2010年12月29日水曜日

今日の想い 237

枝が踊り、幹が揺さぶられるほどの強風が一昼夜続いた後、朝にはやっと落ち着きを見せて所々に青空も確認できる。大気の底が強風でかき回され、よどんでいた空気は新鮮なものと変えられる。目には以前の状況と変わらぬ同じ景色が広がっていても、明らかな異なる環境圏に様変わりしている。目の情報だけで大方の判断をしてしまう癖を直さない限り、内的霊的目はいつまでも閉じられたままだ。暦が天暦にとって変えられたことで、明らかに異なる時代霊が宇宙を統治する。縦的な時間軸にみる数理原則が変えられ、数理を動かすことで下される神様の権能を見る。2012年の閏月を中心として、地上的12数を押さえつけ、全体を飲み込んで消化される。環太平洋逃避城時代の出発は海が全てを飲み込んでしまい、環太平洋地域の非難区域が残されてそこから新世界が出発する13数の権能を見るD-DAYだ。2012の映画で印象付けられ、陽暦2012年12月22日というマヤ暦が終わるその日を終わりの日として注目しているけれど、恐らくその日は何も起こらないだろうし結局何も起こらなかったと人々はまた日常に埋没するだろう。しかし神様は生きた真の父母を通してD-DAYに向けて特命を下される。生きた契約の箱である御父母様に背くのであれば国は審判から逃れられない。アベルUNのそれぞれの特使に国の命運がかけられることになる。今の時点で起こりうることの詳細を見届けることは出来ないし、するべきでもないだろう。真の父母を受け入れさえすればD-DAYは希望の日以外の何ものでもないからだ。強風が吹き荒れることでよどんで生気を失っていた大気はその息を吹き返し、今朝は異なるエネルギーで満ち満ちている。異なるエネルギーは問題の視点を変えることでその威力を発揮する。抱え込んでいる問題を自分流に解決されることに執着すれば、新しい時代の力は私を押さえ込むものでしかない。

2010年12月28日火曜日

今日の想い 236

私が恐れて心配しなければならないことは、生活がどうなって生活基盤を置いているこの国がどうなるかとか、2013年に向けて社会や世界情勢がどうなるかではない。更に、DーDAYを中心として何が起こり何が私に降りかかるのだろうかと心配し浮き足立つことでもない。私が恐れて準備しなければならないことは、如何なる状況に置かれるとしても天の道理を揺らぐことのない私の道理として行動できるかどうかであり、犠牲となり供え物となるその時に、イエス様の公的精神を受け継いだ者として振る舞うことができ、更に御父様の血統に繋がれた者として天情に徹した中心が揺らぐことがないだろうかということだ。私が恐れて心配することは私自身だ。その時その場で私が本物がどうかを私が見ることになる。見物人や証人となる者達の多くの視線の中なのかも知れないし、誰一人として周りには居らず天と私だけがその場で証人になるのかも知れない。誰もが自分が証人となって最後の審判を迎える。人間である以上最後の審判を迎え、誰一人逃れることは出来ない。生きようとする者は死に、死なんとする者は生きるというみ言葉が万民に成就する。審判は誰にも訪れるけれども、その場でふるいにかけられて生命の木に向かうのか、逃げてサタンの死亡圏に落とされるかを理解してるかどうかは人による。その中に死亡圏に堕ちていくのだと認識しながら審判を迎えて逃げ惑う者達もいる。み言葉を戴きながらみ言葉の本質を受け取れず、常に御父様から何か貰えるものはないかという姿勢で信仰が実を結んでいない者達だ。み言葉を知り、御父母様を知った者達は或る意味恐ろしい立場にある。霊的刃を懐に持っている。それはサタンに向ける刃ともなり逆に自分自身を死に至らしめる刃ともなる。私達は流された多くの血と積み上げられた恨の土台の上で存在している。イエス様の流された血と恨であり、四千年歴史を四百年で蕩減すべく殉教で流されたクリスチャン達の血と恨であり、そして御父母様の血と恨の土台の上で存在している。刃を何処に向けるのか、その心積もり一つで存在の土台を完全に無きものにしてしまうかも知れない。償うことだけに生まれて、千回万回殉教の道を辿るとしてもそれでも償いきれない罪が残る。

2010年12月27日月曜日

愛の本流

愛を愛として受け取ることが出来ない、受け取ったものに愛を見ないから、愛が動機となる愛する行動、為に生きる行動として生活行動が為せないでいる。大洋に海流という流れがあってこそ海が活きた海となり、生物を誕生させ育んでいる。そのように宇宙には愛の本流が流れていて存在の全ての根源となっている。堰き止められ滞っていたものを宇宙的な流れとして、あまねく循環すべき愛の本流として通されたのがイエス様だ。更にその霊的愛の本流を、霊肉の愛の本流、即ち真の愛の本流として通されたのが真の御父母様だ。人間に於いても私個人の人生の実りであれ、家庭の実りである子供の繁殖や成長であれ、社会や世界に発展発達をもたらす仕組みや技術の実りであれ、そこには或る流れがあって、その恩恵を受けて活きた人生となり家庭となり社会や世界となる。愛の本流の中に私は存在しているという認識や実感、そして愛の本流から支流として愛を周囲に流して与えていく愛の分配器であり愛の増幅器として生きるという観念、真の愛を生きる愛の哲学が個人や家庭であれ社会や国家世界であれ、活かされ実を結び循環して私自身に返ってくる。与え続けること、為に生き続けること、流し続けることで愛の本流から外されることはないし、更に新たな愛の循環経路を創造してもいく。愛の本流にはその流れの中にエネルギーの根源としての宇宙の真理が生きて働く。愛の支流にはその流れの中に様々な叡智や知恵が生きて働く。真の愛の本流の中で生きる者が真理の全てを相続し、溢れて尽きない叡智や知恵で理想世界建設の旗頭となる。私が惜しまず流して与え続ける愛の存在となれれば無尽蔵に愛は私に流れてくる。血統転換された意味は、堕落圏の偽りの愛の流れから抜け出て、宇宙に流れる真の愛の本流に移籍した自分だということだ。

2010年12月21日火曜日

今日の想い 235

日本語脳なので未だに英語で説明されても入ってこないのだが、人権という言葉だけがトーンを上げて響いてきた。人権。それは何か日本食口の私にとって聞きなれない言葉であり、蕩減の歩みとして私に人権があり要求もできるという発想もなかったし、人権で護られる以前の僕の僕として、その立場が絶対服従だと教えられたのかそれともそういう空気でそういうものだと思い込まされているのか、人権という言葉には疎い。確かに拉致監禁の問題が人権問題であることはその通りだ。しかし随分以前から問題はあったのに敢えて正面から戦うことを避けてきたのにはそれなりの訳があるだろう。それは外的にもそうであるけれど内的にも理由がある。外的なことを言うなら摂理が要求するものが優先され急がれ、その問題に関わる余裕も無かったと、おそらく当時の責任者は言うはずだ。もし関わろうとするなら責任分担も果たさずにという白い目で見られただろうし、事実それどころではなかったはずだ。内的なものを見るなら、日本の在り様としてひとりひとりの自主性はなく、全体の意志に殉じて生きることが即ち信仰でありみ旨であった。それが私的なものであれ公的意識からであれ、自分の感情や考えは全体の前に屈するべきだった。日本食口がその意識でまとめられていたからこそ、それほどの実績を供えることもできたのだろう。しかし影の部分は確実に取り残され積まれていく。それは全体として流されるままにされてきた日本の血であり未だ癒えぬ戦いの傷だ。逆に人権を主張する雰囲気や主張できる体質が備わっていて、ここまで一枚岩となって実績を供えることが出来ただろうかと思うと、首を傾げる。全体の犠牲的傷みがあるように、兄弟それぞれにも深い傷みを負っている。代表姉妹が公的犠牲とされて御父様に認定して戴いたのであれば、日本の食口それぞれの深い傷みも必ずや覚えて下さり労いの想いをかけて下さるだろう。僕の僕から這い上がって来ながら、今人権という輝く言葉を口に出すことを許された。何度も人権という言葉を力強く口にされるのを会場の隅で聞きながら、何か身分不相応なものを頂いている様な、勿論私個人の人権についてのことでは無いにしてもどう受け止めるべきか戸惑っている。

2010年12月20日月曜日

今年のクリスマスを前にして

十字架の摂理は二次的な摂理であり、生きて勝利する摂理が完全に閉ざされた為、他の選択の余地がイエス様にはなかった。しかしサタンによって奪われるイエス様ではなく、最低限の救いの選択をかけて、自らを捧げる決意と覚悟をイエス様が自分の意志でされたと理解しなければならない。しかし十字架の摂理を選択すれば、あまりにも残った者達が天に負債を負ってしまう。確実に歴史を通して用意されてきたイスラエルが滅び、ユダヤ教徒に悲惨な末路が残される。イエス様が十字架を選択する上での多大な禍根が残ることに対してのゲッセマネの祈りだ。ゲッセマネの園で血の滲む闘争的談判祈祷は、残される者達の背負う負債をも思われ、彼らの痛みに対する心痛をも含めた祈りだった。苦杯を飲まざるを得ないのですかと天に問い詰める祈りの意味は、死を飲まざるを得ないということではなく、救いの摂理として霊肉を引き裂かざるを得ないのかと言うことだ。霊肉を中心に地上天国天上天国を完成しようとするみ旨を捨て、肉的世界を切捨て、霊的救いのみを残す道を覚悟せざるを得なかった。多くの者達は人間イエスとしての悲惨な生涯への個人感情を呼び起こし、同情する私が信仰の基となっている。しかしながら原理を知った立場でキリストイエスの本質に迫ろうとするなら、ゲッセマネの祈りに於いても、ゴルゴダへの道を進まれる時も、陰から見ている弟子を振り返られる時も、更に十字架に臥されて晒される時も、自分について弁明されたり愛の眼差しを供えない他への批判判断をされることは一度たりともなく、公的位置に迷い無く殉ぜられた在り様に私も続こうと思わなければならない。御父様のみ言葉に、イエス様は死の友だったので死を早める時にも死を意に介せず、恩讐の為に死ねる余裕の生涯を生きられたとある。為に生き、為に死なれたイエス様を仰ぎ見る自分の位置から、イエス様の在り様を受け取ってイエス様を兄弟と思えるほどに私の生き様を公的なものとしなければならない。教会から十字架を下すように指示されたのは、十字架からイエス様の本当の姿をイメージされずに、同情であったり悲惨さであったり示された愛とは別様のものを受け取っているからだろう。弱弱しい憂いを帯びたイエス様をイメージしているとすれば、それはイエス様ではなく別物だ。今年もクリスマスがやって来る。誰よりもイエス様を身近に感じるとすれば、この一瞬も為に生き公的に生きようとする意志を強くしていくことだ。

2010年を振り返る

今年も逝ってしまう。去年の暮れは年を送って迎える気持ちの余裕もなかった。重いものを抱えながら、これで新年に迎え入れてもらえるのだろうかと、自分だけ置いて行かれそうな気持ちだった。今年はしっかりと気持ちを整理して新年を迎えようとは思うけれど、陰暦と言う時代霊がまわり始めたので、陽暦の締め括りをどう言う感情で送ればいいのか戸惑っている。今年に何が私の中に残り、何を刻んで来たのだろう。時間だけが早送りされたようで、やはり自分は時間に足並みを揃えることが出来ずに、乗り遅れたまま来たのかも知れない。縦的時間に取り残されず着いて行こうとすれば、果たすべきものを確実に結果として残して刻印しなければ、時間のギアは私のギアに噛み合わずに残されて行くのかも知れない。急がれている摂理のそのままに、時間は容赦なく流れ、時間を牽引しておられる御父様は最後のダッシュをかけておられて、私との距離は増すばかりだ。そうだ。私達はこのことに気付かなければならない。着いて来るなら来て、来ないなら好きにしなさいと言う言葉を口にされたのがどうも気にかかる。勿論着いて行くべきでしょう。しがみ付いてでも着いて行くべきでしょう。でも私のギアが空回りしていないだろうか。確実に噛みあわせて着いて行こうという意志のギアを備えているだろうか。皆が同じ堕落人間だと変に安心していると、取り残されることになる。今までそうだったように、あれもできないこれもできないと言うのであれば、ギアは外れている。近い将来はっきりとした階級の差が人間の間に於いても見出されることになるのは、容易に想像できる。心情の隔たりが外的要件にも現れてくる。

2010年12月19日日曜日

ヒエラルキー (階級)

鉱物、植物、動物、人間、と言ったふうにはっきりとした存在の階級がある。地上世界に於いて階級があるように霊界に於いても階級がある。今年八月に語られたみ言葉に天使世界はその立場まで行けなかったとある。低次の鉱物から高次の人間まで、植物の立場まで行けなかったのが鉱物であり、動物の立場まで行けなかったのが植物であり、人間の立場まで行けなかったのが動物である。そして実体を持たない霊的世界に於いても、天使の立場まで行けなかった霊的存在の階級が幾つかあり、そして天使世界は実体を持って相対を持ち得る人間の立場まで行けなかった存在だ。人間は完成して結婚し父母となってこそ人間という階級の完成であって、神様と一体となられた父母が実体を持たれた神様となって天使世界の相対理想の創造を解決していく。時間的流れから見れば逆とになったと言えるかも知れないが、実体を持たれた神様が本来の創造位置に立たれると言うことの方が正しいだろう。しかしその前段階に於いて堕落が生じる。天使長はアダムとエバが頂点であり中心的存在として最後の存在だとは知らずに、自分が最後だと思った。天使世界より後に創られたが、天使世界の弟妹の位置ではなく、完成すれば天使世界を主管する位置として創られたことを知らなかった。知らなければ教えればよかったと思うのは魂存在、実体存在、自由な存在の人間と同じだと認識しようとするからそう思えるのであって、階級の違う動物に対して、どうして知ろうとしないのかと言っているようなものだろう。御父様は多くの隠されていた霊界の真実を理解できるものとして話される。最近のみ言葉の難解さは地上的認識とはまるっきり違う、霊界認識の難しさにある。十分に理解できる時代圏となり私達の理解も高まったと判断されて語られる。上記の解釈が正しいかどうかは別として、動物や植物のいろんな種族の種を並列的に撒いて創造していく、天使世界霊界も恐らくそんな感じだろうと思うのは大間違いだということがわかる。

2010年12月18日土曜日

今日の想い 234

人類を地球村に住むひとつの家族であり、神様のもとに皆兄弟だと言われれば、その通りだと誰しもが思う。しかしただ思うだけで兄弟として接し、兄弟として行動するわけではない。自分の中でぼんやりとした理想はあるにはあるが、他人としての認識で満足しているのに理想を追う理由がないからだ。教会に最初に足を運んだとき、お互いをさん呼びではなく兄や姉と呼び合うことに新鮮さを覚えた。食事を共にし寝起きを共にしお互いの内情まで分けながら、血の繋がった兄弟以上の兄弟関係があったし、その兄弟の一員になりたかったのも献身のひとつの理由だった。今思うと気恥ずかしくなるほどに兄弟誰もが純粋で、その純粋さだけでみ旨に邁進した。生活の上で原理非原理というすみ分け感情が分別という言葉のなかに組み込まれ、自らに問うこともなくそのすみ分けを受け入れ浸透させていたのも純粋故だった。純粋という瑞々しい魂が信仰を受け入れみ旨に走りみ言を伝えようとした。共産主義に心頭していった多くの若者も、この純粋な魂がお互いを同胞と呼び合い共産革命に走らせている。方向性は違うけれども両者とも同じ魂のステージだったと言うことだ。お互いに共通するその感情魂は初恋に似ている。訳もわからず惹かれ心を焦がしていく。しかし初めての恋心に酔いはしても酔いはやがて醒める。酔いが醒めてしまって惰性的に歩む期間が続いてきたが、そこからが本当のみ言の力を受け取れるかどうかだ。惹かれるという感情に動かされて兄弟になるのではなく、兄弟意識を私から創り上げていく。創り上げていく力、即ち兄弟として愛する力は私がどれだけ愛されているかの認識に依る。私が本当に愛されていることを知って、信じて、実践しなければ愛の力は出てこない。復帰された当時の教会の兄弟感情を懐かしむのではなく、家庭に於いても教会に於いても、そして他の人々や職場に於いても、私が湧きいずる愛の源となることを願われてもいるし決意もすれば、愛の源泉の源泉である御父母様から与える愛の何倍をも受け取るだろう。今日の行う事柄に、対する人々に、愛する想いを混入させて、神様のもとの人類一家族、ONE FAMILY UNDER GOD の言葉が私の内面で日増しに生気を溢れさせれば、自ずと善霊を呼び寄せ、善霊は人々を惹きつける。

2010年12月17日金曜日

時間を考える

霊界を否定し、あるいは無視して地上生活に没頭するなら、たとえ社会の規範に合わせて道徳的に生きるとしても、方向性が常に個人的なものに向かう。道徳らしきものは個人を保障する限りに於いて意味を為すものであり、道徳がより為に生き、より高次の公的私となるよう成長させることは無い。地上生活にのみ没頭するなら、それは極めて平面的な生であり、平面的な見方であり感受であり思考でしかない。御父様のみ言葉が難解なのは、私の生が未だに平面的なものであり、立体的な御父様の見方や感受や思考にはついていけないからだ。平面的であるということは内的生活が道徳的領域を脱していないか、超えてはいても平面が厚みを持っているに留まっている。平面という横軸は把握できるが縦軸である縦的なものを捉えることができないでいる。横的縦的という言葉はみ言にも良く出てくるが、その本質を捉えてはいない。空間的な意味での縦的という認識でしかない。縦的なものは時間的なものだからだ。平面の生を立体の生にするという意味は、空間の生から時間の生に重心を置いて生きるということだ。今の現代人に取って、時間は流れるものでしかないのであり、時間の本質を知って時間を生きることを知らないししてもいない。肉体による生活に重心をおいて生きていれば、いつまでたっても新しい次元が開かれることは無い。空間的に自分の位置を知る以上に、時間軸で自分の位置を知らなければならない。空間に於ける授受ではなく時間に於ける授受が必要であり、空間世界に求めるものがあって探すのではなく時間世界にこそ求めるものがあり見出せるものがある。空間世界に神様を見出そうとするのではなく時間世界に働くものを通してより神様は見出される。御父様は血統の重要性を説かれるが、空間世界横的世界では親でも子でも誰もが兄弟として認識される平面世界であって、親としての認識や先祖としての認識、そして人類始祖や神様まで、時間世界縦的世界の把握なくして血統の意味はわからない。親なる神様であるという感情も本人はわかっているつもりでも本当はわからない。

2010年12月15日水曜日

イスカリオテのユダ

表情には出ない目配せを遠目に伺う者達に送ると、おもむろに近寄って主にキスをする。キスという行為を最低に貶めて悪魔への印籠を渡す。十二弟子のひとりにユダがいる。十二弟子は十二に分けられる人類全ての象徴であり代表だ。ユダがイエス様の前に現れたとき、既に近い未来に生じる事件を見通しておられた。本人はわからずともユダが採るであろう行為を見越しておられた。人類全ての救いが主題であれば、救いの圏外に置くべき人間があろうはずがない。或る意味ユダに象徴される人種は群れから最も遠く離れた羊に違いない。ユダを救うためにはユダが差し出す毒杯を受けざるを得なかった。それによって人類全ての救いが棚上げされてしまったと誰かが判断するとしても、愛を打算の僕にすることはキリストの選択の中には一欠けらもない。ユダが背負うものを全ての人類が多かれ少なかれ背負っている。裏切りのユダが私の中に生きている。それを認めずしてはユダを断罪することも出来ないし、イエス様の愛の本質を問うこともできない。ここにひとつの伝説がある。或る父親がお告げを受けた。息子が生まれたら不幸をもたらし父を殺して母と結婚する。その父親はそれを受けて生まれた息子をカリオテ島に捨ててしまう。カリオテの女王には子供がなく、捨てられていたこの息子を引き取った。しかし後になって女王に子供が生まれる。引き取られた息子は実子に対する愛の減少感からこの子供を殺してしまう。息子はカリオテ島から逃げ延びてパレスチナにあるピラドの宮殿に行き着く。宮殿の職を得て暮らしていたがある日隣人と喧嘩になりその隣人を殺してしまう。その後その隣人の妻と結婚する。そして驚きの事実を何処からか知ることになる。殺した隣人は実の父であり、妻は自分の母であることを知る。お告げはその通りとなった。彼は悩み後悔してやがてイエス様の元にやって来る。そしてイエス様は彼を受け入れられた。彼はカリオテ島のユダ、即ちイスカリオテのユダという人物だ。イエス様が十字架刑に処せられたのにはユダの裏切りと切り離せない関係がある。ユダの裏切りはユダの背景とも切り離せない関係がある。人類の全ての負の運命をかかえて産まれたユダは、苦悩の境地を内的にも外的にも歩み、裏切り者の代名詞として今も生き続けている。キリスト教国家アメリカでありながら、近親間の交わりの現実が少なからずある。何でもありの世の中だと言い放って、安易にユダの負の運命を背負わされていることを知らないでいる。神様は人間が悪魔より恐ろしい存在であることを知っておられる。朝に神様の御前に跪いて悔い改めの涙を流したかと思うと、夕には悪魔の片棒を担いでいる。善と悪の狭間で私の内のユダが顔を出す。言い訳という銀貨を払って悪への橋渡しを内なるユダが取り仕切る。

今日の想い 233

湿気を殆ど帯びない粉雪が強い風に舞い上がり、水銀灯のオレンジ色の鈍い光を僅かに浴びて、陽の届かない闇の底で踊っている。半時間もすれば薄い陽の光が届けられるはずだが、低く沈んだ灰色の雲が垂れ込めて、闇が腰を重くしているのを幸いに、闇に踊る霊がその姿を現している。雪にもいろんな表情がある。光の霊が雪をまとうことで光の本質を表すこともあれば、闇の霊が雪をまとって闇の本質を表すこともある。私の中の良心が母神の笑顔で私を慰め慈しむこともあれば、鬼となって私を苛ますこともあるように、、、。この良心を友とし師とすることを決意しようとするなら、自由を取り上げられてしまうと思ってかまえる。良心の前に立ちながら、私は自由を抱え込み手放そうとはしない。この自由への執着が、ルーシェルから受け継いだものとして血の中に流れていることを知っている。しかしそれでもX存在として生きる為には自由は必要なのだ。生きる為に自由が必要であり、しかし自由への執着が私を地の底へ引きずり込みもする。確かに私は自由の使い方を知らないでいる。自由が創造をもたらすことよりも、自由が自己中心的な意志に使われてしまっている。太陽の陽を見ることは今日はないだろうと諦めて、暗いうちに裏の開き戸を開けると、出てきた私を脅すように強く冷たい風が粉雪を私の頬に投げつける。それに構わず朝のうちにやるべき事をひとつひとつ確認する作業に意識を向けはしたが、寒々しい光景から学ぶものを受け取れずに重い感情の中から抜け切れないでいる。大きな飛躍には大きな試練が伴う。試練の中に飛び込む勇気を備えた者だけが、飛躍の為の翼を手に入れることができる。その道理がわかっていながら私はあいも変わらず躊躇する。水に飛び込まなければ泳ぎを学ぶことが出来ないのに、水に飛び込まないまま泳ぎを学ぶ方法を探している。訳のわからない私のこの恐れが諸悪の根源だ。確かに願いを受けてみ旨に向かおうとすれば、必ずといっていいほどこの恐れが顔を出す。この恐れの正体を暴いて立ち向かうことを、遠い過去から背負ってきた蕩減すべきものとして私は負っている。

2010年12月14日火曜日

内界と外界

昼は光の中で行動している。夜にも時代の恩恵が明るい光をもたらし、その中で行動している。生活そのものが、光に溢れている外界が当たり前でそれに依存したまま存在している。外界の情報のみに身を委ね、内界をないがしろにしたままで生を送っている。この外界から、光と言う光全てが途絶えた状況を想像して見るといい。完全な闇の中に投げ出されたら普通の人間は発狂する。普通の人間は外界にこそ足場があり、内界の闇は外界の印象で誤魔化したまま生きているから、いざ外界が閉ざされると存在の為の位置を見失う。外界に生きることで内界にどれだけ光を届けられるかを問われている。外界に光源である太陽を頂いているように、内界の光源をしっかり受け取らない限り、霊界に赴いても薄暗い狭められた周囲のなかで呼吸もままならないままでうずくまるしかない。人それぞれの信仰対象が内界を照らす光源には違いないが、太陽のような恒星存在ではなくカンテラかせいぜい電灯程度で、その強さはそのまま霊界生活の霊の呼吸、即ち愛の呼吸に影響する。イエス様がもたらした愛が、更に真の御父母様がもたらした真の愛が、どれほど内界を明るくし、息を吹き返し、活動範囲を広げるかを知れば、私にとって御父母様の存在がかけがえのないものであることを悟る。更に私達は光を受け取るだけの存在ではなく、星々という恒星存在になって光源体として光を照らす存在となる。太古に於いて神々に近付ける道は二通りあった。ひとつは外界のベールを越えて神様に近付く道であり、今ひとつは魂の奥に下って霊界への領域を超えて神様に近付く道だ。そして外界の先へのベクトルと内界の奥に向かうベクトルとは真逆であると認識していたものが、行き着く先がひとつの同じ神様であることを知った者達がいる。内外のベクトルが円としてひとつに繋がることが認識できれば、外界の印象の中に内界を見、内界に生じるものが外界に現れることが解る。そして私の周囲に起こり社会に見聞することや宇宙に起こること全てを、私の内界の何処に見出すことが出来るかを問いながら生きていく。隣人の事柄や全ての事柄が、他人事ではなく密接に私に関わっているという認識で、為に生きる哲学を導き出し、為に生きることで私の内面に更なる光を届ける。

2010年12月11日土曜日

Bの歌

最近、訓読会の場ではよく日本食口にBの歌を歌わせておられ、御父様御本人も歌っておられる。万物復帰全盛のおり、ある兄弟が作ったマイナー調の曲で、テンポを早く歌えば前線に於いて鼓舞する歌となる。御父様がこの歌の何処に琴線を触れるものを見つけられたのかは良く解らないが、私はこの歌を耳にしたり口ずさんだりすると、何ともメロウな気分になりはっきり言って気が滅入る。心はとっくに折れてしまっているのに、それでも体を引き摺って前線の毎日に漬け込まれた当時の心境が、否が応でも感情として滲み出てくる。吐き気さえ覚えるその感情はトラウマともなり、寝苦しい時には必ずと言っていいほどその感情に羽交い絞めされた万物復帰の状況を夢に見て、目が覚めると嫌な汗をかいている。恐らく霊界に行けば癒されぬこの想い(重い)が私を引き摺り落すのだろう。私に取ってこの感情は涙と共に流せもせず、正面から向き合うことが出来ない心の痛みとなっている。歌のメロディーの最後はフラットが消されて幾分明るい調子になり、希望がその先にあるかのように終っているのだが、私にはその先に希望的感情が待っているとはどうしても思えなかった。訓読会の映像で姉妹が前に出てこの歌を歌い、歌詞の書かれている紙なのか御父様も手にされて目をそれに落されている。私はその映像を辛うじて見続けることができた。あらゆる忌み嫌う感情が放出されそうになるのを嫌な汗をかきながら取り押さえた。それから目を逸らせたら御父様は私の御父様ではなくなってしまうように思えたからだ。その後何の思考も始めないように意味も無く動き回った。暫くしてやっと落ち着いたとき、この感情を消化しない限りは全てに於いて影を引き摺るのだと思った。

2010年12月10日金曜日

今日の想い 232

御父様は御孫様に侍られる。御父様が種ならば御子女様は花と香りであり、そして実として御孫様が立っておられる。御孫様に対しては一段高次の存在とされて侍られる。祝福家庭はサタン世界に於いて御父様の花を咲かせ香りを醸し出す存在であり、祝福子女はサタン世界に於ける御父様の実である。祝福家庭それぞれの氏族圏から見れば祝福子女は氏族圏の王子であり王女で、親の立場で息子娘をどう教育しどのように判断しようとも、氏族圏の王子王女を中心として氏族は再創造される。天に繋がれた氏族圏としては逆の経路となって、私達の親は王子王女である祝福子女の孫にあたるだろうし祖父祖母ともなるとひ孫にあたる。時系列の概念に捕らわれると把握しかねるが、天地が地天になるとはそういうことだ。祝福子女に対しては氏族圏の王子王女として教育する必要がある。サタン世界であるこの世とこの社会が眼前に広がり、別の世界が開けていることなど想像だにしないが、本人が王子王女となって築く氏族の王権が及ぶ世界が開けるし開かざるを得ないだろう。それなくしてはサタン世界を陵駕出来ない。子供にどう接したらいいのか頭を抱える日々が続く現実を否定することはできないが、御父母様が勝利されて全ての救いのプログラムは既に組み込まれている。勿論私達の5%で最短の路程にもなり遠回りにもなるだろうが、どちらにしても天国への道筋には違いない。今の現状や事或る事に感情を乱されず、子供の教育への精誠を供えることに専念すべきだ。生まれたときに奉献式を済ませたのであれば、御父母様が責任をもっておられるのであり、その確信なくしては親の揺らぐ内面を見てしまうだろう。たとえ最悪の状況のように認識されてたとしても必ずや道が残されている。私を含めて祝福家庭の多くが心を痛める祝福子女の問題も、祈って御父様に尋ねて見るなら、御父様は微笑まれて心配するなという表情をされる。

2010年12月9日木曜日

今日の想い 231

既に天と地はひっくり返って真逆になっている。天地が地天になっている。御父様は昨年2009年に行われた戴冠式、金婚式、五十五周年記念式を中心として百十周年の起源を創造された。全ては対になっている。地球に於いては夜と昼が対になり、人間に於いては眠りと目覚めが対になっている。天宙の創造過程に於いて霊の創造が先であり地上世界である肉の創造が霊の創造にタイアップしている。御父様を中心として今までの歩みは霊の創造であり、これからタイアップする実体的な肉の創造に入っていく。それは夜の期間を通過されて昼の期間に入っていくと言うことだ。夜の期間に通過された勝利の布石が、八の時を描くようにタイアップ、相対となって昼の期間を通過されていく。個人個人の救い如何に関係なく夜の勝利の布石がその通りに地上に実体化されていく。個人主義的堕落的な位置に固執すれば吹き飛ばされる。先ず世界が勝利の布石のままに動かざるを得ないのであり、であれば国もそれに合わせざるを得ないし、国に所属するであろう家庭もそれに合わせざるを得ない。よって堕落圏に固執し続ける個人は存在すら否定される。それがこれからの五十五年の意味だ。人間で言えば朝目覚めてこれから昼の一日を送る出発点にあたる。昼の一日の出来事は夜の間に決められている。御父様と共にある教会も、今までは神様と共に霊的創造期間を歩む高次の霊的存在の位置にあった立場から、地上界創造に具体的に関わる創造主としての神様と共に創造に関わる立場を周到していく。そこに夜の神様、昼の神様という言葉を御父様は使われる。霊的イメージとしては認識できない言葉も論理として成り立つのであり、未だに霊的に鈍い私達もせめて論理で理解して、御父様について行く者にならなければならない。堕落的見方は一面的であり、創造過程も歴史路程も直線的時間の流れとしてしか認識できないが、御父様の見方は堕落的なものとは根本的に違っている。勝利され刻印された揺るぎ無いものがどのように地上に実体的に展開されるかを見通しておられる。御父様にとって時間軸の謎は光を充てられて明白なのだ。

2010年12月8日水曜日

故郷について考える

瀬戸内海に面する辺りは、紅葉の時期を過ぎても、未だ色付きをまとった木々が町の並木にも見えるし、洲を囲むなだらかな山々にも見届けられる。しかしバスに乗って北上し、県境近くの山間まで来ると、麓も山も裸の枝が寒々と晒されている。人影もない死んだこの一帯に、主人を失った家々が点々とする風景は、捨て去られ、忘れ去られた虚しさに沈んでいる。この私の田舎の何処に希望があり、何処に美しさがあるのか、それを見出せないと言って誰もが先祖の血と汗が浸み込んだこの村を離れていく。土地整備がされる前はこの地一帯が湿原で、杜若が群生しこの地にしか生息しない動植物も見られたらしい。今では湿原らしいところは猫の額ほどしかない。この村を何とか活性させようと、この湿原を保護したり、範囲を広めようとしたり、杜若の繁殖に手を加えたりと、ここ数年手をかけているようだが、少なくとも十年を超えないと成果は見えてこないだろう。しかしそうなってどうなると言うのだろう。日本のいろんな過疎地で人目を惹こうと躍起になっているが、日本中が総観光地化しても意味は無い。私を含めてここで生まれ、ここで育った者がこの地を愛せないと言うのがそもそもの問題だ。産まれ故郷は私の存在の原点だ。私が存在する意味はこの原点に返らない限りは見えてこない。存在の原点を否定してしまって、喜びを求め幸せに暮らしたいと思うのは存在の矛盾だ。善いも悪いも私を私たらめたものがそこにある。私の意識できない本質がその地に産まれることを選び、そしてその地のあらゆる内外の環境圏が私を育てた。この地の人々に共通する、引き受けて蕩減し欠落したものを取り戻す命題があり、過去の路程で復帰されて取り戻したものがこの地の人々の在り様にどう反映しているのかも解ってくる。私とこの地が繋がれた宿命的なものがあることを悟るなら故郷に背を向けることはできないはずだ。この地を捨てずに生き続けた両親を見るなら、この地の蕩減を背負って生活し、この地の恵みに護られて生活してもいる。この地を捨てた者達はこの地とこの地に生きる者達に大きな負債を負っている。誰もが環故郷しなければならない。もつれにもつれた糸を解こうとすれば、逆の経路を辿りながら解いていかなければならない。私という霊的にもつれた存在を解怨して、神様の元に帰っていこうとするなら、血筋である先祖を無視することは出来ない。先祖とは切っても切れない故郷も無視することは出来ない。先祖を解怨すればするほど、故郷を無視することは出来ないはずであり、そこを目隠ししたまま神様に帰ることができる、或いは本郷の地は韓国だと言うのは少しずれている。

2010年12月7日火曜日

或る従業員について

数年前に国に帰ってしまったが、その従業員は女性ではあることは間違いないのだが、形状的にも性相的にも非常に男性に近いものを持っていた。個人的な事柄なので深く尋ねることはしなかったが、女性でありながら女性に惹かれる自分を持っていることは雰囲気でわかる。私達の認識として男性は男性らしく、女性は女性らしくという頭があって、更にホモやレズに対しては鉄槌を振りかざすような言葉を吐いておられるのでそういう類の人々に対しては受け付けないものがある。しかし贔屓目なしに彼女は良く働いてくれた。二十五年以上レストランに関わり、総計数百人にも上る来ては去る従業員の中で、私の中での従業員としての彼女の点数は満点だった。私の言葉に率先して従い、その行動が実に自然で何の遣らされ感も受け取れなかった。客に対しての応対もテキパキとしており、更に天性の明るさや魅力を備えているようで、一度彼女のテーブルサービスを受けると彼女に会いたくて店に足を運び直ぐに顧客化される。そのサービスセンスたるや魔法の域に達するのかと思えるほどで、でも飲食店であるからサービスと言っても或る程度決まってくるし他のサーバーと変わりないように動いているものの、それなのに客の心を一瞬で引っ掛ける。私は実に感心した。日本のテレビ番組を見ても最近その類の人々が目白押しで、よく観察していると傷つけるような言葉を受けてもうまく抱擁し、逆に相手を打ちのめし感を与えず嫌味なしに屈服させている。ピュアと言う言葉を一般的な意味で使うなら、彼女達というか彼らは実にピュアな存在だ。そして共通しているのは普通の人以上に霊的であるということだ。霊的存在を見たり聞いたりしている。天使に会ったとか妖精に会ったとか、そんな普通人からすれば不可思議な体験をたくさん持っている。御父様が話されているように神様は天使世界に女性は造られなかった。この世で結婚できない者しない者が天使の相対になるというようなみ言葉をどこかで受け取ったような気がするが確かではない。しかし彼らが霊的感性に富み、天使に会えると言うのなら相対基準を立てられると言う事でもある。彼女はタイ人であったが彼女のサービスの天性には明らかに天使の協助が伺える。今年も一度訪米した折に店を訪ねてくれたが、相変わらずの子供のような振る舞いと笑顔は健在だった。

統一的夫婦

食口の多くはみ旨ゆえに夫婦離れ離れに暮らす場合もあるが、私の場合実に感謝すべきことだが、家庭を持ってからずっと一緒にいる。たまにこうして数日離れていると、視界の中に彼女の存在を認める時とは違った別の発見があったり、相手に対して向かう想いや相手から受け取る想いを、頷けるほどにはっきりと純化されて、内面に味わうことが出来たりする。隣にいれば皮膚の輪郭をまとう相手を、見る側からも本人の思い込みの輪郭を相手に嵌めて見てしまっている。外的に唯物的な把握しか出来ないように、内的にも凝り固まった変わらない把握しかできない。相手に対する内的霊的認識に柔軟性をもたらすことができれば、僅かな変化の芽も見逃さず、そこを賛美するなり刺激するなりしながら大きく変容させることができる。人間は柔軟に変わるのだ。変わらないのは勿論本人自身の課題もあるけれど、周囲の、特に夫や妻の、思い込みの輪郭を相手に嵌めてしまっている場合が多い。お互いが馴れ合いになってしまって、相手に対する関心も新鮮さも湧いてこないなら、時間的にも空間的にも少し距離を置いてみることも、より近付いて一体化する為には必要だったりする。どんなにジタバタしても、どんなに一人で生きることが出来ると粋がって見ても、夫婦でひとつ、ハナであることは紛れもない事実だ。夫婦でハナであるから夫婦でひとつの呼吸をするのであり、夫婦で前面から向かい来るもののひとつの本質を二つの目で見れるのであり、夫婦でこそひとつの目標地点に左右をうまく使って歩いて進むことが出来る。私は大いに反省すべきなのだが、家庭に於いてこれが正しいと私だけが言い張っても相対が認めなければそれは正しいとは言えない。正しいという言葉は夫婦二人が認めてこそ初めて言える言葉なのだ。夫婦や家庭に対する概念がこの世のものとは根本的に違うので、この世的秤で相対を判断しているうちは夫婦としての出発点にすら立ってもいない。夫婦が一つになることで、両目をそろえて見えるものがあり、両耳をそろえて聞こえるものがあり、両腕両手をそろえて掴めるものがあり、両足をそろえて進める世界がある。夫婦が一つになることで始めて呼吸ができ存在できる次元世界が開けている。

創造性

神様が創造されたように人間も創造すべき存在なのだ。供えられた創造性を働かせることで人間の意志活動が為されていると言える。創造は真の創造であり、善の創造であり、そして美の創造だ。創造意欲を掻き立てることと為に生きることとは同義のはずだ。人間に取って、御父様は宇宙に備わっている私達の知らない真理を示して下さったと言う認識以上に、御父様は新たな真理を創造されたという認識の方が正しいと私は思っている。御父様は真の父母を創造され、真の家庭を創造され、真の愛すら創造されたと言える。真の愛という概念も認識もかつて無かったのであれば、真の愛と認識されるものを新たに創造されたと言っても決して過言ではないはずだ。御父様が真と名の付くあらゆる概念を創造されたように、その真の概念をもって私達は善の創造を為すべきなのだ。御父様は私達に対してこの世的善悪の基準をもって測られることは無いと見ている。私達が判断する善であるか悪であるかを超えて、”御父様の真”に殉じた善の創造が私達の務めとは言えないだろうか。善の創造を善の追求と言い換えてもいい。そして為に生きるという言葉を受けて新鮮さに欠けるなら、心情に身を焦がすと言い換えてもいい。御父様が私達を苦労の上に苦労を負わすのは、天の心情を私達の胸のうちに燃やすべく苦労の痛みを恨として覚えさせ、そこから生じる噴煙の衝動こそ善の創造の力となる。だから私達食口にすれば御父様の名の元の苦労こそが最大の宝なのだ。そして宝の持ち腐れではなく、善の創造の力、或いは美の創造の力でもいいが、創造性を発揮してこそ祝福を受けた人間として証を立てることができる。

帰郷

帰郷するたびに潰れそうなあばら家を見て胸が痛くなる。元々が安普請の上に七、八十年の風雪に曝されたまま今に至り、その間何の手も加えてはいない。年々老いが進んで小さくなっていく両親を目にするのも胸が痛いが、それと同じくらい傾いた小さなあばら家は見るに切ない。二人が寝起きする一部だけでも改築できないだろうかとも思うが、細い柱で建てられた崩れそうな家は改築という選択は無さそうだ。老夫婦であってもここで生活しているから何とか家の原型を留めてはいるが、空き家にでもなれば三月と持たないだろう。良くも悪くも住人の老いがそのまま家の状態に反映されていて、この潰れそうな家がそのまま二人の姿に違いない。ガタは来ているがそれでも生き永らえている。恐らく新居にでも移転すれば肌に合わなくて一変に体を壊すだろう。着慣れた服でこそ落ち着くように、どんな状態であれ住み慣れたそのままの状態が二人に取ってはベストなのだ。思い出や記憶の中にこそ夫婦や家族の生きてきた証しが見出されるのであり、そしてその殆どがこの住んでいる住居と切っても切れない関係にある。思い出や記憶に取ってはこの住居に血が流れ、神経が張り巡らされている。田舎だからそんなに立派に構えた家は何処にも見当たらないが、それでもうちの家は他のどの家に比べても月とスッポンだ。便所は未だにおつり式で昔の厠特有の臭いに包まれ、窓も壁も隙間だらけ穴だらけで、ストーブを切れば忽ちに霜が降りる外側の冷気と同じ部屋の状態になる。今回寝起きした数日の中で、風が朝まで吹き止まぬ日があったが、家が一晩中ギシギシガタガタと音を立てて一睡も出来なかった。そんなお世辞にも整った環境とは言えないが、それでも二人は今のところ大病もせずに動いている。指し当たって手をかけるほどの金銭の余裕もないし、心配をかけまいと黙っているだけなのか親の口からどうこうしたいということもないので、取り敢えずは柱の一つ一つに頑張ってもらうしかない。この冬、せめて大雪に見舞われないことだけを案じて、後ろ髪をひかれながらも田舎の家を後にした。

2010年11月25日木曜日

今日の想い 230

み言に相対するには私はあまりにも基準が低く、み言への橋渡しは私には届けられない、そんな気分のままでみ言に対すれば訓読はしても理想像を見るに留まる宗教的憧れでしかない。み言が私の中で作用し、私を目覚めさせ変革させるためには、み言が他の誰でもない私について語られているものであることを知って実感する必要がある。人間は霊的にも無知に陥ってしまったから、私自身の存在に対してあまりにも知らな過ぎる。堕落して限られた意識の光を届けられるところまでしか存在を認めようとはしないし、極端な者は見えるものしか認めようとしない。霊と魂の区別も、違いもわからなければ、それらの存在すら否定してしまって自分という存在を何一つわかってはいない。み言、特に原理のみ言は私自身について書かれている私を知る真理だ。汝を知るという根本的表題を掲げた時、自分はどういう存在でどのように創られたのか、自分はこの肉体の中で生きているけれどどう規定されているのか、そして自分は何処からどういう経路を辿ってやってきたのかと言う、三つの根本的表題を上げることができる。一つ目の表題に対しては、創造原理は外なる宇宙に関する真理以上に、私がどのように創造されたのかについて記されているのであり、二つ目の表題に対して堕落論は私が罪を抱えて規定されているのは堕落したからであり、様々なシガラミや超えられない壁の正体を見破ることができる。そして復帰原理は歴史の結実体である私とあるように、私に至るまでの救いの摂理の経路が記され、それは私の血の中に刻印されているのであり、遠い昔の異郷の地で起こった関係のない物語の原理的解釈ではなくて、三つ目の表題を解決する今の私として積み上げられた私の経緯を紐解ける。私の血の中に堕落から始まる全ての路程の失敗も勝利もしっかり刻印されているのだ。原理に精通すればみ旨が外の出来事だけではなく、外界と私の内界宇宙が見事にリンクされていて、私という天宙の復帰であり私という天国理想の完成であることを現実として生きるだろう。

O、X の話

理解するのが難しい御父様のお話の中にO、Xの話がある。潮の満ち干きの水の移動がXの形を取りながら為されることを例に挙げられながら、それは地球の呼吸とも言える潮の干満がXの形を取っていると言うことだ。その意味で人間の呼吸もXの形を取っていると言えるのかも知れない。”平和の主人、血統の主人”を見ると、(8の字を描きながら)O とXの基準に全て合わなければならないとあって、8の字を描きながらのXと言うことであれば理解できなくもない。現代の人間は存在する為に意識と無意識の間を行ったり来たりしている。意識とは目覚めている状態を言い無意識とは眠りの状態を言う。目覚めている間は地上生活を意識しているけれど、眠りの間は無意識の状態で霊界に赴いて生きるための生力を受け取っている。地上界と霊界との境界線を接点に、丁度原理で霊人体、肉体を図式説明するように8の字を描きながら存在している。8の字の交わった一点を目覚めの出発点とするなら地上界に時間を追う毎に深く入っていって8の字の最下点が正午の位置、下水平の位置であり、夕刻を経て眠りに着く点が目覚めの出発点と重なってそれから霊界に登っていく。完全な深い睡眠に埋もれれば人間として辿る事が出来る最も高い霊界の位置、即ち上水平の位置で安らぐ。そして目覚めに向けて地上への接点に向かっていく。このように8の字を描きながら存在している。腹中時代は水を呼吸するXの存在であり、肉体人間として空気を呼吸するXの存在であり、人間存在そのものとしても地上界霊界を跨ぐXの存在であり、恐らく全ての存在様相が8の字を描きながらのX存在なのだろうと言うのが私の仮説だ。勿論仮説は仮説であり崩され得る。

ワシントン ニューヨーク大会

どこまでも澄み切った空を思わせるような照明に演出された舞台は、アベルUN全ての国旗が演壇を囲むように立てられ、聴衆の気分を盛り上げている。世界会長の登壇を含む祝辞が何人か続いた後で、会場を木霊する大きな拍手に迎えられながら、御母様の手を引かれて中央に進み出られた。壇上に立たれた御父様は今一度の拍手のうねりに身を預けられた後、会場の三階席の奥までしっかりと見届けられると口を開かれた。年寄りの話を聞くようにと前置きされれば、恐らく誰もが年下だろうから自然と素直に聞く態度を持つだろう。その言葉は重くもあるけれど、祖父が孫に接するような暖かさで聴衆を包み、誰もが笑みを浮かべざるを得ない御父様ならではの魔法の言葉だ。一瞬でその場を主管され、衣擦れの音すら止んだ静寂が訪れると、講演文を高らかに読み始められた。朗々と鳴り響く御父様の声音を会場の奥の席で浴びながら、この御歳であられながら本当に元気な御様子を嬉しく思うと、霊界もそれに頷いて賛同し、霊達の喜びも合わせられ私の胸をつく。並み居るお偉方を御自分の子であり孫であると認識しておられるから、𠮟り付ける様な言葉も態度もそのままぶつけられるし、険しい顔を見せられたかと思うと急に相好を崩され、満面の笑顔でひとりひとりに入り込まれる。これが御父様流の真の愛なのだなあ、短くない年月を御父様に従って歩んで来た兄弟達も同じように接し同じように包み、どんな位置にある人々もそして人類全ても同じ親の愛で包み込まれる御父様なのだなあと、感慨深かった。配られた講演文には載っていない言葉の中に、大変重要な指示もされ、起源節までの具体的な指示事項として宣布され打ち込まれた大会であり、霊的にも地上的にも祖国韓国への大きな流れが具体的に進められることを理解した。最後にその出陣の銅鑼を力強く叩かれ、先陣の旗を掲げられた。折りしも北朝鮮からの砲撃が23日の午後二時半だから、米東部時間では23日の零時半だ。相前後して起こったことは決して偶然ではないはずだ。

2010年11月24日水曜日

今日の想い 229

月曜日の作業を急いで終え、それでも午前十一時はまわっていた。順調に行けば途中休憩を入れて4時間丁度で対岸、NEWJERSEYには着く。しかしマンハッタンに入る為には海底を抜けるリンカーントンネルを走らなければならない。その料金所に向けて車は殺到し、遅々として進まない車のごった煮の中で優に三、四十分はもみくちゃにされる。だから近くに着いてパーキングに車を預け、会場マンハッタンセンターに開演半時間の余裕をもって向かおうとすれば、五時間半から六時間を見なければならない。家を出たのが十二時近くだったが、それでも何とか焦らずに運転できる。どんよりしていた朝の空も昼間には晴れ渡り、今日の道中が護られていることを感じた。長時間の運転も全く苦にはならなかった。後の心配は妻の体調だが、今日一日ぐらいの緊張は何とか保てるだろう。後々数日間、バランスを崩すのは目に見えてはいたけれど、勿論その犠牲を払っても余りある参席であることは本人もわかりきっている。貧血で、緩やかな坂ですら手こずるような身体を少しでも休ませようとシートを倒し寝せて行かせた。最初に予定されていたのはDCからNEWYORK、それからLASVEGASをまわられてソウルで終えられるということだった。しかしDCの大会は無くなりNEWYORKから出発されることになった。それでも講演の中でワシントンニューヨーク大会と敢えて強調されておられたので、御父様の中でDCの大会が無くなった訳ではないだろう。DCからの動員も相当かけられた。案の定すり鉢の底に入り口のあるリンカーントンネルまでのとぐろを巻いた道路は身動きが取れず、トンネルに行き着くまで小一時間はかかってしまった。抜けるとマンハッタンの出口は天に届くビルに囲まれていて、何度この島を訪れても必ずと言っていい何とも言えない不思議な気分を味わう。着いた時は入り口近くだった列も、半時間もしないうちに長く太く膨れ上がった。七時近くになってやっと会場のドアが開いて、太い列を為していた人の群れがマンハッタンセンターに飲み込まれていく。その中の一人二人でしかないが、歴史の頂点の瞬間を見届ける数え切れない霊達の目となってそれぞれの席を確保した。

2010年11月21日日曜日

今日の想い 228

人間は本来あらゆる次元を跨いで生きる存在だ。堕落してしまってあまりにも物質体という次元に深入りしすぎてはいるけれど、私という存在を見たときに肉体もあれば生命体や心魂体もあり、物質界だけではなく生命界や心魂界に生きてもいる。そして堕落人間が意識できる圏外にある更に高次の世界が、幾重にも広がっている。多次元にまたがり感知できる肉体、生命体、心魂体、更に霊人体をひとつにした私という存在体は、あらゆる次元の反射体の役割をしている為に、それぞれの次元を感知できる。五感以外の、それらの未だ曖昧な感性を開いて研ぎ澄ますためには、修行によって肉的なものを除去することで五感を弱め、相対的に他の感性である霊性を意識に上らすことで別次元への開眼をなしてきた。しかしそれは同時にこの世から距離を置くということでもある。厭世的な在り様が人間の在り様としての願いではなく、あくまで神様は天宙の統一、霊界と地上界の統一を願われているのであり、地上を厭世するのではなく地上を復帰しなければならない。霊性を備えて地上を新たに再創造しなければならない。堕落の血統とは関係のない御父様を地上にいただき、地上界再創造の摂理がなされ最後の宇宙的瞬間を迎えようとしている。五感で受け取るものはまったく変わっていない様で、宇宙という入れ物がそっくり変わっているために、堕落圏とは関係のない地上世界が発生する。人間が霊性を開くことが出来れば今変化している全てを意識的に捉えることができるだろう。本質的な宇宙全体、多次元全体に於ける変化を認識せずして、肉的五感と唯物的な思考感情意志の心魂のままでは、次元の波を察することも出来なければ泳ぐことも出来ない。風呂を嫌がる子供のように、恩恵と祝福の波が押し寄せても逃げ惑うことしかできない。

2010年11月19日金曜日

自由性を考える

祝福を受けたからといって私と言う様相が変わった訳ではない。先祖解怨を受けても私と言う様相は直ぐには変わらない。その意味するところを理解できずに受けるものは受け、貰えるものは貰っておこうとするけれど、その態度は常に受身でしかない。私が変わるのであり変わらなければならないという発想はなく、周囲が変わってくるだろうし環境が天国化してくるものだと信じている。正しくは私が変わらなければ周囲は変わらないし、私が天国をつくらなければ誰もつくらない。たとえ天国が周りに出来て私がそこにいるとしても、私は相変わらず私と言う地獄の中にいる。祝福も先祖解怨も、その意味を知り価値を知るためには、そしてそれを実現し体現するためには、私が供えるものを用意し、私が恨みを解き愛さなければ何も起こらないだろう。私が受身であり続ける以上堕落圏から抜け出ることはない。神様は人間に自由性を与えられた。神様は胸をかきむしりながら、神様自身が自らを拘束して手も足も縛りつけて堕落するアダムとエバを見届けるしかなかったのも、自由性を第一に考慮されたが故だ。堕落に手を差し伸べれば人間は自由の存在ではなくなる。神様は人間が自由性をもって神様のおられる故郷に帰ってくれることを信じておられる。私に対しても、私の自由性をもってみ旨を歩み天国を内にも外にも創ってくれることを信じておられる。私の自由性とは私の能動的な態度にある。誰かから貰おうとする受身ではなく、私が与え、私が創り、私が私を救うのだ。神様でもないまして他の誰でもない私が先祖を救い私が氏族を救うのだ。み言を通して私は天国を明確に見せられている。恵みも祝福も全て備えられている。しかし私の態度は御父様に対して、私はここに座っていますからお父様どうか天国をここに持ってきていただき、恵みも祝福も御父様の手で食べさせて下さいと言っているようなものだ。それが当然なら私に自由性は必要ない。人間である必要もない。神様に対して私は歩く動物でかまわないし親なる方も必要ないと言っているにすぎない。私は能動的であってこそ、神様が子としての人間に与えられた自由性がどれほど尊いものかが理解できる。神様があごが砕けるほどに歯を食いしばって耐え、御自身を縛り付けられてでも護られようとされた人間の自由性の尊さがわかる。

2010年11月17日水曜日

今日の想い 227

許可が出て久方ぶりに帰って母と話したとき、母は私にこう言った。いい時代に生まれて楽しいこともたくさんあるだろうに、どうして一度しかない青春を犠牲にするのか。母の口からこんな言葉が出てくるとは思っていなかったが、確かに傍目から見ればそう思えるのだろう。青春を謳歌するとはサタンに身を委ねることだと、み言に触れた当初は信じて疑わないし、周りは無知であっても私は生きることの意味を知っているという誇りが私を前進させた。しかし青年期を超え人生のUターンの時期を過ぎると、誇りゆえに押え付けていた感情が頭をもたげてくる。苦労と思えるものは積み重ねてきたけれど、その投資に見合うものを見出せないでいる。そして無いものばかりを数えながら、虚無感がどんよりした空模様のように私を覆う。一生懸命勉強して入学は果たしたものの、目的観を失って五月病にかかった学生と同じだ。しかし本当の信仰路程はそこから始まることを、長く歩んでいる兄弟なら知っている。使命と誇りに突き動かされた期間は信仰の為の基台作りだったことを知っている。九数から十数に入って新たなステージに入ると、受動的信仰観から能動的なものに変化する。私の五感で受け取るものだけでなくあらゆる体験を、私を主体とする対象として捉えることができ、それらはその本質を私の霊の目に表す。今まで見えなかったものが見えてくる。対象ゆえの愛おしさ美しさで私に迫ってくる。今まで外的な事柄を現実として受け取っていたもの以上の現実性を備えて、対象の色彩溢れる感情を体験している。そういう新たな発見は、新たな信仰ステージに依るものだ。絶対信仰への道は新たな次元世界の発見であり、自分からすれば開拓だ。

2010年11月16日火曜日

今日の想い 226

全ての存在は形あるもの無いもの、内的なもの外的なものに関わらず、核を中心として回転することで存在を存在足らしめている。あらゆる存在は主体を中心として対象が球体を描くように回転し、その主体はより主体的存在に対して対象となり、そのより主体的存在を中心として回転している。ちょうど月が地球の周りを回転し、地球は太陽の周囲を、そして太陽は銀河系の中心を軸として回転しているように、大きなギアに合わせながらより小さなギアがはめられて大宇宙の中に組み込まれている。私達は堕落した故なのか、そういった存在様相を機械的イメージとしてしか捉えられないけれど、主体と対象の関係は愛でこそ成立しており、素粒子、原子に於ける存在も愛であるように、この大宇宙も愛によって存在している。宇宙の時空間はどの一点をとっても愛に満ち満ちているし愛として時空間は広がっている。宇宙を意識するとき機械的イメージを捨てて、神様の愛で充満している気分を育てるほうが宇宙の本質に合わせようとしているといえる。主体である核を中心とする対象は、主体対象一体としての球体上の円運動軌跡を取りながら存在特有のリズムを取り音色を奏でている。或いは主体と対象が円運動という存在特有の舞を舞っているとも表現できる。それぞれの存在がそうであるように、太陽系としての太陽系交響曲が鳴り響き、宇宙全体として神様を中心とする大宇宙交響曲が演奏されている。しかしながら如何せん堕落したことによる不協和音、不協和リズム、不協和ステップが堕落人間としての様相であり、不変であり永遠を否定する暗黒の死の極致に堕落人間は突き進んできた。私が堕落と関係のない完成したアダムを見出し、対象として回転することで、私は始めて存在としての光を灯す。縦横の神様がひとつになられた天地人真の父母を主体として戴いて真の血統に繋がれ、真の生命の灯が灯り、真の愛に包まれて、そして初めて宇宙の揺りかごの中で憩う。

今日の想い 225

摂理は急がれている。急がれているからこそ、しっかりと根源に繋がれた私を捕らえておくことは最も重要だ。為すべきことは山ほどあるし、差し迫った期限を提示されれば誰も焦る。しかし焦る思いに駆られてやれと言われた言葉を闇雲に胸のうちに響かせても、行動には焦る思いばかりが付着してしまって、復帰に対する御父様の想いが垣間見えるほどでも見出せるだろうか。摂理の途上で手を付けてきた事案は数え切れないほどだが、その中のひとつでも満足できるものとして御父様に報告できただろうか。やれと言われれば取り合えず手を付けるだろうし、それを願われてもいる。しかし中途で他のやるべきことも加算されていくだろうし、そうなればいくつ身体があっても足りないと思えるような外的表面的覆いでしか摂理を見届けることはできないでいる。そこに込められている願いや心情が行動の中に埋め込められ届けられねばならないのに、ギフトを入れずに包装用紙でくるんでしまって贈るような、そんな摂理に対する私達になってはいないだろうか。時を経るほどに願いは膨れ上がり、特に祝福の世界化から始まる摂理要求は把握できないほどの数値が責任として被さってくる。無理だという認識で意志はフリーズし、周りを見回しても誰もやれていそうでない状況に安堵してしまって時は流れていく。私は外的な事柄だけに翻弄されて心情の復帰、愛の復帰が私の中でなされていない。接するひとりひとりを愛する対象として認識しているか、それともくるんだ包装用紙だけを与える存在とだけ認識しているのか。愛する対象なら自分の全てを犠牲にしても与えたいと思えるはずだし、それで初めてその人に対して復帰と言う言葉が生じるはずだ。氏族復帰を今一度願われているけれど、私の中に氏族への愛が備わり高まって、彼等の為には何も厭わないと思えるほどであってこそ復帰と言う概念が私にも生じるし、祝福先祖を中心とする霊界にも植えつけられる。

2010年11月13日土曜日

今日の想い 224

信仰が強要されたら、それは信仰ではなくなる。私は意志の自由性をもって信仰にいたる。子供の頃の私の周囲は、仏事であるとか神事であるとか育った環境が宗教的慣習に囲まれてはいたけれど、その環境によって信心の芽が吹いて信仰が育った訳ではない。宗教、哲学に対して関心はあったものの、関心だけに留まっていて帰依に至る河を越えることはないと思っていた。何回か原理講義を受けながら、やはり理解はできるけれど心魂の内側に入るまでの事は無いだろうとも思っていた。心魂への扉が開いたのは、復帰原理の同時性の講義を受けた時だった。悟性による理解で帰依に至る河まではいつも足を運ぶことはできる。いつもはそこまででそこから踵を返していたのだが、その時何の加減か河を渡る橋が突然下ろされた。私の内側でカチャッという鍵を開けるような音がして、不安や疑心の全くない感情に包まれ、信仰を持つと言う言葉を初めて理解した。それ以来、み言や御父母様に対して不信を抱いたことは全くない。しかし信仰にも段階があって、御父様が願われる絶対信仰に至っているかどうかは常に問わなければならない。1600年代、イエズス会によってもたらされたキリスト信仰も、現代のクリスチャンの在り様とは大きく異なる。個人の意志の自由性が芽生えていない当時、キリストに帰依することは自分は罪人で地獄に落とされるという恐怖観念が信仰基盤になっていた。おそらく私と言う個人の路程に於いても、意志の自由性からではなく恐怖観念からくる意志への強要が働いていた時期もあったし、それが段階として必要だったのかもしれない。そこを通過しながら自由性を獲得し、絶対信仰への足掛かりにしてきた。キリスト教が布教されながら、しかしその一方で、クリスチャン大名と言いながらもその実情は鉄砲や火薬の代価として、日本から多くの女子供の奴隷を送っていたりした。私も自由と平和の地上天国を標榜するみ旨でありながら、歩みに於いては摂理から外されてサタン圏に堕ちていく恐怖観念が私の意志を強要し、み旨だと言われれば何でもありに少なからず加担してもいた。

2010年11月10日水曜日

晩秋に想う

天を仰いで青い空を見渡せるほどに、木立の中の見通しはよくなっていた。木々の葉が頭上を被い、日差しは直接地表には届かなかったものが、今は干からびた枯葉が地表を幾重にも覆って、晩秋という祭りの後の寂しさを演出している。数日前の秋雨に打たれても、又その後の強い風に煽られても、それでも契りを固くしたまま木々に残っているものもある。鮮やかだった装いも、身を焦がすだけ焦がして色褪せてしまい、それでも枝にしがみ付いて空の青の向こうに届けるものを準備している。春に芽を出して緑の葉となり、夏に宇宙の愛の陽光を存分に受け取れば、秋には宇宙に届ける霊的果実が残される。秋の彩りこそ木々の精霊達の霊的果実の表れだ。枯葉としてナキガラは落ちて土に溶け込むけれど、光を霊的実りに昇華させた木々の精霊は、宇宙にその実りを届けに行く。私はこの眼で枯葉の舞うのを見ながらも、霊的な眼はしっかりと精霊の生命の光として、蛍が群舞するように宇宙に舞い上がっていくのを見届けなければならない。高台から見渡せる木々に覆われた大地から、精霊達の生命の優しい光がのぼっていく。詮索や疑問の欠片も抱かず、宇宙の摂理への一片丹心な献身が、精霊達の本性だ。あらゆる謀(はかりごと)を複雑に絡ませ、霊的垢をところかまわず振りまいて生きている人間は、彼らに対して顔を上げることすらできないだろう。恥ずかしくて恥ずかしくて消え入るしかないだろう。秋の自然は高次の霊界に深く関与しながら霊的実りをささげている。晩秋の自然のナキガラだけに意識の光を充てるなら、私は秋の本質を受け取ることはない。

2010年11月9日火曜日

今日の想い 223

人間の中に満たされない器がある。それは愛の器だ。満たされない器が魂の渇きとなって、貪る愛を探しながら闇雲に触手を広げようとする。私の周りには偽りの愛がありとあらゆる誘惑の腕を伸ばし、空ろな視線で私をいざなう。耳に心地よいものがあり、目に優しいものがあり、触れるにやわらかいものがある。愛の減少感からくる慰みへの衝動は、手っ取り早いそれらに身を委ねることで満たされ、愛ならぬ愛は私の内側に滑らかに浸透してくる。愛に餓えている。誰もが愛に餓えている。それが偽りであろうが何であろうが、愛なしには生きられない。愛の呼吸なしには生きられない。大気の海の深みの底で、愛とはいえない愛を、感覚人間、感情存在として奪い合い貪りあっている。その場その場の感覚を満たすことに躍起になり、一時的な感情を満足させることだけに一日一日を費やすなら、私は魂を肉界のみに曝しているということだ。精神の存在から肉心の存在に堕ちたままでいる。イエス様の前に悪魔があらわれ、世のすべての国々とその栄華とを見せて、私を拝むならこれらのものを皆あなたにあげましょうと誘惑した。そのように、私の周りに霊が集まって取引を提案する。私は愛の枯渇した自分の魂を全ての漂う霊に曝しながら、そして霊は様々な慰めの対象を私に差し出す。私の慰みを欲望する自己愛としての執着に引き付けられて、霊達が慰めを持ち寄る。その場で取引は成立する。私は悪霊を拝み、悪霊は慰めを差し出す。毎日のありとあらゆる場面で霊との遣り取りがなされている。私の意識下に於いて、或いは目を逸らすことに慣れてしまい無意識に目を逸らして、霊との遣り取りがなされている。満たされない器を偽りの愛と偽りの霊で満たしてきた。満たすことだけに囚われて満たした内容のおぞましさには目を塞いできた。神の宮となるべき人間がおぞましい汚物の器となっている。

2010年11月7日日曜日

今日の想い 222

兄弟は世間から見れば奇異に映る。特に日本はそうだ。もっと社会に受け入れやすいスマートな外部への接触は出来なかったのだろうかと思うけれど、復帰された当時の自分を振り返ってみれば無理だとわかる。今にして思えば急な私の変わりように親は相当面食らったはずだ。親にしてみれば子の変わり様が如何にも何かに取り付かれたように思えただろう。八割がたの兄弟は親にとって素直で優しく真面目な、そのまま変わらずにいて欲しいと思える子供だったはずだ。手に負えない子が信仰をもって変わるのなら受け入れられるだろうが、変わってほしくない子が変わったことが、親に取っては受け入れられないのだ。先ず目が泳いでいたらしい。今までは同じ眼線で接触していたのが違う空を見ているようで、親の側にあった心が何処かに行ってしまって心ここにあらずという感じだったという。更に今まで生活の中で使っていない言葉が会話の中にのぞいてくるし、祈ってみたり断食までしてみたりというような行動変化も目に付き始める。親に対処する為の上からの指示事項や提案なのか、それを鵜呑みにしてしまって今までぞんざいな言葉遣いだったものを急に改めてみたり、気持ち悪いほどの親への気遣いだったり、果てには親に啓拝まで捧げて肝を冷やさせる。こちらとしては善しとしての行動が親にしてみれば余計に奇異に映っていく。原理が正しいかどうか、御父様がメシアなのかどうか、そんなことは全く関心がない。愛の拠り所だった我が子が変わっていく、肌から同じ匂いを分泌していた我が子が違う香りを放っている。それが親を初めとする家族には受け付けられなかったのだ。今私達には氏族復帰という願いが目の前にある。ここまで乖離させてしまった関係を今度は修復して繋いでいかなければならない。そんな高等な作業が今の自分にとって難しいことは解りきっている。家庭はおろか自分でさえも主管できないのに、それで出来ると思えたとしたら御父母様とみ旨に対する不遜だ。私に対する神様の御計画があり、私の家庭や子供に対する神様の御計画があるように、氏族に対しても神様の御計画があるはずだ。それを教えてもらって理解できる程の内的霊的器は私にはない。神様の御計画があることだけを信じて、私はそれから逃げ出さずにひたすら必要な精誠をそこに打ち込んでいけばいい。他に何がなせると言うものでもない。神様の御計画のなかに生きて、そのコマ送りのひとつひとつに精誠を打ち込み続けることだ。それ以外ない。少し熟慮してみれば、知恵の無かった復帰された当初の幼い行動も、それはそれで精誠条件として光を放ち、神様が取られて私の復帰に対する計画が進められたのだろう。

2010年11月5日金曜日

預言書

マヤ暦は2012年12月21日で長期暦の区切りを迎える。この時期は人類滅亡を初めとする数多くの予言が目白押しだ。御父様も天暦2013.1.13をD-DAYと定められて、マヤ暦と二ヶ月位の差はあるもののこの辺りに何かが起こるであろうことは容易に予測が付く。シベリアの凍土からマンモスが原型に近い形で発見されたことがあったが、胃の内容物には殆ど消化されていないものも認められたように、地球の突然異変によりその地で急速冷凍がなされた事実が証明されている。長い年月のスパンをもって海面上昇や地盤沈下が起こるのではなく、ある日突然人類が虚を突かれる形で大変動が起こる可能性は否定できない。新しい天と地という言葉を口にしておられるように、言葉として受け取られるそのまま、新しい地が誕生するかも知れない。EASTGARDENで語られた”平和の主人、血統の主人”は御父様の預言として語られたみ言だが、平易な言葉で語られているにも拘わらず、何十回と頁をめくっていっても読み解くことが難しい。それでも頼りない霊的感性を働かせ、言葉言葉の中から外的な起こりうる事柄に光を当てていけば、微かに浮かび上がるイメージがある。それは地軸の移動だ。それは話し言葉の中に内的霊的比喩として捉えられるような仕方で見事に織り込まれながら示されている。鍵になる箇所のひとつは地球は本来の自転とは逆周りになっており八の字を描いて本来の自転に戻されるという指摘だ。地球を覆う大洋は遠心力の影響で赤道が一番潮が高くなっている。地球を経線上に断面すれば中心点から緯度零度への半径が最長の楕円形を描いている。時計回りに戻す為に今の地軸が大揺れすれば自転と太陽、他の惑星との引力との関係で大洋は牙を剥く。2012の映画の場景が現実となっても決して不思議ではないだろう。そして次に気になる箇所はハワイに関して話された所だ。ハワイが摂理上の重要な拠点であることは兄弟誰もが知っているが、ではどうしてハワイを事の他重要視されるのだろうか。更に環太平洋時代、そして逃避城時代と言及されたこと。この意味することは何だろうか。海には資源が無尽蔵にあって海を制する者が全てを制するのはその通りだけれど、それだけだろうか。”ハワイ島が海底からは一番高く、太平洋が満水になったら残れる島はハワイしかない。” その言われ方にも含みがあるし、海底からの高さが問題になるのは大洋が揺さぶられたり赤道地域の海水が他の地域に移った時だ。”日韓トンネルを掘れば中国からハワイまで自由に陸地のように往来できる。ハワイは海洋圏北緯二十三度、南方を中心として境界線になっており、南北までも私が全て連結させハワイさえも通せばどこにもすべて行けるので、天下万国が通ることのできる道がすべて開かれる。そうなればベーリング海峡とハワイ島を中心として旅行することができる。” 陸地のように、、、とされているけれどハワイから通じる陸地にならない限り、太平洋の真ん中にある限りはこの言い方は不自然に思える。GOOGLEEARTHを見ればハワイ島からカムチャッカ半島に向けて海面には出ていないが丘陵が走っているのがわかる。この辺りが地軸移動で赤道から遠ざかれば地球の天橋立になるかも知れない。その他にも海のないネバダに触れられて、”あなたの腕(ネーパル)と私の腕(ネパル)、あなたの海(ネーバダ)と私の海(ネバダ)が一つになるので青い所が動くのです。” と話された箇所など暗示的な言い回しをされた箇所が幾つか浮かんでくる。神道系の予言にあるような地球規模のお清め、箱洗いがD-DAYを前後して起こりうるかも知れない。

2010年11月4日木曜日

冷たい過去がよぎる 2

昨日までの晴れ模様が夢の世界だったと思わせるほど、朝暗いうちに目覚めれば窓を打つ雨音の冷たい印象が内面の暖かさを奪っていく。パステルブルーの空が広がっていた世界から、冷たく重く暗いあの当時の印象に沈む私が今日という日の現実世界だ。日本での苦労と言うのは、愛を受け取ることができずに戦う苦労だ。愛されていると言われ続け、自分にもそう言い聞かせながら、それでも愛を受け取ることが出来ずに戦う苦労だ。こんなことを口にすれば信仰を疑われかねないだろう。公的な位置では決して口にしてはならない言葉のはずだ。それでも個人としての嘘偽りない気持ちとして、吐露すべきことがある。この思いを綴ることで、離れていった兄弟達の心の闇に届くものがあり、やむなく切ってしまった御父母様へ繋がる糸を再び繋ぎ合せることができると願っている。親を知らない子供を遥か遠くに持つ親がいて、それ故に親の周りに集っている子供達をそこにやりながら彼らを救おうとされる。それがどれほど困難を強い苦労をさせたとしても、それでも親は全ての子供を救う為に、周りを思い遣る余裕もなく子供を命令し押し出すしかない。近くにいる子供を存分に思い遣るためには全ての子供を救わざるを得ない。十分な愛を受け取れないまま子供が自分の感情すら封じ込めてしまっても、それでも命令しなければならない親がいる。親の想いもわからず命令するがままに動く子供を見るとき、親は何を胸に抱えるのだろうか。日本の食口であれば愛の何たるかが解らなくても、死ねと命令されれば死ぬだろう。冷たく重く暗いものを抱えながらも、それでも使命に殉ずるだろう。それを見る親は居た堪れないはずだ。御父様の日本の食口に対する想いはそうであると思う。日本の食口を想う御父様は、胸の内に痛みのくさびを深く深く喰い込ませておられる。

冷たい過去がよぎる

単純な物言いを覚えて、家々を回りながら復帰していく。少し立ち止まって考えようとすれば忽ち体は動かなくなるので、馬鹿な風も装いながら歩んだ。しかしただ装っていたつもりがいつの間にかそうなってしまったという笑えない話だ。その当時の生き残りの兄弟にたまに出会ったりするが、戦友のように肩を抱き、目頭を熱くして再会を喜ぶというより、何か顔を見合わせるのが気まずい風で、お互い目を伏せ知らなかった会わなかったことにしておこうとする空気が流れる。前線での歩みは完全な個人個人の戦いで、内的にも外的にも横の繋がりはなかった。それは私と私の班だけが特別そうだったのかも知れない。私が心を閉じたままでいたから周りが冷たく感じたのかも知れない。縦にも横にも愛で繋がれていると教わりながら、前線では愛したことも愛されたこともなかった。そこで学び訓練されたことは、愛されることで行動を起こすのではなく、愛されない位置で、そして無視された位置で意志を働かせ行動することだ。押し出されて今日の自分に強いるノルマや果たすべきことが、どうみ旨に役立ち、どう自分の成長に繋がるのか、思考する予断も許されず尻を叩かれその日の少ない結果を裁かれた。最もわかりやすい単純明快な数字結果を全てとされることで、様々に入り組んだ複雑な内的背景を問うことを否定させる。主君の影で仕える忍びのように、当時の日本食口には自分の中にも外にも冷たいものが流れていた。冷たい血が流れ冷たい空気が流れていた。堕落人間が愛と言う言葉を受けて表象するものが、偽りの愛に起因するものであるなら、愛のない位置、愛を無視された位置というマイナス位置が、私という堕落人間が復帰されるための最初に立つべき原点だったのだろう。夢見が悪いときは決まって車から降ろされる前後の、死にたいほど苦しい場面が再現され、目覚めても暫くトラウマのような鬱状態が続く。

2010年10月31日日曜日

今日の想い 221

人間の身体形状を見るときに、胴部と四肢は宙である宇宙を形状し、頭部は天である霊界を形状している。簡単にいうと消化器系などの器官系は首から下であり骨の外にあるのに対し、脳神経系は首から上で頭蓋骨や頚骨などの骨の内部にある。頭蓋骨は先端の脊椎が膨らまされた状態であり、脳は脊髄と同じように骨の内側にあると言える。骨を境界として外側が外宇宙であり内側が霊界に通じる内宇宙だ。私という小宇宙は外宇宙と内宇宙がある。外宇宙が胴部と四肢なら太陽にみる恒星的な器官があり火星や木星にみる惑星的な器官もある。太陽の周りを惑星が巡回しているように、血液が心臓を中心として各臓器を巡っている。頭部を形成する内宇宙は心魂の活動領域だ。感覚器官を備えて私と言う太陽系以外の情報を得ながら心魂の活動を為している。霊界の在り様が地上世界の在り様に反映される。内宇宙の在り様が外宇宙に反映される。肉体的様々な症状を抱えているということは内宇宙の在り様に問題がある。心魂の活動に問題がある。人間は堕落することで、神様に繋がる経路を絶たれている。経路を絶たれた心魂は糸の切れた凧状態であって堕落した様々な霊に委ねて活動するしかない。私と言う内宇宙は悟ってみると見事なまでに堕落的中心、即ちサタンを私の内宇宙の中心に置いて活動している。時計が時計としての本来の活動をする為には、中心的ギアが正しく位置される必要があるし、第二ギア第三ギアと順にはめていく必要がある。第二ギア第三ギアが逆にはめられても後に続くギアはそれなりにはめていけるかも知れない。しかし最終的に時計としては動かない。人間の本当の中心的ギアの存在に正しく会わなければならないし、絶対信仰、絶対愛、絶対服従のギアを正しくはめていく必要があり、それで初めて心魂の活動は正しいものとなっていく。内宇宙が正しく存在すれば外宇宙である身体も本来的健康を取り戻すはずだ。御父様は太陽に対して地球の自転が逆周りになってきたことを指摘されている。本来の自転に戻す為に、ある時点で八の字を描くように元に戻されなければならない。宇宙の大変革がなされて地球自転の正常化がなされる。その瞬間を間近に迎えているけれど、私達それぞれが御父様に対して正しく自転を正常化させたかどうかを問われている。信仰年数をどれだけ重ねても、御父様に対する認識を根本から変えない限り、私と言う宇宙は正しくギアをはめられない。

泣ける幸せ

涙を溜めるための涙の器が私の中にいっぱいある。切ない想いは切ない器にひと滴(しずく)ずつ溜められる。悔しい想いは悔しい器にひと滴ずつ溜められる。哀しい想いは哀しい器の中に、寂しい想いは寂しい器に溜められる。器がそれぞれの想いで満たされると、溢れて涙となって頬を伝い落ちていく。笑える幸せがあるように、泣ける幸せがある。ただ笑って人生を送りたいと普通であれば思うけれど、涙を流す体験の中には、別の幸せがそこに隠されている。涙を流してこそ内面に溢れるものがある。内面に溢れるものを心情という。心情はマイナスイオンの塊だ。内的なマイナスイオンの塊が内的なプラスイオンを強烈に引き付ける。プラスイオンである神様の心情圏が引き寄せられる。涙が流れるところに神様は尋ねざるを得ない。泣ける幸せは神様が尋ねてくださる幸せだ。食口であれば苦労につぐ苦労を何重にも重ねてきた。当然この世の人たち程の蓄えもなければ知恵も力もなく、同じ地上を生きてきたとは思えないほどの他との違いを自分に見ざるをえなくなった異星からの浦島太郎だ。だけどそれでいい。病に冒され明日の生活希望さえ失いかねない生気のない浦島太郎でいい。やがて滅びる堕落的なこの世に何の未練もない。私は新しい時代、新しい世界を生きて羽ばたく蝶になる。この世にしばしの間足を踏み入れた浦島太郎は、新しい生のさなぎの姿だ。ゴミと見間違うほど生気のないさなぎから蝶は出てくる。疲れ果てて何も残っていない私だと自分でさえ思っているけれど、私達の中には祝福を戴いて蘇った生命の木が育っている。私の中の生命の木は流す涙でもはぐくまれ、尋ねてくださる神様の心情圏の愛の光でもはぐくまれる。笑える幸せがあるように、泣ける幸せがある。泣ける幸せは新しい私が育つ幸せに繋がる。

2010年10月29日金曜日

朝日に想う

朝日の刻々と昇る様子を顔を上げて対面しながら、私が太陽の力を受け取るに相応しい存在になっているだろうかと問うことが出来る。砕けて言えば、お天道様に顔向けできのるかと言うことだ。東のブラインドを開けると道の向こうの木立の上から、ひときわ円周を大きくした太陽は上っていく。学校で刷り込まれた機械的無機質の太陽概念は捨て去って、感情の波が収まった早朝の内面に、直接朝日の印象を取り込んでいく。その印象に触発されるものが私の中から湧いてくる。魂の中に入り込んだ雑多な霊が私の感情を揺さぶり弄びながら、それに翻弄されてせわしい呼吸を繋いで毎日を送っているが、その位置に神霊が関与する実のある霊の呼吸はなされない。受け取る朝日の印象の中でこそ活力ある実のある霊の呼吸がなされる。高く上り始めればそのまぶしさで直視できない太陽も、朝日のうちなら目を大きく見開いて対することができる。まだ起ききっていない身体を朝日に曝せば全ての細胞に光が届けられて、眠気は消えうせ足はしっかりと大地を踏みしめる。当然のように、意識もせずに光届く朝を迎え惰性的生を送っているけれど、太陽が存在してこそ自我意識が備わり、主体と対象の世界が私の中にも外にも広がっている。主体の位置では主体の役割をしっかり担いながら愛を与えて太陽と同じ位置に立ち、対象の位置では存分に愛を受けて太陽の相対に立つ。それでこそ太陽をめぐる地球の一存在としての地上生活を送っている。毎朝できるだけ朝日を浴びて一日の出発をなし、御父様がみ言を語られ人類の太陽となられて真の愛を照らされるように、私も愛を与えるひとつの光源体となることを願われている。

田舎の秋を想いながら

薄綿のような雲がパステルブルーにたなびき、山々の木々はそんな背景を背に黄金色の衣を装っている。太陽も随分南よりの経路を西に辿りながら、視線の角度とそう違いない位置から柔らかな光を宛がえば、黄金色の衣装は更に金色に輝く。神楽の舞子の衣装を木々に着けて舞わせる様に、金糸の刺繍で浮き上がらせた龍が踊っている。風が渡るに合わせて龍はうねり、山々の表を葉の摺り合う音を立てながら這って行く。去年は重ねて降り続く冷たい秋雨に、色付くのを待たずに打たれてあっけなく枯れ落ちてしまった。今年の秋の見事なまでの色付きを視覚を通して取り込めば、去年と今年の明らかな印象の違いを読み取れる。今年は豊年満作だ。光の中に、空気の流れに、神様や高次の霊的存在達の満足感や歓びが満ち溢れている。視線を落して私の周囲を見回せば、病を始め山積みの問題が相変わらずひしめいてはいるけれど、天が喜び祝いの宴がもよおされているならそこに同参させて頂いて、祝いの気持ちを差し出すべきだ。天が喜んでいるのに私が塞ぎこんだままでいるのはよくない。今年は実体み言宣布を韓国、アメリカでされて、天宙のすべての境界線が撤廃され、天地が神様の統治の下に永遠に存続していく。今日の秋晴れのように淀みも霞みもなく、神様がどこまでもどこまでも見渡せる霊界になったということだろうか。あまりにも無知で御父様が語られ宣布される意味も価値も解らず、立ち尽くして口を開けたままの不甲斐ない私であっても、心からの御祝いの気持ちを供え続けることで同じ立場で同参することができる。神様が喜ぶとき私も喜んでこそ堕落圏から抜け出ることが出来る。田舎の秋の、野山の彩の中で、太鼓がこだまし笛の音が響くあの秋祭りの高揚を、今心の中で再現しながら天の歓びに合わせて舞っている。

2010年10月28日木曜日

更に霊界を考える

霊界がわからないと言う。”私が霊界を背負っている”というみ言を指し示し、霊界は背負えるものなのかという疑問を持つ。”私の中にある霊界”という認識もできなければ、ましてや霊界を背負うという意味は更にわからない。地上的な認識方法をそのまま霊界に対する認識に当てはめようとするから辻褄が合わなくなってくる。五感では認識できない世界が存在することは理解できても、非常に漠然としたものであって地上生活ほどの現実感を持って霊界に対している訳ではない。霊界が主体であるけれども依然として現実性の高い地上界に意識の大半を置いている。私達は私を中心として外界と内なる世界を認識している。外界に於いては色や光、音や匂いなどの感覚体験を持つがその背後の世界を窺い知ることは出来ない。内なる世界に於いても限界があり、快不快、喜怒哀楽、情熱や欲望という魂の営みがあることは感じることができるが、その背後に隠された深層に入り込むことは出来ない。外界に於いても内界に於いても、それらの人間知覚の限界を超えた先に霊界はその様相を現す。私達が外界に知覚しているもの全ては未知なる霊界の顕現であり、内的に知覚する魂の営みの全ても霊的存在の顕現だ。私の魂を舞台にして様々な霊がその本質を現している。外界にも内界にも私の知覚の及ぶ限界があればこそ、地上生活をまともに(?)為して行く事ができている。今の現代人に取って準備無しに感覚世界を超えれば、ちょうど薬で自我を麻痺させ、限界領域を無理にでも超えて幻覚の中に意識を泳がす者のように、自己破滅を来たしてしまう。しかし知覚領域に於いて感覚を粗雑なものにしたままでいるのは、外界に顕された霊的存在の叡智に触れることが出来ず、外界に愛や心情を見ることができず受け取ることも出来ない。外界に対して愛を受け取り愛をもって関わりながら、私の内界という小宇宙を愛で満たし愛で脹らませている。それが生の領域を超えた時に、私を中心とする外界と内界は反転して、培った内的なものが周囲に存在し輝くようになる。その意味で、私は生きている間霊界を背負って生きている。

2010年10月24日日曜日

紅葉の時期に

春の気分として、芽が出て成長する様の中に生命と精神が混然一体となっているのを感じる。それに比べて秋の気分は葉が色付いて枯れ落ちるように、枯れ落ちた地上存在を後にして分離した精神が高みに昇り生命要素は解き放たれるという、精神と生命の分離だ。春に一体となっていた正の位置から、秋の精神と生命の分離を経て、新たな合成一体の種子を作り出す。正分合の作用を為しながら分離されていく精神と生命が、次のステージを生きる種子に刻印していく。春の気分の青年期を経て年を経るに従い、次第に人間の関心は外的肉的生命的なものから内的霊的精神的なものへ比重を移していく。そうしてやがて自らの生命要素を完全に解き放って己の精神は高みに昇華する。色付く紅葉の中に、風に誘われるままに生命の基である枝から己を切り離し舞い落ちる枯葉の中に、青年期を遠に過ぎた私自身が映り出されている。壮年期の私がそこに映り出されており、老年期の私がそこに映り出されている。それを見て物悲しい感情で魂は染まるのか、或いは精神の実りを色付きとして受け取り、静かな晴れやかさで魂を満たすのか、それはひとりひとりの人生をどれだけ誠実に、精誠を込めて、真剣に取り組んできたかによるだろう。この歳にして未だにこの世的なものへの執着を持て余し、分不相応な必要以上のこの世的扱われ方を欲する私には、明日にでも散り落ちるだろうに見事に色付いて己が生き様を燃え尽くした晴れやかさが心に眩しすぎる。季節それぞれの自然の姿を、その内的な意味するところも知らずに年月を重ねてきた恥かしさを、この歳になってやっと気付き始めている。秋が深まりその中に佇むと、燃え立つ紅葉は精神の昇華の色だと認識できる。

2010年10月23日土曜日

今日の想い 220

人間は五感から受け取る印象の中に埋もれながら自分自身を見出せないまま生きている。外界から受け取る情報の全てを遮断すべく五感の触手を消し去られた時、それでも残るものは私は私であるという感覚だ。私は私であるという感覚はあるけれども、その私は一体何なのかを知らないし尋ねようとはしない。五感から受け取る印象を魂に反射させながら、その活動を私だと認識するに留まり、その奥に尋ねて行くことはしない。外的に或いは内的に、何らかの形で人生が特異なものとなり、意識を感覚世界に留めることに疑問を覚えて意識の光を別の世界に向けた者、即ち宗教的に目覚めた者が私の存在を突き止めようとする。私が神様に直結する私という存在であることを、どれだけ認識しているだろうかと私に問わなければならない。伝道され、み言を聞き、御父様を再臨のメシヤであり真の父母だと認め、み旨に歩んでいる私だという認識はあるかのように思える。しかしそれは極めて曖昧なものだと言えないだろうか。日々の現実以上の現実性を供えたみ言であり、真の父母との関係であり、み旨であるのかと問うならばどうだろうか。私の中にみ言的言葉は響いているけれど生活実感以上に響いているかといえば首を傾げざるを得ないだろう。内面に意識の光を更に照らしながら、私と神様との接点をより太いものとし、より強いものとする。私と神様を繋ぐ神経としてみ言を体恤しながらみ旨を歩む中で筋力を付けていかなければならない。私が神様を認識出来ると言うことが、神様が私を認識しているということだろう。五臓六腑や四肢、感覚器官が神経中枢に繋がってこそ完成人間体と言えるように、全人類が繋がってこそ神様の実体として完成されるはずだ。私が神様の身体の一細胞であり一部分であるなら、私は神様の身体のどの部分を築く役目を担っているのだろうか。

2010年10月22日金曜日

ひとつの信仰観

自分などは本来今の世で生きてはいけない部類の人間に違いない。どういう訳か一応責任ある立場に置いて頂いてはいるが、誰かの援助なくしては一日たりとも現代社会の複雑さを掻い潜っては行けないだろう。つくづくそう思う。何をするにせよ単純には行かず、大小の問題が起こる度に解決のための案もプロセスも見通せず途方に暮れ、物事を順序だてて考えることすら出来ずにいる。誰かに意見を求められても、言葉を選び論理だって説明することへの困難に対する不安で緊張し、頷くか頭を傾げるか位が関の山だ。本当に今まで息を繋いできたのが不思議なくらいだ。だから自分に生きる力があり、世間にかけあう実力があるなどと思ったことはただの一度も無い。しかし私にとってはこの自分の無力こそが最大の力となってきた。自分の無力を骨の髄まで認めているから問題が生ずれば何処までも自分を否定できるし全てを委ねるしかない。要するに私の信仰は苦しい時の神頼みそのままなのだ。事実泣き叫ぶままに神様も困り果て、条件もないのでおこぼれを戴きながら息も繋ぎ信仰も繋いできた。悪霊に取り憑かれている娘を救ってもらいたくて、母親がしつこくイエス様と弟子に付いてくる話が聖書のマタイ伝ある。イエス様はイスラエルの家の滅びた羊以外のところに私は遣わされていないと言うと、その女はイエス様に懇願するが、イエス様は子供達のパンを取り上げて子犬に遣るのはよくないと更に言われた。女は食い下がり、その通りだけれど子犬でも主人の食卓からこぼれるパンくずは頂けると言った。イエス様はそこに女の信仰を認めて女の娘は癒された。この聖書の話こそが私の信仰観だろう。御父様は私達を息子であり娘と認めておられる。だからどれ程罪多く、条件も無く、乗り越える力もない私でも、御父様にしがみ付きとことん食い下がることができる。それが私達の救いだ。穢れ果てた糞尿まみれの私でも救われるのだ。御父様はどんな状況であれ私を突き放すことは出来ない。御父様が私を息子と認めそれを翻されることはないからだ。

2010年10月20日水曜日

概念

私達がさも当然のように受け止めていた概念のひとつひとつを、掘り返して今一度み言の光に照らし出さなければ、私の中でより本質に近い概念として認識し、内的建築を創造していくことはできない。私が私として認識している私の概念から始まって、内的な事柄、外的な事柄全てを問い返しながらみ言に照らされて消え失せることなく存在できる概念として納めない限り、頑張ったつもりではあったが振り返ってみると跡形も無く消え失せてしまっているということになる。信仰だみ旨だと言いながら何の内的外的功績も残せずに終えることになるかも知れない。大方のところ堕落世界で培った堕落的概念であり認識が殆どを占めているので、ひとつの概念を何度も何度も掘り返し、その都度み言の光に照らし出してやっと本当の概念に近付いていくことができる。その意味で私は何度も何度も否定されなければならない。否定される度により堕落的なものが削ぎ落とされ、本質に近付いていけるのだと思う。特に職場やビジネス業務に於いて、この世的道理の中でひとつの歯車として埋没し、そこにみ言で照らされる概念を持ち込むことができないなら、堕落的ベルトコンベアーに乗ったままの時間を刻み、堕落的空間を広げているということにはならないだろうか。お金の概念であるとか、売上げや利益の概念であるとか、或いは労働の概念や全ての事柄に関して、み言に照らされてしっかり反射される概念を持ってこそ、真にみ旨に繋がり神霊の神経として神様の意志に通じる歩みとなる。物事に対する私の概念が変わるということは私の思考が変わることであり、思考によって人は組み立てるし創造する。神霊の神経が繋がる概念であってこそみ旨に叶う創造的歩みが為せる。

2010年10月19日火曜日

色彩

彩り溢れた色彩が感情生活を豊かにし、喜怒哀楽を紡ぎながら私の人生を織り上げていく。子供の頃の思い出は特に色彩に溢れている。空の青、田んぼの緑、稲穂の黄金色、そして夕焼けの茜色。子供の私が目にした情景の色合いからその時その時の体験した感情が引き出されてくる。私の中で色合いと感情が繋がっているように、季節が差し出す自然の色合いのなかに宇宙の感情が表現されている。宇宙の喜怒哀楽が自然の色合いを表情としながら私に働きかけている。この世に於いて、吐き出すままにばら撒かれた出版物や映像で人の視覚が占領されれば、集合人間の意図と念が込められた猥雑な色合いで人の魂は満たされる。一時私達は洗脳されたレッテルを貼られたことがあるけれど、私からすれば我々を指差す彼らこそ猥雑な色合いで魂を満腹にされながら、目に見えぬ悪霊に洗脳されている。自然を遠ざけて人間社会という色の洪水のなかに身を置けば、いつしか渦巻く雑多な色合いに魂は浸透されて、自然の色合いに見る宇宙の感情を受け止めることはなくなる。相手の表情からその感情を受け取るように、自然の表情から宇宙の感情を受け取り私の魂が共鳴するなら、宇宙が喜んでいるなら私も嬉しくなるだろうし、宇宙が悲しめば私も涙が流れてくるだろう。その位置で神様を信じるとか信じないとか、み言葉が正しいとか正しくないとか、そんな判断や思考は意味が無い。宇宙の感情に同参し、宇宙の思考を共有しながら、同じ創造理想を掲げていく。神様が喜べばどんな色合いで表現され、神様の悲しみはどんな色合いで表現されてこられたのか。神様が解放されて初めてこれから表情として表される色合いが示されるだろうし、堕落を初めとする神様の過去の悲しみは失意の中で表す色合いさえ失われてこられた。神様不在の死んだ色彩の世界だったものが、生きて働きかける生きた色彩として受け取れるようになる。

2010年10月16日土曜日

秋祭りを終え朝晩めっきり寒くなる頃には、明け方霜が降りる。広く見渡せば薄く雪が覆っているような景色に見えるけれど、近付けば葉に付いた霜、木に付いた霜、いろんな表面に付いた霜それぞれに特有の表情を見せている。特に窓ガラスの表面に氷結した霜は、はっきりとした意図を持って描いたように、唐草模様だったりシダの葉を広げた模様だったり、或いは花を咲かせて見たり雪の結晶だったりと、氷の精が筆を持って描いたとしか言いようが無いほど緻密に美しく仕上がっている。暖房施設もない隙間だらけのあばら家で、起こされても暫くは布団の中に蹲っているのが常だったけれども、布団から抜け出る決意を促したのは、朝、ガラス窓に描かれる模様の美しさを目にしたいという心引かれる気持ちからだ。どうやってその模様を写しこむのかその工程を見たいと何度か早朝起床しようと思ったが、明け方になると眠気に負けて失敗に終った。最近はネットで検索すれば霜の氷結した画像をいくらでも目にすることができるが、しかし本当の美しさは、自らが氷結する同じ寒さの中に佇んで目にしてこそ伝わるものだ。氷点下の、痛みさえ覚える寒さに身を預けながら、生命的な全てを否定されても残るる美しさ、即ち魂を超えた美しさが描かれたものから伝わってくる。数理の美しさ幾何学の美しさに通じるものが氷結の中に見て取れる。それに相対するには喜怒哀楽を追い遣って、自身をひとつの岩だと思えるほどに専ら感情を削ぎ落として見えてくる美しさだ。人の描いた絵とガラス窓に氷結した絵を比べて受け取る印象の違いを観察すれば、地上生命の存在と宇宙存在の違いを感じることができる。堕落的なものが一切関与しない億星霜を超えた宇宙的感情を垣間見ることができる。それは光が関与して描くものではなく、宇宙振動、宇宙波動として宇宙の音を司る神霊が描き出すものだろう。描き出されたものを通して宇宙が表現されているに違いない。

今日の想い 219

昨日は夜が明けぬうちから日がな雨模様だったが、暮れかかる頃にやっと降り止み、一夜開けると空の遥か高みまで見通せる秋晴れとなった。湿気を含まない秋風が時折身体を撫で、撫でられる度にいろんな感情で湿った重たい魂を軽やかなものに変えてくれる。秋には秋を司る神様(霊的存在)がいて、他の季節では味わえない秋特有の気分を味わうことができる。昨日は六千双祝福記念日だった。少し痛みが和らいだ妻が、雨も降り止んだので外に出てみたいと言うので、娘と三人で近くの韓国レストランへ外食に出かけた。長雨の後は流石に温度も低く、千切れ雲の間のくっきりとした半月の姿がより肌寒さを増し加え、比較として胸のうちの温かさを覚えることができる。この秋から娘は自宅から学校に通っている。息子も娘もドムに入り夫婦二人で暮らしていた時と比べれば賑やかだし、何より何かあった時を思うと安心だ。娘が美味しそうに箸を口に運ぶ様子は親に取って何とも嬉しいし癒されるものがある。心配事を心配事として数え上げればキリが無いけれど、実は心配事が喜びや幸せを際立たせてくれてもいる。日常に掃いて捨てるほどある些細な喜びに、実はその背後に私を想うてくれる存在の大きな愛の心情が込められている。私達は愛の空気や愛の光や愛の時間という、親なる存在の愛の胎の中で暮らしている。どんな状況に置かれたとしても、母の胸のうちで泣き叫ぶ赤子のように、大きな愛に包まれて存在している。箸を口に運びながら、突然薄ら笑いを浮かべたり、目を潤ませたりする父を見て、薄気味悪がったりからかったりするけれど、娘の親としての私の心、神様の子としての私の心に働きかけている魂に触れる存在を、娘は見ることができずにいて首を傾げている。

2010年10月14日木曜日

今日の想い 218

いろいろ騒ぎ立てているけれど問題の発端はそこではない。騒ぎ立てている者達に共通するのは、彼らに事を煽ろうとする意志が見えることだ。渡さなくともいい枝葉の付いた情報を、口が滑るままに或いはキイに指が走るままに流している。そこには煽り特有の赤黒い感情が人から人に伝染している。事態を解決しようとするのではなく、事を煽り立てて問題が大きくなるのを喜んでいる。外にある問題が大きくなればなるほど、自分の内にある問題は影を潜めたかのように思えてしまう。彼らが悟り我々が悟るべきは、私の中に神もいればサタンもいるということだ。神の顔を見せたかと思うと一瞬にしてサタンの顔を見せる自分がいるということだ。私という魂の活動の中に善神の働き悪神の働きを見るほどに自分を掘り下げて観察できない者達が特に、今回の様に外の世界に対して極めて批判的態度を取ろうとする。善か悪かという極論を振りかざす。善と思われる行動の中に悪もあり、悪と思われる行動の中に善もあることを見届けることができずにいる。自分の中のカインアベルを認識し、自己矛盾を勝利しようとする位置で初めて外に目を向けることができるのであって、自分の存在の在り様を認識できずにいれば目が曇らされているばかりか、全く違うものを見せられているかもしれない。謙虚だという言葉を私達はよく使うけれど、謙虚の本当の意味もわかっていなければ自分の中で働く生きた言葉とされてもいない。言葉を選ばずに吐き続ける者達が、自分が吐いたその言葉に捕らえられ、自分を益々貶めていることに気付かなければ、その影響は個人に留まらないだろう。悪なる影響を波立てながら全体に及ぼしている。それは御父母様に取って本当に心痛いことに違いない。御父母様のその心痛を推し量れる者であってこそ私は御父母様の息子であり娘だと言えるのに、周りはおろか御父母様の心情をも蹂躙しかねない。中心の位置で混乱しているから私も混乱せざるを得ないと、本心良心の声として叫んでいるのかどうか、自分自身が一番よくわかっているはずだ。

2010年10月12日火曜日

星と私

終末のこの時、宇宙の全ての星の子達が地上に集まっている。魂を宿した星の子達が光を受け取るために地上に受肉している。星の子達は光を受けて初めて自分の存在が何なのか気付く。受肉した身体に太陽の光を受け太陰の光も受けながら、魂が受け取る光があることを知らされ期待している。太陽に学び月に学びながら、自らも光を発する存在になれるし、そうなることを期待されてもいる。その認識に先ず至ることが地上に存在している意味であり、受け取る光を照らす存在を親と認め、私は子だと認めることだ。星の子達の誰にとっても地上への誕生は輝きに満ちている。光り満ちる地球で魂の活動をなしながら自分をより知ろうとしている。キャンバスに描きながらその中に知らない私が表出されて喜ぶように、自分の人生を時空に表現しながら私を認識しようとしている。確かにそれも光を受け取る人生だろうし光を照らす生き方でもある。しかしそこに留まっている限り、その光は弱すぎる。限られた次元に留まる光でしかないだろう。地上を越えて霊界のはるか先まで照らし出す光を受け取り照らし出す存在でありたい者は、それでは納得できずに嘆いている。何故なら星の子達は本来宇宙の隅々、霊界の隅々まで照らし出す光存在の子達だからだ。そして光が愛であり、光存在が愛の存在であることを既に知っている。そして親である愛の存在に出会う為に地上に受肉している。太陽の光を浴びることだけに留まるなら、外的で脱げば以前として暗闇に埋もれるしかない光の衣服をまとっているに過ぎない。私自身が愛の光そのものである為には真の父母に出会い、真の父母から生まれた存在とならなければならない。真の父母から生まれた私は真の愛に輝き、真の愛を照らし出す。外的光の衣服を脱ぎ捨てても、永遠に真の父母の息子娘として、真の愛の光を照らし出す星になる。

2010年10月9日土曜日

今日の想い 217

社会が変わり環境が変わり全てが変化しながら時代が流れてきたが、最も変化しながら今に至ったのは人間そのものだろう。どの時代に産まれた人間も、産まれた時点では誰も皆白紙常態なのかと言うとそれはない。その時代時代で産まれる時に受け取る魂のステージは違っている。特にここ数世代の違いは目を見張るものがある。私を挟んで親子三代の各世代を比べてみれば明らかだ。思考関心にしろ感情方向にしろ意志行動にしても、子供の魂の在り様に対しては親でありながらも理解を超えている。私が子供に対して思う以上に、私の親から私をみるなら尚更だったろう。家を飛び出して教会に身を捧げた私が全く理解できなかったに違いない。親が私を理解できないように、私が子に対して理解できないのは当然なのかもしれない。子に対する親としての願いがある。親の願いには親としての感情が入っている。その感情を子にぶつけても子は同じ感情魂のステージに立ってはいない。子は戸惑う以外ないし親は落胆せざるを得ない。多くの食口がみ言を規律としての側面に意識の光を当て続けてきた為に、この状況になるとみ言の力を受け取れずにいる。愛と為に生きるみ言は、愛という規律であり為に生きるべきという規律として受け取ってはいても、愛そのもの、為に生きたい本性そのものとして浸透させてはいない。私の思い込みのみ言という、愛の表面的言葉だけの規律で私を裁き、規律を子供に宛がうなら、それはもはやみ言ではなくなっている。社会を切り裂き親子を切り裂き、そして私の心と体も切り裂いてしまう。無条件の愛の種としてみ言を受け取り、み言が私の中に無条件の愛の木を芽生えさせて成長させていたなら、私は今とは異なる在り様をしていたと言える。しかし気付きは裁きではなく恩賜だということはここでも言える。戒めの期間を超えた今、解放された愛の自由の時空の中で生きている。苦しみと痛みの感情を伴って頭を悩ます現実問題が、意外と祝福であり恩恵である可能性は大きい。解放開闢時代に入っていながら、私の意識がそれについていけないが故の歯車のかみ合わせの問題かも知れない。

2010年10月3日日曜日

稲刈り

貧しい農村で高価な機械を備えた家など殆どなく、収穫はひたすら手仕事であり人手を要した。上級生が夏休みを少し繰り上げて終えるのは、農繁期を休ませて手伝わせる為だ。クラスの何人かは農繁休学を終えた後も学校を休んで手伝っている者もいたが、それが普通で先生も何も言わなかった。うちは兼業だから他の級友の家ほど田を持ってはいなかった。一週間も費やせば殆ど収穫は終ったが、それでも、まだ元気だった祖父も一緒に家族総出で稲刈りに精を出した。澄み切った青空の下で家族皆で汗を流すのは気持ちがよかった。一心に目の前の仕事だけに没頭して何も考えなければ何の感情も波立てない。乾燥した藁の匂いと稲を手繰り寄せて鎌で切った時の青臭い茎の匂い、その匂いにその場が包まれることで誰もが収穫の気分に浸る。何十年、何百年と同じ作業を行い続け、先祖代々同じ気分に浸ってきたはずだ。農民に取ってこの気分は宗教的感情と言ってもいいと思う。秋の澄んだ大気が太陽熱を迎えれば、穀物は乾燥して生命源を閉じ込められ腐ることは無い。その閉じ込められた生命源を私達は食している。収穫の秋の太陽は、自然の生命の力を私の力になるよう閉じ込めて変容させる橋渡しの神であり供犠の神(高次の霊的存在)に違いない。痩せて小さくても家族のうちで一番若く体力のある私は、何度も何度も田とハデ(稲を乾かす為に立てられた六、七段にもなる木組み)の間を往復しながら稲束を積み上げていく。暮れかかる頃になるとその日の最後の作業として寄せられた稲束をハデにかけていく。積み上げた一つ一つの束を長い渡し棒でハデに登った父に渡し、父は丁寧に隙間の無いようかけていく。その日に刈り取った稲束を全てかけ終えるとハデの骨組みは見事な稲束の帳(とばり)を張る。沈みかける西日が稲束の帳を照らすと金色に光る。山間の高地のあちこちで金色に輝く帳が重なる様は、見る者を厳かな気分にさせる。田に平面的に実った稲穂は、ハデの上段まで高く立体的にかけられることで供犠の神に供えられる。まさに奉納の祭壇の姿がそこにあった。日本は長く稲作に対する精誠を供えながら民族的な祝福を受けてきた。米は日本人に取って生命の力そのものであり形を変えた太陽神だ。食事で戴く時はたとえこぼしたとしても、埃が付こうが灰にまみれようがそれでも口にするよう躾けられ、一粒たりとも無駄にする者はいなかった。もったいないという思い以上の想いが米にはあった。田舎を後にして四十年以上にもなるが、今ではうちの田も周りと同じで休田してしまって久しい。たまに帰ると雑草に占領された惨めな景色を目にしなければならない。稲作に捧げてきた先祖の精誠を無駄にしない為にはどうしたらいいかと言う様な、若い頃には思いもしない事柄が今の心を占めるのは、歳のせいなのか先祖の想いが伝わるのか、おそらくそのどちらでもあるのだろう。

2010年10月1日金曜日

今日の想い 216

暫く切り裂かれるような痛みが続くと言って、傷になっていないか何度も私に確認を求めた。発疹も随分前に引いていて、傷後は残っているけれど皮膚は癒えている。何ともなっていないと告げると首を傾げる。表面は殆ど癒えているようだけれど皮膚の下の神経はしっかり犯されているらしく、痛みは一向に引かないようだった。この痛みは既にふた月近く続いている。しかし今朝は顔の険しさを少し和らげて起きてきた。私に顔を見せるなり、昨晩天使が尋ねてきて痛みのある背中を触れてくれたと言う。嬉しそうだった。ここひと月以上も痛みが続いているため顔を歪めざるを得ない毎日だったので、久し振りに笑顔らしきものを見せてくれたのは私も嬉しかった。私も流石にいっぱいいっぱいだったが、表情を見て微かではあっても希望の光が見えた思いがした。その体験が何だったのかはわからない。只の夢に過ぎなかったとも言えるし本当に天使だったのかも知れない。霊界の存在は少なからず認識しているつもりだし、勿論天使の存在も知っている。しかし如何にも現れましたと言わんばかりの体験には非情に懐疑的だ。地上界の原理原則を超えて、奇跡的な霊的現象が外的なものとしてあちこち勃発するなら、信仰目標が内的霊的なものではなく外的なものに向けられかねない。外的なものに向けられるなら御利益信仰になってしまう。私が彼女の為に祈ることができるとするなら、外的なことをどうこうして欲しいと懇願する前に、先ず現状を内的に受け入れ甘受し、そこから今まで見えなかった悟るべきものを見出し、そして悔い改め改心に至るこの過程を滞りなく進められるようにという想いを差し出すべきだ。それが蕩減に対する正しい姿勢だと思う。そこには彼女の戦いがあると同時に、感情に翻弄され素直に正しく祈れない私の戦いもある。更にこの事案を通して一体化することを要求される彼女と私の間の戦いもある。もし彼女の言葉通り天使が慰めてくれたとしても、この痛みに対する自分の責任分担を天使に背負わそうとするのではなく、忘れずに尋ねてくれたことそれだけを嬉しく想い感謝しながら、私は私自身が乗り越えるべきものとして対しますという決意と覚悟を供えることだ。

2010年9月30日木曜日

今日の想い 215

誰であっても今の自分にそれなりに満足し、順調に毎日が送れているならば、敢えて内面を掘り下げ、根源的な存在を求めて問いかけざるを得ないような冒険はしない。快い感情の彩りに包まれたまま、その場にしがみ付き、意地でも離れまいとするのが人情だ。今の安住の位置を蹴ってその位置を離れることで、それまでは見えなかった腐臭漂う魂の深みに下っていくなら己の醜さが不快感情として噴出してくる。普段はできるだけ内面が揺さぶられることがないように、外界に対して何重にもバリアをしいて生活している。平穏な位置で敢えて自分から揺さぶりをかけて、苦渋を選択するような人間は一人もいないだろう。しかし内面を掘り下げること無しに、自分の本性を日に曝して直視することなく、内的霊的な感性は養えないし、内的霊的知恵に至ることができないのも確かなはずだ。御父様の心情圏に入っていくということは平穏な位置でなされるものではなく、死を超えるほどの内的痛みを覚え血の流れるのを内面に見るほどに、御父様と同じ事情圏を通過することで心情圏に入っていける。自分で魂の深みに下っていけないなら、誰かに突き落とされてでも自分の魂の本性を味わうしかない。自分の選択意志とは関係なしに、避けられないものとして受ける痛みや苦渋がある。その時、突然の痛みや苦渋ゆえに自分の悲運を嘆いて当然のように思えるけれども、そうやって突き落とされない限り自分の堕落的本性に感情を曝すことはない。御父様に従うものであれば、その道理をよくよくわかっているはずだ。迫害される位置、蔑まされる位置、痛みを受ける位置、嘆きの位置、その位置に立つことの意味を、その位置に立つことの価値を私達は知っている。迫害される位置で実は霊的擁護を受け取る。蔑まされる位置で霊的尊敬を受け取る。痛みを甘受しながら霊的に癒され、嘆いているけれど霊的には喜びに昇華させている。振り返れば全ては愛であったと、御父様のその言葉を私の言葉としても光を放つ言葉となると言う、その証しを立てている。あらゆる悲観的マイナス位置に下りながらその位置を消化することで、実のところ新しい真の愛の世界を創建している。

2010年9月29日水曜日

今の今を生きる

人間は本来、今を生きる存在に違いない。この体は今を生きている。しかし体は今を生きているけれど、私は今を生きていると言えるだろうか。今を生きることを意志していると言えるだろうか。過去にこだわり未来を案じることに自分を費やしてはいないだろうか。今の私の生き方の在り様を何の疑問も持たずに受け入れていると言うことがそもそも間違いなのだ。時間の流れに魂を任せてしまって、惰性的に生きている生き方だけが生きる在り様ではない。過去と未来にこだわっている限り、そのこだわりゆえに今を生きているとは言えないだろう。その生き様を説明するなら、魂は過去に訪ねて見たり、そして定かではない未来に遊ばせている。今という基点は過去と、そして定かではない未来を行ったり来たりする通過点に過ぎない。今がただの通過点に過ぎないなら今を生きているとは言えない。過去と今のない未来(今を生きてこそ本当の未来はある)、それは私ではない他の霊が大きく関わってしまう他人任せの未来と言えると思うが、それにこだわることで時間は私には重荷となって自分を縛ってしまう。過去と未来を行ったり来たりすることで今を生きることに意志を捧げてはいない。だから私が認識している時間の概念には時間の縛りが含まれている。時間に拘束されている。御父様が私達に語られるときに、君達が~すれば直ぐにでも(明日にでも、瞬間に、)~となる、と言う言い方を良くされる。それは物の言い様としての言葉ではなく、事実時間に拘束されない御父様の偽りのない言葉として私達に伝えておられる。私達は今を生きることに目覚めなければならない。今を生きることで初めて意志した果実としての未来を見通せる。未来は私のものであり私の主管の内にある。一切の過去振り返らず、一切の未来を案じず、ひたすら今を生きる。今を生きることで過去が息を吹き返す。今を生きることで未来を産む。

2010年9月27日月曜日

秋口の思い出 2

なだらかな山の斜面を登るように、ススキの穂が一面を覆っている。秋の優しい日差しを受けて見渡す限り銀色に光っている。時折吹く風に一斉に穂を揺らして銀色の絨毯が大きくうねる。海の見えない山村で、目の前に海が広がる感触をこの場に立つことで覚える。銀色の波打つ海が全方向に広がっている。はしゃいで走り回る友達には目もくれず、細めた視線を遠くの方に遣りながら暫くの間佇んでいたが、意識を取り戻したように私に微笑んで目配せすると、大きなバスタオルを広げた。そこに腰かけ私にもそうするよう促すと持参した弁当を広げ始めた。から揚げやらサンドイッチ、家では口にすることも無い色鮮やかな料理が並べられた。母親とですらこんな状況は一度も無いのに、ひとりの女性と一緒に食事をすることに何か罪悪感らしき感情を母に覚えた。相変わらず何も喋らず下を向いたままで、薦められるままに機械的に箸を運び口を動かしていたが、その内に先生の方から覗き込むように色々と尋ねてきた。詳細なことは覚えてないが、他愛も無い問いだったように思う。小学生に尋ねることなどたかが知れている。可愛い教え子のひとりというだけのことだ。その先生は二年の間同じクラスを受け持った後、他の就任地へ移動になった。新しい学年になっても暫く胸の中にスースー風が吹いたような感じだった。秋口になるとススキの海を思い出す。ススキの匂いのする風が止むたびに香り立つ先生の匂いを思い出す。その頃のことは殆ど記憶にないのに、何故かこの思い出だけはその時の感情そのままに再現できる。誰にも心を許さず、母親の匂いだけに包まれながらそれまで守られてきたけれど、初めて外界の匂いを宛がわれ、外への関心を誘うような出来事だったからだろう。思春期にはそれなりに周囲の異性への関心もあり、少なからず恋心も芽生えたけれど、あの時の思い出ほどの経験はあれから一度たりともなかった。先生の女性としての優しさが全ての女性の優しさのままに保たれることで、それが誰であろうとも、やがて出会う相対を迎える純粋な期待感が、私の中で芽生えていた。

2010年9月26日日曜日

秋口の思い出

小学三年生に進級すると、新しい担任の先生がクラスを受け持った。こんな田舎には珍しく、若い女性の先生だった。おそらく初めての就任地だったのだろう、僅か十二人の児童の前で硬い挨拶を緊張した面持ちでされた。糊の効いた白いブラウスと新調の紺のスカートとは裏腹に、何か悪さをして前に立たされたような面持ちで、ひとりひとりの児童を不安げに見渡しながら、それが返って親しみを覚えさせた。毎朝先生が教室に入ってくると立ち居振る舞いを誰もが注視しながら、田舎にはなかった空気を感じてクラスは活気付いた。次第に慣れてくると、先生というより友達のように、個人的なことも隠すことなく話したり聞いたりするようになり、誰からも好かれたけれど、特に男子の関心は特別だったはずでクラスの女子は幾分浮いていた。或る朝、腰の左をかばいながら登壇されるので、ひとりが理由を聞くと、滑って転んで傷つけたことをみんなの前で話してくれた。冗談で見せて欲しいと誰かが言うと、何の躊躇もなくスカートのジッパーを下ろし傷ついた場所を披露しながら、どれだけ痛いかの理解をみんなに求めた。傷ついた箇所より腰の白い肌に男子は目が行って、気恥ずかしさで黙ってしまったが、その気配を気にもしない或る意味天真爛漫な先生だった。そんな先生が或る休みの日に私の家まで訪ねてきた。何かあったのだろうかと母が不安げに尋ねると、申し訳なさそうな口ぶりで私を預かる了解を求めた。ピクニックに私を誘いたいと言うのだ。陰で会話を聞いていた私は断りたい一心だったが、弁当持参で尋ねてくれた先生に母が丁重に礼を述べ、私を呼び出すのでどうすることもできなかった。玄関先に顔を出すと、暗い土間に不釣合いな、淡いピンクのサマーセーターの先生が立っていた。軒下に散らばったツバメの糞に気付かず綺麗な靴で踏みはしないか心配しているうちに、母に促されるままに先生に従い家を出ることになった。日は既に高く、秋口と言えども日差しは強かったが、一歩外に出ると涼しい風が先生と私を包んだ。距離感が何とも気恥ずかしくて、誰か級友に見られはしないか心配で、自分の気配を少しでも消すように、間を少しでも空けるようにして付いて行った。歩きながら先生は振り返って私の優しさとおとなしさに触れ、更に私のそこが好きだと告げた。先生に取っては深い意味はなくとも、余計に緊張させ私の口を閉ざさせる。裏山への道に差し掛かると、一級下の友達に出くわした。私には先生とふたりだけではとても気まずくて、居合わせた彼を誘って取り込まざるを得なかった。先生の顔が陰ったように見えたけれど、私に二人だけで行く選択は苦痛だった。おしゃべりな彼に先生の話し相手を押しやって、やっと安堵の思いで軽くなった足を運んでいった。民家が遠のくに連れて少しずつ開放感に包まれてゆき、周りの景色を見渡すゆとりや、先生の足元を気遣うゆとりも持てるようになった。

今日の想い 214

小さいけれど大切な、私に取っては大切なこの祈りが届くように、僅かの条件を供え続けている。公にすればあまりの規準の低さに馬鹿にされそうだけれども、それでもこの願いを捨てきれない。家族の笑顔で私の魂いっぱいに満たされるなら、私の記憶の景色は明るいものになる。今は全ての記憶に陰りが残り、思い出は重々しい。今の感情がそうさせている。今の私に色とりどりの光溢れるタッチを内面に届ける力は失せていて、灰色にくすんだ線で記憶は縁取られている。自分の感情に支配されればどこまでも灰色に染まり、暗い背景に沈んで存在すらも否定されてしまう。本心を備えた自我の存在があることを教わらなかったら、私は遠い昔に消え失せていた。感情に耐え切れずに暗い魂達の灰色の河の流れに滑り込んで同化し、河を見つめる悩める同じ魂達を引きずりこんでいただろう。堕落的感情に飲み込まれそうになりながらも、それでも辛うじて神様に繋がる自我を見失うまいとする本心が、今の私には働いている。マストを建て直し、帆を張り直して、航海を続けようとする意志こそ本心の行動だ。私の中で神様とサタンが対峙している。本心良心に働く神様と、魂の大きな部分で働くサタンが対峙している。人間が感情存在であるということは、サタンの圧倒的な優勢を保っているということだ。私の祈りへの発露は、自分の感情に抗することができない弱さから出ている。でも、それでいい。弱さを自覚することでしか未だ堕落的な私がより本心を認識し、神様に繋がれた自我を認識していく道は他に無い。自分の弱さを十分に認めた上で、痛みを取り払われることを願い、十分な収入を願い、子供の先行きの安定を願い、しかし未だ叶わない願いに余分な感情や執着を重ねるのは自分の弱さを認めた立場ではない。弱い私は今日も条件を立てる。条件を供えて祈りを聞き届けられる日を心静かに待ち続ける。

2010年9月25日土曜日

希望の実体

働いて、働いて、そしてうまい飯を食う。うまい飯が食えれば美味しいお茶が飲める。生きて、とにかく生きて、ひたすら私の人生を生きることで喜怒哀楽の詰まった生涯を愛おしく見渡せる。そして彩られた愛おしい人生のキャンパスを携えて、生まれる前の故郷に帰っていける。全てが愛であり、全てが美しかったと言えれば最高の旅立ちだろう。一日の終わりにお茶を啜って安堵の吐息を洩らす時が、一生を終えて旅立つ時の最後の吐息をイメージさせる。一生懸命に生きることだ。とにかく一生懸命に一歩を踏み出し続けることだ。生きることの意味を問う間にも生きて時間は流れていく。意味を納得して生きるのではなく、生きて意味は後からついてくる。明日の一日は誰しもが体当たりであり、明日の結果がその日の意味を教えてくれる。エバの問題は、目が開けるという自己自覚を愛より先に欲した。意味を納得しなければ動かないというのは堕落したエバの在り様と同じだ。自覚より愛が先になるべきだ。精誠を供えることを前面に押し出すべきだ。一生懸命を前面に押し出すべきだ。それでこそ堕落圏を超えていける。苦労して、苦労して、苦労から逃げることなく甘受し続ければ、全ての苦労を吹き飛ばして余りある神様の慰労を受け取れる時が来る。神様の慰めを受け取れれば光り輝く祝福にあずかれる。高次の愛が滝のように私に流れ込む。人間は本来そういう存在だ。直接的に愛を受け取れる神様の愛の実体対象だ。紆余曲折しながら遠回りに次ぐ遠回りをして、しかしどんなにさまよったとしても確実に愛の本郷が用意されていて、そこに必ず辿り着く。だからどんな人間であっても希望を失う必要は無い。私達が人類の希望の実体対象として証しを立てれば、人類は目が開いて自分が希望的存在であることを悟る。見せることができる外的希望も大切なのかも知れないけれど、どんな事情圏環境圏であっても生き延びることが出来る内的霊的希望はもっと大切だ。

現代終末に於ける内的秘儀

人は普通、波の立たない平穏な毎日を送れることを望んでいる。しかし、明らかに今日食べるものも無く、雨風を凌ぐしっかりした家屋も無く、明日の命をも保障されない人達も現実としている。或いは、外的な生活に何の心配も無かったとしても、内的な不安や孤独に襲われて耐え切れず、自分を無いものにしたいほどさまよっている人達もいる。その現実に目をつむり耳を塞ぎ、己が平穏だけに執着するなら、それは本当に平穏だと言えるだろうか。決して人の目を気にする偽善からではなくても、世界の問題への認識を持っている以上、今前に置かれた食べ物を何の負債も無く喜んで食べ、無邪気に笑える毎日を送れるはずはない。敢えて無視して生活していればそのうち気にも留めない自分になっているけれど、確実に負債は内面に積み重なっている。いつの間にか我知らず莫大な負債を溜め込んでいる。み言に触れ御父母様に帰依するなら尚更だろう。平穏な日々の中では絶対に新たな創造は為されない。波風の立たない平穏な内面の位置をゼロとするなら、ゼロの位置からの創造は為されない。ゼロの位置で創造への衝動は働かない。内面に於いてマイナスの位置に下ることで初めて創造への衝動が沸き起こる。マイナスの位置に下れば下るほど、創造への内的力は更に増す。御父様は私達により苦労することを願われる。苦労の百科事典としての統一の群れを願われる。神様が創造されたこの世界は原理原則で貫かれている。堕落した世界であっても同じことでサタンも原理原則に従わざるを得ない。より苦労したものがより高みを目指せる。自分の許容範囲の限界を超える苦労の領域に敢えて押しやられることで、堕落領域が横たわるゼロ点のあたりを遥かに超える領域に飛翔していける。味わうこの苦労が見事な化学反応で高みへの衝動力に変化する。新たな内的外的創造への爆発になる。何ひとつの苦労も無駄にされることはない。苦労が見事にその何倍にも力を作用させるビッグバンとして爆発創造されるように、苦労を甘受し痛みを感謝に変えながら、最も悲惨な立場から最も霊的高みに瞬間移動する天的な内的秘儀を御父様から学んでいる。私達は外的のみならず内的にもどれ程惨めに見えるか知れない。しかしその中でこそ培われてきたものが確実にある。千態万状の苦労のマイナス位置に下れば、千態万状の創造のプラス位置の高みまで届く。

2010年9月23日木曜日

今日の想い 213

私には悔い改めるべきことが山ほどあるに違いない。ひとつひとつの事柄を拾いながら、反省すべきかどうかの判断を立てることはできる。しかし問題は、その事柄に関して悔い改めに繋がる感情が伴わないことだ。申し訳ない感情を発し、悔い改める衝動が私の中で突き上がらなければならないのに、それがないと言うことは意識化に於いて私の悪の在り様を正当化している。私は意識下に於いて言い訳をしている。それなりに裕福であり健康であり、幸せな気分で毎日を送るということをひとつの基準ラインとして勝手に決め付け、それ以上であれば喜びと共に感謝を捧げ、それ以下であれば嘆きながら不満感情に陥る。その感情次元から離れることができなければ、いつまで経っても悔い改めに至る門も開かないだろうし、その更に先にある心情圏への門に辿り着くこともできない。幸せな気分に留まることのみを指し当たっての願いとして毎日を送るなら、み旨を知らずに暮らす人々と何処が違うのだろうか。結局は何も変わってはいない。御父様を口にする只の堕落人間の魂に留まったままだ。私が気付くまで、私の中で完全否定されるまで、いつまでもどこまでも果てしない試練は続いていく。私の感情を私という個人や私の家庭に留まらせるべきではない。私の感情は氏族の幸せを想い民族を想い国家を想う。私の魂が個の想いを突き破り家庭の想いを突き破ってこそ、為に生きる道理を学んでいると言えるだろうし正しい姿勢でみ言に対していると言える。私は敢えてこの今の感情を否定しなければならない。問題を抱える子を想い、病に沈む妻を想う感情だけを魂に満たしているけれど、その執着を敢えて否定して、氏族をより想い国家を想い、そして勿論神様御父母様をより想う私にならなければならない。私はこれ程に遠回りしながら、やっとかすかに、全うな食口の在り様に気付かされる。御父母様を心から慕い侍りながら、自分の家庭を犠牲にしても血と汗と涙を流す食口の輝きが、今更にして私には眩しく映る。私にはどれほど悔い改めるべきことの多いことだろう。

2010年9月20日月曜日

今日の想い 212

九月も半ばを過ぎると光も随分柔らかくなって、外界は真夏の強烈な光を嫌と言うほど浴びながら熱に踊り、そして踊り疲れ、無我夢中で遊んだ後の子供の様に余韻に浸っている。太陽が光を放ち、地上が光を受け取る。光を受け取ることで熱を上げ、全ての細胞は熱に踊る。地上が踊るのを見ながら光を放った太陽も喜びのうちに合わせて踊る。陽が与え陰が受け取る。陰がその美を喜びとして返して陽が受け取る。地上の主体は確かに太陽だ。太陽が地上を愛している。地上の存在は鉱物も植物も動物も、勿論人間も、太陽に愛されている。外的に捉えることができる愛の関係性を、私という内面に見ることができるだろうか。内面の太陽が燦燦と陽光を放って内的生命が益々力を得、私の内面という宇宙に与えて受ける愛が活き活きと交わされているだろうか。外界に見る愛の関係性を感情の爆発が起こる刺激として受け取ることが出来る内面の共鳴体となっているだろうか。夫婦の愛の歓びが只の感覚的なものに留まるなら、外界に広がる愛の関係性の本質も知らないし関わりも無い。ルーシェルが関与する地上的五感の感覚性を突き破って、愛の本質、真の愛の関与する心情圏に飛翔しなければならない。御父様がどれほど真の愛の素晴らしさを説かれようとも、心情圏に入って触れもし浸透もする真の愛を受け取った者でしかその実感は解らない。地上的な愛に執着して留まる限り真の愛は受け取れない。ひと夏を終えて、優しい光に包まれて憩う緑を意識の対象にしながら、未だ被造世界の本質、愛の本質に入り込めず形骸化したものでしか外界を捉えることが出来ない焦燥感を味わっている。しかしいつまでも立ち止まるわけにはいかず、兎に角今日の為すべきことに意志を向けるべきだ。

2010年9月18日土曜日

闘う君へ

私達は打たれることでその心情を試されている。魂の在り様として堕落的なものが見え隠れするのは仕方が無いとしても、内外の、あまりの大きな試練に辟易して恨み言のひとつふたつをぶちまけたとしても、それでも最終的には親なる御父母様、神様の事情を優先し、あなたは御父母様の息子であり娘であると言わしめる心情を供えたなら、それは祝福として戴いた神様の血統圏から外されてはいないと証明される。だからこのD-DAYまでの内外の試練は、それを阻止しようと今までの比ではなく執拗に負い被さる形で責めてくる。前後左右、全方向から打たれ続けながら、それでも私は神様の息子娘であると断言し、御父母様神様に対する子としての心情を更に深めるなら、サタンは屈服せざるを得ない。しかし敢えて言うまでもないが、戦いは益々過酷を極めていく。決して生易しいものではない。信仰を失う者も出てくるだろうし反旗を翻す輩も出てくる。この戦いを切り抜けていく為には我々はどういう信仰態度が必要だろうか。絶対信仰はその通りだけれど、絶対信仰を念仏のように唱えていても絶対信仰の基準とひとつになることは出来ない。40年近い歩みの中で私が言えるとすれば、ひとつは謙虚な姿勢であり今ひとつは攻めの姿勢を失わないことだ。日本人としての背景がある為、クリスチャンの家系に見る罪意識が備わっている訳ではない。私に罪があると理解するのと罪の意識とは異なる。内的在り様が異なると言うことだ。み言を学んだからといって一朝一夕に備わるものではないし、家系、霊的背後としての積み重ねで備わるもので、であればこそ欠ける罪意識を補う謙虚な姿勢は必ず必要だ。攻めの姿勢というのは受身、受動的護りに対しての攻めの姿勢ということで、ビジネスに於いても攻めは最高の防御だと言う様に、敢えて試練に曝されないようにできるだけ影を潜めていようと背を丸めると、ここぞとばかりに霊的に挑まれる。試練は機械的に現れるものではなく、霊の挑戦を受けるのであって自ずと霊の魂を相手にしている。背を向けて戦いを避けようとすれば相手は余計に付け込んでくる。決意と覚悟を供えて、背を伸ばし顔を上げ堂々と天の血統圏にある威信と誇りを輝かせて対する意識を忘れないことだ。喧嘩でもはったりが功を為すように挫けそうになったら声を張り上げることだ。相手が攻めれば攻めるほどより信仰は強くなり、より御父母様とひとつになると見て取ると、相手は屈服する。

http://www.youtube.com/watch?v=rgBoyDCJEi8

2010年9月15日水曜日

今日の想い 211

若くて健康であった日々を振り返り、あの時分に戻りたい感情を募らせ、逃げることができない今から逃げることだけを意識の大半にもたらすなら、決して御意に沿うているとは思えない。非情のようだけれども、こうなることを選んで地上にやって来たとも言える。こうなることを望んで今日までを生きてきたとも言える。誰か他の存在に、この運命を押し付けられ追い遣られて地上に生まれたのではなく、私が意志して選んで今の今がある。私という存在の根源を堕落人間は知らない。魂の活動そのものを私として認識したままでいる。魂の奥にある隠された、私は私であると言える自我存在を認識してはいない。自我の認識に至らずに魂の活動を私だと思っているから、魂に織り込まれている堕落的な要素をも含めて私であり、罪を認識することができずにいる。子供の頃は成長させる高次の霊的存在が働き、その気分の中で子供時代を送り、思春期には生殖を司る高次の霊的存在が働き、その気分の中で青年時代を送るのであれば、壮年時代には壮年時代に関わる高次の霊的存在が働いているはずであり、その気分が若い頃の気分を羨むだけの気分だとは思わない。気分として歳を重ねた悲哀だけで壮年老年を送るなら、正しく人生を認識してはいない。そのように、健康な時期には健康な気分のなかで内的霊的に或る力を培う願いが込められているのであり、病を通過する時期には病の気分のなかで別様の内的霊的力を培う願いが込められている。若ければ神様の恵みを受けていて年老いれば神様から見放されているとは言えないように、健康であっても病の中にあっても、種類は違えど等しく神様の恵みは受けているし、それぞれ違う側面の神様の愛を受け取り実感することができるはずだ。人情として羨まれる立場より、人情として不憫な立場でこそより神様を感じることができる。神様御自身が最も不憫な立場で気の遠くなるような復帰の歴史を尋ねてこられたからだ。

2010年9月14日火曜日

空の青

あの空の青の中に生命の息吹が詰まっている。空の青のほんの僅かでも戴くことができたなら、数百年を超えて余りある生命の力を受け取れる。自己中心的な人間はあまりにも身体が重すぎて、自己中心のベクトルに執着しすぎて、ますます空の青から遠ざかってしまった。自分への執着こそが自己存在を成り立たせているという偽りの観念に支配されて、短かすぎる地上生を皮膚に閉ざされた内側だけで送っている。アダムとエバが楽園から追放されたように、私達は空の青から遠ざかった。空の青をいつも見上げながら、しかし決してその溢れる生命を受け取ること無く地上に縛り付けられている。今日も青い空を見上げながら想いを募らせる。空の青が恋しくて恋しくて、居た堪れないほどに想いは募っていく。痛みに歪んだ顔を見続け、地上に救いは見出せず、生き永らえることすら恨めしく思う時がある。この分裂を、心と体の分裂を背負ったまま、矛盾する在り様のまま貴重な時間は流れていく。青い空を見つめながらも青色に輝く生命を受け取ることは出来ない。生命のベクトルと自己執着のベクトルは相容れないものだからだ。自己に向かっていたベクトルを他に向けるとき、空の青は僅かばかり近付いてくれる。空の青へ差し出すものを用意したとき、向こうから近付いてくれて生命の強さを受け取ることができる。与える心に満ちたとき初めて受け取ることの意味を知る。執着の思いで集めるものは生命のない形ある霞にすぎないことに気付く。今は空の青への憧れを一時封じ込めながら、与えたい衝動に駆られる自分を取り戻すことが大切なのだ。執着する想いをどこまでも否定しながら、ひたすら為に生きたい衝動を育てて大きくするなら、仰いでいた空の青をいつの日か私の中に見出せるだろう。その時、空の青は私の在り様でもあると言えるだろう。私の青い春が遠からずやってくる。

2010年9月13日月曜日

今日の想い 210

御父母様の勝利圏を頂いて、私達は自分の名で祈ることを許されたし、祈祷は報告祈祷として供えられることとなっている。日本で活動していた時に、兄弟達の祈りが耳に届くのに任せていると、その祈祷内容の高さに驚いたものだ。自分も背伸びしてその基準に合わせようとするけれど、内的内容が伴わないくせに表面的に繕っても続く訳がない。かえって空しくなってくる。かと言って、兄弟たちが地を叩き涙を流して悔い改める立派な祈りに相応する生活態度を示しているかというと、意外とそうでもなかったように思う。祈祷内容と生活態度とのあまりのギャップを見ながら、祈祷している自分に酔っているだけなのだろうかと感じていた。本来なら祈祷内容に必死で自分を合わせようと、身悶えする摂理的期間が必要だったと思うけれど、私も含めて多くの兄弟は祈祷内容と自分との乖離の為に遠回りの個人路程を歩まざるを得なかったように思う。言葉にすれば責任が伴うけれども、祈祷で口にした言葉と私の在り様が一致していなかった。神様に対して偽りの態度で接したことになり、祈祷も自分も貶めてしまう。全体の前での公的祈祷は別として、より地に足を着けた報告祈祷が成せることは大きな恵みだ。報告祈祷を通してより神様を身近に感じることができる。報告内容があまりにも程度の低いものであったとしても、しかしそれが偽らざる自分の内的実情だ。大切なことは確実に祈祷を重ねながらその報告内容が次元を上げていくことだ。報告祈祷を通して内的霊的次元を上げながら、実態の自分も内的霊的に成長していくことだ。そして報告すべき起こった出来事、感じた感情、意志した行動に意識的に光を当てながら、神霊の係わりや善霊の働き協助をしっかりと認識することだ。すべての事柄の背後には霊的なものが隠されている。霊的な活動に自分に働く神様の意志や心情を見出すことができ、そして自分に関わるサタンの企みも見ることができる。

今日の想い 209

音楽であれ演劇であれ、芸術といわれる全てのジャンルに於いて、それぞれのジャンルの表現方法を用いて霊の本質を表現している。五感に圧倒されて生きている人間の、五感のみでは受け取れないその感覚の裏に隠されたものを表現できる。芸術は該当する製作者本人も含めて霊の本質の表現だ。それは見えないもの聞こえないもの、五感で受け取れないけれど存在するもの、根源の奥にあるものを取り出しながら感覚的なものに現していく。その霊の表現を創造ということができる。非原理という堕落の血統圏でありながらも、様々な芸術分野に於いて神性を垣間見ることができる作品が創造されている。ましてや祝福を戴いて御父母様の血統圏に繋いで戴いた私であれば、彼らの作品を超えて余りある創造活動を為して当然であり、彼らが見上げる証しを立てることが必ずできるはずだ。私には私の創造本性が生きている。見える実力として備わっている何ものも私の中には無いように思えて、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準とひとつになろうとすれば、御父様と心情をひとつにしたいと願い邁進すれば、ひとつとなる過程で必ず本然の創造性を発揮する雷光が煌く瞬間を迎えるはずだ。終わりの無いような嘆息の日々に主管されるのではなく、必ずその期待感を持って歩むべきだ。霊の解怨というように、霊と聞いて霊障を与えるような霊の存在は信じているけれど、創造性を喚起する神霊の関わりが私にもあることは信じてはいない。ヤコブの前に格闘を挑み試練を試みようと現れた天使は、勝利してみれば福を与える祝福の存在であったように、この道の困難さを思い知れば思い知るほど、その背後に大きな恩恵として創造性を喚起する神霊存在が活動を準備していることを期待すべきだ。真の父母に繋がらない者は益々霊に振り回されるだろうし、逆に私達は益々神霊に満たされていく。

2010年9月12日日曜日

今日の想い 208

溜息しか出ない嘆息の只中で、神様の事情を想うことができるなら、そして私が舐めているこの苦しみ以上の苦しみを味わっておられる神様であることに想いが至るなら、この苦しみゆえに神様の事情を味わうことができるし逆に神様を慰めることすらもできる。堕落圏の中で神様と何の関係もなく喘いでいた立場からするなら、それはどれ程ありがたい立場だろう。この痛みや苦痛は感謝こそすべきであり、嘆息圏で嘆いたままでいるならどれだけ神様に対して申し訳ないことだろうか。しかし悲しいかな未だ堕落意識から抜けきれずに、どうしても地上的感情が魂にもたらされてそれに主管されてしまう。痛みが少しは和らいだのか、壁に手を添えながらすり足で部屋を出てきた。薬が幾分効くこともあれば全く効かない時もあるようで、顔が穏やかなのは今のところ少しは効いている様だ。他の薬を飲みに起きて来たらしく、色違いの薬を四、五錠口に放り込むとボトルの水を傾ける。折れそうな細い腕は激しく震え、ボトルの口を上手く口に固定できずに飲もうとするので、胸元に多量の水をこぼしてしまう。しかし今の彼女に取ってはそんなことはどうでもいいほど気は萎えてしまっている。それでも大丈夫かと聞くと消え入りそうな声で大丈夫だと言う。その気丈さが彼女の良い面でもあり悪い面でもあるけれど、気丈さ気の強さと頑なな心とは裏表であり、頑なな内面様相は病の癒しに必要な柔軟なものとは相反する性質があって、それは身体を硬直化させてしまう。そんなことを思いながら、しかし決して口に出すことはできないでいる。それでもひと月以上に渡って痛みを味わいながら、明らかに彼女から削げ落ちたものがある。断食の日数を重ねていくような、そんな面影を苦しい表情の中にも見ている。彼女は彼女なりに内的ステージを上がっているのを見ることができる。痛み苦しみの中でありとあらゆる想いを錯綜させながら、やがて一点の光に導かれていく。それは絶対信仰の基準とひとつになることを教える内面の灯台の灯だ。自分に取って信じられることのみを信じるのではなく、信じられないことを敢えて信じる事に信仰と呼べる姿勢があり、その線を越えてこそ絶対信仰への一歩を踏み出したと言うことができる。神様を信じ霊界の存在を認め、御父様を再臨のメシヤだと認めればそれで信仰は完成するのではなく、ピンからキリまでの信じる程度があって私の認識基盤の多くは地上的堕落的なものに拠っている。その基盤を否定して壊しながら、み言によるものを基盤とすべくそこに信仰の力を注いでいかなければならない。

2010年9月11日土曜日

責任分担

責任分担という言葉を私達は知っている。神様が人間に責任分担を与えられたという御父様の発見は人類史上最高最大の発見だ。間接主管圏から直接主管圏に入っていくのにこの責任分担を果たしてこそ、神様が直接的に対してくださる真の愛の絶対圏である直接主管圏に入っていくことができる。アダムとエバは人類の根源の立場で、根源の責任分担を果たすことができなかった。堕落ゆえに人類が罪を背負い悪魔を父母とせざるを得なかった立場で、ありとあらゆる悪が蔓延してしまったこの地上地獄天上地獄に埋もれて、阿鼻叫喚の苦しみを吐き続けた原因が、人類始祖の責任分担が果たせなかったことにある。長い人類歴史の中で今日まで責任分担に対する発見が為されず今に至ったのは、神様にとって堕落の事実があまりにも心痛く、軽々しくお前は責任分担を果たせなかったと忠告できるような状態には無くて、人類にとっても堕落に隠された責任分担の意味を悟るに相応しい状況でもなかったはずだ。責任分担に対する御父様の発見は、神様をなだめてなだめてなだめ尽くして、できるなら触れたくない神様の痛みの根源を御父様の神様に対する精誠ゆえに表に出された。神様にとってみれば堕落の事実は、結果として責任分担ゆえのことであるという神様自身の非を神様自身が責め続けてこられたからだ。神様自身が責任分担という言葉に恨みを覚えておられる。御父様が神様の恨みを解いてこられたように、私達が神様の恨みを解放して差し上げることができるとするなら、絶対信仰、絶対順応を供えることで私としての責任分担を全うしながら、その歩みに喜びを見出していくことだと思う。神様自身が触れるに苦しい、神様の恨みが篭った責任分担を御父母様が完成された意味は、神様を解放されたと言うことだろう。堕落の事情圏、環境圏の中で内的にも外的にも喘ぎながらも、この痛みがこの苦しみがひとつの蕩減条件となり責任分担を果たすことの出来る自由な環境を開くと確信できれば、痛みの中にあっても痛みが喜びと成り得るし、苦労が必ず実る事実を認識できるし、痛みゆえに苦しみゆえに御父母様と共にあり再創造のみ旨に参画している自分を実感できる。

2010年9月6日月曜日

NEWHOPE号

堕落世界という海は荒れ狂うごとに水位を更に上げていく。人はそれぞれ自分なりの船を持っている。穏やかな海が続くなら粗末な船で十分だろう。しかし終末の堕落世界は荒れ狂う。木の葉のようないかだ舟で生き残ることはできない。波間に藻屑となって砕け散る。そのうちに地上で平穏な日々を過す者は誰一人いなくなる。自分の船が終末を超えて荒波に耐えうる船ではないことを誰もが認めるからだ。御父様が沈まない船NEWHOPE号を創られたのは象徴的だ。絶対に沈まないNEWHOPE号は、この地上界で如何なる困難試練にも耐えうるみ言実体になることとリンクしている。祝福を受けた私達に於いても、自分の魂がどういう類の船なのか今の今試されている。荒海の中では役に立たない飾り物を全て排除され、見事な曲線で縁取られた簡潔なボディーは、荒波から逃げることなく真っ向から対する闘いの王道がイメージされる。この洗練されたNEWHOPE号の在り様が私の中で生きているだろうかと問うことができる。私が、新しい希望の実体として、向かい来る荒波をものともせずに立ち向かってこそ、お父様の息子であり娘であると断言できる。訓読を供えながら、私の魂は再生される。堕落世界で、地獄の底まできりもみされながら砕けていく、そんな船は船とは言えないだろう。NEWHOPE的魂の船を私達は用意している。地獄の底が撤廃されて、ありとあらゆる悪霊現象に地上は翻弄されていく。この地上で平穏に暮らせる人は誰一人としていなくなり、そして誰もが救いを求めざるを得ない。その時に魂のNEWHOPEは誰からも羨望の眼差しで見上げられ、御父母様の栄光を誰もが認めざるを得ない。最近、船は人間そのものであると語られたみ言が、私の中に落とし込まれる。波を掻い潜って進むNEWHOPE号の勇ましい姿が私の中で生きている。

2010年9月4日土曜日

今日の想い 207

いつも何か受け取ろうとしている。何か貰えるものはないか期待している。神様を信じることは善しとしても、神様に対しては常に要求モードだ。本然の人間であれば与えたい衝動に満ちているはずで、神様に対してもあれをして差し上げたいこれをして差し上げたい、その想いに突き動かされて常に与えるモードなのだろう。私達が堕落人間の位置とは一線を引いた祝福中心家庭であることの実感は、どんなに困難な状況にあっても、そうであればあるほど御父母様をより慕い、より何かして差し上げたい想いで満たそうとする意志を備えていることだろう。訓読会の様子が流されている映像を前にし、映像であっても並んで座られておられる御父母様に対しながら、何とも言えない懐かしさと慕わしさが内に溢れ出して目頭が熱くなるその自分こそが、申し訳なくて悔い改めに至ろうとさせる私自身だろう。その衝動に私の全てが包まれ、私自身が愛の出発点になれれば、この私という実体は堕落圏の壁を突き破って解放される。私の周囲でせめぎ合う困難という名の霊的暗雲は、私を試すと同時に私を訓練し強くしてもいる。困難が大きければ大きいほど、多ければ多いほど、私は慕う力を強くする。慕う力を強くすることで数次元を越えた先にある御父様と同じ心情圏に飛翔できる。心の余裕が無くて散らかったままの部屋に身を埋めながら、目にしている味噌も糞も一緒の光景が今の私の内なる光景でもある。今日は少し片付けながら内的な整理もしなければならない。困難に押し潰されるのではなくて、困難を触媒にして新たな世界を創造していくのだ。その気概を持って今日を掻い潜る。

2010年9月3日金曜日

今日の想い 206

み言葉の中に、真の愛の中ではどんな病気でも治ると言うのがある。家庭の中に病が入り込んでいる私に取って非情に重いみ言葉だ。それは家庭の中に真の愛がないと言うことを意味している。病に沈んでいると言うことは未だ堕落圏を抜け出せない現実があると言うことだ。堕落的思考であり堕落的感覚であり堕落的行動のままなのだ。その事を指摘してその意味を理解するようであればとっくに病は遠ざかっていたことだろう。今の状況では指摘されること自体に反発感情を生じさせる。病に対して受動的な態度しか取ることができない。直りたいという思いが強ければ強いほど処方された薬に頼り安静を第一としてしまう。そのような対処する意識には受動的なものしか見出せないだろう。能動的な意志で病に対するには、覚悟と決意を差し出す必要がある。御意であるなら生涯をこの病と付き合い、命を縮めることも辞さない覚悟と決意を差し出す。健康な身体で果たすべきみ旨が私にあるなら良くなって当然であり、病に沈むことが御意であるなら敢えて良くなりたい執着の思いは邪魔でしかない。私はその想いで清平に行った。生きてみ旨を果たすのが御意なのかこの病で死ぬのが御意なのか、はっきりさせる為に行った。40修三日目に激しい動悸が止まらず死の淵を彷徨いながら、最後の覚悟と決意を差し出した。私は私なりに病に対して能動的態度を取ったつもりだ。今の妻に私の証しは私にしか通用しないという壁を立てている。妻が良くなり元気になってくれることはその通りだけれど、それ以上に夫婦としての魂の一体化が未だ為されていないことに悲しみを覚える。慰めあい労わり合うことの方を妻は望んでいることは解るけれど、そんな表面的なことで魂が一体化されるとは思えないし、真の愛がそこに介入されるとは思わない。真の愛が、愛と聞いてイメージする愛とは異なるものであることを薄々とは感じているけれど、その一面として堕落人間に取っては厳しく過酷な要素を含んでいる。為に生きることが安逸な場所で施しを与えるようなことではなく、犠牲的な位置で更に自分の足場までも与えることであるなら、我々が思う愛のイメージを超えている。

2010年9月2日木曜日

今日の想い 205

店にいれば、店のいろんな問題が店の中に発生し続け、店の内側に問題として吐き出されることが店として生き続けている証しだろう。しかしその内的排斥物を蓄積していけば、体内毒素が排出されず留まって敗血症を起こすように、店も問題に押し潰されて瀕死の状態になっていく。だから店を運営していて毎日の様に生じる歪をどう対処していくかが店の健康状態を決める。店として機能させる為にそうであるように、人間として生きることはそれ自体が身体に不利な毒素を発生させているし、身体に取っては消耗なのだ。妻が腎臓を患って初めてクレアチニンという筋肉疲労で生じる物質があることを知った。腎臓病患者であれば誰でもこの数値を気にしている。腎臓が健全であれば生きることで排斥されるこの疲労物質が尿や汗で排出されるのだが、腎臓を患うと血液をろ過できず体内に留めてしまう。物質肉体がそうであるように、人間としての心魂に於いても、健全である為には魂に貯まる疲労要素をそのままにしては置けない。魂をろ過する役目が必要であり、み言を戴いた私達はみ言による正しい思考が魂を健全なものとする。正しい思考で健全な魂が宿るのは、正しい腎臓の働きが健全な肉体を保つのとリンクしている。腎臓は肉体維持の為の思考の働きをしている。体内の変化を感じて対処法を探しているのは肝臓であり腎臓だ。肝臓が感知し、腎臓が考える。会社に於いては経営者がちゃんと目を行き届かせ、判断し対処することが、会社に取っての肝腎機能がしっかり働いていると言うことができる。では家庭に於いて健全であるために働く存在は何なのかと尋ねてみた時に、自ずと応えは見えてくる。母の位置でしっかりと状況を把握し、それを受け取って父の位置で思考し判断する。一体化すれば逆も在り得るが肝腎機能がちゃんと働いていることが家庭維持に必要なのだ。しかし個々の存在が自己完結的に存在するようにはなっておらず、必ず合目的的に存在することで、即ちより大きな、より公的な目的の為に存在しない限り存在が否定されてしまう。店に於いて問題が山積し頭打ちになるとき、より大きな視点に立つことで解決されていくように、家庭に於いても、そして私自身も、様々な問題を前にしてより大きな視点、より公的な視点に立つことで正しく見つめ正しく対処することができる。私に本心が働くように、家庭に家庭の本心が働き店や会社にも事業体としての本心が働いているかを見なければならない。

2010年9月1日水曜日

今日の想い 204

何とも言えない焦燥感を味わいながら八月を送ろうとしている。何もかもが頭打ちの状態で、四方を見えない壁で遮られているようで、こう言う時、取り敢えずは流される儘にされているしかないのかも知れない。もがいてどうなるものでもない。吼え続けても届かない。私自身はこの状況の中でどうしたいのだろうか。逃げたいのだろうか。それとも弱い自分を立て直して闘い続けることを望んでいるのだろうか。この状況を甘受しながら、何をもって勝利と言えるのだろうか。ひとつの結果を私がもたらすとして、天が取ることができ、私が勝利と実感できる内的様相とは何だろうか。目の前にある結果としての外的な状況環境を、私の払うべき蕩減内容として、あるがままを容認できる自然体となることだろうか。そこに嫌気の感情や、恨みや、泣き言を言いたい感情を主管しながら、それを超えて余りある心情を受け取ることが出来るのだろうか。外的解決策も含めて、あらゆる可能性を並べてみても、どれひとつ希望の光を発するものを今は確認できない。確かに今までは逃げてきた。逃げて避けることができ、事実避け続けてきた。あと数年の歳月を残してもはや逃げ惑うことができないことが、堕落の魂としては災難であり、本質の自我に取っては大きな恩恵なのだろう。暗いトンネルの中に入り込んでいることだけは認識できる。何処が入り口だったのか定かではないし、勿論差し込む光も無ければどの方角に出口があるのか解りもしない。今こそ、本当の意味で御父様が必要な私になるのだろう。上辺だけで慕い侍っていた私が、本当の意味で御父様の心情圏に超えて行くのだろう。

2010年8月29日日曜日

青年登山家に学ぶ

一人の青年が最高峰に単独無酸素登頂を挑んでいる。カメラを手にしてその様子を写しながら、映像を見る者は同じ体験をし同じ感情を覚えるかのようになる。人にはそれぞれの人生の路程があるが、一生の体験やそれに伴う感情、意志の持ち方を別の人間が共有することはできない。手記や語りで垣間見ることはできても一緒に歩んで共有することはできない。しかしカメラアングルではあるけれでも登頂制覇という一人の試みを映像を見ながら体験し共有できる。それは凝縮されたひとつの人生を体験させてもらっているかのようだ。いつ会うとも知れない雪崩を恐れ、それでも前に進まなければならず、吹雪に何度も見舞われて視界すら見失う。深い雪に足を取られ、気を付けて足を運ばないと隠されたクレパスに堕ちてしまえばそれで終わりだ。凍傷で大切な指を失うこともありうるだろうし地上の三分の一の酸素では一歩進むことも儘ならない。その映像に釘付けにされながら、人生は精神的高みを目指すひとつの登山と言えるかも知れないと思った。その青年はどうして山に登るのか。番組の終わり頃に、あなたの帰るところは何処ですかと言う問いに対して、少し間を空けてやはり山だと思うと応えている。厳しい山に挑みながらも精神的に受け取るものの中に彼は魂の故郷を見ている。山頂からの景色がどれほど素晴らしくても、景色だけならヘリに乗って山頂辺りから見下ろせばいい。しかし同じ景色でも自分に犠牲を強いて後に出会う景色はその本質を開いてくれる。孤高の位置でその精神的なものを受け取ることができる。その刺激に酔っている。それは受け取った者しかわからない。命を賭けて登った者しかわからない。私達は真の愛を求めて精神の頂に挑んでいる。為に生きることの次元を高めながら、より高次の愛を求めて挑み続ける。命を賭けて制覇した者が精神の高みを味わい酔いしれるように、様々な山頂に挑むように様々な環境圏で、どこまでも為に生きて真の愛に触れた者しかその味わいを知る者はいない。

2010年8月28日土曜日

痛みを考える

旧盆が過ぎ、夏は峠を越えて急に涼しくなり、責めるような暑さは遠ざかったのに、妻に対する責めは相変わらず続く。痛い痛いを何度も何度も口にしながら、一日を生きていく。今日の痛みを終えたら明日の痛みが待っている。明日の痛みを越えた後にも更に次の日も痛みは待っている。痛みを生きることの意味は何だろうか。身体の痛みがどう痛みの感情として魂が味わい、それがどう霊的なものに繋がってどう影響を及ぼすのだろうか。痛みを魂一杯で体験しながら育まれるものは何だろうか。責めを責めとして受け止めることしかできないなら、痛みの本当の意味は知らずに生涯を終えるしかないだろう。しかし知ろうが知るまいが、地上での痛みは必ず天上で報われるはずだ。そうでなければあまりにも切ない。切な過ぎる。恨の想いは恨みとは違う。恨みが目には目をという地上という同じ次元で報われるなら、恨の想いは次元を超えたところで報われる。痛みを受けるなら痛みとして晴らすのではなく、痛みを通して次元を越える手段とする。痛みを受け取りながら心情圏への切符を受け取る。痛みを覚えた者ほど優しさをその魂に育み、癒しを与える存在となれるのはその通りに違いない。それが次元を越えた心情圏で受け取ることが出来た意味だ。肉体を削ることで、自分の本質である自我が求めるところの、相手を気遣う優しさという霊的肉を受け取っている。肉体を犠牲にして霊的なものを受け取る。おそらくそうなのだろう。霊的感性が鈍い無知な現代人の悲劇がそこにある。霊的なものがわからないから、恨みとして地の底へ自我を追い遣っている。人間の本質が求めるものは誰もが忌み嫌うものの中にこそ隠されているのだろう。それを夢や空言だと思うのは、霊的なものがわからないのでそう思うだけで、それこそが本当の現実に違いない。妻も痛みの真っ只中では認識はできないだろう。しかし蕩減という言葉は知っているので、その言葉から導き出される内的な意味を探ろうとはしている。今は彼女が痛みに感謝するその時が来ることを私は信じるしかない。そして彼女を見る私の心の痛みにも私自身が感謝するその時が来ることも信じている。妻は明日も痛みを訴えるだろう。しかし明日の痛みは今日の痛みとは違う表情をしているはずだ。

2010年8月26日木曜日

今日の想い (213)

周りを始終見渡しながらびくびくし、自分や家族と周りの極々限られた事だけを心配している私がいる。この米粒に満たないほどに小さな魂は、時の流れの狭間に消え去って当然だろう。人類の未来を心配し、親なる神様を慰労され、困難な中でこそ幸せを感じられるという御父様は、この小さな魂の御父様だと言い切れるだろうか。為に生きることから逃げている私は御父様と口にすることすらできない。病の妻のことや子供の事でいっぱいいっぱいの私は、明らかに人類の未来や平和や、神様の事情などどうでもいいのだろう。自分にすればあまりの背負った重荷とストレスに吐き気さえ覚えるほどだが、私の外から私の魂を見るなら、私という自己中心の蛇の権化におぞましくて吐き気を覚えるだろう。この魂に平安は訪れない。とぐろを巻いた執着の塊は更に固形化しながら、やがては脆くも崩れ去る。妻の病の問題も、子供の問題も、本当は私があまりにもその事に執着しすぎて流動化を失い、御父様の運勢圏が流れ込めずにいる為かもしれない。汗も流し、涙も流し、血の小便すら流してきたけれど、それが結局自分の為でしかなかったのか。ひょっとしたらそうなのだろうかと思わされた時、申し訳ない思いは虚ろには生じるけれど、それが悔い改めるまでには至っていない。私は死ぬことでしか悟れないし、変わることは出来ないのだろうか。いや死んでも悟れず、変われないのだろうか。私の魂の灯は今正に消え入りそうだ。御父様が直ぐ側に立っておられるのに、私の子だと叫んで両手を広げておられるのに、私は金縛りに会った様に身体が竦んで身動きが取れずにいる。私を置き去りにしたままで時は無情にも流れていく。

2010年8月24日火曜日

今日の想い (212)

痛くて眠れないらしくて背中や左肩の方を暫くさすってやる。疲れたらやめていいからと声をかけるけれど、他人でもないのにいつも遠慮がちなのが気に喰わない。だから返事もせずにさすり続けた。背中の方も肉が削げていて、殆ど骨と皮しか残っていない。それでもさすってやれば少しは落ち着くのだろう。深く眠ることはないが時々寝息を立てている。いつも妻の病に向き合おうとすれば、自分の無力さに打ちひしがれる。壁にかかっている御写真の微笑む御姿に、正面から目を合わせられない。ひたすら彼女の背中だけを見ながら、病の本質的原因を探している。明日への希望に繋がるものを探している。さすりながら骨に当たる手の平の感触から、どう希望を見出したらいいのだろう。ふと、病に苦しんで死んでいった祖父の顔が頭に浮かぶ。希望は霊界にこそ、繋ぐべきなのだろうか。向こう側では痛みから解放されているのだろうか。思い浮かぶのは苦しむ祖父ではなく安らかな祖父なので、きっと痛みからは解放されているのだろう。彼女がどのような状況になり、私がどれほど妻への祈りを引き裂かれようと、それはそれで受け入れる覚悟はしている。しかし今までもそうであったように、受け入れるまでは相当の葛藤が渦巻く。私はどうしたらいいんだろう。私の願いや祈りは御心に沿わないのだろうか。尋ねてみても一瞬や一言でケリが着くような内容ではないことは解っている。何度も何度も尋ねてきた内容だ。自分だけが全ての重荷を背負っているようなこの感情気分は、ある意味傲慢なのかも知れない。神様の重荷を見ようとしない魂の無知から来る傲慢なのかも知れない。この状況下で前向きでいられる知恵は持ち合わせてはいない。明らかに私や妻よりも重荷を背負い、それでも明日を見つめて生きようとしている人に対して、深く頭を下げて知恵を請わなければならない。

2010年8月23日月曜日

今日の想い (211)

死が怖いのではなく、死を恐れる自分が怖いのだ。次から次に現れる困難が問題なのではなく、困難を忌み嫌い逃げようとする自分が問題なのだ。その認識が魂の変革の第一歩だ。私の魂の許容量を遥かに超えた課題を背負いながら、それでも押し潰されずに生きて行けるのを不思議に思うことはないだろうか。そこに霊的な護りがある。霊的な守りが優先順位を付けながら、対処している以外の背負うべき事柄に関しては私の魂に直接的に関わらせようとはしない。先祖に対して生かして頂いて感謝しますという先祖礼拝などは、先祖霊や善霊が本人の許容量を超えた魂の重荷を背負わさないように護ってくれていることに対する感謝だ。であれば私は私で目の前の課題に対し精一杯の努力を惜しまないことだ。私は私の本分を尽くし精誠の限りを尽くすことだ。こんなにやったのに、と言う想いがある。そして、まだまだ足りない、と言う想いがある。一方の想いは自分に流れ注がれている愛や護りへの認識不足という魂の無知から来る。そしてもう一方の想いは溢れんばかりの愛や護りをあらゆる状況下で認識できる魂の目が開いた状態だ。私達は真の父母に直結した根源の自我により、新たな魂を創造しなければならない。堕落的魂から湧き出る堕落的感情様相を否定し、否定し、更に否定しながら、心情を受け取ることができる新しい感情魂が形成されるよう、御父母様を慕って、慕って、更に慕わなければならない。私は生まれ変わる。私は生まれ変わったと言える時が必ず来る。救われているのかいないのか、天国に行けるのか行けないのか、あると言えばあり無いと言えば無いようなそんな夢想的な事としてではなく、今までは眠りについていたのだと断言できるほど目が醒める実感として生まれ変わる時が必ず来る。

今日の想い (210)

全てを捨て、全てを犠牲にしてこの道を歩んで来たという自覚があり、それ故に誇りの感情を味わい前向きに進んでこれたけれども、それ故に別の次元で後悔の感情をも持ち合わせていることも事実だろう。為に生きるというけれど、どれほど自分の中でその言葉を響かせてみてもそれだけでは為に生きることにはならない。全てを捨て全てを犠牲にしてきたことで、この世的な技術であったり能力であったり生活能力も含めて大きなギャップがある。一般的なことを言うなら決してこの世の為になっているようには見えないだろう。目に見える形で世間様のお役に立ってはいないということだ。これがみ旨だと言う自分がいると同時に、創造の形として残らない歩みに無力さを感じている。あるテレビ放送で日本発の女性機長のドキュメントをやっていた。自分の夢を追い続け、様々な壁に突き当たりながらもそれでも可能性を信じて生きていた。機長服に身を包んだ小柄な女性の輝く笑顔に、その誇りがあり自分自身への創造の形があり、更には後輩や後に続く人々の為に生きる喜びがある。為に生きてきた私達は誰よりもその想いが強いはずだと思っているけれど、無情にも形として残らなければ誇りも失いつつある。でも私は決してこの世的な実力を標榜してこなかったことを批判し、後悔している訳ではない。献身して摂理に加担し、この世的な価値観から善しとされるもの全てを失ったとしても、それでも御父母様と共にあることの方を勿論選ぶ。しかしその先には形として残るものも無いし、この世の人達が見上げるものも無いだろう。私の中での価値観を根本からひっくり返さない限り、いつまでもこの世で頭角を現していく者達への羨望の眼差しは消え失せることはない。価値観と言う言葉は同じ次元に留まった中で使われて意味を成すけれど、要するに次元を変えた生を生きることを自分に要求しない限りこの世に後ろ髪を引かれながら生きることになる。私達はそう言う意味で地上界という次元でありながら、次元を上げて生きなければならないし多次元にまたがって生きなければならない。私達は確かに創造している。ただただ御父様にしがみ付き、それで精一杯のようであるし、自分の限られた視界領域ではそれこそ雲を掴むような状況なのかも知れないけれど、それでも新しい世界を創造している。誰もが踏襲できないその道を、逃げずに歩んで来たことそれ自体が、多大な霊的精神的創造なのだ。

2010年8月21日土曜日

感性を目覚めさせる

眠らされたままの感性が私の中に内在している。この宇宙に存在しながら、宇宙への正しい認識と正しい働きかけができないまま、極めて限られた限定的認識と悲観的側面のみを受け取りながら生きている。光を光として受け取れず、光の中で照らし出される存在達の本質部分である霊を認識できないでいる。霊を認識できなければ霊が紡ぎ出す霊の魂部分も受け取れない。人間だけが魂を備え、人間だけが魂の働きとして思考し感情し意志している存在ではなく、人間以上に思考し叡智を備え、人間以上に感情し深い心情を備え、人間以上に創造への意志を差し出す霊の存在が存在する。歴史過程で極めて限定的に彼らと意思を交換しその恩恵を受けることしかできなかったのは、地上界という堕落した次元で堕落的限定的地上的感性しか取り出すことができなかったが故だ。イエス様がそうであられるように、御父様は人間であって人間ではない。明らかに堕落した次元から来られた御方ではない。地上人間には自分に救いが必要であることは理解できるし、救いをもたらす存在を求めてきたことも事実だ。しかし救いをもたらす御方の本質を測り知ることには限界がある。御父様の本質を受け取るためには、御父様が堕落人間に本質を差し出す意志を持っておられなければならず、堕落人間はそれを受け取る手段を教わって行動しなければならない。御父様が肉体をもって地上に来られイエス様の使命を受け継がれたこと、私達に祝福を与えることが御父様の本質を差し出す意志であり、受け取る手段は絶対信仰絶対愛絶対服従だ。御父様とひとつになると言うことは、御父様の本質を受け継ぐということだ。堕落した地上的感性を超えた感性を私の中から目覚めさせ、叡智の存在から叡智を受け取り、本郷の地で受け継がれてきた奥深い心情の遣り取りを相続し、宇宙創造に加担してきた存在から意志を受け取る。私達が天から授かろうとする恩恵は、今の私達の感性や思考で測ることができるものを超越している。

2010年8月20日金曜日

送り盆

丘に向けて一群れの列が上っていく情景を覚えている。子供の目には随分遠くの景色のように思えたけれど、今その場に趣くと丘に向かう小道は目と鼻の先で、そこを歩く人の表情さえ捉えられそうだ。しかし子供の目には黒い列がゆっくりゆっくりと移動していったことしか記憶に無い。でも先頭に担がれたものが祖父の作った樽だと思ったのは覚えているので、詳細は忘れてしまって黒い列の移動だけが印象的な記憶として残っているのかもしれない。その丘の上には焼き場があった。うちの田んぼから、焼き場に向かう葬列は何度か目にしている。葬列が森の中に消えて半時もすれば、白い煙が昇っていく。誰もが農作業の手を休め、腰を起こして暫く眺める。無言のまま眺め、暫くするとまた無言のまま作業を始める。子供の私は恐いのか何なのか良くわからない感情を覚えながら、父も母も大した反応も示さずいつもの様に農作業を続けるのを見て不思議に思った。大人になればこんな感情を抱くことは無いのだろうかと思った。程なく煙は途絶えるが、一帯の微かな臭いは日が暮れるまで留まっていて、いつまでも煙の立ち上る情景が頭から離れない。ある時、同い年のいとこに誘われてその丘に登って見ることにした。それまでその丘に視線を向けることすら避けていたのに、いとこの誘いに拒めない何かを感じたのか一緒に行くことにした。田んぼに挟まれた真っ直ぐな小道を早足で歩いていく。ここで躊躇していたら恐れの感情に押し潰されそうになるから一気呵成にやり遂げようと思った。口に出すことは無いしそんな素振りも見せなかったけれども、競争するように歩くいとこも同じ気持ちだったはずだ。登りに差し掛かると小道は更に細くなり、雨が降った時は麓に流れる水路になるのだろう、道の中央がえぐられていて登りにくい。息が上がって気持ちが発散してくると恐れの感情は次第に消えていく。登りきって木立を抜けたその場所がそうだった。大人の身体がひとつふたつ入るような浅い窪みがあるだけの簡素なものだった。敢えて焼き場と言われなければゴミ捨て場としか思えないだろう。別に立て札があるでもなく焼け残った骨がある訳でもない。しかし登りきって私が最初に目にしたものは浅い窪みではなく、周囲を囲むように実っていた鈴なりの赤いほうずきの実だ。ひょっとして何か見てはならないものを目にするのかという不安をよそに、ほうずきの色鮮やかな赤が最初に目に飛び込んできて私を逆に驚かせた。お盆を過ぎた夏休みも終わりに近い頃だった。ほうずきは鬼灯と書く。当て字にさして意味は無いのだろうけれど、世話になった肉体をこの場で土に返して、迷うことの無いよう鬼灯をかざしながら、お迎えの霊の処まで赴くのだろう。お盆の墓に紙灯篭をかざしてお迎えするように、鬼灯の一枝を手にして帰っていくのだろう。ほうずきの実をひとつずつ戴いて、破れないように指で丁寧に揉みながら、暮れかけた道を集落の明かりを目指して帰っていった。早いもので今年もお盆を送った。暫く連絡していない田舎に、明日にでも電話してみようと思う。

2010年8月18日水曜日

成約勇士

取り巻かれている環境圏事情圏から抜け出せずに、次から次へと襲い掛かる感情の大波に翻弄され、この内的嵐が本当に止むのだろうかと疑いたくなるほど、更なる過酷な現実が立ちはだかる。世界は、私が置かれている境遇以上の困難な環境圏にいる者達の方が大半であろうに、今目の前に立ちはだかる問題に圧倒されて全体が見通せずにいる。しかし、起こるひとつひとつの問題が或る時点で急に発生したように思えるけれども、実は見えなかっただけで、或いは意識しなかっただけで既に内包していた事柄に違いない。自分の内なる世界に既に存在している、今まで曖昧にしていた堕落的な清算すべき事柄のひとつひとつが、目の前の問題として現れている。起こる全ては偶然ではなく必然として現れる。私の対処すべき今生の課題としてひとつひとつ差し出される。意志力を作動させず逃げ腰で問題に対するなら、問題は更に巨大化していくだろう。対処できないと嘆くのではなく、対処して勝利すべく運命付けられているという決意と覚悟を供えれば、その意志こそ霊界の存在を動員させる。この肉を削ろうが魂が砕け散ろうが、骨髄に宿る御父様に繋がった自我さえ護ることができれば、それこそがこの世に生まれ出でた私の意味なのだ。自分の恐れのバリケードを壊して意志することに躊躇してはならず、嘆き苦しみ悲しむ感情様相から逃げてはならない。陸にしがみ付いた平安の位置に御父様がおられるのではなく、波荒れ狂う大海の只中にこそ御父様がおられ、御父様に出会うことができる。その意味で私達は成約の勇士なのだ。闘いの本当の意味を知ってその闘いに殉ずるものが、その称号を天から戴く。

2010年8月17日火曜日

地球を少し考えて見る

宇宙の生成の歴史、取り分け地球生成の歴史と人類の歴史とが全く別物として今日まで流れてきたとはどうしても思えない。人類歴史に於いて内的霊的に積み重ねてきた内容が、そのまま外的な地球生成とその歴史として現れて当然だという思いがある。もう少し踏み込むならば、物質人間が物質地球の成分で出来ており、それは物質人間は物質地球の一部であると言う事ができる。人類が堕落して人間の器官に霊的感性が眠らされ、病に冒されるような要素を持ってしまったと言う事は、地球自体も霊的に死んだ状態であり、更には地球自体が病んでいると言う事はできないだろうか。そればかりか、地球が人類始祖の堕落による決定的なものを地球自体が結実として孕んでおり、更にはカインとアベルの失敗の結実も地球の要素として持っているだろうし、復帰歴史に於ける勝利の果実も負の悪果も地球の内部に持っている。地球生成とその歴史に於いて、全く人類の歴史とは関係が無く、神様が直接的に主管してこられたのであれば、ロマ書八章に記されているような神の子たちの出現や被造物の嘆息の事実はどうも不自然だ。万物も地球も神様の御意そのままに生成されてはいるが、主管してくれる存在が不在だとだけ嘆いていると言うのは、どうも説得力に欠ける。人類の堕落によって主管下にある地球自体も堕落の影響を受けているはずであり、その後の復帰歴史過程の結果それぞれの影響も受けているに違いない。従って地球内部に必ず堕落の結果を見るものがあり、更に人間はその影響を地球から受けているはずである。宇宙を地上的な五感で捉えきれないように、地球内部も地上的な五感でのみ把握できるものではない。内的霊的感性、それも高次の感性で知ることができれば、今の科学の地球認識とはかけ離れた悪魔的なものや神霊的なものが認識されるかも知れない。天国と言えば天を仰ぐし、地の底をどこまでも下っていけば地獄だと言うのが全くの根拠の無いことではなく、それなりの意味を含んでいるはずだ。

2010年8月16日月曜日

今日の想い (209)

紆余曲折の生を無理にも感謝して歩み、嵐の波間で翻弄される感情を揺さぶられるがままに預け、それでも自らの選択をチョイスして、兎に角前に進むことを迫られる。時を止めることもできず流れに従わざるを得ない。平穏な日々が待つ場所に臨むことはもうないのだ。見通す限りどこまでもどこまでも待ち構えている試練は続き、へとへとになって休むことも許されない。御父様の御後を付いて行く路程が、これほどに過酷を極めるものだとはどの食口も想像もしなかったろう。死ねと言われたほうが楽な道を、敢えて生きて死を超える路程を歩まされる。これから臨んで行く路程に比べれば、今までが幼子が抱きかかえられてミルクを宛がえられるような歩みであったことを知らされる。それほどに困難を極める路程が私達の前には待ち構え、立ちはだかっている。成約聖徒としての本分を量られる本当の路程がこれから始まる。真の父母の血統に繋がれた本当の自我を根源とする魂の育成なしに、この道を超えることはできない。今の魂は堕落の自分に根を持つ偽りの魂だ。偽りの魂が本物の振りをして、如何にも御父母様に侍る救われた子女として演じている。しかし私の魂が本物であるかどうかは私自身が良く知っている。新しい魂が、真の父母に繋がる魂が私の中に備わらなければならない。それには新しい魂が産まれる産道を通過しなければならない。今までは母の胎の中で臍の緒に繋がっておれば良かったけれど、暗い過酷な試練の産道を今私達は目の前にしている。覚悟と決意を供えて飛び込む勇気を奮い立たせた者だけが、この産道を通過していく。その過程でどれ程の食口が生き残れるかはわからない。しかしそこを通過しない限り、新しい天と地に住まうことができる人間の魂として再生されることはない。私の根源に於いて繋がる御父様を掴んで、絶対に放さないことだ。

2010年8月15日日曜日

今日の想い (208)

免疫抑制剤の為に抗体が作れず、ウィルスの浸入や体内で深く眠っていたかも知れないウィルスが起こされて帯状疱疹を発症した。最初は注意して見ないと確認できなかった左半身の発疹が、見る見るうちに広がり腫れて赤みを増し、そのうちに水ぶくれ状態に変わってきた。皮膚の表面だけが痛むのかと思ったが神経の炎症も併発しているようで、触れても動かしてもじっとしてても、どういう状態でも痛むらしい。頭の激痛よりましだと本人は言うが、その都度痛みで顔が歪む。特に左腕から肩にかけて腫れはひどく、迷彩服の様な縞模様に皮膚は膨らみ、泥水のような濁った液体で満ちている。症状を見て直ぐに思い浮かんだのは火傷によるケロイドだ。ピカドンで全身火傷を負い、その症状が写されている当時の写真を何度も目にしたことがあるけれど、妻の症状も霊的に見れば同じ火傷だ。おりしも8月6日に頭痛で入院し、全身に痛みが広がった9日に再度入院した。私も広島の出身だけれども彼女もそうで、広島と長崎の日にこう言う状態になったということが、全くの偶然で関係のないことだとはどうも言い切れない。あの審判の日から65年、残った者達が鎮魂の年数を重ねながら今に至っている。しかし全ての魂が恨みを解いたとは言えないだろう。恨みの思いは当時のまま凍結されている。地上に生きている者こそが歴史の清算をすべきだし、彼らの恨みを解いてあげるのも地上で為される。堕落によって愛に満ちるべき地上は恨みに満ちてしまった。悲しいかな恨みの蓄積された大気の海の底を我々は生きている。恨みに生きるのか真の愛に生きるのか、真の愛の実体としての御父母様に繋がり、血統を引き継いだ者としての使命がある。地上を真の愛で満たす使命がある。痛みに対して恨みで対するなら、やはりサタンの血筋を受け継いだ者だと判断されるだろうし、逆に恨みを消化し言い分を天に取り成すなら御父母様の血統圏にある者だと証明できる。この認識で間違っているとは思えないが、どうやって妻に認めさせることができるだろうか。

2010年8月14日土曜日

今日の想い (207)

祝福を受けて韓国に行った日本姉妹の証しに目を通しながら、嬉しくて嬉しくて仕方が無かった。そしてちょっぴり羨ましく思った。何年前だったろうか。清平での修練会を終え、バスで4時間以上かけて南下しながら与えられた韓国の任地に赴き、訓読大会や姉妹血縁式に参加させて戴いた。最も印象に残っているのが祝福を受けて現地の日本人妻として歩んでいる姉妹達の様子だった。決して開けているとはお世辞にも言えない山中の農村で、教会長の奥さんも日本の姉妹だったが、日本人の気配を感じないほどに韓国農家の嫁として完全に同化している姉妹もいて驚いた。その姑は嫁の自慢ばかりしているらしく、その集落では評判の嫁になっていた。そして夫の暴力に悩み、教会長の奥さんの日本姉妹に泣きながら相談していた姉妹もいた。育った環境も違い、文化背景も違い、言葉も違う異国で相手すら良く知らずに飛び込んで、舅姑の厳しい目に曝されて生きていくことは並大抵のことではない。嫁いだ姉妹達には特別の信仰姿勢が要求される。しかし時を重ね同じ皿に箸を入れ続け、愛が流れ込み同じ心情を分かち合い、短い証しに愛の勝利の花開くのを受け取れるし、深い心情の遣り取りをこの上ない喜びとして、苦労を味わった以上の価値を見出した誇りを見て取れる。同じ日本食口として大きな誇りであり、御父様の愛が国境を越えた証しであり、日本民族が生き延びる道を開拓した開拓者であり、私ならあらゆる称号を与えるだろう。彼女達の前には自然と頭が下がるだろうし、自然と涙も流れる。彼女達以上の信仰の時を重ねながら、余りにも体たらくな過去を恥かしくも思うけれど、それ以上に全体として信仰を立てて下さったことを喜びもし、感謝せずにはおれない。神様が福を与えられて当然なのだ。彼女達が証を立ててくれたことに触発されまた背中を押され、私が直面する今の課題にめげることなく向き合うべきだと思わされた。

2010年8月13日金曜日

今日の想い (206)

珍しく明け方にかけて激しい雷雨が一帯を襲った。雷鳴は鳴り止むことの無く唸り続け、時折激しく轟いて八階建ての頑丈なアパートを振動させる。一度眠ったら深く沈んで起こされるまで意識が戻らない私も、流石に目が覚め朦朧としながらブラインドの隙間から外の様子を探る。既に相当量の雨量が嵩んでいるようで、駐車場一面が川面の様に流れ、駐車された車は浮いているように見える。風は大して無いようだが滝のような雨に窓ガラスは打たれ、激しく音を立てて叩かれているようだ。先日半時間ほどのゲリラ嵐に襲われ、DCエリア一帯の電線がブチブチに引き千切られて停電し、修復を待つのに一週間近くかかったばかりなのに、今日の明け方の雷雨でまたも一帯は大混乱した。停電もさることながらあまりの急速な雨量が嵩んで側溝への排水が滞り、環状線ですら水嵩が腰まで上がるほどで、朝の交通に相当のダメージがあったようだ。これも異常気象と呼べるものなのだろうか、殆どの従業員は遅れてきたけれども取り合えず今日の営業に支障が出なくて良かった。7月の中頃、娘が日本に行った時も前線が近付いて大雨だったようで、田舎に帰るバスが雨による道路の崩落で不通になっていた。恵みの雨と言う様に、本来雨は生命を育み繋ぐ為には無くてはならない自然の恵みだ。御父様が言われるように雷は大気の陽陰が一体化する愛の交わりなら、それに伴う強風や雨は自然の愛の喜びの表れに違いない。大気が声を発し渦巻き、熱を帯び湿度を高めて雨を降らす。地上の生命存在がその恵みを受け取るように、人間も負の要因に専ら意識を当てるのではなく大気の喜びに同参すれば、肉体を統率する生命体に活力を受け取るだろうし、魂も共鳴して自然と同じ感情の昂ぶりを覚え、創造的思考が稲光のように閃くだろう。堕落的な人間の愛の交換の淫靡的なものではなく、周囲が賛美する開放的創造的な愛の在り方がきっと自然の中にはあるはずだ。自然から隔離することで物質的安楽な生活環境を手にした知恵を誇ってきたけれど、これからは自然に共鳴し同参しながら、物質的で自己中心的な指向からの離脱が願われ、精神的で利他的な知恵こそ誇るべき時代だ。

2010年8月12日木曜日

今日の想い (205)

環状線の西からポトマック川南岸に沿って、DC中心部まで伸びるパークウェイがある。片側二車線のこんもりした木立の間を走り続ければ、行政区域やスミソニアンの一群の博物館が立ち並ぶモールの対岸に出る。以前はこのパークウェイの途中から出たエリアに、DC地域に立ち寄られた時の館があった為、何度もこの道路は行き来している。落ち着かぬ思いで往路を走り、安堵の思いや情けない思いで復路を辿った。御呼びがかからなくなって久しいが、この道路を走る時はいつもその感情を伴っている。123号線の出口の表示が見えると、どうしても条件反射の様にブレーキに足がかかってしまう。環状線からパークウェイに入った直ぐは、並んで走るポトマック川との落差はかなりのものだが、対向車線も隔てているし木々で遮られている為走りながらでは確認できない。DC中心部に近付けば近付くほどその落差は縮まり、最初の対岸への橋、キイブリッヂの高架橋をくぐる頃は、とうとうと流れるポトマック川を平行眼線で左に見ながら走っている。夏の緑多い木立に遮られていても、随分早いうち左前方の途切れた緑の間から、ワシントンモニュメントの尖塔の先は確認できる。復路を走れば何箇所か展望台があり、そこからポトマック川の下流に広がるのが見える、緑に包まれたDCの風景が私は好きだ。パークウェイからキイブリッジで対岸に渡るとジョージタウンの通りに出る。決して小奇麗な町並みではないがアメリカならではの趣はある。何件か日本レストランもあって、私が魚を配達していた頃は何処に駐車して運び込めばいいかいつも頭を抱えていた。キイブリッジを遣り過ごしてルーズベルトブリッジを渡るとケネディーセンターに出るが、先回リトルエンジェルスの公演がここで行われ店のお客さんも何人か招待して喜ばれた。ルーズベルトブリッジも遣り過ごすと次はアーリントンブリッジで、ケネディー元大統領や兵士達が眠るアーリントン墓地から対岸のリンカーンメモリアルに通じており、幾つかの橋の中でもモールの建築物に合わせたクラシック調で、シンプルながら気品と重厚感にあふれている。パークウェイはバージニア、マウントバーノンというワシントンの生地まで繋がっており、正式名をジョージワシントンメモリアルパークウェイと呼ばれる。要するにワシントンを始点として名立った大統領の名の付いた記念館、政府関係の建築物、橋梁や道路に繋がっている。それぞれに大統領の名を冠することでアメリカを護るスピリッツが宿っていると言う事ができる。物言わぬ多くの先駆者達がワシントンを見守っている。オバマ大統領は歴代大統領の信任を得て、その舵取りには彼らの想いが組み込まれているのだろうか。

2010年8月11日水曜日

今日の想い (204)

相対者は痛みと闘った。頭は浸入してくるウィルスと闘った。痛みの正体は生命維持器官である脊髄から頭部を護る頭部精鋭部隊が、ウィルスとの熾烈な攻防戦により生じるものだった。本人は痛みさえなくなればと痛みを忌み嫌い遠ざけようとするけれど、痛みを取るのか生命を取るのかと言うところまで来ていた事を痛みでのた打ち回っている間は理解しようとはしない。もともと低体温であり不審物の浸入を容易に許してしまうようで、菌に感染すると重い症状が出やすかった。さらに彼女は移植による拒絶反応を抑える為に、免疫システムを弱める薬剤を毎日投与している。白血球などの免疫力は非情に弱い。今回の一連の彼女の症状から、抵抗力を弱められた身体の病の進行は早かったが、最後の砦だけは死守しようとする半端の無い意志力を見せられた。本人が意識できない領域で、彼女の生命維持の為に熾烈な戦いを辞さない意志存在が確実にあり、その決意と覚悟ゆえに乗り越えることができたことを感謝しなければならない。私達が入り込み、棲んでいるこの身体が、どれ程統率され、肉体としては最高度の完成体として、その維持の為に何千何億という高次の霊が働きかけていることに対して、住まわせて頂いている私は畏敬の念で仰ぎ見るのでなければ彼らに讒訴されて当然だろう。そうであるなら、この身体を使って自己中心的な一生を送るなら、私の身体を維持する存在に対してどれ程負債があるか。その存在が犠牲を供えて私の身体を維持しているように、私はみ旨の為に犠牲になることを願い、それでこそ彼らは報われるのだ。痛みは苦の感情を引き起こし、苦の感情は痛みに対する疑問を思考に於いて問いかける。感覚が感情に繋がり、感情から思考を紡ぎださせる。肉体が魂に作用し、魂が思考を発動させる。痛みとして受け取る感覚が私の本質なのか、或いは引き起こされる感情が私の本質なのか、それとも思考する私が本質なのか。思考を超えた本心こそ私の本質だろう。良心を形状とし、本心を性相とする自我こそ私の本質だろう。感覚に作用するこの世界で、感情の海に揉まれながら、辿り着く思考を求めることで私の本質を捜し求め見極めようとしている。私の根源である神様と、一心一体の境地に至るまで、探求の人生が続く。私の根源を探す為にこの地上界に生きている。周りから見れば悲惨極まりない人生であっても、紆余曲折の多いほど、感情の激しい高まりがあればあるほど、思考に働く根源を求めるベクトルは大きいのだろう。求めに応じて神様は私に表出して下さる。爆発的な心情として現れてくださる。

2010年8月9日月曜日

今日の想い 203

第一のアダムは堕落したエバとひとつになってしまった。第二のアダムは相対としてのエバを迎えることができなかった。第三のアダムは理想相対のエバを迎えられた。アダムは生命の木と例えられることに対して、エバは善悪知るの木と例えられる。エバがどう自分を扱い、扱われるかが善と悪の分かれ目だと言う事だ。創世記、失楽園の部分にだけ触れて想起されることは、このエバの思慮の無さは一体何なんだろうと言うことだ。おそらくそう感じるのは私だけではないはずだ。霊界からの先生の証しを通しても、なるほどエバはそうならざるを得なかったと思うより、戒めの戒めに対する重さというものが当の本人に本当にわかっていたのだろうかと思えるほど、エバの無分別さが受け取れる。現代人のように極めて地上的受肉を為された存在とは明らかに違い、霊的領域への比重が強いだろうから、現代人の三角関係のような状況に当てはめてイメージすることには無理があるが、それにしても軽々しい感じは否めない。おそらくルーシェルが我々の想像を絶する知恵者でありエバに死を覚悟させるほどの存在であったということだろう。堕落の結果は途方も無い犠牲をもたらしたけれど、逆説的に捉えればそれ程の犠牲に値する愛の価値があるということでもある。善悪知るの木エバは何億倍もの破壊的原子爆弾でもあり、逆にもうひとつの宇宙を創造できるほどの力を備えてもいる。そう思うと、勝利された御母様は人類に取っても宇宙に取っても、勿論御父様に取っても神様に取っても、かけがえの無い存在であられることがわかる。御父様を御父様と呼べる私は、御母様が勝利されることで庶子であっても御父様の子であることを御母様に認知して戴いたと言うことだ。御母様が認めずに、御父様と呼べる私が存在することはありえないだろう。御母様が私の御母様としておられるけれど私には産みの母もいる。産みの母を責めることができないように、人類始祖としてのエバを責めることは人類はしてはならないのかも知れない。

ルーシェル

ルーシェルは生まれつきのサタンではない。結果としてサタンになったけれども、神様の創造された存在であって悪が存在の中にもともと入り込んでいた訳ではない。人間の心(魂)はその作用に於いて知情意の三機能を発揮する。人間の肉身は知情意の感応体として真美善の価値を追求する。善とは創造目的成就の為に意志する行為と行為の結果を言うのであり、存在自体が善だ悪だと決め付けることはできない。ルーシェルは悪の行為と結果をもたらした。悪の行為と結果をもたらしたルーシェルの意志に働きかけたものが何かというと、愛の減少感だ。愛の減少感故に、すなわち愛を満たす為に願いに反して意志したことが悪の行為と結果になった。ここで考えなければならないことは神様はルーシェルに戒めを与えてはいない。アダムとエバに戒めは与えられた。ルーシェルが愛の減少感からエバに対するようになった時、死を覚悟してまでより深くエバを誘惑するようになったと講論には記されているので、神に反し、創造目的に反することであることはわかっていたはずだ。しかしそれでも戒めを与えられたのはあくまでアダムとエバだ。戒めを護る責任はルーシェルではなくアダムとエバにある。神様は霊的万物界の天使としての創造本質上、そうなることがわかっておられたかも知れない。それでも人間アダムとエバを神様と同じ位置に立たせるために愛の試練を乗り越えることを願われた。戒めを護り愛の試練を乗り越えることで、結果的にルーシェルの誘惑は愛をより愛らしくするための創造目的に加担したことになったのではないだろうか。ルーシェルを罪の張本人とされながら、神様は隠された心情のどこかに、実のところ堕落はルーシェルの責任ではなく戒めを護らなかった私の責任だとアダムとエバがルーシェルを擁護する声を聞きたかったのではないだろうか。あからさまな堕落天使界に対する非難を轟々と浴びせる裏側に、アダムとエバのその一言を待っておられたような気がしてならない。カインに対するアベルもそうであり、復帰歴史に於ける全てのカイン的位置に対するアベル的位置もそのように思える。原理原則の神様である以前に心情の神様、親なる神様であることを思えば、長男を𠮟りつけながらその真意は次男の改心を願われておられたのだ。最近御父様がルーシェルはアダムとエバの兄弟だと言及されたことの意味が、おぼろげにわかるような気がする。

2010年8月8日日曜日

今日の想い 202

照りつける太陽の熱射に身を曝しながら、皮膚を炙り血液は煮え滾り、頭の中にまで容赦なく熱は進入してくる。後頭部からも脳天からも尋常ではない汗が流れてきて、熱による眩暈で四肢の統率が効かず、倒れそうな身体をやっとのことで支えている。熱に翻弄されながらも、私の魂は生きていると叫んでいる。この夏を生き、熱の中に生き、夏の霊や熱の霊と一つのゲームを対戦している。どちらが本質を見抜き、どちらが見えざる正体を暴かれるかの対戦をしている。その意味では人生の全ての局面は闘いでありギャンブルなのかも知れない。生死を賭けた霊的対戦を勝ち抜きながら、高次の領域に飛翔していく。数理の本質を見抜かれた御父様は、理性界に於ける数理の霊と対戦されて勝利された。数理の本質を私達に示されても、数理に相対する決意も覚悟も示さずに、向き合うことも無い者達にはわかろうはずが無い。取り敢えずは向こうから対戦を挑む存在達に、立ち向かうことを決意すればいい。私を蝕もうとするあらゆる環境圏にある存在達は、別の意味に於いては私に利益を差し出している。夏の暑さでバテもするけれど、逆に夏の暑さがなければ生命機能へのマイナス影響も出てくる。夏の暑さで汗をかくことで腎機能への負担を減らしている。私の妻の様に汗をかかないことが腎機能を酷使させることになる。そのように環境圏にある全ての存在達は、両極面を備えている。夏の暑さという対戦相手にジワジワと責められ、私の内側に侵入せさることで、その本質が姿を現す。暑さで汗だくになりへとへとになりながらも、外的には腎機能を助けて保護し、内的には魂の、とりわけ感情魂の解放を喚起させる。科学万能教育が教えるような、自然環境が只の機械的無機質的システムではなく、森羅万象の一つ一つに喜怒哀楽を備えた魂存在を見ることができる。その認識がどれほど自然や宇宙を活き活きと受け取ることができ、私の魂生活に思考的感情的潤いをもたらしてくれることか。彼らが本質を人類の前に現したとき、今の世の機械文明が幼稚に映るほどに、想像もできない創造生活が私達を待ち受けている。

2010年8月7日土曜日

今日の想い 201

アメリカで生きていく為に最も必要なことが何かというと、それはコミュニケートする英語を理解することでも、生活習慣や文化を理解することでもなく、しっかりと私を主張することだ。この国で一番暮らしにくいと感じている人種はおそらく日本人だろう。謙虚が美徳とされる生活環境で育ち、物言わず状況を察してくれるのを待っていても、誰も救いの手を差し伸べはしない。日本人の感覚からすれば幾らなんでも言いすぎだろうと思われるくらいが丁度いい。主張することは確かに疲れる。慣れもあるのだが主張すること自体に感情を入れてしまうから疲れる。日本での日常の遣り取りで、自分の意見を強く押し出すことなどそうないし、そう言う場面があるとすれば不条理を押し付けられて感情を害した時だ。従って主張することにどうしても感情移入しやすい。感情的に主張するならそれは主張ではなく感情的になってわめいているに過ぎず、それで相手が納得することは先ず無い。如何に感情を入れず理に適って説き伏せるかが問われている。この主張する知恵と力、そして決意を備えてこそアメリカ社会を泳いでいくことができる。その必要性は日常のあらゆる場面で遭遇する。いろんな価値観を持ち、様々な文化背景を持つ多民族混合国家がアメリカだ。グローサリーストアで買い物するにも、レストランで食事するにも、そして病院や役所での応対にしても、何一つ自分が想定する平均的サービスと言う概念をこの国は持ってはいない。何処に行ってもとにかく並ぶと言う様な機械的システムはあるが、基本的に相手との交渉によって受けられるサービスは違ってくると思っていたほうがいい。この国で生活すれば強くなることは間違いない。先ず耐えることを学ばされ、そして主張することを学ばされる。日本食口なら、日本での活動に際して忍耐することをとことん教育されているから、アメリカで生活を始めてもさして苦にはならないだろう。しかし病を患ってドクターオフィスに連絡するにも病院に行くにも、保険の有無から始まり支払い等の様々な交渉事や選択事への遣り取りまで、体調も気分も優れない状態で行わなければならないのは余りにも酷過ぎるように思う。この国は死に際に於いてさえサインを当の本人に求めて何の負い目も感じることはない。そこまで感情を排除してどこまでもシステマチックに管理されることで、他民族が一緒に生活できる、或る意味ONE FAMILY UNDER GODの表面的枠組みを創り上げたと言える。負の面ばかりを捉えがちだが、冷たく見えるアメリカもクリスチャン国家アメリカとしての根底に流れるものが他民族を受け入れている。その意味でこの国の良心は今も生き続けている。

ひとつの認識としての地上生から霊界へ

朝の光の中で目覚めることや、どんなに質素であれ口にするものが必ず用意されること。地上で生きる為の空気を思う存分呼吸でき、喉を潤す水が手の届くところにいつもあること。熱いことを熱いと感じ、冷たいことを冷たいと感じる。色合いそれぞれをその色として受け取り、色鮮やかな花々をそれぞれに美しいと感じる。万物であれ人間であれ、愛する対象が目の前に存在し、想いや言葉を伝えることができ受け取ることができること。この地上生活での取るに足りないと思える事柄のひとつひとつが、どれ程有難く幸せな体験であるかと言う事を、肉体を失って初めて思い知る。そうとも知らずに流れる日々に身を預けたまま、貴い生に対する何の感情も抱かず過ごした自分を、胸を叩いて後悔するときが必ず来る。肉体を土に返すと、身体を身体として主管していた生命体には、地上生でのあらゆる経験が記憶として刻まれている。綺麗な河を越えて彼岸に移ると、私自身が生きてきた時と場所すべてに一気に広がったように、記憶のひとつひとつをパノラマ映像でも見るような体験をする。意識していたことも、忘れていた無意識領域のことも、生涯の全てを疲れて眠るまで体験する。眠りに着くかのように思える体験は、実は自分の記憶体が抜け落ちて去っていく体験だ。そのように肉体の死を経験した者は次に記憶を刻んだ体の死を経験する。自分に取って忘れてはならない濃縮された記憶だけを残して、記憶体を記憶の河に流されると欲を持つ魂の自分が残る。食べたい飲みたい見たい触れたい、名誉欲財欲そして権力欲、肉体が無ければ叶えられない全ての地上的欲望を捨て去って、自分を浄化する期間を通らなければ霊界に進むことはできない。欲するものを手にすることができる喜びや、日常のことがかけがえの無いものであることを地上で悟るなら、与えられることへの感謝を、提供してくれた全ての存在に対して伝えたいという想いに昇華させれば、肉体を失ったとしても、欲する思いで生きるのではなく感謝の思いで生きる自分は残る。自己中心の思いで生きるのではなく、為に生きる自分は残る。霊界で生きる霊人体はそうして成長していく。与えたいと衝動する心情が自分の本質であると、与えることの為に受け取ることに比重を置かれた地上生を生きて学ぶことで、感性も現実性もこの世のものとは比べ物にならない霊界と言う心情世界で、自由に生き自由に活動する愛の感性を地上で育てている。四大心情圏を骨子としながら愛の感性を地上で育てている。

2010年8月6日金曜日

緊急入院 (2)

体力の限界を迎えても、それでも数十秒毎に襲い掛かる激痛に体を硬直させざるを得ない。目に見えない何かが彼女を拷問にかけている。見えない何かが薄ら笑いを浮かべて、何度も何度も彼女に対して鞭を振り上げる。妻は一晩中この痛みと闘った。私は一晩中不安と闘った。モルヒネを何本打っただろうか。副作用としての吐き気を強くもよおすのみで、痛みを薄らぐ役目は殆どしない。私が妻の立場だったら、泣き叫んで神様に談判するだろう。関わる霊に対して悪態の限りを曝し、脅しの言葉すら撒き散らすだろう。しかし彼女の意識は常に外的な事柄に向かう。若い時の苦労が体を弱めたことから始まって、高血圧やリジェクションのための薬の影響、今回の事がもし感染であるとするならどういう形で菌が体内に混入したのかと言う様に、痛い思いを何度も経験し、これ程に不合理な人生を生きながら、自分だけがどうしてここまで打たれるのかと言う発想はしない。あくまで外的要因に視線は向けられる。朝を迎えて、妻がやっと浅い眠りに着いた時、院内のチャペルに足を運んだ。簡単な祭壇を前にして頭をうなだれ、彼女の痛みを取り払って欲しいと率直に祈った。神様を賛美し、み言に触れるような立派な祈りではなく、ただ懇願した。霊的なことの認識がなされず、外的要因を挙げて痛みを受け続ける妻は、それ故に好きなように霊的存在から翻弄されている。その現状を報告すれば、神様は妻を悟れない現実主義者と冷ややかな視線を送られるだろうか。それとも可哀想だと思われるだろうか。仕方の無いことだと見て取られるだろうか。祈りながらそう問いかけると、私の体を通して神様は涙された。ただ涙されて妻の立場を説明されることもなく、良いとか悪いとか判断されることもなかった。救急病棟の妻の病室に向かいながら、もはや彼女に病の意味を諭すようなことはすまいと思った。ただただ隣にいて、手を握り背中をさすり、労いの視線と励ましの言葉をかけることにした。どういう認識であれ、彼女は彼女として現実に向き合い、私ではない彼女こそが痛みに向き合って闘っている。

緊急入院

一週間続いている頭痛が急に激しくなったと言うので夜中0時を回って救急に連れて行くことにした。近くの病院にするか移植を受けた大学病院にするかを先ず悩んだ。大学病院は四、五十分はかかる。しかし移植への影響も検査するだろうから大学病院に行った方が二度手間は省けるだろう。後頭部を押さえて痛がる妻を見ればこちらも焦って、近くの方が、とも思ったが大学病院に決めた。痛さの為に体を硬直させ、顔をしかめる妻を横目にすれば不安は覚えるが判断は間違ってはいないと自分に言い聞かせる。それでも制限速度を遥かにオーバーさせ、遮る前の車に苛立ちは覚えていたから、不安な自分と確信すべき自分との間で揺れていたのだろう。救急に着いたけれどもいつもと按配が違う。あちこちで病棟が工事されていて救急の入り口がわからない。今は全てのことが苛立ちの対称になる。警備員に尋ね、病棟の一群を一周してやっと入り口がわかった。妻を下ろして離れた地下駐車場に車を駐車して救急の入り口まで帰って来る。運ぶ足がこれほど重くなることを久しく味わっていない。ボルチモアのダウンタウンにあるこの救急には黒人の外来が多いし、明らかに行き場を失ったホームレスも内外にたむろしている。病院側も何か体に不具合があると言われれば追い出すわけにはいかないのだろう。粗末な衣服の、見るからに薄汚れた人々が待合室の簡素なソファーを占領している。妻は隅の椅子で頭を抱えたままうなだれている。薄暗い照明に映るこの待合室の風景がさらに私の不安を募らせる。必要以上に冷房を効かせた待合室で、来るたび毎に同じ気分に追い込まれ、名前が呼ばれるのを身動きひとつせずに固まったまま待ち続けることを強いられる。この位置で何一つ希望的出口から漏れる光は見出せない。妻の為に何もしてやれない無力な自分を味わい続けることを耐えるしかない。孤独な位置を耐え、神様も善霊も誰も関与できない位置で、私の覚悟を差し出す儀式が粛々と執り行われる。

2010年8月5日木曜日

今日の想い 200

今日は今日の踏み込むべき課題が目の前にある。昨日には昨日の課題が、そして明日には今日を踏まえて新たな課題が目の前に準備されるだろう。生きている以上、そこから逃げる訳にはいかない。多種多様な試練を、辛かったり酸っぱかったりといろんな味わいを差し出すけれど、決して味わうに心地よいものは多くはない。甘いものであれば飛びつくけれど、殆どが様々な苦さを含んだ課題だ。甘いものは味わったその場で終わりだが、苦いものには薬を口にするような働きがある。心魂を調整し、無意識の中にある眠った心魂の力を、より深みから意識の上に上らせる働きがある。酸いも苦味も味わい尽くすことで開ける世界が確実にある。ましてや、神様と一体となられた御父母様と共に歩んでいる事実を意識するなら、明らかに対面している課題を消化することで、願いに応える自分になれる。消化すべき苦々しいこの課題に取り組むことで、ひとつまたひとつと御父母様の心情圏に深入りするのであり、御父母様を根源とする新たな心魂の力を受け取れる。だから果敢に取り組むべきであり、常に前進すべき私であって当然だと言い切ることだ。御父様の言動や行動を見ればわかるように、決して後に引かれるようなことは無かった。私達は自分の内面を反省することはあっても、手にかけた事柄に対して決して悔いたり残念に思うようなことがあってはならない。国の為であれ世界の為であれ、御父様の願いに沿ってその想いをみ旨としての行動に強く強く落とし込み、浸透させたなら、かならずその念は結果を残すのであり、消え入って消滅してしまうことは絶対ない。その確信を持って対面する今日の課題に取り組む。今日の今日を一生懸命生きれば、明日の事は明日自身が思い患うだろう。私達は前進する限りに於いて天国生活を為しているのであり、不信を抱き不平不満の思いに負けて後退するのであれば地獄の中で呻いている。天国生活を為すも、地獄に呻くも、私の意識にかかっている。

2010年8月3日火曜日

今日の想い 199

陽が登り始めて、背戸から裏山に通じるなだらかな小道を上っていく。歩く足元まで露草は延びていて、夜中の内に熱が引くことで結露した露が長靴や作業ズボンの裾を湿らす。露草の上で、朝の陽を受けて宝石の様に輝く露も、身に受ければ衣服を濡らして邪魔臭い。夏の裏山は深い緑に覆われていて、青い空を背景にすればなだらかな深緑の膨らみが優しく思えるけれど、緑の茂みに足を踏み入れると子供の背丈も或る笹が容赦なく顔や腕を傷つける。足元もよく注意しないと地を這う草に足を取られ、木の根っこに蹴躓く。そう言えばこの前、草に隠れた蛇を踏みそうになって血の気が引いて凍りついた。それを思い出して、今日の足が重いのはそのせいにしたいと思った。田の草取りを母に頼まれていて、日が明けると直ぐに向かった母を、後から追う。母は既に田に入って作業をすすめているはずだ。名も無いこの小さな山を越えた所にうちの田は広がっている。東西に引き伸ばしたようなこの山に上って尾根伝いに西へ向かい、子供の足で十四、五分も歩けばうちの田が見えてくる。上った山の斜面の反対側を一気に駆け下り、日陰で苔むした粗末な盛り土に座る小さな墓石を過ぎれば畦道に出る。母は腰を伸ばして一瞬私の方を見遣ると、再び腰をかがめて草取りに専念し始めた。ゆったりした作業ズボンを捲り上げながら、母が作業をしている田の反対側に周り長靴を畦に脱ぎ捨てると、私も田の中に入っていった。冷たく柔らかい泥の感覚が心地よい。最近妙な感情が頻繁に意識の上に上ってきて、じわじわと私を追い詰めてきている。空を見上げて美しいと感じながらも空の果てへの疑問が私を不安にさせる。仕事の後の夕餉の憩いのひと時も、死に際して全ては消え失せると思えばその恐怖で喜びを喜びとして受け取れない。今笑っている祖父も死に、母も死に、そして父も死ぬ。皆がばらばらになり、皆が消え失せる。そのさだめを思うと全てが空しい。恐ろしいほど空しい。そうすると周りの全ての環境や、毎日の起こる出来事全てが空しく思える。不安に埋もれない為にひたすら作業に専念して、今取りあえず心を正常に保つ為には、夢や理想を見つけることでも喜び楽しみを味わうことでもなく、ひたすら目の前の事に専念して思考を止め全てを忘れ去ることだ。日が落ちて暮れかかり母の声が届く。作業を終えても、作業の達成感のみを心に広げるようにして、母に私のこの病が気付かれぬように振舞うことだけだ。最近、子供の頃の在りし日の私の心模様がしばしば思い出される。その時の何とも言えない不快感を味わわされる。妻の事や子供の事、不安な事柄の断片に昔の私がリンクして重なる。私は今生に、この不安と戦うために誕生した。あらゆる不安に打ち勝ちながら、次なる強い魂へのバトンタッチを私の宿命として受けている。今日も不安と戦った。次々と襲い掛かる口きかぬ不安の化け物と戦った。

2010年8月2日月曜日

私の宇宙と言う芸術作品

この目をして光を認識しているようだけれど、光そのものを見ているのではなく光によって反射される存在を目にしている。反射される物質の無い宇宙空間では光が通過しても認識することは出来ない。私達は周囲に色とりどりの存在を反射されたものとして目にしているけれど、存在を認識しているのではなく光を認識しようとしている。存在を目にしながら光を認識しようとしている。存在を目にするだけでなく認識しようと思えば、光に反射されて目に届くことだけに満足してしまうと認識することはできない。事実、私達は何一つ本当の意味での認識には至っていない。科学の分野でいろんな存在に対するいろんな研究がなされてきたけれど、専ら地上的な側面に関する外的な研究のみで、思考の光に照らして受け取るものや、感情の光に照らして受け取るものまで、謂わばその存在の内的霊的なことに関する研究が為されて来たわけではない。人間から霊的感性が遠ざけられて久しい。地上的物質的感性を益々鋭くさせながら、霊的感性の芽が自分の中に備わっていることさえ忘れているし、霊的なものを否定してさえいる。芸術は本来、内的霊的深みを芸術作品に表しながら内的霊的高みに人間の魂を誘うものを言う。その作品からそれが受け取れず、目に優しく耳に心地よいだけのものを芸術とは言わない。芸術こそが霊的感性を失った現代人に存在の本質を垣間見せる。或る存在を描こうとし、或る事柄や生き様を譜面に乗せようとする、その意思こそが霊性のひとつひとつを芽吹かせる。書いてもいいし、描いてもいい。歌にしてみてもいいし、いろんな表現方法で表現しようとすることで様々な存在を認識することに向かおうとしている。存在が扉を開いて私の思考に働きかけ感情に語りかけるようになる。そのような生を生きてこそ人間は死亡圏から生命圏に移っていく。一方で人間を導いてきた宗教圏が無かったなら芸術は地上に現れることは無かっただろう。芸術は宗教圏の申し子だ。高名な画家や音楽家の作品のみが芸術ではない。彼らの芸術創造を通して内的霊的高みへの喚起を呼び起こされるなら、私の周囲の存在や起こる全ての事柄が、甘受と感謝を基調とする私の創造意志を通して、次元の高みに持ち上げられる。私の環境が私の人生が、ひとつの私的宇宙という芸術作品を創り上げようとしている。その宇宙の中に太陽としての御父母様がおられるだろうし、いろんな出会いや出来事が私の中で昇華されて色とりどりの森羅万象になっている。毎日が同じように繰り返されるのではなく、今日の家族の今日しか見せない顔を見合わせながら、一期一会の瞬間瞬間に思考を受け取り思考を働かせ、感情を受け取り感情を働かせて、人生の彩りを重ねながら私の宇宙に取り込んでいる。

2010年7月31日土曜日

混沌の時期を掻い潜る

食口らしい振る舞いや言葉、食口らしい性相という皆に共通した食口像が私の中にもあり、そうあるべき事を自分や他の食口にも無意識のうちに要求している。祝福家庭らしい在り方という絵に描いたような理想家庭があり、それを全ての祝福家庭に当てはめようとしている。個人にしろ家庭にしろ表面的にはそのように装うことも出来るけれど、深層に分け入れば分け入るほど、あからさまな正体と装った姿との乖離が見えてくる。普段表面に出ることは無い自分の醜い実態を見ようとせず棚に上げておいて、自分なりの食口個人や祝福家庭に対する判断を当てはめながら、善に対する感情や悪に対する感情を発生させて臭わせている。或る意味醜い本質を誤魔化し目を逸らせながらも、表面的に装ったもので御父様に対する信仰を備えた食口であり祝福家庭としての形を崩さずに来れたけれど、これからは隠してきた実態を白日に曝されるのであり、曝し出された実態から目を逸らさず逃げず、正しく消化する事も必要となってくる。決して望まれることでは無いけれど、我々の幼い信仰や理解に耐えない真の家庭の事情も切り売りされながら手に届く。そのひとつひとつの事を判断の対象にすれば躓くことの方が多いのかも知れない。しかしそこに悪霊の業は巧妙に私に働きかけ、御父母様から分離させようとする。今回、御父様がはっきりと口にされた言葉を、私達はしっかりと胸に留めておかなければならない。他の誰でもない御父様にだけ従って行くということが大切なのだ。その御言葉は私の稚拙な判断もその意味に於いて修正され、方向を正して行く必要があると言う事でもある。今の内外の混乱以上の事が、これから益々起こってくると言うのが御父様の次の言葉だ。絶対信仰、絶対愛、絶対服従が只の御題目ではなく、その基準とひとつになることでしかこの三年足らずを乗り越えることは出来ない。神様を見る前に悪魔が炙り出されるのであり、悪魔が仕掛ける迷路や罠を掻い潜りながら、2013年1月13日のその日を正しく迎えるられるように神霊の目をしっかりと備え続けることが必要だ。身に起こる忌まわしい事柄も、私の深層に沈んでいたものが掻き回されて地上界に浮き上がり表出したものであり、逃げ回ったとしてもどうせ清算すべき事柄としてより肥大しながら被さってくるなら、目の前に現れたとき敢えて覚悟を決めて逃げずに取り組むことだ。御父様に繋がっていれば必ず清算されて、忌まわしい事柄は新たな希望の引導主と姿を変える。ちょうど復讐神エリニュエスが善良で好意溢れるエウメニデスに変身したように。

2010年7月30日金曜日

今日の想い 198

私の言葉の中に否定的な印象が含まれているらしくて身構えているらしい。分派の臭いを嗅ぎ出したように近付こうとはしない。分派を分派として枠組みし、反逆者に仕立て上げたのは他ならぬ我々の体質に多くの原因はあると思っている。サタンが入ったと言い切ってサタン視すれば、彼らの救いの道は閉ざされてしまう。と同時に我々の側の括りも、相手をサタン視したその射すような視線で自分をも見ている。そこに愛の道理が働いているとは到底思えない。サタン視してしまえばアベルカインとして一体化する道は閉ざされる。自分の中に心と体の闘いがあることをどう認識しているのだろうか。心がアベルであり体がカインだ。カインである体が、神様の恩恵を受けようとすればアベルである心を通さなければならない。心と体を一体化させるのに体をサタン視し、無視し否定して一体化させることはできない。心は体を説得しない限り一体化の道は歩めない。個人の道に於いてそうであるように、家庭であれ社会であれ、国家であれ世界であれ、正しく前進しようと意志すれば、必ずアベル的なものとカイン的なものとに振り分けられていく。しっかりと分別され、アベルとカインに振り分けられれば、カインはアベルを愛し仲保とし屈服し、アベルはカインを、ヤコブが勝利したようにエサウが愛し仲保とし屈服せざるを得ないように歩み寄れば一体化される。一体化されることでしか人間は未来に向けて前進できないし、高みに向かうことはできない。一体化される為に、先ず善悪混ざり合った存在からアベル的なものとカイン的なものに振り分けられなければならない。カインをサタン視して無視することは神様が涙してこられた復帰歴史に対する反逆者で、歴史を後戻りさせようとしている。分派と呼んで完全否定してみたり、異を唱える兄弟を危険視したりする、それ自体がみ旨を受け入れたとは言えないし、そのような立場で神様の心情、御父母様の心情を理解することは永遠にないだろう。

2010年7月27日火曜日

NY MC 宣布大会

幕裾から御母様の手を引かれながら、しっかりとした足取りでスピーチ台のある中央まで歩かれると、御父様も御母様も満面の笑みを湛えて歓迎の拍手に応えられた。壇上に立たれ、照明を浴びられた御父様は一際大きく見えた。お若い頃と何ら変わらない力強さを御身体全体から発散しておられた。御声はMCの二階席奥に席を取っている私の所までしっかり響き渡り、壇上では御歳を召された様子を微塵も感じさせないお姿だった。それは食口に取っても人類に取っても、そして勿論神様に取っても、どれほど喜びであり希望であろうか。配られた案内の4ページ一杯に、大会スピーチの全内容が記されていたが、それに沿って全霊力、体力を注ぎ込まれながら霊界地上界に宣布された。宣布された内容を見るなら、内的霊的勝利内容を表記するにはそれぞれの覚醒度、開発度によって受け取り方に差異があるからその御言葉そのものとしか言いようがないが、宣布大会メッセージの外的表記に関しては、訓読教育の重要性、重生復活の昇華権の恩賜、太平聖代の時代の到来(蕩減復帰時代の終焉)、D-DAY(起源節)と関係する神様直接主管圏時代と言うことになる。そしてその延長線上にイメージ表記できることは、神様の祖国、韓国への今以上の集中化だ。神様が定着される国として神様御自身が意識されるように、全ての我々の意識もそこに集中化させられていく。神様は韓国に益々働かれるだろうし、み言が国の中心的柱として立てられるだろう。韓国語の早期習得を強く願われるように食口の韓国大移動も見えてくる。御父様がブループリントを既に作られているように、神様がそこに入ってこられ天宙的宇宙的環境がそのブループリントに合わせて整備されていく。御父様の描かれたブループリントが御意そのものであり、それこそが我々に願われる絶対的み旨として我々の内外の全てをそこに合わせて行くべきなのだ。今いる仮の住まいに落ち着き老後の心配をしているようでは、一瞬で崩れ去る堕落圏の国と共に滅びる運命に身を委ねる者として、神様からも御父母様からも、理想や希望の未来からも決別されてしまうだろう。その意味ではD-DAYは恐ろしい日となるに違いない。神様が御父母様と一体となられ御身体に臨在されたと言うことは、地上で為されることの中に神様が直接働かれると言うことだ。内的霊的な事柄が直接、外的地上的な事柄に反映されると言うことだ。

2010年7月26日月曜日

今日の想い 197

太い枝ごと千切れて吹き飛ばされて道路の端に散乱している。路面にはもみくちゃにされた枝葉が所構わずへばり付いている。NYでの大会を終えた明くる日、DCまでの帰路の途中で天の底が抜けたかのような大雨に見舞われたけれど、高速を降りてその惨状に驚いた。降りて最初の信号が働いていないものだから不思議に思いながらも、それが立て続けに作動していないのを見て初めて、そこら一帯が停電していることがわかった。速度をしっかりと落としながら周りに目をやった時入ってきたのが、最初に記した風景だ。相当の嵐に見舞われたらしい。DCのメトロエリアに近付いたときは千切れ雲は確認できたものの水色の穏やかな空が広がり、この風景は半時前の荒れようからは想像できなかったようだ。まだ明るいうちにアパートに帰り、建物の中に入って見ると、案の定電気は止まったままだ。薄暗い廊下を突き当りまで来て、手元に用意していた鍵で入ると室内には外の明かりがまだ入り込んでいる。暮れる前に着いて良かったと思った。それでも闇は次第に浸入し、空との境がやっと確認できる頃には部屋の中は完全に闇に埋もれてしまった。電化機器も全て止まり、生活音も何一つしない。静寂の中で唯一の光源として灯したロウソクの灯火だけが揺らいでいる。現代文明は電気文明でもある。電気が滞りなく届くことで全ては回転している。電気が止まれば人間すら動きを止め、暗闇の中で不安を抱えながら怯えているしかない。経済システムが破壊するほどに通貨が暴落すれば、到底電気など供給できない。水もガスも止まるだろうし、油も回っては来ないので車だって走らない。この嵐の停電騒動で現代文明の脆弱さをひしひしと感じた。天が意思すれば生活の全てを止めて、人類が本質を問うようにすることは造作もないことなのだ。先週はDC郊外のこの街を震源地として地震が起こった。この東海岸で地震が起こったなどかつて聞いたことがない。自然災害が随所で起こっても地震がこの辺りで発生するなど思ったこともなかった。朝の五時丁度、イーストガーデンで御父様が訓読を始められた丁度その時だ。何が起こっても何の不思議もないと言うことがわかった。天地開闢時代は開かれたけれども、地上的な天地開闢の前には三日間の暗闇が訪れる。地軸が移動するのか、自転が逆周りになるのか、太陽が天岩戸に隠れるのか何なのかはわからないが、天宙的新時代の地上的幕開けの前に三日間の暗闇が訪れる。三日間、人間の身体にも深い暗闇が浸入し、暗黒を生きることで新しい時代の身体を用意する。

2010年7月24日土曜日

今日の想い 196

進化論という唯物主義を多数の人間は信じている。特に特定の信仰を持たない多くの日本人は、進化論は当然の事として観念に焼きついている。進化論を否定した人間を彼らは普通の人間としては見ない。明らかにカルト的な宗教に染められた異質の存在として不思議な目で見る。少し考えれば進化論が全くもって正しいと万人が納得する説明が為されている訳ではないので、進化論もひとつの信仰に過ぎないのに、彼らは神によって人類が創造されたことをはなから否定している。進化論は神無き信仰だ。進化論信仰は自分の感覚に頼った判断を間違いないものとして規定している。この眼とこの耳で受け取る情報をそのままの情報として判断しているのだと言うけれど、判断までの過程に様々なフィルターをかけられ、かけていることを自覚していない。進化論を厳格に自分の観念の基礎に置くなら、全ての宗教的道徳的なものに何の価値も見出せない。人間の尊厳などと言う言葉に何の意味も無い。精神的なもの、内的霊的なものは幻想に過ぎない。しかしそこまで考え抜くことはしないで、自分なりの人生を謳歌するために都合のいいように神はいない、進化論は正しいと納得させているだけで、要するに誤魔化しながら生きているに過ぎない。都合のいいように誤魔化しながら生きる、即ち本質から逃げている。進化論を認めながら逃げている存在がいれば、神を信じながら逃げている存在もいる。本質から逃げるのであれば、進化論を認めようが神を信じようが同じ穴の狢(むじな)に違いない。正直に言うと私は逃げている。逃げまくっている。逃げて逃げて行き場を失って、そこで初めて観念して本質に向き合い信仰者らしくせざるを得ないのであって、追い詰められなければそこらの人間と同じように堕落様相に埋もれている。今の時代は益々追い詰められていく。全人類が追い詰められていく。追い詰められて真の父母を求めざるを得なくなる。私の根源にある永遠であり不変の自我存在に取って、追い詰められることが必要なのだ。根源的自分を認識した者に取って、困難に対面した時、感情は悲鳴を上げながらも、根源的な私が喜んでいるのを自覚している。その自覚を持つことで感謝と言う本当の意味を経験している。苦労と感謝は裏表であって同じ事柄の異なる面を言い表す。苦労や困難の耐えないのが人生であると解った者に取って、進化論や唯物主義はそれを消化する理念や力にはなり得ない。宗教的なものに目覚め、最終的に真の父母に出会うことで根源的自我存在を自覚しない限り、苦労は経験しても苦労を感謝に昇華することは出来ない。昇華できなければ苦労は怨念として内的霊的に蓄積されるだけなのだ。

2010年7月22日木曜日

入道雲

胸をそり、空を見上げれば、入道雲が目に入る。見渡すと東の空に連なって、どこまでも天を目指し膨らみを押し広げている。立体感を備えた三つの巨大な入道雲が青い空を占領している。暫くみていると、刻々とその姿形を変容させながら、三つの巨大なとぐろを巻いた白い龍が、それぞれの威容を競い合っているようにも見える。頂上付近の発生したばかりの雲の膨らみは、密度の濃い白光りを放ち、鋭い大きな龍の目さながらだ。その眼光でお互いを牽制しているようにも見えるし、地に対して睨みを効かせているようにも見える。天に龍が棲み、地には堕ちた蛇が棲む。地に堕ちた蛇はこの世の神として崇められながら、我が物顔で地上を支配してきたサタンだ。偽りの愛で偽りの血統を数限りなく枝分かれさせながら、サタンの僕、悪魔の子孫が地に満ちる。今の今まで天に棲む龍が地に下ることは無かった。龍として思いつくのは、御父様の幼名に龍の文字が入っていることだ。御父様の地上への出生は、天に棲む龍が地に下ることを意味している。地に下って、この世の神、暴れ回る地に堕ちた蛇を退治される。万王の王として宣布され君臨されることは、この世の神が御父様の前にひれ伏したと言うことだ。最後の時を目前にありとあらゆる発悪がなされ、地上の存在誰しもがその影響を受けずに居られることはない。あらゆる誘惑に曝され、あらゆる感情を噴出させながら、自分がどちらに組するかを明確に迫られる。天の龍を仰ぎ見ながら、私は龍の子、御父様の子であると、入道雲に向かって断言する。龍はその証しを見せろと私に迫る。白光りを放つ巨大な眼球で私の本質を射抜きながら、嘘偽りを隠すならそのこめかみまで裂け切った口の餌食にしようと構えている。最後の時に私を裁くのはサタンではなく、神の使いが直接私に対面して私を裁くのだ。いつの間にか三つの巨大な入道雲は、青い空をたなびく穏やかな雲となってそれぞれの区別すら付かなくなってしまった。

2010年7月21日水曜日

今日の想い 195

その言動や行動を非難する兄弟の方が多いのかも知れないけれど、私はそこに心情の深さを見た。御父様の言葉を機械的に受け取り、その言葉を繰り返すだけの食口に、血が流れ涙がほとばしる感情魂を見る事は出来ない。立場上表面的には烈火の如く怒られはしても、御父様はそこに温かいものが流れているのをご覧になったはずだ。親であれば、子供の為に涙を流し立ち上がってくれる者に対して、どうして審判の言葉を振り下ろす事が出来るだろうか。厳しい言葉を口にされながらも、その背後にある親としての嬉しい想いがそこに含まれているのを私は見逃さない。祝福を与えて、目の前の食口が自分の子以外何者でもないと言う、親子の情愛、父子の因縁が、何事であっても切り離されない関係としてそこにある。御父様の位置に上り詰める為に、私達が為すべき事柄は見上げるばかりに山積されながらも、親子の関係故にそれら全てが凌駕される、その心情因縁こそが私達の宝なのだ。御父様が私を子として想われ、私が御父様として慕う、そこに何者も何事も介入されることはない。千万の峠を一瞬で超え、百死に値する罪さえ払拭される、そんな親であり子であると断言されるその言葉以上の福音があるだろうか。実績を数え上げながら、み旨を条件的機械的に歩むことに何の疑問も感じない我々のままではなくて、ただ御父様に喜んでもらいたいと言うその一心で歩むことが出来ればどれほど幸せだろう。天国に行くか地獄に行くかが関心事ではなくて、そこが天国であれ地獄であれ御父様と共にありたいと歩む事が出来ればそれ以上の果報者はない。私を尋ねる為にアメリカに来られたのだと、ずうずうしくも思える自分に私はなりたい。

2010年7月19日月曜日

氏族メシヤ

御父様が執り行われてこられた多くの宣布式や大会を、その意味するところを受け取ることが出来ないまま、内的霊的に私にどう関わっていくのか解らなければ、私と関係のない通り過ぎていった行事に過ぎない。先生方に解説していただいても、これまでの宣布式や大会の意味すら解ってはいないのに、過去の勝利が積み上げられることで今回の宣布が為される意味が解ろうはずが無い。解ろうが解るまいが、それとは別に自分がみ旨だと思うところの、献金の為の経済復帰であったり伝道や氏族復帰であったりという目の前の為すべき事柄がひしめいている。そのみ旨と思うところの行動を御父様は願われていると言うのが私の中の中心的な位置を占めている。しかしながらこれまでどれだけ走っても、未だに親兄弟が見上げるほどの家庭の経済基盤も、親兄弟親戚の中にある様々な内的問題を解決するような人格も備わってはいない。未だに氏族に対して何らの主導権(長子権)も握ることが出来ずに今に至っているという兄弟が殆どだろう。自分が氏族復帰も為せずに今の位置に留まったままで、言われるままに大会や式や行事に参加し、参加することでよしとする、或る意味形式的聖徒さえ装えばOKと言う私に堕ちてはいないだろうか。この世に対してあくまで主導権を握らない限り、地上天国は見えては来ない。所詮誰しもが御父様が勝利された路程を歩まざるを得ない。主の名を唱えていれば天国に連れて行かれる訳ではない。自分の頭の中に御父様という言葉が響いていれば安心だというような、夢を見ている意識状態から目覚めなければならない。我々に今一番必要とされていることは、切実さだろう。今、足をつけて落ち着いているその土台が崩れ去り、外的な生活が脅かされることでしか目覚めないなら霊界はその方策を取るかも知れない。生活が奪われ、たとえ生命が奪われかねないとしても、霊的生命が奪われるよりはいい。教会内の内的安住の位置からこの世というカイン圏に自分を投げ込み、それでこそ生きるものがある。それでこそ祝福を通して私の中に植えつけられた、御父母様の血統に繋がる御父様の分霊の存在を自分に見る。それでこそ御父様が勝利されて打ち立てられた宣布式を、自分に相続しようと本気でその意味を受け取ろうとするだろうし、受け取ることで主導権を握る段階を踏んでいける。氏族メシヤとして、堕落したアダムとエバの位置に立ったままなのか、それとも霊的にのみ勝利したイエス様の位置まで持ってこれるのか、それとも実体の氏族メシヤとして勝利するのか、その切実さを思えば自分の事や生活のことなどに思い煩う暇はない。

2010年7月18日日曜日

2010年盛夏

閃光灯のように打ち付ける、盛夏の太陽光に身を曝せば、焼ける皮膚を覆うように汗が噴出す。汗はいくら拭っても、後から後から噴出してくる。今流し込んだボトルの水が一瞬で染み出し流れ出したようだ。暑いと言える限界はとっくに超え、熱は身体に痛みさえ起こさせる。これが2010年の夏だ。D-DAYまで1000日を切ってしまった2010年の夏だ。燃え盛る太陽の意志をこの暑さと痛みとして実感しながら、2010年の夏を生きている。私の中に渦巻く感情は、血の流れの中に生きている霊達の存在表現だ。血統を遡りながら生きてきた者達の今を生きている証しを渦巻く感情の中に見ている。今ほど昨日と今日の感情が反転し、朝と夕の感情が全く違う、ジェットコースターのような感情を生きていることはなかった。血統を遡る全ての歴史に生きた霊達が地に降り、私の中で私と共に生きている。同じ思考を生き、同じ感情を生き、そして共に意志する。私の中の生きた御父様がしっかりと方向性を指し示されながら、泣いたり喚いたりしながらも私と私と共にある霊達は距離を縮めたり置いたりしながら御父様に付いていく。2010年の夏の太陽に身を曝し、私が汗をかくことで霊達も私と共に活動しながら汗を流している。み旨の為に、御父様の為に汗を流すことを目的としながら私の中に存在している。最後の時を御父様にしがみつき、ひたすら離れる事のない様に意識する私があるように、私の中に備わった御父様である霊的太陽にひたすらしがみつこうと、霊達が意識的に私と共にある。私が御父様から離れれば、彼達の救いの道は閉ざされる。その切実な想いが感情として私の魂に浮上する。2010年の夏の太陽の強さは天の意志の強さであり、私に届く夏の暑さは霊達の想いの暑さだ。真の父母を渇望して止まない想いの暑さだ。天も地も更に暑さを強めながら、地上の悪は熱に焼かれることを案じている。焼かれまいと最後の発悪が狂ったように為されている。D-DAYこそが焼かれる火を見る発火点なのかも知れない。

2010年7月14日水曜日

私の想い

先輩が説明されるように、確かに御父様は疑われることはされないのだろう。誰の報告であっても信じられ、その報告をもとに新たな指示をだされるのだろう。では報告の中に偽りが盛られていた場合、どうなるのか。虚偽を真実とされた上で出された指示も指示には違いない。御父様の指示である以上従わざるを得ない。しかしそこに真の家庭の痛みが伴うならどうだろうか。真の家庭を引き裂きかねない苦渋の選択であっても、御父様は立場上その指示を出さざるを得なかったとしたらどうだろうか。何度も何度も筆を止められながら、断罪する言葉を色紙の上に連ねることを自らに強いられる、あの映像を誰がまともに見続けることができるだろうか。心情主義を御父様から学び、父母の心情の重みを少しでも知るものなら直視に耐えられるものではない。御父様の痛みの少しでも想い測ろうとするなら、指示が出ている以上その指示に従うまでだと簡単に言ってのけることなど出来ようはずがない。たとえ結論として指示に従うとしても、その決断は自分の魂を引き裂かれるほどの決断であるべきだろう。我々の心情がそこまで追い遣られて当然なのに、言葉を機械的に受け取るのみで言葉の中に父母としての何の感情も子として受け取れないのなら、言葉だけの指示に従う意味は全く無い。今こそ良心が試されるときは他に無いに違いない。指示に従わざるを得ないと言う兄弟の言葉に対して私の良心は反応しないし、彼の良心をその言葉の中に見ることは出来ない。反逆者に従うと言う汚名を着せられることには何のわだかまりも無いが、それよりは私の良心に対して嘘をつくことは私には出来ない。この大先輩の言葉に触れることが無かったら、何の感情の伴うこともなく指示に従うべきだと言い放っていただろう。この言葉に触れたのには切実な神様の意志を感じる。切実な神様の意志を感じて初めて、この件に関する私の良心が脈打ち始めた。神様の意志としての良心が作動し始めた。

2010年7月13日火曜日

昼の霊 夜の霊

太陽が沈んで暫く経って、西の空がかろうじて濃い青を保っている。枝を高々と広げた木々の輪郭が、濃い青を背景に影絵でも見るように幻想的に迫ってくる。あと半時もすれば輪郭は闇に溶け込んでいくはずだ。地上の人工的光がなくなれば、全ての地上存在は夜ともなると闇に溶け込んでいく。夜になって視覚を限定的にされることで内面を見る力を喚起される。昼の間、外界に意識を遊ばせながら、受け取り取り込んだ多くの体験がどのように内面に作用していくかを観察している。昼であろうと夜中であろうと、そこに存在しているものは変わらず存在していると誰もが思っている。昼の私と、夜の私は同じ私だと思っている。昼には存在物の輪郭を明確にしながら、それぞれの存在の個の在り様を明確にし、夜には輪郭を外されて全てが同じ闇として存在している。昼には昼の霊が私に働き、夜には夜の霊が私に働いている。昼の霊はより外界に意識をもたらし個を自覚し、夜の霊はより内界に意識をもたらし全体を感じる。御父様が話されるように、昼の神様が存在するし夜の神様も存在している。頭で思考する悟性人間は御父様の言葉で混乱する。神様は一なるお方であるのに昼の神様、夜の神様とはどういう意味なのか。問うことは正しいけれど悟性での理解、即ち自分の概念による理解を期待しても答えは返ってこない。既に風景の輪郭は完全に闇の中に沈んでいった。時間が経過したから夜になったのではなく、夜の霊が意志を働かせた為に夜を迎えている。昼の霊の新たな創造の為に夜の霊が働き始めたのだ。夜と昼が交互に来るのを当たり前と感じ、時間が確実に前に流れていく事を当たり前と感じ、空間が規則正しく広がっている事を当たり前と感じれば、そこに意志を見ることはできない。意志を持った霊的存在が働いている事を見届けることはできない。昼の霊と夜の霊が交代する時、朝に光が地上に満ち始める時と、夕方風景の輪郭が闇に溶け込む時、風景を眺めながら感情として引き起こされるものの中に昼の神様と夜の神様が語りかけている。

2010年7月11日日曜日

今日の想い 194

私達は今回のことを通して飛躍的成長を願われている。私に罪があるから御父母様が必要で、言われた事を一生懸命やればいい。その程度の認識や、それに類似したみ言葉らしき言葉を使い回ししながら、結局は狭い教会的意識に留まったままだ。それで本当に摂理完遂は為せるのだろうか。私が完遂するという覚悟と決意を供えた者が本当にいるだろうか。御父様が2013年1月13日を摂理完遂の日と決められたからそうなるのだろう、ぐらいの認識に留まった者が殆どだろう。誰かが為し、私はそれに乗っかるのであれば、それは天国を何処かの楽園の島に入るかのような外的認識で捉えているだけで、心情的勝利圏に同参することはできない。神様から見ても、御父様から見ても、私達は空を仰いで主の再臨を待つクリスチャンと同じように、空中に浮かんだ天国で御父様を中心に和同会でもしているような情景を思い描き、要するに白昼夢から醒めてはいない。ONE FAMILY UNDER GODの本当の概念を私達は所有してはいない。その道筋に於いて誰かを蹴落とし廃するなら、どうして仰ぐ主題とひとつになることができるだろうか。人類がその主題と一つになる為に積み重ねられたピラミッドのひとつひとつの石は、どれを取っても精誠が込められたものでなければならない。ひとつやふたつぐらい政治的に悪の知恵が入り込んでいても構わない、表面的平和の構築が為されればそれで善しとされると誰が言えるだろうか。御父様がそれを善しとされるだろうか。私の良心に鑑みて私はこの道を行くのであり、私自身もこの良心が羅針盤であるとそう言えるだけの内的霊的成長を私達は願われている。今回の一連の事柄は私達にそれを要求している。今回の事は全体に取っても、兄弟ひとりひとりに取ってもONE FAMILY UNDER GODの試金石となろう。決して踏み絵で裁くと言うような、存在意義を根底から崩すような無知に陥るべきではない。

今日の想い 193

艱難は地上的なものとして、外に現れるものだとばかり思っていた。しかし艱難が訪れてみると、それは内部に起こり、我々一人一人に内的な影響を及ぼそうとしている。今現在、決して修復しつつあるような状況とは言えないので、余波は確実に末端に迫りつつある。誇張した言い方をして事を荒立てることはしたくないが、余波は食口ひとりひとりに津波となって押し寄せる。外的津波なら高い山に逃げることだが、内的津波をどう乗り越えたらいいのだろうか。今までは御父様の指示のもと、責任者の方向性は一致しており、純粋な普通の兄弟であれば方向性に対して何の疑いも詮索することもなく、即ち私が改めてその方向性を吟味し熟考し祈祷してみる必要なしに天のみ旨として受け入れていた。しかしながら今の状況は明らかにサタンが間にあって介入している。一人一人を指して、彼にサタンが入り彼女にもサタンが入った等と言う単純なことではない。当事者を含めて誰ひとり御父母様に反旗を翻そう等と企んでいる者は一人もいない。相反する者同士であっても、どちらも御父母様を愛しみ旨完遂を標榜している。そこに異を唱える者は誰もいないだろう。であれば人ひとりを指して非難することは間違っていると言えないだろうか。同じ山頂を目指しているが、そのルートと方法が違い、或る者が取る方法が他の者のルートを結果として妨げている、或る者はその方法が最善だという思い込みがある為、他の者の妨げは致し方のないことだと自分を納得させている。D-DAYが迫っている為、時間的にも感情的にも余裕はなくなっている。云わば最後の摂理に対してこれ以上の失敗は許されないという切羽詰ったものが相反する両者には共通していると思う。その為にそれ相応の犠牲は伴うものと認識しているはずだ。私はその犠牲が曲者だと思う。その犠牲を自分に負わせるのか、或いは他の誰かに負わせるのか。犠牲を自分に課した者を神様は取られるだろうし、犠牲を他に被せた者はサタンが介入して来ざるを得ないと私は思う。だから私はそこを見逃してはならないし、自分に犠牲を課した者に付いて行きながら私自身もそうあるべきなのだ。

2010年7月10日土曜日

食事を考える

いつもはどんなに店で忙しくしてても、食事は必ず自宅で取る。店で従業員用の食事が出されるが、どんなに美味しそうでも自宅で食べることにしている。自宅で妻の手を通した食事を口にすることが非常に大切だと思っている。妻の造る食事が特別美味しいとか(勿論美味しいに決まってはいる)、私の健康の為に配慮してくれているとか、そういうことではなくて、妻の手を通したものを口にして私の肉とすることが、夫婦が一つになる事の重要な儀式だと思っている。彼女が認識しているかどうかは別として、聖酒式で御父様から妻となる人に渡り、妻となる人から夫となる人に聖酒が渡るように、妻の手を通した食事を戴く事で御父様から受け取るものがあり、私が御父様から受け取ったもので夫婦が御父様の願う形でひとつになれる。別に先輩や誰か兄弟がそんな事を言った訳ではなく、私だけがそう思っているだけなのだが、実は御父様に聞けばそう答えられるのではないかと、ひそかに思ってはいる。今日は明日のミーティングの為にNEWYORKに上がらないといけないので、運転の途中サービスエリアに寄ってファーストフードを腹に収めることになった。昼食がフライドチキンとマッシュポテトで飲み物がボトルのお水、夕食はハンバーガーとフライドポテト、そして飲み物がコーラ。典型的アメリカンファーストフードだ。どう揚げたらこんなに衣が固くなるのかと思うような、着膨れしたチキンの足のフライを両手で支え、前のめりになって頬張る。固いチキンと格闘すると手も口の周りも油でギトギトだ。情緒が全く感じられない極端に言うとエサ化した食事は、たまに取るならいいけれどこれが毎日のように続くとなると精神的影響も大きいだろう。子供も学校の為、寮生活で家から出ているので毎日外食かTVディナーだそうだ。ファーストフードもどきをひたすら自分の肉とすることで、外的肉的実利だけを追い求める精神様相になっていったのだろうか。食事を取ることで外的に自分の肉とするように、どんな食事をどのように取るかによって内的にも精神的形を創り上げている。食事は明らかに内的霊的な祭事だ。食べて消化する事を通して、食する対象を昇華させている。