本来あるべき精神が欠けているという教えだ。本来の人間は体と心と精神(霊)の三段階(三要素?)から成り立っているということだが精神が備わっていないので地獄に落ちるという教えだ。よって教会に繋がってキリストの精神を受け取らない限り天国の民にはなれない、という縛りがある。クリスチャンに取って少なくとも日曜日だけでも教会に行くのは縛りとして刷り込まれているからに他ならない。そして信仰が強まるにつれ縛りは増していく。クリスチャン達に縛りがあり、統一食口にも信仰故の縛りがあり、どちらにしても宗教を超える意識や運動に至る自由の翼は信仰が縛りとして働きお預け状態だ。それでは信仰することで精神の自由を得るためにどうすればいいか。信仰は本来信じることで認識に至ることであり、認識に至ればその認識に対する信仰は役目を果たしたことになる。しかし認識を得ることができなければ信仰を生涯どころが永遠に備えざるをえない。問題は信仰経験に認識を得たという体験が無い、あるいは少なくて無意識のうちに信仰は実らないものと洗脳されたまま、信仰=縛りとなって自動変換されてしまっていることになる。本体論の中心である絶対を得る前段階として、精神の自由(霊的自由)という翼が必要であり、その為には今の現状である信仰が縛りに取って代わった事実を先ず認めなければ先には進めない。私達の思考や歩みが本当に神による善悪に根差したものであるのか、それともただの縛り、すなわち自分の中の恐れの感情がそうしているのにそれを敢えて放置したまま、良心の声だと言い聞かせ神様による善悪観を立てたつもりでいるのかどちらだろうか。後者であれば性は永遠に堕落圏のことであり口にすることすら憚られサタン視され、夜の神様が主管する聖なる性とは永遠にならないだろう。

2023年6月22日木曜日

逍遥から本殿に向かって 20.

 人間の度量は何によって決められるかというと、欲の強弱によって決められる。あくまで度量であって人間性の良し悪しをここでは扱わない。度量は小欲に生きるか大欲に生きるかで決められる。人間は地上存在、すなわち色の世界、欲の世界の存在だから、どんなに聖人君子面していようが欲の存在であり勿論聖人君子すら地上にいる間は欲在りきの存在だ。食口は自分は欲を捨てていると誤解しているけれども、欲を制御してこそ行ける天国を信じそこに行きたいが為に教条生活を頑なに守っている。それを大欲と言えるのかどうかはそれぞれの良心に任せるとして、欲を捨てたつもりでもやはり別の欲に生きている。アボジが、あんた達は欲が強いよと言われたのはその通りだし、しかしその欲心を悪として否定はされなかった。そう言われたのには大欲に生きろという意味が含まれていたと私には思えた。食口は教条生活によって去勢されてしまって、大欲がもてない歪な存在になってしまった。それでも昔は世界復帰の闘志を燃やしていたし、地上天国実現の暁には世界をフリーパスで旅行できるとか様々な地上的成就も中心者を囲みながら毎晩語り合っていた。そんな子供染みた願望だとしても今の食口達はそれすらないだろう。見てもいない天国を夢見て黙々と従い、そんなはずではなかった霊界生活をやがて送ることになるかも知れない。どんなに高い志を持とうとしても、それを本気で自分の事としなければいつまでも御題目を唱えるのみで、御題目を唱えながらこの世を去ることになる。そんなツモリナールで頑張りましたと天に報告できると思ったら大間違いだ。唱えること自体が目標で果たすつもりは最初からなかったことに弁解の余地はない。自分の使命を自分なりに認識したのなら、その使命貫徹の為に自分の欲心ベクトルを同じ方向に合わせた意志として持たない限り実現性はほぼない。会社の資産を増やすとして、それを通して自分の懐も増やすことでその動機や意志を堅固なものとできる。会社が大きくなるために精一杯尽くしますと頑張った社員に対して、何の報酬も与えなければ、たとえ社員の不平はその場では無かったとしても社員の成長は止まったままだ。実際日本の食口達はそんな扱いを受けてしまい、自分への投資を蔑ろにされたままで成長していない。それは私への自戒も含めてのことだ。おそらくここで話している欲は財欲を含めた社会欲と扱われるかも知れないが、食欲と生命力が繋がっているように、性欲と霊力も繋がっている。不倫だとか回数だとかに持っていきがちだがそれは度量の問題ではなく地上的社会的な話であって、本然の性欲は当然愛が関与しているし一つになって創造したいという霊的な創造意志が働いている。

2023年6月20日火曜日

逍遥から本殿に向かって 19.

日本人の道徳観として欲がないことを良しとする傾向がある。金もないしこれといった地位も名誉もないけれども、大病もしてないしそれなりに平安に生活していける。そんなことを有難く思うといった具合だ。しかし地上は欲望を持ってなんぼの色の世界だ。欲がなければ周りの風景や環境圏はモノクロでグレーの世界でしかない。はっきり言って勿体ない。お隣の国韓国を見れば権力者の欲望たるや、降ろされたときの反落人生の酷さを見ればわかるように、今の権力を保持しているうちに使える限り使って欲望を叶える、そんな生き様のオンパレードだ。ギャンブル人生と言えば言えなくもないが、欲望を叶えてなんぼの色の世界を生きている。日本人の感覚からすれば理解できないが、掴める願望が目の前に横たわっているのに手を出さない私達を逆に彼等は理解できない。しかし創造意志が働くのは欲あってのことだ。意志あるところに道ありの前に、創造意志あるところに先ず欲ありだ。将来的イメージ達成への願望が強ければ強いほど、夢は実現して実る。はっきりいって技術がどうだとか頭がどうだとかほぼほぼ関係ない。欲が強くて意志が明確であればそんなものは後から付いてくる。人間の本能に由来する性欲は、それが強いほど生きる力は強いしのし上がる力も強いと言われる。英雄と呼ばれる人物は必ずと言っていいほど下半身が盛んだ。統一信仰を持って戒めとして最も強く言われるのがアダムエバの問題だが、食口の多くは去勢された牛となって従うのみだが、自分を主体に立てる食口もいる。食口の中でも欲の強い者の行動には二通りあって、自分には合わないものとしてすんなり離教するか、逆に中心者として立って権力を欲望実現のために使うか、というこの二つの選択のどちらかを選ぶ。概して中心者、特に韓国の中心者は後者を選択したのであり、何をするにしても欲望を叶えることを考えている。それは願われた目標達成も褒美を自分に与える為に行動している。与えられた目標の公的題目と同時に私的願望も無ければ、どんな目標を立てるにしても絵に描いた餅でしかない。財欲や性欲を権力を用いて満たす者もいる。原理の教えによって抑え込んでいた欲望が、一端それなりの理由や言い訳を得ることで、抑え込んでいただけにその爆発力は何倍にもなる。はからずも彼等は神霊にしろ堕落天使長の霊にしろ自らの願いと駆け引きし、それ相応の創造意志を強くしながら発展させたはずだ。男は女を通して位相を高くし、女は男を通して位相を高くするのであり、そうしながら創造意志を強くするのは歴史を通して明らかであり、教会組織の発展もそれに違うことはない。アボジも女性を経ることで霊的位相を高くされてきた。一言付け足せば、統一信仰を備えてアボジを慕う女性は全てアボジの女であり、祝福は形の上ではアボジの女を天使長の位置にある男たちに下賜された立場だ。相対との性的な深みがあって霊的感性は広がりを見せる。すなわち性を通して心情は深く厚くなる。

2023年6月18日日曜日

逍遥から本殿に向かって 18.

絶対を言霊で降ろされればその本意を受け取れるのかも知れないが、紙面に言葉で表そうとするのは本来無理がある。それは数霊が働く論理を働かせるわけで、どうしても地上的な社会性や道徳観が論理を組み立てる中で幅を効かせるからだ。それでも敢えて取り組もうとするのは、祝福家庭に何とかして地上摂理を牽引できるアボジの霊的権威を相続して欲しいという、老年期の終活に追われる一世のせめてもの想いがある。今、教会組織に期待を持てる何があるか自信をもって答えられる中心者がいるだろうか。年老いて色気に狂った堕落爺と言われながらも、それでも綴るのにはそこに教会組織が担うことが出来ない最後の使命があると思うからだ。祝福家庭を霊的に見るなら、天地が否定できない天の血統圏にあるという自覚が食口に本当にあるなら、その証も立てずに生活に追われる毎日であってはならないはずだ。昼の神様によるイスラエル選民でさえ地上の覇権を握るに至ったのであれば、夜の神様を根源に持つ霊を戴いている統一食口は、地上のみならず天宙の覇権を握って当然だろう。歯がゆくもどれほど地を叩いて天に談判しても、本来のアボジが予定されていた基元節は迎えることができなかった。御父母様を始め多くの食口の犠牲による実りというか最後に残された結論が、基元節で始まるD-Dayだったはずだ。神霊を滝の如く地上に降り注ぐD-Day摂理が腰折れになったのであれば、逆に神霊を迎えるために食口は霊界の位相を駆け昇って神界の神霊にまみえる必要がある。その為には絶対による秘儀以外考えられない。それが私の50年の信仰の結論だ。その動機あっての性に向かう私であり啓蒙であることは理解して欲しい。決して感覚の歓びを得たいだけの堕落的動機では決してない。もちろんそんな青春期はとっくの昔に過ぎ去ってはいるが、、。

2023年6月17日土曜日

逍遥から本殿に向かって 17.

 統一食口が霊界に行くと、同じ霊界位相である食口達が一同に集まって暮らす統一村があるらしい。そして次の話が何とも私達の心の陰りを一層暗くする話なのだが、それぞれが犯した罪をプラカードのように首から下げて会う食口、会う食口全てがそれを目にし、生前の行いや罪状を把握できるとしている。それが天国か地獄かと言うと誰一人それは素晴らしい天国生活だとは言わないだろう。そんな地上的イメージを描いている時点でそれは霊界とは何ら関係のない、敢えて言えば霊的位相の低い私達に恐れを抱かせて、すなわちサタンの知恵を借りて手名付けようとする悪度さが見える。そんな説明で頷くほどに霊的感性の低い時期もあったということだろう。人間は肉身と霊人体とで人間であって、肉身だけの人間などいない。地上生活は肉身だけの生活で肉身を脱いで初めて霊人体が用意される、と言うことではない。地上生活しながら霊人体の成長も為して霊的生活も同時的にしている。というか霊は時空を超えているので同時的という言い方はおかしいが、人間は地上と霊界の両方に跨っている。肉身があり霊人体があり、そして肉身と霊人体を繋ぐ魂がある。そうなると三つの在り様があるとなってしまうが、魂は肉身と霊人体の一つになった在り様と言ってもいいかもしれない。はっきりいって食口には恨みがある。教条的縛りによって抑えられた自我を強いられたことへの恨みだ。それは本人にしてみれば無意識の底に我知らず封をしたままで見ずにいるが、それは人生を通して自由なる精神を奪われているという恨みだ。時としてその恨みの断片が表面に覗こうとすると、その都度浮かぶ思いがある。どうしてみ言葉を聞いてしまったんだろうという恨み言だ。霊界に行って、自分の行くところが天国かどうかはわからないが、その恨みが大方の食口にあって、解放されない世界が自分の内面の表れとして霊界の環境に現れるはずだ。自由精神を育んできた人間であれば、もっと主体的でありもっと能動的で肯定的だ。霊界を知らされながら霊的感性も本当の霊的価値もものにしていないという、この皮肉の悲しさが常に教会に漂っている。常に自分を縛ることに汲々としてきたから、罪を掲げて枷を自らに嵌めて暮らすという霊界の生活は以外と的を射ているのかも知れない。そんな食口達は今こそ一点突破であり全面展開だ。性には内面を開放させる神霊の作用が認められる。解放されればこそ受容の胸襟も大きく開いて邪悪な霊的要素も簡単に受容してしまうということもあるのだが、そこは縛りが正しく働いて相対以外の相手を持つことはないだろうから、相対間でこの創造の秘儀をしっかり研究すればいい。先ずは見つめ合うことからだろうか。海外で生活すればわかることだが、日本人は他と比べて目を見て会話することや見つめ合うことが本当に少ない。授受作用は先ずそこからだ。

2023年6月16日金曜日

逍遥から本殿に向かって 16.

 本体論は講論のような文章表現で表したものではなく、講義案のように箇条書きであったり図が使われたりしていて、それを追っていくだけではさして過去に記されたものと比べ何ら目新しさはないように思える。確かに堕落した下からの目線ではなく、創造された神様からの目線で表されたのが本体論だと説明されればそういうことかと納得するとしても、しかしそれで新たな動機が発動されるわけでもないだろう。おそらく殆どの食口は本体論の名称だけを知っていて内容がどうだったかも説明できない。本体論は夜の神様の目線であっても、昼の神様はまだ論理的に説明されればその在り様は理解できるが、夜の神様は論理を超え知情意を超えているのでこれが本体論ですと差し出されて読み進んでも理解はできない。知情意を超えて、すなわち霊的感性を働かせなければ理解できない。食口の誤った唯物論的霊界観で見通せるものでは決してない。そして本体論の中枢は絶対だ。晩年よく話されていた性と生殖器の話は実は本体論の話だ。そして夜昼の神様も本体論の話だ。堕落圏を超えたその話は堕落圏に留まる限り下ネタと吹聴されてしまって今は誰も触れようとはしない。事実アボジは一連の本体論の話をされながら堕落圏を超えた先のエデンの園を見据えておられた。しかしながらモーセがカナンの地を望みながら足を踏み入れることができずに死んだように、アボジもエデンの園を見据え踏み入れる基元節を目前にしながら、その日時まで示されながら足を踏み入れる前に連れていかれてしまった。今となっては夜の神様を代表する神々が地上に降り下るXdayで直接権威を示される現実を見ることはなかった。驚天動地の指示が下される予定だったはずだが、夜の神様の顕現は下りず宗教圏を超えない昼の神様のまま基元節は遣り過ごされてしまった。夜の神様の出自であるアボジから祝福を通してその分霊を戴いた私達であっても、霊的感性も開拓されておらず摂理的使命に対しても疎いままで、そんな私達にアボジの描かれたエデンの園は見えているだろうか。しかしそうであっても人類の未来は私達に掛かっている。今は良心を通してしかアボジに繋がる道はないとしても、訝しくも下手な神託を仰ぐのではなく、アベルに摂理的願いの判断を丸投げするのでもなく、必ず良心を通してアボジの願いが届くはずでその意識で良心を強くし、また開拓すればいい。言われるがまま闇雲に動いて、社会に独善的脅威を与えて、稚拙な復帰計画を掲げて上げ足を取られて、それはサタンですら相手にしない。

逍遥から本殿に向かって 15.

 歴史は夜創られる。創世記に「夕となり、また朝となった」とあるように、天地創造は夜構想され昼に構想通りに展開された。夜、すなわち夜の神様による構想が創造だ。宇宙はそうして夜の時期と昼の時期を交互に繰り返してきた。人間も同じで夜と昼を繰り返しながら日々を送っていく。そして同じように人間も夜創られる。意識ある昼に経験したものを夜の無意識圏に届けながら、それを踏まえて新たな創造が為される。本来、性は昼の意識圏内、すなわち昼の神様の範疇になく、夜の神様が主管する範疇にあった。その一つの意味として五感を歓ばす動機で性に向かうのではなく、創造的動機があって性に向かうのが性のあるべき本質だ。アダムとエバは、まだ夜の神様の手の内にあるべきものを早々に昼の領域に、すなわち性を中途半端に意識圏に降ろしてしまった。もはや性を通しては創造の神々の居る神界にまで昇っていくことはできなくなった。それはやがては霊界をも見届ける感性すら無くなっていった。性は昼の神様の領域にあっても、この世の神サタンが人間の五感を通してサタンの触手を伸ばす、すなわち罪の繁殖という悪の秘儀に使われてしまうことになる。善なる創造の秘儀を悪の秘儀に使われたというのが、堕ちた天使長たちを介する堕落だ。これを取り戻す、すなわち復帰にどれほどの年月を要してきただろうか。み言葉認識に多くの誤解があるとしても、それでも食口は堕落の意味を表面的ではあっても知っているし、サタンが嚙みついて放さない性の忌まわしさも知っている。しかしそこで認識が止まってしまい、堕落圏を超える創造領域にまで性の在り様を変えることができる後天時代なのに、未だにその絶対の認識を無視しているのは、私達の何が不足でアボジの真意を尋ねることもなく夜の神様へと繋がらないのだろうか。それ以前の問題として、祝福家庭が堕落のない霊を分けて戴いているにも関わらず、罪人に口なしの体制が続いて主体性すら取り戻していない。

2023年6月13日火曜日

逍遥から本殿に向かって 14.

 霊的救いを得るためには神霊と聖霊を迎えなければならない。クリスチャン達の救いは霊的救いに限定されていてサタンの血統圏から逃れられないとするが、そのように食口にしてみれば霊的救いを過小評価しがちだけれども、イエス様が開かれた霊的救いは聖霊を受け入れ神霊と聖霊がひとつとなって霊的救済圏を立てられるという、イエス様の救いの摂理が切羽詰まってからの奇跡的勝利圏だ。イエス様を慕って愛して、さらに愛し抜いてイエス様の相対的立場に立つのだが、愛し抜いた後に私が迎えるのが聖霊であり、聖霊こそイエス様という体を纏っていた神霊の相対だ。絵も言えぬ心地でイエス様に包まれている、愛されているという自分を自覚したとき、それこそが聖霊を迎えているという事実だ。だから聖霊は見るものでも聞くものでも触れるものでもない、私の中に迎えるものだ。本来、生殖器が出会うことで本殿が用意されれば、お互いの体に神霊と聖霊を迎えてその交わり、授受作用を通して創造が為される。本殿が用意されて二者一体が神殿化すれば、そこは叡智と心情と愛する衝動が稲妻の如くほとばしり、溢れて漲る場となる。肉的五感と霊的五感が相通じるその体験は天宙創造に参画している高次の神霊体験だ。そういう本来というか本然の性の交わり、授受作用を祝福家庭こそが経験すべきで、それは人類にとって、霊的に遠い遥か彼方の神霊界を地上に迎えるという、天地創造このかた想像だにしなかった天地開闢時代を牽引する地上生であり地上性の提示だ。

逍遥から本殿に向かって 13.

 初めに言があった。言は神と共にあった。-ヨハネ福音書 冒頭

言霊(ことだま)が共にあり、数霊で構築し、そして性霊で生命の息吹を吹き込む。先ず神の願いとしての想いや心情こそが言霊の本質であり、数霊は原理原則でその願いの実体化を組み立てていく。組み立てられた対象に性霊の働きで神が入り内在することで神の神殿となる。言霊は人間魂の情を対象とし、数霊は人間魂の知を対象とし、そして性霊は人間魂の意に働く。言葉に数霊の知が関与して論理となるのであり、言霊は本来心情から降りる。日本が日本国として立っているのかどうかは、その形を見る以上にその性相部分、すなわち日本の精神が立っているかどうかによっている。日本人全体の中に日本の在り様を想う言霊が降り、その在り様に鑑みて様々な関係性を構築し、そして日本民族として繁栄するという一連の創造作用、日本として継続する為に対応し続ける必要があるという点で、関係性創造を含めた創造行為なくしてあり得ない。私達は地球村を目指し、それは人類一家族という地球国家に他ならないわけだけれども、現実的に考えてそれは或る国家の成長と繁栄により他国家の吸収の延長線上にこそ可能だということだ。アボジは祖国統一の後、どのような地球国家へのプロセスを考えておられたか、今となっては知る由もないけれども、統一祖国と日本が一体化して一つとなり、その経済連携の版図を広げていく以外のどんな道筋があるだろうか、と私は思う。話はそれたようだけれども、日本が本当に立たなければ、統一祖国の相対にはなりえないという意味に於いても、日本は日本民族の言霊を降ろし、日本の精神が立ってこそ地球村に貢献できると信じている。今だけ金だけ自分だけの烏合の衆でしかない今の日本に、どうやって言霊を降ろし日本精神を立たせることができる方法があるだろうか。そう憂いたとき、絶対しかない、聖【性】霊を迎える性革命以外ないと本気で私はそう信じている。

2023年6月11日日曜日

逍遥から本殿に向かって 12.

皆さんが男女関係によって愛し合ったならば、愛したそれ自体において、男性の凸と女性の凹は、何が変わるのでしょうか。それ自体は同じですが、既に変わっているのです。-『平和の主人、血統の主人』より

愛し合ったことによって既に変わっている。目に見えない何か、自分の肉体の背後の関係性を変える何かが変わる。エバがアダムを誘惑して関係を持った時、アダムにエバの、既に変わってしまった血統の背後関係が投入されてアダムもまたサタンの血統圏に堕ちてしまった。普通に考えて、複数の関係性を持てばそれぞれその影響を受けるので、その影響はどれ程のものかということになる。イエス様が生涯そういう関係を持たなかったかどうか、持たなかったと信じたい気持ちはわかるが、おそらく私はあって当然だと思っている。アボジがまさにそうであるように、、。アボジの行動は、アボジならではの神の血統の伝播だったのかも知れないし、真の父母として立つ為に自分にない霊的素質を受け取る為の方法だったのかも知れない。私は両方の動機があってのことだと思っているが、そこを深堀するのは私の立場にはない。わかっているのは堕落に性が関係しているのであれば、復帰にも性が関係せざるを得ないということ。私達はこれをしてはいけない、あれをしてはいけないという縛りの発想から行動を起こそうとするが、それは縛りや枷がない自由に任せてしまえば収集のつかない責任を負うことになると根底で思っていて、それは良心が自分には正しく働かない、良心の働きより悪への指向や衝動が勝っていると思うのと同義だ。確かに多くの者達は良心がどれほど権威があり、悪に向かおうとする時の良心による負債感がどれほど強烈に働くかの経験がない。祝福家庭がその自覚や経験なくしてどうして人類に良心革命ができるだろうか。性に対しても全く同じで、信仰という縛りで未だに見ており、良心に問い従う接し方とは雲泥の差がある。人はそう簡単には変わらない。しかし地球、そして天宙全体は良心作用、すなわち良心として神霊が個々に内在する天宙的運動は増すばかりだ。縛りと枷に封じ込められた私という存在が、その縛りと枷を打ち破ると意志もしなければ、正しく良心は働かない。良心作用が自ずと増すようになると思っていたら大間違いだ。その覚悟と決意が必要なのに、縛りと枷に慣れすぎてその意志すら失ってしまったとしたら、それは神様にとってどれほど悲劇だろうか。先の者が後になり後の者が先になるという聖句は食口こそ噛みしめるべき聖句だ。たとえ信仰によるとしても、その安寧の位置から離れないのは自己中心のサタンの在り様そのものだ。

2023年6月10日土曜日

逍遥から本殿に向かって 11.

エバは神のように目が開けると思い行いに至った。そしてエバはアダムにもそのように誘惑しアダムも行いに至った。時ならぬ時にということだが、何を待てば判断を間違えなかったのかと問うと、それは成長して良心がその判断をすべきだったのが良心が霊肉を主管する前にサタンが主管してしまったということになる。神様を内在すべきがサタンを内在させてしまった。祝福摂理が正しいのであれば、人類全てがサタンの血統だった状態からその牙城は崩れていき、神の血統圏がジワジワと広がっているということだ。しかしその状態をサタンの血統の様相と神の血統圏の様相が目に見えて異なっていると捉えるとしたら、それは祝福摂理を唯物的というか地上的な事としてのみ理解しようとしていて、霊的な事実に目を向けていない。同じように祝福子女(御父母様であれ祝福家庭であれ)に対する固定的なイメージ(内的イメージも含めて)は、勝手に公序良俗的なイメージを抱いて判断してしまい、同じく霊的事実を無視している。宗教というか信仰の恐ろしいところはそういう思い込みにあって、堕落の固定的イメージを持ち、祝福や祝福子女のあるべきイメージを持ち、霊界についても神様やサタンについても固定的イメージを崩せないでいることだ。堕落は性と関係性があるのは間違いないが、復帰も性と関係しており個性完成も性と関係しているのであって、であるのに性そのものに対する穿った感情、堕落的感情を手放さない限り、絶対の概念は永遠に受け取ることが出来ない。私が社会性を否定し、道徳観を否定しているかのように見られるとするならそれも望むところだ。否定しているのではなく超える位相の話をしている。宗教の本質はそういった地上の囚われに左右されない。さらにその宗教を超えようとするのがアボジの願いであったはずだ。食口は教えられてきたイメージを先ずぶっ壊す必要がある。全てのイメージを壊して、み言葉によって今の時代圏に相応しいイメージを構築する。勿論その作り上げるイメージもまた、将来的には壊されるものだとしてもだ。真の父母に接ぎ木され、戴いた神の分霊は時代を超えて繁栄する、或いは創造する力を備えていて、その力は常に神様から溢れんばかりに投入されている。それをただ信じるのではなく、食口にはその霊的な迫力を実感してほしい。それを実感できるのは絶対にある。

2023年6月9日金曜日

逍遥から本殿に向かって 10.

食口の大きな関心事にアボジの数回の結婚(聖婚)とそれ以上の6マリアの問題がある。そのことに関して教会は数回の結婚に関しては認めてもいるし、その理由はそれなりに(それで全ての食口が納得しているかどうかは別として)摂理的状況的に説明されている。しかし6マリアの件に関しては、H2は認め、摂理的(?)に説明されてもいるが、教会は否定してその事実はないとしている。しかし大方の食口はそれでも事実だろうなとは言わずとも思っているし、何らかの摂理的理由があるのだろうと黙認している。今までの記事から察することができるように、私の理解はそのことを問い、問題視すること自体が間違っているという立場だ。性は社会性やその上での道徳観の領域外のことだからだ。結婚は社会性による判断が問われるとしても、性の問題は結婚観を超えている。敢えて言えば、6マリアは10マリアかも知れないし100マリアかも知れないし、さらにアボジが摂理観から論理的に理解してそういう行動に出られたとも思っていない。神霊に導かれるがままに(堕落のない本能的衝動のままに)為された夜の神様の主管圏内の話だ。そうなると私達が教えを乞う位相段階でありながら、とやかく口に出せる話ではないだろう。社会性道徳性を超えた性について、敢えて楔を打ち込んだのが血統転換としての三日儀式だ。み言葉を信じるとして、その上で放蕩生活に堕しようが、逆に生涯、一人の伴侶以外の関係を一切持たなかろうが、それで霊的血統が変わることはない。しかし唯一、三日儀式を通して霊的血統は変わる。さらに変わった後、相対関係が崩れるとしても、不倫などの問題を起こしたとしても、それで血統が元帰って堕落の血統になることも本当はない。と、私は確信している。そんなに性の習慣性や性の一過性の過ちで血統が行ったり来たりするなら、祝福も三日儀式も地上のこの世の主管圏から脱せず霊的意味はないからだ。

2023年6月8日木曜日

逍遥から本殿に向かって 9.

 口があって、二つの乳房があって、そして聖殿がある。アボジは性の話をされる時、その巡礼の順番を重んじるように話された。この話でピンとくるのは、そう正分合の三段階の話だ。神様、そしてアダムエバに分立され、そして子女繁殖、この三段階を経て人類の創造が為される。人間も同じように、口を通して神霊に挨拶し、陽のアダム神、陰のエバ神を巡り、そうして聖殿に踏み入れるという三段階を経る。お互いが位相の下位位置から位相の上位神霊に挨拶するプロセスを先ず経る。吸引しながら上位神霊を私の中に御迎えし、迎えた上位神霊が下位神霊であるアダム神、エバ神を愛撫しながら開放させ、聖殿の扉が潤うにつれて開かれる。子宮までの参道が十分に用意され聖所から至聖所の奥の院にまで迎え入れる準備が一方で出来る間に、迎えた上位神霊は漲る生殖器へと移動され、参道を降り神霊の種子を放って高揚と繁栄の感情を爆発される。アダムは東の端の存在であり、エバは西の端の存在だ。その極と極の存在が相見えることの奇跡は、半分の存在が男で後の半分の存在が女である地上に於いては、いささか理解しづらいことはよくわかるが、私という存在が地上に現れ生きることの奇跡を理解し、驚嘆するほどの感謝が沸き起こる私でなければ益々その理解は難しいだろう。霊界は心情世界であり地上感情の数百倍の情の世界がそこにある。霊的無知の克服の道は、日々のルーティーンによって感情のない時間を流されるのではなく、同じ景色でも同じ人でも刻々と変わる異なる表情をしっかりと意識し、そこに息づく感情を捉え相対できる己が感情を発動させる。自分自身が受け取るチューナーとなり増幅させるアンプとなり、韓民族を超えるほどに喜怒哀楽を覚え心底からの感謝を供えるそんな日々を送れれば、夫婦生活も性生活も全く色合いを増してくるはずだ。祝福家庭は霊的無知を克服し、誰よりも輝く地上生活を送ってほしい。アボジが差し出された絶対という概念は、この言葉で霊的無知を克服し神霊と相交わることができる奇跡の言葉だ。アボジは勝利されて既に秘儀を差し出された。要は私達の生きる態度の問題だ。

逍遥から本殿に向かって 8.

 後天時代は道徳観も善悪観も先天のそれとは異なっているし、その違いは時が進むにつれて更に差は広がっていくだろう。子孫繁栄という創造意志は性が当然関わるのであり、創造は夜の神様の分野であれば性も本来は夜の神様の領域だ。性の領域では地上の道徳観であるとか社会性は通じない。不倫や淫乱が表沙汰されて、教育者も教会関係者も当然のように批判非難はしているけれども、恐らく非難されるようなことを誰だって少なからず望んでいると私は信じる。私に言わせれば性は道徳性社会性を充てることが出来ない、とても人には言えない奔放で淫らであって混沌そのものが性だ。性を表沙汰すること自体が批判非難の対象であっても、その在り方に対してはとやかく言うには当たらないし口を閉ざすべきだ。不倫は悪だというけれども、社会性を宛がうから不倫になるのであって、結婚が形だけでそこに夫婦の愛は培われていない場合が殆どで、形だけの夫婦に縛りを押し付けるのが、愛である神様の願いだろうかと私は疑問に思う。もちろん不倫は善だというつもりは全くない。言いたいことは、教会でも愛という言葉はよく使うしみ言葉にも愛という言葉は限りなく使われているけれども、愛の形骸化は愛とは言えないし、大体愛の意味も知らず愛してもいないのに愛という言葉をみだりに口にすべきではない。同じように性に対しても恥ずかしいとかイヤらしいとか不道徳の感情レッテルがしっかり貼られていて、そんな洗脳人間に絶対など理解もできないし、理解しようともしていない。レイカン商法だとか多額献金だとか、社会性を逸脱するほどの信仰があるなら、愛の何たるか、性の何たるかを社会性を逸脱するほどに求めて見ようという食口はいないのだろうか。日本の同調圧力に屈すまいと決意していても教会の同調圧力に屈してしまうということは、結局自分の良心が立っていないということにはならないだろうか。自分の歩みは霊的に生きているかどうかを自分に問うてほしい。先ず霊的に生きる道を歩み始めて、それでこそみ言葉も相対できるし、絶対に必要不可欠な霊的無知克服に臨むことができる。

2023年6月5日月曜日

逍遥から本殿に向かって 7.

 ホモセクシャルやレズビアンを感情的に受け入れなかったり、御言葉を掲げてダメなものはダメとはなから取り合わなかったりするとしても、正しく(?)夫婦の交わりを持つもそれが肉欲のみであるかぎりは、同じ地上的歓びに留まるという点ではどちらも神の御意からは離れている。その意味では子供が欲しいという切なる願いで関係を持つのであれば、彼等に対して一言はできるのかもしれない。が、全ての問題の根底には人類の霊的無知という課題が横たわっていて、その解決に目を向けない限りLGBTの問題も夫婦や家庭の在り方もいつまでも捉えどころのない浮島のままだ。食口がどれほど熱く人類に対する神の願いを語るとしても、この霊的無知の本当の意味を捉えた上での観に立たなければ、み旨だ摂理だと騒いでも神の御意からは随分ズレたままで独善感が漂ってしまう。しかしアボジが提唱した絶対に向き合えば、自ずと霊的無知に向き合わない訳にはいかない。アボジからみ言葉を受ければ、全ての言葉が何の脈絡もなく箇条書きされて詰め込まれ、それらがぶつかり合っているが、実際は全ての御言葉はおもしろいほどに関係しあっている。親としての子供の誕生は、今まで覚えたことのない歓びの感情をもたらしてくれる。実はその感情は性本能に関与する神霊の創造心情から来ており、そうであればその時の歓びや不安の感情の些細な一つであっても等閑にせずに全て魂に刻んでほしい。その感情の中に神霊と分かち合え共感もできて一つになれる、創造意志への新たな扉が用意されている。そして、ここが重要なのだが、突き動かされる性的交わりへの衝動にも、我が子と言える地上的実体の創造はなくとも、同じように私の新たな分身だと言える霊的関係性の創造動機が隠れている。だから闇雲に的を射るような衝動任せであってはならないし、また一人の相対にのみ許された行為だと戒律の中に頑なに囚われての衝動であっても創造意志はそこにない。もちろん別の相手と行為を持ってもいいんだという話では毛頭ない。性に関心を持ったり表現しようとするとき、恥ずかしさ故に触れたくないのと、余りにも尊いから尊厳の想いから簡単には触れたくないのとでは天地の差があり、前者は堕落性であり後者は神性だ。絶対の実体表象として立たれているのが御父母様がどうかはわからない。しかしアボジが未だその途上にあると語られたことは、先輩食口から聞いたことがある。人類が真の父母によって堕落圏を脱したことは事実だ。そしてその勝利圏のために力不足であったとしても祝福家庭が貢献したことも事実だろう。しかし、本来の人類としての成長発展は堕落圏を超えて出発したばかりだ。霊的無知をどう克服していくか、絶対の在り方をどう人類に示していけるかという摂理的使命を、先天の摂理と同じように祝福家庭が牽引していくのかどうかは疑問だ。私の感覚からとしか言えないが、堕落の極み、淫乱の極みにいる者達の中に、意外とその使命を認識している者がいるかも知れない。食口が聞く耳を持つかどうかは別にして、極と極は認識の壁一枚で隣合わせている。

2023年6月4日日曜日

逍遥から本殿に向かって 6.

本来であれば人間は興奮し、そして絶頂に達して頂きの彼方、すなわち彼岸を観ることができる。しかし人間が霊的無知に陥ったために、肉体の興奮から霊界に参入し霊界を見届ける感性を失っている。要するに性に何らかの創造意志が働いていることは理解できるとしても、頂きに立ちながら彼岸を見通せない為に創造意志の正体は掴めない。絶対の譲れない在り方として、それは霊界を見通せる性であることだ。しかし何度も言及しているように、地上で視界が見通せるように同じ視覚で霊界が見通せると信じている唯物的霊界観が食口間にも罷り通っているが、そんな地上的次元世界が霊界であるはずがない。少なくとも叡智や心情の視覚化可能な世界くらいのことは言及してほしい。霊界に行けば地上で慣れ親しんで獲得した、或いは染み付いた思考や感情が霊人体として実体化している。横道にそれたが、絶頂の彼方を見通せる性であるためには、すなわち性本能に働いている創造意志としての神霊への尊厳感情を先ず自分のものとするところから出発し、その上で一つになって師であり友ともなるその神霊を私の霊的屋台骨として一つの霊的柱とすれば、創造意志溢れる神界への翼を用意できる。性の交わりは私一人で為せるものではなく、そうなるとお互いがその基準に立つべく切磋琢磨する必要がある。そんな性の交わりは既に悦楽の欲を超えていて、性がまさしく聖と同一となる。夫婦の交わりが天地創造に関与した神霊達の交わりの基準に届くようになる。霊的無知の無知である食口ですら天地創造が神様が神の杖でかき回しながら創造したなどと信じてはいないだろう。創造は神霊達の相対的関係、すなわち陰陽の交わりで創造過程の段階を発展させてきたことは明らかだ。

2023年6月3日土曜日

逍遥から本殿に向かって 5.

 自由と責任は表裏の関係であり、自由のない責任はないし責任のない自由もない。さらに自由度がより増せば責任度合いもより増すというのもその通りだ。私達は絶対愛という言葉を提示されている。私達は絶対愛を立てるという驚嘆すべき責任度合いを負っているが、ということはそれだけの自由度を増す必要性が私達にあるということだ。絶対愛と絶対の関係性とは何だろうか。あるいは敢えて関係性のない二つの言葉だろうか。私は絶対なくして絶対愛は到達できないと思っている。だから私は、先ず絶対の概念を得て絶対愛に到達できる、という仮定を立てる。愛とは創造意志だ。神様にとって愛すること即ち創造することだ。与えれば与えるほど愛は深まるように、創造すればするほど心情は深まる。創造は別に形を作ることに拘らず、いやそれ以上に創造とは関係性の創造であって心情創造という造語を用いてもいい。親の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟愛、更には万物への愛、私達の中にそれなりの基準で備わっている諸々の愛は、全ては神様の、更には数柱の神霊達の、そして歴史を通した人類の創造意志のお蔭で備わっている。しかし私達の人生の意味は既に開拓された愛に留まるのではなく新たな愛、すなわち新たな創造意志への挑戦だということができる。人類が肉体を持って意志する創造の極みは性にある。だから人類の性への果敢な試みが為されるのも理解できる訳だが、私達祝福家庭の試みとしての創造意志は、人間の本能と魂だけに囚われることのない様々な霊的観点から性の観を立てることにある。私達はかつて歴史上なかった言葉、絶対をそれでこそ見通す可能性を得る。御言葉は、霊人体の繁殖は地上の繁殖によって為されると教えている。その意味は当然のこと霊人体の繁殖も性が関わっているということだ。そして子を妊娠しないまでも性的関係がお互いの霊人体への影響を及ぼすこともわかっている。アボジの絶対と本体論はまさしく霊に関わる性をどう見通すかという、新しい性の見方(性観)の教育だ。

2023年5月31日水曜日

逍遥から本殿に向かって 4.

 以前と比べて信仰的、或いは道徳的規範は随分と崩れているのはその通りだが、同じ行為でもそこに罪の意識をどの程度覚えているかは一昔前とは隔世の感がある。婚前交渉を持って罪悪感を抱くのは極めて少なくなっている。お互いが恋愛感情を持てば当然の成り行きとなる。私達の信仰の観点から見るなら、罪は罪であるのに罪悪感を抱けないことがサタンの罠だと言うことになるが、果たしてその論理が正しいかどうかは疑わしい。私は罪悪感を抱かなくなった、即ち恐れを抱かなくなったこと自体が既にアダムエバに関するサタンの罠が今の時代に当て嵌まらなくなったと思っている。何故なら恐れの感情こそがサタンの思うつぼだからだ。LGBTも含めて人それぞれに様々な愛のカタチがあって、神がそのカタチを通して愛を受け取られるかどうか、それはフリーセックス、性の自由という本能のままというよりは、愛の自由だと思う。自由な愛のカタチをして神様を開放する、という言い方が当て嵌まるかどうかと言うことだが、今までの神観だと、すなわち昼の神様だと受け入れられないのかも知れないが、果たして夜の神様という神観からしてどうなのか、夜昼の神様からしてどうなのか、という話だ。性が先か愛が先かという観点より、性と愛、どちらがより重要視されるかという話だと思う。性というのはどこまでも形に拘る地上の事だと思うが、愛は形を超えた、地上を超えた、次元の壁を超える概念だ。愛の為の性であって性のカタチに縛られる愛であるはずがない。

2023年5月23日火曜日

逍遥から本殿に向かって 3.

 教会の常識から言えば荒れ放題の社会であることはわかる。婚前交渉は当然であり高校生で既に経験済みも大方であり、バツ2とか3とか離婚も普通であり、かつては言及することも憚られた同性関係も大っぴらに公開し、そうかと思いきやその逆で一生結婚しないとか交渉を持たない者も多くいて、どちらかと言えば結婚しない方が多いような気がする。要するに性についても一方では荒れ方もマックスなら、その一方で誰一人とも交渉を持たないという両極端な振れ幅になっているのが現実だ。或る決められた年齢層で必ず結婚し、どれほどお互いにいがみ合おうが最後まで添い遂げるという枷が嵌められていた。その時代のパターンを取り敢えず取っ払って、それぞれの自由意志に任せた結果がその振れ幅であり、それをサタン的と言いたい食口の感情は理解できるが、私は絶対に向かう摂理的段階だと踏んでいる。要するに表面的な形に対してサタンが讒訴する時代は既に超えていて、形はそれぞれであったとしても心情に通じる内的経験を重要視する時代に入っている。別の言葉にすれば、今までのように神が願っていると信じる在るべき形にこだわっても、既にその決まりきった在り方で絶対に辿り着くかどうかは疑問符が付くということだ。私達は改めてアボジが語られた絶対について、何の信仰的イメージ、要するに戒めや取り決めという教条的イメージをちゃらにして白紙から問い直す必要がある。問い直すに魂全体で問い直すのであって、決して論理だけで問うのでもなく、好き嫌いや受容できるかできないかの感情だけで判断するのでもなく、体の本能に任せるでも牧会者の言葉を鵜呑みするでもなく、知情意が一体であってこそ神の対象となって絶対の本質に導かれるはずだ。それは同時に霊的本質であるはずだ。

2023年5月20日土曜日

逍遥から本殿に向かって 2.

修練会を何度も招集されながら、あれほどにアボジが教育された生殖器の話や絶対の話であったのに、私達の受け取り方というか触れず語らずのガードが最も強いものだがら、アボジの意向は殆ど地に落ちた格好になってしまった。どうしてかというと教育以前と以後と比べてみて食口間の性に対する認識も意識も何ら変わらず、性に対して同じ様な罪意識を持っているし、触れず語らずの態度も以前と変わりない。絶対という新たな言葉も、お互い生涯を通して貞操を守りぬくという以前からあった概念と同じ扱いをしており、その言葉の真意を殆どの食口は受け取っていない。以前の戒めをより強く言い含められた言葉だとしか思っていない。私はこの絶対という言葉は人類が堕落圏にあるうちは隠されていた、しかし勝利されて既に堕落圏を超えた時代を宣言されたが故に、人類に与える新たな福音として天から差し出された至高の概念を持ち合わせる言葉だと私は思う。旧態依然の戒めという戒めで締め上げる宗教観ならキリスト教で十分なはずだが、教会はそれをさらに強化している。本来、宗教を超えるというのであれば戒めを強めることとは逆のベクトルを取るべきだと思うのだが、今の教会は戒めと縛りで雁字搦めで宗教の忌み嫌われる部分の集大成を見るような思いだ。この世の人達と違って祝福を受け血統圏の異なる私達は神の戒めを守り通せる、という態度の何処に理想と希望を見出したらいいのだろう。人々は私達を、戒めという監獄に囲まれ自由を失った悲しい人たちという目で見ている。それをどんなに原理の論理でまくしたてても、その魂で見せて誇れる内外の歓喜に辿り着いた訳でも垣間見た訳でもなく、なんの説得力もなくただただ憐憫の表情を浮かべられてしまう。そう思うと、左派の連中や反教会の人は私達の影響力を信じているからこそ感情を込めて闘いを挑んでくるわけで、哀れに思われるよりは余程人間としての扱いを受けている。アボジが霊的精魂を費やして絶対という秘中の概念を天から降ろされたにも関わらず、食口誰一人としてその貴重性重要性に気付かないとするなら、本体論の中核である絶対は誰が解き明かすのだろう。

2023年5月17日水曜日

逍遥から本殿に向かって 1.

 こういう直接的な内容を記して残そうかどうか随分悩みもしたが、実に下品で不品行で不信仰だと思う食口がいても当然かもしれないが、それでも真理に向き合うために敢えて記すことにした。今回の件も私の良心は私を押し出している。それを否定することはできない。もしたとえ地上天国なるものが完成し、人類のいっさいの罪が清算されたとしても、真昼間に陰部も隠さず闊歩するような社会になることはあり得ないし、人前で堂々と愛し営む社会になることもない。性は夜の神様の管轄だからだ。性に向き合うことは夜の神様に向き合うことになる。アボジの晩年の生殖器教育を受けながら、気恥ずかしく暗い笑みを浮かべるしかない居心地の悪さをアボジは察しされたのか、愛の本質そのものの話をしているのにその態度はなんだと語気を荒げて注意されたのを覚えている。それほどに生殖器は聖であり営みも聖なのだが、営みに情欲が入り込むことでサタンが関与していると暫く信じていた。一方で情欲を抱かない営みなど何の歓びがあるのだろうとも思っていた。多くの一世がそうだと思うが私は妻以外の女性を知らない。原理と御言葉と、そして数限りない修練会で厳しく叩き込まれた信仰教育の結果として、正直な話知りたくない訳ではなく知ることができない。男の無邪気かつ直接的突進的な性として妻では飽き足らず、男の触手は五感で得られるあらゆる媒体へと延びてゆく。多くの場合視覚刺激をまさぐりながらじわりじわりと延びてゆく。普通の男性であれば早急かどうかはそれぞれだとしても、視覚から触覚へと進むのは自然だろう。もちろん妻以外の女性の相手を用意することは先ずない。その代償として自分への慰撫に留める。死への恐怖観念がそうさせて信仰を刷り込まれた自分を超えることはない。実際の相手との交渉は私を奈落の底に落とさせる。その感覚があるのは普通に妻との交わりでも経験することであり、以後のあの脱力感であり性を忌む遺棄感だ。それが負債感と罪悪感で幾倍にも増発されて転げ落ちる奈落の底から這い上がれるとは普通の食口であれば先ず思えないだろう。教会に行かなくても献金はしなくても、それくらいであれば自分なりの理屈や言い訳を立てて、負債や罪悪感を抱かないよう主管することはできても、こと堕落の本命である性についてとなると欲するままに行動してその後の自分をとてもとても主管して立て直すことなどできはしない。しかし、だからこそなのか情欲と性欲は常に自分を強烈に駆り立てる。私はここ数年を通して或る仮説を立てることにした。それは信仰の最大の戒めを戒めに終わらせずに、果敢に立ち向かい性の観を立てることで冒頭あたりで記した夜の神様に出会えるという仮説だ。私としての神様に対する公的命題は様々な摂理的活動に生きてきて既に果たしたと言えるのだろうか。とてもそんな結論は出せないと思える私は今、導かれてこの路程に参じてきた最大の理由が、実は先天の終わりに唐突に話された「昼の神様、夜の神様」の解明ではないだろうかと思っている。

2023年5月16日火曜日

今日の想い 1243

 数行に及んだ銀行破綻、銀行危機もそれなりの落ち着きを取り戻しつつあるように見え、銀行による信用システムは強固で、崩壊するなどと思っている者は数えるだけなのかも知れない。かつての信用破綻、金融破綻は、経済社会、金融社会が平安を装い始めるその時を待っていたかのように起こっている。今は正にそんな空気が漂っている。確かにアメリカの失業率は低い。IT企業を中心に大リストラが起こっているにもかかわらず、それでも失業率は低い。大企業からリストラされてもIT関連の中小企業から彼等の経験ゆえに雇用されるからであり、しかし中小企業も余計に従業員を抱えることはできないので、入れた人数以上の既存従業員をリストラすることは目に見えている。要するに上から下に玉突きリストラしながら次第にその人数は増えてきて表面化するのだが、失業率は表面化されて初めて数字に表れる。銀行がたくさん抱えているのがMBSと言われる住宅ローン担保証券だが、住宅以外の商業用不動産ローン担保証券も同じようにたくさん抱えていて、コロナによる自宅勤務で商業用不動産の需要が落ち込んでしまいサブプライムによるMBSの問題と同じようにこの商業用MBSの落ち込みと含み損も際立ってきた。リーマンショックはMBS問題一つだったが、今回のバブル崩壊の過程には問題が一つ二つではなく様々な深刻な問題が同時的に起こりつつあって、そうなるとリーマンショックの比ではないはずだ。最近日本であちこち地震が発生していて、日本列島全体を文字通り震撼させる大地震を予感させるが、経済も金融もあちこち問題が発生していて、それが大恐慌を予感させる。金融のレバレッジはテコの原理で、現物を何倍にも増幅させて投資運用されている。要するに現物担保のない増幅された部分と釣り合うように、金融緩和によるM2(マネーサプライ)が増加された訳で、マネーそのものにも現物担保はない、すなわち価値はないということになる。しかし増幅された部分なのか現物なのかの色分けは出来ず混ざり合っているので量を表す数値よりも比率が重要なのであり、金利や金利差が全てを決めてしまっている。どうしてこれほどに%に一喜一憂し、%次第で銀行が破綻してしまうかはそういう理由があるからだ。金利0.05%といった少ない数字を5ベーシスポイントというような大層な言い方にしているのもそこに理由がある。金融は%、比率が支配している。%を治める存在は神にも悪魔にもなる霊的混沌存在だが、ヒンズーの教えにある破壊に携わるシバ神が関与しているのはわかる。

今日の想い 1242

 生(意識)を通して魂の成長とし、また死(無意識)を通して魂成長の意味を知る。主管する位置で知情意の魂を一つとし、犠牲を甘受して魂の背後の霊と語り合う。善を標榜して魂を鍛え、悪なる現実に腰を折られて魂の謙虚さを霊に刻む。言葉を言い換えれば、魂の前進が地上の成長を促し、魂の後退を経験して霊的な深みを学ぶ。勿論、霊的深みを掘り起こすことで魂の新たな前進をもたらすのであって、もしひたすら前進し続けるとすれば人間の霊的力は枯渇する。だから人生に波があって当然であり、上がれば下がるのは必然であり、人類社会の歴史も経済の流れにも同じように波がある。より上がればより下がるのが原理原則だ。人間が地上を生きるのは魂で生きるのであり、肉体で生きていればいいという話ではない。魂がどれだけ高くそして深く、どれだけ強固にそして柔軟に、どれだけ包括しそして個別に入り込めるか、ということなのだが、私達が地球村を標榜するに於いてそれは包括的らしくはあるけれども、本当に包括的であろうとするなら一方で個別的なことにしっかり光を充てて向き合ってこその包括なのだが、その辺りは偏りすぎていて全体主義に陥りやすいと私は思う。今の若者がそうであるように、様々な方面で個の力を発揮できる二世達のはずが、一世の祝福子女へのあるべきイメージが余りにも偏り過ぎていて、その被害を受けている場合が相当にあると思っている。一連の問題で或る祝福二世が反教会の立場で脚光を浴びたが、教会や食口は彼女に対して批難一辺倒であるのもおかしいし、彼女をそう駆り立てた原因を謙虚に真摯に尋ねないのもおかしい。悪霊が働いてサタン化した、などという決め付けを中心者から言われるがまま鵜呑みにできるものだろうか。もしそうであるなら解散要求を待たないまでも既に教会組織は終わっている。 個の力を発揮できることを容認すれば反全体的になるのは当然だけれども、それまでの全体的なものが合わなくなったということであり、新たな包括案を提示する必要を是とすべきだ。神の摂理の前進が積み上げ一辺倒ではなく破壊的である場合もあるし、歴史の転換点は破壊的な場合が殆どだ。私は普通の食口とは異なり、破壊的でありサタンと呼ばれるほどの二世が現れるのは神の叡智をそこに見る想いだ。

2023年5月9日火曜日

今日の想い 1241

 地上天国に住まう人々は皆が皆四六時中他の為に生き、犠牲的精神に貫かれた人々だろうか。堕落人間が罪を清算し、真の人間になったなら善人ばかりで悪人はいないのだろうか。善人は徹底して他を思い自分を犠牲にする公的人間となるのだろうか。様々な疑問に向き合うことが認識の第一歩だ。天国生活でよく例えられるのが、宴会のテーブルで自分の口に持っていくには長すぎる箸で、お互い与えあいながら自分の腹も他によって満たされるが、自分の腹のことしか考えない者は満たされない、という話だが、だいたい長箸しか用意されていない時点で随分と意地悪な、とても便利な天国とは思えない設定になっている。箸は相手の口にもっていけるかも知れないけれども、食べ物を自分の口にもっていくのは当然だしそれが箸というものだろう。そして犠牲的な思考や行動を素晴らしいと思えるのは、自己中心的な思考や行動が普通で当然だからこそではないだろうか。人間は本来他の助けを借りずとも自助で生きるようになっている。自己中心を悪のように仕立て上げているが、自己を成り立たせた上での他の為に生きるだと思う。私達の「為に生きる」という観念が極めて稚拙に思える。そんな長箸で例えられるような天国イメージで留めているから何十年たっても伝道はできない。飴を与えることは為に生きることではなく甘やかしているに過ぎない、という場合の方が多い。天国行きの切符は飴の最たるものかも知れないが、天国を築ける力があれば誰かが造った天国に住まう必要はない。よって天国の何処に住むかではなく、天国建造のどの部分を担うのかそしてどの部分を他に依存するのか、という意味で他の為に生きるのであり同時に他に依存している。個人が活きれば全体も活き、全体が活きれば個人も活きるべきであって、一方に偏る個人主義と全体主義がそれぞれを否定しているのとは関係性が異なっている。よって天国の概念は限定的な時間空間モノの世界では成り立たず、どのようにも新たな世界、新たな事物を創造できるし、その固定的ではない創造理想を踏まえて成り立つ概念が天国とはいえないだろうか。犠牲精神は抱えているものを放つことで次元の違うそれ以上の価値ある内容を得るという意味であって、けっして只捨て去るという意味ではないはずだ。親が子の為に犠牲になるのは先ず親子一心同体であって、子の活きる価値を見出すから犠牲をものともしないし、それを犠牲とも思わない。一心同体の最愛の存在を失うとき、失ったことで得られた新たな心情を認識することで、私は別の次元で最愛の存在を迎える。

2023年5月7日日曜日

今日の想い 1240

 ワシントンからルート95を北上してニューヨークを目指すと、NJターンパイクに入る手前に巨大な鉄骨のデラウェアメモリアルブリッジがある。車を走らせて湖のようなデラウェア川を中ほどまで横断するにつれ、横風は一層強くなる。風に車体が持っていかれないよう、ハンドルに力を込めながらも坂を上りきると、視界は一変に開放され眼前に地平線が広がる。アメリカの広大さを実感する瞬間だ。卸に勤めていた頃は、毎週のようにブルックリンまで魚の買い出しに出向いていた。レストランに移ってからも本部参りで年に数回ニューヨーク間を往復していた。このブリッジがちょうど中間位置にあって、だいたいそこまで二時間半かかるが、ブリッジを超えて残り半分の運転に気合を入れなおす。景色は実際感動的でもあるが、強風に対処し化学工場からの臭いもあって、実は通過し景色を思い起こしてすばらしかったと思う二次的感動だ。ブリッジを降りてターンパイクに入る手前で40号線の入り口があり、東への経路を辿っていくとアトランティックシティーに着く。ベトナム人の従業員と二人で、運転を変わりながら買い出しに行っていたが、アトランティックシティーに寄ってから行こうと何度もねだられた。人は良いがギャンブル好きで、寄ったら数時間は取られることはわかりきっているので、その40号線入り口あたりの運転は私がした。トラックで横風の強いブリッジを超えるのは緊張するし疲れもしたが、そんな理由でハンドルを握らざるを得なかった。鉄骨で何の風情もない無骨な橋だったが、何度も通過するうちにいろんな思い出と相まって親近感を覚える。ある時復路で夕暮れ時に差し掛かると、空一面の紅で覆われ、まさか霊界かと疑うほど息を飲んだ記憶もある。ちなみにその従業員は女好きで、着いたら着いたで夜のキャナルストリート(中華街)あたりで夕食を取ろうと私を誘い出し、怪しい店に連れ込まれそうにもなった。

今日の想い 1239

 鬼畜米英を敵とする戦時中の天皇を拝する国体も、サタンと悪霊を提示されて闘争中の御父母様を拝する信仰も、どちらもその御尊名を口にして崇めていれば御恩に与るという同じ信仰態度が伺える。御父母様が願われていると言われたら、もはや疑いは抱かない。み言葉にこう書いてあると言われたら、それは絶対であって異論を挟む余地もない。そのように先天時代の私達は御父母様を奉る全体主義だった。御父母様が地上の神、あるいは神の代身であるうちはそれでよかった。しかし地上天国は全体主義の世界だと言えるだろうか。あるいは条件として摂理が要求したからそういう体制を取ったのだろうか。であれば限定的だろうし今は今の摂理的要求に準ずるものでなければならないはずだ。教会を断罪する或る二世は、あることないこと言い立てて、非道だからこそ解散すべきだと声を張るが、摂理的要求として今までの教会体制はそぐわないから新たな体制を取る必要があると私は思う。おそらく教会が自分で自分を変えられなかったから、天は外的圧力を甘受すべく断罪されたのだろう。甘受という言葉を使ったが、この苦い仕打ちを否定せず言い訳もせずしっかり受け止めて、その苦味(にがみ)で体も体制も純化して、新たな摂理要求に応えうる私達となるべく蛹を脱がなければならない。私達の声を聞いてくれと言うのはどうにも摂理と歯車が嚙み合っていない。おまえは信仰を失いサタン圏に頭を下げるのかと、指さす食口に対してはこう反論したい。とことん御父母様中心の全体主義で行くなら、御母様に生命を張ってでも、危険性をしっかりと進言するか法を搔い潜り世間を納得させ得る方策と緻密な戦略を持つか、どちらかでもすべきだったが、それほどの覚悟と責任感情が私達にあったのかと、、。結局はこうなることを誰もが心の片隅で思っていたはずだ。外的には左翼勢力に負けたのであり、内的にはお粗末で傲慢で無責任な幼い精神を神霊によって打ち砕かれた。

2023年5月6日土曜日

今日の想い 1238

 時代は大混沌時代、上の者が下に、下の者が上になる下剋上時代、それこそが後天開闢時代の幕開けだ。先天時代の道理はある意味通じない。そうしてその認識を誰よりも持つべきは食口達だ。神の摂理にもっとも従っていた立場が逆に摂理に反する立場にいる。もっとも神に愛された立場が神に恨まれる立場になる。先天時代から比べればどれほど世界は荒れているか、社会も天地も人心も荒れ放題でなんでもありの世の中だ。ある意味、先天時代は平和だった。しかし神は暫定的な平和を望んではいない。万人が戦う時代に敢えて飛び込ませてまで真の愛、すなわち心情の介する位相の高い平和地球、平和大地を望まれた。今はその万人が戦う時代だ。かつてそして今も愛と呼ばれている生易しい愛ではなく、歓喜し激怒し痛心し感動する、そんなワンステージもツーステージも高い喜怒哀楽を生きる心情時代、それは魂が次元を上げる魂の開闢時代だ。だから後天開闢時代だ。上の者が下になるように先の者が後になり、下の者が上になるように後の者が先になる。そういう過渡期の混沌の最中でありそんな今、教会にしがみ付き教会の指示待ちで大荒波の大海を泳ぎ切るのは至難の業であって、良心こそが羅針盤であり良心の願いに生きればそれでこそ新しい新天地に辿り着くことができる。教会が揺さぶられたら教会から逃れるべきで、しがみ付いていれば安心だと良心が叫ぶとは思わない。もっと大きな天の願いがそれぞれにあるはずで、良心に従って立てるその自立のマストを立ててこそ新しい希望に向けて航海できる。

2023年5月5日金曜日

今日の想い 1237

 食口とこの世の人達の違いは何だろうか。神側とサタン側? 祝福を受けた罪のない人達と地獄圏から抜け出していない罪のある人達? 為に生きる公的存在と自己中心の私的存在? あるいは単に原理とみ言葉とアボジを知っている立場と知らない立場? どうすみ分けしようが食口それぞれだが、信仰者であれば先ず他に対して謙虚であるべきだ。それは表面的にもそうだが、それ以上に内的に他に対して先ず謙虚であるべきだ。思うに食口は表面的には優しさ人の好さを装っているが、内面では神に選ばれた選民だという認識はあるだろう。本人が意識するしないに関わらず、この世と接する中でその選民認識は選ばれていない人達と分けて線引きしている。その分け隔てが「私達の声を聞いてください」という立場知らずの要求(押し付け?)になってしまう。私達とこの世の人達と何ら位相が変わることはない。この世が堕落世界だというのなら同じ堕落世界に住む同じステージにいる。だから理解を要求できる立場ではないし、言葉で理解を得られると思う驕りがだいたいおかしい。彼等とは霊的に違う?霊的理解もおぼつかないのに一体自分の何がその認識をもたらすのだろうか。選民意識による独善的な言動行動が良心を無視した霊的無知からきており、先ず私達が悔い改めるべき一歩だ。悔い改めは、献金額が足りないことでも救いのない言葉で伝道もどきの達成数に届かないことでもないし、更に教理やアダムエバを犯したことでも礼拝に参加しなかったことでもない。自分の霊的成長をもたらす良心を無視し、良心に従わないことを悔い改めないと食口は前進できない。

2023年4月25日火曜日

今日の想い 1236

献身時代のように小遣い制であれば、所有することもできないが逆に借金を抱えることもない。サラリーマンのように給料制であれば、家計を超えて大きく所有することもないが逆に大きく借金することもない。せいぜい家のローンを抱えるくらいだろう。しかし自営業であれ従業員を抱える会社であれ、普通生活に足るお金の何倍もの所有を可能にするし、その逆もあって普通に生活していたら抱えることのないローンの何倍もの負債を負うことも多々ある。要するに主管圏を大きくすればそれ相応のマイナスの可能性、要するに大穴を開けてしまう可能性も同じ量増えるということになる。外的な経済活動に例を取ったが、これが内的霊的な活動にも当て嵌まって、位相が高くなればなるほど人格を疑うほどの闇も同時に持ち合わせる。言い切ってしまったが自分自身は位相は低いままなので仮説といえば仮説にすぎない。しかしそれなりに長い信仰生活を振り返れば、何かをやらかして落ち込みもがいている時こそ、新たな次元の扉が開いてかつてなかった意識の持ち様だったり、新しい理解の方法だったりを学ぶことが出来た。アボジの話をすれば、私は御父様の高みにある位相を疑うことはないが、位相が高ければ高いほどに人によっては彼の人道を疑いかねない程の闇もきっと併せ持っておられたはずだ。地獄を通過しての天国であり、天国からの地獄落ちだ。食口が真に霊的位相を高めようとするなら、闇を受け持つ覚悟を持たなければならない。信仰的原理規律を守ることだけに汲々とし、それで天国に行きたい地上の平安を犯されたくないとするなら、それは人間の内的霊的な自由と責任を受け持ったことになるのだろうか。守れない者は救われないと断罪するのだろうか。銃撃事件の加害者や教会抹殺を目論む二世を見ながら、表面的には彼等に対する批判を口にするのは当然かも知れないが、アボジに従えばこその教会の闇の部分を抉り出されたのはその通りだろう。アボジは大量殺戮者にも祝福を与えたが、彼の闇の深さが逆に聖人の位相の高さを際立たせたということだろうか。もう一度経済の話に戻して締めくくると、国が量的緩和で莫大な通貨を投入する意味は、国債という国の借金を莫大に抱えるというバランスシートだ。外的にも内的霊的にも、明の部分に意識の光を当てるだけではなく、暗と闇の部分にも相応に認識の理解や納得を当ててこそ人類は進化前進することができる。

2023年4月24日月曜日

今日の想い 1235

 私達の親世代は生きることに必死でがむしゃらに頑張ってきたが、しかし私達一世の年代は高度経済成長期のピーク、或いはピークを超えた頃で、何のために頑張ってきたのだろうと自問自答し人生に対する回答を要求し始めた。親世代は先ず生きる為に組織人間、会社人間になったのであり、その反動というか、ベクトルの向きを180度変えるため人間とは何ぞやに対してそれなりの回答を求める時代に入っていた。では二世の生きる現代はどうかというと、糧を得るための外的人生でも内面の充足のために外的犠牲を伴う内的人生でもなく、内外を調和させようとするバランス人生を送るようになっている。二世は一世の歩みを内的には相続するとしても外的な指針や教会システムをそのまま相続する必要もないし、押し付ければかえって悪影響を及ぼしかねない。み言葉に反するように思うかも知れないが、み言葉は決して戒律としてこれをするなあれをしろという類の教えではなく、全てのみ言葉は内的霊的な言葉として理解し相続すべきだ。堕落は確かに性が関係しているけれども、だから外的に性を遠ざけろというのは一世には納得できるとしても二世には理解できない。堕落に外的な性が関係したのは結果であって堕落の内的霊的意味は性の背後にあると思えるのがみ言葉に真摯に取り組んだ二世の理解だ。当然のように結婚以前に関係を持ったら堕落だとか、離婚は堕落だとかいうのは彼等の理解を得ることはない。同じようにLGBTの問題も一世の何が何でも認めないというのとは違ってくる。私は教条主義を否定している立場だけれども、勿論多くの一世は教会の事細かな戒めを守ってこその勝利者だと思っているが、どちらが正しいかというのは論点ではなく、私は私の良心に鑑みてそう思うだけの話だ。だから私は子供にも二世達にも、時代は後天時代だし今の時代、教会の枷をはめ込む必要はまったくないと伝えたいし、良心を中心として内外のバランスをしっかりとり、摂理観を培って欲しいし自分の使命に生きてほしい。大河のように時代は流れ、刻々と変わる中で摂理観も人生観も変っていくのだから、、。

2023年4月19日水曜日

今日の想い 1234(恐れから畏れへ)

 万物を食べれば体内の血肉となり、男女の性を食べればそれが背負う霊界となる。偏食に陥らない限り人間は普通何を食べても体の成長と維持に悪影響を及ぼすことはないが、しかし性に関しては誰をどう食べるかによっては自分の霊界に支障をきたしてしまう。当然そう信じてきたし、相対以外の関係は持つべきではないと戒められているが、戒めに抑えられている以上信仰から認識には至らない。しかし言っておくが戒めを犯せと言う気はさらさらない。何年も信仰年数を経ていればわかるように、どれだけ断食しようが食欲が減らないのは当然であるように、どれだけ戒めを守ったところで性欲が減ることはない。逆に遠ざければ遠ざけるほど渇きは増すばかりだ。もし何らかの理由で、罪や裁きと不倫との直接の関係性を自分の中で否定出来たら、一気に一線を飛び越えて己が性の解放に向かうはずだ。アボジの聖和は食口の戒めの縛りを幾らか緩めているし、更に教会への様々な疑問や不満は更に縛りを緩めている。そして更に更に教会問題が世間に露呈されたことでもはや縛りは緩々だ。だから戒めでは既に自分を縛り守ろうとしても限界があって、甘い機会に出会おうとし誘惑の微かな手引きでもあれば、敷居を跨いで居間から畳の間に簡単に入るように一線を超えてしまう。自らの良心が真に立つためには、もはや戒めではなく性への尊厳をより確立する必要がある。戒めは恐れとして働くが、尊厳は畏れ、すなわち畏怖の念として働く。畏怖の感情というか心情を、訓読を通して、或いは天を慕うことで学ぶ必要がある。自らも含めて再度念を押すべきことは、性欲を抑え遠ざけようとするのではなく、これほどに魂の乾くほどに求めている肉を持つ私は、本当に求めている内的霊的な乳と蜜の流れる対象を探し出す道のりの途上にあること。そして知恵ある者として安易な対象で満足できると決して思わないこと。手に届いてしまえば、本当の得るべき対象を求める内的力を失いかねない。私の一途な願い、欲望は、決してイメージさせられている対象ではない。それは地に堕ちた天使長が見せるマーヤー(幻影)に過ぎない。

2023年4月11日火曜日

今日の想い 1233

 信用創造は、借りて生産して増やして返してこそ創造されるのであって、それが中央銀行が何の担保もなしに紙幣の輪転機を回すことでも、銀行が借り入れ方を無理くり増やすことでもない。金融商品を挟んでもそれが生産活動に寄与しているなら意味があるが、金融商品の値上がりだけで膨らましても信用創造とはならない。今、銀行株価下落や破産の伝染が問題になっているが、銀行が証券会社化してしまい、実体経済の取引量が殆どであった過去の銀行とは随分趣が異なっている。金融経済に足を突っ込めば取引量は格段に増すけれども、金融商品は所詮アブク銭であり紙切れで実体がない。金融経済が景気上げする回り回る通貨の回転率を、次元を上げて増したのは事実で、金融悪鬼説に賛同するつもりは毛頭ないが、先にも言ったように飽くまで生産活動を後押しする副経済でなければならない。本当はリーマンショックの時に3兆ドルものドル通貨を銀行救済のためにつぎ込むべきではなかった。金融経済は実体経済よりバブル化しやすいので維持させるのではなくしっかりバブルを弾かせる必要があった。そして金融に大きく重心を移していった銀行は破産させたり統合させたりすべきだった。そうすることでドル通貨の価値が担保された。にも拘らず何の犠牲も払わせずに膨大な含み損を塩漬けさせ延命させたものだから、多くの銀行は活動する価値のないゾンビと化してしまった。大手銀も含めて殆どの銀行がゾンビだ。FRBの既に実質のない経済血液を輸血されて体に回している時点でゾンビだ。よく考えてほしいのは、働くなり投資するなりしてその通貨を増やせば増やすほど、ゾンビ化する血液で私という経済活動が成り立っているという砂上の楼閣でありバブルの春の霞だ。

2023年4月6日木曜日

今日の想い 1232 (三大祝福考察)

 男は女で試せ、女は金で試せ。というのはそれでこそ当人の本性が見えるという意味で的を得ている。一般的にお金を使いたがるのは女であり、その女を得たいがために男は稼ぐ。そういう言い方は極めて俗っぽいが、お金や万物に対してどういう観を持つかで女性は判断され、女性をどう見るかという観で男性は判断される。万物を只のモノ扱いするのは当然万物に対する無礼だと思うけれども、自我を備えた女性をモノであるかのように性の捌け口とするのはもっての外で、女性に対する冒涜であり神霊に対する背徳でもある。神の人類に対する三大祝福は、言い換えれば万物に対する尊厳、人間性も含めた性にたいする尊厳、そして神霊の体としての自己に対する尊厳を学ぶことに他ならないし、数多の神霊の統一体であり中心である唯一神が異なる一つの別個体ではないように、それぞれの祝福も別個で存在するのではなく、密接に関わり合っているし、三つの祝福が統一的であってこそ真の祝福に違いない。そして魂を持つ私という自我は三つの霊的側面を束ねる自我として神様のような位置にある。性に対するとき本能的なだけでは(勿論本能的な指向も重要)性への尊厳を謳い霊的神殿を建てることはできない。み言葉で学べば理解できるように、真の愛の結実としての性であれば、実を弄ぶ以前に自分の中に真の愛としての動機を深く深く尋ねてこそ真の性、すなわち絶対性となる。普通は表面的な違いがどこにあるのか見当たらないと言うように短絡的に判断しがちだが、叡智を標榜する霊的見地に立つ者にはその圧倒的な違いをそこに見る。食口が生涯を決められた伴侶で同じように一生を送るとしても、異なる異性に対して教条的な戒めの自分で対するのか、それとも異性に対する尊厳で己の行動を決めるのかでは雲泥の霊的差がそこにある。

今日の想い 1231

お金は誰もが欲しいのは事実だけれども、お金に対する認識は百人百様だということも理解する必要がある。認識が異なっているから儲け方も使い方も百人百様となる。しかし人によって認識が異なり意味合いが異なると言えるようになったのは過去の遠い昔からではなく、今世紀からであり特に後天時代に入ってからといえる。私達は献身時代にはお金からはしっかりと距離を置くように仕向けられていたけれども、全体摂理の段階的にみて万物以下の立場であって、とても主管できる位置にはないので遠ざけられていた。神様の人間に対する祝福の一つである万物主管を遠ざけられていた。しかし、好きなように儲け、好きなように使っているこの世の人達が、我々以上に主管する歓びを謳歌しているかどうかは一概にはいえない。お金や万物に対する認識は最近の流れで人によって随分異なってきたからだ。お金から遠ざけられていた私達がお金に溺れた人達に比べてより本質的主管を得ることは可能だしその現実性も高い。しかし遠ざけられてきたが故に、儲けるにも使うにも躊躇してしまい踏み込めずに貧者から抜け出せない者も少なからずいる。一世は万物主管から遠ざけられてきたけれども、一方で低い基準だけれども与えられて食うには困らないという保証もあって、この長い生活環境が自主性と自己決断を鈍らせている。この世は自由主義社会から社会保障の手厚い社会主義社会に向かっているけれども、私達は逆に社会主義意識から自己責任の自由主義意識に向かっていて、何とも面白い視点だと思う。世界はインフレの嵐の最中で、モノの値段がこれほどに上がってくると、そうそう変わるものではないと信じていた通貨価値が大きく損ねてしまい、お金に対する認識をより複雑にしている。いくらでも増刷できる紙幣で、限りのある万物を手にできてしまうという、人類の万物に対する冒涜への万物の反乱と捉えることもできる。

2023年3月30日木曜日

今日の想い 1230

 人間のもっとも人間らしい情の部分を冷たく凍らせて、頭ばかり巨大になったインテリヤクザ達だが、ここにきて尻尾を握られ逃げられない状況になっている。彼等の狙いは彼等が統治する一つの世界、グローバル全体主義だ。カインの系統を持つ彼等は、終末時代最後の最後まで世界覇権を握るべく、知の粋を結集して神に挑んできた。カナンの地を望むモーセの如く、頂きを目前にしながら偽りの信用が弾けると同時に彼等の覇権のバブルも弾け飛ぶかもしれない。信用だと言い張る彼等の銀行システムの基は、金の預かり商の偽り証書から始まった。どうせ預かり手形が紙幣としてやりとりされ、手形を現物(金)に変えようとする者はわずかだから(1割)、9割の偽手形を出してもばれることはない。彼らのいう信用とは如何に騙すかという意味だ。金融自由化によって今は誰もが同じシステムで資産を膨らませることが出来る。モノやサービスの生産ではなく金融派生商品で資産を膨らませるという、人口何億かが総銀行屋になっている。事実上そうだから金魚鉢にクジラを放り込むように実物経済に金融経済を放り込んでいる。シリコンバレー銀行もクレディスイス銀行も、金利の上昇でアブク資産の含み損が大きくなりすぎて銀行間取引ができなくなってしまった。もちろん銀行はどこもかしこも同じようなもので皆が皆多大な含み損を抱えている。銀行間は偽りの信用関係で固く連結されているから、決して破綻が数行に留まることはあり得ない。今こそカインの血統の悔い改めと良心の目覚めが望まれてはいるが、おそらく無理だろうしアベルの血統である宗教圏ですら彼等に懐柔されているであろう疑惑に事欠かない。アボジがもし生きて摂理を牽引しておられるなら、北の白熊ヤクザや、カインの血統がサタン化したインテリヤクザにどう働きかけられるのだろうか。今はSNSで破綻の噂情報は瞬時に世界を駆け巡り、ネットバンキングで瞬時に預金も引き出せる。バンクラン(取り付け騒ぎ)も一瞬で起こるのであり、銀行連鎖破綻も一瞬だ。そうなると銀行の預かり手形である紙幣も、一瞬でただ燃やすだけの紙切れと化す。しかし盤石で平安を謳う中銀と政府によって、社会は不気味なほど静かだ。

2023年3月23日木曜日

今日の想い 1229

地上の被造物が光りを反射して存在を現すためには太陽が不可欠であるように、万物の生命と息吹を与えて霊的に光り輝かせるためには主体が必要だ。それこそが万物の主管主だ。人類の歴史は、正しくみ旨の願い通りには主管主の位置に立ててはいない。科学は発達して如何にも快適生活のための環境主管が出来ているように見えるが、科学がどれほど発達しても、すなわち外的扱いがどれほど進化しても、内的霊的な態度と接し方を神霊に学ばなければ地上はモノの塊の展示場に過ぎない。鉱物は元素という体に閉じ込めていて生命の欠片もなく、植物は生命体としての認識だけは持っているものの知情意の魂に近づけることはないし、動物は情をそれなりに通わせ知能を刺激はしているが、かといって自我としての心情世界とは程遠い。被造物がそのヒエラルキーの枷を外すのは霊界であり、よって地上世界は人類の霊的成長と人間の主管内容によって被造物は異なる顔を見せる。堕落人間にとって被造世界は死んでいるのであり声を発することはないが、霊を備えている人間には生きて声を発する。そしてその声は霊的感性に届く。

2023年3月19日日曜日

今日の想い 1228

 金という現物が金現物と交換できる証書紙に変わり、証書紙がいつしかバンクに打ち込まれる数字に変わった。証書紙ならまだ金現物の実感を持てていたが、打ち込まれた数字にもその実感があるかというと、周りの人々が実感があるものとして扱っているからそれを信じているだけのことだろう。証書紙(紙幣)にはまだ手に触れる実感があるが、数字にはそれすらない。実感が全くなければ妄想世界の存在でしかない。意識の地上世界と無意識の霊界、その狭間に心魂世界妄想世界があり、実体のない数字はどう意識の紐付けが為されているかで、霊界に籍を置いて心魂を通して届いているのか、或いは霊界に籍がない妄想が作り出した偽りの影として届いているのかが決定される。意識の紐付けとは、どういう認識を持って待遇と態度で接し扱うかという意味だ。物を生命のないモノとして扱うとそこに内的霊的生命を吹き込むことはできない。生命のない死んだモノは死への淵に誘うばかりだが、内的霊的生命を吹き込んだ万物は私を授受作用の歓びに導く。万物主管とは私と対象物の生命と愛の遣り取りだ。被造物が嘆き悲しんでいるのは、人類の堕落で霊的死に至った人間からは、もはや吹き込まれるはずの霊的生命を期待できないからだ。ここまで金融経済が発展したのはカインの末裔、石工の科学技術によるものだが、金融バブル崩壊は死の淵に追いやった被造物達が団結して声を上げ訴えた叫びであり、妄想を限界まで膨らませて爆発させ死の淵にもろとも堕とそうとしている。しかし人類の態度如何によっては、すなわち霊的生命を蔑ろにしてきたことの悔い改めと、被造物万物をモノとしてしか扱ってこなかったことへの謝罪を込め、通貨へ如何に生命を吹き込むかに真摯に向き合えば、天宙の進化と発展になくてはならない人類の友となるだろう。

今日の想い 1227

 金融バブルの意味をしっかり把握する必要がある。債権の膨らみばかりに意識を持っていきがちだけれど、誰かの債権は誰かの負債であり、トータルの債権が膨らめば同じようにトータルの負債も膨らんでいる。会計に少しでも関わっていれば自ずと理解できるが、ようはバランスシート、賃貸対照表であり、デビット一方だけが膨らむことなどあり得ない。しかし世情に現れる場合、時差で、あるいは交互に世情空気という感情に現れるものだから、バブル景気と言われるように喜びの興奮だけをバブルとしている。喜びの興奮と悲しみ怒りの落胆とは対になっていて、この両者でバブルだ。本来、リーマンショックの時が興奮から落胆へのターニングポイントだったはずだが、FRBは金融緩和(QE)というカンフル剤を嫌というほどに金融経済に注入して、興奮の山頂を更なる高みにと世界を仕向けてしまった。リーマンショックでさえ米国全ての銀行が保有債券の含み損で破綻しかけていたのに、キリマンジェロ級の最大のバブル興奮、それに追随するバブル落胆は金融システムを一瞬で崩壊させる核爆弾を抱えていて、リーマンショックどころの比ではない。その地獄を垣間見たのか、バイデンとパウエルはSVBの取り付け騒ぎに一瞬で蓋をしてしまった。引き締めでバブルの沸騰度合いを下げ始めた矢先の突発風船破れに、あろうことか緩和と利下げをちらつかせ、取り敢えずの全預金保護という鎮静剤もどきで蓋をして繕った体にした。そんな小手先に耐えられるバブルであるはずはないが、後の祭りで安全だ安心だと叫ぶ以外何もできない。これから何度鎮静剤もどきを重ねられるだろう。すでにバブル興奮は臨界点を超えている。金融核爆弾は意識の下で破裂し、その破壊の風圧と底なしの落胆を瞬時の未来に経験するかもしれない。

2023年3月6日月曜日

今日の想い 1226

 教会に導かれ信仰に入ったのも私に対する摂理であり、教会の直接的関与から抜けたのも私に対する摂理だった。原理とみ言葉から受け取ったものは、人生観と善悪観に大きく影響を与えたが、善悪の判断はその時代時代に於いて変化していくものであり、善悪観を絶対不変のものとするのは原理とみ言葉に反している。食口はやってきたことに対して敢えて正当化してみたり、罪悪感を持ったりしているが、当時はそれを善とみなしそうしなければならない摂理的事情があり、そして今は過去の事実を否定的に受け入れなければならない摂理的事情がある。先天を主管していた神霊から、後天を主管する神霊にバトンタッチされたという霊的事実を認識できれば、自分の内的霊的立ち位置も変わることを自ずと理解できる。陽暦に閏月のある陰暦が主体的に関わるようになった意味は、後天を主管する神霊によって嚙み合わずに外れていた一つのギア(月)が組み合わされて影響を及ぼすようになっている。アボジが陰暦を中心とするように配慮されたのには大きな意味があるし、過去判断したと同じように悪と決め付け叩いているけれども、後天に入った今の時代霊の判断は異なっている。全体一辺倒の全体主義でもなければ個の自由優先の民主主義でもない、高次の神霊を動かすことができる心情こそが優先される時代に必ず舵がとられる。ロシアの白熊ヤクザが自らの命も顧みず身を挺して主導しているのは、西側に抑圧され略奪されてきた民たちへの想いと西側への憤りからであり、それが図らずも神霊を共感させている。この戦いは白熊の思い入れが強い分、既に決着がついている。西側は自由をぶら下げて民衆を洗脳し手名付けるインテリヤクザが主導しているが、どっちのヤクザに覚悟と肝が据わっているかは明らかだ。世界にしろ国家にしろ、教会にしろ家庭や個人にしろ、後天時代に合わせて変わらざるを得ないし、変わるためには当然戦う必要がある。神霊が指導する霊的な流れの方向性や激流なのか急流なのか、何を突破しようとしているのか、等を見る摂理観を見届けた者こそが霊的戦士であり新たな時代の覇者になる。

2023年2月10日金曜日

今日の想い 1225

 私達が求めた救いとは何だったのか。先ず私は何から救われたかったのだろうか。私の求めた救いは食口が一様に求めた救いと同じものだとは思わないが、それでも全体で認識していた救いが私の救いを満たしていたということ。前にも記したが、私自身は人生の不可解に相当打ちのめされていたから、信じるに値する信仰対象を得たことで八割がた私の悩みは解消していた。解消はしていたが、信仰対象を得たことで別の悩みは起こってくるわけだが、しかし魂を食まれるような悩み、絶望的な苦痛からは逃れることが出来た。新たな悩みは私の内向性からくるものだったが、それを否定したり改善したりというよりは、内向性は私自身でもあるから外向性を要求される活動に対してもっぱら耐え忍ぶこと以外考えなかった。全体目的と個体目的が相反しないのであれば、いつか自己犠牲が救いをより堅固なものにしたという認識を得られると信じて耐え忍んだ。そんな私が聖和されてからより思うのは、信仰の在り方も変わっていくし成長するということ、いや変わるべきだし成長すべきだろう。幼子のような信仰とは言われてきたが、果たして年月に反して幼きままでいいのかどうかを意識するようになった。救いの観点から単純な話をするなら、救われたいという信仰動機から救いたいという信仰動機への変化というか成長というか、を見るべきだ。成長すべきという信仰観から摂理を見直すと、後天時代の摂理観は先天のそれとは確実に異なるはずだ。御父母様の位置を誰が相続するのかという課題も、アボジが我々に対して真の父母になるようにと話されたことも併せて鑑みると、或る特定の人物や家庭をその位置に立てるべきかどうかは自ずと理解できるだろう。それは決してみ言葉の否定でもなく御父母様の否定でもない。

2023年2月4日土曜日

今日の想い 1124

 一方で全体主義があり、それに対する個人主義がある。全体主義に傾きすぎると個の否定であり、個人主義に傾きすぎると社会の否定になる。共産党一党独裁の国は全体主義国家だろうし、グローバリスト達が目論むボーダーレス社会も、何某かの権威集団独裁のグローバル全体主義世界だ。現代人は個人個人では生きられないから何らかの社会によって生かされている。よって完全な個人主義国家というのは当然あり得ないが、民主主義という或る意味の妥協主義によって世界平和を目指して来た。しかし暫定的な妥協主義であるだけにここにきて行き詰まっている。さて私達が目指すべきとされてきた共生共栄共義主義社会だが、全体の為に個を犠牲にする思想が基にあるのだから民主主義よりは全体主義的だろうと思われる。思われるとしたのはその社会について深く尋ねたことがないからだ。それは私だけではなく殆どの食口は尋ねる意志も余裕も持たなかったはずだ。私達が同じ思想を持つ私達だけで国家を形成するとして、どう共生共栄共義主義社会を目指していいのかわからない。信仰論理は理解しても、意外と私達の理想イメージは説明もできない貧弱なものだった。ただただメシヤであるアボジに従っていれば、自動的に地上天国であるそういう社会になると信じていた。目指す社会がどうであるかは置いておくとしても、アボジの指示絶対の、メシヤ権威による全体主義であるのはそうだった。

今日の想い 1223

 人間は朝に思ったことと夕に思ったことが異なり、一時間前の気がかりなこと、今の気がかりなこと、そして一時間先の気がかりなことも異なっている。そしてこの瞬時にもありとあらゆる意識や思考をとっかえひっかえ巡らしている。そんな自分を観察しながらも、それでも生命を維持する臓器や器官が一糸乱れず統一的に働き私は生かされている。その莫大な天宙的犠牲を裏切らない、天宙に寄与すべき私の使命があるはずなのに、、。生きているという認識は生きてどうするかの使命意識に担保されている。飯を食うために生きるという消費するだけの存在であれば、生きることの意味、生かされることの認識を問う権利はないはずだ。しかし瞬間瞬間にも放浪し続け様々な思いを渡り続けるだけの今の私には、その言葉がそのまま自分に返って私を裁く。天宙の中心的神様を御父母様の中に見ようとしながら、信仰条件を供えて生きてきた。確かに苦労もしてきたし涙も人一倍流した、、つもりだ。しかしその経験は神様の存在のみならず心情をも見出してきた路程だっただろうか。神様に相対できる良心が私の魂の中にどれほどの位置を占めているだろうか。天一国主人から始まる家庭盟誓を舌がもつれるほどに唱えてきたが、天宙的中心としての役目を未だ果たしていないなら唱えるどころか家庭盟誓を見るのさえ溜息が出る。一瞬たりとも留まれない私であって、しかしこの無力感だけは常に付きまとう。無力感に抗うのが精一杯で、結局さまよい続けて生きる私に妥協しごまかしている。使命観が立ちそれと一つになろうとする私と、揺れ動き彷徨い続ける私との矛盾性を未だに内包している。

2023年1月31日火曜日

今日の想い 1222

 男は女を求め、女は男を求めるのは、ひとつになりたいという衝動がそうするのだとしても、ひとつになって男になりたいわけでも女になりたいわけでもないだろう。しかし女になりたい男がいて、男になりたい女がいる。また男が男を求め、女が女を求める者もいる。たとえそういった者達に宗教的タガを外して多様性として認めるとしても、その衝動や指向がどこからどうしてくるのかを見なければ、認めさえすれば良しとされるものでもないだろう。また無暗に否定されるべきものでもない。しかしその霊的背後の意味を知ろうとすれば、それなりの霊的位相を登らなければならない。ここまでそういった彼等の存在があからさまにされ、皆の意識に上るのには、確かにそれなりの霊的意味があるはずだ。もしそうでないなら社会全体により注目され意識されるということにはならない。サタンが先行し神がその背後から行使するように、カインが先行しアベルがその後を追う。悪から善に取って代わるのではなく、悪の形状に善の性相が入り込んで、悪と思えていたものが善になる。より天国に近づくとしても、不倫がなくなり離婚がなくなるとは思わない。不倫や離婚が別の意味を持って摂理進化の役目を果たすだろう。LGBTを受け入れない教会だけれども時が過ぎようが彼等の指向がなくなる世がくるとは思わない。やはり摂理的な別の意味を持ってその形状は残るはずだ。アボジが生殖器と性に光をあててその聖なる側面を提示されたように、、。

2023年1月18日水曜日

今日の想い 1221

 御父母様は一体であるというのは後天時代の摂理展開の軸としては揺るがない。アボジの指示された摂理的内容の全てが正しかったとも言えないし、多くの反省すべき課題を含んでいたことは事実だろう。たとえ結果が悪かったと判断されても、天を想う心情動機があってのことであって天を裏切る恨みが動機となった指示はないと私は信じる。御母様についても様々な意見があるし、判断はそれぞれに任せるとしても、それでも御母様の存在なくしてアボジが天宙的勝利をされたとは思わない。真の父母としての勝利圏をお二人で立てられたという霊的事実は、たとえそれ以前やそれ以降様々あるとしても、それがアボジを否定するかのような御母様の言動であったとしても、それでも勝利圏を立てられたという事実は変わらない。私達の軸はそこにあるのであって、アボジにこういう過去の事実が発覚したとか、御母様がこう言われたとか、その都度都度で軸が変わるようであればそれは勝利圏の軸が私には立っていないという現実を露呈しているだけだ。祝福によって戴いた天の血統圏に立つ霊を与えられ、み言葉と摂理的歩みを通して天の勝利圏を相続した私という軸を立てて、そこは揺るぎなきようこの一年も前進していけばいい。

2023年1月17日火曜日

今日の想い 1220

 阿部黒田体制による10年にも及ぶ膨大な緩和政策により、日銀の国債保有残高は500兆円を優に超えている。国の国債発行残は1000兆円を超え、借金残は優に1500兆円に届く勢いだ。日本は余りにもデフレ期間が長く続き過ぎた。経済成長時のインフレ状態がどんなものかもわからないし、また不況時のインフレ脅威も知らずにいる。しかし世界は、EU諸国も、資源国であるはずのアメリカもインフレの嵐で、インフレに歯止めを効かせようと金融引き締めに躍起になっている。昨年は物価高と言われてもそれでも抑えられていたが、今年に入って日本も軒並み値上げのニュースで幕を開け、横並びで抑えていた物価を横並びで一斉に上乗せしていく。既にユーティリティは30%以上の値上げが実行されている。しかしこの期に及んでもまだ財政支出が足りないと言い張るMMT論者が少なからずいて、円の価値を紙切れにまで落とす政策であるにも関わらず、それでも声高にばら撒けばら撒けと叫んでいる。日銀は通貨発行権を持っていてどれほど発行しようが誰も文句を言わない、というのが彼等の言い分だが、権威をひけらかして思惑通りにいくと思っている時点で思考の甘さを露呈させている。確かに通貨発行権はある。しかし発行すればそれだけ通貨の価値は薄まる。もし既発行の国債を帳消ししようものなら、円の価値は急降下しそれこそ紙切れになるまで売られ続ける。またある経済評論家は国民の通貨保有(日本人の貯蓄)が1200兆円もあるので、国家全体としては差し引き0だという意見もあるが、それは国民が何の文句も言わずに貯蓄を国に差し出す前提の話だ。国がいつでも個人財産を没収できるならそれは民主国家とは到底言えない。他国の中銀に比べて日銀は金利を暫く上げなかったが、それは既発行の国債が多すぎて金利を数%も上げれば国の利払いが大きくなりすぎる為だ。日銀は500兆円もの国債を抱えて既に詰んでいる。インフレ対策の為の利上げすら手を付けられない。さあこの2023年と2024年がどうなるか。昨年以上の混乱が起こることは必至だが、どんな高名な経済学者の予測も適当で、本当はとても予測など立てられる状況にない。

2023年1月9日月曜日

今日の想い 1219

 原理から信仰に入った食口の課題は、神の存在や在り様、霊界の存在や在り様などの論理的説明を納得して受け入れてしまったことだ。納得して受け入れることで本当は理解の入り口に手をかけただけであるにも関わらず、解ったつもりでそれ以上の求める意志を働かせてはいない。原理講義を一通り受けた時点で宇宙や人生の全てを知ったかのような錯覚に陥り、この世から学ぶものはないと現実経験の価値を随分と低く値踏みしている。本当は原理を知ろうが知るまいが相変わらずこの世の人達と同じステージにいるのであり、差ほど変わりはない。いや、求める意志を働かせずにいる時点で、悩み苦悶し求めている世間一般の人達、謂わばカイン圏やサタン圏の人達の方が神により近いのかも知れない。少なくとも先ずその謙虚さから入り、底辺から彼等に学ぶ姿勢は私達に必要な部分だろう。原理を振りかざして世間を切り、善だ悪だと決めつけているが、それは歴史に見てきた宗教的権威の押し付け以外の何物でもない。信仰が道徳を超えてしまうのは、謙虚さ故の信仰であるにも関わらず、私達の理解を正しいものと過信して現実社会に押し付けようとするからだ。教会でもヤコブの知恵か何か知らないが、随分と独善的判断と行動に出てきた過去があるのはその通りだ。しかし今の教会や責任者、そして食口一人一人が謙虚さに立ち返ることができるかどうか。

2023年1月5日木曜日

今日の想い 1218(3年間のスクラップ&ビルド)

 地の事情は二の次の食口にとって、昨年の一連の事件が驚天動地であったように、天の事情に疎い世間の人々にとってはコロナパンデミックから始まる一連の出来事こそが驚天動地であった。しかも未だ奈落の底に向かって進行中だ。コロナパンデミック、サプライチェーンの崩壊、ウクライナ戦争、資源エネルギー不足による高騰、世界的インフレ、株価債券の世界的下落、以上が2022年の出来事だったが、今年2023年は昨年の出来事が引き続き起こると共に、インフレと景気後退が合わさってスタグフレーション、更なる株価債券の急降下、アメリカドル安発の不動産バブル、株価債券バブルの崩壊、ハイパーインフレ、信用通貨不信で歴史的金融経済シュリンクによる通貨安、その対策としてのデノミネーション乃至はデジタルにかこつけての新通貨発行で今の通貨はほぼ紙切れ化、となる。この一連の出来事が2022、2023、2024年までの3年間で起き、今まで築き上げてきた社会基盤がいったん崩壊しかねない。まさに驚天動地だ。培ってきた経済理論も含めて科学万能信仰こそが生きる拠り所だった殆どの者達はその大黒柱が倒れることでほぼ生気を失い立ち上がることもできないだろう。その時こそが神が復帰の最終戦略として残してきた霊的柱を大黒柱にして生きる祝福家庭達であり食口達の出番だ。どんな環境でも嬉々として生きる私達は、スクラップされた地上に神の国家建設の為に立ち上がる。しかし私達が独善的にどうこうするのはなく、柱を失い生きる拠り所を失った彼等を救い、彼等の中に霊的柱を立てながらの建設にならなければ神は共にはないだろう。アボジが敢えて声量抑えて口に出された2024年の終結が現実となる。

今日の想い 1217(棚ボタ思考とニンジン馬行動からの脱却)

 堕落性の表れであるアダムエバ問題、カインアベル問題、そして万物主管問題(公金問題)の三つの問題に特に焦点が当てがわれ、これを犯さないという戒めが教会組織の内部に徹底されていた。それは度重なる修練会や毎日の朝拝や反省会での教育の徹底であり、遠ざけて距離を置くように訓練された。しかしそれでは根本的解決には当然ならず、触れずさわらずではなくて如何に主管するかが教育なのだが、個の主体性教育より組織強化の為の教条的教育に偏っていた。良くも悪くも個より全体だった。アダムエバ教育の弊害は性=罪であり、違反した者や祝福を受けていない者への偏見であり、自分への戒めもさることながら純潔への執着は子供への戒めをより強めることになる。カインアベル教育の弊害はイエスマンのコピー教育であり、主体性の欠如による思考停止は結局教会全体の発展を阻害している。公金教育に至っては自由になるお金は子供の小遣い程度であったし、使うことで学んでいくはずのものを、使わせないことで使う過ちを避けることに意識を宛がわせた。公金は恐ろしいものという認識だけでどうしてお金を主管するという段階に届くだろうか。お金を所有することや使うことを避けて価値や意味を学んでこなかったから、当然ビジネスの意味もわからないし、ビジネスを大きくし成長させることなど難しいということになる。実は教会から家庭連合に変わることで、宗教を超えた摂理が始まった。宗教は戒めや枷という教条的部分からどうしても逃れられない、すなわち孤立化してしまうが、宗教を超えることで現実社会に浸透し社会を変えていく新たな摂理ステージを歩むことができる。本来神の祝福であるはずの個性完成子女繁殖万物主管はそれを求めることで逆にサタンの餌食にされた堕落の歴史がある。だから宗教権威をして逆に三大祝福から遠ざけてきた先天の過去があるが、強めれば強めるほど地上界の力や権威をカイン圏に譲ってきた。教会が国やマスコミに対して力不足なのは先天特有の信仰観からきている。しかし後天時代は宗教を超え、自分の外に従うべき対象を得ていたものが自分の内に従うべき良心を持っている。その意味で天と地は裏返しになった。日本は摂理中心国家であるので、昨年の驚天動地の事件や国あげての教会非難は、信じていた天が目の前で崩壊するのを見たと同じ意味だ。教会が打たれた、天が崩れたと嘆くのではなく、新しい天は既に用意されている。新しい天は私の内の良心に築かれている。しかし崩壊した古い天にしがみついている者達も少なからずいて、この試練を超えれば大きな天運が待っていると能天気に構えている。棚からボタモチ思考は、天国というニンジンをぶら下げられて周りも見ずに走ってきた馬の行動と通じていて、そういった古い革袋にしがみつく食口はどう救いを得るのだろうか、どう伝えたらいいのだろうかと考え込んでしまう。