2012年12月31日月曜日

今日の想い 514

2012年が暮れて行く。2012年という時代霊は、既に交代式の時に御父様の聖和を司る時代霊だとわかっていたのだろうか。闘病期間を受け持ち、聖和される瞬間を受け持ち、そして聖和式から基元節へ向かう最終準備を受け持つ時代霊だとわかっていたのだろうか。勿論陽暦ではなく陰暦の時代霊で、陽暦の時代霊は報告を受けて見守ったにすぎないだろう。マヤ暦の終わりはやっぱり何もなかったと、ノストラダムスの予言や2000年問題と同じこの手の話は狼少年状態で、計算間違いで本当は2015年だとか2020年だとか言っても、今更誰も信じる人はいないだろう。しかし世の終わり、新しい天地は盗人のようにやってくる。霊的なことがわからないから天宙の大変革が起こっていても察知できない。わからなければ起こっていないと同じだろうと思うかも知れないが、地上世界ではその時を待ち望んでいて、光も空気も水も土も知らない間に様変わりしていく。神様の結婚式は天地の結婚式。天におられる御父様と、地におられる御母様による結婚式。結婚されればどうなるか。始めて天宙の胎に神様の精子を戴いた受精卵が宿るだろうか。基元節を超えると天宙の十月十日の腹中期間があるだろうか。妊娠女性の胎中の変化は驚天動地の大変化で、そのように天宙の胎である地球に大変革が起こって当然だろう。しかし具体的にどうなるかは誰もわからない。強いて言うなら私達は生まれ変わった実体を持つだろう。私という存在が、霊の深みに於いて御父様に接木されたかどうかを、生まれ変わった実体によって確認するだろう。復帰されたエバの胎の中で私は生まれ変わった実体を持つ。解怨され、祝福されて絶対善霊となった霊達が先ず地上に降り下り、実体として生まれ変わる私達に協助することで彼らも霊の変革、霊の昇華を為していく。御父様が話された霊連世協会という聞きなれない不可思議な言葉に、霊界と肉界を連結する実質的統一を完成するとあるように、御父様によって祝福を受けた者が先祖祝福を受けた霊達との実質的統一を完成した者達の協会となれば、その協会は天理と天道で万有を治めていくようになるだろう。統一教会は生まれ変わり昇華して霊連世協会になる。2013年の時代霊は御父様の完全主管のもとでこの摂理を経綸していくことになる。

2012年12月29日土曜日

今日の想い 513

この世にはない、まったく新しいものを創り出すことが私達の使命であり、そこにこそ心魂を注ぎ込んでいくべきだ。この世に既にあってその輝きへの憧れを抱いたところで、そしてそこを目標として目指したところで、所詮この世の模倣に過ぎない。統一食口は、特に二世は、そんなことで新しい天地を見出したと言うことはできない。今までになかった光が差し込む新しい世界観を持った御父様の子女だと証しできない。この世に引けを取らないようにと競争意識を持って証しするのもいいが、御父様の子女であるなら、人々が目を見開くような様々な創造性を発揮すべきだ。あらゆる分野で今までになかった全く新しい何かを人類に差出し、人類を希望的未来へと牽引していくべきだ。その燃える気概を備えてこそ、統一勇士の名に相応しい者だといえるだろう。天と地、霊界と地上界はひとつになる。その内的霊的意味をよくよく理解して私の中に落とし込まないと、私の意識は地上に釘付けされたままだ。地上で肉体の中に住みながらも天上の神霊と授受できることが、私の意識にとっての天地がひとつになる意味だろう。神霊と交わり、叡智を得てこそ私は創造が為せる。新しいものを創造すればそれで良し、伝道しなくてもいい氏族復帰しなくてもいいと言っている訳ではなくて、伝道を本気で考え氏族復帰を本気でしたいのなら、それができる環境要件を整えることが必要だと感じて当然だろう。霊感商法や教会のゴタゴタでイメージが悪くなったから難しい、確かに今の状況で声をかけ話してみたところでうまくいくはずがないことは目に見えている。それでも霊界を信じて闇雲に飛び込んでいくことを御母様は本当に願われているのだろうか。私達は霊界を信じるといいながら、実のところ周りに合わせて無分別に飛び込んでいくことが私達のあるべき信仰姿勢だと思い込み、霊界を信じたつもりになっているだけかも知れない。闇雲に飛び込む度胸があるなら、そのパワーを環境用件を整えるために使うべきだろう。エサウがヤコブに屈服したように、この世が私に屈服する為には、彼らに与えるものがあり彼らが見上げるものがないかぎりは屈服のしようがない。彼らが仰ぎ見る何らかの権威なり名誉なり財産をもってしか、伝道なり氏族復帰の環境要件は整えられない。講論を手にし自叙伝を手にしただけの私の言葉に耳を傾ける者がいるとすれば、既に当の昔に復帰されているはずだ。しかし環故郷で教会から遠ざかってしまったように、環境要件を整えることを手段としていたのが、逆に環境に主管されてしまって、伝道への想い、氏族復帰への想いが失せるなら元も子もないだろう。全てを捧げてきて未だに裸同然ならその心配はないかも知れないが、環境要件を整えていけば多くの食口がカナンの先住民に同化してしまう心配は確かにあるだろう。しかし私達は環境に同化するのではない。環境に新たな創造の光を差し込み、私達が環境を主管し、アベルとしてカインを屈服させ、彼らを伝道し氏族を復帰する。、、、ここまで書きながら、それもこれも、本来基元節を迎えるまでにすべきだった私達ではなかったのだろうかとふと思わされる。

2012年12月28日金曜日

今日の想い 512

彼らが確信犯であることが、既に彼らが改心して帰ってくることが絶望的であることを示している。ああ言えば上祐で、どんな証拠を出したとしても、どんなに理路整然と彼らの間違いを説明したとしても、思い込みを彼らの信仰として譲らないし、上祐ばりの論理で持ってどのようにも反論してくる。確信犯である以上、論理展開でどうこうできる段階ではない。基元節の開門は既に目と鼻の先だ。基元節を超えてどうなるかは地上人間には完全封印されていて、誰もそのイメージを今描くことはできない。驚天動地の事態になることだけは確かだけれども、誰もそれが何なのかわからない。古い天地は崩れて滅び、新しい天地が生まれるというのは、霊的見地に立つことで表される言葉だけれども、私という存在の基底に霊があり、霊が古い天地に杭打ちされたままで新しい天地へ移籍できなければ、古い天地と共に消え失せてしまう我が身かも知れない。救いが完成されたということは、その救いを否定すれば別の救いの可能性はないということだ。確かにイエス様の霊的救いは完全な救いではなかった為に、イエス様を否定したとしても救いの可能性は残されたが、お父様は完成完結された為に、御父様の子供とされて懐まで入りながらも否定してしまえば、新しい天地へと救い出され移籍できる可能性は絶望的だといえる。御父様が完全な救いを差し出されたことは、別の角度からいえば救いを否定してしまえば永遠に裁きから逃れられないということだ。その恐ろしさを理解していない。そう言うと恐ろしいから信仰していると捉えられるだろうから畏怖という言葉を使うことにするが、霊が畏怖で消え入ってしまう。心が恐ろしく感じることと霊が畏怖で消え入ることとは別次元のことだ。基元節を間近に控えているのに、教会がどうしてこんな頭を抱えるような事態になったのだろうと食口誰もが憂慮しているが、事実をいうと、私達が願いに応えられなかった為に必然的に起こったというのが蕩減の見地から言えることであり、しかし私達に取っての恩赦であり救いは、この踏み絵を超えることを責任分担として教会側に立つことで、開かれた基元節の門に入ることが許される、再祝福に与らせて戴けることだ。私達は御父様が願われたことごとくを失敗し、敗北の墓碑を連ねてきた。それでも基元節を超えさせたい、再祝福に与らせたいという真の父母である親としての想いを、この踏み絵を勝利することでサタンへの条件として用意されたと見るべきだ。だから兄弟喧嘩だ、親子喧嘩だというような理解で無視したり、見物人になりさがったりすべきではない。私の信仰路程で培った全ての心情を投入して、基元節前に敢えて聖和された御父様に対し精誠の限りを捧げるべきだ。

2012年12月27日木曜日

今日の想い 511

本体論の核は絶対「性」にある。この絶対「性」の概念を私の中でどう構築するかが問われている。性という場合、御父様が性に対して認識している概念と、私達の観念とは異なるものだというスタンスに立たなければ、御父様が絶対「性」を持ち出されて話される前後の意味合いが通じない。堕落世界で性という観念には、直接的感覚が全面に押し出されている。性、SEXと聞けば条件反射的に或る感覚的悦楽が全面に押し出されて想起される。霊的に堕落した原因で肉的感覚的な堕落が結果となったので、この堕落世界の感覚的なもの性的なものは絶対「性」ではなく堕落「性」だ。だから既存の感覚的なイメージが伴う時点で既に絶対「性」とは異なっていると思う。それでは絶対「性」の概念をどう構築すればいいのか。ひとつの解く鍵は誰もが気付いたに違いないひとつの疑問にある。それは御父様がその言葉を使われるとき、絶対「性」なのか絶対性の意味で使われているのかの戸惑いだ。堕落性が堕落の「性」と切っても切れない関係にあるように、絶対性も絶対「性」と関係しているはずだ。と言うより、絶対「性」も絶対性も御父様にすれば同義語であるという可能性もある。何々性という言い方を私達はよくするが、それは性質を言っている。個性は人格としての性質であり、品性は道徳的な性質をいうが、こと精神的なことに言及する場合、性質ではなく性稟と言うべきかも知れない。全ての存在は或る陽性と陰性の一体化で存在しているように、性稟としての精神的現れにもその陽性、陰性がひとつになって性稟となる。要するに有形無形に限らず全ては凹凸の一体化の結果を存在として見ている。そして一体化には必ず中心となる想いがある。心情と言うべきかも知れない。心情を中心とする凹凸の一体化、即ち「性」であり、万物世界に関する限りは神様の心情を中心とした凹凸の一体化を現象として、或いは結果として見ていて、そこに堕落の要素は伺えない。元素(鉱物)次元、生命次元に限る凹凸ではそうだが、そこに心魂次元が関与すると途端に絶対的な基準に反する性が、現象(偽りの愛)として、結果(偽りの血統)として現れる。絶対と言われれば、絶対「性」の前に絶対信仰、絶対愛、絶対服従を語られたのであり、絶対信仰、絶対愛、絶対服従を通して絶対「性」の概念が構築されるはずだ。だから絶対信仰、絶対愛、絶対服従の柱が立たない限り、絶対「性」を語れない。

2012年12月26日水曜日

今日の想い 510

自分の感情はどれほど弄ばれてもいい。どうしようもない。今のこの感情をどう主管しようにも、新たに次から次えと訳のわからない感情が押し寄せてくる。感情活動が停止しない限り、私にとって平安は無縁なものだろう。2012年が暮れていく。クリスマスとも思えない暖かな穏やかなこの一日、いろんな霊がその抱えたものを持ち寄って、感情の波となって次々押し寄せる。私はなすがままにされるしかない。抗う術(すべ)もない。おそらく私は、このひとつひとつの感情を味わいながら、霊達は負い切れない抱えたものを降ろしていくのだろう。ひとつふたつなら代わってやれる。しかし一度に来られて背負いきれるものではない。クリスマスであればいろんなプレゼントをもらって喜び、感情はしばしの停戦を迎えるはずなのに、頂けない重い感情を受け取りながら、私はどう感謝したらいいものかと途方にくれている。2012年のクリスマス。御父様が聖和されたばかりのクリスマス。その現実の状況を知りながら、プレゼントをもらってはしゃいでいる方がおかしいと言えばおかしいだろう。感情の荒波に翻弄されながら苦しむだけ苦しめばいい。弄ばれて傷だらけになって、涙が枯れてしまえばいい。痛みが引かないこの左足をどうしたいのだろう。腹痛を訴える妻を更にどうしたいのだろう。おろおろする私をどうしたいのだろう。孤独という名の友がいて、私が生まれたときから付き纏っているこの友は、歓迎されぬ知り合いの霊ばかり呼び寄せながら、私をさらに孤独にさせる。解怨されたはずなのに、未だに気配を感じるのは、ひょっとして孤独という名の隣人は私自身なのかも知れない。私という存在が孤独そのものかも知れない。誰からも距離を保とうとし、家族さえも私は距離を置いているらしい。子供が妻がそうしていると思ったけれども、実は私自身がそうしているらしい。私はどう変わればいいのだろう。どう変われば、御父様の御心情のひとつでも、胸の内に迎え入れることができるだろうか。悔い改めることもできない忌まわしい私は、どこまでも弄ばれるしかない。クリスマスの夜に霊達が押し寄せる。

2012年12月25日火曜日

今日の想い 509

御父様が怒気を露にされ口にされることさえも、それは御父様の本心ではないと言う。おそらく子供に出て行けと父親が怒鳴りながらも、それが親の本心ではないからと思うのと同じ感覚のつもりだろう。側近の正しくない報告を受けられて判断せざるを得ないことも含めて、御父様には御父様もその時点ではわからなかった事情があるのであり、霊界では全てが明らかになってわだかまりが解けるはずだと信じているのだろう。心の中では釈然としないものがありながらも、御父様の言葉に対して形だけ動じ静ずる中心者や食口をして、御父様に侍っているとは言えないと思っているのだろう。しかし私はこの心魂と生命をかけて明言する。彼らに自覚はなくとも、自分達こそが絶対信仰だと思わされて操られているサタン的確信犯に違いない。彼らには彼らを操っている存在を認識できない。良心に従った自分の意志だと思い込んでいるからだ。自主性というけれども、地球上で何らの主管も受けていない人間は誰一人としていない。何らかの霊的存在が私の心魂に、意志に関与している。彼らが自分が良心だと思っているものが、どういう霊的存在が関与し主管しているかを見届けるほどには祈りもとめてもいないし、心霊の部分に関わろうともしていない。御父様にどこまでも着いて行って、霊の深みにまで降りて行って自分の根源を問い直す作業をすべきところを、彼らは中途で止めてしまって心魂のステージに留まっている。彼らは人道的道徳的倫理的な位置で理解する御父様を御父様としている。それらの位置を凌駕する膨大な神霊に関わる部分に足を踏み入れることを止めている。彼らのみならず、誰もが自分の本当の良心によって自分を裁く局面に必ず出くわす。そのとき彼らは御父様に対する拭い切れない罪をどうやって清算するのだろう。後孫に清算させる場面がどれほど見るに耐えないものであるか、想像にかたくない。御父様の御子女様だからたとえ間違っていたとしても結局は許されるはずだと、安心しているのかも知れないが、天宙をひっくり返したサタンは元々サタンとして生まれたわけではない。神様の全信頼を受けてアダムとエバを預かった位置であり、アダムに取っては叔父であり、もちろん神様の愛を一身に受けていた位置にもいた。御父様に対する御子女様も同じように愛される位置にあることを忘れてはならない。

今日の想い 508

霊的なものが見えないわからないという霊的感性の欠如が、私達の認識を誤らせ、判断を誤らせる。原理を通して神様を知りサタンを知り、霊界を知り摂理を知っている。知ってはいるけれども実に頼りないおぼろげな認識のまま今に至っている。私にどう神様が働きかけ、どうサタンも働きかけているかの認識もできずに、どうして外界に対する私の認識が正しく、判断が正しいと言えるのだろうか。内的霊的なものが漆黒に沈んでいて何もわからないから、ひたすら導き手である御父様に従い歩んできた。御父様と共に歩んだ中で、見えないものへの感性をいくらかでも養ってきたはずだろうに、御父様が聖和された今、再び感性の芽を漆黒の彼方に追い遣ろうとする者達がいる。私は御父様と共に歩んで培ってきたものを土台とする以外方法はないはずなのに、またしてもこの世に於いて慣れ親しんできたこの世的感覚を認識と判断に持ち込むなら、実体の御父様に従い侍り歩んできた路程は一体何だったと言うのだろう。み言葉は確かに難しい。特に八定式以降のみ言葉は難解を極める。しかしわからない、私に触れるものが無いからと言って、そのみ言葉が重要ではないということではない。だけれども何の躊躇もなく、置き去って当然のように、わからないまま放置している。前にも記したように、私という存在はミクロコスモス(小宇宙)の存在だ。どれほど難解であっても御父様のみ言葉や勝利内容は私の中に存在している。御父様が勝利された勝利圏が確実に私の中に存在していて、その核心が私を霊の存在たらしめている。み言葉がわからない、摂理的勝利内容がわからないとは、私の中で起こっていることがわかっていない、私という霊的存在の基がわかっていないと言うことでもある。わからないまま地上的感覚をもって認識し判断するなら、確実に私の中で起こっていることと、私が外的に為そうとすること、為したこととの大きな矛盾性が私自身を破壊に繋げるだろう。熱いか冷たいか、御父様に絶対服従するかどうかはっきりすべきであって、み言葉をなまかじりして、自分に都合のいいように解釈し当て嵌めるならば、霊的整合性が合わずにみ言葉に焼かれてしまう。

2012年12月21日金曜日

お金への想い

事業に於いては、利益をはじくのではなく利益を産む、という理解がなければ、事業の成長を見ることはできない。店を経営していて、商品原価にいくらかかり、人件費にいくらかかり、光熱費、家賃等含めた諸経費にいくらかかるか、というような見方は、表面的なものを数値に直しただけであり、本質の部分、利益という新しい価値への芽吹きとして接するのでなければ、いくら結果数値を睨んでもそれは死んだ数字でしかない。死んだ数字から何も生まれない。数字の生きた部分、お金の生きた部分に働きかけることができれば、利益を産む。価値創造ができる。私達は神様が存在されることを知っている。しかし私は無意識にも神様が存在されない前提で行動していることが多々ある。知っているけれども、感覚や気分の部分、意志の部分で否定している自分がいるからだ。感覚的に実感できないからだ。だから信仰が必要になってくるといえる。変な言い方になるが、数字の生きた部分、お金の生きた部分に対しても信仰が必要になってくる。生きた数字、生きたお金として捉えられない私が、霊が関与し、生きて働く部分を少しでも認識していく為には、数字の霊、お金に関わる霊への信仰が要求される。量よりは質に関心を持つことがよりお金に対する霊的部分、本質に関わるのであり、ただこれだけ入った、これだけ出たという唯物的捉え方ではなくて、入った過程とそれに込められた想い、出した理由とそこに込める想いを掴み取ることが、よりお金に対する霊的部分、本質に関わることになる。神様に対して祈祷するように、お金に対しても言葉をかけ、尋ね、お金の想いが伝わってくるほどになることが大切だ。共産主義者だけが唯物的なわけではない。物を物として対し、お金を物として対している時点で、十分に唯物的だ。唯物的と生産的、創造的とは相反し、唯物的であれば一切は消費でしかない。

2012年12月19日水曜日

今日の想い 507

思春期の頃、都会へのあこがれを持ったのは何故だろう。何が私を都会へと駆り立てたのだろう。この地上世界に生まれ落ちるつもりはないのに、押し流されるままに産道を流れて、気がついたら私という人間を認識していた。そんな生への受動的な位置で、暗く、寂しく、寒い故郷で、いろんなものに慄(おのの)いて暮らしていて、その息詰まる生活からとにかく逃げたかったのだろう。明るい都会、賑やかな都会、そして暖かい都会に行けば、訳のわからない脅迫感から逃れられると思ったのだろう。いろんな光が鏤められ、いろんな色合いに溢れ、感情を潤したり高めてくれる旋律も流れ、都会はこの世の天国のはずだと思った。しかし、都会という天国は幻想に過ぎなかった。私は魂の深層、霊界を対岸で見ていた位置から感覚世界の都会へ逃げ込むことで、幻想の中に身を置いた。感覚世界の花や実だけを受け取っていると誰もが信じているが、花や実を追い求めれば追い求めるほど感覚世界の汚れを魂に付着浸透させ、それによって自分の霊が蝕まれているということに誰も気付いていない。感覚欲望を満たしてくれる甘くて美味しいものはサタンの愛という偽りであり、逆に苦くて避けたいものには神様の愛に通じる本質が宿っている。霊的感性がないか霊を否定した位置であれば都会はこの世の天国だろう。集合的に生活しながら、しかし内的霊的には益々個の中に留まって他とのバリアを厚くする。感覚的欲望を満たしながら、しかしどこまでも自分の霊を地獄の底に追い遣っていく。堕落的心魂は呼吸できても、愛の本質を呼吸する霊が呼吸できない。その息苦しさを覚える者は正しく御父様に出会えるはずだ。しかし心魂の呼吸の苦しさから救いを求めた者は、御父様を知り共に歩んだとしても、どこかで離れていってしまう。確かに今の都会は物だけを求める人間の餌場としての都会ではない。しかし今の都会は霊を切り離して心魂のステージ、とりわけ感覚を満足させる心魂の呼吸に留まっている。真の愛が関与され、霊の成長、霊の呼吸を満足させる新生都会が地上に現れる時がやがて来るのだろうか。ひょっとして、それを地上天国というのかも知れない。

2012年12月18日火曜日

今日の想い 506

再度のオバマアメリカの4年が始まる。大統領選の共和党民主党の政策論争の焦点は、やはり経済政策だった。勿論世界経済をどう牽引していくかではなくて、内向きの視点から国の経済をどう成り立たせていくか、雇用と税金、社会保障をどうするのかが争点だった。アメリカはキリスト教建国精神が立っていたが故に、神様の愛する国であり神様の加護があったはずだ。しかし今、その精神は形骸化してしまっている。経済政策をどうこうの前に、国の柱として立たせるべき精神がある。国の骨格としての精神が立たずして、どうして経済という血肉の部分を盛ることができるだろうか。今こそ建国精神に立ち返るべきだと訴える候補が出てくるべきなのに、それを産み出す国家的気概、米市民の気概は今のアメリカにはない。経済政策の為に影を潜めていた同性結婚、市民婚、中絶問題をどうするかの方が私達の教会にとっては関心事で、選ぶとすればロムニー候補だったけれども、彼にどれほど建国精神が立っているかは私にとっては疑問だった。アングロサクソン独特の傲慢さが表情や口ぶりに垣間見えて気になった。どちらが立つにしても問題は山積みで、どちらが立つにしても摂理から距離を置いてしまっている。即ち建国精神を失ってしまったアメリカに背骨を入れられるわけでもなく、アメリカが御父様の切実な願いに対した当時の分水嶺の状況で、ブッシュ親子が結果的に御父様の願いからずれてしまったことは、アメリカにとって国を失うほどの摂理的失敗だった。2010年11月22日、天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会が実際はニューヨークで行われたけれども、ワシントン、ニューヨークと題されながらワシントンで行われなかった意味を考えてみるべきだ。あれ以来、御父様はワシントンの地を踏まれてはいない。同じ大会をソウルに、そしてラスベガスを経て、更に仁川からヨーロッパに繋げていかれたその意味を考えてみるべきだ。ラスベガスもアメリカだと思うかもしれないが、御父様の中には領土権で引っ張られた線の認識はなく、ラスベガスを中心ワシントンに繋がるものとして把握してはおられなかったはずだ。明らかに摂理に対するアメリカの主要な部分を諦められ、ソドムゴモラの地、悪の巣窟ラスベガスに天の陣を張られた。今回のオバマの再選を見る前に御父様は聖和された。以前御父様は、アメリカは34年間御父様に侍らずに滅びるようになった、と話された。そしてアメリカを捨てて行くがその代わりに教材をつくり、教材に侍って立てることを願われてアメリカを後にされた。もはや実体の御父様に直接侍ればよかった機会を永遠に失い、覇権国家の滅びの道を余儀なくされたのであり、国家として生き延びる道があるとすれば教本教材に侍る道だけだ。

2012年12月17日月曜日

今日の想い 505

基元節を間近に控えているのに、しかしその日を迎える何の準備ができたと言うのだろう。何の条件を供えたと言うのだろう。何の準備も供えもなく、基元節を迎え再祝福に与ろうとしている。どんな顔をして迎えたらいいのだろうか。受けるに値する何もありませんと、本当は祝福を辞退すべきなのだろうか。私達はひとり残らず厚顔無恥だ。祝福泥棒でありながらも、それも知らなければ恥も知らない。それでも、皆当たり前のように祝福を受け、私も再祝福に与るのだろう。しかし受ける者としての本当の課題は、その祝福に耐え得るかどうかだ。受けるときにそれに耐え得なければ祝福が私を裁く。宝くじに当たった人が、その後どうなったかを見届ければいい。確かに人生は一変する。自由に使える金が目の前にあれば、あるだけ使ってしまう。使った後、また普通の人生に戻るだけだと思っている。しかし戻れない。使うことで自制心を失うからだ。責任のない自由を謳歌してしまえば、自由には必ず伴う責任とのバランスが取れなくなる。そして破綻する。更に人生も破綻する。それと同じことが祝福にも言えるのかもしれない。皆、祝福の価値を知らない。価値を知らずに受けてしまえば、祝福の重さを抱えながらその重さを認識できない。抱えきれない霊的その重さは確実に存在するのに、それを認識できない。霊的重さを認識できずに祝福という霊的自由権を使ううちに、霊的責任とのバランスが取れなくなる。そして霊的な柱が壊れていく。私達が再祝福に与るにおいて、せめてもの重さを認識しなければその祝福に耐え得ないだろう。せめてもの重さとは私の死生決断だ。この生命を賭して絶対信仰し、絶対服従するという覚悟をもって臨むのでなければ、必ず祝福が私を裁くだろう。

2012年12月16日日曜日

今日の想い 504

十二月とは思えない暖かい一日だ。こんな青空が広がる美しい一日だけれども、こんな日であればあるほど悲しくなる。既に御父様は同じこの地上にはおられない。その実感がどういうわけかこんな日に限って迫ってくる。私を中心とした摂理は、一度は蓋を開けて確認してみたものの、手に負えない気分に負かされて、しまい込んだままになっている。既に自分の人生は壮年期を超えようとしているのに、未だ摂理の箱は預けられたそのままの状態だ。起きて、食べて、見て聞いて、少し動いて、そして寝る。摂理の箱を横目で眺めながら、それを何度繰り返しても私は変わらない。御父様がまだこの地上におられて、私が御父様から離れるか見失わない限り、それでも私は許されていた。地上に生まれてから御父様に出会うまで、私のその暗闇の期間であっても御父様は同じ地上におられたのであり、何らかの導きの糸が繋がれていて手繰り寄せられていた。しかし今の地上には明らかに御父様は存在されない。私は初めて、御父様が存在されない地上に存在している。私が生きながらにして御父様に出会うためには、おそらく次の言葉が当て嵌まるのだろう。私が勝利して受け取った心情圏の広がりと深みに、御父様は訪ねてこられるのだろう。でも私は何の勝利もしていない。ひたすら御父様の袖を握り締めてここまで来たけれども、何の勝利もしていない。心情の相続が為されていない。私は御父様に愛想を尽かされてしまったのだろうか。愛想を尽かされて私を置いたまま、この地上を離れられたのだろうか。この青空が広がる美しい一日に、私はこの悲しみにくれている。陽の光が眩しいかのように瞬きをし、涙が流れ、どうしていいかわからない。

今日の想い 503

1989年8月31日、八定式。御父様はこの八定式で縦横の八段階すべてを勝利されたことを宣言された。神様が宇宙の夜、宇宙の昼を繰り返し、宇宙の七日をもって創造されたように、御父様は蕩減復帰という再創造路程を八段階で終えられた。だから七日の暦から安侍日を含む八日の暦になったのだと私は思っている。御父様が個人を犠牲にされて家庭を、家庭を犠牲にされて氏族というように、次の段階には前段階の犠牲を供えられたように、神様の創造歴史の一つの段階から次の段階には、前段階の犠牲の上に成り立ったのだと言うことができる。宇宙歴史は七日間の先天を越えて八日という後天に入り、新しい天地は御父様の犠牲の上に成り立つことになる。御父様の勝利圏は、我々が御父様の勝利への認識を大きく裏切るほどの勝利であり、人類誰ひとり御父様の勝利の意味の本質を理解している者はいないだろう。後天時代のこれから、勝利の意味のひとつひとつを、腰が抜けるほどに内的霊的にも、外的地上的にも捉えて行くのだろう。御父様は今の我々が何もわかっていないことを理解しておられる。我々が新しい天地に住まう為には、御父様の後をひたすら着いて行く私にならなければならない。御父様は八段階の蕩減を超えられ、直接主管圏に向かう九数、十数、十一数、十二数、十三数を超えて行かれた。個人から始まって家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様の心情圏まで八段階の形態はイメージできるけれども、それ以降の段階は堕落の位置からすれば数字以外の何物でもなく、何の理解の糸口も掴めない。しかし御父様が超えられた段階は確実に地上に於いてその時代圏を迎えるのだろう。

2012年12月14日金曜日

今日の想い 502

この虚しさをどう埋めたらいいのだろう。時だけが否応なく過ぎ去って、惨憺たる現実だけが重く横たわる。誰に責任を問えるわけでもなく、ただ泣き叫びたい。できるなら自分を痛めつけたい。時として私は信じられないほど落ち込んでしまう。現実が私を裁いている。息子が、娘が、妻が、私の前を、後を、横を通り過ぎる。でも決して私を前にして立ち止まることはない。ただ通り過ぎることで私の存在を否定する。一緒に食事もする。話もする。冗談も言い交わす。しかし誰も心の奥は開かない。心の奥に関心も持たない。堕落意識、罪の意識に目覚めている訳でもなく、そうであれば、真の愛という光の意識が芽生える訳でもない。祝福家庭の形だけを維持するこの家庭が神様にとってどれほど恨めしいだろう。神様にしてみれば輪郭だけの虚しい家庭。私と彼らに死の実感がなければ、この輪郭を生だと認識したままでいる。輪郭はただの幻覚に過ぎないのに、輪郭をもって満足している。もし私が彼らの目の前で死をもって輪郭を突き破るなら、彼らの目は覚めるのだろうか。死を差し出すことのショックで、魂は生き返るのだろうか。そうであるなら、私は何の躊躇もなくこの命差し出すだろう。御父様は聖和されたけれども、私は地獄に落ちる死をもって彼らの魂を喚起するだろう。恨みと絶望と歯がゆさで、そして育んだなけなしの愛で、彼らに付きまとい彼らを常に喚起し続けるだろう。祝福家庭にとって二世の問題は、私が地上にいる間だけの問題ではない。霊界に行けば更に切実な問題として、地上に関わり続ける必要があるだろう。私の祝福への過程があり、更に祝福を受けてそのまま祝福の実体になれないように、二世であれ三世であれやはり祝福への過程があり、更に実体への道のりがある。現実はどこまでも残酷だ。私が描いた、たとえそれがみ言葉によるイメージであったとしても、そのユートピア的な偽りの理想世界を崩されながら、この現実の残酷さの中に愛の何たるかを見つけ出し、与えられる理想世界ではなく、私が私の手で私の理想世界を築き上げていく。そうせざるを得ない。御父様の勝利圏とは、その相続は外的なものではなく、どこまでも内的霊的なものに違いない。

2012年12月11日火曜日

今日の想い 501

考えてみると、御父様が聖和されたにもかかわらず、何も無かったように世界はまわっているし、変わりない日常を暮らしている。一体どうなっているのだろう。私もその流れに埋没するように自分の毎日が流れていく。何もなかったようにご飯を食べ、何もなかったように仕事をこなし、何もなかったように笑顔で会話し、そして何もなかったように眠くなる。肉の親が亡くなったとしても暫くは喪に服すだろうに、私にとっての御父様の存在はそれほど簡単に処理できるものだったのだろうか。これが聖和から数年が経ったと言うのであればそうかも知れないが、たったこの間の出来事だ。涙のかわく間もなくとはこのことだ。聖和式から三月と経っていない。御父様が存在しない地上でありながら、何の不自然さも覚えず、前と変わりなく暮らしていける自分自身が信じられないし、恐ろしい。X-dayを想定しながら何度も何度も聖和された後の自分の在り様を探ってみた。何度も何度もイメージを試みてみた。聖和されれば私の中で欠落するはずの何かがあったはずなのに、しかし聖和という事実を踏まえながらも、こと外的な事柄に関しては同じように流れている。これで本当にいいのだろうか。いや、決してそんなことはないはずだ。何かのフィルターが掛けられていて欠落を欠落と感ぜず、それを壊せないまま堕落生活圏に取り付かれている。少なくともこの内面の足掻きを認識している今のうちに、確かな聖和された御父様と繋がる糸を、因縁を、結びつけることだ。今のうちに精誠で因縁の糸を手繰り寄せなければ、糸を切られた凧のように飛ばされて、本郷の地には永遠に辿り着けない自分になるだろう。御父様との因縁の糸を自ら断ち切り、去っていった兄弟達がいる。中には有名人もいてたまに映像で見かけたりする。何の憂いもないように、誇らしそうに、化粧栄えする顔を晒している。彼女や去った兄弟達の内面には、何のわだかまりも、僅かの引っかかるものもないのだろうか。因縁を切ったことの清清しさだけを覚えるなら、神様を随分遠ざけてしまったとしか言いようがない。そういったように、御父様が聖和された今、その事実とは関係なく毎日の生活の流れに何の不自然さも覚えないなら、私達も同じように神様から、御父様から、神霊から遠ざかっている。

2012年12月8日土曜日

今日の想い 500

人間誰しも残酷な面を持っている。私の中にも残酷さが眠っている。残酷と無邪気は同じ顔をしている。子供には無邪気さがあって、大人の精神が関与しない行動を子供は取っている。成長するに従い精神性を帯びてきて無邪気を主管する人格を備える訳だけれども、大人になっても無邪気を主管できないか、或いは意識的に主管せずに存在する大人がいる。そういった狭い子供から広い大人になると、狭域では無邪気だったものが広域に広がると残酷になる。無邪気も残酷ももともと同じ存在だ。同じように無鉄砲であり、同じように破壊的だ。子供の場合は知恵も記憶も能力も限定的である為に、周りのものを壊す程度だけれども、大人に成長すれば知情意の発達と共に破壊度を増してくる。無邪気を主管できない大人の在り様は、その創造性の顕著さに見ることができる。破壊と創造は一面の裏と表であり、破壊性が際立つ者はその創造性に於いても際立つ。それが善の創造であっても悪の創造であってもだ。作家や芸術家は創造性が要求されるが、特に歴史に名を残すほどの人物は影の部分の破壊性にも富んでいて、その多くの場合、破綻的人生を見ることができる。同じようにこういった人物が政治権力に関わると、革命的であったり破壊的であったりする。先に触れたヒトラーは芸術的感性が鋭い、言い換えれば過敏なほど神経質だが、それは子供のように無邪気なまま大きくなり、その潔癖さ故に自分の嫌うものを許容することができない存在になってしまった。よって極限まで排他的になる。人類史上類を見ないこの残酷性の表出は、幼児的存在に権力を持たせたことによる悪魔の生贄だ。誰もが多かれ少なかれ残酷な要素を持っている。それを否定して見ないようにするだけでは、環境用件が揃ってしまうとこの醜い顔が現れてしまう。しかし敢えて抉り出して見ながら、どう使うかによっては善の使用に大きな力となることだろう。自分が今まで培ってきたものを未練なく壊すことも必要だからだ。

2012年12月7日金曜日

ホロコーストミュージアム

蕩減復帰摂理を学べば、ユダヤ民族が大量虐殺された原因を、蕩減原則の観点からイエスキリストを十字架につけてしまった民族的連帯罪としている。しかしそれは縦的原因であって、横的な地上的意味で打つ者、打たれる者の間に持ち込むべき説得説明にはならない。無理に持ち込んで、ヒトラーとナチスが彼らの蕩減の手助けをしたのであれば、大量虐殺の罪を問われることは無いということになってしまう。蕩減を持ち出すときには個人を問うなら私と天との関係性だけ宛がうべきだろうし、家庭の蕩減をいうなら私の家庭と天との関係性だけ宛がうべきであり、私と他人の関係性に蕩減をどうこう言うことはできない。敢えて口にするなら私は蕩減を口にしたのではなく相手と恨みを売り買いしたということになる。ユダヤ民族の民族的連帯罪をどうこう言えるのはユダヤ民族自身であり、彼らの罪をあげつらうなら彼らへの心情の配慮に欠けたことになり、逆に、時が来れば必ずイエス様や御父様に対する我々の罪を指弾されるだろう。ワシントンに、スミソニアンの美術館、博物館群から少し外れてホロコーストミュージアムがある。そこで600万のユダヤ人大量虐殺、ホロコーストの詳細を見て聞いて知ることができる。ホロコーストとはアブラハム路程に出てくるハン祭、供え物という意味のギリシャ語だが、同じ意味合いの生贄(いけにえ)という言葉で現代人がイメージする感情がその言葉により近い。敬虔なユダヤ教徒はその宗教的言葉を宛がうのをおそらく好まないだろう。館の中に入ると赤レンガのゲットー(ユダヤ人区域)を思わせるような作りになっており、4階に亘るエクシビションの三階は収容所さながらの雰囲気が漂っている。一通り見た感想を敢えて言えば、言葉を失うとしか言えない。鎮魂の言葉も浮かばない。人類歴史の事実、それも近代の事実としてあったことを感情が拒否して納得しない。私は広島の出身だから平和祈念館は何度も訪れているけれど、そこで引き摺り込まれる闇とは比べ物にならない闇の深みの奥に導かれる。私が世界平和の為、人類の救いの為にという言葉がどれ程軽々しいか思い知らされる。神様神様と簡単に口にしているけれども、この言い知れぬ闇の深みをも抱えられる神様を理解しているとはとても言えないし、配慮さえもしていないだろう。真の父母を知り、摂理の一端を担って歩むことの責任の重さ、恐ろしさを一方で覚えなければ、本当の意味での、真の父母と共にある、み旨を歩める感謝は捧げられないだろう。ミュージアムの一階ロビーに下りる手前に、最後の展示物がある。空調されていても異様なカビ臭がそこには漂い、誰もが鼻に手をやる。そして無言で見つめる。そこには広く一面に褪せた黒いものが盛り上げられている。積み上げられ、その重さに潰された何千何万という大量の古びた靴だ。ガス室に入る手前で全裸になり脱いだ靴が残っていて、無造作に積み上げられたそのままを展示されている。彼らが殺された後でも、脱いだ自分の靴を探し回った霊の痕跡が、そこから伺える。

今日の想い 499

魚は殺して食べているし、牛や豚も殺して食べている。人は生き物を殺しているのに、人が人を殺すことは許されない。生きる為に食べ、食べる為に生き物を殺生しているのだから、その殺生は許されると言う。しかし生き物が犠牲になることを許しているのではなく、それは人間の言い分に過ぎないだろう。もし食べる為に人を殺すなら、その殺人は許されるとでも言うのだろうか。生き物を殺すことは許されるのに、人を殺すことはどうして許されないのだろうか。死ぬとはどういう意味があり、殺すとはどういう意味があるのだろうか。生き物が死ぬ意味、生き物を殺す意味と、そして人が死ぬ意味、人を殺す意味の違いは一体何だろうか。これらの問いは人間が精神的存在であるから出てくるのであって、先ずもって精神が存在していてその上で肉体があることを認めない限り、生命の尊厳を問い、これらの問いを立てる意味すらないだろう。歴史上にもこの地上にも、殺人を犯した人は山ほどいる。自分では手を下さない殺人指示を含めれば更に増える。中には戦争を含めて大量虐殺を命じ、加担した人間も過去には多く存在していて、そういった人間が存在するのも人間が精神的存在であるからだ。弱肉強食の動物界に於いて、大量殺戮はあり得ない話だ。人が死の意味を問うのも精神的意味を問うているのであり、殺人の意味を問うのも精神的意味を問うている。殉教という問題を考えるときに、生命を犠牲として捧げる一方で、捧げさせる執行側がいる。殺す人がいて殺される人がいるのは同じだが、殉教では自分が殺されるとは言わない。愛に報いて供え物になると言う。戦争という問題を考えるときに、やはり殺す人がいて殺される人がいる訳だが、殺した相手個人を責め恨みを覚えるので無く、生命を国の犠牲として捧げるという理解がある。寿命が来れば死ぬわけだけれども、寿命を決める天によって殺されると言う言い方もできる。そのように死という意味、殺し殺されるという意味は、同じ肉体生命を失い失わせる事柄であっても、その意味合いはひとつに括られるものではなく、様々な精神的意味合いが存在している。イエスキリストの死と、一人の堕落人間の死の意味合いが全く異なることを考えれば、それぞれの人間の死もそれぞれによって意味合いが違ってくる。私達は肉体の死を死亡とは言わない。聖和と言う。それはただ言い方が異なるのではなく、精神的意味合い、更に霊的意味合いが全く異なっている。もっとも簡単に表現するなら死亡は不安と恐怖の圏内に留まり、聖和は平安と愛に昇華する。人が人を殺すことはどうして赦されないのか。子供に聞かれ、誰かに聞かれ、一言で説明できるような問いではない。人間が精神的な存在であることを理解し、愛の尊さを理解していくなら、愛がかかわり愛が投入された生命、愛の実体化としての生命の尊さも理解していく。





2012年12月6日木曜日

今日の想い 498

イスラエル民族が待望したメシヤ。メシヤが来さえすれば全てのことから解放され、彼らが世界で秀でるであろうと思っていた。選民であっても堕落人間は堕落人間であって、メシヤの本来の意味を正しく捉えることができず、彼らなりの洗い清める者としてのメシヤのイメージ、彼らの願いを成就してくれるメシヤのイメージを持ってしまった。その固着したイメージを捨てることができずにイエス様に対してしまったから、待望したメシヤであるイエス様を十字架に付けてしまった。クリスチャンが待望した再臨のメシヤ。聖書を何度も何度も読みながら、聖書に描かれたイエス様のイメージを刷り込み、天の銅鑼が鳴り響いて全ての万民が見る中を雲に乗ってこられるイエス様を待ち望んだ。その固着したイメージを捨てることができずに御父様に対すれば、到底彼らに受け入れられる御父様ではなくなってしまう。御父様を再臨のメシヤだと認識して慕い集まってきた食口達はどうだろう。3年で地上天国ができると人参を前にぶらさげられて歩んで来たものの、時を重ねて歩むほどに人参は遠ざかっていくようだった。蕩減摂理を感謝で対してきた食口も、いつしか蕩減という名の苦痛に変わってしまった。蕩減を苦痛で捉えれば蕩減を払うことにはならないだろう。感謝で対しなければ蕩減にはならない。御母様が我々の不足を訴えられるのはその観点だろう。アベル的期待感で支えられていた食口はその期待を見失うようになるとカイン的期待を求めるようになる。蕩減に対して希望的側面を見失えば、蕩減と聞いただけで身が竦み、絶望的に捉えてしまう。カイン的感情の領域に留まり囚われている限りは、たとえ天国が地上に現れたとしても見ることもできなければ入ることもできないだろう。霊界で天上天国に迎えられるとしても、犯した罪を首にかけて生活しなければならないとなると、天国は私に取っては地獄ということになってしまう。それと同じ道理で、罪を白日の下に晒すことに清清しさを覚えてこそ天国に住めるように、苦労や痛みという犠牲を払うことに清清しさを覚えてこそ蕩減を払えるのでありその実感もあるはずだ。御母様は感謝の生活で心と体がひとつになると話された。犠牲を払うことに清清しさを覚えてこそ感謝の生活になるはずだ。蕩減のイメージの固着から脱して、蕩減を払う実感、その実感を感謝する実感を捕らえてこそ、愛を呼吸する私を生きることができる。洗濯機の中でかき回されることを恐れ拒み続けるなら、御父様は私をどう洗い清めるのだろう。波風に当たるべきときは身を縮めて体を強張らせるのでなく、両手を思いっきり広げて委ねるのがいい。

2012年11月30日金曜日

今日の想い 497

歳を取れば時が短くなっていくものだが、特にここ数年の流れの速さは異常なほどだ。季節季節の趣きを味わう余裕もないうちに次の季節を迎えてしまう。感謝祭をこえてクリスマス、そして新年を迎えるこの季節は、家族と会食したり実家に帰っている懐かしい友達に会ったり、勿論クリスマスに向けてのギフトを準備するのもこの時期だけれども、いつもはそういったホリデーシーズン特有の雰囲気に包まれて過ごす。しかしここ数年、特に今年のホリデーシーズンはそんな空気も流れていないし、そんな気分にも浸れない。おそらくそれは私が歳を重ねたせいではなくて、時の流れが加速し続けていることによると思える。私達は基元節の意味はよくわかっていないにしても、基元節を迎えることを知っているし、摂理的な認識の観点から季節の趣きを味わうような状態にはないことはわかっている。み言葉を知らない人々は基元節それさえも知らないが、しかし時の流れの速さだけは感じ取っていてそれに抗うことはできず、生きるために懸命に流れが要求するものに応えようとしている。人々の意識の水面下で、人類全体の潜在的意識の大きな流れは既にこのD-DAYに合わせられていて、人々は無意識にもその準備をさせられている。いろいろな認識の表れのひとつは、2012年12月22日、マヤ暦の終結だが、御父様は以前人々の間に広がりを見せたその事に触れておられて、「わかることはわかっているようだね。」と話されたことがある。基元節を知っていれば自分の基元節への準備が為されるのではなく、基元節を迎える最終的な準備を備えた者は、基元節を知らない何処かの何かの群れであるかも知れない。神様は神秘的に働かれると話された子女様がおられるが、この言葉に関してはその通りだ。祝福を受けており、摂理に奔走してきたのであり、基元節を知っており、再祝福を戴いて天国の末席に加えて戴けると思っているけれども、それが自分の思い込みによるものかも知れないし何の保証にもならない。自分が思っている基元節ではないかも知れないし、天国は自分が期待している天国ではないかも知れない。そんな意表を突かれたとしても、そこで頑なになって塩の柱になるのではなく、何を言われたとしても何が起こるとしても、受け入れられる内的な柔軟さを備える必要があるだろう。その為にはどうしたらいいのかを問わなければならない。御父様が聖和されて、追い腹を切る食口のひとりふたりはいるだろうと思われたが、そんな話は聞かない。しかし行動は取らないにしても、それ位の一片丹心を持って、基元節への条件と心構えを準備する私になるべきだ。

2012年11月29日木曜日

心の枷

心は自由な存在であるべきだけれども、そして私の心は自由だと思っているけれども、地上的な枷に嵌められて本来的な自由を拘束されているのが現状だ。それは心の願うままに体が動かない、体には別の法則を宛がう肉心が存在していてその言いなりになっている、という認識に至るほど、肉心と本心の違いを捉えていればわかることだが、地上での倫理的道徳的な枷さえも心の自由を拘束してしまう。この倫理的道徳的に宛がわれた社会通念を御父様が指摘される良心だと信じている者達がいるけれども、そういった立場を固守する者が反教会の立場を取るようになる。だからと言って倫理道徳を無視しろというものではないことは、はっきりさせておきたい。今の社会通念は性悪説、つまり人間は元来自分中心に存在する生き物だという立場であり、集団生活を余儀なくされる人生であれば仕方なく必要条件的に出てきたのが倫理道徳と捉えるべきだ。結果的に良心的な部分も表れているが基本枷に嵌める為のものだと言える。結果的に良心的であればそれでいいだろうと思うかも知れないが、良心的なものは飽くまで良心的、外面(そとづら)であって、必ず内面が暴露されて良心的なものは破壊する。心やさしい日本人だと思っているけれども、集団の流れが変わってくるとそれに合わせる為に途端に手の平を返したように冷たくなる。それは倫理道徳が神様に対する信仰に根ざしておらず必要条件的なものだからだ。私達は良心的な行動が必要性にかられて出てくるのか、それとも内なる衝動から出てくるのかを、自分をよく観察しながらよくよく認識するべきだ。私が良心という言葉を持ち出すなら、御父様を慕い侍る想いが強くあって、それに突き動かされる衝動を伴う熱いものがなければ良心とはいえない。御父様が語られたように狂うほどに慕い侍ることだ。狂気の最高の在り様は恋だとソクラテスの弟子、プラトンが言っているように、恋した者の衝動を私の御父様への想いの中に見る。それが一片丹心だろう。御父様を只の一人の人間と見る者は、それこそが周りが見えない心の枷だと言うが、御父様に帰依する者はそれこそが堕落世界の枷のない永遠、不変、唯一、絶対の自由圏だと言う。叡智に恋するのがフィロ(恋する)ソフィア(叡智)、哲学であって、熱狂的に叡智に関わることで新しく受け取るものがある。そのように御父様を熱狂的に慕い侍ることで堕落圏を越えて入る心情世界、次元世界がある。

2012年11月27日火曜日

今日の想い 496

以前、関西の長寿番組、探偵ナイトスクープに、四葉のクローバーの場所を言い当てるという女の子の話が出ていた。公園の草地に佇んでいたかと思うと走り始めて、呼び寄せられるようにその場所に行き、しゃがんで腕を伸ばし四葉を手にする。本人の説明は教えてくれる声が聞こえると言うものだった。その場所場所に番号でも示されているように次々と走り寄っては四葉を手にしていた。純真な子供ならではのエピソードで、私はその純真さをいつまで持ち続けることができるのだろうと思いながら見ていた。人間が生まれて間もない幼少期には罪は表れて来ない。しかし人間の成長過程のある時点で内包していた罪が表に現れ認められるようになってくる。人に依ってまちまちだが、大体が思春期の頃、大人の体となり人間の中に別の知恵が働き始める頃だ。エバがルーシェルに、取って食べると神のように知恵がつき目が開けるのですかと聞いているので、ルーシェルがエバにそう言って誘惑したということだ。確かに思春期の頃、別の知恵が働き始めて狡猾さが認められるようになる。思春期というエデンの園で感覚界に目覚めて周囲に開けてきて、見たい聞きたい触れたい自分のものにしたいという欲望が一気に芽を吹き出す。それは感覚的なものへの堕落的接触だ。それは堕落人間だから自動的にそういった在り様にならざるを得ない。そこから堕落的なものを除去しようとするなら、先ず感覚そのものを否定する必要がある。感覚の背後に潜在的意志(意識)があり、その潜在的意志の背後に霊的無知がある。大まかに言えばそうだが、仏教では人間の12の因縁を釈迦の悟りとして詳しく表している。順番をいうと、無知、形成、意識、人格、感官、接触、感受、渇望、官能、受胎、誕生、老死、となる。最初の六つの過程が霊的堕落であり最後の六つの過程が肉的堕落の過程だ。肉的堕落はイメージしやすいが、霊的堕落は霊的感性が無いか或いはお粗末な我々現代人には把握が難しい。堕落論は正しくも無知な私達は霊的な概念がわからない為、どうしても地上的に捉えてしまう。地上的に捉えた理解でどうも堕落論は矛盾すると思ったとしても、矛盾するのではなく霊的に理解していないと捉えるのが正しい。ルーシェルの誘惑という無知因縁からルーシェルとの交わりである接触因縁まで即座に起こったように思われるけれど、霊的堕落には戒めの否定から始まってルーシェル的色合いの形成力を持ち、それが意識を起こさせ、霊の人格となり、霊的感性を育て、接触を味わう段階を経ている。ルーシェルはエバを決定的霊的堕落に持って行くために段階毎に経過を指導していった。御父様は霊的に無知な現代人でも堕落の意味を理解できるように堕落論として表されたけれども、その本質や深みを探求する意志なくしては、堕落論の骨格の骨格を知っただけで、その肉付けや動きまでもわかるほど罪の根である堕落を見通すことはできない。純真な幼子に堕落以前の様子を垣間見ることはできるが、ルーシェルが誘惑し始める更に以前の、神から戒めを受ける以前の人間の状態は見ることができない。基元節に於ける再祝福は、堕落以前の立場ではなく、神様から戒めを受ける以前の立場で祝福を受ける。その意味を理解して受ける兄弟達がどれだけいるだろうか。

2012年11月25日日曜日

今日の想い 495

田舎の親は年老いた今でも、寺の行事やら掃除やら世話役で忙しい。過疎で殆どの住人は町に移住していて、寺の住職ですら状況は同じで、行事がある毎に町から足を運ぶだけでその寺に住んでいるわけではないらしい。残った年寄り達が寺を護っているということだ。うちの方一帯は浄土真宗だが、殆どがそうであるように、この教えにこそ真理があるという思い入れがあって寺を護っている訳ではなくて、時を経て重ねてきた文化であり慣習であり伝統として行動している。その行動様式に自分を供えながら、宛がえることで魂にある不安や恐れへの対処としている。祖父が亡くなった時に私は名古屋にいて、葬儀に間に合うように田舎に帰ってきて、葬儀の前だったか後だったか、数少ない親戚のうちの大伯父と叔母が一晩家に泊っていった。私を含めた兄弟三人とその二人が六畳半の部屋に枕を並べて休んだ。大伯父は兼業僧侶で、叔母は休むために横になりながら大伯父に尋ねていた。死んだら本当にあの世があり極楽浄土に行けるのだろうか。特に力を入れて改まった様子で尋ねたわけでもないので、大伯父は説法を始めたわけではないが、昔からそうだったように鼻を鳴らしながら応えた。この目で見た訳でもないので何とも言えないが、浄土に行けると信じること以外何ができる訳でもないと、、。仏の教えはそれが真理であると証明され納得させて信仰するものではなくて、煩悩を患い、不安や恐れを抱く魂を、先ず教えを受け入れることで癒そうとするものだ。仏教の本質がこうだということではなく、私の田舎の人達にとってはそうだ。その在り様を否定して真理の権威を持ち出すことに何の意味があるだろう。我々が信仰と捉えるものと異なる慣習化した信仰にも、それなりの仰ぎ見るものがある。それを敬うことをせずに入っていこうとしても無理があるだろう。私達が伝道とイメージするものがあって、頑なにそれをして復帰することに躍起になっても、それでみ言葉が入り、御父様を受け入れ、祝福に繋がるかどうかを真剣に考えてみるべきだ。ならば私が先ず対象者の人々の基準に合わせ、同じ在り様となり、彼らなりの祝福への扉を開いてあげることも選択のひとつだろう。私は知の扉を開いて御父様に繋がったけれども、情の扉を開いてあげて繋がる道もあるはずだ。

2012年11月24日土曜日

今日の想い 494

人間は心と体の関係性で存在しているように、天宙は霊界と地上界の関係性で存在している。また人間は凹凸で受精し女性の胎で宿すように、神様も凹凸で神様の精子を受精し、天宙の胎である地球で宿される。本来地球という胎は天国人を繁殖すべきでありながら、サタンに横取りされて神様の精子のない無性卵状態で胎に宿し、地獄人を繁殖している。全ての霊人達は霊界にいるけれども、既存の霊界の中に天国があるのではなく、よって霊人達は開放されてそのまま天国に移り住むのではなく、新たに生まれ変わらなければ新しい霊界である天上天国には入れない。新たに生まれ変わる為には胎の中に入らないと生まれ変われない。要するに霊人達は地上再臨して再臨復活しなければ天上天国への移籍はできない。霊人にとって地上再臨は天国の門へ向かう参道コースが開かれたと言うことができる。基元節で神様の結婚式が行われる。それはαでありωの神様の結婚式であるので、究極の最小単位が結婚することであり全ての存在を含む天宙が結婚することでもある。今の人間は神様を擬人化することでしかイメージできないので、神様の結婚も人間同士の結婚イメージでしか認識できないけれども、事実は私達がイメージする結婚からは想像もできない天宙の一大事件であり、それによって何が変わり何が起こるのかに至っては想像を働かす余地もない。言い方はおかしいけれども神様ですら推量できない期待圏に突入していくのであり、私達は再祝福を戴いてその期待圏にただただ振り払われずにしがみ付いていくのみだ。御父様がD-DAY、戦闘開始日と言われた基元節の意味合いが地上にとっては一番、的を得ているといえるだろう。地球という胎が破壊されることはないが神様の精子を戴いて受胎すればどうなるかは、女性の妊娠状態の体の変化に通じるものがあるだろう。絶対性という言葉、神様の結婚という言葉、神様の精子という言葉等々、これらの講論にはない言葉、ましてや地上的概念を構築できないこれらの言葉を、私達はどう捉えて行くべきなのか。それは神霊によらなければないないだろうし、神霊を受け取り理解した者が愛の権威をもって期待圏を切り開いていく。

2012年11月23日金曜日

感謝する私から愛する私へ

私はどれほど多くの贈り物を戴いて生きていることだろう。この生命それ自体が贈り物だ。それは長いとか短いとかで価値が計られるものでもなく、嬉しいか悲しいかで計られるものでもなく、たとえ痛み苦しみの連続であったとしても、それでも戴いた生命はそれ自体が計り知れない贈り物だ。さも当然のように何の感情もなく生きているけれども、数々の贈り物への感謝の想いのないまま生きるのは生きているとは言えない。何ひとつとして犠牲を払われずに届く贈り物はないし、私と共にある全ては犠牲に貫かれ、私に起こる全ての出来事は愛のひとつの形として、愛のひとつの現実として私と共にある。そこへの感謝の想いを私の中に見い出し、そして抱えてこそ、私は死亡圏を超えて生きていると言える。その感謝の想いは、死亡圏で喜ばしいことが起こることへの感謝とは感謝の次元が異なっている。死亡圏の感謝は苦しいこと悲しいことへ向けられることはないが、御父様に戴いた真の生命圏の感謝はこの世的苦痛も悲哀もその感謝で昇華できる。苦労すれば優しくなれるとか、将来的糧になるとかと言った回りくどいものではなく、犠牲的在り様それ自体を感謝する感情として私の中で燃えている。百篇犠牲となって死んだとしてもそれでも返せない恩を受けていると言うのは、ものの譬えではなくその通りであって、だからどんな立場であれ境遇であれ、感謝の想いに溢れて歩んで当然の私だ。私が感謝の実体でないなら、謙虚の実体でもない。私が神霊に通じる霊的存在、精神存在となるためには、感謝の実体、謙虚の実体であることが基本にある。イエス様は人類の為に犠牲となられて、それを恨みとせず御意のままにという感謝を抱いた。イエス様が立てた感謝の基準をもって、人類は同じ感謝の基準まで引き上げられる。御父様も人類と神様の為に犠牲になられて、それを恨みとせず過ぎてみれば全て愛であったとされ、愛の勝利を抱かれた。御父様が勝利された愛の基準、真の愛の基準をもって、人類は同じ愛の基準まで引き上げられる。人生それ自体の避けられない艱難辛苦を甘受し感謝する私はイエス様の犠牲の勝利によるものであり、み旨の為に敢えて艱難辛苦を引き受けて立ち向かう、為に生きる私は御父様の真の愛の勝利によるものだ。

2012年11月20日火曜日

今日の思い 493

雪が降ると、点在する家屋は白く冷たい覆いをかけられて縮こまり、人気のない田舎は眠ったように動きを止める。田舎に雪が降っているのをブログの更新で知って、家に電話をかけてみようと思った。受話器を取って番号を押し、向こうが取り上げるまでの呼び出している間がいつも落ち着かない。何かあったら直ぐにも電話を入れるよう伝えてあるが、その電話がかかってきたとして一体どう対処したらいいのだろう。そんな思いがいつも頭によぎる。向こうが受話器を取り、母の声に変わってやっと息をつく。たどたどしいやり取りが続いて、誰かが聞けばこれが本当に親子の会話なのかと訝るほど乾いて機械的だ。感情は込めずに確認事項だけをひとつひとつ並べていく。別に電話口だけでなく顔を合わせて話すときもこんな感じだ。もし特別な事態になったとしてもおそらく変わらないだろう。逆に、嬉しくて仕方なければ冷たさを装い、悲しくて仕方なければ笑顔さえ浮かべるはずだ。ドラマに見るような愛情の表現は私にとっては相当気恥ずかしいものだ。そんな母が唯一涙を見せたのが、私が献身する前日、下宿に父と来たときだった。その時の母の涙は痛みとなって今でも胸に残り、霊界に行っても決して癒えることはないと思う。もうすぐ母も80になる。春に帰った時には前よりも縮んで背は更に低くなっていた。まだ言葉に力がある時は、電話するたびにいつ帰るかとしきりに聞いていたが、最近はこちらが尋ねることに頷くだけで終わる。年を取ると地上の現実よりあの世に意識が移っていくらしい。視線は地上を離れ、あの世の便りに聞き耳を立てる。周りに人がいない環境であればその傾向は一層強くなる。野も山もすっぽり雪で覆われれば、地に着いていた意識が浮いて、見えない向こう側を垣間見たりする。孤独の恐ろしさが感情にひたひたと寄せて来る。若い者であってもそうなのに、いつお迎えが来るかもわからない年寄りは尚更だろう。原理を講義して理解できるとはとても思えないが、心魂は確実に救いを求めているのであって、そこに手が届き気付かせることができれば、閉ざされていた心の門が開いてみ言葉を受け入れるはずだ。長い間、私自身が氏族復帰に対して閉ざしていたものがあったが、今は向こうから訪ねてでも救いを求めて来る、という感覚が日増しに強くなっている。しかし私は訪ねて来るまで待っているのではなく、訪ねて来れるように先ず誘い水を差し向けることが必要になってくる。この電話連絡もそのひとつだ。

2012年11月19日月曜日

聖霊実体

クリスチャンはイエス様に対する独特な印象を持っていて、その印象がメシヤ像としてのイメージとして既に擦り込まれている。イエス様は人間くさいところの全くない神秘対象であって、そのメシヤ像を基準としてしまうから、御父様を再臨のメシヤであるとどんなに説明しても納得しない。大いに人間くさい御父様であられるし、何よりも東洋の顔つきをされておられる御父様には西洋的な神秘性は感じないらしい。多くのクリスチャンにとって説明を受けるまでもなく、そう言ったメシヤのイメージにそぐわない時点でアウトだ。御父様が聖和されて、残された私達は御母様を中心として摂理は進められていく。そのことについては食口誰もが納得しているだろうし当然のことと思うだろう。しかしこれからは明らかに御父様に向いていた私を御母様に向けなければならない。御母様に対する原理的認識は置いておくとしても、私達の御母様の認識は御父様と共におられる口数の少ない御母様だった。しかしこれからはその御母様の印象とは明らかに異なる姿を見ることになるだろう。優しく微笑まれ慰労される御母様だけが御母様ではないということだ。御母様を中心として、と簡単に言うけれど、私達はそう口にしてもその本当の意味を知らない。その意味を少しでも早く私の中に落とし込めることが最重要課題だ。今の御母様は聖霊実体だ。実体のメシヤを私の中に落とし込めることに四苦八苦していたのに、今は聖霊実体を私の中に落とし込めることを早急に始めなければならない。忘れてはならないのは、私は未だ堕落性を内包している身であるから、御母様に対する様々な思い、葛藤が少なからず生じてしまうということだ。それは聖霊実体を私の中に落とし込む過程で通過しなければならない門でもある。私の中に葛藤などの課題を見て、例えば御父様の語られた言葉とは違う、指示とは異なる等の認識は正しいとしてもそこに反発心を覚えるのは、私の中の造り上げた御母様の在るべき姿を頑なに護ろうとするからだろう。しかし信仰年数を経た私の御母様のイメージは聖霊実体とは異なる。私達は聖霊実体の意味をこれから知るようになる。今まで培ってきたものが妨げとならないよう、特に信仰年数の多い者はそれ故の負の遺産を負と認めずに保持してしまい、聖霊実体の次元に越えて行くことができない。レガシーと言う言葉を或るグループはよく使っているが、その中に負の部分が相当入り込んでいて、味噌も糞も一緒になっている。私達も課題に突き当って、圧倒的に多い負の部分を削ぎ落として未練なく捨てるのでなければ、新しい次元の淀みない光や空気や水を糧にできる私を用意できない。

2012年11月16日金曜日

愛を想う

愛、、。この世であっても愛のために生きている。愛を渇望し、愛を捜し求め、そして愛らしいもので満たそうとする。胸に愛を募らせて衝動を覚え、目に愛を溜めて潤いを差し出し、言葉に愛を込めて伝えようとする。愛は胸の内の想いから涙に流れ、涙から言葉に流れて、そして愛を関係性という形に変えていく。食口はここ教会にこそ愛がある、本当の愛があると信じてつどってきた者たちだ。本当の愛を受け取ろうとすれば与えることを先ず願われる。しかし、与えることと、要求されて差し出すこととは異なっている。与えたいのか、それとも与えなければならないのか。与えたい想いで内面が満たされているのか、それとも与えなければならない思いが重く根雪のように踏み固められているのか。与えたい衝動を胸のうちに覚え、救われていない対象への想いが目の潤いとなり、言葉に救ってあげたい想いを込めて伝えようとする。それが神様の想いと合わさる伝道だろう。私の中に要求されるものを重く引き摺りながら、愛の使者とは程遠い恨みの死者と化し、条件的だと言いながらも重い体を引き摺っていくならば、それはみ旨と言え伝道と言えるだろうか。私達食口は私達自身をどう解放したらいいのだろうか。真の愛と口にしながら、言葉の抜け殻だけを携えて、愛とは別もので心魂を満たそうとしているのだろうか。この世の愛は関係性に本当の愛かどうかの証しを求める。いつまでも流れ去ることのない愛なのかどうか。形に変えて手に入れた愛だと思っても、その瞬間から不安は募っていく。硬く握りしめればしめるほど、更に不安は増していく。形として受け取るものに、愛の確かさを見たいがため、ひたすら相手に愛の証しを要求するようになる。その過程で、愛は幻になっていく。証しを求めたら愛は愛でなくなる。形に変わってこそ愛があると思えるような、愛を見て聞いて触れる感覚的なものに貶めても愛は愛でなくなってしまう。愛は流れて渡されてこそ愛であり、留めて握りしめて手放さなければ愛は抜け殻のみを残して逃げて行く。私達は愛をさらに愛らしい愛とするために、敢えて愛の感覚を求めない。私は愛の主体ではなくて、愛が私の主体だ。愛の願いのままにどこまでも従いゆく。

2012年11月14日水曜日

今日の想い 492

日中は晴れ渡って汗ばむほどで、時折吹く風が心地よい秋の顔を見せていたけれど、夜半には窓を打つ音が聞こえてきて、カーテン越しに外に目をやると街灯で反射する路面の鈍い光が揺れて届いた。一晩中続いた窓を打つ雨は朝方になっても止む様子もなく、玄関を出て傘を指しても跳ね返る冷たい雨が恨めしい。昨日から今日への変わり方を思うと、季節は急に手の平を返したように冬へ突入していくようだ。駐車された車も路面も濡れ落ち葉で覆われている。そのまま車に乗ってワイパーをかけたが、フロントガラスにしがみ付いた落ち葉がなかなか取り除けなくて苛立った。今年の秋が去っていく。実りとして受け取った何の感触もなかった今年の秋が去っていく。清平では秋の大役事が行われ、御父様がその場におられ、その席に座っておられると話されたようだが、私はと言うと、清平に来られて清平に行けばお会いできるという感情を、いまだ抱くに至らないでいる。御父様は聖和されたのであって亡くなられたのではないはずだ。しかしどんなに自分に念を押してみても、見えない御父様がそこに居られると言われても、何の感情も抱かない。それは信じないということではなくて、御母様が食事に御父様が訪ねてこられると話されるのと同じように信じてはいる。しかし信じることと、見て聞いて息遣いを感じられる御父様を体験するのとは異なる。私は何がしかの形で体験できる御父様を求めているのであって、そこにおられると言われて安堵だけしても何の意味もないと思ってしまう。私は思い上がりで傲慢なのだろうか。確かにそうだろう。そこに居られると言うなら訪ねるべきだろう。私の中に御父様への切羽詰ったものがあるなら飛んで行って当然だろう。私の内面は揺れ動いている。壊していない死の概念と、新しく、まだ形に成り切らない聖和の概念とがぶつかり合って揺れ動いている。死んで亡くなられた御父様ではなく、聖和された御父様だという感情が私の中に育っていない。

2012年11月13日火曜日

今日の想い 491

形から入ろうとする者は既に形に嵌め込まれていて、新しい世界の入り口はその形を拒んでしまう。形成されていた概念を壊すのでなければ、新しい真理は許容できない。新しい真理が私を拒んでいるように思えるけれども実は自分自身が新しい真理を拒んでいる。本体論が理解できないとか原理と大して変わらないとかというのは、そんな状況に自分が陥ってしまってそうなっているのだろう。自分流に理解した原理を物差しにして本体論を受け取ろうとするから、本体論の入り口にすら入れない。何も分かっていない自分が、神様を本当に知りたい、御父様を本当に知りたい、霊界を本当に知りたいという強い動機で本体論に向き合わなければ、未だ見えぬ真理に対して既に私の中にフィルターが幾重にもかけられていて届くものも届かなくなってしまう。思考を超えた思考、すなわち思考そのものの次元を上げなければならないし、その為には私の感情を超えた天の心情に通じなければならないし、本体論の講義を通して私に働く神様の意志を見なければならない。講師は自分の口を通し神様が語られるものとして身を委ねるのであり、講師自身も語るものを通して学ぼうとされる。講師に神霊が宿り神霊が語るのを私達は見ているし聞いている。勿論講師自身の内的姿勢が重要でありその準備にも十分時間を割かなければならないが、聞いて受け取る側の内的姿勢も講師の姿勢に働きかける。語るもの聞くものが神霊を迎えるために一つになろうとして、その授受の動きが活発となり、講師受講者一体の境地において神様が顕現されるだろう。本体論に自分から働きかけるのでなく、それが真理なら私を納得させられるはずだと受身の態度を取り続けて、棚からボタ餅が落ちるのを待っているだけで真理が向こうから訪ねてくるなどと思わないほうがいい。それは神霊からすれば傲慢極まりない。受講するのは外的には受動的姿勢であるけれども、私の中から心魂を取り出して神霊の宿る講師の前に供え物として捧げるほどの能動的意志を差し出す必要がある。語られる言葉の中に気絶するほどの真理が隠れている。それを取り出し受け取ろうと思えば否定的私の部分との熾烈な戦いが繰り広げられるはずだ。講師の戦いも激しいものがあるが、受講者の戦いもそれに劣らず激しいものがある。本体論の講義を受けて何の変化も受け取れないなら、私に働くサタンは勝利宣言したということだ。

2012年11月11日日曜日

今日の想い 490

基元節まで100日を切ろうとしている。御父母様に繋がる食口としての意識がある者は、基元節を迎えることで何らかの思いもよらない事態に突入していくことを感じている。基元節を越えて存在できるかどうか、それは外的体としてではなく内的霊的存在としての私が基元節を越えて立ち続けることができるかどうかと言うような事態かもしれない。今は混沌の只中にある。かつて多くの人間になるべき心魂が地球と共にあった。しかし混沌期を越えることができずにどの心魂存在も地球から去っていった。唯一残った心魂存在がアダムとエバだった。よってアダムとエバは人類始祖となり得た。アダムとエバを先祖の起点にする地上の人類は、堕落人間でもあるけれどもそれ以前に混沌期を通過して居残った人類でもある。ここで初めて明かすけれども、私はひとりの神智学徒でもある。シュタイナーを通して私のみ言葉への認識や理解は大きく変わった。それまでの私のみ言葉に対する理解は実に外的表面的なものだったと言える。シュタイナーは先の人類始祖の事柄を宇宙記録(アカシックレコード)を遡って霊視している。それは丁度受精に於いて、億の精子が淘汰されていって唯一つの精子が卵子とひとつになる過程と似ていると私は思ったし、後になって御父様が神様の精子の話しをされたことで、更に私の中でその話が事実であるという確信に変わっていった。神様と大宇宙にとっては御父様は混沌を越えて残った真の種としての精子であり、御母様は真の卵子であるとも言える。そう言い切ってしまうと誤解を生じかねないが、御父母様に対する認識の一つの側面でもある。御父母様を通して神様の精子が受精する。アダムエバに於いてはエバが堕落してしまった為にアダムも堕落し、神様の精子は受精できなかった。しかしこの基元節をもって神様の精子が受精される。御父様が勝利宣言をされたのであり、御母様も勝利の位置に立たれたことを御父様は明言されておられる。御父様が基元節の前に聖和されるという驚天動地の事態が起こり、私はその事実をどう受け取っていいのか混乱し通しだったけれども、肉体を持たれない御父様であっても基元節を迎えることができ、神様の精子が授精されるのはその通りだろうと思われる。今まで様々な摂理を立てて来られ、様々な勝利宣布が為され、その都度儀式が行われてきたが、全ては神様の精子が受精する為の道のりであり一里塚であり、そしてその受精の瞬間を基元節に見ようとしている。そして昼の神様は目に見える形で活動を始める。

今日の想い 489

御父様が話されたように、昼の神様、夜の神様は存在する。しかし頭で理解しようとする悟性人間は混乱する。神様が一なる御方であるのに、二なる神様が存在するということ自体矛盾している。神様という言い方を用いなければ、創造以前の神様の在り様、創造を始められてからの神様の在り様という言い方なら理解への道筋が見えてこないでもないが、御父様は二なる神様が存在するような言い方をされた。先ず私達が悟性人間であることを踏まえなければならない。堕落人間でありながら概念形成ができる、要するに思考できるということだ。神様を一なる御方と理解しているが、堕落した私が働かせる悟性の上での理解であって私が神様と一体となって神様そのものを体験している訳ではない。私は無知の存在であり、一体となって無知を克服したいと常に問い続ける必要があり、それは知としての理解もそうだがそれに留まらず感情としても意志としても問い続ける必要がある。原理を知る私達であっても今もって神様についてのことは殆ど無知に等しい。万が一でも知的に問い詰めて神様の証明が私の中でなされ、昼の神様、夜の神様についても理解がなされるとして、しかし実感もできないし体験もできない神様は私に取っては未だに無知の領域でしかない。御父様に取って昼の神様も夜の神様も体験しておられ、会話もされるだろうし通じ合う接点も持たれて話されることであって、私達の悟性的に理解したいという次元を超えておられる。もっと言えば私達が悟性として、知的理解として神様に向き合うこと自体既に距離を置いていると言える。原理を知る私達だけれども自分流に知っているのであってその理解を正しいものと思うべきではない。原理は正しいけれども私の理解は不十分だと言うこの認識を失ってはならない。御父様に昼の神様、夜の神様について尋ねれば、既に何度も触れたと怒られたという話を聞いたことがある。私達の理解、私達の神様の概念が御父様の理解と概念から異なるものであることを先ず認めて申し訳なく思うべきであるのに、私の概念形成、理解を正しいとした上でそれに見合うような説明を求めること自体が狂っていると言うことらしい。私の理解に立って問うこと自体既に御父様と異なる堕落的位置を特定してしまっている。御父様からすればそう見える。だから怒られる。自分の判断を正しいとした堕落したエバと同じ位置だ。原理をどれだけ学んだとしても、原理を真理として受け入れない位置に立ち続ければ原理的解釈を論理に持ち込むことはできない。私達は原理に立った位置でアダムエバ天使長の関係性、カインアベルの関係性を論理に持ち込むことに何の疑いも抱かない。非原理から見て原理の論理を理解できないように、私達から見て御父様の話される昼の神様、夜の神様が理解できない。それは私が復帰の途上でストップしたままだと言うことだ。自分の理解、自分の判断に満足して、それを疑うこともなく、問いを立てることもなく訓読しているということだ。昼の神様、夜の神様を少しでも理解したいと思うなら、先ず昼と夜の概念を正しく形成することだろう。そうすれば昼の私(目覚めている私)、夜の私(眠っている私)を正しく理解できるようになる。そして二つの私がどう関わっているかも理解できるようになる。それ以上述べると非難の対象になるだろうし、御父様がその通りだと印を押されない限り戯言でしかない。

2012年11月8日木曜日

今日の想い 488

マルコ伝二章には、群衆のために近寄ることができないイエス様に近付く為に、屋根を剥いでつり下ろすまでしてもらった中風を患った者の話がある。ここで誤解すべきでないことは、中風を癒してもらうためにイエス様のもとにつり下ろしたのではなく、罪の赦しを請うためのものだったということだ。子よ、あなたの罪は赦された、とイエス様に言われた時点で中風の者は赦しを得て満足したのであり、そこにいた律法学者の内心を読み取ったその後のやり取りがあった後の、床をとりあげて家に帰れと中風の癒しを得たことについては彼に取って付属的なことだった。聖書の理解の足りないのは私だけなのだろうか、つい最近まで中風を癒してもらうためにイエス様に近付いたのだとこの個所を理解していて恥ずかしく思った。イエス様の当時、ある霊的な方法で病を癒すことは、現代に於いて医者が薬を処方して直すのと同じくらい普通であって、それを特に奇跡とは思っていなかったようだ。だから病を癒す為だけなら別にイエス様のもとに行く必要性はなかった。当時、罪の認識と地上的なものとの繋がり、すなわち罪と病や生活苦との繋がりを認める為には信仰でしかない。中風を患った者は病から罪への認識を深めたはずで、そして罪の認識からイエス様こそ救い主だと信じたはずで、イエス様はその信仰をみて罪の赦しを与えた。しかし今は闇雲に信じる必要性はない。み言葉を受け入れた私達は罪と地上的なものとの関係を先ず蕩減のみ言葉知識として認めて納得している。現代に於いては信仰と悟性的認識は切っても切れない関係にあって、敢えて盲目的信仰を強要されることはない。だから今は信じて義とされるイエス様当時と異なり、侍って義とされる時代にある。イエス様当時では信じることに犠牲を払う必要があって義とされたが、今は理解に犠牲を払う必要はない。その代わりに信仰の上で慕い侍るためには犠牲を払う必要があってそれが義とされるということだ。義とされるとは精誠として受け取られると言うこともできるだろう。私達は御父様を再臨のメシヤとして信じていると言う言葉に偽りはない。しかし信じる私から慕い侍る私になるためには、知識としてのみ言葉から感情(内的実感)としてのみ言葉、更に衝動(意志発動)として受け取るみ言葉になっていなければならない。

2012年11月6日火曜日

今日の想い 487

反対する者や批判する者が発生するからこそ、それらに対抗する善の位置を高めていくことができる、と言うこともできる。ひとりの個人やひとつの群れが成長し発展する過程で、何の障害もなく成長し発展することなどない。或る段階で必ず外部からの挑戦を受けるだろうし、内部に於ける葛藤を経て、屈せずに乗り越えた時に大きく成長し発展するものだ。外部に出た者が教会を指弾し、それに触発されて私達の内部に於いて葛藤がもたらされるのは、或る意味避けられないし、起こるべくして起こることだとも言える。反対する者、批判する者は先ずカイン的なものが彼らに働きかけ、そして拳を上げるのを神様が許可して、彼らはカイン的立場で旗を揚げる。そして迎え撃つ者、収拾する者はそれを受けてアベル的なものが彼らに働きかけ、より善なる位置に押し上げられるのをサタンが許可して、彼らはアベル的立場で旗を揚げる。復帰歴史ではカイン圏の中にアベル的立場で旗が挙げられたが、アベルの位置にある教会でそれは当て嵌まらないと私は思っている。そしてアベル的立場で彼らを収拾し吸収するなら、教会は大きく成長し発展するだろう。それを通して教会は次元を上げたレベルに押し上げられるはずだ。アベルカインの常として、カインの存在を認めなければカインの背後にあるサタンは益々勢いを強めさせ、アベルへの仕打ちも強いものとなっていく。教会が反対意見、批判意見に対してダンマリを決め込み、何もないかのように無視するなら内紛の火は燃え上がってそれなりの犠牲は覚悟しなければならないだろう。反対する意見、批判する意見はあって当然だ。しかしそれがアベルに対する徹底抗戦、教会自体を粉砕することへ向けられるならカインではなくサタンだ。食口誰しもが多かれ少なかれ教会に対していろんな思いがある。しかしその思いが正しいのかどうかは私と言う狭い視野ではわからない。いろんな事情があって今の状況があるわけで、組織の秩序への敬意を払った上で私は私の位置と立場でもって、そして教会の責任者もいろんな位置と立場があり、そこに立つ者が決めたことへの敬意も最大限払って意見すべきだ。本質を見る者は表面的なことに左右されず、もちろん見物人のように外から眺めている訳ではないのでそれなりに翻弄されるのは事実だが、だからと言って内的霊的に立てた本質的柱までぶれることはない。ぶれるどころか試練を通して益々太く強固になる。内的霊的なものが主体であることを知りながら、この世と何ら変わりなく外的表面的なものだけにくちばしを突っ込むことに汲々とするなら、神霊に繋がり神霊を柱として備える私にはなれない。アベルとして立つ者にはアベルとしての霊的品格がある。カインとして異を唱え旗を揚げる者がいるなら尚更アベルとしての霊的品位を保って対するべきだ。おもねるでもなく、かと言って子犬のように吼え続けるべきでもないが、言うべきことははっきりと言うべきだ。

2012年11月5日月曜日

今日の想い 486

私達が身を置く堕落世界には堕落世界なりの善悪観、道徳倫理観があるのであり、その観念が依然と私達の念頭にあるならその観念で教会の行動を測ってしまうだろう。私達が、願われる万物を復帰して捧げる過程で、堕落世界の観念から外れる方法でなされたとして、それに対する負債や嫌悪感を持ち続けるのは先ず堕落世界の観念を正しいものと認識した上でのことだろう。それ自体は決して悪いことだとは思わない。この世にはこの世なりの立てるべきものがあり、常識があり、それを無視して復帰できるはずがないからだ。しかし天の摂理を僅かでも理解している者なら、立てるべきものの順序は自分の中で明確にしておくべきだ。天の願いを優先すべきなのか、それとも先ずこの世の道理や観念を宛がうべきなのか。急がれる摂理への要求行動が、この世の観念として頷けるものとして活動できればそれに越したことはないが、そこまでの実力も知恵も余裕もなかった。勝利する為には手段は選べなかったと言えば反感を買うだろうが、もしこの世の道理に合わせた遅々とした活動で、御父様の勝利圏に一役買ったとはとても思えない。献金要求というのは我々の便宜上の言葉であって、御父様が献金そのものを願われているのではない。御父様が願われたのはあくまで精誠であり、精誠をどう形にするかとなるとこの世で権威のあるお金ということになる。この事実を言いがかりだ、結局は金だと言うのであれば、それ以上の説得の言葉を述べる意味はない。世界中の金を集めても御父様の価値、戴いた祝福の価値の何の足しにもならないと私は確信している。更に言えば自分を含めた人類全ての生命よりも御父様の存在は尊いと確信している。だから差し出す献金に精誠がこもっていなければ、そのお金は何処かの地に流れてしまうだろう。献金要求に不平不満を抱いて差し出しても、やはり何処かに流れていってしまう。敢えて俗な言い方をすれば精誠を買って戴いて神霊(心情)を対価として受け取る。自分の思いとしてこれだけ頑張った、これだけ献金した、これだけ犠牲を差出したと思っているかも知れないが、対価として受け取った心情が自分にあるかを問うてみるべきだ。自分の中に心情として戴いたものがないのなら、差し出したものは精誠を込めたものではなかったという結論に至る。もし受け取る心情の価値を認めないなら、最初から御利益を求めた御利益信仰でしかなかったということだ。

2012年11月4日日曜日

今日の想い 485

自分は何のために生きるのか、何の願いがあって生きたいのかさえぼやけている。そして生きることの意味がわかったと思っても油断すれば直ぐにぼやける。生きることの意味を問わずにただ生きたいというのであれば、生への執着、しがみ付きだと言われても仕方がないのであって、生死を越えた位置で霊としての柱が立ってはいない。あらゆる哲学思想を凌駕するみ言葉でありながら、先人が開拓してきた精神の足元にも及ばない意識基準であって、それではみ言葉を受け取った意味は何だったのだろうかということになる。総序にあるように幸福を追い求める人間であるけれども、執着心という堕落性は本来その欲望を満たして幸福にはなれないにも拘わらずその状態を請う(乞う)ことだが、生きて何をすべきかを問わずにとにかく生き延びたいというのであれば、み言葉とは程遠い自分であると思った方がいい。ただ生きることのおまけに信仰があり、その信仰として信じるものに御父様が属しみ言葉が属しているだけだ、と言われればどう反応するだろうか。本当はみ言葉が全てであり、み言葉があって私という存在があり、そして私が肉体をもって生きることの重要性はその次にくるべきだ。真理と神霊に生きるべき私達がずれてしまって、妥協と肉の想いに傾いている。信仰の形骸と生活重視に傾いている。私の中に燃え盛るものがくすぶり始め、今の生活と安定を犠牲にしてもあまりある理想を失いかけている。かつては受動的にそれらを私の中に見ていたけれど、今は私が能動的に燃やす必要があり、理想を描き続ける必要がある。御父母様によって生まれ変わり、新しい生命を与えられた者としての証明はそうしてこそ為されるだろう。何のために訓読するのか。真理が私の中に燃え盛るためであり、神霊としての理想を希望を喜びを掲げ続けるためだ。何時間訓読しようが何ページ読もうが、ただそれだけで悦に入り満足していて、何処の誰が私達を羨望の眼差しで見上げ、教会に本物があると近寄ってくるだろうか。それでもまだ読まないよりは読んだ方がいいと、諦め気分で御父様は呟かれるだろうか。

2012年11月1日木曜日

陽暦陰暦

陽暦なら陽暦、陰暦(天暦)なら陰暦、どちらか一方を使えばいいように思うけれども、御父様が両方使うようにされたのは陽陰両方使うことに意味があるからだ。太陽が地球に及ぼす影響が人間の精神形成と精神文化形成への影響でもある。四季のある地域に精神文化が発展してきたことを見ればそれは明らかだ。太陽の傾きによる春夏秋冬の季節の移り変わりが、人間の生命体の中に概念を認識する魂を培う。それは昼の目覚めている状態のことであって太陽暦は意識圏の暦だ。一方で概念の認識ではなく、すなわち思考ではなく、気分、感覚、想像といった概念とは別物も人間は別様に認識している。芸術的な深い感性をもった人々に共通して言えるのは感情の波の激しさであり、感性が際立つ生産的時期と何らイメージやインスピレーションが発動しない閉塞的時期が交互に来るものだ。それはちょうど月令で月の満ち欠けが14日毎に起こるのと似ている。交互に来るものは眠りの無意識の状態で生産的力が霊界から注ぎ込まれる14日間の時期と生命力を補修するのみの生産的力が受け取れない14日間の時期に分けられる月のリズムと同じであり、陰暦は無意識圏の暦だ。月は地球から分離したのであり、地球のかつての状態を月は表している。精神形成、すなわち心魂の形成は、地球が今の状態になって地球と太陽との位置関係の下で生じ得たことであり、一方地球と月との関係は今の地球以前の状態から保ってきた関係で、太陽の光のない霊的光によって心魂形成の担い手、土台を用意してきた。太陽の力は昼の目覚めている意識状態(地上)に働き、月の力は夜の眠りの無意識状態(霊界)に働いている。陽暦は地上の暦であり、陰暦は霊界の暦だ。

2012年10月31日水曜日

今日の想い 484

21修だったと思うが、城ヶ島の海岸に徹夜祈祷に行ったのを覚えている。高校を卒業するとそのまま献身生活に入ったが、先ず部署につく前に21日修練会に送られた。安価な若者向けの空席待ち航空券(当時そういうのがあった)で羽田まで飛び、それから厚木に向かったが、それが初めての空の旅で、四畳半の貧乏下宿生から何か急に箔がついたように感じて嬉しかったのを覚えている。当時17歳だったから何かにつけて子供だった。修練会の講義の記憶はないが名物進行係の面白い話は記憶している。万物復帰もあったしグループに分かれて対抗騎馬戦などもしたけれども、今もって印象深く残っているのは、夕刻にバスで出かけた城ヶ島の徹夜祈祷だった。なかなか祈りの境地に入れない為に、ひたすら御父様を連呼するような惨めなものだったが、そのうちに敢えて言葉にして口に出すのをやめて、波の打ち寄せる音だけを内面に満たしていると、今までに味わったことのない、何ともいえない包み込まれるような安らぎを覚えた。祈りは神様との対話だけれども、祈りの説明で祈りに入れるわけではない。内面の奥に神様に通じる入り口があって、そこに辿り着くことが先決であり、更にその入口の鍵を開けて入って奥深くまで訪ねて行くと、魂に響くものを受け取れる。生活のこと、感覚的欲望、不安や恐れ、普通そういったいろんな念が溢れ返り、神様に通じる参道に至るどころか内面の深みに入っていくことすらできない。おそらく私はあの徹夜祈祷で初めて祈ることの感覚を受け取り、参道の入り口まで連れていってもらった。私達は日頃あまりにも、邪念とは言わないまでも押し寄せる念の洪水に翻弄され続けている。勿論生活感情も必要で、それがなければ地上で生き続けることはできないが、内面の奥座敷、幕屋であり神殿に向かう姿勢が準備されなければ、自分が霊を戴いた存在であることすら気付かない。私が霊として、さらに御父様を起源とする霊として生きるのでなければ生きている意味はない。その為に祈りは欠かせないが祈りの境地に入れないなら先ず祈りの姿勢を準備する必要がある。祈りの姿勢を準備する為にはこの世的念で固体化している心魂を解きほぐし、流れをよくしなければならない。その為には、、私見も言えるがそこは各自の5%だろう。今も修練会で徹夜祈祷をやっているのだろうか。なかなか祈りの境地に入れないとしても、神殿への道は見出す必要があり、徹夜祈祷はその為のいい機会だ。み言葉を聞いても、御父様に出会っても、み旨だと思って歩んでいても、そして祝福を受けても、私の内面の奥に入ることができ、神殿を見出し、至聖所で御父様の心情を受け取れなければ全ては虚しいものに変わるだろう。

今日の想い 483

ハリケーンも擬人化されて名前まで付けられて、今回の大型ハリケーンはサンディーだという。知人の奥さんの名前がサンディーで確かに大型といえばいえるけれど、ウェスタンにしては大人しく、あたりの優しい姉妹で、同じ名前を付けられた本人は今回のハリケーンをどう思っているのだろうか。随分前から警戒するように警告も出されて、フォーキャストもしきりに住民の不安を煽り、スーパーではボトルウォーターもジュース類も皆買い漁られて、ハリケーンが来る随分前から冷蔵スペースには何も残ってはいなかった。雨量は嵩んであちこちで浸水するほどだったようだが、私にすれば数ヶ月前に起こった突然の嵐の突風と比べるためか、ちょっと前宣伝が大きすぎるんじゃないかと思わされた。先回は二日近く停電してしっかり生活に支障を来たしたので、そのインパクトのせいかも知れない。ハリケーンがこの辺りまで北上してくることは稀で、だいたいテキサス、フロリダ辺りに被害を与えて消えていく。これも異常気象と言えば言えなくもないが、果たしてどうだろうか。普段枝葉は風に揺れて動くが、大きな木々の幹はこんなハリケーンにでも合わない限り大きく揺さぶられることはないだろう。勿論枝葉は千切れて飛ばされて、道路にも散乱して、犠牲と言えば犠牲だが、大小全ての草木が揺さぶられることで生命の流れが良くなるらしい。嵐が過ぎ去ると新生したように輝いているのがわかる。今の教会の状況も内的霊的に嵐、いやハリケーンに見舞われたと言えば言えるのかも知れない。教会も食口それぞれも、大きく揺さぶられることで眠っていた内的霊的生命が目覚めるのかも知れない。蕩減復帰のみ言葉にこんなくだりがある。「気が詰まり、息が詰まり、四方が堅く絞められて、地に入ることも天に跳ね上がる事も出来ないその場を、死を覚悟して乗り越えれば、生きておられる神様は間違いなく顕現される。」そう、み言葉によるなら、間違いなく神様は現れて下さる。

2012年10月30日火曜日

時々当時を思い出す

九時を回っていたと思う。聖業を終えて降ろされた道路脇で待っていると、ヘッドライトが近付いてきた。その日の任地は町外れで、夜中滅多に車は通らない。回収の車かと思って目を凝らして見ていたが、どうも違うようだ。そのまま車が通過するのを道端に立ったまま遣り過ごそうとした。しかし接近したとき助手席に乗っている人が乗り出すようにして視線を私に投げかけた。しかし幾分速度は落としたようだがそのまま通り過ぎていった。テールランプを見送りながらも車の残像は脳裏にはっきりと残っていた。下半分が黒く塗りつぶされていた。パトカーだ。咄嗟に道路を離れ、民家が数件並んでいたそのひとつの裏手に回り込んだ。案の定、車はUターンして返ってきて、車をゆっくり移動させながら備え付けのサーチライトで暗闇を照らし出した。私は裏手に回りこむと、家の後ろに薪が積み上げられていて、私はちょうど家の壁と薪の間に隙間を見つけ、そこにはさまれるようにして身を隠した。車はしばらくの間、進めたりバックしたりしながら方々を照らし出していたが、息を殺してじっとしていると、そのうち諦めたようで行ってしまった。確実に去ったことを確認して、やっと胸を撫で下ろした。もし車から降りて本格的に探されたらすぐに見つかっただろう。別に悪事を働いているわけではないが、こんなことは過去既に経験済みで、あることないこと問い詰められ時間を奪われ、更には親にまで連絡が行って迷惑をかけることは分かりきっていた。回収時間を少し越えてしまったが、用心に用心して、暫くその物陰にじっとしていた。壁の上のほうには窓があり、カーテンの隙間から微かに光が漏れていた。緊張が引いて落ち着くと、家の中から漏れてくる音にも気付いた。テレビで歌番組でもやっているのだろう。軽快なリズムと共に若い娘の歌声が流れている。時々その合間に家族の語らいも聞こえてくる。楽しそうな家族の情景が見えるようだった。何も悪いことはしていないと分かっていても、悪事を働いているかのような自分の行動に気持ちは落ち込んだ。親への連絡を免れて安堵はしたけれども、警察から連絡があろうが無かろうが、今の今も普通の親の何倍も心配させ続けている事実は変わらない。親を救いたいと思ってこの道に飛び込んだけれども、こんな自分のやっていることが救いとどう関係するのだろうか。そう言うと随分まともに思えるが、本当はただただ逃げ出したかっただけだろう。もし鈍行を乗り継ぐとしても、今帰ると決めれば帰れる。そう発想したことをはっきりと覚えている。手持ちがいくらあるか計算もしたし、運賃も概算した。けれども、そうは思ったものの実行せず、結局遅れても回収してもらった。その時どう自分は思い直したのか、それは今は思い出せない。その頃は、復帰された初期の燃え上がっていた情熱も失せてしまって、燃え尽きてくすぶりかけていた頃だった。

2012年10月28日日曜日

今日の想い 482

田舎の故郷は年寄りばかりが残り、その年寄りたちも自然の道理によって年々減ってきた。しかし中にはこの田舎の自然を愛して居残る者、Uターンした者もいて、そんな人達が状況や風景を配信してくれるので、遠くに居ながら田舎の様子を知ることができる。アップした画像を見てみると、本当に自分の田舎はこんなに美しかっただろうかと、首を傾げるほど綺麗に撮れていてびっくりする。もうすぐ紅葉の盛りで、刈尾の山裾の紅葉の彩りが、裾野に流れて筋を引く霧から浮かび上がるように滲み出ている。距離を置いて平面で見る自然の風景と、その場に佇んで見るのとは勿論違うし、さらにその自然の中で生活しながら感じる自然はまた異なる。生活者は自然は厳しいものだという感覚の方が強くて、美しいと思える余裕などなかったと思う。美しいものというのは大体に於いて厳しい。普通は生活のやさしさを先ず求めて美しさは犠牲にしてしまう。逆に生活の安楽さを犠牲にし、厳しさに身を埋めてこそ発見できるものがある。雪深い田舎の冬は厳しさそのものだが、毎年白くて冷たい試練をひたすら耐えて通過することで受け取るものがある。田舎では家族や近しい人に不幸があっても敢えて感情を表に現さない。弔問客に笑顔で酒をふるまいながら感情を押さえ込み、厳しい現実を当然のように受け入れようとする。自然の厳しさを受け入れることで己の欲や感情への厳しさが人間性風土性として馴染んでいる。それはひとつの精神的美だと思う。自然を通してそうであるように、信仰生活によって咲く花や実る実は、頑なほど自分に対して厳しくあればあるほど、精神的に美しい花を咲かせるだろうし実を実らせる。イスラエル民族がカナンの地に定着し始めると、異民族の影響も受け、戒律も緩くなって次第にスポイルされていった。私達も半世紀の教会歴史を辿ったが、家庭を持てば定着し始めて、外的余裕も出てくるとどうしても信仰面に於いて緩くなってくる。もしここにきて私達が自分から厳しさを求めることが難しいのなら、霊界におられる御父様はどういう手段に出られるだろうか。真の親ならではの厳しさを、地上で痛いほどに経験することも十分あり得るのかも知れない。

2012年10月27日土曜日

今日の想い 481

誰でも試練に会う。必ず試練に会う。そして試練のその場で、今まで培ってきた内外の供えが生きるのか棄ててしまうのかを自分で決める。内的霊的に踏み絵を前にする局面が必ず出現する。そして踏み絵のその前で、中間位置の私は神側なのかサタン側なのかを自分で決定する。もちろん絶対信仰、絶対愛、絶対服従の三本柱が私に立っているなら何の問題もないだろう。しかし今まで味わったことのない恐怖を前にして、自分が絶対信仰、絶対愛、絶対服従として聳え立つものを私の中に見ることができるだろうか。怒りが込み上げて我を忘れて衝動に出るのはサタン的だけれども、感情として、私に火をつけ抑え切れない善への衝動を発する言葉を持っているかどうかが問われると思う。神様、御父母様と口にしただけで、涙を禁じ得ないというほどに心情因縁を持っているならともかく、そこは堕落人間であって、幾度となく神様と口にしながら、幾度となく御父様と口にしながらも流されてきたことも事実だ。十字架にかかられるイエス様を否定してしまった弟子達と同じだ。人は誰も自分という存在を把握しているようで、存在の中で最も理解できず不可解なのが自分という存在だ。生きるか死ぬかの局面で思いもよらぬ自分の顔を見てしまうものだ。そんな局面は滅多にないが、食口であるなら、常識を無視した立場に何度も立たされながら、自分のいろんな醜い顔を見ただろう。私がサタンの血統の実体だと落胆する体験をすればするほど、私の中に流れるサタン的血を流してしまいたいと思えるほどに罪を実感するだろう。そうしながら罪や堕落という言葉は感情を伴った生きた自分の言葉になる。そして救いや復帰という言葉も憧れの感情を含む自分の言葉となっていく。み言葉を知っているかどうかではなくて、み言葉が私の中で生きているかどうかを問われる。私の中でサタン的な言葉、概念が主体の位置を占めるなら不安や恐怖に打ち勝つことはできないだろう。しかし私の中でみ言葉が生きた概念として主体に立つなら打ち勝つことができる。

今日の想い 480

探しものは何ですか。見つけにくいものですか、、、。軽快なリズムと共に口ずさんでしまう、日本人なら誰もが知っているフレーズだ。歌はそのあと、それより一緒に踊ろう、踊って夢の中へいこうと誘いをもちかける。人は一度は自分に問うてみるらしい。どうして生まれたのだろうか、何のために生きているのだろうか、死んだらどうなるのだろうかと、、。その問いの重さはそれぞれで違うけれども、問うてみることは確かだ。しかし所詮わからないことだろうと、わかったところでまた別の新たな問いがでてくるだろうと、早々に諦めてしまう。それより自分が生まれ出た感覚世界に没頭し、感覚欲望を満たしてくれる周囲に煌めくものを楽しまない手はないと、誘惑にかられていく。人間の精神の停滞は諦めから始まる。み言葉に触れて御父様に出会った食口であっても、やはりある段階で諦めようとしている。神様から与えようとされるものを中途で手放そうとしている。探しものは見つけたけれども手にしてはいない。手にしようと思えば終わりのない内外の投入が必要だ。それより今の段階に留まってそれなりの感覚世界を享受してみたい。あるいは、感覚世界から完全に隔離されて生きることはどうせできないのだから、それなりの感覚世界への浸透は仕方がない。食口は食口でそんな誘惑にかられていく。伝道は、無知から知へ、死から生への導き手の役割を担うことだとも言えるが、私自身が知の領域に漕ぎ着けたのでもなく無知から知への中途であり、死の領域から完全に抜け出した訳ではない生命の木を得る中途であるなら、伝道は私自身に対しても言えて、その伝道は生涯継続していくものだろう。そして私と全体がリンクしているなら私の伝道と人々への伝道とはリンクもし、切っても切れない関係性にあるはずだ。個への指向が蔓延している現代社会に、為に生きるという個を犠牲にして全体に生きる逆向きの指向は、現代社会では甚だ育ちにくく、せっかく接ぎ木され存在根源の根を真のオリーブの木の根とされながら、生命の木として花を咲かせ実を実らせるまでを今生で見ることはないだろうという諦め気分が、教会も半世紀になりながら培ったものが見えないという現実気分と共に被さってくる。御父様の聖和に合わせて成約ペンテコステを期待する気持ちは、御父様の願いを受けながらも茨が多く被さり、突きぬけるべき困難を実感する兄弟達にとっては切実だろう。ペンテコステが私達が期待するような、或いは聖書の記述に見るような仕方でもたらされるとは思わないが、御父様が主体である霊界におられるなら、対象である地上世界に思いもよらぬ働きを準備しておられるのはその通りだろう。それは恐らく期待するようなものではなく、後にも引けず先にも進めない、四方を完全に包囲された状態で、堕落圏を越える光明が御母様を中心として差込み、そして世界を天地開闢の光が御母様を中心として燦然と輝き出るだろう。夜明け前が最も暗い。これでもかと言うほどに更なる困難が覆いかぶさり、兄弟達を更に内外共に追い込んでいく。それ以上追い込みようがない位置で、絶対信仰、絶対服従を棄てなければ、私達は次元を上げて新たな位置に立つ。

2012年10月25日木曜日

霊的無知

私はと言うと、生き続けることの不安と恐怖もあり、死ぬことへの不安と恐怖もあった。さらに不安と恐怖に苛まされる私という存在自体が何かも理解できず、存在しているのに存在がわからないというこの無知はまさしく霊的無知だった。霊的無知は外的無知とは全く異なる。生まれることの意味、死ぬことの意味、人生の意味を問うのは霊的無知であるけれども、もしその態度が物思いに耽ってみたり、コーヒーでも飲みながら思索してみると言うのであれば、それは実のない言葉を見い出すための遊びであって、不安と恐れに苛まされるのでなければ霊的無知とは関係がない。霊的無知には時間や空間を考慮する余裕などない。生と死の狭間で気が狂わんばかりの状況になる。食口の誰もが真剣に悩んで原理に辿り着いたと言うかも知れない。表面的には混乱した今の教会の状態で、それぞれが内的態度がどうなのかを無理にでも迫られる今、迫られて発する態度や言葉として表れるものに、原理に辿り着いたそれぞれの出会いは、人によって随分異なるものだと思わされる。真剣に悩んでこの道に来たであろうその悩みの質が随分異なっている。自分と同じ不安と恐怖や悩みを味わってきたのなら、そういう内的態度は取れないはずだと思わされる機会が度々ある。本当の意味での霊的無知がどういったものか、それを経験せずにこの道に来ている。霊的無知が分からなければ、救いへの必要性というより、救いへの渇望はわからない。御父様に対するメシヤとしての真偽も、教会や真の家庭に対する追求も、願われ要求されてきたことへの疑問や不満も、問う本人自体に救いの渇望を見ないのであれば問う意味すらない。自分が夢見る理想像、自分が夢見る理想世界。霊的無知を知らず救いの渇望がないのなら、救いとは関係のない自分の理想像や理想世界を御父様のそれに見ていただけの事だ。救いの渇望がないのなら、自分の願いと御父様の願いが少しでもずれるなら、御父様からは離れざるを得ない。私が堕落の位置で描く理想像や理想世界に何の意味もない。御父様の胸のうちにある理想像や理想世界が堕落の位置で正しくわかるはずもない。しかし私の否定できない事実は専ら救いへの渇望だ。それは御父様以外に誰も救ってくれる者はいないし、御父様にしがみ付くしかない。堕落の位置で救いの必要性を感じないのであれば、御父様がメシヤかどうかを問う意味がどこにあるのだろうか。彼らは霊的無知の無知だ。

2012年10月24日水曜日

今日の想い 479

頻繁に愛という言葉を使う。信仰という言葉も使う。血統という言葉も使い心情という言葉も使う。御父様がみ言葉で語られたそういった言葉は御父様の言葉だ。堕落人間の概念にはない御父様の言葉だ。そういった言葉をあたかも自分の言葉として理解したように頻繁に使いながら論理を立てる。現代版神学論争を繰り広げ、概念のない骨のない言葉を組み立て、何の霊的支えもない、言ってしまえば蜃気楼に住めるかのような幻想を恥じらいもなく己の理解として差し出している。もし御父様に差し出すとして、ハナから一蹴されて見向きもされないだろう。どんなに原理の言葉を引用しようと、原理にはならない。原理用語、み言葉の用語をどれほど使ったとしても食口のひとりすら見向きもしない。自己満足のナルシストがせっせとブログをしたためる。ナルシストがナルシストをナルシスト的に責め、慰め、褒める。ナルシストはどこまでも自己中心的だ。しかしその自覚を十分備えて、そういう己との戦いに転じるなら、それはそれで意味を為すだろう。要するに御父様が日記を付けなさいと言われた、そこに留まるべきだ。日記として自分の事に留める限りは赦される。ここまで批難中傷罵倒の言葉を並べたてるのかと、ブログの中には返す言葉のひとつでも書きなぐって寄こしたいものがあるが、私はそれをすべきではないことを知っている。そこを越えたら私のブログも日記ではなくなる。百万回愛という言葉を連ねても、愛を動機とした僅かの行いには比べられない。信仰に於いても、心情についても勿論そうだろう。言葉を連ねるよりは、行動に出る方が遥かに尊いことは誰も疑いようがない。そうであるなら、申し訳なく、謙虚に、控えめに、目立たずに更新することだ。

今日の想い 478

霞んでいるのはどっちだろう。私の目だろうか。それとも自然そのものが霞んでしまったのだろうか。秋の紅葉が深まってきて、確かに色合いの変化は伺える。しかし去年のそれとは何かが違う。どんなに瞬いてみても、色合いは霞んだようにみえる。自然が霞んで涙に潤んでいるようだ。訪韓したときも雨が多かったけれども、あれ以来雨模様がずっと続いている印象が拭えない。秋の日差しを色鮮やかな輝きに変えて、突き抜ける青空のその先に届けるかのような、そんな真っ直ぐな想いが滲んでいたが、今年の秋は少し違う。確かに色合いは変わっているけれど、そこまでの想いは伝わらない。私の目が霞んでしまったのか、それとも微かな私の感性ですら失せてしまったのだろうか。朝は晴間が広がっていて、久しぶりの秋晴れがやっと広がるのかと幾分心も軽かったが、それもほんの明け方のうちだけで、どんよりした雲が直ぐにも覆い始め、僅かな期待も裏切られる。私は、どうしたらいいのだろう。どうすべきだったのだろう。何か大きな機会を取り逃がしたような、もっと何か深い因縁を繋ぐべきだったような、何かしらの悔悟の想いはあるけれど、悔い改めるまでには至らない。徐々に無気力のクレパスに引き摺り込まれるような、なんともいえない気持ちになる。御父様のおられない地上の秋。御父様に見られることもない秋の彩り。御母様に手渡された桃を美味しそうに頬張っておられた御父様。もうそんな御姿を見ることもない。入院されて処置に最善を尽くされたことは疑いようもないが、説明された何とも痛々しい最後のイメージがどうしても消えない。事実は事実として受け止めるべきだけれども、出来れば耳を塞ぎたかった。その印象は私の目も霞ませ、自然も霞ませる。

2012年10月21日日曜日

今日の想い 477

店はスクラップアンドビルドで、時代に合わない店、固形化して修復が難しい店は一旦たたんで閉め、そして全く新しい店を作り直す。修復は新しい店をつくる何倍もエネルギーが必要だということを、或る程度店の経営を手がけた者は知っている。御父様も復帰に対して同じように話されている。再創造は投入した力よりももっと投入しなければならないと。創造するより修理するほうが大変なように、それ以上に投入することを蕩減という条件で払っていく。神様が流された血と汗と涙は、創造よりも復帰に対して流されたことの方が遥かに大きいだろう。勿論創造への莫大な時間的エネルギー的投入も計り知れないが、復帰への投入は更に大きいものだ。そうであれば第二アダムであるイエス様への神様の想いは第一アダムへの想いに比較できないだろうし、さらに第三アダム御父様への神様の想いはそれにも増して深いものがあるはずだ。それに応えられた御父様であり、神様の復帰への執念を御父母様を中心とした摂理をもって応えられた。私達はみ言葉を通し、自叙伝を通して復帰に投入されたその一端を知ることができるが、その心魂の砕かれて磨り潰されるほどの血と汗と涙の路程は私達の認識をはるかに超えるものだ。或る意味、知らないほうが返っていいと言うくらいの常軌を逸した内的霊的路程を歩まれた。勝利された栄光の主であられるけれども、栄光に対する概念を変えるほどに血と汗と涙にまみれている。犠牲の上に犠牲を強いる栄光であり、砕かれて磨り潰される栄光であり、切り刻まれて塩を擦り込まれる栄光だ。私達は御父様を慕い侍る歩みで確信することがある。それは汗を流すとき御父様が傍らにおられ、涙を流すとき御父様が語り掛けられ、そして血を流すときは御父様が入り込まれて御父様御自身の血を流されるということを。だから私達は汗を流すことに喜びを覚え、涙を流すことにも感謝し、血を流すことも厭わない。

ルター その二

仲良くできないこと、兄弟喧嘩が問題だと、食口の多くは思っている。しかしそれは原理を知る者として、統一信仰を持つ者として、余りにも表面的な捉え方だとは思わないのだろうか。できるならそうあってほしいと思わないでもないが、そんな簡単な問題ではなく、私は皆が思っている以上に根は深いと思っている。ルターの宗教改革と同じ位置関係にあるとは思うが、しかし立場は当時と今ではまったく逆転している。ルターを担ぎ上げた当時の改革者と違って、今の彼らはアベルの位置にはない。再臨のメシヤを迎える基台づくりの上での判断と行動と、既にメシヤである御父様を迎えて絶対信仰、絶対服従の行動を取るべき我々が、その判断を御父様に仰ぎ行動するのとは、立場が異なる。不幸中の幸いは御父様が御生存中に事が起こったことだ。御父様が明確な指示を出されたことで、御父様への絶対信仰、絶対服従にある者は迷いがなかった。これがもし聖和された後に起こったと思うと空恐ろしい気持ちになる。サタンが関与しているとして、サタンの狙いの間違いは御父様が御生存中に決起してしまったことだ。御父様がいつ聖和されるかは、おそらく御父様ですら知らずに過ごされた。知ることもでき、決めることもできただろうけれど、敢えて知らずに過ごされたはずだ。御父様が知ればサタンも知るだろう。サタンが知っていれば聖和される後を突いてきただろう。117歳まで生きられるという言葉を口にされて、サタンもそう信じたはずだ。そのミス以外、全ては完璧だった。清平摂理を免罪符まがいに貶め、御家庭の問題を浮上させ、教会の問題を腐敗した幹部によるものだと吹き込み、そしてルターが教皇の誤りもあったと口にしたように、彼ら曰く、御父様も周りの偽りの報告を信じられて誤った指示を出されたと口にした。先にも言ったように、未だにサタンの戦術を知らない食口の多くは兄弟喧嘩だと思っているが、彼らの非の打ち所のない論理攻勢は実に狡猾だ。サタンがここまで利口なのかと思わされたし、御父様は更にその上をいく知恵を使われたとも思わされた。

ルター その一

マーティンルターに関しての本を読んで見た。ルターと言えば勿論のこと宗教改革だが、当時の教会は献金という形でいくらか収める代わりに免罪符を渡していて、簡単に言えば罪の許しを売っていたということであり、そこに異を唱えたのがルターだった。実は当時のキリスト教会に対するルターと、我々の教会に対して声を上げるグループ派とを見比べてみるとき、その対立様相に似通ったものを見るようで、少し詳しく踏み込んでみたいと思ったからだ。私達が訓読する以上に当時の宗教者は聖書通読を欠かさず、修道院では1回詩篇50編通読、それを1日7回で全編150編だから、全編二回以上毎日欠かさず読み続けることになる。ルターが所属したのはアウグスチヌス修道会でアッシジのフランチェスコの流れをくみ、清貧、貞潔、服従を旨とし、祈り(聖書通読)かつ働け(托鉢)との教えに寡黙に従っていた。元来、免罪符は罪の懺悔でそのとき神父から課せられた行いを果たし得ずに、そういった者達に特赦的な意味で時と場所を限定されて改めて発せられたのが免罪符だったが、そのうちに制度化されるようになり、更にそれが金銭と引き換えに与えられるようになってしまった。ルターは教皇が権威を持つ教会に繋がるのではなく聖書に繋がるべきだと、彼の改革は根本的に聖書に帰る運動、聖書を読む運動であり、ルターの精読から始まって皆と一緒に読み、読んだことを皆と分かち合っていく運動だった。当時、教皇は不謬でありその権威は揺るがないものとされていたが、ルターは公開された論戦で、教会歴史の中で教皇も誤りを犯すことがあったとの意見を口にし大破門を突き付けられた。教皇側からその意見を60日以内に撤回する旨の勅諭が送られたが、教皇は反キリストだと確信したとルターは返送して、結局大破門は揺ぎ無いものとされた。おそらく今の教会に声を上げるグループ派は、ルターの宗教改革と同じような位置で行動しているという認識が少なからずあるはずだ。清平摂理、そして宣布文、更に期限をつけられての警告文、その経緯を思い起こすとあまりにも成り行きが似通っている。

生の概念、死の概念

人はどんどん死んで行き、誰も死を免れることはできない。時が流れるに従わざるを得ない人間であるけれども、死を間近に見るのでなければ、死に向かう時の流れが自分の存在の根底にあることを悟らない。時の流れ、時の消化の原則の上で存在しているけれども、死を目前にしてやっとその拭えない事実を非情な感情と共に認識する。死の正しい概念を受け取った者は、毎日のこの一瞬一瞬を刻み消化しながら、葬り続けている事実を悟っている。肉体を見れば常に新旧の細胞が入れ替わって、古い細胞は死に新しい細胞が生まれている。新しい細胞は半永久的に造られ続けると思っているけれど、新しい細胞として造られる数は生まれる時点で既に決められている。半永久的に造られているのではなく決められた再生細胞数を消費しつつ、まとまった年数を生き続けている。細胞を葬り続けることは肉体的死の概念であるけれども、内的霊的な意味での死の概念は別にある。人間は肉的細胞を葬り続ける犠牲を払って、霊的存在の為の霊的細胞を生産しようとしている。霊的存在の為の霊的器官を生産しようとしている。あまりにも霊的無知であるために、霊的器官と言われても地上的肉体的イメージでしか捉えようとしないけれども、霊的に活きるためには霊的器官が必要だ。それは授受する愛を感知できる器官であるとも言い換えられ、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を、人生を通してそれぞれの位置でそれぞれの愛を完成し、その愛の完成体で霊界での永世を享受する。時間と空間という限られた圏内で、しかし限られているけれども霊的に見るならその密度は相当に濃いものだ。僅かの地上の愛の行いが霊界では何百何千倍にも増幅される。また逆も言えて、僅かの恨みも霊界では相当に増幅される。本当は増幅されるのではなく内的霊的無知と感性の乏しさが地上で無感覚にさせているだけだがそれさえもわからずにいる。御父様に正しく会えたかどうかは真の愛に繋がり、真の愛が霊的存在に関与されているかどうかであり、そこを断ち切ってしまえばどこまでも存在否定の極まで堕ちていく。御父様は霊的太陽である。もしそうであったとしても太陽に背を向けても生きて行けると思うかも知れないが、霊的太陽に背を向けることを地上に例えるなら、光も何もない宇宙の果てに向かっているようなものだ。地上圏内はどんな場所でも、何を信じようとも、暫定的愛の圏内に入っているために存在に支障はないが、霊界には地球の胎の保護圏はない。私は、食べるために存在を葬り続け、呼吸するために存在を葬り続け、肉体の細胞も葬り続け、そしてそれらの全ての存在は霊から成り立ち、よって霊を犠牲とし葬り続けている。葬った霊を私は抱えながら、私の使命はそれらと共に霊的高みに昇華させることだ。出会った御父様の霊的高みの位置に連れて行ってこそ、彼らの私への犠牲が報われる。

2012年10月19日金曜日

不安と恐れを超えるなら

心地いいのか居心地が悪いのか、前進するのに常に私のその気分に左右されながら道を選択し、次の一歩を踏み出している。それが普通の堕落人間の在り様だ。毎日の歩みが惰性的で発展性を見ないなら、私の閉鎖的な気分に忠実なだけで無闇に気分の揺れ幅を大きくしたくはないということだ。それはまだ見ぬものへの恐れに主管され、その恐れで踏み出せないとも言える。それは霊的には一歩を踏み出せないどころか踏み出そうともしていない。時間的にも空間的にも身動き取れないでいる。目覚めている間、意識は外に向いており、外界の印象を内面に満たした状態では内面の本質、心魂の深みを観察することは難しい。さらに心魂にしか話しかけることのない霊を認識することはさらに難しい。ただ内面の表層である心地いいか居心地が悪いかという狭い気分の圏内、恐れと望みの圏内に生きていて、その感情とそれに沿う僅かな意志が全てだ。み旨を前進させる為には神霊を働かせなければならない。神霊が私に働きかける為には、この圏内から飛び出て、刻々と拘束し続ける情念(恐怖と希望)を超越した位置に立たなければ霊的に前進することはない。生きて私の責任分担を追求しながら、家庭復帰にしろ氏族復帰にしろ、或いは経済復帰にしても、事情を並べながら身動き取れないでいるのは、事情が問題なのではなく事情を理由に発っして醸し出す不安と恐れから何らの意志も差し出せないでいるからだ。それが問題だ。私が関与するみ旨、復帰がどういう形で為されるかは、所詮私の思うようにはならないし、私の思う形にすべきでもないだろう。あくまで私は心魂を備えた復帰の為の道具であって、私に働きかける神霊が復帰の形を造っていく。私は道具となって関与しながらその経過や形になっていくものを、働きかける神霊の叡智に感動もし感謝も捧げながらお手伝いしていく。私個人のことですら四苦八苦しているのに、氏族メシヤだ国家メシヤだと大上段に掲げられる御父様の願いをどうやって達成していけばいいのか、という課題は、私はもはやこの皮膚によって閉じ込められた私に留まる限り諦めるしかない。しかし真理と神霊が働きかける私、この皮膚を蹴破り不安と恐れに戦いを挑み超えることができれば、私は不可能を可能に変えることができる。その意味で、強く雄々しくあれと言うことだろうし、死生決断でもある。

2012年10月18日木曜日

今日の想い 476

この世の愛と本然の愛とは愛の概念が異なるというみ言葉がある。我々が思うところの愛はこの世でも通じ得る概念の愛だろうか。この世の人達が愛だと思っている愛と、私のそれとが同じで変わらないのなら、私はまだ本然の愛を知らずにいるということになる。いかがわしいものを偽りの愛、さらに踏み込んで自己を中心とした愛を偽りの愛、と言うに留まるなら、この世でも十分通じ得るし、この世的愛の概念にみあってもいる。しかし堕落と本然とは愛の概念が異なるとの言い方は、本然の愛はこの世の愛プラスアルファではなく、概念自体が異なっている全く別物という感じを受ける。真の愛という言葉をみ言葉のどこにでも見つけられるし、真の愛という言葉を使ってもいるし、食口にしてみれば随分慣れ親しんだ言葉でわかったようなつもりでいるけれど、本当は勘ぐりの範囲に留まったままで、真の愛の概念自体を正しく受け取ってはいない。私達は既に探し当てているつもりでいるだけで、本当は真の愛の香りを少し嗅いだだけで御父母様に従いながら真の愛への道を辿っている、と言った方が正しいはずだ。真の愛に対してもそうであるように、真の生命、真の血統に対しても同じことが言える。真の生命の概念、真の血統の概念も、愛によって生命が誕生し、生命によって血統という縦的なものを相続していくなら、本然の愛、真の愛の概念を受け取れなければそれらの理解も得ることはできない。私達は真の愛にしても生命にしても血統にしても、その概念を得るには至っていないけれども、しかし血統転換儀式を受け祝福は戴いている。戴いた祝福は真の御父母様から受けたのだから真の愛が基にあり、真の生命も真の血統もその苗は植えられたはずだ。概念を受け取る以前に実質を受け取った。実質の苗が成長して私の中で真の愛、真の生命、真の血統が実を結ぶ為には、私の概念を否定して壊し続けなければ成長はおぼつかないだろう。それは移植した臓器を外来の不純物として攻撃されないように免疫低下の薬を飲み続けるようなものだ。それ故に絶対信仰、絶対服従、絶対愛だ。真の愛、真の生命、真の血統として花を咲かせ実を結ぶその時を恋焦がれ、個人に於いてそうであるように家庭でも氏族でも国でも世界でも、真の愛、真の生命、真の血統として花を咲かせ実を結ぶその時を恋焦がれながら歩んでいく。堕落的な概念を壊す為には失望を希望と認識すべきであり、愛されない歓びのない幸せのない現実を、愛され歓びを受け取り幸せに満ちていると認識すべきであり、不運な現実は真の位置から見れば幸運であり、幸運として認識できない私の概念に問題があると見るべきだ。徹底した自虐嗜好のように思えるけれども、霊的に見るなら自殺する者が自己中心、自己愛に凝り固まった霊に主管されているように、真逆の意味で真理と神霊に主管され、真理と神霊によって祝福によって植えられた真の苗は成長する。

2012年10月17日水曜日

今日の想い 475

リッカーボードのおとり捜査に捕まった。21歳未満の客にアルコール含有飲料の提供は固く禁じられていることは十分承知で、サーバーにも毎日の朝礼で口を酸っぱくして指示しているのだが、それでもつい気を許したのか引っ掛かってしまった。スピード違反のネズミ捕りは待っているだけだから理解できるが、おとり捜査は引掛けに来て、雇った学生にビールをオーダーさせて、こちらの気の緩みを突くように仕掛けてくる汚なさがある。提供するのも違法なら未成年が酒をオーダーするのも違法のはずだ。おとり捜査は未成年にオーダーさせているのだから、お上が違法に加担させていることになる。そこを指摘すると、オーダーはしたが口にしていないので成立しないと言われた。それ以上突っ込んでもポリスにこちらの心象を悪くさせるだけだから、書類にサインして御触れを待つことにしたが、サインして手渡された書類コピーのピンク色が自分には如何わしさプンプンに感じられた。実はこれで三回目だ。30年近くこの場所でビジネスしていて、最初の頃続けて二回、それも同じウェイトレスが引っ掛かった。その時にオフィサーから、三回目はアウトでライセンスを取り上げられると伝えられていたので、随分心配もしたが、マネージャーにリッカーボードのオフィスに状況を聞きに行かせたところ、なんとか罰金ですませられそうなので取り敢えず安堵した。それでも講習の参加義務やらコートに出向いて罪状認否させられるやら気の休まることはない。ライセンスを取り上げられるならそれもみ意だと、禁酒を推奨しているのに販売すること自体矛盾していると、そう割り切ろうとしたけれども、かといってなければないで今の業態を辞め、新たな業態を始めなければならないが、この基盤を一端白紙に戻してまた一から始めるのは至難の業だ。そんなこんなでこの事件を契機として店についてもいろいろと考えさせられるようになった。御父様が聖和されて店を続ける意味は変わらないのだろうか、とか、生産、流通、そして消費者の手にという水産摂理のビジネスのひとつを担っていたが、最も基盤のある流通が一連の問題で外されてしまって残された消費者の手に届ける店はどうしたらいいのか、とか、これから水産ビジネスに対する重要性や位置付けも微妙に変わってくるのだろうか、とか、そんなことも考え始めるようになってしまった。御父様の鶴の一声でここまでやってきたが、これから外的具体的なことに対しても、絶対信仰、絶対服従を自分にも全体にも突き詰められながら、ひとつひとつクリアしていくことになるのだろう。今までは中心の位置でのことだったが、これからはいよいよ現場が踏み絵を踏む試験に直面することになる。

2012年10月16日火曜日

今日の想い 474

復帰歴史は前もって説明してもらって歩む道ではない。勝利して後に収拾するようになっている。歴史の流れ、時の流れのどの一点を取っても、誰も直面していることの確かな意味を説明されて歩んでいる訳ではない。自分の過去の歩みのどの一点を取って見ても、やはり同じことが言える。要するに訳もわからずひたすら歩んできたのであり、振り返ってみれば復帰に加担した跡が見えるということだ。訳もわからず歩んできたのなら、何を持って選択意志を働かせてここまできたのかというと、御父様に対する帰依だ。絶対信仰、絶対服従だ。絶対信仰、絶対服従でここまできたにもかかわらず、今直面している問題に対しては自分の判断を働かせようとしている者がいる。いつのまにそんなに利口になったのだろうか。絶対信仰、絶対服従と、自分の判断とは全く異なる。その違いを曖昧にして等閑(なおざり)にするのであれば信仰は形骸化する。献身路程で何ひとつ外的な自己主管物も持たなかった頃に比べ、社会に浸透し社会的な環境も持ち合わせている今は、確かに社会生活では自分の判断も必要になってくる。だからといって自分の判断が絶対信仰、絶対服従に取って代わるものではない。このことだけは念を押しておくべきだ。であるにもかかわらず、自分はこう考えるとかこう判断するとかと言いながら、自分を立てようとしている。み言葉を、御父様の指示を、自分の判断をもってこれがみ言葉の真意だ、これが御父様の口にだせなかった真意だと言うなら、それは既にみ言葉でもなければ御父様の指示でもなくなっている。さらに問題なのは良心を持ち出して、良心に照らして、とか、良心はないのか、と言ったあたかも天に90度で直通する良心が既に備わっているかのような物言いをしているけれど、誰も良心基準が天に直接通じるほどには至っていない。私達はこの世に対しては蛇の如く利口であるべきだけれど、天に対し御父母様に対しては愚鈍なまでに素直であるべきだ。アダムとエバは不信から堕落したのであり、次に自己主張から堕落したのであり、そして自己中心の愛の環境を夢見てしまった。この堕落の三大要素は自分勝手に判断するという行為の中に全て含まれている。

2012年10月15日月曜日

今日の想い 473

私が復帰された当時の教会には愛国愛人の精神が宿っていた。私が、そしてこの群れが、憂えるこの国を変えるという愛国魂に燃え、気概に溢れていた。先輩食口の多くは大学出か中退したかで知性にも長けていたし、原理の講義や勝共の講義も聞き惚れるほど冴えていて聴く者の魂を燃え上がらせた。高校生でみ言葉に触れた私は、教会や勝共の事務所で活躍する二十代の兄や姉達が実に大人びて落ち着いて見えたし、こんな先輩食口になりたいという憧れもあった。当時の社会で浮いた存在かというと確かにそうだったのかも知れないが、この日本社会の組織に埋もれたまま流されていかざるを得ないという当時の認識は若者の誰にもあって、私達は浮いた存在と言うより何かを掴んだ羨ましい存在に見えているはずだという誇らしさはあった。同じようなもうひとつの存在が敵対する一方にあって、彼らは共産主義者だった。方向性は逆だったが保持している魂の熱は同じくらい強く、にらみ合うことでお互いがお互いを切磋琢磨していた。原理と勝共理論で武装して歩む私達は、理想天国の遠くない実現を信じて疑わなかったし、生活環境が悪く耳パンをかじろうが寝袋生活であろうが、或いはどんなに反対され迫害されようが、それもみ旨が為されたときのひとつのエピソードくらいにしか思っていなかった。しかし熱は冷めていく。兄弟ひとりひとりに取っても、全体に取っても、当時の熱情は初愛に似ていて燃え上がり、或る期間を熱い想いで過ごすけれども、それを超えれば受け取る熱から与える熱に次元を上げなければならない。熱は冷めてしまっても初愛を貫き通す試練を私達はくぐって来た。その間は惰性的にも感じ、服属的にも感じ、実りを得ることはない諦めも蔓延し、共に歩んだ兄弟は一人去り、二人去っていった。今、理想天国が明日にでも実現されるという実感をもって嬉々として歩む兄弟がいれば、それは私達からみてもお目出度い存在だろう。御母様が話される、初期教会時代の真理と神霊に溢れた教会を取り戻したいという想いは、食口の誰もが魂の深いところに初愛の記憶としてあって、しかし時も経ち、いろんな経緯も経ながら、多くのシガラミで雁字搦めにされてしまった今、どうなるものだろうという思いの方が勝っている。御父様がいつも二世達を前に座らせてみ言葉を語られたように、一世が積み上げた土台を足場にして次なるみ旨の段階を二世に手渡すことが願われていた。一世が積み上げたものを形通りに受け継ぐことを御父様は願われたのかというと、そういうことでもないだろう。御母様の真理と神霊に溢れた教会も、今までの摂理が失敗したからもう一度初期に帰ってやり直せという意味ではなく、御父様の勝利された土台の上に上がって改めて仕切り直しをして進もうと言うことだと思う。一の位から十の位に上がるように、次元を上げて新たな出発を為そうということだろう。しかし次元を上げることの意味が未だに私はわかってはいない。そしてもちろん、初愛の当時に帰ることはもうない。

2012年10月13日土曜日

今日の想い 472

良くも悪くも言葉によって主管を受ける。そして同じ言葉でも立場の違いによってこうも受け取り方が違うものかと思わされる。私も言葉を並べ、ブログで公開している以上、目を通して下さる方がどう受け取るかに対しては多少なりとも責任はある。考えるのは自由だし書き上げるのも自由だけれども、それをネットで公開し不特定多数の人々の目に晒すのであれば、それ相応の責任が伴うことは明白だ。たとえ匿名であってもその責任から逃れられるものではない。ブログで人格の見えない相手に配信する同じ言葉を、実体の当人の前で言えるかどうかをまず少なくとも考えてみるべきだろう。そうすれば責任感情もいくらか芽生えるだろうが、相手が見えないことをよしとして無責任な言動をそのまま並べるなら、自由性に基づいた意見ではなくて分別のない悪神の業、悪神の言葉を垂れ流しているだけだ。論理はどうにでも解釈できる。論理は力ずくで曲げられる。下手に頭がまわると、いくらでも口をついて流れ出る反論や批判そのものに酔いしれる弁護士のように、言葉の遊び、論理のおふざけを楽しんでいるに過ぎない。政治論議に花を咲かせるぐらいなら許せるのかも知れないが、ことみ言葉をいいように解釈し、御父母様のこと、真の家庭のこと、み旨のことをダシにして悪魔の祭壇に祭り上げるなら、それ相応の覚悟が必要だろう。言葉で裁く者はもちろん言葉で裁かれるけれど、み言葉を鋭利な刃物として使って脅迫まがいな言動を投げかけて、当の本人は恐ろしくはないのだろうか。言葉に霊が宿る。言葉に魂が込められる。何食わぬ言葉のようでも口にし書き記す以上、私はその想いを言葉に投入して差し出している。私の周囲にいる霊人達は、良くも悪くも言葉に込められた想いを糧にしていて、良い糧には善き霊人が集まって食し、悪い糧には悪なる霊人が集まって食(は)む。口を通そうがネットだろうが、その言葉を受け取る側もまた然りだ。兄弟がみ言葉を訓読するのも、教会を認めない反対派が批判できる箇所を捜し出すのも、表面的には同じ姿かも知れないが、関与させる霊は全く異なっている。解釈という論理のステージを超えて、神霊、心情が関与する領域に入れない者は、そこに留められたまま人類進化から外されて置いて行かれる。

2012年10月10日水曜日

今日の想い 471

小宇宙としての私は大宇宙に繋がっている。私の目は大宇宙の目に繋がり、私の耳は大宇宙の耳に繋がる。私の目は大宇宙の目を代表して見るのであり、私の耳は大宇宙の耳を代表して聞いている。御父様の存在をこの目にし、この耳にしたのなら、この目に繋がる大宇宙も御父様を目にし、この耳に繋がる大宇宙も御父様を耳にしている。御父様を拝見したこの目がどれほど喜んでいるかと思えるのは、大宇宙が御父様を目にして喜んでいるからであり、御父様のお話を聞いたこの耳がどれほど喜んでいるかと思えるのは、大宇宙が御父様のお話を耳にして喜んでいるからだ。十分に御父様を見てこの目は本当に喜んでいるだろうか。十分み言葉を聞いてこの耳は本当に満足しているだろうか。この肉体に住む私の心魂は堕落的であり不完全であるけれど、この肉体そのものは統一されたひとつの完成形だ。感知できない私であっても、この目は大宇宙の端々まで見通せ、この耳は大宇宙の宇宙音を聞き取れる。人間は堕落したことである意味間違った仕方でこの肉体に入り込んでいる。本来は大宇宙に繋がり、大宇宙の共鳴体となる小宇宙としての肉体だけれども、堕落的自我をして、大宇宙へ向かって霊的触手を伸ばせずに、個への閉鎖的肉体として大宇宙を切り離すべくこの肉体に入り込んでいる。堕落人間は堕落と関係のない自我、キリストに接木され、キリストによって生まれた新しい自我を備えなければならない。私の中にカインとアベルがいる。堕落の血統を受け継いだカインの自我と御父様によって生まれた新しいアベルの自我だ。私の中のアベルが長子権を復帰し、カインを愛で収めなければならない。私は自分自身に、アベルの自我を立ててカインの自我が屈服している新しい存在になれるかどうかを問うている。アベルの自我は他体自覚の自我だ。大宇宙を感じ取って共鳴体となる体を、正しく操縦できる自我だ。霊界の情報を受け取り、霊的高みの神霊存在に相対基準を合わせられる私になれる自我だ。そうなることができれば、私はいつでも御父様にまみえることができ、御父様と共に生活することもできるだろう。御父様と共に生活できれば、私が見て聞いて触れるものを御父様も見て聞いて触れるのであり、私が喜び楽しめば御父様も喜び楽しまれる。

今日の想い 470

聖和された今、御父様の心情をより近く感じるし、そうあるべきだと中心は言うけれど、聖和されてまだひと月にも満たない。そんなに手の平を返すように、人間の感情は新たな環境に慣れ親しめるものだろうか。私の家族の一人を失うとして、御父様が言われたように涙を流さずに笑って送ってあげるべきなのかも知れないが、感情ある人間としてそれがどれほど難しいかは少しでも想像してみればわかる。ひとつである家族が、主体対象関係の一方を失う時、別れられないほどにひとつになっていれば尚更、天地が崩れるほどの悲しみを味わって当然だろう。私達は愛する御父様を失った。御父様は聖和されて霊界に行かれたのであって、失ったわけではないのかも知れないが、確かにそう理解できるけれども、しかし感情としては失ったのは紛れもない事実だ。これから聖和された意味を理解しながら、私の感情の部分を納得させて合わせていかなければならない。もしある食口が、御父様が聖和されて、以前と同じで何の感情の変化も起こらないと言うなら、それはまだ御父様が逝去された事実を感情は認めていないからだ。ひょっとしたら、その感情は自分の死を見るまで封印されたままなのかも知れない。しかし御父様は人類全ての御父様であって、たとえ幾世代の時を経るとしても、必ずや御父様への慕わしい感情を抱く時があり、そして逝去された悲しみを深く味わう時がある。誰の御父様でもない自分の御父様だからだ。そしてそのとき、私の今の感情を理解してくれるはずだ。食口それぞれにいろんな心情段階があるだろう。御父様を理解しようがすまいが、御父様への感情を抱こうが抱くまいが、それぞれの御父様であることに変わりない。自分が認めるから御父様なのではなく、御父様が認め、御父様が無知無感情な者でも子として受け入れられ、全ての子の為に差し出す愛を惜しまない真の愛の御方であるから御父様なのだ。そう、御父様は愛において極めて一方的だ。誰が何と言おうが愛の主体であることを譲らない御方だ。私の本当の親だと言い張り、事実真の親として、どんな犠牲を払うとしても人類ひとり残らず、家族として御国に連れてくることを天地に誓った御方だ。御父様のその執念で、私が救われることも、家族が救われることも、氏族が、国が、人類が救われることも確約されている。しかし一方で対象の自覚がない分だけ、御父様の犠牲も増えて行く。聖和されて、もはや肉体を持たれない御父様は、肉体を持つ人類を救う為にどれほどじれったく、どれほど切ないことだろう。見て聞いて触れて、話もしてやれ、褒めも怒りもされていたのに、、、。今、私達が御父様の代わりに御父様の体となるべきだろう。子女である人類復帰への、その御父様の熱い想いと愛の衝動を、もし私達の体を使えないなら、たとえ岩であっても乗り移って働きかけられるだろう。御父様は私達の前で何度もこう告げられた。「御父様は能力のない御父様ではないよ。実力も何もかも兼ね備えた御父様だよ。」 そんな御父様は、私達の思いもよらない仕方で、天宙復帰の全歯車を一気に回し始められるかも知れない。私の思考の中に、いろんな希望的在り得る事柄が浮かんではくるけれど、しかしこの今の感情だけはまだ説得できないでいる。私の感情はこう叫ぶ。御父様の心情世界に飛び込みたい。

2012年10月9日火曜日

心情の香りは、、

天使長ルーシェルはその居るべき位置を離れて、エバと犯罪に及んだ。居るべき位置、即ち天使には天使の定められた居るべき位階があるにもかかわらず、その原理原則を無視して位階を飛び越え堕落してしまった。堕落性本性のひとつである自己の位置を離れる、は、混乱した状況の今でこそ最も意識して気をつけなければならない堕落性だ。共産主義者は労働者に階級意識という比較する意識を呼び起こし、資本階級の徹底批判に明け暮れ、そしてもし労働者の中に歩み寄る者でもいれば資本階級に媚を売る反逆者とレッテルを貼って皆の前に晒し、分裂を煽るベクトルに一層の拍車をかけた。自己の位置を離れさせて主管性を転倒させるように仕向け、ルーシェルから受け継いだ人間の堕落性を執拗に刺激させた共産主義だが、我々の中にも同じ堕落性としてその危険性を孕んでいて、その芽が伸びやすい環境にあれば常に霊的視線を向けていなければならない。教会に対して不満もあるだろう。責任者に対して言いたいこともあるだろう。しかし指摘することと批判することは異なるし、指摘するにしてもその動機が一体化への歩み寄りを願ってなのか分裂なのかを精査しなければ批判することと同じになってしまう。要するにその衝動に堕落性がどれほど関与しているかだ。サタンは良心の仮面をつけて堕落性に働きかける。特に中心批判にはサタンが関与しやすく、今の状況はサタンに取っては願ってもない状況だし、仕掛けられた罠に喰いつく兄弟も多いだろう。批判すれば時を違えて逆に批判の対象になるのは蕩減原則であり、結局は教会の分裂も私の内面の分裂へとリンクして、指弾したその同じ指が私の内面にも矛先を向ける。責任者であろうと一教会員であろうと、先輩食口であろうと後輩食口であろうと、私と同じ兄弟に何ら変わりないと十把一絡げの平等意識を持っているけれど、霊界に位階があるように、私達の関係性にも明らかに位階があることを認識する必要がある。それは心情基準による位階だ。誰をも肉身を纏う人間のひとりとして接するのではなく、精神の高み、心情の深みを感じ取り、畏敬の思いで対することに勤めるべきだ。そうであれば中心者に対しても言葉を選び、言動に細心の注意を払うのは当たり前だろう。御父様に侍るのはその御心情に侍るのであり、聖和されればその認識は更に強くすべきであり、中心者の中に御父様の心情をみて侍って当然だろう。心情だとか、精誠だとかの言葉を理解している私達なら、生活の中に、兄弟や中心との関係性の中に、教会の中に、私の言動に、その言葉が活きて働いて、香っているかどうかは感じ取れるはずだ。批判の嵐の中に心情は香ってはこない。

2012年10月8日月曜日

今日の想い 469

今日の聖日礼拝は証し会だった。ある二世の証しに続いて、ひとりの姉妹が壇上に立った。最近復帰された姉妹だ。長いクリスチャンとしての信仰年数を経て、真の御父母様に辿り着いた感謝を口にした。真の御父母様を知らされたその日が、御父様が聖和されたその日だったことに彼女が触れたとき、会場のあちこちでため息に近い声が漏れた。伝道で原理のみ言葉講義を一通り聴いてもらって、おそらく一人を導く最後の言葉は、今生きて働かれる再臨のメシヤ、御父様が御存命の今、知って行動することの恩恵についてだろう。しかしこれからの伝道は、生きた御父様ではなく聖和された御父様を証ししなければならない。その姉妹の語り口から、目にしてもいない、そして会うこともできない御父様を慕う純粋な彼女の心情を、その場にいる食口の多くが感じ取ったはずだ。こういったとき、私は以前にも投げかけた、ある自分への問いに至る。キリスト教の背景のない私は、この世にいないイエス様を慕うクリスチャンの信仰が、生死を越えた深い信条にまで至る内的なものを理解していない、と言うより体験し味わっていない。私が統一教の信仰に至ったのは明らかに生きた御父様がおられたからで、もし原理を聞いたときに既に御父様が聖和しておられて、内的霊的な存在としてだけ向き合うなら果たして信仰に入っただろうかという疑問だ。そして御父様は確かに聖和され、聖和式を終えた今、外的なものに囚われない、内的霊的御父様を慕う信仰にまで高めてきたはずだと自負していた私が試されている。聖書の言葉を諳んじ、その言葉の中にイエス様の愛を見い出し、常にイエス様と共にあるというクリスチャン達の確信的信仰が、御父様直接に訓練されながら築いてきた私達の信仰を推し量っている。私が何の準備も備えられないうちに聖和されてしまったと、不平不満ばかりが喉の辺りを塞いでいて、恨み言として口をついて出てくるが、弟子が記した聖書でさえイエス様の残した言葉として生命視しているのに、私達には御父様直接に八大教本教材を残してくださったことに対して、彼らを遥かに超えた内的霊的実りを差し出す我々であって当然だろう。み言葉を諳んじるほどに訓読するのは勿論のこと、み言葉が私の生活原理とならなければならないだろうし、み言葉の中に御父様を、御父様の御心情を、現実以上の現実感をもって見て聞いて、私に訪ねて下さるのを体験しなければならない。

今日の想い 468

2000年前、イエス様が十字架上で亡くなられたときも、地上世界はそれまでと変わることなく、人々の生活も何ら変わることなく、時は同じように刻まれていったのだろうか。アダムとエバの堕落の瞬間も、イエス様が十字架上で亡くなられる時も、御父様が聖和されるその時と同じように、未来へ前進するために原理原則に則って刻まれたのだろうか。時の歯車が悲鳴を上げようとも、それでも前進し続けなければならない時の宿命は、神様御自身の宿命でもあるだろう。堕落の一歩手前で時をフリーズできたなら、ここまで悲惨な神様になられることはなかったろう。しかし原理原則を破壊することは時間と空間を破壊すること、時間と空間を破壊することは存在自体を破壊することだ。神様の宿命としてその選択は固く封印されてしまった。だから神様が泣き叫び、全天宙が泣き叫んでも、時は前進し続ける。イエス様が亡くなられるとき、時の歯車の悲鳴を聞いた者がきっといるはずだ。御父様が聖和されるとき、時はいつになく重く、いつになく塞ぎ込んでいた。聖和式からまだひと月も経っていないのに、優に一年の日々を送ったかのように思えるのは私だけではないはずだ。正直な話、聖和式以来私は混乱し通しだ。結局私は、この時が来るとは言いながら、実際信じてはいなかったし、何の準備もなされないまま信じていなかったこの時を押し付けられた格好だ。たとえ夢の中で御姿を現されたとしても、たとえ誰かの口を通して御父様の慰めの言葉を受け取るとしても、それはもはや地上という私と同じ次元には存在されない御父様であることを念を押されるようなもので、どうなるものでもないし余計につらい。あまりにもあっけない仕方で逝かれてしまったのは何故だろう。117歳まで生きられる御父様だと口にされながら、誰もがそれを信じて安堵していたのに、聖和された今になって違いましたと一言告げられて、それを誰が納得できるだろうか。取り残された私達は、見捨てられたとしか思えない。それは思い違いだとは思うけれども、今の今を言うならそれ以外の感情を私の中には見出せない。時はそれでも刻まれ続け、私はそれに追い付けず、置き去りにされてしまっている。

2012年10月7日日曜日

今日の想い 467

いつのまにか日が短くなっていて、朝明けるのも遅いし陽が落ちるのもすっかり早くなった。それでも今日の日中は随分気温が上がって、夏の余韻はまだ残っているなあと思ったが、見る見るうちに雲が広がってきて半時間もしないうちに肌寒くなり、陽が雲に隠れたまま日暮れになってしまった。短い一日が今日も過ぎ去り、ただ時が過ぎ去ることだけを望んでいるかのような毎日だ。実は聖和式から帰ってきてずっと情緒が安定しない。表面上は何ら変わりなく、それまでこなしていた仕事も同じように手をつけてはいるし生活も変わりないのだが、はっきり言って仕事も生活も、手ごたえがないし実感がない。何か空回りしていて、あの日から私の時間は傷のついたレコード盤のように、同じ短い時間を繰り返し繰り返し心無く演じているようだ。毎日のように更新されていた訓読会での御父様の様子を見ることもなく、かといって過去ログを見る気にもなれず、早く地に足をしっかりつけて取り掛からねば現実の問題ばかりは容赦なく襲ってくるのに、一体どうしたものだろう。魂ここにあらずとは言わないけれど、魂が繋がる本性を見失っているように思う。こういうときこそ祈るべきなのだろう。いや、今を祈らずにどう超えようと言うのか。しかしそう言いながらも溜息をつきがちになってしまう。取り敢えず空を眺める。さらに首を反らして真上の上空の先に視線を延ばす。そうしながら足で地を何度も叩いて踏みしめる。それでも肝が座って意志を固められないのなら、自分でビンタを喰らわせればいい。今まで何度もそうやって自分をプッシュしてきた。無理にでも涙を流し、無理にでも感情を吐き出させて、それで次の一歩が踏み出せるならそれで自分は良しとした。体を打てば感情が滲み出る。更に打てば感情がほとばしってくる。堕落性が邪魔をして、思考はどんどん内に篭ってみ旨への意志を押さえ込み、逆に遠ざけたい感情を刺激されれば刺激されるほど意志を固める力となった。今までは押し出してくださる御父様がおられて、しがみついていれば何とかなったけれど、これからは自分で自分を押し出さなければみ旨への一歩は踏み出せない。

二人のイエス様と御父様

マタイによる福音書のイエス様の系図と、ルカによる福音書のイエス様の系図とは異なる。アブラハム以降ダビデまでの系図は両福音書とも同じだが、マタイ伝はダビデからソロモン、ルカ伝はダビデからナタンとなっていて枝分かれし、マタイ伝はアダムから42代目がイエス様、ルカ伝はアダムから77代目を数えてイエス様となっている。イエス様の父親であるヨセフだけが唐突にマタイ、ルカ共に一致しており、これは二人のイエス様と言って神学上の大きな問いとなっている。マタイはヨセフの家系を辿り、ルカはマリヤの家系を辿って記されたと解釈されるのが一般的だが、わざわざ誤解を産むような記述がどうしてなされたのか。聖書をどうみるかによるが、聖書がみ言葉であり霊的事実であると譲らないなら、地上的解釈では不可解なようであっても霊的見地に立てば何の食い違いもない説明ができるはずだ。キリストを受容する内外の器としてのイエス様が準備される為に、一人は42代を辿って外的な器、もう一人は77代を辿って内的な器を用意され、キリストイエスとなるために霊的統一が為されたと捉えても私の中に矛盾は生じない。今年に入って御父様が訓読会の場でお話される中で、おそらく私だけではない誰もが不思議に思ったことは、文龍明という幼少の頃のお名前を頻繁に出されるようになり、更に不思議なことは、文龍明をあたかも御本人とは異なる人格であるかのように使われて話されたことだ。明らかに文龍明と文鮮明の違いを言葉の中に含められており、先生によっては勝利された御父様は戒めのみ言葉以前に立たれたことで文龍明を使われるのだという解釈をされる先生もおられるが、どうも釈然としないものがあった。と同時に私の中で引っ掛かるのは、この二人のイエス様がどうしても頭に浮かび、二人のイエス様と、そして文龍明と文鮮明の関係性があるのではないかという疑問だ。42数と77数を血統に数えることでキリストをイエス様の中に迎えられたように、御父様が16歳の時イエスキリストに会われて、何らかの42数血統存在と77数血統存在がひとつになられて、キリストという本性を迎えられたのではないか、と言うのが公に大言できることではない私のひとつの理解として暖めている。

2012年10月4日木曜日

今日の想い 466

何人たりとも蕩減を背負わずに生まれ出た人はいない。同時に、何人たりとも責任分担を願われずに生まれ出た人もいない。70億に到達した人類は、ひとりひとり全てが異なる蕩減内容を背負い、と同時に創造理想への異なる役目も担って、地球村一家族全体の勝利を目指している。たとえ地の果てで孤独に生きる名もなき人間であったとしても、何らかの形で同じ理想への役目のひとつを担っている一人の同士だ。更に人類の蕩減に関して言えば、人類誰もが縦的蕩減を横的関係性の中で払っていくのであり、密度の濃い薄いはあるとしても、人類全ての関係性でお互いがお互いの蕩減への関与をある程度持っている。そういった見地に立つなら他人事を他人事とは捉えられないし、ましてや統一家としての私達は真の父母を戴く血統圏であり、蕩減に関しても責任分担に関しても切っても切れない関係性にあり、あなたの犯した罪はあなたの罪、あなたの蕩減はあなたの蕩減だと突き放せないし、祝福の価値を地に落としたとひとりを責めるだけで終わるものでもない。愛を兄弟姉妹の関係性の中に我を忘れるほどに投入させながら、霊的血を更に濃いものにしたいという衝動を燃やすべきだ。一世の問題であれ二世の問題であれ、更に子女様の問題であれば尚更、統一家全体が家族として蕩減を背負うのであり、自分もその圏内のひとりとして背負って当然で、それどころか私が代わりに背負いたいと思えなければいつまでも中心の御父母様から距離を置いてしまう煮え切らない中途半端な存在に終わってしまう。私が負うべき蕩減ですと言ってこそ祝福の血統、御父様の血統圏に自ら進んで組み入れられるのであり、他人事で括るなら私とは関係のない他人の血統圏だとして決定を下したことになる。結果は結果で決して喜ばしいものではないが、血の通った統一家の一人として、姉であり兄であり、妹であり弟ならではの心情と態度を示すなら、サタンがそこに割り込んで介入することはない。今の私達にとって、個人個人の罪の許しと蕩減をあくまで個人が責任を持つという縦割りが問題にされるのではなく、罪を、蕩減を引き受けようとする連帯としての統一家にならなければならない。個人個人のそれぞれに縦的歴史的に繋がれた蕩減の糸を、兄弟姉妹の横的な広がりの中に織り込まれることで、統一家というひとつの網が生じる。真の父母を戴く統一家という網に編み込まれる蕩減の糸を見て、御父様が蕩減の必要のない時代と言われたのだと思う。一人の蕩減は全体の中に、全体の蕩減は御父様の勝利圏に吸収され、全体としての統一家が拡大すれば拡大するほど大海に落とされる悪血は瞬時に吸収浄化される。肉の血縁より濃い霊的血が、統一家という私達の関係性の中に循環している。

2012年10月3日水曜日

今日の想い 465

子女様の問題をどう捉えるか。み言葉に照らし合わせれば現実行動は堕落的に思えるし、真の家庭であるなら堕落の血統とは異なる真の血統の基準を見て見せて当然であると思え、その理解と堕落的に見える実態とのギャップが個人と家庭、信仰組織に混乱をもたらしている。何度も触れたように、私は今の自分の悟性では測れない御父様でありみ旨であり現実の状況だという点で一貫している。将来的には原理的な説明がなされるものだとは思うが、今私達が問題に向き合った時点では意図して天に隠されていて、理解せずにそれでも従うか或いはどういう選択、どういう行動を取るかを試されていると見る。肉体を持たれた外的存在の御父様がおられ、教会組織に外的に関与され、御父様の指示が組織の中心を通して私に流れ、その指示に従うことだけに私の意志の殆どを投入してきた。御父様が聖和された今、今度はひとつになられた御母様の指示を戴き、御父様に対するのと同じ内的態度をもって御母様に対する。それは納得するとして、それでは御母様の指示は何らかの手段を通して御父様から来るものであるのか、それとも御父様が全権を御母様に委ねられて御母様の指示を御父様の指示に代わるものとするのか。そういった疑問を始め、ありとあらゆる側面で私の中に問いが氾濫するだろう。その混沌は神様の創造の混沌と同じ状況に投げ込まれていると言える。もちろん私達は再創造の歩みではあるけれども、御父様の聖和に合わせて摂理の舞台は外界から内的世界に移された。御父様が歩まれた勝利の道を今私達は内なる世界に於いて再出発している。絶対信仰、絶対愛、絶対服従は、地上におられた御父様に顔を向けて立てようとしていたが、今は私の内面世界に面して絶対信仰、絶対愛、絶対服従の柱を立てなければならない。自分が立てる柱で自分が住まう内的霊的世界を創造し構築する。その大転換期の意味をわからず、御父様が地上におられた時と同じ態度で外に向かう意志にのみ留まり、内的霊的世界の創造、構築に汗を流し、光あれと意識の光を差込み、意志関与できないのであれば、御父様と永遠に共にあって、御父様に付いて行く自分にはなれないだろう。御父様との関係性が本物で、繋がれた糸が外的なものだけに留まっていたのか、或いは内的霊的にもしっかりと繋がった糸なのか、聖和された霊界の御父様が手繰り寄せられる糸に繋がった者だけが、最初の栄光に与るだろう。

今日の想い 464

人間が生命ある肉体であり、生命ある肉体に心魂が宿った存在に留まるだけであれば、蘇生段階内に留まったままだ。長成段階に入ると人間の心魂の成長が願われる。感覚感情を備えた心魂、次に悟性思考を備えた心魂、最後に意識的意志を備えた心魂、これが長成段階でありアダムとエバは意識的意志を備えるべき長成期完成級の段階で堕落した。本来なら長成期を超えて肉体が霊化し、生命は生命霊化し、神霊的私となる、真を備えた神様の実体、神様の実体対象となるはずだった。原理を学べば蘇生、長成、完成の成長の三段階を学ぶけれども、私自身が成長段階のどの位置にいるのかは把握できていない。祝福を受けるのは長成期完成級の段階であるけれども、あくまで条件的祝福であって本人が長成期完成級の実体である訳ではない。人類歴史の過程、特にヘブライ民族という選民の歴史は、サタンに奪われた長成期完成級までの段階をひとつずつ復帰して、サタンとは関係のないひとりの御方を迎える歴史だ。このひとりの御方、メシヤを迎えることで始めて人類は希望の光を認識させられる。しかし個人それぞれが救い主が必要だという本当の認識は、長成期完成級の段階に自分が至らなければ認識できない。人類は知性をこれほどに発達させてその悟性思考をして自分を把握し世界と世界との関係を把握し、さらにメシヤの存在さえも悟性の光に照らして判断を下しているけれど、そこに留まったままではメシヤ必要性の認識自体が不完全だ。その段階を超えて意識的意志を心魂に準備して初めてそれは本物になる。更に真の父母と共に歩む最後の成長過程、完成期の歩みは、悟性に留まった心魂では想像することもできない領域だ。御父様が完成、完結、完了を宣言され神様と一体となられたその本当の意味を誰が理解するだろうか。基元節を肉体を持たれた実体の真の父母と共に超えるものであることを、誰も疑わなかっただろう。人間成長の本当の意味、成長段階の意味を知らない者は、御父様が通過され、勝利され、宣言された内容を形式的儀式的なもの以上として捉えることはできない。そして基元節もそのひとつでしかない。そうであれば御父様が地上におられようが霊界におられようがさして違いはないだろう。基元節の私達にとっての明瞭な意味は、神様とひとつになられ神様の結婚式が為され、その直接主管圏から再祝福を受けるということだ。地上の人間は神様の間接的働きしか経験したことはなく、基元節を超えて直接的働きは想像することもできない。ましてや神様から直接に再祝福を受けることの意味を誰が説明できるだろうか。どんな説明もどんな理解も勘ぐりの域を超えることはない。悟性心魂の段階を人間至上の位置だと誤信するから、疑いを抱き問題に対する説明責任を求めようとする。御父様は悟性で理解できる領域を遥かに超えた御方で、私は御父様に対する認識の入り口に立ったばかりだという謙虚さがなければ、必死で御父様の袂を掴んでいた手を、自ら放すことになる。

2012年9月29日土曜日

今日の想い 463

御父様が聖和された今、私は御父様をどれだけ必要としているだろうか。言葉を話され見て聞いて喜怒哀楽を表現される実体の御父様を失った悲しさ、寂しさはあるとしても、それが時間を経て癒されてしまうなら、御父様の必要性をもなくなってしまうと言えるのだろうか。私達は実体の御父様を慕い侍ってきた。実体の御父様の感情の部分を推し量り、受け入れながら接してきたが、それは多分に人間的な接し方に終始してきたのかも知れない。再臨の救世主だと認識するとしても、自分の救いの必要性をどれだけ認識するかに応じて、救って下さる御父様を求めてきたはずだ。救いの必要がないか今までの歩みで消えてしまったなら、実体の御父様を失った悲しさ寂しさが癒えてしまえば、救いの御父様は私と共におられない。私が意志して能動的に求めない限り、御父様は私に訪ねて来られることはない。それが聖和され地上を離れて霊界に行かれた状況であり、地上に残された私達の立場だろう。私の中で生きて働かれる御父様を実感しようと思えば、やがて霊界から声をかけて下さるだろう、何かのしるしを示して下さるだろうと待っていても、2000年を待ったクリスチャンと何ら変わりなく、自己満足的な自分なりの御父様像を抱いていては難しい。待つことに安住する私ではなく、求めざるを得ない私であり、能動的に求めてこそ御父様は求めたものを携えて訪ねて下さるはずだ。聖和式も済ませて、それぞれがもといた場所に帰っていって、聖和される以前と何ら変わりない生活に没してしまう。そういう中で誰が御父様を求める衝動を自分の中に感じているだろうか。御生存の間は、或る意味打ち出される摂理に外的には翻弄され、それを形にする為に無理にでも内的に引き上げざるを得ないし御父様を求めざるを得なかった部分があるが、聖和された今、引き上げる力、求める力を私達は私の中に能動的に働かす必要がある。

2012年9月28日金曜日

今日の想い 462

昨晩は尾を引くような雷鳴が夜遅くまで鳴り止まなかった。今朝方訓読会を済ませて明るくなりかけた外に足を踏み出すと、湿りを帯びた草木が朝焼けの柔らかな光を受けて、微かなピンクを滲ませている。聖和式を終えて帰ってみると、ほんの数日を隔てただけなのに、雨模様の大気はすっかり秋の様相に代わっていて私を拒んでいるようで戸惑ったが、今朝の柔らかな大気に包まれてみるとやっと納得したようで、私も人心地がついたように思えた。自然は自然で御父様が聖和された事実を受け入れ、その為の期間をそれなりに要しているのかも知れない。力のないむせび泣くような昨夜の雷鳴も、ひとしきり泣き明かした後の放心したような今朝の静けさも、未だに霊性の乏しい私でさえも自然の中に感情をみるようで感じるものがある。彼らの主人を地上から霊界に移した今、これからの秋の深まりをどう自然は表現するのだろうか。全てを機械的に捉える科学万能の世の中で、物事も自然も人間の意識に沿うて機械的であらざるを得ない。自然に感情があると真顔で言えば笑われるけれども、機械的唯物的であらざるを得ない自然の、押し込まれて固く蓋をされた感情の部分を、み言葉を知った私達が解放せずに誰が解放するのだろうか。御父様が聖和された今こそ、自然も万物も堕落的封印を解かれて解放されるべきだ。堕落は人類の問題だけれども、人類に主管される万物存在も否応なしに影響を受け嘆息してきた。御父様の存在は彼らの解放をも握っておられたはずだが、御父様の聖和の事実が彼らの解放の願いにどう影響を与えどう応えるのか、それは御父様に繋がりみ言葉を知る私達の認識と意識にも依っているはずだ。私という存在は、私の救いだけでも家庭の救いだけでもなく、勿論氏族の救い世界の救いを背負った存在でもあり、天使世界の解放、鉱物植物動物という万物の解放さえも背負った存在でもある。御父様が常に公的位置に立たれて責任を持たれたように、私達はその責任を相続している。自由と責任がその両面で分かれることができないように、祝福を与った者はその責任をも与っている。私達は事情に揺れ動く者達であってはならず、揺らぐことのない神霊の柱を立てて御父様の精神を貫き通す。

2012年9月27日木曜日

基元節に向かって

私達は、御父様が聖和されてすぐにも、それぞれが信じるところの統一信仰の根源にメスを入れなければならなくなった。皆が同じ信仰のように思っているが、それぞれの信仰観は異なる。御父様は絶対信仰を強調されたが、それぞれはそれぞれの異なる信仰観の完成を絶対信仰と捉えていて、そうであればそれぞれはますます相容れなくなる。信じて義とされる時代を経て侍って義とされる時代を生きているのであり、信仰と言う以上信じるという悟性に立っている訳だが、侍る為には悟性を超えた意識、侍ることを第一義として、侍るに合わせて悟性段階での信仰を修正しなければならないだろう。絶対愛、絶対信仰、絶対服従だが、未だ真の愛の感性を備えていないならば、絶対愛は絶対信仰の土台に立つべきであり、その絶対信仰は絶対服従の土台に築くべきだろう。御父様が絶対服従が何よりも重要だと言われたように、今私達が試されているのは、自分が思うところの愛を超え、自分が信じた信仰を超え、御父母様に対する絶対服従だ。絶対服従をもって信仰は立て直せばいい。それが反社会的な危険な臭いを醸し出すもののように感じるかも知れないが、堕落的なものを根底に置いている社会は崩れ国も崩れ世界も崩れるし、具体的な足場である陸地も崩れるかも知れない。結局残るのは真の父母とその血統圏と祝福圏だけだ。社会も国も世界も、未だに形を為しているのが不思議なほどに矛盾を抱えており、蝶の羽ばたきで一瞬に崩れ去るだろう。基元節までに我々統一家はあらゆる角度から熱い鉄を打つように打ち直され、打ち直されてその準備を備えた者だけが残って基元節を超えて前進することができる。御父様が基元節をD-DAY(戦闘開始)と言われた恐ろしいほどの意味を、知って胸に刻んで立ち向かわなければならない。

2012年9月25日火曜日

今こそ責任分担に立つ

私は後ろばかりを見ているだろうか、或いは前だろうか。状況の説明を受け、納得できなければ立ち止まったままで前に進めないと言うのであれば、それは後ろ向きに後ろを見ながら、前進する摂理とは逆向きに存在しているということだ。私達は過去に対する蕩減法を宛がわれて現在の私の位置や環境、状況が与えられているのであり、未来に向いては責任分担を願われてやはり現在の私の位置や環境、状況に立っている。食べて寝て行って来る人類共通の生活形態でありながら、この世の生活と我々の生活の何処が異なるのかと言えば、私達は蕩減法と責任分担を知っていて、5%が何かを思考し意志しながら生活しているという、外的には同じ生活形態でありながら天地の違いがその責任分担の認識にある。摂理が立ち止まることなく前進し続けるように、私達は責任分担を意志しながら前進し続ける。私の位置や環境、状況に対して不満を募らせ、納得できないまま責任分担への意志を差し出せないなら、摂理の願い、御父様の願いからずれていく。今は、中心者がどうだ御子女様がどうだと、自分の意識の矛先をばら撒いている場合じゃない。状況はその通りに受け入れながら、しかし自分なりの判断や感情は持ち込まず、状況に対して私は何をすべきか、何が願いかという責任分担の視点で意志を働かせてこそ私は前進できる。責任分担という言葉は、歴史的に誰も紐解けなかった不可解な人生に答えを指し示す、御父様の歴史的天宙的一大発見だ。私たちはみ言葉の重要性を何となくは理解しているけれど、生活に根差した、生活に刻み込むものとしてのみ言葉の価値をわかってはいない。責任分担あってこその自由であり、希望であり、創造であり、神の祝福であることを、生きる上でひと時も忘れるべきではない。私の前には責任分担がある。責任分担を通して私は前進できる。

2012年9月23日日曜日

今日の想い 461

表面的にあらわれた事柄を見ながら、私たちの中に巣食うサタンの砦を見るのでなければ、私は霊的見地に立っているのではなく地上的であり外的であり表面的であり、それは信仰を重ねて来ながら未だに内的霊的な無知のままでいるということだ。あなた方の中で罪のない者が言葉すればいいと御父様に言われるとして、誰が言葉することができるだろうか。しかし自分にも勿論罪はあるが、位置と立場での影響は大きく、教会のことを思えばこその言葉は中心に対して口にすべきだと言い張るなら、それは例えばどんな言葉だろう。責任の所在をはっきりさせろと詰め寄ることに言葉を尽くすべきだろうか。混乱をもたらしたことに対する謝罪要求に言葉を尽くすべきだろうか。それで希望への道が指し示されるならそれもありかも知れないが、それは一時の鎮静剤で何にもならない。私達は今の現状をどのような内的霊的見地に立てば超えていくことができるだろうか。提示された現実がショッキングなために、その波風に翻弄されて自分の内的霊的な状況(位置)が把握できないでいる。先ず私達は心魂の異常な高まりを鎮めるために祈りの期間が必要だろう。そして私の内的霊的な状況、内的にどう捉えているのかの知の状況、どういう衝動にかられるのかの意の状況、そしてどんな感情が沸き起こるかの情の状況を瞑想祈祷しながら把握しなければならない。私達に働く神霊は、必ず私達の目指すべき内的霊的位置を指し示してくださる。指し示してくれるけれども先ず私の位置が把握できなければ、その願う位置への道のりは見えてはこないし、心魂の興奮からとても祈る状況にないと思うかも知れないが、こういうときこそ祈り尋ねるべきだ。私達は前線訓練を受けながら、事が差し迫り、覚悟し決意を迫られるその時の祈祷こそ祈りの力を実感してきた者達だ。私達の5%は祈り求めることだ。求めなければ神霊は訪ねてはこない。表面的には教会全体の問題であるけれども、私達ひとりひとりがサタンからその試験を受けるべく剣先を向けられている。前にも触れたように、全てはリンクしていて全体の問題も私の問題であることは間違いない。中心の責任だ、子女様の責任だと言い続ければ堕落的私は自分の責任に蓋を被せて気分がいいだろう。しかし内的霊的自分の本質が見えたときに、或いは死んで霊的本質になったときに、あの時にサタンに鷲掴みにされている部分を清算すべきだったと、地を叩いて後悔するときが必ずくる。超えられない試練を神様は与えられないし、超えられないサタンの試験を神様は許可しない。

今日の想い 460

世界会長がアメリカの兼任もされると決められて、早速訪米された。昨晩は三時間以上にわたって兄弟からの質問に答えておられたが、直接的な質問に対して説明に十分気を使っておられるようだった。中には責めるような言葉で心無いものもあってこの場でどうなのかと思ったが、それより私が気になったのは質問者が会長と皆の前で話したいだけというものが大方だったということだ。集まった兄弟達は本人の感想や説教じみた話を聞かされるより、もっと世界会長の言葉を聞きたかっただろう。こんな事件が、更にこんな時に、わざわざ今のこの時と状況を選んで合わせたように表面化したということに注目せざるを得ない。状況はそうならざるを得なかったどんな説明を聞いたとしてもそれでどうなるものでもない。我々の一体化への影響、二世への影響、対社会的な影響は心配せざるを得ないけれど、周りが状況を詮索し過ぎて野次馬的になったり自分なりの判断を宛がえたりすべきではなく、全ては本人と御母様との間でなされるのを見守るのみだ。公的位置にあった立場であれば、御本人から皆に話したいことがあるのではないかと私は思っているが、触れたくないのであればそれはそれで受け入れるべきだ。状況自体はあり得ることだからと自分を無理やり納得させるとしても、しかしどうしてこの時にと言うことに関しては私達はよくよく祈らなければならないと思う。霊界を知った立場で、たまたま偶発的にという言葉は私の辞書にはないし、すべてに時があり、すべての時と時が合わせられる。何が飛び出してもおかしくないここ一年前後だが、誰もが、起こる事柄と私とは因果関係はなく今回も自分に降って湧いたものを被らざるを得ない被害者として認識しているようだが、世界で起こる事柄も私の内面世界と繋がっており、更にコアな部分である教会や真の御家庭に起こる事柄も、私の内面世界の中心的課題とリンクしている。決して他人事の話しではない。敢えて言えば私の罪がそうさせていると言える。分立問題も、御父様がこの時期聖和されたことも、そして今回の問題も、更に表面化するであろう事柄も、全ては私の内面的在り様が表面化して、それをどう次元を上げて解決していくかをもって内的霊的なものが整理され恨みが晴らされていく。

2012年9月21日金曜日

今日の想い 459

教会という組織に対して疑問を抱き疑惑が生まれ、御父様なき今は彼らを直接的に正せる言葉と口を失ってしまい、共産主義者がそうであったように、己の見解や判断を盲信したまま行き着くところまで行き着かなければ己の非を認めることはない。分かれた今、向こうが間違っておりこちらが正しいと反論するだけでは向こうと同じであり同じ土俵でいがみ合うしかないが、教会側は教会側として、御父様は私達の側についておられると言える為には、御父様と一体となっておられる御母様と如何にひとつになっていくかが重要な鍵になる。我々が御父様の願いをしっかり受け止めることができなかった結果が分離を産み出したように、御母様と如何にひとつになるかをこれから試されるのであり、それ次第では更なる分離が待っているかも知れない。共産主義者が現実性のないユートピアを描いてそれに酔い、それを追求するあまり愛や心情を蔑ろにしたように、彼らにもそれが認められるし、私達の中にも地上天国と現実性のないユートピアとを混同しがちな面を持ち合わせていて、御母様と一つになる為には常に私達自身の分別が必要になるだろう。御父様なき今、幼いまま甘えたままではいられない。曖昧で妥協した自分を赦して放任すれば放任する程、それに見合った霊を吸い寄せていく。知らないうちに集まった霊は堕落的己の保護圏となってますます自己中心的存在に墜ちて行くだろう。私達は御父様と共に歩む過程でそれなりの霊的感性を育まれてきた。霊的臭いを嗅ぎ分け霊的予知を感知する。私達は無の位置、祈りの境地で「御父様!」と呼びかけるに呼応する内的霊的知らせを御父様の願いとして受け取れる。より御父様とひとつになった者は御父様の衝動として内から突き上げるものさえも感じるだろう。その傾向はこれから益々強くなっていくはずだ。御母様と一つになれば御父様の存在感を御存命の時以上に実感する我々になるだろう。

今日の想い 458

私と妻は13日の夕方向うの空港に着いたし、あくる日延長して頂いた参観の列には加わったものの、3時間待って打ち止めされた。今回御父様にお会いした食口もいるだろうし、天正宮まで辿り着きはしても既に御写真だけだったという食口もいるだろう。そして私達のようにお会いすることも、御側に近付くこともできなかった食口もいる。お会いしたいと思って皆集まり、列に並ぶ訳だけれども、与えられた結果は結果としてそれぞれに良しとすべきだろう。私自身は、その場では会えないことが残念であったけれども、最後にお会いした時の御父様が元気でもあり叱り飛ばされる御父様で良かった。最後の御父様の映像が息もされず横になって動かれない御父様では、私の心魂の影はどこまでも尾を引いただろう。息を引取られた御父様の印象は、私にはきっと強すぎて、事ある毎にその印象が息を吹き返し、内面を一層暗いものにするだろう。だからお会いできなくて良かった。駆け付けて事実を確認しただけで十分だった。でも妻はどうしてもお会いしたかったようで幾分塞いでいた。同じ部屋に居合わせた先輩食口の、天正宮の近くでバスを降りてからの方が更に大変だったと言う話を一生懸命に伝えて、何とか納得させた。事実妻には体力的に無理だったろう。もし無理を強いてお会いできたとしても、後はダウンして身動きも取れず、聖和式も出発式も参加できなかっただろう。参加するものは一通り参加して、生きて帰ることができて良かったと思わなければならない。こうした私の人生の中で一番長い一週間は、帰ってみると半年過ごしたようでもあり、或いは一年近くも天正宮の麓を行ったり来たりしていたようでもある。浦島太郎のように、私だけが急いで年月を費やしていて、こちらに帰って一週間前の居場所に身を置いても、地上の現実のサイクルと噛み合わず、どうも足が地に着かない。やはり私には何かが抜けてしまっているようで、どう焦っても漲るものが湧いてこない。内的霊的な御父様を、未だ私の中には迎えられずにいる。

2012年9月20日木曜日

これからの信仰姿勢

御父様はもう地上の御父様ではなくなられた。御父様の存在を知らないときも知ってからも、私の人生で御父様が地上におられない世界を生きることはかつて経験がない。初めて御父様のおられない外的世界を歩むのであり、歩むその新しい世界、新しい天地は今始まったばかりだ。私達は御父様が地上におられる間にもっとしっかりと準備すべきだった。地上感覚で捉えた御父様だけを御父様として認識していたが、これからは霊的な御父様であられ、霊的感性で捉える御父様を生き生きと感じるほどにならなければならない。聖和されて間もない今は、記憶に残っている御父様を慕い侍っていて、地上におられるときと何ら変わらないように思っているが、外的な記憶は残像に過ぎない。残像はやがて時間の流れと共に色褪せていく。我々が準備不足であったことは否めないが、私の霊的感性を掘り起こし、即ちみ言葉に宿る御父様の心情を掴み取り、心情として活きて踊るものをありありと内包するようになることだ。掴み取った心情こそ御父様の残像ではない本質的な霊的御父様だ。これからは訓読生活がどれほど重要な意味を持つか。訓読も他の本を読み進めると同じようなものではなくて、み言葉に宿っている御父様の心情をみ言葉から染み出させて取り入れる、その霊的役事、霊的秘儀としての訓読を行えてこそ霊的御父様は私の中に住まわれる。私の中に住まわれる御父様こそがこれからの私を導いていくのであって、そして私の存在の在り様、私の意識の在り様がかつてとは180度異なっていると実感できる者とならなければ偽りであって、今までどれほど信仰を備えている人物であったと評価されていたとしても、この新しい180度異なる意識を備えなければ、今までの意識基準で残る者は先ずいないだろう。残ったとしても御父様の本質的願いから外れていくようになる。願いに合わせて進化していくべきなのが我々の宿命であり、認識も感情も意志も、意識も信仰もみ言葉認識さへも、何一つ留まるものはない。御父様がこう言われたからこうだと言うなら、み言葉を塩漬けにしているのであり、訓読を供えて活きた心情として受け取る衝動や願いがこうだからと言えるのが、我々の進むべき在り様だろう。

2012年9月19日水曜日

今日の想い 457

やはり聖和式前後のこの時も、日本食口の状況は想像を超えていた。清平まで行って見た訳ではないが耳にした情報は、横たわる場所もなく寒空の下で横になっているとか、トイレでさえも横になる場所にしているだとか、若くない食口達ばかりだろうに兎に角すさまじい。徹夜祈祷の精誠に参加する食口も多いらしく、日本食口の基準に比べればアメリカやヨーロッパから参加した者は物見遊山に近い。そこまで言うと気分を害する者もいるだろうが事実そうだろう。私は御父様が聖和されて、そのまま天国に向かわれたとは思えない。イエス様が十字架につけられて、霊界に足を踏み入れられる前に先ず地獄の底の底に降りられて、そこで霊的戦いを勝利して超えられ、その条件で復活の摂理をされた。御父様も地上で、底辺の底辺の位置まで下っていかれ、監獄生活も何度も味わわれた。そして霊界に入られる前に先ず霊界とも言えない地獄の底を尋ねられるだろうし、そこで血を流すように心情を流され、地獄を整理されておられるように感じる。もしそうであるなら、霊界に送るのは乙女を結婚に送り出す以上の歓びをもって送るとは言うけれども、地上での様子を見聞きして知っている御父様の聖和に関する限り、自らを犠牲にされながら先ず地獄の救いを意志されて地獄の苦しみに身を置かれて、戦いの中にある御父様ではないかと思う。そんな御父様の事情を共にしたい子供であるなら、聖和されて間もないこの時、誰よりも苦労してこそ御父様に同参していることになる。13日に到着した私と妻は、明くる14日、御聖体にまみえる為に天正宮行きのバスの列に並んで3時間待ったが、やっとと言う時にカットされてしまい、待てども待てども流れない列に立ち続ける地獄から開放されて、天正宮を涙目で仰ぎ見ながら敬拝した。15日の聖和式に、寝る場所さへもない日本食口達が日が昇らないうちから表広場を埋め尽くして並んでいたが、緑の紋章を付けた私達は、そこに隙間道を開けてもらって1分の待ち時間もなく会場に入って席を貰った。中には待ち時間が長すぎて気分が悪そうな日本の食口もたくさん見受けられた。一体私の何が誇らしくて、暗い内から待ち続けている日本食口の間を葵の御紋よろしく紋章を付けてどうどうと入れるのだろうか。私はその会場への道はただ苦しいだけの道だった。またしても私は日本食口に対して大きな負債を抱えてしまった。そうなると、ただ私の体の不調と痛みだけが御父様と同参できる条件であり、この痛み、この苦痛、この不快さだけが私の誇りだと思えて痛みゆえにありがたかった。御父様が日本食口を愛される意味を、無言の視線を受け取る肌で感じていた。

今日の想い 456

宿泊所でも何か浮いた気分が漂っていて、弔いに駆け付けた者達だとはとても思えなかった。懐かしく出会った食口もいるのだろう、あちこちで談笑の花が咲いていて、何の遠慮もなく高笑いがこだましていた。久しぶりに会えばお互いの状況も知りたいだろうが、感情に流されるまま行動して何の負債も覚えないのだろうか。まだ何もわからない赤子が、母親が死んだことも分からずに弔問客に愛想を振りまいていると言えば涙を誘うシーンだが、それ相応の年恰好で未だに赤子かと言う事になると、溜息しか漏れない。御父様が聖和されたことの現実もその意味も、誰も噛み締めてはいないようだし祈り求めて探っているようでもない。お互いの様子を語らう合間に少しだけ話に上ると、口ではこれから大変だ、これから困難な状況が待っていると言いながら、皆の内なる気分は、これからも私と私の周りは何も変わらず、変わらない毎日の生活の繰り返しが待っているだけだという気分で落ち着き払っている。勿論私もその要素を持っていて、ついつい声をかけるし話せば笑顔だって見せてしまう。しかし私のアボニムが亡くなられて駆け付けてきたのに、浮いた感情に任せてしまうのは、御父様との因縁を考えたとき一番危険な状態だと思っている。自分の中の何が罪であり、何を失い、どう復帰したらいいのか、皆それぞれが真剣に求めてきたはずだろうに、自分の内面のことを何ひとつ分かってはいないようだ。私の内面の魂は、御父様に繋がっているその接点では嘆き悲しんでいる。その接点の魂の叫びは、表面的な私に薄められ、埋められ、見えないようにされている。その見えないようにしているのが私に働くサタンだけれども、それも思ってはいない。少しでも霊に目覚めて感情がその接点に近い者であれば、御父様を失った魂の慟哭の想いを感情が受け取って、自分でも訳も分からず涙するだろう。

今日の想い 455

手術は腹腔鏡手術だったので、体への負担は少なかったけれども、それでも腹の中をいじられ、切り取られたのであればそれなりのストレスは溜まっていたのだろう。訪韓の数日前から赤い発疹が足首や手首に現れ始めてたいそう痛痒く、その部位に留まらずに次第に全身に広がっていった。痒みと痛み、そして熱を伴った発疹が、まるで生きているかのように全身を移動していく。気色悪い言い方だが、皮膚の下に小さな蛆虫が湧いて蠢(うごめ)き、群れをなして移動していると言った表現が当たっている。発疹は耳や首の後ろの方にまで広がって赤く腫れていたが、幸いにも顔だけは護られていて、赤ら顔程度で済んでいたので聖和式に臨むことはできた。まだ少し傷口も痛いし体もだるい。更に移動のバスが私には随分寒くて風邪を引いてしまい、熱っぽい状態のままだったがスケジュールだけは何とかこなした。私は何を悟るべきで何をすべきか。体調がこんな状態だと思いは嫌でもそこに向かう。他でもない御父様の最後の時に合わせる様に手術を受け、副作用的に合併症状を負わされるのも、何かの意味があってのことだろうがそれを悟れないのであればただの苦痛以外のなにものでもない。しかし私に気付きを与えたのも、また悔い改めの深みに導いたのも、やはり日本の食口の状況を目にし、耳にしたからだった。妻は私以上に行ける状態だとは思えなかった。強度の貧血で人には分からないようななだらかなスロープでさえも、足を進めるのは大変だし、普通に歩いても赤子が歩くよりのろい。腎臓で作られる疲労物質を除去するホルモンが不足していて少しの動きで寝込んでしまう。移動も大変だろうし、行って人でゴッタ返すウネリに呑まれて死を見るかも知れないとも思ったが、本人が行きたいというのに駄目だとはどうしても言えなかった。今回行かなかったら後悔すると思ったのだろう。いろんな状況だけは説明して、それでも行くというので私も腹を決めた。疫病神に憑かれた夫婦の聖和行脚が、本当に精誠に数えられるのかどうかも、出発の折には分からなかった。

2012年9月9日日曜日

今日の想い 454

今は、みんな聖和式を迎えることに意識を使っていて、それでいっぱいだろう。ひとしきり悲しみもして、ひとしきり回想もして、そして御父様に感謝も捧げただろう。しかし、、、聖和式を超えても、これからも明日という未来へ向かう挑戦への扉は嫌でも開き続ける。聖和式を終えてみ旨が為される訳でもないし、ひと区切りつく訳でもない。御父様は基元節を目の前にされて、基元節を見ずに霊界の御父様となられた。これから、地上の御父様という実体からの直接指示を仰ぐことなく、私達はどう基元節を迎え、どうみ旨という責任分担を抱えて行ったらいいのか。折りしも、内紛を抱えた状態で、御父母様を中心として全食口がひとつになっていたとはとても言えないだろう。実体の御父様不在であれば、彼らが帰って来て許される道も閉ざされ、普通に考えれば益々その両袂は分かれていかざるを得ない。しかし、それでもみ旨を進める為にはひとつにならざるを得ないとなると、霊的な御父様はどう戦略を立てていかれるだろうか。最後の大戦に巻き込まれ、北朝イスラエルをアッシリアの手に渡してあっさり滅ぼされ、南朝ユダを立てられるだろうか。それとも、地球の大変動に合わせて、御母様を中心とした青銅の蛇を掲げる群れをバックアップされる形で、み旨は大前進するだろうか。或いは様々な状況が入り混じってその混乱の中に一旦は投げ入れられるのかもわからない。火種は世界のあちこちに燻っていて、いつ何処で炎が燃え上がるかわからない。特に中東情勢は戦争突入も時間の問題で日中情勢の比ではない。そして図らずもこの9月に入って、大地は地球規模的大変革の予兆を感じさせている。かつてノアの時代に大陸が消え去って大移動が起こったように、太平洋のプレートが隆起して北米のプレートが逆に沈下するかも知れない。アメリカも含めて国の規模で地盤沈下が起こってくる。平和の主人、血統の主人のみ言葉にあるように、太平洋プレートが隆起すれば、北からハワイ諸島に連なる海底山脈は隆起して、その龍の背を見せるだろう。地球がどう生まれ変わるとしても、私達は肉体として生き延びることが問題ではない。何処にいてどうなろうがそれが問題でもない。御父様が全てを犠牲にされてみ旨に献身されたように、私達はこれからも死生決断で御母様を立て、御母様に従い、残された御父様の宿願を全うするのみだ。聖和式が名前を変えた葬式にならないように、御父様の意志を如何に受け継ぐのかを真剣に模索するときに、聖和式で内的霊的な御父様との出会いがあるだろうし、聖和式が私自身の新たな正しい出発となる。

2012年9月8日土曜日

さくらの花よ泣きなさい

日本人として御父様を送るとすれば、やはり桜にちなんだ歌だろう。
どの桜を歌った歌も、日本の優しさがあり、従順さがあり、素直さがあり、そして潔さが表現されていて、御父様が愛した、この日本の精神を失うまいと思う。

数ある桜の歌の中で、私が選ぶとすればこの歌です。
御父様に御捧げします。




今日の想い 453

地上という感覚世界の状況は、私という主体がいて対象物、対象の事柄を把握するようになっている。私という唯一の視点から眺めて把握している。しかし霊界という心情世界の状況は感覚世界とは反転しており、私は主体ではなくて対象存在であり、地上では私の内面世界であったものが霊界という外界に広がり、神様の様々な視点や観点から眺めている。そしてその視点は、大きく組み分けすると12の視点から眺めている。だから内的霊的な事柄に関しては、同じ事柄でも別の視点から見れば別の姿を現す。12の視点から眺めたものを総合的に判断して、その霊的事柄を把握するのが真実に近い。み言葉が以前語られたものと、そして後に語られたものが異なっていて矛盾を覚えるとしても、それはおそらく別の側面から語られているのではないかと考える方が正しい。私という一つの視点から理解して把握したものと異なると否定するのは、霊的に見れば大きな判断ミスに繋がる。実際、神様も宇宙も人の視点観点を基準にして動いているのではない。誰かが一定の視点観点に固執してしまうと、宇宙の摂理がこの間に先に進展してしまい、進化から取り残されることになる。御父様は聖和されても、御父様が偏在される宇宙は止まらず、御父様のみ旨への意志に貫かれてますますその進化を増していくだろう。み言葉を私という唯一の視点からだけ理解していると言ってそこに留まったままでいると、宇宙(御父様)に取り残されていき、宇宙(御父様)と共に進化し続ける真の食口達と相反するようになるだろう。進化する宇宙は明らかに進化する者達の側に立っている。グループの者達の、その頭脳明晰さ故の落とし穴に嵌ってしまったのを見ると、御父様もみ言葉も霊的な位置であり内容であるのに、私の判断という一つの視点観点からのみを宛がえていて、12の視点を完全に無視してしまっている。彼らには、御父様の全体像も、霊界状況も正しく把握できず、ますます宇宙の進化からは取り残されていく運命にある。

2012年9月7日金曜日

今日の想い 452

霊界は地上的な時間感覚を超えている。WTのネットで御父様の生涯の御様子をフォトで綴っていたが、敢えて御写真を手繰らなくても、若かりし頃の御父様も、御歳を召されてからの御父様も、いろんな時のいろんな御父様が御名前の如く鮮明に蘇ってくる。御父様の表情もさることながら、それ以上に御父様の声が、耳に残っていると言うより腹の底から湧き出してくる。御世辞にも耳に優しい御声とは言えないが、ささくれ立って血の滲んだ、しゃがれてかすんだその御声は独特で、誰に似てるとも言えないし何にも譬えることはできない。しかしこの響きにこそ、御父様が御自身も御家庭も犠牲にされて公的生涯に殉ぜられた、その血と汗と涙の全てが刻まれている。痛々しい御心情が刻まれている。刻まれたものが余りに多く余りに重くて、御声の響きを受け止めるにも人を選ぶし、責任と覚悟を迫られる。私達は御父様の息子娘でありたいと思うなら、この響きの重たい波長に同調しなければ、その資格はないだろう。御父様は聖和されて、地上的な存在の形を持たない御父様になられた。それは地上的な時間と空間を超越された存在になられたと言うことだ。そしてその意味は、全ての時間と全ての空間、全ての存在に偏在される御父様だ。吹く風にも、流れる水にも、そして小さい石ころから岩という岩にも、御父様は偏在される。大気にも、浮かぶ雲や轟く雷や落ちる雨にも、そして大きくは地球にも太陽にも、勿論天宙に亘って御父様は偏在される。そのように外界に偏在される御父様がおられ、そして私の魂の中心の奥に、内在される御父様がおられる。内在される御父様は、やはりしゃがれてかすんだその御声で、私の魂を突き破るほどに叫び続けられる。御父様が聖和された今、私は私に内在される御父様から距離を置くことなど到底出来なくなってしまった。サタンに首根っこを捕まえられていた私は、今御父様に捕まえらるという一大変革が起こっている。

2012年9月6日木曜日

今日の想い 451

あまりにも突然だった。TIMESのネットニュースの情報を妻から知らされたとき、まさか、と言う言葉しか浮かんでこなかった。シカゴでライブ説教をされる御子女様の、私達への祈りと精誠のお願いを聞いたばかりだった。手術で入院していたので店の買い物やら準備やら掃除やら忙しく、一通り仕事を終えて、手伝ってくれた娘や妻に店に残った材料で昼飯を作って食べさせていた、時間的には丁度その頃だったはずだ。御父様は随分と寿司がお好きで、下手な料理の腕を緊張で震わせながら握ったことが何度もあって、娘と妻が美味しそうに食べているのを見ながらそんなことを思い出していた。トロにサーモン、エビにヒラマサ、そしてウニやイクラも、、。御歳を召されてから脂濃いトロは避けられ始めたが、上品な御母様の食べ方と比べて、いつもお寿司だけは豪快に口に運ばれていた。次々と御付の方達の要求に応えるために、なかなか御食事されておられるところをじっくりと拝見するわけにはいかなかったが、食器の下がり方を見るとそんな御父様の様子が窺えた。御要請がある毎に、何をお出ししようか死ぬほど悩んだが、やはりいつもお寿司だけは抜くことはできなかった。娘と妻に握って出しながら、先ず御父様に作って差し上げるべきだろうと思ったが、思ったのではなく思わされたに違いない。私と御父様の地上の接点は、私に声をかけられたことでも御小遣いを戴いたことでもなく、やはりお寿司だ。お寿司を介して地上での御父様と地上での私は繋がれていた。だから今御父様のことを回想するとき、その思い出は赤や黄色や橙の寿司の色鮮やかさに染まっている。私の中ではその色鮮やかさがいつまでも褪(あ)せずにいて、とても御父様が召されたとは思えないでいる。その色鮮やかさが活きていて、暖かい色は優しく声をかけて頂いた御父様の笑顔を呼び起こし、赤い色はドジをして気分を害され、視線を私から逸らせた横顔を呼び起こし、そして黄色い色は、御父様の後ろからメニューの説明をしたとき、座って背を丸めて拙い私の説明を聞かれる御父様の後姿を呼び起こす。そのとき、御父様は御歳を召されて随分小さくなられたという印象が拭えなかった。いろんな情景が今そこにあるかのように寿司の色合いと共に思い出される。店舗で実績が出ずに魚の部署に飛ばされたけれども、アメリカに来たものの上司と折り合いが悪くて寿司を握る羽目になったけれども、どう言う訳か御父様との地上的縁は流れて行き着いたお寿司だった。私が地上にいて、この店にいる限りは、祭壇の御父様に御寿司を握って差し上げる。

2012年9月4日火曜日

今日の想い 450

お祈りしないとと思い、夜中十二時を超えて、DCの教会へ向かった。家の外に出ると、生温かい大気が包み、気まぐれの雨が時折顔に落ちてくる。高速から下りてDCの街中に入っても、一向に生気を帯びた景色には出会えない。対向車のヘッドライトも、真っ直ぐに列を作る信号の明かりも、ショップから漏れる光も、光でありながら暗い印象を与えるものでしかない。街ゆく人は皆うつむいて歩いている。教会に着いたが裏の駐車場へは門が閉ざされていて入れそうもない。周辺を二、三度回りながら、やっと停められるスペースを見つけて入り込んだ。暗い裏道を回り込んで、教会の裏門に着く。鍵がかかっているようなので電話した。暫く待つと鍵を持った姉妹が現れた。軽く挨拶して礼拝堂に向かった。誰もいなかった。御父様の大きな御写真と御父母様御二人の御写真が前方に配置されていて、数列の椅子が並べられていた。いつも所狭しと身を寄せている兄弟達の肩越しに見ていた御父様なのに、固まった笑顔で動かない御父様を前にした今、周りには誰もいない。方々で音がするので誰かが作業でもしているのかと思ったが、あちこちにいろんな容器が置かれていて、礼拝堂の高い天上から落ちる雨漏りが打つ音だとわかったのは暫くしてからだった。それでも誰も居ず物音ひとつしない空間よりはましだった。靴を脱ぎ、御父母様に啓拝を捧げて頭を垂れた。祈ろうとしても何の言葉もでない。寂しいからでもない、申し訳のなさからでもない、何なのかわからない涙が嗚咽と共に流れるだけだった。正直、途方にくれていた。

2012年9月3日月曜日

、、、

肉体を持たれた御父様、ありがとうございました。
そして、、、本当に申し訳ありませんでした。

2012年9月2日日曜日

今日の想い 449

太陽があり、水星があって、金星があって、そして月があって地球がある。地球は母なる地球であり宇宙体の胎だ。宇宙広しと言えども、人間はこの地球でこそ産まれ、存在し、そして繁殖する。よって霊界に存在する全ての霊人の繁殖も、霊界ではなく地上でこそ為される。地球が母であれば父は太陽神としての太陽だ。人類が堕落したという意味は宇宙の胎の中で正しく成長できないということ。本来なら地球の胎を抜け出れば、すなわち死を持って霊界への産道を潜り抜ければ新たな生命宇宙体として天空に輝く煌く恒星として、それは生命宇宙体の象徴的なものとして地上の目に写るものだが、別様の時間と空間を創造して別様の宇宙として存在する。しかし堕落の血統のままで死の門を潜るなら、恒星になれないまま死産とならざるを得ない。宇宙の胎の中で正しく成長できる為に、先ず胎を穢れのないものとし、太陽神の正しい精子を戴いて、太陽神と新生地球との結婚が執り行われてこそ、私達は本来の祝福に預かることができる。その宇宙秘儀、天宙儀式が御父母様の体をして執り行われる。御父様はメルキゼデクという人物の話を重要人物として訓読会の中で触れられたことがある。サレムの王(祭司王)メルキゼデクは、アブラハムをパンとぶどう酒とを持って祝福した。実はこの瞬間こそがアブラハムが太陽神の秘儀を受け取り、外へのみ向けられていた神を霊視しようとする能力を、己の内に向け内なる神意識を出発させた最初の人物となった。アブラハムを出発点とするユダヤ民族の道は、アブラハムが内なる神として宿した太陽神が、自分の失ったものを取り戻す為に、もと来た道を取って返す道だ。もと来た道は月に帰り、地球の後に太陽から地球に向けて渡し橋として出された金星をへて、そして水星をへて、そして太陽に帰る道。月に帰る道はモーセと引き継がれたヨシュアの道であったし、金星への道はダビデ王の道であったし、そして水星をへて太陽に帰り太陽神としての精子を受け取る道。御父様が口にされた、古い民話の月よ、月よ、と言うのは、御父様御自信の懐かしさと同時に、太陽神の失ったもののひとつを月に帰ることで受け取る歌でもある。御父様は月に帰られ、金星に拠られて王冠を受け取り、いまバビロン捕囚をもって水星に拠られて神の秘儀を受け取られ、そして基元節で神様の精子を受け取られる。

今日の想い 448

愛する妻や夫、愛する子供のひとりでも、病や事故で生死に関わる状態になった経験でもあれば、胸をえぐられるいろんな想いが押し寄せて、混乱して、まともに呼吸できる自分を取り戻すのさえも困難を来たすのを体験する。その体験もない不信仰な者達が暇に任せて御付への疑惑を詮索し、ああだこうだと言い募る。それは明らかに御父様や御家庭の気持ちの一欠けらも察することができず、自分なりの判断をする何の条件も基台もない傲慢な位置で、十字架上のイエス様に降りて来いと、周りの女達に降ろしてみろと、口々に言い合っているのに等しい。妻が手術を受けるとき、私はドクターに全てを託し、ドクターの判断を信じ、信じた自分を信じ、成功することをひたすら信じて見守っていた。その都度起こるいろんな事態に一瞬は混乱するとしても、私が信じることを止めたらその時点で妻の未来はないと言うことになる。御母様や御子女様、まわりの世話されておられる方々も同じはずだ。信じることを止めたら御父様の御復帰はないと思っておられるはずだ。その状態で、誰彼の申し出に不信を抱くとか判断がおかしいとかの余念を抱く余地などさらさらない。その切迫した状況も知らずに、裾野の遠い位置から見えもしない頂上をああだこうだというその気が知れない。狂っているとさえ思う。御父様を御父様と思うなら、先ず飛んで行きたい気持ちが自分の中にあるかどうかだ。それもないのに、御父様と口にはしながら、なんとその心情の距離がかけ離れていることか。幾星相の心情の距離を置きながら、その方を御父様と口にするのさえおこがましい。御父様を知らないほうがその人のためには良かったと、私はそう忠告したい。息さえもままならない御母様であり、御子女さまであり、そして勿論御近くで侍られる先生方もそうだ。食口達に変な動揺を覚えさせず、御父様と慕う祝福家庭の教会としての柱が揺らがぬようにとの判断が最初にはあったはずだが、食口達を信じて現状をはっきりと伝えられ、その上で、確信を備えた精誠を望まれたはずだ。御回復される為の祈りも、楽観的なものと確信的なものとは全く異なる。楽観的なものは何の心情の配慮もないが、確信的なものは、心配もし最悪も見せられ、心も削り胸さえもえぐって、それを乗り越えて敢えて御復帰の確信を抱いてこそ祈りであり精誠となる。私達は祈りも精誠も確信的なものとならなければならない。

2012年9月1日土曜日

今日の想い 447

御父様は寝ても意識を持たれて活動されることを、私は信じている。外界を対象とする地上的意識とは別物であるとしても、明らかな霊的意識を備えて、御体を休めておられる時も活動しておられる。だからたとえ麻酔で御体は眠っておられるとしても、やはり霊的意識は更に冴えて、この期間を活動しておられるはずだ。御父様がいつどのような状況、状態であられても、人間的な知情意では計り知れない、そのような見地では意表を突かれるような活動をされておられる。霊的意識を持たれているという意味は、霊的意志を働かせておられるという意味でもある。その御父様の霊的意志は天宙を動かそうとされる意志であり、世界動向に働きかけられる意志であり、勿論私達食口全体に働きかけられる意志でもある。ユダヤ民族が辿った道のりは目隠しされた神様が地上に運び込まれて、自分の失ったものを再び取り戻すために来た道を取って返す道でもあった。御父様はマタイ伝を新約の創世記と話されたことがあった。第一章の長々としたキリスト誕生までの系譜は地球が誕生して人類始祖が現れるまでの逆の経路を辿る逆創世記だとも言える。だからわざわざ系図を、アブラハムの子はイサク、その子はヤコブ、とはせずに、アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、と言うふうに逆向きに捉えられるように記されている。アブラハムからダビデまでが14代、ダビデからバビロン捕囚までが14代、バビロン捕囚からキリストまでが14代、計42代を通過してメシヤを迎えたわけだけれども、御父様が言われるように、奇数が主体で次の偶数が対象であれば14代は七数であり、七数七数七数の蘇生長成完成を経てメシヤを迎えたことになる。そしてイエス様御自信もユダヤ民族がダビデ王を通過したように王を経て、弟子達の信仰が足りなければバビロン捕囚を通過したように何らかの捕囚状態を経て、それから神様と完全一体される位置に上り詰められるはずであった。、、と言うのが私の一つの独断的見解だ。御父様が万王の王という言葉を使われるとき、私はどうしてもサウル、ダビデ、ソロモンの王国時代を意識されて使われているといつも思わされた。そうなると帰結の前に我々の精誠が足りなければ捕囚を通過しなければならないことになるが、そこまで私が勘ぐることは罪を犯す領域に入ることになるだろう。しかし私は、他がどう判断しようとも、御父様は意志して今の状態を通過されておられると確信している。そして必ず御健康を取り戻され、基元節をその御実体をもって迎えられると確信している。

今日の想い 446

昼過ぎから腹の苦りが少し気になっていたが、差ほど気にはしなかった。しかし夕方家に帰って腰を下ろすと、急激な腹痛が襲ってきて、時間を経るごとに痛みは増してくる。激しい痛みに呼吸も儘ならず、全身から汗が吹き出る。ただ事ではない体の異変に、娘に至急911に連絡させた。その間痛みが治まってきたらどう返答しようかとも思ったが、そんな心配はどうでもいいほど痛みは更に激しさを増していった。程なくけたたましいサイレンが近付いてきて、音が止んでドアのチャイムが鳴った。娘が駆け寄ってドアを開けると、5,6人の男が作業靴を履いたまま押し入ってきた。痛みに蹲っている私に対して、こんな時でさえもHow are you?と笑顔で声をかけるところがアメリカらしい。声も出ない私に代わって娘が返答をし、担架に乗せられてエマージェンシーに運び込まれた。英語の達者な娘が手続きを済ませてくれ体の状態を説明すると間もなく、点滴に痛み止めの薬だと思うが流し込められ、目が途端に回り始め、そしてそのまま目の回る渦に巻き込まれて眠りの深みに落ちていった。御父様が大変なこの時に、その大変さの程度は天と地との違いはあるものの、同じように病室に臥せっていることが不思議だった。一日置いて手術することになったのだが、私はこの流れで何処までも御父様と同じ状況にあることを願うのかどうかを尋ねられた。ひょっとしたら麻酔をかけられて、そのまま目覚めることはないのかも知れないと思った。はっきり言って、最悪の場合までも請い願う私ではなかった。しかし御意であればどうなってもかまわないとは思えた。麻酔をかけられる前、準備はどうかと聞かれたドクターに対して、好きなようにして下さいと伝えておそらくドクターは冗談と受け取っただろうが、私は天に対して申し沿えた言葉だった。それが御父様を慕い侍る圏内にあるのかどうか、今の自分にはわからない。今の自分にはわからないが、それはどうでもいいことだ。何よりも御父様の御復帰を願うことの方が大切だ。手術を終えて麻酔から覚めたとき、何故か私は御父様が奇跡的に復帰されることを確信していた。そして皆の確信的信仰こそが現実化することをどうしても伝えたいと思った。ひょっとしたらという一ミリの疑念も抱くことなく、御復帰を確信することだ。

2012年8月25日土曜日

今日の想い 445

イエス様が肉体を犠牲にされて、復活したイエス様となられて使徒達に訪ねてこられたように、肉体を生死の境に留められて、内的霊的に食口ひとりひとり全てに訪ねられる御父様であられる。毎日の日課とされ、当然のように続けられた訓読会にも御父様の御姿はなく、それを伝える映像も情報も届かなくて、それでも生活は何もないかのように続いているけれども、霊的には食口は今まさしく十字架の後の落胆して散り散りになった二千年前の当時の使徒達と同じ状況にある。食口それぞれが、私に訪ねてくださる御父様を内的霊的な深みで迎えることができなければ、私は御父様との関係を祝福血統の因縁、心情の因縁として血に刻み、心情に刻んではいない、ただの外的表面的地上的なものとして受け取ったにすぎないことになる。それで本当にいいのか。それで良しとするのか。その責任はそれぞれに委ねられている。私の復活問題、霊的に生きるかどうかの問題はそれぞれの責任分担だ。御父様がどれほど訪ねてこられ、手を差し伸べようとされても、私が手を差し伸べて御手を掴むかどうかは私の責任分担だ。御父様がそこまで踏み込んで関与されることはできない。外的な御父様がいつまでも存在されることはできないので、私達は今こそ内的霊的な御父様を迎えることができなけければ、外的御父様を中心とした今の心霊に留まったままでは御父様と私の関係性を自ら切り離さざるを得なくなる。十字架に架かられるイエス様を目の前にして涙する女達を見ながら、あなた達の後孫の為に涙しなさいと言われたイエス様だ。私達は御父様に対して人間的に心配し、人間的に涙するのも勿論だけれども、御父様の願いは私達が霊的な御父様との関係に目覚めることだ。それは私達ひとりひとりが内的霊的に御父様を内在させることだ。しかし余りにも私達は幼すぎる。そうなるには心霊基準があまりにも低すぎる。幼すぎて低すぎる私達はどうしても肉体を持たれた御父様を今は必要とし、どんな犠牲を払ってでも快復をこいねがうしかない。

2012年8月24日金曜日

今日の想い 444

家族の誰かが病気で危険な状態に陥れば、どれほど心痛が大きく、寝るに寝れず食べるに食べれず生きた心地もせず、一歩を踏み出し一秒一秒に踏み入れるのにその空間の壁、時間の壁がどれほど厚く重いものかを実感する。その重みが、家族の一人に対する私の愛の重みでもある。御父様の状況を知らされて食口の誰もが心配しているだろう。精誠も供えて御快復を強く強く望んでいるだろう。しかし家族の者への想いと、御父様への想いと、比較してどうなのかを問うて見なければならない。質的に同じものだと言えるのか。或いは想いの密度がより濃いものであるのかどうか。決してこの話をして皆の想いを蔑ろにしたい訳でもないし、責めるつもりもないことは解かって戴きたい。ただそれぞれの中で、御父様に向かう情の強さを深め、父子の因縁を更に増やしたいという意志がなければ、御父様が御自身の身を文字通り削りながら差し出されているものに応えようとはしていない。家族への想いと比べてどうかという量的なものもさることながら、その質を家族感情を超えた想いに次元を上げるべきだ。身を横に伏せられて、チューブやコードに繋がれておられる御父様を直接見るのであればその感情も強まると思うかも知れないが、それは人間的な感情であり、御父様と私との父子の関係が、感情的人間的なものから心情的天的なものへと次元を上げて外的枷を外してこそ御父様の願いに応えることになる。私に取って、御父様の間近で心痛される御子女様は或る意味私の代身であられ、身を削られ痛みに侵食される御父様の心魂の、その一片を私の中に見て、それこそが私に取っての本質で、御子女様が病室で御父様に重い視線を向けられるのと等しいものであり、その内なる御父様の解放を私が担っている。様々な課題や問題が私の周りで犇めいていて、普通私はそれらに翻弄されるままになっているが、実はそれらは投射された影であって影をいくらどうこうしようとしてもどうなるものでもない。投射された影を見ながら内にある私の問題の本質を見なければならない。私の内側に御父様がおられるのがわかれば、その御父様の状況が物事として周囲に起こる投射された影に現れてくるのを見る。そうなると風を受けた草木が泣き、暗雲の空が痛みで唸る。精誠を供えようと断食でもすれば、その経過の体験の隅々に御父様の想いを見る。御父様が間近におられるどころか、私の中におられ、痛みを負われる御父様を実感してこそ統一食口だ。外的なものは内的に、内的なものはより霊的に、神秘的に受け取るべきだ。今回のことが偶発的なものでは決してなく、私達の内的霊的な本質への目覚めを促され、身をとして働きかけられる御父様であることをわかって応えるべきだ。

2012年8月23日木曜日

日本は、

日本が国として生き延びることがどれほど大切か、切実なものとして理解すればするほど向かい来る試練への舵取りを誤ってはならない。強い韓国であると同時に、強い日本でなければならない。しかし強い日本という意味と傲慢な日本とは異なり、また自己中心的な日本とも異なる。日本は日本として、天が認めて誇れる精神支柱があるはずであり、その柱をしっかりと立てて事に臨むことが大切で、怒りや投げ遣りな感情に押されて判断したり選択したりすると、国土が流れて消え去る前に国家としての存在自体が危ぶまれるだろう。尖閣でどう行動に出るかを中国から迫られ、また竹島(独島)では韓国からも迫られている。今の今、どう行動に出るとしても問題は大きくなるし、もはや棚上げできる状態でもない。国家意志として、行動理由の確固としたものを準備され持ち合わせてはいないし、政府としても国家間の棚上げの期間、問題対処を為せずに逃げるだけ逃げてきて、今袋小路の局面にまで詰められている。だから何の犠牲も払わず事が治まる状態にはない。生命をもって国を護るという気概が日本全体として消え失せてしまった今、惰眠し続けた国民が目覚める為にはある程度のショックは必要だろう。それがどの程度のもので功を為すかはわからないが、大震災でも目覚めないのであれば推して知るべしだろう。周りにいる兄弟達の意見でさえも、一方で主の国韓国に平身低頭的な者もいれば、その一方では国粋主義的な者も多くはないが存在する。一方で韓国に譲り渡せと言い、他方で自国領土を守り抜けと言う。私が思うに、前者は一体化の為に日本は消え失せても仕方がないという無責任さがあり、後者は日韓一体化への日本側からの何らの犠牲も譲歩も差出さないという自己中心さしか見いだせない。日本を希薄化させて泡とするか、日本を凝り固め過ぎてもろくするか、どちらに傾いても日本は生き延びれないだろう。み言葉を知り、御父様の摂理観を知る食口なら、そんな惰眠か酔いしれた感情を基に置くのではなく、もっと本質的な視点に立つべきだ。御父様が、日本が消え失せて本当に御意だと喜ばれるだろうか。父母として立つべきなのに、父の国が残り母の国日本が消え失せて喜ばれるはずがない。しかし日本が生き延びる為には、そして日本が再生する為には、母の国としての本分に立つことが大切だ。日本が母の国としての精神支柱を立てる為には、日本の祝福中心家庭が立つべきだ。日本が母の国としての誇りを持つことができ、威厳も備えることができ、母としての発言を世界の国が耳を傾け、主の国と夫婦の関係で一つになれる、一言で言えるものではないが、そんな新しい国家観、国家像を我々統一食口でこそ見出せるはずだし進言できるはずだ。

2012年8月20日月曜日

今日の想い 443

高齢になられた御父様の御様子を見ながらも、私達は依然X-DAYに対する実感はなかったと言っていい。しかし今回の件で、食口の多くが実感として受け取ったはずだ。御父様のお身体の心配もさることながら、その日その時が必ず来ることを実感として思い知らされ、遠くないその時、私がどうなり、教会がどうなり、摂理の方向性がどうなるのか。それを今の今詮索することは戴けないが、内的な準備は今の内に為されて決して早くはない。強いて言えば、御父様を受け入れたその時から、常に準備に余念なく歩むべきだったのだろう。今回の、医者をして危険と言わしめるほどの御自身の犠牲が何を意味しているのか。世界会長が触れられたように、先回手術された折にはイラク戦争が起こったが、今回のことと関連されて外的な意味に於いては局地的とは言えない大きな戦争のにおいを感じ取れなくもない。しかしそれをも詮索すべきではないのかも知れないが、内的霊的な意味を問うことは非常に大切だ。全ての出来事に過去の結果としての事柄があると同時に、これからの新しい目標地点へ向かう教訓と準備(を備える決意、覚悟)が含まれている。希望的ではない目標地点を見るなら悪神の業であるが、希望の目標地点を見てそこに向かう意志を供えるなら神様が働いている。今回のことを通して、その日その時が間近であるので摂理を急速に推し進めるようにという声を誰もが聞いたことだろう。要するに基元節をどう迎え、その為に何を準備すべきかだ。X-DAYを踏まえるならD-DAYをどう迎えたらいいのかと言うことだ。あと半年も残ってはいない。勿論外的には指示事項をその通りに歩むことだけれども、私達ひとりひとりが立てるべき内的な課題、内的な基準があるはずだ。それを供えることができなければ基元節を本当の意味で迎えることはできないだろう。御聖婚式のその場に参席しているとしても内的霊的に参席しているのかどうか。正しく内的霊的に再祝福を受けることができるのかどうか。今、私の中にそれに向かう内的な高まり、内的な熱を感じ取れないとするなら、基元節を迎える準備が為されていないか、当ての外れたものだと気付くべきだ。私という存在が、常に揺れ動き、どのようにも揺れ動いているX存在だという認識があって、それ故に絶対信仰、絶対服従をどうしても立てるべきだと意志を差出し続けながら、その過程で御父様の御心情の一欠けら、一欠けらを受け取っている実感がなければ、私はズレていて基元節で正しく御父様にまみえることはできない。

今日の想い 442

私がより自由を得たと言えるのは、言葉の概念を正しく受け取り、観を新しく広げた時だ。人は自分という存在について、多くを理解して生きてはいない。わからないままで生きている。わからないまま生きていれば、私は私の人生を何かに操られていることになる。操られていれば、操られているだけ私の人生は自由圏にはない。私は言葉の概念を知って積み重ねることで私の自由領域を広げることができる。間違った言葉の理解で操られていた私は何かに拘束されていて、自由か拘束かは、私が言葉の概念を正しく受け取っているかどうかによっている。第一祝福の個性完成は愛に於ける完全自由人を指して言う言葉だろう。愛に関して自他の壁がなく、私を愛するように他も愛する。それは神様との壁もなく、神様は私を愛し私は神様を愛する。真の愛という言葉の概念を正しく受け取り、私が第二の神様の位置で愛の主管主の位置に立つ。それが愛に於ける完全自由人だ。人間は堕落して無知に陥った。内的無知であり外的無知だ。愛の何たるかを知らずに、偽りの愛が私の存在の動機であり出発点になってしまった。御父様が平和の主人、血統の主人のみ言葉で語られているように、私達は習慣性を中心として生きている。昨日の続きが今日であり、今日の続きが明日だと、習慣性を中心として思っている。一秒で転換しているという事実がわからない。時間概念、空間概念が御父様のそれとは異なるということだろう。習慣性を中心として生きているように、(真の)愛から始まって全ての言葉の正しい概念を受け取れず、霊的な意味で言葉のひとつひとつを受け取れない。言葉は霊的なものだけれども地上的唯物的なものとしてしか受け取っていない。だから訓読会で御父様が語られる意味が殆どわかっていない。世間的に理解している東西南北と、御父様が口にされる東西南北とは異なる。世間的に理解している数と、御父様が口にされる数とは異なる。御父様は言葉を霊的な正しい概念で語っておられ、私達が御父様の言葉を理解する為には、言葉の地上的意味という枷を外して、霊的見地に立たないと理解できない。霊的言葉として、言葉の概念を正しく受け取り、私の自由領域を広げることが歓びだ。

2012年8月17日金曜日

今日の想い 441

たまに断食でもすると一日が随分と長い。人間は精神存在であることは確かなはずだが、食を断って長い一日を過すと、本来生きるために食べていたはずが、正直なところ自分は食べるために生きてきたのだとつくづく思わされる。食べ物が恋しいと体全体が私に訴えかけてくる。御父様が大変なこんな状況であっても、弱い自分、自己中心の自分が顔をもたげてしまう。不謹慎だと言われてもどうにも仕方がない。しかし堕落の私はそこからが出発点だ。堕落の私は戦うことを通してしか精誠を供えることはできない。傷一つない真っ白な精誠を備えたいと思うけれども、醜い私も曝け出し、心と体の戦いも曝け出して、その中から精誠を見つけてもらい拾い出してもらうしかない。それを精誠と言えるのかどうかも分からないし、御父様にとって目を背けてしまわれるものなのかも分からない。でも私は精誠の意味をそれしか知らない。だから吐き捨てられるとしても、そうであっても御捧げしたい。だから戦いから逃げるつもりはない。喰いついて、しがみついて、どこまでも掴んだ手は放さない。相手の根気負けだけが私の唯一の戦法だ。戦いの過程で涙は流れるだろうか。汗は流れるだろうか。もし涙が、汗が、私から流れるなら、精誠として受け取ってもらえるのかも知れない。一食ぬいて、二食目をぬいて、始めたばかりの断食で弱い私は既に戦いの只中にいる。思いもよらない不純な発想が、私の内側の深みから醜い面(つら)をもたげてくる。

2012年8月16日木曜日

今日の想い 440

私達は経験したこと以上の言葉に対する意味を持ち合わせてはいない。親に対して経験したこと、親となって経験したこと、親という意味はその自分の経験以上の親の意味を私は持ち合わせてはいない。だから人それぞれに親の意味は異なっていて、私の親に対する想いと、あなたの親に対する想いとは違う。真の父母だと説明されても、親の意味がそれぞれに異なり、本来の親としての理解から誰もが遠く離れているなら、御父様に向かう想いは未だ本物ではないだろう。私の中にも少なからず距離がある。敢えて言葉にしたくはないけれど、御父様から距離を置いて、冷めた私が事実としてここにいる。しかしそうであっても、私は御父様こそ私の本当の親であることを知っている。親以上の親であることを知っている。私の為に全てを与えられる。私の為に全てを犠牲にされる。私を想って自分以上に心配され、私の為に涙もひとしきり流される。私をどのようにでも救おうとされ、常に自分の側にいて欲しいと思われている。それがありえない幻想であり、私の思い込みへの陶酔に過ぎないと言うなら、真の父母という言葉は私には用意されていないことになる。誰よりも、敢えて言うなら御子女様に対するよりも、私を子として想っておられる御父様でこそ、真の父母という言葉が存在する。御父様は人類全てを想って誰よりも涙を流され、誰よりも苦労され、そして誰よりも悲哀を覚えられ、だから誰に対しても、自分はこんなに苦労した、こんなに悲惨だったという訴えに対する親としての言葉を用意しておられる。親は子の為に、子供以上の悲惨な立場を担おうとされる。だから御父様は人類の親として、敢えて誰よりも悲惨な道を歩まれることを意志されたとも言える。御父様は今集中治療室におられる。その御歳で精神的にも肉体的にも酷使されれば、そうなることはわかっておられたはずだ。しかしそれでも真の親は真の親としての歩みを止められる事はない。私達は御父様の生き様の一部始終を目に焼き付け、身を持って真の親の意味を教えようとされる御父様を私の魂に刻みこむ。私がどれほど御父様から距離を置いているとしても、御父様は子としての私という存在を常に間近に感じておられるはずだ。しかし私は、、、感情をどこかに置き忘れたままなのか、何をするでもなくこの位置に佇んだままでいる。報せを受けながら、何も出来ずにただ佇んでいる。

2012年8月15日水曜日

意識を考える

私達の認識の多くは自体自覚による意識から来ている。もし私が他体自覚に立つならその認識は自体自覚の認識とは異なるものだろう。意識が悟性と感性を働かせて認識に至る、即ち意識が正であり、悟性感性に分かれ、認識という合成を得る。意識が自体自覚的なものであるなら、分かれる悟性感性も自体自覚的であり、合成体としての認識も自体自覚的な認識となる。他体自覚的な意識が私の中にあるのかと問えば、絶対信仰、絶対服従の位置で意志するものは他体自覚的であり、私の中で意志されない意志、すなわち習慣的惰性的な考え、感情、行動はすべて自体自覚的だ。要するに自体自覚は私の心魂に染みついていて離れることはないし、他体自覚的意識の種はあるはずだが芽が出ていないので確認のしようがない。私が他体自覚的意識を取り戻す為には、安寧な心魂に荒波が、時化が、津波が、何度も何度も押し寄せなければならないだろう。御父様への帰依故に、み旨故に、何度も何度も辛酸を舐め、悲痛な心も苦労も味わわなければ他体自覚の意識の芽は生えてはこないだろう。確かに他体自覚は為にある存在としての自覚ではあるが、心魂に染み込んで既に私という存在そのものが自体自覚的であるので、自己中心を改めて他の為に生きればよいと言うような単純なものではない。この血の全てを抜き取り、この心魂を抹殺させて、新しい本然の血を流しこみ、新しい心魂を戴くと言えるような、私の全てが奪われ最後には生命さえも捨てられる路程を通過してこそ自体から他体へと意識改革が為せる。

2012年8月14日火曜日

今日の想い 439

絶対性と言われることに対して、私達は与えられた主体相対への貞操を誓い、浮気や離婚をすることもなく生涯、いや永遠の伴侶として添い遂げることを意味していると思っている。しかしそうであるなら御父様自身についてはどうなのかと言うことになる。御父様は今の御母様が最初ではないし、今の御母様になられてからも別の関係による御子様もおられる。御父様が再臨のメシヤではないという反対派の多くは、その言動の不一致を大きな理由として反対している。御父様を認める私達の多くも、事実を知らないか敢えて知ろうとはしない食口もおり、或いは知っていてもメシヤだから何でもアリだと自分や周りに言い聞かせている食口もおり、或いは未だ知らされない摂理的事柄があってのことで、事更に踏み込むべきではないと思っている食口もいて様々だ。以前、内情を全て知っている御家庭の内側におられた方の本が店頭に並んだことがあるが、そこに書かれている内容を事実か否か判断するのは読み手に委ねられるとしても、御父様の口から直接聞いてしまえば無視することも否定することもできない。私は直接聞いた以上、その事実をどう私は捉えるべきなのかという試練を受けることになった。勿論メシヤに対する私の悟性理解で御父様を受け入れている訳ではないので、どんな事実を突き付けられても、私の中では御父様が真の父母であることに変わりはないのだが、そうではなくて私の絶対性への認識が本当に正しいのかどうかを問わざるを得なくなったと言うことだ。タマルの行動、またマリアの行動を道徳的観点から見るなら首を傾げざるを得ないが(絶対性からも反するが)、イエス様の誕生に必要不可欠の行動であることは食口なら認めるはずで、御父様の行動に対しても道徳的観点からは否定されても摂理的に必要不可欠なものがあるはずだという見地には立てる。生殖器をして堕落したその復帰摂理上、胎を含む生殖器をしてサタンから奪い返さざるを得ない。祝福家庭を考えるときに、祝福家庭にもそれぞれいろんな事情があって、本人は絶対性を立てても夫婦として絶対性を立てることができずにいる家庭もある。そうなると絶対性が裁きとなる。真の父母である御父様御自身も問われ(裁かれ)、どうすることもできないそう言った祝福家庭も問われる(裁かれる)絶対性なのかどうか。御子女様の中には離婚しておられる方もおられるのであり、そこにも問われる絶対性なのかどうか。私達の殆どの認識は自体自覚の意識によるものであって、私達の絶対性の認識も自体自覚的な認識を超えていないのかも知れない。確かに、私自身も相対も内的霊的に堕落的なもの全てから決別している訳ではないのに、イメージとして捉えている絶対性を宛がえただけで、御父様の前で絶対性に生きていますとはとても言えないだろう。ただ絶対性について私がひとつ確信できることは、絶対性を規律として、或いは裁きとして示されたのではなくて、御父母様の勝利の上で絶対性を祝福として、恩恵として与えて下さったと言うことだ。そうであるなら復帰摂理上、メシヤとして真の父母としての宿命上、タマルやマリヤのようにサタンから奪い返す為にそういう経路も辿らざるを得なかった御父様であるけれども、勝利された今、私達はサタンに讒訴されずに絶対性に生きることができるという恩恵という意味で、絶対性を受け取れる。

2012年8月10日金曜日

今日の想い 438

御父様は目を開けて眠る訓練をされたと話されている。人間は眠る時、心魂は肉体から離れて霊界の境界を超えて存在し、生きて心魂活動をする為の霊的要素を受け取っているが、眠る時は意識を外されているので認識されない。無意識の状態で霊界に存在している。しかし、御父様が言われる目を開けて眠る訓練とは、意識をもったまま霊肉の境界を超えて霊界に入っていく訳だ。意識的であるから霊界が認識され、霊界事情がわかる。前にも記したように、普通の人間は意識的に霊界を体験することは危険であるので、眠って無意識状態にあるのは現代人に取っては私自身を護るために大切な事だ。霊界に意識的に参入できるのはそれなりの精神的柱が立った者であり、予定もされ準備もされた者だと言える。昔の見霊者は数日間の仮死状態を経験させられて霊通人となることができたが、地上での生活に支障を来すために内外の支えを必要とし、彼らはそれなりの尊敬と位置を与えられていたから可能でもあったが、現代では気が振れているとして精神病扱いだろう。御父様の精神力、霊的主管力は並はずれていて、その素養はあったものの私達の想像を超える訓練、試練によって鍛えられたものであることは十分察知できる。御父様は人も状況も未来も見通される御方だろうかという低い次元で見霊力、霊通力を問題にして、それがないからメシヤではないとか、メシヤだけれども周りの者達に騙されているとか、そのような見方は霊も霊界についても完全に誤解しているし、御父様への偏見をさらに助長させている。外界を対象と見るような同じ対し方を霊界にもしているから、霊の本質、霊界の実態はいつまで経っても自分の中で明らかにはならない。私を中心とすれば外界は五感で感知する対象であるけれども、私の狭い内界で、狭い内的感性は幾らか備わってはいるとしても、霊界においては私は中心位置に立てない対象であって、霊的感性は中心位置にある主体とひとつになることで受け取れる感性であり、私が御父様の完全対象となれば霊的感性は既に備わってしまう。難しいが簡単な言い方にすると、地上では内なる私が外を見、霊界では外なる私を(御父様の目で)見ている。み言葉にあるように私達は霊界を背負って生きているのであり、リバーシブルの服のように内面に培ったものが霊界に行くと霊界の環境圏になる。無意識の意識化という言葉を誰かが使ったが、堕落によって愛の完成を見ずに自己自覚(意識)を備えたから、無意識圏にある真の愛の世界、膨大な霊界に踏み込めないし、自己自覚という鏡の役目を果たせない鏡でしか自分も世界も映せない。

意識構造

霊界に関しては様々なみ言葉があるが、私達の意識構造をもって処理できる可能圏が霊界だ、と説明されるみ言葉は、科学的論理的な思考人間に取って霊界への関心を誘い、霊界の認識を開くことができると示唆されている。しかし思考人間もどこまでも突き詰めて思考する者は少なく、簡単な例を言えば、分子は原子から、原子は素粒子からと学んだことをそのまま鵜呑みにして、鵜呑みにした事実とされる事柄を何の疑いもなく基底に置いて思考を構築していく。進化論もそうだし、宇宙の起源の説明でも同じことだ。鵜呑みにしたものは本人に取っては非常に抽象的であり曖昧なものだが、そこにメスを入れようとする本当の科学的論理的思考人間は殆どいない。ビッグバン理論を多くの者は受け入れているようだが、ではビッグバンがどうして起こったのか、その原因(起源)は解かっていない。宇宙形成の経過で、宇宙の霧が発生して霧が掻き混ぜられて今の太陽系銀河系ができたとするなら、宇宙の霧はどうして発生したのか、掻き混ぜた存在は何なのかと言った問いが出てくるが、そこまで深く掘り下げようとはしない。私達の通常意識の中に、抽象的で曖昧であって良しとされるものが既に組み込まれてしまっている。ようするに意識を問うのではなく、意識を組み立てている構造を問わなければならない。私達は神様を信じ霊界を信じているけれども、その認識をもたらした私達の意識は通常の意識構造と変わらない。しかし霊界への本当の認識を処理できる可能圏には、通常の意識構造による意識では入って行けない。私達の意識と御父様の意識とはその構造が違うことをはっきり知らなければならない。御父様と同じ意識構造で始めて正しく霊界が認識されるのであり、通常の意識で霊を見ただとか、啓示が降りただとかと言うのは、それをそのまま霊界の事実として捉えるのは間違いであり危険でもある。私達がこの、意識ではなく意識構造に手をつけようとする為には、意識を超えた神秘的領域(宗教的領域)に入っていかなければならない。意識が何かと問うなら、世界を移す鏡が意識だと私は思っている。外的世界を映す鏡であり、内的世界を映す鏡だ。外的世界に関して言えばその形状や色彩、触感や香り、音やリズムといった五感で受け取れるもののみを映しているけれども、それらの外的表象の背後にある霊的本質を映せない鏡であり、内的世界に関して言えば私の心魂の活動、思考や感情や意志衝動といったものは映すけれども、その心魂活動の背後にある霊的本質を映せない鏡だ。外的世界の背後に存在する霊的本質、内的世界の深みに働く霊的本質、そこに踏み込める意識構造とは、見えない本質の正体をつかもうとする断固とした意志を備えた意識だと私は思っている。断固とした意志は、見えない本質が存在すると信じる信仰が問われ、その信仰をもってして諦めずに求め続けると、或る時、目が開く瞬間が現れる。メシヤは意識に於いても革命をもたらす。意識革命に於いても信仰基台、実体基台が必要で、それが備わるとメシヤを迎えて意識革命がもたらされる。

2012年8月7日火曜日

子女に悩む親のひとりとして

み言葉を知りみ旨を受けた立場で、親となり子に対する時に、向かうべき方向性を子に指し示してそれから大きくずれなければ差ほど心労も少ないのだろうが、私の現実は理想家庭からはかけ離れていて、正直受け止めることが難しい。いつかは心を開いてくれる、わかってくれると信じてここまで希望を繋いできた。その兆しでも見えれば少しは安堵の吐息もつけるのだろうけれど、願いと現実の狭間でその余りにもギャップのある両方を支え持つのは息も出来ないほど苦しい。一方を捨ててどちらかにおもねることができればどれ程楽になるだろうと何度思ったことか。しかしみ言葉を否定しみ旨を捨てることができるはずもなく、勿論一方で子供を捨てることができるはずもない。私のような食口がどれほどいるかはわからないが、二世として祝福を受ける数字を見る限り、かなりの祝福家庭が同じ状況にあると思う。親の責任であることは重々承知だけれども、親がどれほど十字架を背負うとしても、現実が手のひらを返したように変わる訳でもない。一世である私はみ旨の道に向かう為にかつて親から離れ、二世である子供は今教会から離れる為に親から離れようとする。辻褄を合せるかのようなその反動的状況では新たな信仰観がどうしても必要になってくる。旧態の信仰観では行き着く先は裁きしか残らないだろう。子の親に対する裁き、責任を果たせない祝福家庭の親としてレッテルを貼られる裁き、或いはこんなに頑張ったのにという神様への裁き、更に周りの兄弟達の視線を裁きのようにも感じてしまうだろう。そこに愛はないし赦しもない。愛として差し出されたものでさえ裁きに受け取ってしまうかも知れない卑屈な状況だ。でもそこにも、愛は浸透されるはずだし赦しも訪ねてくる。そうなるだろうかと不安に思うのは私も同じだが、真の愛の必然としてそうならざるを得ない。殺人鬼をも祝福された御父様だ。最後の最後にそのカードを出して赦しを求めれば御父様も赦さざるを得ない。だからどんな状態であれ赦しは確約され最終的に親子として天国に共に入っていく。しかし問題は今の私の観念、信仰観だ。過去の信仰観と決別し、真の愛と言えるに相応しい信仰観と愛する意志としての実体的歩みを求められている。過去は、愛と言いながら条件的であり、赦しと言いながら律法的だった。教会がそうだと言うのではなく私の意識がそうだった。数字を達成すれば認められ、形だけ整えれば良しとされると思った。しかし子供に真摯に向き合えば愛の実質を問われ、赦し赦されることの痛みも覚える。私達の財産はどれだけ愛の為に涙を流したかであり、愛の切なさを味わったかだ、というみ言葉は、私は思うようにならない自分の子を前に置いた今でこそ実践していることになる。涙が絶えず、切なさで胸が痛い。或る意味、子供が思うようにならないからこそ愛が愛として成り立つ。子供は親の思うようにはならない役目を、家庭に愛を湧き出させ満たせる為に務めているとも言える。これが私の真の愛への道なのだろう。

講演に参加して 2

宗教者らしい、或いは信仰者らしいという独自的なイメージを個としても全体としても持っていて、そのイメージが壊される発言がなされると途端に感情の反発が起こり、そしてその反発心から発言に対する異議としての論理を構成する。今回の理事長の講演ツアーは宗教講演ではないだろう。現実として社会に起こっている事実を原理的裏付けをもって説明され、我々がイメージしている平和理想世界に如何に巧妙にサタンが関与しているかを指し示された。福祉政策も善の繁殖として用いられる場合、それは良しとされるだろうけれど、現実として悪の繁殖のツールとして働いている現状では現民主社会の行政府にサタンが関与していることになる。今回の講演を受けて、平和理想に関するみ言葉が反故になる訳でもないし、直ぐにも銃剣を手にする訳でもない。単細胞の集まりだと食口達を思っているから頭ごなしに反発してくる。確かに平和軍、平和警察として具体的に武器を手にする状況も将来的には有り得ることはその通りだとしても、だからと言って単細胞の集まりのように、何の思考も働かせず全体主義的に動いて行くはずはない。表題は強い韓国だけれども、そのセンセーショナルな表題で大きく関心を引きながら、奪われている自由を復帰することが命題となっている。取りようによっては部分部分を切り取ることでどのようにでも反発できるだろうが、おそらく反発心や異議も十分予想しての発言のはずだ。しかし御父母様が勝利された内的霊的な基盤があればこそ、今でこそ社会にまで下ろした位置で組織としてこう言う声を上げることができる。銃剣を溶かしてすきやくわに変える時だと言われて、その言葉通りにすきやくわを作る者はいないように、銃剣そのものが完全悪でなくすべきだと言われていると捉える者も少ないだろう。武器をなくしても人間身体として拳でも蹴りでも十分武器になる。愛を、ただ右の頬を打たれれば左の頬も差出し的な捉え方だけに留めたり、平和を、全ての武器と言う武器が地上から消え失せた世界と捉えたりと言うのは、具体的な形にすればするほど愛の幻想であり平和の幻想に近い。

2012年8月6日月曜日

今日の想い 437

こんなつもりではなかった、と思う。事ある毎に現実を直視させられ、逃げ場のない感情に溺れながら、こんなつもりではなかったと思う。神様から与えられるであろう期待が裏切られたと取るのか、あるいは逆に神様に捧げなければならない私への期待を裏切ってしまったと受け取るのか、おそらく私の寂しくも惨めな感情は、貰えるはずだと思っている前者としての受け身的な私だろう。しかし、後者の位置に立たなければ私は私の中で神様から見捨てられた者として完結させてしまう。内面において失敗の烙印を私自身がおした形になる。逃げ場のない感情に溺れそうになり、どうにも、顔を落とし視線を落として崩れ折れそうになる時、その時こそ私はサタンに試されている。感情において試されている。御父様の心情に繋がる魂の糸がしっかり絆として結ばれているのか、或いは糸の切れた凧のように個人的感情に翻弄されるのか、両者のはざ間で試されている。個人的な感情を主管し、どれほど愛の減少感、やるせない思い、泣き喚きたい衝動に駆られるとしても、私は御父様の息子であることを自らに断言して言い聞かせ、辛くてもしんどくても顔を上げ、空を仰ぎ、背筋を反らして、先ず一歩を踏み出す。そして敢えて天に向かってこう言う。御父様、どうぞ私を見ていてください。他人の目にどう映るか気にすることはない。他人の心ない言葉に左右される必要もない。こういう時こそ私は私だ。私には私の通過すべき心情地点があって、他人から見れば回り道らしい道を歩んでいる。もし過去を教訓とするのではなく過去に引き摺られて感情の海を時化(しけ)さすなら、それは悪神の業だ。善神は過去を材料に感情を弄ぶことはしない。ひたすら今の現状を明日の希望に繋げる為に働きかける。この世に生まれ落ちて、あらゆる寂しい境遇を渡り歩くとしても、寂しさを食べ続ける使命を帯びて生まれた以上、その使命に殉じることが天の願いでもあり、私の本質もそう願って生きているはずだ。こんなつもりではなかったと表面的には思えても、実はこんなつもりだった。さらにどんなに悲惨な人生でも、そうであればあるほど御父様の心情圏に近いはずだ。御父様ほど悲惨な人生を歩まれた方はいないだろう。私達はその意味で苦労が感謝であり、苦労が歓びだ。苦しい思いを甘受しながら、重いものを背負いながら、私は常に御父様と共にあるという誇りで生きている。誇りで生きれば精神が立つ。

2012年8月3日金曜日

講演に参加して

私達がイメージする理想世界から本来願われる理想世界のイメージに向かうように、認識の方向性を示されたのが今回のSTRONG KOREA、STRONG ABELの講演ツアーだと私は思った。蒸し暑かった一日を終えて開演時間に合わせて家を出たが、会場に着いた頃は、夕方からの風が湿った大気を追いやったようで、気温は下がって過し易くなっていた。正直に言うと、長い間ワシントンに居ながら、TIMESの建物の中に入ったのは初めてだった。ボールルームは600~700人くらいの容量だと目算したが、用意された席は全て満たされ講演者を迎えた。アメリカ人受けのいい、理事長独特の落ち着きと説得力で会場は主管された。無理に粉飾された演出もなく、質素ではあるが知的な雰囲気に包まれ、一時間に凝縮された深い内容を力説された。お話の中でもっともユニークだと思われたのは、御父様が神様の位置であり、人類の半分がアダムの位置そして残り半分がエバの位置であるから、歴史の必然として天使長がいなければならないが、それが民主主義政府だと話される。確かに行政に与る者をPUBRIC SERVANTとは言う。天使長は僕の位置であるから確かに言い得ていて、そうであるなら国に扶養援助を受けている多くの食口達は知らないうちに天使長の助けを得ていると言うことになるだろう。自由であるべき私達は、生活扶助や年金、社会福祉サービスそして法と警察権力による保護を行政府から受けながら、無意識のうちに飼い殺し状態に慣らされてしまって、自由であると信じ込まされているだけであって本来の自由を受け取れずにいる。与えられるままを受けて喜び、飼い殺し状態にある民主社会に比べて、理想的社会、理想的国家とは、受身的立場ではなく能動的立場で自由に立つ社会、国家だろう。自由に立つとは競争できる社会環境でもあるはずで、自由社会で善の競争を為していくべきだ。それでこそ自由意志を発揮した能動的人生に違いない。それを思うと、私は祝福を受けた、私は祝福家庭だと思っているだけで安心している受身的意識も、民主社会で受身的に与えられるものを受け取って喜んでいる意識と同じだろう。個性完成への競争、(子女)伝道や善の繁殖への競争、質的にも量的にもより万物を主管していく競争、それでこそ、祝福を受けたことだけで満足するのではなく、見せる実績や私という実体を通して祝福を証し出来るはずだ。祝福を受けた時点で満足したままでは、三大祝福は受け取れない。