2011年12月29日木曜日

神とサタンが見守る本当の証しの場

私達にとって真の父母は何にも代え難い。真の父母の価値をどれだけ理解し、認識しているかと問われると答えられないが、全ての財産と真の父母とどちらを選ぶかと言われれば、真の父母を選ぶ。私の生命と真の父母のどちらを選ぶかと言われても、真の父母を選ぶ。もちろん出すだけ出してきた為に財産と言えるほど持ち合わせてはいないので、前者の問いは意味を為さないかも知れないが、、。しかし全てを投げ打ってでも代え難い真の父母だという認識は、食口であれば誰でも持っているだろう。しかし口にするだけなら誰でも言えるし何とでも言える。口にしたのなら私と言う実体をしてその証しを立てない限り、私の中のサタンはいつまでも讒訴し続けるだろう。心の中に常に、本当にそうかと疑いの目で囁き続けるサタンの存在が居座っていて、黙らせることができないでいる。証しのその場で必ず化けの皮が剥がれ、やっぱりお前はサタンの子だったと手を叩いて笑い転げる場面を想像しながら、その時を待ち焦がれている存在が私の中にいる。私の中にいるその存在を黙らせ追い出させる為には、その証しの場がどうしても私にとって必要であることは否めない。ヤコブが天使と戦い命からがら勝利した、その証しの場。イエス様が十字架につけられて死を体験され、犠牲の勝利でもって復活された、その証しの場。私を中心とした霊肉の戦いの頂上決戦という関門が、私が生きて歩む途上で必ずある。その時とその場が、証しの場になるのか審判の場になるのか。それは神とサタンが見守る中で、私自身が行動して決めることだ。御父様に大きな負債を覚えている者は、その証しの場を負債の払える場として喜びで迎えるだろう。逆にそれなりの信仰を立ててきたと自負する者は、逆に審判の場になるかも知れない。後の者が先になり、先の者が後になると本当に納得できるのは、まさに証しのその場でのことかも知れない。

大雪の故郷を想って、

日本は寒波の影響か日本海側は大雪だ。去年の冬が大雪だったので今年は暖冬に落ち着くのかと思いきや、そうでもないらしい。ネットの流すニュースで情報を得ると直ぐにも田舎に電話した。ファックスに転送される直前で呼び出し音が止まり、やっと親父が出てきて気の抜けた声で返事をした。様子を聞くと既に一メートルは積もり、まだ進行中だ。明日の朝までは止みそうにないらしい。西日本でありながら豪雪地帯並みに雪はよく降る。当地の人間は毎年のことで慣れていて、特に心配するでもなく、なるようになると暮らしているのだが、遠くにいると古い家が耐えられるかどうかの心配もさることながら、雪かきの重労働を年寄りに負わすことも心配だ。ここ四、五年積雪量は増してきたけれど、それまでは私が子供の時分と比べて随分少なくなっていた。昭和三十八年の豪雪の年は4メートルを越える積雪があったので、ここ数年積雪が増していったと言ってもその時の比ではない。家の心配や食料の心配が先に立つ大人は、後から後から降りてくる雪空を見上げて恨んだだろうが、子供は雪が大好きだ。雪が降り続くことを願ったし、家を被うほど雪が降り積もって欲しいと思った。勿論積雪の為の臨時休校を願ったわけでもあるが、、。雪化粧だとか、雪景色というような雪を情緒的に受け取れば、雪が内面を豊かにしてくれるけれど、積雪何メートルだとか大変な雪かきを思えば、雪はただの白い厄介物でしかない。私がどこに重心を置いて主体としての位置に立っているかで、客体はその顔を変える。子供の頃のような純真な気持ちに返ることも大切なのかも知れないが、私は大人に成長することで内面の豊かさは深みを増せるものだと思っている。子供の頃はただ情緒的に受け取っていたが、成長することで客体としての自然に対して内的に働きかけることができる。すなわち受け取るだけではなく与える。自然に対して与えて働きかける。自然の母性といえる愛を受け取るだけではなく、自然に対して主体である私から愛する。愛を与える。万物に対して、役に立つとか立たないとかの冷たい態度を当然のように取っていたが、これから全ての万物に対して私はどう愛していこうかという態度で接すれば、自然も万物もその顔を変え、閉ざしていた心を次第に開いて多くを語ってくれるはずだ。むかし聖フランシスコの映画、BROTHER SUN SISTER MOONを見に行ったことがある。その主題歌は強く印象に残っているが、映画そのものは退屈だとしか思わなかった。その頃は愛するという意味の只の一つも理解してはいなかった。この年になってやっと、自然を愛することに身を捧げた彼の想いが少しは理解できる。故郷の雪は私の多くの内的部分を育ててくれて、雪が祝福の象徴であることが私にはよくわかる。雪景色の故郷は暖かい。しかし、、それでも雪かきはやっぱり大変だ。

2011年12月28日水曜日

自由という翼

確かに人間は自由という翼を与えられている。しかし自由の意味するところを知らないように、翼として用いることを知らないでいる。感覚世界のあらゆる感覚的快楽を貪ることを、私に与えられた自由だと思っているけれど、それは自由の翼でも何でもなく、感覚世界のみに繋がれてがんじがらめにされているだけのことだ。霊的に見るなら、感覚世界に溺れて精神の高み、霊的高みを見失っている。私達が、アダムエバ問題を起こした兄弟を指して堕落してしまったと言ったり、離れた兄弟を指して落ちたと言うように、それは高みを目指して羽ばたいていた自らの翼を挫いたことを意味している。天使長ルーシェルの翼は、神様によって折られたのではなく自らの意志で翼を折った。神様がすぐそばに居られることに耐えきれず、自分で自分の翼を折って地に下ってしまった。目が開けて自由を享受できるとエバを誘い、霊的自由の翼を自ら折って地上の感覚享受へエバを抱えて引導した。天を羽ばたく龍だった天使長は、羽を折って地の蛇に身を落とした。本来の自由としての翼を奪われ、幻想である偽りの自由を抱えて、ルーシェルの子孫達は地上に満ちていった。真の御父様を地上に戴いた、自由という観点からの意味は、霊的自由の翼を取り戻すべく人類を本然の姿に生まれ変わらせる為だ。御父様の心情圏に人類が入っていって、その心情世界を飛び回る為には自由の翼が必要だ。十二の真珠門を超えて十二の心情世界を飛び回る。人は愛することで本来の自由を手に入れる。愛せないものを愛そうとし、自己中心の愛を犠牲にして為に生きることで、私を中心とした真の愛の心情世界を開拓しながら、霊的には本来の自由を取り返している。自由という翼を取り戻した霊界で、高ければどこまでも高く、深ければどこまでも深く、東西南北遥か彼方まで瞬時に移動しながら、神様の創造の御業を賛美し続ける。

2011年12月25日日曜日

霊的戦い

私の基本の戦いは、不信との戦いであり、思い込みとの戦いであり、まだ見えぬものを見ようとする戦い、認識できないものを認識しようとする戦いだ。内的霊的無知に陥った人間は内的霊的知への飽くなき追求が無ければ、内的霊的知への強い憧れが無ければ、それを獲得することはできない。私は御父様が今までの生涯を通して語られたその膨大なみ言葉を、ただ自然に流れるままに、当然のように、天の啓示として受け取られたものだとは思わない。勿論その素質は備えておられたとしても、それでも今日までの歴史上誰も現せなかった真理のみ言葉として、そのひとつひとつを勝ち取られた歩みは戦い以外の何ものでもなく、勝ち取られたという表現がまさに言い得ている。私たちは余りにも容易にみ言葉に出会ってしまった。原理のみ言葉が正しいか正しくないかというような上からの目線で対してきたが、当時の劉協会長が感激の涙を流され続けながら原理講論を執筆されたように、それほどの重みを魂に覚えて激しく振動するほどの出会いを私達は為すべきだった。ヤコブがエソウを屈服できたのは、腿のツガイを砕かれてまでも天使との相撲に勝利して、霊界の協助を得た為に屈服できたのであり、私達はどんな形であっても霊的存在からの試練に勝利しなければ霊界の協助を得ることは出来ないし、私に誰ひとり屈服しない。御父様が真理を見出される過程で、億万のサタンと言う霊的存在との戦いに勝利され、更に実体で勝利されたがゆえに、み言葉が全くの条件の無い私達に手渡され、御父様の勝利圏を相続させようとされておられる。しかし受け取る私達は、御父様の試練の何万分の一であっても霊的試練を乗り越える必要がある。私達は、私と言う戦場で霊的な戦いをしているその只中にあるということを片時も忘れてはならない。霊的な観点から見れば、見るも無残な敗戦の毎日の屍が、私の背後に累々と横たわっている。感覚世界に重心を置けば見る観点をぼやかされ、霊的な眠りについたままでいて何ら変わらない毎日が続いているように思えるけれど、私と言う戦場で熾烈な戦いの日々であり、身体を横たえた眠りの場で戦勝報告や敗戦のツケが勘定されている。訓読生活に重点を置いて歩んでいる兄弟であるなら、み言葉が光となり私を中心として生起する内外の事柄をみ言葉で照らして、戦うべき戦況をしっかり把握主管し、無意識のうちにスルーして屍を積み重ねないことだ。これが私の天使との戦い(霊的戦い)だと自覚させられるものが自分に無いなら、それは未だ霊的に眠ったままの私でいると思った方がいい。

2011年12月23日金曜日

愛の呼吸

幾重にも幾重にも階層を経ながら霊的な高みを目指し、その遥か高みに天の御父様がおられる。そう納得しているのは僅かの人間のみで、とりわけ多くの日本人は感覚世界の、それも極めて限られた部分の存在領域しか認識していない。人は認識する領域以外では生きることはできない。地上という最下層の世界は、見上げればすぐにも、厚く黒い雲のように地上を覆っている霊界との障壁があって、地上人間は雲の向こうに広がる広大で深遠な霊界を感知できないどころか、その存在すら認めようとはしない。認識できなければその領域に投げ出されても呼吸できない。人は必ず死ぬ。死んで霊界に投げ出される。投げ出されても呼吸ができない為にその広大で深遠な霊的生活を味わい楽しむことはできない。呼吸はできないが、かといって肉体を持たない為に地上へ逃げ出すこともできず、地上的な呼吸に最も近い呼吸の辛うじて通ずる幽界にへばり付くことになる。霊界で霊的生活に必要な最低限の呼吸を会得するまで、どれ程の歳月を要することか。さらに皮膚を隔てた私の外部だと当然のように思っていて、汚すだけ汚し痛めるだけ痛めて自分勝手好き放題に扱ってきた外側が全て私自信になり、霊界では逆に私自身を汚すだけ汚され、痛めるだけ痛められている。霊界は内側が外になり、外が内側になる。万物を愛し人を愛し、与えて為に生きる喜びを覚えながら、実は愛の呼吸を学んでいる。愛として吐き出せば新鮮な愛として吸うものがある。深呼吸のように息をしっかり吐き出せば新鮮な空気をしっかり吸えるように、与えることに躊躇を覚えず愛の限りを尽くせば、神様の新鮮な愛が溢れるほどに満たされるのは宇宙の道理だ。地上で生きる為の呼吸は一通りだけれど、霊界で生活する愛の呼吸は一通りではない。天国といえる霊界の高みでの呼吸は、国を愛し世界を愛し神様を愛する愛の呼吸を学ばなければ、霊界で御父様の御側で侍っても息苦しいだけだろう。霊界にははっきりとした位階がある。その位階は愛の位階であって、私が何の為に生きたかでその位階は決まる。何をされたとしても、どんな扱いを受けたとしても御父様を慕い侍って行こうとする私達統一食口は、御父様が愛の勝利者であり愛の完成者であることを信じて疑わない。御父様の高みである天国、本郷の地は、まさしく霊的乳と蜜が流れ愛が充満している世界だ。御父様の存在の全てから、その愛の一息でも呼吸しようとし、真の愛の蜜の味の僅かでも鼻腔に味わうために愛の触手をひたすら伸ばそうとしている。

2011年12月20日火曜日

御父様との本質的な繋がりを考える

私達は今地上に生きることで、生きた御父様と同じ空間、同じ時間を共有しているから、その感覚的事実をもって満足しがちだけれど、感覚的にだけ受け取った事柄はこの地上を去る時にその大半を失ってしまう。正しくも確かな御父様との出会いは感覚的地上的なものではなく、内的霊的に出会い、内的霊的な関わりをもって初めて永遠であり絶対である本質に足を踏み入れる。多くの食口達はこう思っているだろう。私が地上を去る前に先ず御父様が地上を去られる。御父様が地上を去られた後、私は御父様とどう関わっていくのだろうか。この思いは御父様との本質の出会いに足を踏み入れた者の思いとして正しいだろうか。それは感覚的地上的な認識に重心を置いている者の思いであって、そういう者達の内的霊的な思いはどうかと言うと、未だ御父様に明確な目覚めた意識で出会ってすらいない、内的霊的にやっと目覚めようとしていると言うことができる。御父様がどれほど教本教材を強調され、訓読を重要視され、その御本を愛しもし侍りもされるのは、み言葉を通してしか内的霊的に御父様に出会えないし、み言葉を通してしか内的霊的に関われない。この肉体を失っても、この思考や感情を司る心魂を失っても、それでも残るものしか最終的に霊界に持ち込めるものはない。御父母様の御聖婚式を一年先に控えている。私が内的霊的にどんな意識段階でその日その時を迎えようとしているのか。ゲッセマネで眠りこけた弟子たちと同じ過ちを犯さないように、せめて意識の目覚めを果たして迎えなければ一生どころか未来永劫の悔いとして残るかも知れない。み言葉によらなければ私達は生まれ変われない。み言葉によらなければ御父様の骨髄の中に入っていけない。み言葉によらなければ芽継ぎ(接ぎ木)が芽継ぎとして働かない。み言葉を愛し、み言葉に侍り、意識革命、心情革命、そして良心革命を私の心魂世界で果たしていく。それでこそ私の中で御父様が生きて働いておられると断言できる。

2011年12月19日月曜日

愛勝日を考える

興進様が大変だった時、御父様は涙を一滴も流されなかった。その意味を私達は本当に理解しているだろうか。ただひたすら悲しみに耐えられたと言うような、そんな私達の愛への狭い理解によってしか想像できない事柄とは次元が異なる。そこには壮大な天宙という環境圏で、愛の主体に立たれたという歴史的天宙的な出来事として為され、サタンの裏を完全にかいて為された神側の大勝利だった。人は病気になって喜ぶ人はいない。家族のひとりを失って平然としていられる人もいない。それなりの健康を維持しているということは体に於けるプラスマイナスが平衡を保っていると言え、その平衡を欠いた時病気になる。家族のひとりを失うということは、「家庭の平安」というプラスマイナスの平衡していた存在が、プラスであれマイナスであれ大きく欠けてしまって平衡を失い家庭的不具となってしまい、保護すべき宇宙力が逆に宇宙から押し出そうとして働く為に心が裂けるほどの痛みを感じる。最も期待を受けておられた御子女様を失うということは、真の家庭にとって大きく平衡を失う最大の事件だった。神側にとって愛と理想の希望体を失えば、宇宙力が強烈に追い出そうとして働くことを知っているサタンは、神側を大きく後退させる、あわよくば救いの摂理自体を崩壊させるサタン側の勝利を確信していた。しかし御父様は愛を、サタンが愛として理解できる範疇を超えた愛でもって主管され昇華されるという、サタンの手の届かない愛の環境圏にサタンを引き摺りだされた。興進様を失う多大なマイナス状況を、私達が霊界の勝利者となり人類が救われる次元に引き上げられて、天宙的なプラス状況をひきつけられた。私達にとって、私達が活動できる天宙的愛の基盤を創造されたと言ってもいいかも知れない。不遜な地上の見方からすれば、愛する子女の肉体をサタンに売ってサタンの愛する人類を買ったとも言える。その歴史的奇跡とも言える天宙的勝利の出来事が、涙を一滴も流されない御父様の体を中心として起こった。目の前の子女を失う悲しみより、私達を愛し、私達を霊界の勝利者とされる喜びを心魂に満たされる御父様と、そして愛されない悲しみより父の想いをそのまま受け取って逝かれる興進様。人類の救いに対する完全犠牲が父子一体の位置で為された。愛勝日として立てられたその勝利の意味を、統一食口であれば少しでも深く理解して、理解すればするほどに涙を禁じ得ないし、感謝に堪えない私を見るだろう。

2011年12月17日土曜日

今日の想い 380

使徒達が、捕らえられていくイエス様の元を去っていったように、生きたイエス様と共にある時には彼らは本当のキリスト認識をイエス様に対して持ってはいなかった。しかし復活されたイエス様に会うことで初めて、彼らの中にキリスト認識が目覚めさせられた。その明らかな使徒達の内的霊的違いを、新約聖書の中に見ることができるし、生きたイエス様に従っているうちに使徒達がキリスト認識に至ったならば、十字架の摂理は避けることができたとも思え、一方で十字架の摂理を通してこそ使徒達にキリスト認識がもたらされたとも思える。最終的に十字架という大きな代償を払うことで、復活のイエス様を通してキリスト認識がもたらされたと言うことだ。キリスト論で言うところの三位一体、神と霊的イエスと聖霊が合成一体となって使徒達に霊的重生がもたらされたが、そこにはキリスト認識をステージとして聖霊の働きが為され、使徒達の重生がもたらされるのであって、キリスト認識に目覚めなければ重生のステージは用意されない。使徒たちが生きたイエス様に触れている間は、人間イエス様としての認識から離れられないものが霊的かぎ針のようにひっかけられた形で残っていた。それは洗礼ヨハネの不信から来るものであり、また洗礼ヨハネの不信がなければ弟子として下層の使徒達が集められることもなかったはずだ。だから既に下層の使徒達を集められた時点で、十字架の摂理に加担せざるを得ない部分も使徒達の中に組み入れられていた。ペテロヤコブヨハネを連れてゲッセマネで祈られた時は、人間イエスの彼らの認識を外して神の子キリストとしての認識に目覚めさせ、一体となることで最後の本丸を護らせようとされたが、彼らは眠りに墜ちたまま、即ちキリスト認識に目覚めないまま十字架の摂理に組み入れられた使徒達のプロセス通りを踏んでいった。そうして一体圏が為されずに用意された裏切り者が近付いてきた。神側の最後の砦ともいえる神とサタンとの間の熾烈な攻防を、ゲッセマネのイエス様と三弟子との一幕に見ることができる。その神とサタンの攻防戦が私の内的路程にも再現されていることがわからなければ、私のキリスト認識、即ち御父母様に対する真の父母認識は人間的なものから離れることはない。一時はイエス様の問いに対して弟子の一人がイエス様を神の子であるとはっきり証ししたにも拘らず、それは言葉だけで本当のキリスト認識には至っていなかった。兄弟達も御父母様に対して真の父母であると言う認識を持っている自負があるはずだ。しかしそれが生命を超えるほどの、御父様が認知する確かな認識かという問いは常に自分の中で繰り返されなければならない。そしてその認識を、私の人生というステージを用意されて演じている。誰が用意せずとも歴史の結実体としての私が、堕落から、神の子への否定から、神の子への裏切りから、さらに十字架へ追いやった全てを私の内なる中に抱えて、その上で御父様をどう認識するかという御父様への結論を演じている。

2011年12月15日木曜日

万王の王

イエス様が地上に来られた意味、十字架の摂理が為された意味、そして復活の摂理へと繋がれた意味を、その当時は殆ど理解されてはいない。理解の為にどれだけの時間が必要とされたかというと、再臨の時までの2000年の期間であり、この間の苦悶の歴史が理解する為に必要だった。今の私達食口が、御父様を真の父母だと理解する同じ基準を人類全てに願いはしても、それには段階があることを踏まえなければならない。イエス様当時、イエス様を理解するその理解の仕方にやはり段階があった。ひとつは弟子達の理解であり、弟子達はイエス様を神の子として理解していたが、その同じ基準をユダヤ人全体に求めることは為されなかった。ユダヤ人全体の理解として求められたのは、ダビデの家系から出てくるユダヤの王、救世主(メシヤ)としての理解だった。これがイエス様を一段低く、裾野を広めて理解する第二の段階だ。そして更に一段低く、裾野を世界的に広めて理解する第三の理解の基準があったはずだが、イエス様を十字架につけてしまい世界的裾野にまで至らなかったので復活に拠る霊的摂理に負わざるを得なかった。ローマを制すれば世界を制すとあるように当時ローマは事実上の世界そのものだった。イエス様がローマの王として立たれれば再臨の摂理へと延長されることはなかったはずだが、唯一ローマとの関わりは裁きの場での総督ピラトとの対面に限られている。御父様の理解に於ける現代の段階は、ひとつは祝福中心家庭の理解である真の父母としての理解であり、第二はキリスト教を中心とする宗教界の理解である再臨主、救い主としての理解、そしで第三は人類としての世界に裾野を広めた理解として万王の王という言葉を使っておられる。大統領であろうが国家主席であろうが国家権力を握った王に違いはない。今は国家間の相互関係なしには国家の維持はできないが、もはや今の国家相互システムは立ち行かなくなっている。辛うじてその体を維持しているとも思われるが、皮膚の下の国家経済、世界経済という血流は薄められすぎて既に役立たずだ。ファンドによる莫大な量的回転で誤魔化されているだけで、何かの加減でストップすれば一瞬で世界経済は倒れてしまう。その危機的状況を味わう時、世界を収拾する存在を世界は求めざるを得ないし、その時万王の王という言葉は世界を駆け巡っていく。

2011年12月13日火曜日

心情を中心とした感情世界

百花繚乱という表現があるが、思春期の感情世界はまさに色とりどりの花々が咲き乱れる。特に相対の性である異性への関心が深まるにつれて、感情の花々は色濃く咲きその芳香を強く漂わせる。誰もがその花々に埋もれて魅惑の色に染まり、その香りに酔いたいという衝動にかられてしまう。若者達が耳にする多くの歌は、その殆どが色彩や香り溢れる、異性への想いとしての感情の花々が咲く歌だ。淡い色の歌もあり原色に近い激しい恋の歌もある。切なくも甘酸っぱい恋の歌もあれば妖艶な色香漂う歌もある。その現実的な魅惑を前にして、すくなくとも感情を刺激するものではなかった、味気なさの漂う感情世界の背後にあるものを求めようとするのは、変わり者になれと言うに等しい。確かに私達食口は、自分を見ても周りを見ても変わり者の集まりだった。一世たちは変わり者の集まりだとしても、二世たちはそうはいかない。変わり者であれば感情世界を無視して、容易に霊的なものへの価値を見出そうとするだろう。しかし心情の味わいは感情世界に於いて花開くものであり、感情世界を無視し否定するなら地上的生命を受け取る意味は無いはずだ。天使世界を創造されればそれで済むことだろう。サタンを中心とした堕落した感情世界が問題であって、本来の神様を中心とした感情世界は、堕落的なそれとは比べ物にならない多様性と広がりが色彩に於いても、香りに於いても見られるはずだ。真のアダムに接木して血統転換することで、堕落人間に抜け落ちていた内的霊的感性を芽生えさせ、堕落的な感情世界ではない新たな感情世界が、神様に直結する心情を中心として花開くのは当然だ。根源の違う二世たちであれば、その秘めたる自らの使命を明らかにしながら、心情文化、統一文化への貢献をきっと為していってくれるに違いない。堕落的な感情世界を大きく包み込みながら昇華させて、誰もがその新しい色彩と芳香に新鮮さと神聖さを感じ、ミツバチが群がるように吸い寄せられてくるだろう。やもすれば一世は二世たちの触れるもの全てに、神経を擦り減らすことしきりだけれど、確かに堕落的なものが全ての触れるものに混入されているから心配もするが、それでも彼らを信じて任せることも一世の責任だ。堕落的感情世界に引き込まれて妥協するのではなく、既存の世界から引き出して真の愛が関与する文化に昇華させる力を二世たちは与えられている。

2011年12月12日月曜日

タイタニック号の話を思い出す

子供の頃タイタニック号の話を読んだことがあって、何故か急に記憶の底から浮かび上がり、その時の情景が蘇った。小学館の雑誌だと思うが、濃紺のインクで挿絵やルビの付いた文章を、ザラバン紙をめくりながら読み進めた。当時、雑誌を買ってもらったのは正月に限られていたから、暮れに買ってもらった雑誌を見ないように取っておいて、正月にわくわくしながら彩(いろどり)溢れる頁をめくったものだ。タイタニック号の話は色刷りではなかったからさして子供の興味を引くものではなく、見るところがなくなって最後に目を通した個所だったとは思うが、読後の印象が特に強かったのを覚えている。乗客が少しでも安らいで落ち着けるように、最後まで沈んでいく船で演奏し続けた船の楽団員達の様子や、避難することなど思いもせず、笑みさえも浮かべて船と共に沈んでいった船長を始めとする乗組員達の様子。その姿を美しいと思えるのではなく、犠牲になろうとする不可解さが子供には怖かった。どうしてそんな心境になれるのかという強烈な疑問だった。今その話をひも解いてみると、彼らの心境はよくわかる。沈んでいく船の上では乗客よりは乗組員の方が圧倒的に幸福だったはずだ。仕事とは言っても船の上では公的な立場である彼らは、自分の心配をする前に乗客を心配するよう自然と仕向けられていた。誇りすら感じていた彼らは、死の間際で為に生きる自分を生き、人間本来の為に生きる喜びを味わったはずだ。公的な位置にいるという認識が彼らの意識を高めて、乗客達の死を恐れて逃げ惑う意識とは真反対だった。兄弟達に於いても、自分は公的な存在だという認識がどれほど強いかによって、試練が訪れたとき、意識も違い、立ち位置も違い、試練や犠牲や死に対面するときの感情も異なるのだろう。傍目から見れば信じた者の愚かさとしか映らない我々の姿であっても、誇りや感謝や歓びや、もろもろの愛の心情に溢れて、私という存在を生きることを腹いっぱい味わっている。

良心革命

良心は父母に優り、良心は師に優る。ここまでであれば頷いて聞ける範囲だけれども、御父様が三番目に言われる良心は神様に優るというのは、宗教者にして見れば聞き捨てならない言葉だろう。おそらくそんな言葉が出てくること事態予期していないので、反論はおろか呆気に取られて開いた口が塞がらないほどの衝撃的な言葉に違いない。そんな意味でも御父様は宗教を超えていて、超宗教超科学の位置に立っておられる。御父様が今日までの歩みで勝利を築いてこられたのは良心の故であり、良心の声に従うことで難しくも複雑な御父様の使命的歩みを越えてこられた。御父様が御自身の歩みで身を持って実証した哲学として、この三大主体思想、特に三つ目の良心は神様に優るというのを断言しておられる。御父様は真理を見出される過程で神様も最初は否定されたと言うようなことを話しておられる。サタンはおろか神様までも否定される真実を、それでも敢えて真実であると神様に迫ることができたのはどうしてか。神様に否定されても迫ると言うのは普通に考えればおかしい。しかし御父様の良心が否定されて引き下がることを許さなかったのであり、そこには御父様の良心の声に従う姿が如実に見えて、良心は神様に優るという言葉を私に十分納得させる。勿論あくまで良心基準が立った者が言える言葉であって、自分の中に主体的な良心をはっきりと見出して立たずには、良心的な気分をして良心とは言えない。御父様の良心革命という言葉には、革命という言葉をして、良心的な気分ではなく明確な良心を見出せという天の指示を私達に示しておられる。人間としてこの地上に生まれた以上、私が果たすべき公的な使命を担って生まれている。私の良心はその使命を知っていて良心に問えば分かるし、良心は使命完遂の羅針盤でもある。私という船は良心という羅針盤をして目的地である使命完成に向かっている。

2011年12月11日日曜日

マルコ伝十四章の教え

マルコ伝14章にあるベタニヤの女の話のすぐ後に続いているのが、ユダの裏切りの話だ。実はこれは意図的に隣り合わせて表記することで、読む者に教えようとしている深い事柄がある。どちらの話も金銭を関わらすことでその対比がなされている。一方のベタニヤの女の話は、貧乏人への施しを犠牲にして、三百デナリ以上の価値の香油を地上的な価値のない行動に費やす話であり、それに続く今一方のユダの裏切りの話は、地上的な価値を超えた内的霊的価値であるイエスキリストを、銀三十枚で売って地上的な価値に交換するユダの裏切りの話だ。地上的な価値を天に積むことのできる宝に昇華させた話と、天的な価値を地上の消え失せる価値に引き摺り下ろした話だと言い換えることもできる。私達は真の父母の価値が地上的な価値では量れないことをよく知っている。それでは御父様が願われるみ旨の価値はどうだろうか。み旨の価値もそこに御父様の願いがあり意志がある以上、その価値も同じように地上的な価値では量れない。今まで果たせなかったみ旨に費やしたお金の総額を貧しい国に施していたら、相当な社会的貢献が為されたはずだ、、と言うようなもの言いをする者がいる。要するに献金は世間が認めて見えもするまともな地上的な価値に用いられるべきだと言っている。内的霊的なことに対しても用いられるべきだけれども程度の問題だと言っている部類も同類だ。それはベタニヤの女を非難した周りの人々と同じであり、更にユダの裏切りへと話が続くように、非難した者の延長線上にユダと同じ裏切りが潜んで待ち構えている。一度非難を始めると非難の拍車に油が注がれる。そしていつの間にか銀貨三十枚で売った裏切りに手を伸ばせば届き、そして手を染めていく。そして手を染めてしまって良心の呵責を痛いほどに覚え、その時初めてサタンに巧妙に操られていた自分だったと目が覚める。ユダは目が覚めた。目が覚めて仕出かした事の重大さに、良心の叫びに耐えられなかった。耐えられなくて最後の行動を起こした。

2011年12月10日土曜日

今日の想い 379

師走とは言えないほど暖かい日が続いている。皆この暖かいうちにと思っているのか、クリスマスショッピングの買い物客で車が多い。日頃は運転しないペーパードライバー達が、必要に駆られて繰り出してくるので尚更道路は混雑する。前方ののろのろ運転の車の運転席に人らしきものが確認されないので、良く見てみたら、高齢のために身体が小さくなって縮こまったお婆さんが天を仰ぐように顎を上げ、辛うじて視線を前方のフロントガラスに確保して運転している。隣に車がいようがいまいが車線変更も右折も左折も思いのままで、周りの車は諦めて警笛を鳴らすでもなく、避けるようにしながら追い越している。このお婆さんが車で外に出るのを誰も止めなかったのだろうかと最初は思ったが、無理を押し通せば何とかなるものなのだろうと思わされて微笑んでしまった。意外と本人は運転なら任せておけぐらいに思っているのかも知れない。確かに顔を上に向けているので信号だけははっきりわかるらしく、黄色になった時点でちゃんと減速して止まっている。アメリカは車社会なので車がないと非常に不便だ。歩くのに難儀する高齢者なら尚更だろう。独り身になっても子供が世話してくれる訳でもなく、死ぬまで自分のことは自分でやらないと生活できない社会なのでこんな光景もさして珍しくは無い。概して高齢になり、連れあいもいなくなって孤独な老人になると、生活弱者となった我が身を痛いほど感じるのだろう。多くの高齢者は獣の中を歩くようにひるむまいとして構えていてその表情は固くなっている。為に生きる愛の世界ではなく、弱肉強食の世界に縛り付けられて惨めな余生を生きている。別にアメリカに限ったことではない日本だって孤独老人の問題は大きいが、日本でこそ自分のことで精一杯でそれどころではないと後回しにされている。祖父母を蔑(ないがし)ろにすることは過去を蔑ろにすることであり、過去は霊界に繋がり霊界は天国に繋がる。家庭に祖父母がいなければ後孫は霊的なものが塞がれてしまい、内的霊的な価値を見出しにくくなる。家庭理想をしっかりと掲げ、祖父母の位置、父母の位置、そして子供と後孫の位置を本来の位置として取り戻すと、家庭という木が正しく成長していく。

2011年12月7日水曜日

畏れを失った日本

み言葉を聞いたことがない者達だけでなく、み言葉を一度は聞いて受け入れた者達の中にも御父様を恐れない者もいる。恐れるという表記は、強者に対する弱者の避けて逃げる負の印象が色濃くあるので、畏敬の意味での畏れるという言葉を使わないと誤解されやすいかも知れない。しかし恐れと畏れの違いが今の日本人にわかるだろうか。日本人の中に、畏敬の感情といったものを理解せず、畏敬という言葉を捨ててしまったのはいつ頃からだろうか。霊界にははっきりとした位階があるので、この畏敬の感情や畏怖の念を理解できない者は霊界の実相を捉えられない。み言葉を通して霊界の存在を信じる者であっても、地上と同じ別の空間が存在するくらいの認識に留まり、霊界の実相を捉え実感するには至らない。自分には霊感があるという者でも極めて平面的一面的であり、臥して地上面だけを見ながら暮らしているようなもので、そんな下手な霊感はかえって誤った霊界認識を持つ為にない方がいい。聖書が霊的な言葉であるように、論理的に書かれていても原理講論も霊的な言葉だ。それを平面的一面的にだけ捉えてわかったようなつもりでいる。その深みを尋ねようとしない者、即ち畏敬の感情や畏怖の念を失った者達はその価値を認識できない。よって言葉を別様に、自分の理解に合わせて捉え、あらゆる的外れな批判が飛び出してくる。日本には、様々な宗教とは言えない宗教も含めて宗教は多々あるが、宗教人口は少ない。それは進化論を始めとする唯物主義が席巻して、宗教は弱い者、理性のない者が関わる如何わしいものだと捉えており、宗教そのものを見下しているからだ。物質的な繁栄に押されて畏敬の感情、畏怖の念を捨ててしまった。徹底して打たれなければこの民族この国は目が覚めないのかと、悔しい思いは何とも仕様がないが、日本食口が十人の正しい者となって今日まで護られてきた。しかし御父様が入国できるかどうかが決め手であり、D-DAYを決定された以上日本に対する摂理の延長はないだろう。み言葉を一度は受け入れたが御父様を畏れない者達はこう言う。「日本は滅びる滅びると言いながら未だに滅びていない。そうやって脅しながら巻き上げているのが教会だ。」と、、。滅びるのをこの目で見たいかのような言動は、死刑囚が死刑になるその時を待ち焦がれてでもいるかのように、その無知さと他人事に目も当てられない。

2011年12月6日火曜日

良心についてさらに考えてみる

御父様が語られる良心を、道徳心と同じ扱いで認識すべきではないだろう。良心は神様が直接に働きかけられる部分であり、この世の一般的道徳に従う良心を指して言っておられるのではない。道徳心と良心(良神)の違いを見事に描いた聖書の個所がある。それはマルコ伝14章に出てくるベタニヤの女の話だ。ひとりの女が非常に高価なナルドの香油をイエス様の頭に注ぎかけた。人々は三百デナリ以上にもなる香油を売れば貧しい人達に施せるのにどうして無駄にするのかと言って女を咎めたが、イエス様は人々に対して、いつも一緒にはいない私に対して出来る限りの良いことをしたのにどうして女を困らせるのかと言われた。女は良心の声に従ったのであり、人々は女の行為を通常の道徳心をもって判断した。彼らの生活背景をしっかりとイメージしてこの情景を見なければならない。決して経済的に楽な状態ではなかったし、持ち合わせの殆どを施されながら活動しておられた。その状況でイエス様の周りの人々の女に対する咎めは至極当然であった。イエス様は、この女はあらかじめ葬りの用意をしてくれたのだと女の行動を説明されておられるが、おそらくこの女はそこまでの思慮を働かせての行為ではなかったはずだ。人々から、或いはイエス様からさえも咎められるであろう行動を敢えて取った。それは通常の道徳心に従ったのではなく、彼女の良心に従った。結果的に彼女の行為はよしとされたのであって、良しとされることを見越して行動したのではないと言うことだ。私達の歩みに於いても多くの局面でこう言った判断を迫られる。道徳心や常識で思慮すれば首を傾げざるを得ない事であっても、道徳や常識を超えた精神、良神に従うことを要求される局面がある。それは道徳や常識を無視しろというのではなく、天情に徹するのだと言って世間知らずの人情を無視する冷たい人間になるのではなく、それを犠牲にしたイサク献祭のような局面で判断を迫られる、良心の声に素直に従う私となることだ。私達は今、自分の良心をはっきりと認識し、そして良心の声に従う訓練を受けている。内部に難しい問題を抱えながら、道徳的常識的に行動すれば御父様の願いからずれかねない状況で、周りの声にではなく良心の声をはっきり聞いて従う私にならなければ、この試練を生きて通過することはできない。

2011年12月5日月曜日

サタンの牙城

愛という言葉は知っているけれど、愛は知らない。自分が思っている愛を愛だと信じているけれど、それがかえって真の愛を遠ざけている。愛については語り尽くされるほどに多くのことが語られてきた。しかし殆どの場合根底に自己愛、自分を中心とした愛があって、そこは崩れることがない。そこが私の中のサタンの牙城であって、そこを崩さない限り真の愛を寄せ付けないでいる。理想家庭を絵に描いたような家庭を築いて当然で、それでこそ祝福家庭だと思っている節があるけれど、理想的な祝福家庭への道は始まったばかりで様々な試金石を踏みながら乗り越え、真の愛に根ざした祝福家庭の伝統をこれから築いていかなければならない。本物かどうかはこれから試されていくのであって、今の状態で安堵しているのであれば簡単に足をすくわれてしまうだろう。それは私の中のサタンの牙城がまだ崩されていないからだ。私達は殆ど何も知らずにいる。み言葉を通して多くを学んではいるけれど、それは知識として蓄えているだけであって、頭の中に留めたことがそのままで生きて私に働くみ言葉とはならない。或いは訓読を通して体が良くなった等と言った証しがよく聞こえてくるけれど、それは副次的なものであって体を治す為に訓読をした訳ではないだろう。み言葉という知識を備えているという満足感は自分を中心としたものであり、訓読を通して健康になったとか悩みが解決されたとかと言うのも自分を中心としたものでしかない。それで自分の中のサタンの牙城が崩れたわけではない。そんな気分になっているだけのことだ。知識に執着していればどこまでも知識への切望によって目を曇らせ、サタンの牙城を見届けることはない。健康になることに執着していればどこまでも病に振り回されて、サタンの牙城には突き当らない。悩みが解決され気分が快くなることに執着していればどこまでも不安が付きまとい、不安の暗雲こそが排すべきサタンだと思っているけれど、全ての悩みが解決されてもサタンの牙城は益々堅固になるだけだ。自己中心の愛によって岩戸に隠されていた良心(良神)を解放し、私の中の良心がはっきりと蘇生して鼓動を強くしていくのを実感する私にならなければ、サタンの牙城を崩すことはできないだろう。良心に従って生きるという御父様の言葉をすんなりと疑問もなく受け取っているけれど、従って生きるほどの強い良心を蘇生させてはいない。消え入りそうな微(かす)かな良心が見え隠れしている今の状態を正常だと思ってはならず、私の中に太い一柱の良神の柱が立たなかったら、どれほどみ言葉を訓読したとしても、どれほど体が健康で快い気分になっても、夫婦円満でも、子供が祝福をちゃんと受けても、私はサタンの牙城を崩せないでいる偽りの存在でしかない。

今日の想い 378

大したイベントも起こらず、大した感情も味わうことも無く、毎日が変わりなく流れていくとしたら、それは私という精神存在の下降を意味している。惰性的な毎日は淀んで濁り堕落的な温床となる。精神存在として一期一会である一日一日を生きるとは、復帰もし創造もする生きた証しを記念碑的に立てていく義務がある。一日を終えて床に就くとき、報告祈祷のその場で何を報告するのか。一日を与えられて報告する収穫を何かひとつでも復帰してその場に臨むべきだ。それがないなら床に就くべきではないだろう。重いマナバックを抱えて一日中一軒一軒訪問しながら、終日近くになるとひとつの実績も無く焦ってくる。外的条件的な当時の歩みを、今は内的霊的実体的に心情としての実績を追求しなければならない。外的なものが内的なものに変わるなら、焦る気持ちも実績の無い不甲斐なさも忘れ去られるのではなく、外的なもの以上に重要視する私達となる必要がある。そうでないならノルマを追求され苦労した当時の歩みが条件となってはおらず、心情を復帰していないと言うことだ。等閑(なおざり)な気持ちで感謝を述べても、感謝の言葉に値しない気持ちを感謝の言葉で包むなら、神様を侮辱していることになる。それよりはかえって隠さずに恨みの言葉を伝えたほうが正直でいい。御父様は私たちに対して正直であるように教えておられる。内的霊的なものがどれだけ重要であるかがわからない為、祈祷の重要性もわからない。祈祷のその場は神様の前にあって厳粛な場であり、私の良心に鑑みて裁かれる場であり、先祖達が集まって追求もする恐ろしい場であることを知らないでいる。

2011年12月2日金曜日

夕暮れの空

透明度の高い大気の向こうに日がしっかり沈むと、沈んだあたりを中心としてオレンジ色が地平の両端へと広がっている。その上へ向かって紺碧が滲み始め、次第に色を濃くしながら見上げる九十度の角度で漆黒に吸い込まれていく。さして遮るものもなく、少し高めの丘陵の上に立てば地平をぐるりと一周して見回せる。まだ日が落ちて間もなかった空が明るいうちは、西半分の地平がオレンジ色に染まり、西に背を向けて東半分にはワインレッドを白い布に零(こぼ)したような薄紫に染まっていた。刻一刻と移り変わる黄昏の色合いは、壮大な天空のショーを見ているようだ。絵の具はいろんな色を混ぜていく毎に黒くなっていくけれど、光はいろんな色を混ぜるにしたがって白くなっていく。昼は色んな光の色を取り込んで白昼となり、夜は色んな絵の具(色の本質)を孕んでいて漆黒となる。黄昏時は光の群れから色の本質の群れへと交替する交替式が行われ、逆に夜明け時は色の本質の群れから光の群れへと交替する交替式が行われている。光の群れは生命体を生かし輝かす天使の群れであり、色の本質の群れは精神を司る神霊の群れだ。夜や漆黒と聞けばそれとなく忌み嫌い遠ざける時代を生きてきたけれど、身体を超える内的霊的なものに目覚め霊的高みへと向かう為には、夜や漆黒の中から産み出して取り出さなければ、創造される神様の子として創造の力を相続したとは言えない。御父様は億万のサタンが跋扈する心魂世界を通過され、更にその奥である漆黒の闇の底に下っていかれながら色の本質、数理の本質を取り戻してこられた。御父様が言われるように、神様は色盲だけれども愛の色は認識される。霊界も心魂世界も地上も、真の愛が浸透し、真の愛に染まっていくことで神様が認識できる世界に変わっていく。神様が地上に生きて働かれる。黄昏の天空のショーに宵の明星がひときわ輝いている。ルーシェルが明けの明星と言われるように、闇と光の間に関わり心魂世界をかき乱して地上世界を堕落的なものとしてしまったが、人間が真の父母を通して根源である神様に帰る為に、宵の明星としての役目を担っている。

2011年12月1日木曜日

今日の想い 377

物心付いてからずっと、私は常に問い続けてきた。私の過去の記憶をどの地点に於いて引っ張り出してきても、映像としての記憶は靄に包まれたまま曖昧で、その変わりに何を問うていたかが思い出される。物言わぬ自然は、外界が何なのかを問い続ける少年の私に、口を固く閉ざして何も語ろうとはしなかった。私に取って自然は不気味な対象だった。青い空や積もる雪は私に幾らかの安らぎを与えてくれたけれども、しかしそれがどうしてなのかはわからずやはり沈黙したままだった。子の親に対する想いも人並みかそれ以上にはあったが、親子の情に安らぐ気持ち以上に、親の苦労を見ることで生きて苦労することの意味を問い続けた。死が迫るごとに苦痛は大きくなり、身体も心も病んでいく祖父を見ながら、死の意味を問い続けた。決して冷めた目をして問い続けたのではなく、全ての存在を確定できない不安と恐怖に晒され問い続けざるを得なかった。ありとあらゆる強迫観念に苛まれ、その都度思わされる意味の無い行動を強制的に課し続けた。寝る前に天井の節目を数えさせられるとか、学校の校舎で板目を踏まずに移動させられるとか、そう言った全く意味を成さない行動を可笑しいと思う自分より、その命令を行使しなかったことによる不安を恐れる自分の方が勝っていた。だからひたすら問い続けた。起きて意識がある間は問い続けることを止めることはできなかった。み言葉を聞いて直ぐに夥(おびただ)しい私の問いへの答えが差し出された訳ではないし、問い続けることを止める訳にはいかなかったけれども、神様が存在することの確信は得られた。それまでの問いは暗黒の静寂(しじま)に投げかけるだけで、問いに対する答えが返ってくることなど有り得ないと思っていた。それでも問い続けざるを得なかった。しかし神様の存在を確信した私は、問い続ける存在であることは変わらないにしても、神様に問えば必ず答えは与えられるという主体を得た明るい問う存在になった。私は今でも問い続けている。私には皆のようにみ言葉を読み進めることはできない。一行読めば多くを問う自分がいて、その自分を黙させることができずになかなか頁は進まない。生活に於いても忙しく身体を動かさない限りは常に何かを問うていて、気になるみ言葉を何度も何度も反芻しながら答えが届くのを期待している。人前で話すことも極めて苦手で、話している途中であっても問う自分が黙っておらず、話が途切れて話の腰を折ってしまう。私と言う人格の中に幾つかの存在がいることが分かってきて、問う自分も自分の大きな範囲を占めるひとつだけれども、内面に於いてそれらの存在と存在がぶつかり合っている。それはみ言葉を聞いた後でもしばらく続いた。その期間を経ながら徐々にではあるけれども、神様が統一的な神様になって人間を創造されたように、内面に於いて存在がぶつかるのではなくひとつになろうとしているのを感じる。統一的な私という存在が遠からず訪れるのを感じている。ひとつになった私に不安や恐れを生じさせる暗黒の部分はない。

2011年11月29日火曜日

書信について

御子女様からの書信がメールで届いた。全世界の兄弟達に自分の正当性を丁寧に、そして力強く説明されておられる。この書信を受け取ることで、一体私達に何を期待しておられるのだろうか。状況と言い分を説明されて、正しく把握することを私達に願い、そして私達がそれぞれに判断すべきだと仰りたいのだろうか。無知な私達に、どちらの言い分に正当性があるのか判断して欲しいと言う事だろうか。その文面からは御子女様のどこまでも真っ直ぐな在り様が伝わってくる。曲がったことを許されない、清濁併せ持つというようなものではなく、受け取られたみ言葉そのままを御自分にも宛がい、私たちにも宛がわれる。この堕落世界に於いてその姿勢を貫くということは、余りにも困難を極めることは容易に察せられ、報告を受ける毎に痛々しい心持になる。堕落世界がそうであるように、教会の中にも醜いものはある。腐ったものもある。やってきたことを白日に晒して堂々と説明できることばかりかと言うと、口をすぼめるようなことも多々あった。私が堕落人間であり醜いものを内面に宿していながら、それを棚に上げて置いて、位置に立つ責任者に対してだけ非を追求することは私には出来ない。報告に尾ひれが付いて現状報告とかけ離れ、御父様の顔色を伺うのを第一優先され、政治的な遣り取りや駆け引きが為され、教会の中でさえ綺麗事だけでは済まないことは、年数を重ねれば兄弟誰でもわかることだ。あまりにも無知で、その高度な書信の内容を十分に理解することは出来ないまでも、誰も、そして恐らく御父様であってもこの書信の間違いを指し示すことはできないだろう。しかし書かれたその文面から想像される歩まれるその先には、共産党の自己批判にも通じるイメージが見え隠れしている。あまりにも真っ直ぐだからそこに許しが見当たらない。もし、私達の多くがその御子女様の基準に近付いていたとしたら、そちらの方が本道になっていたかも知れない。しかし御父様はそちらの道を取られなかった。清流よりは濁流の中に、敢えて舳先を合わせられた。それは多くの失敗も重ねた、醜い私達の存在を見捨てられなかったと言うことだろう。御子女様に犠牲を払わせる形を取ることで、私達を保護されたと言うことだろう。

2011年11月28日月曜日

血統を考える

人間にとって血統というものがどれだけ重大な意味があるかは、御父様が事或るごとに触れておられる。会ったこともないアダムエバが犯した罪をどうして後孫である私が引き継いでいるのか。血統ゆえだ。神様が救いの摂理をアダムとエバに限って為すのではなく、アダムとエバも含めての救いを罪を受け継いだ(受け継がせた)後孫を通して摂理される。それも血統ゆえだ。霊人の解怨や祝福は数多(あまた)の霊人ではなく、基本的に先祖を遡って為される。血統ゆえだ。もちろん私と言う存在があるのも血統を通して生命を与えられて存在している。血統を外れて別の方法で生命が飛び出てくる訳ではない。親であれ子供であれ、ひとりひとり別個の存在であるかのような認識を現代人はもっているけれども、根源であられる神様は、血統の中に生き続け、血統を通して引き継がれるものを霊格と言えるようなひとつの相対存在として認識しておられるように思う。人間は肉体の或る部位がなくなろうが全ての細胞がとっ変えられようが、たとえ顔が変わり体が入れ替わったとしても、人間の中の人格を変わらぬものとして認識している。そのように代々人間は移り変わっていっても、血統の中に息衝く人格と言えるようなものをひとつの霊格として見ておられる神様だと言うのは妥当な事だと言える。私が救われると言う場合、私個人の救いをイメージしているけれども、神様が人間を救うと言う神様にとっての意味は、堕落の血統を神の血統に復帰することを救いと言うのだろうし、個人が血統の流れこそが自分の本質だと感じ、個人の心魂が家族から氏族さらに民族を感情し、思考し、意志する心魂まで広がりを持つときに、神様が認識しておられる救い、本質の救いに近付いていくのだろう。マタイ伝22章32節に、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。」、、とある。無くなった者達であれば、神であった、という風に過去形にすべきところを現在形で話されている。その意味は血統に流れる霊格(私の造語です)を指しておられる為に、そういう言い方になるのだと思う。新約の救いは霊的なものに限られ、私が救われても子供は新たにイエス様に帰依する信仰を本人が持たない限り救われない。親が罪を許されても子供は相変わらず原罪を持って生まれてくる。成約の救いは霊肉の救いであって祝福の子女には原罪が無い。要するに霊肉の救いとは血統の救いであり、御父様がもたらす救いの完成は血統に流れるものの救い、過去(先祖)現在(私)未来(子供、子孫)に渡る救いであるはずだ。そういう意味で新約の救いと比べてみると、祝福を戴いたことが天宙的価値であることがわかる。

2011年11月27日日曜日

二世の親として

一世に取っては私が出会い、私が必要とし、そして私が望んで信仰の道を歩んでいる。しかし二世に取っては出会ったのは親であり、親が必要としているのであり、そして親が自分を信仰の道へと誘う、或いは勧め或いは強要する。自分も含めて一世の誰もが、二世が信仰の道へと向かうのは至極当然のことで、それについては信じて全く疑うことはなかった。それはひとつとして祝福二世は原罪がないと言うものであり、原罪がないから神様の願いを直接受け取る澄んだ心があって自ずとみ旨へと向かわせると言う思い込みだ。祝福子女は増えれば増えるほど生きた証しになるはずだった。まだ家庭をもっている者が責任者のみで少なく、御家庭のように祝福子女を育て教育する担当がわざわざ付いていたりした時期は、周りも王子王女にでも仕えるような接し方で二世本人の自覚もそれなりにあったはずだが、この世と何ら変わらない環境圏で、さらにみ旨で忙しかったり経済的な困窮も加われば、親の期待をプレッシャーとして背負いいろんな内的問題を抱え始める。今となれば祝福によって受けた霊的恵みがそのまま子女の心魂に見える形で影響を及ぼすことはないとわかるし、親が期待していた祝福の子女のイメージと現実は異なると言うこともわかる。描いて期待していた子女像が神様のそれとは異なっていたと言えるかも知れない。しかしみ言葉で培ってきた教会伝統を伝え、祝福家庭としての血統を繋いでいく使命の重さを知っている一世にしてみれば、期待はずれを悔やんでばかりも居られない。二世にみ言葉を受け入れさせ信仰を植え付けることにどうしても焦りが出て、過剰気味で余裕の持てない接し方になってしまう。山をも動かす信仰だと言っても、山が動かないことは良くわかっている。状況は悪くはなっても親の期待通りにはならない。そうこうしているうちに親も内的霊的に疲れ果ててしまう。我が家がそうであるように、多くの家庭がそんなところだろう。子供が祝福を受けてそれなりに家庭を築いている、そんな勝ち組には組み入れてもらえない疎外感や減少感。祝福の血統を繋いでいけないかもしれないという挫折感や恐怖感。ひとりの歩みでは知る由もなかった、家庭を持ち親となって初めて神様の様々な心情を味わっていく。実は親になって初めて通過する心情路程こそみ旨の本道であり、それまでの歩みは準備期間に過ぎない。神様が絶対信仰、絶対愛、絶対服従で歩んでこられた意味が親になってこそ理解できる。ふらつく子供であれば尚更、信じざるを得ないし、愛さざるを得ないし、結局は従わざるを得ないと言える。絶対的な内的位置に立たない限り希望を明日に繋げない。親としての神様の心情のひとつひとつを味わえることが、私が感謝だと言えるうちの最高の感謝だ。それは涙を流さざるを得ない感謝であり、心配で心が張り裂けそうな感謝だ。

2011年11月26日土曜日

今日の想い 376

御父様は真の御父様であり、御父様の愛は真の愛だ。その言葉は我々の仮定の言葉ではなく、私の真の親である御父様の宣言であり、それは神様が、この世の神サタンが、天宙が認めた宣言だ。その宣言ゆえに私は必ず救われる。確かに犯してはならない天法がありながら、図らずも自分の弱さゆえに厳しく言い含められた約束事を破ってしまうこともあるかも知れない。しかしだからと言って私の救いを断念されるものではない。み言葉を律法的に受け取り信仰上の取り決めを一義的なものとして私や周囲に当てはめ、救いに与る者外れる者と振り分けられる訳ではない。裁かれることで解決を見ない、私自身の問題、家庭の問題、二世の問題、教会の問題がある。溜息をつかざるを得ない現実が、積もり積もって山のようにある。どれ程み言葉はその理想を高く掲げていたとしても、問題が山積する現実の方が存在感があるというのが偽らざる我々の気分だろう。しかしそれらの問題が全て解決されてやがては全く問題のない世界が訪れるだろうか。さらに問題が解決されて気分が良ければ救われ、問題に振り回されて不快であれば救われないと言うことでもないはずだ。今は問題として認識されないものの中にも解決すべき課題があるはずなのに、それに対しては気分は不感症だ。律法的取り決めや信仰的快不快の気分或いは信仰的善悪感情といったものが食口の心魂の多くを占め、却ってそれが良心を見えないものにしている場合が往々にしてあると思う。旧約の律法に反したからイエス様は受け入れられなかった。新約的気分や雰囲気を害する者だとして御父様は迫害を受けられた。私達の信仰内容が成約だと言いながら、旧約的な信仰観、新約的な信仰観、或いは雑多な信仰観に固まっていて、神様が直接に働かれるはずの良心を見失ってはいないだろうか。良心が思考の対象としての観念ではなく実在であるように、真の愛も思考の対象としての観念ではなく実在だ。良心の痛みや喜びを現実として生き、真の愛が流れ込み満たされるのを現実として感じる私であってこそ、御父様の息子娘だと実感できる。

今日の想い 375

見えない障壁が私と対象との間にある。間にあって意思疎通の流れるのを堰き止めている。見えない障壁が人と人の間にある。間にあって愛の流れるのを堰き止めている。愛が自己の中で還流するだけなら、愛による一体理想は永遠に訪れない。夫婦がひとつになり、親子がひとつになるとき、家族としての一体理想が霊的な天国空間を創り出す。家庭理想には夫婦間の障壁も溝もなく、親子間の障壁も溝も無い。血流が体中を巡るように、愛の流れが十二対象愛の形をとって家庭理想という天国空間を巡っていく。この見えない障壁や溝を、見えないだけに障害だとは捉えていない。見えない障壁に囲まれた内側の溝の底で、見て触れる他の人間を景色のひとつとしか捉えられず、自然や万物のもろもろを生活の道具としか捉えられない。その愛情を覚えない内的距離の隔たりが、私と対象の間にある障害によるものだとは思っていない。障害の内的霊的な意味するところが解っていない。声も届いて見ればすぐそこにおり、手を伸ばせば届いて触れることができる。その距離の近さに惑わされて、内的な隔たりが、埋めることが出来ない深い海溝が、手を伸ばせば届くほどの間に横たわっていることを感知できないでいる。その溝を埋める作業をどれほどしてきただろうか。投入して投入したことを忘れ、さらに投入してさらに投入してきたことを忘れ、その、為に生きる意志を具え続けることで、私と対象の間に橋を渡し道を切り開こうとする。そうやって御父様と共に溝を埋め尽くすことに、平準化することに一生懸命になりながら、精誠を供えた者でしか味わえない真の愛の味がある。真の愛の味を覚えた者こそが本当の食口だ。愛は与えて忘れるという言葉には御父様の恨の涙が染み付いていて、このみ言葉が私の魂の感情部分を共鳴させ、我知らず胸が震えてくる。溝を埋めてきた歩みであったけれども、気付いてみれば埋めていたのは自分の足元であり、少しずつでも御父様の高みへと近付いていた。

2011年11月25日金曜日

譬えによるものと直接的な御言葉

マルコ伝の第四章にイエス様が語られた種まきの話がのっている。道端に落ちた種は鳥が食べてしまい、土の薄い岩地に落ちた種は根がない為に枯れてしまい、いばらに落ちた種は塞がれて実を結ばず、しかし良い地に落ちた種は育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった。大衆に対しては譬えをもって話されたが、イエス様が一人になられた時、十二弟子を含むそばにいた者達がこの譬えについて尋ねると、種まきは御言をまくのであり、御言を聞くとまかれた御言をサタンにすぐ奪われる者、喜んで受けるが根がないので御言のための困難や迫害に躓く者、聞くには聞くが世の心遣い富の惑わし欲が御言の成長を妨げる者、そして御言が実を結ばせる者のことだと説明されている。比喩でもって話された言葉と聞くべき耳をもっている者に話された理性による直接的な言葉。ひとつはイメージを与えて感情に反応させようとされたのであり、今ひとつは直接的言葉による思考を刺激しようとされた。古代人から現代人のほぼ三分の二の地点にイエス様の時代は位置するが、古代人と現代人の両極を比べた時に意識の在り様が大きく異なっている。古代人はより霊的世界(限定された低次元の霊界)に偏り現代人にすれば彼らは夢心地のような意識状態であって、現代人のように思考したり醒めた理性や判断力と言った明るい意識は備えなかった。イエス様の時代、譬えで語ることが当時の意識段階に於いては必要だった。一般的に譬えの言葉を受け入れて理性の言葉に進む当時と、原理講論の論理的理性の御言葉を最初から理解する我々とは意識段階が異なる。どちらが本性的かというと現代人の意識だけれども、本性的であると同時に自由度も増して善にも悪にも取っ付き易い。譬えとして受け入れようが理性を用いて直接的に受け入れようが、気分的な感情に留まり、自己を納得させる思考に留まるだけで、み旨に生きようとする意志が発動されないかぎり良い地にまかれた種とは言えない。心魂の活動として知情意があるように、天の叡智と天の心情を私の魂の在り様としながら、それらが作用して意志としてのみ旨に向かう想いが発動されてこそ、真の愛がそこに流れ、さらにそこから流れていく。川の流れるところに木が育つように、真の愛が流れるところに生命の木は育まれていくはずだ。

今日の想い 374

積み上げられた書類箱が整頓もされずに壁と言う壁を占領している。片付けても仕方が無いという先入観があるのか、ダイニングテーブルの上も机の上も選別されないもので散らかり放題だ。家庭を持って始めてわかったことだけれども、妻は掃除が苦手だ。モノを捨てられない性格も災いして特に整理整頓がまるっきり出来ない。皮肉も交えながら何度も何度も注意したけれども、本人にすれば、掃除も整理整頓もこれ以上は無理だと言えるほどにやっていると信じている確信犯だけに絶望的だ。身体を悪くしてからは注意するのも遠慮したせいか、いつの間にか彼女の基準に私が譲歩することで良しとしてしまっている。と言うわけで我が家は倉庫状態だ。部屋から部屋に移動するのでさえモノに遮られて難儀している。家がそういう状態だから血管もコレステロールが溜まって詰まりがちで血圧が上がると諭そうにも、極めて外的な妻はそんな関係性を認めようとはしない。私の言葉に強く逆らう訳でもないけれど、強く結んだ口元から嫌味と捉えて拒んでいるのは察して余りある。モノは出来るだけ処分すべきだ。いろんなリサイクルの方法があって人や場所によって役立つものがある。捨てると言う選択は最後にするにしても、忘れ去られて段ボール箱にしまいこんだままにして置くより捨てた方がましだ。意識もされないモノというモノがいつか徒党を組んで反乱を起こす。やれ蕩減だ、やれ恨みを買った仕返しだと思っているけれども、意外とモノへの執着が災難を引き起こしている。整理もされて意識も届き、日頃使わないものでも、大切に思えばこそ年に一度くらいは取り出して光を浴びせ空気を吸わせる。部屋が片付いて掃除も行き届けば内的霊的にも整理されて自分の位置が霧が晴れるように見えてくる。耳は東西南北を象徴する器官だけれども、掃除や整理整頓することで内的霊的耳は格段に冴えてくる。感謝祭の今日、どこからともなくターキーを焼く香ばしい匂いを鼻腔に覚えると、大掃除への衝動を喚起させる天使がやってくる。家も店も大掃除をして、内的霊的耳を研ぎ澄ませて、新年の運勢情報や動向を察知する。

今日の想い 373

この外界の隠された本質を見たいと思うなら、この肉体は外界に埋もれていたとしても、心魂は感覚世界を超えて霊界に届くことができる心魂とする必要がある。心魂が霊界に届くことで、この外界の霊的な本質を見届けられる。心と体が戦うと言う絶え間ない心身紛争が継続していながら、そのことさえ感じないなら、私の心魂は完全に肉体に主管され感覚世界を漂うものでしかない。人間本来の心魂は精神に貫かれ、高次の霊的存在から届くもの、更に神様から届くものを思考と感情に紡いで表す。しかし霊性を閉ざされた現代人の心魂は或る意味凝り固まってしまっている。唯物的な思考と閉ざされた感情に落とし込まれて身動きできないでいる。感覚世界のみに彷徨う自由とは程遠い囚われの心魂を、堕落して内的霊的に無知に陥った人間はその状態を正しい心魂だと信じて疑わない。高みに届く心魂を、神様に届く心魂を、私は備えることができないでいる。新たに新生され、高次の叡智と神様の心情を直接に受け取ることができたなら、しがみ付いていた堕落的心魂様相がどれほど低次元なものか理解できるだろう。堕落人間は生命の木に至る道を閉ざされて、低次の心魂に留まり続けている。心身紛争を自覚するどころか肉心の要求のままに生を繋いでいるに過ぎない。水が流れ、空気が流れるように、愛も流れる。本然の愛が流れて本然の生命が宿り、本然の生命が連なって本然の血統が未来永劫繋がれていく。貶められた、愛とは言えない愛を愛だと信じ、天から流れてくる本然の愛を捉えることができないでいる。それはみ言葉を受け入れた今の私でも同じことだ。私達が映っている御父様の小さな目は、真の愛を知らないことへの不憫さで翳っている。偽りの、愛とも呼べない愛にしがみ付き、そこから離れようとしない愚かさを嘆いておられる。

2011年11月22日火曜日

エロヒム

私が私であるという自我意識は、一体いつから目覚めたのだろうか。幼少の記憶を更に遡っていくと、私と言う体は存在しているはずなのに、記憶に留められない自我意識にとって暗黒の期間がある。人によってどこまで遡れるかはまちまちだけれども、一歳二歳の記憶を保持している人はいないだろう。生まれた時や乳を吸っていた頃の自分を親から伝え聞いて、間接的に私という存在があったと認識しているだけであって、自我意識が目覚めていた自分を生きた訳ではない。朝起きるときに、眠っている状態からまどろんでいる状態を経て、次第に意識が明るくなっていって完全な目覚めの状態になる。同じように自我意識も生まれる時には眠っている状態であって、それからまどろんでいる状態を経て次第に自我意識は明るくなっていき完全に目覚めの状態になる。人間がそうであるなら人間を御姿の通りに創造された神様も、そういう過程を経られたと仮定することができるのだろうか。生まれてから自我意識の目覚めまで、自我意識が眠った状態であっても乳を吸う行動もするし泣きも笑いもする。肉体は動いているし心魂も活動している。ただ生まれて間もない頃は肉体も魂も統一的には連動していない。自我意識が目覚めるに従って、肉体と心魂が自我意識に貫かれる形で統一的に連動していく。人間が時間と共に進化していく過程を見るように、神様に於いても進化発展していく過程があったと言うことができる。聖書の創世記に我々の形に我々にかたどってと記されているように、そこでは複数形の神様として記されているのに、創造を終えられて主なる神という表現が出てくる。それを私の心魂の深いところで受け取ると、仮定の域を脱しないとしても、人間が自我意識に目覚めた人間に成長すると同じ、私はあってあるものと語られる主なる神様が現れたと捉えられる。(ちなみに、日本語訳の聖書には創世記に神と訳されているが、原書にはエロヒム(神々)という複数形が用いられ、主なる神はヤハウェという一人称で記されている。)御父様が最近夜の神様昼の神様という御話をよくされるが、夜の神様が創造以前の神様であり、昼の神様が創造を始められた神様だというように説明を受けているが、同じ神様であるなら夜を過ごされる神様であり昼を過ごされる神様という表現であれば納得するけれども、夜の神様昼の神様と別の存在のように思える表現にはエロヒムとヤハウェという関係を表されておられるのだろうかと勘ぐりにも近いことを考えている。

2011年11月18日金曜日

み言葉解釈を考える

み言葉はみ言葉であって、それに付け加えて理解すべきでもないし差し引かれて理解すべきでもないだろう。解釈の違いをもって、これは正しくあれは間違いであると議論を戦わせたところで、そこにみ言葉理解への道が開かれるとは思えない。百人いれば百人それぞれに理解度が異なり、理解度に応じて何らかの解釈を受け取る。解釈はみ言葉そのものではなく、自分に取って暫定的仮定的なものであって、その解釈を絶対的なものとすることはできない。ましてやそれを全体に流布するとなると、思い込みをさも真理のように受け取らせて混乱を来たすだけで、世を惑わすものでしかないだろう。御父様が生きて摂理を動かしておられ、様々な理解度でそれぞれに解釈を踏まえて歩む兄弟達全体を指導しておられるのに、そこに自分の解釈を投入して結果的に混乱をもたらすのであれば、万が一正しい解釈だとしても独善的だと言わざるを得ない。三十年前を思い出し今に比べてみると、活動も画一的だったけれども思考も画一的だった。捉え方が自分と隣とで違うなどと思ったこともなかったし、同じみ言葉を受け取りながら分派が出てくること自体が不思議で仕方がなかった。しかし天国建設は明らかに外的地上的なイメージとして捉えていて、内的霊的なものについては非常に漠然としたものだった。表面的なもので納得し良しとしていた期間を経た後、私の心魂の奥へと内的霊的に掘り下げたところにみ言葉は生きて働きかけ、天国は内的深みでこそ建設されると言うことが次第に見えてくると、外的地上的なものは内的なものの投影だとわかる。外的地上的にみ言葉解釈に右往左往するのではなく、私の内面世界でみ言葉が骨となって心魂的肉付けがなされているかどうかを見なければならない。反対派や分派の解釈を論破したからと言って、それによってみ言葉の本質が浮き彫りにされ、兄弟達の内面にみ言葉が柱として立ちやすくなるかというと、私は逆に余計に混乱させてしまうと思う。言葉のせめぎ合いには、心魂の思考活動に入り込んだ悪魔的なものが介入されている。

2011年11月16日水曜日

今日の想い 372

私達は御父様の恨(ハン)を胸の内に抱えており、涙に浸した魂がその在り様としてある。笑っていても笑いきれず、喜んでいてもどこか喜びきれず、御父様がそうであるように、悲しいほどに犠牲を差し出そうとする。どれほど犠牲を供えてもまだ足りないと思うし、全ての非の原因が自分にあるとし責任を引き取ろうとする。誰かに押さえつけられてそうあるのではなく、御父様の息子であり娘だからそうならざるを得ないのだろう。だから、私たちはどこまでもどこまでも謙虚であろうとし、どこまでもどこまでも信じて疑おうとは思わない。そしてそれは、どこまでもどこまでも悲しく、どこまでもどこまでも切ない。カルト扱いもされ、洗脳されて気でも振れたように見られてきたし、普通と違うと言うだけで、非現実的な理想世界を目指しているというだけで距離を置かれてきた。周囲の環境も変わってきて、一時のあからさまな非難や中傷もなくなったけれど、それでも当時の罵声が時々思い出されて鈍い響きを放ち、胸の内の傷跡として残っていて痛みを覚える。どれほどスマートな社会人を装っても、御父様を慕い侍る路程で相続された心情は胸の奥底で息衝いている。どれほどこの世に迎合しようと試みても、どれほど教会から距離を置きみ言葉や御父様を否定したとしても、植えつけられた御父様の心情は胸のうちに息衝いていて、どう回り道しても結局は御父様の胸のうちに帰らざるを得ないだろう。そうして御父様を想って涙を流さざるを得ないだろう。それが統一食口の在り様であり故郷だ。御父様が涙の御方であり、統一教会は涙の教会だ。昔は教会の玄関を潜っただけで、胸が締め付けられる想いに教会が満たされているのを感じることができた。もし教会に涙が乾いて久しいと言うなら、御父様の心情が備わっている教会とは言えないだろう。教会がそうであるように統一食口に於いても、彼らに出会うだけで訳も分からず共感してしまい、切なくも涙が自然と流れてしまうと言わしめるような存在であるべきだ。御父様にお会いすれば涙は自ずと流れてくる。御父様の在り様そのものが涙の御方だと言うことが出来る。十六歳の御父様の詩、栄光の冠を声にしてゆっくり読み進めると、私はどうにも心苦しくなる。何処までもどこまでも悲しく、どこまでもどこまでも切なくなってくる。

2011年11月15日火曜日

環境的要件

外に出てしまった兄弟も問題はあるが、内に居て動こうとしない兄弟達にも問題はある。外に出て行った兄弟達に批判的な感情を持っているとするなら、自分は批判を受ける必要のない抱き抱えられた内にいると思っている。彼らは愛されていない立場、存在を否定された立場であり、自分は愛されている立場、存在を肯定された立場に置いている。批判的言葉と言わずに、敢えて批判的感情としたことを強調して置きたい。教会の内に居る兄弟達は、このみ言葉にふれ御父様に出会えたことを喜んでいる。祝福を戴いたことを喜んでいる。祝福家庭として出発したことを喜んでいる。祝福子女を与えられたことを喜んでいる。先祖を解怨して戴き、先祖祝福を戴いたことを喜んでいる。喜びの感情は確かに大切だ。しかし問題は喜んで完結させて、それで終えてしまっていることにある。本当はそこが出発点でありその戴いた種から実りを収穫するべきなのに、種を戴いたまま何もせずに喜んでいる。種を握りしめたまま、その果実をいまかいまかと待ち構えているだけだ。種は種であって引換券ではない。それを天国の門で差し出せば、自動的に天国に入れてもらえる訳ではない。霊界の協助を一方的に期待し待ち構えているけれど、そんな態度で霊界の協助を得られると思わない方がいい。種には畑という環境的要件が必要とされる。祝福という種が成長し実りをもたらす環境的要件は私自信だ。私がどれだけ内的霊的に耕されているか、必要な内的肥料や内的水分をしっかり供給できているかを問われている。霊的な協助の話をすれば、先ず私の思考を組み立てる概念、受け取る五感からの感覚内容、全てに於いて唯物的なものが浸透している。要するに物を物としてしか見ていない。御父様は手の届く物すべてを神聖なものと捉えなさいと話されるように、体の背後に心があるようにその物の背後に神聖な霊が存在していて、常に背後にある霊的なものを見届け感じ取ろうとしなければならない。勿論相手が人であれば尚更のことだ。また私の中に湧きおこる感情のひとつひとつも、その背後にある働き、霊の流れを見届ける訓練をしていけば、霊的なものを感じ取れる感受体を備えることができる。それは個体的な祝福の環境要件だけれども、それを土台としながら家庭には家庭の環境的要件、氏族には氏族の環境的要件、国には国の祝福を育てる環境的要件が必要とされる。母の国として祝福を戴いて、その国家的祝福の種を成長させ実らせる為には、国の為に犠牲を供えた多くの霊達の協助が必要なのは言うまでもない。ではその協助の為に霊達が再臨する国家的な内的霊的環境的要件を耕す為に、地上に於いて祝福中心家庭がどれほど中心的役割を為しているだろうか。戴いたもので完結させようとする乞食意識が、教会の内にいる兄弟達にも蔓延している。国を愛し、国を憂い、御国の為にという想いが兄弟達の中に燃えているだろうか。国家を代表して搾り取ってでも献金してきた、その味わってきた感情内容をもって日本の国への想いに育て上げずに、教会への恨みに貶めるなら、御父様の御心情を本当の意味で理解してはいないだろう。

2011年11月14日月曜日

散り落ちる枯葉を見ながら

晩秋の冷たい風に煽られて枯葉が舞い落ちる。灰色の曇り空を背景に枯葉が舞うのを眺めながら、心躍る気分になることはないだろう。死期を間近に控えた諦めにも似て、残り少ない日々を散り行く枯葉のひとつひとつに重ね合わせている。その感情に引き摺られ、どこまでも落ち込むなら、私は感情に主管されて揺れ動く魂の存在以上にはなり得ない。個人に於いても、全体に於いても、多くの大小の問題が感情を波打たせ、冷たい風雨となって吹き荒れる。枝を大きく揺さぶれば、この手を放そうかどうしようかと迷っていた葉達はひとたまりもないだろう。感情気分に抗うことなく散り落ちてゆく。勿論散り落ちて肥やしにはなるけれども、霊の存在でありながら魂の肥やしに留め於かれれば、私の中に霊の花が咲くのを直接的に体験することは無い。霊の花が咲かなければ、人間存在としての歓びの極致を味わうことも無いだろう。何代かを経ながら間接的な関わりに甘んじるのを待つことになる。キリスト教には殉教の歴史がある。彼らは自分の生命を軽んじたのではない。キリストとの内的出会いを為し、自分の生命を供えても代え難い、霊の花が咲き霊の実りを収穫できることを知っていた。殉教の瞬間、痛みに顔が歪み苦痛に身悶えしたのではなく、神霊を受け取り霊の花を見事に咲かせた歓びに咽んだ。殉教だけが尊いと言っているのではなく、生きるにしろ死ぬにしろ、心魂を超えた高次の霊、精神の高みの位置を視界に捕えて、心魂を導き行動すれば、私は霊の花、真の愛の花として咲くことができる。堕落とは関係の無い根源が心魂を纏い肉を纏っておられるのが御父様だ。私が御父様にしっかりと接木されれば創造本性の花が咲く。花も咲かせず実も実らせず、散り落ちて存在を確定されずには霊界に留まることすら難儀だろう。内的霊的無知が私と言う存在を消し去ろうとしている。わからないなら下手に考え判断を迫る必要は無い。ただただ、御父様に帰依し、御父様にしがみ付いて行けばいい。御父様に繋がっている手を放すも握り締めるも、接木する私の意志であって、御父様がその手を払いのけられることはない。親が子供の手を放すまいとして握り締めこそすれ、払いのけられることなどありえない。枯葉が舞い落ちるのは、その表面的に纏った物質という被いだけであり、その実りとしての霊的本質は天に昇っている。落葉する季節に、山の高みから山野を見渡せば、木々の精霊が天に昇っていくのを見渡せる。

2011年11月12日土曜日

生心を取り戻して

自分がどれだけ打算的な人間であるかは、私が知る以上に御父様が見抜いて知っておられるということを、私が御父様にお会いした時に悟らされた。兄弟達はいろんな御父様との出会いをそれぞれに持っているだろう。御父様の身辺で常に接しておられる責任者や先輩食口もおられるし、修練会や大きな集会の場で遠くから御父様を眺めるくらいしか出会いの場はなかったという兄弟達もいる。そういう兄弟達のほうが遥かに多いはずだ。しかし何らかの特別の出会いの機会を戴いたとして、それは食口であれば誰でもそういう機会を望むけれども、かと言って御父様の御側で常に侍りたいかと問われると多くは言葉に詰まる。自分にとって記念碑的な出会いが欲しい訳で、それが有名人に会ったというステイタスとはどう違うのかを問わなければならないし、その出会いと自分の信仰への影響とは別問題だ。私の直接的出会いは記憶から消し去りたいほどの不幸な出来事として突きつけられた。そうなってしまった過程に言い訳もできるし、私自信を否定されるものではないと自分に言い聞かせるのだけれど、地獄に突き落とされたような絶望感はどうしようもなかった。(ご要請という投稿に記してあります) その絶望感の中で必死で問いを内面に投げかけながら、実はそう言った出会いは内面世界に於ける象徴的な出会いだということがだんだんと見えてきた。その象徴的出会いはこの世の絶望感からすると彼岸の希望として対比される。私の表面的心ではそれは裁き以外何物でもないが、生心という言葉を使っていいのであれば、それは生心を取り戻すための象徴的な事件であり、生心を取り戻して初めて消え失せない霊界の存在として霊的生命を与えられたと言うことができる。打算的な人間、即ち価値基準を霊界に置こうとしない人間は一度内面的なショックを必要とする。心肺機能が蘇生するように内的雷に遭遇して霊界に存在できる生心を取り戻す。私の御父様との直接的な出会いは、地上的な価値観から言えば絶望的だけれど、取り戻した生心をして霊界から見れば、霊的生命を蘇生された事件として象徴として表している。私のような打算的人間ではなく、既に生心が息衝き御父様と歩みを共にする兄弟達なら、夢の中で御父様に何度も出会い、祈祷の中で御父様と直接に対話しながら、さらに生活やみ旨の歩みの中で御父様との多くの出会いを期待もし体験もしながら、霊的に躍動的生を送っているはずだ。

2011年11月9日水曜日

疲れた兄弟達に

底が見えない深くて大きな穴の中に、手ですくっては入れすくっては入れながら、十年も二十年も、或る者は三十年以上も投入し続けながら、それでも穴が埋まる気配さえしない。蕩減という穴埋めは終わったはずなのに、それでも投入し続けるのは自分の穴が大きすぎるせいだろうか。いろんな思いやいろんな疑念が私の内面で錯綜しながら、ひと時はそれでも惰性に任せて動いていたけれど、さすがに疲れてしまって一度下ろした腰はもう上がりそうもない。為に生きる愛、。犠牲的な愛、、。真の愛、、、。受けるにしても与えるにしても、愛の最も溢れる場所に位置していたはずが、愛から最も遠ざかったところに佇んでいるようだ。愛と言う言葉に触れても口に出しても、もはや私の中から萌え出でるものは覚えない。砂を噛むような生活だけが堰き止められることもなく流れている。私が時々そう感じるように、兄弟達の多くも、如何ともし難い疲労感を背中に負っているだろう。しかし、そんな事情を御父様が知らない訳もない。御父様の目がどんなに小さいと言っても、小さいからこそ私の遥か遠い未来までも見越しておられるはずだろう。息を吐いて、吐いて、更に吐いて、塵一つほどの息も残さずに吐き出させるのが御父様のやり方だ。もう出来ませんと言っても、どんなに小さな余力であっても、残っていれば投入させるのが御父様のやり方だ。訓読会の場で御父様の指示されるままに息を吐き続けながら、それがどんな意味があるかも解らずに、狐につままれたような兄弟達の顔が並んでいる。完全に吐き切った後、御父様の合図と共に息を吸う。一瞬に吸って一瞬に肺は膨らむ。吐き切れば吐き切るほどに、吸気は大きくて早い。投入して投入して投入し尽くせば、或る一瞬に、真の愛は私の容量を遥かに超えるほど流れ込んでくる。その道理を教えたい御父様だ。御父様は天地の道理を知っておられる。個人も全体も、全てを投入して辛うじて死なずに生き永らえている状態を見越したように、御父様は宣布式や勝利宣言をされている。もはや残っている何物もありませんと、全てを投入しましたと、神様にその報告をされるように、勝利宣言をされている。だからもう少しの辛抱だ。最後の力を振り絞って御父様にしがみ付いていればいい。D-DAYに合わせて、天地が大きく吸気するように、真の愛が全宇宙から流れ込んでくる。だから、後もう少し、、、。

2011年11月8日火曜日

今日の想い 371

窓越しにいろんな家の中を覗き込めば、入ってみたい衝動に駆られるだろう。敷き詰められた絨毯の柔らかさに触れてもみたいだろう。整えられた調度品の引き出しのひとつひとつに、隠されて息を潜めた歓びがしまわれている。その取っ手をつまんで優しく引き出すと、まだ見ぬ笑みが隙間からこぼれて溢れだすはずだ。見回していると奥の部屋への扉も目につく。私が手をかけて開けてくれるのを静かにじっと待っているようだ。家が何を象徴しているかは敢えて言う必要もない。目ざとく周囲の家々を観察しながら、窓が開いていれば覗き込もうとし、隙あれば入ってみようとも思う。或る者は美味しいところだけを摘まんではまた別の家を品定めしている。この鍵でどんな家にでも入っていける、そう思っている。確かにそうかも知れないが、侵入したつもりが実は頬張られていて、毒牙の顎に喰われてしまうことを知らない。毒牙に噛まれながら甘い陶酔のうちにその毒はまわっていく。私と言う霊の存在の破滅がその先にある。家々を渡り歩きながらこの世の生を謳歌しているようだけれども、その裏側に潜む暗く深い落とし穴を知らずにいる。ルーシェルがこの世の王、この感覚世界の統治者になったという意味は、肉的五感の歓びを最上のものとしたということだ。感覚至上主義を蔓延させることで霊の言い分を意識の隅に追いやってしまった。人間を精神(霊)の存在から感覚に仕える感覚存在に貶めてしまった。感覚存在は感覚的歓びを追い求める。あらゆる家に入りながらひたすら感覚を刺激するものを口にしようとする。口にしながら霊的には逆に口にされている。ひと時は兄弟達も、この内なる感覚衝動に翻弄される時期があったけれど、既に峠は越えている。ルーシェルが神様の前に跪き悔い改めたことの地上的な意味は、この感覚衝動を主管できる霊的力を受け取ることができると言うことだ。しかし私達が今直面していることは、思考に働きかけてきた別の悪魔の試練を受けているという問題だ。感覚衝動は罪の意識に直接的に関わるので分かりやすいけれど、思考に働くものを分別しようとするなら、み言葉の本当の力を受け取らなければならない。しかし、み言葉に宿る、思考を超えた神霊に至った時、私達の霊的視界はその高みから大きく広がるだろう。それは私という存在が霊的な進化を見せたということだ。

2011年11月7日月曜日

今日の想い 370

聖書に出てくる人物は復帰摂理に関与した中心的な人物であるけれども、現代の倫理観道徳観からして明らかに失格者のらく印を押さざるを得ない行動を取っているが、それをサタン側から神側に奪い返す行動として、復帰摂理の願いに応えるものとなっている。ユダの長男が死に、子を残すために二男に着いたが二男も死に、三男は宛がわれずに遊女となってユダをたぶらかし子をもうけたタマル。このタマルの双子のひとりであるべレツがイエス様の血筋になっている。戦場で戦っている部下ウリヤを尻眼に、水浴びをしているウリヤの妻バテシバに欲情して孕ませてしまったダビデ。しかしこのバテシバから生まれたダビデの子ソロモン(最初の子は主が撃たれて死んだがソロモンはバテシバとの二人目の子)がイエス様の血筋になっている。そしてこのウリヤはダビデの策略によって戦場で始末されてしまった。ヨセフと結婚しながらも姉エリサベツの夫ザカリヤの子をもうけたマリア。聖書からその事実を炙りだすことは無理だが、御父様の説明はそうなっている。この三人のことが、御父様が三大淫女として話された人物なのかどうかはどうも定かではないけれど、倫理観から外れたこの三人の行動が復帰摂理上、必要であり重要であったことはその通りだ。その事実を我々にも当て嵌めて、だから教会においても何でもありだとするのは本末転倒だけれども、あることないこと過去の全てを掘り返して我々の道徳感情を煽り、批判の片棒を担ぐのは戴けない。またそれを受けて、歩んできた過去の歩みを道徳的倫理的に検証しながら、正しいだとか間違っていただとかの感情を今の今引き出しても、感情を納得させる自己を満たそうとするものでしかないだろう。私たちには明確な着地すべき目的地がある。平たく言えば理想世界の実現だ。摂理が時を要求するものであれば、自己の潔白、道徳的責任の所在を指し示す前に先ず摂理の要求に応えることが優先されるべきで、道徳的責任を追及され裁きを受けるべきなら、摂理完遂の後でいくらでも裁きを受けて当然で、それが信仰を脅かすものとはならないはずだ。明るい色彩だけで絵を描くように綺麗事を並べて摂理を前に進めて来たわけではない。もしそれが可能ならイエス様も御父様も迫害され苦難の道を歩む必要はひとつもなかったはずだ。罪に染まった堕落存在をサタンから復帰しようと思えば、毒を毒でもって制したり、一方でサタンに肉を取らせて骨を復帰するようなことも必要だったはずだ。結果的に勝利を勝ち取ることが優先されるべきで、その過程の一つ一つを分散的に秤にかけても仕方がない。

信仰を考える

貴方達は騙されて踊らされた被害者だと言われ、そうだ私達は騙されて踊らされた被害者だと認めるとする。では被害者かどうかの真偽は別として、私が認める以上その間の信じていた私は何だったのか。信じていた私が将来に信じない私を予測して信じていた訳ではないだろう。被害者だと認めている現在の私が将来的にも同じ認識に立つことを信じているなら、騙されていたその間に信じていた私が変わった事実をどう納得するのか。要するに信じていた私を否定するなら、私という存在自体を信じることができない存在と断定しなければならない。所詮私は何も信じないし私という存在を否定した存在、そんな存在はあり得るのだろうか。実は反対論者が口にする信じるとか信じないとかは極めて表面的気分的なもので、自分の存在を問う信仰という深みに至らない者達の軽口に過ぎない。信仰を問う場合、自分の存在を問うに等しい重さがある。私という存在を消え失せない絶対的なものとするには、絶対的な信仰が要求される。絶対信仰という言葉の本質を見るなら、何が何でも信じますと言うのとは根本的に違う、私という存在の是非に関わっていることが見えてくる。かつての表面的気分的な信仰と思っていたものから、本来の信仰と呼ばれる深みに立ち入ることを赦されたから、絶対信仰という言葉が私達に与えられたと捉えるべきで、私達は今、様々な内外の問題を受けて過去にないほどの問いに溢れながら、絶対信仰の領域に入って行こうとしている。反対論者の言葉に接して兄弟たちの中に揺れ動くものが出てくることを心配する必要はなく、彼らの言葉も含めてあらゆる問いを自分に投げかけなければ絶対信仰には至らない。

2011年11月5日土曜日

立ち止りながら

原理として示された天宙の真理の骨組みを私達は学ぶことで、私達の信仰の基礎としている。信仰生活の中で、真理として受け取った骨組みに感情部分を肉付けしながら、信仰生命を成長させていく。しかし私の原理に対する理解が正しいのかどうかが問題になる。即ち骨組みが正しくなされて更に強度を増していってこそ感情部分も正しく肉付けされていくけれども、基礎が狂っていると信仰は歪になるし成長も見込めない。信仰生活の中で様々な信仰感情を味わい信仰条件として取られながら、内的霊的肉付けが為されていくと共に骨組みの検証がなされ組み替えられ強度が増し加えられていく。何度も何度も信仰の原点に立ち返らされ、骨髄の中で重生された核としての私を確認させられながら、肉を削り骨を軋ませる程の期間を通過して私の信仰生命は本物になっていく。逃げることも出来ない困難な状況の中で、意識圏で痛み苦しみ悲しみに喘いでいるうちにも、無意識圏の私の根源では新生の為の霊的手術が為されている。痛み苦しみ悲しみは誰であっても、内的に成長していようがいまいが、やはり痛み苦しみ悲しみに違いはないけれども、これを通過することで私はより本当の自分に生まれ変わり成長できると思えれば甘受しようとする意志が働く。苦労困難が大きければ大きいほど、痛み苦しみ悲しみが深ければ深いほど、大きくて深いマイナスの位置に比例する恩恵的プラスが引き寄せられるのは天宙の真理だ。日本の食口を愛される御父様は、お母様に期待されているように母の国の食口に期待されておられる。マイナス感情の深みをどれほど掘り下げても、それでも日本の食口は甘受できると信頼しておられる。その信頼こそが私達の誇りであり力でもある。御父様が地獄の底を通過されたのであれば、同じ事情圏環境圏を私も通過しますと言えてこそ、御父様の心情を占領できる。多くの食口が今、立ち止っている。D-DAYを目前にして立ち止っている。立ち止まること自体を批難されるべきではないだろう。立ち止まることが必要だから立ち止っている。今ほど兄弟達が自分の内面にも外界に対しても、そして内部にも外部にも、問いを投げかけた時はなかっただろう。しかし立ち止って横的な事情圏環境圏を見渡すだけで結論を急ぐのではなく、訓読もし瞑想もし、祈りもして熟考もしながら、縦的な認識を深めて欲しい。心魂に於いて、さらに霊の深みに於いて、御父様への帰依や献身を通して御父様から受け取ったものが必ずあるはずだ。どうにも否定することができない絡み合った父子の因縁があるはずだ。

2011年11月4日金曜日

リパブリック讃歌

南北戦争の時代に、北軍の行軍曲として歌われていたのがリパブリック讃歌だ。もともとは黒人霊歌のメロディーであったようだが、奴隷制廃止の活動家であり詩人でもあったジュリアウォードがこの曲に感銘を受け、閃くようにして歌詞をつくり、行軍曲として歌われていた。今でもアメリカの愛国歌としてアメリカ市民なら誰でも知っているほど愛唱されている。神の正義であり真実が必ず勝利するという、主の到来と栄光を高らかに讃美した歌になっているが、行軍曲として士気を鼓舞する歌である為に昔はうちの教会でも十字軍や結団式のおりにはよく歌われていた。この曲を聴くと私などは少し時代錯誤の感がするが、今でもこの歌をよく口にされるのがお母様だ。御父様に歌うことを促されると、このリパブリック讃歌を好んでよく歌われる。黒人霊歌のメロディーであったので、テンポよい元気な曲でありながらも、それでいてどこか哀愁を感じさせる曲だ。非人間的な扱いを受けながら、嘆きたい心、泣き叫びたい心を敢えて抑えて、強く自分の信仰を前面に押し出し進もうとする彼らの意志がこのメロディーに乗って流れてくる。この曲に共感を覚え、この曲を口にしようと思うときは、彼らと同じような内的状況であったりする。崩れ折れそうになるその状況に負けまいとして、前進する意志を差し出すときに口ずさむ。お母様がこの歌を口にされるときは心が痛い。人類の母として、過去にも未来にも誰ひとり代わりようのない御方として、私達が想像も付かないし誰も背負えない、真の母としての生きる宿命に殉じなければならない。お母様の歌われるリパブリック讃歌には、御自身を敢えて宿命に殉じさせ、自分の想いでなくみ旨に捧げられる御父様の想いのままにと御自身に強く言い聞かせられながら、御自身を鼓舞されるお母様の内面の壮絶な戦いを見ているようで心が痛い。私は、お母様の歌われるリパブリック讃歌に、真の母としての宿命に殉ずるお母様の意志を見る。

2011年11月3日木曜日

今日の想い 369

草食系、肉食系というような言い方が若者の気質を表す言葉として出ている。人間は欲望を満たす衝動に突き動かされて動くものだとばかり思っていたのが、自分を含めた今までの人間認識には当て嵌まらない若者が増えてきたのを認めざるを得ず、そういうガツガツしたものを持ち合わせない若者を昌して草食系と言い表している。そういう見方をすれば、ひと時の教会にいる私の周りの兄弟達は、当時にしてみれば意外と草食系の部類に入る人のほうが多かったかも知れない。抑えられてそうなったのか、もともとそういう気質の人が集められたのか、ガツガツしたものを感じさせる兄弟は少なかった。欲望が自分を地獄へと突き進ませるという認識を持っていたけれども、一方で欲望という強烈な吸引力がなければ富も権威も成功も手中に収めることはできない。欲望を持つこと自体が悪だとはみ言葉のどこにも見当たらないが、自己否定と欲望の否定を混同している為に、熱を持たない、生命感や躍動感に溢れない気質に傾いてしまう。しかし本当に光を当てるべきところは別にある。雲や霞のような欲望を漠然と捉えるのではなく、欲望の本質に光を当てて見通さなければ、人間性を否定した歪な形で理想の私を描くことになってしまう。私にルーシェル的な影響がどのように入り込み、どのように働いているのかを見届けられない限り罪や堕落性の本質に触れることもなく、み言葉の内容を生活とは距離を置く非現実的なものに捉え、救いも霊界も天国も外的感覚的なものとして捉えて自分にやって来ることを永遠に待ち続けている。それは空を仰いで再臨の主を待ち続けるクリスチャンと何ら変わらない。欲望がどのように個人中心的なものに踊らされてきたか、逆に欲望の熱を冷まさせることでどのように人間本来の欲望であるところの為に生き高次の精神へ向かう衝動を封鎖させたか、その問いの答えに本質はある。その本質的なものを霊的なものと言っていい。内的な火として燃えるものにルーシェル的な霊が働き、逆に火を冷まし消すものに神霊的な霊が働くと言うだけでは、神様が人間に霊を吹き込み個別的な魂の存在にさせた意味が見当たらない。肉食系のようなガツガツした自己中心的欲望を燃え立たせるのも、ルーシェルの仲間によるものかも知れないが、草食系のように夢や希望への強い向上心を見出せず、薄く静かにトロトロと弱火で通そうとするのも別の堕落的なものが関与している。

2011年11月2日水曜日

今日の想い 368

そこは彼女に取って完全な暗闇だった。地の上に立ってはいるけれど、何処からともなく機械音を響かせながら彼女の傍を通り過ぎていく得体の知れないモノたちに囲まれていた。彼女は、身体の向きをすばやく変えながら、握っているステッキで地を無闇に叩きつけていた。その異様さに怖気づいて誰も近寄ろうとはしない。時々両手を組み合わせて祈っている風にも思えるけれど、歪んだ口は呪うように何かを吐き捨てていた。私は車の流れに乗って一度はその場を通り過ぎた。運転する誰もが一瞥し、しかし誰もが素通りしていった。誰が見ても異様な彼女に関わろうとはしなかった。勿論手助けしようと思えば、片道三車線もあるこの大通りをはずれて一度住宅路に入り、一旦車を止めてその場所に向かわなければならない。そこまでの時間も心の余裕もないだろう。ポリスカーでも通り過ぎない限り、彼女は大きな交差点の真ん中に居続けることになる。敢えて通り過ぎて関わらない理由を私は見出せず、車をUターンさせた。ひょっとしたらとは思ったが、案の定状況は変わっていなかった。大通りの交差点を途中まで行って、恐らくそこで渡りきったと思い違いをしたらしく、混乱している様子だった。白いステッキを持っていたから目が不自由だというのは誰もがわかるけれど、しかしそのあまりの異様さが誰をも遠ざける。近寄って声をかけても、彼女の状況は以前と変わらなかい。相変わらずステッキを地に叩きつけ、訳の分からぬ事を口走っている。何処に行きたいのか尋ねても全く要領を得なかった。兎に角ここは危ないからと説得し渡りきらせるしかなかった。何とかなだめて説得しようと四苦八苦している内に、何故か祖父の顔が頭に浮かんだ。身体も精神も病んで看病する母を困らせた祖父の顔が浮かんだ。やっとのことで応じさせ、何とか渡りきらせたが、彼女はそのままステッキを叩きつけながら足早に去っていった。礼のひとつぐらい口にすべきだろうとは思ったが、私は自分の良心が納得したのを覚えて安堵した。人助けをしたようなしないような、お節介だったようなそうでもないような、キツネにつままれた様な不思議な体験だったけれど、この状況を見た以上行動せざるを得なかった。恭(うやうや)しく礼でもされたら感情は喜んだのかも知れないが、それによって敢えて何か考え学ぼうとはしないだろう。現にどういう意味があったのか今日一日考え続けている。やはり気になるのはその場で頭に浮かんだ祖父のことだった。そして祖父をしっかり看取った母のことだった。祖父は長く身体を病んでいたが、最後の頃には精神も病んでしまい、看病する母である実の娘を御前は誰なのかと罵り、訳のわからぬことを口にしながら母を困らせた。それでも母は祖父がどれだけ苦労したかをよく知っていたので、叩かれ罵られても、愚痴も言わずに下の世話から何から何まで世話して看病し続けた。祖父は確かに暗闇の中で恐れ佇んでいた。外界の認識を正しく受け取れず、暗闇の恐れから近寄る者に容赦なく牙を向けた。私が珍しく帰った時、祖父は私を見てひたすら笑い転げていた。その様子を母は見ながら、私にやっと会えて喜んでいるのだと告げた。母は祖父の背中を撫でながら、良かった良かったと祖父に言い続けていた。暫く見続けていた、あの足早に去って行った彼女の背中を、一日が終わった今でも祖父の面影と共に追っている。

2011年10月31日月曜日

OX哲学

神様は公的な神様だというのは異論はないだろう。では御父様は公的なお方だというのはどうだろう。御父様にも私的な面があるはずだから、全てに於いて公的なお方だと言えるのかどうか。事業の責任を持っていれば常に公的私的という判断を要求される。事業体を存続させる為には、従業員が何が公的なものであり何が私的なものなのかの理解をはっきりさせる必要がある。責任者の中に公的私的の概念が明瞭でないかぎり、従業員の公私の判断は曖昧なものとなる。それが物に関する限りは解りやすいのだが、時間に関してとなると曖昧さは増してくる。就労時間の間、会社にいれば公的に過したと言えるのか、肉体を動かして労働しなければ公的に過したとは言えないのか、意識が別のところに飛んでいて心ここにあらずでも体が動いていれば公的なのか、目に見えない領域で従業員の公私をはっきりさせることが責任者に問われることになる。責任者自身の公私についても同じで、マネージメントを任せられた責任者であれば公私の判断を自分にもしっかり充てがう必要がある。だがここでオーナーという問題がある。オーナーは彼の事業である限り事業存続に於ける公私の判断は必要なく、私の事業であって公的な事業ではないと言えるのかどうか。責任者や従業員に対して有無を言わさず自由勝手に処分できるのかどうか。それは多分にオーナー自身の公私に対する概念によるだろうし、その概念は企業哲学によるし、哲学は宗教性や道徳倫理性による。私達が公的私的ということを問題にする場合、神様のものなのか自分のものなのかという二極概念でそれを判断しがちだけれど、こと自分自身に関することだけならそれで事足りるのかも知れないが、自分を超えたところで判断を要求される場合、例えば親として子供に対する、或いは教会長として信者に対する、仕事の責任者として部下に対する判断を要求される場合、二極概念では曖昧すぎる。話されたみ言葉の中にこう言うのがある。--神様は公的な方である。しかし私的なことも考え得るが公的なことを考えた、その基盤内で私的なことを考えられる。公的な考えの圏内で自分をも考えるのが神様だ。-- これは二極概念の公的でなければ私的、私的でなければ公的というのとは異なっている。公的な中に私的なものが含まれると言っておられる。私的な中に公的なものがあるのではなく、あくまで公的なものが先ずあって私的なものが含まれると言うことだ。Oの中にXは幾らでも入るが、Xの中にOは入らないという、OX哲学がここにある。ここをはっきりさせると公的私的の概念が見えてくる。私と言う存在全ては公的であるべきで、その公的意識の圏内でこそ私的意識も芽生えるのであって、先ず私的意識ありきからは自分という存在は有り得ない。御父様の所有問題に対する非難も、曖昧な公私概念に悪神が付け入る隙を見せたから起こったのだと言うこともできる。

2011年10月30日日曜日

摂理について

偶然の連続のように流れてきた歴史も、摂理史観を通してみれば、そこには明らかに神様の意志が見て取れる。神様の意志と合わせてサタンの意志も神様に対抗する形で見出される。それは同時性に見る歴史の大きな流れにも言えるが、特にこの再臨時代である近代は、摂理史観によって御父様が詳細に説明される内容に対して疑問を挟む余地はない。御父様を批判する者にとって、その説明が、起こった事の後付けであることから、どのようにでも解釈の仕様があるだろうと懐疑しているが、宇宙を支配する別の原理原則を持ち出すなり発見するなりして、新たな史観によってしっかりと説明できてこそ批判も的を得たものとなるだろうが、批判だけで終始するのであれば口煩くケチをつけているだけだと思わざるを得ない。私という存在は、人類歴史の結果とも言えるし摂理の所産とも言える。私の知情意の活動にみる魂様相は、歴史の結果存在として自分に見ることができるが、摂理の所産としての私という言い方には、私の魂様相を紡ぎだしている原因的私、或いは霊的私に光を当てることで表されるところの私の表現の意味合いが含まれているようだ。摂理に貢献する私であり摂理の願いに応える私として、結果存在ではなく原因存在、創造存在として光を当てられている。天によって用意された摂理上の中心人物や聖人は、結果存在としてではなく、明らかに原因存在、創造存在としての位置で地上に送られた。普通の人間は特定の聖人に帰依することで、結果存在だけの生を原因存在的生に変えていると言うことが出来る。異なるその生の違いは天地の差であって、宗教の地上人間への関与は一般の宗教に対する人間の概念を遥かに超えている。ましてや摂理の中心の中心に位置しておられる御父様とひとつになると言うことは、御父様と共に天宙の創造活動を為していると言っても決して過言ではない。講論の後編をよく学び、近代の摂理史や御父様が語っておられる御父母様の路程を詳細に研究すれば、兄弟にどうして御父様に対する疑いが生じるのか、私は不思議でならない。

2011年10月28日金曜日

焦点を合わせておられる来るべき日

ラジオ放送のポッドキャストを聴いていて、今月の31日には世界人口が70億を超えると発表されたということだ。世界人口が10億を超えるのに二十万年かかり、40億から50億になるまで13年間、50億から60億に11年間と、特にここ100年余りで人口は爆発的に増えたことになる。しかし過去100年余りの間に二つの大戦を経験し、犠牲者も爆発的に増えたわけだ。第一次大戦で2600万、第二次大戦で5500万、そして朝鮮戦争で300万、ベトナム戦争で230万と、第一次大戦以前の10万、20万の犠牲者数からすると桁が違っている。戦争犠牲者の多くは若い青年達だ。本来なら70年、80年の生涯を送る力を備えながら、その力を費やすことなく霊界へ送られていった。若くして死を迎えるというのは、長寿を全うして死を迎えるのとは勝手が違う。若くして死を迎えると、本来人生を送る為の力を使えず、その余力を霊界に運び込むことになる。幼い子供や若い子供を霊界に送った経験がある親御さんなら理解されると思うけれど、年若く旅立った子供は肉体は無くても親御さんの近くに居る。近くに居て霊視や霊聴を起こさせる。無くなった子供が、その本来人生を送るはずの余力で、親の霊的感性を引き出している。その同じ霊的原理が、先の二つの大戦を始めとする戦争での若い犠牲者達にも当て嵌まる。青年で死の門を潜るので、幼くして逝った子供のように親に引っ付いていることはないが、人生を送る為の霊的余力を用いて地上人に働きかけ霊的感性を引き出す。戦争だけではなく地震や津波といった自然災害の犠牲者にもそれは当て嵌まるはずだ。莫大な犠牲者達の莫大な霊的力が、群れとなって厚く重なる巨大雲を霊界と地上界の境界で形成している。霊的雨となって降り注げば、条件が備わり内的霊的に受け取る器を用意した者は一変に霊的感性を開花させる。今か今かとその時を待ち構えているけれども、D-DAYと御父様が言われるその日こそ、大号令の轟く天宙的一日となるだろう。開闢時代という名に相応しい驚天動地の時代が訪れるはずだ。来年中にと指示されている210代の先祖解怨、先祖祝福も勿論それに合わせての準備に違いない。

2011年10月27日木曜日

不信

今までの自分の信仰観を裏切られるような事態に直面した時、信じていたものが音を立てて崩れる時、それをそのまま放っておいて、彷徨いながら何か別の信仰という島を探して取り付くことができるのだろうか。見たくもない汚ないものを見せられたからと言って、清いもの聖なるものとして捉えていた概念に当て嵌まらないと言って、では自分はそう言ってのけることができるほど、清く正しくも住み良い霊界を背負っているのだろうか。人は大きな石には躓かないが小さな石には躓くと言う。しかしこれは大きな石、それも躓くどころか前を遮る岩だと言う。これは大きな岩でこの岩を取り除かなければ前に進めないと思うのかも知れないが、実はこの岩の上に自分が立っているということを見落としている。抱えた罪は軽く、自分は十分に空を飛べるから必要ないと言うなら、わざわざこの岩を存在基盤に置いてきたのは何だったのか。たとえ生命を預けたとしても救いに与りたいと思ったからではないのか。それともたまたま羽を休めるために見出した宿り木がその岩の上にあっただけで、もともと罪の自覚もなく救いの必要性も無かったのか。純粋で全てを信じる兄弟とは言ってもやはり現代人であり、時代の流れで培ってきた悟性が働き、それぞれの善悪判断、道徳的判断を供えている。その悟性が如何なる場合でも判断ツールとして働くと思っているから足を払われる。自分の悟性による判断を地上での事柄に充てるなら、正しく悟性を働かせていると言えるかも知れないが、私の望んでいる救いが心魂の救いのみならず霊の救いを問題にするときに、悟性の光それだけでは正しく作用はしない。メシヤ初臨のときに、弟子達がどのように不信に落ちて行ったかを、深い感性を総動員して訪ねてみる必要がある。聖書に記された話を追っただけでは見届けることができない、弟子達の目にどのようにイエス様が写って行ったのか、イエス様のどんな行動に彼らの悟性が引っ掛かって行ったのかを想像をフル稼働して検証してみる必要がある。彼らの悟性とは当時の律法に沿った慣習であり道徳だ。イエス様は当時の慣習や道徳の囲いを外して行動していた為に、勿論律法学者達はその噂故にハナから信じてはいなかったが、特に信頼を置いていたユダが心情的に離れていった経緯、或いはその他の弟子達のイエス様に対する心の揺れ、などを追っていけば、当時の悟性と現代の悟性の差はあったとしても、弟子達と同じ種類の内的経緯や心の揺れを今の統一食口の内面にも見ることができるだろう。その意味でも歴史は繰り返される。当時の弟子達の非を軽々しく指摘できない、ましてや非難などできようもない私たちだ。使徒達の霊を呼び出し懇願してでも、この再臨のときに同じ過ちを繰り返さぬよう協助を願い出るべきだ。

2011年10月26日水曜日

秋空

パステルブルーに薄雲の乳白色を広げた空は、陽の光を柔らかく地上に反射させ、乾いて何処までも透き通った大気に秋の光は踊っている。暫く曇り空が続き、秋の色付きもくすんでいて、どこか今年の秋は気落ちして物悲しく思えたけれど、秋の陽を受けると途端にその表情を変え、季節の花々に負けない鮮やかさをどの木々も装っている。この木々に負けない美しさを差出そうとしても、私の精神は未だ純化されずに鈍い光を醸し出すに過ぎない。このように、日頃は何食わぬ顔で恥ずかしげもなく胸を張って生きているけれど、堕落して万物にも劣った人間だと思わされる瞬間がたまにある。自然に対して感嘆の声を漏らすと同時に、自分に対しては低次の精神を改めて確認させられる。畏敬の気分に覆われてくると、日頃は空気のようで感じられない愛の姿が見えてくる。光の中に愛が見え、大気の中に愛が香る。あらゆる被造物の中に愛が生き生きと捉えられる。多様な様相の様々な愛が地上を満たし、宇宙を満たしている。愛が満ちるその中に佇む私は恥ずかしくて消え入りそうだ。誇らしく愛の存在でありたいのに、私が偽りの存在であることは疑いようがないからだ。人は愛を語りながら、しかし愛を知らずにいる。受けたことのない愛は、授ける行為だけは見届けられるけれど愛の実質は受け取れない。御父様が犠牲に次ぐ犠牲を払われながら愛してこられたけれども、愛の何かを知らない者はその実質を受け取れずにいる。イエス様が、「主よ、彼らをお許しください。彼らは何も知らないのです。」と神様に取り為されたように、御父様は私達に対してもそのようにされておられる。愛を受け取れずにいる私達に問題があるのに、あれも差し出せこれも差し出せと、さも取り上げて当然のように御父様に対している。御父様の犠牲の上に胡坐をかきながら、それなのに御父様を批難するのであれば、犠牲の上に成り立つ私と言う存在に気付いた時に負債の炎で身を包まざるを得ないだろう。乾いて透き通ったこの秋の大気のように、兄弟達の中にある不信の思いが取り払われて、御父様の愛の実質が受け取れるように。

2011年10月25日火曜日

霊の認識をもたなければ何も解決しない

疑問が生じるなら祈ればいい。祈って私の中におられる神様に尋ねてみればいい。しかし本当の祈りを捧げたことがないし知らずにいる。祈りの境地を体験したこともないのに、今の拙い自分のものさしを宛がおうとし、結局それでは応じきれずにいろんな問題に翻弄される。翻弄される間はどこまでも翻弄される。自分が壊れるまで翻弄される。しかし壊れるまでの過程の何処かで本心が働き始めるはずだ。一方で翻弄されながらも実は甘えが私の中のどこかにある。甘えがあって、それが翻弄される自分をそのままにしている。自分の中に、自分は壊れるという危機意識がもたげてきて始めて、甘えを断念し、本心を稼動させ始める。危機感を覚えて人は本当の祈りへと入っていく。その境地でしか神様に会うことはできない。甘えが居座っている間は神様とサタンの間を揺れ動き、心は定まることはない。いろんな立場を取る兄弟がいる。み言葉を聞いても祝福を受けても、ありとあらゆる立場の兄弟がいるのに、原理非原理と線を引いて天国と地獄を分けることなどできないことは誰にでも分かる。自分なりの基準を設けて、外的なことに関する問題や、起こる事柄をああだこうだと言っている間は、甘えがあるし翻弄されるのを許している。私と言う霊界を意識し、私の終末を実感している者は、そんな余裕はさらさらない。しがみ付くようにみ言葉に求め、起きていようが寝ていようが私の中に中に下っていって、すがりつくように神様に尋ねざるを得ないだろう。御父様に帰依せざるを得ないだろう。御父様に距離を置いても安心しておられるのは、未だ自分の霊界に下ったことがないからだ。心魂の世界は実感できる感性を備えているけれど、霊界を知らないし心魂の世界を霊界だと思い込んでいる。原理は科学的論理的に解明されているけれど、その認識は霊的で心情的なものとならなければ、神様の認識も霊界の認識も唯物的な概念、即ち幻想から離れることはない。

2011年10月24日月曜日

秋の情景

秋が深まってくると浮かび上がってくる情景がたくさんある。後から後から浮かんでは上重ねされていく。しかし、どの情景も遠い子供の頃の情景だ。遠い過去の情景から最近の情景まで追っていくと、季節感とは一切関わりのない期間がある。献身してから日本を飛び出すまでの二十年間の歩みだ。この間の記憶に季節感と言えるような情緒的なものは見当たらない。せめて言うなら暑い寒いくらいのものだろう。その頃私がどれだけ余裕のない歩みをして来たかが伺える。秋の刈入れの田舎道を、重い弾(たま)を両手に提げて歩いたはずだ。高く鰯雲がたなびく秋の空の下を、帯同しながら家々を訪ね歩いたはずだ。しかし私の中に秋の匂いに包まれた当時の記憶は見当たらない。涙で祈祷する姉妹の姿は覚えているし、厳しく追及するキャプテンの憎々しい顔は覚えているけれども、母性溢れるそれぞれの季節の、自然の懐に抱かれた記憶がない。今、目の前の深まっていく秋の景色に心を委ねると、ここがふるさとから離れたアメリカの地であることなど忘れてしまい、遠い昔からの長く深く暗い眠りからやっと醒めたように、子供の頃の情景をそのまま目の前に見ているようだ。人生の折り返しを迎えると言うけれど、確かに折り返して、来た道と同じ情景を逆に遡って見ているのかもしれない。昔どこかで見た光景と、その時の気分がそのまま目の前に再現されているのだろうか。そんな人生の不思議を考えながらも、この秋も次第に深まっていく。今年は長雨が続いて早々と散ってしまい、去年程の色付きを全体には見れないけれども、それでも雨風に耐え抜いて残った葉の色合いは、より深く、より鮮やかだ。濡れ落ちていった葉の分までもという想いがその深い色合いに込められているのかも知れない。

2011年10月23日日曜日

兄弟の人間性への配慮を考える

人間性を否定され、人間的な扱いを受けなかった。拉致被害を被りその声を外部に向けているけれども、厳しい摂理の要求に応える過程でそうなってしまった内部に向けるのとでは、それは同じように扱われるべきだろうか。外部に向けて発することでは摂理の要求に応えようとする意志が見えるけれども、内部に向けられるものからはそれが見えない。内部へ向けて指をさすのは摂理を後ずさりさせているようだ。私がその声を発するのであれば内部しかないのだが、内部に対してそれを叫んで気持ちよく納得する良心を、私は持っていない。声を発すのであればその時その場であるべきだったと思うし、私の場合そのとき声を発しなかったのは信仰ではなく恐れからだ。何があっても離れまいとしたのは信仰だけれども、言うべきことに声を発しなかったのは恐れからだ。全体行動の中でひとりひとりの人間性への配慮は欠けるだろうし、それでも付いてこれる力を当時の摂理では要求されていた。自己否定という意味の本質を理解するために敢えて人間性も否定され、誤解されて受け取られていたけれどもその過程で自己否定の本質を受け取ることができた。私も、見限った兄弟達のように心の表面では様々な恨みが残っているけれども、心魂の奥の部分では感謝している。と言うのは苦痛であれ悲しみであれ、人間性も否定されながら味わった心魂の土壌に真の愛が芽生えているのを感じるからだ。日本のアベルカインは間違っていると当時指摘されたけれども、間違ったアベルカインを宛がわれ悶々とする中でアベルカインの本質を受け取ることができた。私が受け取ったみ言葉は、牛のようにその都度その都度反芻(はんすう)されながら、み言葉の本質に限りなく近いものとして受け取ろうとしている。今あるみ言葉への理解が完全だと思うべきではないし、ましてや不完全な理解で御父様や教会を量るべきではない。人生に於いては理解しがたいことばかりの連続であると言うならば、み旨の道では尚更だろう。過去がそうであったようにこれからもそうだ。御父様の意図を全て汲み取って歩むことなど不可能に近いが、しかしそうする努力は必要であって、受けた心魂の傷ばかりに意識を奪われ今の判断基準と御父様から離れた位置で、自分の安息圏が訪れるとはとても思えない。

2011年10月22日土曜日

今日の想い 367

耳に心地よいことばかりを報告するなら、確かに耳は喜ぶのかも知れない。御父様の一部でもある御父様の耳だけ喜ばせれば御父様を喜ばしたことになる、そう思っている。報告には正確さを要求されるのでなければ報告の意味がないと思うのだが、中心への恐れから報告は耳に心地よいように粉飾される。そのように祈祷報告に於いても私を偽り粉飾することで私の霊界は偽りの幻想で膨らまされていく。御父様の公的路程は大会のひとつひとつを経て超えられながら布石を打ち続けてこられた路程だ。布石を打ち続けるその先に見ておられる目標地点がある。御父様には見えていても、無知な者にとってはその目標地点は見通せない。それどころかこの大会の次の布石をどこに打たれようとされておられるのかさえ見通せない。会場も満たすことだけを至上命令として受け取りながら、その都度回せる兄弟を目一杯動員しながら、そうやってひとつひとつの大会を乗り越えて行ったと思っている。御父様が捉える大会の内的霊的意味を、本当の意味で分かっている者が何人いるだろうか。私のように訳も分からず、付いて行くのが精一杯の兄弟も多いはずだ。周囲の環境を整え、整地して土台を築き、柱のひとつひとつまでも立てられ垂木も組み入れられて、そうして一戸の家が立つように、過去の数え切れない大会の内的霊的勝利基台は、御父様の中では創造理想の天宙という家を築く土台であり柱であると捉える事ができる。そのブループリントを見通せる目も力量もない者が手となり足となるなら、御父様の願いからずれた認識として多くの間違いを侵して来たかも知れない。大会のその都度、良かった良かった勝利したと喜ぶけれど、次の布石を見通す配慮もなくてその大会で完結したかのように喜ぶだけなら、その先を見通せずに大会を重ねる毎に疲れてくるのは当然だろう。大会や宣布式として布石を打たれる毎に、私の中の内的霊的に培われ築かれるものを確認すべきだった。今その気付きを得たのなら、過去の大会や宣布式のみ言葉を読み返しながら、私の内面にどう布石が打たれているのかを見通し、御父様との距離を縮めて行くべきだ。祝福家庭だとおだてられ、背負われてでも同じ摂理の景色を見させて戴いた時代は過ぎ去った。今は払い落とし、突き落としてでも付いてくるのかを試されている。大会や修練会、そして宣布式。その内的な関係性を私に見出そうとすることで、同じ勝利圏に参与させて戴き、疲れることなく次なる布石に精誠を供えることができる。傍観者ではない今の摂理と共にある兄弟姉妹は、意識無意識に関わらず内面の布石を捉えようとして必死でしがみ付いているはずだ。最後のラストスパートとして、地上天国実現へのマイルストーンを、御父様と共に打ち立てている。耳に心地よい報告でその場を凌いだとしても、布石を打てない私の内面は誤魔化せない。

仏教とキリスト教

仏陀が菩提樹の下で開いた悟りは仏教語で涅槃の境地と言い、生(存在)への執着を完全に捨てきったとき安らかなその境地に入ることができると言うものだ。人間という存在は、生きる上で悩み老いることで悩み、病に悩み死の訪れに悩む。現世の地獄に降りる為にわざわざ受肉したのは、欲世界である地上生への渇望、執着がその根本原因であると説く。要するに仏陀は地上に受肉した人間は既に我欲存在であり、我欲存在でなければ地上への受肉を果たしてはいないと捉えており、生への執着を完全に捨てれば地上に受肉する必要もないし、したいとも思わない。地上が欲を満たす世界であって地上人間が我欲存在であることは変えようもない事実だという足場から出発している仏教に対して、キリスト教の足場は人間が欲の存在であることはそうだとしても、人間本来の欲は清く尊いものであり、しかし悪が入り込むことで自己中心の欲に変貌したと言うスタンスで出発している。一概に言うと非難されるが、基本的に、仏教が悪から逃げる受動的な教えに対して、キリスト教は悪に戦いを挑む能動的な教えに立っている。立ち位置の問題であって、どちらが正しくどちらが間違っているとは言えない。仏教の立場だと輪廻(再受肉)は自ずと認められるけれど、キリスト教の能動的立場から輪廻を大っぴらに肯定することはできない。逆にキリスト教は救世主の必要性を自ずと認め再臨主の到来を待っているけれど、仏教にはその存在を待ち焦がれる意志は見出しにくい。仏教が地上人間はもともと我欲の存在であるのに対して、キリスト教は地上人間が堕落したことで罪の存在になったと説く。仏教は人間を超えた存在になることを願い、キリスト教は人間の中にある罪を清められ人間本来の存在になることを願う。統一の信仰に於いても、受動的な意識に留まるなら仏教霊界により近く、能動的な意識に変わるならキリスト教霊界により近くなる。繰り返すけれど、どちらが正しいだとか間違っているだとかではなく、受動的な意識も能動的な意識も必要とされる。しかし敢えて言うなら、日本食口は受動的な意識、受動的な信仰に傾きやすい。静の愛だけが愛ではなく、動の愛が必要とされる。

2011年10月21日金曜日

侍る姿勢

今のアメリカの事業体は内部問題をもろに被って、組織も組織に所属する個人も決して健康的な状態ではない。今の部署は書類上の繋がりはないから自分は部外者と言えないこともないが、かつて組織の意識圏内に属していた立場で今は関係ありませんとは言えない。いや部外者であればこそ、所属して内部からは見えないこともできないことも、外部からの働きかけでできる可能性はある。その外的な内容に関しては触れることはできないが、今は部外者と言う立場であってもこの事業体と共にアメリカでの年数を重ねてきた訳で、多大な内外の恩恵に与った恩を忘れずに働きかけていくべきだ。組織であるから特に中心者からの影響と恩恵は大きかった。何度か入れ替わりがあった中でも或るひとりの中心者に対して私は深く尊敬していた。それぞれの中心者にはそれぞれの持ち味があったけれど、初めて韓国人として立たれたこの中心者は、所属する多くが日本人であるこの組織に旋風を巻き起こし新たな息吹を吹き込まれた。会議の席で激しい感情が口に出たり、右に左に翻弄されることも多々あったが、そのみ旨に対する真摯な姿勢に傲慢な私も自然と頭が下がった。底辺の現場への想いも深く、その染み出るような心情に熱いものが込み上げてきたのは私ひとりではないはずだ。特筆すべきは御父様に対されるときの姿勢だ。殆どの責任者は御父様に指示を出されたとき、本人が納得いくいかないは別として早々に受けて引き下がるが、この中心者は違った。相手が御父様であろうとも納得がいくまで食い下がり、お互いが口角泡を飛ばすという場面もあった。この中心者から本当の侍る姿勢とは何かを教わった。或る時、御食事の要請があり食事の席に御父様とこの責任者がおられた。御父様に敬拝を捧げて引こうとすると呼び止められ、御父様の前で厳しく咎められた。提供に粗相があったのかと思ったが、そうではなくて挨拶に言葉が少ないのを責めておられる様子だった。口を開くのさえ畏れ多いと思っていたからなるべく目立たず近寄らずという思いがあった。しかし指摘されて気付いたのは、確かに御父様と口にする以上僕ではなく子供の立場であって、親に接するのに逃げるようにして挨拶を捧げるのは非礼でもある。敢えて御父様の前で咎めながら、しかししっかりと店の歩みも紹介していただいて、御父様の顔も立てながら私を御父様に橋渡しもして下さった。弁も立って知恵も回り、上背もあって顔立ちも良く、この方の全てを相続したいと心の底から思わされた。

2011年10月20日木曜日

主の日は盗人のように襲って来る

しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。(ペテロ第二、3:10)
普通に考えれば矛盾している。盗人のようにそっと襲って来るのに、その日の情景描写はあまりにも派手すぎる。足を忍ばせて来た意味がないだろうと言うことだ。しかし聖書全般に言えるように、言葉の表面的輪郭のみを見て、その言葉の背後の本質に触れることがないなら、聖書に触れたと言うことにはならない。信じて意志する者のみが、輪郭だけを追う者には隠されているみ言葉の本質を受け取ることができる。内的霊的な変化や変革といったものは、この聖句が語っているように盗人のように襲って来る。それは置かれている環境や関わり合っている存在も含めて、それらは私の対象圏にあるにも関わらず、変えることができない環境圏があって私があると捉え、対象圏を主体に置いているからだ。対象圏に対する主体は他の誰でもないこの私だ。先ずここをはっきりさせなければ私は正しく対象圏に対することはできない。環境が変わるのを待ち、関わる人が変わるのを待っている限り、私の中の変化や変革に気付くことは先ずない。敢えて簡単に言うなら、サタンがいてサタンが支配する環境圏が用意されて私がいるのではなく、神様が私に働き真理に浸透された私が環境圏を変えていく。前者は堕落した位置の私であり、後者は復帰する位置の私だ。この内面に於ける主体性を取り戻そうと意志したとき、私は目覚めた存在としてみ言葉の本質を受け取る器を用意している。そして内的霊的にみ言葉は働きかけ、内的霊的な変化や変革を見逃すことはない。

2011年10月18日火曜日

選ばれた群れとして

神様に選ばれた私だという感覚を、統一の食口であるなら誰でも持っているだろう。それは或る面から言えば正しく作用し、また異なる面から言えば自分の認識に誤解を生みかねない。み言葉の理解は中途半端で、御父様への想いは未だ熱いとは言えなかったまでも、それでもこの困難な道のりを歩んできた群れに貫かれていたことは、撰ばれし群れであり私だという誇りであり使命感だ。組織という城を堅固に聳え立たせ、カリスマ的中心を頭に戴き、組織の細胞として動じ静することだけに没頭する為に、誇りと使命は重んぜられた。それが間違っていたとは言えない。しかし少なからず置いていかなければならなくなった身に着けるべきことを、今遺恨として重く抱えている。それは外的な事柄だけではなく、それ以上に私達の内的な意識下に刻んでしまった霊の傷跡の方が深刻だ。内部の衝突や、敢えて外部に出て行った位置で攻撃する兄弟や、それは私の内面の投影であるとも言え、食口誰しもが多かれ少なかれ意識無意識に抱えている恨みでもある。選ばれた私だと信じて全てを捧げてきたけれども、それに見合うものを受け取っていない、それどころが捨てられ忘れ去られているという恨みだ。御父様はワシントンタイムズを取り戻されたとき、共産主義の手から奪取したという言い方をされた。共産主義はその思想の根底に、神は死んだという、信仰を捧げた見返りを受け取れずに逆に奪われてしまったという恨みがある。要するに恨みがこの事態を引き起こしたということだ。私達は内的柱として頼ってきた選ばれたという意識を、次元を上げた意識に変えなければならない。愛の減少感から恨みを抱くのではなく、愛の減少感をより高みに羽ばたく推進力としなければならない。み言葉の真意を受け取ろうとしてこそ見えてくるものがある。ある面兄弟が燃えていた時代、み言葉がわからなくても誇りと使命感で走れた。しかしそこに留まることが御父様の願いではない。より高みに羽ばたくためにも、今こそみ言葉の深みを掘り下げていかなければならない。深みを掘り下げて、新たな内的柱を用意しなければならない。

2011年10月17日月曜日

夫婦として輝く

店から帰ってアパートの部屋のドアを開けるとき、ワンクッション置くのが習慣になった。部屋に入れば店の書類の箱が山積みされていて、その奥のソファーに毛布に包まった妻が転寝(うたたね)している。私がこのドアを開ければ彼女は条件反射のように体を起こし、帰ってきた私に声をかける。病に臥すことなど想像も出来なかった状態から、あるとき急に体調の悪化を訴え日毎に悪化して体が壊れていく妻の様子を見せられてしまうと、日常を普通に送れる彼女がドアの向こうにいるという、ただそれだけのことが嬉しい。嬉しいけれどもその感情の中に、神様から念を押されることがある。ドアを開けてもそこに彼女を見ない情景を、あるとき必然として迎えなければならないことを、、。だからドアを開けて彼女を確認できたとき、今日もまたそこにいてくれたことに安堵して感謝し、しみじみと嬉しさが込み上げてくる。何事にも動ぜず、辛酸を嘗め尽くした観のある彼女の魂と、いつもびくびくしながら、初めて地上を体験するかのような私の魂。その違いの印象は、年齢差からくるものとは関係のない、お互いの背後の違いにある。もし彼女が背負わなければならないものを私が背負うとするならば、私は一瞬で音を上げてしまうだろう。どれだけ痛みが押し寄せてこようと引き受けて耐えて音を上げることもなければ、しかしその魂が神様に委ねて救いを求めることもない。妻が私を必要とする理由を、そして私が妻を必要とする理由を、今日まで関わり合って来て私は魂の領域で理解している。御父様によるめぐり合わせの妙味は、時を重ねれば重ねるほど味わい深いものがある。夫婦の感情を、その表面的なことだけに関わって紡(つむ)ごうとするなら好きだ嫌いだに終始するけれども、心魂の深みに関わって紡ぎだそうとする感情は家庭を大きく包み、社会や世界までも包み得るものとなる。連れ合いの下の世話をすることになっても、ボケが始まって表面的には関係性を変えることになっても、紡がれた夫婦の深い感情はその環境を越えて余りある。どちらかが先に骨を拾い拾われるその時でも、悲しさ寂しさを超えて余りある二人の感情の一体圏は永遠だ。

幸せを考える

幸せですかと問われて幸せですと答えられるだろうか。それだけではなく、更に幸せになりたいと目を輝かす私となっているだろうか。不平不満を抱かない兄弟はそれはそれで賛美に値するけれども、裏を返せば欲がない、更なる高みへの追及欲がないとも言える。人間は愛の減少感を感じて当然、いや感じるべきであって、だからこそ不平不満を覚えもする。最初から不平不満を抱かないことが褒められることではなく、不平不満を消化して、より高みに向かう推進力に変えてこそ褒められるべきだ。何の不平不満もなく今がとても幸せだという気分に包まれることで、私の人生は良好で神様に感謝もしていると思っているけれど、それは体の良い個人主義だと思わされることはないだろうか。欲が否定されるのはその欲が低次元に留まっているからであって、低次に向かう欲を高次に向かわせるべきで、欲を抑え込んで否定して終わるなら、その信仰は私が高みに羽ばたく精神の存在ではなく石になることを願っていると言うことだ。俗に言うところの幸せは、家庭の平安であり健康であり、満足な生活でありと言うようなイメージがあるが、それは表面的なものであって輪郭に過ぎない。輪郭に惑わされて幻想を追い求めていると、幸せの内容はもぬけの空だったと思い知るときがくる。み言葉だ御父様だと、真理を知り正しく御父様に出会うことも出来たと思っているけれど、我知らず都合よくみ言葉や御父様を利用しているだけなのかも知れない。私が思うところの幸せありきで、その私に合わせて納得させているだけで、正しく対象の位置でひとつになろうとはしていないのかも知れない。或る意味、御父様の要求はすさまじい。小さな幸せを抱く位置で満足したいのに、更なる犠牲を要求される。その意味は更なる欲を、天宙を欲するほどの高次の欲を持てということでもある。私が思う幸せの概念は打ち砕かれ、この家庭を犠牲にしても氏族を救い、国を立て、世界をも欲する、その過程や行動の中に幸せという概念は見出すものなのかも知れない。

2011年10月14日金曜日

世界経済について

1929年の秋、NY証券取引所で大暴落が起こり世界は恐慌へと突入した。紙幣は兌換(金に交換できる)だからこそ紙幣の価値があり価値の基準となるのであって、金の保有量を無視して好きなだけ政府が紙幣を刷ることなど考えもしなかったことだ。しかし膨張する経済にとって、この金本位制が足枷になる。金の保有量と紙幣をリンクさせる限られた資本だけではこの経済膨張に追いつかず、結果として流通は滞る。流通が滞れば仕事もなくなり失業率は天井知らずとなっていった。資本、労働、流通の循環が上手く回っていればこそ経済はなりたつし、経済循環が発展的スパイラルを描かなければ社会は経済の享受を得ることが出来ない。金本位制をやめて、円滑な循環を回らせ、経済成長のために国が自在に調整できるようにしたのが今のしくみだ。経済は昔も今も同じお金の遣り取りで表面的には変わっていないようでも、金がお金の背後価値だったものから国力がお金の背後価値、そして今は国を飛び越えて信用そのものがその背後価値となっている。ドルが基軸通貨になっているけれど実情は共通の通貨単位として用いられているに過ぎないのであって、アメリカがいくらでも輪転機を回せるアメリカのドルという意味合いは殆どなくなっている。国力が背後価値にあった当時はアメリカが自在に調整できたけれども、今はアメリカがドルの通貨量を増やせば途端にドルは売られて、血管に整理食塩水を大量に流し込むようにドル安が顕著になる。信用が膨らみすぎて、一国のGDPを遥かに超える通貨の流れが地球の表面を席巻している状況では、国の調整は不可能と言っていいだろう。FXに手を付けた者ならわかるが、個人ですら証拠金の25倍以上の為替の先物取引ができる世の中だ。巨大ファンドの先物取引で膨らみすぎてしまった信用をコントロールすることは不可能で、この地球をスッポリ包んでいる信用バブルがいつ破裂するのか戦々恐々としている状況だ。ギリシャや南欧の国々の破綻が心配されているけれど、その国やユーロ圏に留められて終息することなどありえない。地球規模のバブルが弾けることは既に確定されている。しかしそれでこそ新生経済が始動すると見てはいるが、リーマンショックが軽いジョブだったと思えるほどノックアウト級の打撃を遠からず迎えることになる。

2011年10月13日木曜日

妻との一こま

坂になっていると言われてそうかなと思うくらいで、殆ど平地に近い。月に一度の妻の血液検査の為に、ボルティモアのダウンタウンにあるメディカルセンターに行ってきた。パーキングのビルから採血オフィスまでは少し歩く。その短い傾斜のある道のりが彼女にはどうも苦痛らしい。強度の慢性貧血の為、上り坂だとか上りの階段とかとなると途端に足が重くなる。なるべく妻に歩調を合わせて配慮を見せようと努力しているつもりだけれど、あまりのカタツムリ歩行についつい言わなくていいことまで口にしてしまう。向かいから手押し車によっかかって足を進めている小柄な老婦人を見ながら、あれが必要だなと小声で言ってしまった。口にして即座に後悔した。案の定、妻はその言葉には敢えて反応を示さず、黙ったままだ。一瞬に垣間見た横顔が強張っているように見える。採血を終えるのを待ってオフィスを出ると、妻より先に歩を進めた。幾らか負債はあったが、こんな状況で並んで歩くのはやはり苦痛だった。しかしそのとき、彼女は予期しない行動を取った。駆け寄ってきて私の腕を掴むと、これくらいなら着いて歩けると、快活な声を背中にかけてきた。不意を突かれた驚きに戸惑いながらも、やはりありがたかった。自分に非があることは十分わかっていて、それでも謝らないだろうから暫く口をきかないことも覚悟していた。いつもは気恥ずかしくて手でも繋いでこようものなら即座に払うけれど、駐車場までの短い距離を腕を組んだように歩いた。その間、道行く人たちの視線が集中しているようで、不覚にも私の顔は上気してしまった。短い距離が随分長く感じられた。今の時世、アメリカのみならず日本だって老いも若きも腕ぐらい組んで歩くだろう。別に珍しくも何ともない。しかし自分がとなると、明治から平成の空間へ突然時間移動したようにうろたえた。私に取って一大変革の趣があった。誰にも言えず抱え込んでいた罪を告白したときのように、異なる空気を呼吸しているような新鮮な気持ちと、消え入りたい気持ちとが混在する不思議な空間だった。今にも降りそうな空模様なのに、何故かその空間は晴れ渡っていて、あの祝福式の、妻が手を私の腕に添えた時の空間と重複した。素直でない私はそれでも妻に一言いわずにはいられない。いい年して恥ずかしいだろう。

2011年10月11日火曜日

自由と平等

自由主義であり民主主義のひとつの弊害は、自由の意味の履き違えであり平等の履き違えだ。自由には責任が伴い責任のない自由はない。平等には義務が伴い義務のない平等はない。責任を取りたくないのならそれ相応の自由は放棄すべきであり、義務を回避するのならそれ相応の階級に下げられるべきだ。私達は自由と平等を当然のように社会に求めるけれど、負わねばならない責任と義務を考慮して求めるのではなく甘い部分だけを求めているのであって、その弊害は個人本人にも及び社会にも及んでいる。その利己主義的な自由意識、平等意識が、私達の内部にも侵入していることを無視すべきではないだろう。利己主義的な自由意識、平等意識と私達のあるべき絶対信仰、絶対愛、絶対服従とは相容れない。慣れ親しんでいる過去の自由平等概念を砕かなかったら、御父様と共にあって同じ道を進むことはできないだろう。再臨主だと言いながら、真の父母だと言いながら、進む角度を変えて違う世界を標榜しているかも知れない。我知らずみ言葉の解釈を都合よく変え、み言葉に一貫性がないことを指摘し、さらには自分が高い見渡せる位置にでも立ったかのように批判し始める。批判する自分こそを検証し悔い改めるべきなのに、自分を棚に上げ、自分の内面を照らす光を用意すべきなのに専ら批判の光を対象に向けている。外的社会は先んじて自由と平等の為の枠組みだけは用意されてはいるけれど、未だに抜け殻の自由と平等に占められている。内的主体であるべき我々に於いても、履き違えた偽りの自由と平等がいつのまにか闊歩し、責任を引き受け義務を全うする意志さえも陰っている。私達の自由と言えるものは信仰の自由、即ち神様を求め真の父母を求める自由だけであり、それぞれの心情の段階は異なるのであって御父様までの位階は厳然として存在するし、兄弟姉妹横一列で平等だとは言えない。ましてや自分の心情段階も把握できずに真の家庭をどうこう言い、誰それ構わず好きな事を言うのであれば、真の父母を口にするかつて存在しない別の悪魔が誕生したと言うことになる。

2011年10月9日日曜日

万物主管を考える

今日も目の前にこの肉体生命を維持する食物がある。それは自然の恵みとして被造万物から私に与えられたもの、それは万物の愛として私に流れてきたものだ。目の前には食物の他にお金がある。お金それ自体は食物ではないのでそのまま口にすることはできない。しかしお金は食物に交換できる。衣服や住まいの快適さにも交換できる。お金は人間の社会的生命を維持するために消費される。お金は社会の恵みとして私に与えられたもの、社会の愛として私に流れてきたものだ。しかし食物もお金も、肉体生命や社会的生命の外的な関わりだけに留められるなら、愛として流れてきたものに報いてはいない。食物やお金が声を発するのを聞いたことがあるだろうか。断食して食物のありがたさを痛切に感じて戴く断食明けの食物は声を発する。商売でもしてお金に対する苦労をとことん味わうと、お金が声を発するのを聞く。その声を聞けないうちは、私は食物やお金に対して外的な関わりだけに留めている。万物を心魂領域に関わらせ、さらに霊的なものに昇華させてこそ、万物は報われる。そのために私は万物にどう関わっていったらいいのかを問い続けなければならないし、学び続けなければならない。万物主管とは万物を外的なものから霊的な高みに届けることをいうのだと私は思っている。ことお金に関して言えば、いろんな人間の手を経ていろんな使われ方をして私の手元に届いている。受け取ると同時に明らかに恨みなどの堕落的な心魂要素にも関わろうとしている。このお金を開放するも貶めるも心魂存在である私にかかっている。発展させて用いる霊的感性を、知りもしない遥か彼方の次元に役立てようとするのではなく、手にして関わるものの本質を見届ける為に使われないなら、霊的存在である私が肉体を戴いて地上生活する意味は半減する。御父様から直接にお小遣いを戴いた兄弟であれば知っていることだけれど、御父様はピン札しか持っておられない。勿論、直接に金銭を受け取られることもない。愛は与えても情はかけないと言う、お父様の話された何かのみ言葉にあったのを覚えているけれど、流れて訪ねてきたお金にも御父様の立場で情をかければ霊的に複雑なことになるのだろう。お金には堕落人間に関わるのと同じ恐ろしさがある。食物をテーブルいっぱいに並べて好きなだけ食べなさいと言われれば食べるとしても、お金をテーブルの上に盛って好きなだけ取りなさいと言われて取る訳にはいかない。

2011年10月8日土曜日

今日の想い 366

私達が愛という言葉を想起したり口にするとき、世俗化され使いまわされた愛へのイメージが邪魔をして、イエス様が口にされる愛というイメージや御父様が口にされる真の愛としての愛のイメージへと到達できずに、愛ではないものまでも愛と呼んで受け入れてはいないだろうか。聖書も今でこそ愛と訳されてはいるが、キリシタン時代には愛と訳された箇所は御大切と訳されていた。愛という響きに欲に絡むものや感覚的なものへの衝動も受け取る多くの日本人にとっては、御大切という言葉の響きのほうがよりイエス様の愛に近いと思う。み言葉のなかに真の愛と言う言葉はそこかしこに出てくるが、真の愛という言葉は偽りの愛を踏まえて表象されたものだろうし、私の中で偽りの愛と真の愛をはっきり分別しなければならない。偽りの愛は自己を中心としたものであり、真の愛は自己を犠牲とし他の為に生きる愛だ。私達は御父様から内的霊的に多くの恵みを戴いてきた。私達はその恵みを真の愛で愛する力、為に生きる力に変えなければならない。しかし恵みを戴いて私に留めるなら、私は正しく為に生きる力として恵みを受け取ってはいないし、結果私はその恵みを実感することはないだろう。愛すれば愛するほど、為に生きれば為に生きるほど、より愛さなければならないより為に生きなければならないと言う、愛の負い目を覚える。愛の負い目が深ければ深いほど、そのマイナスに対してプラスである本人の受け取る愛も、愛する力もますます増加する。祝福を戴いたのはより為に生きる為であり、より為に生きてこそ祝福はその無限の価値を発揮する。残した結果を眺めて満足するのではなく、私の中の為に生きる力の増大するのを覚えて喜びとする者となる。

2011年10月7日金曜日

双十節


先日、同僚に誘われて双十節の記念パーティーに行ってきた。中華民国の建国記念で、旧駐米大使公邸のツインオークエステートという、中華民国にとっては歴史的建物の敷地内で、十数名の下院議員や駐米華僑三千人余りが招待されて行われた。双十節は武昌(現湖北省にある)区域で辛亥革命の発端である兵士の反乱が起こった日、その日1911年10月10日を建国の日として記念しており、今回で建国百年を迎える。敷地は広いが建物自体はそれほど大きなものではないので、ケータリング業者に大きなテントを敷地内に張らせて、立食形式で行われた。昨年はホテルのボールルームで行われ、大使館関係の日本人も数人は見受けられたが、今回は日本人には一人も出会わなかった。中国への政治的配慮もあってのことなのだろうか、歴史的にも民間レベルに於いても日本との深い関わりがある台湾なのに残念な気持ちがした。飲み食いで終わるのかと思ったがテント内のステージに照明が照らされ、二十代全般の女性十数人が中国の古典楽器だと思われる弦楽器や吹奏楽器をそれぞれに抱えて登場すると、誰の合図ともなくテンポのいい楽曲の出だしを見事に合わせて演奏し始め、パーティー会場は一気に活気付いた。後で聞くと、中華民国の親善大使として世界を演奏して周り、結構有名なようだった。演奏に歌を入れてみたり舞踊を入れてみたりしながらの三、四十分の演奏を、駐米代表の挨拶や元副国務長官の祝辞を挟んで二回ほど行われた。挨拶や祝辞は短いもので、指して記すに値する程のことはないのだが、色を添える為の彼女達の演奏からは、中華旋律の独特な調べに華僑達や台湾人の歴史的感情が流れてきて、彼らの想いが胸に伝わってきた。台湾は親日の人達が多い。アメリカに移住している華僑の人達の多くは、本人が日本で学んでいたり、親や親戚が日本に住んでいたりと、何らかの形で日本と深い縁を持っている。マネージャーとして長く働いている台湾人の同僚も父親は日本人だったし、日本人の私の指示に対しては全面的に応えようとする。信頼を置いている彼らの想いを、日本の国としても日本人としても、決して軽く受け取るべきではないだろう。

2011年10月5日水曜日

今日の想い 365

今朝は久しぶりに晴れ渡り、昇る太陽が屋内に光を届ける。長い期間雨雲が空を覆っていたから気付かなかったけれど、知らないうちに太陽の昇る位置が随分南下している。夏の間は朝日であっても強い日差しを屋内に届けていたが、今日の日差しは明らかに柔らかく、手のひらを宛がうと表面が暖かなオレンジ色に滲む。主体から対象へ一方的に流れて届けられるときは、対象は受け身に徹して、受け取った真価を差出すことはない。しかし主体が対象から受け取る美を期待し始めると、対象は主体から受け取った真価を差出そうとする。夏の太陽の日差しのように、惜しげもなく一方的に愛し続けられ、与え続けられ、話し続けられる御父様であって、何の見返りも、そして成長した姿を私達に要求されることもなくここまで来たけれど、秋の彩(いろどり)や実りを万物が差出すように、御父様の子としての受け取った真価を差出す収穫の秋の時期にきている。結果を出すべきだという外的実績主義を貫き、使命感を全面に押し出してここまで来たには来たが、勿論それが間違いだったと言うのではなく、その条件を取っていただく事で内的霊的な実りを差し出す時期にきている。私達は今こそみ言葉とひとつになって内的霊的実りを差し出すべきだ。短期の実績に追われて来たから内的霊的なみ言葉とひとつになることを結果的に疎かにしてきて、語られるみ言葉の殆どが理解不能であることに何の焦りも覚えず、その状態を当たり前としている。訓読を通しながら霊人達と真摯に内的霊的交流をし、問いかけもし答えを導き出すこともする、そんな神霊溢れる統一人になるべきだ。今日の朝日を受けながらも、み言葉の愛の真理に貫かれた霊的活動を見出して熱い感嘆の声のひとつも挙げることができないなら、私は未だにみ言葉の本質のかけらも受け取れずに眠りに着いたままでいる。もし私の内面に、この身体を破裂させるほどの爆発的な熱いものを発生させることができれば、私は明らかに神様にとって無視できない存在になるだろう。

2011年10月4日火曜日

訓読会

死の門を潜った霊人達は本を読むことができない。人間が地上で本を手に取って読むと霊人達もその本を読み始める。人間は本を読むことで人間の思考内容を紡ぎ出す。その思考内容を霊人達は読むことができるのであって、直接本を手に取ることはできない。よく録音された御経を繰り返し流している家や場所があったりするけれども、先ずその場に人間がいることが前提であり、更にその人間が聴く耳をもっているかどうか、それを聴いて思考内容や感情内容として私の中に紡ぎ出されるものがあるかどうかが大切であり、御経やみ言葉を流したままでその場が清められるとは思わない方がいい。地上では田畑に穀物や野菜が実り、人間はそれを食べて物質的に生きている。霊界では霊的生命の為の霊的穀物や野菜は人間の思考内容、感情内容が田畑になっている。人間が起きて外的事柄に意識の殆どを費やしている場合は霊的田畑は用意されないが、意識を内面に向けるときや眠って無意識の状態にあるとき、霊人達は人間と言う霊的田畑に近寄ってきて人間が紡ぎ出した思考内容や感情内容を霊的糧として収穫する。しかし霊的田畑が用意されるのはその人間の理念によるのであり、その人間が霊魂の存在を否定して唯物思想に完全に帰依するなら、霊的田畑が用意されることはない。地上の日々の体験や経験を内的霊的にどう捉え、どう内面の光とし養分とするかで霊的田畑に実りとして実っていく。現代人の多くは外的事柄、物資的な遣り取りに終始して生活しているので、霊人達が霊的田畑に実る収穫は殆ど見出せないで落胆している。私達が行う訓読会がどれほど霊人達にとって重要なものであるか、その認識が深ければ訓読会のその場は参加している者のみならず、霊人達にとって渇きを癒す霊的オアシスであり、霊的血となり霊的肉となる収穫を得る場となっていく。霊界籍になった親族や知人、感化を受けた歴史上の人物へ想いを向け、その存在を意識的に対峙させて訓読すれば、その霊人も訓読する内容を注意深く追っている。

2011年10月1日土曜日

心情圏

み言葉とひとつになる。み言葉とひとつになってこそ新しい時代を生きることができる。今は既に新しい時代に突入している。新しい時代に、今まで当たり前としていた生活的全ての習慣、理由も根拠もなく捉えていた全ての認識基準、それでもって評価決定すべきものはひとつもない。先ずみ言葉とひとつになるという概念を私の中に組み入れる。み言葉とひとつになった私だけが生き残るのであって、み言葉とは相容れない、習慣化された思考、感情、意志にしがみつく私は新しい時代では焼き尽くされていく。私がひとつになるべきみ言葉の骨子が何かと言うと、愛を中心とした心情圏だ。愛を中心とした心情圏こそが私の再生した位置であり、私の存在基盤でもある。愛を中心とした心情圏の中で感情することを覚え、思考することを学び、そこで紡がれる意志は神様の願いに適った歩みを導き出す。その感情は神様が感情もし、その思考は神様が思考もし、その意志には神様の意志が現れる。人間は個人の心情圏を超えて家庭的心情圏を求め、家庭を超えて、氏族、民族、国家、世界、天宙、そして神様までの八段階の心情圏を求める。この八段階の心情圏が一つの地上、天上天国の球形を成す。この心情圏という言葉を理解するために御父様は磁場の説明をしておられる。私達はこの地球星に住んでいるけれども、南極、北極を中心として地球の球形的磁場が形成され、それで地球存在は維持されている。この磁場と同じようなものが心情圏であり、心情圏の段階的広がりは地球から太陽系、太陽系から銀河系というふうに広がっていく。家庭的心情圏(家庭的球形存在)には家庭的思考、感情、意志が家庭の中心である私の中に息衝くのであり、そして八段階全ての心情圏の完成をもって絶対的神様の絶対的思考、感情、意志を備え、それは神様の実体とも言える。御父様が八段階全ての心情圏を完成されたという意味を私なりにそう理解しているけれども、勝利された御父様のこの八段階の心情圏を、私が相続する相続権は、絶対信仰、絶対愛、絶対服従によっている。

2011年9月30日金曜日

雷の音を聞きながら

昨夜は一晩中ゴロゴロ鳴っていた。大気が飽和状態なのか呼吸をするにも息苦しいほどで、温度も差ほど高くないはずなのに蒸し暑く、なかなか眠れなくて地鳴りのような雷の音がずっと耳の奥に届いていた。雷の音を聞くたびに、御父様が話された自然の愛の営みのことを考える。陽電気と陰電気が交わる愛の営みが雷だという論理は理解できるけれど、どうも雷のオドロオドロしい印象が邪魔をして、雷鳴や稲光が愛の営みによる歓喜の表出だとはなかなか思えない。堕落人間だからそうで暗い印象しか抱けないのか、御父様には雷が陽陰一体の至上の歓喜として受け取られておられるのか、おそらくそうなのだろう。雷が鳴って降る雨は愛の営みのかけらであって、愛の営みのかけらで地上の万物は生命の恵みを得る。そのように人間も夫婦の愛の営みのかけらを放ち、それを霊的生命の雨として霊低存在は生命の恵みを得ている。本然の夫婦であれば愛の営みでひとつになれば霊的な光を放つらしい。一度、雷が鳴って雨が降る中で愛の営みをしてみることも必要だ、みたいなことも話されておられるけれど、愛の営みがことごとく堕落的地上的なものに引き下ろされてしまった地上の現実では、ただの形だけに拘っても、御父様が話され意図されることとは大きく異なっている。本然の愛の営みと、愛欲肉欲が絡まった営みとは形は似ても非なるものと思わなければならない。妻の体が或るとき急に百歳の体になっても、顔の肉が溶けてシャレコウベとなっても、それでも唯一の相対として抱きたいと思えるならその愛の営みは本物に近いのかも知れない。ひとつになって宇宙を抱いている抱擁感に酔えるなら、それは本物かも知れない。アダムとエバは自己の完成をまたずに、形だけの、即ち内容が伴わない愛の営みに走ってしまった。堕落性を引き継いでいる私達も堕落的なものがそこに混入されていて、その不純物故に光を放つことはない。浅い眠りの状態がしばらく続いて、雷の音を遠くの方に聞きながらそんなことを問うてみたり頷いてみたり、そのうちに意識は闇の向こうに遠ざかっていった。

2011年9月28日水曜日

お金に対する価値認識

外的な価値、特に金銭的価値を把握できない兄弟が多い。万物復帰、献金摂理、教会ビジネス、とお金に関することが常について回ってきた。それほどにお金に関わってきたのなら、お金に関してプロ中のプロであるべきなのに、お金の価値認識が極めて浅い。浅すぎる。お金の価値も理解していないのに、お金が寄ってきて集まるはずがない。これまで手を変え品を変え、献金の願いに応えようと様々な商売に手を染めてきているが、ものになったビジネスは殆どないだろう。常に尻すぼりで終わり、結局重税をかけるように個人献金に頼らざるを得ないと言うことになる。霊的価値を深く掘り下げないまでも、せめてお金の内外の価値認識を持つべきだ。兄弟個人にしろ教会組織にしろ、お金を量的なものにだけ価値を認めようとしている。量的なものだけを追い求めようとするから、金が金を産むと言えるような価値を認識できずに、ザルですくい続けているようなものだ。お金には量的な価値と同時に質的な価値がある。量的価値はお金のより外的価値であり、質的価値はお金のより内的価値だ。精誠という言葉を知っておりよく使うにもかかわらず、手にしたお金が精誠が込められたものであるかどうかの認識はない。どんなお金も同じお金だと思っている。汗水たらして得たお金と盗んで手にしたお金、どちらもお金に違いはないからと、もし金銭を受け取られるとして御父様はどちらも受け取られるだろうか。年収一億の者の百万の献金と、年収二百万の百万の献金は質的に同じだと言えるだろうか。嫌々ながら差出す献金や思い入れもなく機械的に差出す献金と、公的に使っていただけて嬉しいと差出す献金が同じだと言えるだろうか。どういう質のお金を紡ぎ出したいか、遣り取りしたいかを問わず、量的なことだけを問うならば、お金に対しては極めて外的な扱いであり、或る意味唯物的と言ってもいい。共産主義を否定しながら、私達の無意識の中に唯物的なものが入り込んでいる。創造的発展的なものに使われるお金の誇りや喜び、熟慮の後の判断もなく垂れ流されるお金の悲哀や絶望。お金の声なき声に耳を傾ける共感も体験もなくて、お金は寄っても来ないし集まってもこない。お金に長く関わりながら、お金に対して何の学習もされず、ビジネスだと言いながらも未だに万物復帰感覚しかないことがどれほど恥ずかしいか。私も万物復帰の経験は長い。復帰されるお金は精誠が込められているが、批難覚悟で敢えて言うなら、そのお金は乞食的精誠だ。

2011年9月27日火曜日

人は自分の霊界を背負って生きている

地上に於いては自己中心の欲望を正当化し開き直ることはできる。しかし自分という存在は地上にのみ生きる存在ではなく内的霊的に生きる存在であり、地上存在は影のようなものであって内的霊的存在こそが私自身だ。だから見るべきは欲望を満たし感覚的悦楽に浸る刹那の自己満足ではなく、私と言う霊界を何で創り、何で満たし、何が息づいているかということだ。私と言う霊界と言う表現は混乱させるかも知れないが、神様が天宙を創造されたように、私も私と言う天宙を創造している。地上存在としての私を創造すると同時に、内的霊的存在としての私という天を創造している。地上の言葉での説明では限界があり困難だが、霊界への門を潜ると言うことは私の内面にあったものが外面になる、裏返しになって私が内面に培ってきたものの中に住むことになる。だから感覚的肉体的に得たものに対する自己満足で良しとするのではなく、その動機や過程に於いて何を内面に混入させているかが問題だ。私達は知らないうちに多くの喜ばしくない侵入者を内面に取り込んでいる。囁く悪魔が私の内面に住んでおり、刹那の感覚的欲望を誘発させ堕落的な生活に拍車をかけている。侵入者が侵入者を呼び、本来私のエデンの園であるべき私と言う霊界にありとあらゆる霊的存在としての侵入者が我が物顔で居座っている。自己中心に生きる人間はその都度悪霊雑霊存在の類を内面に取り込み、自分の宮殿を荒れるに任せている。霊的感性が備わっていないので、幸か不幸かその実情を知らずに、囁く悪魔の言いなりに任せて地上の刹那の悦楽に浸っているけれど、そのツケから永遠に逃れることは出来ない。

2011年9月26日月曜日

霊界の言葉

霊界からのメッセージを読めば、霧が晴れるように霊界について見えてくる。その一つに並み居る聖賢達のメッセージに共通して言えることがある。生前の彼らの歩みに対する反省と悔い改め、そして勝利された御父母様への感謝と賛美に満たされている。御父母様に対する証しのメッセージだから当然だろうと思うけれど、穿った見方をすれば、似たり寄ったりの文章は誰にでも書けるような内容で、さして霊界を確証させるほどの目新しい事柄は見えないと、本当に聖賢たちの言葉なのかどうか疑いの心を抱く兄弟も中にはいるはずだ。霊界の聖賢たちの想いを地上の言葉に置き換えるからそうならざるを得ないのであって、地上の言葉表現の限界はどうにもしようがない。霊界は心情世界であり、霊界の言葉は感嘆表現だと言っていい。地上では感嘆表現を言葉にすれば限られてしまうが、霊界ではありとあらゆる感嘆表現に満ちている。或る意味、どれだけ深い感謝の地上生活をしたか、すなわちどれだけ感嘆するほどの体験をたくさん積んでいるかが霊界の位置を決め、高い霊界の表現方法ともなる。毎日が同じように流れ、見飽きた景色の中で生きているようだけれども、今日の一日は今日だけの一日であり、周囲の景色も目に写る輪郭と色彩だけを認識しているので、何ら代わり映えのしない景色としてしか捉えられない。事実は一日一日が番号をふられるのではなく、それぞれに名前を冠するほどの記念的一日であり、記念的一日の舞台環境として異なる景色が用意されている。今日には今日の発見して感嘆する物事に満ち満ちている。ポイントは機械的なものを中心とした生活から如何に心情的なものを中心とした生活に重心を移していくかだ。今日の一日がただ平穏に流れるのを願うのではなく、たとえ起伏が激しい一日であっても、心情的に受け取るものがあり与えるものがある、そんな感情溢れる生活を願うことだ。

2011年9月24日土曜日

病を受けて考える

風邪を引いてから随分経つ。最初は身体が少しだるかっただけだが、一汗かくとそのだるさも抜けて元気になった気がした。しかし次の日になっても幾らか熱っぽく、身体が重く、頭痛も止まない。市販の風邪薬を三日続けて飲んでいるが、飲んで暫くは症状を抑えられるが、効果が切れるとやはり熱っぽく重く頭痛が止まない。動きは鈍るし、腰掛けると横になりたいし、重力に効し切れずに地に這い蹲りそうだ。食欲だけはあるから差ほど気にしている訳ではないが、やるべき事が思うようにはかどらず、そのツケがどんどん溜まっていく。病気から回復させる力をどう取り込むかと考えた時、元気になりたいという熱望だろうし、元気になるという意志だろう。熱望と意志が強いだけ回復力を取り込める。人間は肉体の健康な状態を知っているから病気になればわかるし、健康になろうとする。しかし人間は心魂に関しては健康な状態を知らないから、心魂が病に冒されていることを知らずに生きている。今の心魂をまともな状態だと思っている。救いが必要であるにもかかわらず、救いなど必要ないと思っている。心魂が病んでいるとは気付かないまでも、弱っているらしいと思える機会が与えられることがある。そのひとつが病に冒されるときだ。症状が重ければ重いほど、内面を掘り下げる度合いは大きくなる。風邪をひいたぐらいではそこまでに至ることはないだろうけれど、内的霊的観点から言えば心魂の病んだ堕落人間にとって疫病神は福之神だ。欲心を無にして疫病神に真摯に向き合えば、福之神に姿を変えて心魂の復活をもたらしてくれる。それは本然の、健全な心魂への憧れとして受け取るものだ。信仰者は常にこの憧れを内面に維持して、忘れてはならない。愛の人格者としてのイエス様の心魂への憧れ、真の愛の人格者としての御父様の心魂への憧れ、イエス様のようになりたい、御父様のようになりたいという内的霊的憧れを備えているだろうか。

2011年9月23日金曜日

感性を解放する

日が明けぬうちに外に出てみると、地上は靄に覆われている。街灯のオレンジ色を滲ませ、点滅する信号機の黄色を滲ませ、私も滲んで周囲に溶け出すようだ。靄で存在の明確な輪郭がぼかされると、個体液体気体の区別が曖昧な、地球生成の初期の状態に近くなる。勿論視覚的にのみ言えることであって、科学的知識に毒された感性では捉えることはできない。科学的知識を基とする現代人は、存在の背後から聞こえてくる霊的な声を聞き取ることはできない。私が靄の中に包まれていると言うことは、私は靄を呼吸しているとも言える。口で呼吸し、肌でも呼吸している。存在を呼吸すれば霊も呼吸している。大気の底で生温かい靄に心魂を委ねると、即ち霊で呼吸すると、地球生成の初期に関わった霊の存在が語りかけてくる。心魂の混沌状態から、思考を際立たせ、感情を際立たせ、意志を持つ魂としての人間創造に関わった人格の霊が語りかけてくる。まだ日が明けぬうちの靄に煙る景色は混沌状態だ。そこに光を割り込ませ熱を届けると、視界は徐々に晴れてくる。思考的な気体と、感情的な液体と、意志としての個体に明確に分けられていく。だから地上存在である被造物には思考も感情も意志も見てとれる。人格神の神様の思考が気体に流れ、感情が液体に流れ、意志が個体に込められている。私は或る存在の気体様相に波長を合わせるとその存在特有の思考を受け取り、液体様相に波長を合わせるとその感情を受け取り、個体様相に波長を合わせるとその意志を受け取る。霊的感性を得て、被造物に関わる霊達の叡智を受け取るためには、科学的な見方に限定され、押し込められた私の感性を解放しなければならない。

2011年9月20日火曜日

今日の想い 364

原理講義を受けて真理を悟ったかのように思えるけれど、それはただの気分でしかない。御父様に帰依して信仰に重心を置きながら生きているようだけれど、私の信仰が本物かどうかさえ分からない。結局、全てを分かったようなつもりで生きているけれど、何も分かってはいないと言うことだ。今日は辛うじて信仰を立てて生きてきたようだけれど、明日にはどうなるかさえ分からない。私の信仰を揺るがすほどの状況に会わなかっただけであるのに、今日には今日の信仰を立てたと誤解している。その私が他をとやかく評価したり批判したりできる立場ではない。溢れるほどのみ言葉を受けてきても、どれほど御父様御父様と呼びかけても、今までいたずらに時を過ごしたかのように、未だに揺れ動き、位置を定められず、さまよう自分がいる。あたかも御父母様の吐息圏内で同じ空気を吸い、同じ光を浴び、御父母様の愛を糧として存在しているようだけれど、それは幻想に過ぎないのではないかと疑ってみたことがあるだろうか。現実は堕落圏の底に息衝きながら、夢心地の幻想に揺らめいているだけなのではないだろうか。私の前には御父様が立っておられる。御父様を前にした私は、過去をひたすら呼び戻しながら、あれもしました、これもしましたと誇れるものを一つ残らず報告している。誇れる報告が尽きると固く蓋をして無視していた罪の部分を、言い訳がましく小出しに差出している。正直なところ私と言う存在はそれ以上でもそれ以下でもないだろう。信仰に重心を置いているけれども、信仰気分の内訳は自分の功罪に関わることが半分以上を占めている。もしそこに留まり続けるなら御父様を戴く意味は私にはない。旧約の神様で十分だ。私が正しく御父様にまみえるためには、まずその位置から去らなければならない。その立っている足場を崩さなければならない。崩しただけならさまようだけの私だけれども、新約の足場に辿り着き、更に成約の足場、そして第四アダム心情圏の足場を探さなければならない。氏族メシヤとしての氏族復帰が私達の課題ではあるけれど、私の内的霊的足場が旧態依然の足場であれば、私の代で私の果たすべきことを為すことはできない。過酷な現実が目の前にある。自分が救われるか救われないかが問題ではなくて、私を中心とした一族が救われるか救われないかが問題であり、私の一族が祖国に入籍できるかどうかが問題だ。自分の柱さえ立ってはいないのに、家庭を超えて氏族の柱を立てることを要求されている。自信も力もない、この小さな一つの魂に願われている。しかし何もない私を敢えて選ばれた神様がおられる。何もないからこそ、私は選ばれたと思うべきだろう。私に働きかけ、私を用いようとされる神様を絶対信仰する以外、この道は歩めない。今日も現実とみ旨の願いとのギャップに身も心も引き裂かれながら、それでも信じて前進すべき戦いがある。後ろを振り返らず周りを眺めず、ただ目の前にある戦いに全力を尽くす。

2011年9月19日月曜日

協助を考える

死の門を通過して霊界に入ると、地上での関係性がそのままフリーズしてキープされる。地上で解かれるなら霊界に於いても解かれるけれど、霊界に於いては関係性を修復しようとしてもできない。霊人と地上人との関係性は地上人次第で変化しうるけれども、霊人どうしでは関係性は変化しない。或る霊人と何らかの繋がりがあった地上人だけが、その霊人の苦しみを和らげることができるのであって、本人や他の霊人によって霊的状況を変化させることはできない。地上人から霊人へは、地上人の想いが架け橋となって霊人へ繋げられ、そうして働きかけがなされる。想いの架け橋を渡し、情を供えて送ることで霊人の苦しみを和らげ、救いへの門が開かれていく。霊人が私の前に立っているかのように感じながら思考することは、彼らと会話していることであり、思考して内面に於ける理解や納得が得られるなら、霊人もまた理解や納得が得られる。地上に於いては形を為さない内的理解や納得であるように思えても、霊人達に取っては霊界の現実として霊的生命の光や空気や水を得ている。み言葉の訓読が私とその場にいる者だけの学習だと思っているけれど、藁をも掴む想いの多くの霊人達がその場に参席していることを忘れてはならない。彼らにとってみ言葉は霊的生命の必然要素に他ならないし、私が窓口となり私の訓読や祈りを通して彼らは復活する。霊界と地上界は手のひらの裏表のようなものであるが、かつては分厚い境界が存在し、相通ずるには困難を要したが、今は日毎にその距離を縮めている。先祖解怨、先祖祝福を為して、後は協助を待つと言うのであれば、その価値を理解してはいない。霊的存在の彼らと共に訓読し,共に祈り、共に活動するには私はどうあるべきか、み旨を共有し共に復活するには私はどうあるべきか、主体である私が解かない限り彼らは一歩たりとも前には進めない。協助と他力本願を混同している。

2011年9月14日水曜日

十周年

あの9.11から既に10年が経った。その日、ツインタワーとペンタゴンの自爆テロ、それからペンシルバニアの飛行機墜落と、この三つ巴の状況を、ラジオもテレビも交替々々に延々と流し続けていた。ワシントン行政地域に広範囲に管制がひかれ、一度は中心地区に流れていった通勤の車の流れもUターンを余儀なくされて、朝のうちにも車は逆流するという、可笑しな現象が起こった。その流れが一段落した後は、店の前の大通りはクリスマスの日のように閑散としてしまった。こんな状況で店に食事に来る客などいないどころか、外を見渡しても人っ子一人歩いてはいなかった。隣の店の従業員がたまに外に出て様子を伺っているだけだ。これが世界が終わる日の幕開けであって、一瞬で戦時下となってしまったアメリカが、昨日までの明るいアメリカを取り戻すのに相当の期間を要するのだろうという、そんな暗い気分に一時でも誰もが沈んでいた。しかし人間は慣れる生き物だ。慣れて自分の生活に没頭する生き物だ。ランチこそ客は入らなかったが、ディナー帯にはそれなりに客が入ってきて、店は普段と何ら変わらない雰囲気を取り戻した。客の話題はおそらくそういったものだったろうけれど、店には明るいBGMも流れているし、楽しそうな会話だって聞こえていた。郊外と言っても、車で半時間も走ればテロが起こったペンタゴンの現場に着く。そんな目と鼻の先のことであっても自分の時間は好きに過ごす。これからアメリカも世界もどうなるかわからない。経済の破綻なのか地震などの物理的なものなのか、或いはそれに続く社会の混乱が起きるのか、何かはわからないが国を揺るがし世界を揺るがす何かが起ころうとしている。しかし何が起ころうとも人間は慣れてしまうのだろう。慣れて日常の生活感情に没っしてしまうのだろう。そう言えば御父様が収監された時もそうで、明日向かわれると言う時には食口の誰もが大きな衝撃だったけれど、それさえもひと月も経てば慣れてしまう。御父様は収監されておられるのに、指して特別な感情を抱き続ける訳でもなく、日常に埋もれたまま一年はあっという間に過ぎ去った。御父様に取って収監の一日一日がどれほど長いか、一年がどれほど長いかは考えもせずに、、、。私は何と勝手気儘な存在だろうかと思う。自分のことばかりに汲々としながら、精誠を供えるのはそのうちにと思いながら、無駄に貴重な時間を浪費し尽くして、来るべき重大な局面でやっと目覚めるのだろう。

2011年9月13日火曜日

秋夕

三日三晩続いたこの長雨は、秋の季節を司る霊によってもたらされたものだ。夏の季節を司る霊が早々に去っても夏の匂いが残り、しばらく夏の大気は動かずに腰を据えていたけれど、ハリケーンが広範囲に大気を掻き回すと、秋の霊はすかさず入り込んできて秋色に染める下ごしらえに余念がない。皆の顔が曇って嫌気がさし始めた頃に三日も続いた雨がやっと止むと、なるほど見事に大気は乾き雲は遠く高く退いて、地上の空間は大きく広げられている。透明度の高い大気を伝わり、太陽光は七色の光そのままを地表に届け、気の早い木々の葉は既に色付き始めている。今日も朝の六時過ぎには店に向かったけれども、一頃は明るくなっていたこの時間帯が未だに影絵のようだ。天と地の区別はつくが地上はまだ仄暗い。西の空に目をやると木立の向こうに月が浮いている。ひと際大きな円周をはっきりと描いて煌々と輝いている。満ちた月を目にして秋夕が近いことにやっと気が付いた。中秋の名月と言える月の光を受け取り、内面に届く言葉を私は期待している。太陽の言葉が届き、月の言葉が届き、星の言葉が届いているけれど、霊性が頼りなくてその場で受け取れずにいる私がいる。それでも受け取った印象を何度も何度も咀嚼していると、かすかな言葉が印象から響く時がある。それが明日かもしれないし、もっと遠い未来かも知れない。それでも印象としてはっきりと私の内面に納めていて、或るときその印象が言葉を発する。この月の印象も私の内面に届けて、丁寧に引き出しに納めている。太陽も月も星も、太古の史実や知恵を語ってくれる。特に秋夕の月は、その光の印象に先祖が送られてきて、先祖が届けて伝えたい多くの話が語られる。

2011年9月12日月曜日

エデンの園

善悪知るの木の実を何か口にするものだという理解が間違っていると言うように、エデンの園を地上の楽園のような場所としてのみ理解することも間違っている。善悪の実がエバの生殖器であると言うのは原理を知るものであれば理解しているけれど、では追放されたエデンの園とは何なのかと問うと、復帰された地上だとか罪のない地上天国だとかエデンの園を場所の概念として捉えている。そういう捉え方も間違っているとは言えないが、御父様はどう説明しておられるのかと言うと、エデンの園とは男性と女性の二人が一つになった愛の体がエデンの園であると説明しておられる。愛の体は愛の器官をもって一つになる。アダムとエバはこの器官を間違って使い、愛の器官は地に堕ち地獄の底に留まってしまった。この器官が正しく復帰されない限り、男性と女性は正しく会えず、正しく一つになることはできない。神様はこの器官の為に天地創造なされたのであり、この器官は愛の王宮、生命の王宮、血統の王宮、良心の王宮であって根本だ。それを誤って使ったことにより、神様の恨、人類の恨、万物の恨が生じて全てが嘆息のなかにあるようになってしまった。天使長もエバもアダムも、この器官を自分のものだと考えて堕落してしまったが、この器官の主人は自分ではなく神様だと言うことだ。私達は祝福家庭であれば堕落の痕跡は夫婦の間にないという気分で暮らしているけれど、どれほど仲睦ましくてもあくまで復帰の途上であって、神様公認のサタンの試練を通過しないかぎり自分は認めても天地は公認しない。どれほど地上で節操を守っているとしても、見えないし意識もしない霊的世界では淫らなあらゆることを行っている。現に死の門を潜って霊界に旅立つとき、欲界を通過しなければならない。地上で意識下において衝動欲求していたことが、現実に目の前に偽りのエデンの園として現れる。男性であれば美しい女性が現れて服を脱ぎ、その器官に触れてくる。見目麗しい裸の女性達が戯れる男性天国に迷い込む。その試練の場でその器官が誘いに応じて動じるなら通過して天国に行くことはできないだろう。御父様は家庭的楽園が生じざるを得ないと話されている。試験をパスできないので、霊界で夫婦の間で暮らすにも問題が大きいからだ。祝福家庭であれば、外的地上的には原理がわかっているのでそういう環境圏は遠ざけようとするが、内的霊的には衝動要求がそのまま現れる。それが霊界だ。淫らな思いをもって見るなら即アウトの世界だ。決められた一人の女性とだけ、外的には勿論、内的霊的にも一つになることで、私の天と私の地は一つになるだろう。一つになった愛の体であり、一つになった天地であり、その場に神様は臨在されて、神様と一つになり、神様と一緒に暮らすエデンの園となるだろう。

2011年9月10日土曜日

親馬鹿

親が子供と結びついており、子供の救いと幸福に絶対的な責任感情を持つように、御父様は子女である我々の救いと幸福に絶対的責任感情をもっておられる。必ず救い、必ず幸福にするという、絶対決意(絶対意志)を持っておられるから、私達は必然として救いに至る。期間はかかるとしても必ず救いに至る。それが人類の真の父母の意味でもある。私達が心配すべきことは、私が救いに預かるかどうかではなく、親として悲痛なまでの責任感情を少しでも減らして差し上げ、私のことは心配しないで下さいと言える心情を捧げることができるかどうかだ。どれほど子として救いたくても、本人が親として認めたくないと言って顔を背け救いを受け取らないなら、親の悲痛な心情は計り知れないものがあるだろう。真の父は子に取っての救いが何であり幸福が何であるかを、子以上に知っている。それを気付いて欲しいのに顔を背けられれば親としてどれだけ辛いか。それは親になってみて初めてわかる。どれだけ子供が顔を背けても、どれだけ子供が反抗しても、親の元に戻ってくることをひたすら信じ、ひたすら待ち続ける。親馬鹿とよく言うけれど、子供に対するどこまでも信じて待つ意志や、子供を救いたい絶対的な責任感情が親馬鹿なのだろう。馬鹿になってこそ絶対的と言えるのだろう。有り得ないことが実現する為には絶対的な、即ち馬鹿になることでこそ、それが可能なのかも知れない。絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準とひとつになると言う絶対を平易に理解するなら、思考を度外視し、感情を度外視しても信仰馬鹿に徹し、愛する馬鹿に徹し、服従する馬鹿に徹することなのだろう。

星の煌めき

夜空を鏤める星を目にしなくなって久しい。都会に住んでいれば節電対策で落としていると言っても、夜空一面の星を眺め渡せるほど電光を落とされてはいない。田舎であっても犯罪防止の為にそこかしこに街灯は灯っているし、普通休むまでは室内も煌々と電燈を点けている。電燈で照らされる明るさに視覚が慣れてしまっていて、電燈がない生活で落ち着く人は少ないだろう。しかしどれほど照度を明るくしても、明るくすればするほど内面に届ける私が照らそうとする光は弱められている。形状をどれほど照らし出しても、形状の背後の本質であるところの性相は益々見えにくくなる。祈祷するときに目を閉じて外界の印象を遮断し、意識を内面に向けるように、光が照らし出す外界の全ての存在、起こっている自然現象や社会現象など、本来それらの背後にある本質を、霊的存在の正体を照らし出して見えるものとならなければならない。星の煌めきは無数の霊的存在達の表れだ。星の煌めきを視覚に受け止めるだけでなく、星の動きから星達の会話や地上への語りかけさえも受け取れるものになる。古代に於いては大陸の消滅から始まり、現代に於いては火山活動や地震、気象の変化、全ては星の影響下にある。地上から夜空を仰ぎ、星の煌めきに感情を預けるのもいいが、地球を一点と見るなら、全方位に位置して活動している無数の星から影響を受けるのみならず、地球の存在自体に関わり地球環境圏のバランスを取っている。それは地球と運命を共にする植物や動物にも言えるし、勿論人間も形状、器官形成、生命活動のみならず心魂にもバランスを取らせ影響も与えている。御父様の勝利圏が人類に関することだけのものではなく、地球を存在たらしめ地球への影響を及ぼす星達の本質、天使と言えるに留まらない霊的存在であり、(こう言う言い方が認められるなら)神々でもある存在にさえ影響を与えるものであることを、神様と一心一体となられた今、言うことができる。私が御父様の息子娘であるなら、星の煌めきを受け取る時、天界の霊的存在達の御父様へのハレルヤの声を先ず受け取るはずだ。

2011年9月8日木曜日

本当の自分探しとは

死後の世界、霊界があるのか無いのかは死んで見ないと分からない。だから死んだ後のことを心配する意味はなく、どうせ死ぬのだから待っていればいいし死んだらわかる。そう言って今を楽しく生きようとする人はたくさんいる。自分は有神論でもなく無神論でもないと言う。霊界があるという立場でもないし、かと言って死後の世界などないという唯物論の立場でもない。そういう曖昧な立場で自分を納得させているけれども、その物言い自体が神を否定し、霊界を否定した立場であることすら本人は気付かないでいる。存在するかしないかという存在認識が既に唯物的なものであって、自分なりに想像した神をいるとかいないとか、自分なりに捉えている霊界をあるとかないとか言っているだけのことだ。そうであれば余計に死んで見ないと分からないと開き直るのかも知れないが、そのような考えは全く無意味であり、ただの言葉の遊びに過ぎない。納得する説明がないから信じないのではなく、五感で受け取れるものしか信じていない。五感だけに頼ることを唯物的と言う。唯物的な考えをし唯物的な生活をし、霊的なもの精神的なものを考えもし受け取りもしなかった者は、死後霊界に参入することも出来ずに、身体のない欲界の渇きに半永久的に苦しむことになる。食べたいのに口がなく、光を感じたいのに目がない、そして安らぎの旋律を聞きたいのに耳もない、、、。死後、肉体を取り去られるとはそう言うことだ。肉体を取り去られ、さらに魂である感受体を取り去られ、それでも残るものを携えて霊界への門を潜る。自分の内面を深く訪ねて問うてみればいい。この肉体を失い、魂を失い、それでも残るものを私は集めているだろうか。宗教的に言うなら天に宝を積んでいるのだろうかと言うことだ。自分探しという言葉が流行った。しかし本当の自分探しをしようと思うなら私が魂の存在であり霊の存在でもあることを無視できない。三次元を超えた世界、霊界があるかないかで足踏みしている時代はとっくに過ぎた。霊性を備えて内的霊的無知を克服し、五感で受け取るもの以上に霊的なものを実感して受け取れる時代圏に既に入っている。

2011年9月7日水曜日

困難を前にしたときに

私のなかに、何の感情も、何のみ言葉の働きかけも発動しない、貯め置かれて淀んだ腐れ水の状態がたまにある。そういう時は必ず何かが起こり、何かの形で上を下に、下を上に内面をかき回されて厭が上にも感情の嵐に翻弄される。アメリカ東海岸を北上したハリケーン・アイリーンのように、日本列島を時間をかけて横切って行った台風12号のように、淀んだ生命を、淀んだ心魂を暴風圏に巻き込んで混乱させる。だれも暴風圏に留まりたいとは思わないけれど、逃げずにしっかりと向き合うことが私自身の清めとなり、新生を促す蘇生の力が暴風圏に晒されることで芽生える。だから困難な度合いが大きければ大きいほど、謙虚と感謝の度合いもより大きくし、その位置で気持ちよいほどに打ちのめされればそれでいい。吐き切った肺に新鮮な空気が一気に入り込んで充満されるように、何もなくなった真空状態に思いもよらない蘇生力が満たされていく。ドラマの演出のやり方を見ていると、困難な状況にひとしきり翻弄されて、主役の内面に甘受し、整理し、立ち向かう姿勢が用意されていく過程ではよくBGMが流される。BGMが流されることで主役の内面の様子を描くだけでなく、内面に働きかけるものをも見る者に伝えようとしている。楽曲の響きが内面への働きを表すように、私が困難を甘受し、整理し、立ち向かう姿勢を用意する時には、霊的楽曲を紡いで天に届けている。私達は、まるで一大交響曲を紡いで天に差出す作業を、生涯を通して為しているようなものだ。地上の一つの楽曲は限定的で、流れるときだけ共感を与えて癒したり力付けたりするけれど、紡いだ霊的な響きや楽曲は永続的力を備えた共感であり霊界に偏在している。今では私達の精誠の天への響きが、どれほど神様を慰めることができ、神様の生きる糧となることか。御父母様が勝利されたことで、地で精誠を供えればその霊的響きは直接天に届く。だから普通の人間なら避けること逃げることに汲々としているけれど、御父様の息子娘を自負するならば、困難に対してよく訪ねて下さいましたと礼を言い、感謝を持って引き受ける。

2011年9月6日火曜日

無意識圏内に本質は隠れている

地上生に於いて私達は二つの異なる時間帯を交互に送っている。一つは起きて意識を保持している時間帯と、他の一つは寝て無意識にいる時間帯との二つだ。起きている間は私の霊や魂は身体の中にあり、寝ると身体から離れている。身体から離れている間、起きて体験した事柄を時間を遡りながらバック体験している。起きている間は身体を鏡として意識的に体験しているけれど、寝ている間は映し出す鏡を現代人は用意できていない。だから意識的な体験はしていないが無意識に体験している。無意識に体験しているけれど、確実に良心に見る内的霊的な法を宛がわせながら霊界へ届けているのであり、それは良心に鑑みた体験を霊人体に刻んでいるとも言える。人間は良心の基準をもって宇宙法を地上的に受け取っているのであり、良心基準で生きたかどうかが宇宙に、すなわち霊界に存在できるかどうかを決定される。良心基準に合わせて生きるとは、家庭に於いては家庭が私であり、自分以上に家庭を愛し、国に於いては国が私であり、自分や家庭のこと以上に国を愛し、世界に於いては世界が私であり、自分や家庭や国のこと以上に世界を愛する。それで孝子、忠臣、聖人という、それぞれの次元の良心基準に一致した人間の位階の言葉が出てくる。自分の身体を自分として愛し大切にするように、小さくは周囲の環境圏も自分そのものであり、大きくはこの大宇宙も自分そのものであり、自分として愛し大切にする。良心に沿うて生きれば生きるほど、私と言う境界域を超えてより広範囲に国や世界を私として生きるように、良心に沿うて生きれば生きるほど、宇宙法であり天法が統べる縦的世界、霊界のより高みに飛翔して、天国に届く私を霊的に生きる。現代人が意識できない睡眠期間の出来事は、霧がかかって謎であるけれど、もし人類の霊性の活動ボタンが押されて無意識の向こうを意識的に見届けられるなら、誰も霊界は否定しないだろう。

2011年9月5日月曜日

レーバーデイ

レーバーデイ、日本で言う勤労感謝の日だ。レーバーデイは9月の第一月曜日で、アメリカ人は夏を惜しむように、このロングウィークエンドで今年の夏最後の休暇を過す。この休みが終わるとバケーション気分を切り替えて、仕事モードや学業モードに入っていく。この休みに息子にどうするのかメッセージを送ったが、それには返答してこなかった。いつものように朝早く、店に行って仕事をしていると、妻から電話があった。息子が帰って来て寝てると言う。夜行バスで帰ってきて、私が朝出掛けるときにはもう着いていたらしい。私が店で一仕事終えて帰ってもまだ寝ていたが、遅い昼飯の呼びかけにやっと起き出してきて、サプライズだと言って笑顔を見せてくれた。勤め始めてまだ二ヶ月だし、忙しい時期で夜11時頃まで連日働いているのを知っていたので、相当疲れているだろうと思ったが、思いのほか結構元気そうだった。でもそれは親を心配させまいと振舞った事だったのかも知れない。いつも言葉だけは母を気遣い、父に遠慮した物言いをしていたからおそらくそうだろう。土曜の朝帰ってきて明くる日曜にはもう行くというので、家族四人で外食に出掛けた。私を除いてみんな少食なので残すだろうとは思ったが、それでもしっかり注文した。親として何もしてやれなかったことが負債となり、いつも穴埋めしようとしてこうなる。献身生活していた頃、数年を置いて一晩だけ顔を見せに田舎に帰ったことがある。たった一晩だけなのに親は町まで御馳走を買ってきて用意し、着る物がないだろうからと下着やらセーターやら買っておいて待っていた。話したい事も山ほどあったろうに、何も言わずテレビの音でぎこちなさを紛らわして、コタツを囲んで黙々と御馳走を食べた。家族で一緒に食べると、その時のことを思い出す。何とも言えない、明日には捨てるように出て行くしかない親への申し訳なさを思い出す。注文した料理も結局は残り、もったいないので自分の腹に詰めてしまう。心は満たされないのに体はこうしてまた太っていくらしい。DCのキャピトルの近くからバスが出るというので、夕方そこまで送っていった。出たときはまだ明るかったが直ぐにも暮れて暗くなる。日が暮れるのがめっきり早くなった。暗くなってから送り出すとどうも気が沈んで、高速バスの停留所までの半時間、一言二言のどうでもいい言葉しか掛けてやれなかった。停留所に着くと息子はシートベルトを外して勢いよくドアを開け、一言、じゃ、と言って小走りに乗客の群れの中に消えていってしまった。

霊という言葉を理解する (3)

外的地上的なものについては、私の所有かそうでないかは明らかなので、私の所有観念ははっきりしている。しかし内的霊的なものについては負債も含めて、私の所有観念には当てはまらないので、それを与えようとすることの意味がわからず、抱えたままでいてそれが執着だとは気付きもしない。赦しも、救いも、祝福も、それは内的霊的なものであるので、戴いて所有しながら霞と同じような扱いであって、所有しているという意識もなく、それを他と分かつことが与えることだという観念もない。もし御父様から祝福を返すように言われたとしても、何の事だか全くわからないだろう。霊界に行けば初めて、戴いた祝福の価値を明瞭に理解して腰を抜かすのだろうけれど、肉体を脱いでしまってからだと遅すぎる。心魂のステージに現れることは実感できても、その背後にある霊的な内容に対しては感性を持てないでいるからわからない。価値も分からず戴く実感もない者達に、尊い祝福を血肉を切り刻んでばら撒くように与えてこられた御父様だけれども、貰えるものなら何でも貰っておくべきだと、そんな乞食感覚で受け取ってしまう。戴いてはみたものの、価値が分からないからほったらかしのままで、相変わらず食べること生活することだけに意識を注いで生きている。尊い祝福の本来の価値を受け取ることが出来ずに、きっと祝福に預かったのだからそのうち好いことがあるだろう、ぐらいの感覚なら、欲しかったのは祝福ではなく打ち出の小槌だったと言うことになる。あまりにも食口を馬鹿にしたような言い方かも知れないが、御父様にすればどれほど悲しくも力の抜けることかと、せめてもの申し訳ない想いを馳せて、受け取れる内的霊的器を備えようと身悶えする私達であるべきだ。家庭基準の祝福の意味も価値も分からないまま、国家基準の祝福を戴き入籍手続きに入っている。器を備えた者と器を用意出来なかった者とに、食口であっても分かたれる時が来る。その意味で天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者達がそれを奪い取っている。地上的なことと比べ、霊的なことは逆説的であって、内的霊的所有観念は与えることを通して受け取る所有観念だ。

2011年9月4日日曜日

霊という言葉を理解する (2)

創造原理には、生霊体を完成した人間が地上天国を実現して生活したのち、肉身を脱いで霊人として行って生活する所が、すなわち天上天国である。それゆえに、地上天国が先に実現したのち、初めて天上天国も実現できるのである、とある。本来は、地上が完全に整備されて、地上における天国が実現してから霊界も整備され、天上天国が実現されると言うのが原理の教科書通りなのだろう。しかし祝福家庭が御父母様とひとつになることができず、先ず興進様が昇華された。そして霊界におられる興進様に祝福権限を移譲されて、霊界にいる先祖たちの祝福が始められた。十四代の祝福だったものが二十一代に増やされ、そして今は二百十代を遡る先祖を祝福するよう指示を出されている。本来は興進様が昇華される必要も無かったし、清平の摂理も必要なかった。しかし地上の摂理、特に祝福家庭を中心とする摂理が祝福家庭の度重なる失敗で、結果として今の摂理事情となっている。後が先になり先が後になる複雑な事情の中で、絶対服従の基準とひとつになって御父様にしがみついて行かなければ、思考にも感情気分にも、しがみ付く手を振り払おうとする見えない力が働いて、気付いた時にはみ旨の願いから遠ざかりベクトルが違う方向に向いていたりする。祝福を受けて幸せな家庭を築いたからと言って、その位置に留まったままで負債を覚えないかどうかは、各自の良心が一番よくわかっているだろう。御父様が真の家庭を犠牲にされて摂理を進めておられるように、私の家庭を犠牲にしてでも祖国創建を願い、アベルUNとカインUNの一体化を願って与えられたみ旨に邁進しなければならない。祝福を受けて祝福家庭を築けなかったら祝福は流れるように、国基準の祝福を受け入籍しながら祖国創建が果たせなかったら祝福は流れてしまう。祝福は次元を上げてこそ、展開されてこそ祝福であり、囲い込み個人執着的な祝福の捉え方はもはや祝福とは言えない。祝福の形骸にしがみ付いて満足していては本当の祝福の実は実らない。霊を見届けて捉えることを忘れ、一般の宗教で得られる心の平安で満足しようとする心魂のステージに自分を貶めている。統一教会が神霊協会であることを忘れようとしている。

霊という言葉を理解する

堕落人間は堕落人間であって人間ではない。自分を人間だと思って疑わないから人間の尊厳を自分に当て嵌めようとするけれども、人間の形を備え、人間らしき魂の活動をしていても霊を供えた人間に到達してはいない。私が言葉を喋る動物、服を着た動物から区別され、人間へと向かう為には魂が霊を捉え、人間としての霊を所有して完成する必要がある。善行を為したなら天国へ行け、悪行を為したら地獄に行くというような、そんな単純な話ではなく、霊を所有し完成しなければ本来の天上世界に辿り着くことすらできない。祝福を受けて死の門を潜ればそこに祝福先祖が待っていて、天国の入り口まで手を引いて案内してくれる。祝福を受けたという証明書を入り口で差し出して天国の中に入って行くと、御父母様がそこに居られて迎えて下さる。そんな、絵本にでも書かれたようなイメージをもって信仰生活を送っているのだろうか。ほっとけば腐って化学分解する肉体を生命存在にしているのは、私に生命体が備わっているからだ。死の門を潜れば先ず肉体を放った生命体が、一つ残らず刻まれ記憶された一生の経験体験を蘇らす。生命体は完璧な記憶体だ。一生を振り返え終えて生命体を脱ぐと、次に記憶のエキスだけを抱えた魂体が魂の世界、欲界に赴く。欲界で肉体のない渇き、地上感覚のない渇きを味わい、その執着に応じた浄化を為していく。浄化の期間には相当量の期間を必要とする。そして初めて霊界へ参入していくのだが、天国に近い霊界の高みに近付けば近付くほど、私の正体が何なのかを問われることになる。霊を備え霊の存在を明確にされなければ、尊厳の光を受けて喜ばしく思うより、霊にもならない霊を焼き尽くされる苦痛に耐えかねて留まることは出来ないだろう。堕落人間が天使長ルーシェルの末裔であるとは、人間としての、即ち神様の息子娘としての霊すら備えず、ルーシェルの低次霊、マムシの霊を核にして魂を活動させ、生命を繋いできたと言うこともできる。だからどんなに善行を積んで良心的生活を為しても、それでも人間の霊を備えられて天国に入れる訳ではない。では、祝福さえ受ければ天上天国に入れる霊を備えることができるのか。

2011年9月3日土曜日

精誠

汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために、、、。私の内容にも外的な結果にも、実りと言えるものが見出せなくて、苦労してきたことが無駄だったのだろうかという思いと、苦労の貯め桶はいまだ溢れるに至らずその結果を見るにはさらなる苦労が必要だという思いと、二つの間を揺れ動きながら、隊列から遅れようとも辛うじて御父様について行く自分を絞り出している。果たすべき積み上げられた重責を前にすると、歯痒くも情けない自分の姿に打ちのめされ、立ちあがる力もなく地にへたり込みそうになる。へたり込んでしまえばますます隊列から遅れて行くだろう。汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために。ただこの言葉だけを何度も何度も力なく心に繰り返しながら、また立ち上がろうとする。地の力が強すぎて私の霊は地に縛り付けられる。手も重く足も重く、体が重くて思考も感情も意志も金縛りにあったようだ。この重い体が恨めしくとも、それでもこの肉体を切り離すことはできない。この肉体をもって地上のみ旨を果たさなければならない。重い十字架を背負い、ゴルゴダの丘への道をイエス様が進まれるとき、イエス様の心中はどうだったのだろうか。重い足取りで、苦脳を表情に滲ませながら、希望の光の糸口だけでも見出しておられたのだろうか。重い体に占領された、私のみ旨に向かう魂は、どんなことがあってもこの呪縛から解放されなければならない。十字架を超えられて、霊的希望を見出されて、地上復活の摂理が展開されたように、この重い体を引きずってでもゴルゴダの丘に到達できれば、必ずや新たな視野が丘の上から望まれるだろう。イエス様がサタンに身体を引き渡すことで霊的救いを勝ち得たように、私の霊が諦めさえしなければ私を中心とする救いの摂理は奪われることはない。この手が千切れ、この足がもぎ取られても、救いの希望は未来に、次なる代に繋げられていく。汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために、、、。み旨に向かう心が汗を流しているか。み旨に向かう心が涙を流しているか。さらにみ旨に向かう心が血を流さなければ私を地に縛り付けるサタンはその手を緩めることはない。引き摺りながら踏み出す、この僅か一歩の精誠であっても、全生命をかける。

2011年9月1日木曜日

今日の想い 363

サタン世界の歴史は怨恨の歴史であって、私が末尾にいる血統の因縁は流された恨みの血で血塗られている。血統という言葉を聞いて何の感情も覚えないなら霊性は閉ざされたままだ。ありとあらゆる恨みの感情が毒々しい血の色となって私に迫ってくる。この恨みを清算して洗い清めることがどれほど難しいだろうか。ましてや絡まり血塗られた怨恨の人類歴史、血統因縁の全ての歴史を解かなければならない御父様の心はどれほどだろうか。私達は無邪気に御父様、御父様と慕っているつもりでいるけれど、御父母様の前に孝行を立てようと思うなら、この清算を私が背負いますと覚悟しなければならない。積年の恨みがこの身体の血肉となっていることを見通せないなら、清算の意味もわかるはずがない。何もわからない者達を抱えながらも摂理に責任を持たれる御父様であり、だから孤独な御父様でもある。日本の警官に引きちぎられて死んでいった柳寛順を日本人と結婚させるほどの御父様だ。御父様が言われる怨讐を愛するという基準がどれほどのものかが伺える。いつまでも無邪気なままでは御父様の足手まといにしかならず、体が引き裂かれ、心が引き裂かれても御父様に従い、御父様が踏み締めてこられた愛の道を、犠牲の道を私も行くと決意しなければならない。死んでこそ生きる道が開けることを多くの食口はわかっているはずだ。御父様の路程がそうであるように、何度も何度も死の谷間に飛び込みながら次なる生きる道を切り開いていく。血塗られたこの血統はこの私が処断し私が清算する。その意味での氏族メシヤであって私が逃げているうちは血統的救いはない。

今日の想い 362

教会の食口たちが印象として捉えられている彼らは純粋だという表現は、それを当て嵌めて納得すべきではないと思う。周りからもそう思われ、食口たち本人ですらそう思っているふしがあるが、今の世の中で人に対して使う、貴方は純粋だという表現には、きわめて相手を不憫に思う見方が伺える。信じやすく近視眼的で、騙されやすく思慮に欠ける、そんな印象で私達は見られている。見られている以上そう見せている部分があることを私達は認めなければならない。教会に反対する人達が口にする同じ言い種は、彼らは騙されていると言うものだが、騙されているように見られる自分がいると言うことだ。御父様や真の家庭に対する中傷や非難を、一方的に相手側だけの問題だと捉えているけれど、少なくとも半分以上は我々に非があるはずだ。私達は先ず、目を覚まさなければならない。やれと言われたからやる、であるなら永遠に私を中心としたみ旨は為せないし、周りから見てやらされ感は見え見えだ。やれと言われたことを自分の意志としてやりたいという、自分の想いから発するまでに昇華しなければ、それは騙されていると思われる範疇から抜け出すことはできないだろう。み旨としての全ての歩みに、一生の間やらされ感という深い霧に覆われ抜け出せないまま霊界に行くことになる。その場が本当に天国だと言えるだろうか。不憫に思われてきたことは仕方ないにしても、私達が自分を不憫な存在と信じ不憫な存在に落とし込めるべきではない。御父様はわざわざ不憫な者達を集めてみ旨を為そうとしておられるのではない。私達は目覚めて脱皮すべきだ。不憫でもなく、可哀想でもなく、弱者でもない。合わせて下手に温厚で優しく、人格者の振りを装う必要もない。み言葉は家庭を重要視しているけれど、私たちの思い描いている平和な家庭が理想家庭でもない。個人に於いてそうであるように、家庭の中にもありとあらゆる堕落的なものが入り込んでいる。不純物にまみれた汚物が家庭の底に沈殿しているのを、波風立てないように掻き回さないように当たり障りない距離を取って暮らすなら、それは偽善者ならず偽善家庭に他ならない。偽善夫婦より、髪を引っ張り合ってでもお互いに交わり合おうとする夫婦の方がまだ前進の余地は有る。私の中の偽善を偽善と見破る私を備えてこそ、み言葉によって芽を出した本当の私が活動する。

2011年8月28日日曜日

今日の想い 361

真の家庭の様々な問題を御父様がどのように説明されておられるかは、2000年11月、ハワイで語られた父子協助時代宣言のみ言葉の中にある。概要を述べるとこうなる。再臨主が来る前までの女性は血筋を正す役割があり、サタンが手を付けることができる子供に母子協助することで反対を受け、天使長の位置にある男性は全ての女性を蹂躙してきた。母子協助から父子協助へと言うのは、御父様が子女が生まれたために真の父として立たれ、母が子を助けて血筋を正す蕩減的内容から、(真の)父が直接子を助けることができるようになったということだ。神様を中心とした真の父が現れ、真の父を中心として真の母が現れ、そこから生まれた息子娘たちはサタンは手を付けられず、変わって真の父が直接手を付けることができ助けることができる。真の家庭に様々な問題があったということは、サタン世界にいる祝福家庭たちが責任を果たせなかった為であり、御子女様たちはどんなに誤ったとしてもサタンとは関係がない。よってこれを収拾し解決することが父子協助として御父様はできる。その為に御父様は聖人たちと悪人たちを祝福し、地獄と天国を崩す権限をもって真の家庭圏内の傷も赦される。と、大体こう言う内容として私は理解したが、私にとっては難解な御父様のみ言葉なのでそれぞれに読んでみて確認して欲しい。しかし赦されてそれで良しとされるのではなく直系の子女としての難しい路程があることもはっきりと言及しておられる。このみ言葉で先ず私が理解すべきことは、私達は表面的なことだけを捉えてああだこうだと言っているが、御父様は確実に背後を見通され、私達には見通せない幾次元もの霊界に通じ、神様とサタンとの遣り取り、取引をされながら摂理を進めておられると言うことだ。疑心で目が曇らされてしまえば、どのようにも避難できるしどのようにも解釈できる。批難一辺倒の者に対して敢えて説明しようと思わないし、説明すべきでもないだろう。すべての解決はみ言葉にあり、本人自身にあると言えるだけだ。

今日の想い 360

地震の次はハリケーンだ。東部海岸沿いをハリケーンアイリーンは北上している。ワシントンはチェサピーク湾を挟んで外海の大西洋から100マイル内陸に位置している。店や私のアパートは更に50マイル西に入っている為ダイレクトには影響はないが、それでも雨量は半端なく、朝からの雨が日を越して明日一日降り続くようだ。店もアパートも建物自体は古いので、雨が続くといつも雨漏りに悩まされる。雨漏りは天井の裏だから相当量水が溜まるまで気が付かず、漏り始めるとたらいをひっくり返したように雨水が落ちてくる。それでもランチ開けで客が引いた後だったので良かったが、下手すると客に雨水の洗礼を浴びせることになりかねなかった。今回はこの地域に強風が吹かないだけ有り難い。風が強ければ確実に停電する。一度停電すれば復旧に二日や三日はかかる。そうなると営業が出来ないこともさることながら、冷蔵庫や冷凍庫の在庫が全部駄目になってしまう。アパートのリビングも雨が漏っている。安普請で備えられたサッシの隅から、侵入した雨水が窓枠の桟を打つ。壁板の背後を伝わって滲み出た雨水がフロアーの絨毯を濡らす。絶え間ない雨漏りの音を聞き、絨毯のシミが広がっていくのを見ながら、田舎のあばら家で吹き込む雪に煩わされていた、子供の頃の当時の情景を思い出した。早めに処置すべきだという認識は一方で持ちながらも、五十を超えアメリカに住みながらもあの頃と同じように外部からの侵入物に煩わされているのが可笑しくて笑えた。どれほど人生の問題に悩もうと、どれほど内的霊的問題があろうと、日常は溢れる生活の対処事項に追われながら過ぎていく。でも生活上の些細な事柄であっても、そのひとつひとつが万物との関わりの中で万物を愛する行為でもある。子供のオムツを替えたり嫌がる子を風呂に入れていた煩わしさが恋しく思われるように、最近は生活の煩わしさが愛おしく思えてくるようになった。店でも毎日何かはある。下水やトイレが詰まることも度々だし、エアコンが効かないフライヤーのバーナーが働かない水が漏れる、、次から次へと対処すべきことが起こって終わることはない。でもそれは子供のように駄々をこねる店としての愛を求め愛の証しを求める表現だ。手を尽くした分だけ、愛した分だけ、私は愛の主管性を復帰する。

2011年8月27日土曜日

今日の想い 359

私の中には漠然としたものであってもみ言葉に照らした善悪の基準があり、その基準から外れないように意志として行動に働きかけている。私達は今まで、特に献身制度の上で原理、非原理という言い方をしてきたが、それは原理圏、非原理圏というすみ分けであり境界線を引くものであり、原理圏が善で非原理圏は悪であるという基準を備えたということだ。献身制度という隔離された状態から少しずつ境界線が取り払われ、私達は非原理圏に生きており、非原理圏の価値判断を備えており、非原理圏の社会生活に浸透している。ではそれは私が悪に染まってしまったのだという言い方をするなら、私は原理圏という無菌状態に置かれない限り悪から離れられないのであり、悪を善に変える意志を備えてはいないと言うことになる。それは自由意志を備えた自由な人間ではない。神様はアダムとエバが堕落する時でさえ自由意志に任せておられる。自由意志の前に先ず善悪の基準が先立つなら、神様は裁き第一の神様であり世界は善の牢獄としか言いようがなくなる。神様が自由意志を立てられるのであれば、私も裁きの為の善と悪のすみ分けをすべきではない。真の愛に浸透された意志を働かせて、より悪に傾いているものをより善になるように働きかけて行くことで、私の内にある善悪基準は正しく使われたと言うことができる。私自身を裁くならまだしも、周りを見て裁きのひとかけらも内なる私に見出せるなら、私の善悪の基準は真の愛に浸透されたものではなく、堕落的なものに使われ堕落的なものに留まったままだ。親が子供に対する時、子供に悪の要素があるからと言って突き放すことはない。悪の要素を取り除いて善の要素に満たされるよう働きかける衝動が親の愛だ。子供は親に取ってかわいいから愛をもって接し、隣人や社会には善悪基準で裁いて突き放すなら、私は自己中心というルーシェルから受け継いだ堕落性から抜け出すことはない。

2011年8月26日金曜日

地球の胎動

ワシントンで、一年の間に既に二回の地震を経験している。今回の地震は実に広範囲だった。北はカナダのトロントから南はフロリダまで、中西部はシカゴまで揺れたらしいからアパラチア山脈あたりからアメリカ東部全域に及んでいる。プレートの断層がないこのエリヤで地震を起こす原因が何なのか。地球は今、大きな変革期にある。内的霊的なことと、外的宇宙的なこととが全く別様に動いているように思えるのは、人間の唯物的な思考と感性に拠っている。五感で見聞している今の世界や宇宙が、過去にも同じ様相であり未来も変わらず同じ様相を呈すると信じ込んでいる。天地の創造が完成した後に、人間は創造されたと信じ込んでいる。それは原理を受け入れ、御父様を信奉している食口だって同じことだ。地上天国という私達の認識はあくまで内的なことに関することだと思っており、それを踏まえた人間と人間との関係性のことだと思っている。要するに人間の心の問題として捉えている。私の中に心があると言うのは信仰を持たない者であっても理解しているが、心という非常に漠然とした捉え方ではなく、心の作用を分析して魂があることを見抜き、魂の背後に霊があることを見抜かなければ唯物主義者と差ほど変わりなく、信仰の根が深く根付くことはない。創造が始まると同時に人間の創造も始まったのであり、今の状態も未だ創造過程にあり、人間の創造も完成した訳ではない。人間の形姿の状態、人間の感覚の状態、人間の生命の状態、人間の魂の状態、現代人と古代人とは似ても似つかぬ差が有る。人間始祖アダムとエバが現代人と同じだったと思えること自体が間違っている。人間の形姿、感覚、生命、魂の様相を人間始祖以来ここまで完成形に近付けたことは、ルーシェルと戦ってきた神霊存在の恩恵だ。ルーシェルの影響をもろに受ければ、今の肉体形姿に見るような統一形は有りえないし、視覚聴覚を通して受け取るものが痛みや苦痛であるような粗雑な感覚器官と、無茶苦茶食い無茶苦茶吐くような極端な生命活動しか為しえない動物以下の存在になっていただろう。更に魂の中に良心を植え込むまでにどれほどの戦いが繰り広げられてきたことか。人類の魂に良心が植え込まれて初めて人類存在の根源を変える救世主を迎えることが出来る。人間が変革してきたように、合わせて地球も変革してきた。人類歴史が後天時代を迎える大きな変革期を迎えているように、合わせて地球も大きな変革期を迎えている。地震で揺れ動く大地を感じれば、地球再生の地球の声が私の中にも響き渡る。揺れ動く大地は新生地球の胎動だ。新生地球はこれまでの地球の在り様が嘘のように、まさしく生きた星となる。

2011年8月21日日曜日

今日の想い 358

都市空襲で焼け野原と化した日本に、更に大量の市民を殺傷する原爆を投下する必要があったのかと言う疑問や是非が論議され、アメリカが一度として非人道的なこれらの無差別大量殺人に対して謝罪もしていないし、国際法の裁きも受けていないと非難する。そこでもやはり個人的な感情が先立ち、個人的感情に引っ張られる形で言葉の遣り取りが為されても、両国間のわだかまりはより深まるばかりで何の国益も紡がない。従って勝てば官軍の言葉通り、戦勝国が善しとするものを善しとするのは当然で、敗戦国は戦勝国の言いなりになるしかないと言う諦めの気分が大方の気分だろう。しかし日本は日本としてその気分に浸っていることが日本の発展に繋がるのか。更にはエバとしての立場で摂理の期待に応える日本が、この気分の上に築城されるのか。集まった日本の食口に対してわざと汚い言葉を使われながら、必ずと言っていいほど日本への非難を直接的にされるのを耳にしていると、それが余りにも直接的であり、真の愛だろうかと思えるほど恨みがましく、それを受け取る大方の食口はそれ程に日本の侵した罪は大きいのだと結論付けてしまうけれど、私はどうしてもそこに御父様が口に出来ない日本への願いの言葉が隠されているように思えてならない。あまりにも私達の憤慨の感情を無理にでも引き出そうとされておられるようで、わざとらしさが見える。御父様はその言葉で日本の食口を試験しておられる。隷属的言葉を吐かれることで隷属的意識にある私達を気付かせてそこから抜けだすことを願われ、更には抑え込んでいる感情を吐き出させその感情を主管する私達を引き出そうとされておられる。感情を超え、感情を主管する私達となることで真の愛国者の位置を奪還し、エバは母の国としての皆から見上げられる位置を揺ぎ無いものとすべきであって、お金だけを吐き出し雑巾のようにボロボロになるだけの母の国であることを願われているとはどうしても思えない。御母様の威厳を母の国は相続すべきだ。今の状態が続く限り、ますます貰いうけ、ただ甘えるだけの子女国家群から、母を敬い母を助ける国は育たない。

2011年8月20日土曜日

今日の想い 357

終戦記念日は今年で66回目を迎えた。広島と長崎の原爆記念日も66回目となる。66数はサタン数の終結と一致するけれども、終戦66回目という摂理的意味があるのかないのかはわからない。日本は真珠湾を攻撃することで眠れる獅子アメリカを叩き起してしまい、惨憺たる状態で敗戦を余儀なくされてしまった。いろんな角度から歴史を検証すれば、追い詰められるような形でアメリカ開戦に踏み切ったようだけれども、背後にある本当の真実は復帰摂理の観点に立たなければ見えてはこない。摂理観を持って見える真実は、日本はサタン側のエバとして真珠湾を奪い取ることがどうしても必要だったと言うことだ。海は宇宙の子宮であり、エバはサタン世界で太平洋を取り囲むことが自らの子宮を得ることだった。勿論当時の中枢に摂理的意味や背後が見えていた訳ではないが、日本の背後に、日本の中心部をサタン側として動かす霊的存在が存在していた。個人の常識や良心では図り得ない、そして抗うことも出来ずに巻き込まれるしかない、所属する国家や世界の摂理的事情がある。どれほど善人で良心的な人物であってもサタン側で利用もされるし、或いは逆に、どれほど悪人であっても神側で利用されもする。個人の常識や善悪判断を超えた次元の遣り取りが摂理史上に刻まれてきたし、今の摂理でもそれは変わらない。大戦に於いて神側である連合国とサタン側である枢軸国との主権をかけた戦いで、アダム家庭でカインがアベルを殺した条件を世界的に蕩減復帰する、その最終段階としての世界的鉄槌が広島であり長崎であった。個人としての恨みがあるように国家としての恨みもある。個人として蕩減すべきものがあり国家として蕩減すべきものもある。御父様は日本の食口達の前で日帝支配を責められるけれど、それは個人を責めておられるのではない。日本を代表した立場で受けるのであれば、個人的な感情を引き出すべきではない。他国はもっと酷いことをしていると非難がましい感情を起こすでもなく、かと言って卑屈な感情に落ち込むことも正しくない。個人的感情を持ち出せば国家としての恨みも解けないし国家としての蕩減も果たせない。国を本当に愛するものは国としてあるべき国家感情を理解している。謝罪外交、弱腰外交は国の命運を個人感情という引き降ろした低級な魂に渡したのであり、そこに国への想いはひとかけらも見当たらない。

2011年8月17日水曜日

今日の想い 356

私の魂は未だに堕落の様相のままだ。食べたいだけ食べ、寝たいだけ寝て、肉心の要求する享楽を満たした状態でみ旨に関わろうとするなら、意識に於いては趣味や道楽に向かうものと何ら変わりはない。趣味や道楽はやってもいいしやらなくてもいいように、み旨に対しても出来る範囲でということで甘えてしまう。自分の肉心と相談し、心の内に波風が立つことを恐れて、み旨という領域の中に深く飛び込むことが出来ないなら、結局御父様の懐の中にさえ飛び込むこともできないだろう。御父様の子だと認知して戴いても、私自身が御父様に背を向けていることになる。御父様、御父様と口にしながらその実、心を偽っていて、偽りの愛の幻想から抜け切れていない。エジプトに後ろ髪を引かれる私なら、不信の荒野から抜け出してはいない。雄々しく強く立ちあがったヨシュアを内なる私に備えるということは、私の中に決意と覚悟があるかどうかだ。飯が喉を通らない、寝るに寝れないという状況にでも置かれなければ決意と覚悟は備えられないのか、或いは能動的に自分をひもじい状態、睡眠を削った状態に置くことで決意と覚悟を備えるのか、堕落様相の魂を主管するためにはどちらかが要求される。私の魂と身体を舞台にして神霊が勝利するのか、或いは魂を占拠し続けた悪魔的霊が防衛するのか、一進一退を続ける限り勝利はいつまでたっても見えてはこないだろう。腹風邪をひくと気分が悪くなり吐き気で苦しくなる。腹の内容物を全部もどせば楽になるけれど、吐くたびに体中の力が抜けて行って吐く気力さえ出てこなくなる。そんな症状は現状の魂の内容を吐き出させ、新たな神霊による魂が芽生えるのを待つのとよく似ている。魂に棲む堕落の内容物を吐き出すことだ。それもとことん底をさらって吐き出すことだ。先ず吐き出さなければ新たなものは入ってこない。生気を失うどころかこのまま消えてなくなりそうになるけれども、その状態を内的に体験しないと魂は変わらない。今まで築き上げてきた魂の塔は内的に打ち砕かれて崩れ去り、全てを否定され全てを失った立場で、それでも清々しささえ覚えて感謝できれば、私の魂は生まれ変わる。神霊によって新たに入魂される。

2011年8月16日火曜日

今日の想い 355

み言葉の月刊誌の挿絵のように、理想家庭を絵に描いたような家庭を築くはずが、付き付けられる現実は地獄の様相だ。苦しい胸の内を吐露するなら、み言葉は私に取っては胸に痛すぎる。愛のみ言葉が裁きの言葉としてしか受け取れない現実を抱えながら、それでもこの道を行こうとするところにこそ決意と覚悟は本物になるのだろう。地獄を受け止める腹が据わる。終りを知らない責めを受け止め続け、心がボロボロになりながらも着いて行くのは、そう思わされることが今の私への神様の愛に違いないという信仰だ。愛がいつも優しい顔をしてやってくるとは限らない。冬のような厳しい愛も真の愛に違いない。ああすべきだった、こうすべきだったとは、もはや言うまい。過去に撒いた悪い種の実りを今味わっているとしても、それでも私は過去に主管されるべきではない。この痛みが、この苦悩が、新たな産みの苦しみとなって明日を創造している。カルマ(因縁)を過去に見て感情しても時は遡れない。今こうしている内にも、時は前へ前へと刻まれ前進し続ける。カルマの穴埋めの為にこの痛みを味わうのではなく、この痛みは未来を築く為に願って受けているのだ。私の決意と覚悟が本物になれば、私の腹が据われば、霊界は従わざるを得ないだろう。待ち構えている絶対善霊は私の絶対信仰、絶対愛、絶対服従が本物かどうかを見ている。協助せざるを得ないと彼らが突き動かされたとき、どのようにも働きかけてくるはずだ。その衝動に点火するかどうかは私にかかっている。私が子供を置き去りにして天国に行こうとは露ほども思っていないように、多くの人類を地獄に置いたまま喜び安堵される神様であるはずがない。次元が違うとしても、この痛みと苦悩は神様の痛みと苦悩でもある。私は神様の痛みと苦悩を共有している。この痛みと苦悩は、神様が私を信頼しておられる証しだ。

2011年8月15日月曜日

霊と魂を混同している、の続き

思考における悲観や楽観、感情における安堵や苦悩、私の堕落的魂のそういった活動は既に自己中心というルーシェル本性が染みついているから、その思考や感情に委ねる以上、私はルーシェルの内的環境から抜け出すことはできない。祝福を戴いて私の中に神様の血統に繋がる魂の萌芽は見てとれるとしても、正しく畑が用意されず養分が宛がわれないなら、以前として堕落的な魂の在り様のままだ。一日の生活の中で何千何万という思いや感情が来ては去り来ては去る魂の活動は、まるで自己保身に狂った暴れ馬の如くで、私の中心的霊の現れである良心の主管下にはない。一方でうるさい魂を鎮めて良心の声を聞けるよう訓練し、その一方で良心の存在と声を際立たせる神霊の強化を図る。この瞑想や祈祷とみ言葉訓読の両立以外、堕落的な魂を超えた位置で私を導き得るものは今のところ見当たらない。比較から出発した自己の自覚が堕落の動機だったが、先ず対象に投入し対象を喜びに満たし光輝かせることで自己を自覚するという、簡潔に言えば為に生きることで私の存在を知る人間本来の霊を取り戻して、新しく入魂する作業を行っている。私の本当の喜びであるとか幸福であるとか自分を満たし得るものは、対象を経由するもの以外あり得ない。直接的短絡的に自分を満たそうとするもの全ては結局自分を不幸にし、自分を失わせるものばかりだ。私の魂の不健康さは、自己保身、自己満足、自己中心がその根底にありながら、それに蓋をしてしまって見ようとはしないことにある。悲観や楽観、安堵や苦悩、魂の表面的な活動を主管しようとするなら、蓋を取って己の正体の醜さを先ず自覚することだ。その自覚(罪意識)を踏まえて初めて、為に生きる魂の入魂に入れる。

2011年8月14日日曜日

霊と魂を混同している

私達がみ旨に対する時、先ず私達の前に立ちはだかるのは私の気分の問題だ。私達の心の中に、様々な気分が低く重く垂れこめた雨雲となって、良心(神)という太陽存在を遮っている。家庭復帰、氏族復帰、子女教育、為さなければならない多くの事柄を自覚してはいるけれど、悲観という暗雲に遮られ浸透され、金縛りにあったように身動きできないでいる。難しいという悲観気分で、為さなければならない事柄に常に対していると、出来ないものとして常套化されてロックされる。そうやってロックされた墓石が、もはや近づき難いものとなって私の内界に癌のように留まる。私の霊界は為せない事柄の墓標で次第に埋め尽くされていく。あれもしなかったしこれもしなかった、あれも出来ないこれも出来ない、悲観は更に悲観を呼んで立ちあがることすら出来ないでいる。氏族の解放、民族の解放、人類の解放の旗頭となるべき祝福を受けた私が、私自身が解放されず気付いてみると囚われの霊になっている。清平詣でをしたなら全ての問題が解決されるのかも知れないという期待感を持っていたけれども、受動的な待ちの状態の他力本願、心の中の悲観気分を何とかしない限り、状況は変わらないという思いに次第に落ち着いていく。或るとき急に、憑きものでも取れたように悲観気分が一掃されて、良心の願いのままに動じ制ずる私になれるかというと、それは殆ど妄想に近いし危ない。私の願いであるかのようなその状態は、多分に堕落的魂が作り上げた妄想概念に留まっている。気分の問題や、思い描く私の理想や天国は、魂内に留まっている。私という存在が魂内に留まる限り、魂を超えて魂を支配している霊を見ることはない。私という存在は魂の存在である以前に霊の存在だという真理に対する無知がある。魂を超える霊の存在、霊への影響をみ言葉から受け取れないなら、私はいつまでも堕落的魂に漬け込まれたまま、悲観と楽観を漂う根なし草だ。御父様が話されるように、私達は魂を霊だと思っていて霊を見通せないでいる。

2011年8月11日木曜日

今日の想い 354

連日百度を超えていたのが嘘のように八月に入ると気温は下がった。日中の日差しはまだまだ強いが、朝晩は肌をさするほど涼しい。昨日、店の食材の買い出しに車を走らせていると、落ち葉が二枚戯れるように舞い降り過ぎ去っていった。一瞬のことだったがその情景が日がな離れず、秋が近づいているのを教えたいのか、或いは対になっていたことに意味があるのか、どうでもいいようなことだけれど気になった。盛夏を超えて、日中の強い日差しにしな垂れていた木々の葉も、今はしっかりと葉表を太陽にかざしていて鮮やかだ。大気の熱が抑えられると光は煌めき、生命活動を軽やかにしてくれる。滞っていたものが流れだして流動的になると、同じ生命要素を共有している私の身体も軽やかになる。二枚の葉が風に舞うように、私の心も軽やかな身体からさらに舞い上がって、心の旅を始めようとしている。食口であればいろんな地域を回って来ただろう。私も北海道と沖縄だけは行かなかったが、殆ど全国を渡り歩いた。その土地土地で景色が異なり、水や空気が異なり、雰囲気が異なるのを感じながら、背後にある霊的なものが異なっているという感性を学んできた。その感性で様々な霊的領域に入っていくことができる。どれだけ皆が認識しているか知れないが、その感性が私を自由にしてくれる。ひとつの心配事や悩みの中に没入してその領域から出ることができないということは、別の領域があり、足を踏み入れることができるいろんな世界が広がっていることが見えないし解からないということだ。それは別の領域に逃げるということではなく、別の領域には別の領域の見方があり知恵があるということの発見だ。私達は次元を超えて旅をする自由人だ。真の愛と真理がそれを可能にしてくれる。コリント第二の聖句が私達の中に生きている。悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っている。別の領域への扉が開く瞬間がある。それを逃さなければ様々な叡智をいろんな領域から得ることができる。二枚の葉が風に舞うように、或る者に言わせれば明日の知れない身の上だけれども、自由に飛び交いながら内的霊的ネットワークを渡り歩いて、あらゆる知恵を享受している。

ヒグラシ

蝉が鳴いている。日が傾き始めてミンミン蝉が鳴き始めた。アメリカでもミンミン蝉は鳴くけれども、日本の故郷で鳴いていたヒグラシは鳴かない。おそらくここにはいないのだろう。西日が景色を赤く変える頃に、ひと際高い音程で、大気を乾かすように鳴いていた。湿って重い私の心の中にも、ヒグラシの音が染み入って気持ちを軽やかにしてくれた。周りの林の間で相談でもしたように、ひとところが鳴き止むころになると別のところで一斉に鳴き始める。四方のいろんな角度から届く響きに身を委ねていると、もみほぐされるように心は柔らかくなっていく。柔らかくなった心の内側に更に高い響きを受け入れると、余計なものを洗い落とされるようで清々しさを覚える。降り積もる雪の中に佇むと、静寂のなかに沈むことで心を癒すけれど、ヒグラシが鳴く西日の中に佇むと、響きに洗われることで心を癒す。私を遡るいつかの遠い夏にも、このヒグラシの音を耳にしていたはずだ。どこか懐かしく郷愁を誘い、自然と涙ぐんでくるのを見れば、失ったものがこの響きで癒された過去がある。響きに誘われてさめざめと涙を流しながら、魂の深みから新たな生きる力を注がれていった記憶がある。アメリカでも旧盆を超えれば急に涼しくなる。今年の夏ももう直ぐ終わる。それを知っているのだろうかと首を傾げるほど、せわしく鳴くアメリカの蝉は無邪気だ。季節感とは無関係にただ好き勝手に鳴いているように思える。季節に対する繊細な感性を捨ててしまったアメリカの蝉のように、私は自分の周りに対しても心情に対する感性を育てることが出来ずにいる。故郷のヒグラシが一斉に鳴く、あの宗教的響きの中に身を置くことができたら、人は変わるだろうか。深々と降り積もる雪の、あの宗教的静寂の中に身を置くことができたら心を開くだろうか。重いものを抱えたままで、今年の暑い夏も過ぎようとしている。ヒグラシが鳴くのも耳にできずに、夏は去っていく。

2011年8月9日火曜日

ナイアガラの滝 (3)

カナダ側からはカナダ滝、アメリカ滝の全景を正面から見ることが出来て、ホテルやアトラクションはカナダ側に集中している。誰もが滝の全貌を目にする為に、わざわざレインボウ橋を渡ってカナダに入国する。アメリカ側から回り込むようにして川沿いの観光客の流れを南下していくと、それは次第に迫ってくる。水量の多いカナダ滝に接近すれば轟音が地響きとなって足を伝い身体を振動させ、滝の威力で巻き起こる風が飛沫を浴びせる。迫力を言うならやはりカナダ側だろう。近くで見るカナダ滝は、勢いよく雪崩落ちるその流れに引き込まれるようで、天から地へと投入し続け流し続ける、或る意味空しさにも似た感情気分に落とされ何とも言えない気持にさせられるが、少し距離を置いて見る滝は別の感情を湧きたててくれる。地上的計算を度外視した莫大な投入に次ぐ投入を継続させながらも、逆に地から天へ昇っていく次元の異なる霊的な成果をそこに見るような想いが湧き起こる。太く細く、青い筋や白い筋を描いて落ちていく流れは、青い竜や白い竜となって遡って行くようにも見える。訳のわからぬままにつぎ込み投入されるものへの虚しさから、より高い次元に昇華されるものへの期待が伺われ、地の道理から天の道理への気付きが閃き起こされ、為に生き犠牲を厭わない御父様の哲学がここにも生きているという発見がそこにある。御父様はどれだけ投入してこられただろう。御父様の路程はナイアガラの滝のごとくに投入し続けてこられた路程だ。このアメリカだけを考えても常に投入してこられた。莫大な人材と万物を投入され、御子様を失おうとも流れようとする涙も禁じてアメリカの生きる道、世界の生きる道の為にその子を想う御心情さえも投入された。ダンベリーではその御身体すら拘束させてまで投入されてこられた。批難し命を狙おうとする共産党員ですら呼び寄せられ教育され、抱きかかえられ愛されて投入された。投入しただけの外的成果を見るべきだと、私達はその観念に染まっているから成果が見届けられそうもない投入には躊躇するけれども、御父様は徹底的に愛され犠牲となられ投入されるから、如何なる地上の存在も霊界の存在も、神様までも御父様には頭を下げざるを得ない。統一教会はそのような犠牲精神に貫かれている。私達の内面を伺って、犠牲精神が流れる滝の様相となるほどに内面に見てとれるかどうかを問わなければならない。この大宇宙を創造する為に気の遠くなる年月と莫大なエネルギーを神様が投入されたように、御父様もそれ以上に投入され更に投入されようとされる。滝の淵を見ていればそこに自分が立たされているかのような錯覚を覚え、飛び込む覚悟を迫られるようで足がすくむ。その恐ろしい位置に敢えて立たれておられるのが御父様だろう。

2011年8月8日月曜日

ナイアガラの滝 (2)

ナイアガラの滝で最もよく知られているのがMaid of the Mistだろう。遊覧船に乗り、滝の飛沫に煽られる暴風雨圏内にまで滝坪に近づき、滝を間近で見物するアトラクションだ。見物するというより台風の只中に立ち尽くすような状況に置かれて、入り口で渡された簡単なポンチョでは飛沫を防ぎきれない。それでも飛沫が優しくなる瞬間瞬間をとらえて見上げれば、轟音を立てて下り落ちるそそり立つ水の絶壁を視野一面にすることができる。この迫力ある非日常の景色と空間は、全ての見る者に自然に対する畏怖の念を一瞬であっても抱かせる。船と言う安全圏内でほんの数分のことなので、その気分に浸る程にまでは至らないまでも、目前の事柄に対して個人的欲で追いかける小さな私の魂が何とちっぽけで、安逸なままに生きようとしてもどのようにも抗えないものがあることを見せつけられる。科学万能の世の中で、人類はもはや自然に対する脅威を抱く必要が無くなったかのような日常の気分に誰もが浸っているけれど、それが幻想に過ぎないことを悟る時期に来ている。現代人に取って捨ててしまった大切な気分として、より精神性の高い存在、高次の霊的存在に対する畏敬の念を上げることができる。自然に対する畏怖の念を魂の中で成長させれば、それは高次の霊的存在への畏敬の念、更には神様へのより深くも重い畏敬の想いへと成長していく。神様がわからない、だから信じないと、実に簡単に片付けて割り切っている人が多いけれど、内面のこの精神的作業さえも疎かにして無視すれば、何千年何万年経とうとも、何度輪廻転生を繰り返そうとも、内的霊的無知と盲目、神様に対する無知と盲目は永遠に続いてしまい、そういう人間は言葉らしきものを喋る動物に留まってしまう。御父様のみ言葉を受け取りながらも、御父様を非難するに留まるのは精神的な怠惰としか言いようがない。その批判論理がどれ程稚拙なものであるか、読んでいてかわいそうになるほどだ。滝の飛沫を浴びた観光客は、帰りの船の中で頭を拭い顔を拭って後始末に余念が無いけれども、本当は自分の魂の中に拭い取らなければならないものがあることに誰も気付いていない。堕落人間の魂は、快と苦の感情に覆われてその目を塞がれている。

今日の想い 353

御父様には申し訳ないけれど、献身生活を振り返って見て、色鮮やかで快活で心躍るような出来事として思い出されるものは浮かんでこない。どちらかと言うと、暗い重たい沈むような思い出ばかりが浮かんでくる。霊界に行ったとき、もし御父母様の御側に呼ばれるようなことがあって、何か一つ感動的な思い出でもと話を勧められたとしても、私には何も浮かんでは来ないのだろう。場を白けさせるのが関の山だ。地上で集合をかけられる時はいつもそうだったように、霊界でも後ろの隅の方で目立たず小さくなっているに違いない。快と苦の担い手である私の魂に私を委ねてしまっていたら、とっくの昔にこの道を踏み外していただろう。もちろん前にも記したように、Fの路程では出ていくことを考えない日がなかった程であり、後になって、事実一度は飛び出したことがある訳で、魂は神とサタンの間を常に揺れ動いていた。教会から距離を置いている多くの食口たちは、み言葉に躓いたのでも御父様に躓いたのでもなく、歩みの過程で味わされ魂に積み上げた感情をどうすることも出来ずにそうなっているのだと思う。自分を何とか正当化しなければ生きることもできないので、御父様や教会のあらさがしをせざるを得ない。しかし責められる事柄に事欠かない教会にも少なからず問題はあると思うが、全体の責任を負っている私であるなら他人事のように眺めてはおれないはずだ。もし教会に留まっているとしても眺めたままでいるなら、教会に距離を置いている兄弟とさして変わりはないだろう。私の信仰で留まっているのではなく、私の置かれた立場で為すべき事があるので留まっている。その使命が何であるかを魂の深みの先にある神霊に訪ねながら、はっきりと自覚して、使命に応えることのできる魂の在り様に変革させていかなければならない。私の魂が快と苦の担い手に留まることで良しとするのであれば、教会に留まる意味はない。み言葉を読み、祈りの中で御父様を口にする意味もない。

2011年8月7日日曜日

ナイアガラの滝 (1)

五十メートルの落差を毎秒六千トンの水量が落下し続ける。それを目にし続けたときに人間の魂はどういう反応を示すのか。ナイアガラの滝は成田からワシントン直通便の運航路線上に位置し、天気のいい日は上空の機内から見下ろせる。ワシントンから陸路をとると、ペンシルバニア州を北西に上ってエリー湖に出、エリー湖に沿うように北上していくと瀑布の水煙が見えてくる。片道七時間前後の運転だ。何処までもなだらかな丘陵と牧歌的景色が続き、ニューヨークへの道と比べて車の量も極端に少なく、長時間運転でもそんなに苦にはならない。今までに二回ほど往復したことがある。どちらも一泊しただけだが、トロントまで足を延ばすのでなければ滝の他はさして一見に値するものはなく、それで十分だ。世界中から観光客が押し寄せてしっかり観光地化しており、自然を満喫するというよりは企画されたアトラクションをこなして見学を終わる、というのが普通だろう。しかしそれだけなら、視覚に飛び込むものを魂の奥まで届けて、私に働きかける本質として受け取れるまでには至っていない。日本もいろんな滝があり、私の田舎にも三段峡があって幾つかの滝が見られる。前にも水の路程が人生の路程に重ね合わされると書いたことがあるが、水滴一つ一つの路程を人生と重ねるときに、滝の落差を駆け下り或いは飛び降りる覚悟と変化を強いられる、そんな運命的時があることを見ざるを得ない。人生に於いてそうであり、血統的流れに於いてもそうであり、更に人類歴史に於いても覚悟と変化を強いられ受け入れるべき時が必ずある。原理を知り、終末と新しい夜明けの時代を生きている自覚をもった食口であれば、その宇宙的歴史的流れの滝の一瞬の手前に人類がいることを、背筋が寒くなる程に感じるはずだ。世界的ナイアガラの滝に対する時、私は人類歴史的巨大な滝に、人類が飛び込む前後の様子を見せられているように感じる。その時は一瞬にして訪れる。まさかこの生活基盤、社会基盤が崩れることなど誰も思いもしなかったのが、目視出来なかった崖の淵を超えると全ての足場が一瞬で消え失せてしまう。そんな恐ろしい現実を目前に控えている。

2011年8月4日木曜日

今日の想い 352

ラスベガスに事業関係の責任者を呼ばれて叱咤され分別されたように、アラスカ、コディアックでも同じように事業関係の責任者に詰め寄られて分別された。ラスベガスの時にはまだ御名前を口に出されることはなく、取り囲みの者達のみを糾弾されたが、今回ははっきりとその御名前を口にされて指弾された。組織は組織として下は上に従う構造が既に出来ている。組織の運営権を握ったものが組織のオーナーの意に反した行動を取るなら、組織の構造上皆がオーナーの意に反することになる。オーナーは御父母様であって、それ故にその組織を発展させることが御父母様の願いに応えることと同意であった立場が、今はその組織の中に存在すること自体が御父母様の願いに反する立場となってしまった。ではその組織から抜け出すことだけが願いなのか、組織を通して積み上げてきた内外の財産を皆くれてやって飛び出せば御父様は喜ばれるのか。今、教会の中に、神様が天地を創造され反逆者が現れて地上の神となっていった経緯と同じものを見ている。これが御父様を実体の神様としていただく教会として必然なのかどうなのかはわからないが、どうすることもできないと静観するわけにもいかない。その組織に所属する食口達は、今の状態が続く限り反逆者に加担した立場から逃れることはできない。それぞれは自分に非があるとは誰も思っていないだろう。しかし自分に非がないから何もしなくていいとするなら、個人のことだけを思い全体のこと御父様のことは無視し続ける罪を我知らず重ねていくことになる。その組織からすぐ出るようにという指示が出るまでは、サタン側という汚名を戴いたままでも組織の中で戦うべきだろう。戦って取り戻すのでなければサタン側という汚名は消えることはない。はっきりしていることは教会側であれ反逆者側であれ、過去の自分の功罪の是非故に今の立場にいると捉えれば発展はないのであり、未来の栄光を先取りして超えるべく今の貶められた立場にいると捉えることで未来を創造していく。御父様は或る時点で急に全てを剥奪され、貶められた立場を強要される。全てを否定された痛みの立場を甘受させることで、個人的にも全体的にも、内的にも外的にも、次元を上げた創造過程に入っていく。それは御父様御自身が通ってこられた道であり、御母様にも強要された道であり、そして私達もその道を歩んでいく。地獄の底を舐めない者は御父様の息子娘として認定されることはない。

今日の想い 351

高原の南側に臥龍山というなだらかな山が横たわっている。下から見ればどこが山頂になるのか、二つ三つそれらしい頂があるので良くわからない。春ともなると山桜が咲いて山のあちこちが薄桃色に滲み、見る者の心を春色に染めてくれる。今では林道が頂上の手前の清水が湧き出るところまで敷いてあるので、車で二十分もあればそこに辿り着ける。帰省する度にブナ林の中の林道を軽で登って、雪霊水と仰々しく筆書きされた看板とは対照に、チョロチョロとしか流れない湧き清水を口にして帰ってくる。しかし小学校の高学年になるまで、この山に足を踏み入れることは一度もなかった。高学年の遠足で初めて山頂に上って降りてきたが、禁足の山を初めて制覇し、それまで何が住み着いているかわからない恐ろしさに怯えていた私は、やっと山の恐怖から少しだけ解放された。二年生か三年生の頃、教室の隅で休憩の間の雑談として神隠しの話が耳に入ってきた。村の誰かが神隠しにあったらしい。人々が見ている前で急に消えたのかと最初は思ったが、山から出てこないと言うことだった。その話から弐、参日経って、魂が抜けたような様子になって見つかったと言うことだ。神隠しと思ったようだけれども見つかってみれば、要するに狐に化かされた話だった。そんな話は学校でも、よく茶を飲みに来る大叔父の話の中にも、よく出てきた。だから山は恐ろしいところで、足を踏み入れてはならないと信じていた。糞団子を食べさせられたり、泥団子を食べさせられたりするらしく、見つかっても正気に戻るまで暫くかかるようだった。おそらく低級霊による霊現象だ。春の山菜取りの時期や秋のきのこ取りの時期にそんな話はあったので、腹を満たそうと軽い気持ちで山に深入りしてしまうとそんな目に会うらしい。山で首を括った話もよく耳にしていて、そんな素振りも見せなかったのにどうして、、と言うことになる。そうなると確かに山には何かが居るらしいことはわかる。数年前この山が全国的に有名になった。失踪事件があって結果、身体の部分部分がこの山から見つかった。きのこ取りに入って落ち葉を払いのけながら探しているうちに、転がっているのを見つけたらしい。子供の頃の話から暫く山に関わるその手の話はとんと聞かなかったから、科学万能の時代に入って影を薄めたのかと思ったが、その事件は魂を食(は)み血を求める地の霊が未だに健在しているのを見せ付けられたようだった。

2011年8月2日火曜日

今日の想い 350

人間はこの地上界という元素界、生命界、欲界、精神界など、あらゆる世界が絡み合うように存在している地上で、それらの全ての要素を、取りこんだり、放出したりして地上生を送っている。元素で出来ている自分であり、元素を取り込み排出している認識を持っているし、と同時に消化吸収しながら代謝という生命界の要素を取り込み燃焼させて活動している認識も持っている。しかしそれが心魂界や精神界の要素認識となると、とたんに意識に霧が覆っているように認識が曖昧になってくる。自分のなかに欲があることは、欲界は心魂界の低次の部分なので、他の心魂的なものよりいくらか認識しやすい。人間が自分の中に欲を覚えるとき、それは欲界から欲の要素を取り込むことで欲を覚えている。低次の霊性を備えれば、ある状況で欲の要素が体の中に流れ込む様子を見るだろう。欲望として私の中に熱いものを感じるのはその経過であり結果でもあるが、欲の要素が渦巻く世界を見るようになれば、ルーシェルの影響もありありとそこに見ることができるだろう。私の堕落性があり、それに引き込まれるように欲の要素が流れ込んでくる。人間の心魂が住む世界は欲界であったり悟性界であったり、その中で知情意という魂の活動を為してはいるけれど、み言葉を悟性という魂活動に委ねてしまって、すなわち自分の思考判断でみ言葉を推し量ろうとするならみ言葉の本質には入っていけない。神霊から届くみ言葉でありながら心魂のステージに引き下ろして料理するのは間違っている。もしあなたが霊的なことを真に理解しているなら、自分の思考がどんな霊的背後を持っているか解かっているはずだ。自分の思考だけにみ言葉の判断や御父様の判断を委ねるなら、たとえ賛同的であったとしても霊の本質に繋がることはなく、自分の思考に自分が躓く落とし穴が待ち受けている。