2013年12月31日火曜日

今日の想い 684

陽暦の2013の年が去っていく。摂理は既に陰暦を主体とし陽暦を対象とした天暦で回っている。よって1月31日が陰暦の正月となるこの一ヶ月のギャップ期間が非常に意味あるものとして関わってくる。人々の認識は既に2013年が清算されて新しい年を迎えるけれども、実はまだ清算が終わっていない。この気の緩みに足元をすくわれることになる。摂理感覚を研ぎ澄ませる為には、私達の体内時計を天暦に合わせることで、チグハグにならずに時の時に時の啓示が下りるようになる。啓示という言い方が大袈裟に聞こえるなら気付きと言い換えてもいい。個人に於いても家庭に於いても、そして国家に於いても世界に於いても、いつも以上に気を張って、この一ヶ月の間、事に対処することで2014年を希望的建設的に迎えることができる。地上的運勢の如何はこの一ヶ月に架かっていると言ってもいい。韓国に関することで言えばIMFとの問題があるだろう。そして日本は一連の韓国とのわだかまりもそのままであって、その上で首相の靖国参拝から始まる韓国通貨危機等への態度を量られるだろう。あるあると言われながらいつの間にかないような雰囲気になってしまった富士爆発と東南海地震。気が緩んでいる今こそ最も危ない。富士が流れると言われた訓読会で予言された御父様の言葉も、日本食口は忘れてはならない。アメリカはアメリカで、今のオバマ政権ほど頼りがいのない政権はない。オバマケアの問題を筆頭に次から次へと問題が噴出する訳で、国民の信頼を一気に失わせ、この大国が中心を持てずに分散してしまう懸念さえ抱かせる。それもこれもこの一ヶ月に集中している。新年への希望を述べたいのはやまやまだが、希望はしっかりと地に足をつけてこそ述べられる言葉であって、それがなければ只の妄想に過ぎない。でもこの一ヶ月に精誠を供え、その精誠を精誠として天が認めるなら、2014年の運勢大転回、天運をして一気呵成に頂点に上り詰める。そうなると、私達の現状に留まろうとする変化を嫌う姿勢こそ、天運の最も敵になる。用意された天運への扉を開くも止めるも私自身であり、私がキーを握っている。

2013年12月30日月曜日

今日の想い 683

訴えが棄却されて、司法の判断を仰げないなら何が、誰が、判断を下すのか。奪われたものは泣き寝入りに附され、声の大きい者が勝者としてのさばるのか。教会側は口を塞いで黙したまま、忘れたように2020に向けて歩み続けるのだろうか。それが本当に御父様の願いなのだろうか。内的霊的には教会が主体の位置に立っているはずだ。それでも国家の司法の判断に委ねようとされた、その意味は意味で問うべきだろうが、司法の判断と次元を異にする霊界の判断があるはずだし、天宙の良心が裁くはずだ。彼らの中では彼らの信じる良心をして辻褄が合うのだろうが、彼らが信じる良心が天宙の良心、神様と同じだと思わない方がいい。こんな説明が彼らに取って素っ頓狂なものであって、無視されて当然なのだろうが、しかし事実は事実だ。この事実を認識できないことが彼らが共産主義、唯物主義たる所以でもある。実際のところ彼らにとっては、司法によって貴方の行動はおかしいと判断された方が、霊界や神様によって鉄槌を振り下ろされるより遥かに楽だったはずだ。司法の判断に委ねるという意味はそれで許すことにするという減償法だ。内部分裂が起こった過程を見れば、教会側の傲慢さが無きにしも非ずと鑑みて、司法に委ねることを決定された。天宙の父母であられる真の御父母様が、霊界を動員できない、神様を動かせないとするなら、名ばかりの称号でしかないということだろうし、主体である霊界も無ければ神様も無力の神様でしかないということになる。しかしそうでないなら、これからいよいよ霊界の恐ろしさを思い知ることになるだろう。愛と赦しの神様から、怒りもし、恐ろしい神様の側面を見ることになるだろう。もちろん教会に属していればただそれだけで良しとされるものでは無いということは重々認識すべきだが、摂理の中心を担う教会に対して反旗を振るならそれを許しておかれる神様では絶対にない。しかし問題は別のところにもある。教会側でありながら、食口達の多くがあまりにも冷めた見方をしていて、御聖和、基元節の背後に流れてきた一連のこの問題に対して冷ややかな視線を送っていることだ。悔い改めの声が天に届かなければならないのに、食口のその悔い改めの叫びを天が取ってこそ天が力強く動けるだろうに、食口達が冷めている。天軍を受け入れるほどの燃える器になり得ていない。それを用意する為には、食口と言えども心魂の揺さ振りが必要で、眠っている心魂が天の心情に合わせて発動してこそ摂理は大きく進むはずだ。

2013年12月28日土曜日

御聖和を通して認識するもの

日本人は恥というものに対して特に敏感だ。性についても恥ずかしいという感情が先ず伴うのであり、そうなると原罪は性との関わり上、罪意識と恥ずかしいという意識とを混同しがちだ。罪と恥は同じ意味ではなく、罪の中に恥は含まれるのかも知れないが、恥は表層的感情の一部であるのに対して、罪は心魂の奥に潜む自己を悪に向かわせる見えない実体であり事実だ。罪を表層的恥と認識するに留まり、罪の本質を認識し得ない場合が往々にしてある。特に日本食口はそうだ。罪を表層的にのみ捉えてしまい、よってみ旨に対しても表層的な、心魂の奥にある罪に蓋をしたままの外的歩みに留まり、罪の許し、罪の解放の本質的意味がわかっていない。家庭円満、世界平和のイメージは描けるけれども、罪がわからず、罪の許し、罪の解放が為されなければ私は実は平和とは無縁の存在だ。無私の心でみ旨に殉じている私だと思っているのかも知れないが、無私どころか私という存在に執着し過ぎるが故の動機が行動になっている。霊界の門を通過するのに、罪の清算をして通過する訳だけれども、食口であるにも拘わらず、吐露すべき罪がわからず口籠る場面が多く見られる。恥ずかしい認識は持っているけれども罪の認識がない。多くの負債を神様に対しても御父母様に対しても抱えているのにその認識がない。罪が生じた堕落は肉的堕落の前に原因的霊的堕落がある。人が罪を犯す場合に於いても、外的で地上的な説明ができる罪を犯す前の段階で、私の中に内的に戦わずに居座ることを許した自己中心的思いや感情がある。食口の誰が、御父様の早まった御聖和に対して私の責任だと痛切に胸を打つものがいるだろうか。私の責任でもあるけれども皆の責任だと言うのは都合上のことであって、実際自分の責任だとは思っていないし、あるとするその責任感情も実に抽象的だ。しかし私の中にこの結果をもたらした内的原因、私の責任が必ず存在している。それをつきとめて悔い改めない限り、次には進めない。私も日本食口として罪の認識が甘いことはよくわかっている。しかし御父様と共に歩み、御父様に委ね、御父様から許しも祝福も戴いた事実のある実体の私だからこそ、この御聖和に対する私の責任を見出せる。それが私にとっては抽象的な堕落論の罪よりも実感的罪であり、実感的負債であり、だからこそ本当の意味で悔い改めることができる。そして本当の意味でみ旨に生きることができ、み旨の為に死ぬことができる。

2013年12月27日金曜日

今日の想い 682

私は心配しすぎることで心を病む。心を病むと暫く不安定な精神状態になる。不安のオバケに取り付かれる。神様がいない、霊界の存在を知らない、かつての、み言葉に出会う以前の発狂しそうな状態とは比べものにならないけれども、それでも不安の思いが後から後から襲ってくる。畳み掛けてくる不安と戦いながら、それで守りの姿勢に入ってしまうと益々自己中心的な位置から抜け出せなくなる。より公的な意識を取り戻さなければ全体あっての個であることを否定したことになる。自己中心的な在り様は人それぞれであり、絵に描いたような勧善懲悪の図式に無理にはめ込んで、その都合上の悪を自己中心的と受け入れている稚拙な者は流石にいないだろうが、それでも食口の中にも自分の感情の判断に任せて実に単純に善悪を分けている者もいる。自分の中に既に善悪混同が起こっている存在であるのに、善の立場に立たされれば自分の中に悪がないかのような錯覚でいる。教会は勿論善の立場であるけれども、教会の中にいる私も善だという認識は大きな錯覚だ。そんな錯覚が教会を御父母様願わないあらぬ方向へ向けさせる。私の中に蟻の大群のように不安存在が押し寄せて自己中心的な守りの姿勢に益々収縮するように、教会の中の食口一人一人が教会に対して不安を抱けば、教会全体は自己中心的な方向へ向かい教会活動は小さくなってしまう。為に生き、犠牲精神を御父様から学んだはずなのに、それが生きた言葉として教会の中に息衝いているだろうか。不安と、恐れと、慄(おのの)きと、更に恨みと、妬みと、裏切りと、そんな堕落的要素が教会内にも蔓延してしまった。そうなると善悪に分けカインアベルに分けざるを得ない。論理や説得にどんなに言葉を尽くしたとしても、そこに愛がなければ愛に代わるそれらの堕落的要素が根底にある。グループ派の言葉を受け取れば受け取るほどに空しくなるのは私だけだろうか。彼らから愛という言葉はあまり聞かないが、彼らが愛だと信じているものはただの慰めのように思える。しかし分けられたのであれば、本道である教会の内から堕落的要素は一掃されて御父母様と一体となるべきだ。相も変わらない教会様相であるなら分けられた意味はない。しかし一貫して言えるのは、食口は基本的に傲慢だ。自分は善だと思い込んでいる者が殆どだ。食口は霊界に行ったとき、先ず己の醜さに辟易するはずだ。全食口の中で本当の意味で悔い改めた者はどれほどいるだろう。祝福家庭という選民意識がどれほど鼻持ならないか。今私は心を病んでいる。心を病んで自分の腐れ切った霊的贓物に吐き気をもよおしている。それでも平気で御父母様の御名を口にする、救い様のない穢れの存在だ。

2013年12月25日水曜日

御聖和、基元節、そして一連の裁判

私はこの一連の裁判に対して、兄弟達にはもっともっと強い関心を持って欲しかった。それはこの内部分裂が直接的原因となって、基元節を待たずに早められてしまった御父様の御聖和であることは明らかだからだ。御父様は私達に一言もなく、最後の接見もなく、忽然と逝かれてしまった。イエス様はゴルゴダの丘の上で皆の視線を浴びながら昇天されたけれども、再臨の御方は狭い治療室の中で、皆から注目されることもなく昇天された。揶揄も混じってのことであったが、ユダヤの王としてイエス様はローマの片田舎で逝かれ、再臨主であられる御父様は万王の王、世界の王としての称号を抱えられながら世界の片隅、しかし祖国韓国の地で逝かれた。世界中から兄弟達が集まった厳かな聖和式であっても、久方に会う兄弟達と談笑もしたし、式を終えてしまえば食口それぞれ日常は日常で繰り返された。一年も過ぎればもう聖和の意味を敢えて問うこともしないし、御父様がおられない地上を当然の事のように生活は営まれていく。復活されたイエス様は三々五々に去っていった弟子達を集められ、ペンテコステを受けての爆発的聖霊の役事が彼等を世界伝道へと駆り立てた。一方、再臨の御方に従い歩んできた、成約聖徒である私達はどうだろうか。御父様が霊界の全ての塀を取り壊されて霊的不通を解消されながら、しかし兄弟それぞれ、それぞれの気の合う霊界でまたしても塀を作って不通の状態に戻そうとしている。前にも記したように、現代のペンテコステは何か起こる事を待ち、何か受け取れるものを待っていても棚からボタモチは落ちず、ペンテコステは誰でもない私が起こすのであり、聖霊実体であられる御母様と一つとなって私達が聖霊役事として働く。御父様が遺言とまで言われて残すべき全てはみ言葉の中に残されながら、それを投げ置いて何か別のボタモチを求めてはいないか。全てを与えられたのにそれは横に置いておいて、まだ何かあるはずだと口を開けて待っている。クリスチャン達は空を見上げて待っていたけれども、幼くも悲しい食口達は口を開けたままで待っている。摂理観からすれば全ての起こる事柄に蕩減的側面があると同時に責任分担的側面がある。過去の清算の側面と未来の建設的側面がある。その摂理観からすればこの一連の裁判に対しても、やはり蕩減的側面と責任分担的側面の両方がある。おそらく多くの食口達にすればこの裁判と言う途方もない金喰いお化けに対して嫌気さへ覚え、口にすることも避けたいほどだろうけれども、こんな非建設的なことは忘れて新しい出発をと誰かに爽やかに言われれば着いて行くのだろうが、それは明らかに摂理観から外れている。清算すべきものはしっかりと清算すべきであると同時に、この一連の裁判の中から新たな希望的光が見えてくる。必ず見えてくる。御父様の、あの目配せされるような誇らしいお顔が見えるようだ。他でもないこの如何にも非建設的な裁判を通して、新たな希望の種が芽を吹く。それを無視するのであればそれこそ私達に希望はない。暗闇は夜が明ける直前にこそ最も深まるものだ。だから私は敢えて言いたい。兄弟達にはこの一連の裁判に対してもっともっと強い関心を持って欲しい。外的にどうのこうのと言うより、内的霊的意味を深く問うて欲しい。御聖和、基元節、そしてこの一連の裁判、この三つは私達が次元を上げて新しい世界に突入する為のキーワードだ。

2013年12月24日火曜日

今日の想い 681

裁判所は、管轄外の問題だからという理由で、訴訟に持ち込まれても困ると逃げの姿勢を示した。しかしこれで最終結論とはならない。戦いはこれからだ。被告側は教会幹部によって教会財産は牛耳られていたと申し立て、原告側は御父様の指示通りに運営されていたと申し立てた。しかし被告側は狡猾にも法が裁かない位置で行動に出て、明らかに教会財産を手中に収めた現実がある。被告と原告は内的に見れば兄弟の位置関係にあってお互いが主張すれば平行線を辿り続ける。よって親の位置におられる御父様にお伺いを立て、それに従うのが内的霊的に正しいことは食口であれば誰でもわかる。被告は明らかに御父様の指示を無視し、現行法を傘に教会財産を奪った。彼らはありとあらゆる言い訳を付帯しているが、反御父様であることに違いはない。たとえもし教会が特定の幹部によって牛耳られていたとしても、御父様の指示を先ず仰ぐことはそれらの事案を越えて為されるべきだ。彼らの行動は正義の面を被った恨みの感情が動機となり、感情を越えた位置で御父様に絶対服従を立てる統一食口としての本分を投げ捨てている。彼らの恨みの感情に対して教会財産を奪ったことへの恨みで対しても埒は明かないが、協会側は恨みで訴訟に持ち込もうとしたわけではなく御父母様の指示に従い行動に出た。彼らは教会側の敗訴だと騒ぎ立てるが、教会側に敗訴も勝訴もない。御父様の心を煩わした時点で既に多大な負債を負っている。敗訴でも勝訴でも負債は負債で心情に重く抱えている。裁判所の結論が私達の結論ではない。私達はこの御父母様への負債を抱えながら、現実は現実として甘受しながら、内的霊的な柱を更に強くすることが願われている。敢えて言うならこの結果は結果で私達の意識をより霊的深みにもたらし、善なる動機を更なる善の動機とすべく良薬を与えて戴いたことになる。御父様が打たれた位置でサタンから奪い取りながら勝利の布石を打ってこられたように、私達も打たれた位置でこそ彼等から奪い取るものがある。必ずある。知的で論理的で現実的な彼らは奪い取られる霊的生命の価値を知らない。勝利したと喜びながら霊的に欠けていくものを認識できない。御父様に言わせれば霊を認識しない共産主義者達だ。共産主義者達は革命闘争を進めていきながら平和理想の実現を果たしている幻想に身を置いた。被告側であるグループ派も同じようにその活動を進めていきながら、平和理想を果たしている妄想に身を置いている。彼らは御父母様不在の活動が何を意味するのかわかっていない。御父様は文明に私達と共におられる。私達の中に太い霊的柱として立っておられる。御父様を口にするだけの中身のない張りぼて存在なのか、御父様が私の中に核として立っておられる存在なのか、表面的外的なものが透き通って行けば行くほど、その正体が暴かれる。後天開闢時代はそういう時代だ。彼らは霊的死の淵を見ざるを得ない。その霊界の事実を知らずに目を覆ったまま崖っぷちで踊っている。

2013年12月22日日曜日

今日の想い 680

何をするにしても片手間で為せるようなものは一つもない。一つの事柄に100%投入して、それでも結果として満足いくものかどうかはわからない。ましてやこれも手を付けあれも手を付けでは意識も力も分散して、結局尊い時間だけを無暗に消費することになる。私達には多くの事柄が願われていることは確かだ。天国建設の為に献金もしなければならない、伝道もしなければならない、氏族復帰もしなければならない、社会で頭角も現わさなければならない、しなければならないことは山のようにある。しかし、今まで兎に角抱えるだけは抱えて歩んできたけれども、30年、40年を費やして何を残しただろうか。私達はいい加減白昼夢から覚めて、具体的歩みに関しては蛇のように賢くあるべきだ。願われるものが山ほどある、という事と、成し遂げる為には一つの事柄に100%投入しなければならない、という事と、その逆説とも言うべき両者をどう成り立たせるのか。一つの事柄に100%投入しなければならないけれども、実は残りの事を捨てる必要は無い。この世でも成功者と言える人々は意識分散型ではなく意識集中型なのは間違いないが、一つの事柄に集中する過程で別の事柄も手中に収めている。ようするに自分の優先的願い、優先的使命が何なのかを把握し、その願いを全うする過程で他の願いも手中に収めていく。自分の事は見通せなくても他の人の事は客観的に見れる。共に歩む兄弟達を見ながら気付かされたことがある。或る一人の素直で信仰的な兄弟がいて、店の事も或る程度任せることができ、それなりの位置も与えたしそれなりの給与も与えた。店の事をこれから責任を持ってもらおうとした矢先に、氏族復帰の為に辞めて日本で歩むと告げられた。他の兄弟と同じように、彼にとっても店は働く場ではあるけれども100%投入すべき使命の本筋ではなかった。私のようにこの店が死ねば私も死ぬと言えるほど思い入れを持ってはいなかった。彼の氏族復帰への決意を否定している訳ではない。彼が100%投入すべきものがそこにあると言うのであれば、祝福して送り出して上げたい。しかし彼もまた来ては去っていく一人の従業員に過ぎなかったという寂しさは拭えない。私の気持ちなどどうでもいいが、彼が決意した以上、ここでの結論が雇われ従業員だったと同じように、新しい歩みでも同じように雇われ氏族復帰、雇われ伝道、にならないようにと祈るばかりだ。彼の私への宣告で私は決意を迫られる。私はカインとしての本筋を更に極めて行く。

2013年12月21日土曜日

今日の想い 679

神様が人間を創造されたのは愛する対象を求めたから、すなわち愛の為に創造されたと私達は学んだ。愛の為であるから必要に迫られて創造されたのでもなく、人間創造を当然の成り行きとして創造されたのでもない。人間を創造しなくても神様は何の困ることもない。よって創造されたのは愛の為、という以外言いようが無い。そして愛とは真の愛であり、それは完全投入の愛だ。完全投入とは対象に対して完全投入であって、身を切るような想い、というより事実自分の身を切って対象に与えられた。私達は霊的な実質はよくわからないが、肉的な実質を分け与えることの痛みはよくわかるはずだ。自分の肉を切って与えることを思えばいい。目の一方をえぐりとって与えることを思えばいい。臓器を与えることを思えばいい。自分と一つである大切な家族の一人を与えることを思えばいい。霊的実質を与えることは肉的実質を与えること以上のはずだ。神様が人間を創造されたとき、神様の霊的実質を分け与えられた。私達は霊的無知でわからないけれども、私達の心魂の奥には神様が御自身の実質をえぐるように取り出して分け与えられた宝を戴いている。私達はその宝、神様から与えられた霊的実質に対して二通りの対し方がある。一つは霊的事実がわからないままにその宝を放っておいて自己中心的に生きるという対し方。今一つは霊的無知を克服しながら与えられた実質を認識し、向き合い、そして心魂の歩みを通して磨き、実質以上の実質に育てて神様にお返しするという対し方。勿論堕落したこの身では霊的無知を克服することですら難しい。ましてや実質以上の実質に育てるという個性完成の道のりは遠く険しいことはわかり切っている。しかし、だからと言って自己中心的に生きることを選べば、霊界の存在になったとき分け与えられた実質の尊さを知り、それを蔑ろにした生を送ったその悔恨の痛み苦しみは計り知れないだろう。私達はどれほど遅々とした真の愛の存在を標榜する歩みであったとしても、それでも踵を翻して自己中心的に生きるよりは余程いい。遅々とした真の愛への歩みであってもそれが次なる世代の土台になるからだ。40年を費やして、やっと自己中心的な位置から二、三歩のみの前進であったとしても、それでも諦めない。必ずや神様の心情圏にワープする瞬間を迎えるはずだ。どんな人間であっても神様の実質を心魂の奥に宿している。その実質を尊び、実質に語りかけながらみ言葉を伝えるのであって、その人の条件や心魂内容を相手にしているのではない。だから伝道は霊的であり、霊的な戦いでもある。相手の霊的実質を揺り動かし、思考や感情という心魂に波打つものを起こさせない限り、相手は眠ったまま私の働きかけから通り過ぎていく。

2013年12月18日水曜日

今日の想い 678

信仰が絶対信仰に至る為には何が必要だろうか。私達に信仰がない訳ではない。確かに信仰は持っている。しかしそれぞれの信仰基準にはバラつきがあるだろうし、統一食口全体の信仰と宗教それぞれの信仰度合いを比べた時に、私達の全体信仰は彼らに勝っているだろうか。食口それぞれに於いても、復帰された頃から今まで歩んだ結果、信仰はより強くなったのかそれとも弱くなったのか。信仰が絶対信仰に向かうのであれば、この世のどんな信仰者よりも強いはずだが果たしてそう言えるのだろうか。日々の歩みの中で信仰は鍛えられていくものだろうし、試練を与えられてぶつかる度に信仰はその強度を上げていくだろう。しかしその実感、信仰が強くなって絶対信仰に向かっている実感を私達はどう受け取ればいいのだろうか。
「今から皆様は、真の父母様の教えを骨に刻みつけて実践する人生を生きなければなりません。選択の余地がありません。今から準備しなければ、間違いなく落伍者になるからです。七千メートルを超えるヒマラヤ山脈を往来し、越冬する鶴(アネハヅル)の勇気と気概を私たちも学ばなければなりません。」(天地人真の父母定着実体宣布天宙大会)
このみ言葉にあるように、一方では後天開闢時代という輝かしい未来を私達に約束された表現をされながら、しかし一方で、落後者になるからヒマラヤ山脈を越えるほどの困難を越えなければならないと語られている。異なる両極端のイメージを語られているようにも思われるけれども、要するに私達が胸を撫で下ろして、そのまま平坦な地上的幸福を送ると言うような、そんなイメージを基元節以降の後天開闢時代に抱かない方がいいと言うことだろう。信仰が絶対信仰に至る為には大小の試練を越えてこそより絶対信仰に近付くものだろう。私達は今勇気と気概を必要とする歩みをしているだろうか。アネハヅルの勇気と気概を学べ、と言う御父様の言葉が実感を持って私に迫ってくる、そんな試練の場に立たされなければこの言葉は単に素通りするだけだ。敢えてこのような表現を使われたという意味は、勇気と気概が必要になる試練の場に私達は遭遇することを暗示されているように思える。

2013年12月16日月曜日

今日の想い 677

特定秘密保護法案については十分な論議が為されず、国民が疑問や不安を抱えたまま強硬にも採決に踏み切った、と大ブーイングだが、粗探しすることばかり、国民の不安を煽ることばかりに己の存在意義を置いている日本のマスコミこそ、大ブーイングをかけるべきだ。こんな不良マスコミをのさばらして置くことに何の疑問も覚えない日本国民は、日本国としての魂の柱を失っていることにも気付かない、何とも情けない状態になってしまった。今の日本人に国としての精神は宿らないのだろうか。国を憂えるという言葉は死語なのだろうか。自己中心的に生き永らえるだけの蠢く群れに過ぎないと、日本人の誰も思わないのだろうか。自分の死んだ目に気付かないのだろうか。反戦教育、自虐史観、権力は悪という観念、あらゆる欺瞞の中で欺瞞を認識できずに欺瞞の雲を足場だと思っている夢遊病者の群れが日本人の姿だ。そう言った日本人に対して霊的柱、精神的柱になれる存在は日本食口しかいないだろう。献金も忙しい、伝道も忙しい、献金伝道が願いだとそこに全神経を注入する食口のみが食口なのだろうか。国を憂い、国を立てたいと義憤する憂国の志士は食口の中にはいないのだろうか。勇敢にも共産主義者と戦った、あの尊敬の眼差しで仰ぎ見た先輩食口の後継はいないのだろうか。ここアメリカで活動していても私は日本人だ。日本人の精神を持っていればこそ世界人になれるのであって、日本人を捨てて世界人になるのではない。今の日本の状況を知れば知るほど悲しいのを通り越して情けない。反教会メンバーやグループ派はそういった腐った日本のマスコミの在り様をそのまま受け継いだかのように、粗探しに躍起になっている。三行半を押し付けたなら未練がましく嘴(くちばし)を突っ込む必要はないだろうに、正々堂々と我が道を開拓するのに忙しくて別れた相手の動向を気に掛ける暇などないだろうに、それでもやっぱり離れられないらしい。教会のことが気になるらしい。日本のマスコミは心の底では日本が倒れることなどあり得ないという奇妙な信仰を持っていて、その上で国と政府を突きまくる。国民の不安を必要以上に煽いでまで存在意義を認めて欲しいと駄々をこねる。教会反対派だと自認する者達もマスコミと同じで、マスコミが国があってこそ存在できることを無視しているように、反対しようが賛成しようが自分の存在意義がみ言葉をして成り立っていることに彼らは気付いていない。教会が完全に崩れ去るなら、彼らも教会と共に存在を失う。教会がもし崩れ去っても、教会の中に息衝いていた御父母様の精神を相続している者は教会を越えて残っていく。

2013年12月15日日曜日

今日の想い 676

夫である私がドナー登録して、同じような血液型が合わない生腎移植を願う他の夫婦との間で、血液型がお互いに合えば交換させて移植する、というマッチング移植がある。それも随分考えてみたが、私が差し出す分には何の躊躇もないが、もしどちらかが失敗したときのことを考えるとどうも踏み込めなかった。そして結局カダバー(死体)のドナーを待ち続けること4年に渡った。初回の移植から丸7年かかって今回の移植に漕ぎ着けた。カダバー移植の場合、ドナーの状態で移植後の臓器生存率は大きく変わってくるし、移植後の生活状態も変わってくる。妻の初回の場合、移植を受けられたことは本人も私も十分感謝しているが、すっかり元の元気な姿に戻ったとは言えなかった。最初の3年間透析こそせずに済んだものの、慢性貧血は以前変わらず、腎臓が造る造血ホルモンを補う注射が必要で、取り敢えず生きる為の移植であって生きて何かする為の移植とはならなかった。そうして3年持ち堪え、再度の移植登録が認められる腎機能数値の悪化から4年、合わせて7年間、浅い呼吸を繋ぎながら細々と生きながらえてこの度の恩恵に与った。今回の移植に当たっては、妻も私も初回以上に大きな天の計らいを感ぜずにはいられなかった。ここ2年間、登録の順番が回ってきて、かれこれ10回位の合致ドナー出現の連絡があった。初回の時は2回目の連絡があって決定がなされ、手術に踏み切ったが、今回はなかなか決まらなかった。連絡を受ける時はドナーの腎機能の数値と亡くなられた経緯を伝えられるのだが、こちらはOKであってもセンター側はより合致していてより成功率の高い登録者に宛がうのであり、或いはセンター側はOKでも亡くなられた経緯に問題があったりするとこちらは引かざるをえなかったり、そんなこんなで順番は回って来てもスムーズに行かず、ひょっとしたらもう難しいかも知れないというところまで来ていた。そういう経緯があった後の今回の恩恵は、劇的であり、摂理的であり、霊的であり、更に受胎告知の氏族メシヤ版とも思える出来事だった。ドナーのこともあってここで事細かな詳細は控えるが、私達夫婦にとって、家族に取って、そして氏族に取って、初回を初臨とするなら再臨の出来事と言える全ての転換点をこの移植手術で迎えたことになる。

今日の想い 675

体の中に備わった新しい臓器に対して、他の臓器達が得体の知れない新参者が割り込んできたとのけ者にし、虐めるのが拒否反応だ。体が拒否反応を大きく起こせば新しい臓器はひとたまりもない。そこで抵抗を弱める為に服用するのがアンチリジェクションの薬だ。この薬の進歩の御蔭で移植手術の成功率は格段に上がった。しかし薬は薬、一方に効けば一方で副作用が起こるのは当たり前で、アンチリジェクションの薬を服用すればインフェクション、感染の可能性は一気に増す。体の抗体を弱める免疫抑制剤である為に、通常なら軽い風邪で終わるようなものも抵抗の弱い体には瞬時に感染して症状は大きくなる。症状が劇的に悪化すれば所詮新しい臓器にも影響が行く訳で、拒否と感染にどちらにも転ばないようにという手探りの投薬がしばらく続く。医者は拒否反応を嫌う訳で、勿論本人もそれはそうなのだが、どうしても服用は多めになる。よってどうしても或る程度の感染は避けられない。特にもともと胃腸の弱い妻は直ぐに腹にくる訳で、下痢は止まらないし、どこまでももどし続ける。腹の中に戻すものが無くてもそれでも体から水分を抜き取ってもどす。見るに忍びないが代わってやることはできないのでどうしようもない。一度は退院してからも直ぐにも感染し、症状が一気に悪化したため退院した二日後にはまた救急に運び込まれた。外的状況をどれほど理解しようが、痛み苦しみを甘受するには限度があって、それでも否応なしに痛み苦しみが襲ってくるなら外的な位置からではなく内的な位置で越える以外ない。痛み苦しみを甘受できるように内的救い、内的姿勢を見出さざるを得ない。それは信仰的にならざるを得ず、神様に向き合わざるを得ないし霊界の事実を受容せざるを得ない。流石に我が強いというか自尊心の強い妻も、自分は悪くないというこれまでに肩肘張って譲らなかったものを壊さざるを得なかったのだろう。これまでにない素直に天に自らの在り様を問うてみたり反省する様を見ると、神様は誰に対しても、どれだけ意地を張っていても、魂の救い、霊の救いに対して匙を投げることはないのだなと思わされた。体を悪くして吐くときには実に辛いものがある。本人によると内容物がないのに更に吐くとなるとこれほど辛いものはないらしい。小さい頃の経験だが、何か悪いものを口にしたのか夜中から腹がムカムカして苦しい。どうしても我慢できずに吐きそうになると、隣で休んでいた祖父が洗面器を持ってきてくれて渡してくれた。半分体を起こした状態で洗面器に口を宛がうと、その時祖父からこう言われた。「ちゃんと起きてかしこまって座り、手は膝の上に置き背は伸ばして、それからもどしなさい」と。言われた通りにすると、体の大変さは変わらないはずなのに吐くことに清々しささえ覚えた。姿勢は姿勢で、姿勢に心が従うように出来ていることをこの時祖父から教えられた。それ以来もどす時は、切腹でもするかのように、必ず姿勢を正して事に入る。もどすことは、与えて更に与える、犠牲を供え更に犠牲を供える、そんな他に投入する自分の在り方を身体的に象徴的に体験している。与えて更に与えてこられた神様の疑似体験ともいえる。痛みと苦しみの只中にいる妻に、こんな話をしたらどう思うだろうか。

2013年12月14日土曜日

今日の想い 674

絶対、唯一、不変、永遠の神様であられるけれども、最初からそういった様相の神様として存在しておられたのかどうか。最初からという過程の話となると、時空を超越されて存在される神様には当て嵌まらないと言えるのかも知れないが、では神様は何の苦労もなく当たり前のこととして絶対、唯一、不変、永遠の存在でもともとあられたのか。「神様が完全であられるように、あなた方も完全でありなさい。」という聖句。さらに、「神様が絶対信仰、絶対愛、絶対服従されたのであるから私達も絶対信仰、絶対愛、絶対服従に立たなければならない。」というみ言葉。ここでは特に絶対について述べるとすると、神様が何の苦労もなくもともと絶対の存在であられたなら、子女である私達に親である神様が絶対存在となる為に苦労を強いられるだろうか。それは私達が堕落した存在であるから絶対を復帰する為に苦労が必要なのであって、本来アダムとエバが堕落しなかったなら苦労せずとも絶対の位置に立てたのだろうか。堕落していないアダムとエバにも責任分担は与えられたのであり、責任分担とは犠牲なり精誠なりそう言った投入する苦労、いや労苦があってこそ責任分担という言葉は成り立つはずだ。戒めを守るという責任分担には、堕落が偶発的に起きた事件事故では片づけられない、アダムとエバが彼らの責任に於いて完全投入すべき事柄(おそらく犠牲)が既に含まれているように思える。堕落以前のアダムエバの立場でも、堕落人間が復帰する過程に於いても、位置と立場は違えども責任分担は責任分担として与えられている。自己の責任に於いて完全投入すべき状況は変わらないということだ。そうであるなら、神様が親の立場でアダムエバが完全投入すべき内容を越えて余りある内容を、絶対的に供えられた位置に立たれておられるから彼らにその試練とも言える立場を与えられた。神様は絶対という概念を属性として備えられる為にアダムエバと人類を越えて余りある絶対信仰、絶対愛、絶対服従の過程を既に供えられた。私は絶対信仰、絶対愛、絶対服従というその言葉の位置を仰ぎ見る以上に、絶対信仰、絶対愛、絶対服従への過程の中にこそ「心情」は詰まっているように思われる。その位置を仰ぎ見て溜息をつくよりも、その過程に足を踏み入れ、果てしない遠い道のりであっても確実に足を前に出すことで、絶対存在に至った神様の心情の一つ一つを受け取れることに注目したい。そして、そのことの尊さを大事にしたい。その心情という観点に立つなら、位置の上下、罪の多少、立場の違い、全てに関係なく平等に与えられている。否、意外と位置が低く、罪が多く、悪い立場の方が心情は手の届くところに転がっているのかも知れない。

2013年12月13日金曜日

今日の想い 673

御父様は霊能者ではない。霊能者である必要もないし霊能者であるべきでもない。霊能者は地上から霊界へお伺いを立てる位置であり、預言者は霊界(ここでは高次の霊界、神界)から地上に言葉をもたらす位置に立つ者を言う。預言者かと言えばその部分も持ち合わせておられるが、しかし預言者の位置に立たれる御方ではなく再臨主であられ天地人真の父母であられる。預言者が預言する御方、その御方自身であられる。ましてや霊能者などではない。霊能者は地上の声を霊界に届けてそれ相応の霊的存在にお伺いを立てる訳だが、この霊的存在が実に曲者で、問題を解決させる代わりに霊的生命の部分を差し出す場合が往々にしてある。殆どの霊能者が霊的生命を差し出す形で問題を解決させている。高利貸しみたいなもので、一時問題は解決したように思えても、後々になって返ってより大きな問題を抱えるのが常だ。その意味では清平は特別な場所だと言えるが、清平でさえもそれ相応の精誠が必要であることは皆知っている。前に記したことがあるが、ワシントンに来られた時、ダイニングで御食事を配膳し用意していて二階から御父様が下りてこられた。誰もいないそのダイニングで御父様と私だけで誰もいないという場面に出くわしたわけだが、私が視線を御父様に投げかけると御父様は即座に私から視線を外された。一瞬無視されたようでその事が私の中で暫く尾を引いていたのだが、それは私だからそうされたのではなく、できうる限り誰に対してもそうしておられることを知って安堵した。見ようとすれば背後の霊がいくらでも見えて訴えかけてくるから、敢えて見ないようにして遣り過ごされる。一人一人、そして一つ一つの霊に関わっていれば公的な使命は後回しになってしまう。そしてそれは御自身のこと、御家庭のこと、御氏族のことについても同じように公的使命を常に優先され、自分で自分の安易な道を霊視されて判断するようなことは敢えてされない。霊界を全て御存知の御父様であるのに、恰も未来が見通せないような判断を何故されたのだろうか。失敗するようなマッチングをどうしてされたのだろうか。そんな疑問が湧くのも仕方のないことだとは思うけれども、霊能者のように、それも自分に都合のいいように或る霊的存在と談合して事を進めるような、そんな自己中心的位置に立ってはおられない。あらゆる事柄に対して公的な位置を貫き通された御父様であられた。蕩減路程を公式路程として立たせることが御父様の使命であり、都合が悪いからといって自らの権力でその公式路程を崩されるようなことはただの一度もされなかった。アメリカの黒人イスラム組織の指導者、ルイスファラカン氏への御父様が為された逸話は、アメリカにいる食口なら皆知っているだろう。ファラカン氏に癒しを与えられたのは彼個人として与えられたのではなく、やはり公的な位置で与えられたものだったはずだ。私の知る限りでは御自身にされたことも、御家庭にされたことも、食口に施されたこともない、一度の肉的癒しだと思ったのだが真相はどうだろうか。

2013年12月12日木曜日

今日の想い 672

地球は自転している。自転しながら夜と昼を交互に迎えている。しかし自転するだけでは夜と昼を交互に迎えられない。太陽との関係、すなわち太陽の周りを正しく公転することでそうなっている。自転公転とはよく言ったもので、自転はより私的であり公転はより公的であって、公的公転が為されない限りどれだけ自転しても夜昼の正確な一日一日は存在しない。その点を考えてみても、私という存在がどれだけ自分の願いを中心として生きようとしても空回りするばかりであり、公的な願いを中心として生きることで夜の原因的な心魂の深淵で受け取る霊的事実があり、昼の結果的な地上で花や果実という現実を受け取れる。神様と関係なく、霊界が何かもわからず、そんな地上の人生は平面的人生であって、生きているとは名ばかりの生だ。それに比べて心魂の深淵を旅し、その深みの更に奥に広がる霊界をも旅しながら歩む人生の何と味わい深いことか。地上の感覚世界に限られた生を送る人達にとっては私達の立体的な超感覚的味わい(心情世界)など知る由もない。同じ外界を同じように見て聞いて感じていると思っているけれども、異なる受け止め方をしていれば住む外界が異なっている。さしずめ、神様と関係もなく霊界が何かもわからない平面的人生は死んでいる外界に住んでいると言うことができ、神様と関係を持ち霊界を実感する立体的人生は外界の物事全てが生きて関わってくる。外界が声を発せなくても、動かなくても、それでも生き生きと私に関わってくる。地球が自転し、太陽の周りを公転しているという科学的イメージ先にありきでは、生きて私に働きかける宇宙ではなく死んだ宇宙としての宇宙の鞘(さや)しか受け取れない。確かに宇宙の鞘も大切で、鞘としての考察が宇宙科学を発展させたのも確かだが、しかしそれ以上に宇宙の本質の方が遥かに大切だ。本質が重要視されてこそ鞘を問う意味もあるのであり、科学に対する宗教が本質そのものとは言わないが、科学も宗教も超越できるみ言葉であって、み言葉を正しく受け入れることで公転すべき中心的存在、太陽存在を見出せる。私の中に御父母様を中心の核として迎えることが、すなわち私にとっての公転すべき中心存在、太陽存在を迎えて正しく自転できる私を創造している。

2013年12月11日水曜日

韓国と日本

韓国では日本に対する非難の声、日本では韓国に対する非難の声が盛り上がっていて、摂理がわかっていれば母の国日本と父の国韓国は一体とならなければならないのに、かつてない犬猿の関係をどうしたものかと思うだろう。しかしそれが今の現実であることはその通りだ。現実という響きには致し方ない投げ遣りな感情があるのだろうが、摂理を知りみ旨としての日韓関係を築こうとするならそこに留まっていてはならない。今の現実に対して、韓国が声高に言っていることはその通りだとそう思っている日本食口はかなりの多数存在している。それは御父様の慰安婦問題や竹島(独島)問題へ日本に対して避難的に言及されたことから、その言葉を言葉のまま受け取ればそういう態度を取らざるを得ないからだ。そういう中で、韓国の言動はおかしいと、歴史をよく紐解けばそういう事実はないという観点で、今の韓国に対して批判する食口もいる。日韓が一つになるためには歴史の事実を認めなければ、特に韓国が真実を知って認めなければ一つになりえない。そう思っている食口は心情型食口より思考論理型食口に多い。御父様が言われる意味でのひとつになるという表現がどういったものか、仲が良ければひとつになったと言えるのかどうか、私はそうだとは思わない。夫婦関係は男と女の関係だが、それは恩讐関係だとも言われたのであり、それを実感する位置でひとつになるとはただ仲がいいだけでは一つになったとは言えないものが確かにある。御父母様の御傍で侍っていれば、御母様に対して声を荒げる御父様は何度も見ているのであり、そうなれば距離を置かれる御母様も何度も見ている訳で、勿論仲のいい場面も度々目にするけれどもそれと同じくらい刺々しい場面も目にしている。しかし御父母様が一つになっておられるのは天地に公言されている。おそらく日韓関係もただ表面的に仲がいいというだけならそれは一つになっているとは言えない。今の刺々しい関係もお互いをより理解するための、本当の意味で一つになる為の、越えるべき一里塚だと思っている。これを越えればもっと深い関係になる。日本は女性的であって外的だ。心の奥底でどう思っているかより外的表面的にどう表わしてくれるかの方が重要だ。しかし韓国は男性的であって内的だ。どれほど謝罪しようが、どれほど補償しようが、それよりは内面の心を差し出してくれと叫ぶ。彼らにとって歴史的事実がどうかは或る意味どうだっていい。韓国としての主体的位置を認めて欲しいというのが本音のところだ。そういう意味で捉えると彼らの言い分は納得できるのであって、歴史的事実を振りかざし、だから日本が正しいという論理は彼らに通用しない。摂理的観点から見る天の願いは韓国が主体的位置に立つべきだとしており、そうであれば天の運勢は韓国に味方するのであり、どれほど歴史的事実を訴えようが日本がしゃしゃり出て主体に立とうとする了見が見える限りは日本の非を認めざるを得ない。だから今の日本は夫を立てる妻の役割を見せるべくどう立ち回るかの正念場といえる。一体化の鍵は妻であり母である日本が握っている。

2013年12月10日火曜日

今日の想い 671

薄氷を踏むような思いで時を刻んでいく、という言い方が、今の私と妻には最も言い当てていて頷ける。退院はしたものの安定しない体調に不安を覚えたり、また束の間安堵したり、そしてまた別の不安に襲われたりと、二人して体も心魂も弄ばれている状況がいつ終るともなく続いている。不安や心配に留まり続けるということと、不安や心配から気遣い心遣いへと向かうということとのその違いは、一方は受動的であり今一方は能動的な態度であって、受動的であり続ければその不安は更なる不安を呼んでくる。不安を克服するためには能動的私を押し出さなければ、不安が常に私の一歩先にいて弱気な位置で内向きに閉じこもる。能動的私を前にいる不安より更に先に押し出し続けることで、私は希望という灯台を見出せるはずであり、見出したなら見失うことはないはずだ。荒れ狂う海に翻弄されていても、視点は飲み込まんとする高波に当てるのではなく、次から次と押し寄せる高波の向こうに確実に希望の灯台が、そして安着できる陸地が備えられていることに対して絶対信仰を供えるのであり、その用意されたカナンの福地に絶対に辿り着きますという決意と気概を維持し続けることだ。確かに私達夫婦は新たな一つの生命を授かった。その奇跡を無碍にも台無しにさせるなら、敢えて生き長らえる意味はないのかも知れない。それほどに尊い贈り物を差し出され、すがるように私達は受け取った。受け取ってはみたものの、その責任たるや今の私達夫婦の心霊基準では抱えられるものではないのかも知れない。そうなると寸分を待たず過酷な心魂の鍛錬が要求される。そうして退院した今も、鍛錬の只中にいて魂の柱を太く強くすべく鍛えられている。確かに今が私達夫婦の正念場だ。恩恵を受けるにはそれなりの精誠を差し出すのが蕩減法則だ。それが霊界での遣り取りに於ける霊的事実だ。この路程を勝利的に超えない限り、私達の未来は薄い。周りを見回せば家族皆が元気な祝福家庭、子供が祝福を受けて孫を嬉しそうに抱いている祝福家庭、うらやましくないと言えば嘘になる。それでも、他の家庭と比べて受け取る愛の減少感から妬みを起こすなら、自分と他の家庭に壁をつくり、他に対する自分という感情に留まり、彼らを同じ御父母様を親とする兄弟姉妹として受け取れない私だからこそ起こる感情に違いない。自体自覚に立てば、どうして私の家庭だけにと不満を募らせ残酷だと思うだろうし、他体自覚に立てば、越えてくれると期待して与えられた使命だと思えるだろう。誰が見ても同情を覚える位置で、しかしその位置に立たされながらも神様に同情するなら、神様の心情は動かざるを得ないだろう。御父様が悲惨な立場で神様を慰められ、神様の心情を動かされたように、私達はどんな立場であっても、その位置で神様の心情を動かす者となる。それでこそ統一食口だ。御父様の息子であり娘だ。

2013年12月8日日曜日

今日の想い 670

私たちは御父様、御父様と祈祷し、日頃の生活でも口にしながら、あたかも神様の全貌を理解したような気持ちになっているけれども、実際のところ神様の存在は確信していても、その在り様もよくわかっていなければ実感も薄い。自分の心魂すらよくわからず摩訶不思議で主管できないのに、どうして膨大な天宙を包み込まれる神様を理解していると言えるだろうか。霊的無知であるという認識から遠ざかったまま、私の認識が及ぶ範囲の神様の概念で神様に対しても神様も応えようがないだろう。さらには夜の神様、昼の神様と言われてみたり、天の御父様がおられ天の御母様もおられると言われてみたり、それは神様をハナニムという一つの概念と理解していた我々にとって混乱を及ぼす言葉でしかない。だからといって感覚世界の現実に重心を置いて生きるのであれば何も変わらないだろう。私の神様に対する理解が不完全なものであることは認めた上で、しかし感覚人間としての私がそのまま受け取る感覚世界から神様を引き出せるのではなく、感覚世界の現実の背後に霊界があり、霊界を通過して神様を引き出せる。肉体の背後に心魂があり心魂の深みに自我があってその核に神様がおられる。心魂の深みで自我を見出そうとするところに霊界の門が開くのであり、その位置でこそみ言葉の本質は発揮され、通常の悟性的人間として触れて学ぶみ言葉は極めて限られたものでしかない。み言葉の応用とは言葉をひねくり回し無理して繋げることで悟性の論理に通用させることではなく、無知なる霊界を照らして霊界の事実を受け取れるように扱えることがみ言葉の応用だ。或る現実に差し掛かった時、み言葉の本質を受け取れる者はこの世の感覚世界にどっぷり浸かっている者からすれば理解を越えた把握と答えを導き出して呆気に取られてしまう。私達の今までの歩みはこの世の者達には理解できない。蕩減もなくなり新しい時代であるこれからは社会に理解されるように行動して、、、。それならこの世への迎合だ。私達はこの世の者達の理解出来ない方向に敢えて向かったのではなく、霊界の事実を受け取った結果、結果的にこの世の者達の反感を買った。社会がどう思うかを気にするなら地上の現実に主管されているのであって、好感を持たれようが反感を持たれようが霊界の事実に沿って方向を定める。それでこそ霊連世協会だ。御父様が聖和されて全面的に霊界で活動されておられる。霊的な見地に立てば御父様は一層私達と近い関係にあり、今までどうしても得られなかった答えが祈って尋ねれば精誠の度合いに応じて直ぐにも答えを受け取れる。一問一答の関係を持てるのであり、神様と一体となられた御父様が私達の神様への理解を尋ねて答えを下さらないはずがない。

今日の想い 669

人は現実の中で生きている。それは他に言いようの無い事実だ。地上界という実体世界で起こる現実に否応なく対処しなければならず、波立つ感情に翻弄され続ける。地上の元素を持つ肉体に住まうとはそういうことだ。人は現実の中で生きているけれども、しかし現実だけを足場にしているかというとそう言うわけでもない。現実という実体圏に押し込まれ捕らわれの自分を一方で生きながら、一方で理想という創造圏に生きている。人間は本来、創造結果でもあるけれども創造原因でもある。結果である地上界と原因である霊界の接点で、どちらにも足場を置くことができる地上と天上の和合体が人間本来の位置だ。霊的無知によって霊界の事実、より原因的であり創造的であり、よって地上に対して主体的な霊界との関わりが持てないために、和合体の司令部であるはずの人間心魂が安着できないでいる。それ故に翻弄され続ける。御父様という天宙代表の本家本元が中心位置を見出されて長子権、父母権、王権を定着されたので、御父様を中心に霊界と地上界は統一される。霊界と地上界が統一されれば霊界の勝利圏が地上の勝利をもたらし、地上の勝利の実りが霊界にもたらされる。堕落人間は御父様に繋がり、御父様と一つになることで、新しい天と地に住む。すなわち御父様が長子権、父母権、王権を定着されたその位置に安着することが、新しい天と地に住むことを意味している。そこで差し出された御父様の言葉が天一国入籍だ、というのが私が言葉の上で理解していることなのだが果たしてどうだろうか。そうであればこそ御父様と完全一体となってこそ入籍できる。そうすると入籍すれば現実はどうなるか、相も変わらず現実は現実として流れ、否応無く対処しなければならないのは変わりないのか。入籍すれば御父様を中心として霊界は完全に主体であり、地上界は完全に対象だ。その中心とひとつになる私に於いても霊界が主体で地上界は対象になる。「実体的天一国時代が広がると、霊連世協会が中心軸の位置に立って万有を治めるようになる」、とある。現実とは感覚世界であり、広がる感覚世界の原因的世界、霊界に於ける私の存在を存在足らしめ、感覚世界の現実から霊界の事実へと重心をシフトできれば私という存在は現実に生きる存在から事実に生きる存在となれる。事実に生きて権威を行使できれば霊連世協会の個人的なものを確立したと言え、さらに家庭的なもの氏族的なもの、そして実体的天一国での国家的な霊連世協会が立つ。膨大な霊界のほんの一部分一部分を垣間見るだけで、しかし感覚世界の圧倒的現実に主管されて生きる限り、私達は次元を越える存在とは言えない。次元を越える存在でないのなら、地上の実体的天一国など夢のまた夢だ。現実に生きるこの世の者達と次元が同じなら、私達が理想を叫んでも鼻で笑われておしまいだ。

2013年12月5日木曜日

み言葉のみ言葉

御父様の為された多くの宣布大会のうちで、最も大切で重要な宣布大会は「天地人真の父母定着実体み言葉宣布天宙大会」だ。そしてその宣布大会こそ私達が絶対忘れてはならないし、そこで語られたみ言葉こそその意味を最も理解しなければならない、何千回、何万回読んでもまた読んでさらに理解を深めなければならないみ言葉の中のみ言葉だ。そのみ言葉には「人類のための遺言」という項目題名まであり、それは私達が最も重要視している訓読(会)、八大教本教材のことを言っておられるのだが、訓読する上での中心的姿勢をこの宣布大会のみ言葉を通して受け取ることができる。御父様を受け入れない者がみ言葉を読んでも霊的真意を受け取れないように、この宣布大会のみ言葉を中心的姿勢として先ず受け入れなければ、どれほどみ言葉を訓読しても、部分的なみ言葉を示して御父様はこう言っておられると詰め寄っても、天の心情とはずれた、的を外した訓読や指摘になりかねない。そう言う意味でこの宣布大会のみ言葉は、み言葉を学ぶうえでのみ言葉だと言える。「成し遂げられた!」という霊的救援の一言の言葉を残して忽然と逝かれたイエス様。同じように「完成、完結、完了」という実体救援の言葉を残して、やはり忽然と聖和された御父様。イエス様による霊的救いを受けると共に、実体的救いをもたらす再臨主を迎える路程が残されたように、御父母様による実体の救いを受けると共に、実体的救いを国のステージで、さらに世界のステージで実体完成させる路程が私達に残されている。この宣布文を読めば読むほど、基元節を迎える前に、最後の精誠、犠牲を供える、そして聖和されることを既に言い含められたみ言葉のように思えてならない。勝利宣布として輝かしい笑顔で壇上に立たれ、齢九十を越えられたとは思えないほどの力強さと主管力で会場を包み込まれ、しかしその見えない背後に、微塵も素振りを見せることはされなかった決意と覚悟を供えておられた。この宣布大会のみ言葉こそ御父様の全ての核心であり、心情の中の心情だろう。私達は時系列で生きているし、最初に琴線に触れたみ言葉やその時の感情を出発点とし、み旨を歩む動機ともしているけれども、実はこの「天地人真の父母実体み言葉宣布天宙大会」のみ言葉、そしてそこにある心情こそみ旨を歩む動機とし、出発点としなければならない。それは時系列の先祖を私を中心として逆に遡る形で先祖解怨し先祖祝福していったのとリンクしている。混乱を見る食口個人であったり教会であったりするけれども、この宣布大会を最重要視して中心的核に置くことで、解けないものが解けてくる。

2013年12月4日水曜日

価値観というベクトル

妻はいろんな病を体験しながら、病を通して、病という槌でひたすら打たれることで、健康の尊さを自分の中に打ち立てる。人は健康であればあるほど、健康の尊さとは無縁だ。健康な人が有難いと口にもし思いもするけれども、しかしそれは苦しい病を体験した者が口にする有難さと思いとは重みが違う。次元の異なる健康に対する感謝であり思いだと言ってもいいかも知れない。それは健康の尊さ、健康に関わる精神の柱を霊的に打ち立てている。霊界に行けばありとあらゆる奇怪な病が待ち受けている。様々な怨念が霊として纏わりつき、恨みの要素が霊人体の病として発病する。この世で健康ならあの世でも健康だと思うかも知れないが、健康の尊さを身を持って受け取れたなら霊界で健康体となるが、ただ健康だったからといって健康にはなれない。霊界では肉体を持たないので食物は必要がないが、正確に言うと天国や楽園では食物を取る必要はないが、中間霊界、地獄では食物を必要としている。それは人はパンのみで生きるという人生を生きてきたから、何よりも食べる必要性にかられた内的様相が霊的環境圏に現れる。食物を貪り取り合う霊的環境圏を、人は人生に於いて創造したと言うことができる。人が病を通して健康の尊さ、霊的健康を知るように、空腹を通して万物の有難さ、霊的満腹を知る。食口は祝福条件として七日断食を経験するが、私はと言うと断食を通して、神様の心情よりも何よりも、自分は万物がどれほど恋しいかを思い知った。決して裕福な育ちではなかったし、明日の米を子供ながらに心配したこともあったから、万物の大切さはわかっていたつもりだったが、それでも断食の時ほどに恋しいと思ったことは無い。基準が低いと言われれば確かにそうだが、恋しい万物であればこそ、万物を与えることに、万物を供えることに、万物を捧げることに、人一倍思い入れが深い。それは万物に対する執着心とは異なる万物への私の想いだ。だから同じ物を供えるにしても、誰よりも精誠が込められるはずだと思っている。飽食の時代に育った現代人は、食べるものにさへ事欠いた時代を生き抜いた人々とは異なる使命が与えられている。貧困の時代を生きた人々は大まかに二通りに分けられ、貧困によって執着心を育てた自己中心的人間と、貧困によって万物の尊さを知りそれを通して社会に貢献しようとした社会貢献人間とに分けられる。現代の物質的繁栄は後者の人々の強い万物への恋しさがその動機となっている。では飽食の時代に生きる現代人は何を求め、何を恋しく思っているのだろうか。それを敢えて一言で言うなら、私は価値観だと言いたい。形あるもの無いもの、見えるもの見えないもの、私の外にあるもの内側にあるもの、その全てに対する価値観を求めている。価値観への恋しさこそ、現代人の在り様だ。それは益々その度合いを強めている。そしてその度合いが強まれば強まるほど、全ての価値観を導き出してくれる成約のみ言葉がどれほど眩い霊的光であるかを私達食口ですらも思い知るだろう。

2013年12月1日日曜日

今日の想い 668

イエス様の時代であっても、生活は生活で流れていく。世界が注目していたとまでは言わなくても、イスラエルの民達やローマ市民全ての注目を浴びていたはずだと思っているが、事実はそのように注目されて十字架の摂理が為されたわけではない。人類の一大事件であるにもかかわらず、それでも人々は同じように食べ、同じように掃除も洗濯もし、仕事にも行っただろうし、世間話に花を咲かせていたはずだ。そうして同じように眠りに着いた。メシヤが十字架上で死を遂げたその日であるにもかかわらずだ。聖書を読めば全ての人々が注視している中で起こった事実のように受け止められるけれども、実際は、終末時代であっても人類の一大事件であっても、人々の生活は変わらなかった。現代でも全く同じだろう。再臨のメシヤを迎えても、御父母様が勝利圏を立てられても、後天開闢時代に入っても、やはり生活は生活で変わらず流れていく。外的にもあっと驚き、人々から注目を浴びる統一食口の姿を皆が思い描いていたのだろうが、それが何ともこの世的であり現実的御利益的な浅ましいものであったかを反省しなければならない。御父様の生きた精神を、心魂に受容し生命に受容し肉体に受容するのが統一食口であるべきなのに、抽象的なものに留まったままだ。抽象的であるから常に外に見ようとし、私達の内に見て確認しようとはしない。ペテロは確かに鶏が鳴く前にイエス様を三度否定した。しかしペテロはその否定がどれ程重いものであるかはよくよく解かっていたはずだ。己の罪の部分が超えていてイエス様に対する信仰が否定の言葉を発するのを制御する程にイエス様と一つにはなっていなかった。その落胆を己を瞬時に消してしまいたいほどに味わった。主の否定の重さを知っていればこそ、彼は逆さ十字をわざわざ申し出た。そこに罪の克服、主の否定の克服を自分に見ようとした。私達は御父様の願いを受けて摂理を担った。しかしそれは失敗の連続だった。その失敗のひとつひとつをどれ程悔い改めただろうか。ペテロが主の否定の重さを知っていた程に、為し得なかったその重さを抱えているだろうか。それどころか自分故に失敗したという認識の欠片もなく、ただ御父様を人類のメシヤとして認識していることだけで自分のゴールは得られたの如く、憎々しくも楽しく生き永らえている。私達がペテロが自覚したものの一欠けらでも認識していたなら、御父様は時期を早めて聖和されることはなかっただろう。ペンテコステ?あり得ない。能天気な我々にペンテコステのような神霊聖霊現象があり得るはずがない。小指の先ほどの為し得なかった重さの自覚も無いのに、何がどう狂えば霊的協助を体験できるだろうか。これからの摂理を担う者は、御父様への負債の重さを抱えられないほどに受け取る者しか、アベルの正道を行くことはできない。千万の死に値すると本心から思える者しか御父様の精神は受け継げない。

2013年11月29日金曜日

今日の想い 667

いつもの感謝祭なら、スーパーで小さめのターキーを選んで持ち帰り、妻がオーブンで料理する。小さなアパートだからにおいと共に煙の回りも早く、気を許せばアラームがけたたましく鳴り始める。そんなジタバタ騒ぎも、感謝祭を祝う毎年の恒例だったが、今年の感謝祭は白い部屋に妻は横たわり、その隣で彼女の様子とモニターの数値を交互に見ながら、感謝すべきこの日を送っている。ニューヨークで働いている息子も昼過ぎには帰ってきて、ピックアップしたその足でボルチモアの病院に向かった。勿論娘も同乗させ、久々に家族四人が集まったわけだが、横たわった彼女の周りを三人で囲むという、今までに経験したことのない感謝祭の顔合わせになってしまった。妻は虚ろな目で息子や娘を一通り見まわし、一言、力ない声をかけると、苦痛に歪んだ顔をベッドに埋めた。後は日が暮れるまで、無言の時間をひたすら共有しただけだった。6時を回ってしっかり日が暮れると、子供には家に帰るように伝えて、私だけ付き添いで残ることにした。子供を返したあと、妻の顔を見ながら、言い知れぬ寂しさが込み上げてきた。苦しんでいる彼女に代わってやることもできなければ何もしてやれない。妻を私が見捨てたようで、私は護って戴いている天使や聖霊から見捨てられたようで、悲しく寂しかった。彼女は苦痛と息苦しさで寝付けなかったが、直ぐに覚めるであろう浅い眠りに着いたその隙に、パソコンを取り出してキイを叩くことで何とか自分を落ち着かせようとした。妻に不安な表情は見せたくなかった。でも文字を並べていくと、抑えきれない感情が溢れだして、流れるものをどうしても禁じ得ない。それでも感情を涙に代えることで、幾分落ち着くことができた。その僅かな事でも感謝できれば、それはそれで私の感謝祭だ。妻に代わって、そして目を覆いたい母の状態を目の当たりにしさぞ落ち込んだであろう息子と娘に代わって、家族の感謝祭を私の涙で供えることができた。

今日の想い 666 ( 地球という胎 )

現代人は地球の存在を認識している。それは当然であるけれども、古代人にとっては現代人のように球形をした輪郭を持った地球というイメージはない。科学的イメージを持たない古代人だったけれども地球という霊的なイメージは持っていた。そしてその認識の方がより包括的だった。全ての自然現象に生きた霊の感情を、思考を、意志を見た。生きて働く霊の存在は古代人にとって疑いようのない当然の事実だった。彼らは科学的唯物的な現代人の捉え方とは全く異なる地球に対する認識を持っていたはずだ。以前地球は天宙の胎であると記したことがあるが、古代人にとってはそれも当然の認識だったはずだ。人間は夜の無意識と昼の意識を交互に体験しているけれども、地球自体は西半球が夜なら東半球は昼であって、夜と昼を同時に体験している。普通人間は冬と夏を交互に体験しているけれども、地球は北半球が冬なら南半球は夏で、冬と夏、さらには春夏秋冬を同時的に体験している。神様は性相と形状の中和的存在であり、陽性と陰性の中和的存在であられるけれども、地球は夜昼の同時的存在であり、冬と夏の同時的存在でもある。夜昼は東西と関係し、冬夏は南北と関係している。天宙は神様の体、形状であり、地球は神様の胎であれば、胎の中に東西があり南北があるという東西南北の四方性があるのは、この四方性が霊界の四方性、四大心情圏を育てる胎盤の役目を果たしている。地球の四方性、東西に夫婦関係の胎盤的なもの、南北に親子関係の胎盤的なもの、として、肉体的には東西南北という平面的四方性で生活しながら、内的には、さらには霊的には、四大心情圏への横的関係、縦的関係の基となっている。地球に対する現代人の認識が、球形であり自転もし太陽の周りを公転もしているという科学的認識があるなら、さらに球形であることの意味、自転することの意味、公転すること等の意味を深く掘り下げると共に、意味を問う私自体が地球に所属し、地球に拠らなければ存在できない等という意味までも問うていくと、或る時点でどうしても科学的なものを超える地球の認識を得る必要性が起こってくる。ギリシャ神話によれば地球はガイアという女性神だ。古代を遥かに遡る人類の原初は、胎盤に繋がった胎児のように原初地球に繋がった原初人間を霊視することができる。それからも地球が天宙の胎であることが理解できる。原初人間は植物のように地球に繋がり根を張っていた時期がある。地球との直接的繋がりを持たずに独立し自由な人間存在になってからも、内的霊的な意味で地球は人間が成長する為の胎内に変わりない。サタンによって侵害された天宙の胎を取り戻し、神様の結婚式をして差し上げて、地球は今神様によって身ごもる者達の胎として存在している。

2013年11月27日水曜日

今日の想い 665

再度切り裂いた腹の痛みだけに留まらず、胃の激しい痛みまでも併発した。耐えられない傷口と胃の激痛を外に押しやらんとばかりに吐いて、さらに吐いて、を繰り返す。胃の中には何も入ってはいないはずだが、血液に注入される点滴液を逆に胃の中に染み出させて嘔吐しているらしい。手術を終えて丸三日、その状態が続いた。甘受できる状態はとっくに越えていて、生きてのた打ち回る地獄を彷徨っていた。唇が痙攣で震えている。浮腫んだ瞼は閉じられることはなく、半開きの淀んだ目であったり、かと思うと急に見開いて視線を空に泳がしたり、明らかに異常な状態だった。震える口で何かいいたそうだと思って耳を近付けると、「外を歩いて来たから熱い。早く家に入らないと。」と微かな声で呟いた。混乱していた。さらに今まで傍で付き添っていたにもかかわらず、いつ来てくれたのと光の欠けた視線を私に投げかける。私は私で、彼女の地獄とは違う地獄に突き落とされてしまった。一瞬途方に暮れた。僅かの光も消え失せた。激痛から逃れる為に心魂を肉体から遠ざけ、夢うつつの出来事と現実の区別をなくしている。寄せ来る幻覚が現実空間の中に広がっている。私は、それまで一瞬だに離れなかった妻のベッドから離れて、その集中治療室の窓際まで足を運んで背を向けた。背後では時折笑い声さえも起こるナース達の快活な会話が弾んでいた。隠しはしたものの目から溢れて流れ出たものが外の光を受けて反射し、自分で眩しいと思った。嘔吐が止まらないのでナースはチューブを持ち出し、鼻から進入させると私に言う。感情に沈んでも時間を止められるわけも無く、次から次へと対応が要求されて否が応でも前に前に進ませられる。妻としては以前経験済みだが、それも撥ね付ける不快なものとしてだが、それでもナースの威圧に負けたのか今回は仰け反りはしなかった。それでもチューブが太すぎたらしく、顔をしかめて苦しい声を発した。ナースも状況が直ぐにわかったのか、細いものを探しに部屋を出た。妻は残っている今一人のナースに、せっかく買ってきてもらって申し訳ないけれど私には合わないです。と随分丁寧な日本語で、さらに愛想笑いまで添えて詫びた。いつもの彼女であれば不快な表情を隠そうともせず、睨み付けんばかりに言葉を返すはずが、混乱しているせいか、もちろん正常なら日本語で相手に話すわけないのだが、それでも随分謙虚で、妻なりのいっぱいの申し訳なさで恐縮している態度に、それまでの私の言い知れぬ気持ちはいくらか癒された。もしこのまま正常を取り戻さなかったとしても、二人は十分やっていけるとそのとき確かに思えた。二人でひとつであるところの私の片割れが妻だという、その感慨が急に溢れ出して涙は別のものに昇華した。

2013年11月25日月曜日

事実に躓くのではなく、事実に問おうとすべきだ。

御父様の行動を堕落的な目で見てああだこうだと言い募る。御父様の価値が量れるというなら、その持ち合わせている価値判断はどこから来たのか。自分の持ち合わせている価値判断が正しいと言うなら、自分を堕落した霊的無知な存在とは認めていないことになる。堕落的な目で見て御父様の行動がどれほど奇異に映り、罪の権化のように映ったとしても、そこには確実に、真実の目で見れば見えるはずの犠牲的精神が生きているはずが、それが見えない。見ようとしない。この地上に、とりわけ人間の行動形態すべてに堕落的要素は染み込んでいる。それは善なるもの、聖なるものだと思われる行動であっても、しかしそれでも堕落的要素は染み込んでいる。人間のあらゆる行動形態、特に罪や悪が絡む欲望という行動形態の類を、どのようにして聖なるもの、善なるものが浸透している行動形態に変えることができるだろうか。性行為を行わずに、手を繋いで深く見つめ合うだけで一体化し、愛の結晶を創造できるなら、それこそが再臨のメシヤとして地上にもたらす仕事だろうか。そうでないことは誰もが解かっているのに、愛の行為という堕落的要素が染み込んだ行動様式を、そのまま何もせずに聖なるもの、善なるものに変えてくれと要求している。メシヤとしてメシヤらしき宣言をすれば、その宣言にメシヤ本人も従うだけでもって事足りると思い込んでいる。声を大にして言うなら憚られるであろう御父様の取られた行動は、敢えて言えば霊的科学反応実験だと言える。血統転換式を導き出すのに、そして絶対性、絶対セックスという概念を導き出すのに、肉体を持たれた地上存在として、身震いしながら罪と悪にその嫌がる肉体を染めながらも創造された、奇跡的と言っても過言ではない救いの方程式を導き出された。よだれを垂らしながら放蕩三昧する堕落人間的行為と所詮同じだと誰かが言うにしても、霊的に見れば全く正反対の犠牲的精神がその行為に生きている。少しでも霊的見地に立てば、明らかに放蕩三昧とは異なることがわかるのに、地上感覚しか持たない、霊的無知を自認しない者達は、御父様の肉的行為そのままをああだこうだと論(あげつら)う。肉体をして導き出さなければならないからこそ、肉体を持たれて地上に再臨されたのであって、救いの完成に肉体による秘儀が必要ないなら肉体をもって再臨される必要はない。

2013年11月21日木曜日

昼と夜

私達が昼夜と言う場合、昼の意識(目覚めている意識)で夜を眺める、すなわち夜の一面だけを捉えて夜の概念を得ている。交互にやってくると思っている昼と夜の関係の夜は、昼夜を平面的認識に無理矢理押し込んだ夜の概念と言えるだろう。夜があって昼があるのであり、夜の中から昼が生まれるのであり、昼から夜になるのではなく昼から夜に移行するときの昼は砕け散る。どれほど太陽と地球の関係で説明する昼夜を絶対視したところで、そこから本当の昼の概念、本当の夜の概念は導き出せない。ちょうど、この外界宇宙を創造した創造主としての創造神を神の概念として捉えても、人格神、親としての神様、心情の神様の概念を導き出せないのと同じことだ。創造神は神様の一面であって一面だけで捉えると神様の認識は間違ったものとなる。昼の意識で捉える夜も夜の一面であって一面だけで捉えると夜の認識は間違ったものとなる。ここで言わんとするところの夜の概念が捉えられないと霊界がわからない。地上界から探り見ようとする霊界は霊界の一面であり霊界の本当の認識には程遠い。サタンに見事なまでに洗脳されてしまった物質中心主義、唯物主義の堕落人間は、それを否定する宗教人までもがやはり唯物主義的な発想や思考を宗教に持ち込み毒されている。賢さの点では真にサタンアッパレと言ったところだ。私達は今、昼の意識から夜の意識への目覚めが大潮の時を迎えるように為されつつある。霊への目覚め、霊界認識への目覚めだ。その目覚めが為されるにつれ、夜の神様、昼の神様の意味もわかるようになり、認識も持てるようになるはずだ。唯物的思考に毒された現代人のままで夜昼の神様を解くことはできない。創造主という神様の一面だけの捉え方が、私の主体である内的霊的なものへの影響が及ばないように、昼の意識から捉える夜という夜の一面だけの捉え方では、昼を生み出す、すなわち実体圏を生み出す夜という、夜の本質を捉えられないし夜の深淵を見ることも無い。実体圏創造の為のあらゆる素材が夜の深淵の底に眠ったままでいる。

2013年11月19日火曜日

今日の想い 664 (トラかチキンか)

私の中には、未だ堕落の因縁を持つ性質、堕落性が潜んでいる。この堕落性が見分けやすく分別し易いなら問題はないのだが、創造本性に絡みつき染みついているから分別が難しい。人生に困難は付きもので、手を代え品を代えありとあらゆる困難、想像もしなかった困難が襲ってくる。困難に対する時は決戦場に立っているのであり、何と何の決戦かというと自分の中の神とサタンの決戦だ。普通は困難そのものがサタンだと思って困難を排除しようとする訳だけれども、困難を先ず試練として受け止めなければ、逃げてばかりいるなら自分の中のサタンを成敗することはできない。試練として受け止めるとは試練に身を晒す、先ず打たれることをよしとする出陣する自分を差出すことだ。打たれてこそ神とサタンに分別されるのであり、打たれることで思いもしなかった力が、知恵が、勇気が、私の中に湧き起こる。過去に国家間の戦争が起こり、人々は否が応でも生命の危険に晒された。その状況で何を学ぶかと言うと、どうせ生命の危険に晒されるなら戦いに臆病になってチキンで死に臨むのではなく、戦う意志を持ちトラで死に臨もうとする。戦時の状況で先ず彼らの中の内面の戦いが起こるのであり、その内的戦いでチキンかトラかの決着をつける。少なくとも私達の周辺には戦争のない平和な時代が流れていて、そこに安堵の気分を覚えるのだろうが、兵士達にはその内的な善の基準は問えないにしてもひとつの内的戦いに勝利した、敢えて言えば国の民族霊という神柱が立ち民族魂を受け取る歓びで満たされていた。どんな国であれ、それがサタン国家であっても、国の為に生命を捧げた英霊には敬意を表すべきであり、事実彼らの霊は高い位階にある。私達が生きて英霊の基準を越え、彼らの協助を得る為には彼らの内的戦い以上の内的戦いを甘んじて受ける私にならなければならない。どんな困難、戦いにも率先して私自身を差出すべきだ。そしてどんな表面的な困難、どんな現実の戦いも私の内なる戦いと直結している。そして内なる戦いに勝利することでこそ堕落性を解消できる。恐れ、慄(おのの)きの中にびっしりと堕落性が詰まっている。

2013年11月18日月曜日

今日の想い 663

御母様の命を受けられた金栄輝先生のアメリカ5都市巡回、その最後のワシントン地域での講話に参加してきた。金栄輝先生らしいという印象で、終始穏やかな様子で御話を進めておられた。再臨のメシヤであられる御父様の路程を初臨のイエス様の路程との対象比較で説明されながら、様々な問題で混乱しているであろうアメリカ食口に先ず御父様が再臨主であられることを明確に確認させて揺れる思いを正して下さった。アメリカはキリスト教国家であり、食口の殆どはクリスチャンの背景が思考感情意志の根底にあるので、その確認は大切だろう。その上で霊界の認識に疎い彼らに、清平の摂理の意義や大切さを解かり易く受け入れやすい言葉と内容で話され、清平に対する様々な疑心を払拭された。一時の感情の高揚を無理に高めるものでもなく、摂理の深く難しい内容を理解できない言葉で説明されるのでもなく、内的な基本姿勢がどうあるべきかに光を当てられて、個々の感想はそれぞれあるだろうけれどもアメリカ全体に取っては実に恩恵深いものがあると思った。或る面、御母様を迎えて一瞬盛り上がるより、御母様は知的な先生を送られることで、アメリカ全体としては質素ではあるけれども基本姿勢に今一度光を当てられて前進することができるようされたのではないだろうか。アメリカ食口は、韓国への距離的なものもあって清平詣でに二の足を踏む者も多く、霊界認識の少ない内的距離的なものから先祖解怨も祝福も少ない。クリスチャンの霊界の階層は他の宗教よりは高い位置にあるけれども、しかしクリスチャン意識に囚われ固執してしまうと、御父様が霊界に於いて全ての垣根を取り払われたにも拘らず家の壁を厚く強固にしてしまって、先の者が後になり、後の者が先になるという聖書の言葉を自らの在り様で証明してしまう。今回先生の言葉を良く受け入れて、先祖解放と祝福に意識を大きく持って欲しい。ひとつ苦言を言うなら、それは礼拝でいつも思うことなのだが、バンドがうるさい。うるさいだけのバンドは廃止すべきだ。聖霊、神霊を迎える為に音楽は大きな役割を果たすものであることはわかっているけれども、目立つ雛壇に立つことで主体に踊り出て、ビートを始終効かせてうるさいだけの音楽なら、御父様を迎える雰囲気、み言葉を受け入れる雰囲気を壊して台無しにしている。それがどうして解からないのか、霊的に鈍すぎるのか、あのバンドの無配慮な雑音の鞭を受けなければならないと思うだけで礼拝に行くのに大きな覚悟が必要になる。せめて雛壇を降りて片隅で演奏すべきだし、できるならビートを外して弦楽器を基本にすべきだ。

2013年11月17日日曜日

今日の想い 662 (20数としての人間存在)

「天地の度数を見ると、鉱物時代、それから植物時代、それから動物時代、それから人間時代、それから神様です。5数なのです。5数を中心としてこの4数です。四肢を通じた20数が私たち人間の20数です。男性、女性を合わせることによって40数です。40数を中心として定着するのです。」
鉱物は元素、植物は生命、動物は心魂、人間は自我(霊)の存在であり、人間は元素も生命も心魂も備わって更に自我(霊)の存在だ。本来、人間の四肢は霊的活動と直結しており即ち霊的四方(東西南北)と直結している。人間は立って歩く存在でありよって四肢は平面に固定されない立体的だが、動物は直立存在ではなく平面存在であって四肢は平面に固定されている。人間の心魂は霊に及ぶ活動となるが、動物の心魂は霊に及ぶのではなく生命活動としての本能的なものに留まっている。御父様が東西南北という話をされる場合、霊的な方位でありそれは心情によって開かれる方位だと言える。霊的方位、東西南北は四大心情圏のことであり心情世界の広がりが霊界の広がりを意味している。霊的活動と直結している人間の四肢は何が指示命令を与えるのか、どう働かせるのかによって人間がどの次元で生きるのかを決定している。5×4で20数ということは元素の次元で働かせる四肢があり、生命の次元で働かせる四肢があり、心魂の次元で働かせる四肢があり、霊の次元で働かせる四肢があり、そして神様の次元で働かせる四肢がある。「4×4は16と東西南北の4を足せば20です。20個なのです。手足を合わせれば20個です。」とあるが、人間が四大心情圏を自由に往来する四肢を持ち合わせているかというと、確かに父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛のそれぞれの概念は持ち合わせているけれども、その概念が普遍的な四大心情までには至っていない。よって16数存在ではあっても東西南北の4数が未だ欠けている。数理を言うならこの4数復帰であり、霊が神霊に及んで神様の四肢を取り戻す為の心情復帰に心血をそそいで来たのが私達の歩みだったとも言える。

2013年11月15日金曜日

今日の想い 661

いつの時代もカインとアベルに分けられて復帰摂理は進められてきた。復帰で分けられたカインアベルは善と悪だけれども、復帰という再創造が為されて進化への更なる創造が始まれば、善と悪ではなく、明と暗に分けられて創造が為されていく。堕落する以前の創造過程に於いて全てが善であったように、それは光が善、生じる影が悪とは言えないからだ。栄光を受け取る者には形のない未来を形にしていく開拓を引き受ける責任があるだろうし、栄光の陰に愛の減少感を受け取る者には過去の犠牲によって培われた地上の成果に保護される恩恵がある。カインはアベルを殺してしまい、アベルが引き受けるはずであった人類救済摂理を崩してしまったが、神様はカインを完全否定するのではなく、保護されることを約束された。私達には家庭の理想があり、国家の理想、世界の理想もあるけれども、理想を形にする為には、理想イメージという張りぼてを尽く否定され壊されながらも、それでも理想追求に心魂を捧げることで本当の理想になり本当の形になっていく。祝福家庭としてのイメージがあり祝福子女としてのイメージがあるけれども、そのイメージが天の理想そのものではなくて理想イメージに過ぎないと思うべきだ。だから壊されて当たり前で壊されてからが本当の理想追求の道だろう。祝福を受けて理想家庭だと思い込みながらも、夫婦間の葛藤、生活困窮や親兄弟とのわだかまり、子供が祝福を素直に受けない、等々あらゆる問題があって理想のイメージは壊されていく。それは私達下々の者だけではなく、勝利された真の家庭を見ても様々な理想のイメージは壊されていく。しかしそれはイメージだ。現実というイメージであって現実によって本当の理想が壊されるならそれこそサタンの思う壺だろう。理想を形にすべきだけれども、私達の理想イメージに過ぎない張りぼてを本当の理想だと追い求めても意味がない。私達が本当の理想だと思っていたものは、実は堕落の私が発想する理想イメージに過ぎないと言えるものが多々ある。だからと言って全てが偽りで、全て投げ出してしまえばいいというようなものでもない。御父様の理想を完全に理解して、それから形にしていくものではなく、現実に生きながら、そして現実の中から本当の理想を探し求めていく姿勢が、内的霊的なものを主体にし、さらに内的霊的な中心に御父様が立っておられると言える歩みだろう。現実から本当の理想を探し当て、本当の理想を形にしていく過程で、どれ程の叡智が私の中に投入されるだろうか。生きた神霊の叡智が私を通して働くだろうか。

2013年11月14日木曜日

今日の想い 660

ノアが生きた時代も終末だった。イエス様が地上に降臨された時代も終末だった。そして御父様が再臨のメシヤとして活動された今の時代も終末だ。現在形にしたけれども未だ終末時代かも知れないし終末を越えているかも知れない。しかし御父様が既に聖和されたのだから、あるいは勝利されたのだから、あるいは善悪交差点は過ぎたのだから、終末は越えたと言えるのではないだろうか。ノアの終末の時も、イエス様の終末の時も、終末を越えて地上がどうなり、社会がどうなり、私がどうなるかなどわかりはしなかっただろう。私達も地上天国が到来したらこうなるとかああなるとか、様々にイメージを膨らましていたけれども、結局はそんな想像は当たらず、どうなるかなど理解してはいなかった。クリスチャン達が言うように、主イエス様に捧げた者だけが救われて天上へと上がり、黙示録の天変地異によって他の者は滅びてしまう、などと言うことなど無いことはわかっていた。しかし具体的にどうなるかなど誰もわからない。終末を越えてどうなるかなどという心配は地上的な心配であって、地上的な心配に意識が捕らわれている限りますます霊的なものはわからなくなり、終末と言う霊的転換点を見ることはできないだろうし、迎えて越えることはできない。み言葉を受け入れた私達でありながらも、以外とこの世の者達と同じように、近い将来のことを心配し、生活の確保を第一に考えている。実体み言の御父様が生きて私に働いておられるとの実感を得るためには、地上の輪郭を持つ御父様から、霊的な、霊的感性で触れることのできる御父様を私の中に迎えなければならない。私達は信仰の形にとらわれている。これはしてはいけない、あれはしてはいけない、こうすべきだ、ああすべきだ、形にとらわれてその形に嵌らないことを不信仰といい、形に嵌っていれば信仰を保っているようで安堵する。形は形で大切だけれども、形に執着するとそれはもはや愛を第一にしているのではなく条件を第一にしている。子供が祝福を受けないといって悩むのは、愛する立場で悩むのか条件に引っかかることで悩むのか。形や条件が最も権威があり、形や条件で神様を納得させることができるのなら、自由こそが私達の敵だと言うことになる。誰もが一挙手一投足を完全主管される牢獄が天国だということになる。祝福家庭や祝福子女としての形や条件に引っかかり思い悩みながらも、しかしそれを愛で乗り越えようとするときに、私達は善悪交差点を越えて愛の勝利に向かう、私と言う基点で終末を越えて解放時代へと次元を上げていく私になれる。

2013年11月10日日曜日

今日の想い 659

絶対信仰が備わっていると断言できる食口はいるだろうか。御父母様に対して絶対服従を捧げていると断言できる食口はいるだろうか。絶対愛で私達に対して下さったように絶対愛で一人にでも対している食口はいるだろうか。そうなっていない自分を一方では認めながら、一方ではこの世に対する時に、信仰がある自分、御父様に捧げた自分、愛のある自分とみなし、この世の信仰のない人、自己中心的な人、愛のない人と括ってはいないだろうか。氏族に対するにしろ伝道にしろ、自分には何もない、信仰も愛もない自分だから、貴方が御父様を知って信仰も愛も立てて欲しいとお願いする謙虚さが見えない。実際私達は摂理を担い御父母様の願いに応えるべく歩んできた。歩んできたつもりだった。しかし現状の惨憺たる状態で何の誇るものがあるだろうか。失敗した私達、特に一世は誇って伝道できる何物もなく、失敗した私達に代わって摂理を担当してくれる人を探す、その為に伝道すべきだといってもいいかも知れない。個人の救いに汲々とするばかりで全体の救いの為に身を挺する者が余りにも少なく、結局個人の救いも自己中心的な救いの観念に没している。そうであれば、祝福も、教会員としての自覚も、全て一度返上すべきだろう。戴いた祝福に拘り、名ばかりの教会員で、一体全体に対する何の得があるのだろうか。御母様も特に二世に対して意識をもっておられる。一世が既に年老いているということもあるだろうけれども、失敗し続けた一世に更に摂理を託すのは難しいとの判断があるはずだ。勿論一世に対して何もするなとは言われないだろうけれども、期待はしておられない。本当の意味もわからずに戴いた祝福を、有り難く抱き抱えながら、しかし抱えたままで死んでいく。祝福は祝福としての芽を出し、成長し、花を咲かせて実を実らせてこそ祝福だろう。戴いた祝福を種のまま抱えたままで、それで天国に直行できるわけではない。真珠をもらった豚にすぎないなら、真珠の価値がわかる者に投げ出すことが豚にできる唯一のことだ。祝福を戴いたことの恐ろしさを遠からず悟ることになる。霊界に足を踏み入れれば自ずとそうなる。

2013年11月8日金曜日

今日の想い 658

突然だけれども、姉妹たちは恋したことがあるだろうか。狂おしいほどの恋慕に身を焼き焦がしたことがあるだろうか。恋することで、見るもの聞くもの触れるもの全てが、血沸き肉躍るほどの高揚感に酔うそんな感情を生きたことがあるだろうか。或いは叶わぬ想いに身を削り、些細な喜びも楽しみも平安も感じられないほど魂を丸ごと抜き取られ、埋まらない寂寥感を抱えたことがあるだろうか。私達にとって恋愛はもちろん御法度だ。「みんな手紙の一つでも出したことがあるだろう。御父様は気持ち悪いや。」と、耳を傾ける姉妹達を眺めながら仰ったことがあるけれども、それが恋愛感情そのものが悪いと言っておられるのか、慕う相手が間違っているだろうと言っておられるのか、どちらだろうか。私は後者だと思っていて、想いを寄せる相手が正しいなら身を焼き焦がすほどの感情を味わうべきだと思っている。想いを寄せる正しい相手とは姉妹達にとっては御父様だ。姉妹達は夫の天使長の位置での蕩減期間を経て、夫に向かう想いもあるけれども、基本御父様へ向かうべきだ。この道は姉妹達にとっては御父様をどこまでも慕う恋の道でもあり、兄弟達にとっては御父様にどこまでも忠誠を誓う極道の道でもある。一世にとっては特にそうだ。この世の人々に、人生の最も色溢れて高揚する場面はと聞いたなら、青春時代の恋が芽生え恋に生きる場面を思い浮かべるだろう。その、この世の感情の高揚を凌駕する、心情に通じるほどの生を食口達は生きるべきだろう。しかし全てを否定して御父様を通過しなければならない復帰されるべき私達とは異なり、子女様の歩みはそれとは異なる歩みであって、私達の基準で測れないものがある。もし忠孝烈の烈の魂、春香の哀切な愛と志躁が女性の中で燃えるなら、その女性が、忠誠を立てる自分、孝行を立てる自分をも説得して烈の魂に殉ずる自分を生きるとして、それはそれで真の愛に生きる意志を差出したとは言えないだろうか。

2013年11月7日木曜日

今日の想い 657

妻も私も同じ日本人だし、同じ広島県人だし、周りから見れば似た者夫婦なのかも知れない。見えない習性や習慣的な発想は同じ環境で生活しているわけだから同じだとは思う。しかし習性という表面を剥がし、心魂の深みへと向かうにつれて違いは大きくなり、お互いの間の内的霊的距離が増し遠くに霞んで見えるような存在感になることがある。妻にはいつも、外的に捉えることだけに専念し過ぎていると口を酸っぱくして言っているのだが、彼女は私の言わんとすることがわからない。外的なことを説明するのは簡単だけれども、内的霊的なことを外的な言葉で説明しようとすれば難しく、私のそのうまく表現できない歯がゆさが、彼女にとっては自分が責められ否定されているように思われるらしく、次第に表情は厳しくなり聞く耳持たずになってしまう。妻との距離を、み言葉理解の違いによるものなのか、信仰観の違いによるものなのか、内外の育った環境の違いによるものか、それともただ男と女の違いによるものなのか、おそらく全ての要因がお互いの間の溝を作り距離を隔てているのだろう。誤解されてはこまるが、夫婦円満だしお互いがいつも一緒にいたいと思っている。しかしそれと霊的な事柄とは別問題で、霊界に二人して赴いたとき二人で一つという霊の一致、霊の合一が為せるのかと問われると私は疑問がある。妻はこの世で一緒だという感覚もあの世で一緒だという感覚も同じものだと思っていて、そこに問いを投げかける私に不信感を持っているが、私にすれば彼女は事物を外的な事としてしか捉えていない。物も事物も現象も、環境も経験も記憶も、それを霊的に捉えることに意志を投入していない。霊的に見て聞いて捉えることを学ばなければ霊の認識は下りない。霊の認識が下りないのに一つの片割れである霊的な夫、今一つの片割れである霊的な自分、そしてそれが合わさる霊の合一という認識も捉えられない。夫婦仲良く睦まじく、それがそのまま霊界でも夫婦一体となると思っているが、この世にも仲良く一生を添い遂げる夫婦は山ほどいる。しかし霊界に赴くとそれぞれ別の霊界に住んでいる。それはお互いが一つになろうとするその中心点が、心魂の表面的なものに留まり、心魂の深みの奥の霊的なものを中心としてはいなかったことによる。一緒にいる理由が、優しいからとか、感性が同じだからとか、安らぐとか、そんなものは霊的なものとは言えない。絵に描いたような円満な夫婦より、喧嘩や口論が耐えない、相手の醜いものしか見えない、そんな出発点の状態から次第次第にお互いが不可欠な存在になれるとしたら、それは本物に近い、すなわち霊の一致に近いものがその夫婦にはあると私は見る。或る子女様の再婚の話が話題に上るが、絶望的な夫婦状態から夫婦一体まで、もし辿ることができたなら、戦っている祝福家庭にとってどれほど希望的存在になられただろうか。そう思うのが一般的信仰であり普通の感情かも知れないが、次のように言ったとするとどうだろうか。絶対性に反するような行動をされながら、しかし実の娘であられ、御父様の血統圏にあることをサタンも誰も否定はしない。御父様は勝利されてサタンを屈服され、それは絶対的勝利圏であり、であれば血統圏にある、即ち御父様と一体圏にある娘の行動を条件に取ってサタンが讒訴することは在り得ない。讒訴するとすれば勝利された御父様であり、しかし御父様は勝利圏で抱擁する以外ない。実の娘だからだ。もし許しの道が開かれるなら、私達のうちの祝福がこわれた者も、そして再婚者も、許しの道が開かれる。その意味は天上地上だけではなく地下の救いの摂理をも子女様をして担われたことになる。それは正道に外れた者達の希望的存在になられることになる。聖人と殺人鬼も祝福された御父様だという意味を深く問うて見るべきだ。御母様はこの件に関して何も口を開かれていないので、先走ることで混乱の種になると非難されるかも知れないが、罪のないものが攻撃の石をぶつけるのならまだしも、蕩減も払わない罪人が、一方的に戴いた祝福でありながら祝福の基準をどうこう言う資格もないのに石を投げつけている者達がいる。その現状を見て言いたいことは、もし叡智が解決するものとして道を開かれるなら、そこに矛盾はないはずだ。間違いを犯した多くの祝福家庭は、救いの道が閉ざされたままだ。しかし彼らの救いの摂理を子女様をして差し出された、と言う言葉が言えるようになるなら大きな恩恵ではないだろうか。戦いの多い祝福カップルは、乗り越えてくれる期待を天から受けている。それだけ天の信頼がある。しかし乗り越えられなかったとして裁かれるなら、真の愛を疑わなければならないだろう。

2013年11月6日水曜日

今日の想い 656

中国系オーナーのレストラン進出への攻勢は激しく、迎え撃つ側としてはいつも苦戦を強いられてきた。日本食ブーム、特にすしブームに乗っかって手を広げたのは中国系が大多数であり、彼らの出店攻勢、安値戦略に喰われて日本人オーナーである本家本元は息絶え絶えだ。今アメリカのすしは日本食と言えるのかどうか非常に疑問だ。衛生管理から始まってシャリにしろネタにしろ形にしろ、すしとは名ばかりのものをすしとして売っている。しかしそんな心配やこだわりは彼らには全くなく、メニューを丸々コピーして支店ですと言ってのけるほど図太い神経で押しまくる。彼らの強みは勿論その神経の図太さにあるけれども、外的なことを言うなら底知れぬ人材リソースにある。人海戦術はここアメリカのレストランビジネスでも投入され、だからいくらでも出店できるし経営するにあたって従業員の差し替えも自由自在だ。ビザ問題をクリアしているとはとても思えないけれども、移民局が常に監視している訳でもなし、問題があれば問題があったで彼らは金で解決すると割り切っている。そんな彼らを相手にどう戦えるのだろうか。人材も資金も投入されて100軒近くまで出店したにもかかわらず、ここまで縮小せざるを得なかった最も表面的な原因は中国系の進出だ。勿論内的原因も外的原因も我々にあるが、彼らを見て再度原因を我々の中から暴きだし、そうしてこそ新たな攻勢を仕掛けることができる。彼らの土俵に乗っからない為には、彼らが真似のできないサービスクオリティーやマネージメントを追求することであり、残っている店はそれなりの成果を見たから残っているとも言えるが、全体の現実を見るなら成果があったとはとても言えないだろう。中国系オーナーは共産主義が反面教師的に働いて、自由への強い憧れ、夢の実現への強い衝動があって意欲的だが、逆に共産主義に反論を唱えてきた我々だけれども、不思議と兄弟達は、責任の伴う自由を敢えて避け、それなりに家庭を養えればそれでよし、心労を買ってまでして外的な夢を持とうとは思っていない。去勢された牛の如く目の輝きが失せていて、共産主義下での人間のように言われたことだけやるに留まる。富も名誉もあれば堕落しやすいという後ろ向き信仰が根強いのか、消えそうな生命力のままで地を這っている。そんな心魂状態でみ旨に燃えるだろうか。御父様を証しできるだろうか。食口達は素直で人がいい、それは見上げる尊敬の念の言葉ではなく、褒めるところがないから人はそう言うのであり、本人はそう思って満足しているだけのことだろう。素直で人が良いだけでは人も歴史も動かせない。私達の中に燃え上がるものを見ることができなければ、復帰の心情を抱いた神様は私達の中にはおられないということだ。どんどん進出してきた中国系オーナーはその内面に明らかに燃え上がるものを持っていて、それは神霊に通じるものとは異なる別の霊的存在がかかわってはいる。バアルの火であっても火は火であって燃え上がる。

2013年11月4日月曜日

今日の想い 655

レストランビジネスに長い間関わって言えることは、私達のビジネスコンセプトの中に人材のリソース、それは人材教育も含めてのことだけれども、どこからどう人材を集めるかの戦略がない。店に人材募集の張り紙を張って、月に一人たずねて来るか来ないかを当てにして、どうして店の成長、発展が望めるだろうか。他でもないレストランというサービスビジネスは人の力に拠るところが最も大きいビジネスだ。民族も習慣も考え方も人により違うこのアメリカで、張り紙一枚でその店に適う良き人材が確保できるなど思うべきではない。殆どは使いものにならなかったり、店にとってマイナスな存在であったりする。雇ってはみたものの、いざ働くとなるとうまくいかない。それでマネージャーが店にとって益にはならないと判断しても、辞めさせるにも相当の配慮が必要になってくる。店がうまくいかない原因は様々だが、マネージャーを始め人材の問題が最も大きなネックになっていることは経営者誰もが認めるところだろう。立地よりも業態業種よりも何よりも、人材リソース、人材教育の戦略が立たなかったら、どんなに立派なレストラン構想を描いたとしても絵に描いた餅だ。30年近くレストラン業に携わっていながら、いつもそこには触れず、こんな店がいい、あんな店がいいと、目に見えるレストランの形だけを漁っているが、結局は金をすって終りとなるのは目に見えていた。何とも浅い、ただの思いつきを、宝でも掘り起こしたかのように上部に進言する気が知れない。進言する方も進言する方だが、頷いて受けた方も受けた方だ。形ありきで追い続けた惨憺たる結果を今まで見てきながら、それでも自覚できない我々の組織の無関心、無感情、無責任さの三無状態をどこまで見続ければいいのだろうか。公金、あるいは公的と言う概念の捉え方から間違っている。私的なお金に対する公金であり、私的に対する公的だ。私的なものへの関心、感情、責任意識がない者に、公的なものへの関心、感情、責任意識など育つはずがない。私の所有に対する重さが解からなくてどうして公的な所有に対する重さが理解できるだろうか。摂理だみ旨だと御題目を唱えながら、投げ入れてきた、そして垂れ流しにしてきた人材とお金の重さがどれ程のものか、そしてその恐ろしさを少しでも理解できる者であれば、言葉は慎重にならざるを得ない。未だに大風呂敷を広げる食口がおり、未だに何の躊躇もなくそれに乗っかる食口がいて、開いた口が塞がらない。

この秋に想う 

長雨で数日間風雨に晒され、木々には枯葉が目立って、今年のこの辺りの秋は紅葉になり切らずに終わるのだろうか、と思っていた。しかしその後晴天が続き、日中の間の残暑と夜中から明け方にかけての冷え込みが葉の色付きに拍車をかけたようで、昨夜の強い風で枝にしがみ付いていた枯葉が飛ばされ、明けた今朝の景色は実に鮮やかそのものだった。青い空を背景に様々な色合いの赤や黄色、茶や緑色が、陽の光を受けて輝いている。DCを囲い込んで循環しているハイウェイを走り、高い位置に差し掛かる度に、柔らかな起伏が広がる一面の紅葉絨毯が見下ろせる。前を見て運転に集中すべきなのが口惜しい限りだ。この色合い溢れる光が自然の実りだ。冬を越えて春夏秋と育んできた地上の実りだ。人間にとっての収穫祭は食物にのみ関わっているのかも知れないが、霊的存在達にとっての収穫祭は地上の光の収穫祭であり、地上の愛の収穫祭だ。御父様の聖和から一周年、地上の被造物達は嘆き悲しむ喪の期間を既に越えて、冬に思考しながら霊的な御父様を認識し、その霊的御父様に焦点を合わせて春を迎え夏に育み、そうして実りの秋に光であり真の愛の御父様への精一杯の美の御返しを捧げている。その点では被造物の方が人間よりも余程摂理的に前進している。立ち遅れている私達は被造物達ほども霊的な御父様を認識してはいない。一周年を越えるのに、地上の御父様という輪郭に未だに拘ったまま、内的霊的な見出し方、迎え方、接し方がわかっていない。御父様の勝利圏は御題目ではなく現実だ。しかしその意味もわからず勝利圏の相続をわかったように口にするけれども、それならただの御題目だ。概念もイメージも伴わない御題目だ。内的霊的な現実を見通せる私達でこそ、摂理を本質的に担うことができるのであって、或る一宗教の教主が亡くなったのと同じような認識だけを聖和に見るなら、私達は永遠に宗教の次元を越えることはできない。宗教の次元を越えることができなければ霊的御父様を見出し、霊的御父様が私に働いておられる実感などない。秋の青い空に輝きを放つ紅葉のように、私は御父様の真の愛を受けて色付き輝く存在になっているだろうか。それとも昨夜の強風に煽られて、散って地の塵と変わり果てた、蹲る枯葉の一枚にすぎないのだろうか。

2013年11月2日土曜日

今日の想い 654

10月から年末までゴッホ展をやっているというので、妻と二人でフィリップコレクションという美術館へ見に行ってきた。地下鉄で行くと、乗り換えなく30分で美術館近くのデュポンサークル駅につく。この駅の長い長いエスカレーターを昇って地上に出て、携帯で位置を確認して2ブロックほど歩く。右手に趣のある赤レンガ色の建物が現れ、これに違いないと建物に沿って右奥に移動すると入り口に辿り着いた。着いたのが11時手前だったが、次の観覧が11時だと言われて待ち時間も無く、そのまま三階の展示場に向かった。ゴッホはここアメリカでも人気らしい。品の良さそうな年を召したカップルが多かったが、平日の朝にも関わらずスーツ姿の若い人達も結構いた。いろんな美術館から集められたゴッホの絵は30点あまりだったが、やはりその中でも目を引いたのは最初の展示室に展示されていた「道路を直す人」だ。題名はそうだが、並木として配されている大きな数本の木が主役のようで、遠近に並べた大振りの木が向かって来るようで目を惹きつける。太い輪郭で踊るような幹振り、というのか枝振りと言えばいいのか、が強調されて、描写のタッチが今にも動きそうな生命力溢れる木を描き出している。美術には疎い私でも、ゴッホが、目に映らず魂に映るものを描きたいという強い彼の衝動をしてキャンパスに向かわせたのがわかる。美術家達がゴッホの絵をどう捉えているのかは知らないが、色彩は黄色系と青色系を主に使っており、描写は点描でも線描でもないその中間を用いて、魂に映る生き生きとした何かを描き出そうとしている。ゴッホの絵の中には、同じ構図、同じ景色で描いているが色彩やタッチが異なる複数の絵を作成しているものが数多くあるが、描こうとしているのが生命なのか、魂なのか、或いは更に深みの霊なのかを問いながら描いているので、同じ構図、同じ景色で何度も描くことに飽きることは無い。「道路を直す人」は壁を違えて2点並べて展示されていたが、一方は黄色系に強く傾き、もう一方は青色系を含めて描かれている。そしてどちらも、自然のものは点描でも線描でもない動きのある独特の描写で、人工的なものは素直で滑らかな描写で描かれている。ゴッホの絵を見た後で見る木々や自然の中に、目に映る色彩とは別の色を見ようとし、自然の静止に動きを見ようとする自分がいる。ゴッホの絵には夜の空を描いたものも多くあるが、闇夜でさえ動きのある生き生きとしたものとして描いている。それを見れば闇夜の中にも動く生き生きとしたものを見ようとする。唯物的な感性に支配され続けた現代人に、魂への気付き、霊への気付きを与えるという意味で、ゴッホは一人の画家としてみ旨への大きな役割を果たしたと思っている。奇怪な事件や、不審点もあるが銃による自殺や、他の才能ある者達と同じように彼もまた極めて悲運な生涯を送っている。それもまた犠牲であり、供犠であり、その当時、未だ悪霊の跋扈する心魂界や霊界への感性を持ったが故の、免れ得ない犠牲の結末となってしまった。


2013年11月1日金曜日

今日の想い 653(勝利の公式)

世の中を収拾するためには霊界を収拾しなければならない。霊界と押し問答しながらこの方法しかないと説得できて初めて、地上界の世の中を収拾することができる。ビジネスに関わっていると、いろんな意見が口から出まかせに投げ掛けられる。儲け話のこんな話、あんな話、一瞥してこれはいける、あれはいける、ありとあらゆる方法、ありとあらゆる商売形態を霊界でハンコを押されることなしに手を付けようとする。この世の者達はまだお金の価値や意味を肌身に感じているので、話に乗ること位は考えても見ないでもないが、こと兄弟食口が持ち込む話ははなから胡散臭さが鼻について、明らかに銭失いの将来がありありと見えて落胆させられるだけだ。彼らの口説き文句は、店を増やすことが御父様の願いで、何もしなかったらみ旨ではないと言うことらしいし、たとえ失敗するとしてもやらないよりやったほうがいいと言うことらしい。霊界のことがまるでわかっていない。霊界のことを知らない世の中の人は霊界が公認する覚悟を差出すことで我知らず霊界を説得しているし、それ故に地上で収拾することができる。すなわち地上の実体化をものにできる。食口は霊界のことを知ってはいるが、多くは霊界のことがまるでわかっていない。知識として霊界を知ってはいるが、どう働くのかの認識がまるでない。「世の中を収拾するためには霊界を収拾しなければならない。」と言う言葉は誰でもない御父様のみ言葉だ。御父様が地上で勝利される前に43日間の霊界での戦いがあった。血統転換、所有権転換、心情転換を、聖賢聖者、四大聖人、はては神様まで加わって総反対、総いじめの洗礼を浴びせたのであり、それでも納得させ押し通して引かなかったから最終的に神様は屈服し全霊界が屈服した。御父様は霊界を収拾されたから地上での勝利をもたらされたのであり、そうであるなら私達が地上での一つの勝利圏を立てるにもそれ相応の霊界を収拾しなければ結果はあり得ない。これから為そうとしている案件に対してどれだけ霊界と押し問答したか、霊界を納得させたか、言い換えればこの方法で確実に勝利できるという確信を得たか、生命を差出すほどの覚悟があるのか、を問わなければならない。はっきり言って、食口は先ず地獄を見るべきだ。地獄から這いあがった者だけが勝利の公式を伝授できる。

2013年10月31日木曜日

今日の想い 652

アブラハムは神の命令に従い、最愛の息子イサクを捧げることを決意した。しかし祭壇に横たわるイサクにいざ剣を振り下ろそうとしたその時、神の声が下ってきてイサクの献祭は留められた。もしここで神がイサク献祭を止めずに、そのまま遂行されていたら歴史はどうなっていただろうか。IFはどこまでもIFでしかないが、IFを問うことで対比する選択された現実の意味が見えてくる。現実という実りを最大限に用いる為にもIFを問うことは大切だ。献祭とは犠牲の供えを仲介として天に繋がることだ。犠牲は天の主管内にあり天がその犠牲と共にある。私達は犠牲として精誠を捧げるのであり、精誠は天が主管し天がその精誠と共にあるが、精誠が生命の犠牲となると天は地上に手を出す条件になる。イサク献祭がもしなされたなら、犠牲であるイサクは天の主管内にあり天がイサクと共にある。イサクはアブラハムの最愛の息子であってイサクとアブラハムは一体であり、そのイサクが天と共にあるなら勿論アブラハムもイサクをして天と共にある。遂行されたとして、イサク献祭以降のアブラハムの摂理は天が直接的に主管したはずだ。要するに手を下したはずだ。実際はイサク献祭はなかったから天の主管ではなくアブラハムやその後孫の主管下に置かれた。要するに彼らの自由に委ねた。彼らの自由に委ねれば、天は手を下さずただ見守るだけだ。犠牲と蕩減、犠牲と責任分担との関係を見ると、犠牲を供えることで蕩減は減少法により少なくなるし、犠牲を供えることで責任分担は復帰に関する限り推し進められる。そういった犠牲の恩恵にどれだけ与ることができるかは、犠牲となった存在とどれだけ一つになっているかによる。清平の摂理は興進様の犠牲によって開かれた恩恵だが、興進様の犠牲の意味を知り、興進様の心情を受け取る者でなければその恩恵に与ることはできない。恩恵は先祖解怨と先祖祝福だが、それによって奇跡的な蕩減の減少、遅々として進まない責任分担の奇跡的な推進がなされた。それでは御父様の犠牲、特に聖和に関する犠牲を私達はどう捉えるべきだろうか。その恩恵をどこに見出すべきだろうか。妻は、御父様が地上を去られて何か気が抜けたようだと口にするが、本来は気が抜けるどころの騒ぎではない、それこそ天地がひっくり返ったということだ。私達の多くは魂の所在を失い、心魂は彷徨っている。地上的な御父様と共にあった私達の心魂は、実体み言という霊的な御父様を探して掴まなければ心魂は彷徨ったままだ。しかし霊的な御父様を探す前に、先ず霊的という正しい認識を持たなければ探しようもない。霊的なことへの正しい認識に欠け、み言葉を受け入れた食口であってもその認識がまちまちなので自ずと混乱を来たす。完成時代から第四次アダム心情圏時代に越えて生き残り(霊的な意味で、、)、さらに発展できるかどうかは実体み言であられる霊的な御父様を探し当て、迎え入れることができるかどうかによる。御父様の聖和への犠牲とそれによる恩恵、しかしその恩恵は実に重い恩恵であり、この世的気分の高揚を見るようなものではないし、それは神霊的な高揚でもないと思う。実は私達は恩恵を受ける立場というより、御父様の恩恵を与える立場にあると思っている。今この世にとっては私達はどうでもいい存在なのだろうが、この世が私達を必要とする時代は確実に来る。今私達の魂は御父様を失って彷徨っているけれども、これからは世の人々の全ての心魂が彷徨い始める。霊界が地上に押し寄せると、今まで思いもしなかった心魂状態を自覚し、心魂の安着と安寧をひたすら求めるようになる。

2013年10月29日火曜日

今日の想い 651

DCの近辺からなら、一時間もあればシェナンドア国立公園に着く。秋の紅葉で色づく山々を見渡したいなら、公園内にある山の尾根伝いを走るSKYLINE DRIVEという公園道路からの眺めが要望に応えてくれる。今日しかないと思い、妻と娘を連れ立って朝早く向かった。国立公園といっても20万エーカーの広さしかないから、アメリカでは最も小さい国立公園の一つだが、そうは言っても北の出発点から南の終着点まで走破すれば3時間にも渡り、往復するだけでも一日がかりだ。入り口のロイヤルフロントの小さな町に着くと、入り口のドライブスルーの料金所で入園料を払い、先ずは尾根に向けて300メートルの高低差を上っていく。一番高いところで標高1000メートル位だからなだらかな山が続いていて、山脈と名付けていいものかどうか、それでも一応アパラチア山脈だ。20分程度ドライブすると最初のビジターセンターまで行き、トイレで用を済まして折り返しただけだが、道すがら展望エリアがあちこちにあって、町を見下ろしたり山々を眺めたりするには十分だ。夏には何度も行ってロッジに泊まったことも一度あったが、秋に訪れるのは今回が初めてだ。この辺りは紅葉といっても黄色系が殆どで、目の覚めるような赤色は少なく、日本の紅葉と同じものを期待すると少し落胆するかも知れない。でも黄色系ならではの良さもあって、赤色に刺激を受ける驚きの色合いにはないものがあり、私は好きだ。落ち着いていて大人しい黄色に見入ろうとすれば、自ずと能動的態度を要求されるのであり、黄色を内面に満たすことで霊的な深みに入ることが出来る。それは赤色のように、受け取ることで直ぐに感情に昇るものではないが、受け取った黄色をよくよく消化することで見えてくるものがある。それは受け取るその場のことではなく、帰り道であったり、或いは数日経って見えてくる場合もある。色付いた秋の黄色を内面に暖めると、黄金色に輝いてくる。表面的な輝きは見えないにしても、霊的に見れば金色に輝いていて、秋の地上的な実りの種子に対して霊的な実りはこの金色の輝きだ。秋には霊達が地上に降りてきて金色の輝きを収穫する。霊的感性を持たない人間は残った枯葉に憂いを覚えるだけかも知れないが、実質は金色の輝きと共に霊達に収穫されて、次元を上げた新たな生命を生きるようになる。私達はみ言葉を通して為に生きる私であり、犠牲を供える私だということを知っているけれども、犠牲が憂いではなく喜びだという感覚はない。しかし犠牲は本来喜びだと認識するのが霊的に生きていることの証しだろう。人間として内面に燃えるものは、青年期の情熱的な赤色から壮年期を越えると黄色に代わる。金色の輝きを収穫する霊達との交わりが壮年期を過ぎる者達には訪れる。秋の本質、霊的な収穫の意味が理解できるようになる。私は私なりに収穫多く大満足だったが、妻と娘には何か物足りなかったようで、少し遠回りしてアウトレットモールに寄り道して埋め合わせ、陽の高いうちに帰ってきた。


2013年10月28日月曜日

今日の想い 650

統一食口にとって、この地上を主管できる最も大きな鍵を見つけようとするなら、御父様が愛された海をどれだけ活用できるかによるだろう。海への認識を深め、無尽蔵の食糧、無尽蔵のエネルギーが眠る海を目覚めさせて活用できるなら、私達の力は世界を席巻できるはずだ。その一環として水産事業を事業体の核として置かれた訳だが、実情は何とも情けなく申し訳ないとしか言いようが無い。アメリカの水産事業は未だ共産主義者達に奪われたままだが、しかしそれも水産流通事業に限られたままであって、そうであればこの世の事業と比べてさして変わり映えは無く、御父様が見通された海への可能性を十分見据えて投入してきたとはとても言えない。もちろんそう言う自分も店のオヤジでしかなく、御父様が、お前達は食堂のオヤジのままでいいのかと問いかけられたことがあったが、願いに応えられない私は霊界で御父様に面したとき顔を上げることすらできないだろう。店の売上アップに汲々とし、コスト管理、人事把握、従業員教育に追いまくられる毎日で、店のどこに御父様の海への想い、水産への願いが込められているのだろう。み旨なのか生活なのかと問われたとき、はっきりとみ旨ですと胸を張ることできる私はいない。指を折って数えるだけになってしまった店の責任者達が、顔を突き合わせて生き残る為だけの話題しか上らない状況を御父様が御覧になって、何を思われるだろうか。御父様の想いを相続して、海を愛し、水産事業を育て、これぞ海洋摂理と言えるだけの内容を世界に提示する私達にならなければならない。それでこそカインの正道として天が認めるのであり、カインにもなり切れない腐れ者のままで余生の生活を心配するなら、祝福家庭の名を辱めるだけだろう。御父様が愛された海にこそ私達が気付くべきものがあるはずだ。必ずあるはずだ。私と御父様が切っても切れない関係にあるように、私と海、私と魚も切っても切れない関係にあることを認識すべきだ。私は祝福家庭であり統一家であるように、私は海族であり魚族だ。海族の頂点、魚族の頂点に立ってこそ海の主管権、魚の主管権を相続したと言える。御父様の海への想いを私達統一食口で成就する。

2013年10月27日日曜日

今日の想い 649

御父様の生殖器への想い(敢えて想いとする)は特別なものがある。「宇宙の根本」のみ言葉を訓読すれば、生殖器という言葉のオンパレードが際限なく続く。私達の生殖器へのイメージは、それが聖なる器官というよりは、私が強い関心があることも悟られたくないほど、卑俗な対象、あるいは恥ずかしい対象としてのイメージから離れることができないでいる。神様が最も力を投入されて創造された器官であり、生命の本宮、愛の本宮、血統の本宮だとまで言われるにも拘わらず、それでもまだ卑俗なイメージを払拭できない。堕落によって最も尊いものが最も卑しいものとなった訳だが、私達が御父様と同じ生殖器に対する想いを相続する為にはどうしたらいいのだろうか。人間誰しも程度の差はあれ性への渇望がある。それを本能と捉えるのが一般的だが、睡眠欲や食欲といった本能とは一線を画しているのは明らかで、それは性欲を充足しなくても生命に影響がないことから理解できる。固体生命への影響はないが血族生命への影響は確かにあって、性欲は血統というものを無視できない、固体意識下にある無意識領域の欲求と繋がっていると言える。固体生命に表出する性欲は、生命体としての本能ではなく、血族生命としての存在への堕落的渇望だ。よって性を主管できる者は血族生命の血族意識を孤我意識を超えて持つのであり、血統を主管できる者だ。血統を恰も自分の体だと認識できる意識を持っている。では血統の流れを考えた時に、私が多くの子女を得て複数の流れを造ることと、私が複数の女性を相手に血統に枝分かれさせて流れを増やすこととの違いは何だろうか。イスラエル民族とアラブ民族の終りなき対立を見れば、一夫一婦の子孫による血統の枝分かれで繁殖する場合と、一夫多妻による血統の枝分かれで繁殖する場合の違いがわかる。子が出来ないアブラハムの妻サラ自身がお膳立てしてアブラハムにハガルを宛がったが、それでも今の今まで対立が続いていることを考えれば、一つの凸に一つの凹というのは心情的観点からも神様が天の父母様であり天の父と母達とはならないことからも理解できる。夫婦一対の霊で一体となって神の似姿であり、それで一つの霊的存在として神様の前に立てる。私達は永遠なる祝福カップルとして絶対性への拘りは思考と感情を越えて死守すべきだ。子供に恵まれない、子供が祝福を受けない、相対者と死別した、等という理由から別の相対を、、と考える思考、より美しい女性、魅力的な性に向かう感情、その思考、その感情こそ犠牲として捧げながら祝福の血統を自分の存在以上に重要視する。そうであれば私の血統に絶対性が備わった生殖器を持つことができるのであり、聖なる器官、聖なる生殖器として侍ることができるのであり、堕落的な卑属な対象、恥ずかしい器官というイメージは将来的に血統から払拭されるはずだ。私の絶対性への拘りと強い想いが、聖なる生殖器として侍ることができる、皇族圏としての祝福血統を再創造している。

2013年10月25日金曜日

大聖堂にて

妻の運動と気分転換を兼ねて、大聖堂まで足を延ばしてみた。店があるルート355からウィスコンシンアベニューに繋がる直線道路を、DC方面に南下して30分も走ると、修復している大聖堂の先端部分が見えてくる。実は30年もこの地域におりながら、素通りするばかりで一度も訪れたことは無かった。アカデミーの建物を過ぎるとパーキングのサインがあり、反対車線から車のこないのを確認してハンドルを左に切る。車はそのまま大聖堂の地下駐車場に導入される。空きスペースに停めてエレベーターで地上に出ると、アップした一番上の画像景色が直ぐ目に入ってくる。秋晴れのいい天気だったが風は結構強く、聖堂を見上げる顔に吹き付けてきた。正面横の入り口から入り、訊ねられるままにドーネーションを気持ち差し出すと、聖堂内ネーブに足を踏み入れる。幾重にも並べられた信者席に圧倒される間もなく全体を見渡してしまうほど、左右から、そして遥か見上げる上方から、柔らかな色とりどりの光が差し込み広い空間の中を満たしていて、その情景に釘付けになる。両サイドに立ち並ぶ太い柱に隔てられて回廊がのび、回廊の壁に並ぶ大きなステンドグラスから色とりどりの光は導入されている。回廊上方の壁にもステンドグラスが並んで配されいて、そこから差し込む光は高く張られたネットに憩うように投影されている。妻は貰ったパンフレットに一生懸命挑んでいたけれども、私はというと何の情報も入れずに、ひたすら内的に受け取る印象だけを満たすことで発見できるものはないかと試みた。教会建築は荘厳という表現が当て嵌まるのだろうが、ひとつの発見として荘厳とは空間表現を述べた言葉だと思った。聖堂外見の威厳もさることながら、聖堂内の空間表現こそが神界の神霊的なものを視覚化している。その荘厳な空間内に、この小さな身を空間の底の一点に置いてみると、神霊的なものへの畏怖の感情が心魂の表面に浮かんでくる。天国で御父様の前に膝まづくなら、この畏怖の感情は最大限に増幅されて、その場にいるのが居たたまれなくて、我が身の恥かしさを痛いほどに覚えるのだろう。聖堂の中に居留まることは耐えられるとしても、御父様の前で私は畏怖の火で焼き尽くされるのではないだろうか。地上界で、大気の底で蠢(うごめ)いているだけの私は、どうすれば人々が畏怖の感情と共に見上げることができる、そんな御父母様の証し人になれるだろうか。


2013年10月24日木曜日

今日の想い 648

シュタイナーの面白いところは、宇宙生成の論理的理解の得られるものとして、土星紀宇宙、太陽紀宇宙、月紀宇宙、地球紀宇宙の四段階があったことを霊視している。そしてそれぞれの段階から次の段階に向かうのに宇宙の夜を経て以前の段階を繰り返しながら発展させている。太陽紀に入ると太陽紀の次元で過去の土星紀を繰り返して太陽紀の宇宙生成が為され、月紀に入ると月紀の次元で過去の土星紀、太陽紀を繰り返して月紀の宇宙生成が為される。地球紀に入るとやはり土星紀、太陽紀、月紀を地球紀の次元で繰り返し、その上で地球紀の宇宙生成が為されている。地球紀は4数の宇宙、すなわち完成数だ。創造原理の面白いところは、成長の段階として蘇生期、長成期、完成期を経て直接主管圏に入るのであり、成長の3数を経て4数存在になる。復帰摂理は再創造であるからやはり旧約、新約、成約時代の3数を経て完成して解放時代の4数になる。統一教会の面白いところは、原理解説があり、原理講論があり、原理本体論があり、原理原相論がある4数を持っている。統一教会の結論は、第一次アダム時代(旧約)、第二次アダム時代(新約)、第三次アダム時代(成約)を経て第四次アダム心情圏時代に入り安着して整理が終わるというものだ。私達は個人復帰完成、家庭復帰完成、氏族復帰完成時代を経て民族時代、国家時代へと、真の父母を中心として最初の三つの段階を、第四次アダム心情圏を中心として四つ目の段階、五つ目の段階へと越えていく。そうなると直接主管圏とは第四次アダム心情圏に立った私(まだ立っていない)を言うのかも知れないし、三段階の3×3の9数から10数へと次元を超えるのであり、民族時代、国家時代はそれ以前の三時代からは次元を上げたステージに立っている。シュタイナーの4数と4段階の論理は宇宙生成の発展過程に見るわけだが、同じように当て嵌まるなら、2数は1数を、3数は1,2数を、4数では1、2、3数をそれぞれ新たな次元で繰り返す。よって長成期に入れば蘇生期を新たな段階で繰り返し、完成期に入れば蘇生期、長成期を更に新たな段階で繰り返す。そして直接主管圏は段階から次元へと越えて新しい次元で蘇生、長成、完成を見るのだろうか。霊的に無知な私は、自分がどの段階にあって霊人体がどんな様相をしているのか一向にわからないが、いつ絶えるか知れない命なら論理的理解を得たいと思うよりも、ひたすら与え尽くすこと、投入し続けることに意志を搾り出してでも向かわなければならない。宇宙生成、人類歴史という過去の事実を思考反芻すれば数理的な理解が得られるのであって、未来への数理を理解して歩むような、そんな予知能力を立てて歩むことができるならば責任分担という概念は成り立たなくなる。他人事ではない自分が論理思考の罠にかかろうとしている。

2013年10月21日月曜日

今日の想い 647(内界で出会う)

外界への関心が強すぎて原因的な私の内界に目をやることが疎かになっている。御父様に出会いみ言葉を理解しみ旨に参画しているつもりだろうが、外界で御父様に出会うことと内界で御父様を見出すこととは異なる。み言葉を理解することとみ言葉を内界で打ち立てることとは異なる。み旨に参画することと内界で神様の家が建立されることとは異なる。自分の内界のことは見ぬ振りをして、教会がどうの責任者がどうのと口うるさく批判すればするほど、内界はウジ虫が湧いて腐っていく。悪霊が私の内的霊的世界を蝕んでいく。食べくさして掃除しなければウジが湧くように、内面を無視しているうちにいつの間にか修正できないほど霊人体が輪郭を崩し歪んでいく。外界の汚さ醜さは目に余るものがあると、ひたすら批難の言葉を連ねているが、実は批難の言葉は自分の内界に対しても向けられている事実に気付いていない。連ねる言葉は使命感を伴った義憤なのかも知れない。批難すべき事柄もあってそれに目をつぶれ口もつぐめとは言わない。大いにしたらいい。しかし同じ言葉と同じ感情を自分にも向けているという、自分の内界に対して向けている事実を忘れてはならない。自分の吐いた言葉で自分が裁かれる。内界で御父様を見出しているのか、み言葉が内界で打ち立てられているのか、内界で神様の家が建てられているのか、それが為されなければ自分の吐いた言葉で自分が裁かれる。或る面ひとつの霊的段階を越えて、批難する目を持ち口を持てるほどにステージを上げた位置に立っているとも言えるが、外界に向けた同じ言葉が内界に響いて地震となり、それに耐えうるほどの堅固な内界に発展させていく必要性がある。そうなると批判や批難という態度ではなく、進言という態度を備えたもの言いでなければ、外界に向けた言葉が自己創造ではなく自己破壊的なものになっていく。

2013年10月19日土曜日

今日の想い 646

人間は本来、神と同じように創造する存在として造られたはずだ。既に備えられた過去の創造の恩恵に与るだけではなく、未来の創造を委ねられ未来を創造する存在だ。人間が過去の創造の恩恵に浴し、そこに留まるだけなら、未来の創造は誰に委ねるのだろうか。私はあくまで創造は内的原因的な創造のことをさすのであり、外的創造は内的原因的創造の結果だと見る。今の現実という結果は過去の内的創造を原因とする結果であって、未来の現実を変えようとするなら先ず内的創造に目を向ける必要がある。現実に対して外的には従わざるを得ないけれども、内的に翻弄される自分となるべきではない。何を持って内的創造をしていくか。それはみ言葉以外ない。み言葉をして私は創造をしているという実感を持てることが、み言葉を生命のみ言葉として受肉している証しだ。現実と言う結果世界だけに向かう虚ろな知情意だけでは、霊的に生きて新たな創造を為しているとは言えない。み言葉は現実世界に対処する処方箋ではなく、霊的に生きる者が新たな創造を為していく宇宙原則だ。天宙原理だ。地上での創造、というと創造性と表現されるように新しい発想を言うのであって、それは多分に思考創造に限られるのであり、感情を越えた心情創造であるとか、自己中心的意志の発動を越えたみ旨への意志創造であるとか、とはならない。地上天国を平和理想主義者が言うような、武器を持たず戦争せず、皆が平等で誰もが全ての地上的恩恵に与る世界だという同じようなイメージを持つとするなら、それは大きな誤解を抱えている。それは堕落人間が思っている地上天国であって、神様の願うそれとは異なる。極端なことを言うなら、たとえ戦争が起ころうが人間の階級的な世界になろうが、そこに神様の生きた心情が人々に流れ、み旨への意志に貫かれた人々になるなら、それは神様を無視して実の無い平和や平等が蔓延する今の世界に比べれば地上天国に遥かに近い。教会の責任者の華美な生活や、献金の使い方への疑惑を取り上げて非難轟々だけれども、共産党でも無かろうにどれだけ白昼夢的ユートピア主義にかぶれてしまっているのか、未だに本質を受け取れない、感情でものを言う食口がいることに幻滅する。発想自体も陳腐だけれども、外的に苦労し清貧に甘んじるのが食口の王道で、それでこそ真の愛がそこにあり神様の心情が流れていると思い込んでいる。心情を復帰するとあるが、復帰は再創造であり、再創造はみ言葉をして建て直すことだろう。堕落人間に備わっている感情は否定されてこそ心情の建て直しが始まる。この世の倫理観、道徳観が御父様を迫害し、御父様の路程を阻んできた事実をはっきりと認識すべきだ。私達に取ってこの世の倫理観、道徳観は時として牙を剥く怨讐だ。

2013年10月18日金曜日

今日の想い 645

私と妻は似た者同士で、御父様に挨拶したとき兄妹のようだと口にされたほどだが、それでもそれなりに戦いはある。み言葉によれば男と女自体が怨讐関係ということだから戦いはあって当然だろう。御父様によってマッチングされ祝福を受けたのだから、どんな食口であっても壊したいとは思っていない。しかし祝福を受けても夫婦間の関係は多種多様で、自分達夫婦を基準に他の夫婦関係を量ることはできないし、自分達夫婦がうまくいっているからと言って他の夫婦をどうこう言うこともできない。折り合いがうまくいかない夫婦だってたくさんいるし、中には壊れてしまう夫婦だってある。夫婦の関係をキープしているからと言って、壊れた夫婦がそれなりに努力してきた愛の投入以上の投入をしてきたとは言えない。同じ祝福を受けたけれども、同じ夫婦の関係にはならない。祝福は壊すべきではないと御父様は言われたはずだが、しかし壊れてしまった夫婦に対して責められる言葉を耳にしたことは無い。普通の親でさえも、仲の悪い息子や娘夫婦に対して別れるべきではないと強く言っても、一端別れてしまったものに対しては責めたいとは思わないだろう。祝福は壊すべきではないと言うのは、食口であれば百も承知だ。子女様であっても勿論同じだ。しかし別れた夫婦には、祝福を受けたにも拘わらず別れざるを得なかった現実がある。それを責めることができるのは唯一、祝福を与えた御父母様だけだ。しかし御父母様は責めることはされない。真の親だからだ。御父母様が責めないのに、そして許そうとされるのに、私が責めることができるだろうか。どうこう言うことができるだろうか。言えると言うならそれは教条主義に立つのであって、真の愛主義、心情主義に立つなら責めることはできないだろう。食口の誰もが複雑な想いで或る子女様を見守っている。事情と現実と願いと、そしてそれぞれの想いが複雑に関わっている。御父様の路程が複雑であるように、御子女様の歩みも複雑だ。子女様の行動を祝福もできず、かと言って批難もできず、静かに見守るしか為す術は無い。主の路程や摂理の意味の殆どを理解していないように、今の私達の心霊基準で答えを出せず、未来の私達や後孫に委ねるべきものも多くある。その一つだと思うしかないだろう。しかし確実に、好奇な目でみようとしたり槍玉に上げようとするのは間違っている。

2013年10月17日木曜日

今日の想い 644

恨みと恨(はん)の違いがわかるだろうか。簡単に言えば一方は自己中心的な情動であり、今一方は方向性をより公的に向けた情動だと説明すれば、理解の助けになるだろうか。恨みは深くすれば深くするほどより自己中心的になり、心魂はどこまでも凝縮して凝り固まる。一方恨(はん)は恨みと同じ情的衝動ではあるけれども強くすれば強くするほどより公的な力となり、心魂はどこまでも広がり拡散していく。恨みは根が深くなると不気味な静けさを漂わせるものだが、恨(はん)が強く働くと発散の力となり使命的な自分を表現するようになる。恨みを恨(はん)に向かわせようとする行動は、韓国ドラマを見れば度々見られるのであって、アイゴーアイゴーと叫びながら地を叩いたり胸を叩いたりしながら、恨みを自分の中に留めようとする力から拡散する力に変えている。日本人にすれば表現するのは恥であり口ごもり押さえ込もうとするけれども、韓国人が敢えて表現するのは情動を公にして天が取ることが出来る精誠に変えていくのであり、実に天の心情文化に近いものがある。恨みと恨(はん)がベクトルが異なるように、恐れと畏れ、怒りと義憤、卑屈と謙虚、尊大と傲慢それぞれの心魂活動も、そのベクトルが自己に向かうのか天に向かうのかの方向が異なっている。恨みは押さえ込むのではなく、表現もして素直に報告もしながら恨(はん)に向かわせる必要がある。恐れは自己中心的感情であり、自己に向かえば向かうほど恐れる対象を肥大化させてオバケ化させることになる。天を畏れるのは恐れてオバケ化した対象に恐々とする心魂の萎縮とは全く異なる。信仰の奥底に恐れがあって、それが動機となって意志する信仰の場合は絶対信仰にはならない。地獄が恐ろしくて、死が恐ろしくて信仰する場合、口では神様と言いながら実のところ恐れで操ろうとする別の霊的存在を立てている。日本食口は従順で、声を荒げたり怒りを表わしたりすることは非常に少ないが、血気怒気の衝動はまずいにしても、怒りを覚えなければ義憤に燃えることもない。

2013年10月16日水曜日

今日の想い 643

朝、目覚ましが鳴って上体を起こしても、私の意識が昇ってくるまで暫く時間がかかる。別に低血圧ではないが、眠りが深すぎるのか、あるいは昼の意識を生きることを拒んでいるからなのか、直ぐに飛び起きて行動に移ることが難しい。上体は辛うじて起こしてはいるけれど、次の行動に移す為の意識を取りだせないでいる。献身して修道(軍隊)生活が始まったことで、先ず大変だったのは毎日の起床だった。当番が張り上げる起床の高い声と共に瞬時に蛍光灯の人工的光が明々と照らされ、無重力から重力圏へと無理やり落とし込まれ、この世で背負う重荷が私に負荷される。重力圏で上体を起こすのがやっとの私は、周りで飛び起きて寝具を片づけ早々と洗面台に走る食口達が宇宙人に思えたものだ。或いは逆に私が宇宙人だということだろうか。眠りから覚めようとする私は、微かな意識とは言わないまでも、私を統一された一存在たらしめる意識の柱がしっかり立たずに暫く揺らいでいる。その間、訳のわからない思考の断片が飛び交い、壊れたコンピューターのように記憶の断片が映像であったり音や声であったりと走り回る。それは霊界から地上界への繋ぎの領域であり、地上界から霊界へ赴く霊界への旅立ちでは私に刻まれた全ての体験経験を鮮明な映像で見せられるけれども、一日の目覚めは死の逆バージョンである地上誕生として、霊界から地上界へ持ち込む組み立てる素材をランダムに取り止めもなく取り出している。目覚めまでの間に私の中に昇って柱として立つ意識は、この無意識の領域である霊界から持ち込むあらゆる素材をどのように意識圏で組み立てるのか、私の意識が立ち次第それらの素材を用いて創造を始める。素材は形状の芽を出しかけた霊の性相であり、霊の性相は私の過去の内外の歩みの段階的霊的実りであって、善果らしきものもあり悪果らしきものもある。善果としての霊の素材はより善なる創造をもたらすが、悪果としての霊の素材は悪なる創造をもたらすか、または善果を引き立てて善の創造に加担させるかの両面があって、どちらを選択するかは私の意識次第だ。人は人間という精神存在、霊的存在として、み言葉を知ろうが知るまいが地上を生きることでそれぞれの創造を為してはいる。しかしみ言葉の本質を受け取った者は関わる霊の位階が異なり、より次元の高い創造を為す。より神霊に近い霊の素材を用意されて創造を始める。み言葉を受け入れる者もそうでない者も、同じ地上に存在してはいるが関わる次元が異なり、み言葉の本質を受け取った者は高次元の創造に加担していることへの誇りを持つべきだ。私を蔑ろにし無視する者は天が許さないという気概を持つべきだ。私達は御父様によって選ばれ集められた群れであるのに、実力も何もないと卑下するならば、御父様を卑下し、天を侮辱していることになる。今は確かに何も持ち合わせてはいないけれども、それでも、この群れは何もないのに自尊心だけは人一倍あると思われなければならない。その意味でとりわけ日本食口は、韓国食口の気概と自尊心を学んで相続すべきだ。み言葉の本質を受け取った者は神霊が関与するはずなのに、自分を卑下したままだと霊界が混乱して貶めた霊しか関与しなくなる。

2013年10月15日火曜日

今日の想い 642

慰安婦に関する訓母様の言動であるとか、あるいは地震に関する言動であるとか、その一節だけを内面に満たしていくと、日本食口としては当然やりきれない想いに襲われる。その言葉を受けて何の否定的感情も起こらない、当然その通りであってさもありなんと、素直に受け入れられる日本食口がいるなら、その食口を私は理解できない。しかし一方でその言葉だけで訓母様を全面否定し、よって清平摂理も受け入れないと言い張る食口も同じように理解できない。訓母様が語った一連の日本に対する非難言動(本人が日本非難の意味を込められたかどうかはわからない)が真実なのかどうかと問う以前に、非難言動によって触発された否定的感情にどう対処するかの方が霊的見地に立てばより重要だろう。日本はエバ国家としてアダム国家に嫁いだ形になるが、要は日本は御父様の相対である妻の立場だ。食口、特に韓国食口にすれば姑であり小姑であって、彼らにすれば嫁いだ嫁に家の習わし、伝統を教えて上げようと言葉を並べる訳だけれども、嫁にすれば随分上から目線の言葉であったり、ヤッカミに過ぎなかったりと言うことになる。日本も数千年の歴史を刻んで今があり、その染み込んだ伝統や考え方や感情をして存在しているので、そう簡単に積み上げてきたものをチャラにはできない。そうなると俄然嫁への言葉としてはトゲを持つのが韓流だ。韓国ドラマの一つでも見ればよくわかる。そこでどう対処するのか、どう自分の中で消化するのかによって、日本が利口な嫁なのかどうかを問われている。利口であろうがなかろうが、日本は御父様の相対であり母の国に変わりは無い。しかし姑、小姑の試練を越えて、母としての威厳を持てる存在になることが御父様の願いであるはずだと思うのだがどうだろうか。日本食口は相当の犠牲を供えてきた。ある面いたぶられてきたと言う表現も外れてはいない。献金問題も含めて日本は今の痩せた体を更に鞭打つ状態を続けて、御父様の願いに応えることができるのかどうか。それは誰でもない日本自体が、日本の使命を担う日本食口が対処すべき問題だと思う。おそらくこう言えば問題発言に違いないのだろうが、献金を含めて摂理へ貢献できるかどうかの権限は、実質的には母の国自体が持っている。その母の国が言われっ放しで、口を開かず頭を下げ続けていれば、それで事済むのか、摂理は進むのか、その事も考えないと本当に日本食口は潰れる。日本食口が潰れれば母の国として立ち行かなくなる。

2013年10月13日日曜日

今日の想い 641

献身生活に入ってほぼ100%、経済復帰の歩みに勤しんできた。伝道は献身するまでと、献身初期の青年部人事で少しかじっただけだ。そんな短い期間でありながら、伝道に集中し専念したという感覚はない。もちろん実りもない。正直なところ、自分が人生の問題に相当悩んで入教した手前、声をかけて人生の問題に関心がない人に勧めても難しいという思いがあった。外的な事を言えば教会生活、献身生活は決して楽なものではなかったから、勧めても結局恨まれるに違いないとも思った。悲観的で人間的な私は、この道を歩むのに最も相応しくない類の人種だったけれども、しがみ付いてでも残らなければ自分の救いは絶望的だという、ただその一点が最後の繋がった糸で、その切れそうな糸を頼りにここまでこれた。40年を越えて、これまで共に歩んだ食口の近況はわからない。縦に繋がることを徹底され、横に繋がることを否定されて来た面があるから、愛の兄弟関係とはならなかった実情がある。それがおかしいと言うのではなく、摂理として先ず縦的関係が優先されてきたのであり、縦的に立った食口を残すことを天は願ってきたはずだ。真の父母の勝利圏が立って新しい時代圏に入った今は、縦的に立った食口が横的に展開する伝道に入っている。もはや私達が訓練を受けてきたような、そんな厳しい路程に組み込まれる人材を復帰する必要は無い。それぞれの分野で、この世の者達が惹き付けられる秀でた天分を発揮しながら、それが真の父母の証しとなれれば来るなと言っても集まるようになるだろう。それでこそ環境創造だ。今までと同じように、この人は何もないけれど純粋さがあると言うだけで、どれだけの人を繋げて伝道できるだろうか。飛び込みや、片っ端から通りすがりの人に声をかける、或いは関係性を頼りに訪ねていく、そんな従来通りの伝道を否定する気持ちは毛頭ないが、もし一人の食口が一国の大統領にでもなれば、彼一人でどれだけの伝道実績が実るだろうかと考える必要がある。大統領でなくとも、芸術の分野でもいいだろうし経営の分野でもアカデミックな分野でも何でもいい。この天分を持つこの人は何者だろうかと思わせられれば、頭を下げてでもその本質を探りたいと集まってくるはずだ。従来通りの伝道であれ何であれ、真の父母を証しするのは教会ではなく私だ。私が内外でどれほど磨かれているか、どれほどの内外の魅了するものを持ち合わせているか、その私自身が鍵だ。賢い者は、この教会の混乱期の中で翻弄されるのではなく、時代を先取りしてその準備に余念が無い。

2013年10月12日土曜日

真の神様

真の父母という門を通らなくては真の神様を理解できないし真の神様に会えない。み言葉には真の何々という表現がたくさんあるが、真の神様という言葉も偽りの神様を信じている現実を踏まえた言葉であって、神様に対する正しい概念を持つなら敢えて真の、、とつける必要はないだろう。神様に対する正しい概念は真の父母という門を通らなければならない。堕落して偽りの父母によって存在している人類が、様々な宗教、それは無神論者が神はいないというときのイメージしている彼らの神の概念も含めて、様々な神の概念を持っているが、どれも正しい概念ではない。真の神様の概念を持てるのは真の父母の門を通った者だけが受け取れるのであって、旧約時代の選民達の神の概念も真の神様とは異なるし、新約時代のクリスチャン達の神の概念も真の神様とは異なる。そして分派、反対派が反真の父母を表明するなら真の神様への門は閉じられたのであり、彼らが口にする神様は偽りの神であり、偽りの神を信奉している。人はそれぞれが持つ神様のイメージがあり、真の父母を受け入れるのもそのイメージを壊されない限りでのことであって、真の父母を受け入れることで自分の神様のイメージが壊されるようなら或る時から受け入れない。食口の中には二種類あって、真の父母を先ず受け入れて真の父母が持っている神様の概念を受け取ろうとする者と、壊されたくない神様のイメージが先ずあってその上で真の父母を受け入れる者とがいる。み言葉を論理として、すなわち思考としてだけ受け入れる者達の多くは、壊されたくない神様のイメージが先行していることに気付いていない。み言葉を受け入れる内的態度は、私の正しくない神様のイメージをことごとく壊して下さい、御父様の真の神様の概念を私の中に打ち立てて下さいという切実な姿勢でこそ、堕落の私から御父母様によって重生した私の部分が私を占拠できるのであって、堕落の私を否定し切れないまま、み言葉の一部分をそこだけ取り出して、み言葉にはこうあると論理を展開しても堕落圏内は所詮堕落圏内であり、天聖経の書き換えがどうの、天の父母様がどうの、矢継ぎ早に批判を呈するけれども全く話にならない。

2013年10月9日水曜日

今日の想い 640

教会に対して批判したいならいくらでもすればいいだろう。幹部や責任者に対して文句を言いたいなら、公開されたブログにいくらでも連ねることができる。天に対して負債の一つもない者が批判もし文句も言うべきだとまでは言わない。前にも記したように、どんな責任者であれ善神だけが働いている訳ではなく、悪神の働いている部分も確かにあるかも知れない。しかしそれでも御父様の主管圏のもとであり、保護圏のもとで彼らは教会運営を為してきた。私達一人一人が氏族メシヤでありながらその実りを供えることができず、祝福家庭でありながら家庭理想に届かない実情も知っておられ、許され、それでもみ旨を任せて下さる同じ御父母様の主管圏、保護圏のもとにあるのと同じことだ。負債の一つもない者が批判すべきだとは言わないが、自分に負債のあることを覚えた者でなければ、負債のあるのを認識しそれを踏まえて言葉を選ぶ者でなければ、批判する資格はない。霊界は恐ろしいところだ。私の一挙手一投足の行動だけに留まらず、私が口にした一言一句、私が記した一語一句、ひとつの漏れもなく記録されている。記録されていて消されることは無い。愛を呼吸し、御父様が語られるところの良心が直接的に霊人体の核となる霊界生活では、私の行動として、言動として、記録して残した全てが、霊界に於いては外界の在り様、存在様相となって逆に私を断定する。私自身が残した内容で私は裁かれる。私達は地上生活の自分の行動言動の一つ一つ、些細なものから大きな動きに至るまで全て、それが私の何を動機としているのかを十二分に精査しなければならない。ネットの世界では指差して言いたい衝動をあまりにも簡単に打ち込んで公開することができる。衝動を発する私の動機が何なのかと言うことに対して、精査されず配慮に欠けたまま、ネット世界に垂れ流している。それは自分がやがてはまり込む霊界の罠を自分で用意しているようなものだ。霊界の実情をあまりにも知らないし、霊界に於ける御父母様の権能がどれほどのものか知ろうともしない。み言葉を知りながら本質を受け取れず、原理用語を使っただけの狭い宗教観、道徳倫理観で自分を枷に嵌め、広大な真の愛の世界観に立てないでいる。真の愛の中に許しも救いもあるのであって、御父様を一人の宗教家としてしか見ることができない、真の父母という概念を正しく受け取れない者達は霊界の真実を知らず、真の愛に保護されず、自分で自分の首を絞めている。

今日の想い 639

たとえ教会幹部の御父様への偽装報告があったとしても、それを御父様が信じられたとしても、それで子女様が解任させられるとしても、御父様の理解を得ようと詰め寄ったにも関わらずそれでも御父様が首を縦に振られることが無かった以上、引き下がって当然だろう。御父様だからだ。最後は御父様の判断に任せるべきだ。しかし彼らは御父様の判断を突っぱねた。御父様に従うことを拒んだ。その一点が狂っているから彼らのやること為すこと全ては御父様の願いに相反する。どれだけ正当性を訴えても、どれだけ論理的に説明しようとも、従わないという一点で反教会であり反真の父母だ。彼らの悲劇は、御父様が地上におられる間に悔い改めるべきだったがその機会を永遠に逃してしまったことだ。もはや悔い改めようにも許しを請う御父様がこの地上におられない。そうであれば、堕落の張本人になってしまったルーシェルが、悔い改める機会を逃して悪鬼の頭であり続けるしか存在の意義が見つからなかったように、彼らもまた、反旗を翻す姿勢を崩すことはない。頑なに取る彼らの姿勢に対して少しの不安でも覗かせようものなら、彼らは彼らの存在の意義すら否定されることになる。許しの特権を持っておられる存在を否定した以上、彼らに許しは無い。御父様の御聖和を反真の父母で迎えてしまった彼らだが、ただ一つの彼らの不幸中の幸いは、逆鱗に触れられた御父様を爆発されずに比類ない自己主管の力で身を修めておられたことだ。御父様が血を見れば恐ろしい存在になられることは察しが着く。彼らは血の犠牲を子々孫々にまたがり負うはめになったはずだ。御父様は怒りの感情を抑えておられたけれども、それでもこと直接関与する議題や関係した中心メンバーに接するときはその感情の一端を垣間見せられる。私は烈火の如き御父様の表情、御父様の目、御父様の行動を忘れることが出来ない。一般食口にしてみれば、早く引くべき馬鹿馬鹿しい裁判であろうし、それよりか伝道への意識を持つべきだと思うだろう。しかし後には引けない、引きたくてもそれを許さない御父様が私の中におられる。御父様が内側から皮膚を蹴破るようにプッシュされる。

2013年10月7日月曜日

今日の想い 638

生殖器は生命と愛と血統の本宮であり根源地である。要するに生殖器ゆえに生命があり、愛があり、血統がある。生殖器の創造が全ての創造の原点でもある。絶対信仰、絶対愛、絶対服従という言葉も生殖器に対しての言葉だと言われたのであり、それ程に尊い生殖器でありながら、しかし堕落も罪の歴史もこの生殖器故のことであり、生殖器は最も尊いけれども一方で最も穢れていて恥ずかしく思っている。御父様は堕落を、「逆さまにして打ち込んだ」という表現もされており、それはルーシェルの上にエバが乗り、本来下の位置で上から受け入れるものを逆さまにして下から入れさせたというお話と合っている。地上的な理解だと相手がルーシェルであったからそれは問題だけれども、上だろうが下だろうがどちらでも堕落は堕落だと思うのだが、霊的堕落に於いてはそれが深い意味を持っているということだ。ルーシェルは霊的存在で欲望も知恵も賦与されていた。エバの愛を奪いたいという過分な欲望がエバを誘惑し、しかし知恵あるルーシェルは自分で事に至らせたのではなく、エバを乗っからせてエバの意志で事に至らせた。エバは羽交い締めされて身動きできないのではなく上の位置で自由なのだからそこにエバの意志が働いたということになる。創造も堕落も生殖器が関わっているのだからもっと研究すべき余地があり、絶対性という言葉も私達が捉えているのは表面的概念であって、御父様の絶対性の概念は霊的勝利に拠る霊的深みから取り出されたものに違いないだろうから、もっと突き詰める必要がある。生殖器については、聖書では「取って食べるな」と、食べるという言葉を使われているように、御父様も「よく食べる」という表現も使われている。それは良い食べ方も悪い食べ方もあることを前提にした表現だ。相手さえ間違わなければ、不倫せず相対者を食べるのであれば、それは良い食べ方と言えるのかどうなのか。上か下かを厳しく問われた(指示された?)こともあり、それは絶対性とどうかかわるのか。事細かにこれは駄目あれは駄目と並べて教条主義的になれと言うのではなく、心魂の活動である思考感情意志として生殖器とどう向き合うのが御父様の願いなのか、どうすれば御父様の絶対性の概念に近付くことができるのか、私達は知っているようで実のところ殆ど知らない。

2013年10月6日日曜日

今日の想い 637

内的霊的なものが主体であり原因であり、外的地上的なものが対象であり結果だ。私達が誤解し易いのは、外的地上的な位置で内的霊的なものを考察するから、地上的見地での霊的様相であって、それは内的霊的な本質とは異なるということだ。霊界を素晴らしい別の地上界の存在だと信じたり、罪は霊的事実としてあるが欲望それ自体を罪だと信じたり、霊感が開かれれば地上で見たり聞いたりするのと同じように霊人の声が聞こえ霊人が見えると信じたり、信仰も生命も愛も血統でさえも、全て地上的見地から眺める捉え方であって本質とは異なっている。それは唯物主義とは言わないにしても唯物的な捉え方に近いだろう。霊的本質がわからないからみ言葉の本質を受け取れない。御父様の勝利圏がわからない。地上的見地で理解しようとするからわかろうはずがない。後天時代に入っても、基元節を越えても何も変わっていないと思っている。本当に内的霊的なものを主体にして生きれば、全く新しい世界に突入したのを感じ取るだろう。私達はどのように伝道の願いに応えていくのだろうか。どのように環境創造を為していくのだろうか。相も変わらず先天時代の意識を引き摺って、それは旧態依然の世界に執着することであり、伝道が難しく経済も難しく二世も立たず、御父様の霊的勝利圏に立って目を見張るような証しを立てる未来も見えない。継続的な毎日に流され、基元節前と後の変化と転換のクロスポイントを天宙では確実に迎えているはずなのに、自分の中に迎えられないまま同じ意識を引き摺っている。同じ意識を引き摺ったままみすぼらしい食口の姿を晒している。基元節が私の基元節になっていない食口達を見れば、霊的感性の欠如がこれほどに残酷なものかと思い知る。内的霊的なものがわからないならせめて信じる位置で、伝道や経済への否定的感情は捨て去ることだ。出来ない言い訳と否定的感情をひとつ、またひとつ際限なく取り出すより、大風呂敷を広げるにしても夢を語り希望を自らに語るべきだ。それは他に対してそういう態度を取ると言うよりも、自分という器を新しい後天開闢時代に相応しいものとして用意する為に、自分の内面から一切の否定的言葉と否定的感情を捨て去って夢と希望で内面を光輝かせることだ。私達が完成圏に、そして天の父母直接主管圏に入れるかどうかは私達第四次アダムの意識次第だ。

2013年10月4日金曜日

今日の想い 636(欲望というアクセル)

欲望という言葉を想起した時に、何かいかがわしい衝動であったり、メラメラと燃える自己中心的満足への渇望であったりして、信仰で否定して抑え込むべきものとするイメージが私達の中にある。確かに異性への肉欲も、過分な物欲も否定されて来た道ではあるけれども、だからと言って如何なる欲望も抹殺することが願われているのではない。創造原理にあるように、人間も天使長も創造本性として欲望と知能が賦与されていたのであり、欲望を抑え込むことは本性を否定することになる。欲望をいかに主管しながら、それは衝動をみ旨にプラスと為し善なる方向性に向かわせながら、否定して押さえ込むのではなく欲望の力をみ旨に利用できる私となれれば、それは自己主管していると言えるだろう。創造本性としての欲望を抜かれてしまい、去勢された牛や猫のような大人しいだけの私達なら、み旨への想い、復帰への執念も見当たらず、神様が最も愛すべき祝福家庭としての私達であるのに、ただ惰性的に歩む半機械化された私達に貶めることにはならないだろうか。欲望を肯定すれば自己中心的なものへ向かってしまうが、逆に否定すれば夢や希望さえも否定しかねないという狭間で、落ちることはないけれどもかといってみ旨に生命を燃やすこともない。そんな燻ぶり状態でここまで来たけれども、そんな位置がいつまでも赦されるはずもなく、そういう意味では今の混乱期は一方で憂える面があるけれども、かたや食口それぞれは主体的能動的に自分と御父母様との関係、自分の欲望とみ旨への関与を尋ねて再構築できる恩恵の面がある。み旨だみ旨だと呟きながら、蓋を閉じてしまって見ようともしなかった私の欲望が渦巻いている。今こそその欲望に対峙しなければならない。欲望こそが地上で生きる力だ。どれだけの食口が富への欲望、権力への欲望、さらに敢えて言うなら異性への欲望にさえ燃え立つ自分を感じているだろうか。一方で欲望というアクセルがあり、一方で理性や知能というブレーキがある。み言葉の実体を目指して方向を取るハンドルは、摂理を経て訓練されながら良心の力として備えられているはずだ。もちろんアクセルを吹かし続けるなら危険極まりないが、何かを成し遂げる為には欲望は大きくなければならない。去勢された者達が集められて天国はできるだろうか。それを地上天国と言えるだろうか。それは天国ではなく家畜が人間に変わった牧場に過ぎない。

2013年10月3日木曜日

今日の想い 635

以前にも記したように、人間ひとりが一つの人格のみを持っているのではなく、複数の人格を併せ持つ統一体だということだ。人間は実体に分立された形象的個性真理体ではあるけれども、それがひとつだけの霊存在だという意味とはならない。人によって程度の違いはあれ、自分の中に複数の人格を認める。私という自意識のもとに体が願う声を発する人格と、心が願う声を発する人格がある。さらにそれぞれの背後にも複数の人格が息衝いていて、それらを統合した声として肉の声、心の声を代表的に発している。私という存在の深みを掘り起こせば掘り起こすほど複雑系の私であることに気付く。物事の成り行きに於いても、それが善神の業か悪神の業かの判断が為されて水と油に分けられるようなものではなく、善神の業の中にも悪神の業が働き、悪神の業の中にも善神の業が働いている部分もある。どれほど残虐非道な行動であっても、そこに一分であっても善神の業が働いている。そしてどれほど清廉潔白な行動のようであっても、やはり悪神の業が働いている。そうなると、教会に所属し、教会の指示に従ってさえいれば全ての物事が善神の業で何の心配もない、とは言えないということだ。しかしそれでも教会内にいる私を自覚していれば御父母様の主管圏内ではあるが、第四次アダム時代を宣布されたと言うことは、教会に所属していさえすれば安全圏だとは言えず、自己の責任が追及される蕩減のない時代、即ち許しのない時代であり、御父様の心情圏こそが安全地帯であり私達はどうやって心情を相続し、心情圏に入ることができるかということに尽きる。いろんな顔を持つ私の中で、最も確かな私という存在は御父母様によって重生した私という核以外、他は寄生虫だと思った方がいい。しかし重生した私という核の正体を未だに知らないし、表面的な私が私だと思い込んで生活している。訓読するのも、み旨を歩むのも、祈祷するのも、重生した真の私を探し出す路程だと言ってもいいだろう。

2013年10月2日水曜日

今日の想い 634

表面的に見るなら、いままでの献金摂理で謳った内容と、新たな恩恵の為の条件との間に整合性を図る必要があり、辻褄を合わせようとすれば「恩恵の確認」というような複雑なものになるのだろう。確かに辻褄を合わせて置かなければ、いままでの恩恵の為の献金摂理は何だったのかと言うことになる。それは表面的に見てそう勘繰るのであって、指示を与える責任者が辻褄を合せるにしても、その背後に流れる本質は確実にある。人間的で表面的な勘ぐりや嫌気の感情に屈しない、そういうひとつの絶対信仰を立てた位置で受け取れる恩恵は確実にある。物質的には同じものを一人は数万円で手に入れ、一人は数百万円で手に入れて、それが物資的なものに過ぎないなら憤るのかも知れないが、食口、とりわけ日本食口は唯物論的価値観を越えて心情価値観に立とうとしている。今までの献金摂理でもこれからもその姿勢は変わることは無い。受け取る物が恩恵ではなくて、物は象徴であって象徴の背後にある心情を受け取ることが恩恵だと言う確固とした絶対信仰に貫かれている。物なのか心情なのか、感情なのか心情なのか、そこが徹底されている。摂理を進めて行く統一神霊の願いにどこまでも着いて行こうとする日本食口であり、その精神性は他に類を見ない。恩恵に与ることがそれほどに経済的犠牲を払わなければならないという事と、手に入れる恩恵の価値を物資的なものから心情的価値という高みをとらえる事とは相通じ合う。しかし高みに昇ろうとすればするほど、置いて行かれる者も数多く、彼らは今までの報われない犠牲、清算されない犠牲への訴えと共に反動的になってしまう。しかしそれでも摂理を進め、天の願う勝利基準に到達する為には絶えざる犠牲が必要であり、そうやって一握りの勝利者が、置いて行かれた者皆の犠牲を抱えて条件となし、全体的勝利をも齎(もたら)すのであって、それで初めて置いて行かれた者の犠牲も報われる。この世の人にとっては盲目的に見える一般教会員であり、一般教会員にとっては更に盲目的に見える特別の者達がいる。しかし彼らこそが御父様の心情圏の中心位置に立つのであり、彼らこそが信仰のない私を恩恵の中に引き上げてくれる。霊的なものが明らかになるに従って、統一教会や食口も、異様にも見えた摂理も、その本質が見えてきて認識は大きく変わっていくはずだ。

2013年9月28日土曜日

外的器としての人間創造過程

頭脳神経系の創造が先ず為されたのであり、原初人間として頭脳神経系だけを持った人間存在が先ず登場した。霊がいつ吹き込まれ、いつ心魂存在になったかはここでは問わない。頭脳神経系人間の創造と同じ時期に創造されたのが原初の蝶の存在だ。蝶の本質は光にある。先ず光が創造されたのであり光を担う存在が蝶であり、蝶は光の生命体としての形状化だ。光の内的な本質は記憶だ。記憶という光の内的本質を担う為に神経系人間の創造が先ず為された。現在の神経系の原初を人間創造の最初に見る。そして光が濃密化されて空気の創造が為され、空気を担う存在として鳥の創造が為された。頭脳神経系が思考できるのは内的光の記憶と内的空気の思考によるもので、同じ空気要素で創造された鳥は空気を担う存在であり、現在の鳥はその翼に本質があって宇宙の思考の外的現れであると言える。空気が更に濃密化する過程で呼吸器系、循環器系が創造されて、頭脳神経系、呼吸器系、循環器系を備えた人間が現れた。同じ時期に創造されたのがライオンに代表される高等動物であり、ライオンやトラの本質は呼吸器循環器系の胸にある。さらに水から土に濃密化される過程で牛が創造されるのであり、牛は土の内的本質、つまり消化を担う存在の形状化だ。消化器系動物の代表が牛だけれども、ミミズや蛙なども消化器系動物に括られ、原初の牛、原初のミミズや蛙が創造される同じ時期に人間も消化器系を備えた。よって人間の外的創造は頭部、胸部、腹部の順番になる。アメーバから下等動物、そして高等動物から猿になり人間になったのではない。妻はミミズや蛙や蛇がテレビのスクリーンに現れると目を逸らして毛嫌いしているが、内臓の消化器官とそれらの消化器系動物とはその本質は同じだ。土の本質を担い見事に消化するそれらの存在を見ながら、感心し畏敬の感情を持つのが当然であるのに、毛嫌いするから土の本質を避けてしまって消化器系が悪くなる。

進化論

神は信じるけれども、人間創造の過程は進化論に準ずるものではないかと思っている食口は意外に多い。外的な創造に関することに限られるが、人間も霊が吹き込まれるまでは猿と同じ進化路程を辿ってきたはずだと言うものだ。み言葉は、凹凸が合わさり生殖が為されるのにそこに第三存在が介入することはあり得ないし、凹凸の愛の門がアメーバから人間まで何万種もあるのにどうやって越えることができるのかと問いかけるけれども、愛の門を越えるのに神が働いたと捉えられないだろうかと安易にも思っている。神が働いてアメーバから人間まで発展してきたという理解に何の矛盾も覚えないでいる。環境に応じながら突然変異的に発展してきたのではなく、神の意志が先ずあって発展してきたが、アメーバから人間までの外的発展路程はアダムエバから私までの血が繋がっている如く原因結果として一本の線で繋がっているという理解だ。進化論は信じないと言うがアメーバから様々な下等動物、高等動物へと枝分かれした進化の木のイメージが概念としてある。それは既に進化論だ。そこに神の意志があろうがなかろうが進化論だ。それでは人間創造の過程はなくて、瞬時に人間が創造されたのかと問い返されるけれども、勿論人間創造の過程はある。しかしアメーバから人間へと創造過程を取ったのではない。み言葉を正しく受け取るなら進化の木は完全に否定すべきだ。光、空気、水、土全ての生命要素が出揃った地球環境で生命存在が創造され始めたのではなく、生命要素の創造と同時に生命存在も創造されていった。進化論に準ずる概念だと、人間始祖までの人間創造は下等動物的人間から高等動物的人間へ、即ち消化器系だけを持ったミミズのような発展段階、それから呼吸器循環器系が付け加えられた発展段階、そして神経系が付け加えられ頭脳を備えられた発展段階へとなるのだろうが、事実は逆だ。光要素を創造されながら先ず頭脳神経系を、そして空気要素水要素を創造されながら呼吸器循環器系が備わり、そして土要素を創造されながら消化器系が備わった。だから人間創造が先ず始まったのであり、呼吸器循環器系を備える段階で高等動物の創造が始まり、消化器系だけのミミズや蛇や蛙といった下等動物は後期の創造になる。勿論高等動物も下等動物も、地球環境が完全に出揃った今の存在様相とは随分異なり、より霊的存在に近いものであったことは付け加えておかないと誤解を生むだろう。人間が被造物の全てを統合した存在であるけれども種の違いは厳格であることは、この理解でこそ成り立つのであって、進化の木として枝分かれしたのであれば猿と人間の種の違いは殆どない。

2013年9月27日金曜日

ハイエナ論理

ハイエナ論理というのがある。スロット攻略の話ではない。獅子とハイエナと狼がいて、一匹の獲物を捕らえた。獅子はハイエナに分配を頼み、獲物を三等分してそれぞれ受け取ろうと提案した。ところが獅子はハイエナを噛み殺してしまった。そして今度は狼に分配を頼んだ。狼は獲物の三分の一のハイエナ分は獅子がハイエナを片付けてくれたのだから獅子が取るべきで、獅子の分はもともとそうなのだから獅子が取るべきで、残りの狼の自分の分は獅子を尊敬しているので獅子が取るべきだと言って三等分した。獅子は狼を噛み殺さずに三等分の論理に従って三つの部分を受け取った。これがハイエナ論理で、同じ三等分の論理でも別の現実に適用できるというものだ。異なる現実への適用によって結果が全く違ってくる。食口の殆どは原理を知ってこの道に来たのだから、入口は原理という論理の門をくぐって入ってきた。なかには神霊体験、聖霊体験、或いは先祖が夢に現れてというような体験を通してこの道を決意した食口もいるが少数派だろう。神霊派食口では晒されることのない論理の試練、思考の試練が論理の門をくぐって入った真理派食口には待ち構えている。入り口は論理の門であっても、歩む路程で御父様との心情因縁を結びながら、論理(思考)から心情へとそのステージを高めるなら、論理の試練、思考の試練は試練とも言えないものだけれども、固定概念というものを基底に置いていて、そこを崩すなど思っても見ないものだから論理の試練で躓くことになる。独島竹島問題にしても、韓国は韓国で言い分がある。日本は日本でまた言い分がある。言い分とはそれぞれの論理だ。国際司法裁判所を持ち出すのは日本の論理であるけれども、韓国の論理は裁判所が図り知れない遥か昔の事実を主張する。どちらの論理が正しいかという以前に現実がある。それは獅子がどの国でハイエナがどの国かという現実、もし日本がハイエナなら狼にならなければならない現実があるということだ。日本がどれほど理路整然と正義を立てても、一体何処の国が、損を蒙るにも関わらず日本の論理を正しいと受け入れるのだろうか。そんな国は何処にも無い。それは、現実に対して論理は意味を為さないと言うのが論理の位置付けではなく、現実に対して論理を合わせることで論理が意味を持ち力を発すると言うことだ。食口が陥る論理の試練は霊界の事実を認識し、霊的無知の知に至り、霊的死を自分にもたらす罪という現実を先ず知らなければ越えられないし、知ってその現実に論理を合わせることで見えなかったものが見えてくる。現実が見えないのに(霊界がわからない、救いがわからない現実)、そういう者に限ってもっともらしい言い分や論理を立ててくる。私の中に論理を立てようとする思考と、その論理とは相容れない沸々と湧いてくる感情と、その狭間で選択する意志とがある。私の中にハイエナと獅子が戦い、狼が傍で様子を見ている。

今日の想い 633

雲ひとつ無い青空が広がり乾いた風が頬を撫でる。夏を追いやって秋がやってきた。青空を眺めていると高く遠くに黒い点が移動するのが目に入った。ゆっくりと旋回している。目が慣れてくると広げた翼が確認できて、それが鷲だとわかった。澄み渡った青空高く、地上のことなど無縁のように、おそらく地上で得たいと思う自由など比べようもない大気の自由圏で泳いでいる。人間は空への憧れがある。地上に光を届け、雨を降らせ、風を起こし、そして人間の気分を精神的な高みへと向かわせる存在が空に、大気の中に存在している。ただ空高く飛んでみたいという憧れを越えて、その存在達に会いたい憧れがある。その見えない霊的な存在はより神様に近い位階の存在に違いなく、その霊的存在達を尋ね歩き(尋ね飛び)より高みの事実を受け取りたい。空への無意識な憧れは意識下の本質的欲求の表れだ。人間が小宇宙であれば、被造物のあらゆる要素を人間の中に見るはずだ。外的に見るだろうし内的にも見る。鷲が自由に空高く舞うように、人間の自由は思考にある。思考として内的世界を空高く舞う。内的な思考への形成力は、この被造世界で外的に翼を形成した力、とりわけ鷲の翼を形成した力と同じはずだ。思考の自由が感情の解放をもたらし、そして自由意志の存在になる。唯物的な、物質的機械的な真理の一面だけ信奉して生きれば、自由のつもりが実は枷となって個性完成を阻んでしまう。唯物論を越えて、進化論を越えて、凹凸の二性で四方に展開され創造されたこの創造の原理であるけれども、物質的機械的な基底概念で創造原理を捉えようとする現代人の悲しさがある。結局は思考が唯物的な思考形態の枷にはめられて、創造原理を創造原理として捉えられない。思考の力を、創造本然の本来の力とする為に、あの鷲の翼に学ばなければならない。創造原理が確かに論理的だという理由だけで受け取るならば、それは原理のみ言葉を理解しようとはしていない。創造原理を真に理解した者は、霊界の実存を悟る。霊的存在達を見る。

2013年9月24日火曜日

今日の想い 632

夫婦の合徳は、夫が天の位置に立ち妻が地の位置に立って天地が合徳するのであり、更に夫は全ての男性を代表し全ての陽性を代表した立場であり、妻は全ての女性を代表し全ての陰性を代表した立場で合徳する。しかしながら完成基準に立っていない二人が体を合わせても、地上の感覚的満足を越えて神霊が下って地とひとつになるほどの秘儀的祭壇とはならない。堕落によって人間の体自体も個形物質化してしまったけれども、本然の人間の愛の行為は光輝くのであり、温度が何度まで上がるのか忘れたが御父様は凹の温度上昇を固体人間に取っては物理的には考えられないほどの温度数値を口にされた。それはもう愛による身体昇華と言ってもいいだろう。それは夫を満足させ妻を満足させるというような感覚的なものを越えている。この地上は真の父母が勝利されて真の父母としての使命は完成完結完了されたけれども、地上における実体的再創造は始まったばかりであり、それは人間身体の改造も始まったということだ。人間には病も含めて、堕落し、人間身体が固体化した故の副作用がある。内的な蕩減という問題があるから固体化した人間の外的な病という形を取らざるを得なかったけれども、固体化しなければ病の作用力は本来、熱上昇、すなわち昇華の力や生命体や物質への奇跡的力であったはずだ。堕落することによってどうして人間身体が固体化したかは、他体自覚であるべき意識が自体自覚意識となり、すなわち自己中心的意識が人間身体の在り様さえも密度の濃い固体化へと向かわせたということだ。身体改造、改革が具体的にどう為されていくのかはわからないが、今の身体的在り様が輪郭は同じだとしても本然の状態と全く同じだとは思わない。超感覚意識、即ち物質肉体に封印されていた霊感が解放されるに従い、天地が一つになって神霊を地上に受け取る、本来の合徳の意味を私達は知るようになるだろう。

2013年9月23日月曜日

今日の想い 631

祝福を受けた男女であっても、この世の男女関係でも、横的な愛は横的な愛だ。縦的な愛を立てて、縦的な愛に合わせて横的な愛の関係を築くのか、縦軸を無視するか曖昧にしたままで横的な愛の関係に入るのかの違いがあるけれども、それでも横的な愛は横的な愛だ。祝福家庭の夫婦関係が、横的な愛として花開いているかどうかは、二世にも影響するだろうしこの世の人達が祝福を受けたいと思える動機にもなる。縦的な愛を無視できないのでこの関係を維持しなければならないという縛り先行で、横的な愛、天の願う夫婦関係が本当に築けるだろうか。横的な愛に限って見た場合、この世の愛の関係性の方がより花開いているとは言えないだろうか。もちろん咲けばいい、咲いて直ぐ散るにしてもまた咲かせればいいとは言えないことは承知した上での問いだけれども、この世の愛の花の方が魅惑的であることは確かだ。取って食べてはならないという戒めの期間を越えれば、戒めはとけて、食べることを許される。しかし祝福家庭として絶対性に立てば、相対者以外から取って食べることは勿論許されない。それは解かれることのない戒めとして私達の中にある。しかしこの戒めは夫婦の横的関係がうまくいかず、横的な愛として花開かないが故の横的愛の渇望からくる戒めであって、天国の門が開かないから楽園や中間霊界が現れたように、本来横的愛が花開けば現れる必要のない戒めであることは察しが付く。私の中にこの戒めがあることは、未だ完成基準に届かない人格であり、それは縦的愛の関係が歪であり横的愛が正しく垂直の位置で為されないか、或いは横的愛の重要性をどちらかが無視している場合もあるだろう。夫婦の愛が横的愛として花開いていないということだ。ティピカル(通常の)な男性食口はどこか世捨て人的な部分があり、女性食口はどこか美の対象であることを捨てた部分がある。この世的に言うとダサい、魅力がない。ダサい男と魅力のない女のカップル、これが本当に祝福の証しになるのかどうか一度考えてみた方がいい。縦的愛は主体であり横的愛は対象であるけれども、横的愛の刺激で縦的愛をより深めることができる。

2013年9月20日金曜日

今日の想い 630

御父母様を片時も離さずしっかりと引き付けて歩むべきだ。罪意識故に距離を置いたり、或いは御父母様のツバキ圏内では翻弄されるからとわざわざ距離を置いたり、み旨を歩みながらも意識の隅に持ち続けていた習慣的なマイナス感情が邪魔をして、後天時代に入っても相変わらず距離を置いている。それは御父母様と心情の因縁を結ぶことにはならない。御父母様との距離を感ぜずにはおれないとしても、距離を置いた位置で仕方なく安住するのではなく、御父母様の関心事を敢えて創り出してでも、御父母様を私に近付ける意志を強くしなければならない。今日の一日、片時も御父母様を忘れずに、語りかけもし聞き耳を立てながら歩んできただろうか。一日の全ての体験が、御父様の心情を尋ねる意識の量りにかけられただろうか。何一つ偶然的な出会いはなく、何一つ意味なく御父様との関係性のない出来事はない。習慣的な一日のサイクルであっても、それはリズムが同じなだけであって体験は全く異なる。何を学ばせようとしているのか、何の意味があるのか、掴み取りたい一心で噛み付かんばかりに御父母様を引き付けるべきだ。祈祷も習慣的惰性的であるなら、そんな適当な祈祷を立ててわざわざ御父様への意志を力ないものに括るべきではない。生活即祈祷生活であるべきで、御父母様を片時も離さずしっかりと引き付けて尋ねる姿勢は祈祷そのものだ。祭壇の御前の祈祷は総括祈祷であって、総括祈祷は祈祷生活あってのことだろう。来る日も来る日も、御父母様を片時も離さず引き付けて歩めば、御父様の心情の欠片のひとつでも差し出されないことがあるだろうか。求める者には応えなければならない親としての道理は、御父母様が最も熟知しておられるはずだ。

今日の想い 629

み言葉を受け入れみ旨の道に来れたのは、先祖の功労に拠るところより、御父様との、或いは御父様と縁のある先輩食口との、何がしかの縁があってのことであり、その縁に御父様の払われた犠牲の条件が供わって導かれている。この道に来れたのは先祖の功労に拠るものだと言われてきたが、勿論その部分もあるだろうが、そうであるならどうして食口は癌になる確率が多く、どうして貧困に喘ぎ、どうして苦労の多い生活になるのだろうか。功労があるなら、この世の者たち以上に元気で、この世の者たち以上に富み、誰よりも幸せな生活を送るべきではないだろうか。そうなると私達は功労の薄い者達だと言える。よく食べよく生きる人生、運勢のある人生とは言えないだろう。36家庭の先生や、御父様に直接侍る位置で歩んでこられた諸先輩家庭は、確かに特別の功労と縁があって導かれている。しかし、一世として、御父様と共に歩んできた私達の多くは、功労少なく7代を通して積み上げられた清算すべき蕩減が多いから、それ故に先んじて選ばれたと見るべきだろう。蕩減すべきもの多くてもこの道に来れない者は五万といる。その中で出会って歩めることについては確かに功労ゆえだろう。功労の少ない者が功労の多い者を伝道するとなると、伝道される側の先祖は福を貰うのではなく福をあげる事になるので伝道される時を待つと言う。だから伝道は難しい。そうなると功労を量って伝道すればいいものだが、功労以上に御父様への精誠が事態を動かすということであり、だから私達はどこまでも精誠を供えていく。愛といっても私達は感覚的なものを越えた愛の関係を求めている。真の愛の概念は一般的愛の概念からは遠く、どちらかと言うと犠牲の概念により近いだろう。真の愛の何たるかはわからずとも、犠牲的歩みの中でこそ真の愛の本質を受け取るようになる。それを思うと、下手に功労があって運勢のある人生を送らない方が、真の愛の本質に近付けることになる。功労を持てずに生まれたことが、御父様に出会うことで功労以上の功労を備えることができたと見るべきだ。そういう私達は未だ犠牲の道の途上にある。過去ほどの迫害や批難はなくとも、どれほど天の勝利圏は築かれようとも、それでも私達は犠牲の途上にある。それは犠牲をして歩んできたものが体に染みついているからだ。要するに私達は貧乏くさい。もはや犠牲の期間を終えて、投入すれば投入した分だけ結果が得られる時代圏に入ってはいるが、貧乏圏に隔離された意識のままでは富裕圏に入り込めない。意識変革には或る程度の時間が必要だろう。それでも時代は確実に変革している。めまぐるしく動く社会情勢、あらゆる価値が一日をして大きく上下する今、その混乱の中から頭角を現すのが統一の群れだ。霊的に見ると白い衣を纏った群れが地上世界を席巻していく。蕩減のない時代とは罪の清算を先送りできる時代ではなく、抱えたものを即審判される時代だ。

今日の想い 628

人間を霊界へ誕生させる為の宇宙の胎が地球なら、宇宙の凹凸は何だろうか。霊人の父は誰で、母は誰だろうか。そう問えば直ぐにも返ってくる答えがある。地上で私の父母はこの人だと認識していると同じように、霊界で霊人としての私の父母はこの方ですと言える存在が真の父母だろう。真の父母が宇宙の凹凸だ。真の父母の凹凸の一体圏から霊人としての私は生まれた。地上で御父母様にお会いし、地上で御父母様との心情因縁を結んだ。お会いしたことが霊的意味で父を知り母を知ることになる為には、御父母様との心情因縁を生命を越えて大切にしなければ私は御父母様から生まれなかったことになる。地上で日を重ね年を重ねるほどに心情因縁は深くならなければならない。御父様が聖和されて、霊界におられる御父様は、霊界から私に親の愛を投入しておられる。眠りの深み、無意識圏で投入しておられる。御父様を強く慕うことで、無意識圏の御父様の愛が意識圏に上がってきて、訳もわからず涙する。意識の欠片でも眠りの深みに持ち込めば、御父様の表象を夢として受け取れる。地上には御母様がおられる。御母様は地上という意識圏で母の愛を投入しておられる。御母様の母の愛は霊的な母の愛、聖霊による愛だ。母の胎、宇宙の胎の中に包み込まれる愛だ。神様の結婚式、天の御父様と天の御母様の結婚式がなされて、私達は真の御母様の新生胎の中で育っている。それに合わせて今、地球は先天時代とは異なる後天時代として、新生地球の上に立っている。足する地球の土台が先天時代とは全く異なっている。御母様の新生胎、宇宙の新生胎の只中にいる。どれほど御父様を否定し、御母様を否定しようとも、無意識にも足場は御母様の胎の中にある。そうであれば否定しようにも否定する程に自らの存在自体を否定しなければならなくなる。地上実体としては地上の一点にも満たない御母様の存在であっても、地球を包み込み、宇宙にその生命体を広げておられる。

2013年9月18日水曜日

今日の想い 627

死守すべきは絶対性であり、あらゆる感覚的誘惑から絶対性を守らなければならない。しかしそれは、感覚的なものから自分を隔離することではない。性の要求を中心としてみた場合、宗教は否定して否定して、ひたすら否定することで感覚世界を越えた精神的満足を追求してきた。しかし科学は逆にひたすら肯定することで感覚世界への満足を追求してきた。衣食住を満足させ、さらに感覚的満足を満たしてくれる現代文化は、科学の発展なしにはあり得ないし、科学の発展の動機の中には、性への要求を満たしたい衝動が見えない深みで働いている。英雄色を好むと言うけれど、英雄に限らず殆どの一財をなした人物には、色への強い衝動が動機の中にある。インターネットがここまで発達した背景にも色への要求が大きく影響している。宗教一辺倒でもない科学一辺倒でもない、宗教と科学をひとつにして理想世界の実現を標榜するのが私達のスタンスではあるけれども、それをただ漠然と捉えていてもひとつにする何の力も及ぼさないだろう。押し寄せる感覚的誘惑を否定し、ひたすら抗う一生を送るとしても、それでみ旨への貢献を認められるかというとそれはないはずで、み旨の為にはこの世を屈服させる環境要件も私達には願われている。この世を屈服させる為には地位名誉財産といった外的に見上げるものも必要であり、外的に見上げるものを得ようとすれば感覚的なものへの要求をどう自分の中で発動させるかだ。感覚的誘惑にはまらずに感覚的要求をどう発動させるかだ。教会の食口は良くも悪くも欲が無い。欲が無ければ地位名誉財産とは無縁だ。万物の木の前でひたすらお願いするなら、自分の中に万物への追及欲が出ることを先ずお願いすべきだ。欲のない意識状態を変えずに一攫千金が舞い込むなどと思わない方がいい。個性完成は地位名誉欲が関わり、子女繁殖は性欲が関わり、万物主管は財欲が関わっている。それらの欲をどう主管して感覚的誘惑にはまらずに感覚的要求を発動させ、三大祝福を全うする力とするかが問われている。欲がない人間になることが願われているのではなく、欲は持つべきであり、それをどう主管するかが問われている。性の要求を中心としてみた場合、否定しブレーキをかけることも勿論必要だが、その衝動をどうみ旨に活かせるかを問うのはそれ以上に大切だ。

2013年9月15日日曜日

今日の想い 626

若くしてこの道に来たので全てを捧げて献身とは言っても、実際捧げるものも否定すべき思い入れもなくて、今思えば軽い選択だった。ただひとつ私に対する親の想いを蔑ろしたことは確かで、それは私にとって確かに苦しい選択だったが、私が内的イサク献祭をしたというより親が条件を立ててくれたと言った方が当たっている。しかし多くの食口は捧げるものも否定すべき思い入れも多く、この道を選ぶことは重い選択だったはずだ。更に、全てを捧げてこの道にきて、次から次へと立てられる摂理路程に投入しながら、路程を越える毎に内的な新たなステージに立てると信じて来たはずだ。しかし余りにも忙しい摂理だったために、路程を越える毎にすべきだった内的総括が、個人に於いても全体に於いても為されなかった。自分の中に節目節目で内的総括が為されなければ、一体私の中に何が残ったのか、何が復帰されたのか、何が築かれたのかがわからない。残っている内的霊的事実は確実にあっても認識できなければ何も残っていない錯覚に陥る。認識する為には内的総括が大切だ。献金。確かに献金が大切であることはわかっている。しかし献金先ず在りき、心情(精誠)が伴わなくともみ言葉が無くとも、献金が条件となって侍る生活に代えられた時代は既に過ぎ去った。献金摂理に於いて願われた姿勢は確かにあったけれども、その路程を踏み越えてきた今、確実に立つべきステージがある。それがかつての歩みのように、皆が一糸乱れず同じ行動をとって前進するものだとは思えない。勿論母の国としての願いがあるはずだが、その行動様式まで組織的に枷に嵌めるものではないだろう。全体に於いても、個人的にも、立つべきステージを内的総括によって照らし出さなければ、御父様が聖和されたことによる暗闇に投げ込まれたまま、混乱の度を深めて行くことになる。確かに教会は混乱の中にあることは否定できない。しかし問題は私の内的混乱であり、内的混乱をどう収拾するかだ。私が立てば教会は立つ。所詮信仰が無いからと言い放って、その一言で内的総括を怠れば、どうして御父様から相続したものを私の中に見出すことができるだろうか。

2013年9月12日木曜日

今日の想い 625

心情という言葉は実に重い言葉だ。心情主義だと掲げれば、私の事情や感情を優先しないどころか否定してまでも、より高次の願いや想いを自分の願いや想いとして生きることになる。個人を否定しても家庭、家庭を否定しても氏族、氏族を否定しても国家、という風に、より公的な願いや想いを優先する。そう説明すると思考でしか受け止めないけれども、心情が重い言葉だと言うのは、思考では把握できない領域、思考では動かすことが出来ない重い愛の波長、犠牲的愛の波長で綴られるものが、心情という言葉に表わされるからだ。私達が愛という言葉を使うとき、それが博愛や親の愛のような見返りを望まない愛であっても、心情の領域にまで至る愛となると私達の愛の概念を越えている。敢えて真の愛という言葉を使って私達の愛の概念に留まらない愛、心情に至る愛を表現しているいるけれども、真の父母によって開かれた心情世界は真の愛の磁力が及ぶ真の愛の磁場圏として広大なる宇宙さえも包み込んでいる。私が心と体があるように、宇宙という外的現われの背後には原因的な心に変わるものが必ず存在している。私が思考感情意志の存在であるように、宇宙にも思考が働き感情が働き意志が必ず働いている。それをどこまでも機械的自然、機械的宇宙として、宇宙心魂が働く原因存在を否定するなら、自分自身の思考や感情や意志も幻想に過ぎず、確かに存在するのは肉の塊だけになってしまう。認める認めざるにかかわらずそれは唯物主義だ。無神論を信奉する唯物主義だ。それはこの宇宙創造に何らかの力が働いたことを信じて当然だとしても、それが機械的力に留まる限りは唯物的神でそれは神とは言わない。力は意志なくしては作用しない。宇宙秩序への力が崩れることなく作用しているのは意志が働いていることを認めて当然だ。自然に何々する、と言う言い方は実に誤解を生む言い方だ。そこにはこの地球の自然が何の意志もなく動いていることを当然とし、前提としている意味合いが含まれている。自然にも当然意志が働いている。このひと吹きの風にも、このひと雨にも、朝に日が昇り夕に沈むのも、打ち寄せる波の一つ一つに、何一つとして意志のない動きなどない。私が生まれるにも生まれさせる意志があり、私が死ぬにも意志が働く。勿論、生を維持するにも意志が働いている。何一つ意志が働いていないという意味での自然に、、という作用はない。それが理解できれば呼吸する一つ一つにさえも、空気を存在させている意志への感謝が込められる。生存を支え、心魂を満たしてくれる自然の存在は、その背後に犠牲的愛に貫かれた意志存在がある。犠牲的愛で生かされている私は、心情主義に立って生きるのでなければ、犠牲を食い物にするだけの獣にも劣る存在だ。

2013年9月11日水曜日

今日の想い 624

一つの仮定として、創造理想完成は人類に於いて真の父母を立てることであり、神様が天宙で最高の位置として立てられた人類ヒエラルキーで真の父母を立てることが何よりも優先されたのであり、よって人間世界に次ぐ天使世界は男性性だけの世界として、女性性は真の父母が立つまでは創造されないのではないか、と言うふうに立てることができる。ようするに愛にも秩序があって、秩序を無視した真の愛はなく、神様の縦的真の愛による創造として打ち寄せる波は真の父母を立てる為であり、打ち寄せた波が引いて行くのは真の父母の横的真の愛をして引いて行く。引いて行く過程で、真の父母による真の愛の天使世界祝福が引き寄せる波として覆われると言うことだ。そうなると真の父母は人類の真の父母であると共に、天宙の真の父母であると、よって当然天使世界の真の父母でもある。天使長ルーシェルは真の父母が立つのを待って、真の父母が天使長を祝福して相対を下さるのを待つべき立場にあった。しかしルーシェルはあろうことか真の母になるべき存在、エバをそそのかして自分の相対に立ててしまった、と言うことになる。愛の秩序を無視したことになる。霊的事実は時空を越えた事実であるから、過去の過ぎ去った事実ではなく現行の事実だと言うことができる。霊的感性が完全に開かれれば霊的事実を見るわけだけれども、血統一体圏が私であれば私の存在の核、即ち私自身が堕落に関与しており、人類始祖から私まで線を引いた、血統上のあらゆる出来事が私の存在の在り様となっている。霊的無知の地上意識としては、私が個として血統圏から解放されたかのように生きているし、蕩減としてかかる血統的に繋がれたものを見ないのであれば地上の目に映る色と欲の世界が人間にとっての全てだろう。人類始祖からの血統一体圏の私だと認識して、敢えて罪とその清算を念頭にする塞ぎ込むような地上生活を送るのは私達だけだろう。その私達も、救い主に教えられてその事実を知ったのであり、知って地上生活の本来の意味するところを歩んでいるのであり、そして未だわからない多くの無知を抱えながらも、不信を抱かず真の父母に従い歩むことで霊的な私、すなわち血統一体圏の私を真の父母の中心にアラインさせながら治療している。真の父母に正しく出会わない者は、地上生活という一瞬の刹那を生き、無限大の宇宙の中の針の先にも満たない場で色と欲に生きている。創造理想への宇宙の波が完全に打ち寄せるまで行かずに、その途上で堕落してしまって頓挫した、そのいつ崩れさるかも知れない波間の刹那に生きている。真の父母に繋がれた私達は、知ると知らずに関わらず、真の愛の引き波で人類と万物と地球と宇宙と霊界の隅々までを覆い行く、先行的群れの指導的位置で権能を行使していくようになる。もし人類が真の愛の引き波に抗うなら、万物が、地球が先に感化されて、引き波は更に大きくなるだろうし、そうなれば人類はその生命をも犠牲にして真の愛の引き波に流されるだろう。私達はこれから真の御母様の権能を見る。天のお母様の恐ろしい力を見る。

今日の想い 623

霊的堕落と肉的堕落、霊的堕落はルーシェルとエバとの関係による堕落であり、肉的堕落はエバとアダムの関係による堕落だ。霊的堕落に関しては動機や経路が事細かに説明されていて、霊的なことは不案内であっても理解はできる。しかし肉的堕落に関しては事細かにと言えるほどの状況説明がない。個人的感覚としては随分簡単にエバの言いなりになったアダムの稚拙ささえ伺えるようだ。先の投稿で振れた「み言の証」の中に堕落の経路について説明された御父様の御話が載っている。そこには、エバがアダムのところに行って一緒に食べようと言ったが、アダムは神様が取って食べるなと言われたとエバの誘いを拒否した。(どれくらい拒否したかは言及されていない) しかしエバがしつこくねだりせがむので、「えーい、勝手にしろ」と言って体を投げ出した、とある。原理講論にはない、その時のアダムの感情が伺える御父様の貴重な御話ではあるが、しかしそれでも、アダムの、謂わば単純細胞的な軽さが(男性本能的軽さが、)肉的堕落には想像されてどうも合点がいかない。更に言うと、アダムがもし堕落しないで最後まで拒んだなら、エバはその場で復帰することができたとまで話されている。それほど重要な判断を要する場面で、「えーい、勝手にしろ」とは何とも短絡的で嘆かわしい限りだと思えて仕方が無い。アダムも誘惑されて堕落したので同罪であるように思えるが、時ならぬ時の行為であってももともとエバはアダムの相対の位置に立つべきであったので、肉的堕落にのみ関係したアダムよりは霊的堕落に関係したエバの方が罪が大きいと説明できるけれども、心情という観点からしてエバの方がアダムよりも神様の心情を痛めた、蹂躙したということだと思う。単純にアダムよりはエバへの思い入れの方がより大きかったのだと思う。堕落論によって原罪は明確に説明されたけれども、その詳細に関しては益々疑問が増える。それは霊的内容を地上的に理解しようとする無理から来るものなのか、「み言の証」で付け加えられて説明されているように語られていない詳細の部分が残されているからなのか、その両方なのかもわからない。天使長は霊的存在であるけれども、霊的堕落の事実が証明しているように、男性の位置で女性のエバと関係が持てるように創造されている。天使世界には男性性しか創造されなかったのはどういう理由からなのか、人間との霊的堕落の可能性を持つ天使創造がどうして為されたのか、聞きたいことは山ほどあるのだけれども御父様はおられない。「み言の証」のような、先輩家庭の先生達の証しは本当に貴重だ。

2013年9月10日火曜日

今日の想い 622

原理講論を読むと謙譲語が多く使われている。神様は神様ではなく神と記されてはいるが「中和的存在としておられ」るのであり、「いまし給う」のであり、そのように神様の記述に関しては謙譲語が用いられている。特に日本語にあるような謙譲語だとか尊敬語だとかの表現方法は、科学的認識でなければ真理ではないという唯物論に則した教育環境で洗脳された人間には、そういった表現方法自体が胡散臭い。天を見上げる感情、高次の精神存在に対する畏怖の感情が育たない限り、どんなに理論理屈で神を証明し、霊界を証明しても彼らの根底に受け入れる素地はない。すなわち終末感に襲われ、科学万能主義に立って来たもののそれがどれ程無力で死の前にあっては意味を為さないものかを実感した者しか神様を求めないし、霊界を求めない。み言葉を受け入れ、御父様をメシヤとして認識した兄弟でさえも、意外と畏怖の感情への嫌気感が抜けきれず、自分の良心基準では量れなかったり、理解していた認識が裏切られたりすると、途端に手の平を返したような態度に出て教会に反するようになる。心情に対する正しい認識を持っていない。心情と自分の良心基準とを混同している。この世の者達が御父様を受け入れないように、兄弟達も御母様を受け入れない。そう言うと白い目で見られてしまうだろうか。今、特に私達が問われて試練されているのが、御母様に対する気分であり感情だ。御父様に対しては、どんなことがあってもこの御方について行こうと本人が納得しているのでここまで着いてこれたが、御母様に対しては御父様が先ず在りきでおられたのであって、御父様が聖和されて以降、御母様へ向かう気分や感情が浮いたままになっている。御父様が霊界でどうしておられるのだろうか、と言うような関心よりは、御母様がどうみ旨に向かわれようとしているのか、と言った関心の方がより重要だ。見えない神様を恰も見て会って意見を伺って来たかのように、御父様は周りの策略に嵌っておられて神様の願いに事実上添えておられない、と判断したグループ派と同じように、さも聖和されて肉体を持たれない御父様の今の今の願いを熟知しているかのように、御母様への距離を置いた意見が当然のように為されることは、御母様を真の御母様と認めた立場には無い。今はこれまでの惰性で御母様にもついて行っているような感覚でいるけれども、時間が経てば経つほどに御母様に対する冷めた見方を自分の中に見るだろうし、そうなれば次第に離れて行ってしまう。訓読の重要性はその通りだけれども、訓読しながら御父様を求めて求めて、それで実体を持たれている御母様へ向かう気持ちや感情が同じように付いてくるのかどうか。私が肉体を持ち、この地上に天国建設するのであれば、実体を持たれる御母様に実体で侍ることが最優先されるはずだ。

2013年9月8日日曜日

今日の想い 621

36家庭の先生の「み言の証」という本がある。原理を学べば理性的人間として当然の疑問があれこれと出てくるものだが、その先生は御父母様の御側で侍られながら、他の御方にすれば御父母様に失礼に当たると思えるような質問であっても敢えて尋ねてこられた、謂わば伺いたい本音の言葉、突っ込んだ言葉が、珠玉のように原理のみ言に沿う形で記されていて、み言葉への理解を助けてくれる。更に、こう尋ねたらこうお答えになったと言うように、恰(あたか)も御父様が私の前におられてお答えになるような印象を覚え、聖和されて寂しさを覚える中にあっても、この本を通してお会いできるようで暖かいものを覚えた。どれ一つ取っても乗り出すような関心を誘う証しだけれども、その中のひとつに「私たちが知るべき天のお母様」というのがあって、御母様が立たれておられる今、この証しは御母様に対する新しい信仰姿勢を私達が見出す意味で、皆が知るべきだと思った。御母様の重要性は今に始まったことではないけれども、私達の御母様に対する重要性の認識が、必ずこれからの歩みを実のあるものにしていくはずだ。今は天の御父様と祈祷で呼びかけるのではなく、天の父母様と呼びかける。ただ、神様を天の御父様と呼んでいたのが変わっただけだと、さして深い意味を問うこともなく天の父母様と祈祷しているけれども、それには天の御母様という認識が先ず無ければならないし、その認識があって天の父母様となる。勿論、天の御母様という正しい認識を持てる為にはそれなりの期間も必要であり、み言葉に学ぶ必要もあり、そして深く尋ねることも必要で、手の平を返したようには行かないが、この天の御母様という認識、そして天の父母様という認識がこれからの歩みに大きな実をもたらすことは確かだ。天の御父様に尋ねることで受け取ったものがあると言えるように、天の御母様に尋ねて受け取ったものがこれだと言えるような証しを、私達は数多く持たなければならない。

今日の想い 620

御父様は、人間が霊肉を持つ存在であるように、教会を立てられると同時に事業も立てられた。伝道(牧会)と経済の両輪が大切であることを十分に理解されて、どちらにも力を入れてこられたけれども、教会がアベルで主体的位置であり、そして事業がカインで対象的位置であることはずっと変わりが無い。事業の中でも水産事業は御父様の特別な思い入れがある事業の一つであり、よって水産事業の拠点であるアメリカに、たくさんの食口を日本から集められて事業基盤を築かれたけれども、しかし水産事業であってもやはり教会に対してカインの位置にあることははっきりしている。水産事業の総会に御父様が来られた時、み言葉を戴いたことがあるが、事業はカインの位置にあることを得々と説明されて私達に念を押された。事業分野は教会に比べて発展し易い。事業はこの世の社会が受け入れる土俵で活動するのだから発展するのは当たり前だ。いや、発展して当たり前だ。しかし或る程度発展して結果を出せるようになると、途端に傲慢気分が覗いてきて教会が発展しないのを批判し始める。或いは教会から離れ始める。事業に携わる者が貢献してきたほどの貢献を教会の食口達に見出せないと意見する。牧会者と事業者はその土俵が違うのであり、事業者が投入する苦労や精誠と同じ精神基準を投入しても、教会発展としては砂地に水をまくようなものだろう。だからその点を理解してカインの位置で教会を支えないと、御父様の願いには応えられない。今のこういう状況だからこそ、僅かな歪が一大事になるのであり、カインの本分をわきまえて出しゃばらず、しかし支えていく姿勢が必要になる。事業をやっていると給料として貰うのは当たり前だという感覚があるけれども、牧会者は献金から幾らかの生活費を戴いているのであって、給料を貰っているのではない。敢えて生臭いことを言うなら、給料はいくらでも貰えるけれども、生活費として支給される額は限られているということだ。牧会者の生活費が自分の貰う給料より高いという場合は牧会者側の問題ではなくて、自分の事業への貢献度が低いから給与額が少ないという自分の問題だ。給料としていくらでも貰える位置にあるのに、実力が無いため僅かな収入しかなく、よって献金は更に僅かしか出来ないとなると、自分は恥ずかしいカインだと思わなければならない。

2013年9月6日金曜日

今日の想い 619

聖和一周年追慕式で、御母様を拝見すると御父様が重なって見えるような印象を覚えた者はけっして少なくないはずだ。それは御父様の面影を御母様に見たいという想いから来ていると言う者もいるけれども、しかしそう納得するには、御父様の横におられた御母様を何度も拝見してきた印象からすると、その重みのあるたたずまい、視線の奥にあるもの、表情の晴れやかさ等、何を取ってしても明らかに御父様の印象が前面に出ておられていて、御父様が御母様の中におられると表現した方が最も的を得ている。御父様が突然聖和されて、全てが宙に投げ出されたようで、一体どうなるものだろうかとその不安を隠しきれなかったけれども、今となれば見事に着地されて、後天時代に相応しく実体的天一国建設を踏み出されたと言える。特に、平和大使の話しを聞かれる御母様の表情が何とも印象深かった。平和大使の追慕の辞は御父母様に対する私達の決意を強く促すすばらしいものだったけれども、目を輝かせて視線を送られる、その何とも暖かいものをスクリーンからでも受け取られて、かつての聖霊体験の時受け取ったあの同じ暖かく包み込まれた同じ感情が湧いてきて、自然と目頭が熱くなった。聖霊実体であられる御母様をこの時ほど感じたことは無かった。聖書に記されているペンテコステは異常ささえ感じられるけれども、私達のペンテコステは御母様が温かくも包み込まれて、静かにしてしかし確実に聖霊として、私達の中に、天一国建設の活動の中に浸透していく力として働く。女性神をますます御母様の中に見て行くことだろう。それはあまりにも不思議であり、あまりにも力強く美しく、思考を越え感情を越えた女性神の威信が伺える。かつては、責任者達が御前でお美しい御母様と表現されるのをワザとらしく思えて舌打ちしかねないほどだったけれども、今となれば確かにその表現は間違っていないなと思われてくる。

今日の想い 618

細胞と細胞が相争うことなく共存して、或る器官の形成力、形成維持力を持つ為の細胞間に働く力は何だろうか。器官と器官が相争うことなく共存して、生命個体として活動する力を持つ為の器官と器官の間に働く力とは何だろうか。生命個体を形成している全ての細胞からは同じDNAが検出される。さらにそれぞれの器官系には器官系毎に検出されるDNAに準ずるものが刻印されている。そうでなければ器官として分化はできないはずだ。DNAのブループリントに沿って、或いはDNAに準ずるブループリントに沿ってひとつになった細胞間に働く力は、細胞を産み出した母細胞を中心として兄弟細胞が授受作用による一体不可分の関係性で形成力、形成維持力を得ている。人間に限らず固体形成の次元では、寸分の狂いもなく形成力が発動されている。にも拘わらず、天国という創造理想に対しては、そのDNAを人間という天国細胞に正しく刻印されてはいない。細胞は細胞内に父の部分と母の部分がある中和的存在だ。細胞分化は細胞内の父の部分が母の部分を通して分化が始まる。真の母であられる御母様は御母様の中に御父様が立っておられる。御母様の中におられる御父様が御母様を通して天国細胞を分化していかれる。それぞれの祝福中心家庭は天国細胞の一つであると同時に、心情という核を持った天国DNAを刻印されている。天国細胞である祝福中心家庭のそれぞれは真の母の胎から出た兄弟関係、カインアベル関係にある。天国細胞が天国細胞として共存し一体化する為には、真の母を中心としなければ異常細胞として淘汰されざるを得ないだろう。真の母を中心としなければ天国形成力、天国形成維持力は得られない。私達の一体化は真の母、御母様を中心としなければあり得ない話だ。御母様への批判を口にして憚(はばか)らない者は、異常細胞として扱われて、天宙から排除されてしまうだろう。み言葉の改悪などと、恐れも知らずに書き残す彼らの本当の動機を、彼ら自身ですら把握してはいない。それは御母様に対する間違った認識、或いは御母様が周りの者にいいように扱われていると言うような御母様を象徴的存在ぐらいにしか思っていない真の母の意味が全くわからないことからくる、無意識の霊的混乱がその動機となっている。

今日の想い 617

まだまだ御母様の重要性に対する認識が不十分だと声を大にして言いたい。御父様が聖和されて地上にはおられないから、だから御母様が代わりとなられて、、という御父様の代理としての認識を御母様に対して持っているはずだ。その認識も間違っているとは思わないが、しかしその認識以上に大切なのは、御母様は真の母であられ聖霊実体であられるということだ。御父様は実体み言であられ、ロゴス(み言)の神であられるようにロゴスの実体として立っておられる。神様が性相の位置で形状としてのアダムとエバを中心とする天宙を創造されたように、実体み言の御父様が性相の位置で形状としての御母様を中心とするカインアベル一体の地上天上天国を創建される。み言葉を実体化する為には御母様抜きではあり得ない。御父様は御母様を真の母として立てる為に来られたとも言えるし、更に、御父様も御母様によって御父様足り得た、御母様によって御父様も勝利の御父様となり得たと言える。御母様は2020年という目標地点を私達に与えられたけれども、私が心配する次元を遥かに越えた位置で、み言葉を実体化する、即ち地上天国のブループリントと天国建設のシナリオは明確に御父様の天国の種を宿した御母様の中に存在している。それは考えとして持っておられるというような次元ではなくて、女性が精子という種を胎に孕んで人間を産み出すというような、そんな天国実体化への天宙的妊娠力、天宙的出産力を持っておられるとでも説明したらいいだろうか。御母様を人間的にしか捉えられない者はこれからの天国建設の過程を明確にその目にして驚くだろう。御母様は御父様の種、天国という実の種を戴いて、天国を妊娠し、出産されるはずだ。祝福中心家庭は既に受精卵が細胞分裂していった天国の基礎細胞に等しい。天宙が霊肉の人間様相を呈しているように、そして宇宙が人間形態の様相を呈しているように、天国もまた人間の様相を呈している。祝福中心家庭はその中心器官になっていく。

今日の想い 616

ブログのコメントの遣り取りを見ながら、否定的な兄弟にどう間違っているかを説明するにも、既に論理では無理があると思われた。否定派肯定派両者のステージが既に異なっている。同じ言葉でも異なる言葉として受け取る。霊界を信じていると言っても、正しく信じようとしている場合と間違った認識の場合と二通りある。正しく信じようとしている方向性ではあっても未来的に完全な霊的知に至るのであって、今という時の断片での認識には間違った部分もあることは認めなければならない。しかしそれでも霊的無知から霊的知に至る正しい方向性にあれば、その人にとっての霊的背景、霊的環境が既に協助体制にある。霊的背景、霊的環境が異なる二人が同じ言葉を使って遣り取りしようとしても、全くかみ合わないという場合が出てくる。特に地上界霊界の壁が取り払われた後天時代はその傾向が益々顕著になってくる。み言葉は霊的な言葉だ。食口の間で同じみ言葉で教育を受けたにも拘らず、以前には無かった捉え方の違い、認識の違いが起こってきたのは、壁が取り払われて霊界がダイレクトに影響を与えるからだ。それぞれで背負っている霊界が異なるからだ。特に情報解放社会となって、教会の実情、御家庭の実情、御父様の過去の事実などがあからさまに遣り取りされるようになると、それが避けられないひとつの後天時代という解放的時代の意味でもあるけれど、そう言った不信を抱く情報も含んだ全てを知ることで、霊界を正しく認識する、み言葉を正しく理解することに拍車をかけるようになる場合と、それとは全く逆に、情報によって自分の中に起こる否定的感情を中心として霊界の認識、み言葉の理解を自分の受け入れられる限定的範囲に留めてしまう場合とが起こる。その場合結局は自己を否定できず自己中心的な志向感情意志に向かわざるを得なくなる。御父様の描く理想世界、御父様の描く地上天上天国ではなく、自分の描く理想世界、自分の描く地上天上天国だ。しかしそんな理想世界、そんな地上天上天国が存在するかどうか、あるいは存在させることができるかどうかは、極めて疑問だ。そこまでの創造性、創造力が本当に己にあるなら、第二の神になれる。創造された存在でありながらも創造神になれる。突き詰めて思考すればそこまで行き着くはずだけれども、おそらく、そんな深い思考による発言ではなく、只の感情に委ねた熟慮のない発言であって、まともに対すれば足を引っ張られるだけだ。

2013年9月3日火曜日

今日の想い 615

妻は一日おきに透析に通っている。管に繋がれたまま4時間、座ったままでひたすら終るのを待ち続ける。血液の流れを外に出してフィルターにかけるのだが、毒素だけろ過できる訳ではない。血液を分離機にかけて血液中の水分を取り出す。そうすることで、水分にふくまれるている老廃物もいくらか取り出せるという理屈だ。血液のろ過装置である腎臓の代替だが、無理して水分を取り出すので血圧の昇降が激しく、以前腹膜透析に移る前に血液透析をしていた時も何度か気を失った。6年前に移植して、その戴いた臓器が弱くなった。今回、体調が悪化して、医者が再度の透析の必要性を告げたとき、彼女は相当落ち込んだ。血液透析だけは何としても避けたいと前から口にしていた。人にもよるだろうが透析のために体調が安定せず、吐き気や眩暈など気分が悪いときの方が多いらしい。透析はそれで良くなるというものではなく、ただの延命措置に過ぎない。体調の不良を代償に、ひたすら生き延びることだけを手に入れる。透析が始まると、ソーシャルワーカーが相談を受けに来る。先ず、遺書を残したいならその手配を手伝うということ。そして、本人が死にたいと思っているかどうかを確認すること。その二点の相談に来る。アメリカでも透析に入る患者は多い。彼女のように急激な高血圧が原因というのは少ない方で、糖尿からくる腎不全から透析に入る患者が圧倒的に多い。透析に入るまでに病に翻弄されていて、既に精神的に相当弱っている。生き続けたいという力を失いつつある。だから透析という延命措置を避けて、そのままで自然死を選ぶ患者も意外に多い。透析をストップすれば1週間を待たずに昏睡状態に陥り、そのまま息絶える。それは患者の判断に任せられる。更に医者も患者に確認する。透析中に心臓が停止した場合、そのまま放置して欲しいのか、それともショックを与えてでも生き返らして欲しいのか。透析センターは、生と死の狭間にある人達が寄り集まる。一歩踏み出せば死への境界線を越える人達が、息を潜めながら座って並んでいる。み言葉を伝えたいのは山々だけれども、生きる力の弱い厭世感情に覆われた人達には、神の言葉や仏の言葉であってもその感情が先ず受け付けない。担当ナースも、当たり障りの無い短い挨拶だけかけると、あとは静かにひたすら終るのを待っている。

2013年9月2日月曜日

今日の想い 614

私が入教した頃の兄弟達は皆輝いていた。私も彼らのように輝きたいと思った。そして自分の親兄弟にも輝いている兄弟姉妹達に会って欲しいと思った。み言葉が入るかどうかは疑問だったけれども、彼らに会えば親は納得するだろうし、妹も弟も入教するはずだと信じていた。あの当時の輝きはいつ頃から失せていったのだろうか。皆が二十代という青年で、地区長ですら26歳の若さだった。あの若さの集まりが輝きを見せたのだろうか。だから年と共に輝きを失ったということだろうか。円字を組み、拳を振り上げ、声も張り上げて青年の木や成和青年歌を歌ったあの力強さ。皆が床を叩き、涙ながらに訴え、家が事実揺れた全体祈祷のどよめき。ヤクザ顔負けの勝共活動の派手な証しや興味深い霊的体験の証しで食事の場はいつも盛り上がった。そして会えない御父様の香りを少しでも味わいたいと必死で中心者の話に喰らいついた。今思うと訳もわからずに満たされていた。若い、スポンジのような求める心魂を、満たして余りあるほどの内的恩恵がいつも与えられていた。信仰に燃え、自身に満ち、希望と理想に溢れていたあの輝きに吸い寄せられるように、伝道は進んでいくはずだと思った。そうしてそのまま地上天国になっていくと信じていた。しかし経済復帰が願われ、献金摂理に突入すれば突入するほど内的な輝きは消え失せていった。輝きは真理と神霊に拠るものであり内的復興をもたらしより輝くけれども、地上的なもの、すなわち物を求めて内的な輝きは復帰に投入されていった。確かに地上的な実績、まとまった献金額が要求されて内的復興から外的復帰に移っていった。だから私達は輝きを失い、光を放たなくなってしまったのだろうか。摂理故に私達は内的なものを犠牲にしてきたのだろうか。もちろん御父様に繋がる(接木される)ことで存在としての霊的核は戴いたのであり、救われた事実は私の中では否定のしようがないけれども、霊的な核がそのまま心魂様相に影響を与える訳ではない。復帰の過程で一度は心魂の枯渇を甘受しなければならなかったのかも知れない。確かに堕落的な自我に根ざした全ての心魂内容を枯渇させ、そうした自己を一端否定しなければ、真の愛の祝福による霊的な核が芽を出し祝福の木の実体として成長していくことは困難だとわかる。私達は堕落的なものを一掃されて、祝福家庭本来の心魂の輝きを取り戻そうとしている。初期教会に象徴的に見出されていたあの内的輝きを、80歳にしてカナン地球星に着地された御父様と共に着地した私達は、あの心魂の輝きを新たな次元で取り戻し輝き増すはずだ。

今日の想い 613

正式にはまだ裁判に入ってはいないが、証人喚問は既に行われていて実質的には裁判状態にある。対TRUEWORLDとの戦いは丸3年の月日を経て佳境に入り、文字通り正念場を迎えようとしている。関係者それぞれに思いや考えはあるだろうけれども、たとえこの裁判をすること自体に頭を傾げる者がいたとしても否応なく戦いに臨まなければならない。病に冒されたら病と闘わなければならないし、家に乱暴者が侵入してきたら闘わなければならない。同じことだ。更に戦いは、私達に大義名分があると信じていても、守る位置ではなく攻勢の位置で臨まなければ、戦いには勝てない。勝利の女神は攻勢の位置でこそ微笑む。一般の信仰者的感覚だと闘うことを良しとしないという判断や気分があり、食口の多くもそうだと思う。しかし相反する方向性が生じ双方が自分が正しいと善の位置を主張するなら、それは闘わざるを得ない。悪の位置で教会財産を奪い、我が物顔で使っているのに、闘うことを辞退すれば自分は正しくない位置だったと認めることになる。既に私達は私という固体の中で心と体が闘っている状態だけれども、その認識の薄い者にかぎって、戦うという言葉に対して拒否反応を示し易い。上辺の平和主義者たちの何とも夢見がちな、自己査察が徹底されない、結局は媚を売ることになる彼らは、未来のことではない今の気持ち、更に人の感情ではない自分の感情が大切だという個人感情至上主義者といってもいいかも知れない。だから私達は上っ面の平和主義者、理想主義者とははっきりと線を引いて、真の平和を求め、真の理想を求めるが故に敢えて戦う。戦う以上は意識の多くをそこに奪われるし、緊張感で疲弊もし、具体的な戦闘費用だって多額だ。日常生活の領域にも、伝道や氏族復帰、献金にさえ影響を及ぼすだろう。いろんな理由を並べて戦うことから逃げようとする自分が少しでもいるなら、そこにこそ集中砲火を浴びせる意味でも戦う意志を強くすべきだ。対UCIの戦いも同じだ。精誠のこもった大切な献金が莫大な裁判費用に無駄に使われている?では何に使われたら精誠として生きるのか。捉え方が全く逆だ。それほどに大切な裁判だからこそ、それなりの精誠をそこに投入する。そう理解して当然だろうに、この裁判はみ旨とは関係の無い事柄だと勝手に決め付けてかかって、正義ぶって意見する。自分の認識が正しいとする傲慢さが正義の服を着ていい気になっているようで気持ち悪い。

2013年8月31日土曜日

今日の想い 612(結果性自己中心)

一度店に入れば、個人的頭、個人的心を預けて置いて、店の頭、店の心に置き変えなければ、店の為に働いているとは言えないだろう。マネージャーから言われるに応じて体はそれなりに動いていても、心ここにあらずではいつまでたっても店の戦力にはならず、皆の足を引っ張りかねない。マネージャーが意識すべきことは、如何に従業員に店の頭、店の心を持たせるかということで、そこに意識を集中させなければいつまでも従業員の尻拭いの為に朝から晩まで走り回ることになる。今まで何百という従業員が入っては出、出ては入りしてきたが、それらの従業員の中で最も店の頭、店の心を持ちにくいのが実は教会の食口だったと言うと、不思議がられるだろうか。店にとって彼らは一生懸命に体を動かそうとするけれども、マネージャーに対して何処かうち解けず、何処か他人行儀な面がある。他の従業員に対しても線を引いていて馴染めない。食口でも日本の食口しか雇ったことは無いし、二世も短期間しか雇ったことは無いので一概には言えないが、どうも観、それは大きくは人生観だが、生活観念であったり金銭観念であったり社会観念であったり仕事観念が固定化してしまって店の頭、店の心を準備するに至らない。み言葉が入っているのだから為に生きる姿勢が大切なのはわかっているのだろうが、体を動かすことのみに限られているようで店の為に、マネージャーの為に、他の従業員の為に心を痛めている様子は伺えない。そう言えば日本で歩んでいる時も、追求が激しく自分のことで精一杯なのか他の兄弟を思い遣ったり中心者の前に他の兄弟を弁護したり等といった様子はとんと見受けなかった。兄弟間には冷たく乾いた関係性しか見当たらなかった。ホームも初期の教会の様子と随分違って、愛の家というよりは収容所の趣きの印象が強い。米兵が戦地から国に帰ってきて一般生活に馴染めないトラウマを抱えている者が多いのを聞くが、こと日本食口に関しても長い戦時体制が続いて同じような副作用が心魂に残っているのかも知れない。おそらく私自身もそうなのだろうけれども、原理の人と非原理の人を分けている。分けるのは妥当かもしれないが分けて差別している。み言葉を受け入れ祝福されて祝福家庭となればアベル圏なのだろうが、知ってか知らずかカイン圏を否定的な目、差別的な目で見てしまって、カイン圏の中に入っても行かないし受け入れようともしない。そんな意識でカイン圏を懐柔できるとも思えないし、この世というカイン圏の中で頭角を現すこともできない。

2013年8月30日金曜日

今日の想い 611

日本から離れて随分になるから、よく事情が呑み込めていないけれども、未だに旧約時代さながら強固なピラミッド体制で献金摂理が進められているのだろうか。生活を極限にまで犠牲にすること、中心者からカラスが白と言われれば白だと認めること、そういったことが絶対信仰絶対愛絶対服従だと納得し、本人達の意志で、傍目から見れば奴隷的にも見える立場を甘受しているのだろうか。私も日本にいる間はほぼ、内外共にがんじがらめの状態にあったからよくわかるが、あの状態を生涯続けるとすれば、奴隷信仰を確立するか、それとも完全な奴隷になりきるか、どちらかしかないだろう。しかし願いは願いとして多くを抱えている様子で、何枚もの祈願書を奉じているようだけれども、意志をもたないことを意志した奴隷信仰と、願うという意志を差出す祈願書とを、どう本人の中で辻褄を合わせているのか私にはわからない。もちろん日本が立ててきた基準は世界万民誰もが頭を下げざるを得ない。しかしそれは母として立つ為の犠牲だったはずで、御父様が母の国と認められた今は母としての権威を持つ必要がある。母は奴隷ではない。母の国を背負って立つ食口が先ず旧態依然の奴隷意識を撤廃して、内的な責任意識、責任感情を起こし、外的にもはっきりと声を上げ、御母様と一つとなった位置でみ旨を牽引していく自覚が必要だと思う。今までの枠組みが、基元節を越えて、母の時代、女性の時代に入って、そのまま通用するのかということも考える必要があるだろう。組織体制がそうあるのは御父様の願いから来ているのではなく、願いを受けて実体化する為のツールであって、組織体制というツール作りには宗教的な事柄からどうしても政治的な事柄へと踏み込んでいかなければならない。しかし出来あがった組織体制を絶対としてしまうと政治的支配からは逃れられなくなる。宗教があって政治があるべきで、本末転倒すべきではない。ブログに上がってくる情報のニュアンスをどこまで信頼すればいいのかわからないが、どうも日本の食口の中には内的にも奴隷化されている者がいるように思われる。絶対信仰と鵜呑みとは異なる。絶対服従と奴隷とは異なる。長い奴隷生活で奴隷でしか生きられないとなると、それは悲劇ではないだろうか。

2013年8月29日木曜日

今日の想い 610

反対派の意見として教会側の食口の感情を煽るような言い方をするのは、別に今日に始まったことではない。しかし自分を教会側の位置に立っていると自認する者が、その言い分としては反対派の意見と同じように感情を煽るものがあって、正しいか正しくないかは別としても目糞鼻糞の類と同じようで何とも情けない。教会側に立つと自認するなら同じ面に立つ左に対する右という位置ではなく、反対派の位置から数段高い位置に立って意見して欲しいと思う。反対派に対して義憤の思いで戦う姿勢を取っているのかも知れないが、兄から弟、弟から兄という平面の次元ではどちらも屈服しない。どちらかが父の事情心情に立って相手に対するのでなければ、お互いの論戦に愛は関与せず、一つとなる接点は永久に見出せないだろう。400もある統一教会のブログ村で真理と神霊が関与すると思われるブログは片手で数えるほどしかない。あとは取るに足りないものばかりで、苦労の百科事典の統一教会であれば涙なしでは聞けない証しを持っている食口は五万といるだろうに、ブログとなると、どうしてこうも情けないものばかりが順位を上げているのか、溜息が漏れる。そういう訳で一時はブログ村に入れてもらっていたが、今は誰も寄ってくれない名も無い親父の日記だ。えてしてカイン側の方が知恵もありこの世的実力もある。ソロモンを頂点とする祭司集団はアベルの系統だけれども、ソロモンの神殿を立てたのはヒラムを中心とする石工集団であり、カインの系統だ。石工集団は後にカインの系統としてフリーメイソンへと繋がり、やはり実質的にはカインの系統がこの世を支配している。しかしカイン側は好きでカイン側に立った訳ではなく、それなりの背景があって神様に距離を置く立場、すなわちサタンがより愛する立場に立ってしまったということだ。その背景を問うことも無く一方的にアベルの威厳をかざしても、失敗してきた摂理をいくらでも繰り返すことになってしまう。反対派が現れた事、グループが現れた事、それは以前の摂理でアベルとカインが一つになれなかったが故であり、彼らの出現にアベルも十分に関与していて他人事ではない。しかし、その認識が無い。謙虚さが無い。カインがアベルを殺すまでに至った、あの世紀の因縁があらゆる場面で息を吹き返している。カイン圏にはカインが生きて働いている。アベル圏にもアベルが生きて働いている。遠い太古の話ではない今の今もアベルとカインの戦いは再現されている。母子協助時代は父を立てる為であったけれども、父が立った今は父子協助時代であり父が協助して母を立てる時代だ。皆は未だに御父様により意識が向いているようだけれども、全ては御母様に御母様に意識が向かわなければならない。御母様を立てるために御父様は全面的に協助されておられる。母が立たなければアベルとカインは一つになれない。母が中心となってこそアベルとカインは一体圏に立てる。聖霊実体であられる御母様に意識を向けるのでなければカイン圏の位置からも追い出されて隔離される、すなわち現代的島流しの憂き目に会うだろう。

今日の想い 609

み言葉で審判される。み言葉を訓読し、理解に及べば及ぶほどみ言葉が私を裁く。私は項垂(うなだ)れるほどに愛の減少感を覚える。御父様との遠い距離を、愛の光の届かない位置を、自覚させられる。それでも出来得る限りのみ旨への献身を自らに強いる。それで減少感が満たされるというものではない。アダムとエバへ向かう神様の愛に比べて、もはや自分へは見向きをされない神様のように思えたルーシェルほどではないにしても、それでも愛の減少感で私の心は空洞となり冷たい風が吹き抜ける。多くの兄弟達が去って行った。この道に自分が求めるものはないと結論付けて去った兄弟もいるだろうが、弱さを克服できずに、着いて行くことができなくて去って行った兄弟が殆どだろう。彼らの気持ちならよくかわる。私はと言うと、しがみついたままここまで来て、今は僅かに引っ掛かったまま、いつ吹き飛ばされるのだろうかと案じている。み言葉を必死で読み解きながら、箸にも棒にもかからない私の家庭であっても、それでも祝福家庭として勝利圏を相続できる何らかの道は残されているはずだと躍起になって探すのだけれども、み言葉を理解すればするほど、み言葉が私を裁く。相対が絶対信仰に立てないのも結局私の責任だ。相対が立たなければ子は母と一体なので子も立たない。三代を祝福して家庭的基盤を築かなければ真のオリーブの木の実は収穫できない。霊界の先祖はよくわかっていて、実体を持たない先祖は何とか目覚めて欲しいと妻を打つ。執拗に打つ。しかしどれだけ打たれようとも些細な条件にしかならないだろう。それでも打たないよりは打ったほうがいいということだろうか。私も妻も気を許せば崩れ落ちる。辛うじて持ち応えているけれども、バランスを崩す何らかの横的力が働けばひとたまりもないだろう。兄弟達は、自分は人間でルーシェルとは違うと思っている。天国に直行できると思っている。しかし文明に、三代圏が立ち氏族復帰を為した兄弟とそうでない兄弟は位階が異なる。霊的な地位が異なる。アダムエバと天使長ルーシェルの位階が異なるのと同じだ。位階が異なれば愛の減少感を覚えるのを越えて、第二第三の位置で勝利に近い兄弟達を支えていく使命を担う。とにかく勝利する氏族メシヤを一家庭でも多く輩出するのが天の願いだからだ。神様が認定するアベルの祝福家庭がある。アベルに認定されなければカインの祝福家庭になる。だからと言ってカインとして分けられた寂しさにうち沈んでばかりはおれない。アベルを支えアベルが勝利することで一体圏のカインも引き上げられる。自分や自分の家庭が見捨てられてしまったようで、教会に対して反感を覚えたり、これだけ頑張ったのに実らないと落ち込んだり、いろんなカイン的感情が噴出するだろう。しかし全てがアベルになれる訳ではない。カインの位置に立つ運命だったと理解し、カインの位置で貢献できることに感謝もし、この世の先頭に立つのはカインの祝福家庭だ。この世的実力もつけ、この世の先頭に立ってアベルの祝福家庭を支えて行く。

2013年8月27日火曜日

今日の想い 608

時として、祈祷した後の自分に嫌悪感を覚える。心がすさんで不純な憤りや不満がくすぶり続けているのに、心にも無い乾いた言葉を繋ぐことで自分を誤魔化している。そのことに嫌悪感を覚える。胸糞が悪くなる。形だけはこうべを垂れて謙虚な言葉を口にする、数え切れない祈りの中で、どれだけ神様に通じるものがあっただろうか。いや、本当は己を偽る醜い言葉の羅列など、神様に届いて欲しくないし聞いて欲しくも無い。皆の前で公に祈祷する場合はどうしようもないけれども、嫌悪感を残す祈祷など祈ったことにはならず、それどころか現実の自分に対して更なる呪いを事実上かけている。或る日の日記では祈祷の重要性を訴え、そして今日はというと、どうせ祈祷にならない祈祷しか出来ないなら辞めてしまえと真逆なことを訴える。神様に向かい、神様とひとつになる対象の位置に立ちたい心情動機が祈祷に向かわせるなら、私は先ず偽りのない自分を用意しなければならない。私の中に燻ぶり続ける堕落の血に流れていたものが見受けられるなら、それ故に神様の想いが子への愛が直接に通じない、その苛立ちと腹立たしさを込めて悔いて改めなければ対象として神様の前には立てない。神様へ向かわせる祈りも、我知らずサタンと協議して己を貶める呪いも、同じこの表情でなし、同じ行動でなし、同じようにこうべを垂れて祈祷する態度でなしている。巧妙な蛇が気付かれないように血流の中で蛇行する。鳥肌が立つほどに蛇を忌み嫌うのは、それを見ることで私の中で蛇行する蛇を無意識にも自覚しているからだ。習慣的な生活に没したままで、祈祷できるほどの姿勢は正せない。習慣というサイクルに、リズムに、既に堕落的なものが流れている。天暦(陰暦)を中心とし、安侍日を中心とし、訓読時間を中心として天的なサイクルに、リズムに合わせられる自分を再創造しなければ、この世の生活圏と何ら変わりは無い。一方では絶対信仰絶対愛絶対服従の核と一つになろうとする報告祈祷と、今一方では天的サイクル、リズムパターンを生活圏として当て嵌めて、両方からの挟み撃ちではもはやサタンが介入できる隙間はなくなっていくはずだ。

今日の想い 607

体は痩せ細っていながら、顔と足だけは膨れていた妻だったが、それが浮腫(むく)みの為だったことを再度確認させられた。最近また透析が始まり、浮腫みが引いた足は以前の半分になった。半分になった彼女の骨々しい足を揉みながら、元気で若々しかった頃の彼女の姿を思いだそうとしても、どうしても思い出せなくてうろたえた。ノースカロライナの小さな町で家庭を出発した頃の妻、食口達が日本に引き揚げて店を営業する為に二人で走り回っていた頃の妻、子供が生まれて育児に忙しかった頃の妻。思い出せない。映像としては脳裏に浮かぶものはあるけれども、その時の実感情をありありと再現できない。肉体は生きていても、感情の深み、心情として植え付けるほどの深みに刻む心情生活を送っていなかった。どうしても離れず、胸の内に焼き付いている感情は、妻が病気になった頃からのものだ。人間は痛み苦しみについてはその感情をしっかりと心魂に刻んでいる。しかし歓び楽しみについてはなおざりで、心魂に刻むほどの特別の感情として味わってはいないらしい。だからどうしても人生を振り返った時に、辛く苦しい人生だという印象の方が強い。日々の些細な出来事や出会いは、自分が気付かないだけで、実は心魂に刻みつけるべきほどの歓び楽しみに満ちているのだろう。確かに子供が生死を彷徨うほどの熱を出した時、いくらか回復して一匙流入食を口にしてくれた、あの些細な出来事に思いだせる喜びの感情は強烈だ。私の人生が光輝き、恍惚とも言えるほどの歓びの感情の数々、受け取る心情の数々を霊人体の霊的感性、霊的骨肉にして霊界生活を送るのだろう。妻の痛みが、骨肉を削る犠牲が、夫としての深い気付きを、さらに家庭としての気付きを与えてくれたのであり、些細な出来事から奇跡と思えるほどの歓びや楽しみの感情を引き出してくれる。妻も元気で不自由のなかった頃が、実は心魂生活としては最も不自由だったのかもしれない。霊的心情的感性の不自由な存在だったから、思いだそうとしても見当たらないのだろう。それでも霊界に旅立つときには、全ての出来事を振り返る。今は見当たらずとも、心魂に刻まれた全ての出来事を振り返りながら、霊界に持ち込める心情を確認する。

2013年8月26日月曜日

今日の想い 606

絶対信仰、絶対愛、絶対服従は、生殖器に対するものだというのが1999年の絶対信仰絶対愛絶対服従の核、そして二十節のみ言葉だ。この地上には男がいて女がいる。男は女を求め、女は男を求める。そうして男と女、求めるお互いを組み合わせようと思えばどのようにも組み合わせられる。一夫多妻でも多夫一妻でも好きなように組み合わせられる。一つの凸にただ一つの凹しか合うことは無いとするなら堕落は無かったのだろうが、一つの鍵で開けようと思えばどんな鍵でも開くというところに問題がある。一つの凸に一つの凹という天法を生涯守り続けることは、誘惑の多いこの地上では、時に至難の業だろう。それでも生殖器にどう対するかが中心の中心、核に違いない。わざわざ堕落できる環境に置かれたのがアダムとエバであり、人間の位置だ。生殖器の使用を誤れば霊的生命を失うとしても、一方で生命を凌駕する愛という課題があり、堕落できる環境があり、そして選択の自由がある。愛がどう実を結ぶかで偽りの愛と真実の愛に分けられ、それは環境要件と選択の自由に依る。この愛と環境と自由の関係性で人間は自分の存在領域、存在の在り様を決めている。愛を感覚的なもの、それを地上的なものと言い換えてもいいが、愛を感覚的なものだけに向かわせたのがサタンの業だ。よって堕落人間は愛の本質がわからない。愛という言葉はみ言葉の中で最も多く見出せる言葉の一つだろう。しかし愛という言葉をどれほど繰り返しても、感覚的愛という視点の周りをうろつくことしかできない。私達には不倫の関係を良しとしない感情が働いており、フリーセックスを良しとしない感情も働いている。しかしその感情は偽りの愛によるものではないにしても、やはり感覚的愛を足場にはしている。だから御父様の不倫ともフリーセックスとも思える行動が感情として理解できないでいる。真の愛の本質には未だ近付けないでいる。真の愛と偽りの愛の本質的な違いを受け取るには至っていない。神様御自身が絶対信仰、絶対愛、絶対服従を立てられた。その言葉の背後には絶対信仰に至る戦いと過程があり、絶対愛に至る戦いと過程があり、絶対服従に至る戦いと過程があって、勝利されたからこそその言葉の核となられたはずだ。勝利された夜の神様だからこそ昼の神様に創造の御業を預けられた。何でもありの様々な神話をどう読み解くかだが、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の核となるまでの神界の戦いだと私は読み解く。

2013年8月25日日曜日

今日の想い 605-2

人間は明日を待っている。来る日も来る日も明日を待ち続ける。今日という日に為せないことを明日に引き延ばせると思って今日を生きる。そうやって来る日も来る日も明日の日を当てにして生き続ければ、今日という日に為すと決意する私の意志は固まらない。御父様からの指示命令を受けながら明日という日を当てにし続けて為せなかったように、延長7年だと御母様から言われても、同じように明日という日を当てにし続ければ結果は同じことだろう。私達は、少なくとも私自身は、私達自身が変わらなければ結果は明らかなことを薄々感じている。それを信仰とする信仰まがいの蓋で覆ってしまって見ようとせず、恐れも知らず願われる結果を差出しますと口にする。口にしながらできない感情、やらない意志が内蓋に覆われて煮え滾っている。どうすれば結果を残せるか。そう考えるのは明日を期待し、明日を待ち、明日に引き延ばそうとするやらない意志以外の何物でもないだろう。堕落人間にとって明日があるという認識は、神様にとっての希望ではなく神様に取っての怨讐なのかも知れない。堕落した位置から本然の位置に引き上げられた祝福家庭にとっては、明日があるという認識は怨讐に違いない。今日というこの日しか残っていなければ、無我夢中でやるであろう責務を、明日という日が半永久的に続くと期待して薄い一日を送り続ける。けれども事実は、今日と明日とは文明に異なる。明日を期待できない今日だとわかれば無我夢中にならざるを得なくなる。御父様が数理を把握され、それは時間的には年の意味を、月の意味を、日の意味を把握され、多くを宣布されたその日はその日でしか勝利宣布できなかったのであり、宣布によってはその日その時間、一分一秒にまでこだわって宣布されたものもある。「平和の主人、血統の主人」の冒頭に記されているように、私達は習慣性を中心として、今日も昨日の時間が延長したものだと思っている。明日への引き延ばしは今日という一日の霊的意味がわからない、習慣性というサタンに毒されている私達の習性だ。悠長に、どうしたら結果を残せるかと習慣性にはまったまま思うのではなく、明日に引き延ばせない今日やるべきこと、今日できることが確実にあり、それに精誠の限りを尽くすのみだ。今日を生き切ったと言えてこそ、御父様が全て為したと断言された中心に向かっている。

今日の想い 605-1

どうすれば結果を残せるだろうか、と誰もが問うだろう。私達に対する御父様の願いに対して、どうすれば結果を残せるのかという問いを発することが自然の流れだと信じているが、本当にそうだろうか。私達は今の今まで断続することなく問い続けた。どうすれば結果を残せるのかと、、。しかし私達が認識する結果としての表象が、御父様の願う表象と本当に同じものなのかと問わなければならない。その前に先ず、どうすれば結果を残せるだろうかと問い続けた結果が、結局結果を残すことになっていないという事実を認めなければならないだろう。私達は第四アダムとして報告祈祷で神様と御父母様に対している。しかし、どうすれば結果を残せるかと問う姿勢は、報告祈祷する報告の材料にはならないことを先ず認めなければならない。出来ないと思えることを出来ると信じても、それは本当に信じたのではなく、出来ない責任を負わずに責任回避したに過ぎない場合が殆どだろう。結局本当の信仰とは、私達は何の疑いもなく神様の業を信じ霊界の協助を信じると言うけれども、神様も霊界もその認識が曖昧なままでは信仰も無責任も同義語になりかねないし、結局本当の信仰は自らを信じれるかどうかにかかっている。自らを信じれるかどうかが、私の中に働く神様を信じることであり霊界を信じることだろう。よって、どうすれば結果を残せるだろうかと問う姿勢は、結果のみが欲しいという自分よがりの動機が巧妙に隠されていて、そうであればそこから結果など湧き出るはずがない。御父様の願いは、それが氏族復帰180家庭のように数値で示されたものであったとしても、それは方向を指し示されたのであって、どうすれば180家庭という結果を残せるかと問えばどうしても結果に対する執着、すなわち自己中心的動機が関与する。自己中心的動機を排除して、為に生きる動機が徹底される為には、方向性は考えても結果は神様に任せるしかなく、結果がでないと憂うでも結果がでたと誇るでもなく、踏み出す一歩に精誠を込めて為に生きることができる私を追求するのみだ。全て為したと言い切られて聖和された御父様と、今の状態が全て為したことになるのかと疑問を挟む私達と、その違いはなんだろうか。勿論霊的な事実がわからないこともあるが、そう説明してもそれは意味をなさない。先にも触れた第四次アダムという認識、御父様の勝利圏を相続し、み旨を引き継ぐ者としての第四次アダム。第四次アダムである私達がみ旨を引き継ぐ以上、為し得ていないみ旨がそれぞれで残っているということだ。しかし引き継ぐみ旨が為されようが為されまいが、御父様の勝利圏は揺らぐことが無い。それが全て為したと断言される所以だろう。それでは私は御父様が断言されたように断言できる第四次アダムとして、どうなれば私の勝利圏は揺らぐことが無いと言える私になれるか。無責任や自分を慰める言葉としてではなく、確信的な言葉としてそう言える私になれるか。