2009年12月31日木曜日

真の神の日、初詣

参道に連なる裸電球だけを頼りに、闇の帳が降りきった空間を分け入って前に進む。静まり返った参道に履物を引き摺る音だけが響く。用心に用心を重ねなければ直ぐにも張り出した根っこに躓きそうになったりする。暗闇に身体を進めれば冷気が顔面に抵抗を与える。意識は足元に、感覚は顔面に、ひたすら進むことだけに集中し、暖かく外套に包まれた胸の内は過去への未練も明日への愁いも何も無い。闇の帳が外界なら真っ白な帳が内界に降りている。お社に近付くと参拝する人々の呼気が白く舞っている。その中に割り込めば衣擦れの音を耳にし、樟脳の香りが鼻をつく。太鼓の音に精神を高揚させられるのか姿勢を正しコウベを勢いよくもたげると、思い思いにかしわでを響かせ口をつむぐ。何度か足を運んだ初詣で、みそぎに気持ちを整えられた人々を見るのは心地よかった。まだ明けやらぬ内に受け取るものと、明けて後に受け取るものとは受け取る質が違う。より精神的に深いものは明けぬ内に受け取ることができる。そんなことを思ったり感じたりしていた。教会生活を始めてから初詣はもうしないものだろうと思っていた。それが清平で復元された。清平での業、特に早朝の”祝福の木詣で”は初詣気分そのもので、何か懐かしいような嬉しいような、思わず喜びが声に出そうになったほどだ。連なる裸電球やら、どよめく太鼓の音やら、精神的高揚をもたらすものは何処か似ているものなのだと思った。カウントダウンに打ち上げ花火で正月を迎えたいとは思わない。除夜の鐘を胸に響かせ、お社の太鼓に胸の内を高揚させ、冷たい外気に身を正して神霊を感じながら正月を迎えることができれば、日本人として生きることができる。しかしながら日本人を卒業した私達統一食口はその基準で安堵し喜ぶべきではない。教会に足を運べばそれで善しとしてしまう自分の父母への不孝を改めて、絶対信仰、絶対服従、絶対愛とひとつとなる自分を誓願しながら、新年度に立てる理想像を差し出し、その為の決意と覚悟を魂から供える献身の儀式とならなければならない。まさしく並み居る高次の神霊達が、御父母様の聖席を挟んで左右に並んで謁見する中を、私の魂の全てを差し出し披露する場であり、神様と御父母様が最も耳を傾けられるその時とその場を重要視することで、一年の実りの為の耕しと種蒔きを為すのだ。

今日の想い 128

訓読会のお言葉を受け取りながら、御父母様に最も近いと思っていた私達が、実は何もわかっていなかったと言うことが明らかになったような気がした。確かに神様に対する御父様の願いとして、60億人類を一人残らず天国に連れて行くべきだと思われて当然だろう。御父様の内的霊的勝利基盤は確固たる基盤であり、活動する私達の実力や条件如何を問わず天国は約束されている。しかしながら土地も材料も用意されているけれど、家を建てる方法や時間は私達に委ねられているにも係わらずその私達が何もわかっていないと言う事なのだ。わかっていないから一つ一つの作業までも御父様に頼ろうとしている。傍で呆然と立ち尽くし見ているしかない私達は一体何なんだろう。堕落や罪に対する理解を問われれば原理用語を並べて説明できるだろう。メシヤの必要性もそうであり再臨主もそうであり、全ての疑問に対して説明できるかも知れない。だからと言って60億人類の魂を動かす存在になり得るだろうか。私達に社会経済基盤があり見せて誇れるものでもあれば、関心を向けるだろうし魂への働きかけがそこを通して為されていくかも知れない。しかしながら私達にはそれも無い。見せて誇れる証しが立っていないのだ。自分の中にみ言がみ言として力を発揮すれば魂への変革が為されるはずだ。知に対し情に対し意志に対しての変革が為されるはずだ。現状の指し示す意味はみ言を魂に働きかけるほどには受け取っていないと言うことだろう。おそらく堕落や罪に関する実感も、イエス様がもたらした救いに関する実感も、遥かに特定の宗教やクリスチャン達の方がずば抜けているだろう。私達が、この世の何も解らないし生きる自信も無いが何とかここなら生きて行けそうだからここに来た、と言う者達の寄せ集めで終るとしたら、御父様の知と汗と涙の代価は余りにも大きすぎる。兄弟達の頑なで干からびそうな魂を蘇生するには個の力では無理なのかも知れない。御父様が神様の権限としての審判の刀を抜いて、その魂に突きつけられショックを覚えて初めて、み言の力が及び蘇生されるのかも知れない。

2009年12月30日水曜日

新生人類

この押し寄せる激痛を受け止めながら、受け止めることで嘆きや悲痛を重ねるのではなく、受け止める毎に内的霊的創造の気運を高めるのだ。この身体に激痛が走れば走るほど、私の気運は高まっていく。それ故にこの痛みが有り難い。御父様が打たれて奪ってくる天の方策を私達に示して下さった様に、如何様にも打ってくれと言い放ちながら統一勇士の誇りを持って受け止める。打たれるときは思いっきり打たれるべきだ。悪魔の笑みを持ったその痛みの正体は、私から嘆きの全てを引き出そうと、長く鋭い爪を突き立てて背中の肉片を抉り取る。今年も終ろうと言うこの時に、このタイミングで打たれることの意味を問うことに意味は無い。私に取っては打たれてこそ御父母様と共に歩むことなのだと言う謙虚を再度確認させられ、御父様の栄光を受け取るのではなく痛みを受け取ることを許された私への信頼こそが感謝であると、謙虚と感謝でこの痛みを受け止めてこそ私という統一勇士が自分の中に生きている。そうでありながら、もはや受け止める痛みの向こうに光を確認している。私に押し寄せる忌み嫌う全ての仕打ちは、実のところ御父様が勝利されたオブラードがかけられ、直接的に私に作用することは無い。悪魔が自由にその力を直接的に行使するなら、私の魂は当の昔に吹き飛ばされ粉々にされ、宇宙の藻屑となっていたはずだ。御父様の勝利圏、真の愛の影響圏内に私があることは紛れも無い事実なのだ。新しい年は私達の年だ。真の愛を呼吸できる私達の年だ。たとえ堕落世界に接して浸透している魂の部位が残っているとしても、魂の大半は真の愛の中で呼吸できる真の新生人類なのだ。

2009年12月28日月曜日

上下前後左右

一日の歩みを終えて振り返りながら、内的霊的にどう整理し、そして整理することで自分の位置を確認する必要がある。位置確認は基準となる位置があってこそ確認することができるが、御父母様が立っておられる位置こそその基準点であり、御父母様の位置からの方向性や距離を知ることができる。前が何処であり後ろが何処なのかがわからない限り前には進めない。今の私には、遥か前方上位に立っておられる御父母様を認識してこそ下の位置が決定し、上下が決定されると前後左右が決定される。肉体的な位置感覚を持ち身体の前面に目が付いて、地上の感覚世界をカジ取りする事はできるとしても、内的霊的位置感覚を知らずに内的霊的に存在しているということは、地上に於いて平衡感覚や位置感覚を無くし青盲のままで行動することと同じだ。霊的暗黒の只中で佇みながら不安と孤独に襲われている自己を認識する者に取って、御父母様の存在を知らされることは途方も無い福音である。しかしながら多くの兄弟に取って自分なりの御父母様の認識を良しとし、その認識に多くの誤謬が含まれていることを無視したままで歩むなら、決して良い結果にはならないはずだ。一日の行動をひとつひとつ心に思い起こしながら、そしてその行動に付随する感情の動きをありありと復元しながら、報告祈祷を供える事で整理も出き位置も確認できる。時の流れに任せ成り行きに任せて、何処に辿り着くかも知らない1日1日の延長を見るともなく見届けるのではなく、良心という羅針盤でしっかり内的霊的位置を確認すべく就寝前の瞑想祈祷をなしながら、天によって配慮され起こる事柄を、愛の贈り物という神事として受け止めることができる。とても甘受することなどできないような苦い良薬を、神事として感謝できる自分になってこそ霊的高次への階段をステップアップしながら御父母様という人間理想、家庭理想に近付いていける。生きて起こる全ての事柄に、全ての経験に、取るに足らない些細な事柄であっても、私に対する深い深い天の摂理が働いている。今日一日をどう位置づけるかで、明日の方向性への意志を持てる。

2009年12月26日土曜日

2010

顔を逸らせ逃げの体勢で新しい年に踏み込んだとしても、希望的年とはならないだろう。時は過ぎ行くものだと流れに任せ、いつの間にか新しい年が周囲に見えていたというのも、旧年の業(ごう)を背負ったままであって新しい年には入っていない。それは新年の中で自分だけが旧年に生きているということになる。新しい年にしっかりと踏み込み、更に新しい年の希望的気運を引受けるには、決意と覚悟に裏付けされた新年度の理想像を理想家庭を理想世界を、しっかりと視線の向こうに捉えなければならない。今の環境圏にいつまでも執着するから、訳の解らぬ様々な亡霊に苛まされたままなのだ。執着した者を霊的に見れば、地を這いずり塵を喰らう存在様相に見えるだろう。霊的足を鍛え翼を備えたなら、空高く飛び立つことを躊躇してはならない。攻撃は最大の防御であると言うけれど、リスクに怯えて新たな創造に寄与しなければ、何の為の戴いた今生であり肉体なのかと問われるだろう。確かに小さな店にしてみれば決して少なからぬ拠出はしてきた。しかしそれでもって貢献したと満足すべきではない。利益をはじいてそれを創造とは言わない。その利益を用いて呼び水にしながら新たな社会創造や経済創造を為し、それで初めて創造と言える。2010年度は創造の年だ。自分という理想人間の創造、理想家庭の創造、そして新たな社会経済創造の年だ。内向きであれば滅びてしまう。今あるものに執着すればウジが湧く。堕落海の底深くにも光が届けられている。光として届けられる真の愛がそこかしこに溢れて平準化される。真の愛を真の愛として受け取るものは真の愛の証しを立て、周りの者達はそれを眩しいほどに見上げるだろう。祝福家庭がその証しを立てるのだ。祝福家庭には新年度の希望的気運を引受ける義務がある。

審判式

何一つ妙案が浮かばない状況で、それでも必ず護られ導かれると言う強い信仰を備えるべきだろう。外的なものは全て内的霊的なものの影であると捉え、外的事柄に決して翻弄される自分であってはならない。まさしく今私は神様からもサタンからも試されている。御父母様の分霊を戴いた自分であり、であればこそ御父様の代身なのだと声高に霊界に宣言してこそ、御父母様の勝利圏は相続されるだろう。絶対信仰を備えて、全ての霊を焼付け精誠を込め、目の前の事柄に入魂していく。過去の自分や今現在の自分がサタンの血統圏に縛られて呻吟していたとしても、御父母様によって新生した新しい自分は確実に私の中で大きく成長している。私の中でのこの天地がひっくり返る大変化を、地上に縛り付けられた肉的な自分は感知できない。内的霊的この大変化を、地上的事柄への現実以上に感知できる霊的感性を私達は備えることができる。真の御父母様から放射される真の愛を真の愛として受け取ることができる力を私達は既に与えられている。真の愛を受け取ることができれば真の愛を放射できる。それこそが外的地上的なものや内的霊的なものの全ての能力の根源要素となる。宇宙は既に大変革を遂げようとしている。御父様と一体となった新生した私が主体なのか、或いはサタン主管圏に縛り付けられてこの世の道理とサガに生きる旧来の私が主体なのか、人それぞれがそれぞれに於いて判断を迫られる時がすぐそこに来ている。先ずは祝福を受けたものからその判断は迫られるだろう。ふたりの主人に仕えることはもはや許されない。これこそが審判の時であると言えるだろう。祝福を受けた者であれば、この審判の時を待ちに待った時として喜ばしく迎えるべきなのだ。心と体が闘い続けた幾星霜の魂の歴史に終止符を打つ内的霊的儀式を、神様とサタンが見守る中で遂行される。

2009年12月23日水曜日

今日の想い 127

善神と悪神は相前後してやってくる。まさしくその通りの状況だった。私の経験によると、悪神が先で悪神がひと暴れした後に善神が顔を出すというふうに捉えていたけれど、悪神が跋扈している中で善神が現れた。その従業員は特異な個性を備えていて、呼び寄せパンダのように使っていたが、それはそれとして店の大きな集客力を担ってはいた。何度か話してみて解ったけれど、彼が或る思い込みを持つと、それが独り善がりの性質を持ち他の説得をことごとく排して、戦闘的な態度をあからさまに誇示してくる。悪霊が憑いたように相手を罵り、普段の人懐こい性格は一変する。結局、四半世紀を共にしながらもここ数ヶ月、頑なな恨みを益々固めながら出ていくことになってしまった。辞めて尚、その恨みをぶつけたい様でチンピラのように店に係わってくる。出来れば気持よく別れたいので警察沙汰にはしたくないと思いながら、しかしながらそのハラスメントぶりは無視できる範囲を遥かに超えている。悪態をつく彼が去るようにどう対処したらいいのかと嘆息している調度その時、教会関係のその方はやってきた。ホリデイシーズンで両親が訪ねてきたと言うことで、夫妻とご両親とで店に足を運んで下さった。どうしてこのタイミングなのかとは思ったが、チンピラに対する嫌悪感で手は震え顔は引き攣っていた自分を無理にでも押し殺し、作られたものではあっても満面の笑顔を用意して挨拶をした。せっかくの会食を楽しもうと来られたその期待を裏切るべきではないだろう。おそらく気付かれることはなかったと思うが、私の感情の海は彼の事で荒れ狂っていた。霊感の鋭い方なので本当は何かしら店の異常に気付いたのかも知れないが、全てに満足されて私と一緒の写真まで収めながら喜んで帰って下さった。その後でもひと騒ぎふた騒ぎあったのだが、落ち着いた時に考え始めることはやはり、どうしてこのタイミングで、ということだ。あれこれ思案しながら行き着いた答えは、悪神の業に翻弄されている中での陣中見舞いとして善神の業が為されたということのようだ。そう結論付ければ腑に落ちる。悪神に直接的に係わろうとするのでなく、応援する形で善神が働いたと言うことに関心が行った。その意味はひとつの勝利的基準に到達するまでは直接的に救いの手を出すことはできない、私自身が供えるべき条件、立つべき位置が定まって初めて受け取ることができるものなのかも知れない。彼の行動に揺さぶられているということは彼と同じ次元、同じ目線と言うことなのだろう。私はこの問題に関してひとつの内的ステップアップを要求されている。後でその時のことを振り返りながら、顔でも洗って出直し、もう少し気の利いたサービスを提供すべきだったと少し悔いた。来て頂いたことに対する礼状でも送ろうと思う。

今日の想い 126

謂れのない怒号と煽動を浴びせられる。孤独の中に打ち震えながら内臓がよじれるような感情を覚えるけれど、受けるべき定めならどのようにも甘受しよう。誰もが我関せずの態度を取り、自分ひとりが立ち向かうとしても、誰かに幾らかでも負ってもらい共に立ち向かってくれる期待感を持つべきではない。御父様が孤独の絶頂に立たされながら、あらゆる犠牲を払って一筋の道筋を示されたように、御父母様の息子であると断言できる位置を、このことを通して勝ち取ろうとしているのだ。しかしながら私は決して一人ではない。押し寄せる絶対善霊を背後に控え、私の決意と覚悟に合わせようとしてくれている。どれ程の罵声を浴びようとも、私の内側にまで波立たせる程の作用は不思議とない。ちょうど防弾ガラスに護られて対峙しているのに似ている。そこには御父様が口を固く縛り、目を見開いて私の前で仁王立ちになって庇いながら立ち向かう様を私は見なければならないのだ。御父様が道なき道を開拓された、その道なりに生きている。信仰の度合いと逆説的に、対峙するものは現れる。ゴリアテのように巨大に感じたとするなら、自分の信仰は風に吹かれて飛んで行ってしまうほどにおぼつかないと悟るべきだ。孤高の道と言うものがどんな道だろうと問うなら、あらゆる敵対する魂を前にして、逃げることなく、或いは前もって逃げ道を塞いだ状態で突入することだと、今の自分には言うことができる。逃げたければ逃げることもでき、それ故に逃げ回ってきた過去の自分を知っているけれど、もはや逃げ回っていてどうにかなるものではない事は、流石の私も悟っている。怯える気持を必死で押さえながら、決意と覚悟を声を大にして宣言することで、待っていたように勇気が注入されていく。

2009年12月22日火曜日

意識変革

棚からボタモチ的意識を捨てることができない状態で、絶対信仰と一つになることは有り得ない。何かが起きるのではなく、何かを起こす為に地上生を生きている。選ばれた私であるという選民の立場であれば、み旨に意識的に関わっていない多くの人々の様に、偶然的に起こるとする事柄に後から対処しようとする追随意識を持つのではなく、私達の意識は少なくとも一般人に対して一歩も二歩も先んじていなければならない。意識の先頭に立たれる御父様と、すぐにも同等の基準という訳にはいかないにしても、身に起こる事柄に翻弄され対処するので精一杯の生を生きるために呼び集められたのではなく、御父母様と共に創造理想を目指し、天国を築く為に召命された私なのだと断言して生きていかなければならない。自分の魂の在り様に於いても、この世と同じ悲喜基準で喜び悲しむのではなく、この肉体に同化してしまった感情魂を堕落的なものとして一歩距離を置き、御父母様に繋がる新たな感情魂を育成しながら、天が喜ぶものを私も喜び天が悲しむものを私も悲しむという天的感情を備えていく。祝福の儀式でもあればそれを受けることを通してどういうボタモチが落ちて来るのだろうと思い、蕩減時代を超えたと言われれば苦労をしなくてもよくなるのかと思い、いつも何かのボタモチが落ちてくるのではないかと期待する擬似信仰を繋いでいくなら、肉体存在としての御父母様を視認しているだけのことで、本来会わなければならない内的霊的御父母様との距離は何万光年も離れたままなのだ。御父母様の御前に乞食であってはならない。いつも何か貰えるもの、いつも何か起こるもの、自分の成長や変化はその内やってくるもの、そんなボタモチを期待するのでなく、何かを与え、何かを成し遂げ、自分で自分を変化させる必要がある。結局、自分が意志しなければ何も変わらない。変わらないどころか益々迷路に迷い込む。天の生命、愛、血統が植付けられた、御父母様に繋がる自分の中心に在るものを信じずに何を信じて人生航海の羅針盤とするのだろうか。益々混迷を極めるのは周りや社会だけではなく、自分の精神にこそ混迷を見るようになる。兄弟姉妹を含めて誰もが本質的な御父母様との出会いを為さない限り、混迷の中から浮き上がることはできない。

2009年12月16日水曜日

真の愛

自分に向ける愛、自己中心愛を堕落人間は持っているけれど、それは偽りの愛で本来存在してはならない、愛とも呼べない愛なのだ。み言に記されたものは真の愛をあらゆる角度から説いている。真の愛の完全辞典として、自己中心愛の欠片も無く私の目前に提示されている。み言を手にして訓読する時、完全犠牲となられた御父様の、血と汗と涙にまみれた両手で、血と汗と涙が浸み込み染められたみ言として差し出されたものを受け取っている。本来なら受け取る自分に自己中心の欠片もあってはならないのだ。偽りの愛で汚れた手で受け取り、腐った自己中心的思考概念で紐解こうとするなら、最初から受け取るべきではないと言える類のものなのだ。敢えて私達は受け取っている。私達の中に真の愛に相対するものがあるからではなく、一方的に許可された立場で受け取っている。受け取るべき条件も何も無く受け取っているという謙虚な態度で臨まなければ、み言を受け取ることが出来るどころか讒訴されかねないだろう。御父母様に正しく接することができているかどうかを問うなら、み言によって自分の内面で、戴いた祝福が活き活きと枝を張り葉を茂らせているのを実感しているかどうかだ。その果実こそ真の愛の実と言うことができる。その果実から溢れ出す真の愛の香りを体験した者でしか、真の愛を所有することはできない。真の愛を所有した者だけが真の御父母様が住まわれる本郷、天国に共に住むことができる。この世の所有観念には自己中心愛があぶれ出るほどに詰め込まれ、餌で膨らむだけ膨らんだ腐りきった内臓のように、あらゆる異臭をそこから発散させている。腐った愛と真の愛の区別もつかないほどに愛への感性が麻痺し、とても人間とは言えない地の底で這いずる人間の姿こそ堕落人間なのだ。所有観念を全く持たれない、真の愛の化身を私達は見上げることが出来る。自分の中の全てを解析してみても、真の愛の概念を取り出すことは出来ない。御父様の骨髄の中に入り新たに生まれてこそ、真の愛を所有できる真の愛の概念を取り込むことが出来る。

ホワイトクリスマス

暖かい寮の建物の中から暮れ行く景色を眺めていた。窓ガラスの四隅が曇り、周囲が霞んだ景色は青白く幻想的だった。深々と雪は降り続き、永遠に止むことはない。そう願うのは、雪が降り続く間はすべての事を忘れて降り積もる雪に同化できるから。湧き上がる不安も恐れも雪に覆われ仮死状態になってしまう。雪の白さ一色に内面が満たされて、五感で受け取るものからは何の影響も受けない自分になれる。ある意味での至高体験だった。その当時、キリスト教的事柄に触れたことは無かったけれど、明らかにキリスト教的至高に手が届いていた。教会に通うようになって賛美歌の調べを自分の中に響かせながら、降り積もる雪を見ている時の内面から湧いてくる感情の中に、賛美歌と同じ調べが流れていたことに気付かされたことがある。仏教の慈愛の流れがキリスト教に引き継がれる。キリスト教の神の愛の中に仏教の慈愛は生き続けている。そう思うのは自分の中にキリスト教的な神や愛という言葉はなかったし、その言葉には何処か軽々しくよそよそしさを覚えていたからだ。自分の中に概念として無い言葉が本当は生きていたと言う事は、そういうことだと思う。今年もクリスマスがやってくる。信仰心の無い者ですら、クリスマス独特の雰囲気や景色の中に染まりたいと思う。口では只の行事だと言い、頭では神様やイエス様を否定しても、内面のどこかに相対するものを持っている。イエス様が地上にもたらした神の愛という、人間理想に向かう為の霊的潤いを、人類誰もが等しく受け取ることが出来る。自分に正直であればあるほど、神の子であるイエス様が渇きを覚える人類にもたらされたものが、自分に取ってもまさしく生命の水であると確信するだろう。深々と降り積もる雪を消灯時間が過ぎても見続けていた当時の内面様相を、褪せるどころか益々明確に、今の自分の内面に思い起こすことが出来る。内面に思い起こす降り積もる雪は、暖かい。

2009年12月15日火曜日

帰郷 (二)

義父は足を悪くして医療用のベッドで寝起きしている。そのベッドが大きい為同じ部屋に二つのベッドは置けないようで、義母とは別の部屋で休んでいる。義父のベッドの横に布団を敷いて休むことになった。直ぐにも寝息を立て始めた隣で、静まり返った空気に身を沈めるように横になった。静まり返った空気とは対照的に、自分の内面に声をかけてくる多くの霊を感じている。何か自分がここにそぐわない、新参者のようにも思えた。横になって休むのに肩身の狭い思いがする。でも十分それは納得している。祝福を受けた者として氏族や先祖に対してのそれなりの位置がありながらも、自分は何もしていない。氏族復帰に対する精誠条件も想いも明らかに足りない。責められて当然なのだ。申し訳ない思いを差し出すしかなかった。そしてこの小冊子を今回手渡すことが、今の自分に出来る最も大切な氏族復帰の為の儀式だった。明日の朝ここを発つ前に必ず行使することを誓った。あまりにも小さな条件には違いないが、その決意と覚悟を備えることが先祖の霊に取っては砂漠の中での一杯の水に等しい。悲しくも無いのに、横になったままの私の目からは涙が溢れ出る。霊達の供養が為されている。私自身がどれほど申し訳ない存在であっても、彼らにしてみれば霊的生命への橋渡しは私と私の家族しかいない。彼らに取って選択の余地はないのだ。私にすがるしかない切実さを思い知った。義父は朝五時には上体を起こしていた。私が目覚めたことに気付くと、唐突にも、送られてきた御父様の自叙伝について話し始めた。戦争を身をもって体験してきた者にすれば、平和の重みは揺ぎ無いものとして内的に培われている。決して手放しで賛同し応援してきた立場ではなかったし、娘を奪われたようで御父様へのわだかまりも未だにある。しかしながら平和と銘打った題名に惹かれるように読み進めていったことを義父の口から直接聞くことが出来た。一通り話を聞くと自然な形で小冊子に触れる事ができ、これも是非に目を通して欲しいと伝えて手渡した。彼は両の手でうやうやしく受け取りながら机の上の本立てにある自叙伝の隣に収めた。机と本棚がみ言が収められた祭壇となり、端向かいにある仏壇の存在感が幾分寂しく感じられた。

帰郷 (一)

今回の訪問で兎に角小冊子を渡そうと決意していた。自叙伝はネットでオーダーして取りあえず両方の親の手に届いてはいるはずだが、受け取ってどう思ったかはわからない。その上に小冊子を渡すとなると場合によっては嫌な顔をされないとも限らない。自分の親にはそれでも押し付けて帰ることもできるが義理の親ともなると躊躇するものがある。しかしながらどういう状況に出くわそうが必ず渡すと決意を備えて一時帰国に出発した。普通なら旅程の最後を空港が近い義理の親のところに持っていくのだが、決意が鈍るとまずいと思い最初に義理の親を尋ねた。私の故郷と同じ県内にあるその家は、新幹線駅からタクシーで十分もかからないところにある。駅を出てタクシー乗り場に向かうと、風は少しあるけれど昨日の雨模様とは打って変わって晴れ渡っていることに気付いた。昨日、義弟の嫁に連絡しただけなので直接親に話してはいない。何度も何度も尋ねた家ではあるが、何度尋ねてもそれなりに緊張してしまう。両親ともどちらもよく出来た人で最初に会うときですら自分達の息子の様に接してくれた。タクシーを降りて家の前に立ち、その時の印象を思い出しながら玄関に向かった。躊躇を取り払おうといつも勢いよく入っていく。そしていつもお母さんが物音に気付いて飛び出してくる格好だ。促されるままにテーブルに着くと後は流れに任している。大抵話し好きのお父さんの相手をしながら頷いていれば時間は経っていく。御父様と一つ下だと思うが本当に元気だ。相対者の親も私の親も、足が悪いだの歯が悪いだのはあるけれど基本的に元気だ。親を放っておいて地球の裏側で生きてこれたのだから、私としては護られてきた。近況を話したり伺いながらも、いつどのように渡そうかと気を揉んではいたが、決意に対する霊界はその夜働いた。

今日の想い 125

現在の自分の認識に満足し、その認識を宛がいながら限られた貴重な時を刻んでいる。生きることの基準である自分の認識が間違っているとは恐らく思わないだろう。み言を訓読しながら、み言の理解をもその認識を用いて行っている。本来み言が自分の認識の間違いを示さなければならないものを、逆に自分の認識でもってみ言を測っている。み言の自分への働きかけを正しい方法で受け取っているとは言えない。み言はみ言、自分は自分という関わり方を食口ですら捨てきれずにいる。自己否定という言葉を自分を傷つけ痛めることの様に捉えてきたことも事実で、自分を痛めることで罪の償いが為せるというのが自己否定なのだと認識してきたが、み言に関しての自己否定と言うのは、全てに対する自分の認識を根底から否定する、疑ってかかるということだと思う。実は兄弟ほど、頭の固い者はいない。中途半端にみ言をかじっているものだからそこに間違った認識が植付けられているにも係わらず、自分なりのみ言の理解を自分の歩みにも相手にも押し付ける。私達は自分の認識を常に疑ってかかり、認識の違う相手の言葉も先ず受け取ってみることが必要だ。御父母様を戴いているという事以外自分は何も解っていないという認識の位置から歩みを進めることが謙虚という意味に違いない。み言に対して本質的理解を得ていないから何とか受け取るみ言が自分の中でほどけ、その真の意味を差し出すようにと求める姿勢こそがみ言に対する正しい姿勢だろう。み言が自我とひとつになって魂を作り変え、堕落的外界から作用を受けて翻弄されてきた過去のそれとは違い、新たな魂は魂が主体となって外界に働きかける。

2009年12月12日土曜日

私の故郷

一年ぶりの故郷は更に寂しさを増していた。彩を失った裏山や刈尾山、耕作を放棄され荒れ放題の田畑、もともと家屋の少ない集落でありながら空き家も増えている。隣の家にうちの親と同年代の老婦人が住んでいて帰る度に顔を出していたが、既に子供のいる町の方に移ってしまっていた。そんな寂しい状況におぞましい事件が追い討ちをかけて、故郷は正に死に体だった。人が寄り付かないと言うことはそれだけで運勢を殺ぐ。スキー場もありキャンプ場もあるが、季節季節で人が集まると言うことよりそこに住んで養うだけの包容力がそれなりにあり、居を構えたいと思わせる魅力を備えていなければならない。確かに包容力も魅力も無いのだろう。しかしそういった事は見出され創り出されるべきで、その要素は隠されたものとして奥深くに眠っている。結局は人なのだ。人も含めて生かすも殺すも人間次第なのだ。この地に対する想いをどれだけ持ち、どれだけ祈り、この地の中に飛び込んで苦楽を共にする決意を供えた者がこの地と一つになれる。一つになれば創造の力が芽吹いてくる。土が教え風が教え、水が教え空気が教えてくれる。しかしながら、この土地の本当の価値を知る者は、この地で生を受けこの地で生涯を全うした多くの先祖が、その代々に積み上げてきた叡智を知っている。幾重にも幾重にも積み重ねられた叡智の上に私は立っている。彼らがどれだけ苦労してきたか知れない。その苦労を乗り越える為にどれ程の魂の知恵を要したか。外的な知恵に比べることもできない魂の知恵、積み上げた叡智こそが先祖が残してくれた宝なのだ。交通の便がいいだとか、誇る産業があるだとか、風光明媚だとか、そんな外的な目に見える魅力に群がる者達ではなく、耕作するに肥えた土地でもないこれと言った魅力は無いこの土地に育まれ積み上げられた内的霊的宝を見ることができる者だけが、この土地に住むことを許されている。御父母様に最後までついて行く者が少ないように、この土地で生涯を終えようとするものは少なく、ある意味選ばれた者達なのだ。

2009年12月5日土曜日

今日の想い 124

深刻な問題を内に抱えているとして、頭を抱えている責任者も多いし兄弟も多い。普通の食口感覚であれば憂えるのは当然だろう。しかし我々と同じ憂える感情を御父母様も持っておられるかというと、それはちょっと違うような気がする。御父母様が親であると言うことを私達は忘れてはならない。子供が自由な存在であれば、子供自らの自由意志で親を喜ばせたい、親の為に生きたいと思うのは当然だ。何処の親が子供の自由を奪い、奴隷的服従を子に望むだろうか。御父母様も絶対服従は望んでおられるけれど、奴隷的服従を望んではおられない。子供が成長すれば親と違う意見が生じてもなんら不思議ではないだろう。どれほど頑固親父であっても、親父の意見に反して異を唱える子に対して、そこに親を思えばこその想いを見て取れば、表面的には子に怒鳴り散らしたとしても、その想いがどれほど嬉しいだろうか。ある面子供にそれだけの深い親への想いを見たくて、理に適わない言動を子に吐き捨てる場合もある。頭ごなしに怒鳴りつけながら、しかし決して子供がしゅんとなって黙って頭を垂れる姿を見たいとは思わない。本当は自分が負かされて親の面子を捨てざるを得ないのが嬉しくてしょうがない。子を真に想う真の親とはそういうものだと私は思う。皆には問題と映るのだろうけれど、御子女様には御父様を超えて欲しい。御父様を超えてこそ御父様は安心されるはずだ。私には微笑ましくも思えるし、より深くより高い新たな心情の次元にワープすることを信じて疑わない。無機質のピラミッド的組織や関係は、そこに心情の入る隙間が無かったとしたら、それによって作られる世界はどれほど寒々しい世界だろうか。真の愛主義であり心情主義であるという世界観を私は誇りにしている。それは無機質を有機質に変え、花を咲かせ実を実らせる。上に喰ってかかったとしても、御父様への深い想い、兄弟食口に対する想いが背後に熱く流れているなら、それも当然あっていいと思う。

OX に対する考察

アダムとエバの養育者として、どうして天使長ルーシェルが立てられたのだろうか。そもそも人類始祖に対する養育とは一体何なんだろうか。私達はアダムとエバの実情も霊的存在の有り様も、アダムとエバに対する養育というその意味も把握してはいない。心魂の目で見るということが理解できずに、この世的外的な概念しか理解する能力を持たなければ、その意味するところを理解することは無いだろう。外的な概念でイメージできる、私たちがそう捉えているそれらの意味は、象徴的な理解にしか留まらない。み言の意味するところを真に理解した者であれば、ルーシェルを養育者としたのは間違いで、誰か他の天使にしていればこのような悲劇は起こらなかったろうと言う様な、たわいも無い、無知も甚だしい意見が飛び出てくることは無いだろう。ルーシェルを一方的に悪者扱いしてはいるけれど、ルーシェル存在がいなかったらそもそも人間という存在は発生してはいない。人間という魂存在の根幹を担ったのがルーシェルであり、神様の実体対象という、自由存在としての自我を植え付ける過程で間違いが生じたはずであり、しかしながらルーシェルが関与しなかったら人間は動物の種族の一つでしかなかったろう。自分が自我存在であり、自我存在として魂活動を為し得ているのは、それが神様の意に適う適わないは別としてルーシェルの働きが為されたことを証明している。人間という存在が自我をもった存在である、即ち人間存在にルーシェルが関与していると言うことを紐解いてゆけば、御父様が話されるOX理念を捉えることができる筈だ。人間はルーシェルの関与を通過せずしては人間存在として地上に現れることは無い。しかしルーシェルの関与を通過すれば必然として堕落本性を備えてしまっている。この解決できない矛盾を解決するために来られたのが救世主であり、その使命を引き継がれたのが再臨主である。地に堕ちてしまったルーシェルの星である自我、そのX存在の中にO存在は内在できない。しかし真の父母の真の愛、そのO存在の中でルーシェルの星である我々人間存在の自我、X存在は神様の実体対象として光輝くことができる。
(あくまで個人的考察であり否定されて当然です。私の妄想以上の何物でもない唯の日記です。)

魂の拠り所

自分の魂の拠り所が何処にあるのか。通常生活を歩む上で、人間は何らかの関心を常に抱いて暮らしている。このひっきり無い取り留めの無い関心が魂の中で朝から晩まで続く。この関心が一体何によって発せられているかを知らずに暮らしている。ある事柄に引き付けられる自分がいるという事実だけを受け取りながら、それが人間なのだろうという暗黙の認識と、その背後にある認識し得ない霊の分野への参入動機を意識の外に置かれて、ただ外界の引力に魂をゆだねて生きている。その場合、魂の拠り所は外界の私に向かう引力として働く得体の知れない存在なのだ。しかしながら多くの者はこの世に生きているうちは、その存在に対して関心を向けようとはしない。許された限られた期間を終えて霊界の住人になるとき、先ず自分の一生を見せられながら、肉体を脱いで魂存在として霊界に生きる上で地上で培ってきた魂の拠り所が何処にあったのかを衝撃的に受け止めなければならない。衝撃的というのは、拠り所である魂の担い手を醜い存在にゆだねていた事実を突きつけられるからだ。醜い存在の有り様そのままを自分の魂様相として受け継ぎながら、醜い存在が支配する領域で霊界生活が始められる。真の父母に帰依した我々は、魂の拠り所が本当に御父母様にありみ言にあるのか、事あるごとに内省してみなければならない。魂活動の根源生命がみ言から来ているのかどうか、その意味はみ言が無かったら、御父母様がおられなかったら、私は死んだ存在になると言い切れる自分になっているかどうかだ。み言に距離を置き、御父母様に距離を置き、教会に距離を置いて、復帰途上の自分なりの生活に没頭すれば、それは魂の拠り所を、悪魔が支配する外界の引力にシフトを変えてしまっていると言うことだ。何も見えない暗黒の中に投げ出されたままで、献金だみ旨だと責められるままに自分の感情に対して奴隷的に歩む期間はそう長くはない。魂の拠り所を見通せる段階に至れば新たな翼を用意できる。足かせを外されて新たな使命に生きる。魂の拠り所を見通せない段階でああだこうだと言うのは不平不満であり反旗を翻さないとも言えないが、足かせを外され新たな翼を用意したものが口を閉ざし、目を塞いでいるのは、本当の奴隷でしかない。我々は奴隷ではないし、魂の奴隷であってはいけない。

2009年11月28日土曜日

今日の想い 123

私は何故人間なのだろう。どうして人間として生まれたのだろう。決して否定的な意味での問いではなく、単純な疑問として自分の中にある。私の中にその問いがあるように、天使という霊界の存在が、更なる高次の存在が、自らにそう問うことは有り得ないことだろうか。私が私であるという自我意識は人間のみが所有するものであって、霊的存在、高次の存在には自我意識というものは無いのだろうか。動物は自我意識を持たない存在であることは理解できるとしても、天使が動物と同じような存在様相であるとは思えない。み言では天使は万物のひとつという見解を取っているとは思うけれど、神様の前に反旗を翻しそして数年前に説得されて自らの非を神様の前に悔い改めた天使の存在は、反逆を企てる以上、そして悔い改める以上魂の存在であることは間違いないだろう。知的な存在であり感情存在であり意志する存在だと言うことだ。彼が自らに自分はどうして天使なのかと問うことはあるのだろうか。私の余りにも狭量な魂の知的部分では把握しきれない事柄ではあるけれど、自分の中にこの問いがあることを神様はどのように捉えておられるか。それは堕落したからそうなのだと言われるのか、人間である以上尤もなことだと言われるのか、どちらにしろこの問いの答えを得ると言う意味は神様と完全一体となった位置に立つということだろう。神様が私はあってあるもの、アルパでありオメガだと語られるその意味を知ることだろう。人間としての私という存在を生きている。紛れもないその事実こそが厳然とある。私という存在をどれ程高めようが、またどれ程貶めようが、私という存在は私から脱することはできない。今日の一日を一生懸命生きようとも、自堕落な一日に終えようとも、どちらにしろ私の一日なのだ。その宿命を預けられたからこそ神様の息子娘の位置に立てるのかもしれない。

2009年11月27日金曜日

2010年を迎える準備

今日、11月最後の安侍日を迎えた。あとひと月を終えれば、2010年が広がっている。霊界に対する理解を少しでも理解した者であれば、古い年から新しい年を迎えるという意味がわかると思うが、それぞれの年を受け持つ霊的存在は違う。摂理の緩慢な進み方をした過去の年から年への引継ぎと違い、倍加速度的に進める必要性があったここ数年間、そして更なる驚きの動きと進化を見せるはずの2013年までの三年間は、前年から次の年への霊的存在への引継ぎは極端な違いを見せるはずだ。昨日の延長が今日であり、今日の延長が明日だという論理が通じないように、今年の延長が来年であるとは決して言うことはできない。新しい2010年は新しい霊的存在が司る。新しい年に対して何の願いも要求も持たないのであれば、新しい年に入って奪われることはあっても何ら得ることはない。どうなるのだろうと言う受け皿でしかない受動的な在り様では生きると言う密度は薄い。魂の活動を強く大きくすることが生きることの密度を濃くすることであり、特に魂活動の意志する力を増し加えねばならない。だから新しい年に向けて自分の意志を差し出さなければ、2010年の霊的存在への働きかけは非情に微弱な磁気作用としかならない。新しい年を実りあるものとするかどうかの準備は既に始まっている。内外の願望を明確にしながら、それを達成する為に覚悟もし決意も供えて旧年から新年へ足をまたぐ者となる。覚悟と決意としての意志の力を差し出すことで2010年を司る高次の霊的存在は対応せざるを得ない。自分の実力や信仰如何を問う前に、そこに働きかけることが先ず大切なのだ。受動的在り様ではなく能動的在り様、即ち自分の意志を差し出すことが大切なのだ。意識を持つところに光は届けられる。意志するところに霊界も神様も働く。

今日の想い 122

我々が理解してもしなくても、御父様は語られる。我々の脳みそに理解できるように語られるのではなく、明らかに霊界を視野の先に置かれて語っておられる。霊界をそれなりに理解している者も、自分の霊的度合いに応じた高みまでしか捉えることができず、御父様の数理に関する事柄に対しては口が開いたままだろう。我々は宗教的な次元で御父様に接しているけれど、宗教的な事柄は堕落人間の復帰や蕩減内容に関わる事柄であって、復帰の路程を完成されたそれ以降の創造に関する領域には入ることを許されていない。この地上世界は堕落世界であって、この世の神、サタン主管の世界であり、地上世界の道理も数理も天的なものをサタン的に組み替えられている。地上世界の道理と数理に従う以上、地上界はサタン世界を脱することはできない。御父様は全てを勝利されて神様と一つになられ、組み替えられた道理と数理を天のものとして新たに創造されておられると言うことができる。本然である新たな数理と道理によって、地上界は地上天国となりサタン的進入を許すことはない。数理には全くサタン的な事柄は関与できないとの認識を持っていたが、理念界に通じれば数理の中にサタンに拠って歪められたものとして隠れているのが理解できるのだろう。御父様が語られる数理の内容をこの世の数理で、この世の脳みそで理解しようとしてもできるはずがない。絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準と一つになった位置で御父様の勝利権を相続し、御父様と完全一体となった基準でこそ、歪められたサタン的論理と数理で組み込まれたシナプスを大宇宙の中心と連結されることで、高次の領域と直結される脳神経が創造される。そこに立ってこそ御父様の数理の話は腑に落ちるし、視認している肉体を持たれた御父様ではなく、神様とひとつになられた新たな時空を創造される御父様を見ることができる。

2009年11月26日木曜日

今日の想い 121

自分に取って苦悩としか捉えられないものは、苦悩の意味するところを最初から持っていて、外れくじでも引いたように自分の頭上に落とされて、引き受けなければならないものなのだろうか。或いは自分に起こる事柄はそれ自体感情的要素は含まれず、苦悩と取るのも歓喜と取るのも自分自身の捉えようなのだろうか。そのまま口に含めば毒以外何物でもないものが、使いようによっては薬になるように、苦悩以外何物でもない降りかかった事柄を、受け取り用によっては歓喜への触媒になることは十分在り得るはずだ。毒に対して口に含む以外の使いようを知らないとするなら毒は毒でしかないように、どう捉えるかということには多様な方法があって、感情魂で捉えることしかできなければ苦悩は苦悩でしかないだろう。感情魂に於いては得も言えぬ苦味そのものであっても、新たな魂の器官を苦悩と呼ばれる事柄で創造されているとは言えないだろうか。人一倍苦労を重ねてきた人間は、安楽な環境の中で過ごしてきた人間には無い感覚や力を明らかに持っている。謙虚であったり忍耐であったり慈しみであったり感謝であったり、そういった感性は苦悩が触媒になることで新たな魂の器官として芽生えたものと言える。そう言う認識の上に立つと、訪れる苦悩をどう料理して歓喜へと作り変えるかを今生で訓練されていると言うことができる。勿論、苦悩を受け取ってご馳走でも戴くように嬉々として対処することなど有り得ないし、それができる存在なら人間として生を選ぶことは無かったろう。自分の感情を説得して、この苦悩の産道を通ってこそ自分の本心が願う新しい自分に生まれ変われると、確信もし感謝もして臨むべきなのだ。降りかかる事柄を誰の魂に注ごうかとランダムに選ばれているようで、実のところ天の緻密な采配が為されて、私という人間理想を成就する為に受けるべくして受け取る事柄に違いない。そこには神様の私に対する愛が込められている。親として子の成長を願う想いが込められている。欲しがる物は何でも与える親と違い、親以上に成長して欲しいという想いを本当に込めれば、非情に構えてトラの様に千尋の谷に突き落とすこともある。

2009年11月24日火曜日

新メイフラワー号

暗い、底知れぬ海が見渡す限り広がっていた。その海の底にうごめく物のひとつでしかなかった私は、自分の在り処だったこの暗い海の正体すら知らず、生きることだけで精一杯だった。周りにうごめく者らの、睨みを利かせた視線に曝されながら、あらゆる仕打ちを携えて近寄ってくる恐怖におののきながら、打ちひしがれた魂を暗い海に沈めていた。一生をそうやって終えるのだろうと信じて疑わなかった。その自分が今、高みから暗い海を見渡す立場にいる。み言を受け取ることが、魂の船で新たな旅立ちをすることだとは知らなかった。その自分が、この魂の箱舟の中で御父母様や食口達と起臥を共にすると言う現実を体験している。広漠たる打ち沈んだ海面を、その現代の箱舟は進んでいく。船底の下にはありとあらゆる魑魅魍魎が喧騒の中で罵りあい、船のいたるところの板底を小突き上げてくる。絶対信仰、絶対愛、絶対服従こそが、この堕落世界の海を隔てる箱舟の板塀なのだ。信仰が弱まれば、隔てるものは薄くなり、堕落的な海水がいくらでも浸水してくる。ひたすら箱舟の船長である御父様に指示を仰ぎ、目指す新しい天と新しい義に舳先を合わせて進んでいく。確かに箱舟自体も老朽化して、底となり壁となる食口も組織も傷みがかなり激しくなっている。しかし目指すところは残す三年の歳月の先にある。三年の歳月を乗り越える為、最後のラストスパートの半鐘が鳴り響いている。御父様が堕落世界の深海の奥まで尋ねながら、集めてこられたひとりひとりの食口と言う乗組員は、浸水による疲れや傷みを引き摺りながらも最後の信仰を振り絞って従って行く。我々は天宙的ピューリタンとしての誇りと使命を担っている。この最後のラストスパートを泳ぎきる為に今までの歩み全てはあったのだ。肉が裂け、骨が折れたとしてもこの一戦に全てを賭ける。神が約束を果たしてメイフラワー号が新天地に到着したように、この箱舟も新しい天と新しい義に辿り着く。この世では明日にも感謝祭を迎えるけれど、我々の本当の感謝祭は摂理完遂をこえた時だ。ピューリタンの精神を統一の群れこそが担い、後天開闢の時代を切り開いていく。

死を想う

新たな一日一日を生き、一瞬一瞬を前進しているけれど、後ろに送った一瞬一瞬、一日一日は過去に葬っている。一瞬一瞬の死を、一日一日の死を、過去に残している。生まれてから今日までの死を背後に連ねながら今を生き、やがての大死に向かっている。連ねてきた死をやがては大死に繋げる。やがては私という意識の後ろにも前にも、死が延々と連なる。生という存在は死が存在することで存在する。もし人間に死が無かったら、生が存在することも無いだろう。死があってこその生であるなら、そして死を認識することで生を認識するなら、死への認識の度合いにより生を光り輝かせることができる。より死を正面に突きつけてこそ本質の生を生きることができる。死に正面から対峙してこそ生きることの意味を知る。生きていると言いながら実は死んでいる。毎日を惰性的に流しながら生きることを曖昧にしているのは、死への取り組みを曖昧にしているからだ。一瞬一瞬を過去に葬り続けることの死の意味を真剣に問わなければならない。生が無で無いように、死も無ではない。唯物主義の者、信仰心の無い者は死を無と捉える(死は無なりと言う唯物哲学)に帰依している。しかし本当は帰依などしていない。死に対峙するのが恐ろしくて目を背けているだけのことだ。死の領域では現世時間と現世空間に依存する事柄を持ち込むことはできない。時間と空間に左右されない事柄のみが死の領域に生を届ける。生を死の領域に送り込むことができない限りは死は得体の知れない死であり続ける。感覚世界であるこの世に生きることの意味は、生きて死を体験し、死と言うキャンパスに真の愛の筆で色彩鮮やかに愛の理想を描いていくことなのだ。死の領域への愛の理想の創造こそが生きることだ。

私の出合った神様

人間一人一人が個別であると言う意味は、創造理想から見れば神様の一つ一つの神性を戴いた神の実体対象としての個性真理体であるけれど、堕落の結果から見れば神様がばらばらに引き裂かれてちぎられ、その一個一個に忌まわしい別物が住んでいると言うことだ。神様がばらばらにされて苦悩の極みを味わっておられるのに、人間が苦悩を避けて安楽の中に生きるとすれば、それは自分の中に住んでいる忌まわしい存在を自分として生きていると言うことだ。安楽を求めるのはサタン的存在としての自分を認めることであり、苦悩を通してこそ自分は神様の分枝としての人間だと言うことができる。過去の歴史を見ればあらゆる苦難の中に呻吟する人間の姿がある。国家の興亡は苦難の中に立ち上がり、繁栄の中に沈んでいった。人類の歴史も苦難や苦悩を受け継いだ者を通して人間が神様に帰る事の可能性を繋いできた。私という人間を産み落とされて今に至るまで振り返るとき、苦難と犠牲への選択こそが私という存在を神様に近づけてきた。私の日本に於ける活動は或る意味奴隷的生活と言えないでもないけれど、有無を言わさぬ日本的アベルカインの中で、それが正しいとか何だとかは別として、否が応でも苦悩の中に追い遣られた。しかしその時の歩み程密度の濃い時期はない。神様に泣き言を言いながら、この苦悩路程から私を外して欲しいと言うその要望には何の返答も無かった。そうやって自分の神様に対する概念をことごとく崩されながら、自分の概念で作り上げた神様でありながら私に応える神様はいないと落胆しながら、しかし今でこそ、苦悩の中に歩むその時の私の中に尋ねてこられていた神様をはっきりと捉えることが出来る。その困難な時、明らかに私には神様が私と共に居られたのだ。何の語る口も持たれず、私の訴えに苦痛で相好を歪めながら、涙なのか汗なのか、しわと言うしわに纏わり着いてくしゃくしゃになり、顔として認識できない程で、そういう乞食と見まがうばかりの神様が私の中で泣いておられた。

2009年11月22日日曜日

カラス

夕暮れ時におびただしいカラスの群れが木々を渡っていく。枝と言う枝にびっしりと羽根を休め、高い位置にある枝が折れるほどにたわむのも全く意に介し無い。群れてはいるけれど統一的な行動を取っているわけではないし、お互いにつつき合いちょっかいを出しながら、己が本能の儘に行動し忍耐強さに欠けて落ち着きがまるで無い。この種族を取り仕切る霊的存在は神様に取ってどういう存在なのだろうかと問わずにはいられない。チンピラが群れるのと同じものをカラスの群れに見るようで、、喉元を締め上げたような声を響かせ、闇の迫る大空にうごめいて、更に黒く暗く天を覆いつくす光景を見ながら気持ちの良い感情を覚えている者はいないだろう。子供の頃、空の高い位置を夕日に向かって一直線に飛んでいくカラスを覚えているけれど、それとは違う存在なのだろうか。たまに早く起きて車を走らせると、闇が薄くなりかけ朝日がまだ照らさない頃合に、タイヤにつぶされたリスなどの小動物に群がるカラスを見かける。鋭い口ばしで腹を割き、内臓をついばんでいる様子で、車で直ぐ傍を通り抜けても全く物怖じせず、首をもたげた口ばしに細いハラワタが垂れたりしている。イスラム圏でのイエス様の言い伝えの中にこんなのがある。イエス様が弟子達と道を歩いていると犬の死骸に出くわし、弟子達は皆腐った死体に目を背けたが、イエス様は犬の死骸の美しい歯に感嘆されたと言う話だ。要するに自分の内面にあるが故にそれに相対してしまうと言う、相対基準の話だ。闇が迫る大空に舞うカラスや、ハラワタをついばみゴミ箱をあさるカラスを目にする時、忌み嫌う感情を覚えるけれど、それは自分の中にある堕落本性から来るものかも知れないし、イエス様の様にそこに見出すべき美や知恵に相対することができないだけかも知れない。

2009年11月19日木曜日

今日の想い 120

地上世界に足を付けて、しっかりと踏みしめて前進しようとするなら、生きることの意味を自分なりにでも悟らなければならない。しかし生きることの本当の意味は霊界を知らなければ解らないし、霊界を本当に知ろうと思えば霊界を霊界たらしめる理性界を知らなければならない。その理性界には理性界たらしめる原因の高次の世界が更にあり、そう辿っていった頂点に神様がおられる。少なくとも私はそう理解している。人間の意識状態は太古の昔と今では格段の違いがある。現代人は外的なものに光を当てることで論理的思考という能力を成熟させてきた。しかしながら太古の人間が内的霊的感情の中に生きてきた当時の雰囲気を、現代人の殆どは忘れ去り理解できない。摂理として一旦、人間を霊的事柄から引き離すことが必要だった。論理的思考を有した現代人の意識の在り様は、霊界から引き離された摂理によってこそ得ることが出来た。そして今、与えられた今の意識在り様で、新たに内的霊的な事柄を尋ねていくことを願われている。現代人の意識在り様の特徴的なことは、自分と言う存在を個として強く捉えることにある。それは一方では個人主義的な感情を育てたけれど、他の一方では自分と言う存在に対する責任や主管性を育てた。自分に対する責任や主管性を持てずに、神様と同じ位置で万物に対して責任や主管性を働かせ、理想に対して創造性を働かせることは出来ない。霊界や地上界は高次の原因界に対する結果の世界であるけれど、堕落的要素も含まれながら、或る意味妥協して創られた変える事ができない結果の世界に、人間は住まざるを得ない。或る存在を地上に迎えるまではそうだった。しかし高次の原因界である理性界や、更にその原因たる次元界に働きかけ、神様の創造理想に沿って創造されておられる存在を私達は戴いている。勝利された御父様であり真の御父母様だ。その意味で御父様は大宇宙を組み替えておられる。霊界の様相を一変しておられ、霊界の対象世界である地上界も遠からず一変する。春の訪れを知らないように、天宙的大変革の到来を感ずることのない世界に留まっているのであれば、御父様と自分との関係は遠くて細いと言わざるを得ない。

2009年11月17日火曜日

光を想う

吸い込まれそうな青が天を覆い、凝縮された光の層をそこに見ている。地上の希薄な光の中で喘いでいた昔の私の魂は、今密度の濃い、しかし軽やかな光に息を吹き返し、同じ光の中で活き活きと生命を溢れ出す万物たちとその喜びを分かち合う。木々に残った葉を揺らし、私の頬をなでる風が心地よく囁く。久しぶりの日差しが晩秋の景色を包み、壮年期を超えようとする私の体をも優しく包む。この一瞬の安らぎを受け取ることですら、既に生まれ出でたことの価値に匹敵する。明日に暗闇に沈もうとも、生きる苦しみにやがて翻弄されようとも、受け取っているこの一瞬の祝福がそれらに勝る。憂いの陰りを見せる心配事のひとつひとつも、必要とあって私に摂理されたことであれば、いたずらに陰りを濃くさせることはない。委ねるという学習を何度も何度も繰り返しながら今がある。七転八倒の苦しみの流転の日々が、執着という堕落要素にその原因があることを、この年になってやっと解ろうとしている。光を求めて地上に生まれ出でた自分なのだ。愛がその存在を現した一つの形が光であり、その光を光として素直に受け取れるまで、今の今まで時を要した。心の扉を全て開け放ち、居座る闇のひとつひとつを光に曝す。堕落と罪の結果としての闇が、最後の足掻きを企てようとも、遠からず光に焼かれる運命にある。闇の叫びに対して私はこう説得する。闇は光に焼かれることでその本分を全うするのだ。闇がどう演出するかで光がより光として印象付けられるけれど、最終章として闇は光に焼かれるのでなければ闇の光に対する存在価値はなくなる。多くの闇が魂の内に居座っているのを否定しない。だからと言って光を遠ざける存在にはならない。闇ゆえに魂の痛みを覚えながらでも光の方角に突進していくのだ。闇が魂の部分の殆どを占めていて、光が自分と言う存在を消し去ることになっても、それでも光の中に飛び込んでいくのだ。全てを否定して、それでこそ新生するものが自我の中にあるはずだ。その期待感が私を更なる光へと誘う。人類の光であり天宙の光である御父様に向かおうとし、より慕いたいしより侍りたいのは、父子の因縁を求める絶対信仰による期待感からだ。

今日の想い 119

聞きかじったみ言を、さも自分こそが理解したような態度を取るなら、その時点で既にアウトなのだ。確かにみ言をみ言として我々は受け入れてはいる。しかしみ言として受け入れる事と、み言として御父様が我々の知っている言葉として語られながら、その言葉の背後の本質を捉える事とは同じとは言えない。本来、天のみ言を堕落世界で用いられている言葉と概念で言い表すことには無理がある。しかしながら或る程度の無理を承知でも語らない限りは、論理で理解する現代人には届かない。論理で理解することは理解することの入り口でしかなく、論理でみ言の信頼性を魂に落とし込んでからがみ言の本質に入っていく路程なのだ。み言は頭で理解するものではなく心情で理解し、それは心情の啓発を意味するはずだ。私自身も御父様に認められるようなみ言の理解を得ているとは全く思っていない。しかしみ言を理解しようとする姿勢は間違っていないはずだ。これが正しいと旗を揚げた者達の救済論も、それに対して反論を差し出す者達も、言葉の遊びでしかないだろう。人間が百人集まれば一つの言葉の捉え方も百様に違うのであり、み言に対して兄弟全てが全く同じ概念として捉えると言う様な、有り得ない理想を掲げること自体がおかしいと思う。或る兄弟が、血統転換による救いをメシヤ家庭との血縁関係を結ぶことで為されると、自分の良心に鑑みて確信するなら、今のその人に取ってはおそらくそうなのだろう。しかしそう言った誰かの意見を受けて自分の中にみ言理解の迷いがあり、どれが本当の救いなのかと迷うなら、自分が必要とする救いの意味が解っていないのかも知れない。そういった兄弟に対して、無知に陥った人間としての拙い思考でこれに違いないと言う結論を出し、そのみ言の解釈を全体に向けて差し出すなら、反旗を立てたと言われても仕方が無いし、そのことで批判され混乱させることの覚悟と意味をも合わせて差し出さなければ、御父母様に更なる重荷を負わせることになる。み言の解釈で、これが絶対的に正しいと言える解釈など無い。もしそう断言するなら別の真理を付け加えることになる。今の時代、羅針盤としての良心に光は更に加えられている。誰かの意見に帰依し誰かに扇動されて歩む時代圏は既に過ぎ去った。祈れば良心を通して直接神様が働きかけて下さる。

2009年11月12日木曜日

THIS IS IT

御父様も一言触れておられるし、話の種くらいにはなるだろうと思ってMJの映画を見に行った。ロンドンツアーのリハーサル風景を繋いだものだという前説は情報として知っていたし、亡くなったMJを偲ぶファンの為の映画だと言うのはその通りだけれど、映像を受け取りながらそれだけの私の態度では収まり切らない、深い内容が含まれていることに除除に気付いていった。彼の音楽に差ほど興味を示さない私は、整形だの不純行為だのというマスコミが好んで扱う事柄しか知らなかったし、彼には彼の運命があると思いながらも、決してそれが私に取って好意的に受け取れるものでは無かった。スリラーに代表されるように悪霊が表現されたものだという捉え方は、普通の食口なら当然の捉え方だろう。しかしそう言った要素があるのも事実だろうが、何事にもそして何人に対しても、悪だ善だ、神だサタンだと簡単にすみ分けできるものではないだろう。彼は生まれ備わった天分もあるのだろうが、小さい頃から叩き上げられた歌とダンスに完璧ともいえる技術とセンスが備わっている。そしてそこに歌と踊りの神が宿っている。彼に対する好き嫌いに係わらず、それを見てとることは容易だ。完璧な、しかし自然体のダンスを自分の用具として使いながら、ダンスと歌そのものを披露するのではなく、それを使って何を届けるかを彼ははっきりと認識していた。それはリハーサル風景を繋いだ映像だけでもしっかりと伝わってくる。微細なこと一つ一つに神経を配り、繊細さに繊細さを重ねながら、ステージ全体、或いはワンコーラスを通して語りたいもの、そして一瞬一瞬を断片的に受け取ったとしても届くものがあると言えるほどに繊細さを備えている。優しさであり温かみを微細な全ての音とリズムに、そしてそれを忠実に表現した身体の動きにも込められている。そうして届けられる優しさと温かみを映像を通しながら受け取って、自分は知らない間に涙を流していた。彼は全ての返事にILOVEYOUと応え、全ての指示にGODBLESSYOUと付け加える。愛を与えることがステージに立つ意味だと言うこと、その為に全てのパフォーマー、全ての関係者が愛を与える存在になるよう、MJ自身が彼らに愛を与えようとしている。リハーサルの場であるにも拘らず、愛に溢れたその場に私は同化したい程だった。み言を受けて真の愛を伝える立場の私は、謙虚に頭を下げざるを得なかった。最後にパフォーマーや関係者の字幕が流れながらMJのバラードが流れてくる。揺らぎのある細い高音がMJの喉を通して紡ぎ出される。彼は一つの使命があった。その使命に精一杯生きた結論が、その歌の中に流れている。愁いのある響きに、大切に受け取らなければ壊れそうなそのメロディーに、MJでなければ表現できない愛の形が流れている。

2009年11月11日水曜日

今日の想い 118

今の私の知り得ない多くの叡智があり、神様や霊的存在の計り知れない心情の中に自分は生かされて歩んでいる。それを理解せずに生きることは、例えるなら目を閉じ耳をふさいで生きることと同じだ。自分が自分として落ち着く気分の中から周囲を見回し判断しているけれど、それがどれ程、拙くも幼いものであるかを知らなければならないだろう。起こりえる事柄を自分の狭義な思考で捉え、自分の内面の僅かな部分にのみ感情を覚え、自己中心的なもの以上の意志を働かせることは無い。自分と言う存在は自由という言葉を持ってはいない。自由と言う本来の意味を飲み込めずに、見えない呪縛をかけたまま一生を終えるなら、生かして頂いている存在に対してどれ程申し訳ない立場かわからない。人間は睡眠というへその緒を通して大宇宙の霊の世界への限られた接触を行っているけれど、今日一日の経験を受け取りながら何ら変わらないいつもの日常としてしか受け取ることしかできないのなら、そして新しい魂の学びを期待もせず要求もしないのなら、大宇宙からの新たな活力も受け取ることは無い。願うからそれに応えようとするのが天の道理であることを思えば、期待感情を備えれば備えるほどマイナス極はより強くなり、プラス極の霊界から受け取るものは多くなる。魂の成長に対して、どのようなことがあっても諦めの姿勢を取るべきではない。一つの芸術作品を前にして、隣の人が涙を流し感動を覚えているなら、自分がどうして白々しい乾いた反応しか取ることができず、隣の人を超える魂の在り様になれないのかを寂しくも思い憤りを感じるべきなのだ。八方塞の状況に諦めの態度を取るのではなく、自分が知らない高次の状況把握があり想像的な知恵があるにも拘らず、捉えることが出来ない自分の器の小ささを知って、祈り倒してでも叡智の欠片を要求すべきなのだ。御父母様に対して息子であり娘であると言われながら父母として慕い慕われるものを実感として受け取れないなら、談判し脅してでも慕う意志を強く強く差し出すべきなのだ。真の父母の魂の在り様と言う、次元の違う知情意の世界へ向かうとき、大気圏を越える決意を差し出す必要がある。絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準と一つになった者が大気圏を越えて大宇宙に飛び出し、天の叡智と天の心情を受け取ることができる。

今日の想い 117

悪なる所業の悲惨な結果に、波打つ自分の感情としてのみ魂に反射させても、供養にもならなければ慰めにもならないだろう。思いとして先ず最初に生じたものは、どうして故郷のその地に捨てられなければならなかったのかという憤りにも似た疑問だ。私の記憶の中の刈尾は雪霊水に流れる清らかさと、なだらかな稜線に見る包み込まれるような優しさに溢れている。人間の力を超えた自然の霊に畏れを抱きつつ暮らしてきたけれど、刈尾に視線をやればそれが自然への畏敬の念としての畏れであることを教えてくれる。この事件を耳にしたとき、一瞬は人間の命を喰らう鬼の類が刈尾の正体なのだろうかとも思った。昔からどれだけの人がこの山で命を絶ってきたか知れない。しかしながらどう問いかけてもこの山から自分が受け取ってきたものが地を這い生き血を吸うような低次元のものとは違って、何か宗教的な厳かなものに包まれている何かなのだ。命を絶つことは思いつめた末の行動だとしても、最後の場所は本人に取って安らかな場所を選ぶだろう。死を決意しながらせめてもの救いをその場に求めた、それが刈尾だったに違いない。命を絶つことは最大の罪であるとしても、抱擁するものが彼らを受け入れてきたのだ。今回の事件を深く問うとき、加害者が一度は訪れた場所であることはその通りだろうが、被害者に取っても過去に訪れたことがあるか、或いは肉体を離れた霊として加害者の選択肢の中からその場所への強い念を働かせたか、そのどちらかだろう。この事件に係わる霊的背後を問うても興味の域を出ることは無い。事件の残忍さを魂に波立たせる以上に、この地に何とか関係性を持たせ、私の故郷だということによって私に知らせたかったのであり、事実私は強烈な印象を持ってこの事件を知ったと言うことだ。その地に生まれたこの事件を知った者として、他の誰でもないこの私が供養できる何かがある。

2009年11月8日日曜日

今を考える

本部があって現場がある、と言う取り決めが責任者の中に生きている以上、現場サイドからどんなに意見を吸い上げても変わることは無いだろう。み旨の為の方便としてビジネスの仕組みを使っている、と言う少数の認識を横に置いて、ビジネスはビジネスでありそれを成功させることでみ旨に貢献できるという認識が圧倒的に多いだろう。それ故にこの世に追いつけ追い越せと尻を叩き、売上と利益を追求する。外的な結果のみを神が取ってくれるのだから結果を残せないならみ旨とは関係ないという感覚だ。しかしこの不況の中で結果を残すのは至難の業だ。利益として残るものでしか貢献できないと認識している者に取って今の状況では存在する意味は無いだろう。それでも今ある位置に居続けるのであればその認識を変える必要がある。結果至上主義の旗を降ろさない限り存在する基盤を失うことになる。自分や組織に実力が備わっているから今までの結果を残すことが出来たと思っているが、実は出るべくして出た結果であり、自分が実力をつけてきたが故に結果を出せた様に思えるかもしれないが、それですら目に見えない天の計らいがそうさせたのだ。そう思えれば本来はもっと内外の結果を願われていたのではないかと言う事に気付く。そこからが意識を備えた者の本当の出発だろう。今の状況を責任者も現場もそして自分自身も皆一様に憂えているけれど、本当の気付きを得る大きな祝福が今なのだと、宇宙的観点に立てば言うことができる。今まで築いてきたと思われる体制や仕組みを、この混沌期に全部否定されながら本物が芽生えてくる。それはみ旨を標榜する我々も同じだ。同じように全てを否定される。その混沌期にいち早く新しい芽生えを見ることができた者が新しい世界を制するに違いない。しかしながら芽生えを確認するまではまだまだ混沌の中に翻弄されなければならない。翻弄されながら上手く行っていた時には気付かなかった背後の導きや護りに気付きながら、悔い改めや感謝を差し出す宗教的人間性を掘り起こす歩みを歩ませて頂いている。

2009年11月6日金曜日

今日の想い 116

朝起きるのが辛い時がある。目覚ましの音で反射的に上体を起こすけれど、心魂が肉体をまとうのに暫く時間がかかる。この体の中に入っていって、意識を働かせ四肢に命令を下し始めるまでが一仕事なのだ。御父様が二時間の睡眠のみで乗り越えてこられた、その霊力の大きさは私の想像を超える。短い睡眠でよしとする為には高次の霊人体を備えて高次の霊界との授受作用がしっかりと為され、多くの神の生素を受け取る必要がある。知に於いて極め、情に於いて極め、意志に於いて極められた御父様の魂の在り様は、取るに足りない私の小さな魂では到底測ることはできない。生まれながらにしてそうなのだろうと、それがメシヤがメシヤであることの所以だろうと思っていた。御父様は自叙伝を出版され、それに目を通すと私の知らなかった多くの事実を平易な言葉で明かされている。私が特に驚いた発見の一つは、イエス様が十六歳の御父様に願いを託そうとされた時、それを受けて相当悩まれたという事実だ。イエス様との遣り取りが一つの儀式的なものなのだろうと捉えていたから、できませんと否定され、何とか辞退しようとイエス様の裾を掴んで泣き続けもされたその時の描写は以外だった。メシヤとしての要素は勿論持っておられたにしろメシヤがメシヤとしての魂の力を持つことができたのは、当然の様に与えられたのではなく一つ一つ勝ち取ってこられたという事実に触れて、私という堕落人間とは違ってメシヤだからと言う物言いはもはや通用しないことが解った。今までの歩みを振り返り、諦めることなく勝ち取ったものが自分の中にあるだろうかと問う時、御父様、と心に念ずるのさえ畏れ多い自分であり、恥かしい自分であり、祝福家庭の名に全くして相応しくない自分であることに改めて気付かされた。血と汗と涙を代償にされて御父様が拾われた小さな自分の魂は、御父様の目にはどう映っているのだろうか。せめてそこに、父が子を見つめる御父様の愛に気付いて一筋の涙でも流す者でありたい。

2009年11月1日日曜日

今日の想い 115

毎年同じように春夏秋冬が繰り返されているようで、しかし昨年の季節の在り様と今年の季節の在り様とは違う。勿論年が違うわけだから違うのは当たり前だと言われそうだけれど、今年の秋の在り様は明らかに今までの秋の様相とは違っている。秋は実りの収穫の時であると言うのは外的なものに限って言われる言葉ではなく、内的霊的な事柄にも当てはまる。毎年十月、十一月あたりが個人的な事であったり家庭の事であったり、或いは店の事であったりと色々ではあるが、結果と言う果実を収穫する。善果にしろ悪果にしろ一年の決算をして実りは実りとして受け取り、清算すべき事柄は色んな悪果として表面に現れるものを嫌でも受け取らされる。どうして毎年、いつもこの時期に様々な問題が起こるのだろうと頭を傾げていたが、秋という刈入れ季節の性質上こうなるのだと言うことが解って来た。私の妻も医者が理解できないような病を何度か背負ってきたけれど、決まってこの時期に問題が発生している。個人や家庭に於いてそうであるように、国内問題、世界的問題もこの時期に起こるべくして起こる場合が多い。取り分け今、国内外で問題視されているのはスワインフルーと呼ばれるインフルエンザに違いない。すでにこの秋、爆発的な広がりを見せているけれど年末に向かい更に猛威を振るうことは確定済みだ。地上世界にのみ生きているのなら、流行り風邪に翻弄され経済危機に翻弄され、明日をも知れぬわが身を愁いながら一瞬一瞬を生きることを強要されているとしか言えないだろう。しかし地上世界は対象の世界であり、内的霊的世界を主軸に生きてこそ対象である肉身生活のあらゆる事情に意味があることを理解する。降りかかった災禍よ早く過ぎ去れと叫ぶのでなく、この経験を味わうことで自分は内的に何を取り戻し、何を培うのかを問わなければならない。

2009年10月31日土曜日

眠りについて

人間は眠りを愛する。眠りに入ることで霊界に入っていく。起きている時は自分と言う存在を意識しているけれど、眠りに入ると意識されない自分が霊界に分散していく。胎児がへその緒を通じて外界に接しているように、人間は眠りに入ることで霊界に接している。へその緒を通して外界から届くものが極めて限られ、外界そのものに胎児が直接触れるなら胎児は生き延びることができないように、眠りを通して霊界から受け取るものも極めて限られており、もし霊界そのものに人間の魂が直接投げ込まれるなら人間は霊人体として霊界で生きる魂の力は弱くなるだろう。眠りに入るとき私は無意識のベールをかけられる。意識を持って霊界に参入するなら、その圧倒的な高次の雰囲気に自分の魂は耐えられないに違いない。無意識のベールをかける霊に護られて、限定的な霊界に開示されることで、明日を生きる魂の糧のみを高次の霊界から受け取っている。魂の糧は肉体としての活力以上に人間としての魂活動の活力として受け取る。覚醒時にどういう魂活動をしてきたかにより、受け取る魂の糧の種類も質も違ってくる。誰もが同じ眠りにつき同じように目覚めていると思われるけれど、受け取っているものはそれぞれに皆違う。覚醒時の魂活動を私は何に帰依して為しているかで霊界に持ち込むものも違い、それに相対して受け取る霊的活力要素も違ってくる。今日一日歩んできて今日の出来事を振り返りながら、その外的内的経験をどう捉えどう反省し、どういう教訓を学びどう生かすのか。食事一つとってもその事柄にどれだけ内的意義付けができ、魂の知情意の領域まで引き上げながら自分の内側に刻印できるなら、霊界を主体に置いた地上生活を送っていると言うことができる。

新生

御父母様が希望の実体として立っておられる。私の外にのみ立っておられるのでなく、私の中にも立っておられる。私の外にだけ立っておられるのであれば私は半永久的に御父母様と一つになることは出来ないだろう。御父母様が私の中に立っておられる意味は、御父母様が霊的勝利圏を立てられてマクロコスモス、ミクロコスモス如何なる場所であっても尋ねられることができ、勝利を相続させようとしておられるからだ。私が絶対信仰、絶対服従、絶対愛の基準と一つになって完全マイナスの相対圏に立つことができれば、主体であられる御父母様を私の中に見失うことは無い。私の中に聳え立つ御父母様を見失うことが無ければ、遅かれ早かれ御父母様とひとつになれる。偽りの自分が最後の砦を死守しようとし、自爆的な魂行動に出ようとしても、もはや私の霊の目は御父母様の目になってしまっている。何とも愚かな見え透いた悪魔的な感情を噴出させても、それに騙され踊らされることは無い。私の中におられる御父母様が光を照らされる。今までは暗闇の中から差し出されたものを意味も解らず受け取り飲み込まざるを得なかった。しかし今はその意味を見て取ることができる叡智を光として照らし出される。それが神から来たものかサタンから来たものか、その霊的背後を見通すことができる。私の中におられる御父母様が私の中で益々大きくなられ、私という存在を超えて私を包み込まれる。私を包み込まれることで、御父母様という存在が真の愛そのものであることを悟る。私は微笑まれる御父母様の心情に包まれながら真の愛で霊化していく。私は真の愛で生まれ変わった新しい自分を発見する。

2009年10月30日金曜日

今日の想い 114

他人の放った言葉で自分を責め、み言にも裁かれ、信仰を実らせることができず取り返せない流れてしまった時を羨み、だから自分はこうなんだと現状の問題一つ一つを取り上げて自分自身を恨む。もはや神様に自分はどうしてこんな状態なのでしょうかと談判する意志も起こさず、ひたすら背を丸め日の当たらない隅に身を寄せながら、捨て去られた自分という独房に自分自身を押し込めて、何重にも鍵をかける。何とかその場から引き出そうと、良かれと思い声をかけても、どうしてこんな自分に更なる罵声を浴びせるのかと、恨めしい視線を投げかけながら更に自分の中に閉じ篭る。誰もあなたを裁くことはできないし裁いてもいない。自分に脱落者の烙印を押し続ける存在を神様と思っているけれど、それは偽りのあなたがそうしているだけで、偽りのあなたを本当の自分だと後生大切に囲って拝んでいるだけなのだ。悪魔の声らしく届かない悪魔の声を自分の叫びだと思わされ、自分を否み卑下することを謙虚と捉えているあなたは、明らかに自分を貶めている。自分を貶めることで神様を貶めている。その感情の位置は今までに何度も何度も自分を追い遣った自分の逃げ場所。そこに逃げ込むことで自分を否み卑下することに悪酔いしている。重油のような否定的感情に浸かりこみ、色とも言えぬ暗い色に魂を染めながら、感情は重くなって波打つこともしない。軽やかな、喜怒哀楽が溢れて踊る、遠い昔のあなたの魂を、瀬戸内の海に光たちが戯れるようなあなたの魂を、取り戻せるまでどれくらい掛かるのだろうか。私を責めてそれで取り戻せるのならどのようにでもしてくれればいい。しかしそれでもあなたは私を責めずに自分を責め続ける。

2009年10月28日水曜日

グランドキャニオン その二

うちの連中は朝がめっぽう弱い。この機会を絶対逃してはならないと思い、ついたその日は明朝に備え兎に角早く休むことにした。翌朝、本当に休めただろうかと思いながら、暗闇に目覚ましの音が響くと同時に飛び起きて皆をたたき起こし、宿を出たのが四時半くらいだったろうか。暗いうちにきのう来た道を引返し、空が白み始めるまでヒーターを入れた車内でしばし待つ。幾らか上空の暗闇が薄くなり始めた頃、様子見のために出かけても、岩地の向こうは暗黒が広がるばかりで暗闇の海の底に沈んだまま姿を現さない。車から出たり入ったりを何度か繰り返しながら、最初の光が届けられて天と地の境界線がはっきり捉えられると、徐々に徐々にそれは姿を現し始めた。岩肌の凹凸に合わせて朱色の淡い陰影を浮かび上がらせる。ゆっくりと時間をかけて紋様を広げていくと、幾筋もの地層に沿って微妙な色合いの違いが浮かび上がる。峡谷の底は辛うじて陰影を醸し出す程度で、色の要素はまだ届けられない。暗い遥か地の底から、オレンジ色に輝いて反射する地表近くまでの、岩肌のあらゆる様相や表情をこの瞬間に目に捉えているけれど、最深の位置から地表までの創造歴史は想像もつかない気の遠くなる時を刻んでおり、更に幾億もの地層を重ねて隆起した地層を今度は寝食する作業工程に数千万年の時が刻まれている。その事実を眼前に広がる景観を受けて実感できる人が果たしてこの世にいるのだろうか。創造歴史、地球生成歴史と一言で言うけれど、この小さい魂でそれを把握することは到底出来ないだろう。ほんの数十年間の人生ですら手に負えない魂でありながら、何億万年という時を刻みながら創造の営みに奉仕してきた魂を前に、自分は佇むことすら出来ないに違いない。神様神様と簡単に口にするけれど、それが分をわきまえないあまりにも畏れ多い言動であることを悟るだけが精一杯なのだ。この景観を前にして、芸術的な感性を働かせながらどれ程美しいかを受け取るのではなく、創造歴史の深みと重みを痛いほどに受け取る者となり、小さな悩みに翻弄される己が魂を恥かしく思う宗教的感情を覚えるべきなのだ。光が溢れて峡谷の全容が明らかになり、自分の周囲に目を遣ると、数人の人達が祈る風にも見えて寡黙に立ち尽くしている。私の背後で、寒さに紅潮させた頬を朝日に輝かせながら景観に見入っている妻や子供を促して、グランドキャニオンを背にすることにした。

グランドキャニオン その一

何処までも一直線の道を走り続け、サインにそって幾らかのぼり気味に車を走らせる。パーク入り口のゲートを超えて更に走ると駐車エリアにやっと着く。降りてそこら辺を見回してもそれらしき景色は見当たらない。しかし人が流れている方向に足を進めていくと、峡谷を挟んで向こう壁なのか、地平線がせり上がるように急に現れてくる。山に向かうときはだんだんと迫ってくる感覚を覚えるけれど、グランドキャニオンは一瞬で眼前に光景を現し、急に違う世界に扉を開かれた驚きを覚える。最初にこの光景を発見した人は相当驚いたはずだ。できればここに関する何の情報も得ずに、何の期待感も持たずに、最初に発見した人と同じ状況でこの光景を目にしたかった。もし自分の親でも連れてくるなら何も知らせずに連れて行き、腰が抜けるほどの驚きを味わわせたいと思う。それが大峡谷の見方に違いない。驚きによる高揚感が谷の底を見たい衝動を引き起こし、せり出した岩場へ足を早める。人間としての本性なのか、峡谷の美を味わおうとするよりも何よりも、兎に角自分の位置を先ず確認したいらしい。皆が皆、手すりから身を乗り出して遥か底に霞んで見える川を確認するとやっと落ち着いたのか、おもむろに大峡谷全体を見回しながら鑑賞の姿勢に入っていく。確かに驚きはするけれども、これ程の大掛かりな景観を前にして自分はどういう感情をもとうとしているのか戸惑っている。雄大さを覚えて感激すべきだろうけれど自分の知る雄大さと言う概念を超えるものを目にしているようで明らかに戸惑っている。正直、この景観を目にすることで何を受け取るのか、何を教えようとしているのか解らず、取りあえずはカメラをあちこちに構えながら、そこら辺の観光客と同じ行動を取る以外なかった。その日は予約を入れておいた宿を見つけるため、暮れかかる前にはその場を後にしたが、あくる朝は日の出の峡谷を見ることにしていた。

2009年10月26日月曜日

今日の想い 113

久々に晴れ渡った空の下で、人それぞれの霊界も大きく開放されながら、自由な心情感情を遊ばせて今日の一日を生きる。自分と言う魂を一個の肉体に深く埋め込まれたが故に、他に対する自分、他と比較する自分と言う、他と自分、外と内の隔たりを深く遠く構えているものだから、その溝を何年経っても埋めることができずに、閉ざされた自分を誰もが生きている。自分という存在に固執すればするほど孤独になり、全ての不幸の根源が実はそこにあることも気付かずに堕落人間の悲しい性を生きている。愛という言葉は知っているけれど、それぞれの器に応じて理解されるものだから、途方も無い愛を注がれて存在しているにも係わらず、自分に与えられる愛は極めて限られていると思っている。み言をそれなりに理解して、御父母様を自分の御父母様であると言えるとしても、み旨を要求としての指示事項として捉え、それが御父母様からの真の愛の贈り物であるとは捉えない。み旨を前にして構えれば構えるほどに、自分と言う独房の中に入り込むのであって、み旨本来の接し方とは違ってくるだろう。伝えたくて伝えたくて仕方が無い、与えたくて与えたくて仕方が無い、そう思える魂の開放こそ本当の自分は求めているのだろう。与えること、為に生きることへの理屈など本来必要は無い。他と自分、外と内の皮膚や壁や溝を撤廃し、他の痛み苦しみを自分の痛み苦しみとして感じ、他の喜び楽しみも自分の喜び楽しみとして感じることができる、それこそが解放だろう。他の中に自分は入ることで他を理解でき、広大な宇宙の中に自分は入りながら宇宙に流れる神様の心情を受け取り神様の叡智を受け取る。み旨だと言って構えて身を強張らせて歩むけれども、本来救われるべきは私という魂なのであって、み旨と言う救いの摂理の99%は神様とメシヤである御父様が立てられるのであり、私の立場は救われたい、救って欲しいと言う魂の叫びを御父様に届けて差し出すことしかできない。しかし堕落人間としてそれを為そうとすれば、身を挺してでも帰依する覚悟が必要なのだ。見上げる覚悟の位置を境に、手前は肉の心に自分は操られ、覚悟の位置を超えれば良心によって自分を取り戻すことが出来る。絶対信仰、絶対服従、絶対愛の基準とひとつになるその覚悟こそ、天国と地獄の境界面なのだ。

2009年10月25日日曜日

今日の想い 112

夏場では、一雨勢いよく降ってしまうと後は嘘だったように晴れ渡る。今日朝方は持ちこたえそうだったけれど、そう思うと直ぐにも降り始めた。降り始めた雨は降っても降っても止む気配は無く、空は益々暗くなっていく。夏の雨と秋雨とは別の霊的本性が働いている。この雨に曝されることで大地に息づく全ての生命は活動を弱め、息を潜める。木々や草花が息を大きく吹き返し活動を始める春の様相とは対照的に、息を一雨ごとに弱くしながら仮死状態まで落して行き、やがて来る冬に備えようとする。この雨に打たれることで植物は外界に向かっていたベクトルを内面に向ける。外界から受け取った光を、内面に差し出し、宇宙に通じた内面に差し出すことで繁殖の力を宇宙から受け取る。一日の朝昼夕夜が一年の春夏秋冬にリンクしているように、植物が冬の期間宇宙から繁殖の力、創造の力を受け取るのは、人間が夜寝付くことで、昼に受け取った経験を内面に届けながら明日の生きぬく魂の力を受け取っているのとリンクしている。受け取る魂の力を発展の力、創造の力に費やすことなく、ただ一日を生き延びることのみに使われるなら、人間は植物に対して負債を負うことになる。口にする食物が私を讒訴する。自然の営みには霊的本性たちの叡智が溢れている。堕落人間には想像もできない叡智の領域が自然の営みに係わっている。季節の流れから受け取る感情や深い観察を通しながら、霊的本性の働きを垣間見るだけでも、堕落人間がどれほど恐ろしいくらい無知に陥ったかを知ることができるし、この肉体に住むこと自体が羞恥を超える恐れ多いことだという謙虚の意味を知ることができる。今年の春でもなく、去年の春でもなく、歴史上にはない始めての新しい春を創造するための宇宙的創造の取り組みが、霊的本性を通して既に行われている。

2009年10月24日土曜日

深い秋に想う

冷たい雨が三日を通して降り続くと、秋は一気に深まりを増して数日前の残暑が嘘のようだ。木々の葉はまだたいして色づいてもいないのに、早々と散り落ちて土に帰ろうとしている。人々はあれほど照りつける熱を避けようとしていたのに、今は柔らかくなった陽光を惜しんでいる。むせるほどに湿気を帯びていた重い大気も高い空を見通せるほどに透明度を増し、軽やかに風を舞い上げている。こちらに来て久しぶりに虫の声を耳にした。今までも耳を澄ませばそれなりに聞こえていたのかも知れないが、何がそうさせたか気付かなかったようだ。視覚に秋を受け取り肌に秋を感じ、耳にも秋の振動を受け取ると、秋の雰囲気そのままに内面も秋色に染められ、切なさの感情が内面からこぼれ出る。毎年この頃になると帰国し、田舎の両親の顔を見て来たけれど、どうも今年は難しいようだ。この時期にいつもそうしていたのは、秋に覚える切なさのせいだったかも知れない。子供の頃にはそれぞれの季節から受け取る感情が、大きな存在感として占めていた。それぞれの季節への異なる期待感に胸を膨らませていた。それがいつの間にか薄れ、消されていった。今の子供が、私が幼少の頃受け取った感情そのままを受け取っているとは思えない。今の時代がそう言う時代なのか、社会がそれを消し去ったのか、味気ない感情生活を強いられて、神秘的なもの、目に見えない事柄の存在感を知らないままに大人になるなら、人生の喜びの半分は取り去られている。御父母様に向かう想いの根底にも、子供の頃に受け取った多感な感情が慕う力を紡ぎだす。虫の声に耳を澄ましていると心が落ち着いてきた。内面の波をその波長で鎮めてくれる。虫の声には心を癒す揺らぎの響きが含まれている。虫の声に耳が止まったのにはそれなりの理由がある。天正宮での訓読会で、御母様の歌声が披露されていた。配信された動画を前にしながら耳にするその歌声には涙を誘う哀切が含まれ、スクリーンから溢れ出す。その響きを虫の音の中に聞き取れたから耳に止まったのだ。虫の声には神様が尋ねてこられた歴史の哀切が響いている。

今日の想い 111

政府に対する官僚があるように、社長に対する本部がある。官僚の下に大手の企業や中小の企業があるように、本部の下に卸し業やレストランがある。国の存在が経済の動向を主軸にして動いている現代に於いては、図らずも国の在り様と、み旨に於ける経済活動の分野を担当する我々の在り様はシンクロする。民主党が政権を取り新たな政治への取り組みを始めたばかりであるけれども、マニフェストに従って政策を遂行するにも今までの形がありタガがあり、そう簡単には日本丸のヘサキは変更できない。講釈を受ければ理屈はわかるとしても理屈では人も組織も動かない。動かすだけの外的要因と内的要因をどれだけ準備して、やらざるを得ない状況に詰めていくかだろう。総理が友愛という言葉を使っているが、それが今回の政権の根底にあるものとして総理は認識をしている。その言葉に込められた思想をどれだけ閣僚に官僚に、そして国民一人一人に植付けることができるかが改革の力となるが、そんな思想以上に利権が絡み損得の絡む事柄への執着が大きいだろうから、結局は何も変わらないか、或いは全てをぶち壊して終るかのどちらかだろう。我々に於いてもみ言から流れてくるものを主体として備えているか、或いは厳しい経営状況に於いて取りあえず生活を含めた当面の維持に躍起になっているか、内的霊的状況分析をしっかりと踏まえながら舵を取っていかないと日本丸と同じ運命を辿ることになるだろう。組織の位階に於ける個々の問題点を取り上げることは、皆にすれば批判にしかならないので敢えて伏せるにしても、明日が全く見えない日本の中小企業と同じ状況に我がレストラン部があることは事実だろう。問題点を報告しても改善案が上から掲示されることはない。上は絶対であり下は上からの要求は呑まざるを得ないものだという認識と、現場の問題は現場で解決が当たり前というこの二つの悪しき概念が、現状を無視して跋扈し続けるなら日本丸と同じ運命を辿らざるを得ない。新しい時代、変化への対応力が要求される時代には新しい概念が新しい皮袋として必要とされる。だからと言ってみ言からずれて行くとは思えない。み言的に言えば過去の概念は今の時代、十分ずれている。

2009年10月22日木曜日

95号線を走りながら

朝まだ暗いうちに家を出て北上する。環状線から北へ伸びる95号線に差し掛かった頃、東の空がやっと白み始めた。なだらかな起伏が延々と続くこの広い道路に、さして大きく視界をさえぎるものはない。運転しながらも空の変化は逐次観察できる。町の中に埋もれたままで朝を迎えそのまま一日を送れば、この宇宙の只中に存在しているという実感を覚えることは無いだろう。宇宙と自分とを当たり前のように別物に捉えている。宗教的感情を育てれば感覚的知覚を超えたところで宇宙の中に溶け込む自分を認識できるだろうし、内面を掘り下げていけば自分は宇宙全体にまで拡大していく。視覚は前方を捉えハンドルを握りながらも、視覚の周囲から大きく入り込む天空に意識を持って行き内面に映し出す。湧いては去っていく数千の思いを秋の空の青に変えて行き、秋の空の青のみで内面を満たす。瞑想しながら魂の波を鎮める時は忍耐のいる作業が必要だけれど、秋の空の青に集中できれば青は沈静の働きをしてくれる。肉体に流れる感覚的熱情に対し、先の見えない暗黒の闇が迫る不安と恐怖の感情に対し、指し当たっての問題の解決策が見出せない歯がゆさに対し、鎮静剤としての役割を果たしてくれる。神様に委ねるしかないという結論の言葉は既にあるけれど、委ねるモードになる為の魂の糸口を探している。空の青は神秘の表象。青に映るその向こう側にありとあらゆる霊的本性があり、神様と神様の使いからもたらされる溢れる叡智が大海の如く波打っている。真の父母の勝利圏を相続した自分であれば、それを受け取り使うことは許されているだろう。絶対信仰、絶対服従、絶対愛の基準とひとつになった自分であることが、青に映る存在の本質へ入るベールを潜れるのだろう。御父様が語られる数理の秘密に隠された本質的内容を、おぼろげにさえも捉えることが出来ていない自分は、願われる基準から程遠い者であることを認識しながら、それを落胆としてではなく謙虚さとして認識すれば一歩を踏み出すことができる。

2009年10月19日月曜日

コディアックのサケに想う

数年前の八定式にアラスカに手伝いに行った事がある。魚との付き合いは長いので今まで食材としてのサケは飽きるほど見てはきたが、ノースガーデンに於いて食当の為に殆ど外に出ることはなかったし、川を遡るサケの群れがどんなものか想像もつかなかった。数日が経って御父母様もコディアックを後にされ残った修練生も少なくなった為、食当も時間の余裕が出来てサケでも釣りに行ったらと言うことになった。遠目に見れば普通の川だが近くに寄って幾らか目を凝らせば、川の流れというよりサケの流れと言えるほど、川上から川下までサケで埋め尽くされている。圧巻だった。母線回帰の習性を持つサケは長旅を経て、やっとの思いで生まれ故郷の川に辿り着く。それからは犠牲を絵に描いたようなプロセスを通過していくのだ。遡上の過程でパートナーを見つけるとツガイのまま更に浅瀬を遡っていく。障害物や川底の石で鱗をはがし身を削りながら、餌も口にせずひたすら遡っていく。目的地に着くと最後の力を振り絞って産卵し、雄は放精する。産卵を終えたサケはその場で十日を待たず死んで行く。熊や他の生物の餌になることで回りまわって孵化する稚魚の餌になる。川を遡上するサケの群れを目にしながら、御父母様を迎えてみ言を待つ兄弟姉妹が、イーストガーデンやベルベディアの一室に足の踏み場も無いほどに詰め寄った光景を見るようだった。人間性が剥奪されたようなその場にうずくまる自分は、決して外的には快くは思えないが、外的な状況に反比例するように内的霊的な宝がその場にあることを知っている。御父母様がサケの一生をビデオで御覧になられながら、統一の群れの歩みと重複して見ておられたはずだ。傍目には余りにも切ないサケの最終章も、本質に目を遣ることで為に生きることの尊さを眩しいほどに受け取る我々でなければならないだろう。魚ですら父母と先祖は子孫のために犠牲となるのが当然の原則としてありながら、人間が父母としてそれが出来ずにいるとするなら、動物以下の存在だと言われても仕方がない。この身が朽ち果てる最後の最後まで、為に生きることのできる対象を探し回り、死の寸前にあっても為に生きる自分でありたいとの想いを熱くし、為に生きることに飢えて渇望してこそ、サケの種族を超える統一の群れとなることができる。

民族意識、民族感情

電話をよこしてよく話すひとりの兄弟がいる。同じ頃にアメリカ人事を言い渡され、お互いこの地に歩んで四半世紀に及ぶ。よくも話す事柄に事欠かないものだと、感心もし呆れもする。故国を離れて歩めば、誰もが故国に繋がれている宿命の糸を覚えずにはおれないだろう。年を重ねる事でそうなるとも言えるけれど、今更にして故国の事を我が事の様に感じる自分がいる。自分のことを知りたいと思うように故国日本のことへの関心が強まり、過去の歴史を検証もし今の在り様を憂えてもみる。彼から電話が入る度に、あいも変わらず日本人を生きているなあと想う。真珠湾攻撃の開戦前夜に何かの陰謀がない限り、開戦通告が遅れることでパールハーバーの奇襲として今の今まで卑怯者呼ばわりに甘んじなければならない歴史の汚点は払拭されたはずだと言う。そこに端を発して自国を愛さないどころか認めようともしない自虐国家日本が現状としてある。恐らくその通りかも知れない。その通りであるけれど、それを声高に自分の内面に響かせ、事或る毎に口にするのも決して利口だとは思えない。プロセスがどうであれ、第二次世界大戦に於いてサタン側日本として参戦した以上、なるべくしてなった結果と言える。ましてや非難しようとするアメリカに、勿論人事という直接的意志ではないにしても、この地に居を構えこの地で商売をしているのは事実だ。全てではないにしてもアメリカによって生かされている面も多大にある。故国を愛するのは善しとしても、それなりに食わせてもらっているこの地を、復帰しようとしているこの地を非難する意識が働くのなら、み旨の願いとは方向性は違ってくる。彼の話を聞きながら彼の店に軍歌でも流れ、日章旗でも掲げられているような愛国の意識があるなら、店に足を運んで喜んで食事をしているお客に、愛の心情で接っしていると断言できるだろうか。御父様が既に話されているように、我々は韓国人でも日本人でもアメリカ人でもない。韓国にいる食口であり日本にいる食口であり、アメリカにいる食口なのだ。今と言う位置から過去を見る時は日本民族としての歩みが当然あり、日本民族として受け取ってきた負の財産を清算すべきも事実であるが、今と言う位置から未来に顔を向けることが生きることの意味合いだと想うのであれば(私はそう確信しているが)、それぞれの国や民族に対する事柄に関しては世界人としての立場から、自分の意識や認識や関心事が正しく世界平和へと続くものなのかどうかを見なければならない。

2009年10月18日日曜日

今日の想い 110

一昨日からの雨が今朝やっと降り止んだ。車を走らせても見通しは悪いし道路という道路が車で溢れていた。あちこちで青色点滅灯の鋭い光を雨に煙らせたポリスカーが事故の為か車線を限定し、そのために車は遅々として進まない。週末の売上に望みを繋ぐしかないのにこの雨で客足は減ってしまった。この雨が恨めしい。別に店の売上を考慮に入れながら自然の摂理が為される訳ではないので、文句を言っても仕方のないことだが、それでも恨めしい。一雨一雨、重く暗い秋が深まっていくのだろうか。今年はシェナンドア辺りまで足を伸ばし、紅葉狩りでもと思っていたが、別に行けない特別の理由がある訳でもなく、憂えることが多くて出かける機を逃してしまったようだ。木々の葉は紅葉を待たずに雨に落され、濡れ落ち葉となって地に重なりへばり付いている。今朝もどんよりとした雲に覆われ、天からの気が塞がれているようで大気の底でうごめく自分には届かない。御父母様も祝福を前にアメリカの地を出られ、御父母様の居られないアメリカという抜け殻は、大国なだけにひと際寂しいものを覚える。顔を上げるのさえだるさを感じながら、それでも天を仰ぐべきだと自分に言い聞かせ、垂れ込めた雲の重みに身を曝す。ホテルの最上階で、昇る朝日のオレンジ色を部屋一杯に注がれる中を、訓読会の御父様の声音が響いていた。部屋の隅で小さくなって耳を傾けていたその時の感情を思い起こしながら、御父様のアメリカへの想いを残された我々が伝えるべきだろうと諭している何かを感じる。垂れ込めた雲に閉ざされてしまったこのアメリカの、天との唯一の接点は我々であり、我々にその救いは託されているということなのだ。厚い雲を突き抜けて飛翔できる力は備えられているはずで、ただ、周りの暗鬱な様相を醸し出す暗い霊に主管されて見えなくされているだけだろう。絶対信仰がただの御題目に留まらず、御父様の息子娘であると断言されたのであれば、御父様が見ておられるものを我々が見ることができて当然ではないだろうか。御父様から放射される真の愛の光を我々が輝かすことができて当然ではないだろうか。張り詰められた雲海の上に太陽が輝いているように、閉ざされた地上に第三第四の太陽として我々が輝くなら、地上地獄は地上天国に様変わりし、天と地を隔てるものは意味をなさなくなる。

2009年10月17日土曜日

理想世界

御父様が把握する理想世界の概念とはなんだろう。理想世界はこの地上の存在世界ではない。今、存在している世界の延長線上に見えるものではない。存在世界の様相が今と変わらず、人類全ての心の持ち様だけが変わる、そんな微笑みと優しさの溢れる理想世界をイメージしてみても、それは堕落的ユートピアではあっても神様が願い万宇宙が願う理想世界であるはずがない。この存在世界は、堕天使ルーシェルが神様の娘を辱めて生ませたこの世の神、サタンの子女、堕落人間と共に築き上げた存在世界であり、地上地獄なのだ。堕落人間がこの存在世界を堕落的感覚を満足させる為の世界として築き上げてきたものだ。この世の至福は存在世界の物に起因し肉に起因している。物は幻であり肉は幻想だ。幻を掴み幻想を追い求め、蜃気楼を築き上げている。この肉が消え去る時、儚くも全て消え去るものに人生をかけている。理想世界は天上にある理念の世界でもない。ルーシェルと共に行動したあらゆる天使たちが天使的理念世界を築き上げた。地上地獄の存在世界があれば、原因的天上地獄の存在世界がある。天上地獄の理念体系、価値体系の道理で、地上地獄の道理が決められている。地上地獄の道理で生きて死ねば、そのまま天上地獄の道理に当てはめられる。自分が堕落の道理で生きているのか、天の道理で生きているのかを問われている。しかしながら堕落とは関係のない真の御父母様が勝利された事で始めて、御父母様が創造権限を持たれ新しい理念世界は築かれていく。私達はみ言を学びながら新しい理念世界の道理を学んでいる。その理念体系、価値体系に生きることで、直接天国に生きる道理を体術している。理想世界を御父様はこう説明される。-その世界は心情の因縁を中心として動くことのできる情的な流れの前に、全体を巡って息子であり娘であると呼ぶことのできる世界ー 理想世界は心情世界なのだ。心情が中心の世界なのだ。心情が中心となって理念世界が築かれ、それが骨組みとなり天上天国、地上天国が築かれる。理想世界を見ようとするなら、御父母様の心情を体恤するものとなり、その為には慕い侍って骨髄の中に入り込まなければならない。理想世界の中に心情が込められるのではなくて、心情の中に理想があり理想世界もある。

2009年10月16日金曜日

今日の想い 109

家庭として一つになり得たとは思わない。しかし一つになる途上にあると思っていた。夫婦の間に真の夫婦の愛が関与され、子に対し真の親の愛で接し、必ず子供も真の愛を受け取ってきたことを自覚するだろうと思っていた。時として影を潜めて沈殿していた堕落の本性が活動する。未だサタンの影響下から脱しない現実を突きつけられる。この世的な絵に描いたような家庭のイメージを捨てきれず、表面的な笑顔と表面的な労わりを夫婦の在り様、家庭の在り様と思うなら、そこにどう真の父母から受け取ったものが関与できるだろう。どうやって神様への想いがその関係性に生じ満たされていくのだろう。ぶつかる事を善しとせず、言葉と行動のひとつひとつに鋭いものが含まれるのを毛嫌いし、細心の注意を関係性の中に注入していくなら、それを裁きとは言えないだろうか。それが御父母様が見本として我々に示された真の夫婦の在り様だろうか。ぶつかっていいと思う。いやぶつかるべきだと思う。魂の合体、魂の一体化こそ夫婦の真の在り様であるなら、お互いの魂の中に土足で入り込んでも善しとされる開け放たれた心の門が、第一の門、第二の門、魂の奥の奥の本質まで到る全ての門が開門されるべきだろう。お互いの堕落の本性を見て見ぬ振りを装うのでなく、魂のがん細胞である堕落の本性にメスを入れてくれと正面切って対峙し、傷口をえぐって相手が入り込むのを痛みを覚えながらも善しとする、その気概が必要だろう。堕落の本性で神様に起因する真の本性が隅に追い遣られ、息たえだえのその状態にあるのを救助しなければならない。救われることの意味がそれであり、この肉への思いを捨て切ってこそ救助し生かすことが出来る道がある。生かされた真の本性同士の一体化こそ夫婦の本質であると認識し、本性と本性が交わる事で真の夫婦という真の愛の花が咲くだろう。真の愛の実として子供は実っていくだろう。開放釈放時代に突入すれば自分も自分の家庭もそのまま解放釈放圏に入って行くのだろうと、あまりにも安易な態度でいたことが恥かしくもあり愚かにも思える。遥か彼方に聳える御父母様を、間近に迎える日をひたすら慕いながら、泥沼の一歩を踏み出していく。

悲しい時こそ、辛い時こそ、より高次へ羽ばたく翼が用意される時だろう。悲しみの感情の中に、辛い思いの中に、醜い本性や不信への誘惑が入り乱れ、その中へと引きずり込まれそうになる。お前はやはり偽りの愛により生を受けた悪魔の子だと、内側から囁き続ける存在が自分の中に居座っている。目の前にある物を地に叩きつければ清々するぞと焚きつける。血気の許すままに毒気を口に任せて吐き出せと指図する。誰でもいい。誰でもいいから思い切りこの自分を叩きのめして欲しい。そして悪魔に鷲掴みにされたこの魂を奮い立たせて欲しい。そして耐えるのだ。悪魔にそそのかされる衝動をひたすら抑えて耐えるのだ。耐えて耐えて耐え抜いて、頭を落とし膝を抱え、打ち震えながらも胸を掻き毟って忍耐する。そして天を仰ぐのだ。視線を天の彼方に向けるのだ。視線の先にこそ魂の自由になれる領域がある。悲しみや惨めさを翼に変えることで羽ばたける。耐え抜いたことで膂力が備わる。そうしてひとたび地を蹴ると、視線の先の領域から光が届けられる。自分の悲しみが天の悲しみに変えられ、惨めさは敬虔を供えた謙虚に変わる。それらが翼を更に大きく、更に力強くする。もはや地獄から伸びるあらゆる醜い誘惑の手は光の中を飛翔する自分には届かない。魂の自由の領域こそ故郷と呼べる領域に違いない。御父母様をいつまでも慕い、御父母様にどこまでも侍りぬいて、魂の自由なる故郷に向けて羽ばたく。精誠を尽くしながら、御父母様も通過された苦難の路程の一つでも通過することで、涙に濡れた心情の一つ一つを伝授される。受ける父母の心情のひとつひとつが通過点となりながら、魂の自由なる領域に大きく羽ばたいていく。

2009年10月12日月曜日

協助について考える

絶対善霊が協助し、祝福先祖が協助するはずだと構えていても、貴方が期待するような事柄は起こらない。多くの兄弟は協助するという意味がわかってはいない。何か霊界からしてくれるものと言う期待を持ち続けても、それが協助出来る基台とはならない。協助と、手助けの施しとは意味合いが違う。受け取る期待感を持って霊界に接しようとすれば施しを求めていることになり、どれ程待ってもそれに応えるものを霊界は準備することはない。自分や自分の家庭の背後には明らかに絶対善霊、祝福先祖が控えている。それも大群である。霊的な事柄や事情がわからないと、霊的存在を地上存在と同列に並べ理解しようとするけれど、地上的理解で接しようとしても食い違いが生じる。御父母様は我々の先祖を解放され、祝福先祖として何億という霊界祝福をされている。絶対善霊、祝福先祖の霊界圏が厳然とあり、アダムとエバに対する天使世界としての位置に、その霊界圏が我々の周囲に現実としてある。その霊界をどのように動員していくかと言うと、先ず天使世界である霊界に対して私が主体であるという認識を持たなければならない。霊的に主体の位置を取ると言う事は、例えば或る実績を求められている場合、自分はそんな実力はないし果たして出来るものだろうかと言う位置に立てば相対圏である霊界も難しいだろうというスタンスを取らざるを得ない。逆に御父様の勝利圏を信じて必ず出来るしやり遂げるという位置に立てば霊界もそのように働く。あくまで自分が主体の立場で霊界を鼓舞し奮い立たせる気概をもって接する事で霊界は主体である私とひとつになり、ひとつになると逆に霊界から教えられ働きかけられるようにもなり、霊界の大群は私の大軍となる。天使世界としての霊界圏である絶対善霊、祝福先祖に対して常に感謝の念を供えるべきであり、主体としての自分の位置は絶対信仰、絶対愛、絶対服従とひとつになった基準を求められるから、常にそうあろうとする意識を欠かしてはならない。内的事柄であれ外的事柄であれ、一つの勝利基準を目指して或る程度の道のりを歩んできて、八方塞で何処にも解決の糸口が見出せないと思えるような位置に来て、その位置でこそ自分が霊界協助の主体の立場に立てるのかどうか、絶対信仰、絶対愛、絶対服従とひとつになった基準を持てるかどうか、試験を受けている。その場で絶対信仰とは出来ると言い切れるかどうかだ。その際私の事情は無視して先ず言い切ってしまうことだ。

2009年10月11日日曜日

今日の想い 108

送られてきた血液検査の数値を妻は暫く見つめた後で、上がった、とポツリと口にした。血液中の疲労物質を表すクレアチニンの値が上がっているらしい。その意味は腎臓機能の低下だ。月に二回は検査していて、今までの値も決して低いものではなかったが、急に跳ね上がった数値を見つめる表情に落胆の色が濃い。見たくは無い新たな暗雲を予想している。いつも現実は否応なく、そして何の遠慮もなく突きつけられる。そう遠くない過去に魂を削り取られる痛みの経験を呑まされた、あの生きるのさえも諦めたいほどの全身全霊の疲労困憊を、忘れる時間さえ与えられずに又次の責めが始まるのかと案ずると、それだけで全身の力が抜け落ちる。こういう時に、神様がついていると言う言葉が思い浮かんだところで、それが何の力にも慰めにもならないだろう。事実神様は目の前の現実を容赦なく押し付け、この苦杯を受け取ることを強要されているかのようだ。嫌だと言って逃れられるものとは違う。受け入れることが服従であれば、有無を言わさぬ絶対服従だ。絶対の基準を立てることができない者は、無理にでも絶対服従させられるしかない。本人に取っても傍らの者に取ってもそれが病というものだろう。妻には生の執着がある。恐らく私よりは遥かに強い執着がある。生きて何をするかを主題に置かず、生きること自体を自分の主題に置いている。それが正しいとか正しくないとかを説明する状況に今の彼女は立ってはいない。病気と言う現実が得体の知れぬ化け物として襲い掛かっている。化け物を忌み嫌い、取り除くことのみ躍起になって感情衝動が掻き立てられる。傍らに或る自分は、ひたすら見守るしかない。見守ることしかできない責め苦を味わう。極めてこの世的で、この世的な幸せ像を手放すことができず、それが健康的な生活であったり一戸建てのマイホームであったりと、そんな形に収まることが幸せの条件であり神様の祝福であるとの認識から抜け切れないなら、それがどれ程味気なくむなしいものか気付くことはないだろう。傍目にどれほど悲惨な人生であっても、地上的責め苦を切れ目なく味わい続けるとしても、それ故に自分は内的霊的高みに飛翔することができると、受け取る苦悩を味わいながらもこの事をして為に生きる生を生きることができると、忌み嫌う苦悩を甘受しなだめる苦悩に変え、新たな行為への衝動に転化する内的意志を供える時、人間の魂は何倍にも大きくなる。甘受できる器があると踏んで、受け取る苦悩であるなら、その大きさに合わせて神様の信頼を得ていると言う事になるだろう。

茜色に想う

環状線を西に向かって走る。大学に息子を迎えに行き、キャンパスを出る頃は暮れかかってはいたものの、東の空もまだ十分明るかった。高速に入ると後ろ側から闇がゆっくりと追いかけてくるのを逃げ延びるように加速していく。西に進路を取れば高台からの穏やかな下りが暫く続く。眼前には夕日に焼けた茜雲が水平に幾つかの層を重ねてたなびいている。助手席で息子も顔を紅く染めながら、同じ風景を見るとは無しに見ているけれど、敢えて目を見張る様子でもなく、私の方からも敢えて感嘆の声を洩らすでもなくそれに触れるでもない。次第に車の速度に闇が追いついて、西の空が紅く映えるだけで辺りは暗くなってきた。五車線の光の帯が闇に浮かび上がって西の空へと続き、その先にはライトアップされたモルモンテンプルの六つの尖塔が、茜色の天を突くかのように聳えている。尖塔にある預言者モロナイの金色のラッパが、金属的な音色を今にも鳴り響かすかのようだ。朝方は小雨模様だったけれど昼時には雨雲も吹き流され、きのうの夏日と打って変わって白雲も高く空気も澄み、時折吹く秋風が肌に気持ちよい一日だった。しかし自分の内面は素直に晴れ晴れしい気持ちにはなれない。平日の売上低迷への不安を、この週末の売上で何とか払拭できればとの思いを日がな持ち続けて過ごしたけれど、それが気休めで将来的なアイデアには繋がらないことは解っている。売上からすれば、明らかにだぶついている従業員をカットすればそれでいいのかも知れないが、信仰的神霊的なものを優先する経営者としてそれで本当にいいのかという声が胸の内に響いている。アメリカの経済状態を霊視するならまさしく眼前に広がっている、闇に広がる茜雲の様相だろう。燃え尽きた消費天国の終焉を、闇に消え入りそうな残り火として茜色に映し出す。現代のモロナイとしてどういうラッパを響き渡らせればいいのだろうか。闇が押し迫るアメリカ経済に対して、み旨としてビジネスに係わって来た者として、どういう態度を取ればいいのだろうか。ラッパをどう吹いたらいいのか、店が向かう舳先を何処に向けたらいいのか、この問いに対する答えが決して単純なものではなく、重い決断を迫れるものに違いないとの観測だけはついている。

再創造としての天使世界とアダム家庭

天使長を中心とする天使世界がアダムとエバを育て、アダム家庭を完成しなければならなかった。しかし堕落することによってアダム家庭は完成を見ることが出来なかった為、神のみ旨の絶対性として諦めるという言葉は無いため、アダム家庭再創造が為されなければならない。縦横の八段階を超えられ、長子権を復帰されて八定式を宣布された御父母様は、翌年真の父母宣布をされて第一第二第三イスラエル圏の領域全てはエデンの園であり善霊が天使世界に匹敵するようにされた。更に1998年、祝福天宙化とサタン血統根絶を為すべく、大量祝福と霊界の開放祝福を通して先祖の再創造が為され、霊人家庭を中心とする天使長自由環境圏を築かれたことでエデンの園の多くのアダム家庭が生まれていく。我々は第二第三の真の父母とならなければならない。摂理の最終段階として祝福を通して神様の血統を相続した人々が霊界にも肉界にもいる為、神様は思いのままに、即ち蕩減条件なくして再創造、復帰摂理を全権を持って推し進められる。私という存在は私が立っている位置で、その信念を持って相対的立場に立てるかどうかが問われている。我々はその意味で大胆にならなければならない。御父母様の勝利圏を相続した主体的立場に立って進んでいく。霊的な人なら分かる事だけれど、取りすがる霊に対して気弱な姿勢を取れば霊はますます図に載って押さえ込もうとする。逆に強気な態度で臨めば一瞬にして消え去る。私が主体的信念と主体的態度で臨まずに誰が主体になれるのか。祝福先祖が協助できる基盤は私が主体の位置を揺るがないものにした時、即ち絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準とひとつとなることで展開できる。御父母様に対して完全マイナス、絶対相対の位置に立つことで御父母様とひとつとなり、御父母様の勝利圏と全権を戴いて主体の立場に立つ。或る意味、御父母様を背後に立てて傲慢さを押し出すくらいがおとなしい兄弟にはちょうどいいかも知れない。

2009年10月10日土曜日

人間の本質を考える

胚種の成分を見れば蛋白質でしかないし、その蛋白質をどれほど分解してみても炭素、酸素、窒素、水素などの元素が確認されるだけで、胚種の中にひとつの植物の全ての原型が刻印されていることなど分かり様もない。それは受精卵を見ても同じことが言える。その中に生命体としての情報や遺伝されるべき情報をどれだけ探しても見つかる事はない。それでは人間の受精卵の中に生命体としての情報が組み込まれ、遺伝すべき情報が本当に刻印されているのだろうか。地上に於ける生命体の全ては地上的物質的な力と宇宙的生命的な力を取り込むことで、生命を維持しているが、生殖、繁殖に係わる事柄の全ては、地上的物質的な力は排除され、宇宙的生命的な力が働く事によって可能にしている。御父様が訓読会の場で女性から女性が生まれるのは理解できるとしても、女性から男性が生まれる理由をどう理解するのか、と我々に問いを投げかけられる。男性精子と女性卵子が結合することで新しい生命が誕生するのであって、であれば女性から男性が生まれる事への疑問が生じること事態がおかしいと普通であれば思うだろう。御父様は地上的物質的な力や作用を見るのでなく宇宙的生命的な力や作用を見るのでなければ、生殖繁殖の秘密を明らかにすることは出来ないと話されたいのだ。妊婦が男の子を孕んでいる場合、十月十日自分の中に違う性を宿しながら、自分とは違う器官を形成しなければならない。生殖過程が地上的物質的な力や作用によるのであれば同じものからは同じものを排出するだけなのだ。受精卵は組織立てられ全ての情報が組み込まれた蛋白質の塊ではなく、地上的物質的なものの力や作用を受けることのない0蛋白質、混沌蛋白質の状態にある。宇宙の創造が混沌期から生じたように、無の境地に於いて宇宙的生命的な力と作用が働く。その力と作用は母体の中に宇宙空間を築き、へその緒を通してその力と作用が投入され組み込まれていく。或る世代から次の世代へと移る際、蛋白質が宇宙全体に宇宙の塵となって曝される。曝されることで宇宙的生命的なものを受け取り、宇宙的生命的なものに流れる霊的心魂的存在を肉体形状に映し出す。人間は地上的物質的な力や作用より遥かに大きな宇宙的生命的力と作用、更には成長するに従って霊的心魂的力と作用を受け取りながら霊界生活への準備をしている。しかし内的霊的なものを無視し、地上的物質的な価値観に留まると、歴史に於いて心魂存在から動物存在を取り残して人間存在として発展したように、高次の人間存在としての発展から取り残された低次元の人間存在という別人種存在として取り残されてしまう。

2009年10月9日金曜日

本質を見る力を得よう

自分という存在を独立した魂の存在として皮膚の内側を自分とし、外側を他として認識するけれど、本来自分という存在は、歴史と切り離されたり周囲と切り離された存在ではない。歴史全体の一分枝であり宇宙全体の一分枝であることを認め、自分という存在の中に歴史上の出来事の反映を見ることができ、世界の出来事の反映を見る必要がある。唯物的概念や思考から宇宙についての真実を受け取ることは無い。悟性に頼り、科学的分析に頼ることで宇宙の真実を手に入れようとすること自体、全くもって的外れな行動と言わざるをえない。歴史の研究家がどれほど古代遺跡を調べ、更なる過去の歴史に目を向けるとしても、せいぜい遺跡と言う外的物質を残せた時期までのことで、人類歴史をアダムとエバに遡り、更に宇宙生成の起源にまで目を向けるなら、今で言う物質や肉体という形を取らずに人類歴史も宇宙生成も流れてきた時期のほうが遥かに長いのだ。外的歴史は極めて表面的な歴史の捉え方であり、歴史の本質は外的歴史の背後に流れ、根底に流れる内的霊的なものを見届けない限り、表面的なものに踊らされ惑わせられていることになる。唯物的な囚われ、表面的な惑わしを外界から受け取る全ての感覚的認識内容、思考的認識内容から分別できる者となることが必要だ。訓読会の御父様のみ言を受け取るときに、そういった堕落的、地上的、唯物的、表面的な認識力を一旦否定し、内的霊的、心魂的、本質的な認識力を強く強くしながら、語られるみ言の霊を受け取る者となる。その次元に於いては、個としての自分は超えている。悠久なる歴史全てを生きてきた自分であり、霊界地上界全ての人間存在を生きている自分という感覚になっているはずだ。御父様は語って語って又語られる。神様がロゴスをして天地創造を為されたように、語るという内的行為を通して生命創造を為されている。吐く息に言葉の形が刻印されながら口から流れ出る時、下方にある胸部腹部や四肢への波を送られながら心情、意志を発動され外界地上界に働きかけられる。また上方、頭部への熱様相の波を送られながら思考内容と結びつき、内界霊界へと働きかけられる。御父様のみ言を語られる活動は擬人化された天地創造過程に他ならない。

2009年10月7日水曜日

み言に対する姿勢

み言から受け取るものを生活体験以上に実感する者となる。み言に生きる自分を実感してこそみ言がみ言として受け取られたのだと言える。入教した当時、勤労青年達が共同生活をしながら信仰生活をなす青年部という部署に配属され、その宿舎から通いで仕事をしている兄弟姉妹達と寝起きを共にしていた。部長の位置にあった信仰の先輩は、他の部署の責任者に勝るとも劣らず、強烈な個性を備えた人だった。今思うと、私の前に立てられた色々な中心者から御父様の雰囲気を感じ取れたかと言うと、意外とそうでもなかったように思う。しかし当時の兄弟達にとっては明らかにカリスマ性に似たものを中心者に見ていたはずだ。み言から受け取るものではなく、その中心者から受け取る熱の波動を信仰の力としていた時期があった。その当時の内的在り様や雰囲気そのままに、今の時代を強引にも押し通そうとする責任者や、虫けらのような内的扱いを当然のこととして受け入れてきた事で、罪人の様に頭を落とし前進する力を未だに見出せない兄弟がいるように、新しい時代圏に於いて飛躍的次元上昇の過程に乗る事が出来ずに、取り残されようとする者になってはいないだろうか。訓読会の御父様のみ言に集中し、没頭すれば、目新しい言葉や内容が幾らでも飛び出してくる。もはや数年前の原理用語だけをひたすら理解しようとしていた悟性では、理解はおろかついて行く事さえもできない。八定式からの目まぐるしい摂理展開やありとあらゆる儀式や宣布、それに伴うみ言も堕落人間の概念や思考では雲を掴むような抽象的事柄として、曖昧に受け取ることしか出来ない。御父様に何処までも何処までもついて行こうと思うなら、お父様に完全に帰依しなければならないし、完全に帰依する為には御父様が語られるみ言を理解しなければならない。もはや知的悟性で理解できる範疇は超えている。み言は頭で理解するものではない。み言にある宇宙の秘密を知ろうと思えば、もっと集中した態度で自分の全てを感覚器官とし、心魂を霊界領域に踏み込ませてみ言の霊を受け取るのでなければ、数字の秘密を初めとする全てのみ言はその世界を開示することはない。

今日の想い 107

愛という言葉が巷で氾濫し、好きなように使われているけれど、それは偽りの愛のことを指すのであって真の愛とは違う。偽りの愛は感覚のみが好む、愛と名付けた偽物。見るに美しく触れるに柔らかく、聞くに心地よく嗅ぐに芳しい。真の愛にも勿論、感覚的に満たされるものも含まれているだろう。しかしそれは愛を与えた結果として受け取るもので、感覚的要求に即座に応えるものとは違う。肉的感覚を満たそうとする意志に応えるものは偽りの愛であり、他の為を思わず自己の為にという動機に関与している。自分という存在が他の為に生きる動機をもって人生を歩むなら、真の愛が係わり真の愛で霊なる体も培われるだろう。しかし逆に自己の要求を満たしたいという動機で全ての地上生活が為されるなら、偽りの愛が係わり偽りの愛は霊なる体を蝕むばかりで霊界を生きる力は育めない。堕落の血筋によって堕落的衝動が私の血に流れている。肉的感覚を満たそうとする衝動が私の血に息づいている。悪魔的その衝動が熱を帯び、沸々と湧き溢れ、この表情からこの肉体から偽りの愛を引き付ける吸着物を滲ませ発散させる。それが堕落人間の偽らざる姿なのだ。肉的感覚を満たしたい一心で生を繋ぐ。それが空しいことで真の愛を魂の奥で求めているにも拘らず、それを無視して生きている。魂の奥にある真の愛に生きようとする存在こそ本当の自分なのだ。その本当の自分が偽りの自分に魂の奥底に追い遣られている。堕落性という偽りの本性がさも私と言う存在の在り様なのだと言い聞かせている霊的存在を見なければならない。あらゆる自己中心の思い、感情、衝動に背後に操る霊的存在を診なければならない。見るに美しく触れるに柔らかい艶やかな皮膚に覆われたその下に、蛆虫の様にうごめくどす黒い代物を見なければならない。聞くに心地よく嗅ぐに芳しいヒューマニズムの理想を奏でる旋律に、肉的感覚の奴隷となる快楽文化の結末として、屍が累々と重なる様を見なければならない。見たくなくても見ざるを得ない御父様は、我々と同じ体でこの世という地上地獄に降りられて、地獄の撤廃活動を為されている。久々にワシントンに来られた御父様の十時間に及ぶ訓読会は強い語気を吐かれながら、御父母様の留守の間に寄り付き跋扈する悪なる霊存在を蹴散らしておられた。

2009年10月5日月曜日

叫び

夜明け直前が最も闇が濃いと言う。闇に巣食われ、魂の深いところまで侵入される頃合に、やっと一条の光が差し込む。逃げ場の無いやりきれなさで魂をすり減らし、何処に希望の糸口を見出せばいいのかわからない。過去に於いて何度も何度も追い込まれながらも、その都度、崖っぷちでこそ気付きを受け取っていた。その信仰を失うべきではないだろう。その信仰を失うべきではないけれど、新たな試練が寄せ来るたびにその信仰が試される。内なる魂に於いてその状況を高みから見通せることなど出来ようもない。試練の荒波に翻弄されながら揉まれるがままに任せるしかないのか。抗えば抗うほど闇の底に引きずり込まれる。起こり来る思いと感情の中に神から来るものを見出せず、自分という存在が神から見捨てられているとしか思えない。その状況で、それでも自分は神の子なのだ、真の父母を親父でありお袋と呼べる自分なのだと、闇に向かって言い放つ自分を取り戻すことだ。許されようが許されまいが今の時点ではどうだっていいのだ。断食の初日にフルマラソンを走りぬいて、残った日々を生き延びれるかどうかを憂える必要はないのだ。今の今、真の御父母様と魂の底から声を発する自分であればそれでいいのだ。先々の事を思い遣っても、その思いに未来を変える力はない。サタンに負の条件として差し出すものはあっても、神様に手を伸ばす力とはなり得ない。たとえ地獄の底から発する声が力弱く、闇に消されるようであっても、呼び続ける事で光を呼び寄せることができる。精誠を積み重ねる事で必ず闇の中に一条の光が差し込む。そのことの確信が、勝利された真の父母の息子として勝利を相続できる自分なのだ。闇は濃く強く魂の内側に浸透し、そこに希望は微塵も見出せない。しかしその場でこそ自分は真の父母の息子であると言い放つ。息絶え絶えの状況で言い放つ。

2009年9月29日火曜日

今日の想い 106

知ってみると、お兄さんだったというのです。お兄さんの立場から弟の立場から入れ替わっただけであって兄弟です。ですからこのような人々を、世界の人々を、皇族として扱うのです。統一教会がアベル的皇族なら、サタン世界はカイン的皇族です。(み言より)
我々が教会だと言う場合、サタン世界というカイン圏を愛しひとつになるという意志が備わってこそ、カイン圏を愛するアベル圏としての教会であると言うことができる。サタン世界というカイン圏を排除しようとする意志、排除意識が教会の中にあるのであれば、教会だサタン世界だと対立の境界線という城壁を高くするだけで、天の願いには反するものとなる。教会という概念の中に、サタン世界というカイン圏を愛し復帰する意志は込められていて、それが無いなら教会ではなくみ言を語る別のひとつのサタンの牙城を築いているに過ぎない。そう言う意味で開かれた教会になるべきで、探られて困るような裏事情は清算すべきであり、教会を守るという意識の中に、御父様を守りたいという思いがあるのはその通りだとしても、み言に鑑みてもう少し深く考える必要があると思う。親に手を上げる不良息子の兄がいて、親を守りたい一心で親思いの弟が兄に手をかけてしまった。そういう状況で親は本当に喜べるかどうか。サタン世界はカイン圏であった、知ってみるとお兄さんだったと言うのであり、不良であっても神様が愛する弟と同じ息子であったと言うことなのだ。神様にすれば、サタン世界に声をかけるとき、お前達を救いたいが為の教会でありアベル圏であって、彼らのみ(統一の群れのみ)が救われる事など思ったこともない、カイン圏に対してはそう語られるに違いない。我々が苦労するのも、親なる神様が悲痛な思いで別れざるを得なかったカイン圏を何としてでも迎えて胸に抱きたいが故であり、我々の苦労が報われるのはカイン圏であるサタン世界が戻ってきて神様に許しを請い、神様が彼らを息子としてかき抱く時の喜びを前にして初めて報いられるのだ。アベル圏である我々はその時、神様の愛がカイン圏に向いているのを見ながら、親の位置で一緒に喜んであげる事が出来るか、親の心情に立って歩んで来たのかを試される。

2009年9月28日月曜日

分派を考える

分派が分派として異端視されるのは、袂を別ち自分の旗を掲げたからであり、み言の解釈が正しいだとか正しくないだとかは全く関係ない。部分部分に於いては或る意味正しい事を言っているのかも知れない。しかし幾ら正論をぶちまけるとしても、別れた以上分派は分派なのだ。夫婦がお互い遣り合って大喧嘩になるとしても、別れなければ夫婦は夫婦であり、どちらか家庭から飛び出した者が責めを負うのと同じことだ。袂を別つのに解釈の違いが本当の理由なのだろうかと不審に思う。何らかの感情的な摩擦が起こり飛び出し、解釈の違いに言い訳をすり替えながら当の本人ですら解釈によるものだと思い込んでいる節がある。分派サイトを見ながら、巧妙に隠された恨みが文面や小奇麗なデザインの背後に窺えないだろうか。別れた以上、御父母様に抵抗する霊存在が係わって来るし、それらの思いである抵抗感情が湧いてくる。わざわざ出かけて行って話を聞いた事はないが、言っていることに反論できないからといってそれが真実であり、新たにそこに信仰を賭けようと普通思うだろうか。そこになびいていく兄弟も、何らかの恨みや教会から逃げたいという負の意志を働かせて、情の拠り所を求めて向かっているに違いない。教会サイトで分派に注意を呼びかけるのは認めない意志を提示する意味で必要であるけれど、必要以上に喚起しながら振り回されることに頭を悩ましている様子を示すべきではないだろう。わざわざ分派に対する反論を持ち出さずとも御父母様に帰依している兄弟であれば、そんなことでなびくはずはない。自分も分派以上に好き放題書き綴っているけれど、一つ屋根の下にいればこそ言える訳で、反論でもされれば違う意見も聞いてみたいし、お叱りでも受ければ腹も立つだろうけれど、かと言って出て行くことなど思ってもみない。教会内にいろんな問題はある。全てが正しいとは思っていない。しかしそう言った事柄に私自身も責めを負っている。問題提示して異を唱えることは大切だが、問題ゆえに教会から出て行くなら御父様の願いに対する責任から逃げることなのだ。もし私が異端視扱いされて教会を出て行かざるを得ない状態になったなら、真っ赤なページ背景にどす黒いシャレコウベの旗でも掲げ、破れたマントをなびかせた私が血走った眼で、私こそがメシヤだとスクリーン一杯に書き付けるサイトを作りたい。悪を際立たせる事によって教会は善の位置を磐石にする。分派もそれぐらいの演出をすれば目立つだろうし、分派の存在意義がある。

2009年9月27日日曜日

今日の想い 105

信仰がないとは言わない。しかし明らかに或る基準で止まっている。自分でラインを決めてしまって、それ以上の高い信仰内容を備えたいとの衝動がないとするなら、御父母様を慕い侍る意味は何なのか。自分なりの平安が取り戻されればそれで良しと思える発想は、良心から来るものなのかそれともサタンから来るものなのか。御父様は我々に何度も何度も尋ねられる。心と体が闘っているだろうと尋ねられる。そう尋ねられて自分は本当にそうであり、何とかこの闘いにケリを付けたいと堕落人間の恨みをまざまざと実感し、身悶えしている兄弟がどれだけいるだろう。自分という堕落実体がひとつの信仰基準を決めてしまっている状態で、心と体が闘っているなど思いも因らないことだろう。勝利された実体を目の前にしながら、御父母様と我々とは違うからという当たり前のような言い訳で自分を騙し、御父母様の高みに辿り着きたいという衝動は微かにも見出せない。自分という人間理想を掲げて、その理想への達成欲望こそ我々は内的な熱い熱い熱様相として、胸がはちきれんばかりの衝動を備えて当然なのに、外的な財産や名誉や権力への欲望さえも見出せなければ内的人間理想への願いも見出せない。この世の者達の方が外的な欲望を持ち合わせているだけ人間らしいと言えないだろうか。この世の者達がひとつの欲を実らせてもそれに満足できず、更なる大きな欲が溢れかえるという魂の乾きを経験しながら、自分の本当の願いは何だろうと問いを立て、内的な事柄に目覚める者もたくさんいる。そういう者達が御父母様を慕い侍る成約の群れを知り、見上げるものがあるとするなら、それは一体何だろう。それが無くて、御父母様を、真の家庭を証しすることはできない。我々は自分の魂を持たなければならない。今までは何が何だか解らないにも拘わらず歩んで来た。そう言った幼少期も必要だったろう。しかし未だに幼少期の状態であるならそれは御父母様に対する罪だと言えないだろうか。我々は力強い魂を育てなければならない。御父母様の願いを受け、打てば響く魂を持たなければならない。

2009年9月26日土曜日

今日の想い 104

理想と愛は人間に取って生命よりも貴いものなのにも拘わらず、今日、人間達はこのようなものが、自分のものとして自分に現れると思っていること、これが大きな誤解であり、愛と理想は何処から来るかと言うと対象から来る。(み言より)
理想と愛を願うのであれば、対象存在が必要だと言う事だ。しかし何の関わりも無い周りの人々を自分の対象だと言う事はできない。対象は主体があってこそ対象となりえる。愛の主体となってこそ愛の対象となりえる。相手の事を我が事として感じる力を衝動する力として、為に生きる生を生きる。自らの思考、感情、意志という魂を他者の魂に植付けて、自らの中に他者を感じるものを移入する。自己の為の魂活動を他者の為の魂活動とする時、真の愛は介入される。この力こそ霊界を知覚する能力となり、霊界を活動する能力となる。自己の本性の外に出て、他者の中に自己を感じるまでに徹底して帰依しなければならない。それが他を愛するということだ。自己の本質が他者の本質へと変わるのだ。御父様の心情の中に深く深く沈潜し、そしてひとつになる。御父様の心情圏の中に入り込んでこそ御父様の理想を御父様と共に生きる。自己の内側に内側に向けられる魂の力のベクトルを、御父様に向けなければならない。御父様の魂の力のベクトルは神様に向けられ人類に向けられている。したがって御父様に帰依すればするほど、魂の力のベクトルは他者に向けられる。心と体が闘う堕落様相、自己中心様相は必ず為に生きる本性様相に為り得る。自分は諦めるとしても御父様は諦めない。私に対するその予定は相対的であっても、私に働く神の予定は絶対的なものだ。神様の息子娘としての本性を備えることは約束されている。私は精誠に精誠を重ねて自己の内に向かう魂様相を真の父母の神霊によって一変されることに真摯に寄与しなければならない。為に生きる生こそ我々の人生哲学だ。天宙(家庭)主義を叫びながら為に生きる哲学を我々は生きる。

2009年9月25日金曜日

ルーシェルという霊的存在

ルーシェルが活動すべき領域は地上世界という感覚界ではなく、精霊が活動している感覚を超えた領域に留まるべきで、そこに於いてのみ発展させ培うべきものを、地上世界にまで引き入れてしまった。地上世界の感覚的意識では、ルーシェルの活動は人間の自己中心性、堕落性として引き入れたものしか認識することはできないが、地上界から霊界への領域、超感覚的領域に足を踏み入れれば、その地上世界への影響を及ぼす活動を捉える事が出来るはずだ。原理に記されているように、堕落の経路はルーシェルがエバを誘惑し、知恵がついたエバはアダムに向かう。ルーシェル存在は自我という独立性をその中心的性相として持っていた。ルーシェルが留まるべき霊的領域に於いて、自我としての独立性は魂を持った存在には必要で、その要素を持ちえてこそ一つの独立した魂として、死を迎えた肉体が土に返るような状況に魂が消え去ることはない。しかし問題はその性質をエバと交わる事でエバに渡し、エバがアダムと交わる事でアダムも受け継ぎ、本来地上には持ち込むべきではないその性質を携えたまま受肉してしまった。地上に於ける人間と言う魂の在り様は、一つ一つの肉体に宿りそれ自体が自我の独立性を備えている。その上に更なる独立性、強い自我感情を増し加えるなら、独立性を超えて自己中心的な在り様にならざるを得ない。既に独立性を備えられた人間としては地上生活に於いては逆へのベクトル、他の存在への帰依、他の存在への感情移入が魂の変化能力として必要なのだ。自己中心の愛という、愛する主体に根拠のある愛はルーシェルの影響下にあり、逆に為に生きる愛という、愛する対象に根拠を有する愛にはルーシェル的要素の入り込む余地はない。地上界に於いて自己中心的魂を強度にすれば、霊界に於いては自我の独立性は逆に弱まり魂は貧弱なものとなる。このように地上界と霊界とは、あたかも鏡がその境界に存在するように、逆説的在り様となって実在している。(あくまで私の主観であり、み言とは別物であることを付け加えておきます。)

概念の考察

何かひとつのものを示されて、これが愛そのものだと言われても納得することは無いだろうが、霊の認識に対しては感覚で捉える事が出来る固定的何かを求めている。愛がそこに存在すると言う時、一連の動きの中や過程の流れの中で、愛の存在性を把握しているし、感覚では捉えられないしかし在ると認める存在を指している。しかし、霊的な認識は愛の認識在り様とは違った、何か感覚的唯物的認識方法を当てはめようとしている。悟性という思考力を発達させた現代人としての堕落人間は、概念を感覚的、固定的なものとしてしか形成できなかった。固定的概念、唯物的概念で無機質な世界を築いても、そこに霊的実質は入り込めない。或る動きの中、或る過程の中に姿を表す霊を捉えようとするなら、堕落人間のそう言った概念を打ち砕く必要がある。内的霊的な事柄にしろ、外的な事物にしろ、移り行く法則から免れた存在など有り得ない。それを敢えて固定的概念で捉えようとするのは本当の認識とは言えない。自分という存在を見ても、昨日の自分と今日の自分は違う。一瞬、一瞬に於いて留まるところを知らない。それは心魂の在り様だけに留まらず、肉体の在り様に於いても、七年も経てば内蔵、脳細胞を含め全ての細胞は取り替えられている。百年千年変わらぬ岩山を前にしても、その存在を移り行く法則から免れた、固定的死の存在として受け取ることは間違っている。微動だにしない不変的な様相を差し出す為に、強固な霊的意志存在が不断なるエネルギーを投入し続けているが為に、その不変的表出を目の前にしているという本質的観察が必要なのだ。あらゆる存在様相を、そうあらしめる為に活動している霊存在を見ようとしなければ本質を認識しようとしているとは言えない。愛として受け取るとき、相手の表情や行動の中にそれが認められ受け取るように、無機質の死んだ概念を捨てて熱を帯びて活動する生きた概念を形成する時、事物の本質が見えてくるし本質の動きを通して自分に向かう愛を差し出しているのがわかる。

2009年9月23日水曜日

我が家のひとつの風景

この前、娘に向けて頭ごなしに怒りをぶつけてしまった。言動が横柄になり、言葉の中に親を否定する感情が乗せられていた。親として受け取れない言葉を吐き出すたび、私は崖から突き落とされ、自分の心のある部分を引き千切られる。その一つ一つに反応し言葉を返していたら更なる悪果を生み出すだろうと、ひたすら受け止めて我慢していたけれど、聞こえよがしに呟いた一言で堰はあっけなく切れてしまった。親に向けた不満感情でいっぱいの状態では、声を荒げる親に顔を向けようともしないし、視線は空を泳いでいる。それでも今を逃すべきではないと魂の限りを尽くし怒気を荒げて訴えた。小さい頃から子供らしくない落ち着きがあり、あまり手をかけなくともやるべき事は卒なくこなしていた。親としてそんなつもりは無かったけれど放任状態に置いてしまったのかも知れない。最近少ない親子の会話の中にも冷めた物言いがいつの間にか増えていた。更に言葉の中に開き直りとも取れない投げやりの態度が覗く。何とか対処しないと、と思った矢先の出来事だった。人間が出来ていない自分は堰が切られるともう留まるところを知らない。向かう娘に落ち着けと言われて余計に油を注がれる。しかし矢継ぎ早に被せられる感情的言葉に流石に怖気づいたのか、体を固くし口を閉めたまま涙を流し始めた。これ以上責め立てて取り返しのつかない域に入るのを憂慮はしたが、かといって抜いてしまった刀をどうしたらいいのか解らなかった。後悔の念が走った。奥の部屋で黙って様子を伺っていたのだろう。親父の横をすり抜け娘のところまで歩み寄ると、長男は妹の肩に手を沿え一言、分かっているよねとあやすように告げた。その言葉を待っていたかの様に、今度は娘が堰を切ったように泣き始める。正直なところ自分は安堵の胸を下ろした。そして息子の行動に心から感謝した。親父の威厳も保ちながら妹への配慮も忘れなかった。日曜の夜、学校の寮に送る間際の出来事で、中途で止められた準備を急いで支度するように子供に告げて、やっと自分の縛りも解くことができた。送る身支度をしながらも子供の動きを視界に入れると、息子が一回り大きく見えたし、そして肩を落して準備している娘が愛おしく思えた。

愛の風呂敷

御父様は家庭を、宝の壷である愛の風呂敷、と表現されている。家庭と言う括りを紐解けば、四位基台からそれぞれの位置の三対象愛、十二様相の愛が煌いている。親子に於いて、夫婦に於いて、兄弟どうし、与えて受ける情愛を回転させればさせるほどに、愛の密度は濃くなり、愛の深みは神秘的で、愛の高みはこの世的次元を超える。この世の中に、妖邪な酔いはいろいろあるけれど、家庭の愛に酔うことこそが本質的な酔いとして、神様もその愛に漬け込まれる程に喜ばれるだろう。愛が愛としての光を放ち、愛が愛としての旋律を奏で、高揚感の中で創造が始まる。生まれ出でたにも拘わらず、落ち着き場所を見出せなければ、放浪生涯の行き着く先、漆黒の闇に埋もれて消え去っていくしかない。家庭こそがこの世に生を受けて留まる故郷であり、立つ足場であり、生きる教理は家庭の中に全て打ち込まれている。家庭という愛の風呂敷の中で、家族の魂を大きく一つにしながら、思いっきり笑い思いっきり泣き、そして時には思いっきり怒る。家庭という愛の風呂敷の中で、穏やかな春に包まれたり夏の生命を弾かせたりする。愛の蔵に収穫したりより大きな魂の成長を身籠っていく。御父様の愛の風呂敷というこの表現が家庭にはピッタリだ。子供の頃、風呂敷包みの弁当を昼食時に開く時の、徐々におかずの匂いが広がる、あの何とも言えない期待感を思い出す。見た目に貧相なのが恥かしくて、隠すようにして箸を運んだけれど、それが申し訳なくて弁当に詰められた母の気持ちは余計に伝わって来た。御父様も風呂敷包みへの期待感が過去の体験にあるはずだ。家庭という愛の風呂敷包み、それは大きな大きな風呂敷で、紐解けばその時その時の愛の様相が、いろんな笑顔として、或いはダイヤや真珠の涙となって溢れるように飛び出してくる。

第二の株価フリーフォールで奈落を見る

アメリカの金融機関がどれ程の損失を抱えているかは、保有証券時価の評価停止を受けることで隠されたままになっている。それなりに評価できるものであれば、政府からの莫大な資金繰り支援を受ける必要はないだろう。三月以降、株価は上がり続けているが、これはあくまで各国政府の緊急策が出揃い政府資金の流入による期待効果で株価上昇に転じただけのことであって、株価に見る数字の推移を景気動向の表れと見る者はおらず、ある適度の上げ幅を捉えて確定売りをしてくる事は目に見えている。更にその売買資本は金融機関に貸し付けた支援金であって、返す当てのない国の金で博打をしている訳だ。にも拘わらず景気の底打ちを表明し、上向きになりつつあると言うような安心感をFRB議長を始め関係者が口にしているけれど、実体経済を直接見聞きし肌に感じる場に居ればそれは有り得ない。金融機関は支援金でジャブジャブにされながら、無茶苦茶な粉飾決算で利益が出たことにされて、経営陣はバブル当時のボーナスを又も懐に入れている。そこには商売人としての道徳や良心の欠片も見出せない。こうした腐りきった貪欲の輩をのさばらせるなら、もはやアメリカの摂理的意味は見出すことは出来ないだろう。消費すればするほど金が出てくる、打ち出の小槌の妄想をアメリカはここ数年見続けてきた。金融引き締め、緩和策は消費者物価動向を見ながら決められてきたが、資産価格が天井知らずの状態にあっても緑の爺さん(グリーンスパン)はあいも変わらず物価動向だけを瓶底めがねで見続けて、何もしなかった。妄想状態に国民が浮かれているにも拘わらず、何もしなかった。誰も価値の後付けをしてくれないプリントマネーを、いや好きなように打ち込まれたデジタルマネーを、好きなほど実体経済に放り込み、マネーが血液としての役目を果たせず、透き通るほどに薄められたフェイク血液を大量に投入されれば、心臓としての金融機関は肥大症で爆発寸前だ。恐竜アメリカの命運は外貨準備高二兆ドルを保有する中国に掛かっている。その三分の一を占める米国債を処分するなり或いは、これ以上の米債の増加保有をしなければ、七千億ドルの貿易赤字を続ける米ドルは無価値となる。FRBは十月以降、これ以上の国債に対する買取を停止すると言うが、続ければ価値下落を米債保有国に対して裏付ける事となり停止措置は止むを得ない。FRBが買い取ってもマッチポンプで意味は全く無いのだが、子供だましの見せ掛けさえも辞めてしまってこれからどうするのだろう。恐竜アメリカが倒壊する日も近くなった。

2009年9月18日金曜日

己が罪、抱えきれずに、赦し請う

霊界からのメッセージで一番印象に残っていることは、天国では自分の罪状を首にぶら下げて誰にもわかるように暮らしている、と言う下りがあったと思う。要するに心の中に隠しておける地上世界と違って、誰もが心の内を曝け出して暮らし、隠し様が無いと言う事だろう。隠す事で世渡りをするこの世と違い、全てを白日のもとにあからさまにされながら、曝け出す事で霊界渡りをしていくと言う事なのだろう。隠し通したい醜い行為や内面を他人に知れたときの、あの何とも言えない消えてなくなりたい程の羞恥を一度や二度は経験しているけれど、来る日も来る日も醜いものをえぐり出される事で忌まわしい思いを味わうとしたら、そこは自分に取って天国とは言えないんじゃないかと初めは思えた。家計や会社に於いて一年の収支決算をするように、一生を終えて内的霊的収支決算をしながら、負債は負債として身の置き場の無い思いは変わらないとしても、善行が負債を越すことで何とか居場所は確保できよう。しかし神様の目の届く所や、御父母様の足元に進み出るほどの為に生きた実績と、近付いて罪の詳細をも照らし出す光に耐え得る範囲の負債でなければ、光が辛うじて届く天国の端のほうで小さくなって暮らす以外ないだろう。会社を経営する者なら理解できると思うが、毎日の損得勘定を計算しその数字に一喜一憂しながら会社としての目標や使命を全うすることは出来ない。時には大きな損を覚悟してでも投資すべき時がある。人生を経営するに於いても、一日一膳が悪いとは言わないが、小善に甘んじながら生きることで大きな罪は犯しませんでしたと言う基準を願われているとは思えない。大善を為す者、大きく為に生きた者は、それなりの大きな罪を背負っている場合が多い。大きな罪と言うが、罪の大小など主観的なものであるから、大きな罪意識を覚えている者と言い直したほうがいいかも知れない。自分の罪状を首にかけて暮らす天国生活がどんなものか、地上に於いて算段することはできないにしても、罪を暴かれることで居た堪れぬ痛みを覚える、しかしこの味わう感情が罪を許されている条件であり証しなのだと、その感情を清清しくさえ思える気持ち、委ねる気持ちこそ、罪負債に対する内的霊的な在り様だと思う。首にかけるどころか、罪状を声を張り上げ言い触らしながら許しを請わせて欲しいと進み出るべきなのだ。より白日の下に明らかにされることでしか自分は休まることを知らないと覚悟したなら、罪を数え上げてかぶりを振りながら御父母様に侍るのではなく、願いに応えることを決意し、頭を縦に振って引き受けてこそ御父母様に侍る事が出来る。

2009年9月15日火曜日

今日の想い 103

日常生活に埋没していると、何千何万という湧いては消える様々な思いが魂を去来しそれに翻弄され、肉体を持ちこの地上生活を送る為に、自分に向けてどれ程の犠牲が供えられているかその認識はない。生命活動を維持する為のそれぞれの器官系の働きにも、絶え間ない犠牲と奉仕が注がれ続けている。しかし生き続ける事が人間の存在意義ではなく、人間理想を成就することが願いである。その為に、父母となり師となり主人となって体に働き続ける存在がある。堕ちるところまで堕ちてしまった堕落した身に、昼夜を問わず人間理想を説き続け、励まし、奮い立たせる為に奉仕している存在がある。それが人間誰をも備えられた良心であることは兄弟の周知のところだが、その良心作用を働かせている存在を尋ねれば、神様に出会うことができる。、、、はずである。しかし多くの兄弟は神様を捉える事が出来ずにいる。尋ねるほどの切迫さが無いからだ。神様を捉えずしては一歩も前に進めないと言えるほどの切羽詰った状況に無いからだ。今日一日を生きて明日も同じ一日が続く。その繰り返しに埋没しながら惰性領域にうずくまり、そこから抜け出したいとは思わない。ある意味、神様は知らないけれど己が理想であれ欲望であれ突進する意志で乱暴に行動しながら、手に入れたいものを手にした満足感を味わい、或いは逆に貶められて死ぬほど悔しい思いを味わうように、生きてることの実感を魂に焼き付けている人間の方が、内的に目覚めたら神様に出会うのも早いかもしれない。我々の祈りにどれ程の心情が込められ、どれ程の切実さが伺えるだろうか。み言を目で追いながら、そこに魂を揺さぶるものを求めているだろうか。行動の中にどれだけの思い入れを投入しただろうか。神様、御父母様と口では求めるけれど、求めているものは何か違う別の存在かも知れない。或いは何も求めて居ないのかも知れない。そう思うと、本質に対して目覚める為に混沌の中に突き落とされることが我々に必要で、死を覚悟する位置でこそ成約聖徒の名を冠することが出来るのだろう。

2009年9月14日月曜日

創造過程に於ける絶対服従

愛する者の為には命を含めて自分が持ち合わせる全てを投入したい衝動が、内的熱の在り様として湧くように、神様の止むに止まれぬ絶対的愛の対象を創造したい衝動が、霊の熱様相となったのが創造の起点となった。神は光あれと言われた。熱様相が一方では気体様相に濃密下され、一方では光様相に希薄化される。光様相として進化した霊もあれば、進化から取り残された闇様相に留まった霊もある。しかしながら創造の御業は光のみで為されるものではなく、光と闇とが織り成されて創造の次への段階に入っていく。濃密化に於いては気体様相から液体様相、液体様相から固体様相へと創造の為の根源要素が創られていくと同時に、希薄化に於いては光様相から音様相、音様相から生命様相へと霊の進化が為されていく。霊の全ての進化過程において、光様相のように進化した霊と、闇様相のように進化に取り残された霊存在がある。より高次にある霊存在に対して位階の低い霊存在が従順に屈服したが故に授受作用を為す事ができ創造の御業が為されていった事実がある。御父様が神様も絶対服従をもって創造されたと語られる真意はここにあると私は思う。復帰摂理がカインがアベルに屈服するように要求する前に、創造過程に於いて闇の霊が光の霊に従順屈服した事実があるはずだ。取り残された霊が進化を終えた霊に従順屈服した事実があるはずだ。アダムとエバに対する天使長ルーシェルの立場もそう捉える事が出来る。光の霊と闇の霊が織り成されて音様相、更に生命様相への進化が為され、正分合作用に於ける進化した新たな合一体から闇の霊は享受と栄光を受ける。アダムとエバに対する天使長の位置もそのようであり、アダムが完成し神が相対することができる家庭が為され、その家庭を通して天使長は享受を受け栄光を受け新たな愛を受け取るはずだった。霊でありそれは神様でもあるところの存在の絶対信仰、絶対愛、絶対服従が投入され尽くし、創造理想完成の最後の最後で、絶対愛を裏目に利用されながら人間理想は崩された。

2009年9月13日日曜日

今日の想い 102

人間は、自分が取り込んだ概念でつくられた内面世界に住んでいる。それこそが現実であり、見回す周りの世界を変える事が出来ない現実としながらその中に生きていると思うのは幻想なのだ。事情圏、環境圏が自分の全てを決めるのではなく、事情圏、環境圏は作り出すものであり創造を加えるべきものとして眼前に広がっている。自分を中心とした過去の内的創造の結果を見せられながら、新たな創造を加えていく。神様が宇宙を創造され、御父母様が再創造されたように、私は何を創造するのかを問わなければならない。神様の創造は完璧であったけれど、神様御自身をも愛に主管される位置に立つよう創造された為、即ち、我が子としての人間に愛によって主管されたい衝動故に、必然的に原理の力よりも愛の力を強くせざるを得ないし、堕落が起こり得る可能性をも含んでしまった。事実、堕落は起こり、神様御自身があらゆる辛酸を嘗め尽くされながら愛の絶対性をこの世の神に示され続けた。無知なる人間に対して神様の愛を示され続けたのであり、この世の神、サタンと呼ばれるルーシェルにも神様の愛は示され続けた。愛によって失われたものを愛によって創造する再創造は、イエス様という第二のアダムから御父様という第三のアダムに引き継がれながら、アダムとエバが失ったものを真の父母が勝利されて取り戻された。御父母様の生涯は天宙再創造の歩みである。御父母様に繋がらなければ再創造された新しい天と地に参入することはできない。誓った絶対的性を御父母様の意志基盤とし、御父様の思考創造のツールであるみ言概念を相続し、創造の力となる御父様の心情を相続し、その上で再創造に加担する自分としての創造活動がなされていく。内面世界がこの世的言葉の概念で築かれている内は、この世から抜け出せない。言葉一つ一つの概念を突き破り、それは現実を超える事であり現実という大気圏を超える事を意味する。思考の創造、魂の創造という新たな愛の創造が人間存在としての生命活動であるなら、今の人間は生き永らえる事で自分に与えられている肉体の破壊を含めて、この地球を破壊している壊し屋に過ぎない。新たな創造を果たせないなら、人間は人糞製造機でしかなく、エコだエコだと言うが、人間の減少こそ尤も効果のある地球救助であり、少子化どころか姥捨て山法を制定すべきだろう。み言でつくられた概念、み言で築かれた思考こそ大宇宙の創造に加担でき、新しい天と地に住まうことができる。

基準を下げる

午後三時を回っていたけれど、テーブルは三つほど埋まっている。東向きの窓全部を見通せる中ほどのシートを案内された。メニューを渡されて軽く目を通しはしたが、最初からサーバーのお勧めを注文することに決めている。窓から自然の風景が見通せるレストランを前から探していたけれど、こんな時に出会えるとは思わなかった。高速を北上して30分は走っただろうか。道路脇の視界を遮るものが消え、山並みが広がるのを待って適当な出口を降りた。ファーストフードの看板に沿ってハンドルを回していたら真新しいショッピングセンターにあるイタリアンレストランに目が留まり、入ってみることにした。今まで一人でレストランに入った事は無い。朝から何も口にしておらず腹は減っていたが、別にレストランでなくても何処でも良かった。落ち着ける場所を探していた。とにかく抜け出したかった。生活の場から抜け出して気持ちの整理をして見たかった。そう言う以上、整理できない気持ちがある。悩んでみても、どうすることも出来ないことは何度も自分に言い聞かせたけれど、それでも悩む自分がいる。親が理想の実体になっていないのに子供に理想を押し付ける。この親あってこの子ありと、周りを見ればいとも容易く受け入れているが、こと自分の事となると理性は主管性を持たない。子供は、親である私の信じ願うものを押し付けられていると言う思いで心を満たしている。子供に取っての世界は親の世界とはずれている。僅かの共通項にしがみ付きながら家庭のタガをはめては来たが、一年、また一年と年を経る度に親としての言い分であるタガは緩んできた。朝の一言の頼み事に対して、帰ってきた返答に体の力が抜けてしまった。怒る気持ちでも出てきてくれれば救われたのだろうが、何の返す言葉も頭から消え失せた。子に対する気持ちの中に親としての執着がある。それは解っている。親として子供を心配すればするほど、親の執着は大きなものとなる。親の執着を自分への愛だと受け止める魂を、私の子は準備できていない。小さい時からのその準備こそが躾であり教育だと私は解っていたが、妻は解ってはいなかったと思う。何度かそれらしい事で言い合いもし、詰め寄ったこともあるけれど、理解はおろか夫婦の傷口は大きく深くなる。そのことを敢えて避け、為るがままに任せて今の状況にある。注文した料理で腹を満たし、風景を見ながらひと時を過ごす。浅い霧で僅かに霞んではいるが、見通しのいい風景を大きな窓枠に収められたまま内面に映し出す。自分の周りの現実を自分の内的在り様の映し出されたものであると言う事を、どうでもいい感情という装飾を洗い落としてそのままに受け取ることが必要なのだろう。そうして出来る事を一つ一つ積み上げていく。今、自分が為せる事は他にない。霞んだ風景は、自分の内面様相そのままを映し出している。悩みに対する答えの輪郭がはっきりしないまま、腰を上げ、生活に戻らないといけない。帰り際に声をかけられた。笑顔で挨拶されたら笑顔で返す以外ない。信じて接する事で、親への信頼も生まれるだろうか。

2009年9月8日火曜日

今の混沌期を想う

政治経済を初めとする社会状況を見ても今が混乱期に入ったことは間違いないが、これから更に混乱の度も増すものと思われる。しかし摂理完遂の期日が近いのに、混乱期にあると言いながら周辺を見る限りはぬるま湯状態で、そんな今の状態でずるずると引き摺りながら天宙的期日を迎えるとはとても思えない。我々に関しても同じことが言え、2009年は困難な年であると言われてはいるが、天地創造の混沌状態から秩序が現れ初めて形となっていったように、2013年を迎える為の大きな混沌期を09、10年は通過する必要が摂理的にあると思う。今回の問題も避けて通ることは絶対に出来ないだろう。無難に収めようとする動きがあることも事実だが、摂理が要求するものが外的表面的な事柄に関するもので、我々の内面に負債として絶対信仰に反するものが在ろうが無かろうが、外的なものだけ整えればそれで事足りると思える、それをみ言を生命視する態度と言えるだろうか。我々の内面にある燻るものさえも敢えて公に白状、表明してでも正当的に対処し、内的霊的な領域で御父母様を支柱とする圏内に、負債を残す日陰の部分を残すべきではない。外的な目に見える場で御父母様の面子を立てる以上に、内的霊的な領域でこそ御父母様を証しすべきだと思う。そう言う意味で兄弟姉妹が一枚岩になっているとはとても思えない。責任ある者が兄弟に対して、み旨を御旗に不平不満を言わせず絶対服従を要求するとしても、み旨がみ旨として本当に立てられているのか、み旨が方便になっていないか、一つのやり方に固執してそれに服従させるのと、御父母様への絶対服従を同列で捉えていないか、責任ある者の判断は非常に大きく、全体信仰の是非が問われる。しかし摂理の別の視点から見るなら、周辺の誰もその歪な状況に対して敢えて触れようとはせず、相変わらず重荷を集中的に背負わせ続けるのを仕方の無いことだと、結果的に容認してしまったと言える。そう言った内部に於ける混沌期を通過しながら、必ず光が差し込まれるのを絶対的に信じ、一人一人が分別し、罪状を首にぶら下げて悔い改め、如何なる犠牲も厭わない意志を差し出す。そうしてこそ改めて御父母様に顔を向けることができる。

韓国語を習得しよう

創世記から始まる旧約聖書原典はヘブライ語で記録されたものだ。それが紀元当時ギリシャ語に翻訳され、ギリシャ語聖書が様々な言語に翻訳された訳だが、新約はともかく旧約に関して言えば、翻訳で受け取る意味は原典の意味するところと大きく違う。はじめに神は天と地とを創造された。と、始まる創世記一章一節から、言葉を拾い受け取るイメージを追っていっても、創世記本来の呼び起こされる内容は想起できない。言葉が言霊の体であり、異なる言語にそれぞれの民族的本性が宿っている。ヘブライの民族的本性が語った旧約を、異なる言語で異なる民族的本性に語らせても、その意味するところは開示されない。ヘブライ語の精神を受け取った者が、その仕方でヘブライ語の原典を読み解く時、神様の創造過程が魂に蘇る。神様の創造起源からの内容を表記されたものを、創造過程のある段階から感覚的なものが創造されながら、感覚的な言葉表記で表されるはずが無い。その意味で、創世記は超感覚的なものを呼び起こさない限り、感覚的イメージ、科学的イメージとして想起されるものは全て空想に過ぎない。御父様が韓国語を学ぶようにと言われてから久しいが、韓国語で受け取り、韓国語で読み解いたみ言こそ、み言本来の意味するところを韓国語の民族的本性が語ってくれる。み言に宿る真の父母の本性を、別の言語で訳された形骸化されたものとして受け取っても、ある段階を超えて真の父母の圏内に入っていくことは出来ない。日本語が日本民族の本性の体であり、天照からの神々がその本性を日本語の中に現している。良くも悪くも、日本語に精通することは八百万の神々の本性をより受け取ることを意味しており、神道的霊が開示される。日本食口はみ言に沿った生活をしているようで、別の神道系霊界が働いて、成約にそぐわなかったり御父母様の香りや雰囲気とは違った生活在り様、意識在り様になる場合が多い。本当の意味に於いて御父母様を慕い、侍ろうと思えば、韓国語の習得は必須事項であることは間違いない。

2009年9月7日月曜日

真の愛に思う

真の御父母様と呼びかける時、見上げる畏敬の感情を伴うべきなのはその通りだけれど、父であり母であると言えるその感情は、肉の父親と母親の間で生まれ育てられながら受け取った感情である。親が子に向ける愛情故に、子は親への情を育む。親が子を想う感情を連綿と受け継いで、自分も親が私を愛したように自分も子供を愛する。父母の愛は子に向かう場合に於いて無償の愛であり為に生きる愛に違いない。どんな悪人であっても自分の子に向かう場合、それは無償の愛であり為に生きる愛であり、それ故に真の愛である。悪人であるから当人を起点として発せられる愛は全て偽りの愛だと言うことはできない。父母の愛の中にこそサタンが手を付けることが出来ない、連綿と受け継がれた血筋の中に唯一神様の性稟を垣間見ることができる。真の父母に対して偽りの父母とはサタンを指すのであり、肉の父母を偽りの父母と呼ぶことはできないだろう。肉の父母から受けた愛情の中にも神様の愛と言えるものは満たされている。親の愛をしっかりと注がれながら育ったものは、親に対してお父さんお母さんと呼ぶ感情そのままに、真の父母に向けてみればいい。真の父母をこの地上に見出せない過去に於いては、親の愛を含め如何なる愛も、真の愛と呼べるには至らなかったろう。真の父母が顕在され愛が愛としての役割を果たされる今だからこそ、親の愛は真の愛と呼べる。過去に於いては親の愛を神様が見る時、愛が愛としての役割を果たさない悲しみをそこに見ていたものを、真の父母が勝利された今、愛が愛としての役割を見事に果たす喜びを見ておられる。御子女様は御父様が人類に直接的に示された愛としての真の愛の何たるかを受け取られ証しされたけれど、食口のどれだけが、それほどの重みを受け取るに足る、内的霊的器を準備できているだろうか。

2009年9月6日日曜日

今日の想い 101

ありとあらゆる宗教がありその下に宗派があり、それらの背後にはそれぞれの霊的存在が関わっている。キリスト教に於いても聖書の解釈により多くの流れに枝分かれしたと言うけれど、解釈を異にさせる霊的存在が背後に関わっていると言える。霊界を見渡す時、地上に於いてお互いがお互いを受け入れないそれぞれの内的領域に生活しているように、枝分かれした全ての領域が、霊界に於いては違う世界を築いている。それぞれの霊的存在はそれぞれの特徴を具え、その宗派に寄り集う人間像を見れば霊的存在の特徴的なものを皆が具えている。霊界に於ける全ての壁や障壁を撤廃され、それまではお互いの存在すら知らなかった霊界状況が一変しつつある。霊界での動向が地上の動向に反映されることはその通りだが、真の父母と共にみ旨を歩む我々の立場は主体の立場にあり、真の父母の意に従う我々の歩みが霊界を決定付けている。御父様は天宙統一の舵取りをされながら2013年1月13日のD-DAYの期限を前に、数百年を一日に凝縮された一日一日を送っておられる。比喩としてではなく事実そのように凝縮され、それ故に僅かの善なる条件が歴史的な大きな条件となり、またその逆として僅かの悪の条件が人類を滅ぼすとも限らない。それ程に、薄氷の上を足を運ぶような最後の闘いに臨んでおられる。全祝福家庭、全食口は御父母様の内的霊的事項に関わる切実な状況を引き受ける者となりながら、決死の覚悟で一日一日を歩むものとならなければならない。自分や家庭の事、収入の事や先々の生活の心配事などで精一杯だと言う毎日であるなら、この世の何も知らない人々と何ら変わりは無い。真の父母に侍る我々は天の眷属として、内的霊的次元に於いて遥か高次の位置でみ旨に携わっている。その誇りと権威と献身を纏いながら、内的には謙虚であっても天の御旗を掲げた強さを全面に押し出しながら、ぐいぐいと押していくべきだ。負債として引っ掛かる事、条件の足りなさや実力のない卑屈さ等で留まっている時ではない。真の父母を真の父母と認めている以上、天の眷属として選ばれし自分であることは間違いない。天の眷属として、宗教を初め様々な霊的眷属の中心的存在を相手にしながら、御父母様への屈服を推し進めている。闘いの結果は見えている。最終戦の前に、神側につくのかサタンに寄与するのか言い寄る立場を我々は取っている。

2009年9月4日金曜日

今日の想い 100

ここ一、二世紀の間の科学の発達は目覚しいものがあったけれど、摂理として科学が発達する要素を終末期に用意された訳で、発達するように仕向けられたと言っていい。科学が発達するには人間の悟性の成長が必要とされる。人間精神が内的霊的なものを獲得することに使われていたものが、近代の救世主再臨準備の摂理の要求に応えるために、外的地上的なものを獲得する為に精神が使われる必要があった。悟性の発達成長に精神の多くを費やされながら、それ故に内的霊的なものへの衝動が弱まり塞がれ、科学至上主義へと偏向して行った。現代のような極度の外的化が起こることは予め予想はされていたけれど、復帰の全歴史路程がそうであるように、或るAと言う方向性とそのベクトルに反するBと言う方向性とが拮抗しながら摂理は進められる。最初はAが摂理の要求に応えるものとして或る方向を示して進む訳だけれど、Aの中にはサタンに相対する堕落の要素も含んでおりAが力を伸ばしてくると待っていたかのように堕落様相を現してくる。それに対するものとしてBが用意されサタン勢力となったAに対抗させる。歴史はそう言ったように、神とサタンが牽制し合い、戦いながら今日まで流れてきた。科学が人間の発達した悟性と共に摂理に貢献してきたことも事実であるけれど、神を否定するほどに傲慢になり内的霊的なものを完全に否定し始めると、科学と人間の悟性に反するものが用意されなければならない。科学と悟性が生んだ、物に事欠かない物質文明こそわき目も振らず目指したものであったけれど、物に満たされれば満たされるほど、満たされないものが内面にあることに気付いてくる。今、内的霊的なものへのベクトルが全人類を覆っている。人間としての喜びの永遠性を求めて、それを満たす絶対真理を探している。心の平安と喜びの永遠性を求めて絶対真理への渇望は益々強くなる。地上世界の如何なる存在も、如何なる様相も、堕落の要素を含まない在り様はなかったけれど、純潔要素のみの次元から来られたイエス様と、イエス様が残したみ旨を結論付ける再臨主として御父母様を、肉体を持った存在として地上に迎えたとてつもない奇跡を私達は生きている。自らの魂をみ言の中に、深く深く沈めていってこそ、奇跡が奇跡として自らの心魂に圧倒的な光様相として入り込むのが確認できる。自分の魂も肉体も思考存在も、真の父母から惜しげもなく注ぎ込まれる真の愛の光で貫かれる。内的霊的なものへの感度が塞がれている現代人は、それを実感することが出来ずにいる。真の父母によって神様が主管権を取り戻されたことで、霊界に直結している宇宙は、強烈な速さで真の愛に直結する要素で覆われていく。宇宙が変われば地球も変わらざるを得ない。地球が変われば人間も変わらざるを得ない。真の父母に帰依し内面をみ言で改革された者以外は、人間存在として地球進化には耐えられない。悟性を高めてきた人間として、悟性の力でみ言を取り込みながら、悟性とは違う力が受け取ったみ言から発せられながら、異なる次元に自分の内面世界が築かれていく。

2009年9月3日木曜日

今日の想い 99

評論家諸氏の説明はその信仰を持たない者の立場からすれば尤もであろうし、説得力があるのかも知れない。誰であっても言葉を語る背後には人生観、価値観、信仰観がある。自分の観が絶対に正しいと思えばこその言葉として唾と一緒に吐き出してはいるが、どうも傲慢な在り様が表情、姿勢に突出していて嫌悪感を覚える。相手の観を重んじ、万が一自分に間違いがあれば指摘して欲しいと言った謙虚さを持ち合わせてこそ、聞くに値するものがあるとこちらも反応し、耳を傾けてみようかなとも思ったりする。それが全く無い。この世では信じる対象が百花繚乱で、それぞれ使う言葉が違う。言葉の意味するところが違うと言った方がいいかも知れない。その違う言葉の中に生きている訳だから、自分の信じるところを強くすれば強くするほど周りにすれば確信犯的危険な行動に見える。心に関する事柄を、自分の観としての秤で計算してああだこうだと言っても、肉体的には同じ次元で生きてはいるが内的にはそれぞれが違う世界で生きているので内的に届くことは無い。悟性的に理解させようとしても、悟性を超えた内的事柄を理論理屈でどうこう出来るものではないし、ましてや霊的な事柄を真っ向から否定した立場で理解させようとしても、語るのも聞くのも無駄と言うことだ。科学至上主義で、それでもそれなりに神仏を拝んでいるらしいが、それは宗教や信仰とは違いお互いが上手くやって行く為の方便に過ぎず、外的物質的なものだけに帰依して味気ない毎日を送っている。敢えて味気ないと言いたい。物に帰依して、人間関係に於いても物質人間の物質脳で作られる感情として遣り取りし、生きる為に食べるのではなく食べる為に生き(物質人間とはそう言うことだろう)、そして死を迎えて全ては消え去る。あまりにも味気ない。それが人間ぞと言われてそれでも生きたいと思うだろうか。物質人間なら生きる意味は全く無いだろう。死をすぐさま選ぶ方が懸命だ。評論家諸氏が滑らかに口が回るのは悟性魂の取り留めの無い思考に酔っているに過ぎない。自分が何なのか何処から来たのかと言う問いを発するのが今の人間存在であるけれど、それを自分に問うて見たことがないらしい。死と本気で向き合うことを避けているのだ。そんな意識に押さえ込まれた立場がどれ程悲しく可哀相であるか。牛や豚が言葉を覚えて喋っているようにしか見えない。

2009年9月2日水曜日

今日の想い 98 (自分を元食口とする食口へ)

教会員として教会に属し、言われる通りにしていれば安心で、皆と同じ行動を取らないと不安で押しつぶされそうになる、だから嫌でも従わざるを得なかったという、そう言った脅迫観念にも似た期間は、教会員であれば誰もが経験しているかも知れない。み言表現として、背信すれば直ぐにも地獄に突き落とされそうに受け止められるものも確かにある。が、殆どは完全なる許しを含んだ真の愛のみ言だ。更に脅しめいた内容も愛故の親が子供に戒める程度の事だと思う。地獄の底で呻く悪鬼の頭ですら祝福して救おうとされるのに、少々のすったもんだで救いの糸を切られることなど有り得ない。心に引っ掛かる過去に犯した罪を数え上げ、自分の負債を種に活動の強制を押し付けられていると言う縛りがあったとするなら、閻魔大王的な信仰観こそ先ず変えるべきだろう。教会活動をいくらしたとしても、心と体が闘う限り天国には住めないとはっきり語られている。縛り付けられた生活環境で、言われたとおりにやった者は天国に行き、やらなかった者は地獄に行く程度の認識と、周りと同じ行動を取らないと不信仰のように思われ、周りを見回して自分の位置を測ろうとする日本特有の村意識で、我々の目に写るみ言の本質は曇らされている。周りを見ながらそれに自分が合わせる苦痛、責任者に指摘されて萎縮する自分、そう言った試練も入教当時はそれなりに意味はあるだろうが、信仰生活を五年も十年も歩んできてそう言った事柄に関わっているとするなら、信仰の為の信仰状態に未だに留まっていると言うことだろう。自分の悟性的理解であれ魂的理解であれ、この道が絶対信仰に値するものだと言う確信を備える為に、教会活動から一時距離を置いたとしても、原理を400回通読してみるとか、40日断食を決行された先輩食口のように納得のいく条件を立ててみるとか、能動的信仰を意志すべきである。受動的、他力本願的、日和見的信仰は絶対信仰とは言えないと思う。この道が特有の活動や、献身生活を意味するものではなく、今の時代圏、み旨を歩むいろんな形はあるはずだ。自分自身に言い聞かせるものとしても記している訳で、責任から逃げ回ってきた私は神様の位置からみれば明らかに負け犬の遠吠えであり、他のどの兄弟よりも真の父母からは遠い存在であることを告げておきたい。こんな自分も御父母様の心情の一片が伝わるし、出来の悪い息子としてだが愛されてもいる。だから元教会員の食口達をどれ程恋焦がれておられるだろうか。活動員としてではなく、御父母様の息子娘として、私の兄弟として帰ってきて欲しい。かつて知っている教会の場が嫌なら、何処に籍を置いたっていい。変な物言いかも知れないが過去のトラウマがあるなら半分遊んでいたって構わないと思う。教会を去らざるを得なかった心痛の想いは、教会で活動してきた者にも劣らない内的犠牲があり、その想いを御父様は必ず理解して下さる。摂理に翻弄され犠牲を供えた者は、御父母様を認めた者のみならず、直接み言を受けなかった者の中にもいて、御父様は想いをかけられるはずで、ましてや精神をすり減らして歩んだ者はなおさらだ。捨てるに捨てれなかった御写真を取り出し、無ければネットから幾らでもプリントアウト出来る。仮の祭壇に掲げて挨拶だけでもしてみてはどうだろうか。それだけの行動で御父様の御心情は伝わって来るはずだ。

2009年9月1日火曜日

マインドコントロール

洗脳とマインドコントロールの違いが始めてわかった。マスコミや巷で何を言われていようが、そんな事を気にするなら何もできないので敢えて関心を逸らしていた。洗脳と言えば余りにも胡散臭い、教会用語で言えばサタン的な感じがして教会員の心の隙に入ることが出来ず、その為にマインドコントロールと言う柔らかな、如何にも生真面目な教会員が関心をもつ言葉に変えたのだろうかと思っていた。YOUTUBEで頻りに懐メロや好きな歌手の動画は見ていたが、教会に対する内外の情報をここから得ることが出来るとは今の今まで気付かなかった。自分がマインドコントロールに掛かっていたと言う事らしい。ある程度のマスコミの演出もあるだろうが、教会のマインドコントロールに掛かっていたと、脱会した本人が言うのだからそうなのだろう。憑き物が取れたような晴れ晴れしい面持ちでインタビューに答えている自称、元教会員は、教会から距離を置くことで当面は救われたのだろう。何を持って騙されたと思うのか、そう思う以上何かを期待していたからのことだろうし、その動機が何なのかわからないが、その動機がおかしいと言わざるを得ない。かと言って信仰的背景もなく、内的霊的本質への願望もおぼろげで、自分を含めて殆どはみ旨を歩む動機が何なのかは歩みの中でこそ内的に目覚めるだろうし、理解していくものだ。それが自分の感情を満足させるものではないし、ましてや外的な何かを得られるものではないことは明らかで、外的なものを犠牲とし、或る面、内的なものをも犠牲としながら受け取るものがある。その確信とその価値を認めなければ、教会は当人に取って欺瞞の巣窟でしかないだろう。立派な先生の説明によるなら、社会の全てはマインドコントロールとなる。無神論も含めて全ての宗教は勿論、学校も会社も家庭も、自分の人生ですらマインドコントロールを受けていることになる。コントロールを受けていない自分の基準さえ解らないのに判断の仕様がない。確かにこの世から見るなら教会は胡散臭いところに違いない。正直なところ内部に居ても胡散臭いと思えるところは多々ある。恐らくその得体の知れなさに対する受け付けない感情故に、適当な理由をつけて除け者にしたいのだろう。この世的に見栄えもよく、誰もが受け入れるような存在であるならそこに宗教性はない。自殺者が三万人を超し、親子間の殺生すら珍しくも無く、綺麗な町並みと煌びやかなネオンの背後にありとあらゆる悪と醜さを見ながら、この世界に蹲って生き延びることに何の疑問も感じないと言うならそれ以上何も言えない。疑問を覚えればこその教会であり、信仰であり、それ故にこの世に受け入れられない特異性があるのはやむを得ない。三途の川を渡る時に、この世にマインドコントロールを受けていたからと開き直りできるだろうか。

2009年8月31日月曜日

病に想う

身体がだるく、力が入らない。湿気が多いせいでそう感じるのだろうと、あまり気にも留めなかったが、夕方頃には身体が火照り始め息苦しくなってきた。どうも熱があるようだ。暫くソファーで楽にしていたが、店にいかなければと思いやおら立ち上がろうとしたけれど、不快感を伴う重さを肢体に覚え、そのまま這うように寝床に突っ伏してしまった。身体中、毒気が回ったようで息が荒くなる。寝る体勢を変えてみてもしんどさは変わらない。熱さを感じていたのが悪寒に変わった。妻に毛布を出してくれるように告げ、それに包まり小さくなって体を震わせていた。肉体的なものであれ精神的なものであれ、何某かの責めを負うときこそ、新たな内的霊的ステージへの登竜門に立っている。何とかして逃れたい、楽になりたいと、求める思いに恨みがましい気持ちが含まれている内は、どんなに必死に求めても受け取るものは無い。魂の器には恨みが盛られ、新たに戴き受け取るものが流れ下るとしても、他の感情で盛られた器に新たな汲み取る余裕はない。恨みがましい思いを消化して感情魂が素になったとき、その時魂は受け取る器に変わる。負ったものを凌駕できる新たな魂の力を受け取ることができる。真の父母の心情、天の心情に連結された感情を受け取ると、その柔軟さ故に肉体に執着しきった固形的魂が感化され液体化、更には気体化し、肉体の在り様を左右する生命体に働きかける。鉱物世界に生命体が働くことで植物世界が現れ、植物世界に魂体が働くことで動物世界が現れる。動物界と人間界が異なるのは霊性を持つかどうかに因っている。感情という魂を主管しようとするなら自分は何処から来たものなのかと言う、霊性を見ること無しに魂を操り主管することはできない。感情を野放しにして、その感情のままに肉体が操られるなら、種族から切り離された獣と同じであり獣よりたちが悪い。真の父母に帰依していると言うなら、真の父母から来ている自分であると絶対的確信を備え、歩みの中でその確証を得ながら霊性として揺らがないものを魂の主人に置くものになる。熱が出たくらいで大げさな物言いだが、自分が困難な中にある、苦難の中にあるという自覚があるなら、その時こそ真の父母の霊性を備えることのできる儀式に立たされていると言える。困難を越え苦難を超える新たな魂を受け取る為に、今執着している思いをどうやって解き放てば器としての魂になれるだろうかと問わねばならない。主の名を幾ら唱えても、それは主の名を語る或る執着の思いに他ならないだろう。肉体的苦痛も精神的苦痛も、時が過ぎ去るに任せて癒されるものかも知れない。しかし否応無く迎えるそれらの事柄に対して、どう臨むのか。そこを通過することで何かを学び受け取るものがあると断言して臨む姿勢こそ、能動的人生であり生活としてのみ言に生きる成約聖徒の姿勢だと思う。苦労こそが我々の宝であると言える立場だ。自分の相対者も含めて多くの兄弟姉妹が病の中にある。病を通過してこそ供えるものがあり受け取るものがあると断言し、日毎にその思いは強くなっていることを知っている。

2009年8月28日金曜日

DARK HOLLOW FALLS, SHENANDOAH

樽床ダムの堰止めの横から急な勾配を下って降りきると、三段峡の奥に位置する三つ滝に出くわす。下り坂を折る度に滝の音が強くなり、それに合わせて期待も強くなる。下りは敢えて足を踏み出す必要が無いほどに体は進むけれど、一通り滝を眺め、さあ帰ろうかとなると上り坂が立ちはだかる。戻りの登って行くしんどさに羽交い絞めされながら、溜息交じりに足を進めることになる。バージニアのシェナンドアにある幾つかの滝の一つまで、観光道路の駐車場から往復三キロを散策してみた。下りはいいが戻りの上りに妻は耐えられるだろうかと、田舎の三つ滝の往復を思い出し躊躇したが、自分の田舎にある滝と違い行程はたいそうなだらかそうだ。妻も行って見たいと言うので皆で行って見ることにした。旧盆を過ぎて八月も下旬に入り涼しくなったが、それでも日中の日差しは強い。しかし一旦滝への小道に入ると、風にそよぐ木々の枝葉に遮られて、日差しは弱まり揺らいでいる。木々が程よい間隔を置いてバランスよく立っている地表は、両手を広げたようなシダで表一面が覆われ、視覚を通して侵入してくるシダの鮮やかな黄緑色で自分の内面まで染められる。行き交う人々が息を上げながらも、紅潮させた笑顔で軽い挨拶を送ってくる。散策している皆がその魂を黄緑色に染められ、癒された表情を浮かべている。半時間足を運んでやっと滝が岩を打つ音が耳に届き始めた。この辺りから最後の急勾配に掛かるようだ。滝の落差分をそこから降りていくらしい。二、三度、折れ曲がりながら最後の曲がりを越えるとその滝は目の前に現れた。想像したよりも高い位置から落下しており、一段、二段、三段と石段を越えながらその都度飛沫を上げている。光を受けたそのままに輝く落下している水の帯とは対照的に、苔むした岩肌は飛沫で湿らされ、繊細な輝きを見せている。滝を両側から覆う木々の枝葉で日差しを上手く調整されながら、それぞれの存在それなりの妙味を活き活きと演出していて、いろんな物語を見せられているようだ。岩の凹凸に合わせ、表情を変えて流れ過ぎ去る水流は、静の様相である鉱物世界の動の在り様を見せている。動の在り様でありながら不変の様相を見せている。人間の魂は留まることを知らず揺れ動いているけれど、動の中に不変であり静の在り様を備えてこそ高次の存在足り得る。人生と言う変化そのものの中で不変的なものを抽出しながら捧げることで、不変的神様に歩み寄ることができる。今、目の前の滝の流れは一瞬として留まりはしない。流れ続ける時の中に生きて、流れ去ることの無いものを培うのが、地上で朽ちる肉体の中で生きる人間存在の使命だろう。案の定戻りは大変で、体の弱い母親を娘は引いたり押したりしながら、私が茂みに入って見つけてきた木切れを杖にして何とか休み休み戻ってきた。自分には田舎の三つ滝とシェナンドアのこの滝が不思議と同じ存在に思えるらしく、浮かんでくる思い出の景色がどちらのものなのか解らなくなる。

2009年8月26日水曜日

星を見ながら

バージニア方面に向かう必要が出来た為、家族で出かけて来た。少し遠回りして山道を選んだのはそれなりの理由がある。私が原理講義を通して受けたのは三日修でありその次の七日修であったけれど、どちらも修練会場は廃校の小さな木造校舎で、人気の全く無いお化けでも出そうな所だった。そのような場でみ言を受ける体験がどんなものか、その効果の程を知っていたので、人気も無く、街の光も届かない山の中でこそ、子供達本人が普通はなぞる程度で済ます内的なものを、外的なものから隔離することでより意識するだろうと言う計算があった。下界は暫く悪天候が続いていたが、行く前日辺りから温度も湿度も下がり、久々の晴天だった。山上もそうであって欲しいと祈りながら向かったけれど、山の天気は変わりやすく、日中は太陽が照ったり翳ったりの状態だったが、暮れ行く頃には祈りが届いたのか空一面晴れ渡った。今回、子供達にどうしても体験させたいことがあった。それは下界では見ることができない、星雲までも視認できる程の夜空一面の星を受け取ることだ。夕方九時を超えると一気に闇が広がり始め、半時間も経つと西の空が辛うじて光の余韻を残すのみで、辺り一面は闇に覆われる。闇がその度合いを強める十時頃、小さなロッジを出て空が見通せる広場に繰り出した。皆で空を見上げると正に降ってくるほどの満天の星だ。北斗七星、さそり座、カシオペア座、ギリシャ神話の神々が輪郭を現すほどに五等星、目を凝らせば六等星までも姿を現す。一同感嘆の声と共に首が痛くなるほど天を見続けた。親の私に取っても久々の事だったが子供達にすれば始めての体験で、山頂近くの天に最も近い場所で、風も無い漆黒と静寂の中、数え切れない星々とのみ自分が相対している。受け取るものはそれぞれ違い、悟性的なものであったり感情的なものであったりするけれど、或いはそれが何なのかわからないかも知れないが、明らかに何かを受け取っているはずだ。受け取ったものは内的に息づいている。いつかは解らないとしても遠からず今日受け取ったものを内面から改めて取り出し、受け取った意味を理解するべく内的に消化する時がくる。感受性の深い、スポンジの様な若い魂の今こそ、受け取っておくべきものが沢山ある。星々の光が宇宙の心魂を象徴としていると言った様に、視覚を通して受け取った、瞬く星の宇宙の心魂の象徴を若い魂が食しながら、内面という自我宇宙に大宇宙の心魂を鏤めて影響を及ぼし、自我宇宙の神話を作り出している。そしてその内面様相を地上界の人生として映しだしている。人生路程の中に動かしえぬ血筋から受け取り、決められた清算すべきものを背負っているが、それらを凌駕する大宇宙の心魂的影響を受け取る者もある。それが、或る星の影響下にある者達だ。御父母様のもとに集められた者達は、特別の星の影響下にあることは間違いない。二世としての存在意義は当の本人も一世も解らずにいるが、二世は二世としての、一世とは違う星の影響下にあることも間違いない。星を見上げている子供を見ながら、彼らは彼らで私には解らない言葉で、或る星からのコンタクトを取っているのだと感じた。

2009年8月23日日曜日

謙虚と感謝

内面に築き上げてきたと思われるものが、ある時ガラガラと崩れ去る。その時初めて目が覚める。外的に聳え立つ自己としての誇りの正体が、傲慢であったと言えるように、内的霊的なものに重心を置いて生きるものは、神霊的な判断が出来るものを内面に備えたという奢りが、信仰生活の命取りとなる。自己の内面を可能な限り高めようとする時、かつて無かった自己に舞い上がり、他の内面への関心や配慮、尊敬を忘れてしまう手の込んだ利己主義となりかねない。分派と呼ばれる当事者本人にすれば、ひとつの見極めや悟りを原理の中から抽出したものとして信じて疑わない。事実、霊的な高次元に足を踏み入れ、内的霊的高揚感に溢れて覚醒されたと実感している。しかしながらそれこそが手の込んだ利己主義の存在様相そのものだ。内的霊的利己主義に陥ったと言える。自己の内面を高める仕方を、自己に留まり偏った仕方で為すべきではない。常に人間としての平衡感覚で判断しながら、自己主管する必要がある。ある食物が体にいいと言われたのを妄信して、その食物のみを食べ続けることと似ている。自分の周囲の存在に耳を傾け、自分の内面を高めようとするものが対する相手や事物にあり、また逆に相手や事物を高める為に自分と言う存在が関与していると言う感覚を持つべきで、自分の内面の高まりを、相手や事物の高まりを通して受け取ることが大切だ。周りにいる人物に対しながら、相手の内的欠落を自分の欠落と見るべきでもあり、相手の中にどれだけ尊敬に値するものを見出せるかが、自分の中にもそれに呼応するものがあると言えるし、相手という鏡から受け取るものだ。自分と相手とのそう言った親密な内的関係性が理解されると、感情に於いても相手の喜びが自分の喜びであり、相手の悲しみもまた自分の悲しみであると言うことがわかる。他の至らない点も含めて自分の欠落だと言える感性が本当の謙虚であり、他の達成された性稟を仰ぎながらそれを自分は受け取ることが出来ると言える感性が本当の感謝である。

2009年8月22日土曜日

原理の生活化

原理の生活化と言う言い方をする。生活の中に原理を当てはめる、或いは原理に当てはまる生活を選ぶ、と言う逆の認識で捉えてしまっているけれど、生活は変わらないもの、変えられないものという無意識の認識がどうしても意識下の基底に動かぬものとしてあり、み言が先ずありきでそれが生活様相として展開していく、と言う概念からはかけ離れたものとなる。信仰生活らしきものを何年続けても生活と原理は平行線を辿り、その距離を維持するので精一杯となる。三年経つと地上天国は出来る、と言われたのを鵜呑みにして献身した当時の基準と今の自分の在り様と比べてみた時、あいも変わらず何処かに天国ができるらしく、霊界に行ったら天国に入れるらしいと夢うつつの中で蜃気楼にでも住まうような認識に留まっているなら、自分はこの道にいるべき存在ではない。外的形としては他の食口と同じ生活圏にあるかも知れないが、原理の生活化が為された立場では自分の内面が天国化されるのを外的生活以上に現実として受け取り、そういった者とは辿る道も違えば行き着く目的地も違う。原理が生活化されたものとこの世的生活とは実感度はまるっきり違う。後者が毎日が同じ事の繰り返しの様に思われるのに比べ、前者は一日として同じ日が繰り返されることは無く、み言が目の前で展開される感覚を覚え、み言が繰り広げられる事柄に生きて姿を変え、内的霊的な学びを受け取る。原理が生活化された生活様相が、どれ程色鮮やかであり感情として受け取るものに豊かさや深みがあり、普通は目にも留めない小さな事柄も驚くほどの意味を自分に差出し、感動や感謝を覚える。今すぐに御父母様と同じ生活圏に入ることはできなくても、み言を思考の基、感情の基、行動の基とし内的訓練を積めば、いつか必ず原理の生活化、即ち覚醒的地上生活が訪れる。

魂の成長

肉体を纏うことで地上界に暮らしてはいるけれども、地上界で自分に関わる事柄は感情に反映され、快や不快の在り様の中で暮らしている。地上界に籍を置きながら魂界をわたり、感情の海に揉まれながら生きているということだ。欲という魂様相としてのかたまりを、より強固なものとして固体化させればさせるほど、感情の海に揉まれる度合いは高くなる。泳ぎを学ぶ子供の様に、身体の力を如何に抜くかを学ぶ必要があるが、魂界に於ける感情の海にもそう言った事は当てはまる。しがみ付く欲の力を抜いて魂の個体様相から液体様相、液体様相から気体様相へと魂を昇華せさる為には如何に委ねるかということであり、委ねるとはより高次存在への帰依を言う。個人は家庭の為に家庭は氏族の為に、氏族は民族の為に民族は国家の為、国家は世界の為世界は神の為、家庭の為の自分であると言う意識に目覚め、個人的感情から家庭的感情に移るとき、より高次の存在に帰依していると言え、家庭から氏族、氏族から民族等々にも同じことが当てはまる。個人的感情の海を制する為には家庭的魂への帰依、家庭的感情の海を制するには氏族的魂への帰依が要求される。自分の願望や欲で溢れかえった十代の子供の魂様相が、母を気にかけ父を心配し、兄弟を思い遣る思いが芽生えてくる。そうなることで次第に個人的感情の海を主管できる。家庭問題へ向けられる様々な心労に揉まれる様相を泳ぎきる為には、氏族的意識に目覚め氏族に於ける私の家庭の役割は何か、家庭の問題に呻吟することで何を氏族に提供しているかを問わなければならない。個人に於いて縦的な内的霊的なものと横的な外的肉的なものとが関わって感情生活を為しているように、家庭に於いても縦的なもの横的なものとが関わって家庭的感情生活を送り、それぞれの家庭的気分の中で生きている。個人に於いて縦的なものに御父様を迎えるように、家庭に於いては縦的なものに真の家庭を迎える必要があり、更に氏族に於いては縦的なものに真の父母の氏族圏、祝福家庭の群れを迎えなければ、氏族復帰はなし得ない。家庭という存在感は認めるとしても、食口の中でどれほどの者が自分の中に氏族的意識を確認でき、氏族的気分を覚えながら生きているだろうか。亡くなった祖父や祖母を想い、親族を想い、先祖の解怨を願うのは氏族的気分ではあるけれど、本当の意味で氏族的魂レベルを得た者は真の父母の氏族圏である祝福家庭の兄弟姉妹を、縦的なものとして自分の中に迎え入れているかどうかを問うている。真の父母に侍り、真の子女様を兄として姉として慕い、祝福家庭である兄弟姉妹を思い遣る。養子として何人も自分の子を差し出している家庭は、氏族的魂の縦的なものを供えていると言う事が出来る。個人として生きる術を得ていると満足している者は、波のない魂のプールで泳ぐことが出来ると自慢している様なもので、大海の荒れ狂う波を主管し鎮める程の、高次の魂様相獲得への段階を登りつめる意志を備えてこそ、虎の子は虎の子と言うように、真の父母の息子娘と言う事が出来る。

2009年8月18日火曜日

沈む太陽

一年に春夏秋冬があるように、一日を見ても朝があり昼を超え、夕に入り夜となる。人の一生を見れば、幼年期があり青年期を超え、壮年期を迎えて老年期に入る。卸業務の方で新しいプロジェクトがあり、その立ち上げに顔を出している。ウェアハウスを出たのが夕方八時近かっただろうか、環状線に入り西に進路を取ると、今、正に沈まんとする太陽が目に入ってきた。これ程の大きな太陽を今まで見たことがあるだろうかと思うほど大きな太陽に向かっている。沈む太陽がどうして大きく見えるかを物理的に理解することも出来るのだろうが、それは差ほど意味を成さない。霊的存在としての太陽として捉えることこそ自分に取って意味がある。沈む太陽を内面に受け取るとき、感情として動くものがある。昼の太陽は直視できないけれど沈む太陽はその活動を弱め、暫く眺めていれば太陽存在の中に魂は入っていくことができる。人間は事物に対する時、魂は事物の中に入っている。事物に対していろいろと判断し認識したり、何がしかの感情を受け取ったりするとき、自分は反射体、即ち鏡となっている。意識するとは対する事物の鏡となると言う意味だ。堕落人間はこの鏡が汚れている為、対する事物の本質を受け取ってはいない。屈折されて映されたものを、即ち虚実を実質と思い込んで暮らしている。秋の実りの刈入れを済ませて冬と言う地球自然の内面活動、思考活動を準備するように、宇宙自我としての太陽存在が宇宙の愛としての光を一日放ちながら、自然万物のあらゆる表情を返って来る美として受け取り、それらを誇らしげに地球の自我存在(人間)に差し出している。親が骨身を削って養い育てた子供を誇り自慢するように、太陽存在は惜しげもなく放った光で育てた万物を誇り自慢している。愛する女性を愛の光で包容するように、放った愛としての光が万物の恋心としての表情に代わりそれに酔っている。その太陽感情を独立した自我存在としての自分は受け取らなければならない。受け取って称讃の情を差し出し、共に喜ぶ自分とならなければならない。

2009年8月16日日曜日

み言の領域

堕落人間に取ってみ言に対することは闘いでもある。書に目を通す時、悟性でそれを判断し受け取ろうとするけれど、み言を目で追いながら同じ方法でその意味するところを理解しようとしても、それは本当の意味でみ言の力を受け取ることにはならない。物質的に見ればどんな書物も文字の羅列に違いないが、文字を追う事で書き表されている情景を追いながら書き手の世界観に魂を泳がせている。しかしみ言として御父様の口を通して語られるもの、或いは語られたものを文字表記されたものには、今に至るまで人類が到達できなかった根源の神様の領域から届いたものが言葉となっている。それは自分の悟性を超えた領域にあるため、悟性を超えた領域の高みに昇っていこうとする意志が先ず要求されるかも知れない。地上界から天上界までの精神マップを考えた時、我々が位置する地上界を超えたところに天上界が広がっているのではなく、精神的階層を幾段も超えながら天上界に辿り着く。今の人類は地上界の底に位置している。言い換えれば人間は精神を物質肉体に入り込める究極まで浸透させている。肉的五感はその究極まで発達させて来たけれど、物質を越えるものを見たり聞いたりする力は失せている。かと言って物質を超えた領域を見たり聴いたり出来るなら、即ち霊視霊聴できるならみ言は理解できるかというと、それは在り得ない。み言の領域に入っていくためには特別の精神的ツールが必要とされる。それが心情なのだ。物質的肉体として降りれるとこまで降りてきた人間は、天上界の精神存在とは両極の存在位置にあるけれども、肉体の枷をはめられたが故に逆にどうすることも出来ない想いは強化されてくる。物質人間としての恨を高められると心情という精神様相が現れ、その心情故に極と極はワープされ通じることが出来る。み言を読み解き、その力を得るためには背後にある心情を尋ねることを忘れてはならない。神様御父母様にその御心情を尋ねながらみ言を辿る時、自分が汗と涙で精誠を尽くしたこの身体が共鳴体となって胸が熱くなり、熱い涙が頬を辿る。その時始めて、み言の領域の入り口に辿り着けることができる。み旨を戴き精誠を供えながら、御父母様の歩みのそのひとかけらの苦労を共有することで、我々の次元にまで降りられて心情を分けて下さる。

過去と現在の光の違い

日中は蒸篭で蒸されるような蒸し暑さで、太陽は強く照っているのだろうけれど、湿気で重くなった大気に遮られて目に見える全てのものの輪郭が霞んでいた。夕方近く店の買い物のために車を走らせて向かった時はまだそのようだったけれど、しかし帰りの景色は違っていた。空は高く青く冴え渡り、西日の陽光が地上の全てをはっきりと反射している。道路脇の並木も、ちょうど風がいい塩梅に当たりながら、湿気をはじかせた木々の葉が軽やかにさざめいている。優しい光が木々の葉に戯れながら、暮れ行く中を子供が惜しんで遊ぶように、今日一日の余韻を楽しんでいる。光の印象を受け取りながら、イエス様が地上にもたらした愛をその中に見、真の父母が地上にもたらした真の愛を見ることができる。真の愛の何たるかを知らなくても、真の父母がおられる同じ地上という次元で、真の愛を光として受け取っている。かつての光は今見る光と様相を明らかに異にしていた。或る年の八月六日、小学校の四年生だった自分は、藁葺き屋根に立てかけた梯子に上り、南に向かって黙祷を試みた。二十数万の人々が、自分が目を向けたその先で惨たらしく死んでいった様を思いながら、しかし自分の魂はその現実を包容しきれない。急に吐き気を覚えるような何とも言えない不快感を暫くの間持たざるを得なかったことを今でも思い出す。その時の照りつける太陽がどす黒く、天の青空も青暗く、周りの景色も重暗かったのをしっかりと覚えている。ちょうど一昔前の映画の色合いに見るような重いものを感じていた。その時の光の印象と今のそれとは明らかに違う。今の光の様相がどれ程軽く、優しく、事物に深く浸透しているか、この光に満ちた地上界がどれ程活き活きとしているか、この光に照らされた魂がどれ程明るいか、そう言った観察を通して見ても、真の父母の歴史的、天宙的偉大さを知ることが出来る。

2009年8月14日金曜日

心の垣根を取り払う

人間は共同体の中で、他との関わりを、即ち授受作用をなしながら生きている。人間としてその霊性を高める為に、共同体の中で歩むことは必然と言える。様々な背後を持ち、多種多様な人間像と関わりながら、彼らが携えてくる一人一人特有の霊性から学ぶものがあり、受け取るものがある。目の前に立つ一人の人間を人間的な判断で、それは概して自己中心的な判断であるけれど、結論を出すべきではない。私が学習すべき事柄を持っているが故に、自分に関わりのある全ての人は目の前に立っている。家族は勿論のこと、我々の周囲に関係する人々とどの様に接するか。愛する、為に生きると言うけれど、その言葉が実感として相手との間に育つ為には、先ず関心を持つ必要がある。差ほど関心も持たず、当たらず触らずの状態で、愛する為に生きると言う言葉は空しく響く。自分は誰かに対して恨みや憎しみを抱いたことは無いと言うけれど、多くの場合、愛するとか憎むとかと言う段階までも関係性を持ってはいない。ある意味、み言が関与する段階以前の、自分という枠に閉じこもったままの状態でしかない。自分の枠を外し、土足で内面に入り込まれる状態からが、み言がみ言として自分の中で生きる本当の出発なのだ。親として、自分以上に子供のことを心配し、親の内面で子供のことが多くを占めてそれが内面で生き続けるように、自分の事の様に自分の中で生き続ける一人の人間がいれば、愛さざるを得ないしその人の為に生きざるを得ない。親密な人間共同体意識が芽生えてこそ、自分の中に真の父母からくる真の愛が溢れ出し、内面の壁を突き破って外に流れ出す。喜びの経験や真の愛の体験を自分がするか他人がするかはどちらでもいい。親密な意識が根底に於いて繋がっていれば他の喜びが自分の喜びでもあるように、真の父母が勝利されたことは全人類が勝利した内容として相続できる。

2009年8月13日木曜日

お盆

祖父が亡くなってから彼これ27年が経つ。祖父が亡くなって数ヶ月の後、自分は祝福を受けた。祖父の死と私の祝福は対になっている。その当時は気にも留めなかったが、祖父が亡くなることで自分は祝福を受けることが出来た。今日本は盆の入りで、田舎の裏山の陰にひっそりと佇む粗末な墓にも、派手な三角灯篭が立てられていることだろう。昨年、晩秋に訪れた時には墓に向かう小道が大笹で覆われ、近づくのも儘ならなかったがどうしただろうか。本当なら盆正月ぐらい田舎に帰って、家の世話やら墓の世話をしたいものだが物理的に難しく、足の悪い親父にさせておく以外どうしようもない。そういう親父も喜寿を超える歳になってしまった。献身を決意した時、自分の救いと言うより祖父や親の救いを望み、この道に賭けてきた。当時、全く何も解ってはいなかったけれど、自分の救いがそのまま祖父や親の救いであり、自分が信仰の道を歩むことで先祖や後孫が信仰の道を歩むことになる、そう言った認識はあった。しかしながら親の傍に居て生活の面倒を見たり支えになってあげる訳ではないし、逆に心配をかけ、周りや親からすれば不良息子でしかないのだろう。それでも粋がって親の為にと思っては来たが、ここまで辿り着いて見て本当のところは違うのだと言うことがわかった。み言を学び、真の父母に侍る歩みを自分の力だけで為しているのではない。私は理解しているから当然のようにみ旨を歩んでいるけれど、理解できずに子を心配し、途絶えることの無い内面の患いを抱え続けた親こそ、私が歩むみ旨の土台を支えている。御父様が北韓の収容所に居られた時、母親が差し入れを携え何度も訪問されながら、御父様は母親の目の前でその差し入れを他の者に分けてあげてしまった。母親がそれを見て涙を流し落胆された様子を食口は伝え聞いているけれど、御父様の母親に似たものが自分の親にも当てはまるだろう。それなりに手塩にかけて育てたにも拘らず、外的には親には見向きもせず、様子を知らせるでもなく、ひたすら教会の為に汗を流している。子を案じない親など何処にもいない。自分が本当の意味で立たなければ親は報われることは無い。理解もしていないみ言を確信し、その価値がわかっていないにも関わらず真の父母に侍る事が出来ると言う時点で、自分を超えた多くの働きを自分は得ている。明らかに親があり先祖があり、多くの共助を受けて自分という存在を中心として歩んでいる。私を通して親や先祖がみ旨を歩んでいる。お盆は霊界に居る先祖が尋ねてくる期間であるけれど、み旨を歩む我々には祝福先祖を初めとする先祖達が常に共にあって歩んでいる。我々に取ってお盆は、共に歩んで下さる先祖に、より強い感謝の想いを供える時である。

2009年8月10日月曜日

今日の想い 97

真の父母の御名を我々は唱えることが出来る。どのような環境圏、事情圏の中にあっても真の父母の御名を唱えることが出来るという事が、福の中の福だと言えなければならない。善に通じる言葉があれば、悪に通じる言葉もある。地上に縛り付ける言葉もあれば霊界に通じる言葉もある。しかし、真の父母という言葉はそのまま神界に通じ天国に通じる。真の父母と唱えることによって発生する感情を呼び起こさなければならない。サタンが大きく関与するこの地上界に於いて、魂の中に湧き起こる感情はサタン的気分に支配され、我知らずサタン的気分で地上生を送っている。どっぷりとサタン的気分に浸かりながら、真の父母、と言葉を口に出しても、サタン的気分に掻き消されて天に通じる感情は呼び起こされない。この世的サタン的気分を排しながら、この世的サタン的気分と戦いながら、真の父母の御名を唱えなければならない。誰しもが何らかの気分や感情を持ちながら地上生を送っている訳だけれど、そう言った日常的気分を超えたところに霊的な、或いは神的なものが揺らいでいる。不自然な形で日常的気分を超えようとするなら、それが麻薬であったり黒魔術であったりする訳だが、霊的歪みの中に入り込んでしまう。異常な感覚的歓喜を受け取るけれど肉体や魂がそれを支えきれない。魂が分裂し肉体も破滅に至る。地上的な喜びは感覚的喜びであるけれど、それを突き詰めれば破滅しかない。サタンが人間に持ち込んだものは、感覚世界のみに限定された喜びの不適切な追求であり、本来は違った形で感覚世界に入るべきものを、ルーシェルの誘惑により急ぎすぎた受肉が人類始祖に於いてなされてしまった。だから人間が地上界という感覚世界に対する仕方、在り方が間違っていると言う認識を持ち、それらを一旦否定して(自己否定して)み言から来るところの感情をもって生活することを覚え、習慣化する必要がある。

2009年8月4日火曜日

今日の想い 96

人一倍神経質で感受性の強い子供は、人との関わりの中で起こる僅かの摩擦や軋轢や、自分の感情、相手の感情のどれ程些細なものでも、それらによって心を重くし、内なる身体が削らるほどだった。人にはあって自分に無いもの、人にはできて自分にはできないこと、そう言った事柄に覚える劣等感は凄まじいもので、こんな自分に生まれてしまったことをどれ程恨んだか知れない。自分を極度に矮小化し、極力目立たないように息を潜めて人生を送ることだけを考えながら、み言の出会いまでの日々を過ごした。しかし、み言に触れて、自分が直ぐに180度変わる訳でも、人生が大きく展開する訳でもない。だがその可能性を植付けられた事と、何も起こり得なかった事という、この1と0の違いは宇宙的に見るなら神様が天地創造への意志を持つか持たざるかと言うほどの違いがある。み言を受け入れ信仰生活を始めても、やはり自分に負わされたものは負わされたものとして抱えていかなければならない。大きくうねる感情に翻弄されながらも、しかしそれと平行して信仰として植付けられたものが内面の中で育てられて来たことが、自分でも気付かないほどの僅かずつの成長を重ねてきたことが、過去を振り返って見て取れる。時として不信の思いに揺らぐ中にあっても、忍耐を備えた信仰感情が、新たな本来の自分存在として生き延び成長してきた。血脈を通し、世代世代の肉身に受け継がれ浸透している業を清算すべく、荒れる魂を内的経験として舐めながらも、そういう自分を別の領域から観察し主管し内的糧として、内的霊的成長要素として取り込もうとする第二の自分存在を認識している。日々起こる、様々な事柄に翻弄されながらも、痛みを味わう経験を甘受し、押し寄せ辟易する対処すべき感情体験を感謝し、何度もへたばりながらそれでも立ち上がろうとする意志を備えられたことを喜び、悪なる思いが善なる思いに必ず取って代わると信じる第二の自分が私の中に存在する。第二の自分は真の父母と同じ色合いとして、同じ香りとして、私の中で光を放っている。

2009年8月3日月曜日

宇宙認識

地上世界の物理的認識を宇宙にも当てはめようとするけれど、無理がある。物理的判断は空間内に限り有効であり、宇宙全体が空間内に位置しているとか収まっているとは言えない。天空に輝く星の一群が、空間に浮いているものだと何の疑いもなく受け入れている。自然科学への信頼が外界に対する認識の殆どを占めており、今の自然科学では計り知れない世界の領域の方が圧倒的に人間存在に影響を及ぼすという認識、自然科学は知の領域のほんの僅かであるという認識に欠けている。多神教であった日本の今は、他のどの地域よりも唯物的信仰に捕らわれている。宗教的なものをせせら笑い、自然科学的なもの、唯物的なものを認識の根底に置いて、宗教的なもの、道徳的なものはそれらに付随する程度の認識に過ぎない。それは宗教を否定する唯物論、外的感覚至上主義という唯物信仰、感覚信仰に他ならない。物理的肉体的には空間内に存在していると言えるが、霊的内的には空間を越えた次元で存在している。母の胎の中で地上世界の準備をするように、地上世界という空気の胎の中で、霊界への準備をする。母の胎の中にいつまでも居られないように、地上世界の中で空間的存在として居られるのも限りがある。地上人間の全ては或る期間を超えると空間を脱しなければならない。それが死を迎えるという意味だ。人間は地上生活を生きながら、目に見える視覚認識を超えた、生命的なものを感知できる感性を備え、更に、生命に宿る心魂的なものと授受できる霊性を備えなければならない。全ての万物、大気活動を初めとする全ての地球活動、更に月存在、惑星存在、太陽存在、満天に輝く恒星存在、宇宙存在、そして宇宙活動には物理的な認識では捉えられない、生命的認識、心魂的認識でこそ、宇宙の叡智に参入していく事が出来る。頭上に広がる空の青さは、宇宙の生命を目に映るものとして象徴的に現されており、夜空に輝く星の群れは、目に確認できるものとして宇宙の心魂を象徴的に現されたものである。空の青さから私は何を受け取るだろうと問わなければならないし、星の輝きから私は何を受け取るだろうと問わなければならない。み言に込められた御父様の心情を尋ねていく時、太陽を貫いて宇宙に参入していく自分を体験している。太陽から放射される空間の胎の中で生きながら、霊的存在、心魂存在の外的現れ、象徴的現れを介して学びながら、霊界への孵化(死)に向けて時間を食べている。

2009年8月1日土曜日

神霊的歩み

富を持つ者と持たざる者がある。権力を持つ者と持たざる者がある。富はサタン世界の中に組み込まれている。権力もサタン世界の中に組み込まれている。富を持とうとすればサタン世界の道理に生きる必要があり、権力を持とうとしてもサタン世界の道理に生きなければならない。富を持とうとすればそれ相応の醜い道理の中に頭を突っ込む必要があり、権力を持とうとしてもそのように悪の道理を呑まなければならない。只単に我々は外的実力がないから富を得ることが出来ない、と言う訳でもない。サタン世界の中に富も権力も組み込まれてはいるが、優勢を保ち続けてきたサタンの勢力も、後天開闢の時代が開かれると善の権勢がサタンの勢力に取って変わり、サタン世界は衰えを増すばかりだ。サタン世界の中に組み込まれている富も権力も同様に衰えを増している。生きる糧を得るために、どうしてもコバンザメのように富を持つ者や富を持つ社会に身を寄せる必要は出てくる。必要以上の糧を得ようと欲を出せば、より身を預ける必要性が出てくる。そうなるとサタン世界に媚び、サタン世界に重心を置くようになり、魂までもサタンに売り渡すようになる。このように先天時代は、神様に顔を向けて生きようとすれば、清貧の生活を余儀なくされてきたが、これからは神が主管できる社会に変わっていく。富は濁った汚いものであったのが、清い富、清い富の生活が起こりえる。誰かを蹴落とし欺くことで富を得るということが否定され、人々を愛し為に生き、神の叡智から来る価値創造を地上界に展開することで富を得る時代に入っている。今まではこの世で成功しているビジネス業種の真似事をしてきたが、これからは我々自身が真の愛の文化として真の父母から来るもの、この世からでなく内から抽出されたものこそ富の源泉となる。み言の思考を繰り返す中で結晶化されたビジネス哲学が一人一人の中で、全体として、必ず用意されるはずだ。その途上として私が確信するところの神霊商法も、その一里塚と言えると思う。我々の教会に神霊と謳われている以上、神霊的思考があり、神霊的生活があり、そして神霊的ビジネスもある。

2009年7月29日水曜日

訪問記 3

言葉に込められた心情は、言葉に閉じ込められたまま相手の内面に撒かれる。撒かれた心情の種は魂の耕されるのを待ち、内的環境圏が熱を帯びて暖かくなるのを待って芽を出す。投げかけた言葉が、打てば響くように直ぐにも影響を及ぼすこともあるけれど、良き種ほどしっかりと耕された土壌としての魂が要求され、それなりの期間もかかる。内面に深く深く沈んで行くことで、み言に込められた天の心情の芽が出、幹が高く太く育ち、枝を四方に広げながら、やがて愛の花が咲き乱れる様相を体験する。愛の花を咲かせる衝動を、御父母様に繋がり、神様に繋がった自分の心情として啓発される。み言の意味するところを自分なりに捉えようとするのでなく、み言を、み言の力を、そのまま受け入れることを成約聖徒は学ばなければならない。自分なりの思考やこの世的感情が含んだものを、意識もせずにみ言に沿うた良き言葉として相手や子供に投げかけている。しかし正しく受け入れたみ言なのかどうかは、子供を通して問われる。或る年齢に達した時、親なりに理解したみ言をそのまま子供にぶつけても、受け入れることはない。一通りオフィスの建物内を見せていただき、お礼の挨拶をして離れようとしたけれど、誘いに甘えて自宅に呼ばれ、ご馳走になった。同じテーブルでご婦人の手料理に箸をつけながら、御父母様が来られた時の様子やらいろいろと話してくださった。食事の後は南米でのスライドを見せていただいた。南米レダでの文字通りの開拓が進められた時のスナップ写真なのだが、説明される言葉の中に開拓の苦労もさることながら、その苦労を超える、その地への愛情やみ旨への誇りややり遂げた達成感やらが言葉の端々に滲み出ている。熱の篭った言葉を息子と二人で受けながら、み旨を歩みながらこれ程の情熱が込められた歩みとして、自分は子供に伝えているという自信はない。子供が、冷めたものや諦めたものを親の背中に見ているとしたら証にはならないだろう。息子に何か得るものがあればと誘った旅ではあったが、本当のところ、天の教えたい事柄は親としての自分に向けられていた。空が鳴り、夕立の大きな雨粒が落ち始めた。雨脚が強くなる中を外にまで出て、見えなくなるまで手を振りながら送っていただいた。

訪問記 2

人間は言葉を話し理解する動物だと言うことは出来る。しかし動物界に括られる存在ではなく、言葉を理解し話す存在が動物形態を取っているのが人間だ。人間存在は言葉の存在であり、動物に見る本能を超えて、即ち肉体の生死を超えて言葉の中に生きる存在なのだ。言葉に宿る霊的なものを自分の身体とする為に、使う言葉を選ぶだろうし神霊が宿る言葉を捜してもいる。兄弟に案内されて船着場辺りを散策した。アメリカの大西洋沿岸はアウターバンクが鎖状の島々となって連なり、挟まれた内海は運河となってフロリダまで延々と通っている。波のない静かな海面というのか川面は、朝の光が軽やかに踊り、岸辺の葦も船も、そして桟橋までも光り輝いている。光の中に佇みながら、自分の内面にまでもこの光が浸透されるよう呼吸を深くし肌を弛緩してみた。この触れる大気の中に光の中に、会長や兄弟達の迎える想いが感じられる。心地よい夏の朝の風を身体に受けながら、この地に住まう精霊達が微笑みかけながら迎えてくれる。別に何かを期待して来た訳でもない。何かを貰う為に来た訳でもない。兎に角挨拶をしたかったし来て会ったという事実が欲しかっただけだ。コーヒーの用意が出来たからと声をかけられオフィスに戻ると、会長に手招きされ会議室の大きなテーブルに息子と並んで腰を下ろした。店の様子など聞かれるままに応えていたけれど、話しは息子のことに及ぶ。二世としての姿勢であるとか信仰姿勢であるとかを口にされるのだろうと思ったが、内的事柄に関しては全く触れられなかった。確かにそう言った内容を息子が理解できるとも思わないが、以外にもこの世的能力や技術を得ることをしきりに強調される。自分が子に対するとき、今本人に無いものを愁いながら、或る意味責めながらこうあるべきだと言葉を吐き出しても、それは決して子の為にはならないだろう。それよりは会長の言葉に頷きながら、未来への展望を投げかける言葉の方が余程建設的なのだ。親としての焦りが言葉に代わり、それで子供を縛り付けていたのかも知れない。そういう気付きを今回の出会いで受け取った。内的な事柄に触れない言葉に、内的生命が込められていた。響きのある言葉を、息子は息子なりに受け取ったろう。彼なりにということが大切であって、彼なりに受け取った言葉こそ彼の中で大きくなっていく。

2009年7月27日月曜日

訪問記 1

言葉に想いを込める。込めた言葉を相手に贈る。受け取る言葉に込められたものを、相手が受け取る。言葉に包まれた私の想いを開いて受け取る。その言葉にどういう想いが込められているかで、相手を高めもし落しもする。活かしもし殺しもする。言葉に込めようとする想いがどれ程自分の中にあるだろうか。想いの強さが伝わる強さであれば、相手を思い遣れば遣るほど内的生命を強く与えるであろうし、或いは逆に相手を憎めば憎むほど内的霊的死へ自分も相手も引き擦り込む。子供に親の想いが伝わらないとするなら、想いとしてはまだまだ弱いのかも知れない。或る想いに駆られて、信仰の大先輩のおられる地へ息子と向かった。一つの大きな転機に自分も家族もある事を認識していて、どうしても会って挨拶したかった。営業の為の雑用を片付け、やっと出発できたのは夕方近かった。ちょうど仕事帰りのラッシュに出くわし、町を抜けるとひたすら南下して、近くの宿に着いた時は既に12時を回っていた。禁煙と指定しながらもタバコ臭い部屋を宛がわれたが、敢えて説明して変えてもらう気も起こらず、兎に角休んで明日に備えた。寝たような寝ないような夜を過ごし、明け方早く宿を出、ナビにも映らないその場所にやっと辿り着いた。広々と整地された土地が見渡せる。もっとボートが所狭しと並べられているのかと想像したが、船着場に大小あわせて5,6台、そしてパーキングに10台程度並んでいるだけだ。洗車をしておられた会長は手を差し出され、笑顔で私と息子を迎えて下さった。隣に息子がいなければ込み上げるものがあったかも知れない。誰よりも誰よりも尊敬して止まない、いつも見上げるばかりの大先輩を今目の前にして緊張していた。

2009年7月21日火曜日

霊界考察

地上世界に於いては、霊界に於ける法則がそのまま地上の法則とはならない。地上に於いては善を指向しながら善の行為が不幸となることもあり、悪の行為で幸福を味わうこともあり得る。しかし霊界に於いては内的価値や本質に従い、善はその善の程度に応じ、悪は悪の程度に応じて作用する以外ない。地上生活では、道徳的宗教的なものと、生活的物質的なものとの間に越えられない溝が存在する。しかしながら人間は霊人体と肉体の統一体として存在している以上、神様が主管する霊界法則に従えば、地上生活は犠牲的生活にならざるを得ないし、サタンが主管する地上界に従えば、内的霊的在り様は醜いものとなる。地上生活に於けるこの矛盾を感じない、心と体の闘いを覚えないものは、善を極めた聖人であるか、でなければ内的霊的感性が完全に鈍ったこの世的生活に埋没しきっている本能人間、より獣に近い人間ということになる。人間は地上に於いて、内的霊的価値や本質的なものをどれ程理解しどれ程受け取ったかで、霊界へ持ち込めるものは決まってくる。肉体を脱いでしばらくすると、この世の生活的物質的な事柄を先ず捨て去る必要があり、霊界への旅の途中で惑星を廻りながらその霊的存在達に魂の地上的事柄を委ねる必要がある。そして真に霊界中心位置へ向かえば、真の愛の密度が濃い光り輝く天国に入って行く訳だが、自分がどれ程真の愛を受け取ったかを問われ、真の愛の要素で築いたものしか持ち込むことはできない。偽りの影の部分は焼き払われる。自分の霊人体に於いて影の部分が多くをしめるなら霊人体としての体をなせず消滅せざるを得ない。しかし消滅できないのが自我存在であり、真の愛の光の届かない所、自分を焼き払われない場所(地獄)に留まらざるを得ない。天地開闢が地上人にとってどれ程の福の中の福であるか。内的霊的価値あるものを求めることが即、地上の幸せへの道へと一致する。善悪の程度に応じて地上作用し、善の実を実らせ悪の実は腐るという霊界法則と地上生の法則が一致する。

2009年7月20日月曜日

天の軍勢

自分の中に巣食う恐れこそ、当面の敵だろう。事或る毎に恐怖意識が頭をもたげる。身体を起こしてムクムクと大きくなる。大きくなって両腕を広げ、自分に襲い掛かる。脅しに掛かる相手や、不安や心配こそが、恐怖そのもののように思えるけれど、その実体は弱い自分が作り出した恐怖意識だ。誰でもない自分が作り出したものを、何処かから襲ってくるような認識に捕らわれているけれど、自分の意識の深いところで自分が無意識の内に作り出している存在だ。思考は実体化するものであるけれど、無意識下の思考、血族的因縁的思考が作り出した、自分が背負う負の因縁である。戦う相手は表面下の無意識圏の自分であり、その根源は神様に相反する悪魔存在の霊が介入している。そこを注視しメスを差込み霊的手術を施していく。万軍の王の位置として戴冠され、それが抽象的装飾的冠位としてではなく、文字通りの万軍の王として、万軍である霊の軍勢をその背後に見る必要がある。地上で闘いに明け暮れた軍勢の多くもまた、絶対善霊として御父母様の背後に陣取っているし、軍神と言われる火星存在、金星存在もいる。忘れてならないことは、意識的であれ無意識であれ、内的霊的闘いの日々であること。目に映るものが闘う相手の正体ではなく、内面に居座る悪魔存在、恐怖意識を煽る悪魔存在こそ戦う相手に違いない。深く祈祷し内面の奥深く進軍しながら神霊的光で分別し悪魔の正体を明確にする。エリコ城陥落の如く、鬨の大声と共に突撃し、一気呵成に成敗する。我々には確かに天の軍勢が背後に控えている。それ故に絶対に勝利する。御父母様の天の運勢圏を相続し、天の攻撃権を扶余されている。内面の宇宙からあらゆるサタン、悪魔存在を淘汰する。

2009年7月19日日曜日

今日の想い 95

暗闇の中、手探りで出口を探すような、そんな日々が続いている。店の事も、相対者のことも、子供のことも、、、。光の糸口が見つからず、手当たり次第闇雲に行動して見ても、混乱の度合いは増すばかりだ。自分の中に執着があるのだろうか。こうあるべきだという思い込みがあるのだろうか。その思いから開放されない自分が問題なのだろうか。飲み込んだものがストンと腹の底に落ちずに、胸の辺りでせき止められているような、そんな胸焼け状態。内的な胃が拒絶していると言う事なのだろう。内的霊的に消化できないと言う事なのだろう。執着を捨て、思い込みを捨て、、、そしてどうする?そして委ねる、、、委ねるとはどういうことだろう。消化できないものは吐き出すしかないだろう。天が取ることができる精誠条件を供えながら、自分の思いではなく、天の思いの通りに運んでもらうことが最善だろう。粗末な祭壇代わりの棚にみ言がずらりと整列している。光が内包されたそれらのみ言を開けば内面は照らされ、闇は消えるはずなのに、自分の中に光は届かない。幾重にも幾重にも何かに覆われて光は届かない。御父様の子であるなら、溢れる光で家庭を照らし、店を照らし、従業員を照らし、社会を照らすべきなのに、光の糸口さえ見出せない。真の愛が届かないところが地獄だという感覚が良く解る。息苦しささえ覚える今の状況が続くなら、生きて死の苦しみを味わい続けるだろう。副作用で痛みを覚える妻の足を摩ってやりたいが、自分の腕が重たくて届かない。荒んでくる子供を目の前にしながら、乾いた魂を潤す愛の言葉が見つからない。大きな気持ちで従業員を包んでやるべきなのに、口を開けば裁きの言葉がついて出る。余りの自分の不甲斐なさに落ち込む。申し訳ありません申し訳ありませんと、一晩中でも背中を曲げて小さいからだを揺さぶれば、何かが手を差し出してくれるだろうか。どんな暗闇にも光は届けられると信じ続けられるだろうか。

2009年7月17日金曜日

今日の想い 94

背負うた重荷が重たくて、助けを呼びたくても人は横を追い越していく。自分の弱さで打ち震えながら、佇む自分は押しのけられる。邪魔な存在として生を受けたことを、否定するでもなくじっと死を待つ。周りの誰もが恐くて、目立たないように息を潜める。何も持っていないから、執着も諦めることもわからない。感動もなく、怒りもなく、喜びもなく、声を上げて笑ったこともなく、孤独の中に埋もれる。夢、、、理想、、、尋ねられてもその意味すらわからなくて戸惑う。何に触発されたのか、ふと涙が流れる。意味もなく静かに泣いている自分に驚く。涙の暖かさが頬を伝う。涙に込められた暖かさを感じる。自分の涙で、自分が慰められる。自分が愛おしくなる。自分が自分に対して申し訳なく思う。それが自分に対してであっても為に生きることを知る。涙を裏切るまいとする。悲しいのに辛いのに、涙はどうして暖かいのかと思う。自分を傷つける時も、流れ出る血が暖かいことに気付く。血も汗も涙も暖かい。自分から流れ出るものは暖かい。自分の中に暖かいものが脈打っている。冷たい周囲に埋もれていれば、冷たくなって当然なのに。しかしそれに同化されないよう、自分の内面に暖かいものが流れ込んでいる。暖かい生きた自分を取り戻せと、暖かいものが流れ込んでくる。人の重荷を気にかけて上げると、その暖かさを人は優しさだと言う。人の弱さを気遣うと、その暖かさは慰めだと言う。あなたを大切な人として接すると、その暖かさを生きる強さに返る。あなたの味方となりあなたの為になりたいと言うと、その暖かさはあなたの勇気になる。暖かさを分け与えることで、暖かさの泉が湧き溢れる。

2009年7月16日木曜日

天一国

地上界のことを地上界のみの判断基準で測ることはもはや意味をなさない。地上界という結果の背後の原因を見ないならば、結果のみを見てその原因を無視することであり、地上界で起こりうる事柄、起こった歴史の事柄は影でしかない。万物の霊長と言われる人間ではあるけれど、霊界への正しい認識無しに、あらゆる万物は人間という存在を超えることは出来ない等という傲慢な態度を取るなら、虫けらと同類なのだ。いや、無知と煩わしい欲にまみれた分だけ虫けらよりも遥かに劣る。事実、植物や動物のそれぞれの種族には我々の意識圏よりは遥かに高次の意識基準を備えていたりする。それぞれの人間は自我意識を肉体に侵入させて活動しているけれど、植物にしろ動物にしろ地上の身体の中にその意識を下ろすのではなく、霊界の高次の世界にその種族としての意識、その魂を持っている。夢中で蜜を吸う蜂のその尻尾を引っ張り、尻尾が抜けて体から離れても、蜜蜂は蜜から口を離さない。その蜜蜂を見て馬鹿だと思う人間は馬鹿なのだ。蜜蜂種族は蜜蜂種族としての霊界に於ける、宇宙に於ける使命がある。花粉を運び蜜を集める作業に没頭させるその背後に、公的意識を本分として宇宙に於ける使命を全うする意志をその魂は持ち合わせている。そのひたすらさや一途さをその存在に感じ取り、頭を下げざるを得ないと思えなければならない。御父様が例に取られた蜜蜂のみならず、人間を除くあらゆる被造物はそれぞれの使命を受け為に生きる存在として、その高貴な魂の活動を展開している。人間は頭を低くして一つ一つの種族から教えを請わなければならない。人間としての為に生きる本分を捨て使命を失った堕落人間に取って食物を口にすることも息をすることさえも罪なのだ。口に入れるとき、息をするとき、取り入れる存在の、為に生きる精神を想い、せめてもの感謝の情を供えるのでなければ、口にすべきではないし生きるべきでもない。神様の創造理想から道を外した人間ではあるけれど、神様は人間を息子として娘として可愛くてしょうがないから、救いの摂理を尋ねてこられたのであり真の御父母様を送ってくださった。その深いご心情とそこから流れ来る真の愛を御父母様に見ずに何を見ようとしているのか。創造された宇宙様相は創造主の偉大性を疑うべくもないが、当の神様はあまりにもボロボロで消え入りそうな与え尽くした様相を御父母様に見ざるを得ない。統一の群れはそれを理解してこそその存在意義がある。我々の胸の中に汗と涙の在り様でしか表せない神様の恨が心情が疼いている。被造物それぞれの種族の魂が霊界にあるように、統一の群れの魂は御父母様の意識圏である天一国にある。

2009年7月15日水曜日

今日の想い 93

なるべく波風を立てないように穏やかに従業員には接するようにしてはいるが、閉めるところは閉めるべきであり、闘うべきは闘う。店の心配をせずに自分の取り分ばかりを言い張る者に、説明で納得させることは出来ない。納得できる説明が欲しいのではなく、取り分の増しのみを要求しているに過ぎない。アメリカのサービスはチップ制を取っているが、この仕組みは害がありすぎる。自分が投入した内容に応じた結果としての金額であれば、奉仕投入することを覚えるだろうけれど、結果としての金額はこなした客の頭数だという認識に凝り固まり、サービスの良し悪しはどうでもよくなる。従業員の時間推移によるパターンを見ていて、殆どのサーバーは最初はサービス向上への意識があるが、或る程度の慣れが見て取れると、サービスとは名ばかりの等閑な接客となる。サーバーではなく、唯のオーダー取りと運び屋に堕ちてしまっている。堕ちた以上、サーバー扱いする気はない。天の店に利己主義に汚染された堕人間はいるべきではない。そう言う意味で闘う。徹底的に闘う。相手が訴えてこようがどうしようが闘う。天の店で働くことの意味を知るべきであり、霊界の存在を知るべきなのだ。霊界がどちらに味方するかはっきりさせるべきなのだ。店長としての権威を示すべきであり、それを認めないのであればそれ相応の判断を下すべきである。一から十まで穏やかで、下手に下手に接して従業員が付け上がるなら、自分は天の権威を落としたことになるだろう。

2009年7月14日火曜日

どう自分の位置を認識するか

過去があり、現在があり、そして未来がある。祖先があり、自分があり、そして後孫がある。過去の結果が現在であると共に、現在は未来の原因でもある。祖先の結果が自分であると共に、自分は後孫の原因でもある。縦的事柄が主体であり横的事柄が対象であるように、縦的時間軸を生きてこそ横的空間はその広がりを見せる。祖先から自分、自分から後孫という生の流れの意味をどのように捉えるかで、自分を横的に展開していく人生は違ったものとなる。隣の誰かの人生を羨んだり自分の方がまだましだと満足したりするのは、縦的な自分の位置があって横的な人生の在り様が決められるという認識にかけている為に、そう言った不満感情や比較意識が湧いてくる。血統という代々の流れの中に、自分という存在がくじでも当たったように、背中をポンと押されて流れに組み込まれるような感覚があって、自分の境遇をついているとかいないとか思うのかも知れないが、それは人生に対する幼稚な認識と言わざるを得ない。事実は、結果としての自分であり、過去に連なる全ての先祖の結実体であって、不満感情や比較意識に軽々しく踊らされるならそれ自体が結果としての自分そのものなのだ。生まれて死ぬまでを自分と区切るから無理なのであって、祖先も自分であり後孫も自分だと言える認識感覚を理解しなければならない。今生の記憶のみを積み重ねているようで、意識圏を越えた所に過去を生きた自分の記憶があり、後孫の中に自分は生き続ける。自分は死ぬと霊界生活を送るようになるから、その認識はおかしいと思うかも知れないが、霊界に生きることと後孫の中に自分が生きることとは唯物的、物理的な判断だと矛盾するが、霊的には全く矛盾しない。男性は縦的であり女性は横的だ。家庭に於いて夫は縦的時間軸を生きることを主体にすべきであり、妻は対象として夫と一つになることで横的空間を家庭として展開していく。私の妻は自分の過去の些細な事柄を一つ一つ覚えているし、私が過去にああしたこうしたと幾らでもまくし立てる。子供の小さい時の出来事を私に思い出させようとするが、私は子供の現在の事以外は過去はすっぽり記憶が抜け落ちていたりする。そのように女性はこの世でのあらゆる記憶や現実そのものを生きているが、男としての自分は大きく言うと歴史を生きている。自分を超える過去に為し得なかったものを今為そうとし、自分を超える未来に繋げるものを残そうと行動する。夫が縦的に立たない限り、また妻がその夫と一つにならない限り、家庭として縦的な位置も立たなければ横的な展開もなしえない。

2009年7月13日月曜日

今日の想い 92

聖日には教会に行くようにという指示が出されているから出来るだけ足を運ぶようにしているけれど、兄弟姉妹の社交場ではあるのかも知れないが、神霊により引きあげられる場と言うほどでもないし逆にこちらが誰かの心霊を引き上げる訳でもない。正直、アメリカで説教を聞いてその内容が内面に入って来たことが何度あったろうか。私の相対する心霊基準が低くてかみ合わないのかも知れないし、日本語のみ言で自分の内面様相が組み立てられ、英語のみ言を中々受け付けないのかも知れない。確かに、トゥルーペアレンツと言う響きと真の御父母様という響きは、自分に取っては共鳴度合いが明らかに違う。更に対外的なことを意識してそうなのか、ゴッドと言う言葉は頻繁に用いられるけれど、それぞれの家庭や兄弟の日々の事柄や内面様相に、御父母様が直接的に関わった生活をしていると思われる雰囲気も匂いも説教の中には醸し出されない。すばらしい偉大な師としての御父様であるけれど、情が行き交う、我々に対する親としての御父様、御母様だという感情が見出せない。一生懸命神様との繋がりを持とうとしているのは認めるとしても、生きた神様を戴いているのにも関わらず、生活感情に直接関わる御父母様に関心が向いたり、御父母様に対する情が啓発されたりしないのだろうか。捉え所のない空想的神様を思い描き、空(くう)を見つめるクリスチャン基準の兄弟姉妹に落ち着き、敢えてそうなのか良く解っていないのか親としての御父母様に侍り慕う食口の領域には入ってこない。親子の情愛が薄いウェスタン特有の家族の在り様がそうさせるのかも知れないが、本来ならその辺の教育を父の国母の国としてすべきなのだろう。ある時は切実な心情をとくとくと説き、ある時は親の怒りを爆発させ、そしてある時は傷ついた子をかき抱くべく慰める、そんな密度の濃い情感溢れる教会の場となるべきなのだ。今日の礼拝もギターを爪弾き、軽い歌を皆で口ずさむ。先回、ニューヨークで怒鳴られ涙を流され、我々を揺さぶり起こそうとされる御父様を兄弟達はどう受け取ったのだろうか。楽しそうに手拍子を皆が打つのに自分も合わせたが、これは違うだろうという思いがどうしても抜け切れなかった。

2009年7月11日土曜日

洪水審判

長い人類歴史を辿りながら、節目節目に於いて人類は選別されてきた。私と言う人間存在があり、周囲に活動する人間存在も、幾度にも渡ってふるいにかけられ選別されて残ってきた、いわば選民中の選民であると言える。自分の先祖を遥か彼方に辿っていけば、必ず人類始祖に辿り着き、それは神様から発している。淘汰され続けてきた人類歴史にその節目節目を見ることができるように、後天開闢時代を開いて下さった今と言う時も、選別されるべき大きな節目を迎えている。それは人類史上かつて無いほどの規模で、洪水審判によってアトランティス大陸が海中に没し崩壊したように、私達は今恐るべき道徳的混乱という霊の洪水の審判を受けて崩壊しようとしている。霊界と地上界の境が取り払われ、地獄の底が抜け、善霊も悪霊も雪崩を打って地上に押し寄せている。それはまさしく、霊の洪水審判と言えるものだ。民主主義社会も自由主義経済もその秩序を維持しきれず、道徳、文化は著しく荒廃し、極々少数の精神的原則を受け入れた人々のみが、利己主義をとことん煽る悪霊による自己破壊から逃れることができる。為に生きる精神的原則は、み言を受肉し真の父母に侍る人々こそその原則を受け入れている。言葉が知識欲を満たすのみであり、地上天国が外的安楽という自己欲を満たすのみであれば、み言も御父母様も利己主義の方便として使っているに過ぎない。御父様の生き様の本質、為に生き、愛に生き、結果として犠牲的在り様になるその生き様の本質を相続する者となる。物的洪水であれば山の頂に避難するものだけれど、霊の洪水は頭を低くして何処までも何処までも謙虚に下っていった者こそ、逃れることができる。

2009年7月10日金曜日

親馬鹿

久々にカウンターに立って活気付いたけれども、舞い上がるほどに高揚したのには他の理由がある。横で息子が包丁を握っている。切っ先を私に向けるなら別の意味で高揚しただろうけれど、勿論そんな生臭い事ではなくて新鮮な食材に包丁を振るい、私の指示を受けながら客のオーダーをこなしている。今まで、こんな場面をどれ程思い描き、何度夢見たか知れない。それが現実となった状況を今の今経験している。他人には余りにも大げさで白々しいかも知れないが、今までの、決して真っ直ぐではない親子の経緯からすれば奇跡にも近い事柄なのだ。今年の夏こそは何処でもいいから働き口を見つけて家計を助けれくれるように言い伝えたが、真剣に探す気配もなく7月に入ってしまった。父親の口から責めれば余計に難しくなる事は解っているので、母親の口からやんわりとプッシュしていたが、それでも昨日などは母の一言が重いらしく、塞ぎこんでいる様子だった。年齢的にそうなのか親から受けたものなのか、神経が非常に細やかで傷つきやすい面がある。どう接していいものか事或る毎に悩んでいたが、昨夜もひとしきり思いを巡らしながらそのまま朝を迎えた。そして今朝、私は霊界に押されるようにしてパソコンに向かっている息子に声をかけた。行こう。唯この一言をかけると息子は頷き立ち上がった。無言のまま車に乗り、店に着くとエプロンと衛生ハットを渡した。数年前、面倒見のいい兄弟の店に頼んで、嫌がる子供を無理やり引き連れて働きにならない働きをさせたことがある。親子の間でそれが引っ掛かっていたりもする。小さい頃、可愛いだけで親としての子に対する教育がなおざりだったからそうなってしまった訳で、子供の内面の責任は100%親にある。その苦しい思いを察してくれたのか、兎に角従ってくれたことが嬉しかった。勿論全てが解決した訳でもなく、一歩を踏み出したに過ぎないが、それでも私の家庭に取っては大きな一歩だった。二人でカウンターに立ち、私の右隣で働いた息子なりの動きや一生懸命さを、私の右肩や右腕がしっかりと覚えていて、その興奮と熱さで今晩も眠れないのだろう。親は子に対しては本当に馬鹿だと思う。馬鹿だから親なのだ。神様もそうであり、御父母様も恐らくそうだ。我々は本当の馬鹿の集まりなのに、どうしようもない存在であるのに、御父様は我々を捨てることができない。

2009年7月9日木曜日

死生観について

そう遠くない死を告げられた病人であれ死刑囚であれ、死が現実味を帯びると生の密度は非常に濃くなる。朝、目を開けると当然の様に外界が開けていて、当たり前すぎて普通は何の感情も伴わない。しかし死が意識されると、死の対比で生を味わうわけだから、生きて味わう外界の経験を死の境を越えて持ち込もうとする為に、内面への経験の刻み込みは俄然強く深いものとなる。内面への意識が強く喚起されることで、死後に対する無知や恐怖感の克服が為されていく。死が迫る事を受け入れる事と、死んで後も自分の存在が或ると認めることとは対になっている。無神論者であれバリバリの共産主義者であれ、死を覚悟した者は、霊界は信じなくても何かの中で自分は生き続ける事を信じている。死ねば全ては無となる、と言い切れる者は、彼に取って死はまだ現実味を帯びてはいない。兄弟は神様を信じ霊界を信じてはいるけれど、或る意味容易な信じ方であって、死に対する意識も死後は皆無であると信じる者達と同じほどに軽い。み言を知り、御父母様を受け入れ、祝福を授かったことで死後に対する安心感を覚え、恐怖感を含めて死への切実さや感情が薄い為、結果として生への切実さや感情も薄い。死生への姿勢が緩んだ、み言を知り御父母様を受け入れた無宗教者となっている兄弟が結構多い。深い信仰生活を歩む為には死生観を突き詰める事は必要条件であり、それでこそ密度の濃い生を生きることができる。緩慢な生を自覚するなら、指の一本や二本は切るくらいのショックを受けてこそ目が覚める。御父様がどれ程この地上におられるか、そう遠くないその日を迎えるのは確かだけれど、御父様の後追いをするくらいの覚悟を持たない限り、御父母様に侍り共に生きたと言える自分にはなれない。

2009年7月8日水曜日

今日の想い 91

万死に値する罪を犯し続けながら、のうのうと生き続ける。罪を償い蕩減する為に生を受けながら、逆に罪を加算するなら生まれてこなかった方が良かったと言う事になる。真の父母に出会えた事は祝福意外の何ものでもないが、悲しいかなその祝福の意味が解ってはいない。受けた事の意味を解ろうとせず、もらえるものは何でももらおうとの思いであれば、我々と乞食と何処が違うのだろうか。乞食の寄せ集めに食べさせ、語り、任せ、そして報告を受けられる。乞食が乞食であるなら与えれば与えるほど更に求めるものだけれども、今までの歩みを見る限り我々はまさしくそう言った類の群れに違いない。乞食として集まったとしても、孝子、孝女と生まれ変わって父母を証し出来れば、御父母様の面子も立ち良き種から良き実を結ぶだろうけれど、厄介者以外の何物でもなければ御父母様に取っては取りすがる悪霊に等しいかもしれない。時にその心情を吐露され、時にその不甲斐なさに激怒される。それすらも砂に水を撒き続けるようなもので、その想いを受け取ることができずに口を開けたまま立ち尽くす。御父様の心情次元に程遠い我々が、御父様の願いに応える事ができるとするなら、この生命を賭するしかないのだろう。首を綺麗に洗って差し出す決意をするしかないのだろう。信仰もなく実力もなく差し出す何ものもない私は、この生命この肉体すら本来与えられ、使う事を許されてまとっている訳だけれども、お借りしたものを返す事でしか捧げられるものは何も無い。自分の手からでなく、誰かの手で鉄槌を振り下ろされればそれをありがたく思い、そうして殉教した聖徒達の心情次元にだけでも精一杯届くことができるように、その覚悟だけは固めていける我々でありたい。2013,1,13.摂理完遂の日、神と悪魔すみ分けの日、XDAYでありD-DAY、そして成約聖徒にとっては結果責任を取る日であり裁きの日。