2008年12月30日火曜日
太陽存在
久しぶりの晴天を仰ぎ見た。直視すれば眩しい太陽光も、夏の盛りの成長力溢れるそれとは明らかに異なり、安らぎを含んで届く。物質的なことのみに関心を向ければ、太陽の光と熱の恵みは植物の成長を促し、地上の全ての存在がそれを通して生命の恩恵を受ける。しかし人間存在としての価値が肉体に包まれた内的内容にあるように、太陽存在の価値も物質的な光や熱に包まれた太陽存在の内的霊的内容にあり、地上存在、特に人間存在は光や熱を纏ってやってくる太陽の霊的内容を受け取っている。太陽を輝く或いは燃えるガス体と認識することは、地上のみの情況にしか当てはまらない事柄を地上外の情況に転用した、即ち天宙という地上天上を踏まえた上での認識とは大きく異なる。太陽は明らかに霊的存在だ。内なる太陽であるところのひとりひとりの自我の起因となる太陽存在だ。太陽が生命体活動の基であるように、自我が魂の活動の基である。太陽の霊的存在と自我とは密接に関係している。地上の生の間のみ太陽は必要存在なのでなく、この肉体を脱いでも必要であるどころか太陽存在があるから自分は自分であるという自我意識を持てる。御父様が語られた内容、事故が起きた後に深く悟った内容は、太陽も真の父母の血族であるということ、という意味は霊的存在としての太陽存在との関係性に触れられたものであることは間違いない。その深いイメージ認識に至らないまでも、限りなく与え届けられる光を受けながら、太陽の霊的存在がもたらす受け取れないほどの溢れる愛を、意識して感受できる自分となる。無意識の内に届けられ受け取るものへの意識と関心が、生きる事の意味と生かされていることへの実感をもたらす。意識しなかったものを意識する時、やっと眠りを終えた人間として目覚め始める。
2008年12月29日月曜日
み言に対する姿勢
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。(ヨハネによる福音書1:1~5)
聖書は霊的書物であるから毒された人間思考(唯物的思考)を持って理解する事はできない。論理で理解しようとするそれ自体が聖書に対する態度ではない。他の福音書は同じ事柄を同じ方法で語っているが、それに比べヨハネの福音書は全く違う述べ方をしている。特に冒頭のこのくだりから始まる内容は論理に耐えられるもののみを受け取る現代人には理解を超える内容に違いない。言は神だと言われて、言に対して持つイメージや概念と、神に対して持つイメージや概念とを照合させようとする。先ずこの唯物的イメージや概念を捨て去らないと聖書の言葉を受け取ることはできない。極左主義などの危険思想と思っている唯物論は唯物論の最終段階に過ぎない。現代人の殆どは唯物的眼鏡をかけている。言葉には力がある。言葉は生きている(命がある)。言葉は神である。これらを理解するには物質を超えるもの、感覚を超えるものへのまなざしを取り戻す必要がある。高みにある存在に対する畏れ、畏怖を覚えることを学んだ者がそのまなざしを取り戻せる。御父様のみ言を受けて、神の理想に対する熱い想いを受け取らないのであれば、み言を受けいれたとは言えない。み言を受けて、御父様の理想に対する熱い想いが自分に伝わってこないなら、同じ言葉を受け取る共鳴圏にない。次元がずれている。御父様が感じておられる同じ熱を自分の中に少しでも実感できる自分であってこそ、本来の在り方に近いだろうし、自分の中にそれが見出せないなら、理想熱の欠如に対して、御父様の心情圏から疎外されている悲しみや悔しさを覚えるものになることが、悔い改めの衝動を発する。そこが信仰の原点だろう。高みにある存在(神様)に対する畏怖の念と御父母様に対する悔い改めの心情は、霊的内的に見るなら同義語とは言えないまでも似通った在り様だ。平安な日々に埋没することで、そういった感情を持たないとするなら御父母様と何の関係があるだろう。死の門を超えたとき、受けた祝福が恨みとなる。
聖書は霊的書物であるから毒された人間思考(唯物的思考)を持って理解する事はできない。論理で理解しようとするそれ自体が聖書に対する態度ではない。他の福音書は同じ事柄を同じ方法で語っているが、それに比べヨハネの福音書は全く違う述べ方をしている。特に冒頭のこのくだりから始まる内容は論理に耐えられるもののみを受け取る現代人には理解を超える内容に違いない。言は神だと言われて、言に対して持つイメージや概念と、神に対して持つイメージや概念とを照合させようとする。先ずこの唯物的イメージや概念を捨て去らないと聖書の言葉を受け取ることはできない。極左主義などの危険思想と思っている唯物論は唯物論の最終段階に過ぎない。現代人の殆どは唯物的眼鏡をかけている。言葉には力がある。言葉は生きている(命がある)。言葉は神である。これらを理解するには物質を超えるもの、感覚を超えるものへのまなざしを取り戻す必要がある。高みにある存在に対する畏れ、畏怖を覚えることを学んだ者がそのまなざしを取り戻せる。御父様のみ言を受けて、神の理想に対する熱い想いを受け取らないのであれば、み言を受けいれたとは言えない。み言を受けて、御父様の理想に対する熱い想いが自分に伝わってこないなら、同じ言葉を受け取る共鳴圏にない。次元がずれている。御父様が感じておられる同じ熱を自分の中に少しでも実感できる自分であってこそ、本来の在り方に近いだろうし、自分の中にそれが見出せないなら、理想熱の欠如に対して、御父様の心情圏から疎外されている悲しみや悔しさを覚えるものになることが、悔い改めの衝動を発する。そこが信仰の原点だろう。高みにある存在(神様)に対する畏怖の念と御父母様に対する悔い改めの心情は、霊的内的に見るなら同義語とは言えないまでも似通った在り様だ。平安な日々に埋没することで、そういった感情を持たないとするなら御父母様と何の関係があるだろう。死の門を超えたとき、受けた祝福が恨みとなる。
正月
アメリカにいるから特にそう思うのかも知れないが、年を送って新年を迎えるという感慨を持たなくなって久しい。かつてのような暮と正月の明らかな空気の違いは、日本にいたとしてもここ最近受け取ることは無いように思う。昔は正月でなければ口にできなかったものも、いまどきいつだって手に入る。夜型人間や社会の中で12時を過ぎて起きているのも普通である。昔の子供であれば、普通夜9時を過ぎて起きていれば注意されたし、もよおして夜半過ぎに目を覚まそうものなら、静まり返った暗闇にさまよう幽霊が、自分が目覚めて意識のあるのを感じ取るのではないかと、無理にでも寝入ろうとした。お化けに会わずに目を開けて0時を超えられるのは大晦日のみなのだ。暮には父と祖父は臼と杵を納屋から運び出して手入れをし、母は朝早くからかまどに仕掛けた幾段もの蒸篭でもち米を蒸す。子供達は蒸篭から立ち上る周りが霞むほどの蒸気の甘い匂いにつられて起こされる。つき上がったもちを米粉が敷かれたまな板代わりの戸板に伸ばされ、手早くちぎられた熱いもちを、手の平を赤く熱くしながら捏ねて形にした感触を覚えている。特に御節のような幾品もの立派な正月料理を用意していたわけではないが、千切りの大根と人参に鯖が刻まれたナマスと、和え物煮物が添えられ、それにもちが加われば、それだけでも日常の漬物だけの食事に比べれば充分目を見張るご馳走だった。11時を回ると除夜の鐘の音がゆっくりと一つ一つ届き、古時計の長針を何度も見上げながら、静まり返った中にも高揚感を益々強くしていく。そして0時を超えると父も母も祖父も、暗いトンネルを抜け出たように晴れ晴れとした様相で、新年の挨拶を交わす。一年間の重荷を一瞬で取り払われ、真新しい一年という真っ白な紙を頂いた空気感。新年に対する希望であるとか期待であるとかの感情もあるのだろうけど、それ以上に一年の罪煩悩を取り払われ、民族神霊の高みにみまうことが許される、日本民族の宗教儀式としての霊的感慨を正月に受け取ることができる。正月の慶びはそこにある宗教的なものだ。三が日は親戚を年始周りして馳走を頂き、夜遅くまでカルタを皆で興じたりする。それが楽しくて学校に上がる頃には既に百人一首は諳んじ覚えていた。昔は雪の積もり始める時期も早く、正月の夕暮れ、吹雪の中を父に背負われて家族皆で年始参りに行ったものだ。ひとやま超えてだんだんと親戚の家の明かりが近くなって来るのを、ワクワクしながら雪降る簾の先に見ていた。子供の目に映ったその幻想的情景を今でもはっきりと覚えている。
2008年12月27日土曜日
今日の想い 35
今日一日の経験の中で、内的霊的に学習した内容が自分の中に新たに築かれ、肉体が成長して筋力が増すように、霊人体の瑞々しさや力強さが備わっているだろうか。堕落人間であることの一つに他への関心の無さがある。関心が無いと言う事は、そこに自分との関連性を認めないという意味だ。わざわざ他人に関わって乱されるであろう感情を持つ事への怠惰がある。現代人は自然との関わりが希薄な文明を生きている。肉体の快適さを追求することは、自然からの影響や刺激を和らげ果ては無くすことになる。現代人に取っての自然は額縁に納まっている絵と何ら変わりは無い。本来、自然の中にこそ感情は溢れているが、窓を隔てていればそれを受け取ることは無い。様々な感情表現としての照りつける太陽であったり暖かな日差しであったり、或いは吹きすさぶ風雨であったり優しいそよ風であったり、自然の中に身を投じることで宇宙に溢れる感情をこの身に浸透できる。自然に身を曝すことで霊性溢れる瑞々しい色合い溢れる感情魂に育つ。自然という宇宙の懐に抱かれる事に遠ざかると、他を思いやる感情に欠如する。他への関心を開かない固く閉ざされた乾燥魂は、自分の事ですら無関心を装う。そこには何の色合いも無く、灰色の荒んだ世界がどこまでも続く。一日を終えて目を閉じ、今日の感情の流れを追いながら、自分の魂の様相を見れば、自然や人との触れ合いの中から受け取ったものを見出せる。益々関係を深める事で魂が活き活きと色合い深く彩られ、霊界の高みから旋律が醸し出されるのを受け取る。目の前にある人の喜ぶのを見ながらその人以上に喜び笑い、悲しみに触れるときその人が訝るほどに涙を流す。溢れる感情のままに笑うに忙しく泣くに忙しい。その場に魂の渇きを覚える人が集まらないことがあるだろうか。
2008年12月24日水曜日
今日の想い 34
地上界に於いて鉱物界植物界動物界人間界と位階が存在するように、霊界に於いても確実に位階が存在する。人間、堕落によって天使万物にも劣る存在に成り下がったが、天使であれ大天使であれ位置する霊的位階は、その場にあるべきことを約束されて、即ち自動的にその位階に立った存在である。それに対して人間は自由意志をもって位階を上り詰めていく事ができる存在なのだ。その意味で人間は責任分担を与えられた神様の子女として存在している。自由意志を所有する意味は、上り詰めていく事もできる反面、けだもの以下に転がり落ちる事もありうる。事実、自由意志をして精神の高みに向かう魂の在り様を捨て、安易な魅力に絆されて堕落してしまった。そして堕落様相からの復帰摂理の全ての路程に於いても、救いに至るかどうかは人間の自由意志に任されてきた。その結果が救世主を迎えるまでの気の遠くなるような路程であり、更に自由意志によって人類は救世主に対する不信を選ぶことで更なる二千年を待つ事になった。堕落した人間に取って神との直接的関係を持つ事はできない。神と一問一答できると言う者がいるなら、それは何か他の霊的存在で神ではない。神様と出会おうとするなら、神様までの位階を一段一段登りつめながら精神の高みを目指す必要がある。転がり落ちた堕落人間に取っては気の遠くなる話なのだ。しかし私達は今、奇跡を目の当たりにしている。どれほど精神修養をしても神に届く事は不可能な立場でありながら、神様を目の当たりにしている。しかも我々の次元に降りてくださり人間と同じように肉体を纏っておられる。同じ空間と同じ時間を過ごしている。我々は御父母様の中に神様を見ることができるのだ。神様の理想を、神様の痛みを、神様の心労を、神様の悲しみを、神様の喜びを、神様の愛を、神様の全てを見ることができる。御父母様を想うことが神様を想うことであり、御父母様に侍ることが神様に侍ることであり、御父母様の御前にこの身を供える事ができれば神様御自身に吸収され神様と混然一体となれる。生も死も、病みも老いも、貧も富も、それらは御父母様を想い侍り犠牲になることに何の支障も来たさない。もはや肉体にまつわる事柄は御父母様を前にしてどうでもいいほどに影を薄める。御父母様へ向かう事の感謝と喜びで全ては凌駕される。
復活現象
復活は人間が堕落によってもたらされた死、すなわちサタンの主管圏内に落ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復帰されていく、その過程的な現象を意味するのである。したがって、罪を悔い改めて、昨日の自分より今日の自分が少しでも善に変わるとすれば、我々はそれだけ復活した事になる。(復活論、復活の意義より)
肉体を纏い、感覚世界に於いて鉱物界植物界動物界に身を置いているように、霊人体は天使存在と接触を持っている。意識するしないに関わらず、人間の霊的成長に取って天使存在は必然の存在だ。天使存在は、神界天使界の階級段階を下りながらもたらされる神様の願いの一片を受け取りながら、理想世界理想郷へのビジョンを人間にもたらす。要するにそれが天の使いという意味だ。人間の良心に受け取ったビジョンに合わせる形で理想世界は築かれていく。個人に於いては良心に受け取ったビジョンに合わせて、人格完成が為されていく。天使が神様のビジョンを人間にもたらすように、人間が獲得したものを天使を通して霊界神界に届ける。肉体を纏い地上界での経験を通しながら愛の存在として内的霊的に獲得されたもので、自分が住まう霊界様相を天使が築いていく。自分がこの世に生まれ出でた意味は大きい。人生の意味が解らず、或いは知ろうとせず一生を終える者が殆どであるけれど、それは眠りについたまま覚醒することなく人生を無駄に過ごしていると言う事だ。本来の人間としての意識が発動されていない。今日を生き永らえることが意味のあることでなく、今日を生きて何を獲得し何を天使に委ねたのかが問われる。天使は霊的存在として肉体という物質に直接的に働きかける事はない。人間、肉体的に目覚めている間は意識は地上界に浸透していて天使が入り込む余地は余り無い。地上界での経験を通してどれ程内的霊的な事柄、愛に関する深み等、物質を越えた実りを刈り入れる意識と意志を持つ事が目覚めている事の意味だ。眠りについて意識を外す時、刈り入れたものを天使が受け取ろうと待ち構えている。より多くをもたらせばもたらすほど、天使存在との関係は親密になる。そうなると天使がもたらす神様のビジョンも、より強い形で届けられる。昨日の自分と今日の自分を比べてみてより善の想いを少しでも強くするなら、或いは半時先には一歩でもより善なる在り様に近づこうとする意志を持つなら、それだけ復活したと言え、その分天使からのビジョンもはっきりしたものとなり自分の理想像をはっきりと認められるようになる。どれ程小さな一歩であってもそれを重ねる事で、思考にしろ行動にしろ善への意識的なものとして人間様相に表れてくる。
2008年12月18日木曜日
魚釣り
御父様が魚釣りの名人であるなら弟子としてその極意を学び、この、人の世という大海で魚ならぬ人間を釣ることが御父様の願いに応える者としての務めだろう。むやみやたらに糸を垂らしても簡単には食いつかないし、時間の浪費になるのが関の山だ。万物復帰だ伝道だと言われながら、とにかく飛び出し飛び込むことしか能が無い段階は当の昔に卒業していなければならない。にも拘らず相変わらず、旧態依然の遣り方しか思い浮かばないとするなら、修練訓練として設けるならまだしも、それを天の願う方法だと固執するのは知情意を備えた人間としてはどうだろう。何もしないよりはましだと言われれば納得もするが、それを信仰であり侍ることだと言うなら、その中に自分は信仰生活をしているという自己満足的な要素があるのではないだろうかと問いたい。人の世のうねりの中で伝道するにしても或いは経済という大海で財物復帰するにも、人情の機微を深く研究する必要もあり、ビジネスの道理も人一倍研究する必要がある。人の世としてどの様な事に皆の関心があり、どういう情の流れ、価値基準の在り様、気持ちの向く先等を大海の潮の流れのように捉え見据える事が必要だ。潮の流れを読める者でこそ大漁にありつける。更に人間皆平等と言えども多種多様な中から、どのようなクラスにターゲットを当てるのかで漁場も漁の方法も変わってくる。悲しいかな圧倒的に食口は雑魚の部類に入ると思う。自分も雑魚だが自分と自分の周りだけがそうではないだろう。雑魚は雑魚のことしか解らない。雑魚を卒業しないと、この世の多くは我々の一段も二段も上に位置する中級上級魚だ。今、自分も三十年もの歳月を踏んで、その間、人の世の在り様や価値観は大きく変わってきている。その間、決して堕落要素だけが突出し、陰惨な事件に見られるような様相だけが表面に表れている訳ではない。若い人の外的在り様を見る限り、明らかに美形も多くなったしスマートな頭脳回転も見られる。その基準を超えない限り、釣るどころか逆に釣られてしまうか相手にもされない。教会は教会として、家庭は家庭として、そしてそれぞれの信仰も新しいステージにステップアップする時であり、真の愛、真の父母に対する理解を新しい次元の意識として、意識の生まれ変わりを図り、新しい価値観、新しいシステムでこの世を大きく凌駕し刺激し教育していく事ができる真の愛の群れとなる。
2008年12月16日火曜日
今日の想い 33
田んぼに水を引く為に幅一尺から一尺半の水路が廻らされている。三枚四枚ごとの田に水を配る為に何本かの支流に分かれる訳だが、支流の多い分け目はある程度の深みを持たせて容量を大きくしておかないと水の届かない所がでたり、水が行き渡るのに時間の差が出たりする。実はこの深みが実にいい魚捕りのポイントで、小さい頃よく魚を捕って遊んだものだ。所詮用水路だからフナやハエ、ゴキにザリガニぐらいのものだが、ざる一つで面白いように獲れた。結構な山椒魚まで掬い上げたのを覚えている。鮎や山女と言った清流に棲むような上品な魚ではないので、別に捕って食うわけじゃないから、小さい魚をバケツ一杯になるほど捕ってそのまま忘れ呆けてしまい、叔父によく怒られた。子供の時分というのは結構な残酷さを持っている。叔父は生き物に対する殺生を指摘するのだが、怒られるから悪い事だとは認識しても、殺生自体に対する罪悪感はあまり無かったりする。診療所の裏に木箱に廃棄された医療用具から注射器を取り出して、友達と遊んだこともあった。田んぼに幾らでもいる蛙を集めて注射針で空気を腹に注入し、裏手の川に、注入したはしから流した。白い腹を膨らませてぶつかりながら川面を流れていく様が今も思い浮かぶ。あのおびただしい数の蛙はどうなったのだろうか。桃太郎の桃ではないが、白い生々しいものが幾らも流れていく様を畑作業していた者が見て驚いたのだろう。すぐさま村中広まってしまい、悪さがばれてこっぴどく怒られた。さすがにその夜の寝付きは悪かったが、遊んでいるうちは楽しかった。別に自分に限った事でなく、誰もが子供の時分はある程度の残酷さを持っていると思う。胎中の様子も人間の進化路程であるように、人間が辿ってきた一つの魂の段階の初期に於ける残酷性を持っている。けっして神から来るものだけでない衝動を併せ持っている。平和を望みながらも戦争に突入する時高揚感を覚えたり、自分に降りかかるのを極端に避けながら、周りの人に降りかかるのには痛みを感じない自分がいたりする。こと自分や家族に関することには涙を流しながらも、他人事であれば心の隅でほくそ笑むという醜くも惨めな存在だ。子供の頃の純粋さをキープしながらも残酷な影の部分を乗り越えながら、生きて関係を持つ人々に対する思い遣りの気持ちや同じ兄弟としての友愛、年長に対しては親や祖父母に対する感情、年若い者には自分の子に願う想いと同じ想いを強くしていく。年を重ねるに従ってそういった想いをより強くしていくのが、人間としてのあるべき成長だと思う。それが人間として生まれた者の責務だと思う。今年と言う一年も終わろうとしている。此の一年どれだけの内的霊的成長を自分に見ることができたか。
2008年12月13日土曜日
今日の想い 32
ひもじい思いだけはしなかったが、貧しい中で育ったから、周りと比べて恥ずかしい思いはしてきた。日の丸弁当を見られるのが嫌で、皆から離れて、腕で囲うようにしながらそそくさと昼飯は済ませた。田舎だからそう立派な弁当を持参してくる者がいたわけではないが、卵焼きの匂いやら揚げ物の匂いのする弁当を広げて食べる横で箸を進めるには、皆の視線が気になった。ランドセルも小学校に入る時に買っては貰ったが、皆と比べると、持ちが非常に悪く、三年生になるころにはボロボロで使えなかった。その後はずっと風呂敷に包んで通学していた。一番困ったのが傷があちこちに入った長靴だった。雪国だったので冬場は長靴で学校に通う。学校は家から近かったので、靴の傷口から雪が侵入しても溶ける前に着く。しかし体操時間となると必ず屋外でサッカーだったりスキーだったりで、長時間外にいないといけない。スキーも今見るような上等なものじゃなく、スキー板にかんじきをつけたような代物で、長靴にくくり付けて滑った。二時間近く外に出ていると侵入してきた雪が溶け、靴下に浸みて足を氷水に漬けたような状態になる。これには耐えられなかった。冷たいのを通り越して痛かった。足の感覚が無くなって来ると今度は痛みが頭にくる。気が小さく、言いたい事が言えない自分はそれでも耐えるしかなかった。何とか工夫して破れ靴下を重ねたり、長靴の中にビニール袋を入れてみたり、逆に裸足で長靴を履いて濡れるたびにタオルで拭いてみたりと、いろんな事をやって見たが功を為さなかった。それでも新しい長靴を買って欲しいとは言えなかった。弟とは少し年かさも離れていて、弟が学校に通う頃には幾らか商売も回り始めたのか、自分の事はしっかり要求する性格もあって弟には結構それなりの事はしてやっていたようだが、可愛そうに思ったのは妹だった。同じように日の丸弁当を持たされ、私のお下がりで大抵の物は賄ったから穴の開いた靴下しかなく、長靴だって穴は開いていた。女の子だけに自分以上に恥ずかしい思いや嫌な思いをしたと思う。明るい性格ではあったけれど家に余裕が無いのは解っていて、金のかかることはいっさい口にしなかった。その当時の妹への不憫な想いは今でも時折思い出される。教会に通い始めてみ言葉に対する感動を最初に伝えたかったのは妹だったが、献身生活を始めると私的な時間も更には心の余裕もその内消え失せて、妹を伝道するには時間も無かったし躊躇もした。軍隊生活のような当時を恨む想いは無いが、み言葉に対する感動が、心からみ言葉を伝えたいと言う思いに育ち始めた頃、それが出来る内外の環境にはなり得なかったのかと言う思いがどうしてもある。伝道への衝動が今一度湧き上がる日を望むのは、可笑しな話なのだろうか。
2008年12月11日木曜日
今日の想い 31
毎年此の頃になると通りも店もいろんなオーナメントで飾りつけられ、クリスマスソングが響き、日が暮れるとそれぞれに趣向を凝らしたイルミネーションが家々の輪郭を点滅させる。しかし此のたびほどそう言った事が似つかわしくない、どこか空々しい感覚や雰囲気が蔓延することはかつて無かった。確かに買い物客もそれなりに出かけているのだろう。メインストリートもそれなりに混んではいる。しかし暗く沈んだ空気はどうにも無視しようがない。明らかに霊的な空模様、天候が一変した。人々の内的模様が沈んでいる状態で、どのように販売促進を行ったとしても、それに値する成果を得る事などない。既存店舗の全てに於いて売上が下がる傾向にありながら、売上を上げることに躍起になっても決して良い結果は望めないだろう。悲観論に終始する立場で言っているのではないが、売り上げを上げる事がどういう意味があるのかを考える必要がある。ビジネスとして売上追求、利益追求は宿命だと言い切ることもできるが、ビジネスである前にみ旨として、或いはそのような物言いが大げさであるなら、単に幸せを願う人と人との遣り取りを考えた時に、店であれば商品、レストランであれば食事を介して提供する側は何を与える事ができるか、何を与えたいか。商品を与えるのみ食事を提供するのみという認識では客は来ないだろう。プラスαとして考えるのでなく、それを主体として、そして提供するものを対象として考える。自分は何を与える事ができるのだろう、更に、何を与えたいのだろう、という質問がキーワードになる。受けることを先ず捨てて与えてこそ、原理が正しいなら与える存在、為に生きる存在でこそ、その存在は枯れる事がない。存続させる為の受けるものを得る事が出来るはずだ。子供だましでない本当の必要存在であってこそ存続できる。
2008年12月9日火曜日
今日の想い 30
人間は霊の存在である。自分の霊の在り様がわからず、彷徨っているのが堕落人間の姿だ。人間誰もが死を迎える。この肉体を脱ぎ、霊の身体で霊の世界に赴く。しかしこの地上を霊界と区別するけれど、肉体も、全ての物質存在も、霊の表れに過ぎない。自分が霊の存在であり又その霊の在り様が見えないように、流れ行く時間にどの様に霊が働いているか、物質の生成に、民族や国の成り立ちに、政治や経済の動向に、それら全てのこの世の事柄に霊がどう関わっているのかを見ることができない。五感に受け取る表面的な輪郭のみを判断材料にしている。霊を物質に凝縮されているものを私達は五感で受け取っている。念ずる事、即ち精神力で思いを実体化できることが霊の凝縮であることの証だろう。祈りが通じることを理解しようと思えば、その認識に立つことが必要だ。ひとつの願いとしてのイメージを持ったら、思いを強く強くしながら、必ず成し遂げるという絶対的想いに裏付けされて、実体化される。実体化されてこの物質世界に存在している全てのもの、すべての技術やシステム、それらの事柄は人間を含めた霊的存在の想いで物質世界に形成されたものだ。即ち全ての事柄にそれ足らしめる霊的存在の想いがある。夢があり理想があり願いがあり、そしてイメージがある。大きくは宇宙から、周りに転がる石ころまで、更には人間一個一個の在り様に至るまで熱い想いが根底となって存在している。しかし神から来る熱い想いと相まって、偽りの神として関与したこの世の神の想いも人間存在に関わる事柄には複雑に絡まっている。生きるに霊が関与し、幸不幸に霊が関与し、貧富に霊が関与し、成功失敗に霊が関与する。病に関与し、男女に関与し、体型や性質に関与する。お化けが見えたり聞こえたりできるのが霊的感性を研ぎ澄ます事ではなく、背後の想いや或いは逆の方向にある恨みを感じ取ろうとして感受できることを言う。人に見えない霊的存在が簡単に見えたり聞こえたりするのは低次元霊視ともいえるが霊障であって霊に犯され易いとも言える。正しく認識し、正しい価値観を備える。人間として神から付与された創造性は、自らの霊性を喚起することで初めて価値あるものとして産み出される。今置かれた環境がどのようであっても、そこを自分の住まい居所そして天国として創造していく霊的力を人間は備えられている。
今日の想い 29
御父母様が時として吐露される、誰も理解できない御父母様としての孤独な在り様。年を重ねられて、以前には無かった涙される姿を見せられ、周りの人や責任者は戸惑う。我々には立ち入る事ができない神様と御父母様の世界が、そこに厳然とある。この堕落世界に肉体を纏い生きること自体が御父母様にとっては言いようの無い苦痛を受けることなのだろう。生きることそのものが御父母様に取っては犠牲なのだろう。どれほど御父母様に歩み要ろうとしても、どうにも後ずさるを得ないものを自分自身に見る。堕落の末裔としてこの世に存在する自分は、受ける全ての苦労や痛みが、その罪ゆえであることを理解している。自業自得のカルマがそうさせているのであり、今の堕落の在り様を選んだのであり、あらゆる汚い自分の在り様を曝し生きることに没頭している。しかしイエス様がそうであったように、御父母様は堕落の血統圏外からこの堕落論理で動いている堕落世界に足を踏み入れられ、汚らわしい汚物に塗れながらその使命を全うされようとされている。あらゆる堕落感情が悪臭を放ち、陥れようとするあらゆる欺瞞存在に傷つけられ、全身創痍で息も絶え絶えに、いつ事切れるか解らない様相を辛うじて維持されながら、まさしく生きて十字架を背負われ更に十字架に架かられ、その在り様を肉体の背後に隠されながら歩んでおられる。イエス様がそうであるように、全く謂れの無い、晴らす必要の全く無い、堕落人間とは根本的に違う、神様に直結している自我の存在でありながら、無実の罪を、それも全人類の大罪を背負い、その罪を責められる立場で、それを晴らすべく歩んでおられる。我々堕落人間に想像だにできない、暗黒の絶壁であり氷壁に、真っ裸で取り残される孤独の魂として、如何ばかりの心情路程であるのか。どれほど祈り求めようとも、御父母様の内面は解りようも無い。どれほど深く掘り下げても、深く深く想いを尋ねれば尋ねるほど益々、その想いの更に深みにあるのを悟らされるのみだ。御父母様の御魂に会いたいとすれば、どのようにでも御父母様との関係性を深めたい。み言葉の一つ一つに尋ね、み旨に対する想いに尋ね、その表情に尋ね、小さな目に輝くその光に尋ね、ほとばしる涙と、流れ出る鼻水よだれを気にも留めず、神様に言葉をかけられるその祈りに尋ねる。近くによって無視されようが激しく怒られようが、何らかの関わりが持てればそれを良しとし、御父母様の願われる事に魂をかけて応えたいと思い、今日に物乞いを願われるなら物乞いとなり、明日に死ねと言われれば野垂れ死も辞さない。この身がどうなろうとも、この小さい魂に御父母様の御魂が尋ねてくださるその時こそ、この自我が開放される時であり、報われる時である。
2008年12月8日月曜日
今日の想い 28
人間の魂の深みに位置する、本当の自我という神から来たものを、どれ程傷つけ、どれ程弄んでいるかを認識しない限り、御父様が語られる心と身体の戦いを理解する事はできない。消え入りそうな自我の在り様そのものが、神様の在り様と言える。人間存在が人間形態の発達と共に深く結びつき、肉体を纏う事で、自我存在である事を忘れているどころか、霊的存在であることすら理解できない今の在り様になってしまった。獣と交配したに等しい堕落事件は、自我を陵辱した行為そのものであり、辱めた当の存在を自我に絡めているのであり、その悪魔的存在や悪魔的在り様から来るものに、魂も肉体も翻弄されながらも、それが自らを弄ぶ元凶であることが認識できず、それを良しとして今日まで延々と生を繋ぎ、救われぬ魂が幾度も幾度も受肉され生まれ変わってきた。霊的無知とは、霊界や霊の存在に対する無知を言うけれど、それ以上に弄ばれ捨て去られる魂の嘆き、魂の痛み、魂の恨みを見ることができない事を言う。自分に対する想い、目の前の人間に対する感情はその殆どが消え入りそうな自我に巣食う、絡んだ悪魔的存在の思いである。目の前の人間は他人と思えば遣り過ごすこともできるが、相対者として宛がわれ、一生永遠の伴侶として天の前に誓いを立てたとなると、否が応でも真正面から沸き起こる感情に対処せざるを得ない。いきり立つ感情そのものを、原因は相手にあり、相手の不条理によって自分そのものから湧き出るものと言う認識を超えることができず、その感情の出所を掴み羽交い絞めするに至らなければ、相対者と一つになる夫婦一体となることなど難しい。いきり立つ感情も、或いは逆に恋愛的感情も、自我を起点としたものでなく、自我に巣食う悪魔的存在、悪魔的在り様に端を発している。その認識を得るためには、樹海を彷徨いながらも魂の奥深くに分け入っていかない限り、その正体を暴く事はできない。主管できない感情を自分とは違う別様の獣でも見るような内的客観性、即ちみ言葉の剣による分別を備えたものとなる。その感情を超えて、与える事愛する事を本質とした本来の自我こそ自分である、この魂であると悟り、感情を押し殺す事に躍起になることが問題ではなく、本来の魂から来る愛する意志を偽りの感情故に抹殺していることが問題なのだ。
2008年12月5日金曜日
今日の想い 27
イエスと弟子達の一連の時間的流れを見ながら、御父母様と祝福を与ったものとの状況を考察する事ができる。食口と自認する者達がどのように御父母様を受け入れているか。講論に目を通せば、かつてのどの宗教書にも見出せない、その論理性と表現性を持ってはいるが、我々の内どれだけの者がその内容に感化されてやってきたかと言うと、自分を含めて甚だ疑わしい。み言葉に触れ教会に触れているうちに引き寄せられてしまったと言うのが正直なところだろう。悩みの中にあって真実を求めた者も中にはいるだろう。自分もそのひとりとは思うが、別の宗教なり思想に触れていれば肌の合いそうなところに落ち着くだろうし、別にここで無ければならないと言うほどのものでも無かった様にも思う。ペテロが人を捕る漁師にしてあげようと言われてほいほい付いていったのと同じように、天国は三年でできると言われて付いてきた、誰も彼もそんなところだろう。明かなのは自分が求めた条件で来た道でなく、真の父母からくる条件でもって仮聖徒としての位置を与えられたと言う事だ。み言葉の意味するところ、真の父母の価値の本質が解らずに付いてきている。では我々が本当の意味で天の願い、真の父母の勝利された内容を相続できる日はいつなのか。聖霊降臨がなされたように竹でも割ったような在り様で堕落様相から一転して完成復活様相に様変わりする日を見るのはいつなのか。遅々とした成長の今の自分の現状を見る限り、み言葉の在り様に自分を高めていこうと思えば一度の人生では足りない。御父母様の備えられた自我、魂の在り様に皆がなれるとすれば、それはイエスが肉体を脱がれて霊的存在としてあまねく人々に下っていったような事柄がある時だと思う。それが肉体を脱がれた時か或いは2013年の事なのか解らない。天地をひっくり返すような出来事が起こるのは必然ではあるけれど、その時まで何をしたって同じだと言う感覚であれば、そのXDAYの出来事の真意を理解してはいない。イエス様は霊的救いという限定的な救援摂理に留まったが故に、あのようなペンテコステの在り様となった。しかし御父母様の使命は完全救済、霊肉共の救済である。であれば霊的現象のみならず肉的現象としてのペンテコステが起こる。必ず起こる。宇宙が生まれ変わり、地球が生まれ変わり、そして人間ひとりひとりが生まれ変わる。霊的在り様としてみ言葉実体に限りなく近づいていない限り、肉的ペンテコステに耐えられない。結局、訓読経も実践も、誰の為ではない自分の為、即ち完成復活への最後の準備を為している。内的霊的エネルギーを最大限投入しながら、そう時がない今の今を実りあるものとして歩んでいる。
キリストを考える
旧約聖書に目を通すと、人間の魂の道徳的在り様の低さを、幾らでも見出せる。神の命として町を焼き払い全ての民を根絶したり、兄弟間の殺し合いから近親相姦まで、ありとあらゆる不条理がまかり通っている。そういった在り様は新約に至るまで続いた。人類史を復活摂理から見るとそれぞれの時代区分に於いて復活された魂の成長段階は違うので、今の人間の魂の道徳的在り様と比べれば明らかに劣ってはいる。しかし、顕著な違いが見出されるのがイエス以降の魂の在り様だ。イエス以降、それまでには見出せなかった道徳的な衝動、許し、愛、救いと言った新たな魂の衝動を見ることができる。イエスが十字架に架かったことでその新たな内的在り様にそれぞれが眠りから醒め脱皮したように、ペテロを初めとする十二使徒や多くの弟子達にその在り様が伝播していった。その当時、ギリシア哲学はその論理性で最高点にある。今ですらその論理性はすべての宗教思想、哲学が超えることは無い。十字架によって眠りから醒めたクリスチャンと言われる内的在り様は急速に伝えられ、多くの人々に住まう様になる。論理性を全く持たないキリスト的在り様が、論理に長けた当時のローマや周辺に受け入れられていったのはどういう理由があったのか。何がそうさせたのか。そこに論理的理由は無い。後付で様々な学者がそれぞれに説明してはいるけれど、心を動かすものは無い。論理で説明できないものを、明らかに彼らは受け取ったのであり、イエスの語った言葉やその生き様を付した福音書を通して、その言葉に神霊聖霊が宿され、その言葉を受け取った者は神霊聖霊が受精したようにイエスの分霊としてクリスチャンとして生まれた。外的に見るなら、その言葉を仲介として生まれ変わったのだ。かつて無かった感情をもたらす尊くも清い聖なる雰囲気を持つ内的在り様として生まれ変わったのだ。歴史の中の聖賢聖者達に見るように、地上に於いて高められた内的在り様を、肉体を纏っている間に理解されることはそうない。肉体を脱いで霊的存在となった時、その高みに至った内的霊的在り様を多くの者達が受け取ることができた。今の時代、クリスチャンと自認する者は限られているとしても、キリスト教的文明、キリスト教的生活様式、キリスト教的内的在り様にしっかり浸透されている。魂の奥の奥を垣間見る事ができれば、人類に開示されたイエスの霊が誰にも備わっているのを見出せる。他の宗教指導者とは全く違う次元で、その在り様を宇宙と人類に開示し浸透されている。
2008年12月4日木曜日
真の父母を内在する
自分の拠りどころを外に求めている限りは何の得るものも無い。五感を通して受け取るものの中に本質を見ようと幾ら試みても、あらゆる情報を取り込みながら自分の拠りどころを探そうとしても、受け取るものが多ければ多いほど、情報が増えれば増えるほど、更に自我は混乱を来たす。外に求めていた本質が、実は内にあることに気付いた時、幻想から目覚めて初めて本質を獲得する道を辿る事になる。人間としての魂が物質世界に降下し、肉体への結びつきを極限まで成し遂げた今、自分自身の本質を肉体に覆ってしまったことでその本質を見出せないでいる。ある時点から外に外に求めてきたのが科学の歴史であり、外界への探求を追求することであらゆる本質を見出すことができると錯覚した。人間の内的在り様、内的幸福も、何処かにあるはずだと外にばかり目を向けて探す事しかできない、内面に旅する事を気付くに至らず今日まで歩んできた。確かなものとして物質世界があり内面の事柄は物質作用の過程で生じる実のない幻想として扱われていたが、実は外界こそ幻想であり内面の世界こそ実質であることに気付いて初めて目が覚め本質への旅を始める。信じる信じないに関わらず、その対象への概念を既に持っているので、在ると信じたり無いと決め付けたりする。神がいるとかいないとか霊界が在るとか無いとか、そう判断する前に概念として既に持っている。概念として持っている事柄は輪郭は曖昧でその実体認識から遥か遠くとも、既に在ると認めている。在ると認めて、それがどの様な在り方をしているかを問うほうが遥かに利口で理に適っている。神様を外に見出そうとしても、在るとは証明できるが証明されたところで自分との関わりを見出せない限り、無いと言う認識と何ら変わるところは無い。神様はあなたの中にある、と言うこの言葉の意味を理解する必要がある。自分の中に在るらしいが自分とは別様に捉えている以上、実は外に置いている。そうではなく、神様はあなたの中にあるとは、誤解を恐れず言うならあなた自身ひとりひとりが神なのだ。分身としての神そのものなのだが、幾重にも幾重にも偽りの神、偽りの神霊が取り巻いているので、その光を解き放つ事ができないでいる。あらゆる宗教もそれに伴うあらゆる修行も、更にみ言葉もみ旨も、自分であり自分の神としての存在足らしめる磨き粉と言っていいと思う。絶対信仰、絶対愛、絶対服従とは分神霊を宿した自分に対する絶対信仰絶対愛絶対服従でもありうる。自分の在り様がわからず、おどおどしながら周りの兄弟に合わせようとする態度自体、既に絶対信仰から外れている。自分を神の分身として愛することを無視して魂の成長に加担しない以上絶対愛から外れている。肉の思いに左右されて神霊宿る魂への服従無しに絶対服従からは外れている。真の父母が生きて自分自身となって活動しているという実感を備えた者、自分の魂そのものが真の父母だと言い切れる程に受け入れた者こそ、天一国を見る者であり天の血統圏に参与する者だ。
2008年12月3日水曜日
田舎
今年は早々と初雪が降り、日本海沿岸は全域に渡って白いもので覆われた。11月も半ばを過ぎたので田舎は寒いだろうとは思ったが、まさか雪が積もっているとは思わなかった。広島から益田に向かう便は日に二度しか走らない。朝の便は間に合わないので、いつも夕方6時半の便になる。市街を出ると中国自動車道を走り戸河内インターで降りて更にくねくねと山道を登っていく。標高最高点の村の入り口まで二時間の道のりだがインターを降りた辺りから雪が舞い始めた。周りはいつの間にか雪景色らしいがバスが上るうちに道路も雪道になっていた。降りる停留所は表示が立っているだけで周りには何も無い。バスが過ぎ去ると雪舞う暗闇の中に置き去りにされた。背後から声が届き、一瞬ビクッとしたが振り向くと親父が立っていた。脅かすなと挨拶代わりに声をかけ、迎えに回した車に乗り込むと、途切れ途切れにある民家の灯を蛍でも見るように数えながら、寂しい道のりを走らせた。いつ帰っても田舎は静まり返っている。どうしても心を暗くする。しかしここで生まれる事を選んだのは自分だろうし、ここで育ったことで今の自分がある。ここで生まれた誰もが刈尾の山の麓で刈尾の山を見ながら日々を送った。この山がここで生まれ育った者の中に在る。存在感のある聳え立つ山に比べれば、なだらかな尾根の刈尾山は謙虚でおとなしい。その内なる在り様がそれぞれの魂に備わっている。声を張るものも声高に遣り合うものもいない。四季折々の様相そのままに魂を染めながら、すれ違えば何よりも誰よりも天候のことを話題にし、泣きたくとも泣かず笑いに昂ずることも無く、感情の高まりをいつも抑えながらその日の勤めに励む。産むに大騒ぎもしなければ逝くにも当然のこととして受け止める。質素で派手さのひとつもないこの田舎こそ自分そのものなのだろう。田舎に嫌悪感を感じるのも自分の様相そのものだからこそ、そう感じるのだろう。二日を過ごし、出るときは気温も上がり空も冴え渡った。幾らかの名残惜しさを覚えながら、それをかつて今まで感じたことの無かったのを新鮮に思いつつ、故里を後にした。
2008年12月2日火曜日
金星と木星、そして三日月
珍しい惑星の集合は古代の預言者や占星術士に取って大きな意味を成した。東方の三博士が星を頼りにベツレヘムの生誕の地まで訪れたと言われるベツレヘムの星は金星と木星が接近した天体の状況を言ったのだという説がある。昨日(12月1日)、黒い雲が昼過ぎくらいから覆い始め、このまま夜になるんじゃないかと思えるほどだったが、暮れかかる頃には西の空から碧い空が広がり始め、幕が開くように霧散して雲間が広がっていくと、三日月と共に輝くふたつの星が接近して現れた。まさしく天体ショーとしては息を呑むほどの演出で、しばし口を開けて見とれた。この二つの星は金星と木星で、彼らが月に話しかけているようなそんな構図である。紀元前2年6月、ベツレヘムの星として接近して現れた時、その意味を理解した者がいたように、2008年12月1日前後のこの接近の意味を理解している者がいるかもしれない。正にその如くとして、キリスト再来の表れとして心に刻んだ者もいるのだろうか。そんな事を思いながら部屋に入った。今、科学と言う幻想に洗脳された人間は、星や惑星の意味、またその存在や動きの意味を全く理解していない。人間が小宇宙と言われる所以の本当の意味を理解していない。人間と星、とりわけ惑星とは切っても切れない関係がある。望遠鏡で覗いている限りはその関係を見ることはできない。見上げる事に意味があるのでなく、霊肉の生命活動にどう関わっているかを見る事に意味がある。一つ一つの惑星が霊肉の生命活動としての根幹を成している。ある意味、惑星の活動の中に自分が活きている。人は睡眠中無意識だが、睡眠中の意識を獲得すれば惑星の活動の中に自分があることを理解するだろう。であれば昨夜の惑星接近の意味が、唯単に見るに良い天体ショーとだけ捉えられない、自分と人類と宇宙に直結する何かの影響を背後に見ようとせざるを得ない。
2008年12月1日月曜日
遠方より友来たる
遠方より友、来たる。彼よりは大きくなった子供四人連れて、妻の眠るセメタリーがあるこの地にやって来た。毎年、夏の墓参りは欠かさなかったが、今年は諸般の事情で、このサンクスギビングホリデーとなってしまったようだ。必ず家族全員揃って来るところが偉い。時は矢の様に過ぎ去り、事故が起こってから既に三年の月日が経つ。彼自身、悩みや苦労話など内的な事はあまり話そうとしないのでよく解らないが、今に至るまでそれなりの結晶化される魂の在り様に落ち着くまで、相当の内的精製路程があったはずだ。一人一人の子供に至ってもそうであろうし、未だその過程に今もあると思う。遅くに着いて皆疲れきった面持ちで、やっと私の店で食事にあり付けた風で物静かに食事が進む。しかし一つ二つの質問を投げかけると笑みを浮かべて誠実に答えてくれる様子を受け取りながら、亡き母に護られて今日まで来た事がストレートに伺える。彼ら家族に取って晴天の霹靂とも言える事柄が襲い、本来なら言いようの無い恨みや遣り切れなさが残って、二次災害とも言える問題が起こっても不思議ではないが、天は良く知っているようでそれに耐えうる魂の力を既に彼らに用意していたのだろう。全ての子供に何の暗い陰もない。母の想いがそのまま彼らの胸に育ち、意識するせざるに関わらず母と共にあるのだろう。ほんの短い時間であっても彼らに接していると、そこにY子さんの声が今にも聞こえ、香りだって来るほどだ。特に二番目の女の子は彼女に生き写しで、内的な様相もそっくりで見ていると彼女がそこにいるような感覚があり懐かしさの涙で目を潤してしまう。家族の事にしろ店の事にしろ、まだまだ苦労は付いて回るだろう。しかし霊的に見るなら輝く日々を送っているのは明らかだ。霊界に於いてその輝く日々が珠玉のように連なり、かけがえの無い愛の結晶となって彼らの霊界様相、霊界環境を鏤めるのだろう。その光り輝く様を彼らの澄んだ黒い目の一つ一つに見て取れる。どんなに疑おうとも疑いきれない真の愛の証の実体がここにも咲いている。
2008年11月27日木曜日
天的経済構想
人類始祖堕落以来、何千年にも渡る堕天使たちの影響を受けてきた理解力と認識しか人類は受け取っていない。思考様式、行動様式が人類の偽りの親であるサタンに寄っている。人類歴史を通して、文化的に発展して今日に至っていると皆が思っているが、人間本来の知恵のごく僅かしか使っていないし、それもサタンの影響下にある理解力認識力によるものでしかない。近代に於いては、肉的感覚器官を通して受け取る肉的五感を絶対的なものとして、理解力も認識もそこからの積み上げであるため、積み上げた機械科学文明は大きな歪を抱えている。精神科学の僅かな発展が見られ、唯物論に根ざした科学文明に新たな認識が組み込まれていけば、ゆがみが修正され本来の方向に軌道を変えることができるかも知れないが、根底にある認識が唯物的である以上、今の科学文明の崩壊は免れ得ない。一瞬にして、見えていた輪郭が崩れ去る。金融システムが崩れ去り経済システムが崩れ去る。今まで構築されてきた全てのシステムが崩れ去る。サタンの影響を受けた理解力認識力が限定的なものである以上、その上に立つ全ての内外の構築物は砂上の楼閣なのだ。宗教的なもの科学的なものと、水と油のようにその在り様をすみ分けしてきた。内的なもののみ宗教が関与されるべきであり、外的なものは科学の範疇で、そこに内的なものを持ち込むべきではない、外的に恵まれて暮らすことに宗教的なものは関係ないという認識が当然としてあった。それなりの信仰を持つ人にもその認識はある。しかしその認識が崩れていく。それは個々の人間の内から崩れていく以上に、構築されて信じていた外側のシステムから崩れていく。どうするか。新しいシステムを構築する以外ない。サタン的唯物的神経経路として構築されてきたシステムに拠らず、神的、物心両面の本質的神経経路を構築していかなければならない。今までの経済システムは自分の利益自社の利益を追求してきたが、裕福であることを追及する前に人類が平和であることを先ず追求しなければならない。平和であることのシステム構築はまさしく御父様が平和訓経言い換え平和神経と話される様に、み言葉そのものにある。そして平和である為の富の配分が経済システムとならなければならないし、そうならざるを得ない。御父様の事業に対する想いを見れば、利益の追求に一言も言及されていない。食に関する事業もアフリカに見るような飢餓に対する対策であり、ボート事業もやがては食糧難に突き当たる人類救済への漁業への想いにある。事業体に身を置くものとして今までは摂理をバックアップする為の献金活動を主体に置いてきたが、経済システムそのものを構築する本来的事業の在り方をこれからは追求していくべきだろう。御父様が種として撒かれたそれぞれの事業が、必ず新経済システムとしてリンクする、一大経済構想を実現すべきだ。
今日の想い 26
無意識的な行動の中にこそ、サタンが関与している。今、自分を振り回す事柄が悪であり、自分の罪から来るものであると認識する場合、それに打ち勝つ事ができない自分の弱さこそが責められる事であり、ある意味罪への衝動はどうすることもできない場合が多い。悪を行わなかった、罪を犯さなかったと言えるのは、恐れゆえに罪を犯す状況に自分をさらけ出す勇気さえ無かったとも言う事も出来る。悪の環境に自分を置く勇気を持ち合わせていない者は善を行う勇気をも持ち合わせてはいない。恐れゆえに罪を犯さぬように、恐れゆえに悪に手を着けてしまう。日本人として遠くない過去を見るなら、朝鮮にしろ中国にしろ、戦争に名を借りた人権蹂躙が跋扈した。ひとりひとりの意志がそうさせたのでなく、周りに反する事への恐れとそれに伴う全体意志への迎合が、いとも簡単に自分の手を血に染める。そこに神道に見るような日本民族としての高尚な民族魂はない。恐れという動物神に取り付かれた、地べたを這いずる集合霊に過ぎない。上官に命令されるが儘に捕虜自身に掘らせた穴の傍に立つ彼らを、銃剣で突き刺す。目を閉じながらも、横腹に突き刺す腕に伝わる鈍い感覚を、恐れ故に良しとした。躊躇ゆえに中途半端にえぐられたハラワタをその目に焼き付ける事を、恐れ故に良しとした。状況がそうさせたと自分に説き伏せようとも、良心は納得しない。相手国から責められる前に自分の良心が先ず納得していない。それ故に沈黙せざるを得ない。だから悪の環境圏を乗り越えて立っている自分ではなく、恐れゆえに良心を捨てて、この肉の塊のみを護ってきたに過ぎない今の自分である。日本人として決して誰かを、何処かの国や民族を非難できる立場にない。自分自身をいとも簡単に裏切り、その良心すら切り捨ててきた過去がある。それ故にこの国をエバの位置に立てられて摂理を担い、それなりの苦労を積んで来た事が、どれほどの救いであるか。罪の重さ故に狂い死せざるを得なかった、その負債ゆえに呻吟し続け、あの世でも地獄の炎に炙り続けられざるを得なかった我々は、救われたのだ。切り捨てた良心を取り戻していただいたのだ。久しぶりに妻の実家に赴き、一口の酒で過去を吐露した義父の弱弱しい言葉を受け取りながら、言いようも無い罪悪感に襲われた。反吐が出そうな過去が、日本人のどす黒い血としてこの身体の中を流れている現実を直視させられた思いがした。
2008年11月13日木曜日
今日の想い 25
何処までも青い空が天を覆い、澄み切った大気に遠くのほうまで輪郭がはっきりと見て取れた。そんな昨日までが嘘のように、今朝はどんよりした雲が沈んでいる。木々はその覆いの殆どを剥ぎ取られ、味気の無い骨組みを曝している。傷口に塩がかかるように、冷たい霧雨が降りかかる様が痛々しい。11月も半ばに入る。まだ冬到来には間があるとしても、明らかにその覚悟は迫られている。感謝祭にクリスマス。いつもの年なら、ホリデーシーズンに向けてその高揚感が高まる頃だが、そんな気配は微塵も無い。皆が皆、頭を垂れて歩いている。重い足取りに口数は少ない。過去五年以上に渡って資産は膨らんできた。パソコンを叩けば見えてくる、幾らでも膨らんでいく資産を見ながら、自分自身が大きくなっていくように思えた。数字に酔いながら自分の拠りどころを仮想空間に落とし込んだ。たとえ自由になる数字の桁数が増えたとしても、実際数年前なら手にした事もない高額商品をこの手に入れたとしても、喜びは手に入れるまでだ。手に入れたと同時に憑き物が去るように高揚していた感情は逃げていく。そんなはずは無いと次の獲物にかかる。そんな事を繰り返している内に打ち出の小槌は霧散した。一度身体に馴染ませた安楽な生活を、基に戻すには莫大な精神的エネルギーが要求される。食べなければ死ぬものを、死ぬと解っていて食べる事ができない。誰かに食べさせてもらっていたからだ。自分で手を差し伸べ口に入れる労働より、食べない選択を始める。生きることそれ自体が労働だ。生きることの意味が解っていない限り敢えて生きる労働は選ばない。今その入り口にアメリカはいる。酔いが醒めて又酒を求めている。少し途切れただけで又今までのように酔える酒を待っている。アメリカは個人としても国としても生きる意味を悟り、生きる活力を生み出す必要がある。でないなら、アメリカは終わる。その日の食い扶持にも事欠く状況が門口に来ている。
今日の想い 24
この小さい魂の存在理由があるはずだと、鶏が頭を突き出すようにいろんな事柄に頭を突っ込んで見ようとする。み言葉を自分の神経の在り様となすべく、長い年月が通り過ぎた。自分の在り様に人に認められるものなど無いだろう。兄弟の間のことにしろ対社会のことにしろ、自分という存在が必要とされる場面が過去にあっただろうか。そしてこれからそういう場面に遭遇するだろうか。たまにミーティングなどに参加すると自分の不甲斐なさに愕然とする。自分より若い実力もあり優秀な人々に囲まれると居た堪れなくなる。消え入りそうな魂が、その所在の置き場を探しあぐねている。これからのみ旨を背負っていく彼らと比べようも無いが、正直寂しい感じは否めない。しかしその感情を敢えて心地よく感じるべきだろう。御父母様が喜ばれることこそが何よりの我々の喜びだ。その認識に至れば寂しい感情を嬉しく思わないといけない。私の上司は一回り若い。実力も知恵も兼ね備え、更に性格もよく、正に非の打ち所が無いと言っても言い。優しい口ぶりで、権威意識のこれっぽっちも見せず、相手の私を立てようとする計らいを持たせた言葉がすらすら出る。責められるべき何物も無いとなると、ある意味卑怯だろう。今まで全ての上司に、欠点が見て取れた。責めるところがあればこそ、責める思いをヤル気に変化させてきた。ふんだんにある欠陥を餌にして、自分自身に虚栄心を持たせることができた。しかしそれを見出せないとなると、どうヤル気をだしどう自分の存在価値を認めればいいのだろう。より内に向き、自分の存在理由を問い始める以外ない。責め所満載の上司に対してぶつぶつも言い、だから困るんだと横柄な態度も取っていた。それ故に活き活きしていた自分であったことも否定できない。この小さい魂の存在理由は何だろう。実力も無ければ知恵も無い。執着している想いの一つ一つを、たとえ肉が削げようとも無理やりにでも引き剥がす。その事でしか神様の関心を自分に向ける方法は無いのだろうか。人それぞれに存在理由はあるはずだと解っていても、自分のそれが見当たらない。
2008年11月11日火曜日
今日の想い 23
堕落人間は神とサタンの中間位置にあり、神が働く存在であると同時にサタンも働く。神から受け継いだ本性を保持していると同時にサタンから来た堕落性本性も保持している。しかし個々の人間によってその割合は様々であり、より本性的人間もいればより堕落性が強い人間もいる。より天に近い人間と地獄に埋もれきっている人間もいると言う事だ。自分の中にある本性と堕落性をしっかりと捉えられる者とならなければならない。自分の内的在り様がより本性的方向性を目指しているのか引きずられる儘に堕落性の中に埋没しているのかをありありと捉える事ができなければならない。そのように内的在り様を立体的に把握できればその認識は霊界の在り様とマッチしていく。自分の本性が霊界の明るい高みに向かうものであることを認識でき堕落性は暗い地獄を目指すものであることを認識できる。中間位置と言う言葉を唯論理的に解釈しようとすれば並列的発想しか生まれてこないが、本性と堕落性を相反する人間の性相とだけ捉えるのでなく、内的霊的に捉えることで本性的在り様と堕落性的在り様を立体的に捉える事ができると同時に、それに伴う感情であるとか景色であるとか旋律であるとか香りや臭いであるとかの感覚をも感じることができる。その感覚をより鮮明にすることがいわゆる霊視霊聴と言った霊的五感を開いていくことになる。真の父母様に帰依するものは霊的光を与えられている。漆黒の中に埋もれていた自分の内的在り様に真の父母様からくる真の愛の光が差し込み、自分の内的在り様が照らし出される。それによって自分の在り様が直ぐに様変わりする訳ではないが自分の位置をマッピングでき本性的在り様に向かおうとする真の愛の光のさす方向に向かおうとする自分を認識する。五感からくる世界にのみ生きていた自分が、実はそれと同時に内的霊的世界に生きていることを認識し、実はその世界こそ本質でありより実体的であり、自分を取り巻いていた感覚世界は本質的世界に対して対照的陰の世界であることが認識できる。その目が開かれると人生の在り様そのものが様変わりする。
2008年11月9日日曜日
秋に想う
夏の太陽が燐のように宇宙に差し出した赤色黄色の炎の想いを、緑色をより濃くするほどに受け取りながら、木々は溢れる生命要素を大地と大気に提供する。ひと夏を終え与え尽くした太陽が柔らかくなる頃に、生命要素に湧き溢れた季節に酔いながら、収穫の喜びを木々の装いに表しはじめる。澄み渡った秋空のもと、それぞれに受け取った赤色黄色の愛の光を精霊達は全身に装いながら、柔らかくなった光に色彩を躍らせる。優しく戯れる秋風に色とりどりの装いを遊ばせ、見渡す限りに広げられた山々の絨毯は愛の旋律に踊るように波打つ。やがて全ての装いを取り去る宴の終りが来る事を全ての木々は知っている。限られた時間であればこそ一心に彩りを濃くする。その刹那の想いが込められた一葉一葉は花々とは違う美しさが滲み出る。しかし美しければ美しいほどに悲しい。恋に身を焦がした乙女のように、自身の生き繋ぐ要素さえもその装いに費やす。木々に宿る存在達は、太陽に恋したのだ。太陽の放つものへの憧れを捨てきれず、木々の枝枝に幾重にも重なる一葉一葉は、身を焦がすままに深く色づき、やがて地に落ち朽ちる。捨て去られた憧れの想いが枯れ落ち葉のなかで死んでいく。一葉一葉に表現された精霊達の悲しい性は、憧れては捨てられ、また憧れては捨てられ、悲しい輪廻を繰り返す。地面一面に捨てられ重ねられた落ち葉を踏みしめる時、その儚くも可憐な精霊たちは、運ぶ足にすがり付きながら救いを求めて音を立てる。彼女たちは、一途な想いを実らせる事ができた時、太陽へと飛んでいくのだろうか。飛んで行けるのだろうか。枯葉舞う晩秋の一日はそそくさと宵に向かう。美しくも物悲しいこの季節に身を染められると、愛に彩られた遠い記憶が恋しくなる。
人間という媒介体
原理に書いてあるように、有形実体世界と無形実体世界の二つの世界は人間を媒介体としてお互い授受作用をすることにより、初めて神の実体対象としての世界をつくる。媒介体という意味は、両世界が授け受けるために人間として何らかの媒介行為が必要であることを言う。堕落した人間は人間本来の在り様をしていない。要するに堕落し、本来の媒介体に成り得ていない。よって今の分離した地上界と霊界の両世界は授け受けることができず、神の実体対象と成り得ていない。地上界の事物を霊化するという作業こそ媒介体としての人間の在り様、即ち万物の主管、地上界霊界の主管を意味する。人間が本来の役目を果たし媒介体として地上界霊界に関われば、両世界が神の実体対象となり新たな天地が出現すべく地上界も霊界も在り様を変えていく。人間の誕生に見るように、腹中期間は完全に地上世界のみに属し、生まれて呼吸する期間は地上世界霊界とに関わりながら、事物を霊化し自分をも霊化していく。霊の芽だけの存在として地上に重心を大きく置いていた立場から、霊の成長と共に霊界に重心を移していく。肉の衣を脱ぐと完全に霊界のみに属する。本来の感覚が封印されてしまった堕落人間は、未完成であるところの霊化されていない地上界にどっぷり浸かっている。この世で経験する事物を霊化する媒介体と成り得ていないため、受け取る事物を死に至らしめている。媒介体としての人間の位置を取り戻そうと思えば、受け取った事物を思い起こし、感謝と共に事物に対する内的霊的価値を備えてやる事で供養される。即ち神の対象となるべく昇華する。地上界霊界が授受をなしながら神の実体対象界となれば、鉱物の在り様も植物の在り様も、そして動物や人間の在り様も様変わりする。この世界そのものが様変わりする。真の愛の光を帯びて、地球が宇宙が霊化という次元上昇をなす。
2008年11月6日木曜日
狂宴の後
実体経済でものとサービスを売り買いしていた処に、金融商品が売り買いされる金融経済が、悪霊界が降りてきて地上界を覆うように浸透していった。コンピューターの発達と共に、金融工学の予知計算リスク計算が商品の信用度を増し加え、現代の打ち出の小槌を振り続けた。その数字は天文学的数字で、もはや人知の域を超えている。ものやサービスに対する価値創造が限定的であるのに対して、金融商品の価値創造は無限大に広がっていった。いや広がっていくように錯覚した。その錯覚は売れなくなるまで続いた。麻薬によって人は幻覚に踊ることに狂喜し身体を麻痺させるように、金融商品は欲を満たすことに狂喜し数字に対する感覚を麻痺させた。実体経済の重要な部分である血液製造を投げ出してレバレッジと言う何倍にも薄められた裏付けの無い血液を遣り取りする。どれほど数字は膨れても、そこには凝縮されたものは見出せない。赤く染まってはいるが血液の働きを負わせれば幾らでも流れて失う。あぶく銭と言うがあぶく銭よりたちが悪い。一気に信用は収縮し実体経済を振り回している。悪霊界が偽りの信用創造で金の子牛を祭り上げ、社会を踊り狂わせた狂宴は一瞬にして醒め、我に帰った人間社会は茫然自失の状態に今ある。金融に手を出さなかった者でも実体経済との線引きがはっきりとされている訳ではないので、それなりにあぶく銭は流れてきた。多かれ少なかれ皆が狂宴に浮かれた。浮かれた体を引き締め、先ず足をしっかりと地に下ろす決意が必要だ。そうして目をしっかりと見開き本物を探す旅に出発するものはそれを見出すだろう。既に新しい時代を予見させる本物が芽吹いている。バブルが完全に弾け飛んで、本物しか生き残れない時代圏に名実共に突入した。本物の価値創造、本物の信用創造を持ってしてレバレッジを働かせ、爆発的な成長を遂げる本物の組織、本物の社会、本物の地球村が出現する。
2008年11月5日水曜日
自我の住まう処
思考に於ける悟性が極度に発達した現代に、あらゆる理解に論理的な説明を求める。しかしそうして得た理解が感情を動かし意志を動かすかと言うとそう単純ではない。自分の中にこみ上げるものとか、自分を行動にかき立てるものは論理的に説明された理解の中にはない。ある人間真理が理路整然と説明されて理解を得たとしても、自分の行動様式に不都合があれば何らかの理屈を付けて受け入れない。人間の悟性の働きは損得感情と大きく関わっている。論理的に説明できるもの以外の別のものが自分を動かしているのにも関わらず、それを見ようとしない。理解すると言う作業が自分に益する知性や経験によるものとだけ信じるところに食い違いが生ずる。正しい思考を働かそうと思えば、損得を超えた高みを志向するものを自分の中に見出すことが大切だ。本来人間として生まれ出でた以上、誰もがこの志向を与えられている。それは良心の働きにある。自分の中の良心をしっかり捉えて初めて、悟性が正しく用いられる。皮一枚隔てた内側を自分と認識し、外界から自分に取って益となるもの良さそうなものを取り入れる。しかし本当は、皮一枚隔てた内側は自分ではない。本当の自分は皮を突き破り外界の中に存在する。人間は事物の中で生きている。皮膚を隔てた内側は、事物の中に生きている自分を反映するもの映し出すものであり、人生や日常に於ける体験内容は身体によって生み出されるものではなく、霊肉の身体は霊的な体験を映し出しているに過ぎない。飛び込む風景の中に浸透して生きているのであり人との関わりの中に生ずるものの中に溶け込んで生きている。良心は自分だけという意味での損得に関わっていない。把握する外界の益に関わっている。家庭の益であり社会の益であり世界の益、更に宇宙の益に関わっている。外界の益、宇宙の益に関わることこそ神様の身体としての全宇宙を喜びに満たす事であり、それは本来良心をもって神様と一心一体であり宇宙と一心一体である自分をも喜びに満たす事である。
2008年11月3日月曜日
クリスチャンを考える
イエス様は多くの奇跡を弟子に見せられ民衆にも見せられた。聖書を見ればイエス様の公生涯に於いて様々な癒しの業を施され、民衆を魅了されたことがわかる。当時、時代的背景、環境的背景は今と比べようも無いので、奇跡がどのように民衆に受け入れられたかは想像するしかないが、イエス様の奇跡それ自体が彼らの信仰を引き出す事はなかったように思う。奇跡を目の前にして驚きはあったろうし、癒しの業を受けて感謝もしたろうが、信じれぬものを見せてもらったから、或いは助けてもらったから信じるというのは御利益的であり条件的信仰でしかない。事実、我が主イエスがいざ十字架にかかろうとするその時こそ、信者としての振る舞いをすべきでありながら、弟子ですら散り散りになり無関係を装い、ペテロに象徴されるように否定すらしている。キリスト信仰クリスチャンとしての出発は、明らかに復活後に今までに地上に存在しなかった何かが、彼らに届けられた、そこから始まる。それまでに愛と呼ばれるものはあったのかも知れないが、彼らに届いた愛は彼らを根底から揺るがし、彼らが持っていた愛の概念を超える次元の違う愛を受けて、彼らの本質そのものが変わったのだと理解する。イエス様の勝利され勝ち取られた愛を自分の中で生きるイエス様と共に聖霊として受け入れた。使徒行伝に目を通せば弟子達がイエス様の復活前に比べ、同じ人物かと疑うほどに様変わりしているのがわかる。奇跡の権能を行使し、語る言葉には深い知恵とイエス様の愛が宿っている。霊から様々な予知を与えられ、獄に入れられた者ですら霊に助けられ抜け出ている。そのような状態で何の恐れるものも彼らには無い。肉体として目に見えないというだけで彼らが行動し行くところは何処でもイエス様が共にあり聖霊が共にある。共にあることを信じているのでなく、事実共に或る。彼らの肉体を借りたイエス様そのものであり聖霊そのものなのだ。彼ら自身はイエス様と聖霊に全てを委ねる内的在り様で肉体と口を差し出しただけなのだと思う。殉教ですら彼らの覚悟から来るものでなく、委ねることの一つの形でありイエス様がこの肉体を殉教行為として使いたい思いに身を委ねたのだ。彼らが義とされたのは委ねたところにある。完全な委ねる在り様は罪の認識に裏打ちされている。十字架にかかるイエス様を否定してしまったペテロ、率先してキリスト信者を迫害していたパウロ、罪の認識が深ければ深いほどに委ねる在り様は色を濃くする。委ねる事でイエス様が共に或る、イエス様に愛されている、その実感が五感を超え、恐れ等の人間的感情を超える次元の感情を得た。罪の無いイエス様が、サタンに勝利し勝ち取った霊的勝利圏であるステージに、彼らクリスチャンがイエス様に完全に委ねる事で迎え入れられたことを意味する。
2008年10月30日木曜日
今日の想い 22
我々は本当に愛の群れだろうか。愛の動機で繋がれ、愛の道理で動く愛の群れだろうか。我々の歩み全般が、御父母様の真の愛に貫かれたものとなっていると言えるだろうか。我々の中にいつも、何々しないといけない、と考えていると言うことは、したいという思いが出てこない事が前提となっている。全てに於いて、このHAVETO意識で停滞し自主的能動的姿勢にはなれない。御父母様の願いが自分の願いであり、自分の願いが御父母様の願いだと言い切れる自分になっていない。自分が愛されていることを実感すれば、その愛に応えたいと思うのが自然で、その衝動が歩みの力となる。であれば自分は愛されていないのか。御父様は私を愛しておられないのか。そうではなく愛を受ける感性がないのか。それとも自分が愛を必要としていないのか。本当に愛が自分に流れてくるなら、愛されているという実感があるなら、それを他に与えようと思うだろうしそれに応えたいと思うはずだ。しかし敢えて次のように断言することが信仰の基だ。私は愛されている。御父母様も私を愛しておられる。確かに愛を受ける器にはなっていない。でも明らかに私も愛を必要としている。残念ながら、サタンが主管する堕落圏に我々はある。悲しいかな愛は直接的には届かない。堕落圏に於いては神様の直接主管圏にない。堕落圏から神様に会おうとすれば、愛の起点は自分にしかない。自分と神様の間に悪魔がその空間を支配していることを認めなければならない。そこを突破するには闘わざるを得ない。悪魔との戦いだ。私は愛されていると言い切り、そして歩み切る事の戦いであり、神様からの愛によってしか生きれないし、愛に生きるのでなければ生きる意味もないと悪魔の環境圏を捨てる事を覚悟する戦いだ。HAVETO意識からLIKETO意識に意識次元を上げなければ、節理完遂に向けて最後の聖戦に勝利できない。そうして真の愛が無条件に自分の内側に流れ込み、内的ビッグバンを起こす。与えたい愛したいという衝動が爆発的に起こる。個人に於いて、家庭に於いて、社会に於いて、全ての段階に於いて真の愛の衝動が連鎖的に拡張していく。
2008年10月28日火曜日
今日の想い 21
天国がそこまで来ているのを、内的霊的にふつふつと実感として感じえているか。今の今、その息吹を感じられないとしたら、御父母様と同じ世界にはいない。太陽から届く真の愛の光で身を沐浴し、真の愛の空気で胸を膨らます。真の愛の水で細胞を蘇らせ、真の愛の土に育ったものを肉とする。自分と言う、小宇宙に張り巡らされた神経は、み言葉の真の生命で再生され、小宇宙を循環する血液は、真の父母に繋がる真の血統を刻印する。対象物と自分の間を悪魔の勢力が支配し、太陽から来る太陽本来の放つものを受け取る事はできなかった。空気も水もその本来の与えるものを人間は受け取れなかった。肉体の感性で受け取る全てのもの、自分の肉とする全てのものから本来の神の愛に満たされたものを人間は受け取る事ができなかった。ものをものとして捉えると、いつまでも本質は自分に届かない。その元素的存在の内的現われや、形ある物をかたどる内的存在としての霊を見る。その霊を妖精と呼ぶこともあるが、熱には熱の霊が存在し、空気には空気の霊が存在する。水の妖精に感謝を捧げれば水は柔らかく甘くなる。全てのものや事柄の背後にあるものを見ようとすることで、その本質に向き合おうとしている。今まで気付かなかった見えないものが届き、ある時はまだ見ぬ真理を教えられ、またある時は愛おしい気持ちを抱く。そのような本来の受け取り方を学び始めると、漆黒の在り様をしていた内面は、色とりどりの色彩に彩られる。愛の花が咲き乱れ、春爛漫に装った宇宙に様変わりする。それこそが、閉じ込められてきた霊の開放であり、開放された霊は新しい次元に昇華し歓喜の歌を奏でる。受け取る全ての事柄を昇華させながら内面の宇宙に蘇らせる。本来の受け取り方を知る真の人間であればこそ、食される事を万物は喜び、手を通して加工されることを好む。それが霊や妖精たちに取っての開放なのだ。既存の概念を払拭し、真の愛の本来の概念を理解する事を深め、万物を前にして真の愛がどう関わっているかを見ようとする。
2008年10月27日月曜日
みそぎ
そこら中が草いきれでもうもうと臭いたち、至る所に虫くれが這い回る故里の草屋で、見えない暗い影に怯えながら暮らしていた。裸電球が僅かに囲炉裏端は照らしても、すすくれだった垂木が渡る天井の奥までは届かない。障子戸に大きく薄ぼんやりと人影が写り、子供にはそれらが不気味に見える。土間からかわやに通じる渡しには、一頭収めるだけの牛舎があった。牛は知らないうちに処分され、静まった暗がりに広がるその空間が怖くて、夜中かわやには行けなかった。大事なところが腫れるとたしなめられても、まだ外で用を足す方が良かった。得体の知れない何かが自分を覆い、どす黒いものが内まで侵入して魂を食む。自然に圧倒されながら、自然が美しいと思えたことは無かった。自然は妖物の化身としか思えなかった。しかし冬になり雪が降り始めると、全てが純白で覆い尽くされる。地に散乱するもの全てが、怯えていたもの全てが、幾重にも幾重にも覆われていく。雪深く真っ白に覆われた故里だけが好きだった。田畑を覆い山を覆い、藁葺き屋根の家々をすっぽり覆う。吹雪で視界は霞み、風が物悲しい笛を吹きながら雪面を這う。冬眠するように皆閉じこもり、全ての存在が身体を丸めて思いに沈む。粉雪を舞い上げていた風が途切れ、そして深い静寂が訪れる。その狭間こそ不純な要素ひとかけらの侵入も許さない神の領域。冴え渡った大気に氷晶を鏤め神界への扉が開かれる。冷気で顔面の皮膚がカチカチになりながらも、体が冷え切るまでその場に身を曝した。自分が生きる何かが、その神聖な場で届けられていた。得体の知れない何かに苛まされる身体は、寒冷のつるぎで憑依するそれらと一緒に突き通されながら麻痺し、魂の深みにある自分のみ神界への門を通っていく。
2008年10月26日日曜日
創造過程
天宙の生成は熱状態時期、気体生成時期、液体生成時期、そして固体生成時期を経、物質への凝縮を可能としてあらゆる生物が生息できる地球記に至る。しかし今我々が概念として持っている熱で当時の熱の在り様は想像できない。気体に於いても液体に於いても固体に於いてもそのようで今の概念で捉えるのは無理がある。人間を含め全ての存在の原因的存在、その内的現れ、その対象表現となっているのが天宙生成過程のそれぞれの在り様だ。無理は承知で、熱の在り様を表す内的な状態とは何か尋ねてみる。自分の中に熱を感じる時とはどういう時だろうか。熱い思いとはどういう状態だろうか。そう尋ねていく時、恐らく天の内的な在り様、即ち想いに対して通ずるものがあるはずだ。人間的感覚で熱があるとは言いようの無い切望感であるとか物事に打ち込み集中する状態だとか初愛の想いだとか、そういった止めれぬ衝動を言う。神に似せて人間を創造されたのであれば、天宙生成に一貫して言える事はそう言った想い衝動を持ち続けられた、そういう意味で熱状態にあったと言える。では何を求めて投入され続けたのか。愛の対象を求めての止められぬ衝動だった。人間という愛の対象を求めた、それこそが天宙生成の唯一の理由だ。愛の対象としての極致を求めて人間を創造された。人間を創造するために気の遠くなるような一つ一つの創造段階それぞれに完全投入され続けてこられた。天宙生成過程の如何なる創造段階も人間創造の為に必要だった。気体生成時期に於いては気体的なものと光的なものとが生成される。神様の人間創造の想いが、即ち熱が、霊体及び霊界形成の霊的要素、肉体及び地上形成の物的要素の更なる要素として、光要素気体要素を神様の二性性相に似せて創造された。液体生成時期には液体的なもの音的なものを創造され、固体生成時期には個体的なもの磁気的なものを創造された。気体的なもの液体的なものを現在の気体液体と認識する事は間違いで、五感で感知できる創造過程等無い。創造されたからこそ五感で感知できるのであって感性悟性を超えた領域であり、現在の限界的認識の人間がその様相を把握しようとするなら想いによる認識が最も近いだろう。受け取った贈り物に送った人の想いを見、贈り物を受け取る事で想いを受け取った事を感じるように、呼吸する空気、受け取る空気に神様の想いを心に感じ、水に触れ水で喉を潤す時、水の体内に浸み込む過程を感じながら浸み込む神様の想いを受け取る。取り巻く環境の全てに、目に映る創造物全てに、そして愛の直接対象としての一個一個の人間存在に、神様の想いを見ようと探求し続ければ、想いである熱を、打ち震える熱状態を自分の内に経験する。
今日の想い 20
親は子供を育てるのにどれ程の心血を注ぎ込むだろうか。親は子供からの見返りを何一つ期待せずひたすら与え続けひたすら投入し続ける。自分の店や会社に対してもそのようで、育てて大きくする為には主人の惜しみない内外の世話が必要になる。親の想いが子供に通じ、親の期待に応えるように、主人の想いが店や会社に注がれ、実りをもたらす存在になっていく。子供が親の欲目や都合に利用されれば真っ直ぐ育たないように、我欲を満たす為の店や会社であれば、蔵に入れる果実を実らす木には成長しない。環境により人格形成の状況が違うように、時代や周りの状況にも左右される。だから店に於いてはローケーションが大きく関わってくる。立ち上げ当初は自分の事も忘れるくらいに心配し世話する必要があるし、立ち上げにどれ程投入するかで成長期の伸びが違ってくる。一緒に立ち上げに関わった従業員は組織の心臓部や体の重要器官として店の発展と共に、それらの位置にあった素質を備え成長していく。育っていくうちにその店の個性が培われていく。主人の想い、従業員の想い、そして客の想いが合わさり一つになって店としての在り様を形成していく。主人はその店の個性を尊重し十分配慮しながら、店の成長に関わっていく事が大事だ。調子のいい時もあるだろう。状況の悪化で病に臥す時もあるだろう。主人はどのような時であっても店のことを先ず最初に考える必要がある。主人が決定権という中枢神経の一部を担っているとしても、店が苦しい時でありながら自分の給料はそのままで、他の従業員にしわ寄せを押し付けるようでは身体としての店を維持することは出来ない。店としての存在意義、公共的使命を把握し、従業員皆がその認識度を深めていくことで、自分の本当の意味での役割や払うべき貢献内容がわかってくる。今、経済環境は泥沼から抜け出せないでいる。もがけばもがくほど悪化の度合いを深める。店としても大きく左右され、そのままにしておけば遠くない将来、店は虫の息状態になっていく。生き延びる為のあらゆる処置が必要だ。もし店が赤字であるなら、赤字という貧血状態を改善しない限り健全化は進まない。誰かが輸血してくれる事など有り得ない。
2008年10月25日土曜日
今日の想い 19
内なる良心の声に耳を澄ます時、そしてみ言葉を本当の意味に於いて理解する時、自分は神の領域を見ている。しかしこの世に埋もれている身体はサタンの領域にある。良心の声に身体を浸透させようとすると戦いが生ずる。身体を直接司る肉心が良心を跳ね除けようとする。良心と肉心の戦いを見ないものは良心が肉心に覆われ霞んでいる。良心を開放する為に肉の思いを凌駕する戦いを繰り広げて来たのが復帰歴史だと言える。堕落性という肉の思いを人間本来の性相だと思わされながら人間は一生を終える。自分に巣食う堕落性に翻弄されながら、それが人生だと勘違いしたまま生を終える。本質を掴めぬままに生きることの意味を問い続ける事を諦める。悪魔の環境の中で泳ぎ、息を繋ぐ事のみに執着しながら、腹を肥らせるものを追いかける。意味の無い習慣的な毎日の歩みに終止符を打ち、惰性的な五感で外から受け取るものに自分を委ねず、微かに内から湧き出るものに意識を向ける。どれ程霞んでいようとも心の奥から滲み出る思いがある。その良心の思いこそ神様に直結している。良心をしっかりと掴んだなら、肉心の思いにどれほど翻弄されようとも、自分は神様から出たものだ、神様が自分の本当の親なのだと言い切れる。み言葉に触れる恩恵に与りながら、一度目を通して解ったつもりでいたりする。何も解ってはいない。心を打つもの、自分の良心にスパークするものを受け取っていないとするなら、何も解ってはいない。み言葉を悟性で理解しても理解したとは言えない。み言葉は悟性の理解にあるのでなく、心情の理解にある。心情が波打つ事でしかみ言葉は受肉できない。み言葉を受け取り消化する過程は汗を条件とし涙を条件とする。汗を流す事が咀嚼であり、涙を流す事が吸収だ。み言葉を食すことで自分の血となり肉となる。み言葉を食すことで神の細胞に作り変えられる。御父母様の勝利された神霊をいただくのであり神霊を宿すのだ。
2008年10月22日水曜日
天の店として
レストランはひとつの統一体として、どういったリズムを全体として奏でているかを見る必要がある。店の造りにどれ程資金を投入しても、その雰囲気が全体から見て浮いていれば返ってマイナス作用が働く。立派な店を作りはしたが、従業員がその雰囲気に合わずギクシャクして、それに振り回されるようでは主客転倒だ。従業員の配置、客の配置、従業員の動きの流れ、全てにバランスが取られ全体的な流れがスムーズで、場所によって配置が偏ったり動きが堰きとめられるようでは宜しくない。談笑しながら落ち着いて食事をしている客をイメージしながら、それに合わせて照明の強さを調整することも必要である。カウンター内オープンキッチン内の従業員の動きやノイズまでも客に取ってサービスだと言えるほどに全ての従業員が客を意識していること。メインディッシュを最も大切なものとして扱いテーブル上にゆっくり配されるとき、客の驚きの視線を感じ小さいため息が漏れるのを受け取りながら食を供えるセレモニーとしての敬虔さを添える。どれ程忙しい時間帯であっても最低限一言添えることを忘れたくない。本来なら素材の説明、料理法、如何にシェフが心を配ったか等、くどくならない程度に伝えることが大切だ。そういった全ての事がレストランに於ける食への付加価値である。投げるように配された膳と恭しく丁寧に配された膳の味がまったく違うように、店の隅から隅まで心を配った分、付加価値は高まる。それらの内容は別に我々の店に限らず全ての店がその程度の認識は持っている。或る意味文化的生活から距離を置いた我々のほうが無頓着で客に与え喜んでもらおうとする直接的感性は鈍い。実力に於いて追い越せ追い抜けと、この世を目標に歩んできた事業に携わる我々ではあるけれど、それはこの世に迎合することを意味してきたのではないか。この世を目標に置く以上この世を凌駕することは出来ない。天の願いを受け御父母様の代身として我々が携わる事柄が、そのまま御父様が携わる事だという深い認識を持つことを第一義に置けば、事業の在り方も違った表現方法になるのではないか。我々が経験し接する人々に対する御父様の一期一会の想いを強くすれば本当の在り様に近づけるのではないか。それには我々の持つ愛の容量度量を増やす以外ないだろうし今まで気付かなかった愛の領域へも触手を伸ばし新しい世界観を提供することが必要だろう。決して経費削減にエネルギーを消耗させ売上増に躍起になって取り組む事に新しい世界への道は繋がっていない。今のような経済の混乱期であればこそ、今まで気付かなかった或いは気付く必要がなかった事柄に焦点を当てる事ができる。とにかく本物しか生き残れないし生き残るべきではないのだ。整理される時が来たのだ。自分も店も御父様の手足であり御父様に取ってこの世との接点にあるとの認識は持っているけれど、本当の意味で御父母様に繋がっているかどうかが問われようとしている。真の父母に繋がり、真の愛の支流となり、真の愛の花が咲くように。
2008年10月18日土曜日
今日の想い 18
より大きな事業に手を着けたいのは解る。それが天の願いだと言われれば、興奮して我を忘れて飛びつく。ビジネスチャンスは確かにあるだろう。摂理の要求でもあるだろう。天が微笑んでいる今を逃すことは不信仰だとの責めがあるかも知れない。しかし手さえ付けて置けば後は霊界が働くなどと言う魔術的なことを信じるのはどうかしている。霊界はそのようには働かない。そういう霊界の捉え方はここに無いものを一瞬で現せと念ずる黒魔術で、我々の内的な内容に働きかける霊界ではなく外的なものに目に見える形で働く霊界を信じる物信仰にある。要するに宗教的唯物主義だ。イエス様は奇跡を使い目に見える霊として現されたけれど、その奇跡ゆえに条件を無くしたと語られたみ言葉があったと思う。お父様はそのような手法で我々に霊界を示されたことは一度も無い。事が成るにはそこに到達するまでの段階を一つ一つ越える以外ないのだ。大きな話を持ちかけられその度に失敗している様はサタンにすればどれだけ滑稽で天の面目を殺ぐものであったか。苦労に次ぐ苦労を重ねながら紙一重ずつの復帰を重ねる一方で、これが自分の使命だと狂信して大枚を投じ一瞬でぼられる。我々の幼さ馬鹿さ加減も数十年を重ねて流石に経験としてインプットされるものと思いきや、相変わらずその体質は変わらない。信じて飛びつくのはいい。飛びついたのならそれが一つの形になるまであらん限りの精誠を尽くすべきだ。それだけの覚悟が無いのに手を付けるのは本当の意味での責任意識、責任心情に欠けている。霊界が我々を飛び越えて直接的に物事に働くなら、我々の存在意味は無い。訳のわからないお化けのような自分の勝手な霊界概念を捨て、霊界の意味するところを本質的に捉え、この自分という存在の思考、心情、意志にこそ霊界が関わる或いは霊界を関わらせるのであり、理解を超えたものが目の前に現れるのではない。一つの課題を与えられて自分の中に自信確信が持てない限り手を着けるべきではない。関わっている内に見えてくると説得され、それで入っていくならそこに投入される内外の投資に対して、完全なる責任を負う覚悟を持って深入りしていくべきだ。既に我々は大きな負債を内的に抱えている。み旨だからと言う言葉に呪文をかけられて関わったものの、中途で投げ出した多くの摂理に対して莫大な負債を抱えている。我々の認識のないその負債を誰が清算するのか、御父母様に全てを背負わせながらそれに対して他人事のように新たな事業や事柄に頭を突っ込む。
信仰
どれほど信仰歴が長かろうとも過ぎ行く時が自分を成長させてくれる訳ではない。逆に長ければ長いほど、天の願いに沿うた自分の内面の在り方なのか、謙虚に問いただす姿勢が必要になる。中途半端にみ言葉を理解しながらそれなりに忙しく時を過ごして、一人前の信仰者気取り(自分も含めて)でいるのを見れば落胆されるに違いない。信仰者と言うけれど、たとえ信仰があると自分で思いながらも、考え方や生活が内的霊的なことを主軸に置かず、外的物質的なことに重心を置いて歩んでいたりする。信仰の服を装ってはいるが内面は外的事柄に価値を置いて歩んでいる。当の本人はそれで全うな歩みをしていると信じているから始末が悪い。問題を起こさなければ信仰者、言われる事に素直に従えば信仰者、献金等やる事をやっていれば信仰者、条件を立てていれば信仰者、そういったことは自分は村八分にされたくない、一緒に天国に連れて行って欲しいとの願望或いは下心から自分は信仰者だと言い張っているだけで、本来のあり方とはかけ離れている。自分の中に帰依する内容がどれだけあるかを問えば、それが自分の信仰の度合いを表している。物に限らず、内外の自分が所有していると認識しているあらゆる事柄一つ一つに対して、執着しているかゆだねているか、囲っているか解き放っているか、そう問うていけば自分が何者で何処に所属するのかは見えてくる。周囲の目に自分がどう映っているかばかりが気になり、信仰の本質を備えることができず張りぼて信仰となると、他人のことをとやかく材料にして信仰評論をし始める。落ちただとか離れただとか、その言葉には信仰の香りが無いし愛がない。最初に誰がその言葉を使ったのか知れないが、皆にその裁きの思いが宿っているからその言葉が出てきたのだろう。行動はどうあれ、自分に信仰があるかないかは自分が判断するものだと思う。自分がどういう空気の中に存在しているか、自分自身を含め自分の周囲を占めるものがどういう様相をしているか、それは過去に自分がどう生きてきたかの証、何処に価値を置いてきたかという信仰の実体。明日を創り未来を創るのは今日どういう信仰の種を撒くかによる。視線を情けない今の自分の在り様と自分の周囲に釘付けすれば目を逸らし無視し殺すしかない。視線を明日に向けることだ。信仰とは良心を羅針盤として明日を見ようとする意志だ。
2008年10月17日金曜日
中心と自分
中心をどれほど責めようとも責めた言葉が全部自分に跳ね返ってくる。自分が組織の一部であるということは、組織全体の責任の一端を担うことだと思い至ればそうなる。たとえ中心に対して責められる内容があるとしてもその中心の基に、組織に於ける自分の在り様を委ねている。言い換えればその中心を中心として頂いているのも、良し悪しは別として因縁に因るものであり避ける事はできない。日本人でありながら自分は日本人はきらいだから他国の人間になるといっても出来ない相談であるように、その星のもとに生まれた存在であることを認めて受け入れなければ逃げてばかりいても前には進めない。嫌だと言って袂を分けたとしても逃れられる負のしがらみと共に自分が依っていた気付かなかった必要不可欠の部分も失う事になる。分かれてみて初めて、気付かなかった依存していた多くの事柄が見えてくるが、日頃息が出来る事のありがたさに思いが至らぬように、その中心の傘の元にいると気付かない。日本の多くの兄弟は今ある中心者のもとに歩んできた。良くも悪くも日本の代表として御父母様に選ばれたひとつの運命共同体として、その中心者を中心として生死を共にし苦楽を共にしてきた。その中心者に顔を向けて歩む事がみ旨を歩む自分の存在を確定する事であり、父母に繋がる道でもあった。好きだとか嫌いだとか、間違っているとか正しいとか、そういう外からの目線で判断する事自体、自分を否定する事だった。指示系統もそこから流れるが御父様が日本として愛される愛もそこから流れる。御父母様が、自分がその一部である処の日本をイメージされる時、明らかにその中心者のイメージが入っている。であれば腐れ縁どころか、その中心を御父母様の前に立てることが日本を立て、自分をも御父母様の前に立てることとなる。御前で証でもされて、御父様が喜ばれれば、この自分の事で喜んで戴けたように素直に嬉しい。
2008年10月16日木曜日
今日の想い 17
本当の強さは刃(やいば)を内面に保持している者から滲み出る。自分の理想像を捕らえたものがその高みに自分を向け続けるには矛盾する内面を直視しなければならない。山頂に向けてそそり立つ絶壁に沿って足を進めていけば、その足を背後から引き摺り下ろそうとする存在が自分の中に居座るのを視る。精神の高潔さを目指せば目指すほど、自分に居座るこの存在が妖術でも懸ける様に理想像を曇らせ意志を萎えさせる。極めて巧みに、それが自分本人の願いであったかのように魂を抜き取る。内面に保持した刃は常に研ぎ澄まされ、その切っ先は自分に向けて正眼に静かに構え、直ぐにも動に転ずる冴を含ます。心の隙あらばムクムクと湧き上がる物の怪をその刃が切り刻む。萎える気持ちを装って顔を覗かせる悪なる霊を自分の中に視、それを分別して理想像への想いを強くする者は内面の刃を保持している。その時点で悪霊にいとも簡単に魂を許す貞操観念のない人種とは異なるが、しかしながら切れども切れども醜い頭を覗かせ手足をくねくねと躍らせる湧き上がる内なる霊はきりが無い。それらは因縁を持って受け取った、陰の欲望を満たす為にミスユーズされたひとつひとつの霊。恨みに顔を歪めた数え切れぬ霊を内包したまま生き永らえているのが堕落人間の姿だ。内なるこの戦いを本当に終わらせる為には燃やして焼き尽くす以外ない。霊的な火炎であるみ言葉を内面に浸透させるしかない。み言葉の力、み言葉の炎の力に身を委ね、偽りの自我が焼き尽くされる事で真の父母により新生する真の自我が芽を出す。
2008年10月15日水曜日
日日
情を与えることは愛を与えることとは違う。愛は与えても情を与えるなと、語られたみ言葉の中にはっきりと書かれている。キリスト教の関わりが希薄な日本人の多くは特にこの違いを曖昧にしている。要するにアガペーの愛とエロスの愛の違いのことだ。日本人のこの曖昧さ故に我々の教会生活も笑えるくらい男女の線引きがなされていた。肩でも触れようものなら本人からも周りからも白い目で睨み付けられ、カップに至るまで男性用女性用と分けられていた。過ぎたるは及ばざるが如しで、かえって意識がそこに釘付けとなり、男子校にうら若い女性教師が就任するような危なさがある。しかし日本の性意識の堕落振りを見れば致し方の無いことなのかも知れない。堕落性の多い自分だから特にそう思うのかも知れないが、優しさとか慰めといった言葉の中に既に肌の触れ合いを想起させるものがあると思う。英語表記に直すと印象が全然違うと思われる含みのある言葉が日本語には多くある。日本語のイントネーション自体、抑揚がなく水が流れるような滑らかな横的印象がある。横的愛のエロスの流れもそのようで、源氏物語の光源氏が、流れ行く想いに身を委ねる様を優雅な趣に捉える日本の民族性が伺える。日日家庭の一家庭として思うに、日本の一つの課題がそこらへんにある。祝福家庭として真の父母に繋がり、縦的な愛に貫かれた夫婦であるべきなのに、横の繋がりが勝手に主体となり、父母がいてもいなくても夫婦の関係性が保てると言うことだ。父母はすすけた神棚に鎮座するものと無意識に捉えており、夫婦や家庭の関係性に関わらない。たまに集合が懸かったり何か頂き物がある時だけすすを取り払いお参りする。生きて袖触れ合いながら歩んでおられるのに死人の扱いと何ら変わらない。祝福の種は頂いたけれど育てる愛の経路に思いが至らず、普通一般の日本的家庭概念で囲んでしまう。交叉結婚と言われるように、ことごとく背景が違うと先ず縦的な愛を立てざるを得ない。縦を立てなければ横も通じない。父母抜きには有り得ない関係性がお互いの中でそして家庭で培われていく。韓国に嫁いだ日本妻達の並々ならぬ苦労をよく耳にし、同情を禁じえなかったけれども、お父様は、本人も日本としてもこれが最善であり神に通じる直短コースであることを知っておられたのだろう。無知なるかな我が家庭も大きく遠回りをしながら、父母が願い父母が共にある本来の家庭に軌道修正しつつある。回り道をすればするほど必要以上の犠牲を払わざるを得ない。
2008年10月14日火曜日
今日の想い 16
内的在り方、即ち魂の在り方に於いて人間としての理想を何処まで高く掲げられるか。理想的在り方に対する飽くなき追求こそ生きている意味であると認識して行動、思考、感情全てをその認識で浸透させる。その認識で沸き立つほどに行動に熱を持たせ、理想が内なる法となるべく思考を結晶化させ、感情領域が自分と言う枠を飛び越え世界を包む。個としての理想イメージをイエス様が確立されたように、御父母様は家庭理想を確立された。神様が、人が一人でいるのはよくないと語られるように家庭が最小単位となる。家庭理想が掲げられる事で、個としての理想が理想足りうる。神への志向意志が自分の中にあるかどうかは創造理想を追求する思い入れが自分に在るかどうかだ。み言の一つ一つに、天のお父様の息子としての自分本来の理想をイメージでき、そうありたいと切望する熱いものが内なる中に燃えているか。燃え盛る炎としてのみ言を自分の内に宿さない限り、生きて働くみ言とはなりえない。み言を辿る時、その生命を受け取る事が出来ない、その本質を受け取ることが出来ない悔しさを覚えながら、それこそ悪魔の魔法にかけられ獣に姿を変えられ、神の言葉の理解できない自分であることに対して憤りを覚えない限り、魔法のバリアを突破することはできない。あまりにも容易く目の前に広げられたみ言を、容易さゆえに上辺だけをなぞり、それが自分と世界はおろか天宙をも変えるみ言であることに不信を抱き続け、真の意味でみ言に出会うために40年を費やした。しかし大きく迂回路程で40年を越えた今、我々は本当に準備できているだろうか。兄弟一人一人の内なる世界にみ言は燃え盛っているだろうか。神の理想、御父母様の理想をしっかりと捉え切望しているだろうか。天の時計は刻々と刻まれている。我々が消え去ろうともみ旨は完遂される。
2008年10月13日月曜日
霊の本質
人間は二つの状態を行き来している。ひとつは意識圏、今ひとつは無意識圏。起きている状態と眠っている状態。意識圏は物質界に於いて肉的五感と覚醒状態の思考を通して感知し関わっている。眠っている間は五感で物質的感覚を受け取る肉体から抜け出し霊界の入り口付近で守護霊に護られながら存在している。無意識圏が無意識圏である理由は人間が意識できる状態が非常に限られたものであるからで、物質界の荒い状態をのみ意識できるほどに人間の感性は限定的なものとなった。意識するしないに関わらず、地上界で様々な経験(見聞を含め)を通してあらゆる霊を受け取っている。物質と言えどあらゆる物はその霊的本質の表示体であり、霊的なものが見える形となって現れている。唯単に見たり聞いたりする物や事柄であっても、感覚を通して受け取ったと言う事は霊を受け取っている。人間間のやりとりや社会での関係性はより複雑な霊を受け取っている。受けた霊に対して唯物論者は何もしない。受けるばかりであらゆる霊に押しつぶされながら生を送る。本来受けた経験を自分の内なる中で感謝なりより高次的な思考や情や創造意志に昇華されるべきで、地上界の全ての霊は人間のこの働きをして霊的高次の霊に結晶されるのを待っている。それが本当の意味の万物主管だと思う。あらゆる万物はその霊的在り方を人間を通して高められる。高められた霊を集める事の意味するものはより愛のある人間存在と言える。人間の一生を通して地上生活に関わる事で、より深いより広いより大きい愛の理想を自分と言う宇宙に作り上げ集めている。肉体を脱ぐとそこに住むというよりそれが私の在り様そのものとなる。物だけを信じて生を終えた者は死後、受けた霊を昇華できず物質に留まる霊の重みに押しつぶされ霊の恨みに翻弄される。生きている間、霊から護ってくれていた守護霊は生きていればこその守り神である。護られている間、即ち生きていればこその地上に於ける愛の学び愛の訓練に他ならない。
2008年10月9日木曜日
飛躍する
アメリカの経済は底なし沼の様相を現してきた。論理的に考えればこの国は破綻せざるを得ない。諸悪の根源は金融にあるが、実体経済との線引きが為されている訳ではないので影響を受ける。更に金融取引は実体経済とは桁が違うのでその影響は計り知れない。この経済大混乱は摂理的観点から見るとどう説明できるのか。2012年末、或いは2013年初頭に於ける摂理完遂は決定事項で、それに合わせて霊界主導で全ての動向は仕向けられていく。経済の動きも決してそれに漏れる事はない。そこに意志が働いていることは確実だ。摂理の一端を担い歩んできた立場で今我々がどういう状況の中にあるのか、はっきりと認識する必要がある。勿論同じ経済圏内に組し、同じ貨幣同じ価値基準で動いているわけだから、我々だけが浮き上がることは出来ない。しかし摂理動向として経済の流れや方向性が見えるなら、同じように影響を受け同じように混乱の波に曝されるとしても、その対処の仕方は違ったものになるはずだ。前にも述べたように、我々の経済活動は利益そのものにその意義を見出すのでなく、その基盤に意義を見出しその為に利益体制が必要だと捉えるべきだ。神が関与する事ができる真の父母との関連や因縁を付与できれば、そこは我々の基盤として神と霊界にインプットされる。その観点をしっかりと腹に備えてこの混乱期を見渡せば見えるものがないだろうか。予定論に記されているように、復帰摂理の目的も善で、その目的を成就するみ旨もまた善であるべきで、そうであるなら我々の活動が復帰摂理の目的に適っているなら、それに相反する事柄があるはずがない。この混乱期が予定としてあるなら、この混乱期を持って基盤を大きくすることが出来るはずだ。ただ我々の思慮が行き届かない為、津波や大波に翻弄されるしかない。ここが我々事業を担う者に取って、本当に信仰の見せ所であり御父母様に侍り精誠を尽くす踏ん張り処だろう。しかし我々の中に神が相対するものだけなのかどうか、サタンも相対できるものがあるならそれを整理する事が最優先だ。神が相対できる個人となり組織となってこそ、この混乱期を逆手に取る大飛躍が望める。
2008年10月8日水曜日
お迎え
一度だけ、御父様と私と二人だけで同じ部屋に居合わせてしまった事がある。偶然に居合わせただけで、別に個人的に呼ばれた訳でも何でもない。お食事をお世話させて頂いた折、盛り付けた皿を食卓に一つ一つ運んでセッティングしていた。いつもは御付の方やVIPが大勢おられて、お近くで拝見するのにも多くの頭越しに視界が遮られる場合が殆どだ。しかしその時はメインプログラムが終わった後で僅かの御付きの方とゆっくりしておられた。二階のお部屋で御母様と居られるものと思っていたが、何度かダイニングと調理場を往復している間、スッと音も立てずに入ってこられた。上に居られるとばかり思っていたので視界に入ってこられた時は突然の事でびっくりし、立ち尽くすしかなかった。少し余裕でもあれば啓拝を捧げることに思いが至っても良かったはずだが、頭の中は真っ白で手にしていた皿を辛うじてダイニングテーブルに置いて調理場に引き返すのが精一杯だった。後でダイニングに入っていったオンニは慣れた風で、ここに居られましたかと言った様な韓国語で一言謝意を伝え、笑顔で簡単な啓拝を捧げておられた。御父様もそれに応える形で一言口にされた。その時は食事の事で精一杯でそれについてどうこう思う事もなかった。しかし片付けも無事に終わってひと段落し、帰る車の中でやっと余裕が出てきた頃、おもむろにその時の光景がありありと浮かんでくる。自分とオンニのこの対処の違いは余りにも大きい。御父様との距離の違いを認めざるを得なかった。そして今ひとつ気になったことは、御父様が私を目にされた時、瞬時に視線を外された事だ。その時は目にするのも汚らわしい自分なのだと、落ち込みも尋常では無かった。それから何度か要請を頂いて御礼を述べる機会も何度かあったが、目の前にされても直視されたことは唯の一度もなかった。お言葉を頂くこともあったが、目が細すぎる為か何処に視線を合わせておられるのかさえ解らない。私だけにそのような態度を取られる訳でもないということが解り、胸のつかえが降りた。焦点を合わせれば霊的背景が飛び込むだろうし、視線が合えば瞬時に内面を見抜かれるのだろう。普通、皮膚に覆われた身体の輪郭や表情に現れる印象のみでは、本質的なものは見届けられない。その人間の極々一部を受け取り、それで見えない背後を判断するのは殆ど誤解に近い。しかし一瞬だけ目が合った御父様の小さな瞳の奥には、私の全てが映し出されているように思えた。自分は御父母様をどれ程慕っているかが、御父様が御覧になられてどのように映るかの判断材料なのだとも思った。前に一度、数名のスタッフに混じってホテルにお迎えした時、御父様はいつものように花束を受けられウェルカム拍手を受けられた。そして案内されて部屋に足を向けられる時、急に立ち止まられた。そして誰かに呼び止められたかのように、背後を振り返り探すようなそぶりを見せられた。私はその時かつて無いほど慕わしい思い、申し訳ない思いで感極まっていた。いつもは準備の事、時間の事で一杯で形の上でのお迎えに過ぎなかったが、その時はいろんな事情が重なり相当落ち込んでもいた。私は一瞬立ち止まられ振り返られた御父様の様子をみて、私を探しておられるんだと勝手に思うことにした。
2008年10月7日火曜日
逃走記 3
車窓からいろんな景色が飛び込んでくるが、それを楽しむ余裕は全く無かった。自分が消え去ったことはすでに皆の間の周知となっているだろう。朝礼で自分のことはどう触れられたのだろうか。朝食の場で話題の中心となり笑われているだろうか。そんな想像が内面を行き来しながら、何処までも何処までも落ち込んでいった。どんより曇るか雨でも降ってくれれば、自分は不自然なく、その景色と調和し、それが今の自分の居場所となれるものを、、。しかし空は青く澄み渡っている。青い空が余計に自分を孤独な感情に追い遣る。否定的な思いや感情が内面をことごとく蝕みながらも、しかしまだ許される道が途絶えたわけではないという叫びがその下に息づいていることも解っていた。遠くない将来に目を遣っても、教会と全く関係の無い人生をイメージする事はどうしても出来なかった。職場で親元の連絡先はわかっているはずで、数日の内に連絡が来るはずだと言う期待もあった。電車を乗り継ぎ、さらにバスに乗り継いで、久しぶりの故郷に足を着けた。田舎はやはり寂しいところだ。バス停で待っていてくれた父の軽に乗り込んでやっと家まで辿り着いた。家では早々とコタツが出されていた。母は私の顔を見るなり目を伏せながら、コタツにあたってゆっくりするように勧める。母の目に光るものが見える。元気を装って帰ってきても何を思っての事かぐらいは親子であれば察しはつく。祖父の症状の悪化は度を増していた。痩せこけ、布団の上に上体を起こされた祖父は、自分の見覚えの或る祖父と比べて半分に満たないほど小さくなっていた。痴呆も進み、久しぶりの孫の顔を見ながら声にならない声で笑っていた。笑いながら涙をぼろぼろこぼし始めた。居た堪れなくなった。申し訳ない思いが堰を切って溢れだした。くしゃくしゃになった祖父の顔を見ながら、上司に許しを請うてでも再びみ旨に身を預けることをその時決めた。どれ程力なく弱い自分であっても、この祖父の魂を救い親の魂も救えるのは、み言を受け入れたこの私しかいないと思った。祖父や親に対するこの想いを封じ込めてまで逃げて暮らすことはできない相談だった。田舎に帰って二日して連絡があった。「上にはちゃんと説明しておくからゆっくり休んだら帰るように、」上司の声だった。
逃走記 2
玄関辺りの物音が途絶えエンジンのアイドリングの音が耳に入る。ふかしたエンジン音がゆっくりと遠ざかるのを確認しながら起き上がった。散らばっている兄弟達の足を踏まぬよう細心の注意を払い戸口まで移動し、物音を立てぬよう引き戸を開ける。上体を起こした者がいないことを確認するとゆっくりと戸を閉めた。身を返すと直ぐそこは玄関だ。夜目にも判る様、下駄箱の左下隅に作業靴に隠れるように用意した自分の革靴を仕込んで置いた。落ち着くように無理にでも動作に余裕を持たせた。玄関の戸はどれ程慎重に開けても音は発する。であれば体がすり抜けられる幅まで一気に開けたほうがいい。面白いほどに事が運び、ついに私は念願の圏外の身になった。それが何の意味かは考えないようにして、しかし確かに境界線は越えた。駅まで足を速めた。深まった秋の明け方、冷気に身を割り込ませながら、開放感に包まれていた。その興奮に心躍らせながら乗車券を購入しホームに流れ込んだ列車に足を踏み入れる。落ち着いてきたのかやっと周りの景色が目に入ってきた。無表情な通勤族が視線を宙に浮かせて発車を待っている。薄手のジャンパー一つで飛び出してきたが結構みんな厚手ものを羽織っている。聞き取れない車内アナウンスの後、笛が長めに構内に響くと列車は滑り出した。乗換駅を確認して座席深く座りなおした。望み通り車上の人とはなったが、親元の所に取り敢えずは帰るにしても、それ以降のことは全くの白紙状態だった。列車に乗るまでが開放感に浸り興奮の極みだったようで、落ち着いてみるといろんな思いが錯綜し始めた。本当にこれが自分の願いだったのか取り返しのつかない選択をしてしまったのか、いつのまにか開放感はそのまま不安に取って代わった。今まで自分が思うてみても居た堪れないほどの心の責めを浴びてきた。口を割らぬ者が拷問に耐え切れず、我意識せず口に出してしまうように、それほどに切羽詰ったものが自分の中にあったことは事実で、或る意味口を閉ざし応えてくれない神様への最後の自分の抵抗の態度とも言えた。行動に対する負債はかけらも無かった。ただ、自分なりの精一杯の内外の苦労が全く報われなかったと結論づける自分が悲しかった。一言の天の慰めを期待すれども黙して語られる事は無かった。涙が後から後から流れて止まらなかった。袖口で拭いながら、ティッシュを用意しなかったことは唯一計画ミスだったと思った。
逃走記
万物復帰で一軒一軒回っていく。献身して以来、殆どがそういった類の歩みだった。魚を扱うようになっても商品が魚に変わっただけで相変わらず一軒一軒尋ね歩いた。いろんな仕事の中でもその手の事が最も嫌いだった。それでも離れず落ちずしがみ付いて来れたのは、何とか祝福にありつけたいという思いがあったからだ。しかし内的には苦しくて苦しくて、今日一日もつだろうか明日はどうだろうかという状況だった。ある時、苦しさに辟易して限界を感じ、兎に角楽になりたいと或る決意をしてしまった。数日経ってその日は来た。その前日、あらん限りのナケナシのヤル気を振り絞りながら最後の業務についた。歩みを終えていつものように洗車し、いつものように夕食を取った。時間ばかりが気になった。これほどに時間が刻まれる事に対して意識したことはかつて無かった。就寝時間になって布団に入っても、寝れる訳は無い。兄弟達の鼾を耳にしながら布団の中で小さく固くなっていた。皆の目を誤魔化して着衣のまま布団を被り財布を握り締めていた。誰にも悟られないように決行するにはそれなりの知恵が要る。仕入れのメンバーが築地に向かうのは朝四時前。大部屋に皆が寝ていても仕入れの目覚ましは三時半にセットされ、小さい音ながら隣から耳に出来る。しかし三時以前は誰か一人二人は調べものをしたりして起きていたりする。気付かれれば加工場に用事があると言い訳したとして、戻って来なければ疑われる。そう考えると仕入れのメンバーがごそごそと物音を立てながら仕度し、トラックに乗り込んで出掛けた直後が最適時間帯となる。後を追う様にして出てしまえばたとえ誰かが気配に気付くとしても起き上がってまで詮索することはないだろう。仕入れのメンバーが忘れ物をしたぐらいに取ってくれるはずだ。皆の起床は六時で、五時以降には起き出して来る者もいるのでその頃には既に列車に乗り込んでいるべきだ。何度も何度も段取りを頭の中で繰り返しながら、夜目に辛うじて確認できる左手首の時計盤を凝視し続けた。全ての感情は払拭され自分の下した命を遂行することのみ、自分の中で息づいていた。
2008年10月6日月曜日
今日の想い 15
自分で決断すればこそ、自分で責任を取るという意志が芽生える。言われた事をそのまま受けて行動に移したとしても、その行動に責任意識は伴わない。せいぜい不平不満を払拭するのが精一杯だろう。何事にも自分で決め、実行し、そして検証するというプロセスを踏まない限り、自分自身の経験実績とはならない。いつまでたっても、いつも何事かに関わっているにも関わらず、何事にも他人事の域を出ない。言われたままに従うと言う事が、本来その事柄を自分の中で咀嚼し、自分の決定事項として納得し、それに基づいた行動に出てこそ、指示された事柄であっても自分の事柄として責任意識が伴う。受けたことを何の思慮もなく行動に移したところで、本来の願いとずれが生じ時間や距離を置く毎に益々大きくなっていく。組織に於いて願いや使命を受けて結果を出すということは、結果を出すだけの責任意識、責任感情が自分の中に培われない限り有り得ない。責任意識、責任感情は自分の決断した行動にしか伴わない。兄弟の多くは、自分が決意するという自分起点の能動的意識、能動的態度が大きく欠落している。この世では地にしっかり足を着けて自分で歩かなければ生活にも事欠く。決意し行動するというのは欠かせない生きる術なのだが、兄弟はある意味、生活は勝ち取るものではなく与えられるもので事実与えられ飼いならされ、生活向上の意識も無ければやがて向上心という言葉さえ自分の中に見出せない存在まで落ちた。決断することが無いから決断する時の勇気も解らないし、行動結果として失敗した時の心の痛み、成功した時の達成感も理解できない。そういう人間的な味わいを忘れて、どうして社会的人間を感化できたり、この世と渡り合って勝ち抜いていく事ができるのだろうか。祝福家庭だという誇りは大切だが、箸にも棒にもかからない夢想動物から目覚め、生きている事の手応えを覚える者になる必要がある。自分は公金問題もアダムエバ問題もカインアベル問題も無い、それは自分が勝利した内容ではなく唯単に避けていただけの事に過ぎない。出る杭は打たれるから波風立てずじっとしていただけのことだ。何でもいい。自分の社会生活に対する自己欲を利用し先ず行動に着火させることが大切だ。欲に火がついてそれが活力となり行動が回り始めてその利益なり実りが生じる。そうなってからでも十分自分を主管していくことはできる。自分の内から生じる悪、外から流れ込む悪、それらと渡り合う土俵に自分を持って行き、それを主管する過程でこそみ言の力を見出せるだろうし、自分に取り本物の善を勝ち取る事が出来る。避けていれば自分の内なる善悪も把握出来ないし、内的に闘う意味も解らない。中間位置で何の変化もしていない。
2008年9月30日火曜日
今日の想い 14
青春を返せ裁判が起こるほどに、ある兄弟は自由を奪われてきたと言う認識の中で歩んできた。しかし献身生活と言う名の不自由を選んだのは自由意志で選んだのであり、自分が信じる自由が欲しいのなら献身生活を辞すれば済むことだ。人間は自由意志の存在であるけれども本当の自由意志を魂の中に見出す者は少ない。殆どは自分の欲求を自分の意志と勘違いしている。欲求の出所を見出せないままに欲求に踊らされている。真の自由は魂の中に築くものだ。神に直結する自我から来るものと、悪霊雑霊の類から来るものが魂の中で混在している。どの思いが本当の自分から来るものか分別できず曖昧にしているから、自分で自分の人生に責任が持てず他人にその積を擦り付ける。確かに外的側面を言うなら、身体を休める暇もなく活動していた時期もある。自分を活動に押し出すことに病むほどに精神を使い込み、魂がへとへとになった時期もある。上から否応なくプッシュされ、それに合わせようと必死で喰らいつく在り様に、別の意志を起こそうとする精神の余裕はない。だからこそ守られた部分もあることは否定できない。生活に於いても内面の在り様に於いても、余裕が出てくれば堕落的要素の別の意志が頭をもたげる。み言をもって如何に戦いを挑み分別していくか。守られて悪への道を塞がれ善の位置に立つ立場と、悪に立ち向かい戦いの末、勝ち取った善の位置に立つ者とは違う。そこで初めて魂に善なる要素は浸透し、み言に備わる霊で自我が作り変えられていく。言われるままにやってきた、ある意味集合的魂の手足でしかなかった状態から、御父母様に戴いた霊を宿す分家魂として、自己の判断による独立した内的在り様を確立する者になることを願われている。そういう時代圏で旧態以前の意識や在り様は取り残されるしかない。
2008年9月28日日曜日
今日の想い 13
天使長ルーシェルの誘惑がなかったら、人類始祖の堕落がなかったら、今のような人間の在り方は無かったろう。今ある人間としての姿や在り様は堕落したからこのような在り様をしているのであり、堕落の結果としての人間であって本来神様が創造理想としての在り様とは違うはずだ。宗教に関する事柄はあくまで内的な内容であって、外的なこの世界、或いは人間の外的在り様は神の創造理想と寸分違うことは無いと認識する者の方が多数とは思うが、それは堕落人間の思い込みに過ぎない。手足が複数あるとか火星人として描かれた蛸が立ち上がった様子であるとかを想像して、馬鹿馬鹿しいと思うのかもしれないが、そういう発想自体が堕落人間的発想だ。今の我々の感性で想像できる在り様とは全く違う在り様をしている。しかし言えることはルーシェルの血が人類始祖に混入された以上、今の人間の在り様にルーシェル的な在り様が明らかに組み込まれているはずだ。目だろうが耳だろうが本来の創造理想の在り方とは違うルーシェル的在り方をしていると思う。神の様に賢くなると言うルーシェルの誘い文句も、明らかに今まで隠されていた視界が開け、届かなかった音階が耳に入ってきたのだろう。我々が五感を通して受け取るプロセスで、器官自体も受け取る感覚もルーシェル的なものに違いない。堕落によって勝ち取った似非感覚に違いない。だから視覚を通して受け取ったものも他の感覚も、そのまま鵜呑みにすべきではない。賢くなりたいとの思いからアダムとエバは認識を得ることを早まった。早まったが故にその認識は欠落的なルーシェル的認識感覚となった。我々の目はルーシェルの目であって神様の目ではない。我々の感覚はルーシェルの感覚で神様の感覚ではない。だから自己否定、全てを否定するところから多くの宗教は出発したし、我々の信仰生活も自己否定からの出発だった。姦淫の思いで女を見るならその目を抜き取り、罪を犯す右手があるならそれを切り落とす。その言葉には悪魔の現れを呈した肉塊に対する恨みを宿している。悪魔の血、悪魔の肉体の中に魂は組み入れられてしまった。魂と肉体の分離が可能であるなら、そしてルーシェルら一族への完全抹殺が可能であるなら、人類という肉体の瓦礫はとっくに焼き滅ぼされていただろう。しかし人間は矛盾性を孕んだ存在であって愛の道理に反する事も平気で行うが、神自身が矛盾性を孕む存在とはなり得ない。妻が犯され娘が犯されるのを見ているしかなかった。それ故に堕落の事件以降、最も悲しみ最も苦しみボロボロになりながら人類全ての重荷を背負ってきたのは神御自身である。不自由な子供を見る親の思いが根底にある。今の今まで許して許して許し続けてきた。しかし親であればこその怒りも持ち合わせ鉄槌を下す時も又近づいている。怒りの封印は必ず解かれる。
2008年9月27日土曜日
今日の想い 12
この感情をどう解き放ったらいいのだろう。この感情に呻吟することがどういう意味があると言うのだろう。自分の魂の幼さ故に生み出されるものなのか、それとも甘受すべきものとして受け入れるべき何らかの意味があるのか、うろたえるばかりで光が見える出口は見出せない。西暦2008年9月26日と言う一日、地球上のこの広大な土地の一点に身を置き、この一つの感情に押しつぶされる魂が存在するという現実。自分は試練の只中にあるのだろうか、ただ単に謂れの無い霊に弄ばれているのだろうか。自分の中で終わる事のない問い詰めが答えを見出せず、真っ暗な中を彷徨い続ける。言い知れぬ不安感情が大波となって幾度も幾度も襲い続け、それに翻弄された思考は砕け散った小船の如く、断片的で無意味な夢のように無力で、波を治めるはずの意志のかけらさえ何処にも見出せない。感情の海に溺れ為す術はない。これほどまでに傷つきやすい魂なのかと思い知らされ、繊細さより強さが要求されるこの世界で、どのように生き延びていけばいいのか。魂を鈍化させ毛が生えるほどに逞しくなることが生きる術ではあるとしても、魂を貶めてまで生き永らえることに執着する意味はないだろう。それならば魂をすり減らしながらも、より高みを目指すことの方が神を慰めみ旨を歩む者の姿勢だろう。大気圏を突破する為には自己の魂の擦り切れ磨り減る犠牲が伴う。それさえも良しと認識して更なる高みを目指して行く事で、垂直最短距離で光漏れる出口を視野に捕まえる事ができる。そう信じ込む。それが犠牲という意味だろうし信仰という意味だと思う。そう結論付けて線を引くとしても、押し寄せる波が消え失せる訳ではない。怯えながら打ち震えながら、それでも紙一重の進展であるとしても 高みに視線を届け続ける。どれ程微かな意志であっても本質の自分、神の息子としての自分は、感情に踏みにじられるその意志の中にある。
2008年9月23日火曜日
アベルカイン
自分が所属する会社なり組織に於いて、自分の上司がアベルであり自分はカインの立場だと当然のように認識してきたが、その思い込みにサタンは巧妙に働きかけてきた。歴史に於けるある期間、主君に忠節をもって仕えその命に殉ずる生きる形、愛の形も確かにあった。しかしその当時の自分という個の在り様と今の個の在り様とは明らかに違う。過去に於ける在り様がより善で今の在り様は甚だ堕落した状態だと決め付けるのは間違っている。立派な主君や主君に仕える者たちの生き様を、書に記したものや映像に表したものは多いが、それをそのまま受け取り作為的に美化されたものを本質だとして認識するのは危険だ。それは事実とは程遠く、表したものの主観によるものであって、正体は極めて独善的な在り方をしている。善神の要素が無いわけでもないがあくまでサタン主管圏でのことであり、悪神が大きく関与している。個の確立が大きく進歩を遂げた今日に於いて、それぞれの個に与えられている良心が作用する力は大きい。良心の声こそ神が働くアベルの位置そのものだ。下賜された位置を独善的に解釈し、その権力をひけらかし乱用するのはアベルの権威から来るものではない。悲しいかな今まで多くの状況で見られてきたし、それによって良心そのものが翻弄されてきた。位置ある者に対するとき、敬意を持って接する事は当たり前としても、関係を深める中で内的に屈服しうるものが見えれば、それこそ良心がアベルと認めるもので、人物総称がアベルではない。責任者を、この方が私のアベルですと何の疑いも無く口に出してきたが、それが霊的混乱を招いたことは事実だ。責任者がカラスは白だと言っても、カラスは明らかに黒だ。人間であれば間違いは幾らでもある。それを指摘してくれることを部下に望み、部下も何の躊躇も無く進言できる関係、されど位置に対しては内的に屈服している関係こそ今日の組織に於ける健全な在り方だろう。
自己愛家族愛
誰もが自分が一番かわいいだろうし護りたい。この身体に閉じ込められた自分という存在に他のものが侵入するのを許さない。頑強な塀を張り巡らし自分自身を護りながら、様々な想いへの執着を益々強くする。一つの想いに執着すればするほど、周りのものは見え難くなる。駄々をこねて自分が手にした玩具を放さない子に、どんな交換条件を持ってしても駄目なように、誰が説得しようとも自分の想いを捨て去る事はできない。執着するとは、自分のものにした、自分が信じる愛に対する執着を言う。自己中心と言うけれど、自分に対する愛と言う、それはそれで愛には違いない。しかしそれに執着すればより大きな愛へ向かう触手は芽を出さない。愛の器は小さいままだ。持ち合わせの愛を羽交い絞めしている。愛の大きさを見ようとすれば、羽交い絞めしているその手をほどき解き放つ必要がある。物心付くまではひたすら受け続ける姿勢を崩す事は無いが、ある年齢に達すると与える事に目覚めてくる。与えるには、与えて足る容量が必要になる。より多くを与えればより多くを受ける事を学ぶ。逃すまいとられまいとして愛の器のふたを閉めたままだと、出す事もないが新たに入る事も無い。愛は流れてこその愛だ。空気も水もそして光も滞るべきものではない。愛も滞るべきものではない。自分の愛の器は広大深遠なる宇宙の愛の流れの経由地として組み入れることで、掛け流しで必要以上の愛が流れ入り、ふんだんに与える事ができる。執着すればするほど宇宙の流れから遠ざかっていく。妻や子供への愛と信じて言動や行動に出るのだけれど、そこに家族愛に対する執着はないか。愛と信じて妻子の為と信じて関わってきた事に、執着心から必要以上の押し付け愛が夫婦間家族間に滞り、気付いた時には愛と呼べないものに形を変えていないか。家庭が単位ではあるけれど、愛がその場に滞っているのであれば形を変えた自己中心主義とならざるを得ない。
2008年9月20日土曜日
入院
急に嘔吐をもよおし、不快感で一睡も出来なかったらしい。吐いては又はいて吐き続ける。すでに胃の中には何もない。それでも吐き続ける。胃腸の痛みも増してきたらしい。半日ほど様子を見て、ERに連れて行くことにした。本人はぐったりして立つ気力も無く、嫌がったがどうしようもない。何処に連れて行くか迷ったが、近くの病院に連れて行くことにした。急患に連れて行くのだがそれでもしっかり待たされる。どんなに早くとも小一時間は待たされる。何処に行ってもアメリカは待つことを強要される。へとへとになりながら待つこと一時間半。やっとの思いで寝台に横になり点滴と吐気止め。しかしそれでも嘔吐は治まらない。発熱し始め更に血圧は天井知らずだ。横にいてオロオロするしかない。大変そうな妻に代わって遣りたいが、どうしようも無い。この状況を今まで何度繰り返してきたか。彼女の腹に居座る何物かが居るらしい。そう理解しないかぎりこれ程に数を重ねて腹部を病み悩まされることが、偶然のように起こりうると誰が信じることが出来るか。身体をくねらせのた打ち回り、そして胃の中のものを搾り出す。既に力は使い切り身体を維持する力を辛うじて戻す力として使う。戻した後は溶けるのかと思うほどぐったりし頭をもたげる気力すらない。この繰り返しをいつ終わると無く小さな痩せた身体に強いられる。その正体を暴きたくとも見ることも出来なければ話しかけてくるでもない。しかしながら彼女に居座る以上、彼女に居座られる条件があるということだ。悪霊よ去れと聖別しようが、憎しみ怒りを掻き立て益々執着するだろう。居座る霊の位置に下り、その思念を解いて上げる必要がある。本人が取り付かれている以上、周りの誰かが供養をしない限り、本人も無間地獄、霊自身も無間地獄だ。癒されぬ想いを聞いてあげ、その思念を解いてあげ、そして大母様にとりなしてあげる。その場に執着していて気が休まるはずは無い。零障を起こさせる為に取り付くのでなく、彷徨った挙句この場にすがるような思いで取り付くしか無かったのだろう。跳ね除ける思いを飛ばせば、掴むものを取り払われ溺れるしかない。この想いが届くように届くようにと浄霊の念を捧げ、腹をさすってやった。薬で朦朧とし殆ど動く事のない身体が、時々痙攣したように震える。
2008年9月18日木曜日
近未来
いよいよ白いあぶくが消えうせて、アメリカ経済の流れが目に見える形で表面に現れてきた。経済としてのまともな流れが金融という汚水で何十倍にも薄められ、薄められた経済血液が、本来の働きをするどころか汚物で血管を詰まらせる。そして事態を極限まで悪化させている。あぶくの下を見ることは無かったが、消え失せると汚物で腐敗したあらゆる臓器が瀕死の状態だ。どれだけ公的資金を投入しようが天からの輸血という頂き物と違って、己が体内の汚水をマッチポンプで移動させ、取り敢えずこれで腹を満たせと言っているに過ぎない。政府で何とかしてくれるだろうと微かな期待を繋いでも、はなから政府は国民になど顔を向けてはいない。国民が選ぶ国民の代表とは表向きであって、実のところ陰で操ってきたほんの僅かの群れに牛耳られている。いざとなると国民など煮え湯釜の敷板扱いにされることになる。首から下はいつでも切り離せるようその準備に余念が無い。具体的にどう出てくるか、おそらくドルの切り下げ辺りから始めるだろう。取り敢えず半分くらいに切り下げて対外債務を帳消しにかかる。その次は新しい通貨の発行だろうか。銀行も半分以上淘汰させスリムになったところで新通貨の発行だ。裏金、タンス預金など、政府が残した僅かの銀行に口座として残されたもの意外一瞬にして紙切れと化す。ここまで介入すると国民だって黙ってはいないだろう。そこで国であろうが州であろうがミリタリーフォースが必要になってくる。軍は対外対策だけでなく対内対策としての権力を持つ。と、ここまでのシナリオを追っていくのは無理があるが、最後の伝家の宝刀として鞘に収めている事は、その筋が認識している。まだまだ国民も、自分に火の粉が飛んでこようとも火中の存在だと言う認識はない。蛙のぬるま湯状態だ。その内脂汗が吹き出るほどに熱くなり、身の危険を知らされる頃は手遅れで、逃げ道はどこにも無い。その時、金も物も、この世の価値など所詮堕落人間の幻想に過ぎないと多くの者は気付くだろうか。それとも物欲に執着して角を生やした野獣に化すだろうか。パワーに価値を置くものとフォースに価値を置くものが分けられる。
2008年9月16日火曜日
ホームレス
メインストリートを走れば、交差点の中ほどに、ホームレス風を装い段ボール紙の端切れを両手で抱えて立っている人をあちこちで見かける。GODBLESSYOU祝福がありますように、古茶けて無造作に切り取られた紙きれに、フェルトペンで書かれた言葉を目にして、心を動かす人はそうはいないだろう。赤信号で仕方なく停車せざるを得ない人々は、前方から近寄り面と向かって対さなければならないバツの悪さに、ひたすら視線を避けようと不自然に固まっている。滅多に小銭を渡すこともないが、それでも何度か手渡したことがある。物乞いとは違うが自分も募金活動には参加したことがある。風雨に晒されながら通り過ぎる人の波に声をかけ続けることの大変さはよく分かっている。普通は、当人に気付きながらも敢えて人の流れに逆らうことはない。目が合ってもそのまま通り過ぎる。たまに人ごみから這い出て来て、声をかけてくれたり募金箱に入れてくれる人がいて、お釈迦様にでも出会ったような嬉しい気持ちになったりもした。車を走らせ、赤信号で止まる毎に、力無くたたずむ景色に出会うとそんな昔を思い出す。その都度観察していると、いろんなタイプがいておもしろい。装いは小汚くまとめそれ風ではあるが履いている靴が妙に綺麗だったり、何処で設えたのか立派なボードにカラー刷りの物乞いトークを綺麗な書体でまとめていたり、笑顔を満面に湛えながら運転手一人一人に挨拶をするツワモノもいたりで人間様々、ホームレスも様々だ。先日いつもの通りを運転しながら、いつもの上背のあるホームレスが数ブロック先に立っているのを確認した。素通りするだろうと思っていたが、急に表示が変わったので彼の手前に停車することになった。見えるだろうかどうだろうかと言うほど小さなボール紙を掲げている。何が書かれているかは分からない。赤茶けた彼の動きの無い横顔を見ながら自分の気持ちが動くのを察した。反対車線がまだ青のままだと確認して五ドル札を財布から取り出した。いくらでもよかったが財布を開いて目に付いたのが五ドル札だった。ウィンドウを下げ渡す仕草をすると足早に寄ってきて、受け取ろうとする。と同時に片足を膝まづけた。それまで気付かなかったが何か分厚いものを抱えている。聖書だった。表紙が薄紫色に変色し消えかかったHOLYBIBLEの文字が浮かんでいた。それを私の顔の位置まで掲げると、聖水でもかけるように右手の指を私になびかせた。そして私の目を注視しながら低い声で告げた。GODBLESSYOU. すでに青サインが出ていて急いで発進すると同時だったので、最後の方は消えて耳に届かなかった。サイドミラーにまだ膝まづいているのを確認しながら何かを自分は受け取ったと思った。あの微妙な指の動きから何かが出ていた。それは決して不快なものではなく、寧ろ何か尊い感覚だったような気がする。実は彼は数年前新聞に載ったことがある。ホームレスがどうホームレスになったかと言う記事に小さいけれど写真付で彼のことが書かれていた。いつも見かけていたので目に留まった。いつも彼はボロボロではあるけれど軍服を着ている。記事を読むと以前は空軍の隊員であったと書かれていた。軍隊にいたのであれば恩給なり何かの保障はありそうなものだがと思ったが、英語の記事など通して読むほど理解力も忍耐力もなくその真意はわからない。何とも言えないが今の彼の現実はホームレス生活だ。今まで気にも留めなかったが、彼に手渡したときのあの目が忘れられない。あの目は世捨て人の目ではなく、何かの信念を持った目だった。
2008年9月15日月曜日
今日の想い 11
兄弟であればその認識程度の差異はあるとしても、創造主である生きた神様を信じている。しかしながら信じてはいるもののはっきりと捉えているか、即ち生きて自分に働く神様として生活の中に実感として捉えているかとなると非常に曖昧な認識でしかない。祈りに於いて天の御父様と声をかける時、未だ自分にとって曖昧な親なる神様を探し、尋ね、近寄ろうとする内的なる姿勢を能動的に起こしながら次なる言葉、次なる閃きに耳を傾けようとする。このような祈り、このような祈りに準じた生活を積み重ねる事で神様に近づく事は出来る。しかし祈るにしても祈る姿勢が正しく行われていない限り、祈っている風ではあっても祈りとは言えない。この能動的と言う言葉がみそで、本当に魂の要求を持ってその上での祈りであるかと問わなければならない。人間は自分が落ち着く環境を整えようとし、その環境に住まう。それは外的環境以上に内的な環境をそのように整える。そこが落ち着く処であって、そこから基準の高い位置に向かおうが低い下に向かおうが、とにかく自分の基準に合った内的霊的位置にしがみ付き離れようとはしない。自分の魂に神様に向かう力を植えつけられてはいるものの、それよりも遥かに今の基準や位置にしがみ付く力のほうが強い。その力を押さえつけ神様へ向かう力のベクトルを強くする為には今の自分を否定し闘うことが要求される。だから本当の祈りは闘いである。自分という宇宙の中で、善なる霊と悪なる霊が熾烈な戦いを繰り広げる。それを見ずして祈ったとは言えない。そういった事こそが真の現実でありこの世界の物質的感覚的遣り取りは影のようなものだ。祝福家庭が有難いのは真の父母を戴いていると言う事だ。生きた神様をこの地上に戴いている。御父母様に侍る事で祈りに勝る内的霊的成長を受け取る。祈りにのみ殉ずれば途方も無い内的路程を旅する必要にありながら、御父母様に侍る事で高速路線を走る事ができる。開闢時代は更にワープ出来るほどに高次の霊界が降りている。
2008年9月14日日曜日
危機感
いつも危機感を持って次の一手を打つ。経営していく上で不安材料はあちこちに見られる。今の状況を見ると、材料コストは下がる気配はないしさすがのアメリカも消費意欲に欠けている。悪くはなっても良くなる事は無い。これを見越して低価格業態を進めていれば抜け出していたかもしれない。薄々わかっていたがいつどのタイミングで、という事になると今まで出来なかったのはそれなりの理由がある。危機感と言うけれど、後になってあの時こうしておけばと思うのが常で、もし手掛けていたとしてもそれに対するコストなり上手くいっている現状に対するシワ寄せなりはある。不安材料に振り回されていて腰の据わった経営など出来ない。環境や状況は常に変わるけれどそれに振り回されるようでは真の事業とは言えないだろう。訳あって従業員数名を解雇することになった。別に何か責めるべき事が彼らにあった訳ではない。責任者としての危機感がそうさせた。文句も言わず私の言葉に従い、他のどの従業員よりも貢献してくれた。しかしながら切らざるを得ない。心を鬼にして解雇説明をした。頷きながら、今まで働く事が出来た感謝を彼らは口にした。心ならずもこうせざるを得なかった事を責任者として謝罪し感謝を述べたが、言葉はそれで途切れてしまった。責任者としての不甲斐なさに心が折れた。申し訳ない思いがあるにせよ、自分が今やっていることは愛のある行動ではない。せめて通告することで負った傷の生々しさを、魂に焼き付けて置くことが彼らへの礼儀だろう。この国でビジネスをやる以上、この国の規則に従わざるを得ない。危機感と言うとビジネス的だが、ようするに恐怖感なのだろう。この会社、この店を守るためと言うけれどその中で安住する自分を守る意識が根底にある。この身が危ういという恐怖感を見事に隠しながら会社に顔を向けている風を装う。責任者は会社に対して従業員に対してそして客に対して、為に生きるという愛が根底にあるのかそれとも自己保身なのか、自分が問わない限り誰も問わない。いつもその問いを自分自身に投げかける処から、本物の経営者は出発する。
2008年9月10日水曜日
知性文化
人類歴史を外的にのみ観察するなら、近代に於ける急速的科学発達に見るように、知性の深みに向かって発展してきた。人間は精神力を内的霊的な探求に使ってきた何倍をも、外的知性の探求に費やしてきた。天使長ルーシェルがエバを誘惑したとき、エバは天使長の知性に惹かれている。取って食べれば死ぬとの忠告を与えられながら、死を超えて天使長の横的愛に魂を任せたエバは、親なる神の本然の愛を捨てて、創造物に過ぎない天使長の、知性に溢れる偽りの愛を選んだ。あくまでそれは偽りであって愛に似て愛にあらざるものだ。下心を持って愛に偽装されたものに惹かれた。偽装する為に用いられたものこそ天使長の知性だ。創造物の中で右に出るものの無い天使長随一の知性で、愛以上の愛らしさを演じ作り上げた。結果として人類は、愛を取らずに愛を装う知性を選んだ。愛こそが第一義でその為の知性であるべきものを、知性を第一義としてしまい愛はそれに色をつける程の付けたしにおとしめてしまった。この堕落世界は知性文化で花開いている。個人にしろ社会にしろ愛することに精神を使おうとはしない。より知性を磨くことに殆どの活力を費やす。学校で愛する訓練はしないし社会でも知識と論理に長けるものが跋扈する。ノアの時代以降、人類は霊的感性を封印されているから知性は外的物質的な方向を取らざるを得ない。やがて人間はより知性を求める物質の奴隷と化す。天使長に似るべく賢さは一級の蛇であり、自己保全と弁護に如何様にも頭を捻くり、いくらでも言葉を並べる。心の不在と愛の無さを屁理屈で覆い隠す。人格没落であり人間失格でありながら本人の頭にはその言葉は意味不明だ。サタン文化が最高に花開いた今、人類は岐路に立たされひとりひとりの選択が求められている。本然の愛に方向を取るのか、それとも更なる知性を追い求めるのか。至極シンプルに言うなら、愛なのか金なのか、み旨なのかビジネスなのか、心なのか頭なのか、そして羊なのか山羊なのか。
2008年9月8日月曜日
罪
敢えて非難を浴びようと思う。罪を犯す前は罪を犯すなという言葉に拘束力は無い。近寄らなければ済むものを、しかし近寄らなければ罪の意味さえわからないと近寄る。しかし本人が罪を犯してしまったという自覚の後は、後悔の念が責め続ける。呵責に苛まされ、のた打ち回る。逃げ惑おうとも隠れる場所は何処にも無い。罪を知らない者に、罪に近寄り香りを嗅げと囁く存在がいる。その存在の囁きを自分自身の思いから来るものと勘違いし、抗うことは不可能とその囁きに心を許す。繰り広げる人間模様の背後で、肉心に働きかけ魂に働きかける意識下の存在がいる。その存在の駆け引きが罪の行為の前には悪魔が先行し後追いで神が働く。エバが天使長に心を許すその現場で、神様は手を出す事もできなければ声をかける事もできない。人類始祖から人間は自由意志を与えられ、自由意志圏内は神も不可侵の領域だ。堕落する事を人類は自由意志で選んだ。神から遠ざかることを自由意志で選んだ。自分の中に神に属するものと悪魔に属するものとを内包する、矛盾存在であることを選んだ。一度はそう望んだものの人類の良心は自分が本来神の子であることをどのようにも否定できない。神様は人類の良心故に救援摂理を進めてこられた。人間と名の付く者は全て矛盾存在だ。アダムとエバを始祖とする矛盾存在だ。この肉体で罪を犯そうが犯すまいが、罪は内包している。間違いを犯さずして罪意識の無いものより、罪を犯して罪意識がある方が、より救いを求める。矛盾性という神と悪魔の戦いの現場が人間ひとりひとりでもある。一方を神が取れば一方を悪魔が取る。悪魔が罪を犯させる肉体をとれば後悔の念に苛む心を神がとる。神が間違いを犯さない肉体を取れば罪意識のない傲慢な心を悪魔が取る。外的表面的判断のみでひとりひとりの救援摂理を見ることはできない。意識下に於ける熾烈な霊肉の駆け引きが為されている。無知と自覚の無さで罪にまみれた人生はそういった霊肉の駆け引きに翻弄されている。その認識を得るなら、個人的勝手な判断で目の前の千鳥足の人物を裁く事は、どんな罪よりも重い。その人物を悪魔にくれてやったが為、自分がみ旨に歩めるのだと認識すべきだ。祝福を得たことで満足し、自分や家庭が再堕落しないことのみが関心事で、他の誰がどんな罪を犯そうが他の兄弟姉妹が信仰を捨てようが何の感情も無いとするなら、信仰が弱い自分を自覚してひっそりと生活する兄弟の何倍も責められて当然だ。与えられた祝福を祝福として頂く態度は、人類皆が祝福を受けてこそ初めて自分の祝福も祝福足り得るとの認識から出発すべきだ。祝福を頂き喜ぶ背後で、条件の無い自分が祝福を受けたが故に、悪魔に翻弄される多くの可愛そうなものたちが犠牲になっているかも知れない。明らかなのは御父母様が犠牲を払われた代価であるということ。複雑極まりない多次元復帰摂理の、ほんの一部分しか見る事はできない。自分の拙い判断で測れるほど本質は単純ではない。
今日の想い 10
堕落の今生に翻弄されながら、それを当然のように良しとする自分がいる。ある時は、ぬるま湯に放たれた蛙のように、偽りの波間に漂い、やがてじわじわと煮え湯になっていくのさえどうでもよく、居心地の良さに身を委ねる。這い出せば抜け出るものを、怠惰というぬるま湯に浸かり微動だにしない。いっさいは他人事、やがてひりひりと赤く腫れ上がる自分の事ですら他人事。ある時は血気に燃え、もたげた鎌首を見事に切られ、身をくねらす蛇のように、赤黒い血を搾り出し、染まった身を躍らせる。もはや傷つき傷つけられる痛みの感覚は消えうせ、いともたやすくむき出しの感情を撒き散らす。言葉を操る犬畜生に成り下がり、口から鋭い棘を吐く。偽りの自分が顔を出す時、立ち上がって天を望み、拝することを忘れている。地を這い回る事で満足する。塵芥を喰らい腹を膨らませる。糞尿を撒き散らすように、そこら中に蔑みの言葉を吐き捨てる。あらゆる醜いものを自分の中に見ながらも、僅かに見え隠れする本然の性品に出会う時がある。それは多くの場合、苦境の只中で顔を出す。打ちひしがれ、もはや立ち上がる力も尽きた状況で現れる。全てを甘受する覚悟が出来た時、謙虚な自分がそこにあり、感謝する自分がそこにある。これが自分の本当の姿だと発見する自分がおり、そういう自分が愛おしく思える自分がいる。その感覚を絶対に忘れない事だ。そしてその感覚を育てていく事だ。それは聖人達が開拓し、後に歩む者に分霊として戴いた一つの神霊だ。この感謝の想いが何処から来たのだろうと尋ねる時、霊なる感性を鋭くすれば観音様であったり菩薩様であったりする。観音意識、菩薩意識として自分の中で芽を出す。またこの許しの想いが何処から来たのだろうと尋ねる時、惜しみなく与える愛に対して死を突きつけた人類、それさえも許したイエス様であったりする。自分が開拓した高次の感覚であるようであっても実のところそういった聖人達の分霊として戴いている。真の御父母様の開拓された領域は更に遥かな高次元に渡る。言葉とすれば真の愛に集約されるみ言葉の一つ一つではあるが、それは我々がそう思っている真の愛とは想像もつかない高い意識帯に位置する。御父母様に侍って侍って侍りぬいて、そのみ言葉の理解できる領域に行き着く事ができる。それは言いようによっては、より侍る戦いであり、であれば天国は激しく襲われている。
責任者としての負債
必要だと言われれば、本部の事情を最優先して拠出せざるを得ない。上にしてみればたいした額ではないし、出すのが当たり前なのかもしれない。しかし現場にしてみれば僅か一ドル一ドルの利益であっても汗と涙の結晶には違いない。一ドル一ドルに想いや念や感情が込められている。私の想いは取るに足らないものであっても、従業員の想いや客ひとりひとりの想いが込められている。そしてそれだけに留まらない。この店はエバ国からの尊い送金が、立ち上げ資金になっている。そこにどれだけの兄弟姉妹や関わった人々の想いが込められているか。その認識に至らず営業に携わっても本質の意識に欠ける。やもすれば恨みさえ買いかねない立場にある。本当のところ、小さい店としては、決して少なくはない額を拠出して、複雑な想いが拭えない。本当にこれで良かったのか。従業員の想い、客の想い、苦労して復帰した日本の兄弟姉妹の想い、レストランに対する御父様の想い、そういった重圧を背負い認識すれば何か方法があったのではないか。少なくとも個人的想いを超えたそういった想いを訴えるべきではなかったか。本部の要請と同じくらいの軽さが右から左に流した自分の行動にもある。そういった意味で自分も同類で、本部をどうこう言える立場にないし、明らかに内的霊的負債を抱えている。ここのところ夜なかなか寝付けない。負債を覚える自分に追求の言葉が次々と攻め立てる。納得いかない自分の想いであるようで、実は店に関係している様々な霊的存在の恨みにも近い想いが責任者である私を責めている。そういった想いをなだめ詫びを入れながら、神経を掻き立てる霊に納得してもらい、やっと眠りに付く。売り上げだ利益だビジネスだ、出せるものは搾り取ってでも出せと、口角泡を飛ばして激を入れる責任者の事情は理解できるとしても、そういった現場の想いも少しは理解してもらえるだろうか。
2008年9月6日土曜日
ビジネス復帰
我々は経済活動を活動の主体と捉え、今日まで歩んできた。成約聖徒としての事業活動の在り方と、この世に於ける一般的事業活動との違いは何だろうか。この世のビジネスに追いつけ追い越せとの想いで今日まで駆け抜けてきたが、それが天の願いに応える我々の歩みと言えるのだろうか。摂理歴史を見れば、いつもサタンが先行する形、神側はそれを追う形で歴史は流れてきた。神様がつくろうとなさるものと同じ型をサタンは神様に先立つ形でつくってきた。結果的に人類歴史は原理型の非原理世界を形成してきた。であれば今の経済のあり方も原理型の非原理経済体制と言える。本然の経済体制のあり方とはどういうものかと問うときに、経済体制自体は外見上は本然のそれと何ら変わりは無いのだろう。しかし外的体制は変わらないとしてもそれを動かす主管者が変われば全く違うものとなる。悪魔が住まう館が神に取って変わるとき、その館は神の館となる。その時、前の館の在り様と後の館の在り様は全く違うものとなる。その違いを認識できない者は徹底した唯物論者だ。結果としてのビジネスの在り方だけを観察するのでなく、主管者が変わる、或いは主管者の意識が変わることを通して、ビジネスの在り方がどういう変容を為していくかを見る必要がある。それは五感を超えた感性で捉えることであり、霊肉感性併せてビジネスを捉えるものこそが本質の経済を把握することができる。復帰するという言葉がある。万物復帰であるとか経済復帰であるとか、無知な我々は小銭を作る隠語のような使い方をしてきた節があるが、復帰という言葉は実に重い言葉だ。サタンの手の中にある所有(権)を神の側に移す(奪われたものを奪い取る)。それが復帰という意味だ。伝道であれ経済活動であれ、人を復帰する或いは万物を復帰する等のように、外的には所有権を復帰する歩みを為してきた。外的にはそうであるけれど外的に復帰された内容は結果であって、その背後に復帰の為の熾烈な内的霊的闘争が必ず繰り広げられてきた。複雑極まりない内的復帰心情復帰が為されてきた。御父様が不動産であれビジネスであれ形のある物であれ、一度神側に所有権を得たものは死んでも放さないという執念は、ただ外的判断からそのような覚悟が為されるのでなく、背後の熾烈な復帰闘争の結果としての所有権を内的霊的に見ればこそ、そのような態度を取らざるを得ない。そういった判断材料を見ながら我々はどうビジネスに携わっていくべきか、主管者としてどういう内的霊的見地に立てば天の願いに応えるビジネスの在り方となるのか、よくよく祈り考える必要がある。売り上げを上げることが復帰と言えるのか、利益を上げれば復帰なのか、献金すればそうなのか天の願いに即した経営哲学が我々の中に培われ、叡智として蓄積されるのでなければ、汗し涙して歩んできた内的意味は消え失せる。
2008年9月5日金曜日
今日の想い 9
人は一日を送る中で色々な気付きを得る。その気付きは霊的感覚として受けたものであり、色々な気付きを汗でもかくように脳が生理的に排出した思考の断片と捉えると大きな損失となる。霊視霊聴と言えるものはそういった気付きをイメージとして受けるか音の波として受けるかに因る。人はこの地上で肉体を纏い、有形実体世界の中でのみ生きているわけではない。同時に無形実体世界の中でも生きている。どういう人生観を持って生きているかが即ちどういう霊界で生きているかということになる。自分の霊的世界を創るのは思考内容に拠るのであり、思考内容は人生観に拠る。一日を終えて床に就くとき、今日どのような経験をしどのような気付きを得たか、自分の内面と真摯に向き合い確認すること。気付きを気付きとして認識すること無しに、それを踏まえた次なる気付きは得ることができない。日常の些細な気にも留めないことが大きな気付きに繋がる。経験して気付いて学ぶことで自分の霊界様相は変わってくる。日本人として気付かなければならない一つの領域がある。それは情の世界の欠落だ。日本人一般に言えることであるけれど喜怒哀楽を表情や表に現すことを良しとしない。仮面を被って人に対し、感情を抑えて事に当たる。喜怒哀楽を抑えることで他人に自分の内面を曝すことはない。誰もが目に見えぬ甲冑を纏い心を割って交わらない。自分と他人との境界面を強固なバリアで別ち、あれほどの狭小な国土に肩を触れ合って暮らしながら意識に於いて相手との距離を視界から外すほどに取る。そこに情の触れ合いは無い。この情の欠落はそのまま霊界に於いてあまりに孤独な生活を送ることになる。どんな小汚い猫でも寄ってくれば可愛くもあり情も湧く。自分の内面を悟られまいとして石ころのような様相を纏えば誰も手を貸そうとはしないし共助を与えようとする霊人だって寄り付かない。従って運勢も来ない。がちがちに固まり壊疽の段階にある心情を溶かす必要がある。
2008年8月31日日曜日
感謝意識
人間は自我の存在でありながら、自我から発信するものに沿って生きようとする意志を見出さぬまま、自分の生を送る人のほうが圧倒的に多い。自我と言う人間一固体の根源を確認できず、自我から発信するもの意外の要求を自我の要求と勘違いしている。どんな些細なことであっても行動要求の一つ一つが他の何かから強制的に思わされている。自我のままになる自由な魂、自由な肉体ではなく、他の何かに躍らされている。魂も肉体も人間の根源的存在である自我との結びつきが薄い。瞑想し祈ることで肉体から魂へ、魂から自我へと意識の糸は繋がれ本来あるべき関係を太くしていくのだが、他の何かに躍らせれている自分をこれこそ自分の本質だと思わされているから瞑想しても瞑想できないし、祈っても祈れない。休むことの無い自己弁護の魂の働きだけが堕落した人間存在の基本にある。言葉にならない魂の活動は始終言い訳で溢れかえっている。そこに自分の本質である自我は隅に追いやられ、本来自我の活動舞台である魂も肉体も偽りの自分に占領されている。神様に直結している自我はその活動を阻まれ自分の中で仮死状態にある。御父母様が開闢時代を迎えたと宣言されたことが地上天上のあらゆる人間に取ってどれ程奇跡にも近い祝福であるか。長い歴史を経ながらこれまで幾人かの聖人たちが自我の覚醒を果たし、彼らが人間本来の自我に備わる神性の一端を現し、それによって人類は聖人たちが現した神性の分霊を戴くという恵みに与っている。聖人たちが現れる前と後では人類の魂の在り様も身体の在り様も違う。特にイエスキリストが人間として肉体を持って地上に来られたことで人類の自我は大きな覚醒を得ることが出来、今ある魂や肉体の在り様が人間本来の在り様と違うことを認識することができる。即ち罪の自覚を覚える。地上に於ける一人の勝利的功績でその方の高みまで人類は霊性を高めることが出来る。更に二千年を経て真の父母を戴くことで自我に備わる霊性は魂や肉体を凌駕できる高みまで届けられ、神様が本来願われた創造本然の在り様に人類も宇宙も再生される。普通人としての為すべき取っ掛かりは先ず自己弁護に翻弄される魂の在り様に気付くことだ。そしてそのような魂の中に、感謝の意識を少しずつ少しずつ植え込んでいくことだ。感謝の意識が大きくなっていくことで偽りの自分である自己弁護に対等することが出来る。出来ないことに悩み言い訳をする自分の一面は、たとえ無くせ無いまでもその意識に振り回されず、出来ること、より感謝することに意識を置き重心を移す。出来ないこと自己弁護、そしてどっぷり浸かっている環境に執着すれば今まで支配され続けてきた(サタンを根源とする)偽りの自分の思う壺だ。感謝の意識の中にこそ神様が具体的に働くことができる。僅かの意識転換が大きな意味合いを為すのが後天開闢時代だ。今は天国も地獄も手に届くところにある。
2008年8月30日土曜日
移民法廷 2
柵の開きを開けようとしたが引くのやら押すのやら。手こずっているのを見かねて弁護士が押し開けてくれた。どうも焦っているらしい。入るべきではないところに足を踏み入れた、そんな感覚だった。右手を上げて誓いを立てるよう要求させられた。上目遣いの裁判官が私を見据える。目の前にすると裁判官の容貌がジャックニコラスに見えてきた。緊張しててもこんなことが頭に浮かぶらしい。日常会話でさえ英語の理解は難しいのにこの場で何を尋ねられるやら、早口で喋るジャックニコラスの口の動きに集中した。名前は何か役職は何か本人とどういう関係にあるか、そこまでの質問の意味は理解できた。しかしその後の質問の意味が良く解らない。YESNOで応えることだけは解った。もうこうなったら二つに一つ。さも解ったようにNOと応えた。弁護士がたじろいだ。YESと言うべきだったようだ。急いで質問の意味がよくわからなかったと裁判官に告げた。ジャックは今にも立ち上がらんばかりに意味が解らないのに応えるなと強く忠告した。もう一度同じ質問を繰り返した。YES。今度はOKらしい。どうもNOという応えは無いらしいと解るとそれからは質問の意味は解らずともYESと言い続けた。長い証言のように思えたが三分もその場には立っていなかったと思う。ジャックが退廷して宜しいと許しが出、やっと度胸試しから開放された。その従業員も私の英語力の無さはよく知っているだろうに、と彼を責めたい思いもあったが事無きを得、不法滞在の罪は消えた。入国当時、彼の国ではコミュニストゲリラとの内戦状態であった。永住権は既に取ってはいるが、ゲリラ活動に参加した疑いが今になって出、それに対する潔白の審議だったようだ。両手では数えられぬほどこのビルに足を運んだらしい。今日が最後だろうと安堵した表情をしていた。それは良かったと一応喜んでやったが、雇い主として内心素直には喜べなかった。ビザの問題が解決すれば何処で働こうが彼の自由だ。
2008年8月29日金曜日
移民法廷
或る従業員に頼まれて移民局の法廷で証言することになった。提出書類を確認する為のジャッジとの遣り取りで、形式的なものだからということだったので、軽い気持ちで同行した。ボルチモアのダウンタウンに移民局の建物はある。かなりの大きいビルで4階にあるいくつかの法廷の一室に通されたが、裁判所のそれと何ら変わるところは無い。流石に不安がよぎってきた。このビルの8階に連れて行かれる者は既に国外退去が決定された者だそうだ。そう従業員が小声で説明してくれる。千スクエア位の部屋は法廷らしく柵で仕切られ、自分は傍聴席に腰をかけるように言われた。従業員の本人と彼の弁護士は腰までの高さの柵の真ん中の開き戸から入り、向かって左側、柵を挟んで私の正面のテーブルに腰掛けた。後ろのドアが開いて三十前後の背の高い青年が入ってきた。紺のスーツが様になっている。見るからにイケメンの若手事業家の風だ。その彼は柵の中に入ると右側のテーブルに席を取った。弁護士と顔見知りなのか笑顔で軽い話に花を咲かせていた。弁護士の話の相手をしながらも、持ち込んだ分厚いファイルを片手で素早くめくりながら確認しているようだ。定刻になると正面右に位置するドアが開いて制服姿の男が開廷を告げた。皆が起立するのに合わせ私も立ち上がる。法衣を着けた裁判官が急いで入ると正面の一段高く設えてある重厚な机に腰掛けた。座るや否や手早く進めるからと声をかけ、弁護士もそう願います、見たいな感じでうやうやしく返答した。どうも右の青年は移民局の審査官らしい。裁判官が今までの流れを説明すると弁護士に付け加える事があるかと目配せして問う。弁護士が付随する事柄の無いことを確認すると、こんどは視線を審査官のほうに向け貴方はどうかと問う。何度か首を傾げる様子を示したが何とか納得したようだ。審議に入る前、余りにもフランクに弁護士と話していたからその様子を不思議に思った。これで一件落着かと思ったところに、裁判官がウィットネスを要求した。弁護士が私に目配せするのでどうも自分の出番らしい。かつて経験が無い為、緊張の度合いは一気に高まった。
シックビジネス
主人意識と信仰観とは直接関係は無い。会社のオーナーが御父様であるとしてオーナーリターンこそ為に生きることだと言われても説得力に欠ける。御父様は利益が欲しい訳ではない。摂理を進めるために必要ではあるけれど金さえあればどうにでもなるというものではない。差し出したものを喜ばれるのではなくそれに費やした精誠を受け取られる。だから例え主人意識を持ってビジネスを発展させ大きな利益を生み出したとしても、そこに御父様に対する精誠が見られなかったら手を付けられることは無い。主人意識が自分を中心としたものから出てきたのか御父様に侍る想いから出てきたものか、それによって内的霊的に天地の違いが生じる。一方はサタンが取り今ひとつは神様が取って下さる。一方は死んだ利益や金であり今ひとつは生きた霊的価値の或る金の形をした精誠条件である。その違いをはっきり教育できないところに本部の責任はある。現場に於いて営業しながら扱う金がどういう種類のものか、どう扱えば生きた金に生まれ変わるのか、それらを知る霊的感性を教育すべきだ。先月、ロシアから来ていると言うSTFの若い姉妹が店に訪れた。はっきりと教会の名前を出して万物復帰をしていた。ここがどこかも知らず一生懸命説明していた。教会を知らない従業員は品物が高いとか口にしながら背を向けるのは理解できる。しかし理解できないのは何人か働いている兄弟だ。下を向いたまま関わろうとしない。自分も教会員であるから敢えて彼女を通して献金する必要はないと思っているのだろうか。ただ単に自分はそんな持ち合わせは無いから笑って誤魔化したのか。その光景を見て情けなかった。無いなら無いで励ましの言葉をかけてやるなり、買えないけれどとことわって一ドルでも二ドルでも足しにして欲しいと渡すなり、何かしてあげようと揺さぶるものは心の中に無いのだろうか。ドアツードアをやった経験があるならそれがどれだけ大変なことか知っている。そこに精誠の強い想いが無かったら出来ることではない。兄弟の多くは信仰観が形式化してしまっているように思う。その在り様に瑞々しいもの熱いものを感じない。形式化惰性化した砂を味わうような生活の中に御父母様と共にある神様と共にあるという実感はないと思う。それは神様も可愛そうだが本人も可愛そうだ。そこに気付きが無いなら物は物でしかないし、金も物でしかない。そして自分も物でしかない。
2008年8月28日木曜日
食口ビジネス
一つの事業を任され運営していく上で、その事業なり会社は任されたものが主人意識を持たない限り続きはしないし発展することは無い。主人意識、即ち自分の事業であり会社だという思いはそうであるけれど、自分、という意識は兄弟それぞれに於いて理解度や認識が異なる。責任者である自分という存在を個とする意識が強いか、或いは公としての自分が勝るかそのサジ加減によるから、全体を組織立てる上で問題が生じる。本部はそれぞれの責任者にこうあるべきだとの思いがあるかも知れないが、それぞれの自分の捕らえ方はそれぞれの信仰観に拠る為、一様に同レベルに持っていくことは出来ない。まして今まで本部主管でなく、それぞれの現場で問題解決しろと丸投げした時点でそれぞれの凧が糸を切り離すのは時間の問題と言える。だから今回のような悲劇は起こる。本人は当然自分に全面的非があることを認めるべきだが、本部や周りの者は当の本人にだけ非の責任を背負わせることは出来ない。本部の責任であり我々の責任でもある。本部と我々はどういう責任を負うかという問題をクリアしない限り、責任者がそれなりの場当たり的なコメントで濁しておけば組織の中も濁ったままである。私見として言わせて貰えば、食口組織全体に言える事だけれど血が繋がるほどの愛の関係が中心との間も横との関係に於いても薄い。はっきり言って機械的であり有機的情が見出されない乾燥組織である。共産主義体制下に生活したことはないがそれとさして違わないように思う。会議に出ても本部に詣でても生きた人間の息遣いが感じられない。それは責任者を含め誰もが感じていることだと思うが今までの成り行きでその体質は変わりようが無いものなのだろうか。そういった環境圏の中で外的数字だけが判断材料となり内的霊的なものは当人任せとなると行き着く先はそうならざるを得ない。
今日の想い 8
感謝すること。今、与えられている全てに感謝する。全てに感謝しようと思えば、与えられながら与えられていることに気付かない事に対して申し訳ない思いを持つ。だから感謝する想いと申し訳ない想いが相まって生じる。そのような想いに満たされて歩めればどれだけ幸せな人生か知れないが、しかし自分の内面に何かが暗い影を落として感謝の想いを封じる事の方が実のところ多い。それが病であったり思うように行かない不満であったり先の知れない不安であったりする。そういった影の部分に目を塞ぎ遠ざけようとすれば、影は益々その濃さを増す。その影の部分を正視する勇気、寄せ付けない影の只中に飛び込む勇気が必要だ。地上の堕落世界に於いて神がいると同時に悪魔がいる。そう言うと、この科学的な現代社会で戯言を口にするのかと聞く耳持たずだが、自分の内面を観察すれば明るい部分と暗い部分が存在することは誰にでもわかる。この触れたくない暗い部分をどう対処して行くのかが肉体を持って生を送ることの意味を知るかどうかの境目と言える。宗教的に言えば煩悩を断つことに繋がり、サタンを退けることに繋がる。闇のさなかに飛び込み、恐れや不安等の様々な影の感情の化け物に魂が曝されても、光が何かを知る者は目を見開き、嘔吐を催す感情に巣食い暗闇に蠢く正体が見えてくるだろう。貴方や私や普通の人間が、そう思っている幸せも喜びも楽しみもただの幻に過ぎない。自分の内面の全ての領域が光に照らされない限り真の幸福は隠れたままだ。真の幸せ喜び楽しみを求めるなら、忌み嫌い、背を向けて遠ざけている内面の暗黒地帯に戦いを挑まない限りそれは横を素通りすらしない。真理のみ言葉を知る者はその意味で幸いだ。暗黒に立ち向かい戦う術を持っている。しかしそれはあくまで立ち向かえばこその真理であり、目を塞いで逃げている立場では裁きでしかない。
2008年8月26日火曜日
今日の想い 7
食口の多くは、自分のあるべき姿、創造本然の世界、霊界様相、等々に対して自分が想像するものは、本来あるべき様相とは違ったものだと言うことはおぼろげに解っていると思う。しかし人は自分が思念できる範囲以上の内容は理解できない。目指すところの言葉は与えられているけれども、その言葉の意味を探りながら探りながら歩む、即ち目の見えない者が先導者に手を引かれながら歩むのと同じだ。だから我々にはみ言葉が必要になる。み言葉が我々の先導をする火の柱となる。しかし信仰生活が長くなるにしたがって今の自分の在り様以上のものを見出せない。本然の世界がどれほどすばらしいだろうという未知への魅力を見出せない。内的霊的なものより外的肉的なものへの執着の方が大きくなる。だから元の鞘に収まるように、自分の魂の在り様、即ち自分が思念できる範囲に落ち着いてそれ以上向上しない。祝福を受けたことで満足している。より愛の大きい存在になりたい御父母様に近づきたいという能動的想いがない。はなから地獄に行って苦しみたくないぐらいの想いで接しているから御父母様との本当の関係性は築けない。我々はよく原理非原理という言い方をする。或いは教会から距離を置いている兄弟を離れたといったりする。また食口として認めるかどうかの自分なりの或いは全体が認識する型がある。一線を踏み外したり問題が認められると、その型から外れたとして兄弟の括りから除外される。そういった判断と真の愛、為に生きる愛、犠牲の愛とは相容れない。愛の群れでありながらその群れに愛はない。天国人としての多くの約束事がありそれを守ることは至極当然であるとしても、約束事が約束事に終り、天国は愛の世界ではなく約束事の世界なのだろうと本音で思っているところに既に、御父母様とは距離を置いている。
2008年8月17日日曜日
今日の想い 6
オレンジ色に発光した太陽が沈んでいく。雲ひとつ無い空が、太陽から遠ざかる程に益々青を濃くしながら天空を覆っている。暫く見つめていれば、今にもその覆いが下って来て自分に迫ってくるような、或いは逆に自分が吸い込まれていくような錯覚を覚える。天空の覆いの中に自分を埋める時、霊界ではその様であろうと思われるような感覚を感じる。この世で全ての視覚対象は物理的存在として実証できる対象物だ。しかし天空に目をやるとき、雲であるとか空気に反射する青色を見るとかは気体対象物ではあるとしても、それを更に超えて広がる宇宙に視線を向けている。手の届く対象物から反射光を受け取るのとは違う、視覚で受け取れないものを捉えようとしている。魂の存在、死後の世界を認めることが出来ない者は天空を暫く見続けるのが良い。物を視覚に受け取る時と違う感覚が自分の中に芽生えるはずだ。その生じた感覚を影のように意味の無いものとして捉える事を本当に自分は良しとしているのかどうか。唯物論は平面的周りばかりを見て、天空を見ることを忘れた処から発生している。生きることを平面次元だけに捉え、人間は立体以上の次元で生きる多次元的存在であることに気付かない。視覚を失った者に唯物論者はいない。平面次元の生を限定的なものにされたことで多次元に生きることを学ぶ。遠くない頃合、皆が皆視覚を奪われる時は必ず来る。暗黒の三日間が必ず来る。全ての人類が気付きを得る為、天の人類に対する愛の計らいとして訪れる。
2008年8月16日土曜日
今日の想い 5
イエス様の為し得なかった実体的な世界的カナン復帰路程の最終章を御父様は担当されてきた。預言者エリア的存在であった洗礼ヨハネが、あってはならない最初の躓きを見せたように、御父様の路程に於いてもその様で、その為何の拠りどころも無い状況に貶められ、そこからの出発だった。社会的能力に欠け、サタンも意を解さない見捨てられた底辺の人間を集めるしか策はなく、その群れをして摂理を進めてこられた。本来ならキリスト教信徒達こそ集められ摂理の中枢を担うべく、その再臨のため二千年間準備されてきた。我々と彼らとは比べようも無い。能力云々ではなく霊的血筋が違う。聖霊によって新生するという意味がどのようなものか、我々の多くは知らない。イエス様を愛するという感覚を知らない。魂の在り様が全く違う。我々は多くのみ言葉を頂きながら、その本当の意味するところを知らない。み言葉に宿る神霊を受ける器が、我々の魂にはない。聞いているが実のところ聞いていない。共に歩んでいるようで御父様と我々との距離は遠く隔たっている。霊的に無知であることの認識に立たない限り、摂理の入り口にすら辿れない。語られるみ言葉の中に理解に苦しむ多くの表現が見出せる。我々が理解する言葉の意味合いで測ろうとしても答えはでない。論理性で理解するものではなく、霊性で理解するものだ。御父母様を本当に慕うのであれば、侍っていく過程でみ言葉は自分のものとなる。論理を超えた愛の叡智で解釈する術を知る。そこに至って初めて主管性と創造性を相続できる。実力能力に於いて、霊的内容に於いてもあまりにも低い基準でたむろしていた群れが大きく飛躍できる時を迎えている。世界を主管する並み居る人物や組織を凌駕できる時を迎えている。地上天国実現をこの目で確認できる時を間近に控え、真に知恵あるものはその準備に怠らない。
2008年8月12日火曜日
息子
仕事を終えて帰れば十一時は回っている。そんな時間でも玄関を入れば小さな息子のハシャギ声がいつも聞こえている。しかしその晩は違っていた。静まり返った室内に入ると、この世で初めて闇を見るような不安が襲ってきた。既に昼過ぎには店の方に妻から連絡が入っていた。息子が熱を出したようだ。その連絡を受けてから心配で営業にも力は入らず、客への応答も上の空だった。寝室のドアを開けると、妻は生まれてまだ間がない下の子をあやしながらも、すがるような目を私に向けた。息子は一瞬何処にいるのだろうと探すほどに、布団をかけ身動き一つせず仰向いて横たわっていた。半開きの口からは何の言葉も発しない。力の無い目で瞬きもせず天井の一点を凝視していた。駆け寄って額に手をやると、手をかざそうとしただけで明らかに熱い。相当苦しそうで短い息を引きつるようにしていた。危ないと思った。熱で熱くなった小さいからだを急いで抱えて車の助手席に乗せ、ローリーの病院まで飛ばした。直ぐ楽になるから頑張れとハンドルを握りしめながら声を掛け続けたが、気力が無いのか意識が朦朧としているのか微かな返事も返ってこない。真夜中の二車線道路を制限速度を遥かにオーバーしながらもアクセルを踏み続けた。病院にやっとの思いで駆け付けると、救急の出入り口の真正面に止め、車を投げ捨てるようにして子供を抱え室内に飛び込んだ。自動ドアに足を思い切りぶつけたがそんなことはどうでもよかった。只事でない様相に受付係りが飛び出すと、他の患者そっちのけで救急室に直接運んでくれた。興奮状態でありながらも天が助けてくれていると言う思いはあった。ナースが息子の口に差し込んだ体温計はみるみる数値を上げ、120度を超えても更に上がり続ける。ドクターは計る意味もないというように抜き去ると幾枚ものバスタオルを冷水に浸すよう指示をした。冷たく濡れたそれを広げると、ナースが数人がかりで厚着させていた息子の衣類をはぎ取り、小さな体に貼り付けていった。体温の熱で張り付けたバスタオルから湯気が出る。タオルは何度も何度も取り替えられた。ドクターの動作が一段落した頃合、恐る恐る様子を尋ねた。熱が異常に高いので今は何とも言えないという返答だった。少しずつ熱が引き始めたのは数時間たった頃だった。病室に移され熱さましの座薬を入れてから少し落ち着いたのかやっと口を開いてくれた。目にも何とか光が戻り、「大丈夫。元気になった。」と、心配で覗き込む親に、回らない口で何度も何度も声を掛けてくれて安心させてくれた。白血球の活動量が遥かに多いらしく、何かが傷口から、或いは経口からか入ったらしい。その原因が分からず様態も不安定で、それから二月余りも入院したり出たりの繰り返しが続いた。その事が起こる前にも、黄疸に始まりアレルギーで顔を腫らして救急車で駆けつけたり、口に櫛か何かをくわえて走って転んで喉をついて出血させたり、ショッピングカートの中でふざけていて頭から落ちたりと、思い出してみるとこの子は生まれた時から事故や病気が絶えず、親を心配させ続けた。やっと落ち着いてきたと思いきや、大きくなった今も今度は違う意味で親を心配させ続けている。本人は知ってか知らずかいつも親を振り回し、息子によって感情の海は荒れ続ける。親としての試練と学びは止むことは無い。
2008年8月11日月曜日
混乱期に入る
アメリカの経済は過去に例を見ない状況悪化が進んでいる。燃料価格の跳ね上がりがクローズアップされがちだか、それに合わせて穀物に限らずあらゆる食料コストの増加も月を追う毎に顕著になってきた。もはや原油価格がバレル150ドルに届くかと言う状態まで来て先週少々下がり始めたとしても、物価が落ち着きを見せて下がり始めるとはとても思えない。住宅関連の証券に流れていたファンドマネーが行き場をなくしコモディティーに流れてみたり、株の動きに飛びついて押し寄せてみたりと、金融と言う名の我欲の塊の妖怪が腹を満たし渇きを癒そうと暴れ周り混乱させている。社会の物質中心の価値観が変容しないかぎり、この妖怪は人間の価値観の総体として社会を振り回し続ける。それぞれの国の政府や中央銀行が主管できる範囲を遥かに超えている。機軸通貨がドルであればアメリカの判断が全てを決めると言っても過言ではないが、ここまで借金し続けバブルを膨らました以上何をやっても裏目に出る。もはやドルの信用等お構いなしで莫大な国債を発行し、FRBに輪転機が焼けるほどドル札を刷り続けてもらうしかない。ドルが兌換紙幣の価値を投げてからは、ドルは石油との交換性を信用基盤に置いている。だから石油産油国がドルを辞めてユーロに変えることはアメリカに取って死活問題となる。わざわざ中東まで行って犠牲を払い戦争を続ける理由もここにある。ゴールドが無くても経済は成り立つが石油が無かったら今の経済は成り立たない。石油との交換性を担保に機軸通貨を維持してきたが、アメリカはそれに甘えて石油のみならず、中国人民の激安労働力にももたれ掛かり日本の技術力にももたれ掛かり、米国債の信用力の根底にはそれらが担保になっている。アメリカ国内に信用を担保するものは何も無い。仕事もしなければ産業もない。情報産業があるにはあるが国家経済の基盤にはなれないだろうし、殆どを金融取引で食っている状態だ。国家経済のラスベガス化だ。今アメリカにあるのは莫大な借金のみで、返せる見込みもないしつもりも無い。それをどう踏み倒すかに知恵を絞っている。最終手段は戦争を起こしてチャラにすることだと言うはかりごとは見せないよう、どう転んでもいい様に布石を打っている。その仕掛けが全世界が戦争を含んだ最後の混乱期に突入する言い訳となり導火線となる。善悪をはっきり分ける為に神様はこの混乱をサタンに任せる他無いだろう。大統領が誰になろうが殆ど関係ない。踊らされている背後にある陰の力を見る必要がある。
2008年8月5日火曜日
霊界様相
人間は地上世界に身を置いて自分の宇宙を創造している。霊界に場所を変えれば自分が創造した宇宙に自分が住まう。五感で受け取るものが自分にとっての実感であるこの世界に比べ、内的に自分が築き上げていく世界こそあの世の実感として霊感に受け取る。自分が自分であると認識できる内なる世界が、敢えて言えばぬいぐるみをひっくり返して裏地を表に出すように、実感として住まう世界に変わる。地上に於いて空気や水や土、そして全ての存在物を認めて受け取るように、霊界に於いてもあらゆる霊的要素、全ての霊的存在を認めて受ける。しかしその在り様も受け取り方も地上とは全く異なる。自分の前に現れてくる存在は、地上でどう生きてきたかにより様相を変える。地上で霊的なもの内的なものとしてどれ程価値を置きどう扱ってきたかが、そのまま霊的存在から受ける仕打ちであったり供与であったりする。生前の内面の活動がそのまま生きた存在として眼前に現れる。イエス様の愛に帰依して生きたものは、その魂の様相がイエス様の愛により光り輝く宇宙となり、肉身を脱ぐとその様相の中に居を構える。帰依の度合いを深めれば深めるほどに、愛に溢れる記憶内容、思考内容、感情内容が生きた霊的存在として自分を取り巻く。自分の暗い魂の在り様、醜い魂の在り様を、愛のあふれる明るく美しい在り様にする為にどう自分が能動的に関わったか、能動的とは自分から自分の意志で、と言うことであり、自然に知らないうちに、と言った立場とは違う。従って自分の内面路程の創造は困難が伴い苦労が伴えば伴うほど、より意志を強くしより能動的に関わることになる。神を否定し内的霊的な事柄を否定する唯物論者は、はなから内面的創造に関与しない。即ち自分の住まう霊界の居場所はない。生前物だけを崇めていた地上に於ける現実を、死後自分の周囲に見出せないでいる。押し寄せる霊の中で窒息するか溺れ死んでしまうしかない。
2008年8月3日日曜日
事故に関して
事故の衝撃が地上にいる全食口を貫いた。皆一様に驚きと安堵を同時に覚えたと思う。八十九にもなられる御父様であれば食口はおろか地上にいる全人類に於いても、御父様が御存命の光り輝く地上生活以外は殆ど誰も知らない。何があっても不思議ではない最悪の状況を誰もが垣間見たと思う。闇が覆い全天宙が力なく臥す狭間を、私も見た。摂理の意味と御自身の役割を誰が知るでもなく神様と全天宙、そして地上天上全人類の救いを一つの肉体と一つの魂に引き受け歩んでこられた路程は人間の想像を遥かに超える。人間の小さい魂でそれを図ること自体が愚かだと言える。我々の叡智を超える天宙的認識と判断で舵を取り、地上天上全人類の親としての計り知れない心情を宿され、岩はおろか惑星さえも砕く固い意志を備えられて天との約束を果たされてきた。御自身の身辺に起こること、真の家庭に起こること、それらを人間的判断に任せることは危険だ。復帰摂理の最終段階の天宙的やり取りがその背後にあることを見えずとも認識する必要がある。ただの事故だと決して捉えるべきではない。事故に持ち込もうとする背後の力が明らかにあってのことであり、霊界の御子女様をはじめとするそれに立ち向かう力がそれに勝ったと判断できる。復帰歴史を見る限りサタン圏も条件が揃わない限り打って出ることは出来ない。我々の条件の欠如は明らかで、祝福家庭であるなら先ずそのことに関して悔い改める必要がある。勝利されてサタンの攻め入る条件は御父母様御自身には無いはずが、敢えて打たれる立場に自分を置かれる現実を我々は見逃すべきではない。その事実を受け取って皆はどう捉えるだろうか。受け取る以上そこに本質を見る必要がある。不可避的だったと言われるなかで摂理史的に必要である、或いは国形成の伝統を作るのに必要な原理的材料を揃える為に必要だったと語られる、その意味をどう捉えたらいいのか。深刻だと語られるその真意も程度も自分には計れない。ただただ申し訳ないという想いを強くする以外、自分の為す術は無いのだろうか。
2008年8月2日土曜日
宗教について考える
神の存在はこの被造世界から因果論的に論証することは出来る。しかしその認識は機械的なものであって感情や意志という魂に働きかけるものは見えてこない。復帰歴史の流れに於いて、それぞれの神観がそれぞれの時代に応じて与えられている。人間の魂の在り様の段階に応じてそのように摂理されてきた。救世主が肉体を纏った形でこの地上に降り立った時、人類は辛うじて彼を受け入れることが出来る魂の在り様まで到達できた。救世主を迎える為に、降臨前の数百年、神は多くの精神指導者を送られた。彼らをして最終的な魂の耕しが人類には必要だった。そして迎えた救世主ではあったが結果は誰もが知っている。あのように悲惨極まりない最期を認めながら、十字架が神の計画であったと言える感覚は理解を超える。しかしながら十字架故のクリスチャンであることも否定できない。イエス様の愛の言葉が十字架によって裏付けられている。主の十字架という尊い血の犠牲が彼らの信仰の根底にある。そのイメージに支えられる形で愛のみ言を魂の中に受け付ける。ある意味で条件付の信仰なのだ。だからと言ってその信仰が偽りだというつもりは毛頭ない。ただ神様がその信仰に触れるとき、胸を掻き毟られるほどの悲しみが伴っている。イエスキリストは確かに存在している。クリスチャンの魂の中に生き続けている。イエス様が私の中に居られると断言できる意志の力を魂の中に感じ取るのでなければ、イエス様はその人間の魂の傍を通り過ぎていくだけだ。救い主イエスキリストとして魂が受け入れる為には十字架イメージの衝動を能動的な仕方で自分の中に喚起しなければならない。人間であることの尊厳は主イエスキリストという高次元の真理、即ち愛を認識することにある。しかしそこに至る為に強制されるのでなく、あくまで自由意志として獲得される。堕落したのも自由意志であり本然の愛への道も又自由意志である。クリスチャンでなくとも全ての信仰は自由意志として本人が獲得したものだ。それぞれの宗教によって次元は違うし、またクリスチャンといってもピンからキリまでその信仰はあるだろう。だから宗教の違いがそのまま階層の違いとも一概には言えないが、愛という光を直接的に受ける、反射したものを受ける、或いはフィルターを通して受けるという違いはある。我々の御父母様に対する魂の在り様もそのようであって、自由意志をもって近づこうとするのでなければどれ程向こうから近づこうとされても我々の横を素通りされるしかない。この世界に奇跡はあっても魂の奇跡は有り得ない。それが他の被造物と違う、人間に与えられた自由性というものだ。一生懸命と言う言葉を御父様は好まれる。一生懸命近づこうとするその自由意志をもってしか真の父母の在り様には近づけない。慕うと言う情的衝動によって行動することを侍ると言う。侍って侍って侍りぬいて、真の父母に於いて生きるのであり真の父母に於いて死ぬ。
送金
決して少なくはない額を支出した。こういう時に先ずやるべきことは祈ることだろう。一つの店を与って、自分の事として自分の店として営業しないかぎり利益などでない。責任者がどれだけ自分の店だという主人精神に立っているかに懸かっている。その想いを持つなら、この額を出してください献金してくださいと言われて、何の感情も無く出せるということは有り得ない。銀行に行って部屋に通され、トランスファーの手続きを行う。マネージャーなのだろうか、この大柄な黒人女性は私がアカウントのサイナーである事を確認すると、鼻歌交じりにキーボードを打ち始めた。プリントアウトされた用紙を手元の送り先のバンクとアカウント番号と一致しているのを再三確認し、サインした。ものの十分も懸からないこれだけの作業だが、疲れた。身体の力がいっぺんに抜けた。今、相手方の口座に移った数字にどれだけの客の想い、従業員の想い、天の想いが込められているだろう。店のことを本当に思うなら痛みが伴う。この金を出すことで店は痛手を蒙る。この金を出すことが本当に願いだろうか、という問いが暫く続く。この店が御父様の手足の一つであるという想いがあるので献金を出すということは御父様が自分の手足を喰っているという感覚が私にはある。個人的な想いではなく、主人精神に立てばこその様々な想いが出てくる。だから先ずやるべきことは祈ることだろう。この支出が御心のままに使われるよう、支出することに対する悶々とした想いを払拭し感謝の念を込められるよう、これが条件となって天の願いに応える展開が出来るよう、祈ることだろう。そしてどうやって新たな活力を生み出し、自分もヤル気が出て従業員にも希望を与えられるか。
2008年7月28日月曜日
今日の想い 4
レコードプレーヤーが我が家に来たのは中学に入ってからだった。まだ寮生活に入っていなかったから恐らく統合前の分校に通っていた頃だと思う。回転皿に針を落とす腕が付いただけの、シンプルな作りの安物だったが、寂しい何も無い田舎の家では高価なものの一つだった。自分が最初に親にねだって買ったレコードがビートルズのレットイットビーだった。ラジオから流れる都会的臭いのする歌謡曲を聞くことで土臭い田舎から逃避していたが、たまにかかるその曲は、そういった類の感覚とは違う、自分に無い新しい何かを与えてくれた。乾ききった喉に味わったことの無い炭酸水を流し込むように、その曲を耳にすることで、かつて触れた事の無い清涼感を味わった。それがどういう類のものかわからなかったが、何度も何度もレコード盤に針を落としながら、独特なピアノ伴奏から始まる旋律が胸を揺さぶり涙腺を緩めた。今思えば当時、神の愛の何たるかを触れさせても直接には受け付けない魂に、ひとつの前段階としてクリスチャンの香りのする文化に接することで、み言に繋げようとされた背後の配慮を見て取れる。救いであるとか清めであるとかのキリスト教的感覚が、その曲を通して発芽し芽吹いてくる。その段階を踏まえることなしに神様や父母様に仕えようとする今の魂の在り様は考えられない。その当時手にした文庫本の塩狩峠もそのひとつで為に生き為に死ぬ登場人物の生き様に魂が突き動かされた。自分自身が導かれた復帰の路程を振り返りながら、真の愛への感覚を他に芽生えさせる自分、影響を与える魂の在り様になっているかが問われる。自分の子供をさえ感化できない自分でありながら、周辺や従業員に対してこうあって欲しいと思うこと自体問題なのだ。自分の魂のあり様がステージを上げない限り状況は変わらない。
2008年7月20日日曜日
今日の想い 3
天国はどういうところかと問うてみて、花咲き乱れ小鳥が飛び交い、住人は白い衣などを纏って笑みを称えながら、何の不自由もなく暮らすところ、と想像する。地獄はどういうところと問うてみて、辛うじて目が利く薄暗い中を、罵詈雑言が至る所で浴びせられ、惨たらしい絡み合いに溢れ、あるものは火あぶりにあるものは煮え湯のなかにのた打ち回る様を想像する。天国の描写は胡散臭いものであっても、地獄のそれは当たらずとも遠からずだろう。人間はたまに天国を垣間見ながら実のところ生きて地上地獄に暮らす。自分の中で罵りあい自己中心の思いに羽交い絞めされながら、情念の火に炙られ自己欺瞞の煮え湯を浴び続ける。矛盾する自分をどうすることも出来ず、周りの存在を醜い思いで識別し、肉的本能の思いと沸き立つ感情に振り回されながら毎日を漂う。この眼に飛び込む自然は欲の無い美しさを見せるが皮一枚隔てた自分の内側は我欲という腐臭物に溢れ光届かぬ自己中心の暗黒の只中に暮らす。この腹を掻き切って、燦燦と輝く愛の光に曝したら、醜い思いは焼き消されるのか。そうして嘘偽り無い自分となる時、神様は私を尋ねて下さるだろうか。内なる全てが焼き消され、新しい自我と言う宇宙にこの自然が投影され、真の愛で光輝く恒星を戴き、一点の影もない自我の存在が創造される。泣いても泣いても尽きることの無い貴方の涙に溢れ、その後至るところに貴方の愛おしい想いが宿り始め鏤められる。天国は誰かに案内されて落ち着くところではない。そこは天国ではなく他人の家だ。自分が住まう世界を地獄と認識するなら、地獄を天国に変える為に苦労し投入した分、即ち愛した分、それだけ自分が住まう天国に変わっていく。行くと言う概念で天国は表されるのでなく、天国は築き上げると言う概念の中にある。
2008年7月18日金曜日
地獄を天国に
情けない想いを何度も何度も味わいながら、それが家庭に取って、神様に取って、そして自分に取ってもどういう意味があるのかと問いたくなる。しかし意味があるから味わっている。意味が既に解っているのであれば味わう必要はないだろう。自分が身代わりとなって出来ることであればこうも悩まないものをとも思うが、しかしこれが家庭という意味なのだ。自分の為に悩んでいたものが自分の家族という単位で悩む。親の責任を放棄したおまえの撒いた種だろうと、せせら笑う声が背後に聞こえる。さもありなん、その通りだと何の言い訳をするでもなく自分を責めて戴ければありがたい。お前は何も悪くない、子供自身の責任だと言われようものなら、それこそ救いはないだろう。今の状態を決して天国生活とは言えないかもしれない。家庭地獄の中で呻吟しながら祝福家庭だ、み旨だと自分に言い聞かせて、それが一体どうなるというのかと声を荒げても、それでどうなるものでもない。この場を天国にするも地獄にするも自分しだいだろう。自分と家族を地獄に投げ入れたと責める相手は何処にもいない。親の想いが子に届かない。何処が塞がり何処でもつれたのか、届かないなら届くように努める以外ない。今どのような位置にあれ出発点はその位置から。過去に戻ることも良かれと思う位置に飛び越えることも許されない。一瞬一瞬の今を積み重ねることだけを等しく与えられている。
2008年7月14日月曜日
捉え方の違い
責めようが問い詰めようが、それで変わるとは思えない。こんな小さな店に対してどうこう言うこと自体おかしな話ではある。所詮どの店だってどんぐりの背比べだ。こんな低い次元で蠢いているのが御父様の願いでもないだろうし、中心者の願いでもない。この世でそれなりに成功している企業と天の願いを受けてビジネス活動をしている我々との間で、明らかに異なる点とは一体何であろうか。人材の優劣の違いがそれ程に大きいのだろうか。価値観の違いもあるだろう。教育の違いもあるだろう。確かに自分で選んだ仕事でもない。しかし明らかに彼らにはあって我々には無い意識があるはずだ。実力なり技量は最初から備わっているものではなく、その高みに向かおうとする意志により備わってくるものだろう。意識が無いところに意志は育たない。彼らに備わっているその意識は我々とは無縁のものなのか、み言葉を持って備えられる価値観でその意識が出てくることはないのか。ある兄弟が大母様にどうして我々のビジネスは難しい問題が山積みなのかと問うた時、それはみ旨であるからと答えが返ってきたようだ。み旨とは神様の願い即ち天国実現の為の歩みであろう。み旨であるからという捉え方はみ旨を進める為のビジネスという二次的な捉え方ではなく、我々のビジネス活動がみ旨そのものであると捉える必要がある。伝道であるとか大会であるとかはみ旨という意識が働くと思うが、ビジネス活動それ自体がみ旨だという意識がどれほどあるだろうか。み旨という捉え方を完全にするなら、何が何でも稼げばいい、というような意識でみ旨とはなりえない。稼ぐ前にどれだけ為に生きたかであろうし愛したかということになる。そんなことに思考をめぐらせば、我々は御父様の願われるビジネスと我々の思っているビジネスとは明らかに違ってくる。捉え方の本質に於いて勘違いがあるなら、どれだけ大きくならない儲からないと悩んでもお父様の運勢圏には入っていけない。み旨とは関係の無い異質な行動でしかない。
2008年7月12日土曜日
逝去
フロアマネージャーの父親が亡くなった。兄弟は何人かいるようだが連絡を取って来てくれたのは妹ひとりしかいない。誰が当てになるでもなく、結局見取るのもひとりとなってしまった。マネージャーの彼女は、国許で世話していた兄夫婦がさじを投げてからアメリカに二親引き取り、二十年近く世話をしてきた。引き取った当時は70過ぎてはいても、まだ足腰もしっかりしていて住まいや食事の費用だけを宛がっていれば良かったが、80を過ぎると自分の身の周りのことさえ儘ならぬようになり食事の世話から下の世話まで全てを彼女はこなしていた。しかし毎日の昼のシフトや週末には店にいなければならなかったが、店の経営に支障を来たすようなことは一度も無かった。朝は親の面倒を見てそれから仕事をこなし、夕方は主婦の務めをして週末はディナーシフトも出ていた。更にマネージャーであれば出れない従業員の穴埋めもしなければならない。それら全てのことを立派にこなしていた。父親の様態は年を追う毎に悪くなり、最終的にはナースリーホームに預けることになるのだけれど、預けた後も毎朝通って身の回りの世話をすることだけは辞めなかった。亡くなった今になって口にしたことではあるけれど、父親は一人、妻や家族から離れてホームにいることが辛くなったのだろう。子である彼女に家に帰りたいと洩らしたようだ。引き取って父親の面倒を見るのであれば仕事を引かざるを得ない。彼女も相当に悩んだ。彼女に取って生活の為の仕事と言う思いより、私以上に自分に与えられたみ旨としての仕事の意味を理解している。悩んだ末、父親にはそれなりの説明をして何とかなだめたようだ。それ以来、父親の口からはその件に関しての話は無かった。彼女の立場を配慮して自分に言い聞かせたのだろう。私の父方の祖父も寝たきり老人であったし、子供は十数人いたにも拘らず皆それぞれの生活があり世話をする余裕など誰も無い。子供が薦めるに任せて特養施設に入ることを決めたが、入って半年も経たない内に亡くなった。気力の無い老人には心労が大きすぎたのだろう。子供に世話を掛けたくない一心で決めたことであろうけれど、悲しい。今回のケースもよくある話であったとしても彼女は彼女で犠牲を払い、父親もそれに従う形で犠牲を払っている。父親にしろ彼女にしろ最後の余生に犠牲を強いて、み旨を優先した意味は極めて大きい。そこに深く思い至らなかった自分は責任者として申し訳がない。彼女が臨終の様子を説明してくれ皆の祈りの中で安らかな最後だったことを笑顔で報告してくれたのが本当に救いだった。彼女も両親も、聖酒は戴いている。御父母様の一つの手足である店に対して私以上に貢献し、一つの犠牲を持って直接御父母様に侍った、誇りうる祝福中心家庭である。
2008年7月7日月曜日
不振店に対して
借りてきた猫のようにあちこち眺めているだけなのか。どうして経営が上手くいかないのか問うてみると、評論家宜しく困難な理由を幾らでも並べる。御託を並べて解決できるものなら苦労はいらない。明らかなのは腰が引けていること。性根が座ってないこと。本人は頑張っているものと自分に言い聞かせているのかも知れないが、明らかに魂は店の中に入っていない。身体は店の中に位置しながら魂は別のところを浮遊している。自分の中にそれを見ようとしない。逃げる気持ちをひたすら隠し続けている。身体は動いてそれなりの仕事をこなしてはいるが、それが苦労と言えるかと言うと本人ですら苦労している感覚はないだろう。経営が上手くいかないことに対しての悩みや思い煩いが苦労と言うなら、それは店に対して投入する苦労ではなく、本人がやる気が出ないとか魂が定まらないとか言う、自分に対する苦労としか言えない。あくまで店に対して投入すべきだ。自分の精も根も投入する苦労を重ねることで自分の魂がその店に入っていく。苦労を重ねながら、これだけやっても結果が付いて来ないことに対して涙することもある。汗を流し涙を流すことで自分はこの店を愛している、この店こそ自分自身そのものであると言う境地に達する。知恵なり方法はその境地でこそ与えられる。というか自ずと湧き出てくる。
2008年7月6日日曜日
海 (2)
海水浴行事は毎年の恒例となった。畳ヶ裏の岩場にシートを広げて飲み食いしたり、砂浜にテントを張って飲み食いしたりと、大人は専ら飲み食いに忙しく海水浴を楽しむでもなく海を愛でるでもない。山猿で泳ぎなど誰も知らなかったし子供の自分も波打ち際で足を洗われる事だけで十分楽しかった。目の前に広がる紺碧の海を見ているだけでその開放感に満足していた。二度目か三度目の海水浴だったと思う。泳ぎはできないまでも真似事ぐらいと思い、足が届く位置を浜辺に平行して手で掻いて進んでいった。少し後を妹も付いて来ていた。いつの間にか砂浜に張ったテントが後方に小さく見える。平行に掻いてきたつもりが気持ち浜辺からの距離を増したように思えたが、足は届くから不安は無かった。妹もしっかり後を付いて来ていた。それまで大波など来なかったが急に海面が高くなり沖からせり出した波が襲ってきた。波に身体を預け送ったが、足が地に着かない。一気に嵩が増した。焦った。息を止め息の続く限り浜辺に向かって泳いだ、と言うよりもがいた。息も限界で立ち上がろうとしたものの足はまだ届かない。息を吐いた勢いで海水が入り込む。足が届かない以上口を開けても海水しか入ってこない。海水を思いっきり吸い込み喘ぎながら残る力を振り絞って更にもがき続けた。もうだめだと諦めかけた時足が底をやっと捉えた。辛うじて息衝いた。脱力感と海水でパンパンになった腹を苦しくさすりながら、その時妹の事に気付いた。急いで目をやると少し沖で頭が見え隠れしている。妹だと解るとひたすら名前を呼び続けた。もどかしかった。他に何も出来なかった。少しずつ少しずつ距離を縮めやっとのことで手を差し伸べるところまで近づくと急いで駆け寄り手を引いて浜辺に上げた。自分以上に苦しい目にあったはずで小刻みに震える唇は完全に血の気が失せ真っ白だった。海水も山ほど飲んだらしく腹は大きく膨れひたすらえづいていた。かける言葉もなく震える身体に焼けた砂をかけてやった。ふたりして往生した海を力なく眺め続けた。暫くその場で休み落ち着きを戻すと遥か先のテントまで浜辺を歩いた。海への開放感が一変に恐怖に変わった。足を引きずりながらやっとついてくる妹に、溺れかけたことを黙っているように告げた。妹は返事もせず黙って歩き続けた。親は二人で溺れかけたことを知らない。二人の間でもその事には一言も触れなかった。たまに帰って妹と昔話に華を咲かすこともあるが、その事に関しては未だに封印されている。余程怖い思いをしたのか、それとも兄の言うことは何でも聞いていたからか。
海
初めて海を見たのが小学校三年の時だったと思う。区の子供のいる家族がみんな集まってマイクロバスに乗り込み、山陰の海辺に繰り出した。中国山地の峰からなだらかな坂を下りながら、初めてこの目で見る興奮を抑えきれず、車の前方を片時も見離すことの無いよう前のめりになって腰を浮かせていた。大人連中は発車前から入っているようで、海水浴行事であるのに飲み会と化してしまっている。一升瓶やビール瓶が右に左に行き交い、視線が遮られるのを不満に思いながら、それでも前を見続けた。山の裾を縫うように蛇行して走り続ける。道路の上にまでせり出した木々で空の様子もはっきりとは見えない。やっと道幅が幾分広くなったところで暑い日差しが差し込んだ。浮かれた赤い顔が揺られながら照らされる。砂利道を土煙を上げながらひたすら下っていく。幾らか上り斜面に差し掛かり峠を越えると視界が一気に広がった。男連中のうるさいやり取りに紛れて女連中の歓声が上がった。前の座席にいた母が振り返り、海が見えるよと声をかけてくれた。急いで座席に立ち上がって前のめりに目を凝らした。山間にキラキラ光る帯が水平に見渡せた。青い海が目に飛び込むものとばかり思っていた子供にキラキラ光る海は衝撃的だった。山間の盆地の底で四方を山に囲まれ、山ばかり見て育った自分に、今向かっている光の帯はこの世のものとは思えないほどの存在感だった。
2008年7月5日土曜日
やっとの手直し
住宅バブルをほったらかしにした付けが襲っている。ドルと住宅価格は下げ続けオイルや物の価格は上がりっ放しだ。景気後退くらいで済まない段階に突入している。うちの店とて例外ではない。昨年の夏が過ぎた辺りから毎月計ったように前年比一割減で推移してきたが、恐らく更なる減収になると思う。全てのフードコストは上がり中には三倍にも達する物もあり、ここまで上がると客の反応等気にする訳にもいかず値上げするしか方策はない。上げて売り上げが増えるわけではないが他にコスト高をカバーできる策は見当たらない。コストが高いからという言い訳だけでは能が無いので何かプラスアルファと思いカーペットを交換した。本来なら内装を変えたのが六年前なのでそろそろ全般的手直しをする時期には来ているが、これだけ経済が落ち込むと、なるだけ大きな支出は慎みたい。と言うことで足場を固める意味でカーペットとなった。今までは業者に頼んでいたが丸一日潰れるし、何千ドルとチャージされる。色々考えたが自分で購入して配達してもらい内輪の従業員でやっつける事にした。何分最初のことなので不安は尽きなかったが案ずるより産むが安し、意外とイメージ通りに事が運んだ。営業の後なので皆疲れていたが力を合わせて最後までかんばってくれた。従業員皆を送った後、お払いの意味で啓拝を捧げ祈祷を捧げた。言い訳を得てメニューの値段を上乗せさせてもらい、気持ち良く再出発できる? しかし混乱はこれからだ。経済混乱の濁流に世界が巻き込まれ、ナイアガラかイグアスか、世紀の大フリーホールに突入する。
2008年7月3日木曜日
今日の想い 2
自分の目標は何かと自問して応えられない食口は多いはずだ。摂理の中で歩むとしても摂理の願いが自分の願いであるという認識を自覚していない。自覚がないのであれば自分は摂理の中に身を置きながら違う空間を彷徨っている。献身して全てを捧げていると言いながら自分の夢なり目標が摂理の願いと一致していない。高邁な意志を持って飛び込んでは見たものの、浮くことにやっとで目的地が定まっていない。波間に浮かぶ浮遊霊のように魂が薄れ無表情な群れに何が為し得よう。主の名を連呼しながらも既に嫌気が差し下手に泳いで疲れることを心配して敢えて危険を冒そうとはしない。この世的生活の中にどっぷり浸かる訳でもなくしかしかといってみ旨に邁進する訳でもない。自分の魂の在り様の理想型を捉えることが出来ず、今の在り様から離れることが出来ない。御父母様の魂の在り様こそ自分の目指すものでありながら遥か彼方、届きようも無い次元にあるものと諦めて、救いとは本来御父様と同じ次元の在り様に近づくこととの認識は何処かに捨てられ、ひたすら内面の慰めや形の上での信仰生活に心を砕く。酒を飲んではいけないタバコをすってはいけない、あれをしてはいけないこれをしてはいけない、するなと言われた事柄だけを意識するだけで、なすべき事に正面から向き合い対処しようとする意志の姿勢を見出すことはない。札束が舞い上がるこの自由経済に身を置き、更に摂理を進めるためにいくらでも札束が要求される状況で、百ドル千ドルのはした金が何の役に立つのか。清貧をよしとする気持ちに異論はなくとも、我々が捧げる生活費から捻出される微々たる金が役に立つとは思わない。出して貧しくなったのではなく、ただ生活能力に欠けるために汲々としているだけの話だ。願われるものに応えていきたいというそれなりの温度を感じるものは、そこにはない。その辺の乞食にくれてやるようなはした金を献金箱に入れ続けて申し訳ない思いどころか一人前の信仰者気取りでさえある自分は御父様の目にどう映るだろうか。自分に対する御父母様の願いが何であるのか真摯に尋ねたことがあるだろうか。自分の中に夢は理想は生き続けているだろうか。熱いものを自分の中に感じたり受け取っているだろうか。御父母様を想うて熱い涙を流しているだろうか。
2008年7月2日水曜日
行動力とは
今自分が置かれている環境にどう対処しようとしているか。縮み思考なのか発展思考なのか。否定的なのか肯定的なのか。固執しているのか柔軟な姿勢なのか。停滞なのか行動なのか。しかし状況に対して距離を置いている以上どれ程その周りで試行錯誤しても、自分の態度を変えることは難しい。先ずその環境に飛び込むことでしか先には進めない。泳ぎを知らない者が水槽に飛び込み、やがて慣れ、泳ぎを学ぶように、環境に飛び込んでこそその環境の中で泳ぐことを学び、目的地に向かう能力を養える。環境の中に溶け込み一体となってこそ、その環境を分析できるしどう主管すべきかが見えてくる。天才とは研究対象である問題と自分自身の二つの区別がつかないまでに一体になる人、と言うある物理学者の言葉にあるように問題課題と渾然一体となることで問題解決の糸口や法則を見出せる。ため息をついたり首を傾げている時点では、しっかり距離を置いて眺めている状態であり要するに他人事の域を脱していない。飛び込んでこそ泳ぐ力は出てくる。思考力も働く。水際に立って思案している状況では何の力も湧いてこない。下手な考え休むに似たりである。飛び込むには決意が要る。体裁やら逃げようとする恐れやら、いろんな執着している想いや事柄を解き放つ決意であり、そういった煩悩を自分の中から解き放つことで新しい景色が広がる。見えなかったものが確実に視界に飛び込んでくる。
2008年6月23日月曜日
死に関して
生きて何処に向かうか。生は死に真っ直ぐ進んでいる。物質的な事にだけ目をやるなら生命ある存在はどんな存在も朽ち果てる。死が到着点であるなら生の目的は死となる。肉体という限りある形成物は地上に於ける自我の仮の宿だ。生に限りがあるという意味は限りがあるから生の価値があると見る。死を持って生の価値が問われる。だから生きている者のそれぞれの意味はそれぞれの死の認識に由来する。死後の世界があるとか無いとか、それも非常に重要な課題ではあるが病気にしろ死刑囚にしろ死の宣告を受けた者であれば切実な課題として捉える。しかし普通一般の人間は遠い先のこととして半永久的に生きるぐらいにしか思っていないので抽象的な事柄でしかない。現代社会の悪のひとつは周辺に死の臭いがしないことにある。回りで人が死ぬのを見、可愛がってくれた祖父や祖母の死を見ることが出来れば生きることの意味に目覚める。人間は死ぬんだという事実を突きつけられて初めて生きることの意味を問う。周辺から死が追いやられてから久しい。死を知らない存在は身体は動いていても眠りから醒めていない。幻想の中でみんな踊らされている。生きながらにして死の踊りを踊らされている。
2008年6月22日日曜日
内的自覚
目は視覚という受け取る感覚器官のひとつだ。耳は聴覚という受け取る感覚器官のひとつで、皮膚は触覚という感覚器官のひとつだ。感覚器官を通して受け取ったものが、どう自分の中で作用しているかの認識がない。受け取ったものが自分にどう働きかけようとしているのか観察する。受け取ったものを自分の思考を持って消化する。吸収すべきものを消化した中から内なる世界に取り入れる。そういった流れを認識するためには受け取ったものを表現する過程で自覚できる。例えば風景描写を試みる時に目という感覚器官から直接、手という描写しようとする器官に向かうのではない。視覚に通したものを一度内面に収めている。手を通して描くものは内面に自分なりに受け取ったものを表現していくのでありそれ故、同じ風景を描くとしても人それぞれに受け取り方が違うように表現も違ったものとなる。絵画であれ詩歌であれ何であっても受け取る対象を表現しようとすれば自分の内面の在り様や動きに意識的に関わらざるを得ない。そういう意味で常に表現を試みようと意識的に対象に向かう時、本質的内的態度を取っていると言える。そういう生活は霊的感性を高め、本質的価値に対する認識を得る。先ず行動を起こすことが必要である。今日一日の出来事を書き留めることからでもいい。どんなに些細なことでも自分の感情の動きを書き出すことで内面を観察する糸口が見つかる。
2008年6月20日金曜日
建国記念日
建国記念日が又やってくる。アメリカなりの記念日が色々あるにはあるが、どれを取って見てもどうも色合いが薄い。特に元旦の気の抜けようは日本の年末年始を知る者には寂しいものがある。サンクスギビング、クリスマスあたりが一番大きな祝日で、現地の人に取っては感慨深い日なのかもしれないが、傍目には買い物の為に盛り上がっているとしか思えない。覚めた目で見てしまうそういった行事の中で建国記念日で打ち上げる花火だけは、自分としてはそれなりに内面に届くものがある。除夜の鐘の音が耳に届く時の感覚と同じような感覚を、大輪の光の華を視覚に受け取る時、感じる。あれから又一年が経った、という感慨である。打ち上げが始まるまでは、アメリカ的と言えるのかどうかロックバンドがキンキンに唸り立てる。広場に設えた演奏の為の高台を前に、折り畳み椅子やらビニールシートやら持ち込み、食べたり踊ったり寝転んだりの好き勝手状態だが、始まる頃になると様相が変わってくる。起立して国歌斉唱。それからカウントダウン。打ち上げの破裂音が続け様に鳴り響き、夜空に次々と大輪の華が咲く。色とりどりの灯に浮かび上がる神妙な顔々が天を向く。花火は本来切ないものだ。開いた華が見事であればあるほど瞬時に消え行く様は悲しい。儚いものに対すると憐みの情が湧く。花火には人工的光にはない、ろうそくの灯に見る温かみが届く。が、それが一瞬であるだけに命あるものの儚さを覚える。そういった感傷はアメリカ的ではないのだろう。その感情の入り込む隙を見せまいと、続け様に打ち上げる。幾重にも打ち上げられた見事な花火、硝煙が立ち込めその視界を遮ろうともお構いなしだ。何とも風情のないやり方ではあるが、そう思いながらもケチることを良しとしないおもいっきりの良さも感じられて心地よい。半時間を超えて最後の最後ともなると、殆ど闇雲に連打して打ち上げ、煙にまみれながらも破裂音の連打が腹の底に響き続ける。そして唐突に静寂が訪れる。あれほどに賑やかしていた群れが、嘘のように無口になって帰り支度を始める。この一連の流れが祭り気分と祭りの後の寂しさを味わわせてくれる。今年もJULY4TH がやって来る。
2008年6月18日水曜日
因縁
我々の在り方を一言で言うと、自己否定だった。対社会的な教育なり訓練を受けたことは無いしそういった向上心やら全てを、否定して否定してある期間を通過した。その結果、自分も含めて多くの場合、実力に欠ける存在、この世では勤まらない弱者であり負け組みだった。どんなに否定しても我々の中に卑屈な想いが無いかというと、心の奥にそういった自分に対する蔑みがあった。罪に対する意識と自分は駄目な存在だという卑屈な想いとは違うものだ。キリスト教の基盤が薄い日本は人間性を無視するような態度を相手に対して取る場合があり、特に上下関係に於いてそれが見られる。我々の組織に於いても軍隊生活かと思うような虫けらのような扱いや言動が当然のようにまかり通る。それは少し違うでしょうという思いがあったがそこを通過することでしか祝福にありつけなかった。そこを通過することで得るものも勿論あるが犠牲にするものも決して少なくは無い。内外の実力をつけるという面に於いても犠牲が伴うが、それ以上に、関わる兄弟の信仰生命を断ち切りかねない。受けた痛みに対して恨みを残す。悲しいかな離れざるを得なかったり、辛うじて踏みとどまっても深層に押し込められた恨みが将来的に自分に影を落としたり家庭で破裂したりする。多かれ少なかれトラウマとして尾を引く場合が結構見られる。早くに渡米して歩んでいる兄弟と日本で厳しい路程を通過した兄弟とは在り様が違う。個人差もあるが日本の組織活動華々し頃の傷跡を多くの兄弟に見て取れる。敢えて言うなら自閉症的様相を帯びる。恐らく自己否定とアベルカインの意味の取り違えから起こる中心者の兄弟に対する対応が問題だったと思うが、敢えてそういう環境にならざるを得なかった摂理の要求があってのことであり、当時の責任者を悪者と断罪することはできない。責任者自身もまたそういう環境の中で鬼にならざるを得なかった犠牲を自分に強いている。様々な恨み辛みを御焚き上げして内面の大掃除は果たされたのであり、後天開闢の夜明けと共にクリーンアップされた内面に合わせて生活面、仕事面、全ての活動面に対する整理整頓が必要である。外的事柄全てに過去の因縁が染み付いている。本来ならもっと早くに為されて然るべきものを、携わる者が完全に目覚めておらないため、過去にしがみ付く亡霊が徘徊する。
2008年6月16日月曜日
プレゼント
昨日は父の日だった。子供からは何も無いがワイフがプレゼントしてくれた。気合を入れて焼いてくれたチーズケーキ、先回、お食事用のデザートにと試行錯誤しながら行き着いたコーヒーゼリー(先回は流れたのでお口にして頂けはしなかったが、、、)、そして筆記具。小さい頃、父が浜田まで出かけ子供の土産にボールペンをそれぞれ買ってきてくれたことがあった。紙袋を開けた時、目に飛び込んできた鮮やかな水色が心に焼きついている。今にすれば安っぽいものだが、万年筆に似せたそれは小さい自分をおとなにしてくれるような光を放っていた。キャップを外しては少し書き、引き出しに片付けては又出し、の繰り返しで数日をワクワクしながら送った。妹や弟は一日遊んでそこらへんに投げ出していたが、自分には大切な宝物だった。ワイフから、父の日だからと小さい包みを渡され開けたとき、子供の頃のその思い出が蘇った。手にしたときの心躍る様がありありと蘇った。贈り物には不思議な力がある。与える当人の想いが宿っていて見えないその想いが見える形となって手に届く。与える想いに触発されて、日頃は他愛も無いことで二言三言口にするようであっても、妙に切なく思えたり愛おしく思えたりしてくる。先ほど口にしたことに負債を覚えたりしてくる。私達は多くを受け取りながら生を繋いでいく。誰の世話にもならずひとり強く生きているような錯覚を覚えるが、実のところ親や家族をはじめ多くの人々の想いを受けながら生かされている。そこに神様はそういった人々を通して働いておられるし愛を届ける。だからそういった人々に対する感謝の想いが、つまるところ神様に届く。自然から光を受け、空気を吸い水と食物を与えられて生きているようであるが、本当は光や受ける全てを通して、この身を想うてくれる愛を食べながら生を繋いでいる。
2008年6月12日木曜日
知識
今の世は情報過多で、莫大な量の知識が行き交い、パソコン画面を通していくらでも入手できる。知識をどれほど手に入れ自分の頭に詰め込もうとも、それだけでは何の役にも立たない。知識の量が問題なのではなく知識を活用できるエンジンが問題となる。知識を一方的に受け続ける状態から、それらから知恵を働かせ新しい事柄を創造する、即ち受動的状態から能動的状態に踏み込むことで、人間として活き活きとした歩みを為せる。与えること、為に生きること、働きかけること、そうした事柄と創造することとは同意である。常に自分を起点として与えることに飢えている者は与える新しい事柄を発見する。与える新しい事柄を創造する。与えれれば与えるほどに、与えた以上のものが自分の中に流れ込んでくる。宇宙の法則はそうなっている。大なり小なり過去のどんな発見もどんな創造も、本人が能動的モードに自分を差し出す時、ある意味寝食を忘れ働きかけることに酔う時、自分を忘れる即ち自分を犠牲にする時に偉大な発見、創造は為されてきた。無機質な知識をどれほどむさぼっても知識という形骸を取り入れているに過ぎない。知識や情報の実を取り込もうとするなら、闇雲に拾い続けるのではなくそれが自分に或いは隣の人に社会に世界にどう働きかけ、どういう意味があるのかどう使えるのか、そういった見えないものを見ようとするときその知識は生きて自分に語りかけ働きかける。生きた知識の色合いが見え感情が含まれるようになると創造の世界が開けてくる。
2008年6月9日月曜日
侍ることについて
自分は生かされており護られ導かれている。多くの感謝すべき内容に溢れている。しかし我々が本当に感謝すべきことは御父母様に侍ることが出来るというその一点に尽きる。逆にその想いが無いのならばこの道に籍を置く意味は無い。普通のクリスチャンで十分為し得る。個人的な問題や課題を解決することが重要なのではない。家庭的問題をなくせば済む、或いは二世がそれなりの信仰を維持し祝福を受けてくれればそれで事足りる、そういう問題ではない。勿論そういったことに対して厳しく願われるのも事実であるけれど、その想いに執着することと御父母様に侍ることとは違う。少なくとも自分の中では明らかに異質のものだ。自分の中に御父母様に対する想いがあるか、侍るという一心の想いというか意思があるか。この身を賭してでもお役に立ちたいという切実な想いに溢れているか。罵られ足蹴にされてもそれでも付いて行きたいという想いがあるか。御父母様の為に苦労できることが何よりも感謝だという想いがあるか。そういった魂こそ自分であると感じられ認識できる時、自分は御父母様と共にいる。御父母様の涙に自分自身は溢れ、御父母様の血で滾る。侍るという存在が衣服を纏っている、そこまで自分の魂を高めるべきだ。
2008年6月8日日曜日
苦労の意味
自分の置かれている環境を誰かのせいにすることはできる。他人の置かれている環境を羨むこともできる。しかしそれで自分に得するものは何も無いことは誰もがわかっている。意識を他人に被せたところで実感の伴わない幻想に自分を置く。それは幽霊でしかない。人に学ぶ事と人を羨む事とは全く異なる。前者は目標を捕らえた意志であり後者は目標を喪失した自分に対する蔑みである。人は人であり自分は自分、とよく言うがその通りだと思う。自分の悲痛な境遇を嘆くことも時にはあるだろう。しかしそれに没頭することを自分の本心は良しとしない。その嘆きから何を学ぼうとしているのかを問い、その嘆きから抽出される結晶こそ、外的な快感や喜びとは次元のことなる霊界精神界に留まる宝と言える。人生は苦労の連続だと言い切っても言い過ぎだとは思わない。人生は内外の苦労に彩られている。苦難の一つ一つの路程に揉まれる過程で自分が光を放つ存在となる為の磨き粉の役目がそこにある。自分の本質は苦労を経験し味わうためにこの地上界に生を得た。苦労することを欲して生を受けたと言うこと。苦労を重ねるごとに愛すること為に生きることのすばらしさに目覚め、自分の眠っていた本質が目覚め研ぎ澄まされることを学ぶ。自分がこの世的快楽や悦びの中に浸ろうとするなら肉の塊という存在に限りなく近づくのであり、自分が苦労の只中にあると認識しそれを甘受しているなら限りなく天に近くなる。
2008年6月6日金曜日
今日一日の色合い
今日と言う真新しい一日をどういう思いで受け取るか。変わりない環境と変わりない生活。昨日までの問題が今日も厳然と横たわり、何の解決策も見えない。ため息をつき目を逸らし続ける。自分の中に悶々とした想いを溜め込みながら、何ら変わらない一日をまた遣り過ごす。見えない縛りに五感がかけられ、見てはならないものを見せられ、聞いてはならないものを聞かされ、触れてはならないものに意識を釘付けされている。人により同じものを見ても受け取るものは違う。映り込むものは人によって違う。そこに疑問を持つべきだ。自分の五感を通して入ってくる情報に自分が惑わされていることに気付かない。自分の内面に届く印象全てが自分の感情の色で表されている。否定的な色合いで届いた印象は自分自身を否定的な色に塗り替える。そこに気付くものは少ない。しかしそこに気付いたものは変わる。確実に変わる。自分の夢を見出したもの、自分の夢を実現したもの、彼らはチャンスを毎日の受け取る印象の中に見出した者であり、また見出し続ける者達だ。多くの者が受け取る印象に何の新しいものも見出せず否定的想いに曇らせるが、彼らはそこに夢への道のりを見ている。人は夢を持ってこそ活きる。夢をもってこそ本当の目が開ける。自分の環境を夢の実現の為の道具とする。一日一日が夢実現の為の一里塚となる。悶々とした惰性の一日など一つとしてない。仕事を探しにくる者に大きく分けて二通りある。生活の為に働きたいという者と将来の夢を持ち実現の一つの手段、一つの段階として働きたいという者。成長の度合いが格段に違う。内面に受け取る印象の色合いが違う。今日一日の色合いが違う。活き活きとした色合いで内面が満たされている。
2008年6月4日水曜日
目を覚ますこと
自分と同年代で70年代80年代前半に復帰され、献身を決意して今に至る食口達は、ある意味燃え尽き症候群と言える。それも相当重症でもはや灰カス状態にある。日本では万物復帰に明け暮れてきた。愛に動かされてと言うより、使命に燃えて歩んできた。信仰というよりは運動に殉じてきた。我々が受けてきた訓練は技術を学ぶとか頭を使うだとか人心を掴むための内面を成長させるだとか、そういうビジネス感性に必要な訓練とは違った。この世で自分として生きる為の事柄とは無縁の世界で歩んできた。いろんな思いを廻らす、疑問を持つ、思考する、それは人間性に関することであるけれどそれさえも否定すべきものとして植えつけられ、人間以下の立場で歩んできた。余程の単純細胞の持ち主か余程の信仰者しか残らない。そういう時期が必要であった事はその通りだが、次の段階の教育なり訓練が蔑ろにされていたことは認めるべきだと思う。その辺の道路に立って金をせびるホームレスと、内外の実力という面に於いては何ら変わりは無い。ビジネスに関わりながら金の意味すら解らずに携わる。自分で稼いで来たという感覚すらないのに、それを宛がえる方が間違っている。自分で築いてきた感覚が一つとしてあるだろうか。職場を与えられ食事を与えられ、住まいを与えられ小遣いを与えられ、そして妻も与えられて家庭らしきものも与えられる。一つ間違えると人生の飼い殺し状態にある。そんな状態でお父様を連呼して喜ばれるだろうか。そんな者が集まる群れを神様は願ったのだろうか。表面的には父母様と共に苦労してきた格好だけは付けたが、自分を貶める事に慣れそこに隠れ続けて来ただけの事ではないのか。新しい時代圏で兄弟は羽ばたくべきである。押さえつけてきた自我を認識し新しい意識に目覚め、それぞれが神様に問うて自分の本来の願いを受け止め大きく羽ばたくべきである。
2008年6月3日火曜日
性を考える
地上世界の生きとし生けるもの全て、形は崩れやがては消える。それは人間の肉体にしても同じ事でいつかはこの世を去る宿命にある。陰陽でこの世界は創造されているように、この世には男と女が存在する。男女が交わることで朽ちる肉体の限界を超え、生存を繋いできた。繁殖をもって種の継続を為していくためには性を抜きにすることは出来ない。動物であれば本能という種族意識の定められた原理に従うのみであるが、自我を得た精神の働きを持つ人間は本能に没頭するのみを善しとしない。人間を動物の一種であり、それ以上でもなくそれ以下でもないと信じる者は性を本能の一つと無理やり片付けてしまう。が、そう割り切れるものではない。普通の人間であれば愛との関係性の中での性の位置づけをする。青少年問題そして男女関係を含めた性の問題は人類の大きなテーマとしてずっと今までそして今も解決されずにいる。愛があってその上で性があるのであり、性ありきで愛が伴うとか性と愛を同レベルで扱うということは出来ない。生きる為に食べるのであり食べる為に生きるのではないように、愛のある家庭を築く為に性が関わるのであり性の為に家庭があるのではない。そういう意味では同棲と結婚ははっきり区別されるべきものだ。性は確かに愛の表現形態でもあるが、愛と性は直接の関係を持たない。人間は食事に於いても肉体的本能的要求に応えるのみならず精神性を要求する。口のみを使い床にばら撒かれた食物を採るようにと指示されれば、誰も従わないだろう。それは自分が野獣だと認めることを意味する。食器を使わず両手でガツガツ食べればそれは、本能に忠実な採り方と言える。しかしこれも人間として拒否すると思う。食事に伴う本能である食欲を主管しながら、作法を重んじ美意識に照らし、食事を芸術の領域さらに精神的領域に高めようとする。性の営みもそのようであって、種族意識の本能に没頭する動物的在り様から神様をも巻き込む霊的精神的領域まで高めようとする意識こそ性に対する本来の在り方だと思う。性は愛との関係性(それが偽りの愛であっても)で、最も悪用され最も触れずに置かれた領域であったが、本来は最も神秘的宗教的な聖なる営みである。
2008年6月2日月曜日
ひかり
ひんやりした朝の大気を心地よく受けながら今日の一日が始まる。届いた柔らかな光が木々の緑に揺れ遊ぶ。受け取る光で命を育みそれぞれの生の意味を精一杯生きる。大気は青を濃くするほどに光に満たされ濃縮され、余りあるほどにそれぞれが受け取れるよう配慮される。母親が乳飲み子に乳房を含ませ成長を祈るように、生命の背後にある親なる方の祈りを見届ける。それぞれにそれぞれの形で愛おしい想いが宿っている。活き活きとしたその想いを見る事なしに、自然の恵みを受け取ることは罪となる。光を見る時、愛の姿をそこに見る。溢れる光を受けながらも、ひたすら与えようとされる神様の想いを受け取るに至らないなら、親としての悲しみはいかばかりか。その悲しさ寂しさも届く光に含まれている。思い悩む前に、生かされている自分、その自分に届く想いに耳を傾ける。光の通説概念をはずし、届く愛としての光を認識し、届ける方の想いに心を傾け、それから自分の思い悩みを問うてみる。愛されていることの実感を持つことが出来れば、それに向き合う思いも変わってくる。日常の全ての当たり前のことが、深い深い愛に裏付けられている。今日の一日を、受け取る全てを感謝に変えて届ければ、少しでも喜んでもらえるだろうか。
血統を考える
自分の内面を観察すれば、あまりにもおぞましい血の在り様が連綿と受け継がれて来たのを見ることが出来る。さほど霊的感性は開けていないので鮮明に見聞きすることは出来ないが、それほどの感性が備わっていれば常人であることは出来ないだろう。大母様が、我々の身体に蟻の卵のようにびっしりと霊が付いている、という表現をされるが、その一つ一つの霊の念に魂は影響を受けて自分の在り様を呈する。たとえみ言葉をことごとく理解して人間本来の在り様に近づこうとしても、霊達の念で築かれた霊の身体とその外的表示体である肉の身体は、そのしがみ付いた霊の想いの世界から逃れることは出来ず身動きは取れない。その中に一点の光の種が投げ込まれた意味が祝福を頂いたことの意味である。自分の血の在り様には何代先祖を遡っても見出せない光の要素、真の愛の要素をその種としていただいた意味がそこにある。であれば、私という存在は連綿として受け継がれてきた悪魔的堕落の血統の結実であると同時に、終着点である。そして頂いた祝福の種を起点として生まれた祝福二世は、真の父母の真の愛にその起源を置く血の在り様をしている。み言葉の理解も貧しく、信仰も侍る姿勢も薄い我々であり、そして祝福の価値も本当の意味で解っているものは少ない。それでありながらこと二世の祝福となると、命に代えてでも受けさせようという強い想い真剣な想いは、自分から来るものではなく天から来るものであることは明らかだ。ある意味、自分の二世に対する想いは天の二世に対する想いである。
2008年6月1日日曜日
自分を主管する
この世はあの世の象徴的現れに過ぎない。霊界の感覚の広がり深さは、この世の五感とそれに付随するものに比べられるものではない。自我に相対する対象を主管し、それから新しいものを創造し、それを提供する(与える)ことが自我として分化した者の本質だ。その為のあらゆる感性を人間は備えている。他の為に生きるという人間の本質の為にその感性は使われる。五感以上の眠っている感性を掘り起こして精細な観察が可能になると、より霊化した創造性が発揮される。今、我々が接する地上世界は特別の者を除いて霊的な要素を防ぐ形で五感を通され、受け取る。主管力を失った人類は、直接的に霊の要素を受け取ると、その次元の違い、そして善の要素以上に悪の要素を受け取るため悪の人格が際立つか発狂する。それゆえある意味、霊的なものが覆われた世界で護られてきたとも言える。しかし時代は宇宙的変革期を迎えている。徐々にではあるが確実に霊に対する覆いが一枚一枚と取り除かれている。善の主権が確立され善の霊的要素が大幅に悪のそれを上回ってきた。その霊的な過渡期の感覚を全身に覚える。どこに行こうともその場が善の場か悪の場か、そして誰に接しようとも対する人が善神に仕えた者か悪神に仕えた者か如実に見通せるようになる。日常の外的世界に埋没していると外的な事柄が全てのような感覚で日々を送っているが、それは本質的霊的に見るなら影のようなものだ。一日を終えて休む前に静寂の中で一日を思い起こして見る。朝からの出来事を時間に沿って追うのではなく、逆に時間を遡りながら過去に向けて追っていく。そうすることで外的な事柄は薄れ、経験として受け取ったもの得たものが浮き出てくる。五感で受け取ったものが自分の感情で表現された色合いを帯びてくる。それを通して外的な事柄の背後にある本質に届くようになる。夜、床に付く前に瞑想の時を持つ。内面の観察に没頭すると本心の願いである祈りを見出せるようになる。本心の祈りを聞いてそれに標準をあわせる事で初めて、霊的に活きた歩みを為せる。
田舎の影
故郷に対する暗いイメージは今の今も消えない。それは、どんな真昼の燦燦と輝く太陽の下の思い出であっても、暗い感覚は変わらない。故郷に赴き、その地に足を下ろしたとたん、ジワリジワリと内側が侵食される感覚を覚える。いろんな所に居を置いて来た。二十数万の生命が数日の内に絶えてしまった広島市の中心に住んだ事もあるし、人殺しのあった家に数年住んだ事もある。しかしそういう場所とは違う嫌悪感を生まれ育った田舎に感じる。それはどうも人の念に関わるものとは違うような気がする。今の今まで、その正体を見ることが出来ずに来た。数年前、僧侶の大叔父からノート大の本が届いた。それには大叔父の歩んできた人生の流れやら、九十を越す今でこそ語る妻との出会いやら、親戚縁者のことやらが語られている、云わば自伝だ。叔母さんは(自分はそう呼んでいた)、大叔父とは一回りも違う連れ合いではあるけれど、八十に近い老人には違いない。その表現には二十に満たない可憐な女性を想い見る様に描かれていて、経を口にする印象しか残っていない大叔父の意外な面に触れたようで戸惑いもした。しかし自分を引き付けたのは大叔父の幼少の頃、即ち自分の祖父と大叔父の母方になる訳だが、その実家で起こった出来事についての記述に及んだ時だ。そう遠くない代を遡った場で、家族間の殺人事件が起きている。もし親戚がこのブログを目にすると厄介なので詳細には触れないが、自分の祖父の祖父が太刀で手首を切り落とされ翌日に死亡、加害者は直接ではないが縁者に当たり、その妻が死亡、その他数人の親戚が重症を負っている。手首から噴出す鮮血を桶で受けながらことつきたらしい。その時の詳細をありありと描いている。その記述を追いながら、背後が寒くなるのを感じた。自分の代から数代遡れば先祖の中にもいろんな人物がいることは想像できる。触れたくない様々な事柄が事実として存在する。自分はそれらと無関係でいられるとは思わない。後孫は先祖からの様々な念を血の中に受け継いで今に至っている。しかし自分に迫り来ていたものはそれとは違うそういった人生の在り様を為さしめる何かが自分に襲い、その地に暗い影を常に落としている。それに身を任せたら、底の底まで引き摺り下ろされ、精神を病む。その正体が未だに掴めない。
2008年5月27日火曜日
職場
若い頃は年を重ね顔も身体も崩れそうな者達を見ながら、何と年を重ねることは惨めなむごたらしいことかという想いがあった。自分の周囲に年を重ねることのすばらしさを語るものはいなかった。しかしこの年になって見えてくるものがあるという事が解り、若い頃がどれ程不自由であったかが解り、自分の内なる世界、内なる宇宙が、年を重ねることによって大きく広がってくることがわかった。年を取れば肉体的には活動範囲は狭まるが、内的なる活動範囲の広がり方に比べれば些細なことである。そう言い切れる自分に過去の自分は驚いている。たまに同業仲間で集まったりするといろんな身体の不具合の話で盛り上がったりするが、話の取っ付きとして付き合うのは善しとしても、身体に良い情報をあれやこれやと片っ端から引き出すのはウンザリしてくる。もっと深い内的な、精神的な、霊的な内容を授受したい。職場に於いてどれだけ過去に見えなかったものが見え、思考が自由に組み立てられ、内外の特に内なる世界においての活動範囲が広まったか、を見る必要がある。ビジネス会議に於いても、いつまでたっても昔と変わらず数字を並べ立てながら、結果と外的方法論に終始していたりする。食事に例えるなら量だけにこだわり、その内容については触れようとしない事と同意である。そこに何の創造的神霊も関与できない。お父様が霊界についてあれほどに重要視され触れられながら、ビジネス活動の事柄全てから霊的なもの内的なものを排除して携わっている。唯物論者にならない限り、そこから何の力もエネルギーも湧いてこない。はっきり自分の意見を言うと、今やっている卸し業務なり職人業務に何の霊的なもの内的なものも必要としていない。ただ、システムと流れ作業に従事しているのみで全ては事足りる。霊界が本当に解るならばその場が自分にとって内的霊的成長には繋がらないことを理解するはずである。それは死を意味している。勿論携わる兄弟それぞれは家に帰れば内的霊的なものが必要であり成長もする。しかし職場が神霊に満たされ、従業員が感化され、内的霊的に成長できる場とはならない。携わる従業員がそれぞれの業務に内的霊的価値を見出した時、初めてその職場なりその店は息を吹き返す。活きた職場と店にこそ人も集まり物も金も集まる。そういった教育こそ必要であるのに外的な事柄に終始している。数字に主管された機械的労働だ。眠っていることに気が付いていない。本当の価値に気付いていない。
今日の思い 1
自分という存在でしか表すことができない、自分の存在を通して、今まで触れたことの無い新しい光を人類に差し出すことが出来る、そんな創造生命の芽が自分の中に吹きだそうとしているのを感知する。お金だろうが物だろうが今存在するものを掻き集めても、そこに本質的喜びは見出せない。与えることの喜びは人には無い自分色の何かを与えることにこそ、唯何かの形で得たものを与えるのとは違う、本当の喜びが伴うと思う。芸術を通してその人ならではの新しい光を受け取るように、日々の生活の中でも、自分は何を与えることが出来るだろう、自分色の与え方とは何だろうと言った問いを投げかけることで、自分の個性真理体としての創造意識の芽が吹きはじめる。その芽が人類と宇宙に影響を及ぼすほどの大きな創造となっていく。与えることに飢えた人間、創造することに飢えた人間こそ、人間の在り方の本質に近い。受けること奪うことに専念する意識を持ったIN思考の人間存在と、与えること創造することに専念する意識を持ったOUT思考の人間存在を霊視すれば、明らかに発光体となって光を放つ存在は後者である。会社でもいつも新しいものに挑戦している会社は光っている。光あるところに霊はあつまるし運勢も寄って来る。勿論人も霊が引き寄せる形で集まってくる。真の愛というより精度を増した、より霊化した愛が携わる与える意味と創造する意味は、物のサービスを越えたより心情的与え方、創造の仕方と言ったものかもしれない。ビジネスと言う形を取ってみ旨の一端を担い活動しているが、この世の真似事ではなく本物の与えるビジネス、創造するビジネスを手掛けていく時が来ている。
2008年5月26日月曜日
二世祝福
二世祝福の会合に参加してきた。自分の子に対してどう対処して良いのやらわからず、他の家庭はどういう状況で、どう対処しているのか、子供達はどういう基準なのか、取り敢えず他の家庭と接することで何がしかの糸口が見つかるやも、という思いで参加してみた。子供に祝福を与えたいという思いは共通しているが、その思いの背後にあるものはそれぞれ様々である。御父母様に繋がった血統を後孫に繋いでいく、それが二世祝福であるという認識は正しいが、頂いた祝福の種、真の愛の種を育て血の在り様を堕落の在り様から本然の在り様に変えていくという意味をどう理解しているか、真の血統に繋がるという意味が真の愛を相続する、為に生きる存在となるという意味とリンクしているか、その理解度でそれぞれの家庭が願う二世祝福の背後にあるものは違ったものとなる。とにかく、いろんな祝福家庭に接するうちに自分の状況との比較に終始している時点でそれに関わる資格は自分にはない。この子の為に良かれという動機だけでエネルギーを投入し始めると、それは親の欲目という要素に結果は集約されてくるだろう。そこに真の愛、為に生きる想いとして花が咲くとは思えない。二世祝福において、うまくいったとかうまくいかなかったとかという判断なり言葉は全くそぐわない。そこに真の愛は介入しない。お父様は祝福を与える時、その子の為という想いはもちろんある。しかしそれだけではない。子々孫々の為という想いもあるし更に、国を想う気持ち、世界地球宇宙神様を想いその為にという想い、国を祝福し宇宙を祝福する想いがきっとあるはずだ。お父様の祝福の意味は本来そういった次元にあると思う。我々が単に結婚するだとか血統を残すだとかという意味合いを超えて、より高次のより公的な感覚が伴うべきだ。解り易く例えればこう言える。明らかに内的霊的な課題を持っていたり、外的な欠陥を抱えている相手でもそれが神様の願いであるならどうぞ受け入れさせて欲しいという内的至高を得たものが祝福を受けるに値する。それほどの愛に満たされた者であればどうどうと祝福を受けたといえるだろう。愛や想いが自分の子供に留まるのであれば祝福を受けたのではなく奪ったという言い方に近い。決して裁いている訳ではない。自分への認識であり自分のあるべき目標ともいえる。現実は他のどの家庭よりも低い基準でうろついている。もがいている。
2008年5月23日金曜日
聖霊体験
神様が尋ねてくださったことが一度ある。勿論いつ如何なる時も神様は尋ねてくださるが、いろんなしがらみや思いが邪魔をして神様に会える次元には届かない。いつも神様の横を素通りしている。市内の高校に入学当時、最初は郊外にある親戚の家に居候しながら通っていた。叔母は朝晩の食事の世話もしてくれたし、叔父は市内の学校まで仕事のついでに送ってくれていた。もっと心を開いて巧く入り込んでいければいい関係を築けたのかもしれない。しかし自分は人との関わりが不器用だ。そのうちだんだんと自分の居場所が無くなっていった。どこで探したか知らないが四畳半四千円の安アパートを親が見つけてくれ、新しい生活が始まった。ビルに囲まれた薄暗い木造のボロ屋で、やくざな臭いのする、肩を怒らせたような人種が数人住んでいた。怒鳴り声や嬌声が薄い壁を通して届き、勉強どころではなかった。やっと気兼ねなく過ごせると思いきや、今度は寝るにもびくびくしなければならない状況になった。友達を通して教会に通い始めた頃で、あまりにも怖くて下宿を抜け出し教会から学校に通ったこともあった。神様が尋ねてきたその時はそんな不安定な頃だった。別に特別な光景に出会ったわけでもないし大きな事柄が自分に起こった訳でもない。教会には通っていたが、自分にとっての救いがここにあるという確信をまだその当時、持つには至らなかった。いつものように学校の帰り、教会に顔を出して夜半に下宿に帰る時だった。裸電球が灯る中で靴箱から自分の靴を取り出しながら、またあの薄暗い下宿に帰る気の重さに耐えかねていた。いつもなら誰かが声をかけてくれてその声が背中を押してくれていたが、その日は誰もその場にはいなかった。そのせいもあったのか非常な孤独感を覚えた。華やかなネオンの灯が辛うじてここまで届いている。瞬く残光が色褪せて悲しい。外に足を踏み出すと小雨がぱらついてきた。暗い空を恨めしく眺めた。同い年くらいの若い子達がはしゃいで通り過ぎる。彼らと自分が本当に同じ世界にいるのが不思議だった。自分は唯の形だけの抜け殻で、生きてることの実感も無かった。歩き出そうとした時、急に何かに捕らわれた。空虚な自分の中に急に暖かいものが入ってきて内面を一瞬で満たした。満たされたものが熱くなって込み上げてきた。その瞬間、訳のわからない涙が溢れ、頬を伝った。頬に自分の熱い涙と降り始めた冷たい雨を感じながら自分と神様が同じ心境にあり、自分のこの場で共に泣いているのがわかった。自分を慰めてくれているのではなく、一緒にその孤独感やらやり切れぬ思いやら切なさやら無力感やら、様々な思いを共有していた。何か悟らすでもなく、決意させるでもなく、ただただ一緒に泣いている。自分に現れた神様はそういう神様だった。帰路の小一時間、自分の感情と、そして別の感情をも味わっていた。下宿に帰ってもその感覚が抜けなかった。目がふやけるほど泣いた。私は今の今までその出会い以上の体験をしたことはない。その体験がそれからの信仰生活の動機でもあり、どう捉えるべきかの問いでもあった。自分なりの心情路程を重ねた今、これがひとつの聖霊体験とだけ言えないほど、自分の心の奥底で主張し関わってきた。大きな転換期や決意を要する時、その時の神様に違いない感情や想いが大きく自分を包み込む。
2008年5月19日月曜日
代身という意味
自分はみ旨の一端を担い歩んでいるという自覚があるだろうか。自分の与えられた責任や業務に対して聖業を為しているという実感があるだろうか。自分の手にかかるものがお父様が手に掛けているという感覚があるだろうか。仕事であれ何であれ自分を一生懸命投入しながら、それはお父様が投入しておられる、与え尽くそうとしておられる、という想いがあるだろうか。自分に掛けられる従業員やお客様の言葉や想いがお父様に掛けられたものであるという認識があるだろうか。喜怒哀楽さえもそれが自分の個人的なものなのか、あるいはお父様が受け取る喜怒哀楽なのかの区別がわかるだろうか。我々はお父様の手足のみならず、お父様の代身をも超えた、お父様自身を自分の中に視なければならない。そういう境地なり意識なりとなって初めてお父様はこの身を通して働いておられると言う事が出来る。信仰を超えた、侍ることの意味を知ることが出来る。献身してそう月日は経っていない頃、一人の兄弟とある商店街に立って活動していた。誰かが通報したのだろう。二、三人来て最寄の署に連れて行かれた。何のことやらさっぱり解らず理由を問い、抵抗もしたが半分羽交い絞めでしょっ引かれた。署につくと奥にやられ、ふたりは分けられ立たされたまま尋問を受けた。訳のわからないことを聞かれても答え様が無い。その内、頭を垂れて黙るしかなかった。衝立の向こう側にいる兄弟の方からドスンドスンと鈍い音が届く。それに合わせて鼻から漏れる呻きが鈍い音に被さる。最初は様子が掴めず、本人が机でも叩きながらすすり泣きを始めたのかと思った。顔は厳ついが幾分天然ボケの優しい兄弟だった。自分の鼻先まで接近した光沢のある顔の目の奥を覗いたとき、危険を察した。兄弟は下腹を小突かれて呻いているのだとその時分かった。反射的に身体を硬くして身構えた。それを待っていたように、相手の動きを認め、無機質な顔面を鼻の先に見ながら下腹に二、三度痛みが走った。驚きに顔を歪めながら涙が流れてきた。痛いのではない。今自分に向けて相手から理由のない仕打ちを受けている、その事が悲しかった。献身して間もない頃で、尊いみ旨を担い歩んでいるという誇りがあった。その誇りを地べたに叩きつけられた思いがした。程なく署に電話連絡があったようで開放された。帰る道すがら、兄弟は事が済んだことを素直に喜んでいたが自分は複雑だった。誇りを抱き使命に燃えていた自分から、嘘のように一瞬で魂が抜け出た。高潔な想いからの出発ではなく、自分を人間以下におとしめる立場からの再出発を要求されていることは分かった。汚い、惨め、誰からも理解されない、そのような否定的な事柄全てを背負わされた自分を認めざるを得なかった。それがどういう意味かその当時理解できなかった。今でこそお父様の心情路程のほんの一端を味わうことができたと理解できる。
2008年5月18日日曜日
地球霊化
今の人類は肉体という覆いで覆われているため、その内面を表面的肉体に見ることはできない。行動や表情を通して内面を垣間見ることは出来たとしても、極悪人と聖人を並べても外的判断でどちらがどうかを言い当てることは出来ないだろう。しかし内面の様相が身体に明らかな形で表れる時代が遠からず来る。それは単に表情が怖いだとか厳ついだとかと言う類ではなく、例えば角が生えてくるだとか、動物の顔になるだとか、そういう明らかに様相を異にする存在に分かれる。昔子供の頃、食べて直ぐ横になると牛になるだとか良く言われたものだが、まんざら嘘でもない。今の学校教育は進化論を何の疑いもなく教えているが、神の創造の意思を無視した論理付けは、どんなに理屈を付けようとも矛盾点はいくらでも指摘できる。矛盾点を見ようとしない背景に唯物論との関係がある。進化論は唯物信仰を貫くために利用されたに過ぎない。しかし、進化という言葉を神の創造の段階を示す言葉として使うなら、それは正しい。人類の始祖はアダムとエバではあるけれど一人の男性と一人の女性が急にひょこり現れた訳ではない。ひょこり現れたような記述をするから科学がここまで発達した今現在、多くの誤解を招く。人間としての本質からすればどうでもいいようなことではあるが、どうでもいいようなことに捕らわれて低次元の肉の思いに没頭するように仕向けられている。肉に没頭して本質が見えない、五感を超えた霊界や自分の霊の様相が見えない。現在、宇宙規模の大変化の途上にある。地球もその在り方として大きな変容を遂げる。簡単に言うと地球は霊化する。勿論地球に籍を置くあらゆる存在もそれに合わせて霊化していく。この身体が肉の在り様から霊化した在り様に変わってくる。自我の在り様、魂の在り様が身体にそのまま表れてくる。唯物信仰に侵された者は肉第一主義の自我の在り様が表面化する。彼らに取ってそういった内面の在り様が霊化するとは獣化すると捉えたほうがよい。角が生えてくると捉えたほうが良い。羊か山羊かではなく、人間か獣かに分けられる時が来る。人間もその魂の在り様で位が分かれる在り様をするだろうし、獣化するものもいろんな獣の在り様をする。最近、これが人間かと思うような犯罪を犯し、本人は何食わぬ顔をしていたりするが、そういった類は唯物信仰を超え、そういう思考感情さえも動物本能に追いやられた獣の様相が霊的に見て取れる。霊化すればその様相がそのまま身体に表れる。キリスト信仰による愛に目覚め、更に真の父母を通して高められた真の愛に侍ることに内面を染めつくした者は白い衣を羽織る身体に霊化する。
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